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How did you feel at your first kiss?
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 ゆるゆると眠いのには理由がある。
 答えが見つけられない考え事を、ずっと繰り返しているからだ。
 昼休みになった。
 眠気覚ましに噛もうと思って取り出したミントガムを、しかし口に入れる間もなく、すとんと睡魔に落ちたらしい。
 宍戸はガムを手にしたまま机に突っ伏して眠ってしまっていたらしかった。
 猛烈な眠気はしかし一瞬だった。
 肩を揺すられて、宍戸は手の中のガムを無意識に握り込みながらあっさり目覚めて顔を上げた。
 机を挟んで向かい側。
 びっくりするくらい近くにあったのは、クラスメイトで、チームメイトで、幼馴染でもある見慣れたベビーフェイスだった。
「………お前に起こされるとはな…」
 まだ幾許かの眠気にまみれた掠れ声で宍戸は呆然と呟いた。
「俺もビックリ!」
 あははーと呑気に笑ったジローが、うつぶせ寝で寝乱れているらしい宍戸の前髪に触れてきた。
 直すというより、より乱されている感がしなくもないが、宍戸は大人しくされるままになっていた。
 眠い、と呻いて眉根を寄せて。
 宍戸はあくびをひとつ噛み殺す。
「寝不足?」
 空いた方の片手で頬杖をつきながら、ジローが小首を傾げた。
「んー…そういう訳じゃねえけど」
 何となく、そんな風にはぐらかした宍戸に。
「じゃ、悩み事?」
 ハイテンションでもないのにいつになく矢継ぎ早に言葉をたたみかけてくるジローを前に、宍戸は小さく噴き出した。
 ジローの食い付きが、やけに必死に、懸命に、見えたのだ。
「ねえよ、別に悩み事も」
 ふうん、と頷いたジローが小さく言った。
「……俺はあるけど」
「ジロー…?」
 小さな溜息で、ぽつりと呟かれて。
 普段が陽気な分そんなしょげた態度を殆ど見せないジローなので、宍戸は面食らった。
 宍戸の前髪を撫でていた手を引っ込めて、ジローは両手で頬杖をつきなおすと、細い肩を窄めて目を閉じて、盛大な溜息を吐き出した。
 眉間に、ぎゅっと皺が寄っている。
「…おい?」
「宍戸に、ぜーんぜん頼りにして貰えなくてしょんぼりだし」
「………………」
 正直、ジロー以外の輩がこんな口調で物を言ったらぶちきれそうになる宍戸だが、こと、この幼馴染は別格だ。
 そう言われただけで、ものすごく悪い事をした気分になる。
 しょんぼりという言葉の通り、肩を一層落として、俯いて。
 小さな身体が尚小さくなっている。
「ジロー」
「いつになったら、宍戸は俺を全面全力で頼りにしてきたり、ちょっと聞いてくれよおって泣きついてきたり、俺にはもうジローしかいないんだよおとか言って抱きついてきたりするようになるんだろ」
「………それどう考えても俺のキャラじゃねえだろ」
「あ、やっぱしー?」
 からりと即座に明るく笑ったジローに、宍戸は内心ほっとする。
 冗談だろうとは思いつつ、ジローがどっぷりと落ち込んでいたりする様を見る事は、宍戸にしてみればどうにも落ち着かなかった。
「でもでも! 宍戸どうしたのかなっていうのは、マジで思ってるんだけど!」
「判ってるよ……サンキュ」
 おかえし、というようにジローの癖っ毛に手を伸ばし、宍戸がその髪をくしゃくしゃにすると、ジローは満足そうな顔をした。
 目を閉じて顎を持ち上げてご機嫌な表情になるのが、どこか愛犬を彷彿させておかしかった。
 そういえば、手触りも似ているかもしれない。
 毛並みというか。
 ふわふわとしたジローの髪に触れながら宍戸はぼんやりそんな事を思った。
 自分が撫でたら、嬉しがる。
 愛犬やジローはそうだけれど、はたしてこの手が万人に使えるのかどうかは、宍戸には迷うところだ。
「おーい、お前ら、そろそろ鳳が泣き出すからそのへんにしとけよ」
 いちゃいちゃしやがってと、突如威勢のいい声が響き渡る。
 宍戸とジローが同時に視線を向けた先、教室の前扉に、腕組みした向日と、半歩後ろに控えるようにして立つ鳳がいた。
「俺別に泣きませんってば」
 やんわりとした微苦笑で向日を見下ろし意見した鳳だったが、いいだろーとジローが宍戸の頭を胸元に抱え込むようにすると何故だか態度を一変させた。
「……それはちょっと泣きそうかも、…」
 そうは言っても。
 鳳は鳳でどこまで本気か判らねえなあと宍戸は呆れた溜息を零しつつ、片手でジローをぐいっと押しやった。
「うわ、拒絶されたっ」
「するだろ、ふつー」
「俺と宍戸の仲なのにっ?」
「どんな仲だよ」
 宍戸とジローが言いあっているうちに、向日と鳳は教室の中に入ってきた。
 近づいてきて、言葉には出さないけれど。
 鳳の表情が、まだあからさまに、いいなあといったものだったので、宍戸は指先で鳳を呼んだ。
 窺うように首を傾けて、腰を折るようにして顔を近づけてきた鳳の前髪を、宍戸は無言で、くしゃくしゃとかきまぜる。
 こういうことだろう、つまり。
 今、鳳が欲しがっているものは。
 これが万人に使える手かどうかは知らないが、どうやら鳳にも効果があるようだと宍戸は踏んだ。
「………………」
 宍戸がこうした時、ジローは目を瞑って、ご機嫌に笑みを浮かべた。
 鳳はといえば、じっと宍戸の目を見据えたまま、ゆっくりと。
 それはもう甘く、ふわりと、華やかな笑みを浮かべていく。
 どちらにせよ嬉しそうだったり気持ち良さそうだったりするのは見ていてちゃんと判る。
 愛犬、ジロー、鳳。
 俺って撫でる才能あんのかもなと宍戸は考えた。
「宍戸さん」
「…あ?」
 鳳の声が、小さく、宍戸の耳に届く。
 控え目でいて、きっぱりとした呼びかけ。
 続けて鳳はこう言った。
「くらべたら、嫌です」
「………は?」
 そういう顔してるから、と思いのほか強く意思表示されて、時々こんな風に見透かしてくる鳳に宍戸はびっくりさせられるのだ。
 上体を屈めたままの体勢で宍戸の返答を待っている鳳の頭を、宍戸は今度は軽く、数回たたいた。
「宍戸さん」
 アホ、と返すつもりだったが、口が勝手に違う言葉を放った。
「……あー…悪い」
 それも結構神妙な声まで出てしまって。
「いいえ」
 にこにこと微笑む鳳と、歯切れ悪くも詫びた宍戸の傍で、ジローが唇を尖らせ、向日が地団駄を踏む。
「なんだよー、ふたりしてー、俺放って仲良くすんなよー」
「…っあー!…うぜえ! お前ら、ほんとうぜえ! ベタベタすんな、ベタベタ…!」
「………つーか、お前、何か用かよ、岳人」
 今更ながらに宍戸が問いかけると、用なきゃ来ねえよっと向日が噛みついた。
 宍戸にとってもう一人の幼馴染である向日は、昔から見た目と完全に相反して態度が荒い。
「しかも聞くの俺だけかよ! 鳳にも聞けよ、何か用かって!」
「こいつはいいんだよ、別に用なくたって来るから」
「……ナチュラルに言ってくれちゃうよねえ、宍戸はー」
 あっけらかんとした顔で、ジローが笑う。
 向日は相変わらず怒っていて、怒ったまま突然に言った。
「跡部からお前に伝言! 明日は17時まで、絶対に鳳をレギュラールームに近づけるな。5分前になったらお前が鳳連れて来い。以上、伝えたからなっ」
「……ッ、…おま、っ…、今この場でそれ言うか…?!」
 よりにもよって鳳を前にして。
 明日のその企画は、鳳のシークレットバースデイパーティだろう。
 サプライズじゃなかったのかと宍戸が呆気にとられて向日を凝視すると、胸の前で腕組みした向日は平然とそれを受け止めて笑った。
「こいつはちゃんと空気読むもん」
 そして傍らの長身の後輩を横目に見上げて。
「な、鳳?」
「……がんばります」
 さすがに鳳は苦笑いしていたが、従順に会釈のように目線を伏せてみせた。
「ほらみろ。それより宍戸、お前こそ、しくじんじゃねえぞ」
「何にしくじるんだよっ」
「手放したくなくなって、すっぽかすなって事!」
 曖昧なような、直球なような。
 どちらともとれる問題発言を平気で放って、じゃあな!と向日は教室から出ていった。
 宍戸は絶句して、そのまま固まった。
「じゃ、俺も行こ。明日、ちゃんと鳳連れてきてねー、宍戸ー」
 ジローまでもにそんな事を言われた。
 俺昼寝してくるしーと言い置いて、そしてジローも教室を出ていった。
 これで二人きりだ。
「………………」
「…宍戸さんも、眠りますか?」
 寝不足?とそっと尋ねてくる鳳を見上げて、固まっていた宍戸は硬直を振り払うよう、それはもう盛大な溜息を吐き出した。
「……信じらんね…」
「………ええと……明日のことですか?」
「本人前にして、ネタバレとか、するか普通」
 信じられないのは、友人の行動、それと。
 さらりと宍戸の寝不足に気づく鳳のこともだ。
 色々と宍戸には解読不能だった。
「…おい、長太郎」
「はい?」
「お前、俺が寝不足なの判んのか」
 はい、とあっさりと頷かれて宍戸は溜息を吐く。
「………じゃ、今晩は寝られるようにしろ」
「俺に、それが出来るんですか?」 
「ああ。助けろ」
「勿論です」
 鳳が宍戸の足元に膝をついて屈んだ。
 傅くようにも見える。
 心なしか周囲の視線を感じなくもないが、宍戸もそこは無視することにした。
 思い悩む事無く、今晩はぐっすり眠りたいのだ。
「明日、17時まで、俺とお前、どこで何して時間潰すか考えてくれ」
 結局宍戸は、向日やジローの事は全く言えない立場となった。
 盛大なネタバレはおろか、その当人に。
 鳳に。
 内緒で遂行するべき時間の内容を、丸投げしたのだから。
 ここ数日宍戸を悩ませていた出来事。
 それは鳳に気づかれないように、パーティの準備が整う時間まで、彼を学校に足止めするというミッション。
 それが宍戸に課せられた指令だった。
 ただ時間を潰すだけならば、まだいい。
 しかし何せ明日は、それがひどく困難な一日なのだ。
 明日はバレンタインデー、そして鳳の誕生日だ。
 どれだけの人が鳳に声をかけてくるか、チョコレートを、バースデイプレゼントを、渡しにくるのか。
 そんな中、ずっと鳳の傍に貼りついているべきなのか、それともいっそどこかに雲隠れするべく誘うべきなのか。
 宍戸には一向にうまい考えが思い浮かばなかった。
 跡部に勝手に命じられてからずっと、ああでもないこうでもないと考え続けて、結果こんな風に寝不足になるくらいだ。
「了解です。宍戸さん」
「………………」
「大丈夫。今晩はもう、ゆっくり眠って下さいね。それと………そんな風に、ずっと考えてくれて、ありがとうございました」
「………この貸しはどこで返したらいい?」
 鳳の口調があまりに健やかで、宍戸も力が抜けた。
 少し笑って尋ねると鳳は穏やかな声で淀みなく言葉を紡ぐ。
「時間潰しのプランの中に、そのへんはちゃんと練り込みます」
「……一応俺の出来る事にしろよ…?」
 ま、何でもやるけどよ、と宍戸が小さく付け足すと、鳳が笑みを浮かべて、ひっそりと宍戸の指先を手に握った。
 するりと爪先まで撫でられるようにして離れていく一瞬の接触だけれど。
 じん、と指先に熱が溜まるほどに甘い触れ方だった。
 その一連の所作で、忘れていたけれど、ずっと手にしたままだったミントガムが鳳に持っていかれる。
 これ、俺にください、と目線で鳳にねだられて。
 宍戸が頷くより先に、耳元で、低くひそめた鳳の囁き声が届く。
「…今ここでは出来ないキスの代わりにします」
「………………」
 言うなり鳳は片手で器用に包み紙を剥いて、ガムを口に入れた。
 至近距離で視線が交差して。
 その瞬間。
 誰にも気づかれないけれど、自分達に判る。
 ああ確かに、これはキスだ。
 じゃあ明日、と鳳が教室を出て行き、おう、と宍戸はそれを見送った。
 宍戸はそうして一人になったけれど、昼休みはまだ時間があって、教室の中は依然ざわめいていて。
「………………」
 ゆっくりと宍戸は机にうつ伏せた。
 その体勢で、ポケットから新しいミントガムをひとつ取り出し、包み紙を剥き、口に入れ、噛み締める。
 キスをする。
 とりあえず今は、そんなバーチャルなキスをして。
 眠気にたゆたい、明日へそっと思いを馳せる。
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 お前さあ、と。
 宍戸はいよいよ、そう、口火を切った。
 先程から宍戸がその話を切り出そうとする度に。
 はぐらかしたりごまかしたり別の話題を持ってきたり、あまつさえ呼びかけに聞こえない振りまでしてのけた鳳の聞きわけの悪さには、腹が立つどころか笑いが込み上げてきてしまっている宍戸なのだけれど。
 宍戸の少し改まった口調に、鳳は小さな溜息をついた後、もう抵抗の手管は出しつくし、観念でもしたのか、無言のまま、じっと宍戸の目を見返してきた。
 自分より背の高い男に、上目に見られると言うのも、どうなんだろうか。
 それも、なんだかもう、長身で大層な男前なのに、その表情は、いたいけというか、必死というか。
「あー……、と…」
 らしくもなく、言い淀む自分も決まり悪いような気分で、宍戸はうなじに手をかけて視線を彷徨わせる。
 そんな宍戸を、見るからに王子様然とした風情の鳳が、物言いたげな目をして見つめてくる。
 ああもう、かわいいんだかかわいそうなんだか判んねえ、と宍戸は溜息を吐き出した。
「長太郎。明日の約束な、…また、今度にするか」
 表面上は問いかけという形をとったが、宍戸の心情的には、決定事項の言い切りに近かった。
 それでも宍戸なりに気を使って、なるべく素気なくならないよう、出来るだけ丁寧に言ったのだが。
 案の定、鳳の拒絶は凄まじい。
 嫌ですと真っ向から突っぱねられた。
「嫌…っつってもよ、お前…」
「嫌です」
 低い、重い声。
 凄んでいるかのようにも聞こえる鳳の声に、宍戸は眉根を寄せた。
 それは鳳の物言いに気分を害したからではなくて。
 可哀想になあと痛々しさを噛み締めたからだ。
「……取り敢えず、送ってく」
 そう言って宍戸が鳳の持っていた鞄を奪うと、そうさせまいとしたけれど叶わない、鳳の緩慢な所作が何より雄弁に今の状態を物語っている。
「宍戸さん、鞄」
「いいよ。つーか、お前、家まで歩けんのか? 長太郎」
「歩けますよ。……だから鞄、」
 鞄の一つや二つ大した事でもないのにと、宍戸は少し呆れた。
 宍戸に荷物を持たせるのか余程不満なのか、手を伸ばしてくる鳳を同じ回数だけあしらい、勿論鞄は手放さないまま、宍戸はお互いの距離をわざと近くして歩き出した。
 変なところ頑固だよな、と年下の男をちらりと横目に見上げて宍戸は思った。
 人のこと言えないけどなという自覚も持ちつつだ。
「………………」
 約束なんて、たった一回反古にしたって、また何度だって出来るものだし。
 こうやって歩くのに、肩くらい幾らだって貸してやれるのに。
 多分そういう事を言っても鳳は聞かないだろう。
 腕が時折触れ合うこの距離で、鳳から伝わってくる気配が何となく熱っぽい。
 これはもう本格的に、どうしたって風邪だろうと、宍戸は小さく吐息を零す。
 見た目の柔和さに相反して、鳳はタフで頑丈だ。
 判りやすく体調を崩した所など、これまでに見た事がない。
 それがどうやら、今日は珍しい事に、熱まで出しているようだ。
 鳳は自身の体調不良を宍戸には知られたくなかったようだけれど、生憎いくら学年が違ったって、宍戸の元に鳳の情報はいくらでも入ってくるのだ。
 どうも鳳の具合が悪いらしい。
 今日一日で、宍戸は何人からその話を聞いただろうか。
 こっそりと放課後正門で待ち伏せてみれば、宍戸には気づかれたくなかったらしい鳳が、かなり参った様子で歩いてきたので、宍戸はそこで鳳を捕獲した。
 往生際悪く鳳は何でもないふりをしようとしていたが、どう考えても明日の約束は取り止めた方がいいのは宍戸の目にも明らかだった。
「長太郎」
「………………」
 またも聞こえない振りをしているらしい鳳の腕を掴んで、宍戸は足を止めた。
「おーい……聞けって」
「………やです。宍戸さん、信じられないこと言うし」
 はあ、と熱を帯びた溜息を零して、鳳は真剣に憂いだ顔をして宍戸を見下ろしてきた。
 顔色もよくない。
 宍戸がそう思って見つめ返してると、鳳は、がっくりと両肩を落とした。
「俺も、信じられないですけどね…」
 ほんとばかだ、と落ち込んだ呟きを口にした鳳に、馬鹿じゃねえよと即座に言って、宍戸は笑った。
「これでこじらせたら馬鹿だけどな」
「……どっちなんですか…」
 明日、宍戸さんの誕生日なのに、と。
 それこそ地を這うような、それはもう落ち込みきった声音で言われてしまって、仕方がないので宍戸は鳳の腕を掴んでいた手を外し、そのまま鳳の頭をそっと手のひらで撫でた。
 それにしたってそこまで落ち込むような事だろうか。
「何で、このタイミングで……風邪とかひくんだか…俺も…訳わかんないですよ…」
「別に風邪くらい、ひく時はひくだろ。長太郎、お前さ、いくらなんでも落ち込み過ぎだろ」
「落ち込みもしますよ…!」
 がばっと鳳が勢いよく顔を上げる。
 宍戸は鳳の頭を撫でていた手を浮かせる。
 鳳は勢いあまって頭痛がしたか、眩暈がしたか。
 眉根を寄せて目を閉じる。
 宍戸は慌てて片手で鳳の腕を掴んで支え、もう一方の手で今度は鳳の頬を数回撫でた。
「大丈夫か?」
 宍戸の問いかけに頷き返しはするけれど、鳳は目を閉じたままだった。
 暫く宍戸の手のひらに片頬を預けるようにしてから、ゆっくりと目を開けていく。
 互いの目と目が合うと鳳が安心したような顔をするので、宍戸も唇に小さく笑みを刻んだ。
「取り敢えず、お前、ちゃんと治せ」
 な?と宍戸が言い聞かせると。
「………明日」
「まだ言うか。中止だ中止」
 それだけの言葉に、この世の終わりみたいな顔でショックを受ける鳳の、それでもほんの少しも崩れない整った顔。
 でもその顔色は、はっきり言ってどんどん悪くなっている。
「明日は家で休んでろ。うちにも来るな。いいな?」
「…………あんまりだ…宍戸さん…」
 宍戸さんの誕生日なのに、と宍戸に体重をかけてくる大きな身体を、宍戸はしまいに本気で笑ってしまいながら受け止めた。
 やっぱりこれは、相当に具合が悪いのだろう。
 ここまで甘ったれ全開で、愚図る、絡む鳳というのは本当に珍しい。
 ここは往来で、両腕で抱え込まれるようにがっしりと抱き込まれた体制もどうかと思うが、宍戸は鳳の腕に抗わなかった。
「お前の調子が良くなったら、明日する筈だった予定は、その時に、ちゃんと全部するからよ」
「宍戸さん誕生日なのに………俺に情けなく寝込んでろって言うんですか」
 理不尽というか、何とも滅茶苦茶な事を真剣に鳳に訴えかけられて、ああもうこいつどうしようもねえなと宍戸は固い背中を宥めて撫でてやる。
「安心しろ。寝込んでてもかっこいいよ、お前は」
「そんな筈あるわけないじゃないですか……! 呆れられて、愛想つかされますよ、普通は…」
「誰の話だよ」
 低く笑いながら、宍戸は繰り返し鳳の背を撫でた。
「愛想なんか、つかさねえよ」
「でも明日は、俺じゃない誰かと一緒にいるんだ、宍戸さんは……」
 本当に、従来の鳳からすると信じられない程の絡みっぷりだ。
 そして、ここまでぐだぐだに絡まれても、ほんの少しも腹がたたないのだから、そんな自分が宍戸は我ながら不思議になる。
 いったいどれだけ、この男の事が好きなんだろうと思って。
「アホ。明日は俺も一人で部屋に閉じこもるに決まってんだろ」
「………誕生日なのに」
「どうでもいいっての」
 宍戸にとって自分の誕生日なんて、鳳が思っている程には然して重大な事ではなかった。
 もうだいぶ前から約束していた宍戸の誕生日に二人で出掛ける話は、宍戸にしてみれば、重きがあるのは鳳と一緒にいるという事だけだ。
 自分の誕生日そのものに拘りはない。
「誕生日にそれって、あんまりじゃないですか……」
「とか言ってお前、じゃあ俺が明日誰か他の奴と一緒にいるとか言ったら嫌だろうが」
 それはすごく嫌ですけど、とあまりにも素直に鳳に即答されて、宍戸はそれで満足した。
「だから俺も一人でいてやるよ」
「宍戸さんかっこよすぎてくらくらする……」
「ばか、そりゃ熱上がってるだけだろ」
 早く帰るぞ、と促し代わりに鳳の背を叩き、二人分の鞄を肩に担いだ宍戸は鳳の手を引いた。
「………宍戸さん」
「危なっかしいんだよ!」
 だからだよ、と荒っぽく言って、宍戸は鳳と手を繋いだまま歩く。
 鳳に驚かれている自覚はあるから、宍戸の口調はぶっきらぼうだったのに。
 鳳が軽やかに笑った気配がして、宍戸はそっと背後を振り返った。
 思った通りの笑顔がそこにあって。
「……何だよ」
「俺、具合よくなるかも」
「は?」
「なんか、明日にはもう大丈夫になってる気がする」
 怒ろうとして、失敗して。
 ひどく甘い鳳の表情に、結局宍戸もつられて笑ってしまう。
「んなわけあるか」
「宍戸さん」
「ごめん、とか言ったら放り出すぞ」
「………………」
 ちょっと本気で宍戸が睨んで言えば、目を瞠った鳳が、苦笑いと一緒に。
 今日初めて、大変に聞きわけの良い返事を、はい、と言って零してきた。

 それは露骨に、喧嘩を売ってる顔。
 今の宍戸の表情は、見る人によっては、まさにそれなんだろう。
 鋭い眼差し、切れ上がった眦。
 眼光は強く、力がある。
 全体的にシャープで、、雰囲気に隙がない。
 そして何より、じっとこちらを見据えてくる表情。
 滝はそんな宍戸の視線を受け止めて、柔和に微笑み軽く首を傾けた。
「なに?」
「………あ?」
 その睨むような目つきが、実際には別に、本当に自分を睨んでいる訳ではないのだと、滝は勿論知っていたけれど。
 どうやら宍戸自身に、滝を見据えていた自覚が全くなかったようなのがおかしくて、滝の笑みは深くなる。
 あんなに見ていたのにねと思いながら口にした。
「だってさっきからそうやって、随分こっちを見てるから」
 何かなと思って、と付け加えると、宍戸が幾分決まり悪そうな顔になった。
 どうやら本当に、これっぽっちも、宍戸にはその自覚がなかったようだ。
「……悪ぃ」
「別にいいよ」
 後ろ首に手をやって、目線を伏せ、小さく口にした宍戸は、そもそも滝の目には、どことなくぼんやりしているように見えていた。
 正面から、じっと滝を見据えていた目は、元々が切れ長で怜悧なものだから一見するときつい印象だけれど。
 気心知れた間柄の滝からすれば、自分の顔を見続けながら何の考え事だろう?という印象だ。
 いつもは人の賑わう氷帝のカフェテリアだが、今日は比較的すいている。
 滝と宍戸は六人掛けのテーブルを二人でゆったりと使っていた。
 ほんの少し前までここにはジローや向日もいて、大層賑やかだったのだけれど。
 彼らの待ち人だったらしい忍足が顔を見せると三人でいなくなってしまったので、今はこうして滝と宍戸の二人きりだった。
 滝にとってみれば、宍戸は決して気難しい相手ではないけれど、ずっとぼんやりし続けている宍戸に対しては、さて、どうしようかと少々悩む所だ。
 ひとまず紅茶のカップを両手にくるみ、口元に運んだ。
 そして今まさに口をつけようとしたそのタイミングで、投下された言葉に滝はうっかり紅茶を吹き出しかけた。
「初恋」
「………っ、…は…?…」
 初恋?
 初恋と言ったのか?宍戸が?と。
 滝は硬直した。
 正直、それは宍戸の口から出てくるにはあまりにも予想外の言葉だった。
「……さっきあいつらが言ってただろ」
 何そんなに驚いてんだと、宍戸が不審気に目を細める。
 確かに。
 先ほどジローと向日が、初恋の子の話などしていた。
 あの二人がそういった話題で話す分には、滝だって少しも驚きなどしなかったのだが、それが宍戸の口から飛び出てこられると、どうしたってびっくりしてしまう。
 硬派というか何というか、あまり宍戸が好んでする話題でもないからだ。
 一言、初恋という言葉が出てきただけで、滝は充分驚いた。
 それなのに、尚宍戸が続けて言った言葉がこれだ。
「長太郎の初恋がお前でも、俺、驚かねえよなぁ」
「………………」
 めちゃくちゃだ、あまりにもめちゃくちゃな事を、宍戸は言い出した。
 宍戸が驚かなくたって、俺は驚いたよ!と喚き出したい気分だった。
 しかし滝は唖然となっていて、絶句していて、喚くどころか無言で宍戸の事を見据えるばかりだった。
 瞬きも忘れて、耳にかけていた髪が一束、はらりと落ちても、耳にかけなおす気力もない。
 いったい何を言い出したのか、この友人は。
 不躾な程まじまじと、それも奇妙な物を見る目で凝視する滝の視線を物ともせず、寧ろ宍戸は少しだけ唇の端を緩めて表情を柔らかくした。
「あいつら言ってただろ。初恋の子は特別で、何となく、ずっとどっかに引っ掛かってるような感じがするって」
 宍戸とジローと向日は、幼等部から一緒で比較的自宅も近い、いわゆる幼馴染だ。
 始終べったり一緒にいる訳ではないが、付き合いが長い分、気心知れた気安さのような雰囲気が彼らの間にはある。
 さっきも、向日の初恋の幼等部のなんとかちゃんの話や、ジローの初恋のお菓子屋さんのなんとかさんの話で盛り上がっているのを、滝は微笑ましく聞いていた。
 話題の内容的に、宍戸は直接話に加わらない。
 でも滝と同じように話は聞いていて、どうやらその流れで発生したのが件の発言のようだ。
 それにしたって、と滝は呆気にとられる。
 どうして初恋の話の流れで、そうなるんだ。
「お前なら、いいな」
「………………」
 あのねえ、と滝が真面目に意見しようとしたのを、宍戸の表情が遮ってくる。
 よりにもよって、宍戸には珍しい、ちょっと甘いやさしい目で笑ってそんな事を言う。
 滝は言葉を詰まらせた。
 宍戸のその表情は、つまり、あれだ。
 愛おしい。
 そういう目を、宍戸はしている。
 宍戸が今、脳裏に思い浮かべているのは、年下の、あの男の事だろう。
 滝はもう、どこから、どうやって、突っ込んでいけばいいのか判断出来なかった。
 何で鳳の初恋が自分になるのかとか、どうしてそれならいいのか。
 いやそれ以前に、普通に考えてそもそも全然違うだろうとか。
 訳の判らない宍戸の発想を咎めるべきか、可哀想な後輩の心中を代弁してやるべきか。
「………………」
 無言で錯乱した滝は、ひとまず片手で掴んだティカップで、ぐいっと紅茶を一気飲みする。
 たん、とソーサーの上ではなくテーブルの上にカップを置き、一息つかせる。
 そして強く宍戸を見据えた。
「………宍戸」
 とりあえず。
 とにかく。
 まずは、これを言っておかないとと滝は低く声を振り絞った。
「それ、鳳には、言わないように」
 混乱する思考の中から、どうにかこうにか滝が捻り出した言葉に、宍戸は判りやすく不思議そうな顔をした。
「そうなのか?………あー…そういうの人から言われるのって、やっぱ嫌ってやつ…?」
 俺そういうとこよく判んねえんだよなあと呟く宍戸に、いや問題はそこじゃないと滝はがっくりと肩を落とした。
「鳳には言うなって言ったのはね、よりにもよって宍戸から、そんなことそんな顔で言われたら、鳳がダメージ受けるからだよ…っ」
「………何で?」
「なんで、って………」
 うわあ、と滝は引いた。
 本当に、なんにも、宍戸は判ってない。
 冗談でなく、こんな事を宍戸が言っていると知ったら鳳の受けるショックは計り知れないだろう。
「だいたい、鳳の初恋が俺の可能性なんてないよ。そんな可能性、ゼロだよ、ゼロ」
「いや、お前の初恋の話じゃねえし。お前に断言されても」
「宍戸だって同じだろ!」
 何言いきっちゃってんの!と滝は訴えたが、宍戸は聞いちゃいない。
「お前、嫌なのか? 長太郎の初恋がお前だったら」
「だから…!」
 嫌というなら、少々語弊はあるかもしれないが、それは鳳の方だろう。
 あれだけ懐かれて、あれだけ尊敬されて、あれだけ大事にされて、あれだけ愛されて。
 何で宍戸は判らないんだと滝は思う。
 滝は鳳とダブルスを組んでいた事もあるし、宍戸ほどではないにしろ、鳳の事は判っていると思っていたのだが、ここにきて気づいてしまった。
 この宍戸は、あんまり、鳳の事を判っていないんじゃないだろうか。
「………ほんと、マジで、鳳傷つくから」
 思わず泣き事めいた口調で滝は呟いた。
 何せ滝は本人の口から聞いて知っているのだ。
 鳳の初恋が誰かなんて。
 今その初恋の相手と付き合っていて、鳳がどれだけ幸せで、どれだけその相手の事が大事かも全部滝は知っている。
「……滝…?」
 不思議そうな顔をする宍戸は、やっぱり全然判ってない。
 そんな彼を上目にちらりと見上げて、滝は、何をどう言えば伝わるだろうかと必死に頭をフル回転させる。
「………あのね」
「…ん?」
「宍戸が今言ってるのはね、鳳が、宍戸の初恋は跡部だって断言してるのと同じ事なんだよ?」
「はあっ?」
 ここにきて漸く、ちょっとだけでも、その突拍子のなさが宍戸に意味が伝わったようで。
 露骨な声を上げて愕然とする宍戸を前に、滝は畳みかけていった。
「宍戸の初恋が跡部ならいいなって、鳳に言われてたら、どう思うわけ。宍戸は」
「おま、…それありえねえだろ……どっから来た話だよ」
「だから俺もそう言ってるんだよっ。万が一、鳳が本気でそう思い込んで、断言してたとしたら、宍戸が可哀想だろって話!」
 だから思い込みで、それも見当違いなことを言わないようにと。
 滝がストレートに、そして真面目に告げると、さすがに複雑極まりない顔で宍戸も大人しくなった。
「………………」
 ああもう。
 こっちも、あっちも、と滝は苦笑いする。
「本当ならまだしも、何かにつけ推測の引き合いに跡部出されるの、宍戸だって嫌だろう? 鳳の事に俺を絡めるのもそれと一緒だよ」
 何故なのか、鳳にとっての跡部というポジションと、宍戸にとっての自分のポジションは、どこか似たものになっているらしい。
 気にするようなことは何一つないのにと滝は呆れていて、それは恐らく跡部も同じ心境に違いなかった。
「………お前相手だと、なんにも勝てる気しねえんだよな…」
 頬杖をついて、斜に視線を流して宍戸がぽつりと呟いた。
 それがあまりにも小さな、真面目な声で、滝は怒っていいのか慰めていいのか、判らなくなる。
「また言ってる。少なくとも、宍戸と鳳の事で、俺は関係ないよ。それに勝ち負けの話なら、宍戸に負けたのは俺の方だろう?」
 それ違うと否定してやっても駄目、当人が勝手に気にしているだけの話なのに、それに雁字搦めになる。
 こっちも、あっちもだ。
 宍戸も、鳳も、それぞれ相手にはぶつけられないから、時折こうして、滝に複雑な心境を零す。
「…滝」
「それで?」
「何が…?」
「こういう風に、宍戸の中の鳳に俺が登場してきちゃうってことは、鳳と喧嘩でもしたの?ってことだよ」
 同じように、鳳の中の宍戸にも跡部が登場していたのだから、聞くまでもないけれど。
 敢えて明確に言葉にした滝に、けれど宍戸はそこまでは甘えてきたりしない。
「……悪い」
「悪くない」
 即答して滝は笑った。
 全然悪くない。
「ほんと二人して、馬鹿だなあとは思うけどね」
「………るせえ」
 ほんの少し赤くなった宍戸が、からかう気もおきない程度には可愛かったので。
 滝は充分満足した。
「…俺も行くわ」
 立ちあがって、恐らくは鳳の元へ真直ぐに向かうのであろう宍戸を手のひらを振って見送る。
「………………」
 滝は浮かべていた笑みをやわらかくとかして、一人になって。
 先程一気に飲み干してしまって空になっているティカップを横目に、もう一杯何か飲もうかなと考える。
「萩之介」
 そしてそれは何というタイミング。
 しかしそれこそが跡部だというタイミングで。
 滝の手元に新しいカップを置いた跡部が、それはもうあからさまに不機嫌そうな仏頂面で滝を見下ろしてきて言った。
「お前は面倒見が良すぎる」
「………跡部もね」
 これもらっていいの?と滝が笑いかけると、跡部は言葉でなく視線だけで返事をする。
「ありがとう。ごちそうさま」
「傍迷惑な馬鹿者共に構ってんじゃねえよ」
「まあ、…そのあたりは、ちょっとだけ同意かな」
 よりにもよって、ねえ?と滝は跡部に笑いかけた。
 跡部は相変わらずの不機嫌な顔だ。
 全くもって意味のない、あて馬にもならないであろう立ち位置に、勝手に置かれる自分達。
「俺様は忙しいんだよ」
 あいつらに巻き込まれてる暇ねえんだよ、と苦々しく吐き捨てる跡部の初恋だとか。
「だよね。俺も俺なりにね。忙しいんだよね……」
 人には言えても、自分の事はなかなかうまくいかない、滝の初恋だとか。
 それこそ本当に、色々あるのだ、この日常には。
 文句を言ったり呆れてみたり、突っぱねてみたり受け入れてみたり、何だかんだと、時には誰かの手助けなども得て、進んでいくのだ、この日常を。
 正直よくぞここまでと思うくらいに、鳳の性質は真直ぐで、健やかだ。
 人当たりもすこぶる良く、更にそれが上辺だけという感じがまるでしない。
 物腰が丁寧で、目上への礼儀もきちんとしている。
 だからといって生真面目一辺倒という事もないし、主体性がないという訳でもない。
 言う事は言って、やる事はやって、協調性はあるけれど自分のペースもきちんと確立している。
 雰囲気の柔らかさに紛れているが、鳳と言う男の豪胆さは相当なものだと宍戸は思っている。
 今日も、それをまざまざと思い知った。
 学校からの帰り道、鳳の家に寄る約束をしていた宍戸は、途中で鳳にコンビニに誘われた。
 何か買うものがあるんだろうくらいにしか思っていなかった宍戸は、鳳の手に肩を抱かれて促された時、初めての違和感を覚えた。
 周囲の人間に、お前達はスキンシップ過多だとよく言われるくらいなので。
 肩を抱かれる事くらいは、至って普通の出来事だった。
 だが、鳳の手が、少しばかり強引で。
 それに宍戸は少し不審気になる。
「長太郎?」
「宍戸さん、チョコ買って下さい。俺に」
「はあ?」
 そう言って、鳳が宍戸を連れてきたのは、普段よりも大分きらびやかな、お菓子売り場のラックの前だった。
 そこにあるのはラッピングされたチョコレートの数々で、そして今日はバレンタインデーだ。
 すでにそのラックの前にいた数人の女性達が、ちょっと怯んだように身体を引くのを目に、宍戸は溜息をつく。
 それはそうだろう。
 突然に、男子中学生が二人で、よりにもよっての日に、よりにもよっての場所に、陣取ってきたのだから。
「長太郎……お前な……」
「俺、今日誕生日なんです」
 そんなこと知ってるよと宍戸は言葉にする気力もなく、ただ内心で呟く。
 相変わらず宍戸の肩を抱いたまま、にこっと笑う鳳の笑顔は甘い。
 身体も気持ちも引き気味であったであろう女性達が、即座に、ちょっとうっとりした目になるのも明らかに判るくらいだ。
「だから俺、チョコレートが欲しいです」
「………………」
 この甘え上手め、と宍戸は二度目の溜め息と共に呆れた。
 誕生日プレゼントにしろ、バレンタインのチョコレートにしろ、絶対に、これっぽっちも困ってなさそうな男が。
 敢えてねだる言葉を紡ぐ。
 この場にいる名も知らぬ女性達が、今すぐにでもそれらを買って鳳に差し出してきそうだなと宍戸は思い、自分達に集まる視線の気配に少々の居た堪れなさを感じる。
 いっそ罰ゲームか何かとでも思っていてくれればいい。
 だがそれも無理な提案かもしれない。
 何だろう、鳳の、本気の眼差しは。
 ある意味真面目な頼み事である事を隠さない。
 そして、思いつきや形ばかりの望みであるとも思わせない。
「宍戸さん」
「………………」
 駄目押しに。
 無理かな、というニュアンスの、少し気落ちした眼で覗きこまれてしまって宍戸は落ちた。
 傍目には、不貞腐れているようにしか見えないだろうけれど。
 無言でラックからチョコレートを一つ取る。
 華やかにラッピングされたものではなく、日常、普通に置いてある板チョコを一枚。
 それだけの事なのに。
 年下の男が、それはもう幸せそうに笑みを浮かべて見せるので。
 宍戸はレジに足を向けながら、並んで歩く鳳の右肩の上に、自身の右手を乗せる。
 少し身体を捻るようにして伸び上がり、耳元近くで声をひそめた。
「ついでに食べさせてやるよ」
「………………」
 間近で見た、瞠られた目と、驚いた顔が、可愛かったから。
 宍戸は満足して、今日の主役の頭を無造作に撫でてやった。
 何か考えてるなあ、と鳳は思った。
 宍戸の表情とか、気配とか、そういったものでそれを感じ取る。
 そして、その何かを考えているらしい宍戸は、先程からずっと、何故か鳳を直視してきている。
「何ですか? 宍戸さん。そんなにじっと見て」
 てっきり、見てねえよと荒く返されるだろうと思って、半ばわざとそんな聞き方をした鳳だったが、宍戸は否定もしないで、うーんと唸るような声を出しただけだった。
「……宍戸さん…?」
 放課後立ち寄った宍戸の部屋だ。
 テーブルを挟んで向き合って座っていた宍戸が、曖昧な声を出しながら四つん這いで、のそのそと鳳の所までやってくる。
 ちらりと上目を放ってこられて、切れ長のきつめの瞳の綺麗な鋭さに、鳳がうっかり見惚れている隙に。
 宍戸が鳳の腿に頭を乗せて、ごろりと横になってきた。
「………………」
 こういう所が、本当に猫っぽい。
 鳳はちょっとだけ飼い猫の事を考えつつ、それでも宍戸の方からこんな事をされた事がないので、どうしたものかと固まってしまった。
 背筋も思わず伸びる。
 それで身体に力が入ってしまったようで、腿の上を宍戸の手に軽く叩かれた。
「かたい」
「あ、すみません」
 枕代わりにしているのだから寝心地が悪くなったのかと思って鳳は咄嗟に謝った。
「謝るとこかよ」
 宍戸はと言えば何故だか笑って、そのまま仰向けになってきた。
 少し伸びかけの前髪はその動きで額から零れて、笑みの気配の残る瞳が真っすぐに鳳を見上げてくる。
 膝の上に宍戸がいるという、あまり物慣れない角度での彼の表情に、鳳はやはり見惚れた。
 何かにつけ、鳳は宍戸を見ていると、綺麗だなと思う。
 言えば宍戸は毎回本気で呆れてくるので、あまり口には出せないけれど。
 それに、鳳が宍戸に見惚れるのは、綺麗だと思う事だけが理由ではなかった。
「………んー…」
「どうしたんですか、さっきから。唸ってばかりで」
 こんなに一緒にいるのに。
 見惚れるくらい、いつも新しい印象の表情を宍戸は浮かべる。
 膝枕。
 初めてだよな、と鳳はそれも改めて胸の内で思った。
 宍戸の方が年上という事もあるせいか、どちらかと言えば相手に甘えるのは鳳の方で。
 宍戸から、こんな風にくっついてくる事は珍しい。
 髪とか触っても逃げないかな、と少しだけ危惧しながら鳳は手を伸ばした。
 指先で、髪に触れると。
 受け止めるその瞬間だけ宍戸は目を閉じた。
 それだけの仕草がとても可愛いと、閉じられたなめらかな瞼がとても綺麗だと、鳳は思った。
 自分の膝の上で寛いでいる宍戸は見ていると少し鼓動が速くなる気がした。
「どこか体調悪かったり…?」
「いーや」
 もう少し明確に鳳が宍戸の髪を撫でてみても、宍戸は嫌がらなかった。
 指通りのいい黒髪をそのまますき続ける。
「長太郎」
「はい」
「自分でやっといて何だけどよ」
「…はい?」
「俺じゃねえとこ見ててくんねえかな」
「……何ですかそれ」
 少しだけ気難しげに提案されたから、いったい何を言われるのかと思えば。
 思わず鳳は噴き出してしまった。
 それこそ今になって、宍戸の首筋がうっすら赤いのも見えてしまって。
 それもこれも何でだろうと思いながら鳳は宍戸の髪を撫で続ける。
「知らねえよ、俺だって」
 ふてくされたように宍戸が話す先を、鳳は相槌や言葉で促していく。
「でも俺、ものっすごい今嬉しいんですけど」
「……言われなくてもそりゃ判る」
「ダダ漏れ?」
「そう」
「そっか…」
 自分の機嫌が上り調子な事を自覚しつつ、鳳は宍戸の髪や頬を指先で撫でる。
 自然と緩んでしまう表情で鳳が宍戸をじっと見下ろしていると、宍戸がごろりと身体の向きを変えるように寝がえりを打ってしまった。
「あれ……宍戸さん?」
「………あれって何だ、あれってのは」
「顔見えない……」
 しょぼくれた声出すなと素気なく言った宍戸の首筋に、鳳は上体を倒して唇を寄せる。
「……、……っ…てめ」
 鳳は笑いながら、宍戸を抱き込むようにして、自分もごろりと床に横になった。
 本気の抵抗ではなかったけれど宍戸が逃れようともがくので、両腕でその抵抗ごと宍戸を抱き込んだ。
 単にじゃれあっているようなものだが、宍戸は色々恥ずかしいようで。
 やっぱり寝がえりを打って後ろを向いてしまう。
 仕方がないので鳳は、結局宍戸の背後から、べったり甘えて貼りついた。
 宍戸は怒鳴るのを止めて、何事かぶつぶつと呟き出した。
 よくよく鳳が聞いてみればそれは。
「……ったく、激ダサ………どうせ気まぐれで、らしくもなく擦り寄ってくるとか思ってんだろ、お前」
「思ってないですよ。気まぐれだって俺は嬉しいし」
 表情ははっきり見えないけれど、察するのは気配で充分だった。
 自嘲めいた呟きを零す宍戸へ、鳳が本心からそう告げれば、無防備な首筋がまた薄紅くなった。
 鳳は、宍戸のすんなりとした後ろ首に額を押し当てた。
「宍戸さんは、いつも優しくて、俺をいっぱい甘やかしてくれるので。たまには俺も、そういう風に宍戸さんに出来たらいいなって思うだけです」
「………別に優しくなんかしてねえよ」
 そのつもりがなくてあんなに優しいなら、そうしようと思った時の宍戸はいったいどれだけ自分を甘やかすつもりなのだろうと鳳はしみじみ考えた。
 考えたけれど、とても想像が追い付かない。
 鳳の両腕には、おさまりが、良すぎるほどに良い、甘い感触が在って、それはこの状況下に一人で考え事に没頭する事がどれだけ不粋かという事を嫌という程教えてくれている。
「…………何となく、くっつきたくなったんだよ。今日は」
 相変わらずどこか憮然とした言い方で宍戸が言うので、鳳はくっつくどころではない力を入れた腕で、宍戸を背後から抱き締めた。
 二人でごろごろと、体温を同じに混ぜ合わせるようにしながらくっついて、言葉を交わして、寝っ転がっているだけ。
 そんな日常がどれだけ贅沢か、きちんと二人で、心得ている。
「宍戸さん。一個聞いてもいいですか?」
「……何」
「その、何となく、くっつきたくなったのって、いつからですか?」
「あー……今日の昼休みくらい…」
 鳳の予想なんかよりも、もっとずっと前からという宍戸の返答は。
 照れるでもなく、不貞腐れるでもなく、至極あっさりとした口調で告げてこられて。
 鳳は、浮かれたり喜んだりの結局そんな状態で、宍戸を抱き締める手を強くするばかり。
 宍戸はそんな鳳を丸ごと受け入れて、ひたすら甘やかしてくれるばかり。
 互いの間で時間は、甘くゆるく流れていくばかりだった。
 宍戸の家にやってきた鳳は、家人が誰もいないにも関わらず礼儀正しく挨拶をして入ってきた。
 それはいつもの事で、相変わらず律儀な奴だと宍戸は思いながら、鳳を先に自分の部屋に向かわせた。
 こう暑くては何か冷たいものを持って行きたかったし、鳳には先に空調のスイッチも押しておいて欲しかったのだ。
 宍戸が冷蔵庫からレモンサイダーと烏龍茶のペットボトルを取り出して、大振りのグラスを二個持って部屋に行くと、空調のききはじめた室内で、鳳が背筋を伸ばして座っている。
「長太郎、お前どっち飲む?」
「烏龍茶いただきます」
「了解」
 宍戸は鳳のグラスに烏龍茶を、自分のグラスにはレモンサイダーを注いだ。
 暦の上では立秋をとっくに過ぎているけれど、そんなもの何の関係ないのだと思わせるほどに毎日暑い。
 お互い殆ど一気にグラスの中身を飲み干してしまう。
 二杯目を注いで、漸く一息ついた頃だ。
 それまで、背筋をまっすぐ伸ばしていた後輩が、じっと自分を見つめてくるのに宍戸は気づいた。
 座っていたって宍戸よりも遙かに上背がある鳳からの視線が、そんな殆ど上目に近い状態になるなんて、通常ならば有り得ない。
 あーあー、と宍戸は内心で思った。
 これではまるで、思いっきりお預け中の犬ではないか。
 聞きわけは良いけれど、甘え方も半端のない、そんな感じの。
「………………」
 しょうがねえな、と宍戸は手のひらを上向きにした右手の指で、鳳を呼んでみた。
 そんな仕草だけの呼びかけに、鳳はすぐさま寄ってきて。
 ぎゅっと宍戸を抱き締める。
 そのまま鳳の身体がずるずると下降していくので、これは相当だと宍戸は悟った。
 何せあの礼儀正しい鳳が、今ではベッドに寄りかかって座る宍戸の腹部に顔を埋めて、その両手でがっちりと宍戸を拘束したまま、寝そべってしまっているのだ。
 べったりと自分に張り付いてきている鳳の、少しだけ癖のある髪を宍戸が軽く叩くように撫でてやると、尚甘えるように擦り寄ってくる。
 特に落ち込んでいたり苛々している感じはしなかったが、何となく鳳の様子で、多分こんな事だろうと踏んでいた宍戸は、つい笑ってしまった。
「甘ったれ」
 くしゃくしゃと鳳の髪を両手でかきまぜる。
 宍戸の腿の上に頭を乗せている鳳は、全く嫌がる様子がない。
 どうしたよ、と宍戸が軽く言えば、鳳もまた同じくらいの気安い口調で返事をした。
「昨日から、うちの猫が冷たいんですよ」
「へえ? それで代わりに俺を構いにきたのか?………っつーか、これじゃお前が構われにきたみてえだけどな。長太郎」
 宍戸にしてみればどっちだっていいので、飽きずに鳳の髪を手遊びに弄りながら、膝の上で鳳を甘やかす。
「……逆はあっても、それはないです」
 鳳が溜息混じりに言って、それまで伏せていた顔を仰向けに返してきた。
「俺が冷たくしたり、お前に構わねえ時は、猫に構われにいくって事か? 逆ってのは」
「逃げられますけど」
「代わりにするからだろ。アホ」
 可哀想な事すんな、と宍戸が前髪の流れた鳳の額を、ぺちりと手で叩く。
「訂正もう一つ」
「ん?」
 鳳は自分の額を軽く叩いた宍戸の手を、丁寧に自分の手に取って。
 指先に唇を寄せて言った。
「俺、宍戸さんに冷たくされたこと、ないですよ」
「………俺もそんな覚えはねえけどさ」
 嬉しそうに鳳が笑う。
 やわらかな笑みで、宍戸の膝枕で、すっかり寛ぎきって。
 こんな鳳の姿を知っているのは宍戸しかいない。
 指先だけでは飽き足らずに、宍戸の手のひらに唇を埋める鳳を見下ろして、こうまでべったりされてもまるっきり嫌にならないのだから不思議だと宍戸は思った。
 こいつだけ特別なんだろうなあ、と一つ年下の男の顔を見下ろす。
「ま、……お前が満足するまで今日は居れば?」
「嬉しいな」
 宍戸さん優しいし、気持ちいいし、と鳳は目を閉じる。
 どこか幼い感じと、並はずれた大人っぽさとが共存する鳳の表情は、とても不思議で。
「………………」
 ばかだなと宍戸は内心で、ひっそりと思う。
 ここまで態度に出して甘える事が出来るんだったら、言葉にだって出せばいいのだ。
 うまくいかない事、悩んでいる事、戸惑っている事、吐き出してしまえばいいのに。
「………………」
 三年生が引退して、氷帝テニス部の新体制がスタートした。
 部長は日吉になったけれど、副部長の存在しない氷帝学園のテニス部において、鳳は恐らく存在しないその役目を担っているのだろう。
 数百人の部員を纏めていく事は生半可なことでは出来ない。
 ましてや先代部長があの跡部とあっては、その後を継ぐ者達のプレッシャーは強いだろう。
「……目開けたら止めるからな」
 鳳はもう寝ているかもしれないと思ったが、一応宍戸はそう言い置いた。
 そして上体を屈めていって、鳳の眦に唇を寄せる。
 キスを一つ落とす。
「…駄目ですか? 今、目開けたら」
「開けたら止める。二度言わせんな」
 拗ねたような鳳の口調がおかしかったが、宍戸はわざとぶっきらぼうに即答してやった。
 ちぇ、と鳳にしては相当珍しい子供じみた声が聞こえてくるから尚更だ。
「レモンサイダーと烏龍茶混ぜたら、たぶんうまくねえよな…ぁ?」
「それはまずはやってみないと」
 言いつけをしっかりと守って、目を閉じたまま仰向けになって宍戸の膝に寝ている鳳の唇に。
 わかったよ、と宍戸は苦笑いの形の唇を、そっと押し当てた。
 ファミリーパックのアイスの紙箱を片手に抱えたジローに宍戸が向き合っている。
 氷帝の、学校近くのコンビニの前。
 口調は荒いが面倒見のいい宍戸と、スイッチが入らない状態のぼんやりしたジローとでは、一緒にいても同学年同士には見えにくい。
 目上の人達相手に微笑ましいと思うのもどうかと考えつつ、鳳は黙ってその様子を傍らで見ているのだけれど。
「お前、袋貰わなかったのかよ? そんな抱えてると、中の、すぐ溶けるぞ?」
「あー…袋は、エコ」
「とにかく早く帰って……って、食いながら帰んのか」
「ん」
 全部食うと腹壊すぞと言いながら、ジローがごそごそと紙箱から棒のアイスを取り出すのを宍戸は手伝ってやっている。
「何味食うんだよ」
「甘いやつー」
「アホ、どれも甘ぇよ」
 アソートのアイスキャンディをひっかきまわして気に入りの一本を選んだらしいジローは、口にくわえたまま更に箱から二本を取り出した。
「あい、あえう」
「あげるじゃねえよ。口に食べ物入れたまま喋んな」
「………………」
 それでも通じてるんだなあと鳳が苦笑いしていると、眠そうな顔のままジローはアイスを口に入れ、片手を振って歩き始めた。
「こけんじゃねーぞ!」
「あーい」
 溜息をつきながらその小さな背中を見送った宍戸の視線が、すっと鳳に向けられて。
「長太郎、どっち食う?」
「宍戸さんは?」
 ジローから受け取った二本のアイスキャンディを手にした宍戸が、鳳の返答を聞くや、小さく笑った。
「何ですか?」
「どっちにするかって聞いた所で、お前の返事はいつもそれな」
「苦手な物なら苦手だって、ちゃんと言いますよ?」
「ミントガムはそうしなかっただろうが」
 確かに鳳はミント系の辛い味には強くなく、以前に宍戸から貰ったそれを、いつまでも鞄に入れておいたことがあったのだけれど。
「あれは全く別の次元の話です」
「はあ?」
 宍戸さんから初めて貰ったものだったから、と鳳が微笑んで告げると。
 まじまじと見返してきた宍戸が、がっくりと肩を落として、嘆息する。
 どういう意味での溜息かと、鳳は宍戸の名前を呼びかけた。
「宍戸さん?」
「………そういう、キラッキラした顔、ちょっとは自重しねえかな。ほんと、お前」
 うんざりしたような顔だったけれど、言われた言葉はやけに甘く響くので、鳳も曖昧に首を傾げるしかない。
 自分が今どういう顔をしているかなんて、正直判らないけれど。
 好きな人に向けている表情なのだから、自重出来るものでもないだろうと鳳は思う。
 ありのままだから。
 宍戸を前に取り繕わなければならないことは何もない。
「……っあー、もう、溶ける!」
 俺はこっちにすると水色の方を選んだ宍戸が、黄色い方を鳳に手渡してきた。
「いただきます」
「買ったの俺じゃねーけどな」
 透明なパッケージはコンビニ前のゴミ箱に捨てて、冷たいアイスキャンディを口にしながら歩き出す。
 頭上にある太陽が、自分達へと落としてくる日差しは容赦ない。
 まだ梅雨明けもしていないのに、強く、熱い。
「お前のレモン?」
「いえ、パイナップルですね。宍戸さんのはソーダとか?」
「やっぱミントじゃねえよなあ…」
 多分それを幾らかは期待していたのだろう。
 眉を寄せる宍戸は、甘いものよりも、味や香りのすっきりとしたものの方を好む。
 取り替えてあげようかなと鳳は一瞬考えたのだが、パイナップルとて相当甘い部類だ。
 それでは意味ないかと提案を止めたのだが、突然鳳は、宍戸に肘と手首の間辺りを掴まれて瞠目する。
 自分のものよりは大分華奢な、でもしっかりと伸びた指で、結構強く引っ張られて。
 何だろうと鳳が訝しがるより先に、鳳が手にしていたアイスキャンディの先端が宍戸の唇に触れていた。
「………………」
 鳳の腕に手をかけたまま、宍戸が鳳の冷菓を舐め、少し考える顔をして、溜息をつく。
「やっぱ甘い…」
 睫毛を伏せたすっきりとした涼しい目元を、気難しげに寄せられた眉間を、鳳は見おろして。
 衝動というより、本当に真面目に、抱き寄せたいなとか、キスをしたいなとか思う。
 さすがに今ここでしたら宍戸に真剣に怒られるだろうから出来ないけれど。
 彼がくれるこの距離感が特別すぎて、自分以外の相手には多分見せないであろう所作の気安さに、何か堪らないような気分になって困った。
「…長太郎」
「あ、…はい」
 一瞬ぼんやりしていた鳳は、宍戸が憮然と上目に睨んでくるのに気づいて、返事の後かすかに苦笑いを浮かべた。
 自分の考えていることなど筒抜けなのだろう。
 宍戸は憮然としていて、結局怒られるのかと、鳳が神妙に宍戸の言葉を待っていると。
 アイスキャンディで冷たく濡れた宍戸の唇は、ふわりと甘い匂いの溜息を洩らして、ひそめた低い呟きを零す。
「だからそういう顔をだな…」
「はい………えっと、すみません」
「そうじゃなくて! 我慢させてるのが可哀想で堪んなくなるようなツラもすんな、馬鹿!」
「……、は…?」
 うっかりキスくらいしてやりたくなるだろうがと宍戸は吐き捨て、不貞腐れている。
 結構真面目に怒っている。
 でも、言っているそれは。
 いったい、何なのだ。
「………………」
 うわあ、と鳳は生真面目に照れた。
 宍戸からからかわれたり更に怒られたりはしなかったから、多分あまり表情には出ていなかったようだ。
 それにしたって本当にもうどうしようかと思って。
 熱冷まし。
 そんな気分で、鳳は無意識に、手にしていたアイスキャンディを口に運んだ。
 そしてすぐに、それは今しがた宍戸が口にしていたとか、そんな事を考えたら熱など冷める訳がない。
 宍戸もどうやら同じような状態らしく、水色のアイスキャンディに歯を立てていた。
 並んで歩いているけれど、お互い少しだけ相手のいない方に身体を向けて。
 その日の帰りに二人で食べたアイスキャンディの味は、それですっかりうやむやになってしまった。



 翌朝の通学路で、珍しく朝からしゃっきりと目が覚めているらしいジローが、氷帝の学生の姿も多い公道で大声を出しながら駆け寄ってきた。
「宍戸ー、おはよー! 鳳ー、おはよー!」
 自主練のあと一緒に登校していた鳳と宍戸に向かって走ってきて、朝一番にジローが言った事には。
「なあ宍戸ー、昨日鳳は何味だったー?」
 どっかん、と。
 それは派手に投下され場は一瞬静まり返る。
「……、っは…?」
 宍戸が裏返った声を上げる傍らで、絶句した鳳は、咄嗟にかけるフォローの言葉も見つからない。
「あ、聞くの逆がよかった?」
 ゴメン!とあっけらかんと笑ったジローは、今度は鳳を、じっと見つめて。
「宍戸は何味だった? 鳳」
「…、…ジロー先輩」
「ジロー、……てめえ…」
 昨日食べたアイスの味を聞きたいのなら。
 そうじゃなくて。
 そうではなくて。
 聞き方は!と鳳と宍戸の心の声はシンクロしていたが、公衆の無言の動揺は凄まじく、そんなものは敢え無く搔き消されてしまった。
「何や、賑やかやなあ」
 がっくんは昨日もいつも通りイチゴ味やったで?と呑気に話の輪に入ってきた忍足に、正直鳳と宍戸は心底感謝したのだったが。
 影の功労者である筈の忍足は、気の毒にも次の瞬間、隣にいた向日に容赦なく蹴り飛ばされてしまっていた。
 ひどい雨に降られて全身濡れた。
 雨宿りするような場所もない所でのいきなりの雨だったので、ただもう濡れるしかなかったのだ。
 じっとりとした湿気は梅雨特有のもので、そろそろまた雨が降るだろうとは思っていたが、それにしたっていきなりすぎた。
 そして今鳳に、彼の自宅の前で、シャワー浴びて着替えて行って下さいと宍戸は誘われたのだが。
 はっきり言って人の家に上がれるような状態では、まるでなかった。
「いい。ここまで来たらもう帰る」
 びしょ濡れの後輩を見上げて宍戸が言えば、打ちひしがれでもしているかのような顔で見下ろされる。
 あまりの真剣さに宍戸は盛大な溜息を吐きだした。
「………その顔は何なんだよ、お前…」
「だって宍戸さんが」
「だってとか言うな!」
 宍戸がそうやって怒鳴ったところで臆した風もなく、尚、肩を落とした鳳が自分にしかこんな甘ったれた顔を見せないという事は宍戸もよく判っている。
 でもだからといって、その図体でそれはないだろうというような、全身全霊、全力でしょげられてしまっては、どうしようもない。
 結局いつも、こうやって自分が甘やかしてるって事かと内心で思いつつ、宍戸は、判ったと鳳に言った。
「じゃあ、シャワー貸してくれ。ついでに服も」
「はい。宍戸さん」
 それはもう、満面の笑みで鳳は笑う。
 手を引かれるようにして促され。
 ここまで濡れていれば、室内を濡らすのも、一人も二人も一緒でしょうと言われて。
 びちゃびちゃの有様で上がり込み、玄関からバスルームへと直行した。
 鳳の家は、早い時間帯に家人がいることは殆どない。
 宍戸は廊下の濡れ具合も気にしつつも、二人で入っても手狭な感じのまるでしない広々としたバスルームでシャワーを浴びた。
 雨もシャワーも同じ水であるのに、まるで違う。
 鳳が先に宍戸にシャワーを使わせたのでバスルームを出たのも宍戸の方が先だった。
 用意されていたタオルで身体を拭くと、そのすっきりとした清涼感で、力が抜ける。
「宍戸さん。そこのクローゼットに新しいバスローブ入ってるんで、着て下さいね」
「いらね」
 少しして、後から出てきた鳳は、宍戸の即答に生真面目に反論した。
「駄目ですよ。風邪ひいたらどうするんですか」
「ひくかよ。六月に」
「それあんまり関係ないと思いますけど」
 そんなことを言いながらも、鳳は彼自身のことなどまるでお構いなしに、せっせと宍戸の世話を焼く。
 髪先から滴を落としながら、宍戸にバスローブを羽織らせた。
「ええと。あと、着替えは……何がいいかな…」
「……長太郎。お前、人のことはいいから自分の身体拭けっての」
 自分の事は放ったらかしで宍戸のバスローブの前合わせまで結んでくる鳳に呆れて。
 宍戸は新しいタオルに手を伸ばし、鳳の髪を拭き始めた。
 宍戸より大分背の高い年下の男は、宍戸の動作に合わせて僅かに屈んできて、宍戸にされるがまま、ぽつりと言った。
「あー…宍戸さんの髪、俺が拭いてあげたかったなあ…」
 心底からの呟きに、宍戸は吐息で笑う。
「末っ子だもんな、お前」
 構われる事ばかりで、だから構いたいんだろうとからかってやると、鳳はじっと宍戸を見つめて、宍戸さんだってそうじゃないですかと言った。
 真面目に不服を言う様が、つくづく可愛げがあって。
 宍戸はうっかり気をとられそうになる。
「ま、……確かに俺も末っ子は末っ子だけど、俺の場合はお前がいるだろうが」
 自分だけにしか甘えてこないその存在。
 鳳のそういう可愛げを宍戸は気に入っている。
 構いたがりは鳳の方だとばかり思っていたが、実際は自分の方がその傾向が強いのではないかと、宍戸は最近思っていた。
「宍戸さん」
 宍戸に髪を拭かれながら、鳳が一層身を屈めてきた。
 呼びかけに、何だと疑問に思うより先に。
 ふわりと唇がキスで覆われた。
「………………」
 目を開けたまま宍戸が受け止めたキスは短かった。
 長い睫を伏せた鳳の表情は、つぶさに間近に見てとれる。
「弟とか…嫌だな」
 ゆっくりと睫毛を引き上げて、至近距離の、鳳の小さな囁きが宍戸の唇を掠る。
 ひそめた小さな声での、不服。
「……アホ。言ってねえよ、んなこと」
 年下って意味で言っただけだと、フォローめいた言葉を宍戸が口にしたのは、鳳が甘ったれた言動とはあまりに不釣り合いな表情をしてみせるからだ。
 少し憂鬱そうに眉根を寄せる。
 明るい甘い色の目で、じっと宍戸を見据えて。
「………………」
 こんな風に、鳳の中にある大人びた部分と子供じみた部分のアンバランスさは絶妙で、宍戸にしてみればこの年下の男に向ける自分の感情は自然と様々になる。
 頼る。
 甘やかす。
 頼られる。
 甘やかされる。
 何を、どうしても、一方通行にならない。
 何をしても通じ合う、だから、どう接触を持っても、どう思うところがあっても、構わないのだ。
「まあ、弟でもいいと思うけどな…」
 ふと、ひとりごちたのは。
 つまりそういう感情から出て言葉だったのだが。
 盛大にそれが不満らしい鳳に、さっきよりも深いキスでまた宍戸は唇を塞がれて。
「だから。弟じゃ嫌なんですけど」
「あー、はいはい」
「うわー、今すごい適当に流したでしょう、宍戸さん!」
 何でそんな真剣に怒るんだと、宍戸は呆れようとしたのだが、失敗した。
 おかしくなってしっまったのだ。
「はいはい」
「しかも、すっごい適当にあしらってるし」
「うるせ」
「大きい声出してません」
「そういう意味じゃねえよ」
 ああもう、と宍戸は伸びあがって。
 続きだと言わんばかりに、手にしたタオルで荒っぽく鳳の髪を拭いた。
 こうやって、鳳が屈んでこなければ。
 爪先立ちしないと彼に届かない。
 という事はつまり、またでかくなってやがんのかと顔を顰めた宍戸を、見つめていた鳳の目が徐々に見開かれる。
 それはつまり。
「………………」
 身長差がついても、まだ今のところ。
 キスには不自由ない程度の差だと宍戸が思った通りだったからだ。
 驚く鳳の表情もよく見えて、宍戸は下から鳳の唇に口づける。
 伸びあがって僅かに片側に倒した分だけ、首筋が少しばかり窮屈で。
 でも重ねた唇の心地よさの前には何の問題もなかった。
 そうやって、宍戸は機嫌良くキスをほどいたのに。
「……何だ、そのツラ」
 鳳ときたら何だ。
「や、……」
 心底驚愕した顔をして固まっているのだ。
 自分がキスして何がそんなに不満だと宍戸が噛みつくように怒鳴る。
「お前もしただろうが!」
 しかも二度。
 鳳も負けじと言い返してくる。
「しましたけど…! だけど、してもらったの初めてなんですけど…!」
「……し、……してもらったとか言うな、アホ!」
 だから何でそんなに判りやすく、感動しましたって顔をするんだと、今更ながらに宍戸は気恥ずかしくなってくる。
 うわあ、と呟いて口元を片手で押えている鳳を宍戸は照れ隠しに睨みつけたのだが。
 その視線を、鳳はそれはもう甘ったるく、見つめ返してきて。
 抱き込まれる。
 バスローブ越し、大きな手のひらに腰を支えられ、宍戸は額と額を合わせるようにして擦り寄ってくる鳳を、その表情を見上げて。
 結局は、すべてを笑って受諾する事になるのだ。
「長太郎ー、……お前、それじゃああんまりにも簡単すぎねえか」
 キスをひとつ宍戸が渡しただけで、綺麗な顔で、幸せだと鳳は笑う。
 とろけたような表情が、何故、とても大人びて目に映るのか。
 可愛い喜び方で男の顔をする鳳に、欲しければこんなものいくらでもとればいいと、宍戸はもう一度軽くその唇を塞いだ。
 ぐっと腰が強く抱かれる。
 宍戸から始めたキスは、角度のついた深いキスで鳳から塞ぎ直され、宍戸は一瞬目を瞠ったが、一瞬の後は、そのまま鳳に全てを預けて目を伏せる。
 抱きしめてくるから。
 背がしなる。
 喉が震える。
 濃厚になるキスで。
 雨に濡れたのとも違う。
 シャワーを浴びたのとも違う。
 それでも、それ以上の、濡らされ、浴びせかけられる印象で、抱き竦められている。
 口づけられている。
 手を伸ばし、宍戸は鳳の濡れ髪を撫でるように頭部を抱き寄せた
 また深くなったキスに、くらりと目を閉じた視界も回る。
 自分のこの手で、抱き締める事の出来る、存在。
 手のひらで愛おしさに触れられるということ。



 ただもう、無条件で、信じている、愛している。
 それは、ただもう、無条件で。

 卒業式のだいぶ前に春一番は吹いたのに、式が間近になっても、暖かい春にはなかなかならない。
 正門を出るなり冷たい風が強く吹き付けてきて宍戸は首を竦めた。
「入りますか?」
 躊躇いもなく制服の上着の片側をひらく鳳がどこまで本気か知らないが、この寒い中する格好ではないと宍戸は手荒に鳳のブレザーの釦をとめた。
「閉めとけ、アホ」
「宍戸さん寒そう」
「寒ぃよ!」
 八つ当たりじみた返答だったのに、痛ましそうな顔をして鳳は宍戸の腕を引き寄せてきた。
「………長太郎、お前まさか、俺におぶってけってんじゃねえだろうな」
 宍戸とて実際にそう思った訳ではない。
 背中にぴったりとくっついた鳳に、しっかりと抱き込まれている体勢ではあるけれど。
「そうですねえ…それ、俺がしてもいいですか?」
「全力阻止!」
 宍戸の即答に鳳は笑って腕に力を込めてきた。
 のんびりとした笑いの余韻が宍戸の背中越しにも伝わってくる。
「あったかいですね、宍戸さん」
 温かいのは確かにそうなので宍戸も否定はしなかった。
 溜息はついたが甘んじていると。
「てめえら……氷帝の真ん前で何やってやがる」
 低い怒声がして、鳳と宍戸は同じタイミングで振り返った。
「……んだよ、跡部か」
「アア?」
 吐き捨てた宍戸に、剣呑と矛先を向ける跡部、そんな彼らを仲裁するように鳳が宍戸へは抱擁を強め跡部へは目礼する。
「お疲れ様です」
「鳳」
「はい」
「そういう所は宍戸に似なくていい」
 ふてぶてしくなりやがってと跡部が吐き出した。
 鳳は笑みをたたえたままだったが、どういう意味だと宍戸が声を荒げた。
「ふてぶてしいとか、てめえに言われたくねえんだよ、てめえに!」
「うるせえなァ」
「あ、宍戸さん、駄目ですよ、喧嘩したら!」
 宍戸の瞬発的な動きをしっかりと封じ込めている鳳が、ね?と宍戸の目を覗き込んでくる。
 自分の身体の前に回された鳳の腕に指先を沈ませて宍戸が暴れても束縛は解けない。
 そんな一連の様を見て跡部はうんざりだと言いたげに派手に嘆息した。
「離れる気はこれっぽっちもねえんだな、てめえら」
「はい」
「はあ?」
 とっとと帰れ!と跡部に恫喝される。
 さすがに宍戸も鳳も顔を顰める程の冷たい怒声だった。
「……気が短けえなあ、お前」
「それ、宍戸さんが言いますか」
「…お前も何気に言うよな、長太郎」
「すみません」
 まず宍戸に言って、それから鳳は跡部にも視線を向けて、引き止めちゃってすみません、と続けた。
「樺地もいないし……何か約束あったんじゃないですか?」
「そういやお前、最近帰り早いよな。車も使ってねえし」
「………………」
 二人の問いかけに対して、跡部は珍しくあからさまに不機嫌に黙りこんだ。
 そして、ほんの少しだけ何かを思案する顔をして。
「鳳、ちょっと来い」
 顎で促して鳳だけを呼んだ。
「はい」
 返事をしながらも不思議そうに鳳が見詰めたのは宍戸だった。
 宍戸は宍戸で、はあ?と眉根を寄せている。
「いいか。鳳。宍戸には言うんじゃねえぞ」
「てめえ、それ、本人目の前にして言うことかっ?」
「ああ、怒らないで宍戸さん。ちょっとだけ待ってて下さいね。ね?」
 とにかくいちいちむかつくんだと呻きながら、宍戸は自分の視界の範囲で、こそこそと話している跡部と鳳を睨んでやった。
 かといって、強引に入っていく気はないので、結局冷たい風の吹く中立ち尽くす羽目になる。
 多分会話は一言二言だったのだろう。
 鳳はすぐに宍戸の元へ戻ってきた。
 跡部はもう別の方向へと背中を向けて歩き出していた。
「で?」
「……聞きますよね、当然」
 促した宍戸に、鳳が苦笑いする。
 でもその後に、悔しいなあと鳳がつぶやいた意味が宍戸にはよく判らなかった。
「何が?」
「結局俺、橋渡しみたいで」
「橋渡しって何だよ」
「跡部さんが俺だけ呼んだのって、俺に話せば宍戸さんにもちゃんと伝わるからでしょう? そういう意味で。二人の橋渡しみたいじゃないですか。俺」
「気味悪いこと言ってんじゃねえよ、長太郎。だいたい俺の耳にも入れたいなら、あいつが普通に俺に言えばいいだろうが」
 照れくさかったのかなあ、と鳳が一人ごちるので、宍戸はますます憮然となった。
「だから気味悪いこと言うなっての……」
「とりあえず歩きながら」
 宍戸の腰をそっと促した鳳の手のひらに従って、二人で歩きながら話した。
「おつきあいしてる人、いるんだそうですよ」
「は? 跡部?」
「はい。だから忙しいみたいです。相手は判りませんけど」
 どんな人でしょうねと付け足した鳳の声に被さって宍戸がしみじみと言った。
「……よく了承したな、神尾」
「…え? ええ?……神尾君って…不動峰の?」
「ああ」
 何で相手知ってるんですか!と鳳が仰天したのを宍戸が怪訝に流し見る。
「そんなの見てりゃ判るだろうが」
「判りませんよ!」
「あいつが自分から構いにいくなんて普通しねえだろ。興味がありゃ絡みもするだろうが、二度目なんかねえし」
「はあ……」
「それを跡部の奴、自分からああも構ってりゃ、バレバレだっての」
 寧ろお前は何で気づいてないんだとでも言いたげな宍戸の口調に、鳳は複雑極まりない表情になる。
「何だよ、長太郎。そんなツラして」
「……橋渡しより複雑で」
 衒いも何もなく、がっくりと鳳に肩を落とされて宍戸は面食らった。
 やわらかい鳳の髪に手を伸ばして、その表情を覗き込む。
「おーい、長太郎? どうした?」
「言い合いばっかしてても、ちゃんと二人が通じ合ってるの目の当たりにして、へこんでるだけです」
「……お前、よく次から次へと、そう気味悪いこと言えるな」
「うわあ……駄目だ、本気で落ち込んできた……」
 ほんの少し前まで、余裕たっぷりに微笑んで宍戸を抱きこんでいた男とは到底思えない消沈ぶりだった。
 そういう鳳の可愛げは、宍戸にしてみればほんの少しも悪印象ではないけれど。
「お前の落ち込みのツボが全く判んねえけどよ」
 宍戸は鳳の髪をくしゃくしゃと撫でて。
 じっと、鳳の目を覗き込んで。
「何だかんだとあの野郎に、お前が特別扱いされてるの見てたのも、俺だってあんまり気分いいもんじゃねえんだけど?」
「宍戸さん…?」
「落ち込む暇あったら、放ったらかしにした分フォローしろよ」
 行先どっちだと、不敵に笑った宍戸に、鳳の返事は。
「……っから、のしかかんじゃねえよ! 体格差考えろ、長太郎!」
「ああもう、大好きです、ほんと」
「笑ってんじゃねえ! 浮き沈み激しすぎんだろ、お前は!」
 確かに体格差はあるけれど。
 宍戸は自分に覆いかぶさるようにしてくる長身の男の背をしっかりと抱きとめて。
 怒鳴ってはいるけれど、怒ってはいない。
「うち、行きましょう」
「判った。……判ったから、決めたんなら、とっとと歩け!」
 なんだかもう。
 数週間前の春一番よりも、けたたましい気がしてならないが。
 二人で、騒いで、進んで、行く先は。
 明るい春へと続く道だ。
 多分自分達は似たタイプではない。
 寧ろ性格は真逆かもしれない。
「長太郎、どこ行くんだよ?」
「どこにしましょうか」
「しましょうかって……行先決めてないのか、お前」
 駅のホームでのんびりと微笑む鳳は、大概において大らかだ。
 宍戸はどちらかといえば感情直結型で、口調も荒っぽい。
 宍戸の方が年上だという事を差し引いても、鳳は宍戸に従順で、宍戸は鳳に割合好きな事を言っている気がする。
「あ、宍戸さん。電車来た。乗りましょう」
「別に乗り遅れねえよ!」
 何で手握ってんだと宍戸が呆れて、鳳は子供っぽいんだが大人っぽいんだか判らない笑みで宍戸の手を取ったまま電車に乗り込む。
 マイペースなのは鳳で、案外型通りなのは自分かもしれないと宍戸は思う。
 そんな風にやっぱりあんまり似ていないのに。
 一緒にいて、ほんの少しも違和感を覚えない。
 二百人もいるテニス部の中で、かなりイレギュラー的にダブルスを組むことになって、いつの間にか一番近い関係になった。
 気が合うという一言では片付けられないほど、お互いといることがあまりにも当たり前だった。
「………………」
 相変わらず自分の手を取ったまま先を歩く鳳の背中を宍戸はじっと見つめて考える。
 長身の後輩は、それでいて普段、人に威圧感を与える事は全くないが、こうして見れば広い背中は骨格がしっかりとしている。
 思わず見ている側の力の抜けるような柔らかい笑みを浮かべたり、年下らしい可愛げで頼りなさを見せる事もあるけれど、多少強引な所もあるにはあるのだ。
 そして、そんな鳳に手を引かれておとなしく彼の後ろを歩いている自分も、宍戸にしてみれば他では絶対にしない真似だという自覚がある。
 一緒にいたいからと誘われるまま、ついていく。
 決まっていない行き先に向けて、電車に乗って、二人で。
「宍戸さん、どっち向きで座るのが好きですか?」
 しばらく車両を歩き、左側の座席に手をかけて鳳が立ち止まって聞いてきた。
 車両の座席は対面式になっている。
 電車の中はすいていて、四人掛けのその座席を二人で使っても何の問題もないようだった。
「そりゃ進行方向向いてる方が」 
「じゃ、こっちですね」
 エスコートでもするかのような鳳に自然に促され、宍戸は腰をおろした。
 窓際の席。
 その真向かいに鳳が座る。
「……って、お前そっちでいいのかよ」
 当たり前みたいに宍戸を優先する鳳に問えば。
「俺は宍戸さんの顔見られればいいんで」
 何となく予想の範疇内の即答が返されて、宍戸は横様に、足で鳳の靴の辺りを蹴る。
 加減はしたけれど、蹴られた鳳はいつもの柔らかい笑みを浮かべて平然としているばかりだ。
 呆れていた宍戸の方が気恥ずかしくなるような甘ったるい笑い顔に、それ以上言いようもない。
 宍戸は誤魔化すように窓の外に流れる景色に視線をやった。
 鳳がゆっくりと違う事を話し出す。
「鉄道って左側通行じゃないですか」
「………あ?」
「だから、進行方向左側の窓際に座ると景色がいいんです」
「あー……確かにな…」
 普段あまり出向かない方角に向かう、乗りなれていない沿線。
 窓の外の景色は次第に住居地や雑踏から離れていく。
 窓辺の縁に肘をついた手で頬杖して、宍戸は少しずつ変化していく景色を横目に同意した。
「代わるか? 席」
 ちらりと鳳に目線を向けて問いかけると、鳳は僅かに首を傾けるようにして笑みを深めた。
 綺麗な顔してんなあ、と今更ながらな事を宍戸は考える。
「後ろ向きの景色もいいんですよ」
「そうか?」
「前向きだと前方がよく見えるけど、無意識にずっと視線を動かす事になるから疲れる事もあるんだそうで」
 疲れたら代わりますね、としっかり付け足して話す鳳の、優しげで穏やかな声に宍戸は耳をすます。
「後ろ向きだと、去っていく景色をずっと見ていられるから、これはこれで楽しいんです」
 ふうん、と宍戸は相槌をうって、その流れで普段だったら絶対言わないような言葉を、ついでにぽろりと零してしまった。
「お前は結局景色と俺とどっちを見てんだよ」
 不貞腐れたような声が出てしまったのが我ながら頭が痛いと、宍戸はすぐに後悔したのに。
 鳳は驚くでもなく、慌てるでもなく、しっかりとした熱量の宿る甘い目で宍戸を見つめて、笑みを深めた。
「視線を動かさないで、ずっと見ていられるので。こっち側座らせて貰って、俺、すごく得してますね」
 結局のところ、景色なんか見ていない目で見つめられて、宍戸は頭が痛い。
 何でここで赤くなる。
 自分が。
 そう思い、とにかくひたすら、頭が痛い。
 車窓の景色は、冬の終わりの青空だった。
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