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How did you feel at your first kiss?
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 鳳と喧嘩をしたら、機嫌だけでなく体調まで悪くなってしまった。
 激ダサ、と口にした自分の声も妙に頼りなくて宍戸は鬱々とする。
 朝からずっと寒気がするのは、今日の気温が低いせいばかりではないようで、放課後になったら寒気というより、もはや悪寒でくらくらした。
 頭が痛い。
 気持ちが悪い。
 あとはもう帰るだけなのに、ここにきて一気に動けなくなった。
 宍戸は廊下の片隅にしゃがみこんで、床材の冷たさに身震いする。
 冷暖房完備の氷帝学園の校内においてはあるまじき寒さに、宍戸は立てた膝に額を押し当てて目眩を噛み砕こうと必死になっていた。
 身体の遠くの方から兆しがある吐き気にもうんざりする。
「………何でそんなになるまで無理するの」
「………………」
 額の上あたりに、宛がわれた手のひらは滝のものだ。
 色気のある声は頭痛の酷い宍戸を全く苦しめない。
 いつも穏やかな友人のものだった。
 ひんやりとした指に頭を撫でられていると、少しだけ気分がはれる。
 しかし、溜息と一緒に滝が吐き出した言葉を宍戸は即座に否定した。
「鳳、呼ぶよ」
「呼ぶな」
 滝が、そう言いだしそうな予感はあったから。
 すぐに否定したのに、駄目、と滝はにべもない。 
「立ち上がれない宍戸を運ぶのは、俺じゃちょっと難しいよ」
「運ばなくていい…」
「駄目」
「もう行っていい」
「出来るわけないだろう、そんなこと」
 滝の声は優しかったが、嫌だと宍戸は首を振り続けた。
「どうしたの。宍戸」
 半分は怒って、半分は心配そうに。
 滝が宍戸の正面にしゃがみ込んだ。
「そんなに具合悪いのに、何で、これ以上無理しようとするわけ? 全然平気じゃないって、自分で判ってるだろ?」
「………………」
「鳳以外だったらいいの?」
 そうだけど。
 頷けない。
 押し黙る宍戸の、下を向いたままの頭上に手をおいて、滝は宥めるように髪を撫でてくる。
「…鳳は嫌なの?」
 少しだけ聞き方を変えてきた滝に、宍戸は漸く頷いた。
「どうして?」
 黙り続ける事もすでに億劫だった。
 宍戸は力ない声で答える。
「……喧嘩してるから。あいつは呼ぶな」
「喧嘩って…」
 珍しく滝が、呆れを露にして宍戸を叱った。
「あのね。こういう時に、意地張ってる場合じゃないだろ」
「………嫌だ」
「宍戸」
 嫌だ、と宍戸は繰り返して、これではまるで駄々をこねる子供のようだと思ったけれど。
「……あいつ、頭下げてでも謝り倒して連れて帰るに決まってるから、やだ」
 宍戸の頭を撫でていた滝の手が止まる。
 ん?と小さな自己確認のような声がして。
「…鳳が謝ったら、宍戸は嫌だってこと? つまり宍戸が悪い?」
「だよ…」
「………………」
「当分許さなくて良いって俺は言ってんのに、あの、ばか」
 すぐ許す。
 悪くもないのに謝って。
 彼の方から折れて。
 ここ数日ずっとそうだった。
 だからその上でこんな、具合が悪い自分なんかと接触したら、鳳は絶対に何もかもひっくるめて自分が悪いということにするのだ。
 絶対。
 それが、どうしてもどうしても、いやだ。
「そっか…」
「………………」
 しみじみと頷いてはくれる。
 でも滝は、どうしようかなあと片手に持った携帯を見て溜息をつく。
「そうは言ってもねえ…」
「ぜったい、やだ、」
「……そんな子供みたいな言い方、普段の宍戸だったらしないよねえ………そんなに具合悪いのに、どうしようか…」
 宍戸の頭に手のひらを乗せて、そっと頭を撫でながら滝が呟くのに、突然別の声が被さってくる。
「もう遅ぇ」
 歯切れの良い、強い声。
 滝は立ち上がって振り返り、宍戸はのろのろと顔を上げた。
 小さな身体。
 けれどそうとは見せない力強さで、向日は腰の両脇に手を当てて、二人の前に立っている。
「岳人」
「滝、お前、宍戸を甘やかしすぎ」
「……かなあ…?」
「かなあ、じゃねえよ。甘いんだよ、お前は!」
 苦笑いする滝に厳しく言いやってから、向日は宍戸を睨み下ろした。
「今更ぐだぐだ言ったって遅ぇ! 侑士が鳳に電話したぜ」
「……、…あ?」
 向日が立てた親指で自身の背後を、指差す。
 そちらからゆっくり歩いてくるのは忍足だ。
「お前が来ないなら宍戸は俺か跡部が姫抱っこして帰るって。侑士に言えって言ったら言った」
 さっき電話で、と向日は言い、携帯を手にした忍足は苦笑いでそんな向日の横に並んだ。
「あの調子じゃ、直に血相変えて飛んでくるやろ。鳳」
「てめ……何考えてんだ…」
 宍戸が低い声で向日と忍足を睨んで呟けば。
「侑士もそう言ったな」
 向日はけろりと口にして、滝が、あーあーと声を上げて笑う。
「岳人…忍足、結構デリケートなんだから。そんなこと言わせて、可哀想に」
「せやろー? 俺傷ついてんねんで」
「よくオッケーしたね。忍足も」
「そう言わんと、家出した時に、俺んとこにはもう来ぃへん言うんやで、この子」
「あらら」
 ひどいわとがっくりと肩を落とす忍足と、それは心配だよねえと慰める滝と。
「別に俺が運んでやりゃいいんだけどよ。侑士や跡部の名前出す方が、鳳すっ飛んでくるだろうからな」
「………なに言ってんだか判んねえよ」
 自分よりも十四センチも低い身長で、でも向日だったらやってのけるかもしれない。
 宍戸は悪寒の中で悪態をつくのが精一杯だった。
 寒気がするのに。
 頭が痛いのに。
 具合が悪くて、もう立ち上がる気力もないのに。
 そんな自分の周辺で、友人たちは賑やかしのように騒いでいる。
 でも本当は、きちんと心配をされていることも判るので。
 いつまでも意地を張っていたら駄目なのかもしれないと、宍戸は膝を抱え込むように項垂れた。
 視界がぐるぐる回る。
 喧嘩。
 そう、喧嘩。
 喧嘩の原因は、何だったか。
 思い出そうにも、だんだんと訳が判らなくなってくる。
 怒ったのは自分だったのか、鳳だったのか、はたして自分は何が嫌で頑なに鳳を避けたいのか。
 改めて、色々と、考えようとして、どんどん訳が判らなくなってしまう。
「ん? マジでやばそうだな、こいつ」
「うわ………ちょっ…宍戸、…?」
「おー、王子様の到着や」
 向日が眉を寄せ、滝が慌てて、忍足が呑気に言う。
 廊下の遠くの方から、走ってくる男の気配。
 顔を俯かせていても判る、その足音。
「宍戸さん? 宍戸さん、大丈夫ですか?」
「………………」
 気遣わしい声が聞こえる。
 肩に手がかかる。
 駄目だ、もう。
「し、……!…」
「………………」
 宍戸は鳳の胸元に身体を預けた。
 しっかりと受け止めてきた腕の強い感触に、手放しにそれこそ甘えるように顔を伏せて。
「……ごめん…なあ……長太郎…」
「だからその話は……、…ああもう、とりあえず!」
 病院行きましょうと鳳は宍戸の身体を包み込むようにして。
 やってのけたらしい。
 お姫様抱っこ。
 浮遊感にまたぐらりと眩暈がして、宍戸はそのまま鳳の胸元に顔を埋めた。
 たぶん、熱が出てきた。
 原因は体調不良によるものなのか、久しぶりに感じる鳳の気配によるものなのか、あやうい。
「だから、お前は、許さなくて……、…いい…」
「いい加減いつまでも我儘言わないっ!」
 鳳の怒声に、おおーっと三年生達は言って手を叩く。
「おお。大人になったんやなあ、鳳」
「鳳、よく言った!」
「鳳が宍戸を怒鳴れるとはねえ……やるねえ…」
「ああもう先輩達退いてください!」
 大人というよりは、心配しすぎて訳が判らなくなっているのに近い。
 鳳の狼狽は、宍戸の知る由ではなかったのだけれど。
「あと頼むね。鳳」
「じゃーなー」
「頑張りや」
 気ままな事を口々に言って、去っていく同級生達の声も、宍戸の耳には届いていなかったけれど。



 優しい、強い腕に支えられていて。
 真摯に気遣われるこの腕に、今は頼っていいのだと判ったから。
 宍戸はゆっくり安堵して、何もかも無抵抗に、鳳の腕の中で意識を手放したのだった。
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 一緒に初詣に行きませんかと誘ってきたのは鳳だった。
 人混みが苦手な宍戸を熟知している鳳らしく、出かけたのは三箇日も明けてからの事だった。
「あけましておめでとうございます。宍戸さん」
 長身を腰からきっちりと折り曲げて、鳳が頭を下げる。
 宍戸はさすがにそこまではしないが、同じ言葉を返す。
 待ち合わせ場所で、今年もよろしくと言い合って、連れ立って歩き出す。
 しばらく歩いて、宍戸は横にいる鳳を見上げて言った。
「長太郎、お前、なんか背伸びてねえか?」
「そうですか?」
 そう言われるとそんな気も、と鳳が生真面目にコートの袖口見下ろした。
 腕じゃなくて背だよと宍戸は思っておかしくなる。
「何で笑ってるんですか」
 少し拗ねたような言い方をする、でも、少しずつ、その見た目が大人びていく鳳を、宍戸は和んだ目で見やる。
「笑ってねえだろ」
「そうですか?」
 そうかなあと僅かに首を傾ける鳳の、そういう年下らしい可愛げは変わらないなと宍戸は思った。
 数日ぶりに会っても何だかとても久しぶりだと思ってしまうのは、あまりにも毎日一緒にいた夏の印象がまだ抜けないからだろうか。
「宍戸さん、お正月って何してました?」
「ん? 別に普通。いつもの休みと変わらねえよ」
「じゃあ、走ったりとか?」
「ああ」
「誘ってくれればよかったのに」
「新年早々それかって兄貴に呆れられたんだよ。そういうもんかって思ってよ」
 つきあわせるの悪いかと思ったと続ければ、鳳は生真面目に、悪くないから来年は誘って下さいねと言った。
「もう来年の話かよ」
「おかしいですか?」
「まあ、いいけど」
 他愛のない会話をしながら、近くにある神社に向かう。
 社まで長い石段を上っていかないといけない立地なので、あまり人がいない穴場なのだ。
「いいトレーニングになりそうだな」
「ですね」
 長い階段を下から見上げてしみじみ言った宍戸は、ふと、鳳に手を握られて瞠目する。
「おい?」
「体力のない後輩を、優しい先輩が手を引っぱって連れていってくれる、というシチュエーションでどうでしょう」
「どうでしょうじゃねえよ」
 思わず笑ってしまった宍戸は、けれど鳳の手を振り払いはしなかった。
 新年から、こんな場所で、手を繋いで歩くというのはどうかとも思うけれど。
 別にわざわざ言い訳のような設定など作らなくてもいいくらいには好きなのだ。
「体力がないとかお前が言うな。どっちかって言えば、なまってんのは俺だ」
「それもないと思いますけど。でもその時は、後輩が先輩をおぶって上るって事にしましょう」
 それじゃあ行きましょう、と鳳が宍戸の手を握って階段を上り始める。
 よく仲間内でも、距離が近いと言われる自分達だ。
 意識した事はなかったが、言ってくるのが一人や二人ではないので、多分そうなのだろう。
 ダブルスを組んでいたという事だけでなく、宍戸にしてみれば鳳の存在は大きいのと同時に、当り前のようでもある。
 一緒にいる、
 近くにいる。
 それはみんな極普通の事。
 でも、こんな風に手と手を繋いでいると、何もかもが当たり前ではないのだと気づかされる。
「宍戸さん」
「……ん…?」
 そっと、囁かれた呼びかけに、宍戸の反応が少し遅れる。
 鳳の声は小さかったけれど。
 優しく、丁寧だった。
「嫌がらないでくれて、ありがとうございます」
「何が?」
「手。どうしても繋ぎたかったから」
 前を向いたまま鳳が言うのに、宍戸は一瞬呆気にとられた。
「こんな所で手なんかつなぐの嫌だって拒まれるかなって、思ってたから」
「……お前は自分に自信があるのか臆病なのか判んねえな…」
 謙虚で礼儀正しい反面、鳳は案外マイペースで強気な面も持ち合わせている。
 宍戸にしてみればどちらの鳳でも構わなかったし、手をつなぐ事くらいで礼まで言われる方がびっくりする。
「きちんと自信が持てる自分にはなりたいと思ってますよ」
「なら、俺に対しても同じように自信持てばいいだろ」
「それはかなりハードルが高い……」
「お前の今年の目標な。決定」
「宍戸さんー…」
 頼りない目で振り返ってくるのが可愛かった。
 宍戸は鳳の手を握ったまま、お前の言うことも聞いてやると笑った。
「俺の今年の目標。一個、お前が決めていいぜ。長太郎」
「好きになって下さい」
「は?」
 即答すぎて面食らう。
 宍戸の手を強く握り返し、鳳ははっきりとした声で繰り返した。
「俺を、もっと好きになって下さい」
「………それ目標じゃねえだろ」
 だいたい、そもそも、好きなのだから。
 それも、だんだん、どんどん、好きになっている。
 目標なんて言ったら、頑張らないと叶わない出来事のようだから、それは有り得ないだろうと宍戸は呆れた。
「少し自重しろって言うなら判るけどよ……」
「え?」
「や、何でもね」
 真顔で問い返してくる鳳に適当に首を振って、宍戸は思わずもらしてしまった自分の本音にじわじわと羞恥が湧き上がるのを感じた。
 本当に。
 それこそ。
 少し自重しないと、とんでもない事になりそうだ。
 些細な出来事でも、短い言葉でも、ささやかな接触でも。
 好きになるから。
「じゃ、約束です」
「……長太郎…?」
「俺は、宍戸さんに対して自信が持てるように頑張ります。宍戸さんは、俺のこと今よりもっと好きになるように、」
「……っから、頑張る必要ねえんだよ、俺はっ」
 このアホ!と吐き捨てて、宍戸は階段を駆け上がった。
 階段とはいえ、ダッシュには、それこそ自信がある。
「宍戸さんっ?」
 訳の判っていない困惑を滲ませて、鳳も慌てて追いかけてきたが、今の顔を見られたくない宍戸は尚加速した。
 こんなにも馬鹿な提案を真面目にしてくる、何も判っていない鳳なのに。
 それでも、やっぱり、もっと好きになる自分に必要なのは。
 どうしたって自重の方だろう。



 神頼み、したくなるほどに、重症だ。



 大抵の事には免疫が出来ている。
 何せ同学年に跡部景吾がいるのだ。
 氷帝学園の中にあっても、多少のブルジョワでは動じなくなるくらいには、跡部という男の環境は規格外だ。
 しかし、そんな風に慣らされてはいても、宍戸にしてみれば鳳のブルジョワぶりも相当なものだった。
 押しの強いタイプではない鳳は、柔和で、目立つ行動をとるでもなく、それでいながら自然と何かを滲ませている。
 テニスをしている時は案外勝ち気でパワーもある。
 音楽が好きで、楽器は一通りこなせるらしく、調音などもよく頼まれている。
 目上に対してはもちろんのこと、女性への対応はずば抜けて丁寧で、このくらいの年齢の男性としては珍しい程のフェミニストだ。
 世界各国に足を運んだことのある跡部相手に、まったく同レベルの会話を交わすことが出来、知識量、読書量とも相当だった。
 いつも人好きのする笑みを浮かべていて、協調性に満ちている。
 それでいて一人で行動するのも好きなようで、一人では何も出来ないなんて事もない。
 多少メンタルが挫けがちだが、それは宍戸にしてみれば年下の可愛げ程度のものだった。
 むしろ、どうにかそんな弱さも克服していこうと鳳自ら努力をしているのだから、それが欠点になる訳もない。
 適度に甘さが残るのも、いっそひっくるめて長所になるだろうと宍戸は思っていた。
 鳳の世界はすでに広い。
 これからも広がっていくのだろう。
 いくらでも。
 そんな男が宍戸の手を取って、見下ろして、はにかむように甘く笑う。
「こんなに強くて綺麗なひと、初めてです」
「………………」
 何も、ものを知らない目なら良かった。
 それならば宍戸は呆れることが出来た。
 馬鹿な事を言っていると一笑することが出来た。
 でも、鳳は知らない訳ではない目でしっかりと宍戸を見つめて、心を尽くし、言葉を紡ぐ。
「……お前…さぁ」
 宍戸の言葉は歯切れが悪く立ち消える。
 鳳の右手が、宍戸の左手を包み込むようにしてくる。
 大きな手だ。
 骨ばって、温かい。
 その手を払う事なく、宍戸はただほんの少しの困惑で鳳に対峙する。
 最初に好きだと告げてきたのは鳳で、宍戸も同じ言葉も返したが、そうじゃなくて、と鳳は困った様に苦笑いした。
 ほんの数日前のことだ。
 宍戸はそれで改めて鳳の顔を見返して、ああ、と気づく事になった。
 裏表のない鳳の表情は判りやすかったのだ。
 含まれる恋愛感情まで、赤裸々で。
 だからそれを言われて宍戸が驚いたのは、まさか自分の持っている感情と同じものを、鳳もまた持っているとは思っていなかったからだ。
 宍戸には自虐癖はなかったし、己を卑下する事など特に嫌いだった。
 しかしこの時ばかりは考えた。
 何故自分なのかと。
 色々と知っている眼で、思考で、強いと、綺麗だと、好きだと鳳が言い切れる程の自分だろうかと考えた。
 そんな躊躇は鳳にも伝わったらしく、鳳は辛抱強く宍戸に判らせようと繰り返してくる。
 あれから毎日、ずっと。
「宍戸さんが好きです」
「………毎日毎日言うんじゃねえよ…」
「宍戸さんが、そんなの当然だっていうくらい、当たり前に受け止めてくれるまでは言いますよ。何度だって」 
 強気とは違う。
 でも、鳳のこういう揺らぎの無さは何なのだろう。
 当然だの当たり前だの思える訳がないだろうという言葉は、ぐっと飲み込んだ。
 宍戸は、ここ数日のこのやり取りに、自分ばかりが翻弄されているような気になって仕方がなかった。
「…長太郎」
「はい?」
 呼びかけるだけで嬉しそうに微笑む年下の男に宍戸が抱く感情は、かなり以前から宍戸の内部に存在している。
 鳳がするように、それを相手に判らせる為に、宍戸も何かをするべきなのかもしれなかったが、それはどうにも宍戸にはハードルが高すぎた。
 鳳はまるで躊躇わない。
「俺ね、宍戸さん」
「………………」
「頑張って、自分でどうにかするしかないっていう事は、すごく稀な事で、すごく大事な事だなあって思うんですよ」
 鳳の手に力が籠る。
 握られた手で熱を感じる。
「テニスも、宍戸さんも。だからね」
 好きで、ずっと、だから、すごくね。
 そんなバラバラの言葉は、ふわふわと宍戸に降ってくる。
「大事なんです」
「………テニスと同等に置けるような、そんないいもんじゃねえよ、俺は」
「宍戸さんって、奥ゆかしいですよね、そういうところ」
「……ッ…、…恐ろしいこと、さらっと言うんじゃねえ!」
 言われたこともないような言葉を真顔で告げられて、宍戸が怒鳴ると鳳は鮮やかに笑った。
「好きです。宍戸さん。おれ、頑張りますから」
「……………、…」
 宍戸が絶句するほどの、屈託のない笑顔で。
 鳳は微笑んだ。
 まずは判って貰う。
 それから好きにもなって貰いたい。
 鳳の、そんな堅実な要望に、宍戸は唖然となった。
 まずも何も。
 それからも何も。
 もう、好きだ。
 好きになど、とうに、なっている。
 けれどそれを告げようにも、告げられない程に、宍戸はくらくらと鳳の甘ったるい熱量に惑わされるばかりだった。
「大好きです」
 自分もそうだという言葉をやれないのは、全部全部お前のせいだと。
 八つ当たりじみた目で、年下の男を睨みつけるのが、今の宍戸にできる精一杯だった。
 なまじ身長が高いので、鳳が人を見る時の角度というのはいつも上から相手を見下ろすようになってしまう。
 相手の目などは、正面から見るというよりも、大抵は伏し目がちになって見えている事が殆どだ。
 大概の相手への、見慣れた角度。
 けれど、そんな伏せた目元の印象に、胸の中がざわつくような、ひどくおかしな気分になる事は、鳳にしてみたらその相手限定なのだ。
 落ち着かない。
 けれどそれは馴染めないという事ではなく、むしろ目が離せない。
 一時も離れていたくないと思える。
 ざわざわと鎮まらない胸の内に、ひたひたと満ちる感情はいつも揺らされて、でも胸に詰まるその感情の甘さがなくなってしまったら、何だかもう、自分ではないような気がしている。
「長太郎?」
「………………」
 睫の先までよく見える至近距離から目線を上げてきた宍戸の呼びかけに、鳳はふと息が止まるようなその一連の仕草を全て見届けてから、小さく返す。
「はい」
「何だよ。ぼーっとして」
「…宍戸さんだなあ…って…」
「はあ?」
 あからさまに呆れかえった声と眼差しとを宍戸から向けられて、すみません、と鳳は少しだけ笑った。
 でもそれと同時に、だめだ、とも思って問いかける。
「宍戸さん。抱き締めてもいい?」
「……お前なあ…人が」
「ちょっとだけ」
「真面目に話をしてる時に」
「…ほら、抱きしめても、ちゃんと聞ける」
「……じゃあ好きにしろよ…」
 許可を取り付けるより先に、鳳が宍戸の背後からその身体を抱き込んでしまうと。
 宍戸は溜息をついて、でもちゃんと同意もくれた。
 腕の中に後ろ側から収まってくれた宍戸に、部室でこんな風に話をすること自体随分と久しぶりだと鳳は思った。
 見下ろすうなじにかかる襟足が伸びた。
 宍戸達三年生が部を引退してしまってからかなりの時間が経ってしまったような気がしていたが、こうして実際に宍戸がいる所を目の当たりにすると違和感どころか普通に気持ちが馴染んでいく。
「だからこれが若からの預かり物」
「……いいなあ…日吉」
「お前さあ、この格好で言うことかよ」
「んー…」
 部活を終えた後、部室に最後まで残ることになるのは、大抵日吉か鳳のどちらかだった。
 今日は先に帰っていった日吉が、再度部室に持ってこようとしていた何枚かのプリントを宍戸が預かって持ってきたのだ。
「顔合わせるなり、これ部室に持っていって下さいだぜ? あいつ」
 悪態をつくような口振りだったが宍戸は笑っていた。
「ま、お前がいたからだろうけどよ」
「そこは感謝してます。でも日吉って、自分の事は何でも自分でするから、そういう風に誰かに物を頼むとか普段しないんですよ。そういう面で、宍戸さんには気をゆるしてるんだなあって思うと俺は複雑な気持ちなんで………って、あの、宍戸さん俺の話聞いてます?」
 鳳が、ぐいっと宍戸の腹部を抱き込むようにして真上から見下ろすと、判りやすく小さく欠伸した宍戸は、お前だってさっき俺の話聞いてなかったろ、と言いながらゆっくりと鳳の胸元に背を凭れかけさせてきた。
「気持ちいい」
「………はあ、」
 和んだやわらかい声に鳳は言葉を詰まらせる。
 無防備に懐かれてしまって逆に鳳は固まった。
 表情はちゃんと見えないのに、何だか可愛くて可愛くてどうにかなりそうな自分を自覚して、取りあえず落ち着こうと気持ちを静める鳳をよそに、宍戸は立ったまま鳳に寄りかかっている。
「……座りますか…? 宍戸さん」
「そうすっと帰るの面倒になりそうだなー…」
「じゃあ俺のうち来ませんか」
「んー……」
 あまりいい返事ではなかったので、それは嫌なのかな?と鳳が伺い見た宍戸は。
 宍戸の身体の正面を回ってその右肩を手にくるんでいた鳳の左腕に、ぎゅっと自身の右手をかけて、僅かに首を左側に傾ける。
「後もうちょいベタベタしてからにする」
 ベタベタって。
 うわあ、と。
 鳳は思わず空を仰いでから、片側に倒れてすんなりと露わになった宍戸の右の首筋に顔を埋めた。
「お前も懐いてくるし。いいよな?」
 宍戸が笑う振動に、ああもうなんでもいいですと呻くように返しながら、鳳ももう手加減なしに、遠慮もなしに、暫しはこうしてベタベタする事に没頭する事にしたのだった。
 鳳が自分の部屋の扉を閉めたのと訪ねてきた宍戸の腕を引き寄せたのはほぼ同時だった。
 部屋の扉はきちんと閉まった。
 けれども宍戸は鳳の胸元には収まらなかった。
「……宍戸さん?」
 足を踏みとどまらせて距離をつくる宍戸を見下ろし、鳳が小さく呼びかける。
 何か怒ってでもいるのかと訝しんだ鳳の心中を察したように。
 宍戸は取り立てて怒っているような様子もない上目をくれて。
 あっさりと、もう少ししてからな、とだけ言った。
「もう少しって…?」
「言ったまんま」
 するりと鳳の手から腕を引き、宍戸は部屋の中に入ってコートを脱ぐ。
「あ、おい、長太郎…」
「今がいい」
「駄目だっつってんだろ!」
 脱ぎかけのコートごと、宍戸の背後から両腕で彼を抱き込んだ鳳は、結構本気の体で宍戸に身を捩られて、ますます腕に力を込める。
 嫌がられるのは、嫌だ。
 何でだと癇癪を起こしたいような気分にもなる。
 けれど、こういう時は理不尽に癇癪を起こすより、見境なく甘えまくってしまった方が、宍戸がちゃんと理由を言ってくれる事を鳳は判っていた。
「後でじゃ嫌です」
「おい、…」
「今がいい。今抱きしめたい」
「長太郎」
「何で嫌がるの。宍戸さんは」
 細い身体はしなやかな手触りで鳳の腕の中にある。
 やはり暫くは嫌がるみたいに身じろがれたが、それよりもっと嫌だと鳳が感情を露わに甘えたおすと、宍戸は結局折れてくれる。
 力を抜いた宍戸は鳳に背中から凭れかかるようにして、後ろ手に、鳳の髪をくしゃくしゃとかきまぜた。
「……ったく。何でへこむんだよ。これくらいで」
「へこみますよ。宍戸さん嫌がるから」
「嫌がってねえよ。後でっつっただろ」
「後ではよくても、今は嫌なんでしょう」
「長太郎ー」
 大真面目に鳳が意見していると、何故だかいきなり宍戸は噴き出すように笑い出し、わかったわかったと繰り返し言った。
「とにかくコートくらい普通に脱がせろよ」
「はい」
 鳳は丁寧に宍戸のコートに手をかけて、半ば外れかけた右肩から先に、そっと脱がせていく。
「……脱がせてくれとは言ってねえけどな」
「俺は脱がせたいです」
 コートの下に着ているセーター越しに宍戸の背後から、その肩口に唇を落とす。
「ね、宍戸さん」
「んー?」
「どうして最初に、嫌がったんですか?」
 またかよと宍戸は呆れた声で返してきたけれど。
 鳳は構わず、どうして?と宍戸に顔を近づけて耳元に囁く。
「やけに拘るなあ、お前。聞くの何回目だよ」
「さあ? 数えてないので判らないですけど。でも、自分の気付いてない所で、宍戸さんに嫌な思いさせてたら嫌だから」
 教えてほしいです、と鳳は宍戸の頬にキスをした。
 宍戸はもう、鳳が何をしても嫌がらない。
 軽いキスを頬で受け止めて、宍戸は溜息をついてから口をひらいた。
「…お前が、かわいそうだって思ったからだよ」
「かわいそう? 何でですか?」
 宍戸さんに拒まれる方がよっぽどかわいそうじゃないですかと矢継ぎ早に鳳が言うと、宍戸は鳳の胸元に立ったまま凭れかかって、自身の手のひらをじっと見据えていた。
「宍戸さん?」
「外、寒かったんだよ」
「え?」
「手とか、マジで冷たくなってたし。結構着こんできたけど全身冷えてたしな」
 お前がかわいそうだろう、と宍戸はもう一度言った。
「家ん中にいたのに、わざわざ俺で寒い思いすることねえだろうが」
 なんだろう、このひとは、と思って絶句している鳳になどまるで気付かず。
 宍戸は訥々と喋っている。
「だからちょっと待てって言ってるのに、聞かねえんだからよ。お前は」
 宍戸を抱き込む手に力が籠る。
 不思議そうに振り返ってきた宍戸の唇を鳳は真上から封じるようにキスで奪って。
 宍戸が気にしたような冷たさなど、一度も感じていない彼の手を、そっと取って握り締める。
 鳳を守るみたいな真似を、普通にしてしまう宍戸の薄い身体を抱き込んで、キスの角度を変える。
 唇と唇が離れた一瞬で、至近距離からお互いの視線が合う。
 指を絡め合う。
 唇を重ねる。
 身体を寄せて、あと何が出来るだろう。
「長太郎」
 宍戸の声で名前を呼ばれる。
 その声を聞いて、頭の中まで沁み渡るように満足して。
「宍戸さん」
 鳳が呼ぶと、宍戸もまるで鳳と同じものを感じているかのように、瞬時目を閉じて息をつく。
「宍戸さんが寒かったら、俺は温めたいです」
「何遍も言わすなよ。お前が寒い思いすんのとか、かわいそうで無理」
「……過保護すぎやしませんか」
「……どっちがだよ」
 どっちもだよ、なんて結論は端から頭にない自分達だから。
 暫くは、こんなどうでもいい論争を、真剣に。
 キスの合間の時間を使って取り交わす。
 氷帝テニス部のレギュラー専用部室のソファでは、今日もジローが赤ん坊のような寝顔で、すかーっと眠っている。
「ジロー! お前、せめて着替えろよ!」
 向日の手に肩を揺すられてもジローは何ら眠りを妨げられている様子はなく、すうすうと寝息を立てて丸まっている。
 部活を終えて、一斉にメンバーが着替えを始めている中、ユニフォーム姿のまま寝入っているジローも、つい今しがたまでは起きていたのに。
 ちょっと目を離した隙にいつものようにこんな状態だ。
「こいつさあ、実は魔女に呪いでもかけられてるんじゃねえの」
「眠り姫ならぬ、眠り王子って?」
 向日の悪態に、忍足が笑って応えている。
「これだけ寝てる割には育たんしな」
「寝る子は育つって、あれ完全にデマだ。ガセだ」
「いっぱい試してみたんやなあ。岳人」
「てめ、…! 侑士、お気の毒さまーみたいな哀れっぽい顔すんじゃねえ!」
 勇ましく怒鳴る向日と、淡々としつつも笑いを絶やさない忍足のやりとりはいつもの事だ。
 日常そのままのテニス部の光景だ。
「うるせえなあ、外まで聞こえてるぞ、岳人」
 部室の扉が開いて、最後の最後まで居残って練習をしていた宍戸が憮然とした顔で入ってくる。
 宍戸の背後には鳳がいて、この二人はとにかく一番最初に部活にきて、一番最後までコートにいる。
 それもまたいつものことだ。
「悪かったな! つーか、それでもまだ起きねえけどな、ジローは」
 向日が宍戸に噛みつくようにして言い、宍戸はソファに視線を落として、ああ、と薄く笑った。
「ほんとだ。すげえな、こいつ」
 ソファの背後に回り、宍戸は腰から上半身を僅かに屈めるようにしてジローの寝顔を見下ろした。
「………何やってんの。宍戸」
 向日が、ぽかんとした顔で言った言葉に、周囲の視線も自然と宍戸に集まった。
 宍戸はソファの裏側から僅かに身体を屈めてジローの髪を撫でている。
「…あ?」
 視線に気づいた宍戸がジローから目線を上げて、何だよ、と僅かに怯んだように周囲を見回す。
 宍戸といえば毒気のある言葉こそ吐かないが、口調は荒く、所作もさばさばと男っぽい。
 とても今のように、寝ている友人の頭を撫でるような仕草をするタイプではないのだ。
 それが今、眠るジローの頭を何度も撫でているのだから。
 向日を始め周囲の人物こそ怯んでいる。
 追い討ちをかけたのは宍戸が次に怒鳴ったこの言葉だ。
「長太郎はこれで起きるんだよ!」
 レギュラー陣は引きまくった。
 長太郎というのは、その、宍戸の背後で穏やかで人好きのする笑みを浮かべて立っている、長身の男前な後輩のことか。
 判り切った事を確認したくなるのも無理ないだろうと、面々は臆面もなくそんな事を言い放った宍戸の、あっけらかんとした態度に対して断言したい気持ちでいっぱいになった。
 てらいがない。
 そんな当たり前のように言うなと思う面々の前で、名指しされた鳳が、顎の辺りに手をやって、僅かに首を傾け思案顔だ。
 そうかと思うといきなり長い足でソファの前方に向かい、両腕で。
 ひょい、と。
 ジローを抱き上げた。
「な……っ、…」
 何だ何だ、何なんだ、と面くらい絶叫するレギュラー陣を前にして。
 鳳は暫く両腕でお姫様抱っこしたジローを見やり、その後溜息を吐きだした。
「うーん…駄目ですね…」
「駄目か」
「はい。宍戸さん。駄目です」
 律儀に鳳に問いかけたのは宍戸で、二人で顔を見合わせ溜息などつきあっている。
 周囲の人間のあからさまな視線に気づいたのか、鳳が顔を上げて真顔で言った。
「宍戸さんは、こうすると起きるんですけど」
 抱っこされて目が覚めるとか。
 それがまたお姫様抱っことか。
 どういう二人だと、今更ながらに悩ましく脱力した忍足と向日を余所に、鳳は宍戸を見つめて、ねえ?と甘く同意を求めている。
 特別な相手への恋愛感情を隠さない目をして、腕にはジロー。
 鳳という男は判らないと忍足と向日は思わず互いの手と手を取り合ってしまう。
 そもそも鳳といい宍戸といい、そんな甘ったるい起こし合い方をしているあたり似た者同士だ。
「日本人の奥ゆかしさとか、慎み深さっちゅーもんは、あいつらにはないんやろな…」
「全くだぜ侑士。これっぽっちも持ってねえぞ、あいつら」
 忍足と向日が顔を合わせて言い合うのをよそに、鳳はそっとジローを元のソファに戻すと、先に着替えを始めた宍戸の隣で、この後の予定などを伺っていた。
「ねえ宍戸さん。俺、先週からサンドイッチメニューに、チーズサンドを新しく入れたお店見つけたんです。帰りに一緒に行きませんか」
「へえ。お前、そういうのよく知ってるよな」
「そうですか? でもこれは宍戸さんに言おうって、見た時思って」
「腹減ったしな。行くか」
「はい」
 にこにこと笑っている鳳と、あくまでもさばさばしている宍戸に対して、忍足と向日は深い深い溜息をつくばかりだ。
「………ほえ…? ちーずさんど…?」
 いきなり、むくっとジローがソファから上半身を起こす。
「おれもいくー!」
 寝ぼけ眼の割に大声で言い放った言葉に、おののいたのは忍足と向日で。
 おう、お前も行くか、と言った宍戸の言葉に鳳はきれいに彼の言葉を被せてきた。
「ジロー先輩、なんの夢みてるんですかねー。さ、行きましょう宍戸さん」
「え? あ、おい…ちょっと…。長太郎?」
 お先に失礼しますと言った鳳は、しっかりと宍戸の手を握って鞄を肩にかけ、部室を出ていく。
 半ば引きずられるようになっている宍戸は、僅かばかり戸惑いを見せつつも、結局しょうがないと言わんばかりの顔で鳳の後に続いた。
「…………ちーずさんど」
 置いて行かれたジローはといえば、可哀想なくらいしょぼくれて。
 忍足と向日は慌ててその両側に立った。
「わかったわかった。チーズサンドな? ジロー、食べて帰ろな。な?」
「そうそう。侑士が奢ってくれるって! よかったな、ジロー。な?」
「奢りとか言うてへんわ!」
 思いっきり恨みがましい顔をする忍足に、向日は構わぬ顔で、ジローの手を引き、着替えを促している。
 そんな向日の後ろに忍足はぴったりとくっついている。
「おい、岳人」
「侑士の分は俺が奢ってやるよ」
 屈託のない笑顔に忍足は一瞬ぐっと黙り込んで。
 思わず、といった風情で呟いていた。
「……そういう、可愛ええ顔すんなや」
「で、俺の分は侑士が奢れよな」
「結局二人分かい!」
 部室の片隅。
 どっちもこっちも本当に、と。
 呆れかえって吐き出された日吉の呟きは、もはや誰の耳にも届かなかった。
 宍戸は思わず居住いを正して床に座り直し、暫し沈黙した後、頭を下げた。
「あー………何つーか……すまん」
 ごめん、と続けてから、ちらりと目線を上げて。
 伺ったのは正面にいる鳳の様子だ。
「……長太郎?」
 宍戸が呼べば目と目が合う。
 ごめんと宍戸が再度口にすると、鳳は普段の彼らしくもない中途半端な態度で、はあ、とだけ呟き口を噤んでしまう。
 一度はかちあった視線がそのまま余所に流されてしまって、鳳の眼差しは宍戸を見ないまま複雑な色で淀んだ。
「………………」
 本気でまずったなと、宍戸は途方にくれる。
 はっきり言って、鳳が宍戸に対してこういうリアクションをとったことはこれまで一度もなかった。
 あまり言いたくないが、宍戸から見たところ、鳳はまるで、うんざりしているように、見える。
 宍戸に対して。
「………………」
 そんな事を思えば、うっかり傷つきそうになってしまって、宍戸は、これはもう、本気で、徹底的に、謝るしかないと悟った。
 ほんの少し前まで、宍戸は、この鳳の部屋から自分の家へと帰ろうとしていたのだけれど。
 もはやそれどころではない。
 掴んでいたバッグのショルダーから手を放し、きっちりと鳳の正面で、両腿に手をおいて、悪かったと頭を下げる。
 どこから、どう、言ったものかと。
 思案しながら、そもそも自分が謝るのも変な話なのだが、どうやら鳳は怒ってしまったので、ここは謝るしかないのだろうと、そんな風に色々。
 宍戸なりにきちんと考えているつもりで、実際にはまるで纏まらない思考で。
 やけっぱちになってはいないが、謝るというこの行為が、どことなく宍戸には理不尽な気はしている。
 何だこの状況はと首をかしげるのが半分。
 そして残りのもう半分は、これまでに見たことのない鳳の態度に内心びくついている自分を宍戸が自覚しているからだ。
 鳳の態度ひとつでこんなに落ち着かない気分になることを思い知らされて、宍戸は複雑な気分だった。
「………………」
 鳳は、いつもはやわらかな笑みを浮かべている唇を引き結んで、何だか遠い眼をして。
 宍戸を目の前にしているのに、明らかに何か別の事に気を取られている風情だ。
 再度上目にそんな鳳の様子を窺いながら、宍戸は元より言葉のうまくない自分自身を知っているからよけい、しどろもどろになる。
「長太郎…」
「……はあ…」
「………や、……ごめん…」
「…はあ」
「ええと…な……いや、俺は、そんなたいした事じゃねえって思…」
「はあ!?」
 鳳の発する相槌の言葉はどれも同じで、でも含む意味合いがまるで違う。
 最後のそれは鳳の唇から放たれたとはとても思えないような荒っぽさで、宍戸は、びくんと背筋を伸ばした。
 やばい。
 こいつ、怖ぇ。
 宍戸が頬を引きつらせていると、鳳が胡乱な眼差しで宍戸を直視してくるので、辺りの空気が張り詰める。
 日頃から、笑みにとろけるような優しい顔立ちの、王子様然とした鳳ばかり見てきているので、穏やかで従順な可愛い後輩である彼の変貌に宍戸はすっかりのまれてしまった。
「たいしたことない、ですか」
 眇めた眼元で見据えられ、鳳の零す溜息の荒さに、宍戸は明らかに自分の発言がよくなかったようだと思いながらも、その鳳に迫力負けして、つい泣き言を言ってしまう。
「……昨日が誕生日だったってだけだろうがよ…」
「だけ!?」
 うわあ、と宍戸は無意識に少し後ずさってしまった。
 物凄い勢いで、鳳が宍戸の言葉に噛みついてくる。
 やわらかな色の眼を宍戸がこれまで見たことのないような強さできつく引絞って、あんたねえ、と本当に珍しい荒れた口調で膝立ちに宍戸に詰め寄りながら、鳳は途中で口を噤んだ。
「………………」
「………………」
「……長太郎…?…」
 宍戸の戸惑いがちな呼びかけに、怖いくらいの無表情だった鳳は顔を背けて溜息を吐きだし、節くれ立ってもすんなりと長い指の片手を額に押し当て、座り込んでしまう。
 ひやりとしたのは宍戸だ。
 まだ宍戸に対して怒鳴るなり何なりしてくれればいい。
 でもこんな風に、中途半端に投げ捨てられると、不安が胸を巣食って落ち着かない。
 宍戸はぎこちなく手を伸ばす。
 鳳の頭に、そっと手をおいて、やわらかい髪を遠慮がちに撫でて。
 ごめんな?と囁くように告げると。
 鳳の腕が伸びてきた。
 腰を抱かれるようにして引き寄せられる。
 宍戸は膝立ちのまま、胸元にある鳳の頭上に唇を落とし、繰り返し告げた。
「…ごめん」
「……八つ当たりしてるのこっちなんですけど」
 謝らないでよと、いつもより子供っぽい言い方で鳳が呟いてくる。
 宍戸の胸元に顔を寄せる仕草は通常よりも幼いようで、しかし宍戸の背と腰を抱く手は大きく強かった。
「八つ当たりって、お前……」
「昨日が宍戸さんの誕生日だったこと、俺が知らないのは俺のせいでしょう?」
「いや、お前のせいってことねえだろ…」
 宍戸は本気で首をかしげてしまう。
 特に意味があって言ったわけではない一言で、ここまで鳳が怒ったり落ち込んだりする訳が、宍戸には正直、よく判らない。
 たまたま何の話の流れだったか、帰り際の宍戸が、昨日が誕生日だったことをもらした途端、鳳は激変したのだ。
 それまではいつもの通り、あまいやさしい笑みを浮かべていたのにだ。
「昨日が俺の誕生日だったら……何か、まずいか」
「まずいかって……宍戸さん。あなたねえ…」
「何でそれで、お前が落ち込んだり、怒ったり、するんだよ」
 本音で言えば、その程度のことで鳳からあんな態度をとられること自体が、宍戸には予想以上にこたえた。
 びくついた自分に気づかれたくない気持ちも確かにあったが、鳳の頭を抱き込む宍戸の腕からは、心細さが滲んでしまったようで、責めるつもりの言葉まで頼りなく揺れる。
「……アホ。…そんな事くらいで怒んな、ばか」
「そんな事じゃないから怒るのに……」
 しっかりと意見だけはしてきたものの、鳳は宍戸の口調に気づいてか、手のひらで宥めるように宍戸の背筋をゆっくりと撫でた。
 思わずぎゅっと鳳の頭を抱き込む腕に力を込めた宍戸の背中を、鳳はやわらかく幾度も擦り、ごめんなさい、と静かに囁いてくる。
「……さっきも言いましたけど、八つ当たりだからね…俺の。ごめんね、宍戸さん」
 哀しくならないでね、と低い声で告げられ、なるかと悪態をつく気にもなれない。
 実際なったのだから。
 どうしようもなく。
「八つ当たりの意味が判らねえよ…」
「ん…?……宍戸さんの誕生日、知らないで終わらせちゃった俺が馬鹿なんですけど。…でも、宍戸さんも、どうしてなんにも言ってくれなかったのっていう意味ですけど…」
「俺が? 何を?」
「いろいろ。……ねだるんでも、命令するんでも、甘えるんでも、いいじゃないですか。誕生日なんだから。俺に何かしろって、宍戸さんはこれっぽっちも思ってくれなかったのかなって。拗ねたんです」
「……拗ねたとか自分で言うなよ」
 思わず小さく噴き出してしまった宍戸は、先の鳳と同じことを思う。
 哀しくならないでいい。
 そんなことで。
「言いますよ。……あー…駄目だ、やっぱショックだ」
「………………」
 宍戸の胸元で、ぶつぶつと呟き、鳳はまた暗く沈んでいく。
 そんな鳳の髪を、宍戸はそっと手のひらで撫でた。
「来年」
「…はい?」
「じゃあ、来年は何かしてくれ」
「来年どころじゃないですから」
「……ん?」
「これからは、もうずっと」
「俺の誕生日?」
 宍戸は笑って問いかける。
 鳳が宍戸の胸元から顔を上げて。
 真っ直ぐな目で宍戸を見つめてくるので、鳳の唇に、宍戸は唇を重ねた。
 唇と唇が触れあった瞬間、ふわりと体内に熱が滲む。
「ずっとか……」
「…なんですか宍戸さんは。もう。そんなにきれいに笑って」
 悔しそうに笑ってみせる鳳に、相変わらず馬鹿な事を言うと思いながらも。
 そう言われて嬉しいのだと、伝われと。
 宍戸は願った。
 来年はと言った宍戸の言葉を容易く否定して、当たり前のようにこれからはもうずっとと鳳が言った事。
 嬉しいと、伝われと、口づける。
「……帰したく、ないな…」
 唇と唇の合間で、吐息に混ざって漏らされた鳳の言葉に。
「お前が俺を、帰そうなんて思ってたって事の方が驚きだ」
 この状態で、と宍戸が笑うと、鳳は少しばかり苦しそうに顔を歪めて、宍戸を身ぐるみ両腕で抱き込んで、引きずり込んで、床に組み敷いてくる。
「………降参」
 宍戸の耳元に鳳の呻き声。
「ま、当然」
 笑み交じりに当然だと返したのは、殆ど虚勢のようなものだ。
 だってもう、宍戸は知ってしまったから。
「長太郎」
「…はい?」
 呼びかけただけだと言うように、あとはもう何も告げず、宍戸は鳳の背中に手を回した。
 広く、固い背中を抱き込んで、つかまえていようと思う。
 これから、もう、ずっと。
 こうしてつかまえていよう。
 無くしたら辛い、怖い、哀しい。
 そんな背中を、でもこうして抱き込んでいれば。
 確かにはっきりとした幸せを、手に出来ると知ったので。
 夏場の校舎は、場所によっては屋外のように暑かったり、木陰のようにひんやりとしていたりする。
 室内であるのに不思議とどこか森のような空間の集まりだ。
 廊下に沿ったガラス窓から差し込む夏の日差しの眩しさに、さながら渡り廊下は温室じみていると、そこを歩く宍戸は思った。
 温室ならばこの暑さも納得できるというものだ。
 思わず漏らした溜息にも、熱気がこもっているようだった。
 宍戸が自然と足早になっていた渡り廊下を抜けきって、ふと歩調を緩めた所で。
 人目を盗むようにして。
「宍戸さん」
 何だと尋ねるまでもない。
 誰だと確かめるまでもない。
 突然現れた相手に突然かけられた呼びかけでありながら、宍戸は少しも不審に思わなかった。
 だだ、本来は違う場所で待ち合わせをしている筈の相手が何故かここにいる事だけはすこし不思議だった。
「………………」
 扉が開いた教室は音楽室に隣接する楽器教材が多々置いてある音楽準備室だ。
 そこから姿を現した相手に、伸びてきた手に、宍戸はふわりと肩を抱かれる。
 そうやって宍戸をふいに抱き寄せたのは鳳だ。
 長い両腕で宍戸を囲う鳳に導かれるまま、宍戸は教室の中へと入り込む。
 驚きこそしなかったものの、面食らった宍戸は鳳のされるままだ。
 音楽準備室の中は適度に冷えていた。
「………長太郎…?」
 肩を包む大きな手のひら。
 教室の中では本格的に抱き込まれて、互いの距離が近くなる。
 宍戸がこめかみを押し当てている鳳の胸元は広かった。
「宍戸さん」
 ぎゅっと鳳の腕に力が入る。
 時折音楽教師から調音など頼まれているらしい鳳からするとここは慣れた部屋なのかもしれないが、宍戸には不慣れでどうも落ち着かない場所だ。
 いきなりこんな風に連れ込まれればそれは尚更の事。
 しかしこんな風に身ぐるみしっかり抱き締められてしまえば、宍戸の視界や意識を埋めるものは鳳の存在だけになる。
「なん、…だよ…?」
 近すぎる距離と、まるで自分を全て包み込むかのような鳳の身体の大きさに、宍戸はひっそりと戸惑う。
 抱き締められているのだと再認識させられる。
 あたたかい身体。
 かたい胸元と、大きな手のひら。
 抗えないのは逆らえないからではなくて、そうしたくないからか。
「長太郎……?」
 宍戸自身が驚くような細い声しか出てこない。
 鳳は何も言わないので、宍戸は腕を伸ばして鳳の背中辺りの制服を手に握りこんだ。
 咎めた訳ではなかったのだけれど。
「もう少し」
「………………」
 ね?と、そそのかす甘えるような声と一緒に、宍戸の髪に軽く押し当てられたのは多分鳳の唇だ。
 鳳は宍戸に対して従順なくらい優しいけれど、こういう時は絶対に引かない事も知っている。
 宍戸も別段この状況が嫌だった訳ではないので。
 鳳の言葉を否定しなかった。
「別に、いいけどよ…」
「じゃあ、少しじゃなくて、…たくさんがいいです」
「おいー……」
 また鳳の手に力が込められる。
 痛いとか、きついとかじゃなくて、丁寧に丁寧に執着されているような抱擁は、いっそ甘ったるくて眩暈がする。
 背筋が反って、すこし苦しい。
 でも、離れたくない、離されたくない、鳳はそんな不思議な抱き方をする。
「…どうしたんだよ、長太郎」
「いつもと違いますか?」
「や、………違わねえけど」
 今がすごくおかしな状況という訳ではない。
 鳳は時々こんな風に宍戸に接してくる。
 やさしく笑っているけれど、絶対に宍戸を逃がさない両腕で拘束して。
 丁重な手つきで触れてくるけれど、宍戸を全部奪い取る力の強さで。
「宍戸さん」
「………………」」
「おなか…すきました?」
「……別に」
 学年も違うし、いつもそうしているのではないのだが、たまに一緒に昼食の時間を過ごす。
 今日もそうだった。
 確か中庭で待ち合わせていたはずなのに。
 何故か今、自分たちは途中の教室の中で息をひそめている。
 確かに今しがたまで覚えていたはずの空腹感は、何だか今、胸に詰められた感情ですっかり薄れてしまった。
「あと少し」
「……たくさんじゃねえのかよ」
「あんまり我儘言うと」
「…怒りゃしねえよ」
 先手を打った宍戸に淡く苦笑いの気配を湛えて鳳が優しい声を出す。
「怒られるのはいいんですけど、嫌われるのは嫌だなって思って」
 そっと腕がほどけて、屈んできた鳳が宍戸の唇をキスでそっと掠る。
 額と額とを静かに合わせるようにして、目を閉じている鳳の睫毛は、至近距離で見るとびっくりするほど長い。
 目を開けていると可愛いのに。
 目を閉じている時の面立ちはその印象が真逆だ。
 ふと宍戸はそんなことを考える。
 こうして目を閉じていると、鳳の表情は、急激に大人びて見える。
 宍戸は目を開けたまま、自分から鳳の唇に口づける。
 一度目は軽く。
 二度目は長く。
 浅く、深く。
 キスをすると、鳳の手が、すくいあげるように宍戸の背と腰を抱く。
 委ねて安心できるくらい力強い手だ。
 塞ぎ返された鳳からの深い口付けに応えながら、宍戸は舌の触れあうあまい感触に力が抜けていく。
 離れたキスの合間で零れたお互いの吐息は、混ざって、小さく、とろけた。
 目を閉じた宍戸の目元に宛がった手のひらで、鳳は宍戸の前髪を後頭部へ撫でつけながら呟くようにして言った。
「目を開けているときれいなのに」
「………………」
「目を閉じてると、可愛い」
 頬に軽いキスで触れられる。
 鳳が言った事は、先程宍戸が思った事と正反対だ。
 手をつないで、指先が絡んで、お互いの距離は近くて、感触を追うのは唇で。
 足りなかったんだな、と気づいたのは、お互いある程度満ち足りてからだ。
 ほっと息をついて、ひとしきり絡ませたキスを終わらせる。
 終わらせる事が出来た。
「宍戸さん…」
「…、ん…」
 こういうことは、さすがに屋外では出来ない。
 だから鳳はここにいて。
 だから宍戸もここにいる。
「……やっぱ…腹減った」
 宍戸の呟きに、鳳は笑って、俺も、と頷いた。
「急いで行きましょうか」
 食堂まだ間に合いますね、と鳳が骨ばった手首にある腕時計の文字盤に目線を当てて囁いた。
 何となく。
 そう、何となくだ。
 つられて鳳の手首に目をやった宍戸は、鳳のその手をとって、指の中ほど、関節の上に唇を寄せる。
 鳳が息をのんだのは気配で伝わって、宍戸は唇をそこに寄せたまま、笑った上目で鳳を見やる。
 唸るとも溜息ともつかない鳳の複雑な吐息で、宍戸の胸の内は埋まるけれど。
「腹減った。長太郎」
 そこまでは埋まらない。
「判ってます。…邪魔してるの、宍戸さんでしょう」
 もう、と鳳が唇から心底呆れたような声を洩らすので。
 うっかり昼食を食べはぐる事になる前にと、宍戸は先に立って教室を出る。
 廊下に出ると、相変わらず渡り廊下は温室さながらの日当たりの良さで、でもそこから走りだして突っ切った中庭は、夏の外気に強い風が混ざって心地よかった。
 鳳は、突然走りだした宍戸の隣に、きちんと並んでいる。
 走って、二人で。
 それでも決して振り払われない抱擁の余韻は、夏の熱とは異なる熱で、互いを裡から焼いている。
 夏とか恋とかどれもが鮮やかで強いから。
 抗う気もなく存分に、さらされていたくて、どうしようもないだけだ。
 肌に若干の痛みを感じるくらいのきつい日差しを、宍戸は顰めた目で仰ぎ見た。
「どうしたの。宍戸?」
「あ?」
「そんな凶暴な顔して」
「悪かったな凶暴で。元々だっつの」
 おっとりと話しかけてきた滝を、宍戸は頭上を見た目そのままで見据えたが、滝は穏やかに笑って、冗談だってばと僅かに首を傾けた。
 肩からさらりと零れた長めの髪が、夏の光を小さく弾く。
 屋外にいると取り分けに目立つ滝の髪の目を向けて、宍戸は言った。
「きれいな髪だよなあ…」
 足を止め、手を伸ばし、指先に掬った滝の髪を見つめて宍戸が呟くと、宍戸に言われるとは思わなかったと滝は一層にこやかに笑った。
「どういう意味だよ」
「長い髪、綺麗だったから」
 今はもう短い宍戸の髪だけれど。
 ついこの間まではかなりの長さがあった。
「あれは傷んでただろ」
「そんなことなかったよ?」
「本人がそうだって言ってんだからそうなんだよ」
「謙遜するね」
「してねえよ」
 言葉を交わしながら二人で並んで歩いて、向かう先はテニスコートだ。
 レギュラー復帰をかけて宍戸は滝と戦い、滝の代わりに正レギュラーに返り咲いたのだが、不思議とお互いの間に軋轢は生まれなかった。
 全力でやって負けたんだから宍戸の方が強いって事だ、と滝は溜息のように言って、負けた悔しさを隠しはしなかったけれど、でも笑ってもいた。
 たおやかといった風情の滝だが、負けん気は強いのだ。
 それでいて達観した所もある。
 宍戸のレギュラー復帰に関して、準レギュラーを中心に一部で快く思われていないことは宍戸も知っていたが、宍戸と入れ替わる事になった当の滝が何も変わらずこうして宍戸の隣で笑っているので、結局宍戸に何か進言してくるような輩は出てこなかった。
「滝」
「なに?」
 言いたいことがあって呼びかけた訳ではなかったから、宍戸にはそれ以上言葉がない。
「……なんでもねー…」
「へんなの。宍戸」
「悪かったな…」
「暑いのにやられちゃった?」
「いかれてるみたいに言うんじゃねえよ」
「はいはい」
 宍戸の指先から、するりと滝の髪が零れていく。
 行こう、と歩き出した滝の少し後に宍戸はついていく。
 風が出てきた。
 背後から、背中を押すように。
「強いね、風」
 うなじに押さえつけるようにして、滝が髪に手をやりながら振り返ってくる。
 ああ、と宍戸は言いかけて。
 その時吹いた突風に、被っていたキャップを飛ばされた。
 勢いよく、高く、キャップは風に乗って。
 飛んで。
 その行方を目で追って。
「………………」
 短く舌打ちして宍戸が走り出そうとしたのを滝がやんわりと止める。
「大丈夫じゃない?」
 何が、と言いかけた宍戸を制して、滝がほっそりとした腕を持ち上げて、ほら、とすこし遠くを指さした。
 その先にあったのは、跳躍した長身のシルエットだ。
 風に舞い上がった宍戸のキャップに手を伸ばし、太陽を背負うようにして飛んだその存在感はひどく眩しかった。
 細めた眼で宍戸は見据える。
 長い腕で宍戸のキャップをキャッチしたその影は、顔など見えなくても誰なのかすぐに判った。
「宍戸さん」
 キャップを持って、前方から走り寄ってきた後輩に、宍戸はまだ眩しいように目を細めた。
「すごいね、鳳。あれ届いちゃうんだ」
「滝さん」
 お疲れ様です、と二人の上級生に頭を下げてから、鳳は滝に向かう。
「身長くらいしか取り柄ないんで。こういう時は頑張ります」
「またなに言ってるんだろうね、鳳は」
「だってあとは、ほら、あれでしょう? 俺の特徴って言ったら、ノーコンとか」
「そうだね。他にもノーコンとか、ノーコンとか」
「…滝さーん」
「情けない顔しない。鳳が自分で言ったんだろ?」
 屈託なく笑う滝が、なあ?と宍戸に話を振ってくる。
 何となくぼんやりしていた宍戸は、不意打ちの呼びかけに我にかえって、二人の視線を受け止めて。
 曖昧に言葉を濁した。
「宍戸さん。はい」
 風に飛ばされたキャップを受け止めた鳳が、それを宍戸にそっと差し出してきた。
「…サンキュ」
「いいえ。風、強いですね」
 鳳の、すこし癖のあるやわらかそうな髪が風に吹かれる。
 目元にかかる前髪を鳳はかきあげて、そのままうなじで後ろ髪を押さえつける。
 滝がしていたのと同じ仕草だな、と宍戸はまたぼんやりと考えた。
 鳳の手からキャップを受け取って、ツバを後ろにして被りなおすと、宍戸は少しだけ痛む胸を誤魔化すように走り出した。
「宍戸?」
「先行ってるな」
 滝が驚いたように呼びかけてきたのを、笑いかけ追い越して。
 鳳も僅かに目を瞠っている様を視界の隅にとらえる。
 ダブルスを組んでいた、鳳と、滝を、見ていると近頃宍戸は胸の内がざわざわと落ち着かない。
 宍戸はレギュラー復帰にあたって、滝を落としただけでなく、ダブルスのパートナーだった鳳までも取ったようなものだ。
 宍戸自身が選んで、決断した。
 そのことを悔いている訳ではなかったけれど。
 ある意味、状況が変わっても関係には変化のないような鳳と滝の間に宍戸は立てない。
 どことなく、似ているものを持っている二人の間に宍戸は立てない。
「………………」
 鳳とダブルスを組むことに。
 鳳のパートナーであるということに。
 臆したのではないのだ。
 宍戸があの場にいられない理由は、テニスには関係がなかったから。
「………………」
 宍戸は左の胸の上、制服のシャツを手のひらに握りしめる。
 気持ちは、そんな事では握りつぶせないと判っていたけれど。
 きつく、指先に力を込めるしか宍戸には出来ない。
 ここまで臆病になる自分が信じ難かった。
 好きになった相手が。
 優しい顔で、友人に微笑む姿が。
 それが何故、こんなにも胸を痛ませるのか。
「……らしくねえよなぁ……激ダサ…」
 ぽつんと漏れたつぶやきは。
 宍戸自身呆れるくらいに力なかった。



 突然先に行ってしまった宍戸に面食らいながらも、すぐに滝は鳳の異変に気づいてひっそりと苦笑いを浮かべた。
「……滝さん」
 力ない声。
 しょうがないなと滝は背の高い後輩を見上げて促してやる。
「なに?」
「俺、やっぱり高望みですかね…」
「なんのこと?」
 知っててしらばっくれるのやめてくださいよと鳳がますます肩を落とすのを、滝は流し見て。
 唇の笑みを苦いまま深めた。
「高望みでも何でも、好きになっちゃったんなら頑張るしかないんじゃないの?」
 別段滝は、この後輩の恋を高望みと思っている訳ではないのだけれど、当の本人はそう決めつけている節がある。
「頑張りますよ、勿論」
「鳳のそういう前向きなところ、すごくいいなと俺は思うけど?」
「はあ……ありがとうございます」
 気の抜けた声に、とうとう滝は噴き出してしまった。
「俺じゃなくて、宍戸がどう思ってるかが肝心、ってとこか」
「や、別に滝さんの意見がどうでもいい訳ではないですが」
「はいはい。でも実際は、宍戸の意見が知りたい鳳君?」
「……いじめるの止めて下さい」
 へこんでんですから、と広い肩をがっくりと落とす鳳に、悪いと思いながらも滝は笑いを零してしまう。
「コートの外ではまだいろいろ課題がありそうだね。確かに」
「俺……ガツガツしすぎてます…?」
 気をつけてるんですけど、どうも、と頭を抱え込む勢いの鳳の背中を軽く叩いて、滝は実は宍戸の本音もうっすら気づいているので言葉を選んで話す羽目になる。
 うっかり滝が、双方の心情を勝手に相手に漏らしてしまう訳にはいかないだろうと思うので。
「何だか今のも微妙に俺、逃げられた気がするんですけど……」
「確かに」
「滝さん…!」
「ごめんごめん」
 真顔で頭を抱え込んでいる鳳の背中を滝は軽く叩いて促した。
「ま、とにかく早く部活に行こうか」
 鳳も、宍戸も。
 かわいいね、と滝は内心で思い、そうして浮かべているその笑みこそが、何よりも甘く滝を縁取っていた。
「がんばろうね。鳳」
「滝さん?」
「色々と翻弄されちゃうのは鳳だけじゃないんだよってこと」
「え?」
 なかなかすぐにはうまくいかないことばかりだけれど。
 好きなひとがいる。
 だから頑張りたいのだ。
 それはきっと誰もが思うこと。
 宍戸の髪は、ずっと長かった。
 そういえば宍戸も意識しないうちから髪を長く伸ばしていて、特にそうしている理由はなかったし、長い髪に宍戸自身取り立てて思い入れがあった訳でもない。
 けれども以前、宍戸がレギュラー復帰の為の特訓につき合わせていた後輩の鳳が、真顔で宍戸に、綺麗な髪ですねと言ってきた事があって。
 正直そんな事を面と向かって言われた事のなかった宍戸は内心驚いて、どう返していいものか判らなかったから。
 笑いだけを返したのだ。
 それで鳳は、その長い髪が宍戸にとって自慢の髪だという風に認識したらしかった。
 そんな宍戸の長髪も、今はばっさりと短くなっている。
 宍戸が自らの手で髪を切り落とした時、鳳は随分驚いていたけれど。
 たいしたことではないと、宍戸はあの時も今も、思っている。
 寧ろすっきりした。
 色々な意味で。
 今、宍戸はレギュラーに復帰している。
 それは宍戸が試合に勝ったから叶った事ではなく、結果として監督に提言した跡部の言葉や、こうしてあの時からずっと宍戸の傍にいる鳳の存在があったからだ。
「帰るか、長太郎」
「はい」
 ダブルスを組むことになって、一緒にいる時間はますます増えた。
 部活を終えた後の自主トレも、帰り道も、一緒にいる。
 後輩だけれど体躯は宍戸よりも鳳の方が余程大きい。
 背が高くて、手も大きくて、それでいてものやわらかな温和な雰囲気で人に威圧感を与えない鳳は、宍戸の隣で、そっと目線と言葉を落としてくる。
「あの、宍戸さん」
「んー?」
 まだ夕暮れには時間がある。
 日増しに明るい時間が長くなっていて、辺りは少しだけぼんやりと日が霞む程度だ。
 やけに生真面目な顔をしている鳳を仰ぎ見ながら、何だよ、と宍戸は先を促した。
 鳳は、じっと宍戸を見つめてきて、目を伏せる。
 睫毛が、長い。
「今度、一度、宍戸さんのおうちにお邪魔してもいいですか?」
 何を改まった風情で言うのかと思えば、鳳はそんな事を言った。
 宍戸は怪訝な顔をする。
「好きな時に来ればいいだろ」
 別に今これからだって宍戸は構わないのだ。
 そんな思いで告げた言葉に、鳳が、ほっと肩で息をつく。
「はい、…じゃあ、皆さんのご都合のいい時に…」
「皆さんって何だ」
 宍戸はますます訳が判らなくなる。
 鳳が何を言っているのかといぶかしんでいると、ですから、と鳳は本当に大真面目に言った。
 足を止めて、真っ直ぐな目で宍戸を見つめて。
「ご家族の皆さんにお詫びをしないと…」
「…はあ?」
「宍戸さんを、こんなに傷だらけにして」
 鳳の眼差しが撫でたのは宍戸の傷だ。
 実際、それは宍戸の身体のあちこちにある。
 鳳が打ったサーブでついた痣や傷で、今鳳がうっすらと痛ましげな目で見つめているのは、耳元に程近い左頬の微かな擦り傷の痕だ。
 宍戸はわざとその傷を見せるように首を傾け、下から横柄に鳳を睨み据える。
「なに言ってんの。お前」
 これくらいで、とそういう意味合いで宍戸は言ったのだが、鳳は遠慮がちな手を慎重に宍戸の頬に伸ばしてきて、指先でするりと痕を辿って、尚痛ましそうな顔をした。
 宍戸は呆れた。
 盛大な溜息をついて鳳を睨んで。
「お前なあ…そういうくだらねえこと言ってると、」
「くだらなくなんかないですよ…!」
「…っ、…怒鳴んな耳元で!」
 いきなり至近距離から怒鳴られて、宍戸は眉根を寄せて言い返す。
 テニスコートにいる時以外で鳳が大きな声を出すことは殆どない。
 珍しい上に、本当に耳元近くで叫ばれて、宍戸は憤慨した。
 すぐに鳳はごめんなさいと謝り倒してくるから、本当に真剣に、すまなさそうに言ってくるから。
 いつまでも怒ってもいられなくなる。
 仕方ねえなあ、と宍戸は苦笑いして、右の親指の腹で、左頬の傷跡を軽く擦った。
「これは、くだらなくねえよ」
「…え?」
「これごと、今の俺だからな」
 傷跡も。
 屈辱や、喪失も。
 誰に負けて、誰に勝って、気づかされて、悔やんで、傷つけて。
 そういったことのどれもを、宍戸は持ったままここにいる。
 自分のしてきたこと全てが正しいとは思っていない。
 正しくないと判っていても、あがいて縋った自分の、無様さも自覚した上で、宍戸はそのどれもを捨てたいと思わなかった。
 多分、以前の自分であったら、放り投げていただろう出来事も全て。
「それにな、長太郎」
「……はい?」
「お前がくれたのは、傷じゃねえよ」
「え…?」
 鳳が目を瞠って問い返してくるその表情に、宍戸は小さく笑みを零す。
 穏やかで人当たりが良いのに、優柔不断の欠片もない鳳の自我は、見目の印象を裏切るくらいに真っ当に強い。
 誰に対しても誠実で、目上には従順で、でもだからといって鳳は譲らない部分には決して妥協を見せない。
 一緒にいる時間が増えて、時々宍戸がびっくりするくらい包容力のある懐を見せてくる鳳が、今は宍戸の言葉に戸惑ったような頼りない顔をしてくるのが無性に可愛かった。
「お前は俺にくれた」
 傷どころか、もっと。
「…俺、ですか?」
「ああ」
 くれたよ、と宍戸が笑いかけると。
 鳳が目を細めるように宍戸を見返してくる。
「長太郎。お前、いろよ」
 願いを込めるように、宍戸は言った。
 鳳は、鳳という存在を、宍戸にくれた。
 だから、いろよ、と宍戸は願うのだ。
 ここに。
 これからも。
「いろ」
 命じるような言葉なのに。
 宍戸が言うと、鳳は。
 その甘く整った顔に、ゆっくりと優しい綺麗な笑みを浮かべて。
 はい、と丁寧に頷いた。
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