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How did you feel at your first kiss?
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 学校に向かう道のりで、何で昨夜が『帰さない日』だったのかを宍戸は考えている。
 宍戸の隣を歩く鳳は、それはもう判りやすく、宍戸が怒っているのか怒っていないのかを、じいっと宍戸を見つめて悩んでいる。
 昨日はえらい強気だったくせしてなあ、と宍戸は唇の端を引き上げつつも肩で息を吐く。
 それを見た鳳が、ゴメンナサイと実に素直に頭を下げるものだから。
「お前さあ……何をそうしょぼくれてるわけ?」
 宍戸は笑いながら聞いたのに、鳳はますます申し訳なさそうに肩を落としてしまう。
 背が高く、バランスの良い長い手足と、綺麗で明るい笑い顔。
 優しい物言いと丁寧な所作で、その場にいるだけで人目を集める鳳は、今春には宍戸と同じ高等部に上がってくる。
 鳳が新入生の時から知っている宍戸からすると、よくもここまで大人びたものだと思う見目なのに、何故か宍戸といる時は、時々こんな風に頼りない顔をする鳳だ。
 かわいいよなあと宍戸はぼんやり思う。
「昨日は、帰さないって強引だったのになあ?」
「……すみません」
「謝るかそこで」
「辛くない…?」
 ひっそり問われて、距離も近くなって。
 大きな手のひらが腰に回るものだから。
 宍戸は歩きながら片肘で鳳を押しやった。
「朝っぱらから往来でそういう事言うんじゃねえっての」
「……平気ですか?」
「平気なわけあるか」
 昨日はいきなりの誘いで、元々泊まる気のなかった宍戸が少々駄々をこねたせいなのか、ベッドに雪崩れ込んでからの鳳は執拗だった。
 正直、重だるい腰と芯の抜けたような下半身の違和感は強かった。
 でもまあたまにはいいよな、と宍戸は思っている。
 自分がどれだけ鳳にベタ惚れか自覚している宍戸は、多少鳳が暴走がしても、それが嬉しかったりする自分を認めている。
「なあ。何で昨日だったんだよ?」
「……宍戸さんを帰れなくしたのがですか?」
 そういう風にわざわざ言葉を置き換えなくてもいいだろうがと呻きながら、宍戸は、ああそうだよと自棄気味に言った。
「今晩そうすりゃ、日付け代わったらお前の誕生日だし。明日なら明日で、誕生日の最後まで一緒だったんじゃねえの?」
 今日は二月十三日。
 だから、どうして昨日あそこまで鳳が強引だったのかが不思議でならない。
 歩きながら横目でちらりと宍戸が見やった鳳は、甘い造りの顔をしっかりと宍戸へ向けていた。
 前見て歩けと宍戸は再び肘で鳳を押しやったが、普段従順な年下の男は、こういう時は全然宍戸の言う事をきかない。
 あのー、と控えめながらも意見までしてくる。
「俺別に誕生日が特別って訳じゃないんですけど」
「ん?」
「俺が宍戸さんと一緒にいたかったり宍戸さんを欲しがったりするの、それが二月十二日でも良いじゃないですか」
「そりゃ……まあ、…いいけど」
 誕生日は、やはり特別なんじゃないかと思ってしまうから、不思議だっただけの話で。
 確かに宍戸だって、そういうのはいつでもいいと思う。
「それに宍戸さん、十四日って、あんまり俺と会ってくれなかったじゃないですか」
「は?」
「学校で」
 去年の事を言われているらしかった。
 宍戸は、そりゃ当たり前だろ、と自分よりもかなり背の高い後輩を見上げる。
「朝も昼も夜も、お前の周り女の子だらけなんだから」
「大袈裟です」
「大袈裟なわけあるかよ。とてもじゃねえけど、あの中に割り込んでく気力ねえよ。俺には」
 鳳を取り囲む女の子達というのは大半は品が良いので争奪戦といった雰囲気ではないのだが、それにしても女性陣の一大イベントであるバレンタインデーと好きな相手の誕生日が同じ日であるというのは、相当な状況になる。
「………ああ? もしかしてお前、明日一緒にいない時間の分、昨日とったわけ?」
「そうですよ」
 ふと思い当たった事を宍戸が尋ねれば、あっさりと鳳は頷いた。
「どうして今日じゃなくて昨日?」
「今日だと、明日が誕生日だからって事になるかと思って」
「……やなの? それ」
「さっきも言いましたけど、誕生日だけ欲しい訳じゃないんで」
「でも、誕生日も、欲しいんだろ?」
「はい」
 我儘の言い方が可愛すぎるだろうと宍戸は頭を抱えたくなった。
「………ちょっとは、まあ、判るけどよ」
「何がですか?」
 小さく呟いただけの宍戸の言葉を、鳳は正確に拾った。
 宍戸は溜息交じりに鳳の顔を見据える。
「あー……ちょっとここで待ってろ」
「はい。……宍戸さん?」
 不思議そうな鳳を置いて、宍戸は歩いてきた道路の向こう側に渡った。
 そこにあるのは判っていたので。
「宍戸さん」
 言われるままに足を止めていた鳳だったが、宍戸が反対側の歩道から道路を渡ってくるなり、すぐに足早に歩を進めてきた。
 宍戸は向こう側の道にあった自動販売機で買ったドリンクを鳳に差し出す。
「バレンタインデーじゃねえよ。それでもいいならやる」
 ホットの『くちどけココア』のアルミ缶を突き出すと、鳳は数回瞬いた後、それこそとろけるような笑顔を満面に浮かべた。



 誕生日だからじゃない外泊。
 バレンタインデーだからじゃないチョコレート味。
 二月の詐術は、甘く欺け。
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 いきなり宍戸が地面に片膝をついたので、鳳は大袈裟でも何でもなく、飛び上がらんばかりにして驚いた。
 自分の足元に屈んでいる宍戸を、鳳は愕然と見下ろした。
「し、…宍戸先輩?」
「お前、シューズの紐ほどけてるぜ」
「、え?……や…、…自分でやりますから…!」
「両手塞がってんだろうが。いいからおとなしくしてろ」
 凄まじく切れ長のきつい眼差しで下から睨み上げられた。
 下級生の鳳としては逆らうわけにはいかなかったが、だがしかし、それこそ目上の人間を、それも数百名いる氷帝テニス部員の中で準レギュラーに位置づけている相手を、足元に屈みこませていていい筈もない。
 あまつさえシューズの紐まで結んでもらっているようでは、正直生きた心地がしなかった。
 両手をテニスボールがいっぱいに入っているカゴで塞がれている鳳は硬直したようになって、己の足元にいる相手を見据えるしか出来なかった。
 長い髪を無造作に括っている二年生の宍戸とは、あまり話をした事はなかった。
 同じテニス部員であっても、準レギュラーであるというだけで、相当遠い位置にいるような相手だ。
 そのうえ宍戸という男は、気が荒く口が悪く目つきが鋭いので有名で、下級生達は取り分け彼を遠巻きにしている所があった。
「………………」
 けれど、今鳳の視線の先にいる彼は、ラインの綺麗な首筋を無防備に晒して、下級生の、実力的にも対等でもない人間の足元に膝をつき、靴紐を結んでくれている。
「出来たぜ。鳳」
「あ、…りがとうございます」
 名前を呼ばれてますます鳳は驚いた。
 歯切れの良い声で口にされたのが自分の名前であると判るのに一呼吸分かかってしまったくらいに驚いた。
「気をつけな」
 にこりともしないで、立ち上がるなり背を向けた宍戸が残した言葉を。
 声を。
 鳳は頭の中で繰り返し繰り返し反芻した。
 それは去年の、春の話だ。



 ああ覚えてる、と宍戸は言った。
 鳳の胸元に持たれて床に座っている宍戸は雑誌をめくる手を止めて、肩越しに視線を上げてきた。
 宍戸の背後に居る鳳を直視して、思い出したように溜息をつく。
「えらいサービスいいじゃねえかって散々に言われたからな」
「それは……」
「跡部だろ。忍足だろ。岳人、滝、……要するにあいつら全員。雨が降るだの槍が降るだの。揃いも揃って勝手な事言ってきて、うるせえのなんのって」
「……だったんですか?」
「だったんだよ」
 今の宍戸の髪は短い。
 首筋のラインが綺麗なことは変わらない。
 首筋だけでなく、身体のラインのどこもかもが綺麗なのだと今の鳳は知っている。
 ぽすん、と空気の抜ける音をたてて宍戸が鳳の胸元に力を抜いて凭れかかってきた。
 鳳は、すっぽりと覆いこむようにして宍戸の身体を抱きこみ直した。
 鳳の腕の中で宍戸は寛ぎきった様子で軽く笑う。
「ま、実際珍しすぎたんだけどな。ああいうの」
「宍戸さん?」
「お前は絶対早い段階で上に来ると俺は思ってたからな……あんな所で怪我でもされたら困るって、そう思ったらもう、お前の靴紐結びに行ってた」
「…困るっていうのは?」
 鳳は宍戸の髪に唇を寄せて問いかける。
 ひどく不思議な事を言われた気がした。
「お前とレギュラー争いしたかったのか俺?」
「それ俺に聞かれても」
 あまりにも素直な宍戸の声に、思わず鳳も笑ってしまった。
 抱き込んだ身体を緩く揺するようにして笑っていると、宍戸が尚も鳳に身を預けるようにもたれてきて、互いの距離が無いに等しくなった。
「早く上がって来いって」
 そればっか考えてたんだよなあ、と回顧する宍戸の声音が、鳳にそっと届いた。
「距離が、近くなりたかったのかもな。もっと」
「それは、あの時から、俺はずっと考えていましたけど…」
 待たせましたか?と問いかければ、ちょうどいい頃に来たよな、お前、と言って宍戸がまた笑う。
「それなら良かった」
 ぎゅっと腕に力を入れて抱き締めて。
 鳳は宍戸の頭上に口付ける。
 昔あった出来事も、それを思い返す今も、こうして二人でいるように。
 同じ事を時々繰り返しながら、先行きも、こうして二人でるのだろう。
 あの日宍戸が結わえた紐、それが繋げているかのような、今と未来だ。
 ジローが、ぐっと顔を近づけてきた。
 宍戸は目を瞠る。
「……何だよ?」
「ししど」
 まだ眠気をたっぷりと引きずっている呂律のあまさだ。
 現に、一月というこの時期にも関わらずジローはいつものように眠っていた。
 昼休みの中庭で、気に入りらしい樹の幹に寄りかかって。
 何処でも眠ってしまえるジローの性質は、勿論充分理解している宍戸であったが。
 幾らなんでも凍るだろうと肩を揺すって起こした所、ジローは瞼を引き上げるなり宍戸に詰め寄ってきたのである。
「宍戸」
「だから何だよ」
 だいぶ目覚ましてきたなと思いながらも、やけに深刻な顔のジローを宍戸は不審気に見やる。
 膝を折ってジローの向かいにしゃがみこんでいた宍戸は、制服の胸元をジローの両手に鷲掴みにされ、引っ張られてバランスを崩した。
「おま、…っ……危ねえだろ…っ」
「ししど。おおとりがしにそうだよ」
「は?……ああ?……っつーかジロー、てめえ何でまた眠りやが、…」
 ぐー、と寝息も露に宍戸へとなだれ込んできたジローの身体ごと宍戸は地面に倒れこんだ。
「………宍戸。何してるの」
「滝、おい、ちょっとこいつどけろ!」
 天地が逆さまになった宍戸の視界で、うわあ、と滝は顔を顰めている。
「公の場でそんな事してると、あっという間に尾びれ背びれがついて、噂を聞きつけた鳳あたりはますますおかしくなっちゃうんじゃないかな……」
「じゃあどかせよこいつを!……あ? 滝、お前、長太郎が何つった、今」
「ジローは眠ると体重倍にでもなったみたいに動かないんだよねえ……」
 滝は宍戸の顔を真上から見下ろしながら、宍戸の問いかけには応えず曖昧に笑みを浮かべる。
 宍戸は眠っているジローを、身体の上から地面へと懸命に転がした。
 眠っている時のジローは何故か本当に動かすのに苦労する。
 だからいつも樺地が呼びに行かされていたのだ。
「………のやろ…」
 息を乱しながらも脱出に漸く成功した宍戸は、腹立ち紛れにしては随分加減した力でジローの頭をはたいてから、上半身を起こして座り、滝に対峙した。
「長太郎が何だって?」
「髪の毛くしゃくしゃ」
 滝は宍戸の髪を指先で丁寧に撫でつけながら笑った。
「鳳ねえ…さっき見かけたら宍戸不足で死にそうだったよ」
 かわいそうにと言いつつ尚も笑う滝に、宍戸は息を詰めた。
「そうそうー……おおとりしにそうー……」
「うわっ…」
 突然に、もそもそとジローが動き出し、宍戸の腿を枕にして身体を丸めた。
「だから公開膝枕なんてしてあげたら、例え相手がジローでも、鳳泣いちゃうかもよ?」
「泣くかっ。……、っ……お前は何笑ってんだよっ、滝」
「宍戸も鳳不足だね」
 助けてあげよう、と滝は言って。
 至極簡単に宍戸の膝から眠っているジローを引き剥がした。
「ひどい……」
「はいはい。肩くらいは、かしてあげるから。膨れない」
 むすっと呟いたジローの隣に座り、滝は言葉の通りに右肩にジローを寄りかからせた。
 そのまま宍戸を流し見てくる。
「忙しそうな鳳に遠慮してるのかもしれないけど、限界超えて倒れでもして、久々の再会が保健室でしたなんて事になっても困ると思わない?」
「別に俺は、」
「鳳不足なだけだよね」
 嫌味でもなく、たださらりとそう言って笑う滝に。
 結局宍戸は呻くしか出来なかった。
 毎日の生活の中でかなりの時間を占めていた部活を引退してから後、学年の違いというものを実感させられている。
 新体制になったテニス部で多忙な毎日を送り出した鳳と、エスカレーター式とはいえ受験生になった宍戸は、確かに以前のようにほぼ毎日会っていた状況ではなくなっていた。
 けれど、だからといって疎遠になる事も勿論ない。
 関係が変わる事もない。
 それを知っている友人達は、だからこそ、こんな風な言い方で心配してくるのだ。
「二人とも自分達で思ってるほど平気じゃないんだからさ」
 早いところ充電しておいでよと滝は笑っている。
 そんなにあからさまかよと。
 宍戸は思わず、天を仰いでしまうのだった。



 自分の吐く息が白く目に映って、今日は寒いのだなと鳳はぼんやり思った。
 暖冬のせいか、暖かい日は本当に暖かくて、季節を忘れそうになる。
 今日も昼間は見事な小春日和だったから、防寒具の類は何一つ身につけていなかった。
 コートも着てこなかったので、星の瞬く空の下を制服で帰る道すがらは、やけに寒く感じられてならなかった。
「………………」
 また白い吐息がはっきりと視界に映る。
 要するに、自分が溜息ばかりついているって事だよな、と鳳は思った。
 そういえば部活が終わって、部室に最後まで一緒に残っていた日吉が、別れ際に呆れ返った冷めた目で流し見てきたよなあと思いもする。
 さっさと会いに行けという目だった。
 親切というより、心底鬱陶しがっていた日吉の表情を思い出して、鳳はさすがに唇に苦笑いを浮かべた。
 寂しいとか、哀しいとか、苦しいとか。
 そんなにも強い感情ではなくて、でもそれらがみんな交ざって胸を埋めていくようなこの感じは。
 全て、彼がいないからだ。
 圧倒的に足りないからだ。
 今まで一番近くに一番長いこと一緒にいた人がいない。
「………………」
 まるでむずがる子供の一歩手前だと、何かそのうち爆発してしまいそうなものを必死に奥歯で噛み砕くようにしながら、鳳は前髪をかきあげた。
 指と指の合間に欲しい感触は、これではなくて、などと思いながら。
 歩いていった鳳は、自宅までの道のりがやけに遠く感じられてまた溜息を吐く。
 溜息まみれだと自身を呆れていた鳳の視野に、冴えた綺麗な気配がいきなり飛び込んできたのは、そのすぐ後だった。
「………………」
 足を止めた鳳に。
 歩道際の自動販売機からの発光に横顔を白く浮かび上がらせいた宍戸が気づいて、コートのポケットに両手を入れたまま近づいてくる。
「よう」
「宍戸さん。何でこんな所に……」
「…お前その恰好で寒くねえの?」
 すぐに鳳の元までやってきた宍戸は、鳳の出で立ちを見てきつく眉根を寄せた。
 鳳にしてみれば、そんな宍戸の肌こそ目に見えて冷たく思えてならなかった。
「いつから…」
 咄嗟に頬に手を伸ばそうとしたものの、手袋もないままの自分の手では余計に冷たくしてしまうだろうかと躊躇して。
 中途半端な位置で鳳は手を止めた。
 それを目の当たりにした宍戸が、何故か溜息と共に微かに笑った。
「……弱音吐かねえよなあ…お前は」
「え?」
「結局来ちまっただろ。俺が」
「宍戸さ、……」
 言葉ごと。
 宍戸がコートのポケットに両手を入れたまま、鳳の胸元に落ちてきた。
 飛び込んできた。
 おさまってきた。
 欲しくて欲しくて、鳳が、子供のようにむずがってねだってしまいそうになっていた人が。
「………………」
 薄い肩と細い首筋を見下ろす角度にどうしようもなくなって。
 鳳は闇雲な力で宍戸の身体を抱き竦めた。
 抱き潰しそうな剣幕の力が、鳳自身空恐ろしい気もしたのに、宍戸は嫌がる風もなく、それどころか安寧の吐息を鳳の腕の中で零した。
 宍戸の名を繰り返して呼ぶ鳳に身包み抱き締められたまま、宍戸が笑っている。
「………んな簡単に余裕ない声出すなら、俺より先に来いよな。アホ」
 俺も似たような声だろうけどよ、と。
 宍戸は小さく呟いてくる。
 きつく抱き締めながら、少しだけ距離をあけて、鳳は宍戸の後頭部を抱え込みながら、ひどく窮屈な体勢のまま唇を塞いだ。
 僅かに仰のいただけの宍戸は、きついキスに塞がれて、細い肩を竦ませていた。
 宍戸の両手が鳳の腰に回った。
 強く抱き締めあったまま唇と唇を深く重ねて。
 ふっと、互いの身体が同時に弛緩するのが判った。
 キスがほどける。
 抱き締めあっているのを感じてから、腕もとけた。
 ほっと安堵の呼気を二人で零す。
 漸く視線が合った気がした。
 随分長いこと、見つめる余裕もなく体感だけしていたような気がした。
「宍戸さん」
「……ん」
 少し伸びた宍戸の髪を鳳が指ですくと、宍戸は僅かに上向いて目を閉じる。
 鳳が欲しかった感触が指の合間を通っていった。
 それはあたたかく鳳の感情を埋める、大切なもの。
「真綿…」
「……長太郎?」
「…………真綿で、怪我した所や痛みを感じる所を包むと、身体が自然治癒する為に最も適した温度にその箇所を温めてくれるって話聞いた事あるんですけど」
 ただ無闇にあたためてくるのではなく。
 寒い時、痛い時、自力で治癒が出来る一番良い状態にしてくれる、宍戸のあたたかさはそういうものだ。
 真綿のような。
「……お前みてえじゃん」
 けれど宍戸は宍戸でそんな事を言って。
 ひどく心地良さそうに鳳の指先を受け止めていた。



 軽く、強く、あたたかい。
 そんなものを欲しがって、そんなものに包まれたがって、いったい何が悪いのだと。
 二人は同時に考えている。
 嵐めいた強風と雨と雷との、荒れた天候。
 一月だというのに、まるで台風みたいだと、鳳と宍戸が話をしていた矢先だ。
 全ての電気が一斉に落ちた。
「……停電か?」
「そうみたいですね」
 突然の事にも、屋外の気候を考えれば充分納得が出来て、溜息交じりにそんな言葉をかわしたのだが。
 彼らが今いる鳳の部屋は、停電の中にあっても暖かな光で満ちていた。
「すげえな、これ」
 部屋が暗くなる前は暖房器具としてのみ体感していた石油ストーブは、全ての照明が落ちてしまった今、蕩けそうな色を放ち煌々としていた。
 四つん這いで側まで這いずって行きながらの宍戸の感嘆にやわらかく笑った鳳の表情も甘い色で照らし出される。
「船舶の油用マリンランプがモチーフらしいんで、あたたかいのは勿論、本が読めるくらい明るいって聞いてましたけど……こうなってみると実感出来ますね」
 温もりのある光にどちらからともなく自然と近づいて行って、波型のガラスや真鍮板に乱反射する揺らぎを見つめる。
「お前の部屋さ、エアコンはエアコンでちゃんとあるのに、なんでアナログの石油ストーブ使ってんのかなあって思ってたけどよ」
 これすげえいいな、と宍戸は言った。
 リアクションがないので視線をゴールドフレームから鳳へと向ければ、驚くほど近くに鳳の顔があった。
「………………」
 浅く唇と唇が重なる。
「………長太郎…?」
「なんか……あんまり綺麗で。すみません」
「…………は…?……」
 そんな事を言った鳳の方が、いったいどれだけ。
 思わず出かかった言葉を宍戸は無理矢理飲み込んだ。
 暖色の揺らぎある光は、鳳の色素の薄い髪や目を一層透きとおらせている。
 あまりにも綺麗な、なんてものは。
 どう考えたってこっちだろうと宍戸は呆れた。
「………アホ」
 けれど鳳の長い指は、そっと宍戸の髪をすき上げて。
 瞬く睫毛が触れそうな程近づいて。
 鳳は宍戸を見据えてくる。
「宍戸さんの髪も、目も、真っ黒で」
「………………」
「光ってて、綺麗な星空みたいなんです」
 見せてあげられなくて残念ですが、と鳳が笑んだ。
 宍戸は宍戸で、この状態で、
 鳳の髪や目に、弾けるような明るい光と、虹のような煌めきを見て取った。
「……別に。俺は、お前が見られないもの見てるからいいけどよ」
「………はい…?」
「…なんでもね……」
 重なるだけ、啄ばむだけ、そんなキスを繰り返しながら囁きあう。
 停電と共に同時に現れた暗闇と灯りとに、更に身体の中の何かのスイッチまで落とされたようになってしまう。
 何の話をしていたんだっけかとぼんやり思いながら、宍戸は鳳に組み敷かれていた。
 床にあたる背中を意識するより先、シャツの中に鳳の手が忍んでくる。
 即物的で、でもそれを容易に上回る優しい手のひらだ。
 宍戸は小さく息をつく。
 唇を塞がれ、今度は深く潜ってきた鳳の舌の先を、そっと噛んだ。
 鳳の手のひらが止まってしまったので、嫌がってるとでも思われのかと、宍戸は両腕を持ち上げた。
 鳳の頭を抱きこむようにして自分から深いキスをしかける。
 すぐに互いが均等にむさぼりあうキスになった。
「…………なあ……」
「何ですか…?…」
「やってて俺が暴れたら…力づくで押さえ込むなりしろよ」
「宍戸さん…」
 急に何言い出すんですかと呆れた吐息と共に鳳が呟く。
「そんな無理強いみたいなこと宍戸さんにしません。………その暴れるって、嫌でって事ですか?」
 そのくせ陰影のくっきりとした鳳の顔は、少しばかり困ったような力ない表情を浮かべている。
 宍戸は唇の端を引き上げた。
「馬鹿、そうじゃねえよ」
 そうじゃなくてよ、と呟きながら。
 宍戸は自分の頬に添えられた鳳の手のひらに自ら擦り寄るようにして、手のひらのくぼみに唇を押し当てる。
「火の側で暴れんの危ねえだろ」
「宍戸さん…?」
「お前やたら綺麗で、何かこっちは変になりそうだから、言っただけだ」
 どうなるか判んねえよと宍戸がひっそりと告げると、背中が床から浮く程きつく抱き竦められた。
「……ほんと、宍戸さんは、とんでもないこといきなり言うんだから」
 参った、と呻く鳳はかわいかった。
 宍戸は笑って自分の肩口にある鳳の髪をくしゃくしゃにする。
「お前も、そういう可愛すぎんの、どうかと思うぜ」
「勘弁して下さいって。本当に」
 泣き言めいたそれに宍戸はひそめた笑い声を響かせ続けた。
 それに共鳴するようにゴールドフレームの炎も揺れていて。
 その後は。
 室内の空気は、ひどく甘く、乱れていくばかりだ。
 例え力づくでも、と鳳は言った。
 今から俺の言う事を、絶対に、聞いて貰いますと。
 低く重々しい口調で断言した。
 それを聞いて喜んだのは、鳳の視線の先にいた宍戸の、隣にいた向日だ。
「聞いたか侑士! とうとう忠犬の反逆だぜ!」
「何でてめえがはしゃいでんだよ!」
 宍戸の怒声など全く耳に届いていないかのごとく、向日は忍足の制服の二の腕あたりを激しく引っ張って嬉々としている。
 忍足はといえば、ほんまやなぁ、と至って暢気に応えているばかりで、向日によって腕だけを揺さぶられながら密やかに宍戸を流し見てきた。
 無論宍戸はその視線に気付いてはいたが、不機嫌も露にそっぽを向いて、今まさに足を踏み出そうとしていた正門を突破すべく歩を進める。
「……何邪魔してんだよ」
 宍戸の正面に立ちはだかったのは鳳だ。
 相当きつい宍戸の眼差しにも臆した風もなく、鳳は首を軽く左右に振った。
 その唇には、絶やされる事の無いいつもの笑みは無い。
「俺と行くんですよ。宍戸さん」
「あ? 知るか…!」
「駄目です」
 暖冬らしい今年の冬は、いつまでも厳しく寒くはならないままでいる。
 もう十二月だというのにだ。
 今頃になって漸く散り始めた黄金色の葉の下で、授業が終わって、部活も引退してしまっている三年生の面々が帰途につこうとしているのを、こうして一人の下級生が制している。
 名の知れたテニス部員達の喧騒に、敢えて割って入る生徒の姿はなかった。
 鋭く眼差しを吊り上げて激怒している宍戸と、普段の温和さをどこに置いてきたのか厳しく我を通そうとする鳳と。
 好奇心全開で瞳を煌かす向日と、さして興味もなさそうな顔をしながら立ち去ろうとはしない忍足と。
 氷帝学園の正門前で相対している。
「宍戸さん」
「ああもううるせえよ。手離せ、この馬鹿力!」
「力づくでもって、俺言いましたよね」
「ふざけんな! やれるもんならやってみろよ」
 鳳も宍戸も真剣に怒鳴りあっている。
 さんざん面白がっていた向日が、暫しその状況を眺めた後、ふいに表情を怪訝に歪めた。
 一転小声で、ダブルスのパートナーである忍足を上目に見つめ、口をひらく。
「…何あれ。もしかして…マジ?」
「らしいな。…どないしたん岳人。急にそないな顔して」
「………だってあいつらマジだぜ?」
 せいぜいが軽い小競り合いだろうと向日が思っていた事は、その表情を見れば明確だ。
「えー…何あれ。何なんだよあれ?」
「さあ…?」
 忍足はといえば、最初から判りきっていた事だけに、ゆったりと唇に笑みを浮かべて、向日の肩を利き手で抱きこむ。
「…あ? 何だよ侑士」
「見物」
 あれが氷帝名物のバカップルやで岳人、と忍足は真顔でふざけている。
「てめ、人んことおちょくってんじゃねえッ、忍足!」
 即座に物凄い勢いで宍戸が忍足に噛み付くように怒鳴ったが、宍戸はその両頬を鳳の手に包まれ、顔を向ける方向を変えられる。
 グキッと音でもしそうに無理矢理顔を鳳と向き会うような位置に変えられた宍戸の激昂ぶりは凄まじかった。
「いっ……てえんだよッ! 馬鹿野郎!」
「だから早く行った方がいいって言ったじゃないですか!」
「そっちじゃねえ! 今お前が力任せに…、……ああもうッ、離せッ!」
「縛り付けてでも今日は連れていきます!」
 温和な普段の印象など全てかなぐり捨てて、鳳も宍戸に負けない怒声で張り合っている。
 うるせえ、と眉根を寄せた向日の両耳を忍足がやんわり塞いでやっていた。
「お前の言う事なんか知るか! 俺の事は放っとけッ! 俺に構うなッ!」
 忍足の手のひらでもっても防げなかった宍戸の怒鳴り声を聞き取って、向日は、あーあ、と呟いた。
 言ってもうたなあと忍足も苦笑いする。
「宍戸さん」
「……ほら…忠犬が今度こそマジで怒ったぞ」
「ほんまにアホな飼い主やなあ……」
 ひそひそと向日と忍足が会話を交わす視線の先で、整う面立ちから従来の甘さを根こそぎ剥ぎ取ったきつい表情で鳳が宍戸を呼んでいた。
 普段丁寧な立ち居振る舞いをする鳳とは思えない程、粗野にその両手が動く。
 宍戸の髪を掴み締めるようにしてその後頭部を両手で包み、鳳が宍戸に顔を近づけていく。
 宍戸が俄かにうろたえ出した。
「ちょ、…てめ……長太郎、…っ」
「………………」
「バ…ッ…何する気…、だ…よっ!」
「キスを」
「馬鹿野郎っ……ちょっと、おい、……マジかよ…っ」
「………………」
 大きく首を傾けて。
 あろうことか学校の正門前で暴挙に出ようとしている鳳は、宍戸の腕の力ではびくともしないらしかった。
 躍起になって鳳と格闘していた宍戸が、切羽詰った声で忍足と向日の名を叫んだ。
「お前ら黙って見てねえでこいつどうにかしろよ…ッ!」
「はあ? 何で」
「せやな。宍戸が悪いで、どう考えてもな。恋人きれさすようなこと平気で言うからや」
「そうそう。侑士の言う通りだぜ」
「……っざけんなっ!」
 したり顔の忍足と向日を怒鳴りとばしながら、宍戸は鳳の肩を両腕を突っ張らせて懸命に押しやっている。
 宍戸が全力を出しているのは傍目にも明らかだったが、鳳は揺らぎもしていなかった。
「止せって…! このアホッ」
「力づくというのは止めました」
「全然止めてねえだろうが! これが力づくじゃなくて何が力づく、」
「最初からこうすればよかったですね…」
「長太郎っ!」
 唇と唇の近すぎる距離。
 止めてやる?と上目の目線だけで忍足を伺った向日に対し、忍足は全く返答になっていない笑みを返すだけだった。
 視線は向日に向けたまま、忍足は低い声でひとりごちる。
「鳳に虫歯移して、二人で歯医者通ったらええやん。宍戸。一人で行くのがそんなに嫌ならそれはいっそ得策やで」
 ええこと思いついたなぁと忍足は笑って続けた。
 後の言葉は鳳に告げたものだ。
 恐れ入りますと鳳が応えていた。
 今にも宍戸の唇にかぶりつきそうな角度で。
「長太郎、止せっての…! いや、もう、頼むから止めろっ! 止めて下さい!」
「知りません。宍戸さんなんか。歯医者が本当に苦手だって言うから、それなら治療中は側についてますって言ってるのに、それでも行かないって言うんだから」
「それが嫌だっつってんだよッ! ありえねえだろっそれ!」
 立会い出産じゃあるまいしと錯乱した宍戸が喚いている。
「………あいつら…つまりなにか。そういう事なのか」
 向日の声音が一気に低くなった。
 凄む向日の呟きに、忍足が逐一頷いている。
 くわっと牙を剥く勢いで向日が声を荒げた。
「歯医者に行く行かないであれか! 虫歯がどうこうであの騒ぎか!」
「まあまあ岳人。無類の歯医者嫌いの宍戸の為に、治療中は側について手でも握って、一生懸命励ましたろうって思ってた忠犬が、きれてもうて、ああなってん」
 気の毒な話やんと忍足は向日を見つめて言った。
「しかも一人じゃ怖いくせして異様に恥ずかしがり屋の奥さんは、旦那の立会い拒んだあげくに共同出産ってな」
 そこまで忍足は至極平静な真顔で言って。
 そして沈黙の後。
 とうとう耐えかねたらしく、忍足は深く深く俯いてその肩を震わせ出した。
「………………」
 向日は。
 自分の両肩に手を置いて声にならない声で激しく笑う相方を小さな身体でしっかりと受けとめながら。
 騒動の根源の二人を心底から呆れ返って、睨みつけた。
 ひとしきり騒ぎが続いた後に。
「さっさと歯医者に行ってきやがれこのバカップルがッ!」
 勇ましく、雄々しく、鳳と宍戸を足蹴にして。
 正門から校外へと蹴りだした向日によって漸く、状況は沈静化されたのであった。
 寝そべったベッドの上で、じっと見つめてくる視線の熱の高さ。
 嫌だと思った事は無いが、時にはその刺激が強すぎる事もある。
 こんなぐちゃぐちゃな顔見てんじゃねえよと毒づきたい言葉ももはや出てこない。
「………………」
 むずがるように宍戸が毛布の中に顔を半分までもぐりこませる。
 鳳はそれを甘ったれて嫌がるかのごとく阻止してきた。
「…苦しいですよ? もぐったら」
「………………」
 うう、と声にならない声で唸った宍戸に鳳の笑みは深くなる。
 汗や涙で濡れている宍戸の頬を、大きな手のひらで撫でつけながら、鳳は囁いてくる。
「眠いですか?」
 首を左右に振るだけの所作で宍戸は応えた。
 その間も鳳の手のひらはゆったりと宍戸の肌の上を撫でている。
「痛いとこない?」
「……ねえよ。あんだけ馬鹿っ丁寧に抱いてて言うな」
「馬鹿はひどい」
 笑いながら鳳が宍戸の唇にキスを落としてきた。
 余裕のない顔は隠さず見せるのに、ガツガツしたところのない年下の恋人の舌を宍戸は軽く噛んでやった。
「やりたいようにやれって俺は言ってんのによ…」
「してるじゃないですか。そうやって宍戸さんが許してくれるから、俺は宍戸さんに触れたいところ全部に触れてるし」
 実際それは本当の話。
 鳳は宍戸に、相当際どい事もするし、触れてもくる。
 それは宍戸も判っているのだけれど、例えばこんな風に終わった直後の状態の差などを目の当たりにしてしまうと、いっぱいいっぱいなのは自分の方ばかりのような気がしてしまうのだ。
「なんか露骨に手加減されてる気がすんだよなぁ…」
「そんな馬鹿な」
「お前な。馬鹿とか言ってんじゃねえよ」
「宍戸さんだってさっき言ったじゃないですか」
 どうでもいいような口調に紛れさせて、多分に本音を織り交ぜて言葉を放る。
 誠実で生真面目な後輩は心底呆れ返ったような返事を寄こしてきたのが宍戸を内心で安堵させる。
「背中冷えてきましたね。シャワー浴びにいきますか?」
 背筋をさらりと鳳の手のひらに撫で下ろされて、宍戸は言った。
「んー…じゃ、もう一回」
「宍戸さん?」
「起き上がってシャワー行くの面倒」
 だからもう一回する、と宍戸は鳳の身体の上に乗り上がった。
 鳳が本気で驚いているのがおかしくて、宍戸は笑った。
「なんて顔してんの。お前」
「え…そりゃ、だって…宍戸さん」
「しどろもどろじゃん」
 喉の奥で響かせるように笑って、宍戸は鳳の額に唇を落とした。
 こめかみと、頬にも口付けを滑らせると、ぐっと腰を抱かれた。
「…馬鹿ですね。宍戸さんは」
「長太郎。てめえまた馬鹿っつったな」
 本当にもう、と嘆息する鳳の喉元に噛み付くように宍戸は痕をつけてやる。
 後ろ髪がやわらかく鷲掴みにされて、顔を引き上げさせられた。
 腰を抱き込まれる力と同じ強さで後頭部も抱え込まれて、唇が深い角度で噛み合う。
 強いキスに頭の中がぐらぐらした。
 眩暈じみた感覚に囚われながら、息の止まる限界までむさぼられたキスが解ける。
 すでに潤み出していた宍戸の視界で、鳳が目を細めていた。
 艶めくように熱が上がる。
「綺麗な色」
「………、……」
 宍戸の身体の下で、じっと宍戸を見上げてくる視線の熱の高さ、言葉に交ざる呼気の熱の高さ。
 そう囁かれ、次いで鳳の舌で直接舐め上げられた宍戸の唇が、発火するかのように綻んだ。
「…長太郎」
 そうして綻んだ唇から漏れたものは、宍戸の一番大切なものの名前だ。
 鳳の家のバスタオルのサイズはどれもかなり大きい。
 それは例えば鳳の背の高さにあわせたものかと宍戸は最初思ったのだが、どうやら鳳家のバスタオルは全て同じメーカーのもので統一されているようだった。
 それもとびきり高級であろう代物だ。
 ただサイズが大きいだけでなく、毛布並みのあまりにも贅沢な手触りは、分厚く柔らかく心地良かった。
 バスタオル専用のクローゼットに整然としまわれている様子を目にしてしまえば尚更だ。
 今日も宍戸がバスルームから出るといつものバスタオルが用意してあった。
 最近すでに馴染みつつある、でもいつでもしみじみと気持ちのいいそれに宍戸は包まるようにして、バスルームとほぼ直結している鳳の部屋に向かった。
 どういう家の造りだと宍戸は思うが、鳳に言わせると二階のバスルームはゲスト用だから狭いでしょう?と至って控えめな事を言う。
 確かに広くはないが、別に狭くもない。
 殆ど鳳の専用になっているらしい。
「………………」
 宍戸はバスタオルに包まったまま鳳の部屋に行き、そこに部屋の主がいないので、多分下で飲み物を用意しているのだろうとあたりをつけた。
 甲斐甲斐しい事この上ないのだ。
 宍戸はそのままベランダに出た。
 一人掛けの大振なラタンのチェアに座り、足も座面に引き上げて丸まって寄りかかる。
 湯上りに外気がちょうどよかった。
 十一月になったというのに、日中は毎日二十度を越えてやけに暖かい。
 日も暮れればさすがに気温は下がるけれど、今の宍戸には少し涼しい風が丁度良かった。
「宍戸さん…!」
「…おう」
 しかし鳳は、血相変えてベランダに現れた。
 多分そういうリアクションをとってくるだろうと宍戸は思っていたので、図らずともその唇には苦笑いが浮かんでしまう。
 案の定鳳は宍戸を叱り付けてきた。
「なんて恰好でこんな所にいるんですか!」
「お前んちのバスタオルに包まってたら別に平気だろ」
 実際顔だけしか出ていないくらい、宍戸が身体にしっかりと巻きつけたバスタオルは、寧ろまだ余裕がある程だ。
 バスローブの上から更にガウンを羽織っているくらいの感触なのだ。
「駄目ですよ! 風邪ひいたらどうするんですか」
 鳳がラタンのチェアの脇に立って、手を伸ばしてくる。
 長い指が宍戸の髪に差し込まれてくる。
「髪まだ濡れてるじゃないですか」
「じゃあお前がかわかして」
「あのねえ、宍戸さん」
「………………」
 もう、と深い溜息をつきながら。
 宍戸が黙って動かないでいると結局鳳は折れて、部屋に行き、そうしてすぐにベランダに戻ってきた。
 手にはドライヤーを持っている。
 屋外用の電源がベランダにはちゃんととられていて、鳳はそこにコンセントを差し込むと宍戸の背後に立った。
 宍戸の髪に温風をあてながら、手ぐしで丁寧に髪をかわかしてくる。
 今は宍戸の髪は短いから、昔のようにドライヤーを使わなくてもすぐにかわくのだが、鳳の手が気持ちいいので時々こういう事をさせている。
 鳳に言わせればさせて貰っているという事らしいが。
「もうこれ片した方がいいですかねえ…」
「何でだよ」
 ドライヤーの音に飛ばないように、声を少し大きくして会話を交わす。
 目線は合わないけれど、宍戸には鳳の表情がリアルに想像出来た。
 さぞや真面目に困ったようにひとりごちているのだろう。
「宍戸さんが、ここ気に入ってくれてるのは嬉しいですけど、冬になってもこんな事されたらと思うと気が気じゃないです」
「いくら俺でも冬の寒い中やんねーよ」
 すっぽりと身体を受け止めるようなラタンのチェアに寄りかかって、シャワーの後にここで冷たい飲み物をよく飲んだ夏はもう過ぎてしまった季節だ。
 外部から見られないように作られているらしい鳳の部屋のベランダが、確かに宍戸は気に入っている。
 今みたいに鳳の手に髪をすかれながらドライヤーでかわかされている状態が、どれだけ贅沢なのかも判っている。
「はい。できました」
 ドライヤーのスイッチが切られる。
 急に場が静かになる。
「涼しくなってきた」
「入りましょう。中に」
 鳳の促しに、宍戸は今度はおとなしく従った。
 チェアから足を下ろして、バスタオルに包まったまま鳳の後ろを歩く。
「なあ、長太郎」
「はい?」
「お前この後、俺抱くか」
「抱きたいよ」
 先を歩いている鳳が、まるで見えてでもいるかのように後ろ手で宍戸の指先を手繰り寄せる。
 指と指が浅く絡む。
「……ストレートだなぁ。お前」
「宍戸さんにそれ言われても」
 鳳は笑っていた。
 部屋に入るなり、締めたガラス戸に宍戸は背を押し当てられる。
 まだあたたかい髪に鳳は唇を埋めてきて、気分じゃない?と問いかけてきた。
 宍戸は不服も露に呟いた。
「……こっちの台詞だっての」
「どうしてですか」
「お前、全然普通のツラしてただろ」
「全然普通って事は全然ないです」
 真顔の鳳が断言した物言いを、判りづれぇ、と宍戸は眉を寄せて返す。
 鳳がひどく丁寧にそれを否定してきた。
「俺は判りやすいですよ。宍戸さん。こんなに」
「………………」
 長い両腕が、バスタオルごと宍戸を身包み抱きすくめてくる。
「………………」
 厚手のタオル地越しであっても、鳳の体温は滲むように温かかった。
 無意識に宍戸の方からも身体を預けていて、鳳の腕の力が煽られたように更に強くなった。
 宍戸の項に鳳は頬を寄せて、低い声で囁いてくる。
「やっぱり冷えてる」
「………………」
「早く何か着ましょう。宍戸さん」
「いらね…」
「いらないことないでしょう。これに包まったまま眠る気ですか」
 バスタオルの上から背中を数回軽く叩かれる。
 何かあったかい飲み物持って来るからその間に着替えて、と宍戸は鳳に耳打ちされた。
 鳳の肩の向こう、机の上にミネラルウォーターのボトルが見えている。
 おそらく冷えたものを鳳は持ってきたのだろう。
 今度は温かい飲み物を持ってくるという。
 その間にパジャマを着ろという。
 そんな鳳に、宍戸は不満たっぷりに溜息を吐き出した。
「どうしてそう着せたがるかな。服」
「…はい?」
「やっぱ抱かねえんだろ」
 結局そういうことだろと宍戸が告げると、それこそ宍戸が溜息に込めた不満を遥かに上回る嘆息が鳳から返された。
「何言ってるんですかねえ…この人はもう…」
「………生意気言うな。アホ」
「宍戸さんの身体見てると自分でもどうしようもなくなるから、無闇に煽らないでって俺はお願いしてるのに」
 だいたい無闇矢鱈に飛び掛られたら嫌でしょうと鳳が重々しく呟いてくる。
「何で。やれよ」
「…………そんなに信頼…というか、安心されてるとすごい複雑なんですけど」
「信頼はしてるけど、安心なんかしてねえよ」
 鳳は時々、こんな風に自身の激情を危惧する言葉を口にする。
 確かに時折、こと宍戸絡みで、それは表面化するものでもあるのだけれど。
 宍戸は両腕を持ち上げて、広い背中を抱き返した。
「……俺は、お前の好きにされんのが好きなんだよ」
 ぐっと、背筋が反るほど抱き竦められる。
 宍戸が囁いたのと同時にだ。
「長太郎」
「…………降参」
 呻くような声音に宍戸は小さく笑った。
「粘ったなぁ…お前」
「何言ってるんですか。ちょろすぎるって、また向日先輩達でももしここにいたら絶対言われてますよ」
「手こずらせんじゃねえよ」
 宍戸は身体を包んでいたバスタオルを肩から落とした。
 笑った形のままの唇を、すぐに鳳に塞がれる。
「……、……ン……」
 湯上りに極上の大判タオルで身体を包む心地良さを更にもっと上回ってくる感触で。
 全身を、直接、抱きこまれた。
 足元に完全に落ちたバスタオルは、宍戸の身体の湯を吸い取ったけれど。
 今宍戸の肢体を包むものは、逆に宍戸の肌を温かく濡らし出す。
 舌を奪われながら素肌を熱い手にまさぐられ、そんなイメージを体感しながら。
 宍戸は鳳の腕の中でゆるく濡れていった。
 甘えきった無防備さで鳳は熟睡している。
 宍戸の肩口に寄りかかって寝入ってしまっている。
「………………」
 宍戸が流し見る視線の先で、色素の薄い鳳の髪はやわらかな曲線で閉ざした目元にかかっていた。
 癖のない体温の甘い香りがする。
「………………」
 宍戸は徐々に薄暗がりになっていく静寂に満ちた部室で、鳳の寝顔をそっと眺め下ろしていた。
 部活も終わって、部室にいるのは宍戸と鳳の二人きりだ。
 宍戸の手元には部室の鍵がある。
 宍戸がレギュラー落ちしてからずっと、様々な事が目まぐるしかったこれまで。
 レギュラー復帰が叶って漸く不安定な心情が落ち着きを取り戻してきたここ最近。
 今日も、一番最後まで二人で居残りをしていたとはいえ、ふっつりと緊張の糸が途切れたかのように、ちょっとした時間の隙に鳳がこんな状況になるほど疲れているのだとしたら。
 これまで、ここ最近。
 鳳を疲れさせたのは自分だろうと宍戸は思っている。
 宍戸のレギュラー復帰を当然の事のように受け止めた鳳だったが、そんな彼にどれだけの気苦労をかけさせたのかは、宍戸が誰よりも一番よく判っている。
 無茶な特訓をせがんだ宍戸に鳳が随分と胸を痛めていた事も判っている。
 鳳は宍戸のレギュラー復帰を欠片も疑ってはいなかったが、そうなった今になって、誰よりも安堵しているのもまた彼に違いなかった。
 ラケットを持たない宍戸にスカッドサーブを打ち込み続けている時の鳳の表情を宍戸は思い出し、今更ながらにどれだけ鳳に心痛を与えてしまったかを知る。
 今宍戸の肩口で眠る鳳の穏やかな寝顔で余計にそれを知る。
「おい。まだ誰かいんのかよ」
 突然に快活な声がした。
 宍戸は眉根を寄せて部室の扉を見やる。
「………………」
 ひょい、と扉から姿を現したのは向日だった。
 宍戸が眼差しを強く向けると察しの良い向日はぴたりと口を閉じたが、すぐにあからさまに面白がって寄って来た。
「珍しいじゃん。鳳」
 うわー熟睡、と鳳を覗きこむ向日を宍戸は一睨みで牽制する。
 向日はすぐさま不服を露にしてきた。
「何だよ。起こしてないだろ。睨むんじゃねえよ」
「うるせえ。…こいつを見るな」
「………う…っわー…どういう独占欲だよ。お前」
 信じらんねえと向日は顔を歪め、そして笑う。
 宍戸は舌打ちで返した。
 独占欲だろうが何だろうが構わない。
 実際本音で見せたくない。
「岳人ー。何してるん?」
「………………」
 今度は低音の西のイントネーションだ。
 また増えたと言わんばかりにうんざりと溜息をついた宍戸に、次いで現れた忍足もまた、向日と同様にいかにも興味深そうに室内へ入ってきた。
「ん? わんこはお昼寝中か?」
 唇の端を引き上げてやんわりと笑みを浮かべる忍足が、鳳の顔を覗きこんでくる。
 このダブルスはやることなすこと全部一緒かと宍戸が嘆息した隙を攫って、忍足が宍戸の手から部室の鍵を取り上げた。
「おい、……」
「俺達が鍵閉めて出て行ったるよ。そしたらお前ら密室に二人きりやで」
「ふざけたこと言ってねえでその鍵返せ」
「何や。堅実やな、宍戸は」
 俺なら絶対そうするのにと忍足は向日の肩を抱き寄せた。
 向日は、何だよ侑士と言いながらも、それには抗わない。
 部室のソファに座る宍戸と鳳、二人の前に立つ忍足と向日で向き合う羽目になった。
「…だいたい何でお前ら戻ってきやがったんだよ」
「部室の鍵がまだ戻ってない言うて跡部が岳人にお使いを頼んで、俺はそのつきそいやな」
「とっと帰れ」
 宍戸の呻くような声に、忍足はあっさり頷いた。
「せやな。帰ろか、岳人」
 鍵は再び宍戸の手に戻ってきた。
 この気まぐれめと宍戸は忍足を見やって唸る。
 忍足はといえば向日をじっと見つめ、向日もまた同様に。
「ああ。帰るけど」
「けど?」
「手はつなぐな」
「何でやねん」
「俺は人前でベタベタすんの好きじゃねえんだよ! こいつらとは違うんだっての!」
 あからさまにこいつらと向日に顎で示された宍戸は憮然とした。
 ベタベタ。
 そんなものどっちがだと思っていれば案の定。
「人目がなかったら、ちゃあんとベタベタさせてくれるからええけどなー」
「そういう事を口に出して言うな!」
「嫌やー」
「嫌とか言うな! 嫌とか!」
 向日はガミガミと忍足を叱りつけている割には、指を絡めている恋人繋ぎの手はそのままだ。
 忍足もまた普段聞いた事もないような甘ったれた声を出してはひとしきり向日を構い倒している。
 結局彼らはしまいには、宍戸や鳳の存在など無いもの同然の扱いで。
 揃って部室を出て行った。
 そして再び訪れた静寂。
 出て行ったのは嵐そのものだ。
 いったい何なんだあいつらはと宍戸は深い溜息を吐き出すしかなかった。
 そして宍戸は自分の肩口をそっと見下ろし、呟いた。
「長太郎。……起きてんだろ」
「………ええ。さすがに」
 囁くような声だったが、寝起きのそれとは少し違う。
 宍戸に答えてから、鳳の睫毛が動き、その目がゆっくり見開かれていく。
 まだ宍戸の肩に凭れたまま、鳳は視線だけ宍戸へ向けてきた。
 目線を合わせてから少し笑みを浮かべて、頭を起こし、身体を離して行こうとする鳳に。
 宍戸はゆっくり顔を近づけた。
 その唇にキスを重ねる。
「………………」
「…悪かったな。寝かせてやれなくて」
 唇と唇が離れる合間で吐息程度に囁く。
 鳳はひどく大切そうに宍戸からのキスを受けとめてから笑った。
「………眠るより元気出ましたよ…」
「………………」
「うれしいこと聞けましたし」
 今度は鳳の方からキスをしてきた。
 二度、三度、と双方からしかけて繰り返すキスの合間に言葉を交わす。
「……何か言ったっけか?」
「見るなって」
「ああ…言ったけど。…それが嬉しいもんか?」
「はい。すごく、ね…」
 鳳からの最後のキスは宍戸の頬にだった。
 宍戸は鳳の目尻にし返してから立ち上がる。
「変な奴だな……ま、いいけど。帰ろうぜ。長太郎」
「はい。…すみませんでした。宍戸さん」
「何が?」
「起こしてくれて良かったのに」
 申し訳なさそうに言う鳳の、それでいて和んで柔らかな表情に宍戸も眼差しを緩めた。
「起こしたくなかったんだよ。お前寝てる時、妙にかわいいから」
「………宍戸さん。それこそ変です」
 生真面目に眉間を歪め控えめながらもきっぱりと否定してきた鳳を宍戸は笑ってあしらったが、多分に本気だ。
 自分の肩口で眠っていた鳳の感触が、まだ皮膚に残っている。
 宍戸は鳳と他愛ない言葉を交わしながら。
 右手で。
 甘い余韻の残る自身の左肩を、そっと撫でた。
 

 鳳が宍戸の肩に凭れかけていた方、右側の髪を。
 それと同時にかきあげていたのは、恋の同調に他ならない。
 宍戸の後輩は、筆記具に拘りがあるらしい。
「拘りというか……なんか落ち着かないんですよ。違う感触で字を書くのが」
「そういうもんか?」
 宍戸にはそういうことはよく判らない。
 やんわりと微笑んでいる鳳はといえば、筆記具に限らず、ノートやファイルなどもいつも同じ物を使っている。
「気に入るまでは、いろいろ試すんですよ。それでこれだって思えるものを見つけたら、もうそれ以外使いたくないんです」
 待ち合わせて帰っている放課後。
 文房具店に付き合ってほしいと鳳に言われ、宍戸は今鳳と共に近隣の店にいた。
「すみません。すぐ会計してきますんで」
「別に急がなくていい。俺あの辺見てるな」
 何せ買う物が決まっているので、すでに鳳は必要なものを手にしているのだが、レジがやたらと混んでいた。
 宍戸は文具店の一角にある自然観察のエリアを指差して、そこに足を向けた。
 夏休みの自由研究のコーナーの名残らしく、NASAが開発した蟻の飼育観察セットやら星の王子様に出てくるバオバブの木の栽培キットやらがおいてある。
 先月はまだ夏休み中だったという事が信じがたいほど、季節にはもう、夏の名残が殆ど見受けられなかった。
 そういえば鳳も、今日は半袖の制服の上に薄手のニットを着込んでいた。
 もう時期に制服も冬服だ。
「………………」
 別段秋を自覚して、もの寂しいような気持ちになるタイプではない。
 宍戸は自身をそう思っているものの、でも実際。
 今、ちょっと鬱々とした気分になった。
 季節のせいではなく、原因はよそで明確だ。
 宍戸がそうやってぼんやり考え込んでいると、お待たせしましたと鳳が横に並んだ。
「…おう」
 筆記具だけの割には大きな紙袋を鳳は持っていた。
 何か他のものも買ったのかもしれない。
 宍戸は溜息が溜息にならないように飲み込んで店を出た。
 鳳も宍戸の隣を歩いている。
 夕方近くになってもよく晴れている。
 皮膚を撫でられるような風が明らかに秋めいていた。
「なあ、お前さ」
「はい?」
 宍戸は呟くように言った。
 歩きながら、足元に視線を落とし、それから高い空を見上げて。
「さっきのよ、…」
「さっきの?」
「お前が言ってたのは、文房具っていうか……身の回りの用品って事だよな?」
「…何がですか?」
 何のことかと思案しつつ顔を覗き込んでくる鳳に、宍戸は弱冠決まりが悪い。
 らしくもない歯切れの悪さだと宍戸も自覚はしているのだ。
 頭上を見上げた視線を、仰のいたまま距離の近くなった鳳に合わせる。
「だから…!」
「…はい?」
 宍戸がいくら荒っぽく吐き捨てるようにしても、鳳は生真面目に宍戸も見つめてくるばかりだ。
 そんな風に生真面目にされると今更ごますわけにもいかなくなる。
「お前、言ったろうが。…気に入るまでいろいろ試すって」
「はい。さっきの話ですよね。確かに言いましたけど…それが何か…」
 ああもうどうしてこんなこと言っているんだと、宍戸は口にする側から、片っ端から、後悔している。
 それなのに出てきてしまう言葉は止まらずに。
「……俺もじゃねえよな」
「…え?」
「………っ…、…っから…、お前、自分が気に入るかどうか、試してみてる最中とかじゃねえよなっって…、…!」
 それこそもうすぐさま。
 宍戸の言葉の語尾に被さって、バサバサッと音をたて、鳳が手にしていた買物袋が落ちた。
 はあ?とそれこそ鳳らしからぬ声がしてた。
 宍戸はぎょっと斜を見やる。
 なんだ、どうしたんだ、と宍戸は慌てた。
 しかしあまりにも真剣に唖然としているらしい鳳は、復活の後、宍戸の比ではなく慌てていた。
「ちょ…、……なに言ってるんですか、宍戸さん……!」
「うわ、…っ……ばか、…っ、おまえ、それ止めろ…っ」
 両肩を鳳の手のひらに握りこまれ、揺さぶられ、泣きつかれた。
 ガシッと抱き締められ、叫ばれた。
 宍戸絡みの事で本気で混乱したり狼狽したりする時の鳳は、宍戸にも制御不能なのだ。
「宍戸さん!」
 耳元で名前を叫ばれ恨み言を叫ばれ、宍戸は、往来なんだぞここは!と鳳に意見しようにも到底出来ない状況に陥った。
 思いっきり抱き締められて揺すられる。
「そんな訳ないです。ありえないです」
「わ、…っかった、わかったから…っ」
 わかったから放せっという宍戸の叫びは、鳳の胸元にぶつかって消音した。
「どうして文房具なんかと宍戸さんが同じになるんですか」
「なんねーよ、なんねーけどっ」
 抱き締められてしまえば最高に心地良い鳳の腕の中で、くそうと宍戸は呻いた。
「ちょっと、何か、引っかかっちまったんだよ…っ。悪いか…っ」
「それって俺の宍戸さんへの愛情の伝え方が、全然足りてないって事ですよね」
「ば、…ッ……」
 足りてるっ!充分だっ!と宍戸が言う側から、抱き締める腕の力は半端なく強くなり、好きだと繰り返し告げられた。
 だからここは、往来。
 往来なんだって、と。
 宍戸は溜息も出ない気持ちになる。
 同時に、鬱々とした気分は全て吹っ飛んだのだけれど。
「……長太郎ー…」
 自分より一回りも二回りも長身で、近頃頓に大人びた顔をするようにもなった後輩の、甘ったれた恨み言と甘ったるい睦言をいっしょくたに向けられて宍戸はどんどんだめになる。
「わるかったよ。……おい…って……長太郎」
 どうにか腕を伸ばして、鳳の広い背を軽く叩く。
「俺だってキャラじゃねえこと言ってる自覚あんだよ。勘弁してくれ」
 安堵と一緒に宍戸に襲い掛かってきたのは、羞恥心なので。
 俺も何だかなあと宍戸は呻き、足元に落ちたままの紙袋を視界の端に入れて、鳳の背を再度叩いた。
「おい、落ちてる……」
「……あ…」
 そんな促しに効力があるかどうか不明だったのだが、鳳が小さく声を上げて身体を離してきた。
「宍戸さんに渡すのなのにすみません」
「は?」
 屈んで紙袋を拾い上げた鳳を宍戸は怪訝に見守った。
「俺?……それお前のだろ」
「宍戸さんの誕生日の前にね。これ」
「………………」
 スリムタイプの薄い手帳を渡される。
 自分にという言葉にもだし、誕生日の前にという言葉にも、宍戸は眉根を寄せたまま、差し出された手帖を受け取った。
 深い赤、臙脂に近い表紙のそれは、薄さからして中身はカレンダーのページだけのようだった。
「長太郎?」
「俺との予定にだけ使ってくれる?」
「………………」
 優しい笑みで鳳は宍戸に囁いた。
「………………」
「俺との約束だけ書いて」
 そして鳳は紙袋からボールペンを取り出す。
 同じものが二本。
 一本は自分の鞄に入れ、もう一本は宍戸に手渡してきた。
 これが好きだと言って、鳳がいつも使っているボールペン。
 宍戸はそれもまた受け取った。
「それで、まず今月の二十九日の所に書いてもらえると嬉しいです」
「………………」
 九月二十九日。
 宍戸の誕生日だ。
「次の日土曜日だから、泊まりって事で翌日にも記入があると更に幸せなんですが」
「ば…、……」
 どうでしょうかと小さく問いかけてくる鳳に、いったいさっきまでのお前は何なんだと宍戸は言ってやりたくなった。
 宍戸の一言で錯乱して混乱して派手にやらかしてくれた鳳も、今宍戸の目の前で気恥ずかしいまでの甘い笑みと声と提案を寄こしてきている鳳も、どちらも同じ男なのだ。
 そしてそのどちらも同じくらい、宍戸は欲しい。
「………………」
 観念してやるよと内心で呟きながら、宍戸は手帳のOPP袋を雑に破いた。
 手帳を取り出し、ボールペンのキャップを口に銜えて外し、顎で鳳に背を向けるように促した。
 それはもう幸せを笑顔にしたらこれだろうというような笑みを見せた後に背を向けた鳳の背中に、宍戸は手帳の九月のページを開く。
 九月始まりの手帳だった。
 まずは即座に二十九日と三十日に、丸をつける。
 それからもうこれは勢いで。
 今日の日付けに好きだバカと書きなぐる。
 手帳を閉じると鳳が振り返ってきた。
「……ぜってー中は見せねえからな」
「はい」
 鳳は丁寧に微笑み、頷いた。
 それから肩を並べてまた歩き出す。
 宍戸は手帳とボールペンを鞄にしまいこんだ。
「誕生日、何か食べたいものとかありますか」
「そういうのはしないでいいっての」
「上海蟹とか、どうでしょう。姿蒸し。あと蟹味噌の茶碗蒸しとか。前に宍戸さん、うちで美味しいって言ってくれたから、蟹取り寄せて……」
「お前取り寄せってまさか…」
「はい。陽澄湖からですが」
「気軽に言うな…っ」
 このブルジョワめと宍戸は唸ったが、鳳は依然柔らかく笑んでいた。
 秋風が吹く。
 空は抜けるように高く、遠くまで薄く青い。
 宍戸が鳳に手渡された九月始まりの手帳が、一年後、どう書き込まれて最終頁を迎えるのか、それはまた来年の宍戸の誕生日あたりで判る事だ。
 花火が部屋で見つかった。
「……使用期限とかあんのかこれ」
 ひとりごちた宍戸は風呂上りだった。
 濡れ髪をタオルで大雑把に拭きながら、花火に水滴が飛ばないように暫く離れて見据えた後、宍戸は急いでジーンズに足を通し、シャツを着る。
 花火は長袖のシャツを探そうとして開けたクローゼットで見つけた。
 入れたままになっていたデイバッグの口が開いていて、そこから花火が見えていたのだ。
 宍戸は携帯電話をジーンズの後ろポケットに突っ込み、花火ごとデイバッグを肩に担ぐ。
 家を出ると外はすでにほの暗かった。
 最近暗くなるのが早くなった。
 風も随分と涼しい。
 シャワーを浴びた後、長袖の上着を探してしまうくらいに涼しくなった。
 宍戸はそんな事を考えながら、少し前に別れたばかりの、一緒に自主トレをしていた相手に電話をかけた。
「宍戸さん?」
 コール音してねえだろと宍戸が内心で呆れて思う程に早く鳳は電話に出た。
 でも鳳は、優しいゆったりとした声で宍戸の名を呼んだ。
 気持ちの良い声だ。
「おう。あのよ、さっき別れたばっかで何だけど」
「はい。なにかありましたか…?」
「花火つきあえ」
「花火?」
「そう。お前ん家の近くの公園な」
 じゃあなと言って宍戸は携帯をきり、本格的に走り出した。
 夏の残りの花火は、先月テニス部の面々と馬鹿騒ぎをした時のものだ。
 まだあれから一月も経っていない。
 そう思う事が驚きである程に、今の季節はすっかり秋めいてしまっている。
 あんなに暑かったのに、こんなに風は変わってしまっている。
 満月まであと少しの形をした月は、冴え冴えと涼しさを湛えて夜空に浮かんでいた。
 夏はいつの間にか終わっていた。



 宍戸が辿りついた公園にはすでに鳳の姿があった。
 やっぱりなと宍戸は思った。
 あらかじめの待ち合わせであっても突然の呼び出しであっても大抵鳳は先に到着している。
「宍戸さんー…」
 やけに情けない声を出した鳳は、手にタオルを持っていた。
「ひょっとしてと思ったんです。まだ髪濡れてるじゃないですか。帰ってすぐシャワー浴びたんでしょう? ちゃんとかわかさないと、そろそろヤバイですよ。風邪ひきます」
「…お前エスパーかよ」
 当然のようにそのタオルで宍戸の髪を拭き出した鳳を宍戸は上目に見やって、近頃また差の開き始めた身長差に眉根を寄せる。
「……ったく。しかもよ、何食ったらそう背が伸びんだよ。長太郎」
 さっきよりでかいんじゃねえのと睨みつけると、そんな馬鹿なと鳳が笑った。
「いくらなんでも一時間かそこらで伸びやしませんよ」
 甘い笑顔は温かい。
 鳳は季節を問わずにいつも穏やかに凪いでいる。
 優しく丁寧な手に髪を拭われ、花火するんですか?と耳元で囁かれた声も、宍戸の頭の中をとろりと溶かすようだった。
 鳳は宍戸のデイバッグを見ただけで、それがいつの花火の残りなのか思い出したようだった。
「ああ、不思議ですね。まだあの時からそんなに時間経ってないのに、何だか懐かしい気がする」
「最近やけに涼しいしな」
 話しながら宍戸がポケットから兄のライターを取り出すのを見て、鳳がまた少し笑った。
 マーベラスは宍戸の兄の愛用品で、先月の花火の際に拝借したことで家で小競り合いになったと宍戸が言った事を覚えていたのだろう。
「また持ってきちゃってお兄さん怒ってないですか?」
「別にいいんじゃねえの? 結局この間も喧嘩した後に、気に入ったんならやるって言われたし」
「コレクションだったんですよね?」
「タイプがいろいろあるらしいぜ。マーベラス。デザインもだけど着火方法も違うらしくて、兄貴は一通り持ってんだよ。まあ俺には使い道ねえから貰わなかったけど」
 今日は花火用で借りてきただけだと宍戸が言えば、鳳は真顔でしみじみ呟いてくる。
「宍戸さんのお兄さん、本当に宍戸さんのこと可愛がってるんだなあ…」
「……そういう事マジなツラで言うなっつーの」
 カチャンとパーツを跳ね上げさせ、花火の先端に火を灯す。
 ライターのオイルの微かな匂いは、すぐに弾けだした花火の火薬の匂いに紛れて消えた。
 迸る火花は眩しかった。
 宍戸は火をつけた手持ち花火を鳳に手渡した。
 続けざま自分のものにも火をつける。
 小さな火が爆ぜて、光り、暗がりの公園に華やかな色を射し始めた。
「ああ…やっぱり綺麗ですね」
「………………」
 横に並んで、手にした花火の先を見下ろす鳳の顔を宍戸は見ていた。
 火の花に照らされる端整な顔立ちは、雰囲気の甘さに見合って優しいが、少しずつ鋭利に、清廉と、すごみを増してもいる。
 伏せた目元の睫毛の影、強靭な流線を描き出した広い肩幅や喉元は、鳳の変わっていく外観を人に目の当たりにさせるものだが、鳳の持つ柔らかな雰囲気は決して削がれたりはしなかった。
 夏休みを経て更に鳳が恐ろしく人目を集めるようになっているのを、宍戸は決して不安とは思わなかったが、いろいろ悔しいと思う事はある。
 自分の持つ独占欲が厄介だと思う。
 宍戸は鳳の手首に指先を伸ばした。
 鳳が持っていた花火を下向きにさせ、その分近づく。
 距離を詰める。
「宍戸さん?」
 踵を上げる。
 届かないから。
 それでキスをする。
 鳳の唇を下から奪い、すぐに離れる。
 大きく目を見開いた鳳の表情に、血液そのものに感覚があるかのように、とくとくと身体を巡る流れが速まった。
「…むかつく」
「宍戸さん…?…」
 もう一度、噛み付くようにしてやったのに、鳳は宍戸からのキスを心地良さそうに目を細めて受け止めている。
 驚いてもいる鳳を睨みすえて宍戸は凄んだ。
「……見とれた顔してやがるからだよ」
「え?」
「相手花火でも面白くねえんだよ。悪かったな」
 面食らった顔をしていた鳳が、生真面目に顔を左右に振った。
「いえ。悪くないです、全然」
 ただ、と鳳は控えめに言葉を繋げ、微笑んだ。
「嬉しいだけです」
「………………」
「すごく嬉しいだけ」
 嬉しいと、鳳は繰り返した。
 鳳の手に宍戸の腰回りは支えられ、真横にいる鳳からのキスで宍戸は軽くのけぞるようになった。
 花火は、まだお互いの手にあって、それで相手を傷つける事のないよう下向きになったままだ。
 唇が深く食い違う。
 舌先を舐められて、含まれて、宍戸の手元から、殆ど消えかけの花火がとうとう落ちた。
 鳳も花火から手を離し、両手で宍戸を抱き締めてくる。
 宍戸は両手で鳳を抱き締め返した。
 花火の消えた暗がり。
 無言になった自分達。
 舌を濡らして、喉を鳴らして、口付けあい、抱き締めあい、お互いがお互いに、執着しあい、目には見えない火の花を散らした。
 身体の中には、過ぎた季節の夏に似た熱が居た。
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