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How did you feel at your first kiss?
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 頭のいい人なので、全て判っているのだろう。
 赤也は柳の横顔を直視しながら思う。
 この人は、全部判っている。
 自分に、どういう目で見られているか、どう思われているのか、何もかも判った上で、何も変わらずにここにいる。
 部活を終えて、約束などしている訳でもないが、柳が帰らないので赤也も部室に残った。
 二人きりで、会話らしい会話もないまま、今赤也がここにいる事に何の不思議もないように部誌に文字を書き綴っている。
「柳さん」
 赤也が呼びかけると、柳はペンを持つ手をとめて切れ長の目で視線を流してくる。
 見ていると、苦しい。
 赤也は緊張に似た思いを抱いて仏頂面になる。
「………………」
 きっと彼はいつも同じやり方で自分を見つめている。
 それが時には優しそうだったり、時には冷たそうだったり見えるのは。
 恐らく自分の心情故なのだろうと赤也は考えた。
 優しそうに見えるときは、そうして欲しくて。
 冷たそうに見えるときは、やましくて。
「赤也」
 焦れて、二度目の呼びかけをするより先。
 柳が落ち着いた声で返事を口にする。
 柳は乱れない。
 側に置く後輩が、彼をどういう目で見ていても、どう思っていても。
 それが赤也には悔しかった。
 柳を動揺させる事が出来るくらい、もっと自分が強くて、もっと自分が大人であったらよかったのに。
 その思考はいつも赤也の胸の内を巣食っている。
「赤也?」
 色とか、熱とか、影とか、匂いとか。
 そういうものをまるで感じさせない人。
 こんなに近くで、肩を並べていてもだ。
 清楚で、強くて、大人だ。
 柳は。
「柳さん」
「どうした」
 食い入るように、どれだけ見据えても動じない。
 激情したり、しない人。
 感情を決して剥き出しにはしない人。
 そのくせ近寄りがたい雰囲気で気安く名前を呼び、厳しそうなテリトリーを容易く明け渡してきたりする。
 ひとつ年上の人は、もっと年齢差があるかのように、いつもいつも大人びていて。
 判らなくて、知りたくて、気づかせたくて、躍起になった。
 気になって、気になって、仕方がなかった。
 最初からずっと。
 今でもずっと。
 同じレギュラーという立場に立てば何かがもっとすっきりするのだと赤也は思っていたけれど、それは叶わなかった。
「俺、あんたが好きだ」
 重い声で言った。
 実際息苦しかった。
 赤也は柳を睨みつけるようにして告げた。
 柳は驚いた素振りは勿論、目を見開くでもなく、身じろぐでもなく、ただ少しだけ首を傾けた。
 真っ直ぐに切りそろえられた毛先が微かに揺れた。
 赤也はペンを持っている柳の手を、手首の下辺りで、上から机に押さえつけた。
 そんなことをしなくても柳はきちんと赤也の顔を見て話をしているし、逃げ出す素振りもないのに。
 まるで懇願するかのように力が入る。
 柳の背は自分よりも高いのに、華奢な手首の感触に驚きながら、赤也は柳を見据えた。
「どうしたんだ? 急に」
 はぐらかすでもない。
 けれども残酷なほど冷静な声で問われて、赤也は首を左右に振った。
 歯痒さは、きっと柳には判らない。
 伝え方を赤也は知らない。
 急になんかじゃない、でもいつからかなんてもう覚えていない。
「わかんない。あんたが好きだ」
 だから赤也は強く言った。
 焦がれる衝動のまま言い切った。
 ひどく大切なものを希う時、この言葉を口にする時、急いたような感情と、神経が焼き切れそうな衝動が込み上げる。
 それが自分だけだとしても。
 赤也は柳のようにはいられなかった。
「判らない?」
 ほんのりと笑み混じりに柳が繰り返す。
 咎める言い方ではなかったが赤也は即座に含められた意味を否定した。
「あんたのことが好きかどうか判らないんじゃない。あんたのことが好きだって事しか判らない」
「………………」
 さらりと。
 また柳の髪が揺れる。
 涼しげな目元にその毛先がかかって、白い首筋がなめらかに傾く。
 喉が詰まる。
 息が詰まる。
 柳は赤也の体内に熱を住まわせ、それを冷静な態度で煽って、赤也ばかりを追い詰めて。
 それがほんの少しも嫌ではなかったけれど、どうしたらいいのだと赤也は途方にくれる。
「赤也」
「……何っすか」
 返事に間が空いたのは、柳の腕を押さえている赤也の手に。
 手の甲に。
 柳が空いている左手の手のひらをそっと乗せてきたからだ。
 長い指。
 付け根から指先まで真っ直ぐで、爪はきれいな自然の色で仄紅い。
「初めてお前と試合した時の事を覚えているか?」
 引き剥がされるのかと思った手はそのまま。
 柳が落ち着いた声でそんな事を聞いてきて、赤也は憮然とした。
「忘れるわけないっしょ。部長と副部長と柳さん、あれだけ最低な負け方を一日に三回もしたの初めてっすよ」
 忘れるわけがないと判っていて聞くことも、自分の言葉をはぐらかして違う話をすることも、どちらもずるいと赤也は思うのに。
 それを責める気になれないのは、重なった手が赤也の気持ちをあまりにも心地よく包むからだ。
「すごい目で睨みつけていたものな。赤也は」
「…当然。あんな血反吐吐くくらい悔しい思いしたんですから」
「あの時からだな。お前を好きなのは」
「…は?」
 さらさらと、一瞬の後にはもう遠くに流れていってしまっている水の流れのように柳が平然と放った言葉に赤也は呆気にとられる。
 今、何と言ったのか、この人。
 そんな呆然とした赤也な顔を見つめて、柳が薄い唇で綺麗な弧をえがく。
「すぐに気づいた精市には、随分からかわれた。…過去形ではないな。今もだから」
「は…?」
 いつまでも間の抜けた顔などしていたくはない。
 しかし、あまりにも突拍子もない事を言われて赤也はばかみたいに問い返すしかできなくなる。
 ひんやりとした柳の手に力が入る。
 まるで先程の赤也のように、逃げられることを阻むような手の力で。
「やな、…」
「知らなかったのか、赤也は」
「全然判んないっすよ…! あんた…!」
 赤也の怒鳴り声に柳は笑みを深めて、するりと手を引いた。
 赤也の手の下からも自身の右手を引き抜き、部誌を閉じる。
 動けない赤也をよそに帰る気配をみせて柳は立ち上がって。
「俺はお前より先にお前を好きになった」
 覚えておくといい、と柳は片手で赤也の髪を軽くかきまぜた。
 頭を撫でられ、そんな仕草を赤也は呆然と受け入れるしかない。
「柳さ…、…?」
「お前がどれだけ俺を好きだと言っても、好きでいる時間は、一生俺の方が長い」
 お前の負けだ、赤也。
 そんな言葉を言い置いて柳は鞄を手に部室を出て行った。
 赤也は永遠の敗北をつきつけられたまま。
 恋に落ちたどころではない、恋に沈められて、また新たに別の意味での完全敗北を味わわされた。


 一生、勝てない。
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 図書室のソファで本を読んでいる柳生の肩に、仁王が寄りかかっている。
 柳生は随分長い時間本を読んでいて、その間に何回か自分の肩口の仁王を見やった。
 彼は大抵目を閉じていて、時々は開いていた目が合って。
 終始おとなしくしているものの、この場所でこの距離の近さはどうだろうかと柳生は思う。
 言ったところで聞く相手でもないし、寧ろ第三者の人目があるときは必要以上近づいてこない仁王なので、こういう時はつい柳生も大目にみてしまう。
 膝下の長い足を持て余すように膝を立てて大きく開いている格好は行儀が悪いと思うが、それも注意しそびれたまま図書室は徐々に夕暮れに侵食されていく。
「仁王君」
 随分と読み終えるのに時間がかかったのう、と仁王は目を閉じたまま柳生の肩に一層懐いてくる。
「まだですよ。静かにしていてくれるのは有難いですが、そんなにべったりされるとどうも…」
「嫌か?」
 語尾に被せるように思いのほか強い声で問われ、そうでなく、と柳生は首を左右に振った。
「時間が経てば経つほど本よりも仁王君のことが気になってくるじゃないですか」
「そりゃぁええ」
 もうけもんじゃ、と仁王が両目を開け、唇を引き上げる。
 含みのある笑い方にも慣れている。
 しかし、ずるりと背中がソファの背もたれから滑った事には辟易と、柳生は眉根を寄せた。
 本を落とさないよう手近のテーブルに置いてから、中途半端な体勢でのしかかってきた仁王を下から睨みつける。
「仁王君」
「柳生は怒ると色気が増すのう」
「そんな腐った事言うのは仁王君だけです」
「当たり前じゃ。他の奴らにはこんな事は言わせんよ」
 零れるように笑うと毒を振りまくような独特な男。
 窘めるように、柳生は片手で仁王の胸元を押しやった。
「いい加減離れて下さい。ここは図書室ですよ」
「柳生」
「……仁王君。拗ねても可愛くない」
 わざとらしく膨らませた白い頬を指先を揃えた右手で軽く叩き、でもそのまま仁王が顔を近づけてくるので、結局柳生の右手は受けるキスを支えるためのものになる。
「柳生はかわいか」
「………そういう事は言わなくていいです」
 小さく音がして唇と唇が離れてすぐ。
 至近距離でそう言われ、囁きと一緒に熱っぽい吐息が触れてくる。
 体温の低い仁王の息とは思えないその熱はうつされる。
「柳生」
「………………」
 頬と、目尻と。
 唇で掠られて。
「色気のあるとこも、可愛いとこもあるけん、柳生は完璧じゃの…」
「何度でも言いますが、そんな事を考えるのは仁王君くらいですよ」
 色気とか、可愛いとか。
 柳生にしてみれば、仁王の方だと思う。
 飄々とした風情といい、怜悧な顔つきといい、くどい気配などどこにもないのに、近づくと彼はいつも濃密な色気を振りまいてくる。
 ペテン師などと言われるだけに、本気も冗談も真剣に言う男だけれど。
 柳生は、何故か自分に向けられる仁王の言葉に軽薄さを感じたことはなかった。
「柳生の一番エロイところは、舌触りのええとこかのう…」
「……、ん」
 これまでの戯れるようなキスではなく、ぐっと息まで塞ぐような深い角度で唇が塞がれる。
 仁王は本格的にのしかかってきて、柳生はソファに完全に組み敷かれた。
「…っ………ふ、…ぁ…」
「柳生…」
 唇が離れるなり、とろりと濡れている口腔を自覚させられ、寸前まで潤んで絡んでいた舌と舌が熱を持つ。
 舌を味わうような仁王のやり方こそが、卑猥でなくて何であるのかと柳生は眼鏡越しに目を細める。
「……外さんの?」
 眼鏡に手を伸ばしてこられ、柳生はかぶりを振った。
 眼鏡を外すと完全に仁王はする気になるとと判っているから、柳生は仁王の身体の下から逃げる。
 つれないだとか冷たいだとか仁王は言っていたが、無理矢理柳生を押さえつけたりはしなかった。
「……家に行ってもまだその気のままならば…構いませんよ」
 それでつい、譲歩案のようなことを柳生は言ってしまうのだ。
 乱れた髪に手ぐしを入れている柳生を、仁王はしげしげと見やっていて。
 ソファに仰向けに寝そべるようにしながら肘で上半身を起き上がらせた体勢のまま、爆笑した。
 失礼なと柳生が睨みつけると、仁王は突如飛び起きるように立ち上がって、柳生の肩を抱いた。
 軽く唇を合わせてから。
「……っ……なんで走るんですかっ」
 急な加速に引っ張られて、図書室を飛び出す。
 柳生はあまり見た事のない走る仁王の背中に面食らいながらも後につく。
 急がなければ落ち着いてしまうような欲求ならば、何も無理してまでしたがることはないだろうと柳生は思い、仁王に告げもしたのだけれど。
 機嫌のいい仁王は一言、柳生に言った。
「お前さんは、ほんとに頭が悪いのう」
「誰に言ってるんですか!」
「柳生は大馬鹿じゃ」
 足止めた場所ですぐに始めるなんて脅しのような宣言で駄目押しだ。
 迂闊に足も止められない。
 全力疾走していくしかない。
 やると言ったら絶対にやるのだ、仁王は。
 柳生は仁王に腕を引かれたまま走り、一方的なのは癪だから、ラストスパートは自分がこの腕を引いて走りきってやろうと考えた。
 うっすらと日が翳って、長い時間明るい夏の教会の中にも、影が生まれ始める。
 観月がふと手を止めて顔を上げたタイミングを見計らっていたかのように声がかかる。
「観月? 何してんだ?」
「………赤澤」
 教会の扉が開いていて、逆光に長身のシルエットが浮かび上がる。
 唐突に現れた赤澤に然して驚きもしない観月の元へ、彼は長い足で大股に歩み寄ってきた。
「何してんの。これ」
 ひょいと気安く観月の肩越しに顔を近づけてくる。
 観月の手元を覗き込むようにしてくる赤澤は、肩を越す長さの髪をゆるくゴムで括っていた。
「キャンドルの手入れです」
「手入れ? そんなのしてんのかよ」
 いつも?と間近から赤澤に見つめられ、観月は微かに眉根を寄せる。
 別に怒った訳ではない。
 赤澤相手だとどうしても時々こうなるだけだ。
 例えば近すぎるような距離だとか、真っ直ぐすぎる眼差しだとか、自分の名前を口にする時の声だとか。
 身構えるようになってしまうのは決して赤澤に対して怯んだりしているわけではなく、惑わされそうな自分自身への戒め故だ。
 そして赤澤は、観月のそういう心情を正しく判っているようだった。
 だから観月が赤澤と少し距離をとったり、眉を寄せたり、牽制するような態度を滲ませても、別段怒りもしないしからかいもしないし落ち込んだりもしない。
 今も、ん?と答えを促すように見つめてくるだけだ。
「……綺麗に燃えた方がいいでしょう」
「お前、ここ好きだもんな」
 あっさりと明るい笑顔を見せて、赤澤は観月の手元を甘く見下ろした。
「手入れって何するんだ?」
 観月は真新しいキャンドルに火をつけて見せる。
「初めて点火する時はこうして……溶けたロウがキャンドルにたまって、表面に均一に行き渡るまで燃やしておくんです。こうしておくと、次に火をつけた時に芯を中心にして、均等にロウが溶けるので芯が沈まないんですよ」
「へえ」
「芯が埋もれてしまっているものは、ロウを切り取ってやって。キャンドルの中心に芯が正しく入っていないものは、萌え方がムラになるのでスプーンの柄で修正を」
 話の途中で観月の手が赤澤の手に取られる。
 何ですかと問うより先、観月の手は赤澤の口元に運ばれていて。
 手の甲に唇を寄せられていた。
「………………」
 観月は絶句して固まった。
 唇が離れる時に微かに淡い音がする。
 赤澤は観月の手を取ったまま、ちらりと上目に視線を向けてきた。
「すごい手だと思ってさ」
「な、……」
 優しい、と低い甘い声は言いながら、再び観月の甲にキスをする。
 うやうやしさというよりは、愛おしさを訴えてくるようなかすかな接触と、赤澤の伏せた目元の印象とに観月はどっと赤くなってうろたえた。
「なに、…おかしなこと言って、…」
 手を奪い返して、胸元のシャツを掴む。
 震え出しそうで。もう片方の手でその手を覆った。
「おかしかねえよ、観月」
「………………」
「お前、その手があったら、俺なんか簡単にお前の思うままだぜ?」
 屈託なく笑う笑顔と、じっと観月を見据えてくる眼差しの深さに、言われた言葉の意味も考えあぐねてしまう。
 絶対的自信のある思考が、赤澤相手ではまるで機能しなくなる。
 だいたい思うがままになるような男でもあるまいにと観月は赤澤を睨んだ。
 赤い目元ではたいして鋭くもならない視線に違いなかったけれど。
「……疑ってるだろ、お前」
「当たり前でしょう、そんなこと、」
「あるわけない、なんて事はないんだぜ。生憎な」
 さわってみろよ、と赤澤は言った。
 いきなり何を言い出すのかと観月が唖然としていると、試してみな、とまた赤澤が笑って言う。
「お前の手が出来ること、その目で見てみな」
 軽く腕組みして、赤澤は観月を柔らかく見下ろしてくる。
 試せと言われても何をどうすればいいのかまるで判らない。
 観月は胸元にある自身の手を見下ろした。
 大きくもなく、小さくもなく。
 特別な力が宿っているとは思い難い、ただの手だ。
 今はおそらく蝋の香りが多少染み込んでいるであろう指先。
 この手で、赤澤に、何が出来るというのか。
「………………」
 教会の中は落ち着く。
 その場所で自分の心情を乱す赤澤に困惑したまま、観月はぎこちなく手を伸ばした。
 自分が触れる事で、赤澤に何かが出来るとか、ましてや意のままに出来るとか、信じた訳ではない。
 ただ観月は、じっと観月を待っている赤澤に、手を伸ばしたくなっただけだ。
「………………」
 日に焼けた顔の、かたい頬に指先が当たる。
 赤澤が微かに瞬きするように目を伏せた。
 頬を滑るようにして目元に近づけていく。
 手のひらに頬を包むように密着させる。
 あたたかい。
 手の甲から手首にかけて、赤澤の後れ毛が触れ、肌と同じように日に焼けている髪のかわいた感触が擽ったかった。
 赤澤の片頬をそっと支えるようにしている観月の手のひらに僅かに重みがかかる。
 目をあけた赤澤が、笑みにその目をゆるく細めて、気持ち良さそうに観月を見据えてきた。
 自分の手が触れているだけで、確かに、赤澤の表情はあまく和らいでいて、そんな赤澤の顔を見ているだけで、観月もどうにかなりそうになる。
「判っただろ?」
「………………」
「お前の手があれば、俺なんかお前の思うままだろ」
 納得した訳ではなかったが、観月は黙ったまま手を滑らせた。
 赤澤の頬からこめかみに指先を沈ませ、髪を撫でる。
 前髪に触れ、指先で手すさびし、するりと撫で下ろして髪を括っているゴムを解く。
 長い髪が肩先に散らばる。
 先程赤澤に、手の甲にされた事と同じ事を、観月は毛先を指にすくって、した。
 ほんの少し爪先立って、手にした髪の先に唇を寄せると、赤澤の長い腕が強く観月の背中を抱きこんでくる。
「ちょ、……っ……ここがどこか判ってるんですか…、」
 明らかに貪欲に奪われそうになる唇を寸での所で食い止める。
 赤澤の口元を覆った観月の手のひらの窪みに、笑みの形になった赤澤の唇が当たる。
 ほら見ろ、とくぐもった声がして。
 同時にそこにキスをされて観月は慌てて手を引いた。
「俺を煽るのも、その気にさせるのも、それ食い止めるのも、全部思いのままだろ」
 赤澤は両手で観月の腰を引き寄せて、しかし観月が止めたせいか唇へのキスはせずにいる。
「………………」
 観月はもう、本当に、盛大な溜息を吐き出して。
 赤澤はいつも、全ての主導権は観月にあるように振舞うけれど、結局そう見せている部分が多々あるのだと判っているから。
 せめて、表面上の体裁は保ってくれているらしい男に、あまえるような、腹のたつような複雑な気持ちで。
 観月は全てを意のままに出来ると赤澤の言う己の手を持ち上た。
 その手をどう使えばキスをさせる事が出来るのか。
 考えたのは一瞬。
 深いキスはその一瞬の後にすぐに唇にやってきた。
 神尾が落ち着かない。
 何か言いたいのだという事は、跡部にはすぐに判ったけれど面白いから放っておいた。
「な、…跡部」
「あ?」
「……なあ」
「何だよ」
 わざと億劫そうに振り返って見てやると、それまで跡部の自室のソファに寄りかかるようにして床に座っていた神尾が居ずまいを正した。
 自分の部屋で正座をする神尾、というものを跡部は初めて見た。
「ちょっと聞きたい、んだけど」
「だから何だ」
 さっさと言え、と素っ気無く促すと。
 神尾は腿の上に乗せた手を、ぎゅっと握りこんだ。
「前から聞こう聞こうって思ってたんだけど」
 跡部はもう先を促すのにも飽きて、革張りのデスクチェアに寄りかかったまま、くるりとチェアを回転させ神尾と向き合った。
 足を組み、腕を組み、尊台に眺め下ろしやると。
 神尾は不審さに戸惑うような上目遣いで跡部を見返してきた。
「何で、跡部は、橘さんを、敵視、するんだよう」
「………てめえ」
 一言一言、何もそんなに強調して言う事があるのだろうか。
 跡部は不機嫌極まりなく神尾を睨みつけた。
 そもそも、そんなの、何でも何もない。
 そんな馬鹿な事を聞いてくるのはお前だけだと嘲りめいて神尾を見下ろすと、神尾は怯むどころか深々と溜息を吐き出した。
「も、俺、頭痛い」
「………………」
「深司も跡部みたく跡部のこと敵視してるし…」
「ああ?」
 跡部にとって余計な名前がまた出てきた。
 順番をつける気にもならない。
 その二人の名前は跡部にとって最大の鬼門だ。
 神尾の言葉遣いは時々おかしいが、跡部の頭では正しくそれも読み取ってしまう。
 跡部が伊武を気に入らないように、伊武も跡部が気に入らないのだ。
 理由は同じだろう。
「神尾。お前判ってんじゃねえのか? 伊武が何で俺をそこまで嫌うか」
「え?……や、別に深司、そんなに跡部のこと嫌いなわけじゃね…よ?」
「ここであいつの肩持つな。……ったく、つくづく腹たつ野郎だな、お前は」
 跡部は不機嫌極まりなく神尾を見下ろして。
「あいつは気に食わないんだろうよ。俺がお前を俺のもんにしたからな」
「な……なな……なに言ってんだよ跡部っ…」
 何を今更そこまで盛大に慌てる必要があるのか。
 跡部には理解しがたい。
 そもそも何故こんな事まで説明してやらなければいけないのか。
「あいつからお前をとっていった俺が、気に食わないのは当然だ」
 だから、と跡部は畳み掛けた。
「俺もそういう事だって言ってんだよ」
「え?……」
「橘も気に食わねえって言ってんだよ」
「な…んで…?……、っ…た……ッ!」
 あまりにも間の抜けた問いかけに跡部は遠慮なく神尾の片耳を引っ張ってやった。
「痛いってば…!…ちょ……跡部…っ…」
「何を聞いてたんだお前。どこまで馬鹿だ。アア?」
 凄んだくらいでは怯まない神尾は、本気で判んねえよと言い返してくる。
 どこまで、ではなく。
 どこまでも、馬鹿だ。
 跡部は諦めにも似た境地で、混乱している神尾にはっきりと言ってやった。
「お前が橘に傾倒しきってんのが俺様は気に入らねえんだよ」
「けいとう?」
「心酔してるのがだ」
「………しん…すい。……?」
 この小さな丸い頭の中での漢字変換は絶対に、継投で、浸水だ。
 そうに違いないと跡部はますます不機嫌を募らせて神尾を睨みつける。
 神尾は少しの間なにかを考える顔をしていたが、ふいに跡部の目をじっと見上げてきて。
 至極不思議そうに言った。
「深司は跡部に、俺を取られたりなんかしてないし。跡部だって橘さんに俺をとられたりなんかしてないだろ?」
「………………」
 気に入らないのおかしいだろ?と神尾は稚く跡部を見上げて首を傾げている。
 まるで判っていない神尾は、何故か時折すべてを判っているような事を言う。
 それこそ、跡部よりも正しく。
「深司といても、橘さんといても、跡部といても、俺は結局俺だよ?」
「……判ってんだよ、そんなことは」
「俺、跡部を」
 好きだよ、と神尾は言った。
 いつものように恥ずかしがるのではなく、嬉しそうに、幸せそうに、神尾は笑う。
「跡部」
 好き、と繰り返すので抱き寄せた。
 言葉に詰まるなんて信じがたい。
 跡部は憮然と、そして愕然と、神尾を胸の内に抱き込んだ。
 跡部が気に食わない橘や、伊武も、神尾は好きだろう。
 けれど、今跡部に言っている言葉にきちんとひとつだけの意味があることも判るから。
 跡部は神尾を抱き締めている。
「………………」
 小さい。
 肩が。
 細い。
 首が。
 熱い。
 身体。
「………あと…べ?」
 もぞもぞと動くのが子供っぽい。
 でも、その肢体に縋るように抱き締める腕に力を込めたのは跡部の方だ。
 一生。
 神尾にその言葉を言わせ続けるには、何をすればいいか。
 どう生きていけばいいか。
 そんな事を目まぐるしく真剣に考える自分が跡部には信じがたく、それでいて暢気な声が腕の中からすればつられて笑ってしまうのだ。
「ち、……っそく、しそ、…なん、だけどっ」
 いっそしてしまえと跡部は結構本気で考えた。
 息が詰まると感じるくらいに、自分に溺れてしまえばいい。
「あとべー…っ……、」
 それでも、じたばたもがく必死さに少し腕を緩めてやる。
 跡部が見下ろすと、神尾は顔を赤くして、髪をくしゃくしゃにして。
 少しばかり恨めしそうな視線を投げかけてくる。
「もー、お前、さぁ…、っ」
 顎を救って言いかける言葉を遮り唇を重ねると。
 ひどくびっくりしたように神尾は身体を震わせた。
 跡部の二の腕辺りのシャツを咄嗟に掴んでくる仕草が子供っぽいのに、キスを受け入れる口腔は甘く優しかった。
 存分に舌を絡めてから、唇を離して。
「俺が…何だ?」
 跡部は笑って、低く神尾に囁きかける。
 唇の端を啄ばむようにしてやると、すっかり涙目になった神尾は噛み付く気力もなくなったようで、跡部の首筋に唇を埋めておとなしくなった。
 日吉は意識してる相手しか視野に入れないね、と一年の時に笑って日吉に言ったのは鳳で。
 にこやかに言っている割にはそれは随分と明け透けな物言いで、それに対して日吉が無表情に、取り合えずお前が誰かは判ってると告げればさすがに鳳も苦笑いしていた。
 それでいてそれはありがとうと皮肉でも何でもなく言ってのけた鳳は、見た目の柔和さほどあまい相手じゃないという事が日吉にもよく判っていた。
 日吉は同学年にはたいして興味がなかったが、準レギュラーからまずは樺地が抜け、次に抜けたのはその鳳だった。
 シングルス希望の日吉からすれば、レギュラー入りしたもののダブルスだった鳳にはそれほどの関心は無く、だから彼がそれからダブルスのパートナーを変えた事に関しても取り立てて思う所は何もなかった。
 ただ何故か、鳳が最初にダブルスを組んだ相手。
 上級生の、ある男の存在だけは、何故だかひどく日吉の心情を苛立たせた。
 気づいた時にはもう、ずっと、ただ、苛ついて、その顔を見る度、声を聞く度、どうしようもなくなってしまっていた。
 きっかけなどなかったのだ。
 鳳が一年の時に言っていた言葉を使えばつまり、意識どうこうではなく、単に日吉の視野に入ってきた時から、日吉が彼を認識した瞬間からもう、手のつけようもなくなってしまっていた。
 苛々する。
 見ないように、聞かないように、同じ部活にいながら関わりあいたくないとすら思っていた。
 その相手の何がこうまで気に入らないのか、苛つくのか、彼が何かをしていても気に入らないし、何もしていなくても腹が立った。
 誰かと話していても、一人黙っていても、テニスをしていても。
 今も、こうして、試合中である日吉の視界にその姿はあって、絶え間なく日吉の神経を刺激してくる。
 その声がしている。
 苛立ちをボールにぶつけてしまいがちになりながら、日吉は、ずっと頭の中で繰り返す。
 馬鹿だ、と繰り返す。
 あの人は、馬鹿で、馬鹿で、それなのに何故滑稽にならないのだと歯噛みする。
 何故ほんの少しもみっともなくならないのか。
「滝、こっちの計測もお前やってんのかよ」
「跡部が日吉のサーブが早くなってるからとっておけって」
「んな事、てめえでやれよ」
「跡部にそれ言えるの宍戸くらいだよ…」
 何故、笑えるのか。
 何故、そんな会話が出来るのか。
 宍戸を相手に、滝は和やかに会話を続けている。
 どうしてそんな真似が出来るのか。
「………………」
 敗者切捨ての氷帝において、唯一の例外となった宍戸のレギュラー復帰は、ダブルスだった。
 滝を落とし、滝のパートナーだった鳳と組んだのが、宍戸だ。
 勝者のみがレギュラーという氷帝のシステムは日吉の好む所で、誰がレギュラー落ちしようが日吉はまるで構わなかった。
 しかし滝に関してはひどい苛立ちを覚えた。
 レギュラー落ちしてからも、まるっきり淡々としている様が気に食わない。
 レギュラー落ちが決定となった敗北の相手である宍戸とも何の変化も無く肩を並べている。
 元パートナーだったはずの鳳まで持っていかれていながら、滝は宍戸と親しく話し、鳳とも以前と変わらぬ接触をもっている。
 普通でない。
 今や滝の存在そのものが日吉に苦痛を与える程だった。
「………………」
 苛立ち紛れに打ち込んだスマッシュで試合に勝って、日吉は即座にコートを出た。
 こめかみから流れてきた汗を二の腕で拭う。
 ふわりと白いものがいきなり放られてきて、日吉は無意識にそれを手で受け止めてから、憮然とした。
「お疲れ、日吉」
「………………」
 なめらかに落ち着いた声で滝に声をかけられ、放られてきたタオルの残り香だろうか、後から清潔な甘い香りを感じ取る。
 日吉は眉根を寄せた。
 無意識に相手を睨み据える。
「それ、使ってないから…」
 日吉に投げたタオルを指差して滝は淡く笑った。
 切りそろえられた長めの髪が、肩からさらりと零れる。
 少し首を傾けるようにして、滝は笑うのだ。
 いつも。
 誰にでも。
 だからといって何故自分にまでそんな笑顔を向けるのかと日吉は憮然と滝を見つめ続けた。
 手にしているタオルなどいらなかった。
 でもそれをどうしていいのか決めかねる。
 ただ無言でいるだけの日吉の視線の先で、さすがに滝も曖昧に笑みを消していく。
 そうだ。
 どうせそんな顔をするのだから最初から自分に声などかけなければいいのだと日吉は苦く思った。
 滝は誰とでも穏やかに親しく付き合えるのだから、何も自分にまで構う事はない。
 口を開くと日吉が意識しないうちに尖った拒絶の言葉ばかりが放たれそうで、たぶんそれはしない方がいいのだと日吉にも判るから、こうして無言でいるのだから。
 さっさと消えて欲しい。
 そう思いながら日吉が滝を見据えているその場で、突如、大袈裟ともいえるほどの溜息が吐き出された。
 日吉ではなく、滝でもなかった。
「若」
 深い嘆息の後日吉を呼んだのは宍戸だった。
 日吉は舌打ちでもしたい気分で顔を背ける。
 お前なあ、と大股で歩み寄ってきた宍戸は、決して暴力まがいではないものの、手荒く日吉の胸倉を掴んで顔を近づけてくる。
 真っ直ぐな目、これが日吉は正直苦手だ。
「お前、いい加減ちゃんと自覚しねえと、そのうち取り返しつかなくなるぜ」
「………………」
 宍戸が何故か声を潜めて言った言葉の意味が、全く判らないと思いながら。
 日吉はぐっと息を飲む自分に気づく。
 どうして、まるで、図星でもつかれたかのような振る舞いを見せてしまったのかと困惑する日吉の態度をどう見たのか、宍戸はすぐに手を離してきた。
「宍戸」
「判ってる。……んな、あからさまに呆れたツラするんじゃねえよ、滝」
「呆れた顔もするよ。いきなり掴みかかるんだから」
 足早に近づいてきた滝が、戸惑ったように、けれども真摯に、宍戸の肩に手を伸ばす。
 しなやかな指が宍戸の肩に乗るのを見て、日吉はきつく眉根を寄せた。
 言葉になどしなくても、身体から噴出すような怒気はひどく判りやすかったようで、宍戸はまた溜息をつき、滝は気遣わしげに日吉を見つめてきた。
「…日吉? どうかした?」
 真面目な声だった。
 日吉は追い立てられるような切迫感を覚えながら滝を睨み据えた。
「……あんたに、呆れてんですよ」
 熱くて重い感情で放った言葉は、声ばかりがこの上なく冷え切っていた。
 滝が目を瞠る。
 その表情に日吉は目つきを尚きつくする。
「あんたが、あまりにも馬鹿で」
「若、お前な、」
 宍戸が何か言いかけるのを、滝がそっと仕草だけで遮った。
 宍戸の肩に置いた滝の手は、宍戸を制し、宥めるように、やわらかく動いた。
 どちらかといえば激情型の宍戸がそれでひくのも日吉には気に入らなかった。
 そんな所作だけのやりとりに日吉はますます声を低くする。
 言葉が止まらなくなる。
「あんた、レギュラー落ちして、よくそんな笑ってられますね。自分を蹴落として、自分のパートナーまで持っていった相手と、お気楽に笑って話なんか、よく出来ると思って呆れてるんですよ」
 一息に言い切った日吉は、まるで憎んでいる相手と対峙しているような自分の態度を、どこか他所事のようにも感じていた。
「お前なぁ…!」
 本気で声を荒げる宍戸の肩をほっそりとした指で尚もしっかりと制した滝に、日吉は何だか泣きたいような複雑な憂鬱に蝕まれていく。
 怒りや苛立ちは、長く続かなかった。
 滝から目を背けていれば、それだけでいられたかもしれなかったけれど。
 滝の表情や仕草を目の当たりにすると、何かが崩れる。
「………………」
 日吉はもう滝の顔が見られなくなり、その指先だけを見ている自分に気づいている。
 顔が見られない。
 疚しいのが自分だからだと日吉はそれだけは確かに判っていた。
 呆れるほど馬鹿なのは自分だ。
「日吉は、全部、一回でおしまい?」
 あからさまにひどい言葉をぶつけた相手は、しかしやわらかな声のまま日吉に問いかけてくる。
 滝は、きっと日吉を真っ直ぐに見ている。
 いつも、彼はそうだ。
 そんな滝と視線が合わせられないのはいつも自分の方なのだと自覚しつつ、日吉は顔を背けて歯を食いしばる。
 滝は日吉が何を言っても、ほんの少しも傷などつけられていない毅然さで言った。
「一回失敗したことは、もう二度と成功はしないって…思ってる?」
 俺はね、と滝が話し続けるのを、聞いていたい気もするし、聞きたくもない気もする。
 日吉は本当に何をどうすればいいのかまるで判らなかった。
「俺は、失敗した事は、二度目も、三度目も、何度目だって構わず、繰り返すよ」
 それが。
「間違ってしまった事は修正する。失敗した事はやりなおしてみる」
 それが。
「人がみっともないって思って見ていても、俺はそうしたくてしてる。みっともないの、嫌いじゃないんだ」
 それが、滝には出来て、日吉には出来ない事なのだ。
 突き上げてくる感情に歪んだ表情を日吉は背けるしか出来なくて。
 ましてやそれを滝は目の当たりにした訳でもないのに、ふと、気遣うようなとてもやさしい静かな声で日吉を呼んだ。
「……日吉?」
「………俺は、」
「うん……」
 頷きだけのひどく優しい声が、日吉が途切れさせた言葉の続きを促してくる。
 顔は背けていても、強がって、拒んでも、やはりどうしてもそれに縋りたくなる、そんな不思議な声だ。
 日吉は、それを振り払うようにして、吐き出した。
「あんたはそうでも、俺はそんなことは知らない。俺はどうせもう、修正なんかきかないほど間違えて、失敗してるんでね」
 今更もう、と言い掛けたところを、滝にやんわりと遮られた。
「どうせなんて言っちゃだめだよ」
「………………」
「日吉が修正したいって思うなら、そこがきちんと始まりになるから」
 間に合わない事なんてないから、と囁くように滝は言った。
 そんな事、日吉は信じてはいない。
 けれど、言ったのが滝だから、日吉は背けていた顔を、その声に縋るように、徐々に引き戻していく。
 他の誰でもない。
 彼が言うのなら。
「………………」
 本当は、顔を見たくなかった。
 暴言を吐いたのは自分だ。
 今の滝の顔を見るのが嫌だった。
 滝が今どんな表情をしているのか、身勝手極まりないが、それを見て傷つくであろう自分を日吉は知っていた。
「………………」
 しかし、日吉が陰鬱に見据えた視線の先で。
 滝は、笑っているのだ。
 見つめているうちに消えていってしまうかもしれないほど、淡い儚い笑みだったけれど。
 もう、それで、本当に日吉は、耐え切れなくなった。
 無言で近づいて、距離を縮めて、宍戸の肩にあった滝の手を強引に掴む。
 宍戸が面食らっている顔を視界の端に見た。
 次の瞬間日吉は滝の手を握ったまま彼を引きずるようにしてコートの外へ出る。
「日吉、?」
 乱暴に引っ張っている。
 掴んでいる滝の手首に、日吉の指が回る。
 何故こうしているのかなんて判らない。
 どこへ行くのかなんて、日吉自身決めていない。
 ただ足早に歩いていけば、半ば引きずられるようにしていた滝も、自らの足でついてくる。
 滝の戸惑いは触れ合っている肌と肌から伝わってきている。
 日吉は部室の裏側に回りこみ、固い外壁に滝を押さえつけた。
 衝動は、一瞬のものではなく、いつも日吉の中にあった。
 噴出す先は滝だ。
「……っ……、…ょ……、し」
「………………」
 両手首を壁に縫いとめて、角度をつけてその唇を塞ぐ。
 か細い声が拒絶なのか狼狽なのか日吉には判らなかった。
 判らないふりをした。
 一瞬硬直した滝だったが、塞いだ唇はさらさらと温かかった。
 きつく口付けても、次第にふわりと力を抜いて、丁寧に優しく受け止めてくる。
 舌で侵食すると仄かに温を上げて、ぎこちなく強張る仕草に息が詰まりそうになる。
 日吉は唇を引き剥がし、滝の肩口に顔を伏せた。
 ほっそりとした首には走るような脈と熱があることを、この至近距離で日吉は知った。
 手の中に握りこんでいる滝の手首からも同じ脈打ちが伝わってくる。
「………日吉…?」
「………………」
 滝の声は小さかった。
「…日吉、」
 小さくて、懸命な声を。
 日吉は顔を上げ、一瞥しただけで、聞き流そうとしたのだが、視線だけは外せなくなって。
 苦しさは飢餓感に似て。
「………………」
 戸惑いを露にしていながらも、滝は吐息と一緒に柔らかく力を抜いて、再び日吉が滝の肩口に顔を伏せるのを促すように、その指先を日吉の髪にすべりこませてきた。
 日吉は促されるまま、黙って滝の肩口にまた顔を埋める。
 日吉の耳元に触れたものが滝の唇のように感じたが、実際は判断しかねて。
 そのまま両腕で、滝の背中を抱きこんだ。
 抱き締めたかった。
 したいことをする、それがどこかささくれ立った日吉の心情をなだらかにした。
「………………」
 日吉は言いたい事を言った。
 それを訂正する気は無かった。
 本心だ。
 滝という存在にひどく苛立つ、それもまた本当だ。
 抱き潰すように腕に力を込めて、滝を抱き竦めながら、日吉は今度も言いたい事を言った。
 呻くように、好きだと、二度繰り返して言った。
 誰かのものかもしれない。
 誰ものものかもしれない。
 日吉は、それが堪らなく嫌だった。
 このひとが自分のものには決してならないのだと思えばいくらでも。
 いくらでも、荒んだ態度や言葉を曝け出せたけれど。
 今はまるで縋りつくように、日吉は滝の痩躯を抱き締めてしまう。
「……日吉…」
 か細い甘い声で名前を呼ばれ、ぎゅっとユニフォームの背中の辺りを滝の手に握りこまれる。
 ぴたりと重なった胸元の早い脈は、もうどちらのものかも判らない。
「………冗談…?…」
「誰に聞いてんですか」
「…ほんと?」
 冗談だったら泣くと言ってきた小さな声は。
「……もう泣いてんでしょうが」
 とっくに涙を帯びていて、日吉は憮然と言って顔を上げた。
 日吉も少し混乱していた。
 滝の顔が見たかったのだ。
 何故冗談ならば泣くと言うのか判らなかった。
 目と目を合わせる。
 涙は零れてはいなかったけれど、睫が濡れていた。
 滝は日吉を見上げるようにしてちいさく微笑むと、一気に脱力したかのように日吉の胸に顔を伏せてしまった。
 焦れったい。
 他人事ながら、他人事だからこそか、とにかく焦れったい。
 折り合いの悪そうな微妙な言い合いの後、連れ立って姿を消した二人のチームメイトを見送った宍戸は、テニスコートの脇で溜息をついた。
「心配…ですか?」
 宍戸の傍らにいつの間にかやってきていた鳳が、そっと問いかけてくる。
 宍戸がちらりと視線をやると、少し苦笑いを浮かべて鳳は宍戸を見つめている。
「心配っつーか……」
 焦れったいんだよ。
 図らずとも心の声を吐き出せば、鳳も頷いて、溜息をつき同級生の名前を口にする。
「日吉、結構複雑な所ありますからねえ……滝先輩はそういう所機微に組んでくれる人ですけど……」
「……好きな相手にああいう言い方されるのはきついよなぁ」
 そんな事を言ってから、鳳と宍戸は、お互い同時にふと黙り込む。
「………何ですか、宍戸さん」
「お前こそ何だよ。長太郎」
 牽制しあうように目線だけを合わせる二人は、今度もまた同時に顔を少し反らしてひとりごちる。
「宍戸さん、相変わらず日吉のこと気にかけてますよね」
「お前も滝の事よく判ってるよな」
 相手を責めると言うよりは、少しばかり悔しいような羨ましいような、そういう不平だ。
 何を言い合っているのかと思わなくもないが、隠し立てするよりは口に出した方がすっきりする。
「………………」
「………………」
 そうやって溜息と共に吐き出した後、またそろりと互いの視線を合わせてみれば、結局笑いで払拭出来るのだから、二人は言いたい事は言ってしまう主義だ。
「すみません。いつもいろんなところで、嫉妬ばっかりで」
「お前が言うなよな」
「だって全然俺ほどじゃないですよ、宍戸さんは」
「だってとか言うな、阿呆」
 上背のある年下の男に呆れた溜息をついた宍戸だったが、やんわりとした鳳の物言いは、無闇に構ってやりたくて堪らなくなる。
 整った顔に穏やかな笑みを浮かべるのが常の鳳が、宍戸相手に時折剥きだしの感情をさらしてくるのが正直宍戸には心地良い。
 改めていつも自分の一番近くに居る鳳を見据えながら宍戸は唇を緩めた。
「滝ってのは…すごいと思うぜ、本当に」
「宍戸さん?」
「誰に対してもさ。あいつみたいにいられるかって考えたら、多分俺には無理だ」
 滝は人との距離感がいつも絶妙だ。
 強烈な個性ではないが決して揺るがない自己を持っていて、だからレギュラー落ちする事になった宍戸とも、元ダブルスのパートナーだった鳳とも、苛ついて感情をぶつけてくるような日吉とも、最も適した距離で彼らしくあるまま接してくるし、受け止めてもくる。
 それは重鎮のような穏やかさだ。
 あの厳しい跡部もまた滝を重く置いているのが判る。
「俺も滝先輩のことすごいと思ってます」
 でも宍戸さん、と少し声音の変わった鳳の呼びかけに気づいて宍戸は首を傾ける。
「長太郎?」
「嫉妬の対象どんどん増やされて、俺は少々…」
 そんな目しないでくださいよと鳳に泣きつかれて宍戸は面食らった。
 しっかりとした骨格、長い手足の体躯で、しょげている鳳の佇まいに笑いが込み上げてくる。
 俯いて肩を震わせている宍戸の横で鳳は判りやすく不貞腐れた。
「ほら、やっぱり俺の方が分が悪いじゃないですか……」
「……分がどうこうって話じゃねえだろ」
「いいんですけどね。それは。俺の分が悪いのは元から判ってますから」
「長太郎、お前、それ威張る所じゃ、なくねえ?」
「威張りますよ。もう」
 俺は宍戸さんが好きすぎる、と生真面目に嘆かれて。
 鳳という男は、こんな事を簡単に言ってくるから、たちが悪いと宍戸は思った。
「………悪いのかよ。好きすぎると」
「うんざりされてしまうかもしれないでしょう?」
 宍戸さんに、と鳳が真剣に眉根を寄せるので。
 その複雑に危惧しているかのような面立ちに宍戸は嘆息した。
 何でも判っているようで、何にも判っていない。
 大人びているようで、やはり年下故かと思いながら。
「するかよ。こんなんで」
 うんざりなど。
 出来るような自分ではないのだ。
 どれだけ貪欲なんだと、自分にそれを気づかせた後輩を。
 宍戸は軽く睨みやった。
 うんざりなんかしない。
 もっと欲しいくらいだ。
 判っていないようだから、この際きっちり判らせておこうと宍戸は言い切った。
「足りねえくらいだけど?」
 別段挑発でも何でもなく本音で告げれば、目を瞠った鳳は、片手を後ろ首に当ててがっくりと肩を落とした。
「宍戸さんー……」
「何だよ」
「苛めですよ…それ…」
「知るか」
「知るかって……」
 もう、宍戸さんは、と鳳は嘆くような声を出したけれど。
 いつの間にか笑ってもいた。
 甘い笑みと、それだけではない目で、宍戸を見下ろしてきていた。
「日吉みたいに複雑なのと、宍戸さんみたいに明白なのと。翻弄される側は、同じかもしれないです」
 俺も滝先輩も、と鳳は言った。
「お前や滝みたいにやたらと物分りのいいヤツには、絡みたくなんだよ」
 俺も若も、と宍戸は言った。
「………………」
 相手に挑むように嘆き合う自分達。
 負ける気は無い。
 勝とうと言うよりは、負けるつもりはないといった心情で。
 いつの間に眠ってしまっていたのか、忍足は覚醒と同時にまばたきしながら身体を起こそうとすると、小さいながらも歯切れのいい声がすぐ近くから聞こえてきた。
「まだ寝てれば」
「…岳人?」
 おう、とあっさり返答が返される。
 氷帝テニス部の団体移動の際に使うバスの中、忍足の隣に座るのはいつも向日だ。
 確認するまでもなく判っていたものの敢えて忍足が口に出したのは己の熟睡ぶりを自覚したからだ。
 眠気を覚えた記憶も無い。
 すっかり身を預けていたが、自分がもたれて眠るにはその肩は華奢すぎる。
「あー……堪忍な」
「何が?」
「重かったやろ」
「別に?」
 侑士ひとりくらい構わねえよ、と即答してきた向日は、身体も顔も、細くて小さい。
 それなのに少しも脆弱に見えないのは、きっぱりとした態度と声と目線のせいだ。
「侑士、寝てんのかよ、ちゃんと」
「……ん?」
「ぴくりともしなかったぜ」
 口調よりも雄弁に、眼差しが気遣わしく忍足を見つめてくる。
 大きな目に率直な心配が宿っていて、忍足は少し笑った。
「お言葉に甘えるわ」
「ああ」
 忍足は向日の肩に再び寄りかかる。
 小さいなあ、と思いながらもとろりと心地よく瞼がまた落ちかける。
「夢見が悪くてなぁ…昨日」
「心霊本でも読んだんだろ」
「岳人やあるまいし……」
 呟いた声はすぐに聞きつけられて、頭を拳で軽く叩かれる。
 たいして痛いわけでもなく、握った拳も小さいなぁなどと思いながら忍足は向日の肩に頭を預けたままでいる。
 怪談嫌いの向日は、悉くそれに携わるものは避けて通るのだが、たまにうっかりと目にしたり聞いてしまったりすると、その日はいつまでも眠れないらしい。
 多い時には月に七日は忍足の所へ泊まりに来る向日なので、その辺のことは忍足もよく知っていた。
 怖がりだけれど強がりでもある向日は、素直に怖いと言う事はなく、そういうときは忍足の寝床に潜り込んでくるのだ。
 そういう時はとりとめなく向日があれこれ喋り、それに忍足は頷いたり返事をしたりするのが常だが今日は逆だった。
 ぽつりぽつりと話すのが忍足で、それに向日が逐一応えてくる。
「きっつい夢みた」
「ん?」
「岳人がどっこにもおらんねん」
「はあ?」
「ずうっと探した。けど見つからんかった」
 目覚めて愕然としたで、と忍足がひとりごちると、向日は軽やかに笑い出した。
「それで侑士、今日朝イチで、俺見てあーんな変な顔したのかよ?」
「変ってなぁ……岳人」
「でも誰も、そんな事ないって言いやがるからさ。何だ、やっぱ変で良かったんじゃん」
 さりげなく凄いことを言っている自覚はあるのだろうかと忍足は微く苦笑いを浮かべた。
 人に無闇に本心を晒す事のない忍足は、自制心には自信がある。
 確かに今朝、向日の屈託の無い笑い顔を目にして、そっと内心で安心したことは事実だったが、それを人に気づかれているとは思いもしなかった。
「悲恋モノでも見たか読むかしたんじゃねえの?」
 侑士は感化されやすいからなあ、と誰にも言われた事のないような言葉を放られ、忍足は向日の肩にもたれたまま今度ははっきりと笑い出す。
「何笑ってんの、侑士」
 呆れたような声の割にどこか優しげに向日の手が忍足の髪をぐしゃぐしゃとかきませてくる。
「むかつくんだけど。夢じゃ俺いなくてベソかいてたくせに」
「どこで見てたん?」
「否定しろよ否定!」
「ほんまのことやからなあ」
 できひんわ、と言いながら、忍足は向日の手をそっと取った。
「………何だよ?」
「手、あかん?」
「……いいけど。別に」
 自分よりも小さな手と。
 指と指とを絡めて繋ぎあう。
 誰に見られても構わなかったが、そっと隠すように繋いだ手を下に下ろすと、向日の方からもきちんと握り返してきて、応えられている事を実感する。
「侑士は甘えたがりだよなぁ…」
「そんなん言われた事ないわ」
「侑士を知らないヤツは言わないだろうけどさ。知ってるヤツなら絶対言うだろ」
「氷帝中探しても岳人しかおらんわ、そんなヤツ」
 本心で告げれば、あっさりと、俺は別と返される。
「俺より侑士のこと好きなヤツなんていねえし」
「ほんま?」
「あ、なんだよ、その疑ってますーって声。当たり前だろ」
 機嫌を悪くしたように向日が忍足に貸していた肩を奪い取るように体勢を変える。
 並んで座ったまま忍足に向き直った向日だったが、繋いだ手は解かれない。
 忍足はじっと向日の目を見下ろした。
 二十センチある身長差は、座っていても差があって、今更ながらにその細い肩に凭れて眠っていた自分に驚くのだけれど。
 忍足の眼差しに、向日が息を詰めるので。
 顔を近づけて尚近くから覗き込む。
「岳人、顔赤いで」
 何でなん?とからかうでもなく笑いかけると、向日は目つきをきつくして真っ向から忍足を見返してくる。
「好きな相手の顔に見惚れて悪いかよ」
 見惚れる理由がよかった。
 忍足は額と額とが触れ合うような距離まで近づいて、悪くないというように首を左右に振った。
「……顔近い、侑士」
「見惚れて欲しいんやもん」
「もん、じゃねえだろっ」
 あのなあ、と薄赤い顔で向日がずるりと座席の背もたれから滑る。
 それを追いかけていくと、いきなり背後からどかんと背もたれを蹴り飛ばされる音がする。
 忍足は即座に無表情になって座面に片膝をつき、背後を向く。
 すぐ後ろの席の主を真正面から見据えた。
「邪魔すんなや」
「こっちの台詞だ、阿呆」
 腕組みして憮然と忍足を睨みつけているのは背後の席にいた宍戸で。
「長太郎が、目ぇ覚ましちまっただろうが」
「宍戸さん……」
 怒るポイントはそこかと忍足は呆れ、宍戸の隣にいる鳳も微妙な苦笑いを浮かべている。
 忍足は溜息混じりに鳳に目線をやった。
「鳳」
「はい、何ですか? 忍足先輩」
「そのうるさいの、ちゃんとおとなしくさせとき」
 頼むで、と言い置いて忍足は席に座り直した。
 その間も一時も離さなかった向日の手も改めて握り直す。
 うるさいってなんだとまた背後から座席を蹴られたが、まあまあと穏やかな甘い声も聞こえてきて、後ろは後ろでうまくやるだろう。
「岳人」
 盗むように一瞬だけ。
 向日の頬に唇を寄せる。
 まさかここではしないと思っていたのだろう。
 向日は固まった。
 忍足はゆっくりと笑みを深めて、彼にだけ届く声の大きさで囁く。
「眠らせてや。今日は」
 だから今日はこのまま泊まりおいで、とねだりつつもきっぱり言い切れば。
 忍足の間近で向日はぐっと息をのみ、赤い顔のまま深い溜息をついた。
「……岳人?」
「判ったよ。しょうがねえから、行ってやる」
「おおきに」
「ただし、こんなとこでしやがったペナルティはちゃんとつけるからなっ」
 空いているほうの手の拳で、先程忍足が唇を寄せた頬を、ぐいっと擦った向日は言った。
 忍足は目を瞠って、そして。
 顔を近づける。
 唇を盗む。
「……言ってる側から何でまたするんだっバカ侑士っ」
「どうせペナルティつくなら、こっちにもしとこと思って」
 本当に軽くだったけれど。
 唇もキスで掠って、忍足は笑った。
 向日は怒っていたけれど、怒鳴っているけれど、繋いだ手と手はその間も、決して解かれる事はなかった。
 忍足からも、向日からも、ずっと。 
 だからその手は離さない。
 壁の向こう側からシャワーの音がする。
 意識はきちんとあるのだが殆ど身動きがとれないでいる南はベッドの上でうつ伏せになって、その雨音にも似た水流の音をぼんやりと聞いていた。
 薄暗くなりかけている部屋。
 時間は何時だろうかと思ったが、今の南は時計を見る為の寝返りすら億劫だった。
 亜久津の部屋に来たのは何時頃だっただろうか。
「………………」
 この部屋に来る事も、少しずつ慣れてきた。
 亜久津の部屋は、初めて来た時に、あまりにも彼らしい部屋で南は驚いた。
 雑多な印象を与えるけれど、実際のところあまり物のない空間。
 ベッドの乱れが妙に婀娜めいて映るのは、南もそこを使うようになってから余計にひどくなった。
「………………」
 扉が雑に開いて。
 音と気配に亜久津が戻ってきた事を知る。
 そういえば音が止んでいる。
 タオルで髪を拭っているらしい音がして、南は彼へと視線を上げることすら未だ億劫な自分の身体を持て余す。
 石鹸の匂いがする。
 しかしそれは淡く甘いような匂いではなく、亜久津の肌の匂いと交ざってどこか艶めいて香る。
「おい」
 声が近くなって、ベッドのところまで亜久津がやってきたのを知り、南は息を詰める。
 起き上がれれば一番良いのだが、到底無理そうだ。
 まだシャワーを浴びにもいけなさそうだし、かといってぐったりとベッドに伸びていたままでもいられず、寝返りも困難な状態で南はごそごそと身じろいだ。
 降りろとは言われないから、まだベッドにいてもいいらしい。
 どうにか亜久津分のスペースを空けるべく、南は壁際に寄った。
 ギシリとベッドが軋む。
 亜久津が片膝をついてきた。
 ふわりと香りが濃くなった。
 南はそれで、ああでも、とふと思い直した。
 せっかくシャワーを浴びてきた亜久津に、まだそのままの状態の南がいては、やはりまずいだろう。
 綺麗にシャワーで痕跡を流した身体と、依然そのままでいる身体。
 起き上がれるか、立ち上がれるか、まだどうにも危うかったけれど、とにかくどうにかしようと南が思った時だ。
「てめえ、何よけてんだ」
「………え?」
 不機嫌極まりない声は呻く様に辛辣で、南が必死で持ち上げた眼差しの先で亜久津が目つきを鋭くさせている。
 普段は逆立てている髪がふわりと落ちていて、きつい顔つきとのアンバランスさが余計に亜久津を大人びて見せている。
 南が必死に壁際に寄ったのは、亜久津をよけるというよりは、彼がいられる分のスペースをつくるために詰めただけなのだが、どうにも亜久津は憮然と機嫌を悪くしている。
 どうにかベッドから降りようとしていたのもいけなかったようだ。
 亜久津はベッドに乗り上げて、長い腕で易々と南を抱き込むようにして横たわった。
 腰に腕が絡む。
 脚と脚とも絡み合う。
 裸の胸元に抱きこまれるようにされて南は硬直した。
 こんなに密着してしまったら、亜久津がシャワーを浴びた意味がないだろう。
「ちょ、…亜久津…、」
「何嫌がってんだよ。アア?」
 本気で凄まれて、正面から顎を掴まれる。
 待ってくれと思いながら南はきつい口付けを受ける事になる。
「ン、っ…、……」
「………………」
「………ゃ……っ、…」
「抵抗してんじゃ、ねえ」
 荒っぽく引き剥がされた唇をそれまで以上にまた深く塞ぎ直され、南はキスでベッドに縛り付けられる。
「ちが…、……おい、亜久津……」
 待てって、ともがいた南は懸命に言い募った。
「俺、まだ……」
「まだ、何だよ」
「汚れた、ままだってば…、…」
「どこが」
 どこがって、と南は愕然と、シャワーに洗い流されたきれいな亜久津の肌に抱きこまれながら困惑を露にする。
「お前、シャワー浴びてきたんだろ…、…っ…」
「連れていってやるって言ったろうが。嫌がったのはてめえだろ」
「立てなかったんだよ…!」
「抱いていってやるって言ったよな?」
 不機嫌な顔のまま、とんでもない事を言う亜久津を南は必死で押しのける。
「ばか、俺が抱けるわけ、…」
「俺を誰だと思ってる。馬鹿かてめえは」
「……っとにかく、…っ…こんな……、…これじゃ、シャワー浴びた意味ないだろ…っ」
「うるせえな。まだ啼かされ足りねえみたいだな…」
「……んなわけあるか…、っ」
 無感覚に近い下半身の感触は、これから少しずつ痛みのようなものを覚えるのかもしれない。
 少なくとも今は這いずって歩くしかないような有様だ。
 どれだけしたのか判っている南としては、また身体に伸ばされてきた亜久津の手の感触に茫然となるしかない。
 大きな手のひら。
 長い指。
「亜久津、…ほんと…汚れるって……」
「さっきから何をほざいてんだ、てめえは」
 眼光鋭く吐き捨てた亜久津がシャワーの湯を浴びて色濃くなった唇を舐める。
 南はくらくらと眩暈のようなものを覚えてしまう。
 身体のあらゆる箇所を密着させるかのように亜久津は南を抱き込み、首筋に唇を這わせてくる。
 汗はかわいただけで洗い流したわけでもないのに、亜久津は舌まで這わせてくる。
「………っ…、…」
 首筋を舐められ、耳をゆるく噛まれ、顔も舌や歯や唇で辿られる。
 南が小さく竦むように震えると、亜久津は舌で口腔を撫でるようなキスをしてから南を抱き締め直すようにしてきた。
「…………亜久津…」
「てめえのどこが汚れるんだ」
「…亜久津…?」
「俺が好きなように何やったって、てめえは変わらねえだろうが」
 不機嫌な顔の訳が知りたくなる。
 そんなあからさまな顔を亜久津がするのは珍しかった。
 考えるより先に南の手は亜久津に伸びた。
 そっと頭に触れると速攻で舌打ちをされたが、振り払われはしなかった。
「………………」
 シャワーを浴びたばかりの清潔な肌で躊躇いもなく抱き込まれて南は身じろぐのを止めた。
 亜久津が構わないのなら、いいのだろうと思ったからだ。
 広い背中を抱き返す。
 そっと亜久津の髪を握りこむ。
 それぞれの手で縋れば、抱擁は強くなった。
 南はそのまま目を閉じる。
「おい。寝るな」
「……んー……」
 ぼんやりと声が聞こえてきたので、ぼんやりと返す。
 南は目を開けない。
「ふざけんな。てめえ、」
 おい、と低い声で恫喝されたが南はもう抗いがたい睡魔に負けてぐずるように首を左右に振った。
 ぐうっと亜久津の喉が鳴った。
 南は両腕を亜久津に絡めたまま、凄んでくる亜久津の声と言葉を聞き、眠りの淵へと沈んでいく。
 亜久津の底冷えする凄んだ声は、南の最後の記憶が正しければ、一人おいておかれることの恨み言のような、ひどくかわいらしいものだった。
 会いたい時に、彼はいつもそっと一人でいる。
 今日もそうだ。
 温厚で気さくで普段は人といる事が多い河村が、不二が彼を目で探す時にはいつも一人でいる。
「タカさん」
 意識をしている訳ではないのだけれど、彼の名前を呼ぶ時、自分の声は穏やかになる。
 誰に言われるでもなく不二はそれを自覚していた。
 部室でレギュラージャージを丁寧に畳んでいた河村が振り返ってきて、目と目が合えば尚更だ。
「不二」
 名前を呼ばれる。
 笑顔を向けられる時の、この安心感はなんだろうと考えながら、不二も微笑み返して彼に近づいていく。
「どうした? 忘れ物かい?」
「うん。そう」
 部活の後、早々に帰り支度を済ませて一度は部室を出た不二が再び現れた事を河村は穏やかな会話で受け入れてくる。
「珍しいね。不二が忘れ物なんて」
「うん」
「何忘れたんだい?」
「タカさん」
「え?」 
 制服を着た背中に、こつんと額を押し当てる。
 不二はそれでひどくほっとした。
「え、……え…?」
 一方河村はといえば、言葉にもならないような声で、しどろもどろになって盛大に慌てていたが。
 不二がじっとしていると、暫くの後おさまって。
 ええと、と言葉を探すように肩越しに振り返ってくる。
「ふーじ?」
「………もう離れないと駄目?」
 もう少しこのままじゃ駄目かなと小さな声で問うと、河村は違うよと言った。
「そうじゃないよ。そうじゃなくて、こっち」
「………………」
 くるりと身体を反転させられて。
 広い胸に正面からすっぽりとおさめてくれて。
 無骨だけれど丁寧で優しい手のひらが不二の背中をぽんぽんと叩いてきてくれる。
 甘やかすような手つきは決して慣れたものではない。
 でもそれがよけいに優しく感じて不二はおとなしくその場で目を瞑る。
「少し、疲れた…?」
「………………」
「不二は頑張りすぎるから」
「…そんなことないよ」
「そうかな…? もう少し楽にしてていいのにって俺は思ってるんだけど…」
 ゆるく囲われたまま、河村の声にだけ耳を傾ける。
 疲れたとは思っていないけれど、こうされているのは気持ちが良くて、それで河村の所に来たのだという事は不二も判っていた。
 河村は不二が言われた事のないような事を言ってきたが、何故だろう、言われて力が抜ける。
「………………」
 親しい友人はたくさんいる。
 大切だと思う家族もいる。
 信頼している人も、競い合いたい人も、仲間もいる。
 でも、誰の前での見せないでいる自分を、何故かいつも曝け出してしまうのは、実直な彼の前だけだ。
 不二はそう思って、固い胸元に顔を伏せている。
「タカさん」
「なんだい?」
 呼びかけたきり黙りこんでも、河村は責めたりしないし無理に問いかけてきたりもしない。
 宥めるだけでなく励ます手のひらで、繰り返し背中をあやすように叩かれて、それだけで不二は充分だった。
「………………」
 いつでもどこか自分自身の感情はぼんやりとしていて。
 時折一切の執着心を無くして全て投げ置いてしまいそうな自覚がある。
 それでもいいとどこかで思っている自分がいる。
 いつも穏やかでいるという事は、裏を返せば何も拘る事がないという事でもある。
 不二はそういう自分を更に一歩引いた自分で見つめていて。
 執着のなさが投げやりに全てを放棄しかねない自分がいるという事が、いつもうっすらとした自己嫌悪になっている。
 誰にも気づかせた事はないけれど、きっと河村は知っている。
「不二」
「……ん…?」
 ぎゅっと抱き寄せられて、びっくりした。
 少しも嫌な感じではなく、ただ驚いて。
 なに?と小さく問いかけると、ゆっくりと抱擁はとかれて。
 河村は笑っていた。
「不二、よかったら今日うちで寿司食わない?」
「え?」
「今日は夜、座敷に注文入っててさ、今日の夕食は一人で勝手に食えって言われてるんだ」
 まだ時間あるから、俺なにか握るよ、と河村が言うのに不二は首を傾げた。
「…手伝わなくていいの、タカさん」
「今日はいいんだって。同業者の組合の集まりらしくてさ、親父のヤツ、自分一人で充分だって思わせたいみたいだよ」
「引き抜きされちゃ困るって思ってるんじゃないのかな、お父さん…」
 ふ、と笑いが自然に零れて、それに後から気づいて。
 不二は河村から笑みをそっと分けて貰ったような気分になる。
「ね、タカさん…それだったら、うちに来ない…?」
「え?」
「泊まって、いかない?」
 返答を考えるかと思っていた河村は、すぐに頷いてきて、お邪魔しますと軽く頭を下げた。
 普段ならば河村は必要以上に気をつかうのだけれど。
 恐らく今日の不二に何か思うところがあるのか、即答してきた。
 実際不二はそれにほっとした。
「うちの家族、タカさん来るとテンション上がっちゃうけど、ごめんね」
「や、俺なんかにいつもすごい気をつかってもらっちゃって、悪いなって思ってるよ」
 苦笑いで不二が伝えた言葉に、河村は恐縮したように手を振った。
「なんか、じゃないよ」
「不二?」
「タカさんがいてくれて、僕は本当に」
 続く言葉に、詰まったのは。
 気持ちに見合う言葉が見つからなかったからだ。
 けれど、見上げた眼差しに気持ちを詰め込めば河村はきちんとそれを受け取ってくれる。
 ほんの少し照れたようなはにかんだ笑顔で、ありがとうと呟いてくれる。
「…ありがとう、タカさん」
 そう言えばいいんだ、と。
 気づかせてくれた相手に。
 ありがとう。
 不二も告げた。
 いつも、いつも、そう、思っていることを、ひとことで、これだけで、口にするだけで、こんなにも伝えられるのだと教わって。
「ありがとう。タカさん」
「こっちこそ。……うん。良かった、不二」
「え…?」
 河村の手が、そっと不二の頬を撫でて。
 ほっとしたように笑う河村の表情で、自身の表情の移り変わりを不二も知る。
 側にいてくれるだけで、こんなにも、こんなにも嬉しい。
 夏を前にして、しきりに雨が降る。
 毎日毎日雨が降る。
 雨が止んでいる事を、珍しいと言ってしまうような毎日だ。
 多少の雨ならば、日課であるロードワークは欠かさずこなす海堂であったが、それにしたって雨はよく降った。
 今日も短い時間内に急激に降った雨に丁度走り始めた矢先で遭遇してしまい、濡れたままの身体を冷やす訳にも行かず、途中で切り上げる事になった。
 そもそも部活も雨に中断されたのだ。
 近頃なかなか思うようにテニスも走りこみも出来ず、中途半端なフラストレーションばかりが堪って仕方が無い。
 早めに終わってしまった部活の分と、帰宅してから雨が止むのを見計らって出かけたのにまたこの有様だ。
 家では母親が同じような憂い顔で溜息をついていた。
「乾燥機、買った方がいいのかしら……でもやっぱりお洗濯物はお日様に干したいわよね…」
 家事が大好きな母親にとってこの雨は、走り足らずに溜息ばかりが出る海堂と同じくらい憂鬱なもののようだった。
 コインランドリーから帰ってきたばかりらしい母親だったが、濡れている海堂にタオルを渡すと特に何も言わずに笑顔を浮かべる。
「早く着替えないと。洗い物はいつもの所ね。あ、レギュラージャージも出しておいてね。練習でも降られたんでしょう?」
 練習着には充分予備がある。
 ロードワークに出る前に部屋に吊るしておいたジャージも、少しばかり濡れただけだ。
 でもこの母親の事だから、自分の洗濯物だけの為にまたコインランドリーに行きかねないと海堂は思って、着替えを済ませた後、出かけてくると言って、自らコインランドリーに向かったのだった。
 


 家から駅とは逆方向に二十分ばかり歩いた所に銭湯があって、そこに併設されているコインランドリーは、近頃改装を済ませたばかりだ。
 真新しく広くなったが、あまり利用客は増えないらしい。
 海堂も本当に時折出向く程度の場所だが、殆ど利用客を見かけない。
 雨がまだ結構降っているから、尚更今日は無人だろうと思っていた海堂は、遠巻きに先客がいるのを見かけて、その後姿に目を瞠った。
 白いシャツを着た広い背中は、顔が見えなくても海堂には誰なのかすぐに判る。
 引き戸の扉をカラカラと音を立てて横に引くと、ひとりその中にいた男は振り返りもせず言った。
「やあ、海堂」
 見もしないでいきなり言うので、海堂はぎょっとした。
 入り口で一瞬硬直すると、ごめんごめんと笑いながら、その男、乾が振り返ってくる。
「映ってた」
「………………」
 簡易のスチール椅子に座っていた乾は、正面の乾燥機を指差す。
 海堂が目線をやると確かに乾燥機の透明な扉には出入り口が映っていた。
「海堂も洗濯か」
「……っす」
 頷いて、海堂は洗濯機に持ってきた練習着とレギュラージャージを入れる。
 洗剤は慣れたものの方がよくて、自宅から持ってきた。
 スイッチを押し、動き出すのを確認してから海堂が振り返ると、乾はぼんやりと海堂を見ていたようだった。
 手が空けば必ず開いている彼のデータ帳も今は手元になく、珍しいなと海堂は思った。
「海堂、宿題か何か持ってきた?」
「……はあ…」
 何で判るのかと海堂は曖昧に返事をして、どうぞ、と手で促されたので乾の隣の椅子を引き出して座った。
「時間無駄にしないからね。海堂は」
「………それはあんたでしょうが」
 今日はいつものノートないんですかと続けると、乾は珍しいだろうと何故か威張って笑った。
「威張る所っすか」
「まあね。たまには、ぼーっとしようかと思ってさ。わざと置いてきてみたんだけど、どうにも落ち着かなくてな。さっきから」
 そういう事なら自分は邪魔じゃないかと海堂は思ったのだが、乾はゆったりと微笑んで頬杖をつき、海堂に顔を近づけてくる。
「理数系だと嬉しいけど。何持ってきた?」
「……何で嬉しいんですか。……そうですけど」
「何でも聞いてくれって自信持って言えるからさ」
 二の腕が触れるような距離は随分近くないかと海堂は思うのだが、乾は何だか機嫌がいいようで、やわらかく笑ってばかりいる。
「…………聞いていいんすか」
「勿論」
 持ってきたものは苦手科目の物理なだけに、海堂としても本音を言えば乾の存在は有難かった。
 低く問うと、あっさり頷いて。
 どれ?と乾が海堂の鞄に目線をやる。
 取り出した教科書の、付箋をつけておいた頁を広げて海堂は乾に差し出した。
 苦手な事でも敬遠しない分、不得手なものほど海堂はどうしようもない所まで追求してしまう性分だ。
 海堂自身、自分のそういう頑固で執拗で融通のきかない所に時折辟易するが、乾はとにかく辛抱強いというか、寧ろ海堂と似ている部分を持ち合わせているのか、決して手を抜かない。
 乾の教え方は、それがどんな事であっても、海堂が完全に納得するまで続けられた。
 この時も、海堂が授業で躓いた所を、どこが判らなくて何が疑問なのか、重い口で伝える説明を乾は全て聞き終えてから、解釈を始めた。
 こんな風に自分の決してうまくない言葉を、最後まできちんと、そして必ず正確に酌む相手は、乾くらいだろうと海堂は思っている。
 乾は何でもないことのように海堂の側にいるけれど、その都度海堂はいろいろな事を考えている。
「ほら、解けた」
「………………」
 ぽん、と気安い所作で乾の手のひらが海堂の頭上に乗る。
 頭を撫でられるようなそんな仕草を、幼い頃に家族くらいにしかされた事のない海堂は、戸惑いと面映さで複雑に受け止める。
 乾の手は、まだ海堂の頭上にあるままで、何だか手すさびに髪を撫でられているような感触がする。
「……先輩…?」
「ん?……駄目だね、バンダナないと。抑制きかなくて」
 やけに甘い指先に髪をすくわれる。
 近い距離で乾の顔を見て海堂がかたまっていると、洗濯機からアラーム音が鳴り響いた。
「……、…先輩の…じゃ」
「そうだな。俺、レギュラージャージとTシャツ二枚なんだけど、海堂は?」
「同じ…ですけど」
「じゃ、乾燥機一緒に使おう。いい?」
「……はあ」
 特別異論もないので、海堂は頷いた。
「海堂の洗濯があがるまで…あと二問いけるな。今のと同じ要領で、これと、これ」
 教科書の結構先を捲られて、海堂は珍しく弱った心情を露にする。
「……まだそこまでやってないですけど。授業」
「解けるから。やって」
「………………」
 乾はこういう所が海堂に手馴れているというか、状況を見極めていけると思った時は高すぎるくらいのハードルを課すのだ。
 甘やかされない事は海堂には心地よかったし、乾のそういう手腕に信頼を寄せてもいる。
 さすがにテニスとは違って苦手意識があるから唸るものの、あっさりと促されては挑むしかない。
 そうして二度目のアラーム音が鳴り響く頃には、海堂は過剰な程甘い乾の手に、頭を撫でられているのだった。



 海堂の宿題は終わり、お互いの洗濯も終わり、二人分の衣類が入った乾燥機がぐるぐると回る。
 向かい合うでもなく横に並んで座りながら、乾と海堂はあまり喋らなかった。
 それが不思議と気詰まりではなく、寧ろ安心するような静寂になる。
 窓をたたく雨音が微かに聞こえる。
 乾燥機のモーター音がする。
 粉石鹸の匂い。
 少し人工的だけれど、それがかわいていく匂い。
 乾燥機の中で回転している二人分の衣服。
 とりわけ判りやすく青学のレギュラージャージがもつれあい、絡まりあうようにして回っている。
「何か、いやらしく見えない?」
「は?」
「あれ」
 黙って、それこそ当初の彼の目的だったように。
 ぼんやりとしていた乾がふいに口をひらいて海堂に話しかけてくる。
 あれ、と言いながら乾燥機を指差す乾に海堂は首を傾げた。
 乾は寛ぎきった様子で笑う。
「俺のと、海堂のと。一緒に絡まってて」
「……あんたな…ぁ」
 それのどこがと言いきろうとして。
 乾の声と、表情と、指差された自分達のレギュラージャージの絡まりあいに。
 どこがだなんて、言い切れなく、なって。
 海堂は息を詰めた後、乾を睨みつけた。
 乾は平然と海堂の眼差しを受け止めて、笑みを深める。
「あっちはあっちで仲良く絡んでるから」
「……こっちはこっちで、なんて言い出すんじゃねえぞ」
「海堂みたいに俺の考えてる事よむ奴はいないよな」
「あんたのその顔見たら誰だってわか、…」
 盗まれた。
 奪われた。
 掠め取られた、唇。
「……、…っ……」
 離れてすぐ、咄嗟に握った拳の手の甲を口元に当てた海堂は、ふいうちにやられて真っ赤になっているであろう自分の顔色を自覚せざるを得なかった。
 乾は再び海堂の頭を撫でるように手を置いて、乾の方に向けていた海堂の手のひらにも唇を寄せて。
 あっちが終わるまで、こっちもね、と海堂の耳元に囁いた。
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