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How did you feel at your first kiss?
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 多分随分遠くの方から名前を呼ばれたと思うのだが、その声ははっきりと、鳳に一番心地言い音で耳に届いた。
「長太郎!」
 その声のする方を鳳が無意識に振り仰げば、校舎の四階の窓から宍戸が腕と顔とを出していた。
「宍戸さん」
 目が合って。
 よう、と少し緩んだ表情の宍戸は、鳳よりも、ずっとずっと高い所で。
 空に、とても近い所で。
 明るい日差しを一身に背に負うようにして笑顔を浮かべた。
 笑わない人ではないのに、彼の笑顔を見るたび言葉が詰まる。
「……………」
 鳳は片手を顔に翳して宍戸を見上げた。
 そこに居るのは何も飾らない人。
 どんな飾りよりも、もっとすごい特別なものを持っていて、容易く人目を集めてしまえる人。
 厳しくて、優しくて、傷だらけの綺麗な人。
「長太郎。お前さ、学生証どうした?」
「はい?」
「学生証」
 快活な話し方で言いながら宍戸が手に持ったものを軽く動かして見せる。
 遠目にもそれが何か判って、鳳は、あ、と声に出した。
「もしかしてそれ俺のですか?」
「俺が拾うなんていう器用な落とし方すんなよ」
 宍戸は笑っているが、鳳は、これはもう自分の才能かもしれないと結構真剣に考えた。
 そういう落し物の仕方を出来る自分に、いっそ感心したくもなる。
「おい、投げるぜ。落とすなよ」
 宍戸の腕が動いた。
「………………」
 動きと一緒に日に透けて、シルエットのぼやけた細い腕が蓄えている、しなやかで強靭な強さを、鳳は残像の中で見上げる。
「………………」
 ゆるい弧をえがいて、後はひたすら下降して。
 落ちてくる学生証。
 宍戸の手から、それは見惚れる程の的確さで、鳳の手の中に落ちてきた。
「………………」
 思わず吹いた鳳の口笛が聞こえた訳もないだろうに、宍戸は一層おかしげに笑って言った。
「お前じゃこうはいかねーな」
「……反論はしませんけどね」
 自分のノーコンっぷりは自覚もしている事だから、鳳は軽く肩を竦めて苦笑したのだが。
 その代わりと言っては何だが、自分の恋愛感情の行き先は、正確すぎるほどのコントロールなんだろうなと思って自惚れてみる。
 向ける先は、伝われと鳳が願うたった一人の相手にだけだ。
「宍戸さん」
「何だよ」
「ありがとうございます」
 学生証を持ち上げて。
 宍戸を見上げて。
 鳳は微笑んだ。
「大好きです」
「…………大袈裟な奴だな」
 完全に面食らったような沈黙の後の、怒ったような顔で呟く、多分照れているであろう年上の人。
 焦がれ、請うるように、欲しいと鳳が思うただひとりの人。
「宍戸さん」
「………………」
 鳳の気持ちはほんの少しの狂いもなく、まっすぐに宍戸へ向く。
 尚も、高い所にいる宍戸を見上げて、鳳は笑みを深めた。
 手を伸ばしても到底届かない、この距離がもどかしくもあるが。
 鳳の元へと舞い降りてくるのと同等の宍戸の眼差しを受け止めれば、鳳の焦れたもどかしさも自然と溶け出す。
 今、鳳の手の届かない、高い所にいるその人に。
 羽はないけれど。
 地上であれば一瞬で、誰よりも早く鳳の元へと踏み込んで来られる人だ。
「……おーい。男前」
 そのツラで何よからぬこと考えてんだ、と全てお見通しの聡い人。
「宍戸さんに羽が生えてない」
「はあ?」
「生えてても何にもおかしくないのにね。綺麗で。でも、脚があるからいいかなって。綺麗で早くて強い脚」
「でっけー声で馬鹿言ってんじゃねーよ…!」
 珍しく真っ赤になって、宍戸が鳳を怒鳴ってきた。
 そこで待ってろ!とも怒鳴られた。
「降りて来てくれるのかな…」
 それが嬉しいので。
 鳳は、もう誰の姿も無い校舎の窓を見上げたまま、柔らかく微笑した。
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 たかだかチーズサンドだぞと宍戸は思う。
 いろんな意味で。
「こんなん料理じゃねえよ」
「でも俺には作れませんよ」
「威張んな」
 手元に並べられた薄切りの食パン。
 白っぽいバターを均一に塗った。
 ブロック状のチーズ。
 極力薄く切ったキュウリは塩を振っておいてある。
 こうして材料さえ用意してしまえば後はもう。
「挟むだけだろうが」
「でも宍戸さんが作るとすごく美味しいです」
 この甘えたがり、と宍戸は密やかに溜息をつく。
 自分も好物なのだが鳳のリクエストもあって。
 こうしてチーズサンドを作っている宍戸の背後にいる鳳は、いつの間にか随分とくっついてきている。
 身体が触れ合うこんな距離にもすっかり慣れた。
「宍戸さん、いつからチーズサンド好きだったんですか?」
「覚えてねーよ。でも相当チビん時からチーズは齧ってたらしいけど」
「そうですか……」
「……何だよ?」
「でも、チーズより俺のが多いですよね…?」
「何が」
「宍戸さんの唇とか舌とか知って……」
 言い切らせず。
 宍戸が背後に肘を打ち込むと、鳳はそれを笑って痛がった。
「痛い。宍戸さん」
「あー、そうかい」
「ヤキモチやいただけなのに」
「チーズなんぞに妬くな! 恥ずかしい!」
「これ切るんですか?」
 宍戸が怒鳴りつけてもまるで堪えず、鳳は笑顔を浮かべてチーズの塊を手に取った。
 未開封のそれは、ビニールできっちりと覆われている。
 大きなままのチーズを片手に持つ鳳に、宍戸は言った。
「長太郎」
「はい?」
「さすがにそれ全部食うのは無理そうだろ?」
「ですね……半分くらいで足りそうかな」
「チーズ切った表面な。放っといたらかわいて固くなるよな」
「ラップでもかけますか?」
「ラップも何もかけないで、切った断面をかわかさない、固まらせないようにしろって言われたら、お前どうやる?」
「………はい?」
 初めて怪訝そうな問いかけが向けられて。
 宍戸は表情を微かに緩めた。
「それが上手に出来たら、俺がチーズ食うより多く、お前に食われてやってもいいぜ」
「宍戸さ、…」
「今日限定の話、だ」
 ついでに、ちゃんとそれが出来てからの話だ、と宍戸が強く言えば。
 制された鳳は、すっかり待てをくらった大型犬さながらに、ぴたりと動きを止めた。
「………………」
 ええーと口に出さないのが不思議なくらいの顔を鳳が露骨にしてみせるのが実は密かにおかしくて。
 宍戸は俯いて表情を隠した。
 そうしてこっそりと伺い見れば。
「………………」
 宍戸の背後にいる鳳は、チーズのかたまりを手にしてああでもないこうでもないと一心不乱に考え込んでいた。
 すこぶる見目の良い男がこんなにも可愛いというのはどういうことだろうかと宍戸は吹きだしそうになった。
「寄こせ。長太郎」
「え。時間切れですか」
「………何て顔すんだよお前」
 駄目押しされてしまって堂々と笑いながら、宍戸はチーズをまな板の上において、半ばにナイフを差し入れた。
「……真ん中から切っちゃうんですか?」
「別に端でもいいけどよ」
 傷心を隠さない鳳の呟きに宍戸は唇に笑みに浮かべたまま、必要な分のチーズをスライスした。
「あ。判った」
 嬉しそうというより、悔しそうな声で鳳は言って、宍戸の背に身体を預けるようにして近づいてきた。
「断面と断面。くっつけておくんですね?」
「ああ。切り口同士をぴったりくっつけて保管しておけば乾燥もしないし固まりもしないだろ」
 改めて宍戸がそう説明すると。
 鳳は、宍戸の肩口にがっくりと顔を埋めて、唸るような声で呻いていた。
 そんなに悔しいかと呆れ半分、おかしさ半分で。
 宍戸は自分の肩口にある柔らかそうな髪を横目に見て、無造作に手を当てた。
 顔を上げてきた鳳の目を覗きこむようにして。
 ひどく窮屈な角度から、宍戸は鳳の唇を、自分の唇で掠めとった。
「宍戸さん?…、…」
「お前には食わさねえけど、俺が食う分にはいいだろ」
 鳳の後ろ首に指先を伸ばして。
 背後から持ってくるように鳳を引き寄せ再びキスをする。
 体勢が窮屈な分、合わさった唇と唇は、ひどく複雑に密着した。
「……、…ン…」
 唇や口腔が濡れてくる感じに宍戸はゆっくりと目を閉じながら。
 絶え間なく重ねていれば、かわきもせず固まりもしないのは、キスだってそうかと思い当たった。
 もう、どちらからしかけるキスだって構わない。
 誘い込むように宍戸が舌を動かせば、鳳の大きな手に頭を抱え込まれた。
 むさぼられるキスを受けながら。
 チーズサンドは諦めた。
 パンもチーズもパサパサになって、おいしくなくなるのは必須。
 でも、今交わしあっているこのキスを取るのだから。
 悔やむ気持ちは全くない。
 きざはしを駆け上がって乱れきった呼吸を繰り返しながらいつもはお終いにするところで、もう一回だけ、とねだってみたら、細い腕に緩慢に抱き寄せられた。
「……宍戸さん?」
「………俺はもう、なんにも出来ねーからな…」
 瞬きすら力なく、気だるい浅い呼吸をしながらの掠れ声で宍戸にそれでも許されて。
 もう誕生日は昨日のことなのに、素っ気なさそうに、でもとびきり優しいようにそんな無理をのんでくれる年上のひとの頬を鳳は両手で包んだ。
 覆い被さって、ゆっくりと。
 まだ濡れている唇を塞ぐ。
「ん、………」
「………………」
「………ん…、…」
 息を継ぐ。
 さらりとした唇を舌先で舐める。
 また合わせて、重ねて、探って。
 濡れた感じだとか、乱れる感じだとか、唇や舌にからみついてきて、身体中が甘だるい。
「……、……ふ……ぁ…」
 深いキスに胸を喘がせて呼吸する宍戸の、小さな顔に指先を這わせながら鳳は長いことキスをした。
「………もう一回って、これ、か?」
 キスだけが続く状況に、宍戸が語尾のもつれた声で鳳を見上げてくる。
 眉根を寄せているその不機嫌な感じがひどく綺麗だった。
「今日、何の日か知ってます…? 宍戸さん」
「お前の誕生日の次の日」
「…じゃ、明日は俺の誕生日の次の次の日?」
 笑う鳳に、宍戸は目つきをきつくする。
 綺麗な上に可愛いなあと鳳はうっかり見惚れてキスを拒まれた。
「……うわ、…ごめんなさい」
「……………」
「怒らないで宍戸さん」
「…………おまえな…たった一回キス避けただけで焦んなよ」
「焦りますよ。…今の分、していい?」
「ほんと欲しがりな。お前」
「いい?」
「甘ったれ」
「宍戸さん」
 泣くなバカと言われて、泣いちゃいませんけどと鳳は笑った。
 小さく唇で触れる。
 幾度も唇を重ねる。
「今日はね、古代ローマの祭典のうちの一つで、ルパーカスに捧げる日なんです」
「……ん?」
「神官が鞭を持って街を走りまわって、途中で会った女性を鞭で叩く日」
「はあ?」
 キスを繰り返している最中なのに構わず宍戸は大きな声をあげた。
 それくらいで負ける鳳ではないから、それでもキスは続ける。
「変な祭りじゃないですよ?」
「充分変だろ」
「悪霊や侵略者から街を守る意味と、女性が多産を与るために」
「………わけわかんねー…」
「バレンタインの翌日にねえ?」
「でもたしか、そのバレンタインだって、誰かが死刑にされた日なんだろ」
「聖バレンタインがローマ政府に逆らって殉教した日ですね」
 会話の合間のキスなのか、キスの合間の会話なのか判らなくなってくる。
 恐ろしい月だなと宍戸がついた溜息も、鳳は飽きずに丁寧に奪った。
「………っ…ん」
「宍戸さん。眠そう」
「別に眠くねえよ」
「そうですか?」
 髪を撫でつけながらキスを繰り返していると、とろりと瞼が下りてくる宍戸が目前に見てとれて、鳳は、眠っていいですよと囁いた。
「…………もう一回…とか、言ってなかったか……長太郎……」
「許してくれるなんて思ってなくて」
「………んだよ……言っただけかよ……」
「……ですね」
「アホ」
「………宍戸さん?」
「嘘つくの、ほんと下手な。お前」
 眠そうな目で睨まれた。
 全部お見通しなのだろう。
 鳳は微苦笑し、宍戸の背を抱きこんだ。
 片手で宍戸の指先を握りこむと、ほんのりとゆるい体温で、しっかりと指先まで温かい。
「……くそ……だめだ、ねむい」
「はい」
 寝ましょうと鳳は宍戸を抱き締めながら囁く。
 したいと言ったのも、眠ろうと言うのも、どちらも鳳の本音だ。
「悪い、長太郎、明日な」
「…………宍戸さ…?…」
 唐突に気だるく持ち上げられた宍戸の片腕が鳳の首にかかる。
 宍戸から鳳へと与えられたものは、完全に鳳が受身でいるキスだ。
「………………」
 悪ぃ、と呟く宍戸の声。
 明日という埋め合わせを匂わす言葉。
 今適えてやれない事を侘びるようなキス。
「………………」
 唇を離した宍戸は、鳳の胸元に寝床を求めるようにもぐりこんできて、目を閉じた。
 たちまち深い眠りに落ちていく。
「……宍戸さん」
 甘やかしながら甘えてくる不思議な人。
 ありのまま、何も飾らずにいて、目が離せなくなる人。
 鳳の唇に残る余韻は、大人っぽいキスというより、甲斐性のある惚れ直したくなるようなキスだ。
「………叶わないなあ…」
 長い時間、繰り返し繰り返し口付けた、鳳のキス全部より。
 宍戸からの一回のこのキスの方がどれだけ雄弁であるかを思って。
 負けと判っても、鳳は幸せだった。
 おやすみなさい、と宍戸の髪に唇を押し当てて、鳳も目を閉じる。
 誕生日は終わってしまうものだけれど。
 宍戸はこうして、鳳の腕の中で今日も眠っている。
 宍戸を抱き締めて、鳳は眠っていられる。
 指先を揃えた鳳の手が、丁寧な動きで宍戸の目の前に翳された。
 宍戸が我に返って目を瞠り、見つめたその手が、そっと、伸びかけの宍戸の前髪を横に撫で付けていく。
 優しい手。
 誰にでも。
「…………………」
「ね、宍戸さん……」
「………んだよ」
「どうしたんですか」
 優しすぎる程に優しい男の口調は柔らかく、でも問いかけてくる瞳は翳りを帯びている。
 休日に、鳳の部屋にいて。
 考え事に沈んでいた宍戸を、責めるのではなく、気遣う目だ。
 近頃格段に鳳は大人びてきた。
 以前だったら、こと宍戸が絡むと疑問や不安を露にするところがあったけれど。
 今はそれをこらえて自然に促そうとする。
 聞き出そうとする。
 そうやって、違うやり方を覚えて。
 一層優しくなって、一層強くなって、一層大人になって。
 一人で。
「…………………」
 そんな鳳が宍戸は不安だった。
 後ろについてきているのが当たり前のような人懐っこさで、ずっと、鳳は宍戸の側にいたけれど。
 今は、次第に遠のいていっている気がしてならなかった。
 そして、そういう不安を、今の鳳には気づかれてしまう。
 隠せない。
「宍戸さん。何か…心配事ですか?」
「いや? 別に何もねーけど」
 こんな事だけは。
 絶対に言いたくないと思って。
 宍戸は鳳の目を見て首を振った。
「…………宍戸さん」
 それは、勘弁して、と鳳が呻くような声を出す。
 いきなり大きな身体を縮めるようにして、鳳が、宍戸を身包み抱きこんできた。
「…………………」
 宍戸の喉下に鳳は顔を伏せ、力を込めたいのを我慢するような感じで抱き締めてくる鳳に、宍戸は小さく息をのむ。
 泣き言のような言葉。
 縋りつくような抱擁。
「………長太郎?」
 小声で宍戸が問いかければ、今でも従順に、鳳の視線は引きあがってくる。
「……何かあるのに、何もないって返されるの、しんどいです」
「…………………」
「俺を見る時に。俺といる時に。ああいう顔をするのに」
「…………………」
 低い声を聞いて、宍戸は無意識に鳳の頭部に手を伸ばす。
 指先を浅く沈ませた鳳の髪は柔らかい。
 静かに撫でつけると、仕草は本当に甘えるように、鳳は宍戸を抱き締めてきた。
「長太郎」
 抱き締められて、ほっとする。
 その側からまた、不安になる。
「宍戸さん。俺にどうして欲しいですか」
「…………………」
「宍戸さんが言うなら俺は何だってする。どんな事だってする。だから」
 俺といる時に寂しそうな顔しないで、と懇願した声は。
 甘えて言うそれではなく、邪気のない後輩のそれでもない。
 声を聞いて、言葉が響いて、息も胸も詰まって口を噤む宍戸を、鳳は両腕で尚も抱き締めた。
 傷つけたのかもしれないと知り、宍戸に出来るのは、そうではないのだという思いだけで鳳の髪をすくくらいしかない。
「俺に……何か望んで欲しいです。宍戸さんはそういうの、何にもいらないって思うかもしれないけど」
「…………………」
「俺に、して欲しい事があったらいいのに」
 ひとつでもいいからと鳳は呟いた。
「…………んなもん聞いてどうするんだよ」
「あるんですか」
 突然鳳が物凄い勢いで顔を上げてきて宍戸は狼狽した。
 鳳は鳳で、まるで全く予想していなかった言葉を聞かされたような顔で宍戸を見つめてくる。
「俺に望んでること。あるんですか」
「…………………」
「だったら……あるんだったら、それを下さい」
 それが欲しいですと言った鳳は、怖いくらい厳しい表情をしていて。
 宍戸は、ここ最近の疲労困憊しきった神経が何だかぷっつりと切れたような気になった。
 鳳の胸元に、顔を伏せる。
「俺をおいていくな」
「俺は追いかけるのに必死です」
「…………………」
 即答した鳳に後ろ髪を撫でられる。
 熱のこもった所作だった。
「俺が先に行くんじゃない。宍戸さんが」
 離れてく、ときつく抱き締められた。
 鳳の胸に、腕に、包み込まれて、抱き潰されるように強く。
「………どこから離れるって言うんだよ」
 こんな。
「こんなに」
 きつく。
「抱き締めといて……」
 声も出ない。
 抱擁の強さ。
 でも、宍戸はそうされていたかった。
「宍戸さん」
 離れていかないでと請う男に、おいていかないでと願う自分。
「自分でも嫌になるくらい独占欲にまみれてんだ……」
「俺はそんな宍戸さん知らないです」
 真摯な鳳の言葉にかぶりを振って、宍戸は最後に痞えているものを吐き出した。
「もっと俺を欲しがれよ!」
 叫んだ瞬間、身体がバラバラになりそうなくらいきつく抱き締められた。
 そんな剥き出しの鳳の感情が、苦しくて、幸せだと宍戸は泣き笑いする表情になる。
 誰にでも優しい男。
 自分には取り分け優しい男。
 そんな鳳が、激情をぶつけるのは自分にだけだったらいい。
「……そんなこと、俺なんかに許して、どうするんですか」
「………………」
 歪められた目が、飢えた声が、かぶりついてくるようなキスが。
 どれだけ嬉しいか。
「……長…太郎……」
「………、………」
 離れていく唇がまだ欲しくて。
 唇から僅かに伸ばした舌先で、宍戸は鳳の唇の表面を小さく舐めた。
「……、宍戸さん」
「……ン……っ」
 嵐に巻き込まれるように、床に組み敷かれ、唇をむさぼられながら、宍戸は。
 全ての暗澹たる思いが、全て払拭された訳ではないにしろ。
 今の、この鳳が愛しくて。
 何をされてもいいと思って。

 身体を拓いた。
 昼間、学校にいる間は極力目立たぬように包帯などは巻きたくないから、夜の間に使うようにしている。
 宍戸は包帯の片端を口に銜え、腕の内側の薄い皮膚の擦過傷を覆ったガーゼを包帯で固定するよう、腕に巻きつけていく。
「どうせやったら怪我の始末もあいつにさせたらええのに」
「………………」
 そんな風な声が聞こえて、宍戸一瞬手を止める。
 顔を上げなくても誰かくらいは判るから、宍戸は無言のまま、作業を再開した。
「…貸し」
「いい」
「どうせ明日には取るんやろ。今くらいちゃんと巻いとき」
 暗い部室の窓辺。
 そこだけに月明かりが微かに射し、宍戸は忍足に巻きかけの包帯を奪われる。
 器用な男は宍戸の数倍手馴れた仕草で包帯を巻いた。
「そんな気配尖らさんでも」
 苦笑めいた含みの声で忍足が言うのに、宍戸は目つきをきつくする。
 宍戸が本気で睨み上げる先、忍足は飄々とした表情をしている。
 威嚇するのは触れられたくない事を持っているから。
 宍戸自身それは判っていて、だから平然とそれを指摘する忍足に過剰に反応をしてしまうのだ。
「出来たで」
「……サンキュ」
「礼なんかいらんがな」
 そう言いながらもどこか嬉しそうな顔で笑った忍足は、そのままの表情で低く囁いた。
「鳳がいてよかったわ」
 何でもないような一言が、今の宍戸にはこの上なく重い。
「………どういう意味だよ」
「あいつ、手貸せてええな」
 俺がしてやれんのはこれくらいやな、と忍足が宍戸の腕の包帯を目線で示す。
 毒舌でならしている忍足という男は、けれども自分の仲間に対しての気配りは細かく、何だかんだと雰囲気をよんではフォローにまわる体質だ。
 宍戸は忍足と一緒に自分の包帯に落とした目線を引き上げ、小さく吐き捨てる。
「……テニスに手助けなんか望んだ時点で、俺は負けてんだよ」
 八つ当たりではなかった。
 単なる本音だ。
 宍戸の声音の変化に忍足は肩を竦めた。
「それがなんや?」
「………………」
「かまへんやん。力貸してくれるっちゅーのに甘えて、なんぞ悪いことあるんか?」
 俺なんかここぞとばかりに甘えるしと臆面もなく言った忍足の態度に、ふと宍戸の気も緩んでしまう。
「………アホ…お前が岳人に甘えたおしてんのは普段のことだろうが」
「テニスしてる時やて、頼るとこは頼る」
 飛べへんもん俺、と真顔で言うから宍戸はとうとう微苦笑した。
「俺が言ってんのはそういう事や」
「………あ?」
 唐突に切り返されて宍戸は忍足を見返した。
 目が慣れて、月明かりでも大分表情が細かく見て取れる。
「好きな奴が、自分のこと判ってくれて、側におってくれんの、嬉しいやん。そういう相手がいてくれんのやったら無茶でも何でもしたろって気になるわ」
「……す、………」
「鳳がそうなのはバレバレやけど」
 お前もな?と笑みを深める忍足に、宍戸は絶句して、結局心情を吐露するうろたえた表情を粗方忍足に晒してしまう。
「安心しぃ。お前の事まで判ってんの俺くらいや」
 あとうちの部長な、と忍足がからかうように付け加えるので。
 宍戸は最悪だと呻くしかない。
 忍足と跡部以外の人間が全員知っているという方がどれだけかいい。
「一目惚れしあってんのに、両思いなのバレバレやのに、何年片思いのつもりで過ごすんや? お前ら二人」
「…………うるせえ」
 両思いかどうかなんて判るかと吐き捨てれば、呆れ返った盛大も盛大な溜息を忍足から返される。
「……ほんまもんのお馬鹿さんやなー」
「ふざけんなっ」
「ふざける余裕なんかあるかいな。全力で脱力中や」
 ふてぶてしい態度で言った忍足は、その後はひどく興味深そうに宍戸を眺め続けるばかりで。
 その視線にどこか居たたまれなさを覚え始めた宍戸は、思わず零してしまう。
「……しょうがねーだろ」
「何がや?」
「………指が…」
「……ん?」
「指が、…触れるだけでも心臓が止まりそうになるんだ」
 歯噛みするように吐き捨てて、だからそんな思いをする相手に、今。
 こんな事を頼る自分がどれだけ苦痛か。
 何故か自分に懐いていて、無茶だと言いながらも毎晩こんな事に付き合ってくれている気の良い後輩の好意に、これ以上つけ込める訳もない事とか。
 いっそ自虐的に暴露した本心に。
 苛立つ宍戸に投下された忍足の言葉は。
「お前……むちゃくちゃかわええな」
「………っ…、……」
 あまりに感慨たっぷりに呟かれ、宍戸は激怒した。
 ラケットバッグを手にとって、部室の扉を叩き壊す勢いで閉めて外に出る。
 よりにもよって忍足に本音を洩らしてしまった己に、本心からうんざりして。
「…………可愛いわけあるか、俺が…っ」
 いっそ本当に、ほんの少しでも可愛ければ、こんなに長いこと片思いなんて真似をせずに済んだのかもしれない。
 勝手に好きでいるだけだから。
 余計な事言うなと頭の中で。
 忍足を罵倒し続け宍戸は帰途につく。

 それでも。
 丁寧に巻かれた包帯。
 それが現す忍足の心配りには謝する思いがあるから、翌日もう一日だけ、宍戸の腕にその包帯は巻かれたままだった。
 宍戸が初めて怪訝な顔を見せたのは、鳳が宍戸に口付けようとしたその瞬間だった。
 力で拘束するように宍戸の手首を握り込んで。
 壁に押さえつけて、近づけた唇が触れる間際。
「………おい?」
「はい?……」
 いぶかしむ声が微かな風となって鳳の唇に当たる。
「ちょっと待て…」
「……やだって言ったら?」
「待てっての」
 鳳は思った。
 やっぱり。
「………………」
「長太郎?……」
「やっぱり判ってませんでしたね……宍戸さん」
「……なにが」
「全部ですよ」
 そう言って笑おうとしたのだけれど、多分失敗した。
 消そうとした溜息が零れてしまった。
 至近距離から食い入るように宍戸を見つめ鳳は嘆息する。
「宍戸さん、簡単に受け入れるから。ひょっとして意味判ってないのかと思ったらやっぱりだ」
 普段から口にしていた言葉だからかもしれない。
 でも鳳がいつもの意味とは少し違うのだと。
 宍戸を抱き寄せるようにして言った、好きだという言葉を。
 聞いた宍戸が、だから知ってるってと、鳳の髪をくしゃくしゃとかきまぜて平然としていたから、鳳は強引にキスに出た。
 力づくで。
 手首細いなと鳳は今更のように手の中の感触に思う。
 寸での所で距離をとったまま鳳は囁いた。
「………キスくらいならいいかとか。そういう風には受け入れないで下さいね。宍戸さん」
「どういう意味だよ」
「俺があなたにしたい事はキスだけじゃありませんから」
 追い詰める気はなかったが、もう少しちゃんと考えて欲しくて。
 鳳は脅しているみたいだと自嘲気味に告げる。
 聞いた宍戸は即座に、馬鹿かと吐き捨てるように言った。
 鳳に両手を拘束されたまま。
「お前に人が脅せるかよ」
「宍戸さんになら出来ると思う」
「止せよ。そういうツラ」
 似合わねえと溜息と一緒に宍戸は言った。
「なあ」
「…はい?」
「別に今のままでも、俺は相当お前を気に入ってるけど」
「…………………」
 お前が俺を好きなのもちゃんと判るし。
 そう付け加えられ、それは実際傲慢でも何でもなく。
 鳳はそういう事は隠した覚えはないから、宍戸がそう言うのも当然の事なのだ。
「お前が思ってるより俺はお前のことが好きなんだ。それでもか?」
「それでもです」
 それでも。
 今のままより欲しいものが出来てしまった。
 我慢が出来ないことが出来てしまった。
「俺に何がしたいんだ」
「……言っていいんですか」
「聞かなきゃ判んねえ」
「………………」
 強くて無垢だ。
 鳳は苦笑いしたい気分で、でもとてもそれまでの余裕はなく、宍戸の耳元に唇を近づけた。
 欲しいもの。
 我慢が出来ないこと。
 宍戸にしたいこと。
 我ながら、餓えた欲求をあからさまな言い方で囁き続けた。
 最後には間近にある綺麗な首筋に噛み付くように口付けもして。
「………、……」
 びくっと身を竦ませた宍戸が、感情のよめない吐息を零す。
 鳳は宍戸の手首から指を解いた。
 幾らなんでも怒るか呆れるかするだろうと宍戸を改めて見下ろした鳳は、勢いよく顔を上げてきた宍戸の眼差しに捕まって息をのむ。
「………………」
 宍戸は両手を差し伸べてきた。
 細くまっすぐに伸びた指が鳳の両頬を包む。
 下から伸び上がってきた宍戸が、鳳の唇をキスで塞ぐ。
「……、……宍戸さ……」
 奪うキスだ。
 されるがままに任されない、宍戸からのそれは。
 彼の性格にひどく見合った、力強くも甘く相手を許容するキスだった。
「裏切ったら殺す」
「………………」
「返事は」
 唇を離し、でもまだ相当の至近距離から。
 唖然とする鳳に、最後の方だけ、宍戸は笑った。
 鳳は、自分の頬にある宍戸の手の上に己の手を重ねて。
 鳳の方からも、その唇を塞いで。
「裏切りません。絶対」
 そう答えた。
 宍戸がまた目を細めたから。
 それが彼の望んだ返事だったのだと思う。
 宍戸が鳳の頬から指先を引く。
 離しがたくて指先同士を絡ませたまま、鳳はその動きについていく。
「………………」
 あらいざらい自分の本意を伝えた後で。
 あれだけの事を聞いても、こうして自分をすべて受諾する相手の存在は。
 一層、鳳の中で大きくなる。
「宍戸さん」
 呼びかけにまっすぐ応えてくる怜悧な目。
「それとな。長太郎」
「何ですか?」
「言っておくがそれ以上デカくなったら別れるぞ」
「………はい?!」
 言葉も聞こえないほど、形振り構わずの幸福感に没頭しきっていたわけではない筈なのに。
 咄嗟に、完全に、解読不可能な事を聞いた気がして鳳は愕然とした。
 今なんて言いましたかと辛うじてというようなたどたどしさで尋ね入れば、宍戸は吐き捨てるようにして毒づいた。
「背伸びしてやっと届くってのはどういう事だよ。年下のくせして」
「宍戸さ、…」
「…ったく…腹立つ」
「あの、宍戸さん、」
「いいな。長太郎」
「よくないです!」
 宍戸に逆らい慣れてない鳳としては、こう叫ぶだけでも精一杯だ。
 それでもさすがにこれだけは聞けない、というか、聞いたら別れは確実に近日中だ。
 鳳の身長は、今尚、着実に伸びている。
「宍戸さん…っ!」
 いつの間にか歩き出していた宍戸に気付くと、その背を追って、鳳は走り出した。
 振り向かせて。
 例の条件を取り消してもらう為のうまい言い訳は、まだ思いつかないまま。
 それでも走って、手を取って。

 振り向かせて。
 
 恋人になった宍戸の顔が見たい。
 これで離れていくだろうと思った鳳の唇は、微かな酸素を得てまたすぐに宍戸の唇へと重なってきた。
「………ン、…」
「………………」
「…………ッ…、…っ」
 しつこい、と眉根を寄せて宍戸は鳳の腕に手を伸ばす。
 でもそれは、自分から鳳を引き剥がす為ではなく、鳳に取り縋る為だ。
 鳳の部屋に入ってから、長いことキスをされ続けていて、頭が本気でくらくらしている。
 首が定まらないような不安定な感覚はひどくなる一方で、宍戸は鳳に唇を貪られながら大きな手が背中を支えてくれるのに任せ、体重を全部その手にかけた。
「宍戸さん」
「…………も、…いいかげんに……」
「会いたかった」
「アホ……一昨日会ったばっかだろーが…」
「中一日が、俺の限界ですね……」
 宍戸の頬に唇を寄せながら話す鳳の声が、吐息に交ざって肌に触れるのに、宍戸は小さく身を竦ませる。
 座ったまま抱き締められて。
 こんな風に、ただただべったりしている自分達を、正直どうなのかと思う気もあるのだが。
 甘えかかってくる鳳は、宍戸にしてみれば。
 しっかりと抱き締め返してやって、無性にあやしたくなる、そんな存在だった。
 そんな自分にも完全に問題がある。
 宍戸は溜息をついた。
「……宍戸さん?」
「…紅茶、もう冷めてんじゃねえ?」
 部屋に入る時に鳳が手にしていたトレイの上のマグカップからは、たっぷりと湯気がたちのぼっていたが、今はどう見ても湯気の気配はなかった。
「喉かわきました? すみません」
「…………………」
 別にそういうわけではなかったのだが、鳳は漸く、終わりの印しのような微かなキスをして宍戸から腕を引いた。
 テーブルの上のマグカップに手を伸ばす鳳を見ながら、何となくもの寂しい感触のする唇に宍戸は無意識に手をやっていて。
 すぐに自分の行動に気付いて宍戸は居たたまれない羞恥心に襲われた。
「宍戸さん?」
「……、んでもねーよ」
 マグカップを片手に持って、鳳は不思議そうに宍戸に呼びかける。
 追求する時としない時とを大体正しく見極める鳳は、この時はそれ以上は何も聞いてこなかった。
 やわらかに微笑んで、宍戸を後ろ抱きするように引き寄せてくる。
 紅茶の入ったマグカップがあるからへたに動けなくて、宍戸はされるまま、壁に寄りかかって座る鳳の胸に寄りかからされる。
 宍戸の身体を挟んで、鳳の長い両足が膝を曲げて立てられた。
「はい」
「………………」
 口元にマグカップが持ってこられて、宍戸はいったい鳳は、どれだけ自分のことを甘やかしたいんだろうかと疑問に思う。
 一日会ってないせいもなにもない。
 毎日会っていたって鳳のこういう行動は変わらない。
「………………」
 自分を甘やかしたがる鳳の、好きにさせているというこういう状況。
 宍戸は宍戸でそうやって鳳を甘やかしたいのだから、もう自分達は。
「…………どうしようもねえな」
「何ですか?]
[………なんでもね。喉かわいた。早く飲ませろ」
「はい」
 鳳の手にあるマグカップから、程よい温度になっている紅茶を飲む。
 紅茶と一緒に持ってきていた小ぶりな籠に鳳が手を伸ばし、中に入っていた薄い白い紙に包まれていたものを宍戸の視界に翳す。
「……なんだ?」
「ポルボロン。スペインのお菓子なんですけどね」
 薄紙は平たい丸いものを包んである。
 両脇でキャンディのように捩じり上げられていて、側面にはPOLVORONと英字が印字されていた。
 鳳が長い指先でその薄紙を解く。
 粉砂糖のようなものがまぶされているその一口大の菓子を鳳は直接手にして宍戸の口元に近づけた。
「食べる時に、ポルボロンって三回唱えると幸せが訪れるって言い伝えられているものなんですよ」
「へえ……」
 それでつまり唱えろって事か?と肩越しに視線を上げた宍戸は、目が合うなり鳳に頷かれた。
 わかったよと宍戸はその言葉を三度口にした。
 鳳の指先が宍戸の口の中にその焼き菓子を運ぶ。
 ほろりとくずれるようにして口溶けする菓子だった。
「………………」
 咀嚼するまでもないような繊細な感触が。
 幸せを呼ぶのかもしれいが。
 今でも充分幸せだがなと宍戸は内心で思う。
「どんな幸せが宍戸さんに来るんですかね。今年は」
「………………」
 穏やかにそんな事を囁いてくる鳳に、深く凭れかかって宍戸は笑う。
「お前さ、長太郎」
「なんですか?」
「俺の幸せとやらは、結構お前次第かもしれないぜ?」
「俺ですか? 宍戸さんが幸せになるのに必要なものって何です?」
「俺の事だけ見てろ」
「もうそうしてますよ」
 鳳が真顔で言って、それから?と言いながら微笑を浮かべる。
「長太郎が欲しい」
「それも、もうとっくにそうじゃないですか」
「ずっとかどうかが問題なんだよ。アホ」
「どっちがアホですか。そんな当たり前の事問題にしないで下さいよ」
 情けないような声で嘆いた鳳に、宍戸は零れるように笑った。
 顎に手がかかって、背後を振り返ったところを、キスされる。

 キスが徐々に今度はパウダーシュガーの味になる。
 放課後、三年の教室内、開いた扉から廊下にいる鳳に気付いた宍戸が目を瞠った。
 その眼差しの中の、宍戸の尖った気配の名残に気付いた鳳は。
 宍戸の比ではなく、大きく双瞳を見開いた。
「………………」
 沈黙と少しの間をおいて、よう、と気安くもどこか違和感のある声をかけてきた宍戸の足元には男が一人蹲っている。
 宍戸とその男以外は誰もいない教室。
 鳳は自分の表情が険しくなるのを自覚する。
「………なんですかその人は」
「あー…気にすんな…」
「気にしますよ! 何なんですか」
「来るな」
「……はい?」
「入ってくるな」
 一歩踏み出した所で、思いのほか厳しい宍戸の声に咎められる。
 全く腑に落ちないながらも。
 鳳は宍戸に言われるままに、一先ずその場に踏みとどまった。
「何故ですか?」
 納得いかない怪訝な思いを隠さず問いかけた鳳に答えたのは、宍戸ではなく、彼の足元に蹲る鳳の知らない男だった。
「そいつがそうなのか」
「そうだ」
「…………………」
 しかし男が話しかけたのは宍戸で、宍戸の返答もまた早かった。
 素っ気無いと言っていいくらいだった。
 一人勝手が判らず、まして静止の命令がかけられたままの鳳は、さすがに苛立って宍戸の名を呼ぶ。
「宍戸さん!」
「怒鳴んなって……」
 緊迫感には程遠く、しかし宍戸は珍しくあからさまな溜息をついて後ろ首に手を当てた。
「お前がキレると止めらんねえよ」
「つまりそういう状況なわけですか」
「長太郎」
 止められないと言いながら、まるっきり鳳を窘めるような言い方で宍戸は言って。
 けれどもひどく生真面目に鳳を見据えてきた。
「俺がそっちに行くからまだ動くなよ」
「…………………」
 はっきり言ってそんな言いつけを守るのもそろそろ限界だと鳳は宍戸の目を強く見つめた。
 宍戸は、それよりもっと強い視線で、鳳に念押しするような目をしてみせてから、足元の男を見下ろした。
 脛を押さえている所を見ると、恐らく宍戸が蹴ったようだった。
「そういうわけだ。俺じゃ話にならねえよ。他当たってくれ」
 そうして宍戸は教室から出てきた。
「…………………」
「帰るぜ。長太郎」
 しかし、そう言われても。
 とてもすぐには頷けずにいる鳳を。
 宍戸はまっすぐな目で見上げてきて、低く言った。
「おい。俺はお前に嫉妬されんのは嫌いじゃないが、疑われんのは嫌だぜ?」
「………宍戸さん…」
 不意打ちの言葉で、鳳から過剰な力が思わず抜ける。
「お前に大事にされんのも好きだ。でも、お前が全部守る必要はねえよ」
 強い光の湛えられた目に淡い笑みを滲ませて。
 宍戸は歩きながら話し始めた。
 同級生に、そういう意味で迫られて、言葉で言っても納得しないで詰め寄ってくるから蹴っちまった所でお前が来た、と至極あっさりと。
 端的に、そして簡潔に、宍戸は言った。
 内容は、ほぼ鳳の予想通りのもので、しかし実際に宍戸の口から聞かされると、それがどれだけあっさりとした口調であったとしても鳳は憮然となっていく自分が止められなかった。
「…………………」
 宍戸は自分自身の事にはまるで無頓着でいるが、実際こういう告白やら呼び出しやらは少なくないらしい。
 無論宍戸が逐一言ってくる訳はなく、大抵テニス部の三年生達が、見るに見かねたような場合を選んで鳳に申告してくるのだ。
「…………………」
 ほっそりと伸びやかな手足や首筋の印象は、いっそ繊細であるのに。
 宍戸の眼差しは強い。
 深くて、きつく、真直ぐだ。
 その怜悧な目を実直に向けながら、荒い言葉を使って、仄かな優しい後味を残す大切な言葉をくれる人。
 そんな宍戸から、ふいに見せられる気持ち良いくらいの素直なリアクションや衒いのない笑顔が、いったいどれだけの強い力でもって、人を彼へと傾倒させていくのかを。
 好きになったら見境も何も全てなくなる、それだけの効力がある宍戸という存在を、誰よりもよく理解し、そして捉えられている鳳は、本気で宍戸を欲しいと思った相手の飢餓感を見縊る事は到底出来なかった。
 不機嫌に、というわけではなく黙り込んで歩く鳳を、少し先を行く宍戸が肩越しに振り返って見てくる。
「なあ」
「……はい?」
「お前、さっき本当に聞こえてなかったのか?」
「………何がですか?」
 宍戸は、鳳があまり見たことのない表情を浮かべていた。
 苦笑いに、少し甘さを煮詰めたような。
「結構でかい声で怒鳴ったんだぜ…」
「何を…?」
「俺を好きに出来るのは長太郎だけだ!って」
「…………………」
 鳳は息をのんだ。
 宍戸がひどく印象的に長い睫毛を伏せた。
「勝手に名前出して悪かったけどな」
「え?……いえ、そんなことは全然」
「死ぬほど好きだ。長太郎」
「……、宍戸さ…?」
 立て続けの言葉に驚愕させられ、鳳は思わず宍戸の肩に手を伸ばした。
 向き合った。
 宍戸は鳳を見上げて言った。
「だからお前は自惚れてろよ」
「…………………」
 不安になるなと暗に潜ませ、宍戸は笑う。
「…………物凄いこと…言いますね。宍戸さんは…」
「そっか?」
「物凄く嬉しくて……ますます心配に……」
「何でだよ」
 呆れ返ったような宍戸の反応に、鳳は笑うに笑えない気持ちで宍戸の両肩に手を置いた。
「キスしても…?」
「好きにしろ」
「好きです」
「…………ン…」
 ゆっくりと押し当てた唇。
 上向いてキスを受け止めてくる宍戸へ、唇を重ねたままキスの角度を幾度か変える。
 細くて固い肩。
 熱くて柔らかな舌。
 相反するようなものたちが、複雑に、デリケートに、折り重なって出来ている、成り立っている、そんな人を腕に抱き締め、口付ける。

 鳳は知っていた。

 宍戸は。
 いくら好きだと言われても、それで自惚れていられるような相手ではない。

 それは、自分が持っているものが。
 いくら好きだと言っても、それで伝わりきれるような感情ではないからだ。
 普段は宍戸の言う事なら大抵の事は聞く鳳も、時折、宍戸相手でも絶対譲らず、意見を通してくる事がある。
 そういう時の宍戸の心中はといえば。
 正直なところ、腹がたつのではなく、その稀な我儘が可愛いような気になっているのだがら、我ながら末期だと宍戸自身が思っていたりする。
「一緒にいたいです」
 ひたむきな話し方。
「駄目ですか?」
 懸命な声。
「……いや?」
 そして一途な目。
 それでもう、宍戸は陥落してしまう。
 クリスマスに一緒にいたいという鳳の願いも、結局宍戸はそれで聞き入れてしまった。
 しかし、元来そういうイベント事に興味がなく、ましてや鳳のような男と共にそんな場に連れ立てば、いったいどれだけ悪目立ちするのかを考えると、宍戸はほとほと気が重くなる。
 だからせめて、一緒にはいるが街中に出るのは勘弁しろと言ってみた所、鳳の妥協案はこうだった。
「うちにきませんか?」
 家族の人はと言いかけた宍戸に、畳み掛けていくような鳳の言葉はよどみなかった。
 弁護士の父親はクリスマスなど関係なく多忙で、姉は当然のように彼氏の所で二人で過ごす。
 寂しがりつつも、残った母と祖母は家中のクリスマス装飾やケーキ作りに夢中でいる事。
 来客者がいるのなら、それを本当に心待ちにしている事。
「宍戸さんのお家でもクリスマスします?」
「いや? まあ、彼女と過ごす兄貴以外は、顔合わせてケーキ食ってってところだろ」
「じゃあ…あまり遅くならないようにしますから。俺の部屋で一緒にクリスマスっていうのは、どうですか?」
「……まあ…いいけど?」
 人目が無いなら、寧ろその方が良い。
 それで宍戸はこの案を了承して、鳳の家に行く事にしたのだった。



 クリスマスイブ当日、終業式を終え鳳との待ち合わせ場所である昇降口へと宍戸が向かうと、そこには携帯で誰かと話をしている鳳の姿があった。
 珍しく、何かに驚いているようなリアクションが遠目にも見て取れる。
「………………」
 しかし宍戸に気付くと鳳はたちまち笑顔になって、一言二言何かを言って、さっさと電話をきってしまった。
「……んな慌ててきらなくても構わねーよ」
「ちょうど話が終わった所で」
 本当か嘘かは宍戸の知らぬ所だ。
 だが鳳が、でも、と言葉を続けたので。
 その、ちょっと微苦笑を浮かべるような表情が気になって。
 宍戸は眉間を歪める。
「何だよ?」
「すみません」
「何が」
「一つ野暮用が出来ちゃいました。少しだけ寄り道…付き合ってくれますか?」
 そんな風に、おっとりと微笑まれて言われれば。
 詳しく聞く前からもう頷いてやりたくもなる。
 クリスマスイブ。
 こうなったらもうとことん付き合ってやろうじゃねえかという心持で、宍戸は片手で鳳を促した。
「行くぞ」
「はい」
 素直な頷きと、ふいに大人びる笑みとで、鳳は宍戸と並び、歩き出す。
「どこに寄るって?」
「花屋です」
「花?」
「はい。母が大量に注文したらしくて。取ってこいって」
「へえ……」
「すみません。つき合わせて」
「別に花屋寄るくらいで、すみませんも何もねーよ」
 花屋に寄るくらい。
 宍戸は、確かにそう思って言ったのだが、実際到着した花屋で用意されていたものを見て思わず絶句した。
「…………………」
「………すみません。無類の花好きなんです。うちの親」
 鳳が決まり悪そうな苦笑いを浮かべたのにも絶句したまま、宍戸は鳳が両腕で抱え込んで持ち上げた花束を見つめる。
 純白の花束。
 白薔薇だ。
「…………す…げー…な…」
 長身の鳳が埋もれて見えそうな程の薔薇。
 そして。
「ホワイトクリスマスがテーマだとか言ってましたからね……ホワイトマスターピース二百四十本」
「…………………」
 宍戸は、その薔薇にも勿論驚いたが、それよりももっと驚愕したのは、二百四十本の白薔薇を抱えても欠片も遜色ない鳳自身にだ。
 行きましょう、と促して微笑む優しげな表情で鳳は宍戸を見つめてから歩き出した。
「ブランカーセっていうらしいですよ。こういう透明感のない肉厚な花びらの白の事。こわれた白って意味だとか」
 白薔薇の香りは、涼しい甘さで、冷気に溶ける。
 クリスマスイブ。
 制服姿で数百本の薔薇の花を抱え込む鳳の姿は、はっきりいって凄まじく注目を集めているが、宍戸はこれを悪目立ちとは思わなかった。
 集まる視線も感嘆に満ちたものばかりで、要は鳳は溶け込んでいる。
 いっそ非日常的な薔薇の花の中に。
 こんな真似がさらりと出来る奴もそういないだろうと、宍戸もいっそ敬服する。
 宍戸がそんな事を思っていると。
 徐に、鳳の歩調が遅くなり、そして。
 立ち止まった。
 どうしたのかと宍戸もそれに倣って足を止める。
「………長太郎?」
「宍戸さん……」
「何だよ?」
「俺、宍戸さんにお願いがあるんですけど」
「……お願い?」
 クリスマスプレゼントでもねだるのか?と宍戸が言うと、そんな感じですと鳳は言った。
 突然思い立ったみたいに何を言い出す気になったのかと、宍戸が鳳の言葉を待っていると。
 鳳は宍戸にゆっくり向き合った。
「これ……俺の家まで持って貰えますか」
「……は? どこがクリスマスプレゼント…」
「最初に花屋でこれ見た時からずっと思ってたんです」
「長太郎?」
「宍戸さんに似合う。宍戸さんが持ってる所が見たいです」
「………馬鹿かお前」
 こんな大量の白薔薇抱えて似合うのはお前くらいだと呆れて。
 宍戸は溜息をついたのだが、鳳は引かなかった。
「白も、薔薇も、宍戸さんが似合います」
「……お前なあ…」
「結構重くて……それは申し訳ないなって思うんですけど……でも、宍戸さんが持ってる所が見たいです」
 クリスマスに。
 そう言って秀麗に笑んだ男の顔に、結局宍戸は弱い。
「……しょうがねぇな」
「宍戸さん」
「…………露骨に嬉しそうな顔するな」
「だって嬉しいです」
 気をつけて、と二百四十本の白薔薇が鳳の手から宍戸へと手渡される。
 結構重いと言った鳳の言葉はあながち過剰表現などではなく、重い花束など初めて手にした宍戸の腕に、それはずっしりときた。
「………………」
 馥郁とした白薔薇の香りごと受け取った花束を抱えて、宍戸が鳳を見上げると。
 鳳の目は宍戸を見据えていた。
「……長太郎…?」
「ありがとうございます」
「………何が」
「綺麗で」
「……………」
「勿体無いくらいのイブだなあと」
「アホ」
 照れ隠しからではなく、宍戸は悪態をついた。
「いい加減お前が俺見て綺麗だとか言うの、どうにかしろって本気で思うけどよ。勿体無いって何だよ」
「宍戸さん?」
 こんなことを言うのは。
 別にクリスマスのせいだからじゃない。
「俺は」
「…………………」
「お前でなきゃダメなんだよ」
 薔薇は古代エジプトの沈黙の神の象徴だと聞いた事があるが、言わないと伝わらない事もあるのだ。
「宍戸さん、」
 薔薇が邪魔して近づけない。
 一瞬もどかしそうな顔をした鳳の表情に。
 宍戸は。
「これ持ってるうちはお預けだな」
 白薔薇の中、笑った。
 鳳の声は低いがなめらかで、語尾が優しい。
 それで何か言った後は大抵ゆっくり微笑むから、一層優しく声が耳に残る。
「それで、子供の時にね、バンクーバーの街中でそいつに遭遇して」
 話す内容は雑談だよなあ?と宍戸は心の中でふと思う。
 それなのに鳳の声は睦言を口にしているようで。
 宍戸をじっと見つめて。
 微笑んでいて。
「トラだ!って指差したら、ネコだったんです」
「間違わねえだろ普通」
「え、間違いますよー。本当にトラかと思ったんですよ。アメリカって動物までもビッグサイズなんですって」
「それにしたってトラはねえだろうが」
「なくないですって。トラサイズのネコなんです。大袈裟に言ってるんじゃなくて、本当の話。怖かったです」
「…………………」
 宍戸は、真剣な表情で言い募る鳳を見上げて微苦笑する。
 大人っぽいかと思うと子供っぽい。
 ひとつ年下の鳳のバランスは不均等だ。
 でもそういう所に危うさがないのは、ひとえにその笑顔の効力だろうと宍戸は思う。
 鳳の笑い顔は人を安心させる。
 年上の宍戸ですらそうだ。
 学校は休みの土曜日。
 部活の為だけに出向いてきた今日は、いつも通る通学路も時間帯が普段とはずれていて、どことなく周囲の気配も目新しい。
 それは学校の敷地内に足を踏み入れてからも言える事で、部室にもっと近づけばテニス部の面々がいるのは判っていても、今はまだ驚くほど人の気配がない。
「宍戸さん」
 なんだよ、と歩きながら答えた宍戸は、そっと手を取られて足を止める。
「…………………」
 指先だけ握り込んでくるような軽い接触は子供の仕草のようで。
 しかし今宍戸の指先を包む手は、骨ばって、大きく、温かい。
 指の長い、男の手だ。
「…………………」
 あまりにもなめらかに、取られたその手を引かれる。
 中庭の手前、日陰の校舎の壁に、そっと背中が当たった。
 宍戸の視界を鳳が埋める。
 宍戸にキスをしたがっている時の鳳は、普段よりも少しだけ強引になる。
 鳳の影が顔にかかる。
 昼間なのに、宍戸の視野は暗くなる。
 宍戸はゆっくりと瞬いた。
 このまま目を瞑ってしまう事は、キスを待つようで。
 あからさますぎて。
 宍戸にはとても出来ない所作だった。
 軽く睫毛を伏せるようにしているのが精一杯だった。
「…………………」
 しかし、いつもなら、かすめるようなキスが、とうに唇に触れている筈なのに。
 何故か今日はなかなかそれがやってこなかった。
 軽く目を伏せるようにしていた宍戸が、怪訝になって顔を上げると。
 初めて、鳳にじっと見据えられていたその事実を知る。
「…………なに見てんだよ」
 キスの前触れというにはあまりに強く見つめられ、宍戸は居心地の悪い思いで呟いた。
 鳳の指先が宍戸の頬を軽く撫でる。
 注がれる視線が一層強くなった気がした。
 だから触れられた鳳の指先のせいではなく、宍戸はびくっと身体を竦ませる。
「宍戸さんは、キスされる前の顔もすごく綺麗」
「………、…アホ」
 直向な眼差しと、一途な声と。
 逃げ場がない。
「一瞬しか見られない顔だから、たまにはちゃんと見てみたいなって思ってたんです」
「………誰のせいだよ」
「すみません」
「…………………」
 キスされる前の自分の顔なんて、宍戸には知りようもない。
 そしてそれが一瞬しか存在しないのは、もどかしげに重なり、始まるっていくのがキスの常だからだ。
「本当に、こんなに綺麗な人……」
「……、……」
 指先だけでなく、手のひらでも頬を撫でられ、宍戸は息を詰まらせる。
 何度も何度も聞く言葉。
 鳳は宍戸を見つめては、よくその言葉を口にする。
 馬鹿なことと宍戸が否定すると、判らせる為の様に回数が増やされるから、最近では宍戸も意見をしなくなった。
 でも、未だに、鳳のような男の口からその言葉が出てくる謂れが判らない。
 繰り返し、繰り返し。
「………見飽きろよ……いい加減」
「物凄い無茶なこと言いますね…宍戸さん」
「……真面目な顔して言うな」
「真面目なんですよ」
「………、…っ…」
 今度こそ本当にキスしそうなまで近づいて。
 しかし鳳は唇を重ねては来ない。
 キスの距離で、熱のこもった目で、宍戸を見据えてくる。
 大きな手に包まれた頬、息もかかりそうな距離。
 そんな鳳の存在だけで、宍戸はくらくらした。
 息苦しくてどうにかなりそうだった。
「…………………」
「………さっさとしろ!アホ!」
「俺も、限界……」
 羞恥とか限界にだとか、様々な事に耐えかねた宍戸の罵声に、はい、とおとなしく頷いて。
 大人びた深いキスで唇を重ねてきた鳳の背を宍戸は抱き締める。
 ぎりぎりまで堪えたような熱をぶつけるようなキスに唇が痺れる。
 何度もやわらかく噛まれて、宍戸は馬鹿みたいに膝が震えるのを持て余した。
 いったいどれだけ我慢してたんだと問いたくなるような熱っぽいキスだった。
 濡れて、擦られて、やわらかく赤くなった唇を、執拗に貪られる。
 すでに人目を盗むようなレベルのキスではなくなっていて、宍戸は自分に深く覆い被さってくる鳳の背を咎めるように叩いた。
「ん…っ…、……っ…」
「…………………」
 キスは一層激しくなっただけだった。
「……、……ッ…」
「………宍戸さん」
「お前、……っ………」
「誘うから。宍戸さんが」
「……って…ね……!」
 何て言い草だと鳳を睨み付けたものの、思う程には視線がきつくならないのは宍戸自身が誰よりもよく判っていた。
「……綺麗」
「…、……っだから……!」
「宍戸さんは俺に見飽きろって言いますけど……宍戸さんは聞き飽きないんですか…?」
「、……そん…、無……」
「…同じじゃないですか」
「………っ……」
 宍戸の視界は再び。
 鳳の笑顔が溶けた闇で埋められた。
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