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How did you feel at your first kiss?
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 見知った顔に次々遭遇したのは、今日が休日だからだ。
 連れ立ってストリートテニス場に行くことになり、テニスをすることになったのも、ある意味自然な流れだ。
 ただ、出来たら今日は二人のままでいたかったんだがと内心で思うのを、実際には表面には全く滲ませず、乾は手元のペットボトルを弄びながらストリートテニス場に向かっている。
 暫く無言でいたが、肩を並べて歩いている相手がいきなり小さく吹き出したので、何だ?と乾は視線を向けた。
 相手は宍戸で、笑った目で乾を流し見ている。
「乾、お前と跡部、おんなじツラしてるぜ?」
「ん?」
「邪魔すんなっつー…」
「いや、そこまでは思ってないよ」
「跡部ほど露骨じゃねえって?」
 軽く言った宍戸の手にも数本のペットボトルがある。
 自動販売機で六人分を買って来ることになり、一人で充分だと言った乾についてきたのが宍戸だ。
「俺や跡部だけじゃなく、鳳だって、そう思ってるかもしれないぞ」
「俺が楽しいって思う事あいつが邪魔するかよ」
「……お前達は相変わらずだな」
 乾は溜息のように笑って言い、宍戸は単に溜息だけをついた。
「お前んとこも、跡部んとこも、同じだろ」
「そうかな」
「じゃねえの?」
 うーん、と乾は曖昧に返答する。
「俺はちょっと大人げがなくなったような気がするんだがな」
「誰が?」
「俺が」
 へえ、と宍戸があまりにもあっさり言ったので、これは元から大人げなどないと思われていたのかと乾は苦笑してしまった。
 宍戸はそれに気づいたようで、小さく肩を竦めた。
「乾、見た目ほど達観してないよな」
「放っておいてくれ」
 そっとしておいてくれというのが本音かもしれない。
 乾が憂いだ声を出すと、宍戸は尚も言った。
「海堂部長は毎日多忙か」
「……宍戸ー…」
「神尾部長が毎日多忙で、俺様も幼児化してるからよ」
「お前は本当に容赦ないな。鳳にだけ甘いのか」
「どうかな」
 テニスボールを打ち合う音がはっきりと聞こえてくる。
 海堂と神尾は、まだ打ち合っているらしかった。
 乾と宍戸がコートから見える所にまで現れると、遠くから鳳が駆け寄ってくる。
「本当にベタ惚れされてるなぁ…宍戸」
「されてるんじゃねえよ。してんだよ」
 真顔で言った宍戸に乾は内心で完全降伏だ。
「宍戸さん、乾さん、すみませんでした。ありがとうございました。持ちますね」
 鳳が手を伸ばしてきて、ペットボトルを引き取ろうとする。
「ああ、ありがとう、鳳。あの二人の決着は?」
「まだですね」
 乾がコートに目をやって問いかけたのに応え、鳳は途中から声を潜めた。
「……跡部さんは限界かもしれません」
「不機嫌だな。確かに」
「お前とおんなじようなツラしてるだろ?」
 宍戸がからかうのを乾は流したのに、鳳はあっさりと頷いたものだから。
「鳳ー……」
「あ、すみません。乾さん」
 鳳は明るく笑って詫びてくる。
 隣で宍戸が肩を震わせていた。
「でも、乾さんの気持ち判ります。今日は仕方ないですよね」
 鳳は乾に微笑んで。
「今日、誕生日なんでしょう?」
「……どうして知ってる?」
「何かでプロフィール見たような気が。間違ってましたか?」
「いや、合ってる」
 乾と鳳の会話に、宍戸が不思議そうに乾を指差した。
「誕生日か?」
「俺は来月。今日は海堂の誕生日」
「そりゃ……邪魔したな」
 生真面目に宍戸が言うのに、乾は先程宍戸が言っていた台詞で返した。
「海堂が楽しがってる事は邪魔な事じゃないし、その邪魔もしないよ」
「乾さん、大人ですね…」
「いや、これは宍戸の受け売りだし、宍戸に言わせると俺は大概大人げないらしいぞ」
 乾は鳳の肩に片手をかけて溜息を吐く。
 三人で顔を突き合わせていると、コートのほうから神尾の怒鳴り声が聞こえてくる。
「跡部さっきから横でごちゃごちゃうるさいっ!」
「海堂相手に持久戦やる馬鹿を馬鹿と言って何が悪い。だから追いつかれてんだよ。この体力無しが」
「いつまでも人のこと体力無し体力無し言うな! 持久力強化だってやってんだよっ」
「お前の持久力強化をやってやってんのは俺様だろうが」
 ぎゃーっ!と神尾が叫んだ。
「ば…っ! 何言っ……、……ッあー…っ! きたね、…マムシ…!」
「マムシって言うんじゃねえっ。よそ見してるお前が悪いんだろうがっ」
 それでどうやらゲームは終わったらしかった。
 海堂と神尾の大声での言い争いの中に、鳳がのんびりと割って入っていく。
「二人ともお疲れ。宍戸さんと乾さんが飲物買ってきてくれたから休憩しよう」
 ネットを挟んで言い合っている神尾と海堂を宥めながらペットボトルを手渡し、それから鳳は跡部にミネラルウォーターを渡しながら、跡部の耳元で何事か囁いた。
 跡部は顎を軽く上げ、目を細め、それを聞いている。
 高等部に上がってから一層きつさの増した秀麗な顔は、そういう顔をすると一層近寄りがたい。
 整っているが故に隙のない凄んだような表情で、彼はあくまでもキングなのだと知らしめてくる。
 そんな跡部は、鳳が離れるといきなり海堂の名前を呼んだ。
 ちょっと来い、と手でも呼ぶ。
 海堂は少し眉根を寄せて、それは不機嫌というより困惑のそれだと、見ている乾にはすぐにわかった。
 跡部に呼ばれた海堂が、無意識にだろうが乾を探して目線を動かすのを見つめて、乾の目元も和らぐ。
 乾と目が合うと、海堂は困った心情をより露にしてきた。
 行っておいでというように乾が頷くと、また普段の様子にすぐに戻って。
 海堂は跡部の所へ行った。
 その間に、鳳は神尾にも跡部と告げた事と同じ事を言っていた。
「マジで? 海堂、今日誕生日?」
「そうだよ」
 鳳相手に確認した後、神尾はぱたぱたと音でもしそうな慌てた走りで乾の元へとやってきた。
 がばっと頭を下げてきた小さな丸い後頭部を、乾は不思議に見やった。
「すみませんっ」
「ん? 何が?」
「思いっきり邪魔してますよね…っ?」
 元々、乾と海堂がラケット持参でストリートテニス場に行こうとしていた所に、鳳と宍戸に出会い、立ち話などしているうちに跡部と神尾が現れて、どうせなら皆で行こうという話になったのだ。
「おい、神尾。そんな頭なんか下げなくていいから…」
「や、マジですみませんっ」
 ほんとごめんなさい、ただちに帰りますっ、と告げる神尾に乾は笑い出した。
 跡部の不機嫌に気づいていたのかいないのか、あの凍るような目には平然としていた神尾のこの恐縮っぷりが面白かったのだ。
「元々テニスをしにきた訳だから。そんな気にするな。さっきのゲームも海堂は本気だったし、楽しかったと思うぞ」
「乾さん、いい人だー!」
 頭を下げた時と同じ勢いで顔を上げた神尾が、つい見ている側がほほえましくなるような明るい表情を向けてくる。
 神尾は海堂と似ているところがあるかもしれないと乾は思った。
 虚勢ではないけれど、独特の雰囲気で最初は人を寄せ付けないけれど。
 懐に入るか入らせるかした相手には、ふいうちで邪気のないやわらかな感情を見せてくる。
「何が、いい人だー、だよ。てめえ」
「うわっ」
 乾が興味深く小さな相手を見ていると、気配もなく忍び寄ってきたらしい跡部が、神尾の背後から、低い恫喝と共に現れた。
「襟、引っ張んなよっ、跡部っ」
 冷静な態度とは裏腹に、乾との距離を離すような仕草に、乾は内心吹き出しそうになりながら、そういう跡部の気持ちも判らなくはないので敢えて何も言わなかった。
「誰彼構わず懐いてんじゃねえ」
「どうして跡部はそういう言い方するかな!」
「てめえみたいな躾のなってねえ野良猫には、教えてやんなけりゃ判らねえだろうが」
「野良猫ーっ!?」
 それこそ逆毛をたてるような反応に、乾は今度こそ遠慮なく吹き出した。
 神尾が哀れな顔を向けてくる。
「ひでぇ……乾さん……」
「いや、悪い……でも大丈夫だ神尾。俺は今、半分は跡部を笑っている」
「……乾……てめえ、いい度胸だな」
「す……げえ…、乾さん、すっげえ…! かっこいい!」
「何感動してんだ神尾!」
 神尾といる時の跡部は、跡部のままでいながらも、普段は見せない部分までも自然に出てしまうようだ。
 いつもの癖で乾は脳裏で興味深いデータを収集していく。
 言い争いか、じゃれあいか、微妙なラインで言い合う跡部と神尾を眺めている乾の横に、海堂も戻ってきた。
「どうした?」
 何か言いたげな気配を察して乾は海堂に声をかける。
 プレイ中は必ずしているバンダナを外して、黒々としたきれいな髪を春風にそよがせながら、海堂は戸惑ったような仕草で手にしていた紙片を乾に見せた。
「ん?」
「跡部さんから…貰ったんですけど」
「乗馬センター?」
 紙片はチケットのようだった。
「馬は好きか、馬には乗れるか、乗ったことがなくてもまあいけるだろ、って…」
「跡部が言った?」
「……っす」
「それでくれたの?」
 頷く海堂が端的に説明した内容は、口が重い海堂だからという事ではなく、単に跡部がそういう一方的で短い言葉でたたみかけたのだろうと察して乾は笑った。
 跡部が、動物好きの海堂の趣向を知っているのか知らないのかまでは酌めなかったが、覗き込んだチケットは海堂にとって悪いものではないだろうと思う。
 恐らく跡部は、鳳から今日が海堂の誕生日だと聞いたのだろう。
「あんたと行けって」
「俺と?」
「どのコースも使えるけど、林間抜けて、海辺を走れるコースにしろって言ってた…」
 跡部に言われた事を全て乾に伝えながら、何で俺にこれを、と海堂の顔が訝しげになっている。
 そうか、と頷いて海堂の言葉を聞いている乾は、眼差しをこっそりと跡部に向けた。
 神尾と言い合っていたが、跡部は乾の視線にすぐ気づいたようで。
 乾が唇の動きだけで礼を言うと、皮肉めいた薄い笑みを浮かべて応えてきた。
 そうしてから徐に、跡部は神尾の肩に腕を回して、コートから出て、手荷物を拾い上げる。
「行くぞ、神尾」
「は? どこに」
「ホームだ、バァカ。寄り道もいい加減にしとけ、この野良猫が」
「野良猫野良猫言うなっ」
 暴れる神尾を物ともせずに歩く跡部を、海堂が呆気に取られたように見ていた。
 そのまま二人は帰るのだろうと思って乾も彼らを黙って見送ったのだが、途中で神尾が立ち止まった。
「おーい、海堂ー!」
 神尾は海堂の名前を叫んできた。
 そして鞄の中を探り始める。
 乾と海堂は顔を見合わせて、神尾の次の行動を待つしかない。
 程なくして神尾は鞄の中からCDショップの袋を取り出し、更にその中身を取り出し、ビニール袋を破り始めた。
 どうやら買ったばかりらしいCDを取り出したと判ったのは、きらりと丸い光が日差しに反射したからだ。
 その光は次の瞬間、ストリートテニス場のコンクリートの壁に大きな虹を映した。
「………………」
「俺は八月だぜー! 覚えとけー!」
 おめでと、と神尾が大声を張り上げてCDを持っていない方の手をぶんぶんと振っている。
 虹がうねり、海堂の得意のショットの軌道と似た弧をえがく。
「………………」
 邪気のない満面の笑みで、神尾は虹を海堂に差し向けてから背中を向けた。
 跡部と一緒に歩いていく神尾の後ろ姿を、海堂が面食らった顔で見やっている。
「つまり、跡部も神尾も、海堂誕生日おめでとうって事なんだろ」
「なんで…」
 昔から海堂は人からの接触や好意に戸惑ってしまうのが常で、それは今もあまり変わっていないようだと乾は思った。
 青学の、テニス部に入ってきた時からずっと、海堂は誰とも馴れ合おうとはしなかったが、誰かしらが彼を気にかけた。
 青学の部長になって、厳しいながらも慕われている事にも、恐らく海堂は気づいていないのだろうと思った乾は、でもそれはそれで海堂らしいとも感じている。
「へえ…CDで虹が出来るんだな」
「DVDとかCDとか、表面にたくさん溝がありますからね。それを光に反射させると、ああなるんですよね? 乾さん」
「ああ、鳳の言うとおり」
 鳳と宍戸がやってきて、彼らももう手荷物を持っていた。
「帰るのか?」
「ああ。……っと、でもその前に」
 中学時代はトレードマークだったキャップを近頃はあまり被っていない宍戸は、高等部に進学してから髪がかなり伸びた。
 昔のような長髪ではないものの、額にかかる前髪をかきあげながら、傍らに立つ鳳の長身をまっすぐ見上げる。
「長太郎、今日のアレ、今ここで聴いていいか?」
「勿論です。宍戸さんの好きな時に、弾けたら嬉しいです。何かリクエストはありますか?」
 乾と海堂には判らない言葉を交わす二人が、互いしか見ていないような目をするのは昔から変わらない。
 宍戸が鳳の肩に手をかけて伸び上がり、鳳の耳元に何事か告げた。
 頷いた後、鳳は鞄の中からバイオリンケースを取り出した。
「時々ね、宍戸さんが聴きたいって言ってくれるんで。弾くんですよ」
 微笑と一緒に軽く会釈するように睫を伏せてから、鳳は海堂に視線を向けた。
「宍戸さんにリクエスト貰ったから、よかったら一曲」
 海堂と乾さんも聴いて下さいね、と言って鳳は弓をすべらせた。
「………………」
 ストリートテニス場に響いた、とても聴きなれたハッピーバースデイのメロディは、五月の空気に立ち上るようにして溶けていく。
 背の高い鳳が姿勢を正して奏でる音楽は、決して長い演奏ではなかったけれど。
 気持ちと記憶にも深く溶け込んで、優しい余韻で静かに消えた。
 鳳は宍戸と目を合わせてから優美に弓を下ろして、バイオリンをケースにしまいながら海堂に告げる。
「それじゃ、また大会で」
 乾には目礼をして、行きましょう?と宍戸に並んだ。
 鳳の手を背中に宛がわれながら歩き出した宍戸は、肩越しに乾と海堂を振り返って短く一言だけ言った。
「じゃあな」
 さっぱりとした笑顔は弦楽器の余韻にも似ている。
 慌しさなど全くない二人なのに、彼らを見送った海堂が相変わらず、寧ろますます唖然としているのに気づいて、乾は笑いながら海堂の髪をくしゃくしゃとかきまぜた。
「え、…?…」
「鳳と宍戸も、おめでとうって事だよ。海堂に」
「……だ……、…何で……」
 判っていない海堂が可愛いと思って、乾は飽きずに海堂の髪を指先ですいた。
 抗いもしない海堂の頭上にそっと唇を寄せて。
「さて。漸く二人きりだ」
「…先輩、……?」
「どうしようか。どこから誕生日の続きをしようか?」
 乾はいっそこのまま海堂を連れ帰りたくなったが、海堂は乾の予想通りに、言った。
 真っ直ぐな目で。
「テニス」
「……だよな」
 大抵のことは一人で行う海堂からの、貪欲な欲求が自分に向けられる事は良い気分だった。
 乾は海堂の手をとってコートに向かう。
「海堂。誕生日おめでとう」
「……どうも…」
 乾の言葉には、不思議そうな顔も訝しげな顔もしない。
 海堂はどこかはにかむような色を滲ませつつも、乾の言葉を、真っ直ぐに受け止めた。
「ありがとうございます」
 虹も、調べも、海堂を彩って。
 善意も、厚意も、海堂を包む。
 彼という存在をありがとうと、乾の方こそ強く深く、感謝する。
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 前しか見ていないのに、背後で何が起きているのか何故かいつも見えているらしい跡部が、足を止め振り返りながら言った。
「旅行か」
「……へ?」
 神尾が気の抜けた声を上げると、跡部の溜息がそこに被さってくる。
 旅行会社の前、表に出ているツアーのパンフレットに神尾は視線を流しただけだ。
 どうやって気づくんだそんな事と神尾は凄まじく驚いた。
「や、……この間さー……」
 しかも、何でそんなおっかない目で直視してくるんだと思いながら、神尾はカタログスタンドに近づいて行って、覚えのある表紙のパンフレットを一冊抜き出した。
「学校でこれ見たんだ」
「オランダ?」
「そう。でさ、……ここ」
 立ったままパンフレットを捲って、神尾はあるページを開いて跡部に見せた。
「これ行ってみたいよなーって思ったんだよな。これ持って来てた奴は、そうかー?とか言ってたけど」
「てめえ、そいつと行きたいってのか」
「は?…違う違う、俺が自分で見てて思っただけだって!」
 そういう訳でその態度かと、神尾は漸く気づいて慌てた。
 これくらいの事でそんなに凄まれても困るよぅと思いもした。
 跡部の綺麗すぎる顔は、厳しい表情をするとちょっと一言ではいえないくらいの迫力になる。
 まだその表情のままだから、神尾の言葉で納得したのかどうかは判らないが、跡部は改めてパンフレットに視線を落としてきた。
「ファルケンブルク、洞窟のクリスマス市。八日で二十二万八千八百円か」
 言うなり携帯をひらいている跡部に神尾は冗談でなく飛び上がった。
「うわっ、…げ、なんか押してるっ。跡部! ストップ!」
「アア? 俺様を犬扱いか。てめえ」
「してねえよ! てゆーかお前何してんだよっ」
 大慌てで神尾は跡部の右腕にしがみつく。
 跡部はそんなもの物ともせずに平然と言った。
「何って決まってんだろうが。チケットの手配とホテルの手配」
 行きたいなら早く言やぁいいだろうがと、一週間後にクリスマスを控えたこの時期に、まさに今すぐに。
「見ただけだってば!」
 うわあ信じらんねえやっぱりだぁと神尾は頬を引き攣らせた。
「ただ見ただけ! それで面白そうって思っただけ!」
 跡部の携帯を必死で折りたたみ、コートのポケットに入れ、神尾は早口に言い募った。
「面白そうじゃん。洞窟の中でクリスマスとかさ、あとオランダってボートハウスで生活してる人も多いっていうしさ、水の上の家とかも面白そうだしようっ。あと、あとさ、」
「一番肝心なこと忘れてやがるだろう、お前」
「え?」
 跡部が尊大に神尾を見下ろし言い放つ。
「オランダは結婚出来るだろうが。男同士で」
「は?……へ?」
 別にクリスマス市なんざどうでもいいが、だから行ってやってもいい、と続けた跡部が。
 いったい何を言っているのか。
 神尾には全く理解できなかった。
 ぱかーと口を開けて見上げていると、跡部の眉根がみるみるうちに寄ってくる。
 そして舌打ちと一緒に跡部は吐き捨てた。
「判ってて言ったんじゃねえのかよ」
「………跡部…ぇ?」
 何かとんでもないこと言ったぞ跡部、と神尾が混乱しきっているのをどう見たのか、跡部はもう一度舌打ちして、コートのポケットに手を入れた。
 神尾はそれで我に返った。
「わわ…っ! 跡部今度はどこに電話…!」
「洞窟でクリスマス市がやりたいだけなら、洞窟に作らせてやる」
「いらないっ。つーか、お前んち、洞窟まで持ってんの?!」
 おそろしいと身震いした神尾をヘッドロックまがいに片腕で抱きこんだ跡部が、秀麗な面立ちを鋭く凄ませ至近距離から見下ろしてくる。
 神尾がぎゃーぎゃー騒いだのはその距離から盗むようにキスされそうなのが判ったからだ。
 こんな往来でそれはないだろうと必死で抵抗する神尾を跡部は薄笑いで見ていたのだが、その唇が触れ合う寸前、ぴくりとその動きを止めた。
「長太郎、あの馬鹿を蹴り飛ばして来い。公害だ。氷帝の恥だ」
 そんな声が聞こえてきたからだ。
 跡部と神尾が揃って声のした方に顔を向けると、跡部達が来た道を、うんざりとした顔の宍戸と、柔和に微笑んでいる鳳が並んで歩いてきていた。
「こんにちは」
 律儀に目礼してきたのは無論鳳で、宍戸はいかにも寒そうにマフラーを口元近くまで引き上げ、くぐもった声で、あんなバカヤロウに挨拶なんざいいと呻いている。
「宍戸、てめえ」
「あ? 何だよ。やんのかよ」
 ゆらりと動いて宍戸に近づく跡部の険悪さと言ったらない。
 平然と受けて立っている宍戸の迫力もまたしかり。
 慌てた神尾が懸命に間に入って取り成すも、荒い言葉の応酬は止まらない。
「誰が公害で氷帝の恥だって? アア?」
「お前だお前。跡部景吾、お前以外に誰がいる。こんな街中で、無理矢理他校生襲ってんじゃねえよ、アホ」
「可愛がってやってんだよ。この節穴め。てめえこそ相も変わらず鳳従えて歩いてんじゃねえ」
 跡部と宍戸の言い争いの合間に、ぎゃー!とかふざけんなー!とかいう神尾の悲鳴が入る。
 その場でただ一人、鳳だけが肩を震わせて笑いながら、極めて手際よく彼らの中に割って入って行った。
「跡部さんも宍戸さんも氷帝の誇りですから。そんな大きな声出さないで下さい」
 お願いしますと尚も微笑む鳳に、跡部と宍戸が毒気が抜かれたように一瞬黙り、その後二人で妙に苦々しいような顔をした。
 神尾はといえば、ぴたりと止まった喧騒に、すげーすげーと鳳を見上げて感心することしきりだ。
「鳳、お前すっげー!」
「……神尾は跡部さん頼むね」
 こっそり鳳に耳打ちされても神尾は依然キラキラした目で鳳を見上げているので、結局憮然としている跡部がひったくるように神尾を奪いにきた。
 火に油注いでんのは何気にお前かと宍戸が笑い出す。
 鳳はそんな宍戸の、僅かに乱れたマフラーを丁寧に巻きなおしていく。
「あ? いいよ、自分でやる」
「させて下さい」
 お願いしますと笑む鳳に、全て任せながらも宍戸は軽く溜息をついた。
「お前さぁ…長太郎」
「はい?」
「させちまう俺も俺だけどよ……そんなに何から何まで気使わなくていいぜ」
 おや、と鳳は思った。
 宍戸の細い首から続く硬質なラインの肩が少し落ちていて、これは多分、さっきの跡部の言葉にも少しばかりのダメージがあるのかもしれない。
「俺は、従ってる訳じゃないんですよ。宍戸さん」
「………………」
「俺のしたい事を、宍戸さんが許してくれてるんです」
 ありがとうございます、と言って宍戸のマフラーから手を離す。
「宍戸さんが、会ってくれてるだけで俺は嬉しいです」
「お前それ異様に望み低くねえか」
「そんな事ない」
 宍戸が何度だって見惚れるような鳳の柔らかで艶のある優しい笑みは、今もこうして惜しみなく注がれてくる。
 そっと肩を手のひらにも包まれて、これではどっちが年上か判ったものじゃないと宍戸は思ってしまった。
「………どっちが公害で、どっちが氷帝の恥だって」
 皮肉気な跡部の声がするまで、そういえばその存在を忘れていたと、鳳と宍戸は顔を見合わせた。
 揃って視線を向ければ、そんなこと言うなようと弱り顔の神尾を横にして、跡部が嫌味たっぷりに目を細めていた。
 しかしすぐに跡部のその眼差しは神尾に落とされる。
「俺があの馬鹿に言われた台詞をそのまんま返しただけだろうが!」
「宍戸さんの言葉には愛情があるけど、跡部の言葉は呪詛みたいで怖ぇよぅ」
「アア?」
 本気で凄む跡部と、案外豪胆な神尾とに、鳳と宍戸は思わず笑い出す。
「な、…なんかおかしかった…?」
 怪訝な顔の神尾に、鳳が首を左右に振って返す。
「そうじゃないよ。ええと…邪魔してごめん。クリスマスの予定を話してたんだろう?」
「そういう訳じゃないけど……あ、なあなあ、鳳はクリスマスに行ってみたい所とかある?」
 神尾は慌てて話をごまかした。
 これでまた当然のように、海外で過ごす手続きなんか跡部にされてしまっては、とても困る。
 しかし、神尾の感覚からすると、跡部に限らず氷帝自体がやはりブルジョワなのだ。
 矛先を変えて尋ねたものの、鳳の返答もまた、当然のように異国の地名だった。
「ドイツかな。とても綺麗な国だったから、宍戸さんと一緒に見たい」
 鳳の言葉の語尾は眼差しと一緒に宍戸へと向けられる。
 宍戸は、俺はテニスが出来りゃどこでもいいよ、と言った。
 そして、ふいに宍戸の視線があらぬほうへと向けられる。
「海堂、自主練か?」
 突飛とも思えるいきなりの言葉に、鳳と神尾と跡部が一斉に振り返る。
 そこには確かに、宍戸の言葉通りに。
「…………ッス……」
 黒のジャージ姿の他校生がいた。
 大分走ってきたらしい足を止め、汗を滴らせて息を弾ませている。
 トレードマークのバンダナを頭に巻いた青学の海堂は、声をかけてきた宍戸に会釈した後に、一斉に振り返ってきた三人にも気づき目を見張っていた。
「海堂、お前、どんだけ走ってんだよ」
 この真冬に尋常でない汗を流している海堂に、神尾が呆れた声をあげる。
 うるせえと海堂は即座に小声で吐き捨ててきたのだが、一人かよ?と宍戸が尋ねてくるのには一瞬言葉を詰まらせた。
 一人ではないだろうと、その場にいる誰もが思っていた通り。
「乾よ、まさかお前、自転車で振り切られてんじゃねえだろうな」
 腕組みした跡部が呆れ返った風情で吐き捨てる。
 自転車に乗った乾が現れたのだ。
 やあ、お揃いで、と面々に向けて言った後、乾は跡部を見て肩を竦めてみせた。
「そう言うな。もうここらで三十kmは走ってるんだから」
 信号や道路によってはまかれるんだよと、海堂と同じくジャージ姿の乾が跡部に向けて笑って告げる。
「………三十kmって……正気か海堂」
「うるせえ」
 今度も神尾には即答して返した海堂だったが、よく走るなと感心しきった宍戸の言葉にはどことなく決まり悪そうな面持ちでまた目礼する。
「宍戸さんは、海堂を買ってますよね」
「こいつの体力判ってないで、もう終わりだとか言っちまったからなぁ…」
 鳳と会話しつつも、あん時は見当違いで悪かったなと宍戸は海堂に言った。
 口が悪くて気も短そうなのに、感心するにしても詫びるにしても、宍戸は歳の差も関係なく潔く告げてくる。
 海堂は慌てて首を左右に振った。
 にこりと笑って返した宍戸が、あーテニスしてーと呟いたのに、もう一つ同じ言葉が重なった。
「いいなー。俺もテニスしたい」
「………これからって言うんじゃねえだろうな。神尾」
「これから! 今したい。なー跡部、テーニースー」
 跡部のコートを掴んで、引っ張りながら左右に揺するという、多分他の誰にも出来ないような事を平然としている神尾に、否が応でも視線が集まる。
 跡部は振り解こうともしない。
 ふざけんなと口ではいろいろ言ってはいるが、そのままだ。
「宍戸さん、テニスしたいですか?」
「おう。付き合うか?」
「喜んで」
 鳳と宍戸は話が早い。
 デート中なのに皆酔狂なものだなと乾がしみじみ呟き、一つ提案する。
「これから俺と海堂はストテニ行くんだけど、ダブルスで試合やるかい?」
 やる!と真っ先に返事して、真っ先に走り出したのは不動峰のスピードエースだ。
「てめ、…っ…、俺はやるっつってねえだろうが…っ!」
 物凄いスピードで走り出し、瞬く間に背中の小さくなっていく神尾に、激怒した跡部が後を追い走り出した。
 頬の汗を、ぐいっと拭った海堂が黙ってその後に続く。
「宍戸。鳳。荷物運ぶよ」
「悪いな、乾」
「すみません」
 乾に荷物を渡した宍戸と鳳もまた走り出す。
 荷物を積んだ乾が最後にペダルを踏み込んで、六人はストリートテニス場に向かって走っていった。




 
 ダブルスの組み合わせと試合順番は、公平を期す為クジで決めた。
 コートでは跡部・乾ペアと、宍戸・神尾ペアとで、試合が始められている。
「何だかあっちのコートは二人ともかなり濃い感じで見えづらくて、こっちのコートは二人とも素早すぎて見えづらい気がする……」
「………全くだ」
 鳳と海堂は肩を並べて立ち、若干目を細めるようにして、コートを見やっている。
 跡部と乾のコンビは、コート内の雰囲気があまりにも濃厚だった。
 宍戸と神尾のコンビは、二人して所狭しとコートを走りまわっている。
 跡部は相も変わらず派手極まりないテニスを繰り広げ、乾はいつものようにぶつぶつ何かしら呟きながら、恐らくは一斉に三人のデータをとっているようだった。
 宍戸と神尾は動きだけでなく、跡部への物言いもうまい具合にシンクロして盛り上がっている。
 賑やかであること極まりない。
「………………」
 鳳の呟きに、全くだとしみじみ同意した海堂は、ふと視線を感じて鳳へと顔を向けた。
「何だよ」
 見上げる角度は、慣れた乾へのそれと同じくらいか少し高いかだ。
 鳳もまた、同じような事を考えながら海堂を見下ろしつつ言った。
「次の試合は、勝った方と俺達だから……海堂はどっちだと思う?」
「お前と逆の方」
「跡部さんと乾さんってことか…」
「………………」
 鳳と海堂の視線が、かっちりと合う。
 少しの沈黙の後、再び話し出す。
「即席コンビだからこそ、後戦の有利さを生かして今対策を練っておくべきだよな」
「当然だろう」
 目の前の試合を見据えながらの会話。
 ラリー音を聞きながらの、再度の沈黙、そしてまた鳳と海堂の視線が合う。
「宍戸さんと神尾だと思うんだけど?」
「俺はその逆だ」
「譲らないねえ…」
「お前もな」
 視線を合わせながらも、鳳と海堂の眼差しは確固たる信念で揺らがない。
 暫く無言でいた後、彼らは二人同時に溜息を吐き出した。
 そして、鳳と海堂はラケットを手にして、空いているシングルスコートに入る。
 次元の違った勝負が始められた事に、真っ先に気づいたのはやはり跡部だった。
「何であの二人が試合してやがる」
「待ちきれなくなったかな。海堂はじっとしていられないから…しょうがないなあ」
 暢気に笑う乾の言葉に被さって宍戸が怒鳴る。
「何やってんだよ長太郎!」
「すみません、宍戸さん。ちょっと譲れない事で勝負中です」
「はあ?」
 皆余所見しすぎだぜー、とリズムに乗りきった神尾が軽快にスマッシュを決める。
「て…め…、…神尾っ!」
「へへー、跡部の股下抜いちゃった」
 一気に行こうぜ宍戸さん!と神尾が上機嫌でステップをふむ。
「乾! 貴様、海堂ばっか見てんじゃねえ!」
「お前はいいな、跡部。相手が目の前の対戦コートにいて」
 至極残念そうに視線を戻してくる乾を跡部は一喝しているが、全くといっていいほど気にした素振りもない乾だった。
 結局、ダブルスの試合、シングルスの試合と入り混じり、ストリートテニス場は何が何だか判らない状態になってしまっていた。
 そんな中、チームワークの差だなと、ダブルスの試合に勝利した宍戸と神尾はひとまず上機嫌だ。
「お前、本当に早いな、神尾」
「宍戸さんには負ける! すっげー! あれどうやんですか。一気にビュンって動くやつ」
 無邪気に笑う神尾の頭を宍戸は軽く叩く。
「お前、汗拭かないと風邪ひくぞ。海堂タオル余分に持ってねえかな…」
「宍戸! てめえ、それに触んじゃねえ」
 コートのネット越しから跡部の怒声が飛んでくる。
 宍戸に肩を抱かれた神尾は、あのう、と上目に宍戸を伺った。
「……何かわざとやってません?」
 あーおもしれぇ、と宍戸は顔を下に向けて笑っているばかりだ。
 また、シングルスの試合が行われていたコートでも、負けないいい争いが飛び交っていた。
「ちょっと待て! どういう事だ、お前の負けって」
 勝ったじゃねえかと海堂が剣呑と鳳を睨みつけている。
 同じように息を乱した鳳が首を左右に打ち振った。
「この試合前に、海堂、三十km走ったって言ってたからだよ。どう考えたって俺の負け!」
「試合は試合だろうが!」
 一層声を荒げる海堂の元へ、いつの間にか歩み寄ってきていた乾が、海堂を背後から抱え込んでしまう。
「ほーら。喧嘩しない」
 神尾に構って跡部をからかっていた宍戸も、鳳に気付けばすぐにその場にやってきて、何やってんだお前はと鳳の背中のシャツを引っ張った。
「乾先輩!」
「宍戸さん!」
 そんなこと言ったって鳳が、だって海堂が、とお互いまたもや引かない二人だ。
 様子を伺いにきた神尾と、憮然とした跡部もやってきて、コート内は騒然とする。
「てめえ、宍戸なんざにベタベタ触られてんじゃねえよ」
「あのよう……どこ見て何見てそういう台詞が出るかな、跡部はー…」
「うるせえ。帰るぞ。貴様は今日もうちに泊まれ。いいな」
 は?と神尾が呆気にとられる。
「昨日泊まったじゃん。今から俺帰るとこじゃん。つーか、来週も泊まるんだし!」
 来週のクリスマスも一緒にいる。
 当たり前みたいにだ。
「面倒くせえ。来週までそのまま泊まってろ」
「それありえねえから! そもそも面倒くさいって何! お前は待ってればいいだけじゃんか!」
 俺が行くんだしと神尾は言うが、この時点ですっかり、跡部が、言うなれば拗ねておしまいになったのだと神尾も気づいてしまった。
「口答えしてんじゃねえ、神尾の分際で生意気に」
「俺が生意気なんじゃなくて跡部が横暴なんだよ」
「勝手にこんな所に来やがるわ、宍戸とベタベタしてるわ、手配してやるって言ってんのに旅行は拒否するわ、てめえが生意気じゃなくて誰が生意気なんだ、この馬鹿!」
「………跡部ー……」
 延々続く跡部の攻撃に、神尾はしまいに、力なく。
 寧ろとろけるように、ある言葉を呟いた。
「しょうがねえなあ…」
 そして。




 海堂を抱え込んだ乾は、くるりとその身体を反転させて自分と対峙するようにした。
 他の誰をも、もう海堂の視界には入れず、低く言った。
「さすがにオーバーワークだよ。海堂」
「……別に全然平気っすけど」
「だめ。海堂は無理すると、不調の発症が一週間後って事が多いんだ」
 クリスマスに体調崩したくないだろうと乾が言い含めるようにして告げると、別に関係ねえと海堂がそっぽを向いた。
「じゃあ…こう言えばいいのかな」
「………乾先輩?」
 乾が海堂の両肩を、ぐっと握ると。
 海堂が驚いたように目線を上げてきた。
 乾は唇の端をゆっくりと引き上げ、顔を近づけていく。
「クリスマスイブに俺といる海堂が疲れきってたら」
「………………」
「俺は海堂がかわいそうになって、早く家に帰してあげないといけないかなって思い悩むだろう?」
 だから今日はもう休んでと、固い指先にするりと頬を撫でられた海堂は、小さく息を飲み、赤くなった。
「な?」
「………………」
 長身を屈めるようにして吐息程度に囁かれれば尚更だ。
 暫し羞恥心との戦いであった海堂も、乾の言葉をよくよく思い返しているうち、次第に。
 延々続く乾の雄弁な説得に、海堂はしまいに、力なく。
 寧ろ呆れたように、ある言葉を呟いた。
「しょうがねえなあ…」
 そして。





 鳳を叱り付けていた宍戸は、腰に片手を当てて、自分よりも背の高い年下の男を口調よりは大分柔らかな視線で見つめていた。
「お前らしくねえな。何苛立ってんだよ?」
「苛立ってなんかないです」
「苛立ってんだろ」
 そうでなければ鳳が海堂とあんなやりとりをする筈が無い。
 珍しいと思っている分、宍戸も言葉ほど怒っているわけではなかった。
「あのね、宍戸さん」
「おう?」
「俺はね、怒ってないです。これは拗ねてるんです」
 覚えて、と真顔で言った鳳に宍戸は思いっきり面食らった。
「長太郎?」
「宍戸さんが楽しそうに髪触ったり、くっついてたりするから、拗ねてるだけです」
「……あ?……おい、待てよ。相手神尾だぜ?」
「誰でもです。跡部さんをからかうんだとしても嫌です」
「嫌って……嫌って……お前さあ……」
 宍戸は完全にペースを乱された。
 歯切れの悪い言葉しか口から出てこない。
「くっついてるなら俺がそうしてたいし」
「おーい……長太郎ー……」
「宍戸さんが足りないって思ったらもう、しんどくって立ってられないです」
 実際に鳳が宍戸にのしかかるように体重を預けてきた。
 宍戸はぎょっとして鳳を抱きとめる。
「ば、…お前みたいにでけえの、俺が運べる訳ねえだろ」
「運ばなくてもいいです。別に一緒にこのまま倒れてくれて」
「お前、マジでどうしたよ…!」
「知りません。…だから拗ねてるだけだって言ってるじゃないですか」
 延々続く鳳のキリの無い拗ねっぷりに、宍戸はしまいに、力なく。
 寧ろどことなく優しげに苦笑いを浮かべ、ある言葉を呟いた。
「しょうがねえなあ…」
 そして。





 しょうがねえなあ、と。
 一つの言葉が三つの声で、誰にも気づかれず、交ざって重なる。
 とろける声の神尾も、呆れた風の海堂も、苦笑いの顔の宍戸も、しょうがねえなあと呟きながら。
 伸び上がり、人目を盗んで、恋人の頬へとキスをした。



 三つの言葉と、三つのキスは、同時に三人の男をあやした処方だ。
 暇なら付き合えと跡部が誘い、暇でもないけど付き合おうかなと乾が応える。
 跡部の家が携わっているスポーツジムの前で、偶然そこを通りがかった乾は、今まさに中に入ろうとしていた跡部と目が合い、お互いに薄い笑みを刷いてこのような会話が交わされた訳である。
「さすがだな。この設備は」
 一通り施設を見て回った後、手持ちのノートで手早く組まれた乾のプログラムは、後々ジムの専属トレーナーが見て、心底から感心していた。
 気前の良い事に乾は跡部専用のメニューとやらも作ってのけたのだ。
「余裕じゃねえの」
「この礼だ」
 レッグプレスとハックスクワットが兼用になっているマシンでウエイトを足で押し上げて、乾は軽く笑う。
 インクラインベンチでバーベルを持ち上げている跡部の表情にも似た笑みが浮かんだが、双方とも、すぐに無言になった。
 暫くは、マシンの音だけがジム内に響く。
 沈黙は長かったが、先に口を開いたのは乾だった。
「…………随分自棄っぱちだな。跡部」
「そういうお前は心ここにあらずってとこだな。乾」
「まあ……当たらずとも遠からじ」
「は、……よく言うぜ」
 汗を散らしながら、跡部はバーベルを下ろした。
「大方あれだろ。海堂だったか?」
 つきあってんだろお前ら、と跡部に続けられて。
 乾は微苦笑する。
「俺の態度がどうも露骨らしいな。よくうちの連中にも言われる」
「あっちも似たようなもんだろ」
「インサイト?」
「使うまでもねえ」
 似たようならいいんだけどね、と乾は溜息をつく。
 ウエイトを足で押し上げていきながら、跡部の方を流し見る。
「跡部が苛ついてるのは不動峰の神尾が原因だろう?」
「知るか。あんな奴」
「まあまあ。誤魔化す気なら、あんな奴よりそんな奴って言った方がいいな?」
「………食えねえな……貴様は本当に」
 跡部が心底嫌そうに言ったので、乾は笑ってウエイトから足を外した。
「喧嘩でもしたか?」
「珍しくもねえよ。んな事は」
「跡部にそんな顔させる辺り彼も凄いな」
「ああ? どんな顔だって?」
 乾は笑み交じりにさらりと言った。
「傷ついた顔」
「………てめえ」
「インサイト使えない俺でも見える。かなり判りやすいと思うんだが、神尾には見えないんだろうな。……ん? そう睨むなよ、跡部。伝わりにくいとか、伝えきれてないとかは、俺も一緒なんだから」
 乾の言った言葉に跡部は剣呑とさせていた目つきを僅かに緩める。
 無言の圧力で先を促されているのを感じ取り、乾は。
 海堂には言うなよ、と。
 跡部と海堂とでは何の接点もない事を知っている上で言い置いてから浮かべた笑みこそ、傷んでいるように跡部には見えた。
「俺は最初っから、どうしようもなくよかったからなあ……最初は辛いばっかりでも、だんだんよくなってきた事の、何が怖かったり嫌だったりするのかどうしても判らなくて。最近ずっと、海堂にあんな顔させてる」
「セックスの話してんのか?」
「聡いな。さすが跡部だ。飲み込みが早くていい」
「バカと付き合ってると鍛えられんだよ」
 向こうはだんだんバカがひどくなってくるがな、と跡部は吐き捨てた。
 乾が口を噤んだのをいい事に、跡部はそのまま話を続ける。
「同じ相手に何遍もした事なんざ一度もなかった。俺をここまではまらせておいて、嫌がらせでやってるだの、嫌いだからって何度もやったりするなだの、いかれてるとしか思えねえ」
「威張れた内容では全く無いが、要するにお前もセックス絡みか」
「聡いじゃねえの。お前もな」
 うんざりとした風情で前髪をかきあげて、跡部は勢いのまま言い募る。
「みんな同じ顔に見える女の集団を纏めてあしらってるのが、どうして優しく笑ってるに見えやがるんだ。あのバカは。泣いてもうおしまいにしてくれって言われるまで、こっちがやっちまう理由も気づこうとしないで、どうでもいいと思ってるからこんな事するんだってほざきやがる。始末に負えねえだろうが」
「……なあ、跡部?」
 汗が邪魔で、眼鏡を外してこめかみを腕で拭った乾は、溜息混じりに進言した。
「お前、そういうの、神尾に言ってるか?」
「……ああ?」
「実際その取り巻き連中あしらうのに、笑ってみせてるんだろ? 見ようによっては優しく接してるように見えるんじゃないか? 充分」
 平静な乾の物言いに、ぐっと息を詰めた跡部の表情は、物珍しい。
 乾は、これはこれで貴重だなあと内心で思いながらも、跡部を見据えて続けた。
「どうして何度だって抱きたいか、それを神尾に言ったり、気づかせてやった事あるか? もしそういうのが無いなら、バカなのは神尾じゃなくて、お前にならないか?」
 語尾に被せるようにして舌打ちがした。
 跡部が、それは忌々しげな顔をして。
 でもそれはどこか八つ当たりめいて見えるので、乾は別段気分を害さなかった。
「おい。乾」
「何だ?」
「お前の言葉は足りてるのか」
「……だから俺も足りてないんだって。………確かに、人にえらそうに言える立場じゃないな」
 自嘲めいて言った乾に、そういう事を言ってるんじゃねえと跡部は憮然とした。
「お前の話もしてみろって言ってんだよ」
「………跡部?」
「抱いてて、辛いばっかだったようなのが、最近違うんだろ」
「ああ」
「でも海堂は、それが受け入れられない。お前は奴に何て言ってんだ」
「……大丈夫…おかしくない……当たり前の事だから………そんな所かな…」
「バァカ。だからだろうが」
「………は?」
 あまりにもきっぱりと跡部が断言したので、乾は困惑のまま思わず身を乗り出した。
「まずいか? 俺の言った事」
「決まってんだろ」
「悪い。何がまずいのかを教えてくれないか跡部」
 そこの所が俺には判らないんだと首の裏側に手をやって嘆息する乾に、跡部は漸く、皮肉めいた普段の笑みを浮かべた。
「海堂は、そんな一般論やら定説やらが聞きたい訳じゃねえんだろうよ」
「……一般論やら定説?」
「お前に抱かれて、よくなれるようになった海堂を、お前がどう思うかは、言った事ねえのか」
「………俺がどう思うか?」
 反復して。
 乾は、声にならない声で呻いた。
「そういう事か……!」
「そういう事だ。お前が、どう思うのかを言ってやらねえから、向こうはいつまでもおっかねえんだろうが」
「跡部ー……お前……」
 どうして俺が気づけなかった事に先に気づくんだと。
 どこか悔しげに歯噛みする乾は、まるで的外れな嫉妬心をちらつかせている。
 でもそれは結局先程乾の言葉で跡部が覚えた感情から現れていたものとよく似ていた。
 どうして自分が判らないでいる事に、他人の方が気づけてしまうのか。
 それは一見不可思議なことのようで、その実は。
 色恋沙汰に関しては、よくある事なのかもしれなかった。



 ひとしきり汗を流した後シャワールームに向かった跡部と乾は、そこでよく見知った男に会った。
「鳳。来てたのか」
「はい。スイミングの方に。……あれ…乾さん………珍しい組み合わせですね。跡部部長」
「まあな」
 丁寧に跡部に答え、乾にも目礼をする一学年下の鳳が、このジムにくるのは珍しい事ではないようだった。
 跡部は別段驚きもしないし、雰囲気でそれを察した乾も、やあ、と軽く手を上げるにとどめる。
「………おい。鳳。お前…どれだけ泳いでた」
 鳳と肩を並べた時に偶然掠めた肌で感じ取った違和感に、跡部がふと眉根を寄せる。 乾も首を傾けた。
「どうした。なんだか思いつめたような顔をしてるな」
「え……」
 同じ学校の上級生に睨まれ、対戦経験のある他校の上級生に気遣われ、鳳は困惑気味に笑みを浮かべる。
 何でもないですと首を振る様子に納得しない上級生達は、寧ろその様子で察してしまった。
 要するにお前もか、という意味でだ。
「言え」
「は?……あの、…何をですか?」
 跡部に威圧的に促され、鳳がちょっとあとずさった。
 すると背後には、待ち構えていたかのように乾が立っていて、鳳が焦った声を上げる。「うわ、……乾さん…?」
「宍戸の事で悩み事かい?」
「…………、………」
「年がら年中ベタベタしてやがるくせして生意気に何の悩みだ」
「な、……」
 見るからに人の良い、そして内面もまたその見目を全く裏切らない鳳は。
 年上の男二人に挟まれて、どうする事も出来なくなった。
 実際、図星をつかれてもいたので。
 観念の溜息と供に、力ない声で心情を吐露する。
「………俺が宍戸さん大事にしたいって思う程。好きになればなる程。宍戸さんは苦しそうになるのが判らなくて」
 そんな風に切り出した鳳の言葉に。
 跡部と乾は、不審気に首を傾げた。
 それはあからさまに違うだろうと言いたくなる内容だった。
 どれだけ濃密に付き合っても理性を無くさない所や、恋情への貪欲さが、鳳と宍戸はよく似通っている。
 そんな彼らには、鳳に言葉は随分とそぐわない。
「ここの所、ずっと宍戸さんが、俺が何か言ったりやったりする度に、俺を見て苦しそうにしてたり哀しそうにしてたりしてて。………俺は、宍戸さんの事が、本当に好きなんです。だから宍戸さんの嫌がる事とか、邪魔するような事は、絶対言ったりやったりしたくないんです。だから気をつけてた……でも」
「鳳?」
「……欲しくて、いつも。どうにかなりそうになるから、気をつけてた。ちょっとでも宍戸さんが抵抗したら、我慢した。絶対、無理強いとかしないようにって」
 鳳は悲痛な笑みを浮かべて、ゆっくりと言葉を紡ぐが。
 跡部と乾は、それはどこか、何か、違うのではないだろうかと同時に思っていた。
 宍戸は、鳳が思う以上に、彼の事を好きだろうと。
 少なくとも、そんな風に鳳が気に病む事はないだろうと、言い切れるくらいには。
 寧ろ、そういう遠慮がちな態度が。
 あの一本気な宍戸を沈ませているのではないだろうかと。
 他人事だからこそ感じ取れる確信めいた考えが、跡部と乾、双方の男に頭に浮かぶ。 しかし。
「俺も、大概…最近煮詰まってて。だからってあんな事していいわけないのに」
「……おい?」
「塞ぎこんでる宍戸さんに、何かを言われるのか怖くて……乱暴だった。強引に、何度も、抱いて」
 物騒になってきた話に跡部と乾が、ぎょっとなったのも束の間。
「………それなのに宍戸さん…俺が正気づいて、頭下げても、全然怒らないんです」
「………………」
「………………」
「責めて当然なのに、笑ってた。優しくて。全然俺を怒らない。……俺は自己嫌悪で死にそうで」
 思いつめた鳳は、そうしてここで、恐らく数時間も無茶な本数を泳いでいたのだろう。
 悲壮な気配すら伝わってくる鳳に。
 しかし跡部と乾は、ひきつった笑みを、力なく浮かべるしかない。

 だからその、乱暴にというか、強引にというか。
 それが宍戸は、嬉しかったのだと。

 その事を。
 跡部か乾か、どちらかの口から。
 教えてやらない限り。
 鳳は気づけないまま落ち込んでいるのかもしれない。
 しかし、口に出すにはあまりにも脱力する事実でもある。

 自分が判らないでいる事に、他人の方が気づけてしまうのは、色恋沙汰にはよくある事。
 そして、その内容が。
 他人からすれば、口に出すのも恥ずかしい、甘ったるさであるような事もまた道理だ。
 次から次へと台風が来るので、ロードワークが不規則になる。
 雨風が激しい中でのランニングには、さすがに家族もきっぱりと反対をするものだから。
 そのフラストレーションが、ここのところ海堂を憂鬱にさせている。
 そうして走りこむ時間が奪われるから、余計な事を考える。
 だから海堂は今日こそはと決意して家を出た。
 多少風はあるものの、雨が止んだのをいい事に久々に夜のロードワークに飛び出ていったのだ。
 思ったよりも強い風の抵抗に若干縛られながらも、海堂は慣れた道を走っていく。
 しかし、そうやって久しぶりに走りながらも、海堂の頭の中には相変わらずの気鬱が巣食っていた。
 海堂がここのところ考え込んでいること。
 それは乾の事だ。
 毎日のトレーニングが侭ならず、苛つく海堂の心情などは当然のようにお見通しの乾は、近頃よく海堂宅を訪れる。
 自室にあるトレーニングマシーンを使った筋トレをみてくれたり、データベースの戦術やメニュー作りなどを提案しながら、乾は海堂を懐柔してくるのだ。
 そうかといって、別段、海堂はその事が不満な訳ではない。
 乾への信頼は確固たるもので、実はそうやって日ごと一緒にいる時間が増える分、繰り返される事になるキスとかそれ以上の接触も。
 海堂は、決して嫌な訳ではないのだ。
 ただ。
「…………………」
 走っているせいだけではなく、心拍数が上がって。
 海堂は意識しないままペースを上げた。
 ただ、最近。
 自分がおかしい。
「…………………」
 自分がおかしく、なってしまった。
 乾に抱き寄せられ、キスをされる。
 繰り返せば繰り返す程、大抵の事ならば、慣れていく筈なのに。
 どうして乾にキスをされたり抱かれる事は、慣れるどころか、その度甘苦しさが募っていくのか。
 おかしいくらい心音が乱れる。
 意識も乱れる。
 乾の手は、海堂のどこに触れてもひどく丁寧で。
 丁寧なままで。
 どれほどやわらかく撫でられても、さすられても、海堂は触れられた箇所から、ぐずぐずと溶けていくような錯覚に締め付けられる。
 乾の指先は、海堂の身体の表面だけでなく、内部にも沈んでくる。
 海堂自身が知らないような所に触れてくる。
 普通ならば、そんな所で感じ取る筈もないような。
 きつい悦楽が、日ごとに乾によって引き摺り出されて。
 海堂がどれだけ必死になって息を詰め、声を殺し、顔を伏せても。
 乾はそれを知ってしまう。
 海堂のみが、自分の身体の筈なのに、訳が判らないでいる。
「…………………」
 錯乱して、いっそ声にして泣いてしまおうかと。
 海堂が乾に揺さぶられるまま涙を滲ませ出すと、乾は必ずそれに気づいて海堂に囁いた。
 大丈夫、おかしくない、当たり前の事だから、と宥めるような優しさで。
 でも海堂にしてみれば、大丈夫とは思えないし、おかしくないわけがないし、当たり前な筈があるかと、日ごと思い悩まされる。
 乾に抱かれる事で、ひどく濃密な快感を覚え出した自分が、海堂には怖かった。
 誰に話せる事でもない。
 乾はうっすらと海堂の心中に気づいてもいるようだが、やはり口にするのは、大丈夫、おかしくない、当たり前の事だから、という馴染みのそれらだ。
「…………………」
 走り出せば無心になれるだろうと海堂は思っていたが、久々のロードワークに出てみても、やはり頭の中からそれは離れなかった。
 頭の中で、乾の事ばかり考えている。
 こんなことばかりを考えて、ただ流されるように走っているだけではどうしようもないと、海堂が思考を振り払おうとした時だ。
「………、ッ……」
 余程ぼんやりとしてしまっていたのか、衝撃を受けてから、状況に気づいた。
 思いっきり正面から人とぶつかってしまったのだ。
 海堂が半身に受けた衝撃を、相手もまた同等に受けてしまったようで、同じようなよろめき方をした後、口にした言葉も同一だった。
「……すみません…、!」
 そしてふと海堂は、その声に聞き覚えがあると思い当たる。
 そうして漸く海堂は自分がぶつかってしまった相手を見つめた。
「……、…お前……」
「………海堂…?」
「神尾………」
 対戦経験のある他校の同学年。
 決して親しい仲ではない。
 むしろ、どちらかといえば、こうしてぶつかりでもすればたちまち言い争いを始めてしまう方が自然だ。
 だがこの時は、あきらかに考え事に没頭していた自分に非があると海堂は思ったので。
 怪我は、と問いかけて愕然とする。
「おい、……」
「………え…?……あ、ごめん……」
「……………………」
「悪い……平気だ。お前は?……ごめん」
 考え事して走ってた、と神尾は言った。
 そして、赤い目を擦った。
 泣かせる程どこか痛ませてしまったのかと海堂はぎょっとしたのだ。
「おい。神尾。お前どこか……」
「いや………これちがうから」
 海堂が聞いた事のないような幼げな言い方で神尾は言って、首を左右に数回振った。 それでいてあまり弱弱しさを感じさせないのは、引き結ばれている唇がどことなく悔しげに見えるからだ。
 海堂は何だか毒気が抜かれたような気持ちで神尾を見据えた。
 普段ならば双方喧嘩腰になるような雰囲気でしか話をした事がないだけに、些か落ち着かない気もするにはするのだが。
 気づけば何故か二人で向き合っている。
「…………大丈夫なんだな?」
 他に聞きようもなくてそう口にした海堂に、神尾は何だか自棄になったように言った。
「なんともねえよ。……大丈夫でもないけど」
「………………」
「………ここで、どうしたとか聞く奴じゃねーよな。お前」
「……聞いて欲しいのか」
「聞かなくていい。俺が勝手に独りごと言うからいい」
 重たい溜息を吐き出して、神尾は短い言葉を幾つも口にした。
「頭おかしくなる」
「………………」
「むかつく」
 半ベソの神尾を、海堂は眉根を寄せて見るしか出来ない。
 手の甲で目元を擦っては怒る神尾が、どうにも傷ましく見えてきてならない。
「女には優しい。俺の事はどうでもいい。俺にばっか適当しやがって。ばかやろう。死んじまえ」
「………………」
 海堂は、神尾が氷帝の三年生、跡部とつきあっていることを知っている。
 それは勿論ありとあらゆるデータの宝庫である乾から聞きかじった情報だ。
 今、泣いて、悔しがって、怒って、傷ついている神尾が詰っている相手は、確認するまでもなく跡部だろう。
「自分の取り巻きには笑いかけるくせに、俺の事は睨みつけてくるばっかで」
「………………」
「だいたい、」
 神尾の声が、ひっくり返る。
 いきなりのそれに海堂が目を瞠ると、神尾はぼろぼろと涙を零して、しゃくりあげながら怒鳴った。
「いっつも、いっつも、俺が泣いて、何度も頼んで、お願いとかしないと、やんの止めてくんねーし……!」
「……、ああ…?」
 海堂が激しく怯んだのも当然。
 神尾が話し出した事は、突然に、そしてあまりにもディープだ。
 ひょっとしてそれは、と海堂が硬直したのも目に入らないらしい神尾は、尚もまくしたてるばかりだった。
「普通、ああまでするか…っ? 毎回毎回、俺に謝らせて、頭下げさせたいから、あいつ、嫌がらせでああまで俺んこと抱くんだよ…っ。何回も何回も、会うたんび抱くんだよ…っ。むかつく……!」
「おま…、……それは……」
 それは嫌がらせとかではないんじゃないかと海堂は思った。
 中途半端に神尾へと伸ばしかけた手が宙に浮いてしまい、そんな海堂の困惑を神尾はどう見たのか、真っ赤な目で海堂を見据えてきた。
「どうせお前は、泣かされたりとかしないんだろ」
 丁寧にされてんだ絶対、俺とは全然違うんだ絶対、とかなんとか。
 とんでもない推測を次々神尾から投げかけられて、海堂は、ぐっと息を飲んだ。
 神尾は実際、乾の名前を口にも出した。
 どうして知っているんだという疑問は勿論あるのだが、何せ海堂は海堂で、ここ最近ずっと鬱々と考え込んでいたのだ。
 乾に抱かれる事で。
 泣くだけでは飽き足らず、されればされる程よくなっていく自分の身体に覚える不安定な感情は。
 自分はおかしいのだと思うしかない後ろ暗いもので、ずっと海堂を落ち込ませている。
 ここで泣きながら怒っている神尾の方がどれだけ健全かと思うと、海堂は一層憂鬱になった。
 結局海堂はそんな神尾に触発されたようなもので、いつの間にか売り言葉に買い言葉の勢いで自身が抱え込んでいる危惧や不安をあらいざらい口にしていた。
 そうしたらそうしたで、神尾は時々、先程までの海堂のように。
 言葉を詰まらせたり、硬直したり、赤くなったりした。
「か……海堂……」
「うるせえ…! どうせ俺はおかしいんだろうが…っ」
「……や、…別にそれはおかしくねえよ…? 普通じゃんか…?」
「どうせてめえは、そうやって俺みたいにみっともなくなったりはしねえんだろ…っ!」
「それ別に落ち込むとこじゃないだろ…!」
 神尾の話を聞いて海堂が思った事と、同じような言葉を神尾も口にしてきた。
 もう自分自身では止められないし、お互いがお互いをも止められないし、台風を感じさせる強風に吹きつけられながら、海堂と神尾は噛みあわない個々の鬱憤を喚き散らしていた。



 台風一過は、それからものの数分後の事だった。
 海堂や神尾と同様に、近場を走りこんでいた氷帝の三年生、宍戸が現れて。
 騒いでいる他校の下級生二人を、それは手厳しく嗜めたのだ。
 周辺の人の迷惑になるだろうがと恫喝のように怒鳴られたのだが、口調や態度が荒い割りに、宍戸は面倒見の良い男のようで。
 海堂と神尾をストリートテニス場まで連れてきて、缶ジュースをそれぞれに買ってくれて、話してみな、と言った。
 三人が三人とも、学校は違うが、微妙に繋がりがあったりもする。
 個々の最近の悩みやら憂鬱やらは、とても人に話せる内容ではないとずっと思ってきた海堂と神尾だったが。
 結局、独特の雰囲気のある宍戸に、思っている事をあらいざらい話してしまった。
「神尾。お前、あの人付き合いなんてどうでもいいって本心から思ってる跡部の、お前にだけ向いてる執着心にいい加減気づけ」
「………跡部の…執着心…?」
「それから海堂。セックスがよくなって何が悪い。気持ちいいならそれでいいだろうが。お前もいい加減、乾だって必死だったり真剣だったりするって事理解しろよ」
「…………乾先輩が必死…?」
 宍戸はきっぱりと言ってのけた。
 神尾と海堂に。
 荒っぽい口調ながらも、どこか温かなものを残す口調で。
「だいたいてめえら贅沢だっつーの」
「………は?」
「跡部にしろ、乾にしろ、好きな相手にがっつかれて何が不満だ」
「が、……」
「………っ…、…」
「それくらい欲しがられてみてえよ。俺だって」
「……え…」
「…………」
 思わず海堂と神尾は顔を向き合わせてしまった。
 まるで。
 それでは宍戸は、欲しがられてないみたいではないかと、今聞いた事が信じられなくて見詰め合った。
 それこそ宍戸が付き合っている相手が、自分達と同学年の鳳であることは、海堂も神尾も知っている。
 そして、あれだけストレートに、無条件に、宍戸の事しか見ていない鳳がいて。
 どうして宍戸があんな言葉を口にするのかが信じられない。
 宍戸は、二人がかりからの視線に気づいているのかいないのか、中身を飲み干した缶を、公園のダストボックス目掛けて放った。
「ちょっとでも嫌って言や、すぐに離される」
「………………」
「………………」
「跡部や乾がお前たちに拘ってるみたいまでには、俺は欲しがられてないんだろうな」
 宍戸は静かな声で、そう呟いた。
 それは違う。
 はっきり言って全然違う。
 海堂と神尾は愕然とした。
 宍戸の方こそ、鳳の、宍戸にだけ向けられているあの執着心だとか必死さだとかに、もっとちゃんと気づくべきだ。
 心の底から、そう思う。
 二人がかりで、宍戸を取り成し始めた海堂と神尾だった。

 人の状況ほどよく見通せる。
 何も難しい事はない。
 ただ自分の事となると見通せなくなるのもまた無理もなかった。

 恋の行く末は、概してそういうものだろう。
 Jr選抜合宿の、三日目の夜。
 就寝時間の少し前に乾が声をかけて部屋に呼んだのは氷帝の跡部と鳳だった。
「………何の用だ。乾」
 薄手のガウンを羽織った跡部を見るなり、乾はゆるく笑った。
「やあ。判ってはいるけど不機嫌だな跡部」
「どういう意味だ」
「まあ、それは後程。入ってくれ。鳳も」
「失礼します。……お一人ですか?」
 ワッフル素材の柔らかそうなパジャマをきちんと着こんでいる鳳は、不思議そうに室内を見て言った。
 ちなみに出迎えた乾もパジャマ姿だが、上半身は裸だ。
「海堂は宍戸と神尾と一緒だ………って、おいおい、待ってくれ。二人とも」
 二人に同時に詰め寄って来られて、乾は大真面目な顔でホールドアップの姿勢を取った。
「どういう事ですか、それ! さっき宍戸さん、大事な用事があるからって言って、出て行ったんですけど?!」
「何であいつらと一緒にいやがるんだ?! そんな時間があるってんなら…!」
「まあまあ。落ち着け。可愛いじゃないか。三人で。パジャマパーティみたいなものだろう。こんな時でもなければ出来ない話もあるだろうし」
「これが落ち着いていられますか…! 宍戸さん、ちゃんとパジャマ着てるのかどうか……まさかいつもみたいに半裸に近いような恰好で……」
 鳳はそう言って青くなり、跡部は一層不機嫌に舌打ちした。
「跡部もそう怒るな。そんなだから氷帝以外の学校の生徒がお前を遠巻きにするんだろう」
「…んなこと知るかッ」
「とにかく」
 乾は飄々と、鳳と跡部の肩に手を乗せて。
 結構な剣幕の二人を宥めて。
「俺達は俺達で、今からここでパジャマパーティ」
「………………」
「………………」
「さて。乾汁でもいれようか」
「いらないです!」
「いらねえ!」
 氷帝の二人は同時に叫び、乾はひどく哀しげな顔をした。


 それでも、消灯までの時間を使って、乾と跡部と鳳はそれぞれパジャマ姿で話をした。
 集合をかけた乾の話が全て済む頃、部屋の扉がノックされる。
「海堂。お前の部屋なんだからノックはいいよ」
「………風邪ひくっスよ…先輩。何で上着、着てねえんだ」
 すぐに扉に向かった乾は海堂を招き入れて、今にも腰から抱き寄せそうな密着ぶりで戻ってきた。
 濃紺の光沢のあるパジャマを着た海堂は、まず跡部に目礼をし、鳳にも視線をやって、それから背後を流し見た。
「宍戸さん…! やっぱり上着着てない…!」
「……んな大声出す事かよ。長太郎」
 呆れた口ぶりで次に姿を現したのが宍戸で。
 咄嗟に鳳が、自分が来ていたパジャマの上着を脱いで宍戸の肩にかける。
「………、……」
 そうやって、自分でしておいて。
 絶句した鳳を、宍戸が怪訝な顔で見つめ返している。
「………なにヘンな顔してんだ。お前」
「いえ……あの……」
「お泊りして、彼氏のダボダボの上着だけを羽織っているみたいな図、…って事らしいな」
 感に入っている鳳の心情を正確に代弁した乾に、宍戸が赤くなって鳳を睨みつけて。
 怒鳴りつけようとしたタイミングを浚って、最後に神尾が現れた。
「あとべー!」
「………………」
 すこぶる上機嫌である。
 目も眩む蛍光グリーンのパジャマに、跡部が思った事は。
 さっさとそれは脱がしてしまおうという事だった。
「……っ…!…!……な、何す、……ッ…」
 ガバッと上着の合わせを開かれて、発火する勢いで赤面した神尾に気づかない振りをしてやりながら、その場にいた四人は溜息をつく。
「跡部………」
「うるせえ。消灯時間だ。散れ」
「…散れってお前。一応ここは俺と海堂の部屋なんだぞ」
 再度溜息をつく乾に、跡部は唇の端を引き上げた。
「貸すって言ったのはてめえだろ」
「ああそうだ。確かにな」
 これ以上はもう何を言っても無理と判断し、四人はその場から退く事にした。
 とりあえず、跡部の機嫌が浮上している事だけは、はっきりと認識出来たので。


 学校が同じであっても、学年が違えば擦れ違いが多くなるのも当然な話。
 ましてその上、学校が違うともなれば。
 必然と一緒にいられる時間は少なくなる。
 それなのに、こうして選抜合宿で一緒になって。
 なまじ近くにいるのに、それでもやはり一緒にいられる時間がとれないとなればフラストレーションが溜まるのも無理はない。
「部屋でも同室だったら、良かったんだがな」
 同じ学校同士である乾は海堂と、鳳は宍戸と、同室であったにも関わらず。
 跡部と神尾は部屋割りでもバラバラになってしまった。
 状況を見て、今日のサプライズを企画したのは乾だった。
 乾は鳳と跡部を呼んでこの話をし、海堂は宍戸と神尾を呼んでこの話をした。
 跡部と神尾の為に用意した一晩の同室だが、他の彼らとて出来れば一緒にいたかったので。
 乾による、厳選たる人選と、あからさまにならないように組み合わせた最低限のシャッフルとで、これから彼らも幾部屋かを回って。
 結局最後は同室のまま。
 眠りにつくのだ。
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