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How did you feel at your first kiss?
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 人目があるところでは何も言わなかった宍戸が、二人きりになるなり鳳に言った。
「お前さ、俺にそんなに好きとか言わないでいいから」
「宍戸さん?」
 その言い方が鳳にはどうにも気がかりだった。
 やけに慎重で、遠慮がちなそれが、仮に鳳への窘めだとしたら。
 人目がある場で言う方が効果的ではないのかと思いながらも、人目がなくなってから言われたというのはやはり宍戸の気遣いなのかと思い直したりもする。
 鳳は宍戸の目をじっと見つめた。
 氷帝のレギュラー用の部室で、今はこうして二人きりだけれど。
 先程まではレギュラー陣が顔を揃えていて、からかいの笑みや呆れた顔の上級生達に鳳は囲まれていた。
 鳳自身あまり思えていないが、いつものように宍戸の隣であれこれ話しながら着替えをしていた際に、上級生達に絡まれたのだ。
 お前どんだけ宍戸を好きなんや?だの、爽やかに好きです好きです連発すんな!だの、言われた事はいろいろだ。
 そう言われましてもと微苦笑を浮かべた鳳の横で、宍戸はうるせえ放っておけと軽く喧騒をあしらっていただけだった。
 それが二人きりになった途端、そんなに好きとか言わないでいい、ときた。
 注意なのか牽制なのか鳳にはまだ判らなくて、ただ宍戸を見つめているだけだ。
「宍戸さん」
 鳳の呼びかけに、宍戸は僅かに気まずそうに目線を上げてきた。
 すぐに眼差しは伏せられ、溜息がその唇から零れる。
「…お前のその勢いじゃ、どこまでもつかわかんねぇんだよ」
 ますます意味が判らなかった。
 鳳は頭の中で宍戸の言葉を幾度か反復して、それでも判らなくて、そっと尋ねる。
「どこまで…とは?」
 すると宍戸は今度はいきなり鳳をきつく睨みつけてきた。
「っだから…、…」
 この上なく鋭い眼差しは、主に下級生達には、怖いと評判のものなのだが、鳳にしてみたら怖いどころかただただ綺麗で見惚れるだけだ。
「だから?」
「………だから、」
「…はい?」
 鳳が真面目に問い返し続けていると、宍戸の肩が、ふと落ちた。
 溜息をついたのだ。
「お前さあ……」
「はい」
「そんなに俺のこと好きだ好きだって顔してよ…」
「顔だけではなく言葉にもしてますが」
「言われてんの俺だ。判ってるっつーの」
 今度は言葉ほど宍戸の口調は荒くなかった。
 思わず口を挟んだ鳳を叱るでもなく、また溜息を零した。
「何か問題が…?」
「……もうすこし」
「もう少し?」
「先見て小出しにして欲しいんだけどって話!」
 鳳は目を瞠った。
「先見て小出し…ですか」
 どういう意味だろうと首を傾げる。
 勢いで言った感のある宍戸は、だせぇ、と呟いていた。
 それは鳳に言ったわけではないのは、どこか自嘲めいた口調で判った。
 宍戸は自分自身にそう言ったらしい。
 着替えを済ませた宍戸が、ロッカーの扉を両手で閉じながら言った。
「もう言いきったとか、思いきったとか、早いうちにお前に言われたくねーの!」
「………………」
 もっとずっと長く。
 そう願って、願って、願っているのだからと、きつくも清廉な横顔が告げてくる。
 正直な所、鳳は呆気にとられた。
「……ばかですね…宍戸さん」
 結局そうとしか言いようがなく、鳳は真顔で呟いた。
 宍戸が一気に目元をきつくするのもまじまじ見つめた上で。
「どうしてそんなに…」
「馬鹿馬鹿何度も言うな!」
「いえ、そうでなく。大好きです」
「…は?」
 毒気が抜かれた声で宍戸は鳳を見上げてきた。
 鳳は繰り返す。
「大好きです」
「……長太郎?」
 お前人の話聞いてんのかよと不平を言う宍戸の唇に、鳳は屈んで、自身の唇で一瞬触れた。
「俺は、もっとずっと言いたいの、毎日セーブしてます」
 もう言いきったとか、思いきったとか。
 そんなことは鳳には想像もつかなかった。
 宍戸の勘違いを判らせるために鳳は自分の状況を淡々と宍戸に告げていく。
「でも…そうですね。今の俺のペースじゃ、一生の方が追いつかないだろうと思うので」
「…お前なにさらっととんでもないこと言ってんだよ」
「嘘はつきません。絶対に」
「……そりゃわかってるけどよ」
 ちいさくひとりごちる唇に、鳳はまた軽く唇を合わせた。
「好きっていう言葉を使わないでも、もっと伝えられたらいいんですけど…」
「………………」
「言葉うまくなくてごめんね。宍戸さん」
「別にそんなのいらねぇし」
 お前がいりゃ俺はいいよと、それこそさらっと宍戸は言ってのけた。
「俺、実際口に出してるよりも、もっと好きなんです。宍戸さんが」
「………………」
「何度も何度も、繰り返し宍戸さんのこと、好きになるから。言いきるとか、思いきるとか、それは無理です」
 言葉を切ってはキスをする。
 宍戸は仰のいて全部を受け止めている。
「なあ…」
「はい?」
「なくなりそうになったら」
「…ん?」
「早めに」
「だから…」
「言えよな」
「なくならないですって」
「詰め込んでやるし」
「聞いてよ宍戸さん」
「俺がお前に」
「もう」
「いくらでも」
「俺の話聞いて」
 交わす言葉がどんどん短くなる。
 それは言葉の合間のキスではなく、キスの合間の言葉になっているからだ。
 お互いが等しい力で抱き締めあうまでは、キスも会話も止まないでこのままだ。
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 テニスをしている時は一言も口にしない言葉が、テニスを終えた途端その唇から繰り返し放たれるのが奇妙にかわいらしく思えた。
「暑ぃ…………あー……つー…いー」
「………………」
「………お前は何さっきから人の顔見て笑ってやがんだ…」
「え…?」
 問い返しておきながら、やはり鳳は笑ってしまった。
 宍戸はくったりと座り込んでいる。
 自主トレ中のストイックさを熟知しているだけに、終わった途端、弱々しくくたばる様が何とも日常の彼とはミスマッチで目が離せなくなる。
 確かに今日の暑さは尋常でない。
「宍戸さん」
「………なんだよ…」
「アイス、食べません? 俺買ってきます」
「コンビニ行くのか?」
 パッと即座に上がってきた眼差しが年上のひととは思えないほどで、鳳は唇に浮かべた笑みを深めた。
「勿論宍戸さんが食べたいんだったらハーゲンダッツでもサーティワンでも行きますが」 「どこまで行く気だよ。コンビニでいい。スイカのやつ食いたい」
「スイカバー? 宍戸さんあれ好きですよね」
 待っていてと告げれば、おう、と手のひらが振られる。
 そっけないようでいて、素直に頷く仕草は無条件に可愛かった。
 宍戸は鳳にとっていつも不思議な存在だった。
 ぶっきらぼうでいて面倒見の良い、口調は雑なのにその言葉はいつでも優しく真摯。
 こんなにも闇雲に、側にいたいという欲求が突き上げてくる相手を鳳は他に知らない。 側にいたい、近くに寄りたい、離れたくない。
 第一印象はきつくて近寄りがたいながらも、その実気さくな性格だというのはすぐに判った。
 同性に慕われ、頼られやすい性質も。
 それでいて案外単独行動が多い事も。
 鳳とダブルスを組んでからの宍戸に「随分そいつを気に入ったもんだな」と皮肉気に言ったのは跡部で、そいつと指された鳳は、即座に目の前で繰り広げられた上級生同士の言い争いを、何とも複雑な気持ちで見つめたものだった。
 気に入ったというのが本当ならいい。
 鳳はそう思った。
 テニス以外のもの、人や物に、何ら固執しない宍戸が。
 自分に拘ってくれるならどんなにかいいだろうと、まるで請い願うように鳳は思ったのだ。
 コンビニで買ったアイスが二つ入ったビニールの手提げ袋を片手に、鳳は走った。
 待ってくれている人が宍戸なら、いくらだって走れる。
 鳳が戻ってくると、宍戸は地面に仰向けになっていた。
 無防備な体勢だ。
 額とこめかみに汗をかいている。
 暑いと言いながら、夏の日差しを全身に受け止めるように浴びていた。
「お待たせしました」
「おー……サンキュー……」
 仰向けの体勢のまま、片腕が鳳に伸ばされてきた。
 見慣れない子供みたいな仕草に鳳は膝を折ってその場に屈んだ。
 宍戸の頭上にしゃがみこみ、アイスの袋を破いて手渡す。
 受け取った宍戸は上半身を起こしてきた。
 暑ぃ、とまた呟きながら、スイカの形の棒アイスを齧る。
「………………」
 鳳もその隣に腰を下ろし、同じアイスを食べ始める。
 別々にものを食べているけれど、舌先に感じる味は今同じもの。
 どことなく倒錯的な感じがする。
 鳳は意識しないまま宍戸の口元を見つめてしまう。
 アイスを舐め齧る宍戸の口元は、冷えて色濃くなっていた。
「宍戸さん」
「んー?」
「キスしても……?」
 アイスが食べ終えられた所を見計らって、鳳はそっと問いかける。
 宍戸は眉を寄せた。
「ダメっつった事ねえだろ」
「今の優先順位はアイスの方が上かなあと思いまして……」
「アホ」
 ふざけんな、こっちのがいいに決まってんだろ、と。
 重ねて罵られた。
 宍戸の片手が鳳のうなじにかかる。
 鳳は地面に手をついて、宍戸に近づいた。
 赤い唇を塞ぐと、薄い皮膚はひどくひんやりとしていた。
「………………」
 冷たくなった口腔で舌を探ると、すこしぎこちない応え方をしてくる。
「……宍戸さん…?」
「…………なんか……ヘン」
「ヘン?」
 なに?と鳳はキスをほどいたがまだ唇は触れそうな距離で問いかける。
 瞬く睫毛も触れ合いそうだ。
「アイス食ったからかな……口の感覚が麻痺してる感じすんだよ…」
「ああ……」
 なるほど、と鳳は納得する。
 ぎこちない宍戸の舌の動きはそういう訳だったかと。
「俺だって事は判る?」
「………たり前だろ」
 憮然と宍戸は返してきた。
 怒らせるつもりはないのだと鳳は笑んで首を振り、囁いた。
「じゃあ……溶かしましょう」
「…………、……ん」
 冷えたかたまった感覚を。
 溶かす。
「……、…ぁ」
 唇を深く噛み合わせる。
 食い違わせた柔らかな器官は、ぴったりと密着した。
 吐息も、想いも、零れない程に。
 宍戸の舌を鳳は深く貪って、とろとろと甘い感触を味わった。
 アイスの比ではない。
 角度を変える度に宍戸の喉が小さく鳴って、混ざり合ったものを嚥下している気配が直に伝わってくる。
 小さく強い熱が胸に灯る。
「…………熱ぃ…」
「………………」
 ほどいたキスの隙間から、先程と同じ言葉で違う意味をもつ言葉が放たれる。
 くったりと、再び宍戸は脱力する。
 今度はしかし鳳の腕の中にだ。
「宍戸さん……」
「…熱い……」
「ん………大丈夫ですか…?」
 熱いと繰り返しながらも、宍戸が決して逃げないから。
 鳳も決して、その腕を解かなかった。
 季節が暑くて。
 身体が熱くて。
 恋の病も篤かった。
 普段ひどく滑舌のいい宍戸の言葉がこの時ばかりはゆるく蕩けきって、乱れた呼気に乗る声音は暫くの間覚束ない。
「宍戸さん……苦しくない?……」
 細い喉を撫でてやりながら、鳳は宍戸へ問いかける。
 宍戸の唇は動いたが、言葉にはならなかった。
 余韻を引きずる宍戸のこめかみに鳳は唇を寄せて小さく告げた。
「ちょっと待ってて下さいね」
「…………、………」
「…はい?」
 荒い息と縺れた舌とで宍戸が口にしたのは自分の名前だろうと察したものの、鳳は丁寧に顔を近づけ聞き返した。
「飲み物と……あと欲しいものありますか…?」
「………、…じゃ…なくて……」
 それから何事か呻くように悪態をついた宍戸が、潤んだ目で鳳を見据えてきた。
「…、…んで……そう、…余裕……」
「……俺が余裕な訳ないじゃないですか…」
 何言ってるんですかと鳳は苦笑いする。
 宍戸の言葉は切れ切れだったが、言おうとしていることは判った。
 どこをどう見てそんな事をと鳳は思うのだが、掠れ声で宍戸は怒っている。
「……やく、…もどって来いよな…、…」
「それは勿論」
「もどって、きたら…お前…、…俺くらいなるまで、…ぜったい、もういっかい…、…」
「……、…宍戸さん」
 鳳は密やかに頭を抱えたくなった。
 何て事を言い出すのかこの年上の人はと。
 だいたいもう一回だなんて、自分はすぐにだって出来てしまえる状態で、かといって宍戸にはかなりの負担の筈で。
 それをそんなにもあっさりと告げる人の、負けん気の強さも相当に好きではあるが、この状況では鳳には少々酷な台詞だった。
 荒いままの呼吸と、怒って無理して声を紡いだせいか、宍戸が軽く咳き込み出す。
 宍戸の尖った肩を手のひらに包み、背中を撫で擦ってから鳳はベッドから降りた。
「………おとなしくしててくださいね…」
 お願いだからと苦笑交じりに真摯に言って、鳳は自宅のキッチンへと向かう。
 ミネラルウォーターのペットボトルを二本、冷蔵庫から取り出す。
 それとビンに入った蜂蜜と、木製の匙をひとつ。
 鳳は危なげなくそれらを全て手にして部屋に戻った。
 宍戸がまだ軽く咳き込んでいる。
「宍戸さん……起きられる?」
 手を貸そうかと鳳はベッドの縁に腰掛けて腕を伸ばしたが、宍戸は気だるげにではあったが自分で上半身を起こした。
 鳳の肩口にもたれかかってくる。
「水飲む前に…ちょっとこれ飲み込んでみて貰えます…?」
「……あ…?」
 鳳が木匙ですくった蜂蜜を宍戸の唇まで運ぶ。
 宍戸は黙って蜂蜜を飲み込んだ。
 僅かに眉根が寄った様を注意深く見つめていた鳳は、やっぱりと小さく息をついた。
「滲みました?」
「…べつに…、みる…ってほどじゃ、ね…けど」
「喉が痛んでいる時に蜂蜜をそのまま飲むと滲みるんですよ」
 ひょっとすると少し風邪気味なのかもしれない。
 鳳が抱いた後はいつも暫くはこんな感じの宍戸だったが、それにしても今日はやけに喉が苦しそうだと鳳も思っていたのだ。
 キャップを開けたペットボトルを差し出すと宍戸は喉の乾きは酷いらしく暫く無心に飲んでいた。
 その間に鳳はもう一本のボトルに口をつけ、少し量を減らしてから、水の中に蜂蜜を入れた。
「………なに…やってんだ?」
「蜂蜜水。喉に良いんですよ」
 夜中喉乾いたらこれ飲んで下さいねと鳳は言ってベッドヘッドに甘い水のボトルを置いた。
 宍戸は無論シャワーを浴びたいだろうけれど、風邪気味だとすれば止めておいた方がいいかもしれない。
 再度ベッドを離れた鳳は、電子レンジでつくった蒸しタオルとかわいたタオルを数本手にして部屋へとまた戻る。
「宍戸さん?」
 宍戸はベッドに寝そべったまま、蜂蜜水を舐めるように飲んでいた。
「あまいけど……なんかうまい……」
「……ですか?」
 喉が結構痛んでいるってことかもしれないと鳳は思いながら、宍戸の身体を二種類のタオルで手早く拭った。
 宍戸は終始おとなしかった。
「…………これより、あまいよな。お前」
 気に入ったのか宍戸は蜂蜜水から手を離さない。
 やけにしみじみと呟かれて、鳳は笑った。
「甘いより苦い方がいいですか?」
「んー……お前ならどっちでも……」
 ぼんやりとした口調は眠いせいかもしれない。
 それにしたってぺろりとそんな事を言われてしまった鳳は。
 自分の方が熱が出ると、心中でのみ零す。
 甘い蜂蜜が滲みた宍戸の喉の痛みと同じくらいの、甘い泣き言だった。
 宍戸は現在待ちぼうけの最中だ。
 しかし待ちぼうけというのは正しくはついに相手が来なかった事を指すので、正確なところ確定ではないのだが、とにかく待ち人が来ないのである。
 それは事実だ。
「………………」
 鳳が待ち合わせの場所に現れない。
 これまでに宍戸との待ち合わせで、ただの一度も遅刻やドタキャンをしたことがない鳳がだ。
 メールも電話も来ないばかりか、宍戸からかけてみた携帯は、メールの返事がないのは勿論、繋がりもしなかった。
「どうしたんだあいつ…」
 八方塞がりなこの状態なら尚更、へたに動くのはまずい。
 宍戸は待ち合わせ場所である、ひとけのない穴場である車のショールームの中で、ガラスの壁面に寄りかかり、肩越しの外の風景を流し見る。
 適度な空調で内部は程よく涼しかった。
 ここ最近暑い日が続いていたので、待ち合わせ場所をここにしたのは正解だった。
 本当ならば今日は宍戸が見やっている道路の向こう側にある映画館で、映画を観る事になっていた。
 二十分前の待ち合わせにも関わらず、とうにその上映時間は過ぎてしまっていた。
 三十分以上、音沙汰無しだ。
 こうなると怪我や事故でないようにと祈るばかりだが、不思議と宍戸の内に、そういうへたな胸騒ぎは起きなかった。
 鳳に関しては案外そういう勘のようなものがよく働くので。
 宍戸はむしろ落ち着いている。



 あと三十分くらいは待ってもいいかと宍戸は思ったが、それから五分もしないうちに、自動ドアを走って駆け込んできた長身の男に、宍戸は片手を上げた。
「よう」 
 ここだと手を閃かせると、更に物凄い勢いで駆け寄ってきた鳳が、それこそ土下座でもしそうな勢いで頭を下げてきた。
「すみませ…、っ……」
「ん?…ああ、いいけどさ、お前」
 すごい汗だった。
 宍戸は目を瞠る。
 長期戦の試合の時並みだった。
「大丈夫かよ、長太郎。なんか飲むか?」
 このショールームの一階には、こじんまりとしたカフェスペースがある。
 膝に手を当てて上体を屈めていた鳳が、宍戸の問いかけに勢いよく顔を上げてきた。
 気難しい顔で、掠れた声で、鳳は彼にしては珍しいぞんざいな息遣いで言った。
「宍戸さん、なんで怒らないんですか、っ」
「あ? 腹たたねーからだよ」
 当たり前の理由を告げて、宍戸は僅かに首を傾けた。
 いったいどこから走って来たのか鳳は髪まで湿らせている。
 宍戸は鳳の髪にそっと手を伸ばした。
 しかしその指先が触れるか触れないかで鳳が再度頭を下げた。
「…おい」
「すみませんでした!本当にごめんなさいっ」
「だからー…怒ってねえっつーの。顔上げろよ」
 普段見慣れない鳳の後頭部を、宍戸は苦笑いしながら軽くはたいた。
 けれども鳳はそのままだ。
 言い訳ではなく謝罪だけを繰り返すばかりの鳳に、しかたねえなあと嘆息して、宍戸は強い声で言った。
「悪いと思ってんならさっさと顔上げろ!」
「は、」
 はい、と言いかけている鳳の唇を宍戸は素早く掠めた。
「宍戸さ…、…」
 幸い辺りにひとけは無し。
 各階に一箇所しかないインフォメーションは正面入口の前だ。
 今宍戸達がいる出入り口はショールームのスタッフからも完全な死角故の、スペシャルサービスだ。
 いつまで好きな相手の後頭部ばかりを見てりゃいいんだと、元来気の短い宍戸は痺れをきらしたのだ。
「俺が怒ってんのか怒ってないのかくらい目で見て判れ。馬鹿」
「………違います」
「何がだよ」
「俺は宍戸さんが怒ってるから謝るんじゃないです。宍戸さんに心配かけさせたり、長い時間待たせたりしてしまったことを謝りたいんです」
 ごめんなさいとまた真摯に頭を下げる鳳に、宍戸は結局唇を緩めてしまう。
「……お前は……ったく」
 両手で軽く鳳の髪をかき乱す。
 鳳が顔を上げてくるのにあわせて、乱した髪を形のいい頭に撫でつけた。
「あんまりいい男になりすぎんなよ」
「宍戸さん?」」
 みすみす誰かに奪われるつもりも毛頭ないが。
「そのうち……いつか、泣き落としとかまでしちまいそうで怖いんだよ…」
 好きで、好きすぎて、今ならダセェと一蹴出来る事もいつかはしてしまいそうで怖い。
 苦笑いを浮かべた宍戸を、鳳は怪訝に見つめてきて。
「そういうのは俺が」
 ひどく生真面目に宍戸の言葉を否定して来た鳳の、汗に濡れた頬を宍戸は軽く指先で拭う。
「長太郎」
「はい」
「あのな。俺、お前としたくなったんだけどよ…」
「…、え?」
「やっぱ映画が先のがいいか?」
 ならもうすこし我慢するけどと宍戸は鳳を真っ直ぐ見つめて言った。
 鳳はといえば、近頃とみに大人びてきた顔をあからさまに赤くして。
 息を詰まらせ、絶句して。
 それでも充分に男前なまま。
 本当に勘弁してくださいと、再び深々と頭を下げていってしまった。
 水を限界まで含んだ空気が、いよいよ耐えかねて雨を降らせ出した。
 雨は空からと言うよりも、手に届く所から、僅かずつ。
 零れ出てきたかのように、木々を濡らして、花を濡らしている。
 宍戸は図書室の窓辺の席でそんな屋外の様子を流し見ていた。
「宍戸さん。なに見てるんですか…?」
「………ん? なんだ。随分早かったな。長太郎」
 部活のない日、しかし委員会があると言った鳳を、待っていると言ったのは宍戸だ。
 ちょうど延ばし延ばしにしてしまっていた読書感想文の提出日が翌々日で、ついでに仕上げてしまおうと図書館で待っていると宍戸が鳳にメールをしてからたいして時間も経っていない。
「早く宍戸さんに会いたくて」
 上体を屈めて宍戸の耳元に唇を近づけた鳳が、ひそめた声で囁いてくる。
「………アホ」
 宍戸はといえば、意識してひそめた訳ではなく、そういう声しか出ない気分で短く返した。
 しかし吐息に笑みが交ざった鳳の気配は甘ったるく毒があった。
 小さく息を詰め、宍戸は赤くなりかけているであろう顔を僅かに背けるしか出来ない。
「……銀河鉄道の夜ですか」
「………………」
 やけに大人びたあしらいで、鳳は宍戸の手元に置いたままになっている本を見て宍戸の向かいの席に腰を落ち着かせた。
 生まれた何かしらの雰囲気を一掃するかのように鳳が話し出す。
「俺好きですよ。この話」
 宍戸も読書自体は好きな方だ。
 しかしもっぱらノンフィクション派で、いわゆる読書感想文の課題として指定されるような書物を読む事に対してはどうにも気分がのらない。
 宍戸は目の前の本を見つめて軽く溜息を吐き出した。
 鳳も来た事だし、今日も感想文はもういいかと見切りをつけて、宍戸は立ち上がった。
「宍戸さん?」
「借りて帰る」
 ちょっと待ってろと鳳に告げて本を手にした宍戸の手の甲に、そっと鳳の指先がかかった。
「…………、…」
「俺、この本持ってますから」
「………………」
「うち、来ますよね」
「………じゃ、お前に借りる」
 丁寧で柔和な笑みと、男っぽい手の印象は一見アンバランスなようでいて。
 でもそれが鳳なのだと宍戸は知っている。
 優しい穏やかな口調と、雄めいた低い声音のそれもまた同様に。
「あ、でもその前に」
「……長太郎?」
「少し、寄り道して行きましょう」
 立ち上がった鳳は宍戸と並び、何の衒いもなく宍戸の肩に手を回した。
 肩を包んでくる手のひらの大きさや長い腕の感触に、近頃宍戸は内心でひっそりとうろたえる。
 たったひとつの年の違いで。
 しかし鳳の変貌はやけに鮮やかで顕著だった。
 大人びていく過程が目立ちすぎて、これだけ身近にいる宍戸であっても時折ひどく驚かされる。
 振り返ればいつでも宍戸のすぐ後にいた鳳が、少し前からは大抵隣にいて、ここ最近は宍戸の前にいる。
 広い、大きな背中を見つめる事が増えた。
 それが嫌な訳でも、不安な訳でもない。
 ただ少しだけ何かが変わっていくようで心もとなかった。
 鳳に促されるまま宍戸は図書室を出た。
 雨は通り雨だったかのようにもう止んでいた。
「…で、どこ行くんだよ?」
「星を見に」
「…星?」
 いくら雨は止んだとはいえ、またいつ降り出しても何らおかしくないほど空は雲で凝っている。
 とても星など見える筈もない。
「長太郎?」
 宍戸の呼びかけに鳳は振り返って、そしてそこでなにかひどくいとおしそうに、その目を細めて宍戸をまっすぐ見つめてきた。



 宍戸が鳳に連れて来られたのはプラネタリウムで、銀河鉄道の夜を全天デジタル映像化したプログラムが上映されていた。
 小説のままに、北十字から南十字までの天の川を走っていく。
 白鳥の停車場、プリオシン海岸、蠍の火、サザンクロス停車場。
 星で出来ている世界は物語を忠実に、しかし全てではなく描いていて、見終えた宍戸が何をしたかったかといえば、ともかくその小説をきちんと読みたくなっていた。
「何か思ってた以上に面白かった」
「それなら良かったです」
「お前、誰かと来たのか」
 ふと思い立って宍戸は鳳にそう尋ねた。
 場の空気が徐に固くなる。
「誰かって誰?」
「や、……だからそれを聞いて……」
 鳳にしては珍しくきつい目をして問われ、宍戸は口ごもるかのように言葉を濁した。
 そういえば時々、鳳はこういう顔も見せるようになった。
 怒っているのか、腹立たしいのか。
「一人で来たに決まってるじゃないですか」
「………………」
 プラネタリウムから鳳の家へと向かう道すがら、鳳は宍戸と肩を並べてそう言ってから暫くの間沈黙した。
 宍戸からも何か話すことは出来なくて。
 結局大分してから鳳が、囁くような声で静かに話し出した。
「宍戸さん」
「…何だよ」
「俺、……最近、がっついてて怖いですか?」
「……は…?」
「………自覚は…してるんですよ」
 ひどく気難しそうに眉根を寄せた鳳を、宍戸は驚きに見開いた目で凝視した。
 何を言われたのかよく判らなかった。
「………………」
「でも、すみません。気をつけてるけど、……宍戸さんを、絶対大事にしますけど、無茶苦茶なこと考えてたりするのも本当です」
「無茶苦茶って……」
 漸く宍戸と視線を合わせて、鳳は微かな苦笑を唇に刻んだ。
「プラネタリウム見てる時の宍戸さんも綺麗だった」
「お前……」
 どこ見てたんだよと宍戸が思わず呻くと、宍戸さんを、と臆面もなく応えられてはもうどうすることも出来ない。
 あの暗闇で、そこまで恥ずかしい事をしているくらいなら。
 今更無茶苦茶でも何でも好きにすればいいと宍戸は思った。
「………お前、最近俺を抱く時やけに苦しそうなツラするの、それでかよ…」
 大人びていく故での強引さではなく、我慢しきれない子供じみた欲求で荒いでいるのかと思えば、ふと笑みも零れてしまう。
 すこし安堵もした。
「お前の好きにすりゃいい」
「……また宍戸さんは簡単にそんなこと言って…」
 窘めるような声は年下らしくなかったが、あからさまに表情は焦れて拗ねていたから、宍戸は無性におかしくなった。
「……プラネタリウム見た後は、すぐ本が読みたいって思ったけど。今のお前の顔見たら」
「宍戸さ……」
 片腕で、ぐいっと鳳の後頭部を引き寄せて。
 宍戸は至近距離で笑った。
 図書室での鳳への、ちょっとした仕返しのように。
 鳳がしたように彼の耳元に唇を近づけて囁いてやる。
「すぐお前としたいって思ったな」
 早く。
 全部。
 好きにすればいい。
 そうやって言葉と態度で明け渡してやればやったで、また余計に苦しがるような凶暴な気配を漂わせる鳳が、宍戸にはとにかくどうしようもなく可愛かった。
 ベッドの上、枕を抱え込むようにしてうつ伏せになっている宍戸の横で、ベッドヘッドに寄りかかって上半身を起こしている鳳は宍戸の後ろ髪に長い指先を沈ませている。
 飽きる様子もなく宍戸の髪をすいている。
 頭を撫でる。
 会話はない。
 でも接触が優しく甘い分、沈黙は穏やかだった。
「……宍戸さん。喉は?」
「、ん」
 それが最初の言葉。
 鳳はひどく優しい声で宍戸にそう問いかけた。
 まだだるい身体は確かに喉の渇きを訴えていて、宍戸が小さく応えると。
 鳳は宍戸の後頭部を撫でながら更に耳元に囁いてきた。
「少し待ってて下さいね」
「……………」
 飲み物なにか持って来ますからと鳳がベッドから床に足を下ろす。
 そのまま屈んで、おそらく床に投げ置いたシャツを手に取っている鳳の背中に宍戸は目線をやって、そして呟いた。
「悪ぃ」
「……何がですか?」
「それ、俺だ」
 背中、と言って。
 宍戸は寝そべったままけだるく腕を伸ばした。
 宍戸の手のひらが宛がわれた箇所を鳳が肩越しに見つめてくる。
「ああ……」
「……………」
 強く重く速いサーブを繰り出す鳳の腕は鍛え上げられていて、腕の付け根から続く固い三角筋の上に宍戸の爪痕があった。
 薄赤い痕を見据えながら、我ながら、と言って苦く笑う宍戸に、鳳が眼差しだけで先を促してくる。
 我ながら何ですか?と訴えてくる。
 そんな鳳の視線に宍戸は溜息交じりに応えて枕に片頬を埋めた。
「独占欲、誇示してんな…」
「そうですか?」
 俺はもっと欲しい。
 鳳は迷わず丁寧にそう囁いてきた。
「宍戸さんからの独占欲なら、もっともっと欲しいです」
「キャパ広いな…お前」
「すみません。貪欲で」
 目を瞠った宍戸に対して穏やかに微笑む鳳の表情は最近ひどく大人びてきた。
 人懐っこい印象をそのまま保っている事が不思議なくらい、鳳は確かに貪欲な目を宍戸にまっすぐに向けてくる事がある。
「お前の貪欲な所なら俺はもっと欲しい」
「……………」
「もっと…あるんなら、寄こせ」
 全部。
「宍戸さん」
 聞き分けの良い、優しい男だからこそ、めちゃくちゃに欲しがられたい。
 他の誰にも向けない情熱で、他の誰にも望まない願望で。
 もっと、とそれを強く望んでいるのは自分の方だと宍戸は判っている。
「……宍戸さんこそキャパ広すぎですよ」
 鳳が身体を返してきた。
 宍戸に覆い被さるようにして乗りあがってきて、口付けてくる。
「………、…ん」
 渇いた宍戸の口腔に濡れた鳳の舌が忍んでくる。
 もう水なんかいらないからと伝えるように、宍戸は自らも鳳の舌を口腔に含む。
 濡れてしなやかな熱と弾力を持つ器官を宍戸が貪ると、鳳の両手が宍戸の首筋や頬や頭部を抱え込んで、鳳の方からも濃厚なやり方で与えられてきた。
「…っ…ん…、ぅ…っ…、ん」
「…………宍戸さん…」
「…、……っは……、ぁ…」
 すきまなく塞がれた唇の端から伝い漏れていく唾液の感触に、どれだけのキスをされているのかと思う。
 でももっとなんだと、宍戸は自分の舌で鳳の舌に絡みにいく。
 挑んだ以上の激しさに巻き込まれて、痛いくらいに奪われて、荒いキスに安堵する。
「長…太郎………」
「……なんて声で呼ぶんですか……」
「……、長太郎…」
 僅かに離れた唇と唇の隙間。
 宍戸がちいさく舌をのぞかせて鳳の唇の表面をそっと舐めると、先程よりも更に激しいキスで唇を奪われた。
「ん……、…く………」
「……………」
「……ぅ……、…っ…」
 粘膜を擦り合わせて、混ぜ合わせて、濡れて、沈んで、絡んで零れる。
「は、……キス…だけでいきそう……」
「……、ン…、…」
 熱い息と共に洩らされた鳳の言葉に宍戸は小さく強く立て続けに震えて同じ事を思った。
「……宍戸さんも…?」
 咄嗟にまた両手できつく、宍戸は鳳の肩や背中に取り縋る。
「ん、…っ……」
「宍戸さんも…一緒に…いく…?」
「……、……ぁ…」
 優しい、いやらしい、どうしようもなく絶妙な案配で荒れる鳳の声に。
 本当に、疲労困憊しきった身体がキスでまた絶頂していこうとするのを生々しく宍戸は感じ取っていた。
「宍戸さん……」
「………っふ…、ぁ……」
「………………」
「ぅ…、……ン…、っ」
 唇と唇を擦り合わせるように角度が変えられる。
 舌と舌が甘くもつれる。
 自分の吐息が相手の口で溶け、相手の吐息が自分の口で溶けた。
 口腔を舌で撫でられる。
 濡れ出してきたものを嚥下する。
 粘膜が痺れた。
 唇が戦慄いた。
「長…、…太郎……」
「……そんなに可愛い声で呼ばないで…」
 苦しがるような声すら注がれる甘さでしかなく、濡れそぼった唇で宍戸は解けているキスを再び結び直した。
「ん……っ……ン…、…ぅ…ん…」
「……、……ふ……」
 くぐもった声が互いの口の中で一つになる。
 舌の先を音をたてて吸われて、宍戸は鳳の背に指先を強く沈ませながら、数回身体を跳ね上げさせた。
 鳳の唇は強く宍戸の唇を塞いだままで、そのキスの深さに鳳も宍戸と同じ感覚を味わっている事が知れた。
「…、…ぅ…、…ぁ…」
「……………」
 きつく重なっていた唇が離れていく。
 お互いの唇と唇とを濡れたものが繋いでいく。
 濡れきった唇はそれこそお互い様だ。
 荒い息が堰をきったようにもれてくる。
「宍戸さん…、……」
「…………、……ん…」
 身体を繋げて、熱を、全部吐き出した後のように。
 鳳が宍戸の肩口に顔を伏せてくる。
 今度は宍戸の指が鳳の髪に埋められる。
「…長太郎…、…」
「………キスで…」
「……っ…、……」
 キスだけで、いかせるんだから、と鳳は笑った。
 でもそんな事は宍戸だってそうだ。
 どこか甘く責める様に言われたところでどれこそ同じだ。

 参った、そう思って。
 二人で笑ってしまった。
 とろけるように。
 鳳が、最近料理をするようになった。
 試食してみてくれませんかだの、たくさん作り過ぎたんで協力して貰えますかだの言いながら、タッパウェア持参してくる。
 その中身は彼が作ったというアボガドのサラダだの、チーズのスコーンだの、ポトフだのが日替わりで大胆に一品のみ詰め込まれていて。
 初めて作ったという割りにはなかなか味のこなれた料理の数々が、気づくと日々、宍戸の間食になったり昼食の追加になったり放課後の腹ごなしになったりしている。
 今日も放課後、すっかりひとけのない中庭で鳳持参の料理を宍戸は食べている。
 鳳は元々が器用な男だ。
 その気になれば料理なども楽にこなしてのけるのだろうと宍戸は思ったが、それにしても何故急にこんな事を思い立ったのかを鳳に尋ねれば。
「出来ないより出来た方がいいでしょう?」
「そりゃそうだけどよ。……てゆーか、何でそれを俺に聞く」
「それを宍戸さんに聞きたいからです」
 微笑んだ鳳の表情は、宍戸の目に充分すぎるほどに甘く映った。
 それは贔屓目でも何でもなく、甘い整い方をしている鳳の面立ちが湛える笑顔は最強だと宍戸は思っている。
 宍戸はもうどうしようもなく鳳の笑顔に弱い。
 おくびにも出さないよう努めるが、結局負けてしまう自分を自覚している。
 じっと自分にだけ注がれる鳳の視線。
 それを受け止めて、気まずさや決まり悪さではなく、しかしどこか落ち着かないのは羞恥のせいだ。
 何て目で見てるんだか、と宍戸は内心で思った。
 勘弁して欲しい。
「今日はひよこ豆と里芋の炊き込みご飯を作ってみたんですけど」
「ん………」
「好みでレモンを絞ってもいいらしいんで」
「……ん……」
「絞りましょうか?」
「……………ん」
「宍戸さん?」
 黙々と箸を口元に運びながら宍戸が生返事になってしまうのは。
 甘ったるい視線に直視される羞恥心に耐えての事だったが、鳳は眉根を寄せて心配そうに顔を近づけ問いかけてきた。
 至近距離から、生真面目な声で囁かれる。
「口に合いませんでした…?」
「え?……いや、違う。悪ぃ。うまいぜ」
 宍戸は慌てて首を左右に振った。
 つい勢いで、余計な事を口走る。
「ちょっと考えただけだ」
「何をですか?」
「お前さ、……顔もよくて、性格もよくて、テニスも強くて、その上料理まで出来ちまったらよ。どんだけお買い得品な男なんだよって」
「……お買い得品って…」
 鳳は目を瞠った後に。
 薄く、きれいな笑みを刷いた。
「宍戸さんに買って貰えるくらいになりたいです」
「………お前の基準は何でいつも俺なんだか」
「何でって、そうなんで」
 あくまでも柔和に言葉を紡ぐが、鳳の強情なところだとか、一途なところは、宍戸も充分承知している。
 この男に、どうしてここまで自分が気に入られたのか。
 宍戸としてはそれはまるで奇跡的な事のように思えるのだけれど。
「…………いつも貰ってばっかじゃ悪ぃからよ」
 鞄の中から、今日は宍戸もタッパウェアを取り出した。
「うわ、宍戸さんが作ったんですか?」
「キムチ入れて作るんだよ。ある程度味の誤魔化しがきくからよ」
 宍戸の両親は共働きで、兄は壊滅的に料理が出来ない。
 必然的に宍戸はある程度の料理は作れるようになっていて、それを人に言ったことは勿論なかったのだが。
「あー……箸忘れた」
「………………」
 辛口の肉じゃがは失敗しようもなく簡単だ。
 家族の評判も特にいい。
 鳳に食べさせたら何て言うだろうかと考えながら作ったなんて、自分の行動こそ勘弁して欲しいよなと宍戸は微妙に羞恥に駆られた。
「これでいいよな?」
 鳳に手渡され、炊き込みご飯を食べていた箸でつかんだ肉じゃがを、鳳の口元に運ぶ。
 食べさせる。
「………長太郎」
 思わず宍戸は呻いた。
「肉じゃがくらいでそのツラってのはどういう訳だ」
 簡単すぎやしねえかと交ぜっ返す。
 何せ鳳が。
 しみじみと、しみじみと、幸福を噛み締めている顔をしていたので。
「肉じゃだけが嬉しい訳ではないんですが………」
「口開けろよ」
「宍戸さん」
 だからそのツラ!と宍戸もつい赤くなって叫び、無理矢理鳳の口に少し辛く味付けたジャガイモを詰め込む。
「すっごいうまいです」
「……そうかよ」
 クソ恥ずかしい。
 宍戸がそう毒づいても、鳳は嬉しげに目を細めるばかりだった。
「未来の俺達の食生活は安泰ですね」
「知るか…っ」
 どちらも料理が出来るから。
 食べさせたいと思って作る楽しみも、作ってもらえる楽しみも。
 どちらも堪能出来るという訳だ。
 車内は最初からそこそこ混んでいた。
 そのうえで駅に停まる度に、降りる人はなく乗り込む人ばかりが増えていく。
 ああこれは駄目だと宍戸が本格的に思ったのは乗車からすぐのことだった。
 混雑と、そして空気がすこぶる悪い。
 これは致命的だ。
 宍戸は元々人込みが好きでない。
 閉塞感が苦手で、加えて今日は朝から重たい雨雲が空を覆っていた。
 雨が降る前特有の湿った息苦しさがあった。
 そんな気候の中の、この満員電車だ。
 並大抵のことでは音を上げない宍戸も、今日ばかりは無理そうだった。
 一応はそれでもぐっと我慢をしてみたのだが、気分は一向に晴れず、どんどん重く息苦しくなっていくばかりだ。
 人に押され、人に揉まれ、不快指数をたっぷりはらんだ熱気、薄い空気。
 宍戸は力ない溜息を零しながら、目で相方を探した。
 一緒に乗車した筈が混み合うにつれ今は互いの距離が離れてしまっている男、長身の鳳の姿は簡単に見つかる。
 頭ひとつ分、ゆうに飛び出ている上、大層な男前だ。
 ちょうど停車駅で車内の人の流れが動いたのに乗って、宍戸は少々強引に鳳の元へと移動した。
 どうせ降りる駅は終点だからと、鳳と離れていく事を全く気にしていなかった宍戸だが、ここは少しばかり頼ろう、甘えようと、鳳の前まで無理矢理移動する。
「宍戸さん」
 混雑の中にあっても、器用に、極自然に伸ばされてきた腕で引き寄せられる。
 ちょっと寄りかからせろと小声で言いながら鳳の胸元にもぐりこもうとしていた宍戸は、しかし寸での所で動きを止めた。
「……宍戸さん?」
 どうしました?と問いかけてくる柔らかい低音。
 すでに宍戸の状態を察している鳳によって、広い胸元は宍戸の為にあけられていた。
「…………アホ」
「何がです?」
 構いませんよ?と眼差しで促され、引き寄せられるが宍戸は足を踏みとどめた。
「構うだろーが。お前のがよっぽど具合悪そうな顔してんじゃねえか」
 ともすれば乗り物酔い中と言っていいかもしれない。
 鳳の顔色は冴えなかった。
 更に人が乗車して、周囲の混雑が増す。
 電車が動き出した。
 その揺れで、結局宍戸は鳳の胸元に納まってしまった。
「あのね……」
「…………あ?…」
 宍戸の背中に素早く鳳の手が宛がわれた。
 抱き込まれるような仕草だった。
 実際宍戸は鳳に半ば抱き締められた状態で、そっと耳元で囁かれた。
「宍戸さんのミントガムの匂いが気持ち良いから……」
「………………」
「近くにいてくれてる方が、俺は気分よくなるので」
 お願いしますとまた抱き込まれた。
「………………」
 宍戸はいつもミントガムを口にしていて、今もそうで、だからといって実際鳳が言うようにミントの匂いがしているのかどうか、宍戸には判らなかったけれど。
 身体をあずけきってもいい鳳の存在は、今の宍戸には逆らいがたい程心地良かった。
 耳打ちされる声も穏やかで、宍戸は鳳の胸元に額を当てて目を閉じた。
「………………」
 大丈夫?と問うのではなく、大丈夫と宥めるように背を抱かれた。
 背中に宛がわれた鳳の手のひらからゆっくりと浸透してくる熱が、周囲の熱気とは全く異なる優しさで伝わってくる。
 宍戸の肩から力が抜けて、また互いの距離が近くなる。
 それでも尚、更に背を強く抱かれたのは、もっと寄りかかってしまっていいという合図だと判る。
 満員電車をいいことに相当な密着具合だと宍戸も半ば自嘲したのだが、満員電車だからこそかと思い直して。
 鳳の胸元にすっぽりとおさまった。
 それだけで具合が悪かったのなんて嘘みたいに消えてなくなった。
 鳳もやわらかい吐息をついたのが気配で判る。
 髪に唇が寄せられた気配がする。
 まあいいか、と宍戸は鳳の胸元で淡く微笑んだ。
 電車が混んでいるせいでの、抱擁だ。
 乗り物酔いを解消するべく、抱擁だ。
 近くても、強くても、甘くても、誰にも見咎められることはない、抱擁だ。
 いっそ見事な泣きっぷりだった。
 大きい目からは大粒の涙が出るものなのだろうかと思うような泣き顔に、宍戸は切れ長の瞳を眇めて手を伸ばした。
 真っ直ぐに伸ばした手で泣いている向日の腕を引く。
 強く、自分の方に、そのまま肩を抱いても向日は無抵抗だ。
 普段であるならば噛み付いてきそうな勝気なリアクションをとるであろう向日が全く逆らわないでいる。
 宍戸は溜息を吐き出して言った。
「何したんだよ。お前」
 ごめんの連呼をしているジローや、顔の前で両手を合わせて頭を下げている滝、二人を敢えてスルーして。
 宍戸は苦笑いも保てなくなってきたような表情でやはり侘び続けている忍足を一瞥する。
 宍戸の露骨な直撃に忍足は複雑な表情になったが、構う事無く宍戸は眼差しを一層きつく引き絞った。
 鳳と居残っていた為に最後に部室を出てきた宍戸は、鳳と肩を並べてくぐろうとした正門前での光景に足止めされた。
 そこに居たのは向日と忍足と滝とジローの四人。
 その中で、向日がここまで泣いているというのは普通でない。
「驚かせすぎちゃったんだよー」
 ほんとごめんなーとジローがそれこそ泣きそうに謝っている横で、滝が憮然としている宍戸に状況を説明する。
「何だかここ何日か岳人が元気ないと思って。でも、どうしたの?って聞いても岳人は言わないだろうから、どうしたらいいんだろうってジローと話をしてたところにね。忍足と岳人が来たのが見えて……」
「見えて?」
 素っ気無い促しに今度はジローが言った。
「話聞こえちゃったかなーっていうのとー……あと、うまいこと話ごまかす方法が咄嗟に思いつかなくてー……」
「つかなくて何だ」
「何かちょっと勢いで…滝ともめてるっぽくね……うん、なってる風に言い争いっぽくね……しちゃってみちゃって、誤魔化そうとしようとね……」
 回りくどい話し方をするなと宍戸は眉根を寄せた。
 不機嫌になる宍戸の横で、鳳が黙ったまま困ったような顔をしている。
「それで、そこに忍足が仲裁っぽく入ってきたんで、ジローともめてる振りしながらこっそり説明して、なんかその流れで三人で言い争ってるっぽくなって」
 それでね、と滝の視線がそっと向日に流れる。
 宍戸はそれはもうあからさまな溜め息をついた。
「おどかしてんじゃねえよ」
 この面子でもめてる振りなんかするなと一喝する。
「お前らが言い争いなんざしてたら、いったい何事かと思うだろうが」
 俺や跡部ならともかくと零してから宍戸は手加減なくチームメイトを叱り飛ばした。
「こいつが元気ない理由なんか、原因一つに決まってんだろ」
 きっぱりと指差された忍足が曖昧な沈黙を保つのは、ここ数日に渡った忍足と向日の些細な喧嘩が確かにその原因だと認めているに他ならない。
「どうにかそっちはカタつきそうになってる所で、今度はお前らが、おまけにその馬鹿も加えて三人でもめだしたら、やばいスイッチも入るだろーが」
 恐らく向日自身、そこまで泣いてしまっている理由もわからないのだろう。
 止まらなくなっている涙は、つまりそういう事だ。
 情緒不安定。
「ごめんね岳人」
「ごめんー! ほんとごめん」
「ああもうそれ以上言わなくても、判ってるよ、こいつも。今言うと余計止まらなくなりそうだから止せ。帰れもう」
 向日の肩を抱き寄せた宍戸が言うと、滝とジローはそれでも尚謝りながら、宍戸の言うのも最もだと思ったようで、じゃあ明日なーと言って帰っていった。
「………お前も帰れ」
「そういう訳にいかんやろ…」
 さすがに忍足は同行しないし、宍戸の冷たい言葉にもひかない。
 しかし宍戸はつれなかった。
「俺は岳人と二人でメシ食って帰る」
「……待てや、おい」
「一人が嫌なら長太郎を貸してやる」
「は?」
 それまで黙っていた鳳が、それでさすがに声を上げた。
「ちょっと待って下さい。宍戸さん…!」
 そもそも一緒に帰る筈だったのに何でと。
 言葉に出さずとも眼差しでのみ訴える鳳の戸惑いに、忍足の唖然とした言葉が被った。
「なんやそれ。何で俺が鳳を借りなあかんの」
「てめえには贅沢な話だぜ。ったく。いいか、明日にはちゃんと俺に返せよ」
「宍戸さん!」
 いやです!と叫ぶ鳳と、いらんわ!と叫ぶ忍足を背後に置いて、宍戸は歩き出した。
「くそ。ついてきやがる」
 背後を流し見て舌打ちする宍戸に肩を抱かれたまま。
 向日が、泣きながら笑っていた。
「…宍戸ー………」
「なんだよ」
「ひでぇ……お前……」
 泣き濡れた向日の目には、すでに普段の勝気な笑みが宿っていた。
「あいつの宝物借りんだから、俺の宝物預けただけだろ。何がひでぇんだか」
 ヤケ食いつきあってやるから滝とジローへのフォローは明日自分でやれよと宍戸は呟き、向日を見下ろし、唇の端を引き上げた。
 お前ちょっとこっち来いと宍戸が不機嫌な顔で手招きをすると、鳳は自分よりも背の低い相手を上目に見るという器用な事をしながら近づいてきた。
「あのなぁ長太郎」
「はい。すみません。宍戸さん」
「そのすみませんをいい加減止せって話だボケ!」
「はい? あ、…すみません」
「だからそれだっつーの!」
 わあすみませんっと性懲りも無く口にする鳳に、宍戸はますます声を荒げた。
 しかし宍戸が怒れば怒るほど鳳はますますその言葉を連呼する。
「てめ、ひょっとしてわざとなのか! 今ので七回言ったぞ。七回!」
「わざとなわけないじゃないですか!」
「じゃあお前は何で寄ると触るとすみませんっつーんだよ! 俺に!」
「や、判んないですけど、でもいろいろ俺にも事情があるんですよ!」
「ああ? 事情だ?」
 宍戸は片眉を跳ね上げさせて凄んだ。
 だいたい鳳は、実際問題宍戸に対して、あまりにもその言葉を口にしすぎる。
 神妙な顔の時もあるし、微笑んでいる時もあるけれど、それにしたって多すぎた。
「俺がお前を一方的に、脅すかなんかしてる暴君みたいだろうがよっ。四六時中すみませんすみません言われてりゃ」
「な、誰ですか宍戸さんにそんな失礼なこと言うの!」
「てめーのせいだアホ!」
「は、…すみません…!」
「八回目ッ!」
 宍戸の怒声に鳳は肩も眉も下に落として、そのくせその面立ちの整い方には欠片も傷をつけず、傍目には心底から憂いでいるような無駄な色気を振りまく顔で宍戸を取り成そうと狼狽えている。
 そんな二人の様子に、いつもの事だとすでに周囲からは失笑もおきない。
 氷帝のレギュラー陣は黙々と、或いは勝手気ままに喋りながら、着替えの手を休めない。
 そんな中で一人、細い顎から然して遡る必要もない小さな顔のこめかみに、ぴしりと青筋を立たせた向日だけが、いい加減我慢の限界だというように、鳳と宍戸のいる方向を物凄い勢いと剣幕とで振り返り睨み据えている。
 見失いそうに小さいながらも向日の性根は極めて男らしいのだ。
「……そこの暴君と下僕」
 花びらのようだと人に言わしめた事もある唇から呪詛を吐くように向日が呻くと、更なる嵐、更なる日常に身構えて周囲の面々は嘆息する。
 耳を塞ぎ顔を背ける本能的な衝動にかられた面々を他所に、向日は鳳と宍戸の前に荒い足取りで歩み寄った。
 立ちはだかった。
「おい!」
「長太郎。あのな。すみませんって言葉は、心が澄まない、心が澄みませんってのが語源なんだよ。お前俺といて、そんなに四六時中心が澄まない訳?」
「おいって!」
「まさか! そんな訳ないじゃないですか。宍戸さん。宍戸さんといて、心が澄まないなんてこと俺ないですから」
「おーいー! だからそこの暴君と下僕! 馬鹿二人!」
 向日の姿など目にも入れずに、呼びかけなど気にもせずに話続けていた鳳と宍戸も、さすがにそこまでの大声を出されたせいか、向日の存在に今更ながらに気づいたように二人で顔を向けてきた。
「………誰が馬鹿二人だって?」
「………暴君と下僕って誰のことですか?」
 不機嫌な宍戸と怪訝な鳳に向かって、お前らだー!と叫びかけた向日の口元が、突然に大きな手のひらで塞がれる。
「ンぅ……っ……、…」
「………………」
 いつの間に忍び寄ってきていたのか向日の背後にいたのは忍足だった。
 忍足は向日の口元を片手で塞ぎ、上体を屈めるようにして向日の耳元で何かしら耳打ちし出した。
 声は何も聞こえない。
 忍足の表情も見えない。
 向日はしばらく忍足の手を引き剥がそうと暴れていたが、徐々に大人しくなっていく。
 少し小首を傾けるようにして、忍足の言葉に意識を集中し始めた頃合を見計らってか、忍足の手が向日の口元から外された。
 向日は鳳と宍戸を真っ直ぐ見据えて言った。
「なあ、お前らさ。漢字で一二三四五六七って書いて何て読むか知ってるか」
 二人からの返事はない。
 その間再び忍足が向日の耳元に唇を寄せる。
 もう忍足は手を伸ばして向日を捕まえたりはしていない。
 ただ向日の背後にぴったり寄り添うようにして立ち、何事かを耳打ちしているだけだ。
「お前らみたいなこと言ってる言葉なんだけど」
「……………」
「……………」
 鳳と宍戸が顔を見合わせる。
 忍足がまた向日の耳元に唇を寄せる。
 向日が少し笑った。
「恥知らずって読むんだぜ」
「……………」
「……………」
「孝・悌・忠・信・礼・儀・廉・恥っていう八つの徳のうち、八番目が抜けてるから、恥を知らないって意味で、一二二三四五六七をそう読ませてるわけ」
 孝、悌、忠、信、礼、儀、廉、恥、は勿論。
 逐一ひとつずつ、忍足が向日の耳元に囁いていた。
 口移しのようにひとつずつ。
 そうして忍足も笑っていた。
 笑ってはいたのだが。
「……そこの後ろ」
 宍戸が低い声で凄んだところで、目線も合わせずに忍足は目を伏せ向日に耳打ちばかりを繰り返していた。
「恥知らずはてめえらだろうが…っ!」
「し、宍戸さん……落ち着いて…」
「………………」
「…お前らには言われたくないわ。…だってさ」
 てめえの口で喋れ!と宍戸は忍足に詰め寄ろうとするが、にやつきながらも向日はしっかりと背後に忍足を庇い立て、忍足は忍足で向日への耳打ちでしか言葉を発しない。
 氷帝テニス部レギュラー用部室は、かくして相乗効果としか言いようのない有様で益々賑やかに、そして傍からすれば益々うんざりと、甘ったるくなっていくのであった。


 美麗な所作、顔立ちで、口汚く彼らを罵り一喝する氷帝テニス部の部長が現れるまで現状はそのままだった。
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