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How did you feel at your first kiss?
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 好きだと切に焦がれたと同時に、相手からも焦がわれた。
 欲しいと強く願ったのと同時に、相手からも願われた。
 望んだものは、すぐに同じ思いで返されて。
 苦しかった時間は僅か。
 思いつめた迷いも一瞬。
 戸惑いを吹き払い、躊躇を薙ぎ払って、お互いに手を伸ばす事の叶ったその瞬間には、自分がどれだけ凄まじい安堵感と幸福感を覚えたか、無論忘れはしないけれども。
 だからこそ後になって、今になって、どうしたらいいのか判らない事があるし、どうにもならない事も出てくるのだ。





 清潔な茶色の髪で気づいた。
 厳しく完璧な姿勢と佇まいの後姿。
「若、今帰りか?」
 宍戸が声をかけると、目線だけで振り返ってきた日吉が僅かにだけ目を瞠っていた。
 宍戸は鞄を掴む手を手首から反らし、肩に乗せて、少し歩を早め日吉の隣に並んだ。
 正門までは、まだ距離がある。
「………一人ですか」
「おう」
「…珍しいですね」
「そうか?」
「そうですよ」
 感情のこもらない低い声、素っ気無い短い言葉。
 それでも話かけてくるのは日吉からで、宍戸は小さく笑みを浮かべて日吉を流し見た。
「お前も珍しいな」
「俺はいつも一人ですが」
「いや、俺相手にそんなに喋るのがだ」
「………………」
 そうは言いながらも、案外と二人きりの方が、寡黙な日吉でもあれこれ喋る事を宍戸は知っていた。
 今はもう引退しているが、テニス部に現役でいた頃、宍戸が日吉から感じていたのは他のレギュラー陣達への敵対心とは全く違うものだった。
 もっと簡単に、感情の面で好まれていなかった。
 宍戸は早くからそれに気付いていたけれど、別段だからといって日吉を毛嫌いしていない自分も知っていた。
 憮然として、生意気で。
 でも宍戸は、恐らく自分が下級生であった時、上級生達は自分に対して同じ事を思っていたのだろうと知っているから、負けん気が強くて愛想がなくて勝気な日吉が他人事に思えなかったのだ。
 春先、宍戸がレギュラー落ちをし、その後すぐに異例の復帰を果たした時から暫くは、宍戸に対する日吉の態度は露骨に不快そうだったのだが、それもいつの間にか軟化していて、今となってはこんな風に二人で話をしている空気もやわらかい。
「鳳、もう帰りましたよ」
「ああ…知ってる」
「今週入ってからずっとあんな調子ですね」
「不機嫌か?」
 宍戸が問うと、日吉は前方を見据えたまま、そこまでは興味ないんでと言った。
 それで宍戸は小さく笑う。
 すると、報復なのか日吉が冷えた声音で告げてくる。
「それこそ珍しい」
「…何がだ?」
「逆ならともかく」
「………………」
 それでもまだ笑った目のまま宍戸が日吉を見やると、日吉も涼しい視線を宍戸へ向けてきていた。
「つまり宍戸先輩が悪い喧嘩ってことですか?」
「真っ向から言うか、そういうの」
 やはり自分と似ている所があるのだと、宍戸は日吉を見ていて思う。
 敵も増えるだろう、しかしその分、理解者には深く感謝もするだろう。
 自分と同じように。
「そうだな。俺が悪いな」
 宍戸は日吉から視線を外して溜息をつく。
「………………」
「あいつが怒るのも当然だな」
「……へこんでるあんたを見るのは気持ちが悪いし気が滅入ります」
「悪かったな」
 ぼそぼそと交わす会話で正門につく。
 家の方向は逆なので、話はここまでだ。
「じゃあな。若」
 鞄を持っていない方の手を肩口で軽く振った宍戸だったが、自分の向かう方向に日吉が並んでついて来たのでぎょっとする。
「…おい?」
「腹が減りました」
「……は?」
「俺はファーストフードは嫌いです」
「はあ?」
 どうしたんだこいつ。
 宍戸が困惑する中で、ちらりと視線だけ向けてきた日吉の表情に、ぶっきらぼうな気遣いが見えた気がして宍戸はますます呆気にとられた。
 そしてつくづく、この後輩は自分と似ているのだと思い知らされる。
 不器用で、無愛想で、優しい言葉が使えない。
 全く似たもの同士だ。
「そばがきは?」
「うまい所なら」
「うまいぜ。この間も食った」
 行くかと日吉を促しながら、この間そこに一緒にいた相手の事を思い出して、宍戸は小さく溜息をついた。









 結局日吉とはテニスの話ばかりした。
 寧ろそのほうが気が晴れた宍戸は、割り勘を譲らない日吉を宥めすかし、しまいには店主が心配してくるような小競り合いを交わしつつ代金を払った。
 憮然としている日吉は今思い出してみてもおかしかった。
「宍戸ー。昨日は、えっらい渋い場所で、日吉とデートしてたんだって?」
「…は?」
 昼休み、机にうつ伏せてうつらうつらと昨日の事を思い返していた宍戸は、賑やかな向日の言葉に顔を上げた。
 好奇心でキラキラした大きな目が目前にある。
「……んだよ。寝かせろよ」
「そんなに眠いようなこと、昨日したんだ?」
 日吉と?と言ってくる向日に宍戸が眉根を寄せる。
「何言ってんだ、岳人」
「だって昨日見てたらさー、なかなかの仲良しっぷりだったじゃん?」
「…おい?」
「萩之介、ちょっと泣きそうで可哀相だったんだからな」
「おい」
 真剣な宍戸の声に、向日は肩を竦めた。
「そっちは平気。お前たちが店の前で別れた後、俺と侑士で日吉に特攻かけたから」
「滝は」
「勿論一緒にいたよ。止めなよって言われたけどさ」
 聞くわけないじゃん?と向日は笑った。
「日吉も見物だったぜ。俺らはともかく、萩之介見たらさ。かわいいねー、あいつも」
 態度に出さないようにしてたけどめちゃくちゃ焦っててさあ、と大笑いする向日を宍戸は呆れて見返した。
「お前らなぁ…」
「つーわけで、あっちは別に、もめちゃいねえよ」
「…それならそれでいいだろうが」
「だな。で、こっちは?」
 こっち?と宍戸は訝しげに聞き返す。
 宍戸の机に頬杖をつく向日は、唇を端を引き上げた。
 ただし目は笑っていない。
「日吉には話せて俺には言えないのかよ」
「……別に日吉と話はしてない」
 日吉同様、向日も気づいているのだろう。
 彼が知っているのなら忍足も知っているだろうし。
 憶測が広がっていくのに、宍戸は嘆息する。
 今日は木曜日。
 実質四日、校内で接触無しでいるという事が、学年も違うというのに異変だと思われる自分達の距離の近さを改めてつきつけられた気分になる。
「鳳が悪いんじゃないんだ」
 お前なんにも言わないってことはと向日が真っ直ぐな視線と一緒に宍戸に放る言葉。
 そうだよ、そうだけどな、と宍戸は言葉にしないで溜息をつく。
「どうしたよ。らしくねーじゃん」
 ん?と小首を傾けて宍戸を覗き込んでくる向日は、本当に見目の可愛らしさとミスマッチなまでに男らしい。
 華奢な指で宍戸の髪をくしゃくしゃにまぜてきた。
「……、んだよ…っ」
「そうそう。そういうおっかない顔してなきゃ宍戸らしくないぜー」
「おっかないは余計だ!」
 遠慮の欠片もなく宍戸の背を叩いた向日は、今度は宍戸のタイを引張って、ぐっと顔を近づけてきた。
「今日は俺とデートするか」
「……お前なぁ…」
 キスでもしそうな至近距離は完璧にわざとだ。
 呆れた宍戸が思わずもらした呟きに、低い関西弁が被さってくる。
「勘弁してや、岳人」
 アホ言うなってつっこんだら本当にキスしてまうやん、と振り上げた右腕で胡乱と前髪をかきあげる忍足に、口調に誤魔化した不機嫌が垣間見えるようで、宍戸は笑いながら向日の肩を雑に押し返した。
「おら、しっかり手綱握っとけ、忍足」
 忍足に背を凭れかけるくらい強く向日を押し返した宍戸は、机に肘をついた手のひらにこめかみにあずけて生欠伸をする。
「こっちはジローが昨日遅くにいきなり泊まりにきて寝不足なんだよ」
「何でジローで寝不足なん?」
「だよな。どうせ寝てたんだろ」
「……何だか知らねえけど、すっげえ構ってくれモードで、喋りまくるわ、引っ付いてくるわで、いい安眠妨害だったんだよ」
 不思議そうな顔をしている忍足と向日にそう説明してやると、二人は顔を見合わせて同じような顔をした。
「………なんだよ」
「かいらしなー、ジローは」
「やり方が動物っぽいけどな」
「おい…?」
 したり顔をする忍足と向日に宍戸は不審気な眼差しを向けたが、それ以上の説明は無かった。
 そしてそんな他愛もないような話をしているうちに、昼休みが終わるチャイムが教室に鳴り響く。
「おっと、次、教室移動だ」
「行こうか、岳人。……あ、それからな、宍戸」
「何」
「早いとこ仲直りせんと、跡部がきれるで」
「………跡部?」
 何であいつがきれるんだ、第一、別にあいつがきれたって、と思った事が全て顔に出たらしく、宍戸に向かって向日が呆れた大声をあげる。
「判ってねえなあ、お前。跡部マジできれるぞ」
「だから何であいつが」
「何でとか言うあたり、宍戸も相当鈍いよな。ついでに教えておいてやるけどな、跡部がきれて、お前んとこに行くわけねえんだからな」
「せやで、宍戸。矛先、お前のわんこや」
 覚えとき、と言って忍足も笑い、向日と一緒に教室を出て行った。
「……んだよ、あいつら。訳わかんねえことばっか言いやがって……」
 呻きながら宍戸はくたくたと机に顔を伏せる。
 昨夜に引き続いてこの昼休みも結局中途半端に眠いままだ。
 わんこねえ、と唇の形だけで宍戸は呟いてみた。
 昔から、取り分け宍戸に従順で献身的な年下の男は、そんな風によくからかわれていたけれど。
 そんなんじゃねえよなあと宍戸は誰に言うでもなく口にする。
 もし、あの男の。
 柔和な態度や、優しい振る舞いや、謙虚な物言いなどを知り、彼を見縊っている輩がいるとしたら、それはひどい誤りだ。
 頻繁にそれを口にする宍戸の友人達は、本当の所を知っている上で言うのだから良いけれど。
 本気で怒った時の、暴力や言葉ではなく、噴出すような感情の気配や。
 丁寧な手が生む、渾身の力。
 色薄い瞳に宿る、艱難。
 そういうものを持っている男だ。
「………………」
 数日前のあの日に、一瞬だけ目にした鳳の凄愴な表情を思い出し、宍戸は喉が痞えるような思いで細い息を吐き出すしかなくなった。









 今改めて、あんなことは、そう無い事なのだと、宍戸は考えている。
 最初のきっかけ。
 知っているのだ、ちゃんと。
 あんな幸運じみた奇跡のような事。
 そのままにしておいたら渇望する執着心で正気でいられなくなるような想いが、生まれたてとほぼ同時期に、相手から優しく掬われたような事。
 だから例え、まっすぐな信頼と、まっすぐな愛情を、惜しみなく宍戸に向けた鳳のやり方がどれだけ判りやすく人の目に映っていたとしても。
 結局は、自分の方が明らかに分が悪いと言い切れる程に、自身の感情が濃いのだと。
 宍戸は判っていた。
 鳳を乞う自分の感情の表し方が、どれだけ判りにくいものかも自覚している。
 だからいつも鳳ばかりが際立ってしまうけれど。
 あれだけ懐かれて、あれだけ好かれて、と言われる事も少なくないけれど。
 その比にならない程なのだ。
 本当の、自分の思いは。
 それは鳳にも伝えきれていない筈だ。
 だから宍戸は、ふと怖くなったのだ。
 今自分の隣に鳳がいることが奇跡的な事なのだと判った上で、少しずつ薄れていくかもしれない鳳の恋愛感情と、普通でない執着じみた勢いで増していくばかりの自分の恋愛感情とに、食い違いが出始める時がくるのが怖くなった。
 今まで当たり前のようにされてきた事が、そのうちに、少しでも普段とは異なる気配を見せるのかもしれないと思い始めると、その思考は常に宍戸を巣食うようになった。
 肩を並べて歩く、テニスをする、電話で話す声、抱き締められ方、キスの感触。
 薄れたら、変わったら、無くなってしまったら。
 その時どうしたらいいのかと宍戸は思ってしまった。
 今宍戸の中にある感情すら伝えきれないうちに、そんな時がきてしまう事も怖い。
 鳳が、薄れたら、変わったら、無くなってしまったら。
 寂しいよな、とひっそり冷えた気持ちを抱えていた宍戸を。
 先週末、鳳は宍戸の部屋で抱き締めながら、思いつめたような顔をして言ったのだ。
 宍戸さんが今何を考えているか教えて下さいと。
 それで、結局あの諍いだ。









 言葉は、難しい。
 気持ちを言葉に代える、もっとうまい方法があるなら知りたいと切に願う。
 口にしている自分でも、その言葉が本当に正しいのかどうか、不安に思う事がある。
 好きも伝えられない。
 不安も伝えられない。
 沈黙は形にならない誤解を生むし、言葉はどこを修正をしていいのか判らない程に取り留めない。
 鳳の腕の中で、宍戸は言葉が見つけられなかった。
 その沈黙は鳳をどう受け取ったのか、肩を掴まれ身体を離された時の喪失感は、それだけで宍戸の頭の中の寂しいいつかの気配と一緒になる。
「お前は、俺が本当に思ってること、知らないだろう」
 どれだけ好きか。
 どれだけ好きか。
「お前は、いいよな」
 惜しみない言葉、惜しみない態度、いつも全部を聞かせてくれて、いつも全部を見せてくれて。
 必ず気持ちの全てを表してくれるから、そこから少しずつ、失われていく過程を見なくてはならない自分とは違う。
 怖い。
 その宍戸の気持ちは、何も鳳へと伝わらない。
 ただ鳳は、そう呟いた宍戸を、本気で怒った。
 握り潰しそうな力で宍戸の肩や腕を掴み、噴出さんばかりの強烈な怒りを滾らせて、目だけはひどく辛そうに。
 あの時に鳳に言われた言葉は回顧を拒否する。
 宍戸は鳳の腕に抗わなかった。
 言われた言葉に返さなかった。
 鳳は宍戸の部屋を出て行った。
 そのまま、四日だ。
 あれから、四日だ。
 悪いのは自分だろうし、鳳が怒ったのも当然だろう。
 ただ、早かれ遅かれこうなったのかもしれないという諦めじみた思いが宍戸にはあって、その気配こそが、周囲を困惑させているという事には気づけずにいた。
 宍戸にその事を告げ、手酷く一喝してきたのは、結局跡部だった。









 翌日の金曜日の放課後、あろうことか昇降口で待ち伏せをされて、宍戸は深々と嘆息し、肩を落とした。
 跡部は尋常でなく整った顔を皮肉たっぷりに歪める。
「溜息つきたいのは俺様だ。この馬鹿野郎が」
「はいはい…俺が悪うございました」
「思ってもいねえこと口先だけで言うんじゃねえ。腹立つんだよ、てめえは」
 コートのポケットに両手を突っ込んで肩をそびやかす跡部の悪態を真横で聞きながら、宍戸はとうとう跡部かと内心で思っていた。
 跡部は、一番こういう話をしたくない相手でもあるのに。
 結局自分達は交互に、幾度となく、こういう話で相手に意見してきた。
 他の連中がいる前では対峙して話す事はあまりない。
 その分二人きりの時は、本音で話すだけだ。
「鳳が離れていくのも当然みたいなツラをお前がしてるから、あいつらが戸惑うんだろうが」
「………そうは思ってねえけどよ」
「同じだ。馬鹿」
 跡部に舌打ちされて、宍戸は苦笑いする。
「でも、嫌なんだぜ。それ」
 怖いとは口にしなかったが、どうせ跡部には伝わってしまうのだろう。
 ぽつりと宍戸が返した言葉には辛辣な切り返しはされなかった。
 跡部が黙るので、またぽつぽつと宍戸は話をし始める。
「あいつなあ……」
「………………」
「俺のどこをどう気に入ったのか知らねえけどよ……もしそれが、何かの拍子に簡単に無くなったり変わっちまうようなものだったりしたら、怖いだろ」
「怖がるたまかよ、てめえが」
「全くだよな……好きすぎるんだろうな」
 本当に、全くだ。
 そして、本当に、好きすぎるのだ。
 自分は、鳳の事を。
 宍戸は改めてそう思い知って、隣に肩を並べる跡部を見た。
 跡部がこの上なく苦々しい顔をしているので、そんな事を言った自分を呆れ返っているのだろうと思った宍戸だったが、跡部の目が明らかに何かを直視しているのに気づき、その視線の先を追い、息をのむ。
「………長太郎…」
「…で? てめえをそうやって腑抜けにさせたあいつを、殴るくらいはしていいんだろうな、当然」
「お前…なに馬鹿言ってんだよ」
 冗談だろうと思いつつも、宍戸が頬を引き攣らせたのは、近づいてくる鳳を跡部が見据えたままだったからだ。
「おい、跡部…」
「てめえがベタ惚れらしい顔は避けておいてやる」
「ば、…っ……顔だけじゃねえ……っ…」
 腹部であろうが足であろうが背中であろうが頭であろうが冗談じゃないと、宍戸は跡部の身体に手を伸ばす。
 ひそめた声で言い合いをする跡部と宍戸のすぐ近くまでやってきた鳳は、いきなり、まるで跡部から奪い取るかのように宍戸の肩を掴んで引き寄せてきた。
 強く引張られて足元のよろけた宍戸を、鳳が回りこんで抱きとめる。
 鳳は跡部に背を向けたけれど、宍戸は鳳に抱き締められたまま跡部の顔を見る事になって硬直した。
「俺は宍戸さんの中のどこか一部が好きなんじゃない」
「………長太郎…、」
「宍戸さんが好きなんです」
 呆れ果てた冷たい溜息、それは跡部の唇から放たれて。
「だとよ、宍戸」
「跡部、…」
「ついでに俺様からも教えておいてやる。他の男の名前口にする場所は選べ」
 俺なら相手半殺しだときつい声音で口にして、跡部は宍戸達を追い越し校外に出て行った。
 現に鳳の腕の力は凄まじく強くなっていて、宍戸は困惑の中うろたえて身を捩らせた。
「宍戸さんが嫌がったって、怖がったって、俺はどんどん勝手に、もっとあなたを好きになる」
「長太郎…?……」
「好きすぎるなんて、そんなの俺でしょう。俺だって判ってる、おかしいくらい宍戸さんが好きだって。それでおかしくもなってるって。だからせめて、宍戸さんを壊したりするような事はしないって決めてる。乱暴なことは絶対しないって、決めてた、でも」
「お…い……長太郎…、…」
 闇雲な力と、矢継ぎ早な言葉に振り回されて宍戸も混乱する。
 場所も、行動も、とんでもない気がしてきて狼狽する。
「あんな風に怒鳴るだけ怒鳴って、勝手に出て行ったような俺に、宍戸さんがうんざりしていても、離してなんかやらない」
 顔が見えない。
 でも、そんなに苦しそうな声を出されて、宍戸はじっとしていられなくなった。
「長太郎」
「脅しでも泣き落としでも今なら何でもやりそうで、そういう自分に自分で呆れてますよ。俺だって」
 でもね、と呻き声と一緒に身体が離れる。
 肩は掴まれたままだった。
 やっと合わせる事の出来た目を見て宍戸は眉根を寄せた。
 鳳が辛そうで。
 ひどく辛そうで。
 こんな獰猛な目をした鳳を宍戸は初めて見た。
「好きだ」
「…………長太郎…」
 好きだ。
 鳳が、そうまで懸命になって告げる言葉を、自分こそ本来ならば、彼の倍は言わなければ伝わらない。
 宍戸はそう思った。
 だから。
 はやく。
 ここではもう、泣き出すのを我慢するのに精一杯で、口がきけないから、だからはやくどうにかしてくれと希う。
 宍戸は一言だけ鳳に同じ言葉を返して、今までの比ではない力で抱き締められてから、あとはもう、一刻も早くどこかに閉じこもりたいとだけ、願って目を閉じた。









 歩きなれた道。
 学校から鳳の家まで殆ど話をしなかった。
 鳳の部屋の扉からベッドまでは殆どもつれ込む様になって、倒れこむ。
 制服をもどかしく脱がせあい、唇を合わせて舌を絡ませあう。
 即物的に手のひらに捕らわれても、そのまま性急に口腔に含まれても、構わなかった。
 自分の身体の何が溶け出していくのか判らない感触だけ怖くて、宍戸は鳳の肌にしきりに触れていた。
 粘つくような手つきの自覚はあって、居たたまれない羞恥心にまみれながらも止められなかった。
 鳳の舌に濡れそぼった箇所はどこもひどい熱をもって脈打っているようで、宍戸は朦朧となりながら鳳の身体の上に乗り上げる。
「……宍戸さん…?……」
「ン………」
 鳳の首筋に口付けながら、足を開き、鳳の胴体を間に置いて膝をつく。
 鳳へと指を伸ばすと、苦しげなそれに指先が触れて、宍戸は小さく啼いた。
 宍戸のしようとしている事を、鳳は全部、見上げている。
 そして宍戸は、そんな鳳を全部、見下ろしている。
 身体より先に視線はもう完全に繋がっていて、だからこそ急くように、そこからも早くちゃんと繋がりたくて宍戸は膝立ちになった。
 拓かれるのとは違う。
 受け入れるだけなのとも違う。
 鳳の顔の両脇に手をついて、自ら含み入れていく触感は生々しかった。
 ひっきりなしに小さな声がもれて、唇が震える。
 宍戸はきつく手元のシーツを握り締めながら、身体を沈めていった。
「く…、…ぅ、…、っ…、…ぅ…、ぁ」
「……宍戸さ…、……」
 その間中、髪を撫でられる。
 何度も、啄ばむようなキスをされる。
 片肘で身体を支えて、肩を浮かし、首を伸ばし、窮屈な体勢でも鳳が甘く与え続けてくれるキスを感じながら、奥深くまで、全部。
 宍戸は自分からも鳳に口付けてから、徐々に肘を伸ばし、腕を突っ張った。
 上半身を起こしていくさなかに、更に、もっと、繋がりが深まるのをまざまざ感じ取りながら、宍戸は最後、揺らめくように背を反らせた。
 両腕が身体の脇に落ちる。
 揺れる。
 染み入るような刺激に肩で息をつきながら、宍戸は目を開けた。
 潤む視界に、鳳を探す。
「長…太郎……」
 もつれる舌で、みつけた相手の名前を呼んだ。
 いつもは見上げている顔を今は見下ろして、浅い呼吸を何度も何度も宥めては、一つの言葉を口にし続けた。
「……好き…だ…」
「宍戸さん」
「好き、だ…」
 鳳が息を詰める。
 宍戸の体内にある熱の存在感が膨れ上がる衝撃に震え慄きながら、宍戸は繰り返した。
 好きだ。
 でも、伝えきれない思いの方がやはりまだ強くて苦しい。
「好きだ…、……」
 言葉から零れてしまう気持ちが辛い。
「お前が…、……好きだ……」
 溢れて溢れてどうしようもないのに、鳳に全て流せていないのが怖い。
「長太郎、」
 嫌だ、もう、と首を振って涙を振り零して、宍戸は身体をぎりぎりまで浮かせる。
 のけぞったまま首筋を反らせて一気に身体を落とす。
 嗚咽が伸びて、喉から高い泣き声がか細く響いた。
「…、ッ……宍戸…、さ……」
 身体の深くまで鳳をのんで、大きな手のひらに鷲掴みにされた腰だけで身体を支えられ、宍戸はびくびくと肢体を痙攣させる。
 どうやったら伝えられるのか判らない。
「宍戸さん……、待って、泣かないで…どうしてそんなに泣くの」
「……、っ……ぅ…」
「……宍戸さん……辛い…?」
 お願いですからちょっと待ってと掠れた声に哀願されて宍戸は鳳に視線を合わせた。
 餓えた顔で、愛しいと食い入るように訴えてくる雄弁な眼差し、それが、自分にも欲しかった。
「…、っ…く……」
 無理しないでと鳳は言ったけれど、無理ではないから宍戸は聞かなかった。
 鳳の腹部に手をついて、また身体を浮かせていく。
 信じられない拓かれ方をしている箇所を更に擦られて、両腕が震えて震えて止まらない。
「宍戸さ…、……」
 喉を鳴らし、息を詰める鳳が、片腕で宍戸の腰を支えつつ、もう片方の手では宍戸の動きを食い止めようとする。
「お願い……無茶して、壊したくない…」
 懇願する鳳を、宍戸は泣き濡れた目で睨みつけた。
「……これ…で…も、…足りない」
「宍戸さん」
「壊れても、…無茶でも、…俺が、お前を好きだってことと、…これっぽっちも…釣り合わ…ね…よ…、」
 宍戸の中に在るもの。
 鳳へ差し出してしまいたいもの。
 どうやっても見合わない。
 その気持ちを正しく等しく表せる方法が見つけられない。
 だからずっと不安で、怖かったのだ。
「…長太郎」
 好きだ、と口にして、涙を零す。
 繰り返す。
 好きだ、そう告げて、浅い息を継ぎ、泣いて、感じて、嗚咽と恋情に濡れる。
 もう本当に、どうにかして欲しかった。
 気持ちを自分で表しきれないもどかしさに、宍戸は、それならばもう例え強引にでも構わないから、鳳に命じてしまいたくなる。
 引きずり出して奪えと、止め処もない自分の恋愛感情に慄いて宍戸が自分の胸元に片手を当てて鳳を見つめた時だ。
「………ッァ…ぁ…ア、…っァ」
「……、……っ…宍戸…さん」
「ひ、ッ…、…っ……ぅ…、」
 物凄い力で下から突き上げられて、宍戸は断続的な痙攣と、不規則な声でバラバラにされかけた。
 鳳の腕は宍戸の腰から宍戸の両方の二の腕へと移っていた。
 二の腕を鷲掴みにされて、そこだけを支えにしてきつく体内を抉られる。
 動きのあまりの強さに首から頭が揺さぶられた。
「ん…、っ、く、ぅっ…、ァっ…」
 送り込まれる動きと共にベッドへ押し倒された。
 すでに行き場のない所へ尚も強引に入り込まれたようなあまりの衝撃に宍戸が震えながら吐き出している間も、鳳は動きを止めなかった。
 長い指が、大きな手のひらが、宍戸の泣き濡れた頬や目元を撫でまわす。
 壊れたようになったのは、身体ではなく感覚だ。
 触れられた顔の皮膚でも感じ入って、宍戸は半ば意識を飛ばしながら、鳳の手のひらに口付けて、舌でそこを舐める。
 鳳も宍戸と同じ感覚を覚えたようで、宍戸の中で強張りが液体とも固体ともつかない熱を吐き出してきた。
「…、…っ…ふ、…っぅ…、…く」
「好きだ、」
「…ッ……ぁ……、ぁ…、長太郎……」
「好き…なんです……宍戸さん。本当に、俺はどうにかなりそうで…」
 鳳は言った。
 宍戸の名前も、好きだという言葉も、何度も口にした。
 鳳の腰を、広げた両足に挟み込んで、まるで鳳の執着のように吐き出されてくるものを受け入れながら、宍戸は頷く。
 同じ回数。
 好きだと告げられた回数。
「……長…太郎…」
「ん、……宍戸さん…」
 もつれた舌を吸われる。
 唇をひらく。
 深くなる。
 強くなる。
「こんなことして…」
 宍戸さんに嫌になられたら俺はどうしたらいいんですかと、当の宍戸に向かって恨み言を言う鳳の頭を宍戸は震えの止まない両腕で抱き込んだ。
「………のが…いい」
「…宍戸さん?」
 ほんの少しも、宍戸に乱暴などしたくないのだと思っている鳳を知っているけれど。
 宍戸は両腕で、鳳に取り縋る。
 懇願するように力を込める。
「たまにでいい……こうされないと、…どうにか…なる、から…」
 自分自身で表しきれないのだ。
 鳳を、好きすぎる気持ちを伝える術に迷うのだ。
 それならば、どれだけの無茶をされてもそれが嬉しいのだという身体と態度で判られたい。
 宍戸の望みを聞いて、鳳は困ったような吐息を零したけれど。
「そんな、つけ上がらせないで下さい」
「……なんで?」
「俺、宍戸さんが好きすぎて、普通じゃないでしょう。どう見たって普段から」
 それなのにまだ許されたら本当に何するか判らないと告げてくる鳳の胸元におさまって、宍戸は呟いた。
「だから普通じゃないくらい好きなのはこっちなんだっての」
「宍戸さん?」
 こうしてゆるく抱き込んでくれる腕も心地いい。
 でも、欲しいだけ全部貪られる事も望んでいる。
「長太郎」
「はい…?」
「もう一回」
「だから………ねえ、宍戸さん。俺の話聞いてますか?」
 情けない声を出す鳳に宍戸は笑みで返して、聞いてる、と言いながらキスをした。









 喧嘩をしても、冷戦状態を経て、仲直りをしても。
 好きだとうんざりする程に、告げあったとしても。
 まだ完全に、恋愛感情にただ甘く浸りきれないこの気持ちを、ゆるく和んだものにするには、長い長い時間がかかるらしかった。
 少し落ち着くだけのことに長い長い時間が必要らしかった。


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 宍戸にとって最悪だったのは、準レギュラーの二年生達がしていた噂話そのものではなく、その直後に自分の目で見た光景だった。


『鳳の奴、この間転入してきた子とうまくやってんだって?』
『ああ、すごいらしいぜ。転入初日に、鳳の方から声かけたらしいから』
『珍しくね? あいつ女共から優しい優しいって言われまくってるけど、今まで自分からはそういう事しないタイプだったじゃん』
『だからマジなんだろ。最近なんかもう、しょっちゅう二人で話してるとこ見るぜ』
『転入生って、黒髪のロングヘアの子?』
『そうそう。スタイルめちゃくちゃよくって、見た目かなり気ぃ強そうなんだけど、鳳と話してる時は結構可愛い』
『……あー……てゆーかさぁ、あの子、………似てね?』
『あー……宍戸先輩にだろ? 俺も思った』
『マジ似てる。結構背あるし二人で並んでると、あれ?って思った事何度もあるぜ』
『スカートはいてんのにな』
『まあ、ある意味、鳳の好みは徹底してるって事だな』


 こんな話を偶然聞かされた時は、何言ってんだこいつらと思っただけだった。
 朝練の後、正レギュラー用の部室を最後に出た宍戸は、別室のレギュラー以外の部員の部室前でそんな話をしている後輩達に呆れ返った視線を指し向けた。
 話の後半に、自分の名前が出てきて。
 よほど、馬鹿言ってんじゃねえと割って入ろうかと思ったが、結局馬鹿らしいと思って素通りした。
 そんな宍戸に気付いたらしく、後輩達の噂話は水を打ったように、ぴたりと止まった。
 つくづく馬鹿らしい。
 その時宍戸はそう思ったのだが。
 教室に戻る途中、渦中の二人と思しき男女を見つけてしまったのだから、どうしようもない。
 最悪だった。
「………………」
 何となく、すぐに。 ああ、あの子がそうかと判ってしまった。
 そういえば珍しく朝練の後、鳳はすぐさま部室を出ていった。
 宍戸に声をかけないというのが更に珍しくて。
 さすがに宍戸も微量の違和感を感じていた。
 その直後にあの噂話を聞き、そして。
 申し合わせたように遭遇だ。
「………………」
 あまりいい気分ではなかった。
 怒りと違う苛立ちが重く胸の内を占める。
 自分の心中がうまくつかめない。
 ひどく慣れない心もとなさがあった。
 咄嗟に宍戸は中庭にいた男女から視線を外し、彼らに気付かないで先を行く振りをした。
 その時に宍戸の視界を掠めた鳳が。
 その時の、宍戸の最悪な心情にトドメをさした。
 鳳は宍戸に気付いたようだった。
 恐らく、その気配がしたから間違いない。
 その彼が取った行動は咄嗟に強く狼狽えて。
 まるで宍戸から隠すように、その少女に手を伸ばし、自分の背後に置いたのだ。
 致命的だ。
 宍戸は重い溜息と共にそう思った。




 好きだと言われた。
 テニスをした。
 キスもした。
 ダブルスを組んだ。
 好きだと言われた。
 一緒に帰った。
 笑顔だった。
 試合をした。
 真剣だった。
 抱き寄せられた。
 すぐに離れた。
 尊敬してますと言われた。
 好きですと囁かれた。
 無茶しないで下さいと心配された。
 メールがきた。
 目を逸らされた。
 おはようございますと言われた。
 何も話さなかった。


 どれも普通のことで。
 どれも特別なことではなくて。
 どれも意味はない在り来たりのこと。
 それだけだったのかもしれない。
 そういうことだったのかもしれない。




 怒りに挿げ替える事も出来ず、心に留めずに流す事も出来ず、宍戸は鬱々と考えた。
 鳳の事はどうでもいい相手ではないから、言い様のない淀みはいつまでも晴れない。
 多分これが嫉妬心だという事は宍戸も認めていて。
 しかし、少なくとも宍戸がこれまで生きてきて一度も体験した事のない嫉妬心というものは、こうなっては強く燃やしてもどうしようもないものだと宍戸は知っているから。
 これは、宍戸の中で無くしてしまうしかないものだと判っているから。
 腹はたたなかった。
 でも持て余した。
 それが結局、宍戸が鳳と距離を置くという行動になって現れた。
 ただなまじ宍戸が怒っている様子もなく、ただひどく冷静なものだから。
 鳳と宍戸の間に微妙に出来た溝に気付いた者達も。
 どうしようもなかった。
 何やってんだお前らと、とうとう跡部に睨まれても。
 宍戸は苦笑するだけだった。
 あの跡部の追求ですら、そこで完全に断ち切ってしまう威力の、苦い笑みだった。






 一見波が立つ事無く、静寂のまま数日が過ぎた。
「宍戸さん。話があるんです」
「なんだ?」
 裏門にいた鳳の方を見ながら実際は目線を合わせず答えた宍戸の声には、別段棘も気落ちもない。
 こんな風に返せるようになったのかと宍戸自身が関心した程だ。
 ただ、どこか悪あがきのように、鳳の顔は直視できなかった。
 ここの所ずっとこんな感じだ。
「話があるんです」
「だから何だよ?」
 今日は部活のない日で、する事もなく。
 宍戸は授業が終わってすぐに校舎を出てきたのだが、鳳はいつからそうしていたのか、門扉に寄りかかって宍戸を待っていたようだった。
「黙られたら判んねーけど…?」
「…………………」
「……、…っ…ィ…」
 鳳の指に、手を握りつぶされそうになった。
 加減なく手の甲を握り込まれた宍戸がさすがに顔を上げ、真っ向から鳳を見上げた。
「お前、……!」
 眉を顰めた宍戸に、鳳が強張ったような顔をする。
「…………すみません」
「ま……いいけどよ」
 パッと鳳に放された手は、冗談でなく痺れている。
 宍戸は溜息をついた。
「宍戸さん」
「だから何だよ?」
「……待って。逃げないで」
「逃げてねーよ」
 逃げてねーだろと畳み掛けて宍戸が繰り返すと、違うと言って鳳はやけに必死な目をする。
「俺から」
「………………」
 離れていかないで、とどこか探るような慎重な声音で囁かれた。
 まるで逃げ場を無くしているかのように、鳳が宍戸との距離を詰めてくる。
「………おい…」
「どうしてそういう顔するんですか」
「そういう…って……」
「俺の事もうどうでもいいって目で見てる」
「………………」
 宍戸が静かに息を飲む。
「違うって言ってくれないんですか」
「長太郎、」
 金属の門扉が背中にぶつかる。
 鳳が宍戸の身体を拘束するように鉄柱を握り締め長身を屈めてくる。
 落ちてこようとしているのは唇で、まさかこんな所でそんなという気持ちと。
 それ以前に、と思う気持ちで宍戸は咄嗟に鳳の制服を片手で握り締めた。
 そのまま肘を伸ばし、腕を突っ張らせる。
「…………バ、…」
「……するな、ですか」
 聞いた事のないような鳳の声に、宍戸は、ざっくりと傷ついた。
 鳳の制服を掴み締めた手が、馬鹿みたいに震えてぶれた。
「………俺にも…まだ、するのか」
「…………宍戸さん?」
 呻くような掠れ声は独り言の域であるのに。
 鳳は的確に拾って、やはり強張るような小さな声を出した。
「俺にもって何です」
「………………」
「宍戸さん」
「………何でもねーよ」
「宍戸さん」
「何でもねーよ。もういいや」
 ひどく疲れたような気になって宍戸は呟いた。
 諦めるように吐き出した言葉に、鳳は過剰すぎるような反応をした。
「もういいって俺の事ですか」
「………………」
「俺はよくない」
 ガシャンと大きな音が宍戸の頭の裏側でした。
 門扉を両手で握り締めた鳳が、激情にかられるように激しく門を揺すったせいだった。
「いきなり距離とられて」
「………………」
「俺の事どうでもよくなったみたいな扱いされて」
 そんな低く切羽詰ったような鳳の声を聞くのは初めてで、宍戸は吐息を零す。
 それをまるで呆れた嘆息と見てとったような鳳は、一層手加減鳴く宍戸に踏み込んできた。
「あなたが俺を鬱陶しくなってるとしても」
 何言い出すんだこの馬鹿はと宍戸は目を閉じる。
「キスなんか二度とさせたくなくなったとしても」
 だってそんなのする方が傷つくだろうがと。
 声には出さずに頭の中だけで宍戸は告げる。
「……宍戸さんがそうやって泣くくらいでも」
 誰が。
 泣くか。
「宍戸さん」
「………………」
 誰が。
 閉じた瞼の中にあるものになんか気付くのか。
 誰が。
 その在り処を知っているかのように、唇を瞼の上に押し当ててくるというのか。
「誰が。逃がすとでも思ってるんですか……!」
 誰が。
 この振り絞るような声を。
「………、…」
 突き放そうとした側から力づくで抱き込まれた。
 もがいたまま抱き竦められた。
 それでも全力で鳳を引き剥がそうと両腕に力を込めて突き放した筈の男が。
「…………ッ…、…」
 初めて聞いた舌打ちと共に、宍戸の身体をそれ以上の力で背後の門扉に拘束する。
 したたかに背に金属が打ち付けられた痛みと、鳳の手の中で握り潰されそうにされている両肩の痛みは同じくらい酷かった。
「………宍戸さんが、本気で嫌がってるって、ちゃんと判ってます」
「……っ……」
 でも、と鳳は低く吐き捨てた。
「逃がさない」
「……………」
 宍戸にだって判った。
 鳳がどれだけ本気でいるか。
 判るから余計に。
 身体中が冷たくなる。
 全身から力が抜ける。
 震えが止まらない。
「宍戸さん」
 力任せに抱き竦められる。
 背中をかき抱かれる。
 宍戸はもう何の抵抗もしない。
 もう何も出来ない。
 唇を塞がれても、無抵抗だった。
「………、………ですか……っ…」
 奪い取ったのと同じ激しさで離れた唇の合間で、鳳の悲しく痛ましいような声がしたが、それもどこか神経を素通りしていくだけのようにしか宍戸には思えなかった。






 明らかに鳳と宍戸の関係が不自然なのは誰の目にも容易い事で、そのくせ個々で見てみれば二人はそれまでとあまり変わりなく日常を送っているようにも見えた。
 そういう客観的な意見を、他意なく毒もなく言える稀有な仲間はコイツくらいだろうなと宍戸は思った。
「喧嘩なの? 亮ちゃん」
「リョーちゃんは止めろ」
 いい加減聞き慣れたけれどと思いながら、宍戸はジローの癖毛に手をやって、軽く自分から引き剥がした。
 懲りずにジローは一層抱きつくように宍戸へ腕を伸ばしてくる。
 ぎゅっとしがみつかれて宍戸は諦めた。
「はい。ムースポッキー」
 いらないと言うより先に口に押し込まれて宍戸は溜息をつく。
「ジロー」
「あんまり飯食ってないね。亮ちゃん」
「…食ってるよ」
「ちょっと詰まったから嘘だし」
 昼休み、宍戸がジローにつれて来られたのはジローお気に入りの昼寝スポットだとかで、日当たりがよくてうまく死角に入っている低木の下だ。
 一緒に昼寝しようという誘い文句の通りに、ジローは木陰で宍戸の肩に凭れるように目を閉じた。
「鳳、相変わらず亮ちゃんと似た子と一緒にいるの、よく見かける」
 「………………」
 全然楽しそうじゃないけど、と目を閉じたままのジローの口から続いた言葉に宍戸はリアクションが取れない。
 それを聞いて、痛くて辛いような気もするし、どこか安堵に似て納得しているような自分もいる。
「亮ちゃんも寝よ」
「………………」
 そうやって促されるまま。
 宍戸は樹の幹に寄りかかり、足を投げ出したまま目を閉じてみた。
 肩口にあるジローのやわらかい髪が少し擽ったかった。
「どういう噂流れてるか聞いとく?」
「………ああ」
 宍戸がぽつりと答えると、どうやらジローはひどく驚いたようだった。
「うっそ。なんで? マジで?」
「お前が聞いたんだろ」
「そだけどさ。いつもの亮ちゃんなら絶対興味ないって言うじゃん」
「じゃあ、いつもの俺じゃないんだろ」
 自棄でも何でもなく、寧ろ冷静に宍戸は言った。
 自分でもよく判らないのだ。
 自分からだけでなく、鳳からも避けられるようになっている、ここ数日間の出来事に至っては尚更。
「んーとねえ……殆どは彼女絡みの話だよ」
「へえ…」
「………………」
「続きは?」
「……忘れちゃった」
 何だそりゃと宍戸は笑った。
「…俺、鳳のこと嫌いになった」
「嘘つけ」
「本当だし」
 こんなにこんなに亮ちゃんのこと傷つけた、とそう言って。
 ジローは宍戸の手を握った。
 宍戸が目を開けて横目で伺うと、目を瞑ったままジローは泣いていた。
「…あー…よしよし」
 何で俺が慰めてんだと、宍戸は半分おかしくなって笑った。
 あとの半分はつられて泣きそうになって困った。






 噂というのは増長するもので、結局その日の放課後の部活中にはもう、宍戸の耳にもそれは届くようになっていた。
 二百名近くも部員がいれば、その同じ部内の二人に纏わる噂など簡単に広まる。
 人数が多い上に、一握りのレギュラー陣に関する話ならば尚更の事だ。
 あれだけ親密だった鳳と宍戸が仲違いを起こしているのは、宍戸によく似た鳳の彼女を巡ってのことらしいというのがその噂の大半で。
 普段が温厚で従順な分、鳳の方を責めるよりは、宍戸の方に非があると言う内容の方が多かった。
 浮ついた雰囲気を跡部が一喝してからは大分マシになったが、その日の部活が終わればまた堰をきったかのようにその話題で持ちきりになるのは火を見るより明らかだった。
「宍戸。来い」
「………………」
 部活が終わるなり跡部に呼びつけられた宍戸は、頭を揺すって飛ばした汗が少し目に染みて、顰めた目元で跡部を見据えた。
 機嫌の良い声でないのは明白で、レギュラー陣の中からも無言の注目が二人に集まる。
「………………」
 宍戸は頷き、すでに背を向けている跡部の後に続いた。
 レギュラー専用の部室にはロッカー室以外にも部屋がある。
 跡部は普段ミーティングに使う一室に入り、いつもの定位置である椅子に座った。
 背後にはプロジェクター用のスクリーンがある。
「………………」
「なんだよ跡部」
 組んだ両手の指を口元に押し当てて、剣呑と睨みつけてくる跡部に宍戸は溜息混じりに言った。
 すると跡部も溜息をついた。
「肩どうした」
「………………」
 予想していたのとは少しばかり違う事を聞かれ、宍戸は微苦笑する。
 跡部は他人のメンタルの甘さにフォローを入れるような男ではない。
 いっそ気が楽だった。
「痛みはねえよ」
「そうでなけりゃ、やらせねえよ」
 見せてみろと顎で促され、宍戸は珍しく反発する気も起きず、言われるまま汗だくのウェアを脱いだ。
 その下に、いつもは着ないアンダーシャツがあって。
 それも脱いで自分の肩越しに、宍戸は自身の背面へと視線をやる。
 跡部が立ち上がって回り込み、無造作に宍戸の背中を見た。
「…………ちょ…、…おい、」
 舌打ちした跡部がいきなり隣のロッカー室へ飛び出ていって宍戸はぎょっとする。
「跡部、」
 つられて自らも部屋の外へと足を踏み出した宍戸は、鳳の胸倉を掴んでいる跡部に唖然とする。
「何の真似だ。お前」
 あいつをぶっ潰す気なのかと鳳を低く恫喝する跡部は相当腹をたてているようで、言うだけ言うと手荒に鳳を突き放した。
 他のレギュラー陣の姿はなかった。
 跡部はまるで、鳳だけがそこにいると、知っていたかのようだった。
 張り詰めた緊張感の中。
 何か声を発するのが憚られるような静寂の中。
 されるがままだった鳳の目線が動く。
 跡部から宍戸へと移ってくる。
「………………」
 ほんの数日ぶりかにまともに目線を合わせたような気になった。
 鳳は宍戸を見て、ミーティングルームで上着を脱いでいるとは思わなかったのか、大きく目を見張った。
「………………」
 宍戸も動けなくなり、ただ鳳を見返すだけだ。
「あいつの背中、お前だろ。鳳」
「背中…?」
 馬鹿、と宍戸が跡部に向けて叫ぶ前に。
 鳳が宍戸の元へ足早に歩み寄ってきた。
 跡部は後は勝手にしろと言い捨てて出て行った。
「………………」
 そうしているうちにもう。
 鳳は強張った顔で宍戸の前に立っていた。
 まるで躊躇うように。
 どこかぎこちなく、鳳は腕を伸ばしてきて。
「………………」
 宍戸の肩を掴んだ。
 そのまま引かれ、宍戸の右肩が鳳のジャージの胸元に当たる。
 自分の頭上で鳳に見られているのを感じて宍戸は息を詰めた。
 それよりもっとはっきりと、鳳が息を飲んだ気配が伝わってくる。
「………、…」
「………………」
 実際そこに痛みがないのは本当で。
 だからこそあまりの派手な痣に驚いたのは宍戸自身だった。
 宍戸の背中、肩甲骨に。
 千切られた羽跡のように青い痣を。
 生々しい血の色のように赤い痣を。
 残したそれは、鳳に裏門の門扉に背を打ち付けられた時の名残だ。
「………宍戸さん」
「……見た目だけ無駄に派手なだけだ」
 鳳の声音があまりに胸に痛くて、宍戸は力ない声で、言葉を選ぶ。
 鳳の、そんな声が聞きたいんじゃない。
 生真面目で、気の良い、真摯で、優しい男だから。
 誰より、宍戸につく傷を気にする男だったから。
 こんなもので責める気はなかった。
「………………」
 そっと鳳の胸を押し返す。
 鳳が、よりにもよって自分に似た相手を選んだ事を、今でもどう、受け止めていいのか判らないけれど。
 鳳が宍戸を切り捨てられないなら。
 宍戸から。
 今まで創ってしまったお互いのこの関係を、単なる友人であるように、戻す方法がある筈で。
 本当は、もっとうまく。
 もっと自然に。
「………………」
 でもはっきりと。
 言葉で終わりにするのは宍戸だって怖かった。
 宍戸の方が、怖かったのだ。
「……宍戸さん」
「………………」
 鳳の胸元に当てていた手のひらを逆に握り込まれる。
 震えるような長い指の感触に宍戸が顔を上げるより先に、宍戸は鳳によってミーティングルームに押し込まれた。
 鳳は後ろ手で施錠し、その音と同時に、密室で膝をついた。
 宍戸の前に。
「………長…太郎、?」
 震えているような両手が宍戸の腰を抱きこんで、薄い腹部に額を押し当て、しがみつくような強い力を込めてきた。
 そんな鳳の、色素の薄い髪の色合いを腹部に落とし見て。
 宍戸は掠れた声で呼びかける。
 自分の前で膝をついて、こうべを垂れて、逃げられたくないと懇願する力で縋りついてくる鳳を。
 問いたい思いがあると思ったが、思う側から言葉にならず、宍戸はただ愕然と見下ろした。
「…………、だ…」
「………………」
「好きだ……!」
 慟哭のように鳳は呻き、言葉を迸らせる。
「もう、絶対あんな真似しないから…!」
「長太郎…?」
「乱暴な事しない。あなたに、あんな傷つけたり、力づくで言うこと聞かせようとしたり、しない。脅したりも、しないから……だから」
 切願してくる鳳の震えは泣いているのかと危ぶむ程で、宍戸はその広い背中に手を置いた。
「…………っ……」
 乱暴をされた覚えはない。
 傷つけられた覚えも、力づくで言う事を聞かされそうになった覚えも、脅された覚えも、ない。
 何を言っているのかと怪訝に思う宍戸の唇から、しかし漏れた言葉は。
 自分自身、まるで予測していなかった、結局は限界まで追い詰められていた宍戸の心情の脆さを吐露するような言葉だった。
「………お前が…捨てたくせに」
「…………宍戸さ…?…」
「俺を、お前が…捨てたくせに」
 それなのに、何言って、と。
 もう声にならず、唇の形だけで言う。
 ただ相手を責めるだけの言葉。
 結局これだったのかと宍戸は思った。
 平気な振りをし続けた自分が、絶対に言いたくなくて、絶対に隠したかった、本当の事。
「宍戸さん…」
 何言ってるんですか、と鳳もまた、声にならない声で同じことを口にする。
 膝をついたまま顔を上げた鳳の頬に、宍戸は水滴を落とした。
 宍戸の目から零れたそれは、鳳の頬を伝って、気化した。
「…………、」
「……っ………ン…」
 宍戸からのそれを頬に受けた鳳の目が、きつく眇められ。
 宍戸は引きずりおろされるように頭を下からかき抱かれた。
 唇が合わせられる。
 舌が強く絡まる。
 互いの髪を握り締め、頭部を抱き込んで、尚口付けあった。
 生々しく呼吸が乱れ、唇が滲むように濡れた。
 ギリギリまで口付けを引き伸ばす。
 息も、もう儘ならなくなるまでキスだけをずっと。
「……どうしてそんな、」
「…………っ…、……」
 そう言いかけ、すぐに、言葉だけを使うのがもどかしいように、鳳が、ふっつりと声を途切れさせる。
 苛立ったように立ち上がり、鳳は大きなミーティング用テーブルの上に宍戸の身体を倒した。
 着衣を乱しながら、キスを繰り返しながら、その合間で鳳は宍戸への問いかけの続きを口にする。
「捨てたって何です」
「……、…ァ…」
「宍戸さん」
 鳳の荒い息にくらくらして、煽られて同じようない気遣いになっている自分にも眩暈がする。
 宍戸はもう、ただどうしようもなく鳳にがっつかれている自身の身体を、体感しながら全て鳳の目の前に晒すしか出来なくなる。
「…、…女…、…」
「…………女?」
 喉を噛まれる。
 痛みよりも鋭く、確かな甘みでもって脳裏に突き刺さってくる刺激に、宍戸は肩を喘がせる。
「つきあ……て……る、だ……ろ……」
 だから、と声を振り絞った宍戸に、鳳が全てかき消すように矢継ぎ早に言う。
「女? 付き合う? 誰がですか」
「……おまえに…決ま、…」
「宍戸さんが好きなんですよ俺は…!」
 一層耐えかねたような声で怒鳴られ、胸元に噛みつくように吸い付かれ、勢いのまま下肢を露にされる。
 こんな場所でまさかと宍戸が思っているうちに、鳳は自身の長い指を二本、宍戸の目の前で口に含んだ。
「…………ッ…」
 こんな荒いだ、雄めいた鳳を宍戸は知らない。
 そのまま、鳳のその指に。
 深く体内を抉られ、宍戸は声を詰まらせた。
 音でもしそうに押し込まれた節のある長い指の。
 生々しい感触に、何度も何度も腰が震えた。
「く……ぅ…っ…、…っ」
 我慢できない痛みではなかったが、激情につられるようにして眦に滲んだ宍戸の涙を唇で吸い取り、鳳は深々と埋めた指で宍戸の内部を探り出す。
「……っは…、…ァ…、っ」
「酷い事…してばっかりだけど…」
「…ぅ……、ぅ……っ…ふ、ぁ、」
 目元に、こめかみに、唇の端に、頬に。
 降るようなキスが繰り返される。
「宍戸さんが好きで、…好きで、…もう本当に、それだけなんだ。…俺は…」
「………長…太郎……?…」
 熱の迸るような囁きも浴びせかけられて、宍戸は必死に、切れ切れになる息をかき集めた。
「付き合ってるって……もしかして髪が長い子?」
「………、…」
「昔の宍戸さんに似てる子の事?」
 鳳の口調は、ふと思い当たった事を口にしながらも、合点がいったというよりは一層苦しげなものになっていく。
 それならどうして判らないんですかと。
 鳳は宍戸の唇にキスを繰り返しながら呻いた。
「髪の長かった頃の宍戸さんと、まるで同じ髪型にして」
「………ぁ、っァ」
「転入してきてから殆ど毎日テニス部の練習見にきてて。……それで、どうして? 彼女が宍戸さんの事を好きなのは、すぐ判る事じゃないですか」
 それでそうして俺となんて考えるんですと鳳は力を入れながら宍戸の体内から指先を引き出してきた。
「……ひ…っ…ぁ」
「…彼女が、転入してくる前から宍戸さんの事を知っていて。大会で見かけて、同じ髪型にするくらい宍戸さんの事を好きで。そういう事が、俺にはすぐに判ったから」
 だから、と鳳は宍戸の髪を撫で付けるようにかきあげた。
 そのまま手のひらの中に宍戸の顔を封じ込めるように包んで。
 耐えかねたような声で鳳は吐き出す。
「あなたに近づけたくなかった」
「………………」
「会わせたくなかった」
「長太郎……」
「それしか考えてない…!」
 ぶつけられた鳳の嫉妬は。
 宍戸に、存分に、甘かった。
「………………」
 鳳が不安になる要素が、いったいどこにあるのか。
 宍戸にはさっぱり判らなかったけれど。
「……まぎらわし…んだよ…オマエ…」
 泣き笑いの顔で言ってやれば。
 鳳は笑いもせず、餓えた男の顔で、好きだと繰り返し言った。
 何度も何度も繰り返し言った。
 そうやって浴びせかけられる言葉に打たれて、宍戸は鳳の背を抱き寄せる。
「……………宍戸さん…」
「……ッァ…、っ…ぅ」
 ぐいっと身体の中を強く通されたものの刺激に宍戸は仰け反った。
 鳳の腰が宍戸を深く拓いてくる。
「く……ん…、っ、…ぁ…っぁ…」
 宍戸の両足はテーブルの縁からは落ちているが、床につく事は無かった。
 すんなりと伸びた腿から痙攣を繰り返し、爪先が宙で跳ね上がる。
 両足の挟間には鳳の腰を挟んでいて、テーブルへと押し戻されるように幾度も突き上げられた。
「…っぁ…ア、…っ…」
「……宍戸さん」
「ぅ……、…っ、ン、っ…」
「離れないで…」
 こんなんで。
 いったいどうやって離れるのか。
 どうやれば、いったいどこが、どこから、離れられるというのか。
 宍戸は鳳の首にしがみついた。
 ここの声が外に漏れないのは知っているが、この後自分がどうなるのか判らなくてきつく唇を噛む。
 そんな宍戸を鳳の声が駄目にする。
「……好きだ」
「………、ふ、っ…ぁ、っ」
「宍戸さん」
「…、ぅ、ァ、っ、」
 耳の縁を噛むようにされながら、溶け出しそうな熱い息と言葉がぶつかってくる。
 身体のそこらじゅうで、爆ぜた感触がした。
「……………、…!…」
 開ききった咽喉から迸らせた筈の声は完全なる無声。
 大きく目を見開いている筈の宍戸の視界には、何も見えていなかった。






 何度も髪を撫でられているうち、次第、正常な呼吸を思い出していくように。
 宍戸は身体を弛緩させていった。
 睫毛もひどく重たいような気分で瞬けば、漸くお互いの視線が絡まった。
「宍戸さん」
「……………」
 それもつかの間、鳳の長い腕に、宍戸はきつく抱き締められる。
 鳳の胸に抱きこまれ、再び宍戸の視界は暗くなる。
 先程と違うのはそれでも宍戸に意識があることで。
 宍戸は無意識にだるい腕を持ち上げ鳳の髪へと指先を沈ませた。
「……どこか辛くは…?」
 真摯に気遣う鳳の声に宍戸は首を振る。
「いや……」
「すみませんでした。無茶…しました」
 痛ましげに触れてくる鳳の指先が辿っているのは宍戸の背中の跡である。
 しかし気がかりは何もそこだけではないようで。
 苦渋の滲む鳳の声に宍戸は本心から言った。
「……たいしたことねーって…」
 ふうっと息を吐いて、宍戸は自分の肩口に顔を埋めていた鳳の顔を上げさせた。
 視線が噛み合うと鳳の双瞳が引き絞られる。
「………宍戸さん」
「……もうそういう顔すんなって」
 もういいなんて二度と言わねえよと鳳へと囁くように宍戸は口にした。
 これが鳳を激情させる言葉だったことは二度と忘れない。
 傷つけ、追い詰める言葉だという事を。
 そしてもう二度と言わない。
「………お前さ…本当に彼女とお前が付き合ってるっていう噂知らなかったのか」
「知りませんそんな事」
 怒っているように真剣に鳳は言った。
 宍戸でさえ耳にしたあれだけの噂を、まさか当の鳳がまるで知らないでいたという事には正直宍戸も驚いたが。
「彼女は……俺の事も知ってたから。そういう意味で気安く話してたけど、言ってるのは皆あなたのことで」
「…………………」
「初めて見た時に、彼女が宍戸さんの事を好きなのは俺にはすぐに判ったし。…それでも、確かめたい気持ちもあって、最初に話しかけたのは確かに俺ですけど。あれだけ宍戸さんの話しかしてないのに付き合ってるなんて噂がたってるなんて思いもしなかった」
「長太郎…」 
「テニスにも詳しかったし。ミーハーな所がなくて、本当に、ちゃんと、宍戸さんが好きだって。そういうのを聞いて、絶対に宍戸さんと接点持たせたくないって思ったんです」
「…………………」
「俺は……宍戸さんの事しか考えてない。どうしても、あなたをとられたくない。それだけだ」
「………馬鹿か。誰が俺を取るってんだ」
 鳳は微かに笑って首を横に振る。
「宍戸さん」
「………………」
 丁寧で優しいやり方で抱き締められ、二人でほっと息をついくような瞬間を共有してから。
「……そういや……着替え…」
「宍戸さんは出ないで」
 俺が悪いんですからと宍戸を宥めるような声で鳳は微苦笑する。
「俺が取ってきます。ここにいて下さい」
 扉を開ければすぐにロッカー室だ。
 暴走を認めているのは何も鳳だけではない。
 宍戸も相当な羞恥心を抱えながら、扉の向こう側の事を考えると頭が痛かった。
「でもよ…長太郎」
 どうせなら一緒に、と腹をくくった宍戸に軽くキスをして。
 ここにいて下さいと鳳は言った。
「見られたくないんです」
「………いつもさんざ見てるだろうが」
 ほぼ毎日ここで着替えをしているのだから今更な話だと宍戸は思うが、鳳は譲らなかった。
 もう一度両腕で抱き締められ、宍戸はミーティングルームに残される。
「………………」
 鳳の背を見送り、宍戸は椅子に座ったまま件のテーブルを気恥ずかしいとも気まずいともつかない思い出見つめた。
 鳳の行動はつくづく紛らわしいものだった。
 それと同時に、結局事がここまでこじれた原因は、やはり自分の抱えた嫉妬心のせいでもあると宍戸は認めない訳にいかなかった。
「………激ダサ」
 溜息と共に吐き出す。
 良いけど。
 どうでも、ではなくて。
 それでも。
「……それでもいいさ」
 それだけ、好きだった。
 鳳のように言葉を尽くして伝える事は出来ないけれど。
 不慣れで不恰好な嫉妬を、誤魔化さずにそうと認めてしまえるくらいに、宍戸だって好きだった。
 一つ年下の、あの男の事が。
「宍戸さん」
「……………」
 扉が開いて、戻ってきた鳳の顔に一瞬眩しいように目を細め、宍戸は深く息をつく。
「……なんか言われたか」
「いえ…誰もいません。代わりにこれ」
 鳳に手渡された紙片を受け取った宍戸は、そこに書かれている文字を目で追って、思わず口にもし、ゆるやかに日常へと戻っていくのを感じた。
「部屋は隅々まで完璧に片付けておけ」
「……部長の字ですね」
 赤くなるしかないような気持ちでお互いを見つめた。
「あの。宍戸さん。裏に」
「…裏?」
「はい。ジロー先輩の字かと思うんですが、それはどういう?」
 言われるまま宍戸は紙片を裏返した。
 書かれていたのは更に短い一文だった。
 確かにジローの字で。
「………………俺の涙を返せー!……か」
 呟いて、宍戸は、笑う。
 ゆっくりと。






 制服に着替えて、部室の掃除をした。
 荷物を持って、肩を並べて帰途につく。
 どれくらいぶりだろうかと、何度なく鳳を振り仰ぐ宍戸を、同じ回数、鳳もじっと見つめてくる。
 何度も目が合って。
 言葉を交わす訳ではないけれど、その都度甘く胸が詰まった。
 いつも別れる道で。
 いつものように気楽に手が振れなくて。
 それどころか宍戸の手は鳳の手に包まれ指先に熱のこもった口付けを受けていた。
「………………」
 長い睫毛を伏せて宍戸の手に口づける鳳を見上げながら、もう少しだけ一緒にいたいと宍戸も思う。
「長太郎。コンビニ付き合え」
 ムースポッキーをあるだけ全部買う。
 友人のあの時の涙の代償に見合うだけ。




 この男と。

 鳳長太郎が、時々青い顔をしている。
 突然動きを止めて、何か痛みに耐えているようなきつい顔をして、そのくせ人から気遣われる言葉にはやんわりと首を振り、大丈夫です、とだけ言った。
 それ以上は何をどう聞いても何でもありませんと柔和な笑顔にかわされる。
 笑顔を浮かべている分、判る相手には尚の事それが痛々しい。
 絶対何もない訳がないと判るから余計にだ。
「おい宍戸! あいつ、やべーぞ! 鳳!」
「………………」
 放課後、校舎の渡り廊下で突然小柄な向日岳人に胸倉つかまれ詰め寄られ、宍戸はうんざりと溜息をついた。
 猪突猛進。
 見目が可愛らしい分、向日のこの勢いは強烈だ。
「明らかにどっかおかしいけどなあ、俺らが聞いたとこでは何にも言わへん」
 お前がどうにかしてやらなと眼鏡を中指で押し上げて、忍足もしたり顔で提言してくる。
「………あーうるせーなもう…」
「うっわー…! 聞いたか侑士! この横暴者の言い草!」
「ああ、しっかりと」
「宍戸サイテー! お前にあんだけ懐いてる後輩にそういうこと言う?」
「………っぐ、……どっちが最低だ…! おい、勢いで首絞めてんじゃねえ!」
 宍戸は向日の手を無理矢理胸倉から外して、くしゃくしゃになっているであろう制服のシャツの前合わせの釦をいくつか外した。
 渡り廊下の窓辺に寄りかかり、距離をおいた友人達を睨みつける。
「全く毎日毎日どいつもこいつも……」
 何で俺が責められなきゃなんねーんだよと毒づく宍戸に、氷帝のダブルス1は揃って声を上げた。
「鳳の事はお前だろう」
「…………訳わかんね……」
 実際、ここの所宍戸が鳳の事でこのような言われ方をされる日が続いている。
 原因はてめえかと、はなからそう決めてかかってきた跡部とは、昨日盛大な言い争いをしたばかりだ。
「あのよ……あいつがお前らや友人連中に心配させないように気を使って隠そうとしてる事を持ってるとしたら、それをこの俺に言うと思うか?」
「うっわ…! 何なんだそれ…! どういうこと?!」
 騒ぐ向日に細い眉を顰めながら宍戸は続けて言った。
 今の鳳の異変は、誰がどう言おうと宍戸が原因ではないし、寧ろ他の誰よりも宍戸にだけは隠したがっている鳳の気配を気付かない連中ではない筈だ。
「あいつが今おかしいの、俺が原因じゃねーし。どっちかっていうと俺には尚更隠したいんだろ。お前らが聞いたって言わないくらいなら」
「だから、お前になら言うかもしれへんで?」
「あいつは甘えただけど、俺に泣き付くような真似はしねーよ。寧ろ隠すだろ、俺には絶対な」
 だいたい鳳をどうにかしてやれと人から言われるのは腑に落ちない。
 あいつをどうにかしてやると決めるのは自分だ。
 そう続けた宍戸に忍足が真顔で言った。
「…はー…氷帝で岳人の次に男前やな宍戸」
 そんな事を言いながら可愛くてたまらないという目で向日を見る忍足の言葉にいよいよ宍戸は脱力する。
「岳人。もうほっとこな。多分大丈夫や」
「そっか? 侑士が言うならそうなんだろうな。よし、判ったぜ」
 散れ、という様に宍戸の手が空を払い、二人を促す。
 疲れきった表情の宍戸になどもうお構いなしで、忍足と向日は背を向けて肩を並べて歩いて行った。
「………ったく…」
 どっと疲労感が募る。
 宍戸は小さく吐き捨てて、二年の校舎へと足を向けた。
 元々そのつもりでここを歩いていたわけだ。
 今日は部活がない。
 今日が最適だ。
 そう思っていた宍戸はどうも妙な茶々が入ったような気がして、不機嫌な顔のまま校舎を移り階段を上る。
 踊り場は壁いっぱいにとられた大きな窓から差し込む光でひどく眩しかった。
 目を瞑り、片手を翳して前方を振り仰いだ宍戸は、そこに見慣れた男を見つける。
「…………………」
 普段ならば、どこで会ってたとしても、宍戸に気付かない筈のない相手。
 今は階段の手すりに手を当てたまま、踊り場で、自身の足元を見下ろすようにしてじっとしている相手。
「…………………」
 宍戸は眩しい視界の中から徐々に姿がはっきり見えてきた後輩に静かに近寄った。
「長太郎」
「……、…宍戸さん?……あれ、どうしたんですか?」
 宍戸の呼びかけにすごい勢いで顔を上げた鳳は、宍戸を見て綻ぶように笑った。
 長い手足を持った長身でありながらも、人に全く威圧感を与えないやわらかな所作で。
 鳳は姿勢を正して宍戸を見つめてくる。
「…………………」
「………あれ…宍戸さん怒ってる…」
「…………………」
「俺の…せいですね? その顔は。俺何かしましか?」
 その顔ってどんな顔だよと宍戸は内心思ったが、鳳の読みは全くもって正しいので。
 憮然と鳳を見据える。
 鳳は徐々に慌ててくる。
「すみません宍戸さん」
「………訳も判ってないで謝んじゃねーよ」
「はい、だから訳が判らない事をまず謝りたくて」
「……お前なあ…」
「すみません」
 茶化すでもなく鳳は頭を下げてきた。
 その時に視線だけは伺うように宍戸へと残すから。
 どこの子犬の上目遣いだと宍戸は溜息をつく。
「そういう顔すんなよ……またお前、俺の犬扱いされんぞ」
「いいんですって。それは別に」
 鳳が笑って言う。
「宍戸さんが好きです」
「…………………」
「だから犬でも何でもいいです。……ああ、でもみんなちょっと誤解してますよね」
「誤解?」
「犬は犬でもですね……ペットじゃなくて、俺は番犬になりたいです。宍戸さんの」
「…………………」
 人懐っこくて、でも宍戸には別格な程懐いてきた鳳は、伸ばした両手で宍戸の頬を軽く包んだ。
「長太郎?」
「…日に透けて、綺麗で」
 はあ?と宍戸は呆れ返って鳳を睨みつけた。
 どっちがだよと言い捨てもしたが、鳳がそれを聞いた風はない。
「…………………」
 日の光に溶けそうな淡い髪の下から。
 蜂蜜を煮詰めたような茶色の目で。
 見つめられて。
 頬に宛がわれている大きな手のひら。
 胸元が広くなって、大きくなって、抱き込まれると感触に異変を感じるくらいに、急激に。
 近頃ひどく大人びてきた年下の男を宍戸は見上げて告げる。
「長太郎」
「はい」
「お前、成長痛、相当激しいんじゃねーの」
「…………………」
「しらばっくれたら蹴り落とすぞ」
「怖いなあ……宍戸さん……」
 やんわり苦笑した鳳は、しかし宍戸が考えていたのとは違って、あっさり認めた。
 実はそうなんですと宍戸を見つめて苦笑いを深めた。
「………随分簡単に認めたな。隠しまくってたのに」
「出来れば隠したいですけど。でも宍戸さんに嘘はつけないし」
 宍戸は鳳の足に目線をやった。
 大丈夫です、と鳳の指先が宍戸の頬を軽く滑る。
「どうして判ったんですか」
「お前があんな顔して四六時中固まってたからに決まってんだろ」
「いえ…そうじゃなくて…成長痛だってどうして?」
「…ああ。俺にも覚えがあったからよ」
 宍戸の最初の過度な成長期は、小学校の高学年に上がるや否やの頃だった。
 いきなり身長が伸びた。
 それと同時に毎夜両足を酷く鈍く疼かせた成長痛がやってきた。
 病気ではないと判ってはいても、時には医者に行かざるを得ない程で、いつまでこんな事が続くのかと内心怯んだこともあった。
 宍戸の成長痛は、そうやって数ヶ月宍戸を痛ませたが、気付くと無くなっていたというほど引き際は呆気なかった。
 あれっきりどうも身長が止まっている気がする。
「………何してんだ長太郎」
 足の側面を鳳の手に軽く撫で上げられ、欲の滲まない所作と判るだけに突っぱねる事も出来ず宍戸は怪訝に鳳を見やる。
「痛かったですよね…」
「……そりゃお前だろ」
 もう今はそこには無い、かつて痛みのあった場所を、鳳が宥めるように手を宛がう。
 その痛ましい表情に。
 逆に、今鳳が感じている痛みが判るような気がして宍戸は鳳の胸元に額を当てた。
「………、宍戸さん…?」
「何か気がまぎれるような事とかねーの?」
「いいですか?」
「何がだよ」
「抱き締めても?」
 言い終わるなり、鳳の両手が宍戸の背中にまわった。
 加減した手で、しかし深く抱きこまれて。
 宍戸は身包み鳳の腕の中に閉じ込められる。
「………こんなんで楽になれんのか」
「充分です」
「嘘つけよ」
 溜息をつきながら、宍戸は自分の方から鳳に擦り寄った。
 身体を全部密着させる。
「………宍戸、さ…?…」
 困惑の入り混じる鳳の声に宍戸は見えない場所で笑う。
「もう一度言ってみな」
「………………」
「本当にただこれだけで紛れんのか?」
「……気持ちの問題なんですって」
 力の抜けた低い声。
 つけ込むのも、そそのかすのも、そう難しい事ではないと宍戸は思う。
「言えよ。長太郎。本当にもう痛くないのか?」
「宍戸さん」
 焦れたように、鳳の腕に初めて本気の力がこもる。
 痛いくらい抱き締められて、宍戸は穏やかに言った。
「最初からそれくらいしんどそうな声出してりゃ俺だってこんな真似しねーよ」
 俺の前で作り笑いすんな阿呆、と素っ気無く告げて。
 そして宍戸は小さな声でひとりごちる。
「………ったく……まだでかくなんのかよお前」
「親にも言われました」
 くすりと小さく笑った鳳の吐息が首の側面にかかって、宍戸は苦しい体勢から腕を伸ばす。
 鳳の髪をかきあげる。
 抱き締められたままで。
「夜、結構辛くて寝れないんだろ? 俺もそうだった」
「………すみません」
「今度のそのすみませんの理由は何だ」
「宍戸さんに、俺の事で何か気にかけさたりするような事、何もないと良いと思って」
「よくわかんねーな…お前はホント…」
 宍戸は鳳の腕の中で吐息を零しながら尋ねる。
「全部無くはしてはやれないけど、せめて誤魔化してやろうか?」
「………………」
「言ってる意味判んねーか?」
「いえ、判ります……でも本当に……こうしてるだけでも痛み忘れますよ」
「これだけでいいのか」
 普段どうでもいい事は甘え上手なくせに肝心な時はこれかと宍戸が思っていると、違います、と鳳が笑ったのが振動で伝わってきた。
「意味はちゃんと判ります。誤魔化しにきて下さい。これから俺の家に」
「…………………」
「本当はもう一日中、骨だか肉だか痛いままで……気が紛れなくて寝れないのも、情けないけど本当。だから宍戸さんが来てくれたら嬉しいです」
 宍戸はちょっと前まで自分が思っていた事を、粗方撤回したい欲求にかられる。
 肝心な時に甘えられない男どころか、肝心な時には一切の加減も無く甘えてくる男だったらしい。
 一つ年下のこの男は。
「でも今こうしているのでも、ちゃんと楽になってます…」
「そーかい……」
「今いる宍戸さんは、昼用の宍戸さんだから」
「………………」
「夜用の宍戸さんも貰っていいですか」
 しまいに宍戸は笑い出す。
「薬は大概一日三回だろ」
 掠めるように鳳の唇にキスをして。
 宍戸はするりと鳳の腕から離れた。
 名残を惜しんで差し伸べられた鳳の指先に軽く触れてやる。
 指先だけ微かに触れ合わせて。
「鞄取りに戻る」
「はい」
「三年の昇降口で待ってる」
「はい」
 鳳は笑っていた。
 やわらかい笑みだ。
 まだ身の内に痛みがあっても、宍戸がいることで宥めらた穏やかさで、やわらかく、笑んでいた。




 指先が離れる。
 背を向けあう。
 指切りをといた後のような、約束の温みが。
 胸の内から気持ちを揺らす。

 早々に収集のつかなくなってしまった大量のチョコレートは、各々管理しろと顧問から配られる恒例の紙袋の中に各自で収めた。
 ブライダル用とおぼしきマチの広い無地の手提げ袋がチョコレートでいっぱいになって、氷帝学園テニス部のレギュラー用の部室に無造作に置かれている。
 今年のバレンタインデーは土曜日だった。
 学校は休みだが部活はあるので、部室がチョコレート置き場になるのは例年通りの光景である。
 すでに部を引退している三年生も、この日ばかりは部室で顔を合わせる事になった。
「しっかしさー、不思議だと思わね?」
「何や?岳人」
「チョコレート。袋に名前書いてなくてもさ、どの袋が誰のかだいたい判るじゃん」
 向日岳人と忍足侑士のダブルスコンビはチョコレートの詰まった幾つもの袋を横目にして言った。
「桁違いに量多いの抜きにしたって、跡部宛てのって無駄にキラキラして目立つじゃん。箱からして、ピカーンって。いちいち眩しいいんだよ反射して。それが一個や十個じゃないんだから」
「ええとこの高級チョコレートしかないしな」
「そうそう。しかもありゃ貴金属なのか?指輪?チョコと一緒についてる箱とかがまた眩しいだろ」
「オモチャで溢れてんのはジローか?」
「そう。ジローの。チョコよりオモチャのが多いんだ。あと枕とかさ。嵩張って仕方ねえの。それに比べて俺のは何でこうコンビニチックなチョコばっかなんだろうな?チロルチョコの数なら俺きっと氷帝ナンバーワンだよな」
「かわええやん」
 片手の手のひらに頬を乗せ忍足が笑うのを、向日は少しだけ赤くなって押しやった。
「………ナンバーワンっていえば、……ある意味鳳なんだけどさ」
「うん?」
「あいつのチョコレート。ほぼ100%手作り」
「つまりほぼ100%本命ってことかいな」
「そういうこと」
 まあわかるけど、と二人は顔を見合わせて大きく頷き合う。
 数でなら間違いなく氷帝トップは跡部だが、本命度でいうなら鳳はその上をいくかもしれない。
 とにかく学年に関係なく、人当たりがよくて優しくて、礼儀正しく親切で愛想がいい。
「…………でもあいつ」
「……うん」
「鳳、なんか泣きそうじゃね?」
「せやな。あれ時期に泣くで」
「……………侑士。どうにかしてやれよ」
「どうにか言われても」
 氷帝テニス部レギュラー用部室は、設備同様、広さも自慢である。
 同じ部室内でありながら、忍足と向日の会話が聞こえない程度の距離にいる鳳長太郎の、しかし表情は、そこからでも充分見てとることが出来て。
 二人はどうにも困ってしまった。
「気の毒になあ…」
「鳳、今日誕生日やのになあ…」
「……しかたねえ!俺がちょっと行って、宍戸に一言、」
「やめとき。岳人。あれ邪魔したら敵さん二人になるで?」
「………うう…、…だよなあ……」
 二人がこっそり盗み見た先には、元部長の跡部景吾と、引退後からはまた髪を伸ばしているらしい宍戸亮が、一見すると友好的には到底見えない顔で向かい合っている。
 宍戸が手にしたノートに視線をやった跡部が呆れた身振りをしていて。
 それに宍戸が怒っているらしいので。
「……宍戸の奴、またきっと二軍の奴らから、なんか頼まれたんだぜ」
 宍戸は現役時代、一度だけレギュラー落ちした事があった。
 僅かの間ではあったが二軍にいて、その時に。
 宍戸は二軍の部員達に桁外れに懐かれ慕われた。
 目つきも言葉遣いも悪かったが、実は宍戸はひどく面倒見が良い。
 二軍でもくさることなく誰よりも練習していたし、言葉は荒いが的確なアドバイスをすることもあって、最初こそ敬遠されていたようだったが瞬く間に一軍にいた時以上の信頼を集めていた。
 氷帝には副部長は存在しないのだが、恐らく当時の宍戸のポジションは、他校でいうならば副部長だったのだろう。
 数百人のテニス部員を束ねる絶対的カリスマである跡部相手にも宍戸はまるで構わない所があったから、そういう面でも揉め事やら相談事やらは宍戸を経由する事が多かった。
 呆れたり怒ったりしながら、一応全ての事に耳を傾け行動する宍戸は、それまでは寧ろ距離をおいていたような跡部と、必然的に会話する機会が増えていた。
 けれどもその事が、今鳳の表情をかすかに歪ませている原因というわけではなかった。
 忍足と向日が言うように。
 鳳は、跡部と話す宍戸を見て、いわゆる泣きそうに見える顔をしているわけではないのだ。
 全ての原因は、宍戸の行動、それのみにあった。







 大人っぽくなった。
 鳳は、最初宍戸がひどく痩せた気がして心配したのだが、よくよく見つめれば怜悧になったのだ。
 切れ長の目も、細い顎も、真直ぐな首も。
 ひどく綺麗だと思った。
 ほんの少し会っていなかった間に伸びた黒髪は、見慣れぬ長さで額とうなじにかかっている。
 長いか短いかしか知らなかったから。
 伸びかけの髪から覗いて見える宍戸から目が離せなくなって。
 鳳は少し弱った。
「………………」
 一見怒ったような顔で跡部と話している宍戸が、実はその表情ほど不機嫌なわけではないという事は判るのに。
 今宍戸が考えている事が鳳にはつかまえられない。
 氷帝の高等部へのエスカレーター進学とはいえ、三年の宍戸は多忙で、思うように会えないでいた一ヶ月近く。
 それでも電話やメールは交わしていて、その時には全く考える事もなかったこの焦燥感。
 きつい目で甘く笑う、荒い言葉で優しく宥める、そんな宍戸は、今、跡部と何事か話しながらチョコレートを食べている。
 バレンタインに、宍戸が貰ったであろうチョコレート。
 初めは気にするようなことではないと思っていた。
 ミントガムが手放せない宍戸は、割合にジャンクフード好きなのだ。
 甘いものも好んで食べる。
 だから貰ったチョコレートを食べる事にたいした意味はないと、鳳は思おうとして、思い切れず、深みにはまっていく自身の後ろ暗い感情をどんどん持て余していく。
 あれはどういう意味なんだろうかと溜息がもれそうで。
 それを噛み殺すので手一杯になっている。
「…………………」
 なにも意味なんかない。
 ただ宍戸は、貰った自分のチョコレートを食べているだけ。
 そして鳳は、それを見ているのが苦痛なだけ。
 嫌なだけ。
「…………………」
 きちんと食べるんですね、チョコレート、と宍戸の唇ばかり見つめて鳳は思った。
 何だかひどく卑屈な気分になってくる。
 氷帝に入学してから、バレンタインに出回る大量のチョコレートには、いい加減見慣れた感がある。
 テニス部には、とにかく一人桁外れな量を貰う跡部を筆頭に、尋常な数ではないチョコレートが集まるのだ。
 そのあまりの大量さに、どこか感覚がずれてきてしまって。
 山と積まれたチョコレートに込められている意味など、まるで考えられなくなってしまう。
 その筈なのに。
「…………………」
 宍戸がああやって無造作にチョコレートを口に運んでいるのを見ていると、急激に。
 ただのチョコレートが、バレンタインに女の子から宍戸に送られたチョコレート、に変わっていって。
 それを食べている宍戸に、鳳は無闇やたらな焦燥感が募ってきてどうしようもなくなった。
 どうして食べるの。
 俺の前で?と鳳はとうとう溜息を零した。
「…………………」
 久々に部室で宍戸と顔を合わせて、この後一緒に帰ることになっている。
 跡部との話が終わるのを待っている鳳は、次第に自分でもどうしようもなく煮詰まってきてしまって、普段殆ど体験することのない苛々が募って自分自身を持て余す。
 会えないでいた時の方が、まだマシだなんて考えるまでなってしまって。
 宍戸の事が、好きとか大事だとか思う以上に、何か酷い言葉をぶつけてしまいそうで歯を食いしばる。
 腹が立つというよりは、泣きたいような気分だった。
 そんな自分が嫌だと鳳は思った。
 今日は誕生日で、ひとつ歳を重ねた筈なのに。
 完璧に子供還りしてしまったかのような自分の幼稚な独占欲に、鳳はとうとう宍戸から目を逸らせた。
 そうするしかなく、机に顔を伏せてしまった。







 気づかせたいなら叩けばいいのに、へんに優しい癖のある手は、鳳の後ろ髪をそっと撫でてきた。
「長太郎。待たせたな」
「…………………」
 顔をあげた鳳は、寝ていたつもりはない筈なのにと、いつの間にか二人きりになっていた部室に気づいて僅かに戸惑った。
「………先輩達は?」
「帰った。悪かったな、長いこと」
 顔を机に伏せて悶々と苛立っている間に、跡部も忍足も向日も居なくなっていた。
 鳳の髪に触れていた宍戸の指が動いて、空気も動いて、甘いチョコレートの匂いが後からついてくる。
「…………………」
 目つきがきつくなってしまったのを鳳は自覚していた。
 それをそのまま宍戸に向けている事も。
 宍戸が微かに目を見張る。
「長太郎」
「…………………」
 鳳が宍戸の事を強い視線で直視しても、宍戸は驚きはしないし、怒りもしない。
 優しいことも言わないし、不安がったりもしない。
 問いかけなのか呼びかけなのか、それとも諌めの声なのか、区別出来ない声音で名を呼んでくるだけだ。
「………女の子から貰ったチョコレート、食べるんですね。俺の前で」
 みっともないと鳳自身が思うくらいの口調は、ひどく嫌な言い方で耳にこびりついて聞こえた。
 久しぶりに顔を合わせて、それなのに。
 こんなこと言いたくない。
 鳳は、いい加減泣きたい気になった。
「長太郎」
「…………………」
「チョコレート味。食いたくねえの」
「…………………」
 え?と声にはならなかった鳳の問いかけを拾うように、宍戸は机に片手をついて、鳳に顔を近づけてくる。
 薄い唇から甘い匂いの吐息が鳳の名前を包んで零れてくる。
 バレンタインだから、チョコレート。
「…………………」
 鳳の唇を掠めただけの接触。
 閉じないままの真直ぐな宍戸の視線の中に、自分に向けられた優しげな和らぎを見つけて、鳳は息を詰めた。
 手が伸びた。
 両腕で、力づくで、抱き締めていた。
 縋りつくように。
「…………………」
 立ち上がった反動で後ろ側に蹴りだしてしまった椅子が倒れて大きな音をたてる。
 でもそんなこともどうでもよくて、鳳は宍戸の薄い背中を更に引き込んで、食いしばる歯を解いて言った。
「…………頭、どうにかなるかと思った……!」
 叫びと呻きの入り混じったような声が出た。
「……………バァカ」
 大袈裟な奴だなと続いた宍戸の声は掠れていて、多分自分の抱擁のせいと判ってはいたが鳳は手の力を緩めてやれない。
「宍戸さん………」
「…ん、………まあ……悪かったよ…一応」
「…………え…?」
 思ってもみなかった事を言われた気がして問い返した鳳のうなじに宍戸の片手が宛がわれる。
 髪の生え際から差し込まれた指が、鳳の後ろ髪を掴む仕草の甘さに四肢を束縛する腕の力が一層強まる。
「宍戸さん…?」
「………お前に、あんな顔させる気はなかったって言ってる」
 誕生日なのにとおおよそ普段の宍戸のイメージからは予想もつかない事を言われて鳳は身体を固まらせてしまう。
「宍戸さん…」
「……うまくは…出来ねえよ。…お前が俺にするみたいには、出来ねえけど」
「…………………」
 宍戸から鳳の背へと、今度は両腕が一度に伸ばされ、抱き締められた。
「…………………」
 胸にぴったりと収まって、しかしその薄くて軽い、でも強くて確かなものの方から抱き締められてもいる。
 宍戸の両手が鳳の首にやわらかく絡んでくる。
 鳳の胸元に治まるように身体を寄せているその身体を、こんなにも強く抱き締めている筈が、全て守られ逆に抱き締められていると思わせるような、甘く幸せな感触の大切な人が鳳の腕の中にあった。
「宍戸さん」
 語尾は舌と一緒に直接宍戸の口腔に含ませた。
 重ね合わせた唇に深い角度がついて、擦り寄っては拓かせた熱っぽい粘膜はチョコレートの味がする。
 からめた舌ごと、もう本当にその柔らかさを飲み込みたくなるような気でむさぼって。
 がっついた息もなすりつけて、甘みを放つ舌を執拗に奪った。
 宍戸の舌から甘みを感じるたび、ゆっくり頭の中が溶けていく。
「…………く………ん」
 宍戸の両手が鳳の制服をつかんでくる。
 胸元を、正面から。
 震えている。
 苦しいのかもしれない。
 それでも鳳は宍戸の唇に固執した。
「………ん………ぅ……っ…ん、」
「…………………」
「ふ………ぁ…っ………」
 両手で小さな頭を抱え込んで口づけて、胸元にあった宍戸の指が痙攣じみて震えて、もがいて。
「………っ…ン…」
 一息に落ちた。
「………………宍戸さん…」
「……は……、……ぁ……」
 頬に唇をすべらせて、てのひらの中の小さな後頭部を丁寧に指先で包み直す。
「宍戸さん」
「…………、ん……だよ……」
「ほんとにチョコレート味……」
 おいしかったと吐息で伝えると、宍戸は眦の赤くなった綺麗な目できつく睨んできた。
 鋭い視線が真直ぐに宛がわれて。
 悪態か罵倒のひとつでもつかれるかと、それすらも甘ったるい気分で笑んで待ち受ける鳳に、宍戸は濡れそぼった唇を動かして囁いてくる。
「この程度で満足かよ…」
「………我慢してるんです。煽らないで」
 何の準備も無く、ましてこんな場所で出来るわけもない行為を、本当は自分がどうしようもなく望んでいると判っているから。
 一月以上触れていなかった身体に、すでにキスが暴走しかけていることも判っているから。
 鳳は苦笑いで誤魔化すように、再度唇を合わせた。
「……………、……」
 すると今度は宍戸の方からゆるく唇がほどかれる。
 抗える筈もなく、鳳はそこに舌を差し入れた。
 普段ミントの香りのする冷たい口腔が、今日は甘い匂いであたためられている。
 荒いでいく呼吸が生々しくなってくるがどうしようもなかった。
 息がきれるほど口付けあって、舌がからみあうごとに湿った音がたち、息が上擦って声のようになる。
「…………宍戸さん……」
「………ん………、……ぃ……」
 微かに頷かれただけで加速した欲情に歯を食いしばるようにした鳳の隙をさらうように宍戸は膝をついた。
 ベルトに宍戸の手がかかって鳳は思い出したかのように躊躇する。
「……ちょ、……宍戸さ…何して」
「………黙ってろ、ばか……」
 仕草が荒っぽくて、凶暴な目で睨み上げてきたけれど、通された口腔は濡れそぼって潤んでいた。
「…………、……」
「………ン……っ……」
 闇雲に突き上がってくる刺激に鳳は息を詰めて机に片手をついた。
 膝立ちになっている宍戸は前合わせを外して少し押し下げただけの鳳の制服の生地に顔を埋めて睫毛を伏せた。
 ず、と奥まで通されて、鳳はまた言葉を飲んだ。
 吸い付いてくる粘膜の柔らかさに、宍戸の唇の中激しく形が変わる。
「…っぅ…、…ッ…………」
「宍戸さん………、」
「…………く……ふ…、っ、」
「……ごめんなさい……苦し…?…ですか?…やっぱり止めま…」
「ん、………ん…」
 そのままで首を微かに横に振った宍戸の唇は小さくて。
 手ひどく押し広げその口いっぱいに埋まってしまうのもいい加減にしないと、とは思っている。
「………っ……ぅ…」
「……………、……」
 喉に突き当たるまでひどくして、と思っているけれど。
 見下ろしている宍戸の表情にどうしようもなく煽られて、鳳は引くに引けなくなっていた。
「宍戸さん……」
 そっと宍戸の後頭部を撫でると、その熱っぽい所作に安堵したように宍戸が目を瞑るのが堪らなかった。
 指先で摘まめてしまう細い顎を撫でて、見ている以上に触れてみれば、そんなに小さな唇を押し広げてしまっているのが信じがたくもなってくる。
「…、ん…、…っ……、ん、…、っん」
「宍戸さん…、…」
「………っ……く……ん………っ…」
「ね、………あの………宍戸さ……」
「……………、…ぅ…、…っ、」
「……それ……止めてください……もちませんから……」
「……っ…ん…っ…っ…ぅ………」
「宍戸さん…、」
「ぃ……、…っ………」
「………駄目ですよ…」
 すきまなく押し広げてしまっている宍戸の唇から、次第に含みきれなくて零れ落ちていく口液がしとどに滴り落ちて宍戸のシャツを濡らしている。
「ほんとに、………ね、宍戸さ……」
 宍戸のしようとしていることは鳳にも判っている。
 いい加減どうしようもなくなっているのは事実だったが、だからこそせめてこのままということだけは避けたい。
「…………出来ませんってば……そんなこと」
「…、………は…、っ…」
「………ッ…、…」
 熱い息と一緒に宍戸の唇から抜き出され、鳳が安堵と苦痛の入り混じった熱っぽい吐息を零す。
「誕生日…だろ……」
 掠れた宍戸の声に視線を落とす。
「それくらい…言えよ……」
「…、……っ………」
 飲め、くらい、と途切れ途切れに言いながら再び絡みついてきた舌の感触にも言葉にも腰が震えて鳳は完全に理性を奪い取られてしまった。
「……ッ、ぅ、ン…っ………」
「………………、………」
 最初のを飲み下された喉の音が生々しく耳について。
 鳳は、二度、三度、と続け様に宍戸の喉を直接それで穿った。
「……………ふ……、…っ…」
 鳳が腰を引く。
 繋がっていた箇所が離れても、滴り落ちるものは何もなかった。
 全て宍戸の中に流れ落ちていった。
「宍戸さ、………」
 ぐったりと息を吐き出した宍戸の肩を抱きながら鳳も膝をついた。
 ひどく無理をさせたような気がして鳳が伺うように宍戸を覗き込むと、宍戸は視線を逸らせ赤くなって何事か毒づいた。
「………気持ち悪く…ない?…大丈夫ですか? 苦しいとかは…?」
「……バーカ………だいじょ…ぶに…きまってんだろ…」
 伸びかけの前髪をかきあげながら、鳳はあいた左手で宍戸の肩を抱いた。
 右手が宍戸の前髪から頬に移る。
 包みこむ。
 横向きで、鳳は真っ赤になっている宍戸の唇を塞いだ。
「………長太郎……」
 苦しくないようにしたキスの合間に呼びかけられて、鳳はすぐに唇を離した。
「宍戸さん?…なに…?…」
「これ以上は……」
「……はい」
 判ってますと鳳が苦笑して頷くと、何故か宍戸は怒ったような顔をした。
 したくないとは言ってないだろうがと凄まれて、一瞬聞き違いかと鳳が呆気にとられているうちに。
 宍戸はきつい目で睨み上げてきながらも、鳳の胸元に凭れかかるように身体を預けてきた。
「へたに手出されるほうがきついんだよ……」
「…………………」
 残りは全部持って帰って食え。
 つまみ食いすんな。
 鋭くも、掠れた甘めの声で宍戸は鳳にそう言いつけた。
「…………………」
 つまみ食いの一言で済ませてしまうにはあまりにあれは濃厚すぎると鳳は思ったが。
 まだチョコレートの匂いのする宍戸の指先に軽く口づけながら、はい、と従順に頷いた。







 鳳の部屋、ベッドの上で、チョコレートの山どころではない濃密な甘さで感情を煮詰めあった後。
「………宍戸さん。ホワイトデーは何味の俺でお返しすればいいですか?」
 うとうとと眠たげな宍戸を抱き締めながら、鳳はその耳元で囁いた言葉で宍戸から手荒な肘打ちを食らわされた。
 そうとはいえ。
 胸の内いっぱいに注がれた甘みある感情が無くなってしまうような事はない。

 背が高くておっとりしていて、笑顔はやわらかくて物言いも丁寧で。
 人懐っこいけれども、礼儀正しい。
 尊敬してます、大好きです、とそれはもう殆ど盲目的に懐かれて懐かれて。
 たまに邪険してみても、腹をたてるでもなく根気強く後をついてきた。
 もっとそっけなくあしらってみれば流石に傷ついたような顔をして落ち込んで。
 その落ち込みぶりがまたすごいから、結局いつも最後には、甘やかして、機嫌をとってやりたくなる。
 それが日常のことだった。
 多分、そのうち、こうなる予感もあったから。
 宍戸は驚きはしなかったが、それにしたって。
 鳳からのキスを宍戸が拒まずに受けた後、あの鳳が、ここまで暴走するとは。
 宍戸にとって、それはまるで予想外のことだった。




 学年の違う宍戸と鳳が、その日はそれぞれ4時間目が自習になって、他のクラスが授業中の静かな校内で顔を付き合わせることになったのは、単純に偶然だった。
 部員ですらも昼休みには立ち寄らないテニス部の部室に宍戸を誘った鳳が、何か言いたい事がありそうだという事には宍戸も気づいていたのだが、それが言いたいのではなくしたいキスだったということに、された宍戸は驚いて。
 それでも、もう鳳が、本当に耐え切れなくなって欲しがっているキスだと判るから、鳳をあやすような気持ちで唇をひらいたのは宍戸からだった。
 いいんですか?と僅かに離れた唇の合間で鳳が熱っぽい息で聞くのに、いいんだよと不機嫌に鳳の舌を含んだのも宍戸だった。
 宍戸が鳳の舌を食むと、鳳の手にきつく腰を抱きこまれた。
 強い力で鳳の手は宍戸の腰に絡まり、正面から密着させられた互いの下腹部の上ずる熱っぽさに宍戸は初めて状況の生々しさに息を詰めた。
 まさかなと思っていると、鳳は宍戸を壁に押し付けて、制服のシャツを無造作に捲りあげてきた。
 まさかだった。
 頭を突っ込まれる勢いに宍戸が怯んでいると、しかし鳳は乱暴ではなく固執する熱心さで宍戸に触れ出した。
 触れられた所から、広範囲に滲みだしてくる刺激の周りがひどく早かった。
 宍戸は途切れ途切れの息の合間に、余裕のない声を小さく上げ続ける。
 それが何をされているから零れてしまう声なのか、判らなくなるのも早かった。
「宍戸さんの汗って苦いけど……ここはこんなに甘いね」
 胸をあからさまに舐めあげられて、宍戸は片手で額と目元を押さえ込んで歯を食いしばる。
「……ぅ…」
 細かくひっきりなしに震えている宍戸の腕を宥めるように撫でて、鳳は舌ですくいあげたものに今度は深く吸い付いてくる。
「………っひ」
 子供みたいに貪欲で、一つ下の後輩の欲求の全てが自分の身体に向けられていることに、触れられ続けても、まだ慣れない。
 意識ばかりがとろとろと溶けて、身体はどんどん過敏になる。
「…………長…太郎…、…っ…ゃ…、…め…、…」
「あ、………」
 何かに気づいたような鳳の小さな声に、聞く前から何かしらの予感めいたものが沸き起こって。
 宍戸は怯えて身体をもがかせた。
「、っ………」
「……すっげ……やーらかかったのに……」
「……………ッ…、っ…ぅ…っ」
「宍戸さん……少しだけ噛むね…」
「…、……っぁう…」
「………真っ赤だ………こっちもね。痛くしないから…」
「…ぁ…ぅ、っ…」
 両方に鳳の指がかかって、執着を増す唇が飽きもせず交互にそこに被さってくる。
「ぁ…っ…あ……ぁっ……ぁ…」
「………ん? 宍戸さん?」
「……ひぁ…」
「やだ…?…泣いちゃってるね……俺のこと怖い?」
「お前…、……こんな……」
 上半身だけでこんなになる自分がおかしいのか、それともしている鳳がよほど何か特別なやり方をしているのか、宍戸はふらつく足を必死に踏みしめながら鳳の後ろ髪をつかんだ。
「ど……で…覚え……、っ……」
「……どこって」
 鳳は吐息で苦笑いする。
「…俺ね、宍戸さん。ずーっと考えてたんだよ」
「………それ……やめ…、ろ…っ、」
 小さな一点に指も舌も一度に宛がわれた上、指先で固定されて吸い付かれ、宍戸の膝ががくんと砕けた。
 鳳がそれを宍戸の胸元を押さえてくいとどめるから、宍戸の喉はたちどころに細い悲鳴で震えあがった。
 指で、唇で、縫い止められる。
「ひ、……っ……、…っ…ぁ…」
「どこかで誰かに習ったりとか、してないから。ずっと、宍戸さんにしたいこと、いろいろ考えてて」
「……、ぁ、…、…ぁ、っ…、」
「だから、すごい嬉しい……」
 深く唇を塞がれて、宍戸は鳳の肩をつかんだ。 唇を探られながら、とりすがるように強くしがみ付くと、鳳は宍戸の耳元に何度も何度も囁いた。
「すっごい嬉しいです」
「……長太…郎、…?…っ…、ぅ、く……」
「逃げないで…」
 ください、と。
 上目に見られて。
 甘える目、必死な目。
 見慣れている表情に追い詰められた。
「………っぁ、ぅ…」
 鳳の手に足の狭間を握り込まれ、率直すぎるその刺激を振り払えなくなった。
 大きな手のひらに、そこのかたちをかえるようにひっきりなしに触れられて、引き出されたそばから零れてしまうものが自分を伝って部室の床にも落ちようとする。
「ん…ぁ、っゃ、…ぁ…」
 即座に膝をついたのは鳳で、彼の唇に体温を上げているそれを吸い込まれてしまって、加減もなく、くまなく、潤んだ口腔で愛撫される。
「…く…、…ん、…っ」
 鳳の宍戸に向けてくる執着はますます強まるばかりで。
 膝まづいて熱心に舌を使ってくるその表情を見下ろし宍戸はかぶりを振った。
「………長…太、郎……っ…」
「、はい…?」
「も……いい、…っ、も、ゃ…っめ」
「……この後は……宍戸さん…きついだけなんだよ。だから、もう少しね…」
「…もぉ、いいって、…言っ、てんだろ……っ」
「だからね……宍戸さん……」
 困ったような声は下から聞こえてくるばかりで、宍戸はどうしたって鳳がそこから離れないので、結局片手で鳳の肩を押し出し、もう片方の手は鳳の口腔に濡らされた自分に触れ、とにかくその唇から引き剥がす。
 どこから奪い返したのかを物語るような状態のものに自ら触れて、神経が焼ききれそうになっている宍戸は、それを至近距離から見ることになった鳳の息を飲む音を聞いて。
「…………ッ……」
 それまで背にあった壁に、今度は正面から手のひらやこめかみを押さえつけられた。
 腰が浮き上がりそうなほど強く後ろに引かれる。
 宍戸で濡れた鳳の指が、これから鳳が行こうとする道行きを宍戸に知らしめる。
 いつその指を退かされたのか宍戸には判らなかった。
 もの凄い圧迫感に声を詰まらせる。
 少しづつ、でも強く、のみこませようと押し込まれてくるものに、宍戸の両目からは音を立てて涙が落ちた。
「…………苦しいよね…」
「ゥ……、……っ…く」
「……ごめんなさい。判ってた…けど」
 深々とまで行き着いて。
 初めて鳳が口をひらいた。
 耳に直接吹き込まれるように囁かれ、宍戸はかたく閉じた目から尚も涙を落としながら声を振り絞った。
「ごちゃごちゃうるせ…っ……!…」
「…宍戸さん、?」
「べらべら、…余計なこと、くっちゃベる…なら…、今しろ、馬鹿…ッ…」
 そうすれば大丈夫なんだよと宍戸は自分でも何を言っているのか判らないようなことを口走っていた。
 焼切れそうな刺激は強すぎて怖い。
 涙がとまらなくなりそうで怒鳴った。
「…………大好きです。宍戸さん」
「……も……と…」
 宍戸の身体が鳳に大きく突き上げられた。
「ぃ、っ、……、…っ…馬鹿、野郎……ッ…そ、…ちじゃね……、…っ…」
「ひどいなあ」
「…っあ…っぁ…っ…」
「大好き。………大好き。宍戸さん。俺も、もっと欲しい」
「だ、…か…ら、……っ…ち……じゃ、…ね………っ…ァ、っ」
「うん……宍戸さん……」
「……や………も……ちょ…っ……」
 歯の付け根も合わないように、立て続けに強く揺すられた。
 突き上げてくるものに耐え切れず押し出される嬌声は、壁になすりつけられた。
「っ…ぁ…っ」
「宍戸さん」
「も、…や、く……、っ…」
「なんか、も……凄くて…勿体無い……」
「……………る…せ……、…っ…、…ぃ…っ、…っぁ」
 鳳があんまり可愛げに暴走して無茶をし尽くすから、自分の許容範囲を遥かに超えたその状況に、殆ど意識を飛ばしながら宍戸は怒鳴ったり言いつけたり促したりしていて。
 最後はもう何も出来ずに、鳳の暴挙ともいえるような行動に宍戸も溺れきった。







 部員数数百人を誇る氷帝中テニス部の部室は、クラブハウス並みに立派なものだった。
 しかし決して防音加工が施されているわけではないので、例えば外から、部室の壁にぴったり耳を寄せようものなら、多少大きめの声であれば聞き取ることも充分可能だった。
 そこまであからさまではないけれど。
 しかし、部室の外側から寄りかかるようにして、壁に背中を当て座り込んでいるものが数名横に並んでいた。
「…………誰か止めろよ……」
 膝を抱え込んで座る岳人が、ぼそっと呟く。
 こころなしか顔色が青かった。
「言ってる自分がしいや。岳人」
「……っ、だ、だいたい元々侑士が、鳳を煽ったからああなったんだろッ。髪切ってから宍戸が、今までみたいに女受けだけじゃなくて男受けもよくなってるとかなんとか!余計な事言って煽って!おまけにいよいよ今日あたりなんか起きるぞって、ここに集合かけたのも侑士じゃないか!」
「……お前らまでうるせえっての。耐えられないならジロー見習って寝ときゃいいだろ」
「ジローを見習って寝ろって普通それって無理じゃん?! 何だよ滝、何ひとりで余裕かましてんだよ!」
「誰が余裕だっての。こんな濃いーの聞かされて」
 滝ががっくりと肩を落として言う。
 部室の外には3年生を中心とした氷帝中のテニス部員達が声をひそめつつ言い争っていた。
「…………もう面倒だから跡部を早く連れてきちゃえよ。なんで跡部呼ばなかったんだよ忍足」
「呼びに行ったけどおらんかったよ」
「もー樺地見張りにおいてって俺達帰ろうよー」
「樺地粗末にすると景ちゃんにしばかられるでぇ?」
 そんな風に。
 頭を抱えたり、笑うしかなかったり、眠るしかなかったり。
 テンションが上がったり、達観するしかなかったり、やたら怒りっぽくなってしまったり。
 そんな見張り達を実は大勢従えていると、知らないままの二人は今は静かになった部室内で少々甘口の可愛らしげな言い争いを繰り広げているのだった。







 氷帝中に、跡部部隊以外の部隊が発生してしまった、とある日の出来事である。
 跡部部隊は自主的に跡部に魂捧げていますが、今ここで生まれた部隊は、衝撃に無理矢理魂を抜かれてしまい、燃え尽きた哀れな被害者達が、発足せざるを得なかった闇部隊と化していた。
 鳳長太郎には四つの顔がある。
 一日四つの顔を使い分けている。
 部活の最中の鳳は、部内の上級生達に、宍戸の奴に弱みでも握られてるのか?!と真面目に危惧されるほど宍戸に従順、絶対服従を貫いている。
 宍戸はもう何度となく、鳳を苛めるなっ、この鬼っ、悪魔っと散々な事を部内で言われていた。
 鳳という男は、上背があって性格もテニスの腕もよかった。
 2年でレギュラーだが驕る事も威張ることもなく飄々として、誰からも妬まれたり悪く言われたりする事がなかった。
 200名はいる氷帝のテニス部員の中で、どの学年からもうけのいい、人の良さが滲み出ているようなところがあって。
 よって誰もが、樺地に荷物持ちをさせる跡部には言わない文句を、宍戸には集中砲火させた。
 跡部部長はちょっといろいろ特殊な人なので比べる対象にはしにくいのだが、とにかく例えば荷物持ちという同じ行動を宍戸が鳳にさせようものなら、人間ここまで罵られなくてもという領域まで宍戸を罵倒する氷帝テニス部員達である。
 跡部は命じてやらせているが、宍戸は何も言っていない。
 それなのにだ。
 鳳が勝手に、荷物持ちます、それも持ちます、あれもこれもといそいそとついてくるだけだというのに、鬼め悪魔めと宍戸は散々な言われようである。
 必然的に宍戸は不機嫌になり、そんな彼を気遣ってか鳳はますます甲斐甲斐しくなった。
 部活の間中こんな調子で、仮に宍戸が腹立ちにまかせて鳳を邪険にしたり、つれない態度をとれば。
 そして鳳が、ちょっと寂しそうな素振りなんか見せ始めようものなら。
 可哀想に可哀想に可哀想になっ、と宍戸は再び部員達からの集中攻撃を浴びる羽目になる。
 そういうことになった日には、ほとほと呆れて、ともかく疲れて、宍戸は部活を終えて帰途につく。
 家に帰るなり自主トレするなり遊びに出たりする。
 その時に、鳳が一緒の確立は結構高い。
 学校を離れても、何故か一つ年下の鳳といることが少なくなくて、そういう時に、鳳の二つ目の顔が現れる。
 宍戸と二人きりになると、今度はもう。
 どれだけ宍戸に嫌がろうが怒ろうが、鳳はべったりと甘えて甘えて甘え倒してくる。
 コートでは大切な先輩、大切なダブルスのパートナー、という従順さを全開させる鳳は、一旦学校を離れると、宍戸への態度がいきなり大切な恋人仕様になるのだ。
 実際そうなのだから仕方ないが、宍戸にしてみれば切り替えスイッチが入ったかのように変貌されるのに、なかなかついていけない。
 年下のくせに甘ったるく優しくなって、何でも言うこと聞きますよと綺麗で甘い笑顔を見せる。
 そこまでならばいいのだ。
 微妙な気恥ずかしさはあるが、宍戸は跡部ほどではないけれど俺様気質なので、かしずかれるのははっきり言って気分がいい。
 何をどう言っても、大概宍戸の言う事を聞く鳳の事は、元々気に入っているわけだし。
 とにかくその後に、三人目の鳳さえ現れなければ。
 あの鳳さえいなければ、と宍戸が何度歯噛みしたかしれない。
 三人目の鳳は、キスでスイッチが入る。
 宍戸にキスすると、言葉使いこそ丁寧なままだったが、欲情剥きだしで宍戸を抱き竦めてくるのである。
 服を脱がせて、身体中まさぐって、宍戸が泣き出すまで容赦なくその身体を貪ってくる。
「…………て…め……っ…も、離……っ、…」
「宍戸さん…………」
 うつぶせた宍戸の背後から、のしかかるように宍戸を抱きしめている鳳は震えている宍戸の腰を強く掴み締めながら、その中で。
「………ッ…ぅっ…ぅ……、く……、ぅ…っ……」
 溜められていくものが頭の中まで濃密に埋めていくようで、食いしばった歯からも漏れる切羽詰った自分の声に宍戸はきつく目を閉じた。
「……宍戸さん…?」
「…………っ……る…せ」
「なんにも言ってないです」
 かすかに笑いを含んだ吐息が耳に触れる。
 熱くて。
 自分一人ではないのだと安心するけれど。
「宍戸さん、時間がね……」
「……、……から…も……離……せ…、て……」
「……いえ……あのね、急げば二回出来るんですけど、時間かけてゆっくり一回で…… していいですか?」
「ふざけ……、……っ……ン、ッ」
 顎を掴まれて首を捻られ、唇を塞がれた。
 言葉の語尾は鳳の舌にとられてしまった。
「ん……っ…」
 滑らかな指に喉を辿られながら口づけられて、宍戸は震えながら声をくぐもらせた。
 鳳の家の者が夕刻過ぎまで全員出払っているというので連れて来られたのだが、鳳に抱きしめられ続けてどれくらい経ったのか、宍戸は朦朧とした頭での考え事が出来なくなっていた。
 体内からまた圧迫されていくのが判って、細い喉声を迸らせる。
「…ひ………ぁ」
「………位置代えます」
「………ッン…」
 鳳は動かないのに、宍戸だけぐるりと身体の向きを代えさせられて、折りたたむように曲げさせられた膝を、鳳の肢体を両足の間に挟み込んでから伸ばすことを許される。
「……く………ぅ…っ…ん…っ」
「宍戸さん」
 体内をかきまわされて、どうしようもなくなってしまって。
 身体を痙攣させながら零れてしまったものに鳳は指先を沈ませて、濡れた宍戸の腹部をゆっくりと撫でる。
「………っ……ゃ……」
「……泣かないで? 宍戸さん」
「ャ…………見……」
 目元を覆う腕を鳳にとられそうになって宍戸は身体を捩って抗ったが、結局優しく強い力に引き剥がされてしまう。
 腹立ちまぎれに宍戸が涙目で睨みつけた鳳は、嬉しくてと囁いて微笑んでいる。
「…………………」
 好きだと繰り返し繰り返し告げてくる鳳は、それをなかなか口には出せない宍戸にとっては、羨ましいような悔しいような曖昧な感情を抱かせた。
「……長太郎…」
「はい」
 丁寧に応えて、鳳は宍戸の唇に、更に丁寧にキスをした。
 高い体温で温まった鳳の胸にかかるクロスが宍戸の鎖骨にもチェーンをやんわり弛ませて落ちてくる。
「………これ……今だけ外していいか…」
「……え…?…構いませんけど……」
 チェーンを指先ですくって宍戸が嗄れた声で言うと、少しだけ不思議そうに鳳は首を傾けた。
「……あ、…痛くしちゃいましたか?」
 擦ったりとかしたかと途端に口調を改めた鳳に、違うからと宍戸は首を振って。
 外せ、と命じる。
 すぐに首からそれを外した鳳は、ベッドヘッドにクロス置いた。
「…………宍戸さん?」
「………………」
 宍戸は腕を伸ばした。
 鳳の首に取りすがるようにしながら、上半身を起こす。
「……っ、」
「宍戸さん? なに? どうしたんですか?」
 無理な体勢に眉根を寄せた宍戸に慌てて、鳳がそれでも、浮いた宍戸の背中に手のひらを当ててきた。
 それだけで大分楽になって、宍戸は鳳が面食らっているうち、かなり強引に体勢を変えた。
 鳳をベッドに押し倒して。
 その上にのって。
「…………ッん…ぅ」
「………、……宍戸…さ……?」
 納まりがよくなって、それはつまり宍戸が、鳳を含んだまま完全に彼の上に座り込んだ事になる。
 下から膨張して圧迫される充足感に、宍戸は唇を噛んで喉を反らせた。
「ん…っ…ぅ……ん、っ……」
「え…?……ちょ……、…」
「…ぅ…ぁ、」
 硬い腹部に手を当てて、身体を浮かせる。
 意思を持って動かせるのは引き抜く時だけで、真上からはもう何一つ出来なくなって、宍戸はただ落ちた。
「ひ……っ…、…く……」
「……、……ッ…」
 がくん、と身体がぶれて、宍戸の上体が倒れそうになる寸前、鳳の手が両方で宍戸の腰を掴んだ。
 宍戸の上半身はしなって傾いだが、鳳の手に起点を定められて崩れることはなかった。
 濡れそぼって熱い息を吐きながら、宍戸が潤んだ目で見下ろせば、鳳が余裕のない顔で宍戸を凝視していた。
「…………………」
 その表情に満足して宍戸がうっすら笑うと、鳳は一層切羽詰ったような顔になる。
「俺ゆっくりって言いましたよね……」
「……お前はゆっくりしてりゃ…い……だろ…」
 無茶かとも思ったが、今度は鳳の腹部に手をつかず、宍戸は膝で身体を支えてそれから遠ざかっていく。
「……ン……ん………ッ」
「…、……………」
 骨盤が砕けそうな強さで鳳に鷲掴みにされた骨が軋むようだったが、だから余計に一度目以上に、宍戸は何を危惧することなく身体を落とした。
「……ッァ…あ…、…っ、…、ァ…」
 身体中に突き刺さるように広がっていくものが、痛みなのか快楽なのか判断しかねる強烈さで。
 眦から切れめなく流れ落ちていく涙は宍戸の喉を落ちて胸元まで伝っていく。
「………きつかったらもう動かないで……俺がやるから…」
「う…るせ……っ………いいならおとなしくしてろ……っ…」
 そんな風に言われたら動けないじゃないですかと言った殊勝な言葉に満足して、宍戸は涙を落としながら笑った。
 急いで二回でも、ゆっくり一回でも、ない。
「………なんか…も、…すごすぎ……」
「……………………」
 急いで一回。
 いきつかせて、いきついて。
 鳳の身体の上で脱力した宍戸は、自分を抱きしめてくる鳳もまた、暴れるような鼓動を響かせているのに合わせて、そのまま目を閉じた。
 10分程度のその時間。
 宍戸が眠っていたのか気を失っていたのかは、宍戸本人にも鳳にも、判らなかった。




 睡魔なり自失なりで意識を無くした宍戸が、目覚めてからはもう、ゴメンナサイゴメンナサイと頭を下げては宍戸の身の回りの世話をする、四人目の鳳がそこにいた。

 口論が、思いの他、激しくなってしまった。


 普段から憮然としている事の多い宍戸亮の顔つきが、不機嫌を通り越して怒りを含んで。
 普段おっとりしている鳳長太郎の顔つきが、躊躇を通り越して苛立ちを含む。
 日も落ちたテニスコートの中で、二人しかいないのだから一発触発の彼らを止める者は誰もいない。
「もう打たない? お前に指図される筋合いはねえんだよ。さっさとやれ。バカ」
「いい加減にしてください。レギュラー復帰したのに、試合前に怪我でもしたらどうするんですか」
「怪我ぁ? するかそんなもん。さっさと打てっての!」
 打球に対する反応時間を極限まで短縮する為、ラケットを持たずに鳳の200km/h近いサーブを受け続ける特訓は、何も今日初めてすることではない。
 数週間、毎晩繰り返してきた。
 そして今日、氷帝において敗者には有り得なかった筈の、レギュラー復帰も果たして。
 その日の夜だ。
 宍戸はこうして暗がりのコートで鳳と言い争っている。
 始めてすぐに、数本のサーブを打ったか打たないかで、鳳は止めようと言い出して。
 あとは宍戸がどう怒鳴りつけても、もうサーブを打とうとしない。
 昨日までは渋りながらも従順だった後輩の抵抗に、宍戸の腹立ちは瞬く間に高まってしまった。
「長太郎!」
「………もう止めて欲しいんです。宍戸さん傷だらけじゃないですか」
「今更なに言ってんだ。お前」
「その身体の傷、全部俺がつけたんですよ……」
 痛ましそうに眉をゆがめて見つめてくる鳳の表情に、宍戸は深々と溜息をついた。
「それがどうした」
「もう宍戸さんはカウンターライジングをマスターしてる。それなのに、まだするんですか?こんなこと」
「当たり前だ。完成度は100%じゃない」
「お願いですから止めましょう。もう」
「お前には指図されないって言ってんだろうが!」
 ネット越しに言い争っているうちエスカレートして。
 距離が縮まって、宍戸の手が鳳の胸倉を掴み締める。
 自分よりも背の高い後輩の胸元を締め上げて、下から睨み上げて。
 けれど宍戸がどう怒鳴りつけても、鳳は言うことを聞きやしなかった。




 コート中に響き渡る荒いだ声。
 宍戸のきつい罵声が、突然に止む。
 テニスコートが静寂で満ちる。
 突然、そして暫くの間の沈黙。




 静かだった。
 ひどく。
 静かだ。




 低い声が沈黙を破る。
 静寂に滲むように鳳の声がした。
「……宍戸さん。いつもミントの匂いがしますね……」
「………ミントガム食ってんだから当たり前だろ………だいたい匂いっつーか、それ味だろ」
「………ですね。ミント味、です」
「……………あのな……お前、なんで今俺にキスなんかした」
「したくて。……ごめんなさい。嫌でした?」
 生真面目に会話してしまった。
 宍戸は訳が判らなくて、とりあえずそうするしかなかったのだ。
 覆いかぶさるようにキスされて。
 言い争っていた相手にいきなり。
 鳳が普段からしているクロスのペンダントトップが、ひたりと宍戸の喉に触れた。
 喉に冷たい封印。
 唇は温かかった。
 キスだった。
 紛れも無く、ネットを挟んでテニスコートでしたことは。
「……………だって宍戸さん罵詈雑言つくすから………… 好きな人に怒鳴られるの、しんどいです」
「お前な、」
「黙らせたかったし、特訓も止めさせたかったし、………ずっと、すごく好きだし。宍戸さんのこと」
 ひっそりと告げてくる後輩の、どことなく力ない気配に宍戸は深い溜息をついた。
 我慢出来なくなってて、と後輩に囁かれ、なんだかくらくらしてきた。
 しかも逃げられるとでも思っているのか、鳳の手に、宍戸は利き手をきつく握りこまれていた。
「長太郎」
「……やです」
「泣きそうな顔すんな。そんなデカイ図体してみっともねえ」
「宍戸さんに嫌われたらマジで泣く」
「半ベソで脅すなバカ」
 でも振りほどけないほど強い手の力。
 触れるだけだったけれど、我慢が出来なくなったみたいにひどく熱っぽかった口づけ方。
 背の高い、広い胸の、後輩。
「………………ったく。しょうがねえな」
「宍戸さん……」
「黙らせよう止めさせようで咄嗟にやっちまった事なら、しょうがねえ。俺もお前にやっちまったしな」
「………なんのことです…?」
 怪訝に問い返されて、宍戸はおとなしく手を握られながら嘆息する。
「この髪だよ」
「…宍戸さんの髪?」
「お前が俺の代わりにレギュラー落ちるなんざ、めちゃくちゃなこと言い出すから。焦るわ腹立つわ困ったわで、お前を黙らせて止めさせる方法が俺もあれ以外浮かばなかったしよ」
「宍戸さんの髪、切らせちゃったの俺が原因だったんですか?!」
 鳳が、宍戸が髪を切った事に異様に固執していたのが判っていただけにそのことを言う気は全くなかったのだが。
 あれと同じかと思えば、宍戸は、何だか突然されたこのキスにも対応できる気がしたのだ。
「バーカ。鋏持ってたんだから、最初から髪は切るつもりだったさ」
「………宍戸さん」
「ただお前が予想もしなかったこと言い出すから、慌てちまってとんでもない切り方しちまったけどな」
 ここまでしなくてもよかったかと、毛先の見えなくなった髪を指先でつまんで宍戸はぼやいた。
「……、っ……おい」
 話をしているというのに、いきなり頭を抱き込まれる。
 後輩のくせしてそう易々と先輩を抱きこむんじゃねえと思ったが、そうされることが気持ち良いと知ってしまって宍戸は溜息を吐き出した。
 それを鳳はどう受け取ったのか、どこか必死な声が宍戸の耳に触れた。
「………俺、……黙らせたいとか、止めさせたいとかって、それが理由なのは、本当はほんの少しで。正直言うと」
「……………………」
「宍戸さん」
「……………そんなに好きか?俺が」
 はい、と耳元で躊躇わない声がして。
 遠慮がちに、でもひどく熱っぽくかき抱かれる。
 感情が伝染してくる。
 強く抱きしめられていって、宍戸の唇に鳳のクロスが当たる。
 押さえつけられる。
 キスをする。
 クロスに。
「………気持ち悪かったり……します…?」
「いや………お前のことは気に入ってるしな」
「厭とかじゃ……?」
「別に」
 今までわざわざ恋愛感情を気にしたことがない相手なだけに、意識させられたらそれは案外するりとはまって、宍戸はあっさり納得した。
 何事にもスピードが信条の宍戸は、新しく捕まえた感情を怪訝に思うことはしなかった。
「おい。長太郎」
「はい」
「明日、髪切りに行くの付き合え」
「…………まだ切るんですか?」
「こんなザンバラなまんまで試合に行かせる気か。お前」
 ついでにお前も切れよと言いつけると、はい、と鳳はおとなしく返事をする。
 そうして名残おしそうに腕を緩めていくから、宍戸は鳳を可愛いなどと思ってしまった。


 もう一度キスしたかったら、サーブ100本と引き換えに俺からしてやろうかとそそのかしたら、容赦のない100本が浴びせられて腹が立ち、そしてそのうちおかしくなって、宍戸は鳳のサーブ100本を、最初は怒って最後は笑って、全てその手で受け止めた。

 宍戸がレギュラー落ちして、鳳と一緒に特訓をするようになって。
 その日初めて、鳳の家に泊まった。
 借りた風呂から戻ってきてすぐに、待ち構えていたかのように鳳が怪我の手当てをさせて欲しいと言ってきた。
 ここ数日、幾度と無く鳳とやりとりを交わした話題。
 自分がいつもと同じようにそんな事は必要ないとそれを強く拒んでいると、突然鳳に怒鳴られた。
 そんな事は初めてだった。
 咄嗟に面食らった自分に鳳は詰め寄ってきて肩をつかまれる。
 何もかも本気で大丈夫だなんて言わないでくださいと、言った怒声は大きかったが、しかし同時にあまりにも痛ましげな目で見据えられてしまえば反抗心も湧かなくて。
 鳳を、ただ見つめるしか出来なくなる。
 こんな風に怒鳴られたのは初めてだった。
 こんな顔の鳳を見るのも。
「宍戸さんは逃げない人だけど、傷つかない人じゃないんです」
「…長太郎?」
「頑張れる人だけど、何が起きても辛くない人じゃない。宍戸さんは時々そういう所をすごく間違えてます」
 睨みつけるように見据えられ、本気で怒った鳳に傷んだ二の腕を強く握り込まれて、思わず眉を寄せたけれど。
 苦しげな溜息を吐き出したのは寧ろ鳳の方だ。
 そのままお互い黙り込んで、見詰め合うだけになる。
 いつもならば穏やかに微笑む鳳の激昂に。
 向けられた言葉に。
 気持ちのどこかが揺すられる。
 言葉を返せない自分に、鳳は無言のまま、徐に動いた。
 彼の部屋に置いてあった小さな円柱のキャンドルに手を伸ばした。
 そしてそれに火をつける。
 白いキャンドルは炎を灯して、何かとてもいい香りがした。
 そして鳳は部屋の電気を消した。
「………………」
 暗いそれはまるで今の自分のおかれている状況と同じだ。
「ねえ、宍戸さん」
 闇に滲むキャンドルの灯りのような声だ。
「キャンドルの炎、綺麗だと思いませんか」
「………………」
 鳳の手元、ただそこだけが。
 闇の中で暖かな色を滲ませ明るい。
「宍戸さんみたいじゃないですか」
「…俺?」
「宍戸さんは、何でキャンドルの灯りがこんなに綺麗かって、考えた事ありますか?」
 僅かな光に照らされた鳳の目が真っ直ぐに自分を見つめてくる。
「例えばここにもし宝石があったとしても…暗闇の中ではダイヤは光れない。でもキャンドルは、暗闇でこそ光れます。自分の力で、灯り続けて光るんです。こんな暗闇の中でも」
 低く落ち着いた、真摯な声だった。
 キャンドルの炎に、鳳が身に着けているクロスが鈍く反射する。
「でもね、宍戸さん。そういうキャンドルであっても、息でも吹きかけられれば簡単に炎が消える事もある。水に投げ込まれたら、乾くまでの間は勿論火だって灯らない。どうなっても平気だなんて、そんな訳絶対になんかないんだ」
 だから判っていて、と鳳は言った。
 まるで懇願するように。
「消されても、何度でも。またあかりを灯して、自分自身の力で輝ける。だからこそ、何をされても平気だなんて、そういう過信だけはしないで下さい」
「………………」
 薄暗がりの中、鳳の声は真剣で、そして優しかった。
 揺れるキャンドルの炎と、鳳のクロスを見ながら貰った言葉に、少しだけ泣いてしまいそうになる。
「手当て、させてくれますか?」
 キャンドルの炎の灯りだけしかない部屋で。
 漸く、いつも見慣れた微笑と、優しい声とに。
 自分が静かに頷けば。
 抱き締められた。
 鳳に。



 一瞬より長く、永遠より短く。
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