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How did you feel at your first kiss?
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 七夕前夜、部活からの帰り道、雲の厚い空を見上げて鳳は呟いた。
「今年も七夕の天気、悪いみたいですね」
 例年七夕は天候に恵まれない。
 鳳の隣を歩く宍戸は、言われて初めて気付いたみたいに頭上を見やった。
「七夕って明日か?」
「はい」
 持ち上がった細い顎を斜から見下ろしながら、鳳は、一年に一回しか会えない天空の彦星と織姫みたいに自分がなった時の事を考え、正気の沙汰ではいられないだろうと思った。
 一年に一回しか会えないというのは大袈裟だけれど、でもどうしたって来年は、高等部に進学する宍戸と自分とに一年差の空白があく。
 中等部と高等部との敷居の高さが天の川のように思えてしまう。
「……何でお前がそんな顔してんだ? 長太郎」
「え…?」
「彦星と織姫にまで同調してんじゃねえよ」
 呆れた風に宍戸が言うので、違いますよと鳳は苦笑を浮かべた。
 優しいとか、人がいいとか、そういう性質の度を越してる部分があると、鳳は常日頃から宍戸に言われているので。
 そうじゃないんですと首を左右に振った。
「七夕にかこつけて、ちゃっかりと自分の事です」
「……ああ?」
「来年は我が身?って」
「アホ……」
 宍戸の細く伸びた指が手荒に鳳の髪をかき乱す。
「仕事をなまけて引き離されたような奴らと俺達を一緒にしてんじゃねえよ」
「……宍戸さんがそういうの知ってるのってちょっとびっくりです」
「悪かったな!」
「悪くないです」
 おっとりと鳳が笑んでしまうのは、荒っぽくも優しい宍戸の手の感触や、言葉のせいだ。
 鳳は宍戸の髪にも指を差し入れた。
「……何だよ?」
 宍戸が怪訝に問いかけてくる。
 鳳は足を止めて、丁寧に両手の指を宍戸の髪へともぐらせた。
 鳳の髪からは宍戸の手が退く。
 ちいさな頭を長い全ての包むよう、鳳は宍戸を見つめおろした。
「七夕の早朝に髪を洗うと黒髪が美しくなるっていう言い伝えがあるそうですよ」
 宍戸の髪には、以前のような長さはない。
 でも、つややかでなめらかな指通りは短くなっても変わらない。
「………………」
 丁重に撫で付けていると、宍戸は鳳の好きにさせてくれているまま、目を閉じて唇を引き上げた。
「……じゃ、やれ」
「………宍戸さん?」
「七夕の早朝、お前が俺の髪を洗えって言ってんだよ」
「…………それって…」
「今日泊まりに来いって言ってんだよ」
 ほんの少し不機嫌に宍戸が言うのは、察しの悪い鳳の返答を責めての事だろう。
 鳳は、宍戸に言われた言葉の意味が判らなかった訳ではないのだが。
 ただ、ほんの少しの泣き言めいた言葉を口にした自分に、呆れながらもとびきりの甘やかしが宍戸から放られてきた事に胸が詰まったのだ。
「ご両親にご迷惑じゃないですか?」
 そんな言葉で遠慮もしたのに。
「そりゃお前の方だろ」
 うちの親ふたりしてお前の事すげー気にいってるし、と宍戸は嘆息する。
 確かにこれまでにも歓迎が過ぎて、宍戸が鳳をさっさと自室に連れ込む事が幾度かあった。
「………じゃあ、お言葉に甘えて」
「……ん」
 鳳がそっと手を引くと、宍戸はもう一度軽く目を閉じてから、歩き出した。
 その後に続きながら、鳳は通り過ぎかけた店の、営業中のプレートに目をやった。
「あ、宍戸さん。ちょっとだけ待ってて下さい」
「何だよ」
「せめて何か手土産を」
「アッホ! いらねーっつの」
 吐き捨てた宍戸に鳳は微笑んで言った。
「カルピスですから」
「……はあ?」
 呆気にとられたような宍戸を促して、鳳は一緒に店内へと入る。
 陳列ラックから、馴染みのある瓶を一瓶、手に取った。
「カルピスが発売されたの、七夕の日だって知ってました?」
「………そうなのか?」
「はい。この包み紙の水玉模様は天の川を表してるんですよ」
 だから、と鳳はカルピスを買った。
「明日、責任もって俺は宍戸さんの髪を洗いますから。七夕の飲み物は宍戸さん作って下さいね」
「ま、それくらいいいけど」
 今年も多分天候はいまひとつで。
 天空にミルキーウェイは見られないかもしれない。
 来年は多分、進級とともに。
 今みたいに学校の行き帰りが一緒になることもあまりないかもしれない。
 でも、離れたまま、ただ待つだけの一年にする気はないわけだから。

 七夕を教訓に。
 誓約はカルピスで。
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 あれだけの破壊力があるサーブを打ち込む手と同じ手が奏でているとはとても思えないバイオリンの旋律に、包まれる。
 音からにも、その姿からにも、吸引されて。
 宍戸は鳳を見つめる。
 昼休みの音楽室。
 確か最初は偶然だった。
 昼休み、この場所で、顔を合わせた後輩の鳳に、物珍しさから楽器を演奏させ、聴き入っていた宍戸だったが。
 近頃ではその頻度が増えて、昼休みに音楽室に足を運んでいる事が多い。
 テニスの話をしながらでもメロディが奏でられ出すと、心地良くも甘ったるい気分に終始させられた。
 宍戸はクラシックに興味も無いし、鳳が器用に操る楽器から、何の曲が演奏されているのかも判らない。
 でも、鳳の指が爪弾く、優しくもあたたかな音が好きだった。
 テニスをするときとは違う、甘く凪いだ表情も好きだった。
「…………………」
 綺麗な音を生む綺麗な男。
 宍戸が見据えていると、鳳が宍戸を見返して気持ち良さそうに笑った。
「俺が何か弾くと、宍戸さん、いつもそういう顔をしてくれて嬉しいです」
「……は? 顔?」
 忙しくても、大変な事があっても、今はここで休んでくれているみたいな、と滑らかな鳳の囁きが調べに交ざる。
 人のこと言えた義理かと宍戸は思ったが口にしなかった。
 代わりに、机に片手で頬杖をついた姿勢で、宍戸は鳳に問いかけた。
「専門的なこと判らねえけどよ。お前、バイオリンでもピアノでもそれだけ出来て、音楽の方もっと本格的にやれとか言われねえの?」
 それに対して鳳の返事は微苦笑だけで、あながち的外れな疑問でもなかった事を宍戸を知る。
「俺は渡すつもりねえけどな」
「宍戸さん?」
「お前の楽器、聴くの好きだけどよ。だからってそっちに本腰とか言われてたとしても、絶対やんねえ」
「……宍戸さん」
 音楽なんて、宍戸には判らないのに。
 宍戸の言葉で。
 メロディが甘くなって。
 鳳の微笑も幸せそうになって。
 そういう事は、よく判った。
「お前にどれだけいろんな才能があって、そういう能力を生かす場がどれだけよそにあったとしても、必ず。そのどれを選ぶより、テニスと俺のが良いって思わせてやる」
 宍戸が宣戦布告したのは、鳳の持つ力に対して。
 鳳の未来に対して。
 そんな思いを口に出させる威力のある、バイオリンの演奏に言葉を引き出されるようにして、宍戸は、じっと鳳を直視して告げた。
 宍戸を見つめ返してきた鳳の手が止まる。
「………………」
 ふっつりと突然途切れてしまった旋律は、胸を熱く詰まらせるようような余韻で教室を満たした。
 耐えかねたように、バイオリンを置いて足早に歩み寄ってきた鳳に、宍戸は背中を抱き寄せられる。
 頬杖をついたまま、広い胸元に押し付けられるよう抱き締められた。
「お前……俺を抱き締めんのも上手いよな」
「俺より上手い奴なんていません」
 テニスでも、楽器でも、あまり自己表示することのない鳳の、きっぱりとした物言いに気持ちを甘く擽られ、宍戸は小さく笑った。
「……かもしんねえな」
「かもじゃないです」
 顔は見えないけれど、少し拗ねているような鳳のそんな言い方がやけにかわいく思えて、宍戸は鳳の背に腕を伸ばした。
「誰にも」
「……………」
「それが人でなくても」
 鳳の宣戦布告は、熱の高い、純度も高い、真摯な響きで宍戸を包んだ。
「物とか、環境とかでも。俺は絶対、宍戸さんは渡しません」
「……そうしてくれ」
 からかい半分。
 そしてもう半分は。
 鳳に、そんな勝負に挑まれるのも良いかもしれないと、自覚してしまった宍戸の気恥ずかしいような笑みに交じって吐かれるのだった。
 うつぶせた薄い背中が、うねるように乱れているのに鳳は手を伸ばした。
「……ッ…、…っ…」
「………もうしません。終わりです」
 綺麗な背がびくりと跳ねたのを宥めるよう、鳳はゆっくりと手のひらで擦る。
 鳳の呼吸もまだ大概あがってしまったままだが、細い指でシーツに取り縋るような仕草でうつぶせている宍戸は、その比ではなく苦しげだった。
「宍戸さん……ゆっくり戻ってくればいいですから…」
「………っ……ァ……」
 少しでも落ち着けるようにと、鳳は繰り返し宍戸の背を擦る。
 際立ってラインの綺麗な宍戸の背筋は感触もひどく甘くて、凝りもせず鳳の手のひらを疼かせる。
 肩先に欲の滲まない唇を寄せた鳳の所作に、まず宍戸の指が、掴み締めていたシーツから漸く外される。
 細い骨が浮かび上がるほど強張っていた宍戸の手の甲に鳳は唇を押し当てる。
 宍戸に背中から覆い被さるようにして。
 頬や耳の端にも口付けながら、鳳が追い上げてかき散らした身体が穏やかに静まるよう丁寧に触れていく。
 薄赤く染まっていた宍戸の全身がゆるやかに本来の色の落ち着いてくるにつれ、逆に浮かび上がってきたのは、最中宍戸の腰を強く掴み締めていた鳳の指の痕跡だった。
 うつぶせた宍戸を、背後から、繰り返し穿っている間。
 鳳の両手の中にあった華奢すぎる程に細い宍戸の腰には、生々しく鳳の指の痕が残っていた。
「……長…太郎……?」
 自分へと流されてきた眼差しに鳳は宍戸の眦に口付けてから、すみません、と囁いた。
「…………な…にが…?…」
「………辛くなかったですか?」
「だから……なにが……」
「腰。俺の指の痕すごくて」
 壊しそう、と思う事はよくあった。
 屈強な精神の分というように、宍戸の肢体はか細い。
 普段はそんな事を全く感じさせない宍戸を、抱いた時にはいつも強く思い知らされる。
 溺れこむように宍戸に沈みきって、揺さぶりたてている時の己の獰猛さを目の当たりにして、苦く自嘲した鳳を宍戸が気だるく寝返って腕を伸ばし、抱き寄せてくる。
 甘やかされているのを承知で、鳳はされるがまま宍戸の胸元に顔を伏せた。
「……お前が夢中になってんの好きなんだよ」
 素っ気無いような口調だったけれど、手遊びに鳳の髪に沈み込んできた指先は甘く優しい。
「俺ばっかおかしくさせてどうすんだよ。お前。……」
 ちょっとはお前も我を忘れりゃいいとまで言われて鳳は笑った。
「…………なに言ってるんですか…宍戸さん」
 胸元をそっと撫で擦りながら、鳳は顔を上げて宍戸の唇にキスをした。
 薄い唇にも、幾度も捩じ込むように強く深く舌を差し入れ、口付けたのに。
 宍戸の唇はいつでも清潔な印象で鳳からのキスに応えてくれている。
「………、……ふ…」
 そうやって軽く唇だけを重ねていたのだが、宍戸の唇が綻ぶように緩み、戯れる仕草で舌と舌とが触れて。
 性懲りも無くその舌を貪りたくなって、鳳は苦笑した。
「………ね、……煽らないで…」
「クールダウンみたいなもんだろ……」
「はい…?」
 激しい試合の後でも、筋肉の負担を減らすために、休むのではなく走りこむ事と。
 今の、このキスとが、同じという事かと。
 鳳は宍戸の言い様に一層苦笑を深めた。
 そんなに甘やかしていいのかと思うけれど、それに逆らいようもない。
 宍戸の唇を欲しいままに貪れば、息を継ぐ合間で囁く声が一層鳳の思考を焦がす。
「……いきなりお前がいなくなると、おかしくなんだよ。身体」
「………宍戸さん」
 追い詰められる。
「どうかしてるよな……」
「…………、……」
 どうにかなりそうだと。
 鳳は息を詰めて、宍戸を組み敷いた。
「…長太郎…?……」
 いとけなく見上げられて胸も詰まる。
 抱き締める。
「……長太郎……?…」
 そんな声で呼んで。
 鳳の気持ちを、そんな風に占めてくるような相手は。
 いつだって、鳳には、宍戸だけだった。
 今から出て来られますか?と電話での穏やかな声で誘われて。
 宍戸は鳳のその言葉に聞きながら部屋を出た。
「どこ行きゃいいんだ?」
 携帯を片手に話をしながら玄関を出ると、暗い屋外、玄関横に鳳がいる。
「………お前」
 面食らった後、宍戸は笑い出した。
「おい、長太郎。お前じゃなけりゃ相当ヤバイ奴だぜ。その行動は」
「……まあ…我ながらヤバイかなあとは思っているんですが……」
 恐縮と自嘲の入り混じる複雑な表情をしている鳳は。
 自分の真意を判っていないと宍戸は思った。
 長身でありながら人に威圧感を与えない鳳の佇まいだとか、端整な面立ちの穏やかさだとか。
 笑みを浮かべるととことんやわらかくなる雰囲気や、優しい声と話し方。
 誘う前から家の前で待っているなんていう行動も、鳳がすると、ふと和んでしまう。
 宍戸が言いたかったのはそういう事なのだが、鳳は律儀にも頭を下げた。
「すみません」
「アホ」
 普段は自分よりも高い所にある鳳の髪に、宍戸は今は難なく手を伸ばし、ゆるい癖のある後ろ髪を荒くかきまぜた。
 頭を下げたまま視線だけを持ち上げてきた鳳の表情に宍戸は笑みを深める。
「どうした?」
 うち来るか?と親指で背後の自宅を指した宍戸に、鳳は漸くまっすぐに背を伸ばした。
「いえ。もう遅いですから」
「遅いって、まだ八時だぜ?」
「お家の方にご迷惑ですから…また今度に」
「お前桁外れにうちの親に評判いいから、迷惑どころか帰して貰えないかもしれねえな」
 笑う宍戸を優しく撫でるような目で鳳が見つめてくる。
 宍戸が慣れる程。
 その眼差しの甘さは日々鳳から与えられるものだけれど。
 鳳が、宍戸へと向ける微笑や視線が。
 どれも全て特別なものなのだということを忘れる事はないだろうと宍戸は思っている。
「五月の満月の光を浴びると、偉大な力を授かるっていう話、知ってますか?」
「………………」
 民間伝承の言伝えです、と鳳が穏やかな声で囁きかけてくる。
 鳳を見上げた角度で、宍戸は頭上の満月も見た。
「宍戸さんにはそういうの必要ないかもしれないけど誘いたかったんです」
 今日が五月最初の満月なのだという。
 そう言われると、今日の月明かりは普段よりも少し強いような気がしてくる。
 宍戸は、じっと鳳を見上げた。
「せっかくの満月だから」
「………………」
 鳳の手が宍戸の頭に、そっとのせられる。
 先ほど宍戸が鳳の髪をかきませたのに比べて、あまりにも丁寧な仕草で。
 鳳は宍戸の髪を撫でつける。
「………………」
 ひどくいとおしいというような、鳳の感情が。
 宍戸へと伝えられてくる仕草だった。
 月明かりも感じ取れるような気分になる。
 宍戸は鳳に髪を撫でられながら言った。
「……一人で浴びせられてたら、後で知ってきっと腹立っただろうな」
「宍戸さん…?」
「お前と一緒にやる事なら、必要ない事なんか何もないだろ」
 五月の満月を浴びて授かる力。
 出来ない事が出来るようになるというならば、例えばこんな事でもいいのだろうと宍戸は思い、目を閉じた。
「………………」
 自分でしかけるのとは違う、自分からうながす故の落ち着きの無さは宍戸の鼓動を乱したが。
 鳳に唇を塞がれてそれもゆるやかに治まっていく。
「……宍戸さん………」
「………………」
 囁く声が唇に触れ、宍戸が目を閉じたまま緩めた唇に鳳が深く舌を含ませ、キスが強くなる。
 甘く撫でられていた後ろ髪が、後頭部を包むような鳳の手のひらに乱される。
 キスは、長いものではなかった。
 でも、お互いの奥深くまで気持ちが沈んできて、離れた。
「………ある意味…偉大な力…授かったようなもんか」
「え?…」
「……普通ここでしねえだろ…」
 自宅前の往来だ。
 気恥ずかしさも交えて呟いた宍戸に、鳳は珍しく、すみませんとは言わなかった。
 月明かりの下で、鳳は、何だか幸せそうに笑っていた。
 月明かりの下で、宍戸は、何だか指の先まで甘い感情を詰め込まれたような気分にさせられた。
 二人で観ていたDVDは歴史映画で、主人公が夜襲に合うシーンで、鳳は宍戸の耳元に囁いた。
「ああいうベッド、欲しくない?」
「いらねえ」
「どうして?」
「………んな仰々しいとこで寝れるかよ」
 画面に映っているのは、天蓋つきの西洋式ベッドだ。
 宍戸を背後から抱き込んで座っている鳳は、確かにうちのとは随分違いますよねと自分が寄りかかっている自室のベッドを流し見た。
 そうしている間も、鳳の両腕は宍戸の薄い腹部にまわっている。
 華奢な身体をしっかりと抱きこみ、互いの身体をぴったりと密着させている。
 宍戸に欠片も嫌がられることなく、全てを許される、この距離の近さが鳳は好きで。
 時々こうして二人でDVDを観る。
「なあ、長太郎」
「はい」
「あのベッド、なんかおかしくねえか?」
「何がですか?」
 細い首筋にかかる襟足に目を眇め、鳳は宍戸の後ろ髪に唇を埋める。
 最初にこの体勢でDVDを観た時。
 宍戸は随分と落ち着き無かったものだが、今ではすっかりと鳳の好きなようにさせてくれている。
 DVDが観たいだけじゃなくて。
 くっつきたい。
 宍戸さんと。
 そう、鳳が、何の取り繕いもなく口にした言葉に、宍戸はあっさりこの慣習を受け入れた。
 どちらかの部屋でDVDを観る時は自然とこの体勢になる。
 ただくっついていたいからという理由だけで、観ている時もある。
「何かおかしいですか?」
 問いかけながら、鳳は宍戸を抱き締める腕に少し力を込めた。
「サイズがやけに小さいだろ」
「ああ……高さに比べて寝台の大きさがってことですか?」
「お前が寝たら、絶対足がはみ出るだろ、あれじゃ。……西洋人だって身体デカイのに、何でベッドは小さいんだ」
「西洋では、昔の人は上半身を起こした体制で眠ってたらしいですよ。上半身も横たえて眠るのは死んだ時だけだって聞いた事あります」
 上半身を起こしてといえば、まさに今、鳳や宍戸が座り込んでいるこの体勢で。
 一瞬だけ、画面上の古い西洋のシーンとシンクロしたような気になる。
「……上半身起こしたままで眠る、ねえ。……そりゃ寝心地、」
 わる、と言いかけて。
 宍戸は口をつぐんだ。
「宍戸さん?」
「………ま、お前でもこうやって背中側にいりゃ良いけどよ」
「良いですか? 寝心地」
 あんまりやわらかい感触じゃないですけど、と鳳は笑いながら宍戸に告げる。
「俺は固めが好きなんだよ」
 そう言って宍戸が思い切り寄りかかってくるのを。
 平然と受け止めて、鳳は一層両腕に力を込める。
 華奢な宍戸の身体の感触は、鳳の手のひらに甘すぎる余韻を残す。
「………苦しくても?」
「アホ」
 苦しかねえよ、と宍戸が言い捨てるのに甘えて、鳳は宍戸を強く抱き締め、ほっそりとした首筋と肩口とに顔を埋める。
「……観ねえのかよ」
 苦笑いの気配がした。
 でも離れろとは決して言わない宍戸を抱き締めたまま、鳳は目を閉じた。
「俺は最後まで観るからな」
「はい」
 背後から宍戸を抱え込み、邪魔はしないけれど、放しもしないと、鳳は決める。
 鳳の方から抱き締めるだけでなく。
 宍戸の方からも寄りかかって近づいてきてくれるから。
 こうして別々の事をしている時間も、彼らは結局ひとつだ。
 宍戸がひっきりなしにガムを食べている事に特に意味はない。
 ガムを噛むとリラックスした状態になるという事で、スポーツ選手などが意識して競技前に食べているのと同じ理由かと聞かれた事もあったが、そう意識した事もない。
 また、ミントの味は常習性があるから止められなくなってるんだろうと言われた事もあるが、そこまで執着している訳でもない。 
 クセには確かになっているけどなと思いながら、宍戸は包み紙を剥いたガムを口に入れた。
「何だよ。欲しいのか?」
 宍戸の隣を歩く鳳の視線に気づき、宍戸はそう声をかける。
 長身の後輩は目を伏せるようにして、じっと宍戸を見つめてきていた。
 しかし、宍戸が聞いた問いかけにはやんわりと首を振った。
「……いえ、ガムでなくて」
「あ?」
「ガムよりキスがいいです」
 宍戸さんの、と鳳は言った。
「………………」
 大抵の時はその端整な表情に浮かべている柔和な笑みは、今はひっそりと隠されていて、代わりに請い願うような顔になっている。
 宍戸は、ぐっと言葉を詰まらせた。
「………………」
 宍戸がガムを食べ始めると、鳳が物言いたげに見つめてくる事が度々繰り返されて、それでとうとう先日、何だよと問いかけた宍戸に鳳は真顔で言ったのだ。
 ガムに宍戸さんの唇を独占されてるみたいで寂しい。
 そう言った。
 はっきりいって、こんな事を言って。
 宍戸を怒らせるのではなく、恥ずかしがらせる事が出来る人間は鳳くらいなものである。
 一見大人びた風体で、その実ひどく人懐っこく甘えたがりという鳳の持つギャップに、弱かったり甘かったりする輩は少なくない。
 宍戸も、あまり表にはそういう態度を出さないものの、結局の所はそんな鳳に滅法弱くて甘いのだ。
 それで、鳳といる時は極力ガムを食べる事は止めていたのだが、如何せん癖になっていて、時々無意識に口に入れてしまうのだ。
 今日のように。
「………あのよ。俺が言うのも何だけどよ、しょっちゅう食べつけたらクセになるんだぜ…?」
 ガムがそうであるように、つまりはキスも、きっと。
「もうなってます」
「………………」
 真面目な顔で鳳にそう断言され、キスの回数が極端に増えているここ最近を思いながら宍戸は脱力した。
 だいたい、鳳がこんな往来でキスを欲しがったり、そんな顔をして自分を直視してくる事なんて、少し前まではなかった筈だ。
 最近鳳のキスは回数を増やし、やり方を深くし、宍戸を少しだけ不安にさせる。
「……俺なんか、コレ癖になってから、なくなったり食えない時とか結構大変なんだけど」
「俺も今大変なんです」
 あくまでもキスで話をすすめる鳳に、宍戸は観念した。
 そういう苦しそうな。
 切なそうな表情を。
 隠してみせられたら。
「………………」
 人目のつかなさそうな道の死角。
 そんな場所を都合よく通りかかってしまったら。
「………………」
 鳳に両肩を掴まれ、外壁に押さえつけられる。
 ノーブルな顔立ちの、通常の礼儀正しい後輩とは思えない事に。
 鳳は中指を宍戸の唇に忍ばせてガムを奪っていった。
 咥えされられた指は関節の太い長い指で、口にあるのがひどく生々しく思えた。
 退いた後すぐに塞がれた唇へのキスは、丁寧で優しい。
「…………宍戸さん」
「………………」
 我儘言ってすみませんと耳元に囁かれた宍戸は、こんな事くらいが我儘かよと思ってしまう自分自身に呆れながら。
 少しずつ、少しずつ。
 鳳が胸に住まわせる欲望を。
 回数の増やされてきたキスで、口移しされているように思う。

 少しずつ、少しずつ。
 鳳の抱える欲望が、最近宍戸にも判ってきたように思う。

 唇から、理解した。
 宍戸の両腕には、大量のプリントが山のようになって、今にも雪崩を起こしそうにバランス悪く積まれている。
「宍戸ー……お前さ、もー少しそういうの考えて持てば?」
「俺じゃねえっての!」
 渡り廊下で行き会った同級生の向日に露骨に呆れられて、宍戸は牙を剥いた。
 このプリントはそっくりそのまま、今年新卒で氷帝にやってきた教師の忘れ物だった。
 次の時間によそのクラスで使うらしいプリントを、宍戸のクラスの授業に一緒に持ってきてしまった挙句に忘れて帰っていった。
 クラスメイトが面白がる中、呆れながらもそのプリントを抱えたのは宍戸だった。
 すると、その新任教師がまだ年若い女性だった事もあって、クラスメイトはひやかしと悪ふざけでプリントの山を手にする宍戸に絡んできたものだからこの有様だ。
 友人達を怒鳴りつけてさっさと教室を出てきた宍戸は、今更持ち直すのも面倒で、そのまま歩いていたところ、部活仲間の向日と鉢合わせしたのだ。
「……このへん突っついたら、絶対崩れ落ちそ…」
「アホ! やったら泣かす!」
「泣かねーもん!」
 宍戸は、やたらとすばっしこい向日の事を今度は怒鳴りながら、そのちょっかいをかわしていく。
「あ」
「……、…くそ」
 向日が口を開け、宍戸が毒づいた。
 プリントは無事だ。
 しかし。
「……あーあ…」
「あーあじゃねえ! アホ!」
「ダサー……」
「お前のせいだろうがっ」
 高めの位置で結わえられていた宍戸の髪が、肩へ、背中へと、解けて落ちる。
 髪をとめていたゴムが飛んで足元に落ちた。
「へえ…宍戸、髪伸びたなー」
「伸びたなーじゃねえっての…!」
 いくら怒鳴っても、まるでこたえない向日に嘆息して、宍戸は面倒くせえとぼやいた。
 その時だ。
 渡り廊下から、中庭を歩く見知った顔を見つけたのだ。
「長太郎!」
 飛びぬけた長身。
 宍戸の一学年下である鳳は、宍戸にそう呼ばれるなり、すごいスピードで走ってきた。
「宍戸さん」
 あっという間に宍戸と向日の前に立つ。
「教室移動ですか?」
 お疲れ様です、と二人の先輩への目礼も欠かさない鳳の態度を、向日は腹を抱えて笑っている。
「鳳ー、お前そんなんだから犬とか言われんだぜ?」
 人懐っこくて従順で、礼儀正しく微笑ましい。
 そんな鳳への犬呼ばわりは、無論好意的な意味で成されているのだが、取り分け宍戸への殊勝ぶりは凄まじく、それはそれで恰好のひやかしの種だった。
「長太郎。そのへんにゴム落ちてっから、それで俺の髪結べ」
 宍戸が顎で指し示した先を見て、鳳は渡り廊下に入ってきて、膝をついた。
 ガラスの靴でも拾ったみたいにゴム取るなと向日がまた笑う。
 なんですか?それは、と鳳は温厚な笑みで向日に応えながら、そっと宍戸の背後に回った。
 プリントを持ったまま、宍戸が背後を振り返る。
 目と目が合うと、はい、と鳳は頷いて。
 微笑を深める。
「失礼します」
「……馬鹿丁寧にいいっての」
「でも断りも無しに宍戸さんの髪に触れません」
「あのな。なんかの祟りでもあるみたいじゃねーか」
「今、ここにいる人達に羨まれて、妬まれて、俺が闇討ちとか合う可能性ならありそうです」
 鳳は終始穏やかに、そして丁寧に、宍戸の髪を結わえた。
「サンキュ」
 再度鳳を背後に見やった宍戸の視界にいたのは、そのルックスの甘さを一層際立たせる甘い微笑に笑みを細めている鳳だ。
「…………なー…宍戸」
「何だよ」
 気力を根こそぎ奪われたかのような態度の向日の声に。
 宍戸は怪訝に眉根を寄せながら、呼びかけに応じて向き直る。
 耳で聞いた通りの表情で、向日はがっくりと肩を落としていて、ただでさえ小さな体が尚一層小さく見える。
「お前、そんだけ懐かれて慕われたら、鳳のこと可愛くてしょうがねーだろ…?!」
「は? なに馬鹿なこと言ってんだ。お前」
 心底呆れて言い捨てた宍戸の返事に、向日はといえば。
 鳳に向けて叫び声を上げた。
「今の聞いたかよ鳳! お前がそんな風にして従順に従ってる宍戸はな、こういう、暴君、俺様二号なんだぞ!」
 俺様一号の顔を思い浮かべた時だけ、三人の心は一つになったが、すぐにバラバラになった。
「いい加減お前も目ぇ覚ませ!」
「目覚ますのはお前だっての。岳人」
「喧嘩しないで下さいよ…二人とも…」
「誰の為に言ってやってると思ってんだ鳳!」
 散々賑やかになってしまった騒ぎを、あっという間に沈下させたのは、プリントを届けるという目的を思い出した宍戸だった。
 宍戸は、足早に駆け出して。
 向日を追い越しざまに言った。
「別に懐かれなくたって、慕われなくったって、可愛いだろ。こいつは」
 こいつは、と。
 宍戸の目線に撫でられた鳳が、それこそとろけそうな笑みを浮かべたのを目の当たりにして。
 あまりの恥ずかしさに赤くなったのは向日で。
 彼は耐えかねたように、涙目で「ゆうしーーー!」と叫びながら宍戸とは逆方向へ走っていった。
 右へ左へと散らばる三年生を見送った鳳は、春風にまかれたように目を細め、どうしようもなく幸せそうだった。
 テリトリーの境界線には厳しそうな人なので、宍戸が一人でいると、まず近寄っていっていいものか暫し悩む。
 声をかけてもいいのかどうか。
 一瞬人をそう悩ませる雰囲気のある人で。
 それを取っ付きにくいとみる輩は宍戸にあまり近寄らない。
 しかし、恐る恐るでも近寄っていった人間からすると、拍子抜けするくらい実は気さくで面倒見の言い宍戸を目の当たりにする事になる。
 くっきりと線引きをされていそうな境界線の境目は寛容で、素っ気無い言葉で冷たくあしらわれる事もない。
 イメージとのギャップに面食らって、その後からはもう、彼を慕う人間が増えていくだけだ。
 宍戸の一学年下だった鳳にとっては、先入観も何もなく、最初から宍戸のそういう性格が不思議とよく判っていた。
 だから入学当初から今に至る一年の間、よく言われていた「あの宍戸先輩とよく普通に話せるな」という意味合いの言葉の数々を不思議に思っていた。
「それは周りの奴らのが正しいんじゃねーの?」
「何でですか?」
「……真顔で聞くなよ」
 脱力した宍戸を前に、鳳は軽く首を傾ける。
「本当にさっぱり判りません。俺」
「………そーかい」
 ますます肩を落として呆れたような宍戸の髪に、鳳は手を伸ばした。
 鳳がレギュラー入りを果たしてから、宍戸との距離は、また近くなっている。
「何だよ」
「綺麗ですね……本当に」
「………お前のキャラが未だに掴めねえよ。俺は」
 呆れ返った口調の宍戸の髪を指先ですくう。
 何の手入れをしなくてもこの状態だと宍戸が言っていたのに対して鳳はつくづく感心している。
「そういう嘘っぽい台詞をよくまあマジなツラして……」
「何ですか嘘って」
 苦笑いを浮かべて、鳳は名残惜しく手を引いた。
「本当ですよ」
「どっちでもいいけどよ…」
 本当の事と、嘘の事。
 どっちでもいい訳ないけれど。
 はっきりさせたい事の方が多いものだけれど。
 でも、例えば宍戸のように。
 見た目の印象と本来の性質とに、大きくギャップのあるような人のことを考えると。
 一概に白黒はっきりつける必要はないのかもしれないと鳳は思う。
 本当の逆にあるものは、嘘ではないのかもしれない。
「……本当の反対が、即、嘘っていうのも。何かさみしいですよね」
「じゃあ本当の反対にあるのは何だよ」
 本当の、真実の、反対にあるものは。
 鳳は、宍戸を見つめて呟いた。
「………秘密かな?」
「…………………」
 宍戸を、厳しい人と思う者もいる。
 宍戸を、優しい人と思う者もいる。
 そのどちらであっても、思う人間からすればそれが本当だ。
 だから、その本当の裏にあるものは、嘘じゃない。
 秘密だ。
「お前…つくづく性格いいな」
 感嘆の息で宍戸が溜息を零す。
 鳳は思わずうろたえた。
「やめてくださいよ」
「それこそ嘘じゃねーよ」
「宍戸さん?」
「本当の事。もしくは秘密の事。……だろ?」
 笑う宍戸の表情は鮮やかで。
 幾度となく目にしても鳳はその都度視界を眩しく覆われる。
 休憩終わり、と言って宍戸が立ち上がった。
 部長である跡部の声も聞こえてきて、鳳も倣って腰を上げた。
 華奢でありながら、触れないと、そう感じさせない強い背を向けて、先を歩く宍戸の背後で鳳は思う。


 宍戸に伝えている事は、全て本当の事。
 宍戸に伝えないでいる事は、全て秘密の事。
 久しぶりに思い出した気がする。
 ベッドにうつ伏せて、宍戸はもう声にもならない声を振り絞ってでも、唸りたい気持ちでいっぱいになった。
「宍戸さん」
 ベッドの縁に腰掛けた鳳の手に、剥き出しの背を撫でられる。
 寝返りすら億劫なのに、触れられた背筋にはっきりとした震えが走ったのが判って。
 宍戸は片頬を枕に埋めたまま、斜に鳳を睨み据える。
「……お前……なあ…」
 優しく、優しく。
 あんなに丁寧なやり方で。
 結果、こうなるっていうのはいったいどういうことだと宍戸は目線で鳳に訴える。
「………大丈夫ですか」
 どこか辛くは?とそっと囁いて顔を近づけてくる鳳に。
 宥められるよう撫でられている背の感触も、これほどまでに優しいのに。
 久しぶりに思い出した。
 優しく、優しく、何も傷ませずに、けれどここまで宍戸を崩す男のことを。
「お前なあ……」
 身体中、指先の一本一本にまで、濃密な倦怠感を埋められている。
 時々、こんな風に鳳は、優しいままに箍をはずす。
 追ってどれくらい経っているのか、濡れた感触が宍戸の両足の狭間に、まだ生々しい。
「…………、…」
「………力抜いてて」
 いとも簡単に抱き上げられそうになって、思わず身じろいだ宍戸を甘く宥める声。
 容易く宙に浮く身体。
 普段なら有り得ない状態なだけに、難なく鳳の腕に抱き上げられてしまうと、こんな事くらい鳳には簡単な事なのだということを思い知らされて。
 どうにも宍戸は落ち着かない。
「…………お前なぁ…」
 幾度目かになる言葉を吐き出しながら、それ以上が続かない。
 動けないのか、動きたくないのか、宍戸自身にも判らないけれど。
 確かに今、浴室に向かうにはこうして連れて行かれるしか術がない事は誰よりも承知していた。
「………………」
 多忙な鳳の両親が、たまの休日をとって旅行に出かけていて。
 宍戸は鳳に、今日うちに寄って行きませんかと誘われた。
 鳳の両親が留守がちな事を宍戸は知っている。
 広いその家で、鳳が何日も一人でいるのかと考えてしまって。
 宍戸は素直に同意したのだ。
 一人でいる事は当たり前だと思っている鳳は、宍戸にしてみれば、相当一人きりが嫌いな筈なのに、一人でいる事に何の疑いも不満も持たないアンバランスなところがある。
「泊まれって言やいいだろうが」
 無理矢理帰れなくなんかしなくても。
 宍戸が簡単に聞いてやれる程度の我儘を、最初から鳳に諦められているようで気に食わない。
「………すみません」
 寂しいように。
 済まなそうに。
 笑わなくても。
「…………………」
 別にそれが嫌だとか、怒っているわけではないのだから、宍戸は大人しく鳳に抱き上げられていた。
 それでも、そこから軽く睨み上げてみせると鳳の表情がゆっくりと緩んでいったので宍戸の言いたい事は伝わったようだった。
「すぐお湯たまりますから」
「…………ん」
 ベッドから運ばれてきた浴室は広い。
 手足も楽に伸ばせる浴槽の中に丁重に下ろされて、シャワーを肩や背に宛がわれるのに任せたまま、宍戸は重く響く蛇口からの湯の放流をぼんやりと見つめた。
 鳳の手は、あくまでも丁寧だった。
 湯をすくうようにして、宍戸の肩が冷えないように気にかけている。
「寒くないですか?」
「…いや。暑くなってきた」
「少し風通しましょうか」
 鳳家の浴室は少しばかり風変わりだった。
 外部からは見えないよう設計されているが、浴室からは、庭の一部が地続きのようにつながっている。
 窓というよりドアに近い大きな扉を鳳が開けに行くのを、宍戸は湯に浸かったまま、じっと見やった。
「………………」
 鳳の背中があちこち赤い。
 皮膚を切るほどではなく、引っかいたような赤い痕が生々しく広い背に乱れていた。
 縋っても、縋っても、耐え切れないような衝動を繰り返し宍戸に送り込んできた男。
 鳳の手がガラス扉を大きく開く。
 そこから。
 春の、温んだ夜風が。
 すべりこむように、宍戸の元へも届いた。
 甘く胸詰まるようなこの時期特有の夜の気配だ。
 湯気に白くけむっていた浴室が一掃される。
 春の風と一緒に、庭に咲く桜の花弁も浴室に吸い込まれてくる。
「………………」
 淡い、繊細な色みの花弁は、揺らいで、頼りなく、鳳の開けた扉から浴室に忍んでくる。
「寒くなければ。少し開けておきましょうか」
「………ああ」
 恐らく今晩で、桜ももう全て散るに違いなかった。
 思いのほか沢山の桜の花びらが吹き込んでくる。
 鳳が連れてきたかのように、桜は風にのって浴室に舞う。
 扉を開けたまま、鳳は宍戸の元へ戻ってきた。
 タイルに膝をつき、互いを隔てるバスタブに手をついて、鳳は宍戸の唇を浅く塞いだ。
「…………泊まっていって…くれますか…?」
「帰さないくらいの態度でいろっての」
 お前は、と。
 宍戸が呆れて微かに唇を触れ合わせたままの距離で言えば。
 鳳の指先は宍戸の濡れた髪にもぐりこみ、キスを深くしてきた。
「帰したくないです」
 大人びたキスに、子供じみた懇願に。
 相も変わらずアンバランスな奴だと宍戸は思い、桜の舞う浴室で、鳳の頭を抱き寄せた。


 帰らねえよと宍戸は告げた。
 鳳が命じて望む事が出来ない事は、宍戸が命じて望ませる事にした。
 今年は桜の開花が遅い。
 四月に入って、本格的に愛でる事が出来る春の花は、まだ桃だ。
「桃で花見ですか? 宍戸さん」
 鳳の胸元くらいの高さのブロック塀に宍戸は座っていて。
 空を仰ぐようにして桃の花を見ていた。
 傾斜の激しい坂道の途中にある公園は、敷地の外と中とで高低差が激しい。
 待ち合わせたのは公園の敷地内だったが、上り坂の途中で塀の上の宍戸に気づいた鳳が。
 そう声をかけると、宍戸は容易くバランスを変えて、鳳のいる坂の方へ向き直った。
 塀を跨ぐようにして座ったまま。
 すんなりと伸びた脚が軽やかに鳳の視界に向けて落とされた。
「危ないですって……!」
「なあ、長太郎」
 鳳の生真面目な意見など軽く流して、宍戸が奔放な笑みを向けてくる。
 腹が立つどころか見事なまでに見惚れて。
 普段とは違う、高い位置にある宍戸を鳳は見つめ返した。
 塀に両手をついて、僅かに上体を鳳へと屈ませてきた宍戸の首筋がひどく細く思える。
 春先の陽気につられて、ラフで柔らかい素材のシャツを着ているせいだとふと気づく。
「口開けろ」
「……は?」
 宍戸の指先が鳳の顎へと触れて。
 指先ですくうようにして、軽く上向かせてくる仕草に逆らわないままで。
 しかし鳳は慌てた。
「宍戸さん?」
「いいから開けろ」
「……………」
 怪訝に思うものの追従を許されず、結局鳳は大人しく従った。
 宍戸に望まれる事を、拒まないのは鳳の習性でもある。
「……………」
「……あの…?……宍戸さん?」
 ゆっくり近づいて来る宍戸の小さな顔と、強すぎる程の眼差し。
 鳳の顎にかけられた指先の感触。
 宍戸の背後に咲いている濃いピンク色の花が時折鳳の視界を掠るように現れて見えた。
「桃は、神話で沈黙の神に捧げられた花なんだってよ。桃の葉が人間の舌の形に似てるからとかで。ここで花見てたらそんなこと思い出してな」
 見てみた、と言って。
 何の邪気もなく笑顔を浮かべた宍戸に、口を開けさせられて自らの舌を見られていた事を鳳は知って。
 微苦笑で応える。
「で、同じ形してました?」
「わかんね」
 元々忍足の言ってる事だからそのへんも判らねえよと宍戸は言って。
 するりと、指先で鳳の頬を軽く掠めて手を引いた。
 そんな宍戸を見上げながら、鳳はびっくりしたと声にして笑った。
「何がだ?」
「今日エイプリールフールです。宍戸さん」
「………あ?」
「キスでもしてやるって、宍戸さんに担がれるのかと思った」
「……してやった事ねえみたいな言い方すんな」
「何度貰っても特別なんですよ」
 貰っても。
 奪っても。
「宍戸さんの事も、宍戸さんとする事も、俺にはみんな特別です」
「………お前な……エイプリールフールなんて日に、そういうこと真面目なツラして言うんじゃねえよ…」
「疑わないで下さいね」
 そう、お願いをすれば。
「アホ」
 呆れ返った顔をして、宍戸が塀から飛び降りてくる。
 鳳の手元に。
 散り初めの花弁のように。
「……………」
 綺麗で、しかしその人は儚くはない。
 しっかりと、強く、ここに存在している。
 思わず差し伸べた腕で軽く宍戸を抱きこんで、鳳は目立たぬように宍戸の耳元へキスをした。
「……おい」
「はい?」
「もっと派手にやったっていいんじゃねえのか?」
「……宍戸さん?」
 鳳が予想もしていなかった言葉が宍戸の唇からもれる。
「もし誰かに見られて騒ぎになったら、エイプリールフールの一環です、とでも言や良いんだろ」
 そう告げて笑う宍戸の顔に。
 鳳も同類の表情を近づけていく。


 隠れ蓑に使うのは嘘をつく日だという慣わし。
 気持ちには、一点の曇りも嘘もなく。
 交わすキスに、春の風すらも入り込む余地はなかった。
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