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How did you feel at your first kiss?
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 湿気を過多に孕んだ空気は呼吸し辛いほどだった。
 長く振り続けている雨は時折止んで、厚い雲が頭上に蓋をしているようで一層息苦しい。
 そんな中でも、先を歩く見慣れた背中はいつものように真っ直ぐ背筋を伸ばしている。
 毛先の僅かにかかった後ろ首はすっきりと細く、尖った肩に続くラインは柔らかい素材のシャツ越しであっても硬質だ。
 少し前には汗ばんで濡れそぼっていた首筋も、湿っていた髪も、今はさらさらとかわいて見えた。
 屋外の重たいこの湿気ですら他愛ない事のように思える程、先程までの時間が、濃密に濡れすぎていたのだ。
 鳳は、宍戸の後姿を見据えて、小さく吐息を吐き出した。
 雨雲のせいと時間帯のせいとで、薄暗くなりかけているひとけのない道を宍戸を家まで送るという名目で暫く無言で歩いていきながら、それでも鳳が最初に口をひらいて言った言葉は、やはり宍戸の名前だ。
「宍戸さん」
 喉に絡むような声が出た。
 それに対して宍戸は、すぐに気安く、何だ?と問い返してくる。
 鳳は困った。
 弱った、という方が正しいのかもしれない。
「……宍戸さん、…大丈夫ですか」
 改まって、言葉を半分濁しつつ、尋ねたら尋ねたで。
 宍戸は足を止める事もなく気負いのない返事を鳳に寄こしてくるだけだ。
「あ? 何が」
 何がって。
 鳳の口調は強張るように重くなる。
「身体」
 大丈夫ですか、と繰り返すしか言葉も見つけられない。
 ああ、と宍戸は今度は合点がいった風に頷いた。
 そしてまた、至極あっさりと返すのだ。
「股関節が痛ぇ」
 何かずれてるみたいな気する、とひどく真面目に告げられた鳳は、思わず宍戸の手を取って立ち止まった。
 振り返ってくる宍戸は少し眉根を寄せていた。
 それは耐えられない苦痛というわけではなく、噛み締めているような受容範囲内の痛みのようだった。
 ずっとそんな顔をさせてしまっていたのかと思うと胸が冷たくなる。
 鳳は神妙に言った。
 頭を下げる。
「すみません」
「何が?」
「何がって……」
 ところが、鳳の心情にまるで噛みあわず、宍戸は心底不思議そうな顔で問い返してきた。
 鳳を見上げてくる眼はいつもの煌いているようにきついそれだ。
 きつくて、それでいて深い包容力のある、ひどく綺麗な眼だ。
 じっと見つめてこられて鳳は無言になった。
「…どうしたんだよ、お前」
「………………」
 宍戸の手首を握りこんでいる鳳の手元を見やる為に眼差しを一度伏せ、そこから睫毛を引き上げるようにしてまた鳳の目を覗きこんでくる宍戸の目元をつぶさに見つめ、鳳は空いた手で宍戸の右の頬を包んだ。
 小さな顔は鳳の手に容易くおさまった。
「長太郎?」
 無防備に、平素とまるで変わらない宍戸の唇を、鳳は上体を屈めて塞いだ。
 つよく、貪った。
 手首と頬とで拘束して、深く口付ける。
 合わせた唇で強引に仰のかせた宍戸は、鳳が舌を捕まえて吸うと小さな喉声を上げた。
 痛んでいるという箇所を敢えて。
 両足の狭間に割って入れた腿で軽く圧迫すると、宍戸は強く震えた。
 それなのに、キスを引き剥がしてすぐに、宍戸の唇から漏れたのは、鳳を気遣うような低い掠れ声だった。
「…………ど……した……?」
「………………」
「……長太郎?」
 宍戸の肩口に額を当てて押し黙る鳳の後ろ髪に、宍戸の指先が埋まる。
 そっと撫で付けられて鳳は唇を歪めて自嘲した。
 今だけ過剰に優しくされている訳ではない。
 宍戸は、いつもこうだ。
 呆れたような顔で、でも深く甘いものを抱えた内面で、あっさりと受け入れ甘やかす。
「お前なあ……俺を抱いてそこまでへこむってのはどういう了見だよ」
 いくら俺だって落ち込むぞ?と沈んだ声で言われて鳳は慌てて顔を上げた。
「言ってませんよ、そんなこと!」
「言ってんのと一緒だっての。そのツラ」
 ぺち、と宍戸の手の先で軽く頬を叩かれる。
 鳳が尚も同じ言葉を繰り返して言うと、宍戸は少し皮肉気に唇を歪めて笑った。
「じゃ、言ってみ。何をそう、お前はどんよりテンション下げてんだ?」
「反省と自己嫌悪してただけじゃないですか…!」
「必要あんのか、それ」
 呆れた顔で宍戸は呟く。
 鳳は宍戸の肩に縋るようにまた顔を伏せた。
「宍戸さんに、たくさん無理させたじゃないですか……」
「…へえ?」
「何ですか、その他人事みたいな相槌……」
「無理した覚えなんか俺にはねえよ。そりゃ他人事だ」
 さらりと言った宍戸は、笑っている。
 鳳は何とも言えない気分で抱き締めた身体から伝わってくる振動に感じ入った。
 慎重になれたのは最初のうちだけで、次第に追い詰められて、どうしようもなくなって、無茶をやらかしたような焦燥感が後から後から込み上げてきた。
 気持ちが等しく愛しくても、負担のかかり方は激しく違うのに。
 それを見失った自覚が鳳を激しく落ち込ませている。
「もう一回って言っときゃ良かったぜ、やっぱ」
「……宍戸さん?」
「………ったく…無駄に遠慮して損したぜ」
 素っ気無い口調でとんでもない事を言い出した宍戸を、鳳は勢いよく顔を上げて見下ろす。
「あの、……」
「アホ。あんま可愛い顔すんな」
 それこそあまりにも鮮やかに微笑まれて鳳は面食らう。
 宍戸は笑ったまま鳳の胸元に自らおさまってきた。
 しっかりと鍛えられた、それでも細すぎる程に細い肢体に鳳は両腕を回す。
 自分の腕で抱き締める事の出来る、何よりも大切なものが、きちんとここに在る。
 鳳は闇雲な安堵に、ほっと息をついていた。
 少し前の状況を思い返しても、疲労困憊しきっていた宍戸が、本当にもう一回出来たかどうかは怪しいこと極まりなかったが。
 それでも、そんな言葉をくれた相手に鳳は畳み掛けた。
「………辛いばっかじゃなかったですか? 我慢させてばっかりじゃなく……またしてもいいって思ってくれた?」
「そんなもん、見て判んなかったのか?……つーか、お前さ。それ聞きたかったんなら、さっさと聞けっての」
 びびらせんじゃねえよと毒づく宍戸を鳳は怪訝になって見下ろした。
「……宍戸さん?」
「お前に後悔丸出しにされたら、俺だって、びびったってしょうがねえだろうが」
「後悔なんかしてません!」
「あー………そりゃ…さっきので判ったけどよ…」
 ぎこちなく宍戸が目を伏せる。
 無意識らしく唇を軽く噛む仕草が、暗にさっきのキスを匂わせて、鳳は引き寄せられるようにまたそこに軽く口付けた。
 離れる時にだけ小さく音がした。
「……お前、たぶん、何かいろいろ気ィ使ってくれてんだと思うけど」
「………………」
「俺は、お前にがっつかれんの、好きなんだよ」
「ちょ………宍戸さん……」
 ぽつりと呟かれた声は断言で。
 鳳を見上げてきた眼差しは清冽で。
「どんなでも、好きだぜ。長太郎」
 何されても気持ち良いと、真っ直ぐな目で、言葉で、邪気なく続けられ、鳳は完全に落ちた。
「…………重い」
 思わず全身で覆い被さるように宍戸をきつく抱き締めると、宍戸からはそんな素っ気無い不平が返されてきたが、その声は優しく、笑いを含んでいて。
 鳳は、厳しい優しいひとをきつく抱き締め、ひたすらに。
 宍戸に対して、同じように在りたいと、願った。
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 力強く骨ばった、男っぽい手だ。
 ふと、宍戸はそう思った。
 その考えは雑談の中の雑念にはならず、宍戸の動きを、鳳の手を見る事だけに集中させた。
 途切れた言葉。
 途切れた動作。
「…宍戸さん?」
 どうかしましたかと、怪訝なだけでなくやけに慎重に声をかけてくる鳳に、宍戸は生返事で首を振る。
 着替えの動作を止め、ただ見つめた。
 ロッカーを閉めた鳳の手。
「………………」
 いつものように最後まで二人でテニスコートに居残った部活の後、部室で制服に着替えながら他愛ない話をしていたさなか、突然に宍戸は口を噤んで鳳の手を凝視しているという状況。
 鳳は声に滲ませた通りに不審だろうが、宍戸はそんなことはお構いなしだった。
 それよりも。
 鳳の手だ。
 今初めて気づいた訳でもないのに。
 ずっと知っている筈のものなのに。
 宍戸は真剣に、鳳の手を見つめた。
 骨格の硬質さと、しなやかな筋肉とが、共存している手。
 鳳は、こんな手をしていたのかと、宍戸は突然に不思議な感覚に襲われてしまった。
「………………」
 優しい丁寧な印象ばかりを伝えてくる鳳が、その手にしなやかなだけでなく、こんなにも印象的な強靭さを持ち合わせていた事。
 宍戸はこれまで知らなかった気がする。
 ひとしきり凝視して、宍戸は無造作に鳳の手首を手に取った。
「な……」
「………………」
 手に取って、尚見つめる。
 大きな手のひらと、それよりもっと長い指。
 固さや、温かさ、肌の色、爪の形。
「………あの………宍戸、さん…?」
「何だよ。……、って…何だよ、お前」
 何で顔そんな赤いんだよっ、と宍戸は咄嗟に叫んだ。
 思わずつられて宍戸も赤くなる。
 鳳は宍戸がつかまえていない方の手で口許を覆って、顔を片側に俯かせ、そして。
 判りやすく赤くなっている。
「何って……あのねえ、宍戸さん」
「…………っ……」
 肩を落として項垂れるようにしているのに、骨のしっかりした首筋の滑らかさに、宍戸はどきりとする。
 あまつさえ。
 宍戸よりも背の高い鳳が、上目にちらりと宍戸を見上げてきた眼差しや、言った言葉が殊更宍戸の動悸を激しくさせた。
「好きな人にこんな風にされたら、顔が赤くもなります…」
 臆面も何もなく、なめらかな声で囁かれ、宍戸もうろうろと視線を彷徨わせた。
 言葉が出てこない。
 鳳が生真面目に問いかけてくる。
「俺の手……何か…?」
「…や、……なんつーか…キレーな手だなあと……」
 思ったままが宍戸の口をついて出る。
「……はあ……きれい…ですか?」
 鳳はストレートな困惑で聞き返してきて、宍戸が手首を掴んでいる自らの手をまじまじ見て言った。
「結構ゴツゴツしてると思うんですが……」
「あー……まあ、お前、手でかいけどよ……」
 それでもやっぱりキレーだぜ?と宍戸が言うと。
 鳳は少し怒った目になった。
「……長太郎?」
 何でだ?と内心だけでなく実際にも首を傾げた宍戸に、鳳はひそめた声で告げてくる。
「他の人に言わないで下さいね。今みたいなこと、今みたいな目で」
「……お前にしか思わねーよ、こんなん」
 何を怒ってるんだと、宍戸にしてみれば当然の事だけ、告げてみれば。
 宍戸はロッカーに背中を押し付けられて、鳳に唇を塞がれる。
「………、ン」
 宍戸の頬を包んだ鳳の右手は優しく。
 宍戸の腰を抱いた鳳の左手は卑猥だ。
 放熱するように熱くなる。
「………長太郎…、……?」
「何ですか。……、って…本当に、何ですか、宍戸さん」
 あんな目や仕草や言葉は平気で放ってきて、と。
 宍戸は鳳に甘ったるくなじられた。
 それこそ先程の宍戸の言葉をそっくり繰り返した鳳に、宍戸も同じリアクションを返してやりたくなる。
 何って。
「……好きな奴にされたら、赤くもなんだろーがよ」
 くそ、と腹立ち紛れに言ってやる。
 凶暴に見据えて、凶暴に悪態をついてやったつもりの宍戸に、鳳はといえば、きれいであまい視線と言葉を返してきて、本当に。

 何なのだ、こいつは。
 何なのだ、この人は。

 お互いそんな事を思いながら、静かに唇を、重ねている。
 雨の降る音が聞こえる。
 本当は、もっとずっと前から響いていた音なのかもしれなかったけれど。
 宍戸の耳に届いたのは今だった。
「………………」
 ぼんやりと目を開ける。
 室内は薄暗い。
 同じベッドに寝ている男が宍戸に背を向けていた。
 横になったまま腕を伸ばして、床に落ちている上掛けを掴んでいるようだった。
 剥き出しの肩甲骨が動く。
 締まった背中が捩れて影を刻む。
「………………」
 宍戸は身じろいだ。 
 とん、と額をその背に当てる。
 少しだけ。
 本当に、少しだけ。
「……おでこもいいんですが、キスだともっと嬉しいです」
「…………阿呆」
 そんな風に低い優しい声が返された。
 宍戸は眠気や気だるさに浸ったまま呟く。
「………背中の…皮膚の器官は」
「はい…?」
「温度や圧力は判るけど、落とされた液体が水かゼリーかは判らないって話聞いた事あるけどな……」
 額と唇の差が判るくらいなら、案外敏感なんじゃねえの、と口にした宍戸に長い腕が回される。
 振り返ってきた鳳が、リネンを手にしたままそれで宍戸を包み込む。
 抱き締める。
「お前が敏感なのかもしんねーけど……」
「俺の皮膚感覚が、特別に過敏って訳じゃないと思いますよ」
 鳳は笑う。
 宍戸は包まれる。
 リネンの上に体温。
 体温の上に腕。
 腕の上に微笑の気配。
 やわらかく、幾重にも、覆われる。
「判るのは、宍戸さんが触るからですよ」
「………………」
「宍戸さんのだったら、例えば俺の背中に落ちたのが、汗なの涙なのかも判る気がする…」
「……試してみるか?」
「泣かせたくないから嫌です」
「泣いたろうが…すでに散々……」
「さっきのはいいんです」
 瞼に唇が寄せられる。
 目を閉じてそれを受けた宍戸は、更に自分を幾重にも包んでくる、甘ったるい接触や抱擁や言葉をまざまざ体感する。
 これだけ重ねられても、何故か息苦しさを覚えない。
 鳳のやり方は何なのだろう。
 それどころか、寧ろもっと欲しくなるのだから、不思議だ。
「目…覚めたの、どうしてですか」
 どこか苦しい?とゆるく抱き込まれて問われれば。
 宍戸はちいさく笑うしかない。
「雨の音がしたのと、お前の気配が離れたからだろ。そんなのは」
「……敏感って、それどっちの話ですか」
 鳳も低く笑って、雨音を聞き取った宍戸の耳を手のひらでそっと撫で、無くした分の気配を与えるように抱き締めてくる。
「………きもち、いいな…お前」
「んー……それは今言われるとちょっと複雑です」
 本当に複雑極まりない笑いで返してくる鳳に宍戸の方からも擦り寄っていく。
「お前は、いつでも、いいよ。……いつも…きもちいい」
「宍戸さんー……」
 だから、参るなあ、と泣き言めいた事を告げられて。
 それを雨音と共に聴覚に転がして、宍戸は笑んだまま目を閉じる。
「さっきも」
「や、……これ以上は真面目に勘弁してください」
 ぎゅっとかなり強い力で抱き締められたのに、少しも苦しくない。
「寝ちゃってください。今すぐに」
「…おー……」
「はい。お願いします」
 切羽詰ったような、ひどく生真面目な声に、乞われるまま。
 宍戸はあくびをひとつ零して、どうしようもなく居心地のいい束縛の中で目を閉じた。
 快晴の青空に、泳ぐ色鮮やかな魚がいる。
 強い春の風に、閃き、棚引いているその様を。
 彼はじっと見上げていた。
「こいのぼりって、目印なんだそうですね」
 肩を並べて歩きながら鳳がそう告げると、空を見上げたまま宍戸が問い返してくる。
「何の?」
「天の神様に、この家には男の子が生まれたので、この子を守って下さいっていう目印」
「……神様ってのは、女もちゃんと守ってんだろうな」
 いぶかしむ宍戸の横顔を、鳳は笑んで見つめた。
「フェミニストですね。宍戸さんは」
「アホ」
「ひどい」
 別にからかったつもりなど鳳にはない。
 けれど、こいのぼりから鳳へと視線を移してきた宍戸の一言はにべもない。
 鳳はまた笑い、吹き付けてきた強い風を浴びて目を閉じた宍戸を見つめて繰り返した。
「優しい人ですねって意味ですよ」
「アホ」
「んー…これもだめですか」
 乱れた宍戸の髪を、指先で、そっと払う。
 なめらかな額に軽く指の関節を当てて、鳳は宍戸に顔を近づけて声をひそめた。
「俺も目印にならないですかね?」
「何のだよ」
「ですから天の神様に。ここに宍戸さんがいますよー、と」
 だからこの人を守って下さいと。
「俺が目印。幸い今の所まだ背も伸びるみたいだし」
 鳳がそう続けると。
 宍戸はいかにも不服そうな目をして睨んできた。
「目印になんざならなくていい」
「だって宍戸さん、俺が守るって言ったら怒るでしょう」
 俺だって神様に任せようなんて本当は思っていないですと鳳が言えば言ったで。
 宍戸は憮然と返してくるのだ。
「当たり前だ。何でお前に守られなきゃなんねーんだよ」
「大事にしますって意味なのに」
 ひどい、と繰り返しながらも、結局鳳はまた笑った。
 こういう宍戸のことが、とても、とても好きだからだ。
「じゃあ、俺の本音を言ってしまうと……その目印っていうのもね。神様の為って訳じゃないんですよ」
「は?」
「俺は、ずうっとここにいますっていう意味ですよ」
 ね?と鳳は一瞬だけ宍戸の手を握った。
 ここに。
 一緒に。
 ずっといる。
 宍戸とずっと共にいる。
 それを知っていて欲しいのは、神様ではなく、宍戸だけでいい。
「………………」
 不思議とあどけない目の色で鳳を見つめ返してきた宍戸が、今度は、軽口でも拒絶の言葉を口にしたりはしないので。
 宍戸の方からも、一瞬、鳳の指先を握りこんできたので。
「宍戸さん」
「………とけそーなツラで笑ってんじゃねーよ…」
「宍戸さんはそんなに綺麗な顔で赤くならないで下さいよ」
「…………お前なぁ…!」
「はい」
 そっぽを向いた怒声も心地良く受け止めて、鳳は微笑んだ。
 恐らくは宍戸の言葉のまま。
 それこそ蕩けそうな顔をしているであろう自覚は持って、宍戸の耳元に囁いた。
「大好きです」
「長太郎」
「ずっとね」
 さすがにこの場でこれ以上の事はしないし出来ないけれども。
 また強く吹きつけてくる春の風で、頭上のこいのぼりが空を強く泳ぐ。
 至近距離の自分達は、共に縛られ、繋がれたような気になって風を受ける。

 幟、昇れ。
 宍戸の目覚めは概していい方だ。
 それ故に時々失敗する事がある。
 目覚めがよくて失敗というのは、本来あまりある事ではないようなのだが。
 少なくとも宍戸は、自身の目覚めのよさ故に、ここ最近幾度か失敗をしている。
「………目…覚めましたか…?」
 柔らかな声に問われた時には、すでに宍戸は八割方覚醒していた。
 ここ最近の失敗の事を思い返して、目を閉じたまま、ベッドから起き上がらずにいただけだ。
「………………」
 問いかけてきたのは鳳で、それは昨晩一緒に眠りについたのだから別段驚く事ではなかった。
 ただ呼びかけに宍戸がゆっくりと目を開けると、ひとつだけ、気配で宍戸が不思議だと思っていた事が具体化していて目に映る。
 鳳はベッドの縁に腰掛けていた。
 足は床に、上体を僅かに捻り、宍戸をそっと見下ろしてきていた。
 宍戸が目覚めた時に、鳳がそういう状態だった事はこれまで一度もない。
 大抵は、目覚めのいい宍戸が先に起きて、同じベッドリネンに包まる鳳の寝顔を見るのが常だ。
 少々無理がたたって宍戸がベッドからなかなか出られない時は、極力静かにベッドから抜け出した鳳が、甲斐甲斐しく飲み物や食べ物の準備などしてベッドに運んでくる。
 今のようにベッドの縁にただ腰掛けて、じっと宍戸を見下ろしているというのは初めての事だった。
「おはようございます。宍戸さん」
「おう……おはよ…」
 宍戸の額に鳳の手が重なる。
 前髪を撫で付ける仕草が、同時に、起き上がろうとした宍戸を制した。
「長太郎?……」
「うつ伏せになってから起き上がって下さい」
「……あ…?」
 うつ伏せ、ともう一度鳳が言う。
 何だか知らねえけど、と呻きながらも宍戸は言われた通りにした。
 寝具の中で仰向けからうつ伏せになり、肘から手のひらまでをシーツについて、うつ伏せの体勢から起き上がる。
 あ?と宍戸は同じ言葉を零した。
 それは、ここ最近宍戸がやらかした失敗とは無縁の感覚。
「………………」
「…大丈夫?」
 鳳の手のひらが宍戸の背中から腰を緩く擦ったので、宍戸は一瞬どういう顔をしていいものか悩んでしまった。
「朝起きた時に、仰向けのまま起き上がるのは、すごく腰に負担かけるそうなんで……一度うつ伏せになってから起き上がるといいって聞いたんですよ」
「………腰……なぁ…」
 唸るように宍戸が言うと、鳳は宍戸を抱き寄せてきた。
「すみません。毎回学習しなくて……」
 ええと、と言葉を濁してから。
 これでもやっぱりきついですか、と神妙に問われて。
 宍戸は苦笑いでそれを一蹴する。
「だからそれはお前が謝る事かっての。……んとに学習しねえな。長太郎」
 宍戸のここ最近の失敗というのは、目覚めのよさ故に、前日の夜の行為で酷使した腰の事を忘れ、勢いよく起き上がっては撃沈する、という一連の動作の事だ。
 その都度、鳳は慌てふためいて謝るし、宍戸は羞恥にかられながら怒鳴っている。
 鳳に抱き寄せられたまま、宍戸は素直に言った。
「今のは、すげえ楽だったわ。起き方一つで違うもんなんだな……」
 ほっと息をつく鳳に、宍戸は笑みを深めて、その背に腕を回し返した。
「お前さ、長太郎。ひょっとしてこれ言う為だけにずっと、そこに座って俺が起きるの待ってたわけ?」
 ベッドの中でもなく、外でもなく。
 ある意味、起きぬけに宍戸が身体を起こす前にと見張っているかのように。
 鳳はああしていたのだろうか。
 呆れと感心の入り混じった笑いで問いかけた宍戸に、鳳は柔和な笑みで応えてくる。
「ここに座ってると、俺もいろいろ忙しかったんで。ちょうどよかったんですよ」
「は?」
「眠ってる宍戸さんを見ていたりとか、宍戸さんのこと考えていたりとか」
「………忙しいって言わねえよそれ…」
 臆面もなく鳳が告げてきた言葉が、密着した身体から直に響いてくるようで。
 宍戸は赤くなってしまっているかもしれない顔を、鳳のパジャマの胸元に埋めた。
 更に柔らかく鳳の腕に抱き込まれて、朝っぱらから全く、と思いながらも抜け出したくない自分に一番参る。
「……お前、なんか悪戯とかしてねえだろうな」
 鳳がいつから起きていたのか知らないが、あんな体勢で自分の事を見下ろしているだけで本当に時間が潰れるのだろうかと宍戸は思って。
 何とは無しに口にした言葉を鳳はおかしそうに聞き返してきた。
「何ですか、悪戯って」
「何って。…落書きとか」
「しませんよ」
 鳳は宍戸を抱き寄せたまま笑い出す。
 振動に取り囲まれたまま、宍戸は溜息を零した。
「………お前は…健やかっつーか、何つーか……」
「それ、小学生の時に通知表に書かれた事あります」
 本当に。
 健やか、伸びやか、そういう言葉の似合う男なのだ。
 鳳は。
 そういう彼の腕の中では、宍戸もまるで虚勢が張れなくなる。
 抱き込まれてそこで甘く寛ぎきるなんて真似、自分がしているなんて事が。
 未だに宍戸自身、不思議でならない。
「それで何でわざわざ俺を欲しがんのか判んねえよ……」
 雰囲気も眼差しも心中も清々しい。
 その目で、その手で、執着するのがどうして俺かなと思って零れた言葉を、鳳はすぐに笑いを止めて、生真面目に聞き返してきた。
「……何か…夢見でも悪かったですか」
「………………」
 肩を掴まれ、身体を離される。
 あまりに真剣な鳳の表情に、宍戸は思わず真顔で返してしまった。
「お前、人の夢ん中まで見えてんのかよ」
「寝顔がちょっとだけ苦しそうに見えたから」
 そんなに改まって深刻になるような話じゃねえよと宍戸が微苦笑で告げても、鳳は何かに嵌ってしまったかのように表情を曇らせている。
「俺が何か夢で、宍戸さんに酷い事とかした…?」
「あのなあ…長太郎」
「宍戸さんが言いたくないような、どうしようもないようなこと?」
「おい」
「何言ったんですか。俺」
「長太郎」
 そんなに思いつめたようにされてしまっては、今更絶対、口に出せないではないかと宍戸は気難しい不機嫌な顔になる。
 けれど、このまま放っておいたら、この年下の男はどこまでも下降線を辿っていくのだろうという事も判る。
 いらねえ恥晒させやがってと、八つ当たり気味に宍戸はベッドに膝立ちになり、鳳の髪に両手の指先をもぐりこませる。
「宍戸さん?」
「お前は何もしてねえし、何も言ってねえよ」
 それ以前の話の夢だった。
「どこほっつき歩いてたか知らねえけど」
 夢の中だからって一人にすんな。
 宍戸は言い切ってから、鳳の唇を噛みつくようにして塞いだ。
 大概恥ずかしい事を口にしたという自覚が宍戸にはあって。
 でも、言ってしまえば絶対もっと恥ずかしい返答が鳳から返されるだろうという事も容易く想像出来たので。
 聞かない為には言わせない。
 そうする為の術は、結局。
 再度ベッドにもつれこむきっかけになっただけだった。
 多分いつも口に入れているガムのせいだ。
 宍戸の唇はいつも清潔で、口腔はひんやりとしている。
 ミントの味のほんのり滲む舌は、鳳が貪る毎に熱を帯びて柔らかくなる。
 実際冷たいわけではないけれど、冴え冴えと冷えた印象の宍戸の口腔は静謐だ。
「…おい、長太郎」
「はい?」
 息を継ぐために少しだけ離れた唇と唇の合間。
 宍戸の呼びかけに鳳が丁寧に問い返すと、間近にある宍戸の怜悧な眼差しがきつくなる。
 そしていきなり言われたのは。
「もうしねえ」
「え、何で」
「何でじゃねえよ」
 止めだ止め、と胸元を宍戸の手に押しやられて、鳳は慌てながらも宍戸の背に回した腕は外さなかった。
「何か嫌なこと俺しましたか?」
 今していた事といえばキスで、自分が何か宍戸の嫌なやり方でもしたのかと鳳は危惧して宍戸を覗きこむ。
 目と目が合うと宍戸は憮然とした。
 額と額も合うと余計に酷くなった。
「宍戸さん?」
 それでも臆さず問い続ければ、不機嫌極まりない風体で宍戸は言った。
「……何か違うこと考えながらすんな」
「違う事…?」
 上の空で腹立つんだよと言った宍戸の頬に鳳は口付けた。
「…、…てめ……人の話聞いてんのかよ…」
「考え事はしてましたけど…違う事じゃないです」
「あ?」
「宍戸さんの舌はミントの味がするなあとか、口の中ひんやりしてて気持ちいいなあとか、そういうのです。考え事」
「……っ……お前…、…言うか、そういうの」
「だって」
 鳳は笑いながら宍戸を抱き締めた。
「宍戸さんがおかしなこと言うからですよ」
「悪かったなおかしくて…!」
 怒鳴り声も好きだった。
 我ながらどれだけ宍戸を好きなんだと鳳は笑ってしまう。
「宍戸さんがおかしいんじゃなくて、さっきの言葉がおかしいんですよ」
「あー、もううるせえ…っ」
「もうしないなんて言わないで。…ね?」
 傷つくからもう言わないでと、甘えたっぷりに繰り返し懇願すれば宍戸はひとしきり鳳の腕の中で暴れながらも、最後にはきちんと言葉と態度で継げてくれるのだ。
「………んな程度のことで傷つくな。アホ」
 宍戸の両手が伸びてきて。
 鳳の顔を包み、首を反らして傾けた顔が近づけられ、宍戸からのキスがくる。
「………………」
 唇を塞がれ、僅かに覗いた舌先で唇の表面を撫でられて、受身でいるキスの甘ったるさに浸ったまま、鳳は宍戸の薄い背中をゆっくりと手のひらで辿った。
 あたたかなからだ。
「……今度は何だ」
 再びの考え事を再び咎められたようで、宍戸に凄まれた鳳は。
 キスの主導権を奪い取ってひとしきり宍戸の唇を貪ってから囁いた。
「大好きで、大事で、そんな人を抱き締められて、嬉しいです」
「………可愛いじゃねえかよ。くそ」
「格好良い…じゃないんですか?」
 笑って鳳が言えば、悪態をつくようだった宍戸はますます憮然となって怒鳴ってくるのだ。
「どっからどう見ても可愛いだろお前は」
「それは俺の台詞だと思うんですけどねえ…」
「逆らってんじゃねえよ二年」
「現実見ましょうよ宍戸先輩」
 普段使わないような呼びかけで、結局じゃれあいの延長で、ひとしきりキスを交わしあう。
 可愛いのは、どっち。
 主張は平行だけれど、愛情は交差していて、そんな二人の関係性は。
 状態も変化も傾向も、相似の、直列。
 鳳の手首に嵌っている時の印象と、こうして手にとってみた時の印象とが、随分違う。
 宍戸はしみじみ体感している。
 昨日鳳が宍戸の部屋に忘れていった腕時計は、今宍戸の手の中で、ずっしりと重い。
 鳳の手首にある時はそんな事は感じさせないのに、こうして持ってみるとその重厚感は凄かった。
 どういう事なのかと、ひどく不思議になる。
「………………」
 宍戸は普段、時刻に関しては携帯電話があればいいと思っているので、腕時計は身につけない。
 だから余計になのか、これではまるで拘束器具めいていないかとつい思ってしまう程に鳳の腕時計は重かった。
 重みを持て余しがちに手にしながら、でも普段これを身につけているのなら、忘れていってしまうのもおかしな話だと宍戸は考えた。
 違和感を覚えないのだろうか。
 これだけの存在感が、普段あるべき場所にないというのは。
「……これで三回目だぜ…長太郎の奴」
 誰に言うでもなく呟きながら、宍戸は足を早める。
 向かっているのはテニス部の、レギュラー専用部室だ。
 一時間目が始まる前に鳳と会って、この忘れ物を持ち主に渡さなければならないのだ。
 用件と待ち合わせ場所と時間は、昨夜のうちにメールをしてあった。
 宍戸と違い、普段日用品として身に着けているものなら、時計がないのはさぞや不便だろうと宍戸は思って、授業が始まる前の待ち合わせにした。
 場所が部室なのは、学年の違う宍戸と鳳が落ち合うにはそこが一番手っ取り早かったからだ。
 いつものように待ち合わせ場所には先に鳳がついている。
「長太郎」
 プロのクラブハウス並みの施設を持つ部室の外壁に鳳は鞄を肩に掛けて寄りかかっていた。
 目線を伏せている横顔は、近頃頓に大人びて、硬質で、でも宍戸が声をかけると即座に顔を上げてみせた表情は柔和だ。
 この上なく。
 その満面の笑みに宍戸はつい苦笑いしてしまった。
 すぐさま駆け寄ってくる様といい、そんなにあからさまだから忠犬とか何とか言われるんだと言うってやりたくなる。
「ありがとうございます。宍戸さん。わざわざ。あと、おはようございます」
「ん、…はよ。ま、わざわざって程でもないけどよ…」
 ほら、と手にした腕時計を宍戸が差し出すと、鳳は手のひらの上に乗せてそれを受け取った。
「………………」
 軽やかな所作で鳳はその大振りの腕時計を左手首にはめる。
 宍戸は、じっと鳳の手元をを見ていた。
「……宍戸さん?」
 どうかしましたか?と優しい気遣いの滲んだ声に、宍戸は曖昧に首を振った。
「いや? 別に。ただ、お前この間も忘れていったよな。それ」
「すみません。面倒かけて…三回目ですよね、これで」
「そんなん別にいいけどよ…」
 ただなんで腕時計を忘れていくのだろう。
 それは無論腕時計を外すからで、そして外すのはいつも、どういう時かは、宍戸も知っている。
 何となく言いよどんでしまう宍戸をどう思ったのか。
 鳳は、はめた腕時計に右手を当てて、微く苦笑を滲ませた目でそこに視線を落とす。
「はずさないと、ね…?」
「………………」
「傷、つけるから。宍戸さんに」
「………長太郎?」
 ひっそりと囁かれた言葉の意味が判りづらい。
 怪訝に眉根を寄せた宍戸に、鳳は、ますます不思議な言葉を放ってくる。
「夢中になるから。すみません」
「長太郎…意味わかんねーんだけど…」
「痛かったでしょう?」
「は?」
 何が?と真顔で問い返す宍戸の腰骨の裏側に、鳳の指先が軽く触れる。
 すぐに離れていって、すこしも濃密な気配などない接触だったのに、宍戸はびくりと身体を竦ませた。
「そこ、ね…」
「………っ……」
「後ろから、」
「…、…長太郎、…っ…」
 朝早くから、こんな場所で、鳳が何を口にし出したのか察して、宍戸は息を詰めた。
 怒鳴り声がやけに弱々しいのは実感していた。
「掴んで、支えて、動いたからこすれて、真赤に擦れてた」
「ば…、っ……」
 何を言っているのかと狼狽しながらも、すぐに思いおこす事が出来るリアルな記憶。
 組み敷かれて、うつ伏せて、片頬をシーツに埋めて、腰をきつく掴まれ、幾度も。
 幾度も。
「…………ッ、…」
 宍戸が生々しい記憶に硬直しつつも、それで気づかされた事に、ふと目を瞠る。
「………長太郎、…お前…だから腕時計はずすのか…?」
 宍戸を抱く時に、鳳は腕時計をはずすのだ。
 その事は宍戸も判っていた。
 けれど、意味合いは全く違っていたらしく、だからなのかと宍戸が問いかければ当然だというように鳳は頷いた。
「前に、腕時計はめたままして、随分痛くさせちゃいましたから…」
「……大袈裟。……っつーか、お前…さぁ…」
 痛みなどあったのかどうかすら危うい。
 それなのにあくまでも宍戸に痛みを覚えさせないようにと、鳳は腕時計をはずしていたと言う。
 宍戸はそんな鳳を見て、いつもこう思っていたのにだ。
「お前は、すげえ余裕あるよなぁって…俺は思ってた」
 思わず、ぽろっと口から出てしまった宍戸の呟きに、今度は鳳が仰天する。
「余裕…って……何ですか。それ。そんなのあるわけないじゃないですか」
「……っ…、…だってお前、こっちは最初っから訳わかんなくされてんのに、お前は平然と腕時計はずしてやがるしよ…!」
 両肩を鳳の大きな手のひらに掴まれてしまって、揺さぶりたてられそうな剣幕に、宍戸は怒鳴った。
 本当に。
 いつも思っていた。
 すぐに正気でなくなるような自分とは違い、鳳は冷静に最初に腕時計をはずすのだと。
「宍戸さん」
「…んだよっ。凄むんじゃねえよっ」
 信じらんない、と珍しく砕けきった口調で鳳に呻かれて、宍戸は怯みそうになる。
「何を考えてんですか。宍戸さんは」
「てめ……思いっきり馬鹿にしてんだろ」
「思いっきり唖然としてるんです」
 俺のどこをどう見てそんな、と鳳は言いながら宍戸を抱きこんできた。
 それこそ宍戸の背筋に鳳の腕時計が食い込んでくるくらい強く。
「長太郎、っ……おま、…ここどこだか判って…っ…」
「余裕あるって……余裕って……よりにもよって宍戸さんが俺にそれ言いますか」
「聞けよ長太郎…っ……、つーか離せバカッ」
 一気に気恥ずかしくなって怒鳴る宍戸にお構いなく、鳳は抱擁の腕の力をきつくする。
「時計痛いって…!」
「余裕だなんて思われるくらいならもう二度とはずしません」
「今の話だ今のっ」
「もー…ほんと信じらんない」
 会話になっているのかいないのか。
 呆れた鳳と怒鳴る宍戸の取り合わせだが、しかし抱き締めあったままの喧騒は、紛う事なき恋愛の密度で満ち満ちている。
 二人になりたくないだとか、話をしたくないだとか、そう言われてしまったらもう成す術がない。
 きっかけはちょっとした意見の食い違いだった筈。
 その筈だよなあ、と今となっては迷うみたいに思えてならない。
 鳳はその自問自答で、改めて深く落ち込んでしまった。
 いつまでもこうして学校の中庭で立ち尽くしている自分も相当間が抜けている。
 ぼんやり見つめるのは、今しがた宍戸に振り払われた自分の手だ。
 何がどう、どこでこじれてしまったのか。
 数日前のささやかな言い争いは、今となっては宍戸の完全な拒絶でもって、鳳には取り繕う事すら出来ない状態だった。
 だいたいそんなに長いこと、宍戸と話もせず、顔も合わせず、気まずいままでいるなんて事、土台鳳には無理な話なのだ。
 これまでも、小さな諍いが起きる度、大抵は鳳の方から宍戸に接触を試みていた。
 それでまた言い合うにしろ、お互い神妙に謝るにしろ、何とはなしに普段通りになるにしろ、これまでならそれで状況の進展や改善が成されてきた訳なのだが。
 今回は、どうにも事態が収集されないまま拗れに拗れている。
 メール、電話、直接会う、鳳がどの行動に出ても宍戸は頑なに鳳を拒絶するのだ。
 怒っている顔で、でも傷ついている目で、どこか悔しそうに、顔を反らしてしまう。
 挙句に先程のような駄目押しの台詞まで口にされてしまって、鳳はすでにこれは普段の諍いのレベルの話ではないと思い、吐き気すらしてくる。
 宍戸の存在が取り上げられてしまうと、こうまで自分のバランスが乱れてしまうのだと再確認して、鳳はいよいよどうすればいいのかを暗澹と思い悩んだ。
 落ち込んではいるものの、だんだんと煮詰まってきている鳳は、強く自制していないと自分が何をしでかすか判らないという強迫観念にも襲われている。
 腹立ち紛れに取り返しのつかない態度や言葉を放ちたくない。
「よーう、アンニュイ色男ー。いつまで固まってんだー?」
 もうここにはいない宍戸の、去り際の頑なで強固な拒絶を思えば何度でも何度でも最下層まで気分も沈みきる。
 そんな鳳は、耳では聞こえていたものの、言われた言葉の意味を理解するのに恐ろしく時間がかかってしまった。
「……………え?」
 ひどく間の悪いテンポで鳳が横を向くと、そこには見事に呆れ顔をした上級生がいた。
「あれ…向日先輩…」
「あれー向日先輩ーじゃねーっつの。ボケてんのかお前!」
 身軽で小柄な彼はそう怒鳴ると、一瞬で鳳の近くまで来て、鳳の向こう脛を蹴り付けてくる。
「小さくて見えなかったとかほざいたら蹴る!」
「もう蹴ってるじゃないですか!」
 実際身長差はかなりある。
 鳳はそれでも上級生の攻撃を甘んじて受けるしかない。
 この先輩は時々ひどく凶暴だ。
「鳳よー。お前ら今回随分こじれてんじゃねーの?」
「……は……?」
「今更しらばっくれんな! むかつくな!」
「は、…すみません」
 手荒に、手でも殴られる。
 避けたら倍増だろうなと思い、鳳はひとしきり向日に攻撃された。
 その後、それでお前何やらかしたんだ?と向日は鳳のネクタイを引張った。
「何だかんだ言ったって、宍戸の奴はお前に甘いってのに。あんな風に拒否られるってことは、お前相当ヤバイことしたんだろ。例えば無理矢理やっ」
「宍戸さんにそんな事しませんよ…!」
 今抱える強迫観念には敢えて目を瞑って、鳳は慌てて叫んだ。
 ネクタイが引張られて首元が苦しいので、屈みこむようにして向日の目を見て言う。
「きっかけはちょっとした意見の違いというか……そんなにとんでもない事って感じじゃなかったんですよ!」
「でも宍戸、すっげえ怒ってんじゃん?」
「……なので、ちょっとした事なんて思ってるのは俺だけで、実際は俺が宍戸さんに何かすごく酷い事を言ったりやったりしたのかと思って、話を聞こうとしてるんですけど、……」
「あー…完全拒否な訳だ。…それでさっきの捨て台詞か?」
 こんな所じゃなくて、二人でいられる所で話をしようと言った鳳に。
 二人にはならない、話もしない、と言い切っていなくなった宍戸だ。
 思い返して再度どっぷりと落ち込んだ鳳の肩を、向日がたいして深刻そうでもない様子で叩いた。
「まあ、ちょっと待てよ。悩むのその後にしな。多分今頃、侑士が宍戸に探りいれてるからよ」
「……はい? 忍足先輩が…ですか?」
「そうそう。お節介侑士がさ」
 茶化す言い方をしても、こと忍足に関して他者が少しでも他意のある言い方をすれば烈火の如く怒るのもまた向日だ。
「見るに見かねてってやつらしいぜ。俺は面倒くせえって言ったんだけどな。張り込んでたわけよ、さっきまで。それで、俺はお前担当、侑士が宍戸担当で、事情を探る」
「………………」
「………あ、鳳、お前…!」
 そう聞いた瞬間の鳳の表情だけで向日は悟ったらしく、途端に憤慨して鳳を睨みつけてきた。
「嫉妬丸出しのツラしてんじゃねえよ! っつーか、侑士と宍戸が今二人でいるってだけで、そういうツラすんの、この俺に失礼じゃね?!」
「……いえ、…疑うっていうんじゃなくてですね」
 鳳は、すみませんと言ってから真摯に首を振った。
「……それで宍戸さんが、今何をどうして怒ってるのかを忍足先輩に話したら……悔しいなって思ったんです」
「………お前がいくら聞いても答えなかったのに?」
「はい」
 あーそっか、と向日は神妙に頷いた。
 確かにそうだなと頷く小さな頭を鳳は苦笑で眺め下ろす。
「しょうがねえ。まあ、そん時は慰めてやっからよ」
「……はあ……すみません」
 向日のさばさばした男っぽさに鳳は苦笑いを浮かべたまま目礼する。
「お、メール。侑士だな。………カフェテリア、よし、了解」
 携帯電話を取り出して素早くメールを確認した向日が、鳳のネクタイを引っ張って歩き出した。
「ちょ…っ……向日先輩、」
「飼い主いねえんだからしょうがねえだろ。キリキリ歩け」
「歩きますよ! 首輪じゃないんですから引張んないでください…!」
「生意気言うな!」
 何の言い争いだか判ったものではない。
 鳳は向日に半ば引きずられるようにして、校内施設であるカフェテリアに向かう。
 オープンエリアのテラス席で、忍足がひらひらと手を振っていた。
「侑士! どうだったよ? 宍戸何であんな怒ってんの?」
 矢継ぎ早に問う向日と、彼の背後にいる鳳が、二人がかりで見つめた先。
 足を組んで座っている忍足は、ゆったりと背凭れに寄りかかって、にこやかに言った。
「あかんわ。ぜんっぜん口割らへんねん」
「はあ? 何やってんだよ侑士!」
「堪忍なぁ、岳人。俺、頑張ったんやけどなー」
 憤慨する向日とは対照的に、至ってのんびりと忍足が告げるのに。
 鳳はそれはそれで安堵した。
 宍戸があそこまで気分を害している理由を、自分には告げず他の相手ならば言うという状況だけは免れたのだ。
「………………」
 忍足と向日が、ああでもないこうでもないと話し出すのを。
 同じテーブルについて、鳳はぼんやりと見つめる。
 考えている事は宍戸の事だけなので、鳳は先程の向日の時と全く同じリアクションをとる羽目になった。
「ししどのはなしー…?……なんでししどが、おーとりとはなししないか、おれしってるしー……」
「はあ?! ジロー、マジで?!」
「何や…起きたのか、ジロー?」
 テラス席の一番端のテーブルに、顔を伏せて眠っていたジローが、ゆらりと顔を上げて言った言葉に向日と忍足が反応してから、鳳は我にかえった。
「ジロー先輩……?!」
 くあ、と大きく欠伸をして、ジローは頬杖をついて鳳を流し見てきた。
 涙目だが、意識は覚醒してきているらしい。
 小さく笑っている。
「宍戸はねー、鳳とふたりきりになっちゃうと、だめなんだって」
「………駄目…というのは?」
 事と次第によってはどうともとれる言い方に、鳳は強張った面持ちで先を促す。
 ジローはまた欠伸をした。
「むかついててもー…? 鳳とふたりになって、話とかしちゃうと、宍戸は怒ってらんなくなるんだって」 
「………………」
「ふたりきりになっちゃったら、それだけでもうだめなんだって。だから嫌なんだって」
「許したくない……って事じゃないみたいやな」
「……つーか、ゲロ甘だろ。その言い草は」
 絶句する鳳にお構い無しに、忍足と向日はぼそぼそと顔をつき合わせて話をしている。
「あとねー……なんか、今みたいにまでなっちゃったら、いい加減鳳も愛想つかしてんじゃねーのって言ってた。で、もし鳳と二人きりになって、鳳から別れ話とかされたらどうすんだって言ってた」
「しませんよ!」
「……しないやろ…」
「しねーよな…」
 俺その時は慰め係って言っておいた!と宣言してから、ぱたりとジローはテーブルに顔を伏せ寝入ってしまう。。
 鳳の心中は複雑極まりない。
 ジローにはそういう事を告げている宍戸がというよりも、その宍戸の考え自体が鳳には驚愕だった。
「ジローなら許しちゃうわけ?」
 含み笑いする向日と、何の話?と首を傾げる忍足を前に、鳳は無言でいる。
「それで逃げ回ってんのかよ。宍戸もちっちぇえなー」
「岳人は男らしな」
 楽しげに笑っていた忍足が、鳳の制服の袖口を指で引張る。
「はい…?」
「宍戸。帰るみたいやで。どないする?」
 逆の手の親指で、裏門を指差す忍足に言われるままに鳳が眼差しを向けると、そこには確かに宍戸の姿が見て取れた。
「だいたいさー、鳳。お前、思いつめたような顔しすぎなんだよ。なっ、侑士」
「岳人の言う通りやで。だから宍戸もびびってんのと違うか?」
 笑ってれば人懐っこくて取っつきやすいワンコみたいなのによー、と可愛らしい事この上ない向日に言われ、鳳は勢い良く立ち上がった。
 椅子が音をたて、向日は咄嗟に忍足の腕に取り縋る。
「なん、…なんだっ?」
「…………宍戸さんを怖がらせなければいいわけですね」
「侑士、こえーよ、こいつ…」
「きれたな…鳳」
 びくつく向日と苦笑いの忍足を他所に、鳳は立ち上がったまま、すう、と息を吸い込んだ。
 目を閉じて、息を溜めて、そして。
 宍戸の名前と謝罪の言葉を口に出す。
 そのすさまじい声量に、向日と忍足は耳を塞ぎ、離れた所にいたジローは椅子から落ちた。
「なに? なに? なに?」
「……こいつに羞恥心ってもんはねえのかっ?」
「あ、…宍戸、走ってきよるで」
 顔真赤やん、と忍足が爆笑する。
「そりゃそうだろ。ごめんなさいもうしません怒んないで下さい宍戸さーん……だぜ?」
 心底から呆れて向日は頬を引き攣らせる。
 這いずってきたジローも、どうしたの鳳、と露骨に鳳を指差して不審気に忍足に問いかける。
「宍戸を怖がらせない方法で謝っとる……らしいで?」
「それで恥ずかしがらせて?」
「また怒らせんのか?」
 ジローと向日が言うように、物凄い勢いでテラス席まで走ってきた宍戸は、手もつけられない状態で、怒っている。
 怒っている、けれど。
 ない交ぜになった羞恥心や、ほっとした故の混乱も、確かに見て取れた。
 現に鳳も、宍戸に胸倉を掴まれ怒鳴られながらも、やっと正面きって向き合ってくれた宍戸に安堵する。
 背中に上級生達からの呆れた眼差しを感じないでもなかったが、鳳は激昂している大切な人を、両腕でしっかりと抱きこんだ。
 怒声は胸元にぶつかって、赤く染まっている耳元の熱を唇で感じて、鳳はもう一度そこで囁く。
 ごめんなさい、という言葉と共に。
 わだかまりを抱えた人は、鳳の腕の中に和らいで溶けた。
 気をとられて歩調が緩む、そんな店だった。
「なあ、長太郎。これ、ケーキ屋?」
 鳳の家へ向かう慣れた道で宍戸が初めて気づいた小さな店を指差して問うと、隣を歩いていた鳳が丁寧に同意する。
「はい。先週末にオープンしたんです」
 明るいクリーム色に塗られた壁面。
 細工の細かいアイアンの扉。
 ガラスの奥の店内も甘い色合いだった。
 入口にはカラフルなチョークアートの立て看板に、色とりどりの花の鉢植え。
 見るからに可愛らしい造りと、ふわりと漂う菓子の香り。
「美味しかったですよ。そうだ、買って行きましょうか」
「え? あ、おい……」
 柔らかく微笑んで、鳳はそっと宍戸の背に手を添えて。
 店の扉に逆の手を伸ばす。
 宍戸は少々躊躇した。
 あまりにもこのケーキ屋が可愛らしすぎて、足を踏み入れるのが躊躇われたのだ。
 しかも男二人、制服でか?と思えば尚更のこと。
「宍戸さんが好きそうなケーキは……」
「ちょ、……っと待て…、長太郎」
「はい?」
 カラン、と軽やかな鐘の音。
 すでに扉は鳳の手によって開かれてしまった。
「宍戸さん?」
「いや……もういい……」
 いらっしゃいませと声もかけられてしまったこの状況で、さすがに回れ右で出て行く訳にも行かない。
 宍戸は諦めた。
 腹を括るような面持ちで中へと入る。
「………………」
 そう広くはない店内だったが、外国の家のキッチンのように明るく清潔で、何もかもが可愛らしい。
 どう考えてもこれはやはり場違いだと宍戸は思ったが、よくよく見れば連れの鳳は、場違いどころかこの空間にはまりまくっていた。
「お前……こういう場所似合うよな……」
「そうですか?」
 こんなにでかいのによと恨めしく長身の後輩を睨んだ宍戸だったが、鳳は宍戸を見つめて柔らかく笑ったままだ。
 上背もあって、手足も長くて、目立つ男。
 それなのにケーキ屋で違和感がないというのもすごい話だ。
 そして、ここにきてもう一つ。
 宍戸は気づいた。
 店内にいるスタッフの、声にならない声での賑わい。
「………………」
 店内にあるガラスケースにはきらびやかなケーキの数々。
 その奥にある厨房も見えるようになっている。
 店にいるのは全て女性だった。
 厨房でケーキをつくっているメンバーは白い帽子を、ガラスケースのすぐ奥に居る女性は茶色い帽子を被っていた。
 そして、そんな彼女達の雰囲気が一斉に華やいだ訳は当然、宍戸の横に居る、この男のせいだ。
「お前、今日でここ来るの何回目?」
「開店初日と、火曜と……今日で三回目ですね。姉がすごく気に入って、毎日でも食べたいらしいんですけどね」
 一回でも充分インパクトがあるだろう。
 この男が現れたら。
 それが三回目とあっては、すでに鳳がこの店で特別な客としてインプットされていて何ら不思議ではない。
 茶色い帽子の彼女などは、ほんのり頬が染まっていて、やはりなと宍戸は思ってしまう。
 鳳は、見目は派手な部類なのに、仕草や物言いがとことん優しく柔らかい。
 全てが丁寧で存在感も甘やかだ。
「このゼリー、宍戸さん好きかもしれない。上に乗ってるミントのジュレが美味かったですよ。あとリモーネとか、焼きリンゴのタルトもアップルパイとはまたちょっと違って美味かったし」
「………………」
 相変わらず鳳の手はさりげなく宍戸の背にあって、ショーケースを見下ろしながら宍戸が好きそうなもの、という前提で話をしている。
 なめらかな声といい、エスコートじみた振る舞いといい、本当にこいつはなあ、と宍戸はこっそり溜息をつく。
 微苦笑交じりのそれに悪い意味など欠片もない。
 自分とは違う鳳のそういうところが、宍戸も好きだった。
「じゃ、その焼きリンゴのやつにする」
「あとは?」
「お前にまかせる。俺が好きそうなやつ選んでくれ」
「了解です」
 そんな言い方を宍戸がしても、鳳は嬉しそうに頷くだけだ。
 鳳にオーダーを任せている間、厨房の女性陣があからさまに動きが止まっていて、宍戸はちょっとおかしくなってしまった。
 マジでもてるんだよなあ、こいつ、と。
 横目で鳳を見やって思う。
 若干ちくりと胸にくるものもあるが、無理もないと宍戸は誰より納得してもいる。
 これからますます良い男になるんだろうなあと考えてしまうあたりが、一つとはいえ年上の思考かもしれない。
 宍戸がそんなことをつらつらと考えている間に鳳のオーダーも支払いもとうに済んでいたのだが、なかなかその先が進まない。
 あまりにもぎこちない手つきでケーキをガラスケースからトレイに移し、更に箱へと移すべく格闘している彼女は、よく見れば胸元に実習のバッチをつけている。
 焦って余計に手が動かないらしく、箱に幾つかケーキを入れた所で全てがおさまらないと気づいてやり直す、という作業を繰り返していた。
 つい宍戸がその手元を見据えてしまった事も悪循環だったのか、箱を軽く持ち上げた際に、それを机上に落として中に入っていたケーキが幾つか倒れた。
「すみません…!」
 すぐやりなおします、お待たせして、と口にした相手が殆ど涙目で、宍戸は肩で息を吐いた。
 びくっと跳ねた相手の肩先に、慌てて顔の前で軽く手を振る。
「あー……違う。苛ついてんじゃねえよ」
 鳳とは違って、宍戸の態度は概して荒くとられがちだ。
 またやっちまったかと思いながら、口調が変えられないあたり宍戸も自分でどうかと思うが、直せないものどうしようもない。
「いいよ、それで」
「え…?」
 頼りない風情ではあるが、明らかに自分よりも年上であろう女性が、心細そうに問い返してくる。
 こういう時に鳳ならきちんと優しい言葉がかけられるんだろうけどなあと思いながら、宍戸はガラスケース越しに倒れたケーキの入った箱を見やった。
 焼きリンゴのタルトの上に、ふんわりとのったクリームが一部零れているのと、キャラメルのケーキの上の飾りが落ちている。
 宍戸はガラスケースに、もう一歩近づいて、声のトーンを落とした。
「構わねえよ、それくらい」
「あの、でも」
「どうせ食うの俺達だし。形がきちんとしてるのは、ちゃんと見たからよ」
 厨房からこちらに向けられてる視線が、鳳に対してのものだけでなく、時間がかかりすぎている事を咎める気配も含まれ出している。
「失敗しなきゃうまくなんねーんだから、次ちゃんとやればいいさ」
「お客様……」
 半泣きになっている相手へ、だからといってうまい事も言えないのだから、宍戸はそっけなく告げた。
「包んじまって。それで。いいから」
 こくりと頷いた相手の目が赤くて、そこまで怯えさせていたかと宍戸の内心も複雑だった。
 もう少しどうにかならないだろうかと思うものの、どうも見た目といい態度といい、宍戸はこういう自体に陥りやすいのだ。
「お待たせしました」
「おう、どうもな」
 深々と頭を下げる相手に軽く返して、宍戸はケーキの箱を受け取って店を出る。
 代金は後で鳳の家で払おうと思い、それを言いかけた宍戸は、外に出て鳳の顔を見るなり肩を盛大に落としてしまった。
「お前ー………」
 なんつー顔してんだよと吐き捨てると、らしくもなく憮然とした面持ちの鳳もまた、深い溜息を吐き出して答えてくる。
「こんな顔にもなりますよ……」
 嫉妬深いんですよすみませんと早口に添えられて、はあ?と宍戸は首を傾げた。
「お前さ……俺が妬くならともかくさ……」
「何で宍戸さんが妬くんですか。あの子、最初から宍戸さん見て赤くなってたのに、あんな風に優しくされたらもう、絶対に宍戸さんのこと好きになった」
「は? 赤くって…そりゃお前だし! だいたいどこ見てお前、優しくとか言うか」
「あのねえ…! 宍戸さん、あなたに向けられた視線に、俺が気づかない訳ないんですけど? それにね、宍戸さんは優しいですよ。グラグラくる感じに優しくて、知ってしまうともう我慢できなくなる感じに優しいんです」
「………や、…お前の言ってること全然判んね…」
 宍戸が呆れて返しても、鳳は一向に浮上しない。
 先程まで、ケーキ屋できらきらしていた男とは思えない落ち込みっぷりに呆れつつも、宍戸は鳳の広い背中を軽く叩いた。
「お前、何かストレスたまってんじゃね? ちょうどいいから、甘いもんでも食って解消したらどうよ」
「ストレスが溜まってる時は血液が酸性になってるんで、ケーキみたいな甘い酸性の食べ物を取り込むのは逆効果なんですよ……」
 アルカリ性のものを食べないとストレス解消にはならないんです、と言った鳳に生意気だと返しながらも、しょぼくれている年下の男が可愛くない筈もない。
 宍戸はしまいに笑い出してしまう。
「じゃあ、これっぽっちも甘くない俺でも食ってストレス解消すりゃいいだろ。多分俺とかアルカリ性だ」
「宍戸さんはどこもかしこも甘いですよ!」
「ば…っ…、…んな事でけえ声で言ってんじゃねえ……!」
「宍戸さん、ケーキ! ケーキ!」
「いんだよっ、ちょっとくらい振り回したって! どうせ倒れてるんだからよっ」
 小競り合い。
 喚いて。
 構って。
 怒鳴って。
 歩いていく。
 でも鳳の家についたら。
 二人で、少し崩れたケーキを食べて。
 きっと少しは雰囲気も甘くなるだろうから、今はこれで。
 いいことにする。
 鳳の家の玄関で、靴を履き終わり帰ろうとしている宍戸と見送りに出ていた鳳は、顔を見合わせるなり、ふと口を噤んでしまった。
 それまではあれこれと他愛無い話をしていたのだけれど。
 同時に黙ってしまって、そのまま数秒。
 鳳の手が伸びてくる。
 宍戸の首の後ろに、手がかけられる。
 大きな手のひらと、長い指。
 そのまま引き寄せられるのが判って、それが嫌だった訳でも怖かった訳でもないけれど、宍戸は唇を避けた。
「………………」
 避けた、行先は眦に。
 鳳の目元に宍戸から口付けて、少し爪先立って、目を閉じる。
 すぐに背中を抱かれた。
 背筋が反る。
「宍戸さん」
「………………」
 少し顔を動かして、宍戸の耳の下、顎に繋がる骨の上に鳳はキスをした。
 同時に首の裏側の皮膚を撫でられる。
 存在を知らなかった残り火を焚きつけられたようで、宍戸は息を詰めた。
 小さく慄いて、うつむいて、また顔を上げて。
 目と目が合う。
 こうなったら、もう駄目だ。
 結局唇と唇で近づいていく。
 キスをする。
 数回、繰り返し、深くなる寸前、僅かな隙間で宍戸は呟いた。
「……帰れなくなるって…」
 もう勘弁、と。
 珍しいと自覚する泣き言を口にすれば、鳳もまた珍しく、少し強引に宍戸の唇を塞いできた。
「………っ……ぅ…」
「………………」
「ン…、……、…」
 舌と舌が密着して濃厚に繋がってしまう。
 腰を抱かれて、唇がやわらかくすきまなくかみあって、中から濡れてくる感触に膝が震え出した。
「……長、太郎…、…っ」
 息を継ぐために離れた合間で名前を呼ぶと、鳳は少し辛そうな目をして動きを押しとどめ、宍戸を見つめてきた。
「………、っ」
 舌で、濡れた宍戸の唇の表面を舐め上げてくる。
 欲望の明け透けな鳳に、宍戸の脚は一層震えて止まらない。
「やっぱり送っていきます」
 呟く声に、ぞくりとしながら。
 宍戸は鳳の胸元に顔を伏せる。
 きりの無い恋情に、流されてしまった方がいっそ楽なのかもしれない。
 でもそう出来る事の方が少ないから苦しい。
「……外でこんな真似出来ねえだろ」
 鳳の送られたとして、別れ際には、また。
 今と同じ気持ちになるのだろう。
「宍戸さん」
 強く抱き締められて、ほっとする。
 同時に、もっとと、欲しもする。
「たしなめる方も、いい加減しんどいんだからな」
 年上だからと思って言うのだけれど。
 望んでいるのは、自分だって同じ程。
 恨み言を鳳の胸元になすりつけてやれば、ぽつんと鳳が低く小声で囁いてくる。
「ちょっとは、そそのかされてくれたらいいのにって思うんですけど」
「人の努力をぶち壊そうとすんな、アホ」
「なるべく普段は精一杯に聞き分け良くしてる反動です」
 ああもうかわいい。
 宍戸は心中でがなるように思う。
 強い腕で優しく抱きこんできて、言葉遣いを崩す事も無く、滑らかに甘い声で、ぐずる年下の男の我儘なら。
 いっそ何でも聞いてやりたいと思うけれど。
「長太郎」
 ほら、と広い背中を軽く手のひらで叩くと、鳳は宍戸の肩口から視線を引き上げてきた。
 その唇に、頬に、目元に。
 浅く口付けてやって、宍戸は囁いた。
「明日な」
「………………」
 鳳が宍戸の右手を取る。
 手の甲を親指の腹でゆるく撫でさすってから、指先を支えて爪の上に口付けてくる。
 綺麗な仕草で、爪先に灯る熱。
 感じ取って、感じ入って、浮かされる。
「………………」
 宍戸の指先に唇を寄せながら、鳳は眼差しを上目に引き上げて、唇を動かした。
 声にはしない言葉に指で触れる。
 好きだ、と動いた唇と。
 煮詰まった熱を湛えた瞳。
 だからもう、と泣き言を言いたい気分で宍戸は背中を向けるのだ。
 甘ったるい余韻が色濃い指先を握りこんで。
 明日までどうしたらいいのか、本気で思い悩むような濃い想いに雁字搦めにされたまま。
「………………」
 鳳の家の扉を閉めて、ドアに一時背中を当てて寄りかかる。
 冬の夕刻の外気に吐息をこぼすと、白く煙るようにそこだけ色が変わった。
 意識も何もなく、宍戸は右手の指先を唇に押し当てて目を閉じた。


 もう本当に、どこかでどうにかしないといけない、そう思うほどに高まっていくばかりの感情。
 でも、どうにかできるのならば、とうにしている筈だと、判ってもいるから身動きもとれない。
 ずっと、ずっと、二人して。
 自分達は甘苦しい坩堝の中に在るのだ。
 ずっと、ずっと、二人して。
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