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How did you feel at your first kiss?
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 無関心というものとは違う。
 けれど宍戸にとっては、人は人、自分は自分、という考えは己の中に強かった。
「んなわけあるか。最初っから俺に突っかかってきておいて」
 跡部が呆れて吐き捨てたのは、恐らく初めて言葉を交わした時の事を言っているのだろう。
 宍戸は宍戸で憮然と跡部の背中を睨みつけた。
「あれはお前の言動があまりにも目に余ったからだ」
「アア? そんなもん、それこそ人は人で放っておけばよかったんじゃねえの?」
「自分が入部しようとしてるテニス部で余計ないざこざ起こされたら堪らねえだろうが!」
 中等部の入学式。
 代表挨拶の檀上で異才を放った跡部は、その日中にテニス部でも派手にやらかしてトップの座を奪い取った。
 あまりの傍若無人ぶりに宍戸は今でも心底呆れている。
 そんな跡部と最初から随分と剣呑とした接触ばかり持っていた宍戸だったが、付き合いも三年目になってくると、荒い言葉を交わしながらでも、こうして二人でいる時間も増えてくる。
「そんなこと気にするタマかよ、お前が」
「どっかの俺様に、ふてぶてしさは鍛えられたんでね」
「よく言うぜ。そこまで落ちてて」
「あ?」
「大方てめえが、いま何でへこんでんのかの見当くらいつくがな」
「……るせえよ」
 レギュラー専用部室で、跡部はパソコンに向かっている。
 モニタを見たままの跡部の背中に向けて宍戸は悪態をついているのだが、本気で喧嘩腰になるような気力は正直なかった。
 椅子に座って、机に上半身を投げ出すようにしている。
 跡部が部室に入ってきた時から宍戸はそうしていて、跡部がやってきたからといってそのままでいたし、跡部もまるでお構いなしに自分の仕事をしている。
 そのくせぽつりぽつりとどちらからでもなく会話が始まってもいた。
「鳳のあれは性分だ」
 いきなり名前を出されて、呼吸が止まったのは一瞬。
 何の疑いもしない跡部の口調に、何だか否定や取り繕いも面倒になる。
 宍戸は溜息をつきながらぼそぼそと言った。
「わかってる」
 一学年下の背の高い後輩は、何故だか宍戸を慕っていて、どちらかといえば性格のきつさが災いしてあまり人に懐かれるという経験のない宍戸にとっては稀有な後輩だ。 
「わかってる。あいつは、誰に対しても優しいよ」
 宍戸の呟きに含まれたものを跡部は察したようで。
「そうだな」
 ただな、と気のない声でその後を続けた。
「その誰もを、お前と同じ位置に置くな」
 どう見たっててめえには特別扱いだろうがと、うんざりとした様子で告げられる。
 宍戸はまたも溜息だ。
「……んな事ねえよ」
 跡部は呆れ返っていると伝える沈黙しか返してこない。
 それは宍戸の予想の範疇内だ。
 そもそも跡部がこの話を振ってきただけでも珍しいくらいだ。
 恋愛沙汰に対して、跡部はシビアで厳しい。
 まるで手加減をしない。、
 宍戸とて、少なくとも跡部相手には決して話す類の内容でないと判っている上で、うっかりと零してしまったのだ。
 こうなればやけだと宍戸は溜息をついて白状した。
「わかんねえんだよ。あいつ」
「………………」
「わかんなくて、なんかもう、……自分自身にイラつくんだよ」
 優しく、穏やかで、素直な後輩。
 何故あそこまで慕われるのかと宍戸自身が怪訝に思う。
 しかしそれと同時に、何も自分だけが特別なのではないとも、宍戸は思う。
 鳳は誰に対してもそうなのだ。
 礼儀正しく、気さくで、丁寧だ。
 宍戸は物慣れなくて戸惑うけれど、鳳のそういう態度は誰にでも向けられていて。
 だから別段自分だけが特別なのだとは思わないようにしようと、言い聞かせていないと。
 なんだかおかしな感情を生みそうで宍戸は落ち着かない。
 こわい、と思うのだ。
「誰にでも優しいのがそんなに不満か」
「………………」
 そういう風に言われると、よく判らなくなってくる。
 それが嫌なのだろうか。
 それとも、自分に優しいのが嫌なのだろうか。
 結局何だろうなと宍戸はあいまいな苦笑いを浮かべるだけになる。
 溜息混じりにうつぶせていた顔を上げる。
 パソコンに向かっていた跡部が、椅子の背もたれに肘を乗せて、振り返ってきた。
「宍戸」
「……なんだよ」
「びびるな」
 短いその一言に宍戸は押し黙った。
 言葉がすぐに出てこなかった。
 いつもなら反抗心に火をつけるような言葉である筈なのに。
 跡部相手に、宍戸は何も言えなくなる。
「何でてめえがそんなにびくついてる」
「………びくついてんのか…俺は」
 驚いて確認した声は、何故だか途方にくれたような弱い声音になってしまう。
 跡部は秀麗な顔を呆れで歪めて、きつく嘆息した。
「は、…自覚ねえのかよ」
「………………」
「てめえはな、宍戸。懐いて、慕って、盲目的にお前に心酔してる鳳に、びびってんだよ。ここまで言ってやりゃ、何でだかもう判んだろうが」
「跡部…」
「呆れて物も言えねえよ」
「……それだけ喋っておいてよく言うぜ」
「いい加減その鬱陶しい顔引っ込めろ。うぜえ」
 吐き捨てる口調にも、いつもと違い腹もたたない。
 宍戸はのろのろと上体を起こした。
「悪ぃ。へんな話した」
「全くだ」
 容赦ない返答をしながら、跡部は立ち上がった。
 宍戸の二の腕を掴んで歩き出す。
「なん、…」
「うるせえ。腑抜けのお前と試合をしてやるから有り難く思え」
「はあ?」
 何なんだよと睨みつけて毒づきながらも、でも何となく笑ってしまって、宍戸は跡部に引っ張られるようにしてコートへ向かった。




 ここ最近の宍戸の鬱々としたものなど木端微塵にしてくれる勢いの跡部とのゲームを終えて、宍戸はコート脇に座りキャップを外して髪から汗をうちふるう。
「……あの野郎…」
 えげつないくらい完璧な強さを見せつけてきた相手に対して毒づきながらも、言葉ほど宍戸の機嫌は悪くなかった。
 腹が立つのは勝てない自分に対してだけだ。
「宍戸さん」
 ふと影が落ちてきて。
 声も降ってきて。
 顔を上げた宍戸の視界は、自分の向かいに立った鳳でいっぱいになる。
「長太郎」
「隣、いいですか?」
「おう」
 背が高いけれど圧迫感のない鳳は、宍戸の横に腰を下ろして、手にしていたタオルを差し出してくる。
「サンキュ」
「いいえ」
 やわらかく穏やかな鳳の笑みは、いつ見ても丁寧で甘い。
 自分にまでこんな表情を見せる鳳に、正直宍戸は躊躇いを覚えるのだ。
 正直慣れない。
 好意だとか、信頼だとか、そういうものに。
 当たり前のようにそれらを示してくる鳳に、宍戸は、それがひどく特別な事のように感じ取ってしまう事が怖い。
 いつも自分に、そうではないのだと言い聞かせていないと、まるで自分だけが特別扱いされているような気にうっかりなって困るのだ。
「珍しいですね、試合」
「ああ…」
 そういえばそうかなと宍戸は跡部との対戦を思い返した。
 鳳から向けられる呼びかけは、いつでも自然だ。
 だから宍戸も気負いなく返事が出来る。
「なにか…」
 しかし今はすこし違っていて。
 鳳の言葉は、そこで途切れて。
 宍戸はタオルをこめかみに押し当てたまま鳳を見やった。
 何だ?と目線で促すと、やけに真面目な顔をした鳳が、しばらく宍戸をじっと見た後、ぽつりと言った。
「会話、してるみたいな試合でしたね…」
「…会話?」
「宍戸さんと、跡部部長。テニスしながら、二人だけが判るような言葉で、話してるみたいで…」
 また言葉が途切れる。
 その違和感よりも更に強いのは鳳の表情だった。
「長太郎?」
「ちょっと…悔しかった」
 言葉通りの表情。
 宍戸は面食らう。
「何言ってんだ、お前」
 別段責めるような言い方ではなかったのに、鳳はまるで睨むように宍戸を見据えてきた。
 それがあまり見たことのない顔で、宍戸も戸惑ってしまった。
「…長太郎…?」
「だって、俺の言葉は届きそこなってばっかなのに」
「え?」
「どうして?」
 なんでなんだろう、と力なく呟かれてしまってますます宍戸は混乱してしまった。
 どうしてだとか、何故だとか、そんな事は自分の方こそ聞きたい。
 鳳が突然何を言い出したのかまるで判らない。
「お前が……なんだよ?」
「俺…?」
 問いかけに問いかけで返してきて。
 鳳はひどく悔しそうに肩を落とした。
 見たことのない表情ばかり見せつけられて宍戸は言葉に詰まる。
「本当は…独占したいとか、そういうのだけです。俺は」
「長太郎?……」
「我儘だって…判ってますよ、ちゃんと。でもね」
 タオルに手を伸ばしたのかと思った鳳の手は、タオルごと、宍戸の手を包んできた。
 宍戸がぎくりと肩先を跳ね上がらせたのと同時。
 鳳が座ったままお互いの距離をぐっと縮めてくる。
 怖くて竦んだ訳ではなかった。
 ただ、宍戸は驚いたのだ。
「宍戸さん」
「………………」
 俺ばっかりのひとになってくれたらいいのに、と呻くような声で言われてしまって、宍戸は本当に唖然とした。
 鳳に掴まれている手首は痛いくらいだった。
 そういう言葉や力強さは、どれも宍戸の知らない鳳だ。
「頼ったり、憂さ晴らしとか、愚痴言うだけでも、八つ当たりだっていい」
「長太郎、…」
「俺は、全部、欲しいって。それが伝わらない」
「おい……」
「好きですって、何度も言ってるけど、本気にして貰えないの、どうしてなんだろう」
「は、…?……」
 切羽詰まった態度では、笑い飛ばす事も出来ないけれど。
 いったい鳳が何を言い出したのかと、言われた言葉すべてに宍戸は茫然となるばかりだった。
 好きだという言葉。
 確かに鳳はやわらかく、丁寧に、会話に織り込んできたけれど。
 でもそれは。
「宍戸さんは言われ慣れてるんでしょうけど……でも俺はね、そういう人たちと同じ位置に置かれたくないって事だけ、判って」
 どこかで聞いたことのあるような言葉が放たれた鳳の口元を、凝視するくらいしか、宍戸に出来る事はなかった。
 言われ慣れてるってなんだ、と愕然とした。
 鳳は宍戸の沈黙をどう受け取ったのか、最後の懇願めいた言葉で少し感情を落ち着かせたようで、宍戸の手首を掴んでいた指をそっとほどいた。
 労わるように指先で宍戸の皮膚を撫でて、徐に立ち上がる。
「宍戸さん」
 それはもう、宍戸のよく知っている鳳の声だ。
 逆光になった鳳を、宍戸は眼を細めて見上げる。
 表情までは判らなかった。
 けれど鳳は微笑んでいるように宍戸には思えた。
「宍戸さんが好きです」
「………………」
「諦めないです」
 手を差し伸べて引き起こしてくれる鳳の手に無意識に従ったまま、宍戸も立ち上がり、そうしてからもまだどこかぼんやりとした感じで足元が覚束ない。
 誰にでも優しく真摯な後輩。
 それを自分にまで、と宍戸が思っていた、これまで。
「宍戸! 鳳! いい加減にしろ、てめえら」
「うわ、部長相当怒ってますね……行きましょう、宍戸さん」
「……長太郎…?」
 鳳に再度掴まれた手首。
 走り出した鳳に優しげに引きずられ、宍戸も走る。
 跡部の怒声は呆れのたっぷり染み込んだ声音で、その意味合いは、きっといろいろな理由を含んでいる。
 ひょっとすると跡部は、宍戸の心中を見透かしていたのと同じように、鳳の心中もまた判っていたのかもしれない。
 今宍戸は面食らうばかりで、いったい何をどうすればいいのかまるで判らない状態だけれど。
 きっと鳳も、宍戸の思っている事になど、まるで気づいていないのだ。
 甘い目眩と戸惑いの坩堝で溶けていくような感覚。
 迷子のような自分達。
 早く抜け出さないと。
 早く気付かないと。
 早く、早く、そう、思いが募って、走って、走っていて、言葉が追い付かない、気持ちは膨れ上がる。
 どうしたらいい?という疑問は己に向けるべきか、相手に投げかけるべきか。
 今はただ目の回るような高揚感に攫われるようにして走っているので精一杯。
 鳳の手はしっかりと宍戸の手を握っていて、宍戸の思考は鳳でのみ埋められている。
 こんなにも近くにいて、こんなにも懸命で、それでも今尚、自分達は迷子のままだ。
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 何読んでんだ?と声をかけられて、鳳はベンチに座ったまま慌てて顔を上げた。
 いつの間にか鳳の正面にいた宍戸が、口元までたくしあげるように巻いていたマフラーを片手で押し下げながら身を屈めて、鳳の手元を覗き込んでくる。
 宍戸に気づいて鳳はぎょっとした。
「……んだよ、別に慌てふためくような本じゃねえじゃん」
 宍戸が鳳の手元へと伏せていた目を引き上げてきて。
 目が合うと笑った。
「………………」
 確かに宍戸の言うように、鳳は見られて困る本を読んでいた訳ではない。
 けれど鳳が、即座に本を閉じて慌てた理由は。
 夢中になって読んでいたのでは決してない本の方に気を取られて、宍戸に気付くのに遅れた自分自身に慌てたからだ。
 宍戸とは場所と時間を決めて待ち合わせていたのだから、今ここに宍戸が来ることが判っていた上での事だから尚更だ。
 広すぎる駅ビルは、駅の改札から離れたエリアの休息用ベンチほど空いていて、夏は涼しく冬は暖かい。
 待ち合わせには最適で、よく利用している慣れた場所でもある。
「あの…宍戸さん」
 鳳がベンチから立ち上がるより先、宍戸が隣に腰を下ろしてきた。
「何だ?」
 流し見られて鳳は弱ったように問いかけた。
 気付かないなんてあり得ないだろう。
「…怒って…る?」
 どこかおそるおそるの問いかけに対して、宍戸は怪訝そうに首を傾げてきた。
「何で?」
 鳳の声は更に小さくなった。
「本なんか読んでて、集中してない、とか」
 宍戸さんに、と。
 鳳が慎重に付け加えると。
 宍戸は呆れたような顔をした後、軽やかに笑った。
「ああ? 目の前にいない俺にどう集中すんだよ、長太郎」
 とん、と鳳は胸元を宍戸の手の甲で叩かれる。
 その指先が薄赤い。
 マフラーはしているけれど、手袋はしてきていないようだった。
「……俺、ひょっとして、相当ぼーっとしてました?」
 宍戸は寒がりで。
 けれどこんな風に指先が赤く染まるのは、冷えている最中よりも、少し時間が経ってからの症状だ。
 寒い場所から暖かい場所に移動してしばらくすると、宍戸の指先はいつもこういう色になる。
 徐々に色濃く、いつまでもだ。
 手にそっと握りこんでしまいたくなる微かに痛々しいような色味。
 鳳がそれに気をとられていると、肩を並べてベンチに座っている宍戸が、空中を見つめるように前を向いて、鳳の名前を呼んだ。
 そうやって声を小さくすると、宍戸の声音は、ぐんとやわらかくなる。
 鳳はその横顔をじっと見据えた。
「…ぼーっとしてたっていうなら、それ、俺の方かもな」
「はい…?」
「お前、やっぱ目立つなーって思ってよ。声掛けるまで、しばらく見てた」
「俺が…ですか。…目立ちますか?」
 宍戸の言葉に戸惑って返した鳳は、目線が合わないまま、宍戸からの言葉でまたびっくりする。
 強いて言えば身長くらいか、それ以外で特に自分が目立つタイプではないと思う鳳には、どうにも物慣れない言葉だった。
 しかし宍戸は鳳の困惑を一蹴する。
「目立つだろ。お前、綺麗な顔してるしよ。しかもすげえ優しいんだろうなあって。そういうのも顔とか雰囲気見りゃ判るし」
「は、?」
 普通、放っておかねえよなあ、お前みたいなの、と宍戸が囁くように言うので。
 鳳は心底、どういうリアクションをとればいいのか判らなくなってしまった。
 誰よりも綺麗で優しいひとにそんな事を言われて、どう反応すればいいのだろうか。
 面食らいつつも呆気にとられた呆れ顔を曝している鳳に、ふと気づいたかのように宍戸の視線が戻ってくる。
 宍戸は軽く眼を瞠った後、少し眉根を寄せた。
「なんだよ」
「え、…っと…」
「このくらい言われたっていつも平然としてんだろ、お前」
 少しばかり不機嫌そうに睨まれて、鳳は慌てて言い返した。
「いつもなんて言われませんし! だいたい平然となんてしてませんよ、宍戸さんといて…!」
 本当に、いつも、いつも、宍戸といると気持は休まったり乱れたり熱くなったり苦しくなったりする。
 その目まぐるしさを、ほんの少しも厭えない。
 ただ好きで。
 気ちは全部そこにつながるからだ。
「……そういうのも。宍戸さんに言われるから照れるんじゃないですか」
 もう、たぶん顔が赤いのも。
 隠しようがないだろうと鳳は思い、自らそう告げた。
「好きな人にそんなふうに言われたら、照れるでしょう、普通」
「…………にしたってお前。………んな、わかりやすく…赤くならなくたって、いいだろうが」
「なりますよ! 大好きなんですよ、宍戸さんのこと! おかしくなりますよこんなの」
「逆ギレすんな、アホ」
 言葉ほどは荒くもない、むしろ優しいような声で宍戸は呆れて。
「つーか、場所選んで言え、ばか」
「バカなんですよ。そういうバカな男にあれこれ注文つけないで下さいよ」
 鳳は開き直って、そんなのいろいろ無理ですからとぶつぶつと呟いた。
 片手で頭を抱えるようにして宍戸と逆側に視線を逃がす。
 これでは単に不貞腐れているだけだ。
 鳳自身判っているから余計、落ち込みがひどくなる。
 今更ながらに格好悪いなあと泣き言を口にしたくなる。
「あのなあ…」
 けれど。
 ふわりと溜息に混ぜるような宍戸の声が耳元すぐ近くに聞こえて。
 鳳は勢いよく宍戸の方へ向き直った。
 宍戸は鳳の肩に片手を置いて、顔を近づけ、小声で。
「格好いいって言っただけでおかしくなるんなら、その先どうすんだよ。長太郎?」
「…宍戸さん?」
「好きなんだぜ、おい」
 宍戸の唇から零れた吐息は、溜息よりも格段に優しかった。
 好きだ、ともう一度優しい息で鳳の耳元に囁いてから、宍戸は鳳の肩に手を置いたまま身体だけ離す。
 ほんの少し細めた眼で宍戸は鳳を見据えて。
「特別なこと言ってんじゃねえんだよ。俺は」
「宍戸さん」
「ほんと、ばかだよなあ、お前」
 自惚れて、余裕かましてたっていいのにな、と宍戸は言い、手を伸ばしてきて鳳の前髪を軽くかきまぜた。
 それこそ判りやすく甘やかされている宍戸の手の感触に、鳳は堪らなくなる。
 抱き締めたい。
 急激に膨れ上がった欲求は濃かった。
 それを堪える辛さの、ほんのひとかけらも判っていないような宍戸に、甘苦しい不満を少しだけ覚えるけれど。
「宍戸さん」
 それと同じ強さで、ひたひたと胸を埋める感情の方が、結局は勝つ。
「おいー…」
 まだ薄赤い宍戸の指先を握り込むように。
 手のひらにつつんで、そっとベンチに押さえつける。
 宍戸は眉を顰めていたが、鳳の手を振り払いはしなかった。
 溜息などひとつ零しながら、手はそのまま。
 そっと鳳へと身体を近づけてくる。
 二の腕と二の腕が触れ合う。
 視線はそれぞれ、逸らしているけれど。
 お互い。
 体温が、混ざりたそうに放熱しているのを感じていた。
 何だよと宍戸が聞く前に、宍戸の右手は鳳の左手に握られていて、冷たいですねと真面目に心配するような声で呟かれた。
 何だよとは今更口に出しづらくなる。
 鳳が意図してそうしたのか、そうでないのか、宍戸は少しばかり恨めしく背の高い後輩を睨んだ。
「………………」
 でも鳳と視線が合ってしまうと、宍戸はぎこちなく視線を彷徨わせてしまう。
 繋がれた自分たちの手と手が見える。
 大きな手のひらに負けない長い指はまっすぐに伸びていて、鳳のその手に包まれた自分の手が随分頼りなく宍戸の目に映る。
 冬の冷気に悴む手を労わるように軽く撫でさする鳳の手つきはさりげないようでいてひどく甘い。
 じわりと熱が滲んできたのは鳳に触られている手ではなく、何故か顔で。
 宍戸は思わずその場から逃げだしたくなった。
「………………」
 初詣と称して、いつもよりも大分遅い時間にたやすく出歩けている大晦日。
 待ち合わせた公園から夜空の下、二人でまだ、歩き始めてもいない。
 会話らしい会話を始めるよりも先、鳳の手はいきなり宍戸の手を包んだ。
「宍戸さん」
 鳳の表情を見ないでその声を聞いた宍戸は、自分がうなだれるように地面を見据えている事に気づかされる。
 優しい甘い声は低く響いて、鳳ははっきりと宍戸を呼んだ。
「顔、あげて?」
「………………」
「ね…? 顔、見せて?」
 手を握られたまま、宍戸の左頬が鳳の右手に包まれる。
 心臓、壊れる、と宍戸は思った。
「宍戸さん」
 耳元に近づいて、鳳が懇願するように呼んでくる。
 緊張ではない。
 困惑でもない。
 でも、少しだけ久しぶりに会う鳳に、自分がどんな感情でこんなにも縛られているのか宍戸には判らなくて。
「待て、…ちょっと」
「宍戸さん」
「悪ぃ…変だって判ってるから、もうちょっとだけ待っててくれ」
 宍戸は握られていない方の手のひらで、そっと鳳の胸元を押す。
 ああもう、とやけっぱちに喚きだしたくなる。
 顔が死にそうに熱い。
 頭の中は煮えそうで、胸の中ではどくどくと血が走っている。
 何なんだと思ったのと同時に、判った、とも宍戸は思った。
 変な自分、つまりそれは。
 つまり自分は、おそろしく照れているのだという事。
「宍戸さん…」
 声にも、手にも、匂いにも。
 時間にも距離にも恋情にも。
 そう、びっくりするほど宍戸は餓えていて、鳳が足りないでいたのだ。
 だからこんな風にそれら全てが与えられてしまえば、それはもう尋常でなく照れてしまって。
 確かに二人きりで会うのは久し振りなのだけれど、これはないだろうと宍戸は呆然とした。
 こんな、急激にふくれあがるような気持ちが、今の今まで自分のどこに潜んでいたのだろうかと困惑した矢先だ。
「無理、」
「…え?」
 いきなり耳元で囁かれた鳳の呻くような一言に、反射的に宍戸が顔を上げかけ、それが適わない。
 宍戸は鳳の胸元に押し付けられていて、長い両腕にきつく抱きすくめられていた。
「長…太郎…?」
「………無理、です…、もう…ほんと無理…」
 かわいい、と苦しげに吐かれた言葉に。
 宍戸は固まった。
「…、は?」
 誰もそんなことを宍戸に言う人間はいない。
 鳳だけが口にする言葉。
 破壊力は凄まじい。
「おかしくなる…」
「……っ……、…」
 一方的に責められ、詰られているようにも聞こえる声なのに、少しも宍戸は苛立たない。
「宍戸さん。俺、お願いがあるんですけど」
「………んだよ…」
「来年は、今年より、もっと一緒にいたい」
 突拍子もないように鳳が宣言してきた。
「離れてる時間がすこしでも長くなると、久しぶりに会った時に、おかしくなるので」
 ほんとに、お願いします、とやけに真面目に、真面目すぎるほどに真面目に、鳳に乞われてしまって。
 宍戸は、自分自身でも確かにちょっとそんな気がしたので、鳳に抱きしめられたまま、こくりと黙って頷いた。
 約束をとりつけて、ほっと息をついたのは二人同時だ。
 本当に。
 来年はそれだけ気をつけよう。
 お互いがお互いに、そうかたく決意した。
 宍戸が眉を寄せて腹部に掌を当てる。
 下駄箱を目前にして中途半端な位置で足を止めたのを、すぐ隣を歩いていた向日は怪訝そうに見やった。
「何だよ宍戸」
「………………」
「腹の具合でも悪いのか?」
 今日は水曜日で部活がない。
 放課後、隣のクラスである宍戸と向日は廊下で一緒になって、そのまま正門に向かって昇降口まで降りてきた所だ。
 下駄箱では向日を待っていたらしい忍足が、薄い鞄を腕と脇腹とで挟むようにして立っていて、ポケットに手を入れたまま向日の声に便乗するように言葉を放ってきた。
「岳人。そういう時はな、腹の子の心配してやらな、あかんで」
 唇の端を笑みに引きあげている忍足に近寄って、向日は、ふうんと小首を傾げた。
 それから向日も忍足と同じような笑みを浮かべて、宍戸を振り返る。
 全く性格の異なるようなこの二人は、さすがにダブルス歴が長いだけあって、結託する時の息の合い方はぴったりだ。
 向日は一つ年下の後輩の名を上げて、パパ呼んできてやろうかと宍戸をからかおうとしたのだが、向日がそれを言うより先、宍戸が相変わらず腹部に手を当てたまま真顔で呟いた言葉は、忍足と向日を絶句させた。
「長太郎が腹空かせてる気がする」
 向日の手が、忍足の制服の裾を、ぎゅっと掴む。
 忍足も向日に同じ事をしていた。
 彼らを硬直させた宍戸は、薄く平らな彼自身の腹部を見下ろしながら、どことなく憂いだ目で溜息などついていた。
「侑士…」
「………体内回帰っちゅーやつやろか…」
「鳳の奴、そこまでか? そこまで宍戸のこと好きか?」
「恐ろしいで、ほんま」
「おっかねえ……おっかねえよ侑士…!」
 手に手を取りあんばかりに慄いている忍足と向日に、さすがに宍戸も鬱陶しそうな目線を向けた。
「さっきから何言ってんだお前らは」
「聞くけどよ、宍戸。お前の腹に入ってるのは、鳳との子か? それとも鳳自身か?」
「岳人、男前や…答え怖くて俺にはとても聞けへん…」
「……てめえらいい加減にしとけ」
 ひくりと片頬を引きつらせて、宍戸は乱暴に下駄箱から靴を取り出して履き替える。
 所作荒く、宍戸は忍足と向日に向かって、吐き捨てるように言った。
「俺が腹減ったから、あいつはもっとそうだろうって思っただけだっての」
「生活サイクル一緒ってこと? 何だよ、俺達の知らない所で、もう同棲生活スタートってこと?」
「アホ!」
 まとわりついてくるような向日を手で払うようにして宍戸は怒鳴ったが、向日の逆側からは忍足が体重をかけるようにして寄ってくる。
「なんや、えらい水くさいなぁ、宍戸」
 お祝いくらい用意したるのにとすました顔で言われて宍戸はますます牙を剥く。
「マジで鬱陶しいんだよお前らは!」
 面倒くせえと右にも左にも怒鳴りながら、宍戸は声を張り上げる。
「昨日長太郎とファミレスで飯食って帰って、夜ちょっと一緒に走って、帰ってから風呂入って、眠る前に電話して、今朝自主連して、昼飯一緒して、そういうサイクルって意味だ、アホ」
「……どれだけ一緒にいんだよ、お前ら」
「俺と岳人の慎み深さを少しは見習えや。なあ、岳人」
「ほんとだぜ! なあ、侑士」
 宍戸は当たり前のように言っているが、本当にいったいどれだけ、と忍足と向日はがっくりと肩を落とした。
 そのペースとサイクルなら、確かに波長も似かよるだろう。
 宍戸の腹がすけば鳳も腹をすかせているだろう。
 睡眠時間や練習時間もほとんど同じ二人だろう。
 もうやだこいつら、としおしおとくっついている忍足と向日を横目に、お前らに言われたくないと宍戸は言ったのだが、そのまんま返すと素気無くかわされた。
「帰ろうぜ侑士」
「せやな。ほら、鳳がいるで、岳人。これ以上ダメージ受ける前に、俺ら帰ろな」
 宍戸を振り返りもせず歩きだした二人は、正門脇に立っていた鳳の丁寧で快活な挨拶も素通りして学校を出て行った。
「…悪ぃ、待たせたな」
「いいえ、全然。それより、あの…忍足先輩と向日先輩、どうかしたんですか?」
 どっと疲れが出たような気分で、宍戸は鳳に対峙して告げる。
 丁重に首を振った鳳は、不思議そうに去って行った上級生の背中を見やっていた。
 端正で優しい表情に、宍戸は、ふ、と苦笑を零して鳳を見上げる。
「長太郎」
「はい」
 すぐに鳳の眼差しは宍戸へと戻る。
 長身の鳳からの視線は、宍戸を見下ろしても、尊大さを欠片も含まない。
 やわらかく真摯な目で、じっと見つめてくる。
「お前、今すごい腹減ってねえ?」
「え。ひょっとして何か聞こえましたか」
 生真面目に腹部に手をあてがう鳳に、宍戸は笑った。
 手の甲で鳳の腹を軽く撫でるように叩いて、宍戸は歩き出す。
「聞こえねえけど。俺もすっげえ腹減った」
「チーズサンド買って、どこか外で食べましょうか」
「お前それじゃ足りねえだろ」
 宍戸と肩を並べた鳳が、でも、と困ったように笑った目で見降ろしてくる。
「ファミレスとかの味だと、宍戸さんにはちょっと重いんじゃ」
「あー、昨日は食いすぎた」
 宍戸は基本的に好き嫌いはあまりない。
 食べる量も、見た目が細い分、むしろよく食べると言われる部類だ。
 しかし好みを言えば、比較的あっさりとした味付けが好きなのだ。
 だからどうしてもジャンクフードやファミレスの類は、いつものペースで量を多く食べた後から、胃に負担がくる。
「昨日帰る時割引券貰ったよな。いいよ、あれで」
「じゃあ、もし宍戸さんが食べすぎたとか、苦しくなったら、俺がおぶって帰ります」
「うん」
「………………」
 鳳が判りやすく驚いて黙ってしまったので、宍戸は少々赤くなって鳳を睨みあげた。
「お前な。ひくなら言うなよ」
「ひいてませんよ!」
 なんなら今すぐと背中を向けてくるので、宍戸の不機嫌も続かない。
「アホ。何の罰ゲームだよ」
「罰じゃなくて俺からしたら寧ろ御褒美ですけど」
 宍戸は歩きながら笑って、少しだけ鳳の方に身体を預けるように近づいた。
「肩抱かれて歩く方が楽だった」
 昨日の、薄暗い帰り道での距離と同じくらい。
 近づいて。
 歩いて。
 昨日、ファミレスを出てから苦しいと連発する宍戸を、丁寧に支えるようにして肩に回された鳳の腕の感触を宍戸は思い返す。
「背負われんのも悪くなさそうだけどよ」
「何でもやります」
 そんな風に言われちゃったらもう、と鳳は笑った。
「ほんと、もう何でも」
「じゃ、ファミレス行くか」
「宍戸さんおなかいっぱいになっても、俺、なんか無理にでも食べさせちゃいそうだな…」
 気を付けよう、と自身に言い聞かせるよう神妙に呟く鳳を見やって、宍戸はしみじみとつぶやいた。
「可愛いな、お前」
 どっちがですかぁ、と即座に鳳は情けないような大声で言い返してきたのだが、宍戸の心情はそれで覆される事はなく、むしろ更なる確信で、再び同じ言葉を繰り返す事となった。
 夜中にふっと目がさめて、寝返りをうつ。
 即座に背後から腕が伸びてきて、宍戸の胸元に大きな掌があてがわれる。
「そっち向かないで」
 寂しい、と宍戸の耳元で聞こえた鳳の声は眠気にとけている。
 言ってることややっていることとのミスマッチさに、こみあげてきたのは笑いだ。
 宍戸の眠気はゆるゆると解かれてしまう。
 首の側面に唇を寄せるようにして顔を埋めてきている鳳を振り返る様に。
 宍戸は再度寝返りをうった。
「おまえ…」
「……宍戸さん」
 からかいの言葉を紡ごうとしていた宍戸は、自分の胸元に甘えるように顔を埋め直す鳳の仕草に結局何も言えなくなってしまった。
 長身の鳳だが、ベッドに横たわってしまえば、宍戸の胸元に顔を伏せる事もたやすいようだった。
 無意識に鳳の髪に手をやった宍戸は、やはり無意識にその頭を抱き込むように指先を髪に沈ませる。
 寝ぼけているにしても過敏すぎるだろう。
 夜中の宍戸の寝返りすら嫌がる年下の男をゆるく抱きしめて、自分の腕の中で和らいでいるその気配に、宍戸は眠気を払拭していく笑いを奥歯で噛み殺す。
「我慢、しなくていいのに」
「……起きてんのか、長太郎」
 宍戸がそっと腕を緩めると、顔を上げた鳳が寝具の上で身じろいで伸びあがり、宍戸の唇を浅く塞いだ。
 お互いの体温であたたまったような身体を摺り寄せて、唇を合わせて。
 小さく零れた吐息の甘さにお互い同時に瞬きする。
 睫毛も触れ合いそうな距離だ。
 落ち着いて、でも胸の中で音は鳴る。
「背中、向けられんの、やなのかよ…?」
「……いやですよ。寂しいから」
 掠れた、真摯な声。
「わかった」
 おぼえておく、と宍戸はつぶやいた。
 声にもならない声だったのに、鳳が甘えるように宍戸の頬に甘くて軽いキスをしたから、きちんとそれは届いたのだろう。
「…眠い?」
「……んー……」
 じゃまだったら、と鳳が言いかけた言葉を、可能性がない提案だから宍戸は聞かなかった。
 鳳は何かを言って、反応のない宍戸に、邪魔でないと返答されたと理解したらしい。
 鳳の両腕に、先ほどまでより、もっとしっかりと抱きしめられた。
 顔を押し付けることになった鳳の胸元からは、優しい体温の香りがした。
 宍戸よりも広い胸元と、長い腕と。
 不思議と対抗心のようなものはまるで湧いてこない。
 こうして囲われる事は心地よかった。
 乞われている事が判るからかもしれない。
 頭上に寄せられている唇の感触。
 時折宍戸の身体を寝間着越しに撫でていく手のひら。
 うとうとと、眠気を再び誘うものでもあり、何かをしっかり目覚めさせてしまうようでもある。
「苦しくない…?」
 鳳が、返事がなくても構わないというようなかすかな声で聞くので、宍戸は黙ったまま自分からも鳳にすり寄った。
 そこは心臓の真上だろうか。
 やわらかい布地に耳を寄せるような体制になると、はっきりとした鼓動が聞き取れた。
 どこか耐えかねたような所作で鳳の手が強く宍戸を抱き込んでくる。
 咄嗟の抱擁はしばらくはそのままで。
 宍戸は身体の力を抜いたまま鳳の腕の中でじっとしていた。
 しばらくののち、ふわりと抱擁の腕はほどけて。
 どこか意を決したような微かな嘆息と共に鳳が背を向けたので、宍戸は今度は滲んだような笑いを隠さなかった。
 自分に向けられた背中に腕を伸ばし、身体を寄せて、告げてやる。
「そっち向くんじゃねえよ…」
 寂しい。
 これまで、言ったことのない、言葉を言って。
 宍戸は鳳の背にしがみつく。
「……あの…ねえ…!」
 鳳は、幾分はっきりとした声をあげてすぐに宍戸の方を振り返ってきた。
 いつもより少しだけ雑な言い方で、鳳が性急に宍戸の唇をふさいでくる。
 宍戸は笑った形の唇を、自ら薄くひらいた。
「…我慢、しなくていいのによ」
 先程言われた言葉をそのままキスの合間に返した。
 宍戸が噛み殺したのは笑い。
 鳳が噛み殺そうとしていたものは。
「つーか、するな」
 下した命令。
「……宍戸さんは…本当にもう」
 年下の男は、全面降伏と顔に書いた上で、甘く宍戸を詰って。
 そして宍戸を抱き締める。
 宍戸は真夜中、眠ることよりそのことに満足して、あたたかな背中を両手で抱き締め返したのだった。
 窓が窓の形に繰り返し繰り返し光る。
 外からの一瞬ごとの強い閃光に、宍戸が目線を向けると、ゆるく絡みあっていた舌を相手からきつく吸われた。
 小さく喉を詰まらせて、宍戸はうっすらと眉根を寄せる。
 キスはすぐにやわらかくほどけた。
「お前なぁ……」
「雷なんかに気をとられるからですよ」
 吐息が混ざり合うような至近距離。
 宍戸が咎めるように言葉を漏らすと、鳳は端正な顔に判りやすい不満をたたえて負けじと返してくる。
 そういうあからさまな表情は珍しい。
 宍戸が軽く首を傾けて、じっと鳳を見つめると、鳳は複雑そうに溜息をつく。
 宍戸の両頬は鳳の掌の中だ。
「……そんな顔しないで下さいよ」
「顔なんかそうそう変わるかよ」
 何言ってんのお前と宍戸は呆れながら、再度窓の外が光り、あまり間を置かずに轟くような音が聞こえてくるのに意識を向ける。
「すげえな、雷」
「またそうやって……」
 鳳の肩越しに先へと向ける宍戸の視線が鳳は嫌らしかった。
 腰を抱き込まれるようにされて、身体が反転させられ、宍戸は窓辺に背中を押しあてられた。
 鳳が長身を屈めるようにして宍戸の唇をふさいでくる。
「………、…ン…」
 唇でおされて顎が僅かに上がる。
 大きな掌が宍戸の片頬からすべってきて、仰のいた首を包んでくる。
 かたい掌だったが、さらさらと温かくもある。
 宍戸の首など片手で軽く包み込むようにしながら、キスが深まる間も、雷の鳴る音が響き、窓の外の空は光り続けているのだろう。
 直視出来なくとも目の開いてしまう宍戸の双瞳に映る鳳は、しかし雷などほんの一時も見ることはしなかった。
「………………」
 濃く長い睫が引き上げられて、あまいやさしい眼差しをする鳳が見据えているのは宍戸の事だけだ。
 撫でられるように見つめられると宍戸の足元は覚束なくなっていく。
 キスされて立っていられなくなるなんて真似は心底避けたい宍戸だったが、鳳はそういうキスを繰り返すのだ。
 宍戸の背後で窓ガラスに打ち付けるように降る雨音が激しくなる。
 暴れるような雨音よりも、胸の中から打ってくる心音のほうがよほど酷い。
 ますます足元はぐらついて、咄嗟に縋ろうにも身体の両脇に下ろした宍戸の両腕はうまく持ち上がらなかった。
 座り込むよりはましかと思って、宍戸は両手を鳳の腰の裏に絡める。
 その所作が鳳の何かを煽ったらしく、キスがもっと深くなる。
 身体が密着して、宍戸もなんとなく自身の手の在り方が危ないかなとは思ったが後の祭りだ。
 鳳の腰を自ら抱き寄せているのか、そこに縋っているのか、宍戸が判らなくなるほどに執拗に鳳はキスをしかけた。
 息苦しさより先に、ぐらりとめまいのようなものを宍戸が感じた時、ようやく濡れたキスは互いの唇に口液を細く撓ませて解けた。
 熱っぽい溜息をついたのはお互いにだ。
「長太郎……」
 痺れるような唇で宍戸が鳳の名前を呼ぶと、鳳が額と額とを合わせるように顔を近づけてきた。
 色素の薄いやわらかな光彩を放つ瞳を間近に見ながら宍戸は言った。
「…飢えさせてねえだろ」
「……はい?」
「お前に、そんな飢えてるみたいな目、させるようなこと俺してるかよ?」
 心外だと憮然と睨みつけた宍戸を、鳳は面食らったような顔で見下ろしていた。
 宍戸は鳳の腰をゆるく抱きよせて、合わせた額の感触を感じ入るように一瞬目を閉ざす。
「全部、やってるだろ」
 何が足りないんだと宍戸が囁くと、鳳はなんだかほっとしたような吐息を零した。
「長太郎」
「………判ってくれてるんだなあと思って」
「判ってなんかねえよ。何が足りないで、そういう目で俺を見るんだ、お前は」
 鳳は微笑んでいた。
 宍戸は怒っているのにだ。
 決して喧嘩になりようもない言い合いだけれど。
「宍戸さんは呆れるだろうけど、ずっと宍戸さんと会いたかったから、会えるとこうなっちゃうんですよ。俺」
「あのな……昨日も普通に会っただろうが」
「半日も時間があけば、俺にとったら、それはずっとです」
 額と額を重ねて、囁き合うように言葉を交わす。
 鳳の両手は宍戸の頭を支えるようにしていて、会話の合間に時折唇を啄ばまれる。
 小さく浅いキスなのに、それがまた鳳の飢えを宍戸に気付かせる。
「雷…気になるの?」
「………拗ねた言い方すんな。アホ」
 でけえ図体して、と宍戸は呆れながらも、宍戸の方からも軽いキスを送り返す。
 激しい閃光、雷鳴、もちろん気になるけれども。
 鳳と比べる対象ではないだろう。
 それくらい判っていそうなものだと宍戸は思うけれど、鳳は雷相手に宍戸の意識が向くことに対して張り合ってくる。
 しょうがねえなと思いながらも宍戸は鳳へとキスを繰り返す。
 いつの間にかそれらのキスは宍戸から鳳に与えるようなものになっていて、全て丁寧に受けている鳳が宍戸を抱き寄せたまま低く囁く。
「宍戸さん」
「…ん、?」
「宍戸さん……宍戸さん…」
 濃密なキスより余程腰砕けになりそうな甘い掠れ声で名前を繰り返される。
 宍戸は返事も出来なくなる。
 キスの合間の鳳の声なのか、声の合間のキスなのか、判らなくなる。
「足りてないんじゃないんです…」
「……、……ぇ……?」
「宍戸さんがくれるもので、俺の中の足りていない部分はきちんと足りるようになって」
 首筋に唇を埋められる。
 かすかに癖のある鳳の髪が喉元に触れ、耐えかねたように肌を吸われる。
 痕がつけられていく過程が随分と長い時間のように感じた。
「………っ…、は…、……」
 肌の上から鳳の唇が離れる。
 そこに何かいけないものを植え付けられでもしたかのように、宍戸は熱っぽく吐息した。
 無意識に、痕をつけられたであろう右の首筋に左手の指先を宛がって鳳を見上げると、やみくもな力で抱きすくめられる。
「長太郎…?……」
「飢えるって、もっとって事ですよ……」
「……なん…、……っぁ…」
 抱きしめ覆い被さる様にしてきた鳳に、宍戸は首の裏側にも口づけられた。
 背骨に繋がる骨の上にもまた痕が残るほどのキスをされる。
「宍戸さんが足りてない場所が最初っからあるんじゃなくて。全部足りてる上で、俺はまだ欲しくなる」
「………長太郎…」
「宍戸さんが俺にくれているものは、全部貰ってます」
 でももっと欲しい。
 鳳にきつく抱き竦められたまま告げられた言葉は、雷の比ではなく宍戸の神経を貫いて焼いた。
 そちらかといえば遠慮がちなほど思慮深い鳳が、すべてかなぐり捨てるようにして欲してくるから。
 宍戸は、ぜんぶ、ぜんぶ、鳳の好きにさせてやりたくなるのだ。
「……早く……どうにでもしてくれ」
「………宍戸さん…?」
「これ以上お前の声聞いてるとどうにかなりそうだ」
 泣き言というような全面降伏ではない、
 唆すような余裕もない。
 ありのままを告げた宍戸の言葉は、しかし鳳の事もどうにかしてしまったようだ。



 雷は、まだ激しい。
 雨も、強く降った。
 恋はそれを上回る。
 決して泣かせたい訳ではないけれど、宍戸の涙を見ると、鳳は、焦るよりもほっとする。
 何故かはよく判らなかったけれど。
 自分のそんな心境が、随分と身勝手だとも思うのだけれど。
「……辛い?」
 鳳は両手で宍戸の頭を抱え込むようにして、宍戸を組み敷いている。
 食い入るように見下ろす先で、宍戸は浅く息を継ぎながら涙の絡んだ睫を震わせている。
「宍戸さん」
 眦に溜まった、ひとしずく。
 宍戸の涙は雫の形がくずれない。
 涙も、汗も、綺麗な球体のまま肌の上にあって、それがいつも鳳を堪らない気持ちにさせた。
 宍戸が身の内から滲ませるものは、どれもこれも鳳の目に不思議な煌きを放つ。
 涙や汗もそうで、その他に、笑みだったり、強さだったり、優しさだったり、無数だ。
「………………」
 鳳は宍戸の唇をそっと塞いだ。
 声にならずに震えている呼気を吸い取るようにして、口付けながら宍戸の髪を撫で付ける。
 熱い息すら目に見えずとも煌いて、すでに押し込んでいるものが煽られるように尚一層宍戸へと沈む。
「……、…っ……ひ、」
 衝撃はよほど凄まじかったらしく、宍戸は打たれたように身体を跳ね上がらせ、反動でキスが解けた。
 まるい雫で零れた涙は、こめかみに幾筋も流れていく。
 鳳は涙に手を伸ばす。
 ひっきりなしに溢れる涙に、指と唇とを一緒に寄せると、舌に飢餓感を煽るような宍戸の涙の味が移り、指先は熱く涙が沁みた。
 至近距離で宍戸と目が合う。
 宍戸は潤みきった黒々とした目で鳳を見ながら、何故だか笑った。
「も、………おまえ…」
「………宍戸さん…?…」
「…人…、が……泣くたび…安心したよう、な……ツラしやがって……」
「え………」
 滑舌のとてつもなくあまくなった声で、それでも澄んだ声で。
 宍戸が言って、笑った事に、鳳は驚いた。
 悪趣味だと思われて当然の事実を、何故宍戸がそんな表情を浮かべて言うのか。
 鳳が言葉に詰まるのを泣き濡れた目で見上げてきた宍戸は、片腕を持ち上げて鳳の髪を耳の上あたりで撫でた。
「俺が…安心…してるから……だろ…?……」
「宍戸さん……」
「……だから…泣いてるって…知って、る…から、おまえ…」
 そういう顔、するんだよな、と言った掠れた小さな声は優しかった。
 宍戸は睫を震わせて、瞬いて、また涙を零しながら乱れた息をして、そして。
 目を閉じ、安堵している和らいだ顔を鳳の眼下に晒す。
「………………」
 宍戸は辛い時には泣かない。
 辛い時には、絶対にだ。
 鳳は知っている。
 それは、単に宍戸が強いからという事ではなく、宍戸は、辛い時や哀しい時には、泣くより先にする事があると考える事を知っているからだ。
 宍戸が泣く。
 それは、宍戸が、ただ彼のまま、その瞬間に安らいでいるという事だ。
「宍戸さ……」
 だから、なのか、と。
 鳳は知ってはいたけれども自分だけでは判らなかった心情を宍戸に教わり、本当に、この腕の中にいる彼がどれほどに大事なのか思い知らされ、抱き締める。
「………っ……ん」
 あえかな、か細い声が自分の肩口に当たる。
 鳳は宍戸を両腕で抱き締めながら、その身体を揺らした。
「長太郎…、……」
「……はい…」
 鳳が、動くと。
 宍戸は、息をのむ。
 腰を引くと、微かに啼く。
 体温を上げる。
 かぶりをふる。
 宍戸の目に、涙は。
 溢れて、零れて、止まらなくて。
 それでも鳳と目が合うたび、宍戸は笑んだ。
 宍戸が安心している。
 鳳は安堵する。
 つながって、揺れて、身体の中がなだらかに組み合わさっていくのが判る。



 ずっと、ずっと、泣かれた。
 もっと、もっと、泣いていて欲しくなる。
 あげたいもの、貰いたいもの、望まれたいもの、それらを手にするのには、さほどたくさんの言葉を使わなくてもいい。
 たくさんの時間を使わなくてもいい。
 今、その時にだけで充分。
 確実に、手の中に、それがあるから、いいのだと。
 だからもう好きなだけ泣かせたかった。
 寝返り、というほどのものではなかった。
 宍戸のほんの僅かな身じろぎは、鳳の腕の中だけのこと。
「目…覚めちゃいました…?」
「………………」
 やわらかな声は低く甘く、宍戸はゆっくり瞬いて、自分をそっと囲う長い腕に擦り寄る。
 薄暗い部屋、ベッドの上。
 まだ目が慣れない。
「………………」
 寝かしつけるような優しい手のひらに背中を撫でられる。
 もう少し。
 もう、少し。
 近づいた。
「宍戸さん」
 ひらいた腕。
 ひろげた胸。
 抱きとめて、受け止めて、鳳の囁きと一緒に唇が頭上に寄せられる感触がした。
「まだ…早いよ…時間」
 眠っていいよと抱き締められる。
 睡魔を濃密にする声だ。
 鳳は、では何故そうしているのか。
 喋っているのか。
 宍戸を抱き締めて、背中を撫でて、いるのか。
「眠っていいよ」
 繰り返される囁きに、瞼はとろりと閉ざされたまま開けられない。
 けれども、もっと、いろいろと、欲しくて。
 声とか、抱擁とか、言葉とか、体温とか、匂いとか。
 もっと近くに、もっと深いところに、もっと濃く、浸りたくて。
 宍戸はこめかみを鳳の胸元に微かに摺り寄せる。
 鳳の大きな手のひらが、ぐっと宍戸の背を抱きこんでくる。
 唇を、掠られた。
 鳳の、唇で。
 一瞬、それで思考が蕩けて、沈んで、奥深く。
「宍戸さん……」
 吐息が唇にふれる。
 まだ近くにいる。
 宍戸は目を閉じたまま、微かに唇をひらく。
 零れた微かな呼気を拾ってくれた唇が、すぐに柔らかく吸い付いてきて、宍戸は、こくりと喉を鳴らした。
 唇は、離れて。
 また近寄って。
 重なって、こすれて、離れて、たわんで。
 与えられる小さなキスが散らばってしまわないように唇で受け止めて、宍戸はうっすらと目を開けていく。
 間近で、鳳は唇に笑みを浮かべていた。
 ごめんね?と笑って。
 起こしちゃいましたねと目を伏せて。
 唇を啄ばまれた。
「………長…太郎…」
「……はい……」
 頬と、顎と。
 鳳は宍戸にキスをする。
 睫と、瞼と。
 キスをする。
 宍戸はまた自分から唇をひらき、だるいような腕を持ち上げて鳳の後ろ首に絡めた。
 布ずれの音がした。
 鳳が宍戸を組み敷くように抱き込んできたからだ。
 角度のついた、深いキスで塞がれる。
 首筋を固い手のひらに逆撫でされて、耳の縁を指先に微かに辿られ、宍戸は小さく息を弾ませ身体を竦ませる。
 両頬を鳳の手に包まれて、至近距離から幾度となく角度を変えてキスされる。
 足と足とが絡んでいる。
 腰や、胸が重なって。
 鈍くまどろんでいた身体に浸透してくる、互いからの熱や重みや感触。
 痺れるように、身体を走っていく、その経路は血管なのか神経なのか。
 感情の流れる路だ。
「……そっと見るってことも出来なくて、…ごめんね…宍戸さん」
「…………長太郎……」
 鳳に見られていて。
 見つめられていて。
 気づかずに眠り続けていることの方がいやだと、宍戸は思って。
 判って自分が目覚めたのなら、それが嬉しいのだと、キスに応えて、伝われと願って。
 舌が、ふれあい、気持ちが、緩んで、潤んで。
「…………、…っ…」
 喉元から手を這わされ、足を辿られ、撫でられる。
 宍戸が欲しいものは次々と与えられ、愛して、眠るように、身体が吸い込んで。
 欲して、温まる。
 好きだと、蕩けた口調で告げていた。
 寝ながら言わないでと、鳳は笑ったけれど。
 同じ気持ちで彼からもまた返して貰ったから。
 宍戸は眠りに、深く、口付けごと沈んで。
 沈んで。


 キスごと溺れていった先に眠りの続きが待っていた。
 氷帝のラウンジは、よほどのことがない限り満席になることはない。
 それくらいに広い。
 しかし何故かいつも見知った顔は近くに集まるようになっている。
「おおーい。お前らこっち来いよ!」
 派手なアクションで手招きしている向日を、鳳と宍戸は同時に見て、それから同時に今度は互いの顔を見る。
「あの感じじゃ、ぜってー何かあるぞ…」
「…ですね。行きましょうか、宍戸さん」
 溜息をつく宍戸に、鳳がやんわりとした笑みで、肯定と促しを差し向ける。
 憂鬱そうな顔を隠しもせず、それでいて宍戸は真っ直ぐ向日のいるテーブルに向かった。
 テーブルには他にもいつもの面子が揃っていた。
「宍戸ー、お前またそれかよ」
 向日が言ったのは、宍戸の買った飲物だ。
 正確には、宍戸が買って、鳳が運んで、宍戸が椅子に座ると同時にサーブするように宍戸の前に鳳が置いたハーブティだ。
 ミントやレモングラスの特別ブレンドで、好みで入れられるように添えられた蜂蜜は、鳳が注いでいる。
 その行為まで全部ひっくるめて、向日は、また、と言ったのだ。
 宍戸はうるせえよと返しながら、隣に座った鳳に、サンキュ、と告げてからカップに口をつけて。
 自分で入れるより絶対に甘みのバランスが絶妙なのだからと、ちらりと上目に向日を見やる。
 またで悪いか。
 そう感情を込めた眼差しで。
「鳳、お前宍戸に甘すぎねー?」
「そうですか…? 寧ろセーブしてるんですが…」
 矛先を鳳に向けた向日だったが、鳳のゆるい甘い笑みは向日をも一息で脱力させたようだ。
 テーブルに崩れるように顔を伏せた様子を見て、宍戸は笑い、鳳は生真面目に声をかけている。
「大丈夫ですか? 向日先輩…」
「これっぽっちも大丈夫じゃねーよっ」
 叫んだ向日の声に目覚めたのか、同じテーブルに顔も両手も投げ出して眠っていたジローが、逆にむくりと身体を起こした。
 起き抜けに宍戸を見て、呂律のあやうい口調で驚いている。
「ぁ…ぇ……ししど…」
「よう。お目覚めか?」
 寝乱れたジローの髪を軽くかきまぜた宍戸に、それまで岳人の隣で黙ってコーヒーを飲んでいた忍足が見かねた様に苦笑を零す。
「そんな真似して。忠犬が戦闘犬になったらどないするん」
「お前の言う事は意味がわかんねえんだよ、忍足」
 きつい眼差しを差し向けられても構わずに、忍足は宍戸をよそにして心底同情的に鳳の肩を数回叩いた。
「若い時に苦労しといて、ええ男になるんやで、鳳」
「がんばります」
 あまりにも爽やかにそう返されて、忍足も向日に続いてテーブルに沈み、立ち直った相棒に慰めともつかない言葉をかけられていた。
「侑士、もうこいつら放っておこうぜ。ほんと疲れる」
「…やな」
「お前らで呼んでおいてその言い草かよ」
 呆れた宍戸の言葉に、向日が、あ!という顔をした。
「そうだ。聞きたいことがあんだよ。宍戸」
「何だよ」
「なー、お前だったらさ、好きな相手のメアドとか、携帯番号とか、どうやって聞く?」
「はあ?」
 ぐいっと顔を近づけてきた向日の問いかけに、宍戸は眉間に皺を寄せた。
 向日は気にした風もなくまくし立ててくる。
「一応クラスメイトで、そこそこ話はするけど、まあ特別親しいって訳でもないような相手。初対面とかで聞く感じとはもう違うって関係で」
「一応だとか感じだとか、まどろっこしいな。そんなもん、普通にアドレスはなんだ、番号は何番だって聞けばいいだろうが」
 宍戸のそっけなく呆れた声に、だろ?と向日は勢いこんだ。
 自分の返答に向日が怒り出すかと一瞬宍戸は思ったのだが、向日は寧ろ我が意を得たりといった表情でしきりに頷いている。
「俺もそう思うんだよ! 普通そうだよな? なのによお、侑士がさ、その子はそれが出来ないから聞いてるんだろとか何とか言いやがってさ」
 先程までは同胞とばかりに同情的だった相手を、今度は睨みつけている向日には、どうやらクラスメイトからそんな相談を受けたようだった。
 見た目は余程忍足の方がクールそうなのだが、彼は恋愛事にはああ見えて実は繊細らしい。
 向日はといえば、雰囲気は甘めの可愛らしさが目立つのだが実際はひどく男っぽいので、その恋愛相談は思いっきり人選ミスだろうと宍戸は内心で思った。
「そいつもさ、俺が教えてやろうかっつってんのに、本人から聞かないと連絡できないとか言っててよ」
 面倒くせえ!と頭を抱える向日の心情は宍戸にはよく判った。
 自分もそう思うからだ。
 そうして案の定、鳳は忍足に同意している。
 宍戸は向日相手に言った。
「連絡したいんなら直接聞くしかねえのになぁ…」
「だろ? 知らない情報聞くのに、今更も、初対面じゃないも、ねえだろって話!」
 何愚図ってんだがさっぱり判んねえ!と向日が言うのに、宍戸も同意で頷いた。
 それを聞いた忍足と鳳は、揃って溜息を吐き出している。
 対峙する二組の合間で、突然にジローが口をひらいた。
「それじゃー、携帯のー、操作をまちがってー、電話帳ぜーんぶ消しちゃったからー、手入力で入力しなおしてるんだけどとか言ってー…しらばっくれて正面きって聞けばー?」
 テーブルにいた一同は一瞬揃って口を噤む。
 全員の視線を一身に浴びて、ジローは前髪をくしゃくしゃとかきまぜながら小さくあくびをする。
 幼い顔つきの彼の台詞には、繊細組も、男らしい組も、思わず頷いた。
「………それは、結構いいんじゃね?」
「せやな。それはいけるで」
 岳人と忍足がことのほか真剣な様子で頷きあっていると、とろんとした目にうっすらと涙を溜めてジローが再び口をひらく。
 何かに気づいたように、あ、と言ってから。
「でもこれ、宍戸のアドレス聞き出す時に鳳がやったことかー……」
 仰天したのは鳳だ。
 本当に飛び上がったんじゃないだろうかと宍戸は見ていて思った。
 そんな鳳の反応に、向日がここぞとばかりにからかいの眼差しで鳳に詰め寄っていく。
「は? マジで? そうなのかよ、鳳」
「な、…ジロー先輩、何言ってるんですか…! 違いますよ! 向日先輩っ」
 そうだっけー?と欠伸をするジローの隣で、岳人が好奇心丸出しの顔で鳳を覗き込む。
「違ってて何でそんな慌ててんだよー、お前ー」
「向日先輩が何か悪い顔になってるから…!」
「あ、お前センパイに向かってそういう口きくか?」
「ちょ、…っ」
 甘い顔立ちを裏切る凶暴さで有名な向日は、にこっと笑いながら鳳のタイを手にして、含みたっぷりに目を細めている。
「……あかん。本気で怯えとるで、鳳」
 忍足が苦笑いしている隣で、宍戸は呆れ顔だ。
「かわいいねえ、鳳も。宍戸のメアドゲットするべく、あれこれ考えたわけだ」
「ですから…! 違いますって…! 俺は普通に宍戸さんに聞きましたよ。教えて下さいって」
「なの? 宍戸」
「んー…?…どうだったかな」
「ひどい、宍戸さん」
 覚えてねえなと首を傾げる宍戸に、鳳が嘆く様を見て向日は笑って喜んでいる。
「確かに、電話帳消してしまったのは本当ですけど。その前にちゃんと宍戸さんに聞いてます」
「ふぅん。へぇえ?」
「向日先輩…!」
 そうやってひとしきり構われ、からかわれまくった鳳は。
 暫くして席を立った三人の三年生から開放されるなり、テーブルに額を当てて脱力する。
「さて、と。ジローの案を教えてやりに行くかなー」
「俺は教室でねむるー」
「まだ寝るんかい!………ああ、鳳、堪忍なー」
 足取り軽い向日と、あくびを繰り返すジローと、苦笑で片手を顔の前に立てる忍足と。
 彼らが席を立ち、その場からいなくなり、宍戸は鳳と二人きりになる。
 疲れきった様にテーブルに顔を伏せている鳳の、少しだけ癖のあるやわらかな髪を宍戸は手のひらで軽くたたいた。 
「長太郎」
 ぐったりとしている鳳を見て軽く笑う宍戸の口調は楽しげで、優しげだった。
「……んな落ち込むなって」
「だって……ひどいじゃないですか。宍戸さん」
 じっと上目に見られる。
 宍戸は笑った。
「言えば良かったじゃねえか。お前がした事と、俺がした事」
 鳳は、彼が言うように、真っ正直に言ったのだ。
 まださほど親しくなる前だったが、宍戸のアドレスと電話番号を教えてくださいと丁寧に。
 それに対して宍戸は。
「人に聞く前にお前が言えって怒鳴ってよ。あれは我ながら横柄だった」
「そんな事ないです。宍戸さんは横柄なんかじゃないです」
 鳳に真剣に否定されて、宍戸は目を瞠ってから、そっと声をひそめる。
「ま、…照れかくしで怒鳴ったようなもんだからよ」
「……え?」
 あんな風に、真っ向から。
 乞われるようにお願いをされた事なんてなかったから。
「だから。照れの延長で。お前の携帯奪って、俺の携帯にかけて、すぐきって」
「それを俺にくれましたよね」
 嬉しかったんです、すごく、と鳳が顔を上げて優しく笑う。
 その時と同じ、嬉しそうで可愛い。
 宍戸は肩を竦めた。
「放り投げてな」
「ちゃんとキャッチしたでしょう?」
「受け取りざま、お前俺の隣に並んで、即効で俺に電話かけてきてな」
「早く宍戸さんに電話してみたかったんですよ」
「並んで歩いてんのに電話してるってどんなだよ」
「幸せって感じでしたねえ…」
「………アホ」
 そんなに昔の事ではない。
 でも、何故か懐かしいような面映さがある。
 そういえば、と宍戸は思った。
「思い出しついでにだけどよ…」
「何ですか?」
 宍戸はハーブティを飲みながら鳳に視線を向ける。
「お前がその後に電話帳全部消したの、あれ、わざとだろ」
 鳳が双瞳を見開く。
 純粋に驚いている顔だ。
「何で知ってるんですか」
「お前が……やけに嬉しそうだったから、かな?」
 ジローが言ったように、鳳は携帯の電話帳が全て消えてしまった後も、宍戸にアドレスを聞きに来たのだ。
 その時の鳳の表情を思い出しながら宍戸は言う。
「びっくりしました」
 全部判ってたんですねと鳳が呟いた。
 宍戸は首を左右に振った。
「んなわけあるか。わざと全消去して、それの何が嬉しいのかまで判るかよ」
「あの時はですね、……実際全部消してみたら、すごく実感したので」
「あ?」
「他には何もいらないんだなって。俺は、宍戸さんだけでいいんだなって。改めて判って。それが嬉しかったんだと思います」
 鳳は穏やかに言った。
 宍戸は一瞬絶句し、それから盛大に深々と溜息をついた。
「…お前、時々本当に突拍子もないこと言ったりやったりするんだよな……」
「ですね。自覚はしてますよ」
 常識を弁えて、堅実そうで。
 そのくせおっとりと微笑みながら誰も思いもしないような事をするのが鳳だ。
「携帯のリセットくらいならいいけどよ。そのうちお前自身のリセットとかするんじゃねーぞ?」
「もし記憶がなくなっても、宍戸さんにその都度惚れこみますよ、俺」
「それをやめろっつってんだよ」
 何度でも好きになる。
 鳳はそう言って、まさかそれを意図的に実行するわけはないだろうが。
 何分鳳は、時折宍戸の予想もつかない事をしでかしてくるから。
 一応釘をさしておくべく宍戸は口をひらく。
「もしお前が俺の事を忘れるような事があったら、俺はお前に愛想尽かすからな」
 宍戸の予測以上に、その言葉は鳳を戒めたらしかった。
 ぜったいしませんと、鳳はひどく懸命で神妙な真顔で、言った。
 絶対するな、と宍戸は眼差しで念押しをする。
 そして最後に、そんな事になったら泣き喚いてやると凄めば、もう。
「そんな事しませんってば! だから泣いたりしないでください」
 どれだけ必死なのかと思う剣幕で鳳が宍戸に詰め寄ってくるので。
 宍戸は冗談めかした本音を晒したまま笑ってやった。
 暑い寒いくらいでしか季節を体感する事のなかった宍戸だが、鳳がふとした言葉や仕草で気づかせてくれる事が増えていき、そういう自分になることが、時折ひどく不思議に思える。
 人に感化されたり影響を受ける自分だと思った事がないからだ。
 しかし鳳から伝えられてくることは、どれだけ些細な出来事であっても、宍戸の内部に必ず残る。
「桜も完全に葉っぱだけですねえ…」
「ああ」
 自主トレの仕上げに走りこんだ後、公園で軽くストレッチを済ませ、首にかけたタオルで汗を拭いながらスポーツドリンクを飲んで頭上の枝振りを見上げる。
 ほんの数週間前までは、一面薄紅の花弁でいっぱいだった樹は、今は青々と葉を茂らせている。
 鳳の言葉に宍戸もつられて目線をやって、そういえばこの樹が桜の樹だと自分は知らなかった事を思い出した。
 あまり立ち寄る事のなかったこの公園に鳳と一緒に来たのは去年の冬だ。
 草木染めで綺麗な桜色を出すには花が咲く前の樹の皮を使うらしいですよと鳳が言って、樹の幹に手を置いたから。
 吐く息の白いその季節に、その樹が桜だと知ったのだ。
 今は瑞々しい葉で覆われた枝々。
 手を翳して見上げている鳳の髪も、木漏れ日から漏れる日の光のようにきらきらしている。
 鳳の見つめ方は、何を見ていても真っ直ぐだ。
 きれいな見つめ方をする。
「………………」
 そういえばこの桜の咲く前にも、鳳は何か別の花を見上げていたと宍戸は思い出した。
 学校の近くで、確か白い花を綻ばせていた街路樹を見やって。
 木蓮とコブシの違いを口にした、その言葉。
 木蓮はずっと上を向いて咲き、コブシは途中から上を向かずに正面を向く。
 見た目のまるで同じ花が、違う花であること、咲き方を異ならせていること、その時はぼんやり聞いていたような気がしたが、その後宍戸も自然と見分けられるようになっていた。
 学校の近くにあるのは木蓮。
 斜向かいの家の庭にあるのはコブシだ。
「宍戸さん?」
「……あ?」
「何か…?」
 甘い優しい促しに、宍戸は曖昧に視線を逃がして後ろ首に手をやる。
「悪ぃ」
「何がです?」
 俺嬉しいだけです、と鳳は葉桜から宍戸へと視線を移した。
 見つめ方は、いつも以上に、きれいで。
 宍戸も結局目線を合わせなおす。
 目と目が合えば、それこそ花の綻びのように鳳が目を細めてきた。
「宍戸さん」
 手が伸びてきて。
 大きな手のひらは宍戸の後頭部を包んで、髪を撫でる。
 内緒話でもするかのような仕草で耳元近くの髪先に唇を寄せられて。
 場所を考えろと宍戸が言うより先に鳳は離れていく。
「……お前なぁ」
「すみません。宍戸さん」
「謝るなら、ちっとは悪びれろよ…!」
 一見殊勝なようでいて、その実は機嫌がよすぎて大胆すぎる振る舞いで。
 鳳は宍戸の肩を抱いて笑っている。
「俺、天気いい日に、外で宍戸さん見るの嬉しくて」
「…は?」
 肩を抱かれたまま促され、宍戸は鳳と共にそこから少し離れた所にあったベンチに腰掛けた。
 そこも桜の樹のふもと。
 ちらちらと、小さな木漏れ日が無数に頭上から零れてくる。
「太陽浴びて、どこもかしこもキラキラなんですよね…」
 ね?と肩を並べたまま見つめてこられ、うっかり宍戸の口もすべる。
「……キラキラって…バカか。お前じゃあるまいし」 
「俺…ですか?」
「……………何でもねえよ」
 あー何でもねえ!と宍戸は怒鳴った。
 鳳に何か言われるより先に大声を出しておけと言わんばかりにわめけば、鳳は屈託なく笑ってまた宍戸の髪にキスをした。
「てめ、…またかよ…っ」
「だって、綺麗で可愛い」
 甘えのたっぷり滲んだ鳳の上目を間近に見て、宍戸は、知るか!と叫んでそっぽを向いた。
 鳳の腕はベンチの背もたれの上にかかって、今にもまた宍戸の肩を抱きそうだ。
「こっち向いて欲しいです…」
「向けるかバカ!」
 自分で見ることは出来ないが、充分自覚はしている。
 こんなに赤い顔で向き合えるかと宍戸は思い、それと同時に。
 同じく見えていない鳳の表情も、その声音ひとつで判ってしまうのだ。
「俺、宍戸さんが好きなんです」
「………、…っ…てるよ…っ!」
「はい。宍戸さんは知っててくれてる。でも今、宍戸さんが知っててくれてるよりもっと好きになっちゃったから」
 今ちゃんと見て、また知ってて下さい、と鳳は言う。
 宍戸が、それ以上そっぽを向いていられなくなるような言い方をする。
「………………」
 宍戸は座ったまま、勢い良く片足を、ダンとベンチの上に乗せた。
 片足は、鳳の側の足だ。
 その勢いで顔を向ければ、曲げた膝の上にはすでに鳳の手のひらがふわりと被せられ、耳の縁をやわらかく吸い上げられた。
 瞬間首を竦めた宍戸は、羞恥と腹立ちに紛れて。
 怒声の代わりに鳳のその首筋を噛み返してやったが、それは宍戸の思いのほか、鳳にとっては腹いせとなったようだった。
「……挙句に、誘いますか」
 鳳がうっすらと赤くなった目元を細めて詰ってくるのに、宍戸は至近距離から見つめ返して、応えた。
「誘うだろ」
「宍戸さん」
「お前が好きなんだからよ」
 きらめく木漏れ日は、二人に均等に降ってきて。
 互いの目にお互いは甘く煌びやかに映っていた。
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