How did you feel at your first kiss?
おかしいなおかしいなと神尾がしきりに首を傾げて呟くのがいい加減面倒になった。
跡部は神尾の手を握る。
途端に数センチ露骨に飛び上った神尾が、勢いよく跡部を見上げて口をぱくぱくと動かした。
声はない。
どうも出ないらしい。
跡部は唇の端を引き上げた。
「行くぞ」
「…あ…とべ、…!」
「何だ」
「手、っ」
「あん?」
「だからっ、手っ」
ぶん、と腕から大きく振られたが、みすみす振り解かさせる訳がない。
跡部はしっかりと互いの指を絡めて繋いだ手をそのまま自分の口元近くまで持ち上げて、神尾の顔を上目に覗きこんでやった。
身長は、無論跡部の方が高い。
しかし上目で覗き込む。
その効果の程は明らかだ。
神尾は、どっと赤くなった。
判りやす過ぎる表情で、再び声もなく、開閉だけを繰り返す薄い唇に執着が募る前に、跡部はさっさと歩き出す事にした。
半ば神尾を引きずるようにして、ゲートをくぐる。
二人で足を踏み入れたその先が、どこかと言えば。
「お前が来たいっつったんだろうが」
「や、…、そ、だけどさ…!」
水族館である。
「そうなんだけどさ…!」
十月四日の事だった。
イルカショーのステージの最前列で、相変わらず神尾は、おかしいなおかしいなと首を傾げていた。
飽きねえなこいつ、と横目で呆れる跡部も、結局は。
自分も同じだという自覚は持っている。
跡部は跡部で、まるで飽きずにそんな神尾を眺めているのだから。
「なあ、跡部? 今日、跡部の誕生日だろ?」
「それが何だ」
判り切った事を確認するなと言い捨てても、珍しく神尾は噛みついてこなかった。
むしろ眉毛を下げるような頼りなげな表情で、途方に暮れたような顔で、じっと跡部を見上げてくる。
ガキくせえ、と思う反面。
何なんだそのツラはと腹も立ってくる。
己の分の悪さを自覚させられるからだ。
周辺は、それこそ本物の、お子様だらけだ。
子供、幼児、揃ってきゃあきゃあと賑やか極まりない。
そもそもこの状況下にいる自分という図も跡部には些か頭が痛い所なのに。
どうしてこんな場所で、そのど真ん中で、うっかり自分はこんな気分になっているのか。
原因を、睨むように跡部は見据えた。
「………………」
普段あまり目にする事のないような表情で自分を必死に直視してくる神尾の存在は、うっかりと跡部に現実を忘れかけさせる。
要は、何と言うかもう。
肩でも抱いてさっさと唇でも塞ぎたいというのが跡部の心情だ。
「………………」
「跡部の誕生日なのにさあ……何で俺が行きたいって言ったとこに来てんの? 俺ら」
普段、長い前髪に隠れている筈の神尾の左目が露になる。
露骨に首を傾げるからだ。
ほっそりとした首筋に気を取られる自分に、跡部は盛大な溜息を零した。
「た、……溜息つくくらいなら、ちゃんと希望言えば良いだろ…っ」
俺は跡部にちゃんと聞いたのに!と眉間を歪める神尾は盛大な勘違いをしているようで、仕方なく跡部は軽く笑った。
様にならねえシチュエーションだと呆れながら、跡部は神尾の耳元に顔を近づける。
「笑ってろ」
「……え…?」
吐息程度の囁きも、さすがにこの至近距離では正確に聞きとったらしい。
神尾の微かな問いかけに、跡部は尚声をひそめた。
「…お前のそういうツラが見たいから、ここがいいって言ったんだ」
だから笑ってろと。
ごまかしとか、からかいではない、あくまでも本音で跡部は告げた。
あの時神尾が、あまりにも楽しそうな顔で言ったから。
だから跡部もそれが欲しくなった。
『跡部、イルカってさ、すっげーの! 可愛いの!』
『あのな? イルカって、いっつもわくわくしてんだって!』
『何してても、遊んでて、わくわくしてて、楽しいって思ってるんだって!』
『ものっすごい可愛くね? 俺、イルカって、本物見たことないんだよなー。そんなの知ったら本物見たくなるよなー』
そう言って、たまたま見ていた雑誌の中の記事を、神尾は跡部に見せてきた。
はっきり言って、そういうのはイルカというよりお前だろ、と跡部は考えていたのだけれど。
神尾の、全開の、満面の、笑顔を見て、思ったのだけれど。
別段ねだられた訳でもないのに、それなら本物のイルカくらいすぐにでも見せてやると跡部が動くくらいには、神尾の笑顔には威力があった。
思い出して、跡部の唇から微かに笑みが零れる。
そしてそれと同時に。
「神尾。俺様は赤くなれとは言ってねえ」
わざと意地悪く言ってやれば、神尾は真っ赤な顔のまま跡部を睨みつけてきた。
跡部が囁いた方の耳を片手で覆って、わなわなと震えている。
今度こそ、跡部は屈託なく笑った。
おかしくて、そして多分、浮かれてもいて。
「跡部ー!」
笛の音が響き渡った。
始まるぞ、と隣に座る神尾の薄い背中に跡部が手を当てた時だ。
挨拶代わりにか、プールからイルカが高く空に飛び上がる。
大きな水音と同時に、派手な水飛沫がたって。
「……………何やってんだ、お前…」
「え? 何が? いや、それより大丈夫か? 跡部」
弾けた子供達の甲高い声の共鳴も一瞬無になる。
そのくらい、跡部は呆気にとられて、自分を庇うようにしてきた神尾を見やった。
イルカの起こした水飛沫は大量にではないものの、それでもあきらかな水分量で周辺に飛び散っている。
現に神尾の髪は水滴を帯びていた。
「濡れなかった? 大丈夫?」
「………………」
どうやらこの可愛いのに男前に庇われたらしいと再認識し、跡部はそれは複雑に押し黙った。
よりにもよって、どういう有様だ、これは。
お兄ちゃんやさしいね!なんて近くにいた幼女に称賛されている神尾を、跡部は尚も唖然と見やるしかない。
「そうか? でもさー、出来たら、やさしいより、かっこいいって言ってくれよな?」
「うん! お兄ちゃんかっこいい!」
「おー、サンキュー!」
「…………おい」
仲睦まじい会話に、跡部は目を据わらせて低く割って入った。
神尾がこちらに顔を向けてくるのに。
その濡れ髪に。
笑顔の余韻に。
とにかく何もかもに跡部は眉を顰め、呟いた。
「浮気してんじゃねえ」
「………………」
多分に本音でしかない、我ながら物騒な声が出た。
今更取り繕う気もなくて、跡部が真面目に神尾を睨み据えていると、神尾はやっぱり、それは派手に赤くなって。
そのくせ妙に従順に、こくりと小さく頷いたりもした。
「……ん。…ごめん」
「………………」
「………………」
「それから?」
「…え?」
なに?とぎこちなく伺ってくる神尾に、仕方ねえなと跡部は肩を竦めた。
「俺様の誕生日だろ」
「………うん」
「少しでも祝う気があるなら、俺のしたいことさせて、俺の見たいものを見せろ」
命令。
そして同時に。
それは神尾にしか向けない甘えでもある。
ゆっくり瞬きして跡部の瞳を見つめ返した神尾は、結局のところ跡部の望むように、行動するようだった。
「………………」
そっと、周囲からは見えないように、互いの身体の間で、手と手を繋ぐ。
指を絡め、繋がって。
そして神尾は跡部をそっと窺い見て、どこかほっとしたような小さな息をついた。
「………………」
再びジャンプするイルカに、神尾の視線が移行する。
無心な、稚い眼差しと。
未だ跡部を引きずって余韻に微かに染まる頬とを。
跡部は欠片の遠慮もなく、その体勢から存分に堪能した。
果たしてその日その場所で。
誰より何より高い周波数で。
ワクワクと、何もかを楽しんでいたのは、誰だったのか。
イルカのショーは幾度となく水飛沫を立ち上げて、その都度小さな虹の弧を生み、アニバーサリーをささやかに、繰り返し、祝福したのだった。
跡部は神尾の手を握る。
途端に数センチ露骨に飛び上った神尾が、勢いよく跡部を見上げて口をぱくぱくと動かした。
声はない。
どうも出ないらしい。
跡部は唇の端を引き上げた。
「行くぞ」
「…あ…とべ、…!」
「何だ」
「手、っ」
「あん?」
「だからっ、手っ」
ぶん、と腕から大きく振られたが、みすみす振り解かさせる訳がない。
跡部はしっかりと互いの指を絡めて繋いだ手をそのまま自分の口元近くまで持ち上げて、神尾の顔を上目に覗きこんでやった。
身長は、無論跡部の方が高い。
しかし上目で覗き込む。
その効果の程は明らかだ。
神尾は、どっと赤くなった。
判りやす過ぎる表情で、再び声もなく、開閉だけを繰り返す薄い唇に執着が募る前に、跡部はさっさと歩き出す事にした。
半ば神尾を引きずるようにして、ゲートをくぐる。
二人で足を踏み入れたその先が、どこかと言えば。
「お前が来たいっつったんだろうが」
「や、…、そ、だけどさ…!」
水族館である。
「そうなんだけどさ…!」
十月四日の事だった。
イルカショーのステージの最前列で、相変わらず神尾は、おかしいなおかしいなと首を傾げていた。
飽きねえなこいつ、と横目で呆れる跡部も、結局は。
自分も同じだという自覚は持っている。
跡部は跡部で、まるで飽きずにそんな神尾を眺めているのだから。
「なあ、跡部? 今日、跡部の誕生日だろ?」
「それが何だ」
判り切った事を確認するなと言い捨てても、珍しく神尾は噛みついてこなかった。
むしろ眉毛を下げるような頼りなげな表情で、途方に暮れたような顔で、じっと跡部を見上げてくる。
ガキくせえ、と思う反面。
何なんだそのツラはと腹も立ってくる。
己の分の悪さを自覚させられるからだ。
周辺は、それこそ本物の、お子様だらけだ。
子供、幼児、揃ってきゃあきゃあと賑やか極まりない。
そもそもこの状況下にいる自分という図も跡部には些か頭が痛い所なのに。
どうしてこんな場所で、そのど真ん中で、うっかり自分はこんな気分になっているのか。
原因を、睨むように跡部は見据えた。
「………………」
普段あまり目にする事のないような表情で自分を必死に直視してくる神尾の存在は、うっかりと跡部に現実を忘れかけさせる。
要は、何と言うかもう。
肩でも抱いてさっさと唇でも塞ぎたいというのが跡部の心情だ。
「………………」
「跡部の誕生日なのにさあ……何で俺が行きたいって言ったとこに来てんの? 俺ら」
普段、長い前髪に隠れている筈の神尾の左目が露になる。
露骨に首を傾げるからだ。
ほっそりとした首筋に気を取られる自分に、跡部は盛大な溜息を零した。
「た、……溜息つくくらいなら、ちゃんと希望言えば良いだろ…っ」
俺は跡部にちゃんと聞いたのに!と眉間を歪める神尾は盛大な勘違いをしているようで、仕方なく跡部は軽く笑った。
様にならねえシチュエーションだと呆れながら、跡部は神尾の耳元に顔を近づける。
「笑ってろ」
「……え…?」
吐息程度の囁きも、さすがにこの至近距離では正確に聞きとったらしい。
神尾の微かな問いかけに、跡部は尚声をひそめた。
「…お前のそういうツラが見たいから、ここがいいって言ったんだ」
だから笑ってろと。
ごまかしとか、からかいではない、あくまでも本音で跡部は告げた。
あの時神尾が、あまりにも楽しそうな顔で言ったから。
だから跡部もそれが欲しくなった。
『跡部、イルカってさ、すっげーの! 可愛いの!』
『あのな? イルカって、いっつもわくわくしてんだって!』
『何してても、遊んでて、わくわくしてて、楽しいって思ってるんだって!』
『ものっすごい可愛くね? 俺、イルカって、本物見たことないんだよなー。そんなの知ったら本物見たくなるよなー』
そう言って、たまたま見ていた雑誌の中の記事を、神尾は跡部に見せてきた。
はっきり言って、そういうのはイルカというよりお前だろ、と跡部は考えていたのだけれど。
神尾の、全開の、満面の、笑顔を見て、思ったのだけれど。
別段ねだられた訳でもないのに、それなら本物のイルカくらいすぐにでも見せてやると跡部が動くくらいには、神尾の笑顔には威力があった。
思い出して、跡部の唇から微かに笑みが零れる。
そしてそれと同時に。
「神尾。俺様は赤くなれとは言ってねえ」
わざと意地悪く言ってやれば、神尾は真っ赤な顔のまま跡部を睨みつけてきた。
跡部が囁いた方の耳を片手で覆って、わなわなと震えている。
今度こそ、跡部は屈託なく笑った。
おかしくて、そして多分、浮かれてもいて。
「跡部ー!」
笛の音が響き渡った。
始まるぞ、と隣に座る神尾の薄い背中に跡部が手を当てた時だ。
挨拶代わりにか、プールからイルカが高く空に飛び上がる。
大きな水音と同時に、派手な水飛沫がたって。
「……………何やってんだ、お前…」
「え? 何が? いや、それより大丈夫か? 跡部」
弾けた子供達の甲高い声の共鳴も一瞬無になる。
そのくらい、跡部は呆気にとられて、自分を庇うようにしてきた神尾を見やった。
イルカの起こした水飛沫は大量にではないものの、それでもあきらかな水分量で周辺に飛び散っている。
現に神尾の髪は水滴を帯びていた。
「濡れなかった? 大丈夫?」
「………………」
どうやらこの可愛いのに男前に庇われたらしいと再認識し、跡部はそれは複雑に押し黙った。
よりにもよって、どういう有様だ、これは。
お兄ちゃんやさしいね!なんて近くにいた幼女に称賛されている神尾を、跡部は尚も唖然と見やるしかない。
「そうか? でもさー、出来たら、やさしいより、かっこいいって言ってくれよな?」
「うん! お兄ちゃんかっこいい!」
「おー、サンキュー!」
「…………おい」
仲睦まじい会話に、跡部は目を据わらせて低く割って入った。
神尾がこちらに顔を向けてくるのに。
その濡れ髪に。
笑顔の余韻に。
とにかく何もかもに跡部は眉を顰め、呟いた。
「浮気してんじゃねえ」
「………………」
多分に本音でしかない、我ながら物騒な声が出た。
今更取り繕う気もなくて、跡部が真面目に神尾を睨み据えていると、神尾はやっぱり、それは派手に赤くなって。
そのくせ妙に従順に、こくりと小さく頷いたりもした。
「……ん。…ごめん」
「………………」
「………………」
「それから?」
「…え?」
なに?とぎこちなく伺ってくる神尾に、仕方ねえなと跡部は肩を竦めた。
「俺様の誕生日だろ」
「………うん」
「少しでも祝う気があるなら、俺のしたいことさせて、俺の見たいものを見せろ」
命令。
そして同時に。
それは神尾にしか向けない甘えでもある。
ゆっくり瞬きして跡部の瞳を見つめ返した神尾は、結局のところ跡部の望むように、行動するようだった。
「………………」
そっと、周囲からは見えないように、互いの身体の間で、手と手を繋ぐ。
指を絡め、繋がって。
そして神尾は跡部をそっと窺い見て、どこかほっとしたような小さな息をついた。
「………………」
再びジャンプするイルカに、神尾の視線が移行する。
無心な、稚い眼差しと。
未だ跡部を引きずって余韻に微かに染まる頬とを。
跡部は欠片の遠慮もなく、その体勢から存分に堪能した。
果たしてその日その場所で。
誰より何より高い周波数で。
ワクワクと、何もかを楽しんでいたのは、誰だったのか。
イルカのショーは幾度となく水飛沫を立ち上げて、その都度小さな虹の弧を生み、アニバーサリーをささやかに、繰り返し、祝福したのだった。
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電車にはあまり乗らないなんて、いかにも金持ちな事をさらりと言うから、じゃあ電車で行こうぜと神尾は跡部に言った。
勿論それは嫌がらせとかじゃなくて。
何につけても経験値の高い跡部が、殆どした事のない行動があるなんて珍しいなと思ったせいだ。
夏だし、せっかくだし、海に行こう!と神尾が言うと、てっきり面倒がるかと思った跡部は、不思議とあっさり神尾の提案に同意した。
却って神尾の方が面食らう。
「………人、多いかもしれないぜ?」
夏休みだしさあ、毎日暑いしさあ、と続けて、神尾は跡部からの返答を窺う。
「海っつっても、ブルジョワっぽいとこじゃないぜ? ふつーのとこ」
「………………」
「泳いだりとかじゃなくて、ただ見るだけっていうか。足くらいまでは入るかもしれないけど、そんな感じの海だぜ?」
そういうんでも、本当に?と念を押す。
神尾とて、行きたいのは本当、でも、ついあれこれと牽制するような言葉を紡いでしまう。
そんな神尾を跡部は呆れた顔で一瞥した。
「お前の行きたい所に連れていけばいいだろう」
冷めてる皮肉気な表情で、でも、そんな事を言って神尾を見つめてくる眼差しだけは、正直かなり甘くて。
「………あー…うん………そー…する」
そんな訳で、神尾は跡部と二人で電車に乗っている。
長旅という程の距離ではないが、数回電車を乗り継いだ。
どの電車に乗り込んでも、その都度盛大な注目を集める跡部は、相変わらずそんな視線にはまるでお構いなしだ。
乗り慣れないと言いながら、それでもいつの間にか電車内に馴染んでもいるようで。
時折窓の外の流れていく景色に目をやる跡部を、神尾は同じ回数そっと見やった。
見慣れようもない程に整った顔と、派手で華やかな雰囲気と。
肌も髪も瞳も透きとおるような色素で出来ているのに、脆弱さのまるでない力強さ。
跡部は、どうしたって目立つ。
周囲からの視線は相変わらず多々感じて、ああでもそういう風に盗み見るなんて自分こそがそうかと、神尾は内心で少々複雑に思った。
盗み見るように。
たぶん、みとれているのだろう。
二人で電車に乗るなんて、あまりない、この状況下。
結局こうなるのだ、自分は。
この場にいる誰よりも、熱っぽく跡部を見ているに違いない。
「………………」
いっそ昔の方が平気だったなと神尾は思い返した。
跡部の顔がどれだけ綺麗だろうが、神尾がそこに拘ったり、ましてやみとれるなんて事はなかったし。
一緒に出かけるのが嬉しいとか、二人で海に向う事が楽しみでならないとか、そういう感情で胸の中がどきどきするなんて事もなかったのに。
跡部とつきあいだして、どんどんそういうものが増えていく。
溢れ出させても、枯渇の気配もなく、ただただふくれあがるばかりなのだ。
きっと、自分が変なんだ。
神尾はそう考えている。
だって跡部は変わらない。
喧嘩めいた言葉の応酬ばかりだった出会いの当初から考えたら、格段に優しい所や甘い所も見せてくれるけれど。
でも多分跡部のそういう部分は、本来、元々跡部にあるものなのだ。
昔の神尾はそれに全く気付かなくて、今になって、些細なあれこれに漸く気が向くようになった。
神尾は跡部とつきあうようになって、世の中が引っ繰り返ったような衝撃を受けたけれど、跡部はあくまでも跡部のままだ。
衝撃などなかった筈だ。
それはそれでいいと神尾は思っている。
だって、それは相手が、あくまでもあの跡部なのだから、仕方がない事なのだ。
跡部は変わらないだろう。
でもこうやって限度なく頭の中が跡部ばかりになっていく自分は、どうなんだろう。
何も特別な事をしていなくても、殆ど勝手に、跡部で埋まってしまうような自分は。
「………………」
線路を走る電車の揺れと音。
周囲からの視線。
特に会話のない自分達。
徐々に海に近づいて行く。
電車の窓の外には、海の気配を帯びた真夏の風景が次々と流れていっている。
車内の混み具合は適度だった。
座る座席はなく、立っている乗客も少なくないが、混雑という程でもない。
並んで立っている跡部と神尾の距離感は、少し近くなったり、また元に戻ったり。
レトロな電車が急な曲がり角を走り抜ける際に音をたてて揺れても、立っている跡部の足元は全く揺らがなかった。
こんな場所でも独自の世界に君臨するかの如く、跡部は圧倒的な存在感を放つ。
バランス感覚いいよなあと神尾がぼんやりと考えた時だ。
「何だ」
「え?」
いよいよじっと見つめすぎたのか、跡部の怜悧な視線が電車外の風景から神尾へと唐突に戻ってきた。
短く問われ、あからさまに視線を外すのも不自然かと、神尾はどうにかそれは踏みとどまった。
とどのつまり相当熱烈に跡部を見ていたのであろう自分が、今いったいどんな顔をしているのかはさすがに考えたくなかった。
「どこで降りる」
「え…?………、…高校駅前」
ひそめる事はなかったが何となく小さな声で返答した神尾を一瞥して、跡部は再び車窓の外へと視線を向ける。
跡部が気づかない訳がないのに。
神尾の少々の居た堪れなさを汲んでくれたのか、跡部は何も言わなかった。
「………………」
そうやってまた眼下に晒されたなめらかでシャープな印象の跡部の横顔を、また見詰めていてもいいのかどうか。
一時逡巡した神尾は、次の瞬間、思わぬ事態に息を飲んだ。
「…………っ……」
左の親指を、そっと、跡部の手に取られたのだ。
跡部の親指と人差し指に付け根を挟まれ、そこからゆっくりと、爪先まで滑り下ろされる。
それだけの接触に、一緒に自分の中の何かも持って行かれそうで、神尾は小さく首を竦めた。
「……、………な…」
何やって、と言って咄嗟に引きかけた神尾の手の、今度は小指を、跡部が握りこんでくる。
手を繋いでいるというよりも、これは。
愛撫だ。
明らかな。
そしてあからさまな。
神尾は真っ赤になった。
これだけ。
これだけなのに、なんで、と。
跡部を責めるより自分の反応に混乱する。
第一、電車内でこういうのって、どうなんだ。
人目は、あるどころじゃない。
跡部に対して凄まじく集まってきているというのに。
絶対見られてる。
全部、見られている。
「悪くねえんじゃねえの。電車も」
「……ぇ…?」
混乱するあまりに硬直し、強引にでも取り戻しそびれている己の手を、跡部の手に甘ったるくいじられ、こんな真似いよいよ往来でまずいだろうと神尾が意を決して腕を引く、またそのタイミングで。
跡部の親指と人差し指に挟まれた、神尾の薬指の爪。
それだけで簡単に、神尾は跡部に引き戻される。
「…、跡部……」
「手くらい寄越せ」
それで聞きわけてやるから、と神尾の耳元で跡部が低く囁いた。
神尾をからかう声音ではない。
それはまるで妥協案の提案だ。
否、いっそ懇願めいて。
跡部が何でそんな事を言って、何でこんな手つきで、ずっと、そっと、自分に触れてくるのか。
こうやって爪先を跡部の指に挟まれているだけで、小さな炎が爪先に灯るようだった。
じん、と疼くような熱が生まれるのも判って、ますます恥ずかしかった。
「………絶対、すっげえ、見られてる…」
呻くように呟けば、溜息のように笑われて。
「それがどうした」
「…、…跡部、さあ」
何でそう衒いがないんだと神尾は言葉を詰まらせる。
「この程度で、そこまでなるお前が俺には判んねえよ」
「………………」
言って、笑った跡部が。
いっそ屈託なくて。
ああもうだめだと神尾は顔を伏せた。
そうしたらそうしたで神尾の視界に入ってくるのは、指先同士で繋がる自分と跡部の手なのだけれど。
どれだけ恥ずかしくたって。
人の視線を気にしたって。
結局神尾はそれを振り払えない。
そういう事実がまたどうしようもなく恥ずかしい。
「おい」
「…………なに…」
「お前、いざって時はちゃんと弁明しろよ」
「弁明…?……」
いざって時って、なに?と神尾が視線を上げると、どのアングルから見ようが綺麗極まりない男が、不遜に言った。
「俺様が痴漢呼ばわりされる状況下になったらだよ」
「…は?」
振ってきた言葉を反復し、神尾は唖然とした。
かすかな接触を続ける指先は、ちょっとだけ、いやらしさもあるけれど。
よりにもよっての跡部の発言に、神尾は結局、噴き出してしまった。
懸命に声を殺そうとしながらも、肩を激しく震わせ、俯いて、笑いが止まらなくなる。
痴漢って、この、男が?と思いながら。
神尾は初めて自分から、跡部の指先を握り返した。
「跡部、変」
「てめえに変呼ばわりされる筋合いはねえ」
「だ、……だって…、痴漢って」
神尾はとにかく大きな声にならないように笑い声を懸命に抑えながら、何それと息も絶え絶えに額を跡部の肩口の押し当てた。
距離の近くなった跡部から、舌打ちめいた溜息が聞こえてくる。
でもそれは少しも乱暴な印象にはならなかった。
「…ここじゃねえのかよ」
「あ。降りないと!」
車内アナウンスと開いた扉で我に返って、神尾は慌てて電車から降りた。
跡部の手を引くようにして。
走り出すようにして。
「この駅、ホームのベンチから、海がすっごい綺麗に見えんだぜ!」
「穴場ってやつか」
周囲に人がいないのを見てとって跡部が呟く。
「だいたいは海に直接行くし、夏休みだとこの駅の乗客殆どいないらしいから」
あ、ほら、あそこ!と神尾は跡部を連れてホームのベンチに向かった。
海は線路の向こう側の視野に大きくひらけていた。
キラキラと水面に太陽の光が反射している。
「綺麗じゃーん!」
「それなら、いいな」
「ん?」
ベンチに座ろうとした所で、神尾の腰に跡部の腕が回った。
引き寄せられ、すぐに、唇が塞がれる。
「………………」
一度、瞬いた神尾の視界は、今の今まで夏の海をいっぱいに映していたのに。
今は跡部で埋められている。
「………………」
キスとか、こんなところでどうなんだと思うのに。
一瞬みたいな短さで解かれてしまうと、もっと欲しくなるのが、困る。
「……そういうツラ見せるな」
「…え………うん……ごめん」
「謝れっつってねえ」
どこかぶっきらぼうに言って、跡部がベンチに座る。
腕を引かれて神尾もそれにならう。
ベンチの上に置いた神尾の手に、跡部の手が重なった。
電車の中でのそれとは違う。
今度はしっかりと手のひらと手のひらを合わせて、指も絡め合う繋ぎ方だ。
自分達は隣同士に並んで座り、視線は海を見ているけれど。
手を繋いで、意識は全部、お互いに向けられてもいて。
「悪くねえ」
「………………」
機嫌の良い跡部の声に、神尾は海を見たまま唇を引き上げた。
自分が気に入っているもの、好きなもの、良いと思うもの、そういう出来事に共感が得られるのは嬉しい。
でももし跡部が共感しなくても、それはそれで文句など言いながらも自分はきっと楽しいのだろうと神尾は知っていた。
まだ今は、遠巻きにしている海を眺めながら。
しばらくお互い口を噤んだが、しかしそれは多分、雄弁すぎるほどに雄弁な、沈黙だったのだ。
何せ、さあ海まで行こうと立ち上がったタイミングは、まるではかったように、二人同時だったからだ。
観月はいつもいい香りがした。
彼のいる場所には不思議と澄んだ甘い香りが漂う。
今日のそれは薔薇の芳香にも似た匂いの紅茶の香りだった。
カップを両手に、ぼうっとしている観月は、ルドルフの寮にある食堂の片隅の席で、窓の外に目線を向けたまま動かない。
窓の真下の植え込みには、今が盛りと薔薇が咲き誇っている。
「…赤澤部長」
「おう」
どうした、と赤澤はひっそりと自分を呼んだ裕太を振りかえった。
相手が小声だったので赤澤も同様に声をひそめて問い返す。
裕太は至極遠慮がちに呟いた。
「観月さんに今話しかけるのは…止めておいた方がいいでしょうか」
「観月?」
赤澤は裕太の言葉に促されるように、肩越しに再度観月へと視線を向ける。
相変わらず観月はぼんやりとした風情で動かず、手にした紅茶を飲んでいるのかいないのか、窓の外の薔薇を見ているのかいないのか、まるで読めないといった感じだ。
赤澤はちょっと笑って、真面目な顔で返答を待つ裕太に言ってやる。
「別にお前なら、いつ話しかけたって全然問題ないと思うけどな?」
多分に本心だったのだが、そういう訳にはいきませんと裕太は慎重だった。
観月が考え事をしているのなら、邪魔をするなど以ての外だと思っているらしい。
あまりに裕太が真剣な顔をするので、判った判ったと赤澤は笑って言った。
「そうだなあ……あと二~三分したら大丈夫だぜ」
「そうしたら、観月さんの考え事も一段落ですか?」
「いくらなんでもあいつの頭ん中まで判んねえよ」
そうじゃなくてな、と赤澤は裕太の肩に腕を回した。
見てみろと空いた方の手で観月を指指す。
「あいつのカップ、もうあんまり湯気たってないだろ」
「湯気とか見えるんですか? この距離で?」
裕太がびっくりしたような声を上げる。
まあなー、とのんびりと赤澤は言って、僅かに眉根を寄せた。
「あれはさ、…あー、何つったっけ、香り楽しむみたいなやつ」
「……アロマテラピーとかですか?」
確か姉が実家でよくやっていたなと裕太が思いながら言えば、それそれと赤澤が頷いた。
「姉貴がいると違うな、やっぱ」
赤澤の手の甲で軽く胸元を叩かれた裕太がさっきよりも驚いた声を上げた。
「………赤澤部長、俺に姉がいるって知ってたんですか」
何せ兄が兄なので。
そちらが有名すぎる分、案外姉の存在には気づかれていない事が多いのだ。
それで裕太はひどく驚いたのだが、赤澤は若干の勘違いをしたようで。
「なんだ、秘密だったのか?」
そりゃ悪い、と真面目に言う赤澤に裕太は慌てて首を振った。
「いや、別に秘密ってわけじゃ…」
「そっか。ならいいんだけどよ。……それで、そのアロマテラピー中な訳だ、観月は」
自分の知ってるアロマテラピーと違うと思った裕太の気持はそのまま表情に出ていたようで、赤澤が内緒話のように裕太の耳元で説明を始める。
「あいつ紅茶を飲むのも勿論好きだけど、香りも好きなんだよ。時々ああやって、湯気で上がってくる紅茶の匂いで、気持を落ち着かせようとしてるわけだ」
「何か……心配事とか、あるってことですか…?」
「それは違うんじゃねえかな。情報量が半端なく多いから、時々ああやって自分で息抜きしてんだよ」
テニス部のブレインである観月は、練習メニューから個々の状態の把握、他校のデータ収集まで、常に頭をフル稼働させている。
「あいつ、俺の分まで頭使わなきゃなんねえから、大変なんだよ」
笑う赤澤に、けれども裕太は頷かなかった。
テニス部のあらゆる内情を取り仕切っているのは確かにマネージャーでもありプレイヤーでもある観月だったが、そんな観月の変化に誰よりも機敏で、誰よりも早く察し、手を伸ばせる事が出来るのが赤澤だったからだ。
「見た目よりか遙かに身体は頑丈なんだけど、見た目のまんまに心情は繊細だろ。観月は」
「セルフコントロールも、すごいですよね」
いっそもっと頼ってくれたらいいのにと裕太は思っているが、観月は絶対にそういう弱みを人に見せない事を知っている。
誰にも頼ろうとしない観月を、一番上手に休ませ、手を貸せるのが誰かも知っている。
「……あの紅茶をわざわざいれてるあたりが、結構観月も疲労感たまってるって事だよなぁ…」
この距離でまさか紅茶の香りが、それも茶葉の種類まで判るのかと、裕太はいよいよもって唖然とする。
部長の赤澤が只者でないなと思うのはこんな時余計にだ。
「今日の観月の誕生日会の誘いだろ?」
「あ、はい。柳沢先輩に頼まれて」
裕太が適役だーね、裕太にしか出来ないだーね、と何故か連呼された言葉を思い返しながら裕太が応えると、同じような事を赤澤からも言われて面食らう。
「悪ぃな、後輩頼りっぱなしの上級生らで。お前じゃないと出来ないからな、観月誘うの」
「……別にそんなことないと思いますけど…」
「俺らなら、馬鹿なこと言ってないで素振りでもやれって言われるのが関の山だって。へたすりゃ僕は行きませんよくらい言うぜ、あいつ」
低く笑い声を響かせながら、頼むな、と体温の高い赤澤の手のひらに背を叩かれる。
それがGOサインかのように、裕太は観月に向かって歩き出した。
途中一回だけ背後を振り返ると、赤澤は観月の所まで行ってしまうと死角におさまる柱の陰に、腕を組んで寄りかかった所だった
話を聞いて、判りましたと頷くと、目に見えてほっとしたような表情を浮かべた裕太に、全く、と観月は後輩に気づかれないよう溜息を奥歯で噛み砕く。
彼に言って越させる辺りが姑息なのだ。
同級生達は。
「裕太君、わざわざありがとう」
真面目に礼を言った観月に裕太が深く頭を下げる。、
「いえ、観月さん。じゃあ、お待ちしてますね」
「ええ、後でまた………あ、それと」
「はい?」
下げた頭をすぐさま上げて観月を伺ってくるような素直な裕太の表情に、観月は少しはにかんだように笑った。
「祝ってくれてありがとう」
裕太君だけに言っておきます、と笑いを悪戯っぽく変化させて付け足す。
もう一度大きく頭を下げた裕太もまた笑顔で立ち去って行く。
その背中を微笑ましく見送ってから、ふう、と観月は肩から息を抜く。
ずっと手にしていた紅茶のカップをソーサーに戻すと、それが合図と決めていた訳でもないのに、当然のように赤澤が近づいてきた。
それも、手には湯気の立つカップを持ってだ。
「………………」
「冷めたら飲まないだろ、観月は」
そう言うと、赤澤は温かい紅茶を観月に手渡し、観月が戻した方のカップを片手で無造作に掴むと、ぐいっと一息に飲み干した。
上下する喉元を座ったまま見上げて、観月は裕太の時とは一変させた表情で赤澤を見据えた。
「ケーキはラズベリーパイでしょうね?」
「誰の誕生日だよ」
赤澤が笑う。
「僕のですよ。その僕が言ってるんです」
「はいはい、勿論そのように」
承知してます、と赤澤が丁寧に言った。
それから少しだけ溜息混じりの、赤澤にしては珍しい口調で一人ごちる。
「……お前、裕太の事可愛がりすぎだろ、ほんと」
「後輩をこき使いすぎです、貴方達は」
「仕方ねえだろ、お前の誕生日、祝いたいんだから」
裕太からじゃなきゃお前断るだろ?とやけにきっぱり赤澤に言い切られる。
それはそれで癪だと観月は思う。
事実だから余計に。
「だから俺らは裕太に頼るしかねえの」
「ラズベリーパイだけじゃ等価交換になりませんね」
「あいつにしか見せてないものと聞かせてないものあるだろ。充分だろ、等価交換」
赤澤がそこにいるのは知っていたけれど、しっかりどこまで聞いて、何まで見ているのかと、観月は呆れ半分感心半分になった。
「なんですか、その羨ましがるみたいな口調は」
「みたいじゃなくてな。実際羨ましい」
「貴方が言わないで下さい、貴方が!」
誰よりも。
誰よりも。
観月を知って、観月から奪って、観月に与える男が、尚且つ言う事ではない。
本心から、何より観月が、そう思っているのに。
寛容で、大雑把で、無頓着で、それなのに何故か観月に対してだけは、赤澤は、そうならない。
そういうまるで飢餓感のような執着心が自分に向けられていること、それが、ほんの少しも嫌でない自分のことも観月にはちょっと怖かった。
「自分が昨日から今日にかけて、僕に何をして、僕から何を持っていったか、その自覚は?」
「事実は事実として、勿論自覚してる」
「……っ、…それなら猶更でしょうがっ! まだ欲しがるって、いったい何事なんですか、どれだけ欲しがりですかっ!」
誰もいない事をいい事に、声が荒くなり、深夜睦みあった、まだどこかリアルな記憶で観月の顔は赤くなる。
だいたい、いつもはリラックスする為に紅茶の香りを好む観月の意識を今なお全部持っていったままなのはこの男で、ふわふわと浮き立つような気持ちは一向に静まらないのもやはりこの男のせいなのだ。
「ん、ごめん」
思いのほか真面目な声、しかしそれと同時に腰から身を屈めて、赤澤は観月の唇に重ねるだけのキスをしてきた。
「おめでとう、観月」
「……っ……、…っ」
それはもう何度も聞きましたと怒鳴るべきなのか、こんな所で何をするのかと怒鳴るべきなのか。
難しい二者選択ではないのに、結局観月は、何も返せなかった。
赤澤が、また、ゆっくりと近づいてくる。
紅茶の味。
薔薇の気配。
それは観月の誕生日に繰り返される、あまりにも優しいキスを彩る、あれこれだった。
彼のいる場所には不思議と澄んだ甘い香りが漂う。
今日のそれは薔薇の芳香にも似た匂いの紅茶の香りだった。
カップを両手に、ぼうっとしている観月は、ルドルフの寮にある食堂の片隅の席で、窓の外に目線を向けたまま動かない。
窓の真下の植え込みには、今が盛りと薔薇が咲き誇っている。
「…赤澤部長」
「おう」
どうした、と赤澤はひっそりと自分を呼んだ裕太を振りかえった。
相手が小声だったので赤澤も同様に声をひそめて問い返す。
裕太は至極遠慮がちに呟いた。
「観月さんに今話しかけるのは…止めておいた方がいいでしょうか」
「観月?」
赤澤は裕太の言葉に促されるように、肩越しに再度観月へと視線を向ける。
相変わらず観月はぼんやりとした風情で動かず、手にした紅茶を飲んでいるのかいないのか、窓の外の薔薇を見ているのかいないのか、まるで読めないといった感じだ。
赤澤はちょっと笑って、真面目な顔で返答を待つ裕太に言ってやる。
「別にお前なら、いつ話しかけたって全然問題ないと思うけどな?」
多分に本心だったのだが、そういう訳にはいきませんと裕太は慎重だった。
観月が考え事をしているのなら、邪魔をするなど以ての外だと思っているらしい。
あまりに裕太が真剣な顔をするので、判った判ったと赤澤は笑って言った。
「そうだなあ……あと二~三分したら大丈夫だぜ」
「そうしたら、観月さんの考え事も一段落ですか?」
「いくらなんでもあいつの頭ん中まで判んねえよ」
そうじゃなくてな、と赤澤は裕太の肩に腕を回した。
見てみろと空いた方の手で観月を指指す。
「あいつのカップ、もうあんまり湯気たってないだろ」
「湯気とか見えるんですか? この距離で?」
裕太がびっくりしたような声を上げる。
まあなー、とのんびりと赤澤は言って、僅かに眉根を寄せた。
「あれはさ、…あー、何つったっけ、香り楽しむみたいなやつ」
「……アロマテラピーとかですか?」
確か姉が実家でよくやっていたなと裕太が思いながら言えば、それそれと赤澤が頷いた。
「姉貴がいると違うな、やっぱ」
赤澤の手の甲で軽く胸元を叩かれた裕太がさっきよりも驚いた声を上げた。
「………赤澤部長、俺に姉がいるって知ってたんですか」
何せ兄が兄なので。
そちらが有名すぎる分、案外姉の存在には気づかれていない事が多いのだ。
それで裕太はひどく驚いたのだが、赤澤は若干の勘違いをしたようで。
「なんだ、秘密だったのか?」
そりゃ悪い、と真面目に言う赤澤に裕太は慌てて首を振った。
「いや、別に秘密ってわけじゃ…」
「そっか。ならいいんだけどよ。……それで、そのアロマテラピー中な訳だ、観月は」
自分の知ってるアロマテラピーと違うと思った裕太の気持はそのまま表情に出ていたようで、赤澤が内緒話のように裕太の耳元で説明を始める。
「あいつ紅茶を飲むのも勿論好きだけど、香りも好きなんだよ。時々ああやって、湯気で上がってくる紅茶の匂いで、気持を落ち着かせようとしてるわけだ」
「何か……心配事とか、あるってことですか…?」
「それは違うんじゃねえかな。情報量が半端なく多いから、時々ああやって自分で息抜きしてんだよ」
テニス部のブレインである観月は、練習メニューから個々の状態の把握、他校のデータ収集まで、常に頭をフル稼働させている。
「あいつ、俺の分まで頭使わなきゃなんねえから、大変なんだよ」
笑う赤澤に、けれども裕太は頷かなかった。
テニス部のあらゆる内情を取り仕切っているのは確かにマネージャーでもありプレイヤーでもある観月だったが、そんな観月の変化に誰よりも機敏で、誰よりも早く察し、手を伸ばせる事が出来るのが赤澤だったからだ。
「見た目よりか遙かに身体は頑丈なんだけど、見た目のまんまに心情は繊細だろ。観月は」
「セルフコントロールも、すごいですよね」
いっそもっと頼ってくれたらいいのにと裕太は思っているが、観月は絶対にそういう弱みを人に見せない事を知っている。
誰にも頼ろうとしない観月を、一番上手に休ませ、手を貸せるのが誰かも知っている。
「……あの紅茶をわざわざいれてるあたりが、結構観月も疲労感たまってるって事だよなぁ…」
この距離でまさか紅茶の香りが、それも茶葉の種類まで判るのかと、裕太はいよいよもって唖然とする。
部長の赤澤が只者でないなと思うのはこんな時余計にだ。
「今日の観月の誕生日会の誘いだろ?」
「あ、はい。柳沢先輩に頼まれて」
裕太が適役だーね、裕太にしか出来ないだーね、と何故か連呼された言葉を思い返しながら裕太が応えると、同じような事を赤澤からも言われて面食らう。
「悪ぃな、後輩頼りっぱなしの上級生らで。お前じゃないと出来ないからな、観月誘うの」
「……別にそんなことないと思いますけど…」
「俺らなら、馬鹿なこと言ってないで素振りでもやれって言われるのが関の山だって。へたすりゃ僕は行きませんよくらい言うぜ、あいつ」
低く笑い声を響かせながら、頼むな、と体温の高い赤澤の手のひらに背を叩かれる。
それがGOサインかのように、裕太は観月に向かって歩き出した。
途中一回だけ背後を振り返ると、赤澤は観月の所まで行ってしまうと死角におさまる柱の陰に、腕を組んで寄りかかった所だった
話を聞いて、判りましたと頷くと、目に見えてほっとしたような表情を浮かべた裕太に、全く、と観月は後輩に気づかれないよう溜息を奥歯で噛み砕く。
彼に言って越させる辺りが姑息なのだ。
同級生達は。
「裕太君、わざわざありがとう」
真面目に礼を言った観月に裕太が深く頭を下げる。、
「いえ、観月さん。じゃあ、お待ちしてますね」
「ええ、後でまた………あ、それと」
「はい?」
下げた頭をすぐさま上げて観月を伺ってくるような素直な裕太の表情に、観月は少しはにかんだように笑った。
「祝ってくれてありがとう」
裕太君だけに言っておきます、と笑いを悪戯っぽく変化させて付け足す。
もう一度大きく頭を下げた裕太もまた笑顔で立ち去って行く。
その背中を微笑ましく見送ってから、ふう、と観月は肩から息を抜く。
ずっと手にしていた紅茶のカップをソーサーに戻すと、それが合図と決めていた訳でもないのに、当然のように赤澤が近づいてきた。
それも、手には湯気の立つカップを持ってだ。
「………………」
「冷めたら飲まないだろ、観月は」
そう言うと、赤澤は温かい紅茶を観月に手渡し、観月が戻した方のカップを片手で無造作に掴むと、ぐいっと一息に飲み干した。
上下する喉元を座ったまま見上げて、観月は裕太の時とは一変させた表情で赤澤を見据えた。
「ケーキはラズベリーパイでしょうね?」
「誰の誕生日だよ」
赤澤が笑う。
「僕のですよ。その僕が言ってるんです」
「はいはい、勿論そのように」
承知してます、と赤澤が丁寧に言った。
それから少しだけ溜息混じりの、赤澤にしては珍しい口調で一人ごちる。
「……お前、裕太の事可愛がりすぎだろ、ほんと」
「後輩をこき使いすぎです、貴方達は」
「仕方ねえだろ、お前の誕生日、祝いたいんだから」
裕太からじゃなきゃお前断るだろ?とやけにきっぱり赤澤に言い切られる。
それはそれで癪だと観月は思う。
事実だから余計に。
「だから俺らは裕太に頼るしかねえの」
「ラズベリーパイだけじゃ等価交換になりませんね」
「あいつにしか見せてないものと聞かせてないものあるだろ。充分だろ、等価交換」
赤澤がそこにいるのは知っていたけれど、しっかりどこまで聞いて、何まで見ているのかと、観月は呆れ半分感心半分になった。
「なんですか、その羨ましがるみたいな口調は」
「みたいじゃなくてな。実際羨ましい」
「貴方が言わないで下さい、貴方が!」
誰よりも。
誰よりも。
観月を知って、観月から奪って、観月に与える男が、尚且つ言う事ではない。
本心から、何より観月が、そう思っているのに。
寛容で、大雑把で、無頓着で、それなのに何故か観月に対してだけは、赤澤は、そうならない。
そういうまるで飢餓感のような執着心が自分に向けられていること、それが、ほんの少しも嫌でない自分のことも観月にはちょっと怖かった。
「自分が昨日から今日にかけて、僕に何をして、僕から何を持っていったか、その自覚は?」
「事実は事実として、勿論自覚してる」
「……っ、…それなら猶更でしょうがっ! まだ欲しがるって、いったい何事なんですか、どれだけ欲しがりですかっ!」
誰もいない事をいい事に、声が荒くなり、深夜睦みあった、まだどこかリアルな記憶で観月の顔は赤くなる。
だいたい、いつもはリラックスする為に紅茶の香りを好む観月の意識を今なお全部持っていったままなのはこの男で、ふわふわと浮き立つような気持ちは一向に静まらないのもやはりこの男のせいなのだ。
「ん、ごめん」
思いのほか真面目な声、しかしそれと同時に腰から身を屈めて、赤澤は観月の唇に重ねるだけのキスをしてきた。
「おめでとう、観月」
「……っ……、…っ」
それはもう何度も聞きましたと怒鳴るべきなのか、こんな所で何をするのかと怒鳴るべきなのか。
難しい二者選択ではないのに、結局観月は、何も返せなかった。
赤澤が、また、ゆっくりと近づいてくる。
紅茶の味。
薔薇の気配。
それは観月の誕生日に繰り返される、あまりにも優しいキスを彩る、あれこれだった。
眠そうだな、と海堂は思った。
海堂の視線の先で目を閉ざしかけているのは乾で、しかしその乾が突然ぱちりと目を開けたので海堂はちょっと息を詰めた。
てっきり乾がそのまま眠りに落ちるのだとばかり思っていたので。
「………………」
眼鏡を外している裸眼の乾は、それでも数回、睡魔と戦うような瞬きをした後、徐に起き上がってベッドから降りた。
緩慢な動作は、普段は無機質な印象の乾と違い、どこか生々しい。
均等に筋肉の乗った背中の感触が海堂の手の中にまだ鮮明だったせいかもしれない。
「…はい、海堂」
「………………」
何やら乾は彼の部屋にある机の引出しの中身をあさり、すぐに戻ってきた。
そして海堂の隣に滑り込むようにまたベッドに横になる。
今し方までと、全く同じ体勢だ。
顔だけ向きあわせるようにして寝そべるお互いの間、シーツの上には乾が持ってきた紙包が置かれている。
手のひらに乗るくらいのサイズだ。
何ですかと海堂が声に出すより先に、乾が微かな笑みを吐息に混ぜるようにして囁いてきた。
「誕生日プレゼント」
「………………」
「あー…勿論今日じゃない事は判って言ってる」
「…はあ」
事実、海堂の誕生日は二週間も前だ。
それが何故今、誕生日プレゼントなのか。
「二週間後ならね、大丈夫じゃないかなあと思って」
「………………」
眠気が強いせいか、乾の口調はのんびりとして、やわらかい。
四六時中寝不足なのだから眠りたい時は眠ればいいと海堂は思うのに、乾は敢えてそれに逆らうようにして言葉を紡ぐ。
大丈夫って何がだと海堂は紙包とそんな乾とを交互に見やった。
動かしたのは眼差しだけ。
でも乾が先ほどよりも明確に笑って、海堂の前髪に指を忍ばせ、撫で上げてくる。
「当日にさ。誕生日おめでとうってプレゼント渡して、海堂が、警戒心とか遠慮とか抜きに普通に受け取ってくれる確率は…」
何パーセントか、乾は言ったようなのだが、睡魔にぼやけた低い声はよく聞き取れなかった。
「二週間後くらいなら、何で今になって急にとか思いながらも、普通に受け取ってくれそうだな、と思った訳なんだが………どう?」
「………………」
単なる思い付きではなく、結構真剣に考えたらしい。
自身の中での成功確率とを天秤にかけ返事を聞きたがる乾の眼差しに、さらさらと優しく甘い指先の感触に、海堂は、どこまでも把握され、懐柔されている自分を知って少しばかり複雑な気持ちになった。
けれどそれは不快なものではなく、ひどく純度の高い気恥ずかしさだ。
「……乾先輩…」
「うん」
ありがとうございます、と海堂が呟くと、乾が乱れた前髪の隙間で目を細めた。
普段額にかからない乾の前髪のそんな感じの方こそ撫でつけてやりたくなるが、海堂にはまだその行動はハードルが高すぎる。
それでも、眠いのに逆らってまで話をしたがる乾だとか、海堂の性格を判った上であれやこれやと思案する乾だとかに、海堂は体感した事のない感情を揺さぶられた。
「………普通じゃなかったな」
「……は…?」
「ありがとう」
「…はい?」
ありがとうって何がだと海堂は困惑した。
言うのは自分で、乾ではない筈だ。
けれども乾は嬉しげで、楽しげで、いったい今の自分に何を見ているのかと海堂は途方にくれる。
「今年が十四日後で、こういう海堂を見られる訳だから……来年は一日早めてもいいかな…」
「先輩……?」
「再来年は二日早めて……一年に一日ペースで詰めていけば、十四年後からは当日にちゃんと、当たり前みたいに祝っていい計算………」
あまりに気の長すぎる計画に海堂は呆気にとられた。
そして。
身体から全ての力を抜くように笑ってしまった。
「…海堂?」
「………………」
ああまた。
いよいよ眠りに落ちようとしていた乾を引き戻してしまった。
不思議そうに問いかけてくる乾に、海堂はそっと腕を伸ばした。
髪をかきあげたり、頭を撫でたりは、ハードルが高くても。
これなら、と手のひらでそっと乾の目元を覆う。
瞬いたのか、手のひらのくぼみが擽ったい。
乾の睫毛は長いのだと、海堂はその感触で知ったような気になった。
「………………」
当たり前みたいに祝って良いのだろうと、乾は先に続く未来を見ていて。
そんな言葉に、そんな未来までそれこそ当たり前のように一緒にいること前提の意味合いが、海堂にはひどく甘く、それでいてとても現実的な響きで、落ちてくる。
思考の中、心の中、現実の中に。
「………………」
海堂の手のひらの体温は、疲れがちの乾の目元を余程心地よく温めたようで、魔法じみた容易さで乾は眠ってしまった。
海堂がそっと手のひらを外しても、乾は深く眠ったままだった。
「………絶対、十四年もかからないっすよ…」
自分の手をじっと見つめ、小さく呟いた後、海堂は微かに笑った。
でもそれを乾に直接言うのは止めておく。
気の短い自分が、気の長い約束を、悪くないなと思ったからだった。
海堂の視線の先で目を閉ざしかけているのは乾で、しかしその乾が突然ぱちりと目を開けたので海堂はちょっと息を詰めた。
てっきり乾がそのまま眠りに落ちるのだとばかり思っていたので。
「………………」
眼鏡を外している裸眼の乾は、それでも数回、睡魔と戦うような瞬きをした後、徐に起き上がってベッドから降りた。
緩慢な動作は、普段は無機質な印象の乾と違い、どこか生々しい。
均等に筋肉の乗った背中の感触が海堂の手の中にまだ鮮明だったせいかもしれない。
「…はい、海堂」
「………………」
何やら乾は彼の部屋にある机の引出しの中身をあさり、すぐに戻ってきた。
そして海堂の隣に滑り込むようにまたベッドに横になる。
今し方までと、全く同じ体勢だ。
顔だけ向きあわせるようにして寝そべるお互いの間、シーツの上には乾が持ってきた紙包が置かれている。
手のひらに乗るくらいのサイズだ。
何ですかと海堂が声に出すより先に、乾が微かな笑みを吐息に混ぜるようにして囁いてきた。
「誕生日プレゼント」
「………………」
「あー…勿論今日じゃない事は判って言ってる」
「…はあ」
事実、海堂の誕生日は二週間も前だ。
それが何故今、誕生日プレゼントなのか。
「二週間後ならね、大丈夫じゃないかなあと思って」
「………………」
眠気が強いせいか、乾の口調はのんびりとして、やわらかい。
四六時中寝不足なのだから眠りたい時は眠ればいいと海堂は思うのに、乾は敢えてそれに逆らうようにして言葉を紡ぐ。
大丈夫って何がだと海堂は紙包とそんな乾とを交互に見やった。
動かしたのは眼差しだけ。
でも乾が先ほどよりも明確に笑って、海堂の前髪に指を忍ばせ、撫で上げてくる。
「当日にさ。誕生日おめでとうってプレゼント渡して、海堂が、警戒心とか遠慮とか抜きに普通に受け取ってくれる確率は…」
何パーセントか、乾は言ったようなのだが、睡魔にぼやけた低い声はよく聞き取れなかった。
「二週間後くらいなら、何で今になって急にとか思いながらも、普通に受け取ってくれそうだな、と思った訳なんだが………どう?」
「………………」
単なる思い付きではなく、結構真剣に考えたらしい。
自身の中での成功確率とを天秤にかけ返事を聞きたがる乾の眼差しに、さらさらと優しく甘い指先の感触に、海堂は、どこまでも把握され、懐柔されている自分を知って少しばかり複雑な気持ちになった。
けれどそれは不快なものではなく、ひどく純度の高い気恥ずかしさだ。
「……乾先輩…」
「うん」
ありがとうございます、と海堂が呟くと、乾が乱れた前髪の隙間で目を細めた。
普段額にかからない乾の前髪のそんな感じの方こそ撫でつけてやりたくなるが、海堂にはまだその行動はハードルが高すぎる。
それでも、眠いのに逆らってまで話をしたがる乾だとか、海堂の性格を判った上であれやこれやと思案する乾だとかに、海堂は体感した事のない感情を揺さぶられた。
「………普通じゃなかったな」
「……は…?」
「ありがとう」
「…はい?」
ありがとうって何がだと海堂は困惑した。
言うのは自分で、乾ではない筈だ。
けれども乾は嬉しげで、楽しげで、いったい今の自分に何を見ているのかと海堂は途方にくれる。
「今年が十四日後で、こういう海堂を見られる訳だから……来年は一日早めてもいいかな…」
「先輩……?」
「再来年は二日早めて……一年に一日ペースで詰めていけば、十四年後からは当日にちゃんと、当たり前みたいに祝っていい計算………」
あまりに気の長すぎる計画に海堂は呆気にとられた。
そして。
身体から全ての力を抜くように笑ってしまった。
「…海堂?」
「………………」
ああまた。
いよいよ眠りに落ちようとしていた乾を引き戻してしまった。
不思議そうに問いかけてくる乾に、海堂はそっと腕を伸ばした。
髪をかきあげたり、頭を撫でたりは、ハードルが高くても。
これなら、と手のひらでそっと乾の目元を覆う。
瞬いたのか、手のひらのくぼみが擽ったい。
乾の睫毛は長いのだと、海堂はその感触で知ったような気になった。
「………………」
当たり前みたいに祝って良いのだろうと、乾は先に続く未来を見ていて。
そんな言葉に、そんな未来までそれこそ当たり前のように一緒にいること前提の意味合いが、海堂にはひどく甘く、それでいてとても現実的な響きで、落ちてくる。
思考の中、心の中、現実の中に。
「………………」
海堂の手のひらの体温は、疲れがちの乾の目元を余程心地よく温めたようで、魔法じみた容易さで乾は眠ってしまった。
海堂がそっと手のひらを外しても、乾は深く眠ったままだった。
「………絶対、十四年もかからないっすよ…」
自分の手をじっと見つめ、小さく呟いた後、海堂は微かに笑った。
でもそれを乾に直接言うのは止めておく。
気の短い自分が、気の長い約束を、悪くないなと思ったからだった。
ゆるゆると眠いのには理由がある。
答えが見つけられない考え事を、ずっと繰り返しているからだ。
昼休みになった。
眠気覚ましに噛もうと思って取り出したミントガムを、しかし口に入れる間もなく、すとんと睡魔に落ちたらしい。
宍戸はガムを手にしたまま机に突っ伏して眠ってしまっていたらしかった。
猛烈な眠気はしかし一瞬だった。
肩を揺すられて、宍戸は手の中のガムを無意識に握り込みながらあっさり目覚めて顔を上げた。
机を挟んで向かい側。
びっくりするくらい近くにあったのは、クラスメイトで、チームメイトで、幼馴染でもある見慣れたベビーフェイスだった。
「………お前に起こされるとはな…」
まだ幾許かの眠気にまみれた掠れ声で宍戸は呆然と呟いた。
「俺もビックリ!」
あははーと呑気に笑ったジローが、うつぶせ寝で寝乱れているらしい宍戸の前髪に触れてきた。
直すというより、より乱されている感がしなくもないが、宍戸は大人しくされるままになっていた。
眠い、と呻いて眉根を寄せて。
宍戸はあくびをひとつ噛み殺す。
「寝不足?」
空いた方の片手で頬杖をつきながら、ジローが小首を傾げた。
「んー…そういう訳じゃねえけど」
何となく、そんな風にはぐらかした宍戸に。
「じゃ、悩み事?」
ハイテンションでもないのにいつになく矢継ぎ早に言葉をたたみかけてくるジローを前に、宍戸は小さく噴き出した。
ジローの食い付きが、やけに必死に、懸命に、見えたのだ。
「ねえよ、別に悩み事も」
ふうん、と頷いたジローが小さく言った。
「……俺はあるけど」
「ジロー…?」
小さな溜息で、ぽつりと呟かれて。
普段が陽気な分そんなしょげた態度を殆ど見せないジローなので、宍戸は面食らった。
宍戸の前髪を撫でていた手を引っ込めて、ジローは両手で頬杖をつきなおすと、細い肩を窄めて目を閉じて、盛大な溜息を吐き出した。
眉間に、ぎゅっと皺が寄っている。
「…おい?」
「宍戸に、ぜーんぜん頼りにして貰えなくてしょんぼりだし」
「………………」
正直、ジロー以外の輩がこんな口調で物を言ったらぶちきれそうになる宍戸だが、こと、この幼馴染は別格だ。
そう言われただけで、ものすごく悪い事をした気分になる。
しょんぼりという言葉の通り、肩を一層落として、俯いて。
小さな身体が尚小さくなっている。
「ジロー」
「いつになったら、宍戸は俺を全面全力で頼りにしてきたり、ちょっと聞いてくれよおって泣きついてきたり、俺にはもうジローしかいないんだよおとか言って抱きついてきたりするようになるんだろ」
「………それどう考えても俺のキャラじゃねえだろ」
「あ、やっぱしー?」
からりと即座に明るく笑ったジローに、宍戸は内心ほっとする。
冗談だろうとは思いつつ、ジローがどっぷりと落ち込んでいたりする様を見る事は、宍戸にしてみればどうにも落ち着かなかった。
「でもでも! 宍戸どうしたのかなっていうのは、マジで思ってるんだけど!」
「判ってるよ……サンキュ」
おかえし、というようにジローの癖っ毛に手を伸ばし、宍戸がその髪をくしゃくしゃにすると、ジローは満足そうな顔をした。
目を閉じて顎を持ち上げてご機嫌な表情になるのが、どこか愛犬を彷彿させておかしかった。
そういえば、手触りも似ているかもしれない。
毛並みというか。
ふわふわとしたジローの髪に触れながら宍戸はぼんやりそんな事を思った。
自分が撫でたら、嬉しがる。
愛犬やジローはそうだけれど、はたしてこの手が万人に使えるのかどうかは、宍戸には迷うところだ。
「おーい、お前ら、そろそろ鳳が泣き出すからそのへんにしとけよ」
いちゃいちゃしやがってと、突如威勢のいい声が響き渡る。
宍戸とジローが同時に視線を向けた先、教室の前扉に、腕組みした向日と、半歩後ろに控えるようにして立つ鳳がいた。
「俺別に泣きませんってば」
やんわりとした微苦笑で向日を見下ろし意見した鳳だったが、いいだろーとジローが宍戸の頭を胸元に抱え込むようにすると何故だか態度を一変させた。
「……それはちょっと泣きそうかも、…」
そうは言っても。
鳳は鳳でどこまで本気か判らねえなあと宍戸は呆れた溜息を零しつつ、片手でジローをぐいっと押しやった。
「うわ、拒絶されたっ」
「するだろ、ふつー」
「俺と宍戸の仲なのにっ?」
「どんな仲だよ」
宍戸とジローが言いあっているうちに、向日と鳳は教室の中に入ってきた。
近づいてきて、言葉には出さないけれど。
鳳の表情が、まだあからさまに、いいなあといったものだったので、宍戸は指先で鳳を呼んだ。
窺うように首を傾けて、腰を折るようにして顔を近づけてきた鳳の前髪を、宍戸は無言で、くしゃくしゃとかきまぜる。
こういうことだろう、つまり。
今、鳳が欲しがっているものは。
これが万人に使える手かどうかは知らないが、どうやら鳳にも効果があるようだと宍戸は踏んだ。
「………………」
宍戸がこうした時、ジローは目を瞑って、ご機嫌に笑みを浮かべた。
鳳はといえば、じっと宍戸の目を見据えたまま、ゆっくりと。
それはもう甘く、ふわりと、華やかな笑みを浮かべていく。
どちらにせよ嬉しそうだったり気持ち良さそうだったりするのは見ていてちゃんと判る。
愛犬、ジロー、鳳。
俺って撫でる才能あんのかもなと宍戸は考えた。
「宍戸さん」
「…あ?」
鳳の声が、小さく、宍戸の耳に届く。
控え目でいて、きっぱりとした呼びかけ。
続けて鳳はこう言った。
「くらべたら、嫌です」
「………は?」
そういう顔してるから、と思いのほか強く意思表示されて、時々こんな風に見透かしてくる鳳に宍戸はびっくりさせられるのだ。
上体を屈めたままの体勢で宍戸の返答を待っている鳳の頭を、宍戸は今度は軽く、数回たたいた。
「宍戸さん」
アホ、と返すつもりだったが、口が勝手に違う言葉を放った。
「……あー…悪い」
それも結構神妙な声まで出てしまって。
「いいえ」
にこにこと微笑む鳳と、歯切れ悪くも詫びた宍戸の傍で、ジローが唇を尖らせ、向日が地団駄を踏む。
「なんだよー、ふたりしてー、俺放って仲良くすんなよー」
「…っあー!…うぜえ! お前ら、ほんとうぜえ! ベタベタすんな、ベタベタ…!」
「………つーか、お前、何か用かよ、岳人」
今更ながらに宍戸が問いかけると、用なきゃ来ねえよっと向日が噛みついた。
宍戸にとってもう一人の幼馴染である向日は、昔から見た目と完全に相反して態度が荒い。
「しかも聞くの俺だけかよ! 鳳にも聞けよ、何か用かって!」
「こいつはいいんだよ、別に用なくたって来るから」
「……ナチュラルに言ってくれちゃうよねえ、宍戸はー」
あっけらかんとした顔で、ジローが笑う。
向日は相変わらず怒っていて、怒ったまま突然に言った。
「跡部からお前に伝言! 明日は17時まで、絶対に鳳をレギュラールームに近づけるな。5分前になったらお前が鳳連れて来い。以上、伝えたからなっ」
「……ッ、…おま、っ…、今この場でそれ言うか…?!」
よりにもよって鳳を前にして。
明日のその企画は、鳳のシークレットバースデイパーティだろう。
サプライズじゃなかったのかと宍戸が呆気にとられて向日を凝視すると、胸の前で腕組みした向日は平然とそれを受け止めて笑った。
「こいつはちゃんと空気読むもん」
そして傍らの長身の後輩を横目に見上げて。
「な、鳳?」
「……がんばります」
さすがに鳳は苦笑いしていたが、従順に会釈のように目線を伏せてみせた。
「ほらみろ。それより宍戸、お前こそ、しくじんじゃねえぞ」
「何にしくじるんだよっ」
「手放したくなくなって、すっぽかすなって事!」
曖昧なような、直球なような。
どちらともとれる問題発言を平気で放って、じゃあな!と向日は教室から出ていった。
宍戸は絶句して、そのまま固まった。
「じゃ、俺も行こ。明日、ちゃんと鳳連れてきてねー、宍戸ー」
ジローまでもにそんな事を言われた。
俺昼寝してくるしーと言い置いて、そしてジローも教室を出ていった。
これで二人きりだ。
「………………」
「…宍戸さんも、眠りますか?」
寝不足?とそっと尋ねてくる鳳を見上げて、固まっていた宍戸は硬直を振り払うよう、それはもう盛大な溜息を吐き出した。
「……信じらんね…」
「………ええと……明日のことですか?」
「本人前にして、ネタバレとか、するか普通」
信じられないのは、友人の行動、それと。
さらりと宍戸の寝不足に気づく鳳のこともだ。
色々と宍戸には解読不能だった。
「…おい、長太郎」
「はい?」
「お前、俺が寝不足なの判んのか」
はい、とあっさりと頷かれて宍戸は溜息を吐く。
「………じゃ、今晩は寝られるようにしろ」
「俺に、それが出来るんですか?」
「ああ。助けろ」
「勿論です」
鳳が宍戸の足元に膝をついて屈んだ。
傅くようにも見える。
心なしか周囲の視線を感じなくもないが、宍戸もそこは無視することにした。
思い悩む事無く、今晩はぐっすり眠りたいのだ。
「明日、17時まで、俺とお前、どこで何して時間潰すか考えてくれ」
結局宍戸は、向日やジローの事は全く言えない立場となった。
盛大なネタバレはおろか、その当人に。
鳳に。
内緒で遂行するべき時間の内容を、丸投げしたのだから。
ここ数日宍戸を悩ませていた出来事。
それは鳳に気づかれないように、パーティの準備が整う時間まで、彼を学校に足止めするというミッション。
それが宍戸に課せられた指令だった。
ただ時間を潰すだけならば、まだいい。
しかし何せ明日は、それがひどく困難な一日なのだ。
明日はバレンタインデー、そして鳳の誕生日だ。
どれだけの人が鳳に声をかけてくるか、チョコレートを、バースデイプレゼントを、渡しにくるのか。
そんな中、ずっと鳳の傍に貼りついているべきなのか、それともいっそどこかに雲隠れするべく誘うべきなのか。
宍戸には一向にうまい考えが思い浮かばなかった。
跡部に勝手に命じられてからずっと、ああでもないこうでもないと考え続けて、結果こんな風に寝不足になるくらいだ。
「了解です。宍戸さん」
「………………」
「大丈夫。今晩はもう、ゆっくり眠って下さいね。それと………そんな風に、ずっと考えてくれて、ありがとうございました」
「………この貸しはどこで返したらいい?」
鳳の口調があまりに健やかで、宍戸も力が抜けた。
少し笑って尋ねると鳳は穏やかな声で淀みなく言葉を紡ぐ。
「時間潰しのプランの中に、そのへんはちゃんと練り込みます」
「……一応俺の出来る事にしろよ…?」
ま、何でもやるけどよ、と宍戸が小さく付け足すと、鳳が笑みを浮かべて、ひっそりと宍戸の指先を手に握った。
するりと爪先まで撫でられるようにして離れていく一瞬の接触だけれど。
じん、と指先に熱が溜まるほどに甘い触れ方だった。
その一連の所作で、忘れていたけれど、ずっと手にしたままだったミントガムが鳳に持っていかれる。
これ、俺にください、と目線で鳳にねだられて。
宍戸が頷くより先に、耳元で、低くひそめた鳳の囁き声が届く。
「…今ここでは出来ないキスの代わりにします」
「………………」
言うなり鳳は片手で器用に包み紙を剥いて、ガムを口に入れた。
至近距離で視線が交差して。
その瞬間。
誰にも気づかれないけれど、自分達に判る。
ああ確かに、これはキスだ。
じゃあ明日、と鳳が教室を出て行き、おう、と宍戸はそれを見送った。
宍戸はそうして一人になったけれど、昼休みはまだ時間があって、教室の中は依然ざわめいていて。
「………………」
ゆっくりと宍戸は机にうつ伏せた。
その体勢で、ポケットから新しいミントガムをひとつ取り出し、包み紙を剥き、口に入れ、噛み締める。
キスをする。
とりあえず今は、そんなバーチャルなキスをして。
眠気にたゆたい、明日へそっと思いを馳せる。
答えが見つけられない考え事を、ずっと繰り返しているからだ。
昼休みになった。
眠気覚ましに噛もうと思って取り出したミントガムを、しかし口に入れる間もなく、すとんと睡魔に落ちたらしい。
宍戸はガムを手にしたまま机に突っ伏して眠ってしまっていたらしかった。
猛烈な眠気はしかし一瞬だった。
肩を揺すられて、宍戸は手の中のガムを無意識に握り込みながらあっさり目覚めて顔を上げた。
机を挟んで向かい側。
びっくりするくらい近くにあったのは、クラスメイトで、チームメイトで、幼馴染でもある見慣れたベビーフェイスだった。
「………お前に起こされるとはな…」
まだ幾許かの眠気にまみれた掠れ声で宍戸は呆然と呟いた。
「俺もビックリ!」
あははーと呑気に笑ったジローが、うつぶせ寝で寝乱れているらしい宍戸の前髪に触れてきた。
直すというより、より乱されている感がしなくもないが、宍戸は大人しくされるままになっていた。
眠い、と呻いて眉根を寄せて。
宍戸はあくびをひとつ噛み殺す。
「寝不足?」
空いた方の片手で頬杖をつきながら、ジローが小首を傾げた。
「んー…そういう訳じゃねえけど」
何となく、そんな風にはぐらかした宍戸に。
「じゃ、悩み事?」
ハイテンションでもないのにいつになく矢継ぎ早に言葉をたたみかけてくるジローを前に、宍戸は小さく噴き出した。
ジローの食い付きが、やけに必死に、懸命に、見えたのだ。
「ねえよ、別に悩み事も」
ふうん、と頷いたジローが小さく言った。
「……俺はあるけど」
「ジロー…?」
小さな溜息で、ぽつりと呟かれて。
普段が陽気な分そんなしょげた態度を殆ど見せないジローなので、宍戸は面食らった。
宍戸の前髪を撫でていた手を引っ込めて、ジローは両手で頬杖をつきなおすと、細い肩を窄めて目を閉じて、盛大な溜息を吐き出した。
眉間に、ぎゅっと皺が寄っている。
「…おい?」
「宍戸に、ぜーんぜん頼りにして貰えなくてしょんぼりだし」
「………………」
正直、ジロー以外の輩がこんな口調で物を言ったらぶちきれそうになる宍戸だが、こと、この幼馴染は別格だ。
そう言われただけで、ものすごく悪い事をした気分になる。
しょんぼりという言葉の通り、肩を一層落として、俯いて。
小さな身体が尚小さくなっている。
「ジロー」
「いつになったら、宍戸は俺を全面全力で頼りにしてきたり、ちょっと聞いてくれよおって泣きついてきたり、俺にはもうジローしかいないんだよおとか言って抱きついてきたりするようになるんだろ」
「………それどう考えても俺のキャラじゃねえだろ」
「あ、やっぱしー?」
からりと即座に明るく笑ったジローに、宍戸は内心ほっとする。
冗談だろうとは思いつつ、ジローがどっぷりと落ち込んでいたりする様を見る事は、宍戸にしてみればどうにも落ち着かなかった。
「でもでも! 宍戸どうしたのかなっていうのは、マジで思ってるんだけど!」
「判ってるよ……サンキュ」
おかえし、というようにジローの癖っ毛に手を伸ばし、宍戸がその髪をくしゃくしゃにすると、ジローは満足そうな顔をした。
目を閉じて顎を持ち上げてご機嫌な表情になるのが、どこか愛犬を彷彿させておかしかった。
そういえば、手触りも似ているかもしれない。
毛並みというか。
ふわふわとしたジローの髪に触れながら宍戸はぼんやりそんな事を思った。
自分が撫でたら、嬉しがる。
愛犬やジローはそうだけれど、はたしてこの手が万人に使えるのかどうかは、宍戸には迷うところだ。
「おーい、お前ら、そろそろ鳳が泣き出すからそのへんにしとけよ」
いちゃいちゃしやがってと、突如威勢のいい声が響き渡る。
宍戸とジローが同時に視線を向けた先、教室の前扉に、腕組みした向日と、半歩後ろに控えるようにして立つ鳳がいた。
「俺別に泣きませんってば」
やんわりとした微苦笑で向日を見下ろし意見した鳳だったが、いいだろーとジローが宍戸の頭を胸元に抱え込むようにすると何故だか態度を一変させた。
「……それはちょっと泣きそうかも、…」
そうは言っても。
鳳は鳳でどこまで本気か判らねえなあと宍戸は呆れた溜息を零しつつ、片手でジローをぐいっと押しやった。
「うわ、拒絶されたっ」
「するだろ、ふつー」
「俺と宍戸の仲なのにっ?」
「どんな仲だよ」
宍戸とジローが言いあっているうちに、向日と鳳は教室の中に入ってきた。
近づいてきて、言葉には出さないけれど。
鳳の表情が、まだあからさまに、いいなあといったものだったので、宍戸は指先で鳳を呼んだ。
窺うように首を傾けて、腰を折るようにして顔を近づけてきた鳳の前髪を、宍戸は無言で、くしゃくしゃとかきまぜる。
こういうことだろう、つまり。
今、鳳が欲しがっているものは。
これが万人に使える手かどうかは知らないが、どうやら鳳にも効果があるようだと宍戸は踏んだ。
「………………」
宍戸がこうした時、ジローは目を瞑って、ご機嫌に笑みを浮かべた。
鳳はといえば、じっと宍戸の目を見据えたまま、ゆっくりと。
それはもう甘く、ふわりと、華やかな笑みを浮かべていく。
どちらにせよ嬉しそうだったり気持ち良さそうだったりするのは見ていてちゃんと判る。
愛犬、ジロー、鳳。
俺って撫でる才能あんのかもなと宍戸は考えた。
「宍戸さん」
「…あ?」
鳳の声が、小さく、宍戸の耳に届く。
控え目でいて、きっぱりとした呼びかけ。
続けて鳳はこう言った。
「くらべたら、嫌です」
「………は?」
そういう顔してるから、と思いのほか強く意思表示されて、時々こんな風に見透かしてくる鳳に宍戸はびっくりさせられるのだ。
上体を屈めたままの体勢で宍戸の返答を待っている鳳の頭を、宍戸は今度は軽く、数回たたいた。
「宍戸さん」
アホ、と返すつもりだったが、口が勝手に違う言葉を放った。
「……あー…悪い」
それも結構神妙な声まで出てしまって。
「いいえ」
にこにこと微笑む鳳と、歯切れ悪くも詫びた宍戸の傍で、ジローが唇を尖らせ、向日が地団駄を踏む。
「なんだよー、ふたりしてー、俺放って仲良くすんなよー」
「…っあー!…うぜえ! お前ら、ほんとうぜえ! ベタベタすんな、ベタベタ…!」
「………つーか、お前、何か用かよ、岳人」
今更ながらに宍戸が問いかけると、用なきゃ来ねえよっと向日が噛みついた。
宍戸にとってもう一人の幼馴染である向日は、昔から見た目と完全に相反して態度が荒い。
「しかも聞くの俺だけかよ! 鳳にも聞けよ、何か用かって!」
「こいつはいいんだよ、別に用なくたって来るから」
「……ナチュラルに言ってくれちゃうよねえ、宍戸はー」
あっけらかんとした顔で、ジローが笑う。
向日は相変わらず怒っていて、怒ったまま突然に言った。
「跡部からお前に伝言! 明日は17時まで、絶対に鳳をレギュラールームに近づけるな。5分前になったらお前が鳳連れて来い。以上、伝えたからなっ」
「……ッ、…おま、っ…、今この場でそれ言うか…?!」
よりにもよって鳳を前にして。
明日のその企画は、鳳のシークレットバースデイパーティだろう。
サプライズじゃなかったのかと宍戸が呆気にとられて向日を凝視すると、胸の前で腕組みした向日は平然とそれを受け止めて笑った。
「こいつはちゃんと空気読むもん」
そして傍らの長身の後輩を横目に見上げて。
「な、鳳?」
「……がんばります」
さすがに鳳は苦笑いしていたが、従順に会釈のように目線を伏せてみせた。
「ほらみろ。それより宍戸、お前こそ、しくじんじゃねえぞ」
「何にしくじるんだよっ」
「手放したくなくなって、すっぽかすなって事!」
曖昧なような、直球なような。
どちらともとれる問題発言を平気で放って、じゃあな!と向日は教室から出ていった。
宍戸は絶句して、そのまま固まった。
「じゃ、俺も行こ。明日、ちゃんと鳳連れてきてねー、宍戸ー」
ジローまでもにそんな事を言われた。
俺昼寝してくるしーと言い置いて、そしてジローも教室を出ていった。
これで二人きりだ。
「………………」
「…宍戸さんも、眠りますか?」
寝不足?とそっと尋ねてくる鳳を見上げて、固まっていた宍戸は硬直を振り払うよう、それはもう盛大な溜息を吐き出した。
「……信じらんね…」
「………ええと……明日のことですか?」
「本人前にして、ネタバレとか、するか普通」
信じられないのは、友人の行動、それと。
さらりと宍戸の寝不足に気づく鳳のこともだ。
色々と宍戸には解読不能だった。
「…おい、長太郎」
「はい?」
「お前、俺が寝不足なの判んのか」
はい、とあっさりと頷かれて宍戸は溜息を吐く。
「………じゃ、今晩は寝られるようにしろ」
「俺に、それが出来るんですか?」
「ああ。助けろ」
「勿論です」
鳳が宍戸の足元に膝をついて屈んだ。
傅くようにも見える。
心なしか周囲の視線を感じなくもないが、宍戸もそこは無視することにした。
思い悩む事無く、今晩はぐっすり眠りたいのだ。
「明日、17時まで、俺とお前、どこで何して時間潰すか考えてくれ」
結局宍戸は、向日やジローの事は全く言えない立場となった。
盛大なネタバレはおろか、その当人に。
鳳に。
内緒で遂行するべき時間の内容を、丸投げしたのだから。
ここ数日宍戸を悩ませていた出来事。
それは鳳に気づかれないように、パーティの準備が整う時間まで、彼を学校に足止めするというミッション。
それが宍戸に課せられた指令だった。
ただ時間を潰すだけならば、まだいい。
しかし何せ明日は、それがひどく困難な一日なのだ。
明日はバレンタインデー、そして鳳の誕生日だ。
どれだけの人が鳳に声をかけてくるか、チョコレートを、バースデイプレゼントを、渡しにくるのか。
そんな中、ずっと鳳の傍に貼りついているべきなのか、それともいっそどこかに雲隠れするべく誘うべきなのか。
宍戸には一向にうまい考えが思い浮かばなかった。
跡部に勝手に命じられてからずっと、ああでもないこうでもないと考え続けて、結果こんな風に寝不足になるくらいだ。
「了解です。宍戸さん」
「………………」
「大丈夫。今晩はもう、ゆっくり眠って下さいね。それと………そんな風に、ずっと考えてくれて、ありがとうございました」
「………この貸しはどこで返したらいい?」
鳳の口調があまりに健やかで、宍戸も力が抜けた。
少し笑って尋ねると鳳は穏やかな声で淀みなく言葉を紡ぐ。
「時間潰しのプランの中に、そのへんはちゃんと練り込みます」
「……一応俺の出来る事にしろよ…?」
ま、何でもやるけどよ、と宍戸が小さく付け足すと、鳳が笑みを浮かべて、ひっそりと宍戸の指先を手に握った。
するりと爪先まで撫でられるようにして離れていく一瞬の接触だけれど。
じん、と指先に熱が溜まるほどに甘い触れ方だった。
その一連の所作で、忘れていたけれど、ずっと手にしたままだったミントガムが鳳に持っていかれる。
これ、俺にください、と目線で鳳にねだられて。
宍戸が頷くより先に、耳元で、低くひそめた鳳の囁き声が届く。
「…今ここでは出来ないキスの代わりにします」
「………………」
言うなり鳳は片手で器用に包み紙を剥いて、ガムを口に入れた。
至近距離で視線が交差して。
その瞬間。
誰にも気づかれないけれど、自分達に判る。
ああ確かに、これはキスだ。
じゃあ明日、と鳳が教室を出て行き、おう、と宍戸はそれを見送った。
宍戸はそうして一人になったけれど、昼休みはまだ時間があって、教室の中は依然ざわめいていて。
「………………」
ゆっくりと宍戸は机にうつ伏せた。
その体勢で、ポケットから新しいミントガムをひとつ取り出し、包み紙を剥き、口に入れ、噛み締める。
キスをする。
とりあえず今は、そんなバーチャルなキスをして。
眠気にたゆたい、明日へそっと思いを馳せる。
二人だけの時って何喋ってんの?と乾に正面切って聞いてきたのは、確か菊丸だった。
隣で大石が困ったように笑って菊丸を窘めていたけれど、菊丸は乾をからかうというよりかなり真面目に疑問に思っているようだったので、乾は笑って答えたのだ。
何って、色々。
すこぶる機嫌の良い乾の返答に、菊丸は眉間をぎゅっと寄せるようにして首を傾げていた。
色々って、あの海堂と、乾が、色々?喋んの?マジで?と矢継ぎ早に菊丸が問いかけてくるのに、乾は逐一頷いた。
それってちゃんと会話?
乾が勝手に喋ってるとかじゃなくて?
菊丸の言葉はいつものように率直で、明け透けで。
やっぱり隣の大石だけが、菊丸の言動に慌てたり叱ったりしていたのを乾は思い出す。
でも多分あれが一般的な認識なのだろうとも自覚している。
乾と、海堂という、その組み合わせは。
ダブルスを組む事が決まってから、驚かれなかった試しがない。
一番ダブルスしなさそうな者同士が組んだって感じだねと微笑んでいたのは不二だ。
ダブルスを組むに至った経緯は、まだ誰も知らない。
乾が海堂を誘ったと知ったら、また驚かれるのだろうか。
そんな事を頬杖をついて考えながら、乾の手も口も、全く別の動きをしている。
広げたノートにフォーメーションのパターンを書きつけ、言葉で解説をする。
乾のクラスで、放課後、机を挟んで目の前にいるのは少しだけ居心地の悪そうな海堂だ。
けれど海堂の居心地の悪そうな気配は、乾と二人きりだからなのではなく、ここが三年生の教室だから落ち着かないのだということは乾にはちゃんと判っていた。
海堂は、まだ、乾のテリトリーに入ってくる事には慎重だ。
だからつい、余計に海堂からそうさせたくて、仕向けてしまったのだ。
「乾先輩は…」
海堂の声が、低く乾の名前を口にする。
いつも気配を張り詰めさせている感のある海堂は、しかし空気を慎重に読む所がある。
口数が多くない分、言葉を放つ瞬間に敏感なのだ。
乾の説明も思考も遮らない、ほんの僅かな隙を縫うようにして、口をひらいてくる。
ん?と乾は目線を上目に持ち上げた。
「…ダブルス、組んでた事あるんですか」
「………何で?」
かなり意外な事を尋ねられた。
乾は目を瞠る。
そんな乾をどう見たのか、海堂が僅かに決まり悪気に視線を外してくる。
普段はバンダナに覆われている事の多い海堂の黒髪が、さらりと零れた。
「いや、……いいです…」
「別に聞いちゃまずい事じゃないよ。ただちょっと驚いてさ」
その前髪に、つい手を伸ばしたくなる。
さすがにそれは飛びのかれるかもしれないと乾は自制したのだけれど。
「俺と一緒のコートは居心地悪いとか?」
何せ初めてのコンビだ。
未だ手探りな感は否めない。
「いや、………そう…じゃないから、あんたが」
実はダブルスに慣れてるんじゃないかと、と口にした海堂の言葉の語尾が曖昧に消えていく。
乾は唇に笑みを刻んで、あまり人に言った事のない話を海堂に伝えた。
「ジュニアの時はね、ダブルスだったよ」
「そう……なんすか…」
「ああ。自分がシングルスをやるとは、当時は全く思ってなかったな」
「………………」
口の重い海堂はよく沈黙を落とすけれど。
今のこの沈黙には、余計な事を聞いてしまったかと悔んでいるような心情が赤裸々すぎて、乾は笑みを浮かべたまま、ペンを机の上に置いた。
「なあ、海堂。ちょっと辺りを見回してみてくれないか」
「……は?」
「ぐるっと」
立てた人差し指で空間をぐるりと回す。
面食らった顔の海堂は、だからといって、突然切り替えられた会話を怒るような態度は見せなかった。
根本的に、海堂がひどく素直だと思うのはこういう時だ。
訳が判らないといった顔のまま、海堂は乾に言われた通りに、三年の教室を見回した。
「目についたものを、何でもいいから五つ上げてみて」
「……黒板、椅子、机、鞄、カーテン」
「うん。じゃあ次は、黄色いものがないか、見回して見て。あったら五つ言って」
「………チョーク、……花瓶…、花………、それ」
それ、と海堂が言ったのは机に置いた乾のシャープペンだ。
「それだけしか、黄色は目につかないですけど…」
いいよ、大丈夫、と乾は頷いた。
それから不審気な海堂の目を、正面からじっと見つめる。
「どうだった? 海堂」
「………………」
「意識を変えると、目に入ってくるものも変わるだろう? 海堂は同じ場所で、同じように辺りを見回したのに、一度目に目に映っていたものと、二度目に目に映ったものは全然違う」
海堂の瞳がゆっくりと瞠られて、乾は満足した。
「脳の動きが変わると、身体の動きも変わるんだよ。体感してみると、実感できるだろう? だから俺は、テニスにデータが必要だと思ったんだ。そういうのを覚えたというか、習ったのがジュニアの時のダブルスだ」
だから何も悪い思い出などない。
あの時以来の、誰かとダブルスを組むという感覚は、もっと懐かしいような気持ちを呼び起こすかと思いきや、そうでもない。
経験だけではなぞれないのだ。
今、乾の思考のかなりの部分を占める、目の前にいるこの存在は。
「俺は、こんな風に分析や理屈の先行型で」
「………………」
「海堂は、行動力と精神力の先行型だから、タイプは全く違う。でも、だから勝てると俺は思ってる」
どう思う? 海堂はと、乾は海堂を見つめて尋ねた。
「……俺は、俺のやりたいようにやる」
海堂の口数は少ない。
言葉は端的だ。
曖昧な表現を彼はあまり使わない。
「ダブルスには、多分慣れない。けど、あんたには慣れると思う」
「………………」
凄い事を言うなと乾は内心で感嘆した。
それは言うなれば、警戒心の塊のような孤高の野良猫が、そちらの方から近づいてきて、こちらが伸ばした指先に頬を擦り寄せ、自ら膝に乗ってくるようなものだ。
その無条件の信頼は何なのだ。
「あんたの言葉は、判りやすい」
そう口にしている間、海堂は何かに耳をすませ、何かを反芻するような顔で目を閉じる。
その無防備な表情は何なのだ。
「………………」
ああ、ほら、自分の意識が変わってしまった。
海堂のくれた言葉と表情と信頼とで、乾はそれを自覚する。
目に入ってくるものが変わる。
身体の動きが変わる。
「海堂」
先に確認を取ると断られそうだ。
そんな事を考えながら、乾は海堂の肩に手を置き、引き寄せて、キスをした。
軽く噛み合わせ、たわませ、ゆっくりと、離す。
至近距離に、大きく見開かれた海堂の瞳があった。
「…卑怯だな」
一瞬は浮かべた笑みを、しかし乾はすぐに消した。
乾の声は張り詰めて、低くなる。
「卑怯でも何でもいい」
強烈な飢餓感が込み上げてくる腕で。
乾は海堂を抱き寄せた。
押しのけるようにした机が、派手な音をたてたけれど。
今の乾には、腕に封じ胸に抱き寄せた海堂の存在だけが思考の全てだ。
思いのほか行動力の先行型でもあった己を知って、乾は本来の自分の専売特許である分析を海堂に任せるべく、まずは海堂が判りやすいと言ってくれた自分の言葉で、この恋を形にしようと、静かに口を開いていった。
隣で大石が困ったように笑って菊丸を窘めていたけれど、菊丸は乾をからかうというよりかなり真面目に疑問に思っているようだったので、乾は笑って答えたのだ。
何って、色々。
すこぶる機嫌の良い乾の返答に、菊丸は眉間をぎゅっと寄せるようにして首を傾げていた。
色々って、あの海堂と、乾が、色々?喋んの?マジで?と矢継ぎ早に菊丸が問いかけてくるのに、乾は逐一頷いた。
それってちゃんと会話?
乾が勝手に喋ってるとかじゃなくて?
菊丸の言葉はいつものように率直で、明け透けで。
やっぱり隣の大石だけが、菊丸の言動に慌てたり叱ったりしていたのを乾は思い出す。
でも多分あれが一般的な認識なのだろうとも自覚している。
乾と、海堂という、その組み合わせは。
ダブルスを組む事が決まってから、驚かれなかった試しがない。
一番ダブルスしなさそうな者同士が組んだって感じだねと微笑んでいたのは不二だ。
ダブルスを組むに至った経緯は、まだ誰も知らない。
乾が海堂を誘ったと知ったら、また驚かれるのだろうか。
そんな事を頬杖をついて考えながら、乾の手も口も、全く別の動きをしている。
広げたノートにフォーメーションのパターンを書きつけ、言葉で解説をする。
乾のクラスで、放課後、机を挟んで目の前にいるのは少しだけ居心地の悪そうな海堂だ。
けれど海堂の居心地の悪そうな気配は、乾と二人きりだからなのではなく、ここが三年生の教室だから落ち着かないのだということは乾にはちゃんと判っていた。
海堂は、まだ、乾のテリトリーに入ってくる事には慎重だ。
だからつい、余計に海堂からそうさせたくて、仕向けてしまったのだ。
「乾先輩は…」
海堂の声が、低く乾の名前を口にする。
いつも気配を張り詰めさせている感のある海堂は、しかし空気を慎重に読む所がある。
口数が多くない分、言葉を放つ瞬間に敏感なのだ。
乾の説明も思考も遮らない、ほんの僅かな隙を縫うようにして、口をひらいてくる。
ん?と乾は目線を上目に持ち上げた。
「…ダブルス、組んでた事あるんですか」
「………何で?」
かなり意外な事を尋ねられた。
乾は目を瞠る。
そんな乾をどう見たのか、海堂が僅かに決まり悪気に視線を外してくる。
普段はバンダナに覆われている事の多い海堂の黒髪が、さらりと零れた。
「いや、……いいです…」
「別に聞いちゃまずい事じゃないよ。ただちょっと驚いてさ」
その前髪に、つい手を伸ばしたくなる。
さすがにそれは飛びのかれるかもしれないと乾は自制したのだけれど。
「俺と一緒のコートは居心地悪いとか?」
何せ初めてのコンビだ。
未だ手探りな感は否めない。
「いや、………そう…じゃないから、あんたが」
実はダブルスに慣れてるんじゃないかと、と口にした海堂の言葉の語尾が曖昧に消えていく。
乾は唇に笑みを刻んで、あまり人に言った事のない話を海堂に伝えた。
「ジュニアの時はね、ダブルスだったよ」
「そう……なんすか…」
「ああ。自分がシングルスをやるとは、当時は全く思ってなかったな」
「………………」
口の重い海堂はよく沈黙を落とすけれど。
今のこの沈黙には、余計な事を聞いてしまったかと悔んでいるような心情が赤裸々すぎて、乾は笑みを浮かべたまま、ペンを机の上に置いた。
「なあ、海堂。ちょっと辺りを見回してみてくれないか」
「……は?」
「ぐるっと」
立てた人差し指で空間をぐるりと回す。
面食らった顔の海堂は、だからといって、突然切り替えられた会話を怒るような態度は見せなかった。
根本的に、海堂がひどく素直だと思うのはこういう時だ。
訳が判らないといった顔のまま、海堂は乾に言われた通りに、三年の教室を見回した。
「目についたものを、何でもいいから五つ上げてみて」
「……黒板、椅子、机、鞄、カーテン」
「うん。じゃあ次は、黄色いものがないか、見回して見て。あったら五つ言って」
「………チョーク、……花瓶…、花………、それ」
それ、と海堂が言ったのは机に置いた乾のシャープペンだ。
「それだけしか、黄色は目につかないですけど…」
いいよ、大丈夫、と乾は頷いた。
それから不審気な海堂の目を、正面からじっと見つめる。
「どうだった? 海堂」
「………………」
「意識を変えると、目に入ってくるものも変わるだろう? 海堂は同じ場所で、同じように辺りを見回したのに、一度目に目に映っていたものと、二度目に目に映ったものは全然違う」
海堂の瞳がゆっくりと瞠られて、乾は満足した。
「脳の動きが変わると、身体の動きも変わるんだよ。体感してみると、実感できるだろう? だから俺は、テニスにデータが必要だと思ったんだ。そういうのを覚えたというか、習ったのがジュニアの時のダブルスだ」
だから何も悪い思い出などない。
あの時以来の、誰かとダブルスを組むという感覚は、もっと懐かしいような気持ちを呼び起こすかと思いきや、そうでもない。
経験だけではなぞれないのだ。
今、乾の思考のかなりの部分を占める、目の前にいるこの存在は。
「俺は、こんな風に分析や理屈の先行型で」
「………………」
「海堂は、行動力と精神力の先行型だから、タイプは全く違う。でも、だから勝てると俺は思ってる」
どう思う? 海堂はと、乾は海堂を見つめて尋ねた。
「……俺は、俺のやりたいようにやる」
海堂の口数は少ない。
言葉は端的だ。
曖昧な表現を彼はあまり使わない。
「ダブルスには、多分慣れない。けど、あんたには慣れると思う」
「………………」
凄い事を言うなと乾は内心で感嘆した。
それは言うなれば、警戒心の塊のような孤高の野良猫が、そちらの方から近づいてきて、こちらが伸ばした指先に頬を擦り寄せ、自ら膝に乗ってくるようなものだ。
その無条件の信頼は何なのだ。
「あんたの言葉は、判りやすい」
そう口にしている間、海堂は何かに耳をすませ、何かを反芻するような顔で目を閉じる。
その無防備な表情は何なのだ。
「………………」
ああ、ほら、自分の意識が変わってしまった。
海堂のくれた言葉と表情と信頼とで、乾はそれを自覚する。
目に入ってくるものが変わる。
身体の動きが変わる。
「海堂」
先に確認を取ると断られそうだ。
そんな事を考えながら、乾は海堂の肩に手を置き、引き寄せて、キスをした。
軽く噛み合わせ、たわませ、ゆっくりと、離す。
至近距離に、大きく見開かれた海堂の瞳があった。
「…卑怯だな」
一瞬は浮かべた笑みを、しかし乾はすぐに消した。
乾の声は張り詰めて、低くなる。
「卑怯でも何でもいい」
強烈な飢餓感が込み上げてくる腕で。
乾は海堂を抱き寄せた。
押しのけるようにした机が、派手な音をたてたけれど。
今の乾には、腕に封じ胸に抱き寄せた海堂の存在だけが思考の全てだ。
思いのほか行動力の先行型でもあった己を知って、乾は本来の自分の専売特許である分析を海堂に任せるべく、まずは海堂が判りやすいと言ってくれた自分の言葉で、この恋を形にしようと、静かに口を開いていった。
プライドを捨てて、それで跡部が手に入れたものが、この世の中に、二つある。
一つは跡部が目指すテニスのレベル。
そしてもう一つが、今跡部の腕の中に収まっている。
「跡部ってさあ、俺の知らない事、ほんっとたくさん知ってるよな…」
「………………」
台風の後だからか昨日の夜中の星が綺麗だったなんて話から、天の川銀河の中にダイヤモンド並みの密度を持つ惑星が発見されている話になって。
跡部の声に大人しく耳を傾けていた神尾が、ひとしきり話を聞き終えて、しみじみと呟く。
跡部の胸元に靠れて寄りかかるような体勢の神尾の身体は、跡部の腕の中に、すっぽりとはまっている。
テニスをしている時などには然程感じないのだが、神尾の骨格は随分と華奢だ。
跡部が背後から腕を回すと、その身体は片腕だけであまりにも簡単に抱え込めてしまえる。
毛並みの重厚なラグに座り込み、神尾を背後から抱え込みながら跡部が見下ろせば、そこだけやけに中性的に見える細いうなじがあって、襟足を短く切っているから、ひどくなめらかな肌の質感が剝き出しで、跡部はついそれに気をとられる。
こんな風に、思わぬところに隙がある神尾は、背後にいる跡部が、どういう目で自分の肌を見ているか気づきもしない。
「……っ…、ちょ…え? なに、…擽った…、っ」
結局欲求に負けて、跡部が神尾の首筋に唇を寄せ顔を埋めると、神尾がからりと笑って身じろいだ。
「くすぐったいってば! なんだよう、跡部ー」
「………お前の思考回路が俺には予想つかねえんだから条件は一緒だろ」
「え? 何…?」
何の話?と笑いながら神尾が身体を捩って跡部の方に顔を向けてくる。
腕の中からは逃がしはしなかったけれど、跡部は神尾の頬を片手で支えて軽く唇に口づけてから言った。
「俺がお前の知らない事を知ってるっつったろうが、今」
「………あー…」
その話かというように神尾は頷いて、それよりも今は赤くなった顔を隠したいのか、また元のように跡部に背中を向けようとする。
神尾がじたばたともがいている様は、跡部の機嫌を良くした。
がっしりと、腕でも足でもホールドしてやって見下ろしていると、神尾の肌はどんどん赤く染まっていった。
「もー、なんなんだよっ、跡部」
さっきから!と神尾が怒鳴り、跡部はそれを黙って流す。
神尾は怒っているけれど、恥ずかしがっている表情は甘ったるい。
跡部は神尾を無視しているが、しかけているのは一方的に跡部の方だ。
どちらにしろ、どこからどう見ても、自分達はじゃれあっているようにしか見えないだろうと跡部は考えた。
べったりくっついた自分達。
この俺様がねえ?と跡部は神尾から見えない場所で、唇の端に苦笑を刻んだ。
自分達が、こんな風に一緒に時間を過ごすようになるなんて、出会った当初は思いもしなかった。
それはおそらく神尾もだろう。
ただ跡部には、少なくとも神尾よりは、先見の明がある。
跡部のインサイトは、テニスだけに使われるものではなかった。
どうでもいいような言い争いや言葉の応酬しかしていなかった頃から、何となく、跡部には判っていた。
だからこそ、相当意地の悪いような真似もしたし、神尾に対しての態度は決して良いものではなかった。
跡部は判っていたから、牽制したのだ。
神尾の存在が、自分の中で表面化しない部分を刺激する事も、完璧さを崩す事も。
ゆくゆく、分が悪くなるのがどちらで、飢えたように渇望するのがどちらか。
跡部は最初から、その殆どが、判っていた。
自分から弱みを作る人間はいない。
そんな風に思っていた、つまりは跡部のプライドだ。
しかし、自分のプライドに固執する事で、進化が停滞する事を。
跡部はテニスと、そして神尾で、知ったのだ。
「……なあ、跡部ー」
「何だよ」
抵抗を諦めたのか、神尾が跡部の胸元に改めて深く寄りかかるように体重をかけてきて、そのまま仰のき、跡部の顔を見上げるようにしてくる。
跡部は両腕を神尾の胸の前で交差させ、尖った肩を手に包んで目線を合わせる。
「跡部って、俺の考えてる事、判んないのか?」
「何嬉しそうなツラしてんだよ」
「だってよう」
跡部でも判らないことあるのかと思って、と神尾は機嫌よく言った。
皮肉気な笑みで、跡部はそれを一掃した。
「バァカ。単純なお前の考えてる事くらい判るに決まってんだろ」
「跡部、言ってることさっきと違くね?!」
「俺が言ってるのはお前が考えてる事じゃなくてお前の思考回路の方だ」
それって違うのか?と怪訝に首を傾げている神尾の反応は、いつでもこんな風に素直極まりない。
いわゆる単純というやつだ。
それなのに、それがどうしてそうなったというような、ひどく不思議な地点に着地する。
「な、じゃあ、今は?」
「…アア?」
「今。俺の考えてる事」
さっきはキス一つで真っ赤になっていたのに、今は跡部の腕の中で跡部に全力で拘束されながらも、神尾はすっかり寛ぎきった様子で笑っている。
跡部の腕に自分からも手をかけて、当ててみろという風に神尾はまた跡部を振り仰いできた。
その額に跡部が唇を落とし、口づけると、擽ったそうに肩を竦めてから、ぺしりと跡部の腕を叩いてくる。
「何だ」
「何だじゃない!」
しすぎ!とむくれる神尾の口も、逆向きの角度のキスで塞いだ。
「足りねえよ、バァカ」
からかいに本音を混ぜ込んで囁いてから。
「良いのか、言って」
「……え…?」
サプライズなんじゃねえの?と小さく問いかけた声は、我ながら甘くて嬉しげで、跡部は自嘲しつつも、大きく目を見開いた神尾の判りやすい表情に喉で笑いを響かせる。
日付が変われば、誕生日だ。
神尾が何をしたいのかは、判るような判らないような。
取り敢えず、自分の誕生日に日付が変わるその瞬間、自分の腕の中には神尾がいるようなので。
跡部にはそれだけあれば充分だったから、神尾の思惑には気づかない振りをしてやってもいいと思った。
わざと、ちらりと、ほのめかしてやると、サプライズをしたいらしい神尾は慌てふためいて凄い事になった。
「言うなっ。言わないでっ。俺の頭の中も読むなっ」
「さて?」
「わーっ、ばかっ、最低っ」
叫んだところでどうしようもないだろうと跡部は呆れながらも、暴れる神尾を身包み抱え込むようにして、結局のところ流されてやる。
神尾の全て良いように。
それくらい、跡部には。
どうって事のない事なのだから。
誕生日くらい、忘れた事にしてやろう。
お前さあ、と。
宍戸はいよいよ、そう、口火を切った。
先程から宍戸がその話を切り出そうとする度に。
はぐらかしたりごまかしたり別の話題を持ってきたり、あまつさえ呼びかけに聞こえない振りまでしてのけた鳳の聞きわけの悪さには、腹が立つどころか笑いが込み上げてきてしまっている宍戸なのだけれど。
宍戸の少し改まった口調に、鳳は小さな溜息をついた後、もう抵抗の手管は出しつくし、観念でもしたのか、無言のまま、じっと宍戸の目を見返してきた。
自分より背の高い男に、上目に見られると言うのも、どうなんだろうか。
それも、なんだかもう、長身で大層な男前なのに、その表情は、いたいけというか、必死というか。
「あー……、と…」
らしくもなく、言い淀む自分も決まり悪いような気分で、宍戸はうなじに手をかけて視線を彷徨わせる。
そんな宍戸を、見るからに王子様然とした風情の鳳が、物言いたげな目をして見つめてくる。
ああもう、かわいいんだかかわいそうなんだか判んねえ、と宍戸は溜息を吐き出した。
「長太郎。明日の約束な、…また、今度にするか」
表面上は問いかけという形をとったが、宍戸の心情的には、決定事項の言い切りに近かった。
それでも宍戸なりに気を使って、なるべく素気なくならないよう、出来るだけ丁寧に言ったのだが。
案の定、鳳の拒絶は凄まじい。
嫌ですと真っ向から突っぱねられた。
「嫌…っつってもよ、お前…」
「嫌です」
低い、重い声。
凄んでいるかのようにも聞こえる鳳の声に、宍戸は眉根を寄せた。
それは鳳の物言いに気分を害したからではなくて。
可哀想になあと痛々しさを噛み締めたからだ。
「……取り敢えず、送ってく」
そう言って宍戸が鳳の持っていた鞄を奪うと、そうさせまいとしたけれど叶わない、鳳の緩慢な所作が何より雄弁に今の状態を物語っている。
「宍戸さん、鞄」
「いいよ。つーか、お前、家まで歩けんのか? 長太郎」
「歩けますよ。……だから鞄、」
鞄の一つや二つ大した事でもないのにと、宍戸は少し呆れた。
宍戸に荷物を持たせるのか余程不満なのか、手を伸ばしてくる鳳を同じ回数だけあしらい、勿論鞄は手放さないまま、宍戸はお互いの距離をわざと近くして歩き出した。
変なところ頑固だよな、と年下の男をちらりと横目に見上げて宍戸は思った。
人のこと言えないけどなという自覚も持ちつつだ。
「………………」
約束なんて、たった一回反古にしたって、また何度だって出来るものだし。
こうやって歩くのに、肩くらい幾らだって貸してやれるのに。
多分そういう事を言っても鳳は聞かないだろう。
腕が時折触れ合うこの距離で、鳳から伝わってくる気配が何となく熱っぽい。
これはもう本格的に、どうしたって風邪だろうと、宍戸は小さく吐息を零す。
見た目の柔和さに相反して、鳳はタフで頑丈だ。
判りやすく体調を崩した所など、これまでに見た事がない。
それがどうやら、今日は珍しい事に、熱まで出しているようだ。
鳳は自身の体調不良を宍戸には知られたくなかったようだけれど、生憎いくら学年が違ったって、宍戸の元に鳳の情報はいくらでも入ってくるのだ。
どうも鳳の具合が悪いらしい。
今日一日で、宍戸は何人からその話を聞いただろうか。
こっそりと放課後正門で待ち伏せてみれば、宍戸には気づかれたくなかったらしい鳳が、かなり参った様子で歩いてきたので、宍戸はそこで鳳を捕獲した。
往生際悪く鳳は何でもないふりをしようとしていたが、どう考えても明日の約束は取り止めた方がいいのは宍戸の目にも明らかだった。
「長太郎」
「………………」
またも聞こえない振りをしているらしい鳳の腕を掴んで、宍戸は足を止めた。
「おーい……聞けって」
「………やです。宍戸さん、信じられないこと言うし」
はあ、と熱を帯びた溜息を零して、鳳は真剣に憂いだ顔をして宍戸を見下ろしてきた。
顔色もよくない。
宍戸がそう思って見つめ返してると、鳳は、がっくりと両肩を落とした。
「俺も、信じられないですけどね…」
ほんとばかだ、と落ち込んだ呟きを口にした鳳に、馬鹿じゃねえよと即座に言って、宍戸は笑った。
「これでこじらせたら馬鹿だけどな」
「……どっちなんですか…」
明日、宍戸さんの誕生日なのに、と。
それこそ地を這うような、それはもう落ち込みきった声音で言われてしまって、仕方がないので宍戸は鳳の腕を掴んでいた手を外し、そのまま鳳の頭をそっと手のひらで撫でた。
それにしたってそこまで落ち込むような事だろうか。
「何で、このタイミングで……風邪とかひくんだか…俺も…訳わかんないですよ…」
「別に風邪くらい、ひく時はひくだろ。長太郎、お前さ、いくらなんでも落ち込み過ぎだろ」
「落ち込みもしますよ…!」
がばっと鳳が勢いよく顔を上げる。
宍戸は鳳の頭を撫でていた手を浮かせる。
鳳は勢いあまって頭痛がしたか、眩暈がしたか。
眉根を寄せて目を閉じる。
宍戸は慌てて片手で鳳の腕を掴んで支え、もう一方の手で今度は鳳の頬を数回撫でた。
「大丈夫か?」
宍戸の問いかけに頷き返しはするけれど、鳳は目を閉じたままだった。
暫く宍戸の手のひらに片頬を預けるようにしてから、ゆっくりと目を開けていく。
互いの目と目が合うと鳳が安心したような顔をするので、宍戸も唇に小さく笑みを刻んだ。
「取り敢えず、お前、ちゃんと治せ」
な?と宍戸が言い聞かせると。
「………明日」
「まだ言うか。中止だ中止」
それだけの言葉に、この世の終わりみたいな顔でショックを受ける鳳の、それでもほんの少しも崩れない整った顔。
でもその顔色は、はっきり言ってどんどん悪くなっている。
「明日は家で休んでろ。うちにも来るな。いいな?」
「…………あんまりだ…宍戸さん…」
宍戸さんの誕生日なのに、と宍戸に体重をかけてくる大きな身体を、宍戸はしまいに本気で笑ってしまいながら受け止めた。
やっぱりこれは、相当に具合が悪いのだろう。
ここまで甘ったれ全開で、愚図る、絡む鳳というのは本当に珍しい。
ここは往来で、両腕で抱え込まれるようにがっしりと抱き込まれた体制もどうかと思うが、宍戸は鳳の腕に抗わなかった。
「お前の調子が良くなったら、明日する筈だった予定は、その時に、ちゃんと全部するからよ」
「宍戸さん誕生日なのに………俺に情けなく寝込んでろって言うんですか」
理不尽というか、何とも滅茶苦茶な事を真剣に鳳に訴えかけられて、ああもうこいつどうしようもねえなと宍戸は固い背中を宥めて撫でてやる。
「安心しろ。寝込んでてもかっこいいよ、お前は」
「そんな筈あるわけないじゃないですか……! 呆れられて、愛想つかされますよ、普通は…」
「誰の話だよ」
低く笑いながら、宍戸は繰り返し鳳の背を撫でた。
「愛想なんか、つかさねえよ」
「でも明日は、俺じゃない誰かと一緒にいるんだ、宍戸さんは……」
本当に、従来の鳳からすると信じられない程の絡みっぷりだ。
そして、ここまでぐだぐだに絡まれても、ほんの少しも腹がたたないのだから、そんな自分が宍戸は我ながら不思議になる。
いったいどれだけ、この男の事が好きなんだろうと思って。
「アホ。明日は俺も一人で部屋に閉じこもるに決まってんだろ」
「………誕生日なのに」
「どうでもいいっての」
宍戸にとって自分の誕生日なんて、鳳が思っている程には然して重大な事ではなかった。
もうだいぶ前から約束していた宍戸の誕生日に二人で出掛ける話は、宍戸にしてみれば、重きがあるのは鳳と一緒にいるという事だけだ。
自分の誕生日そのものに拘りはない。
「誕生日にそれって、あんまりじゃないですか……」
「とか言ってお前、じゃあ俺が明日誰か他の奴と一緒にいるとか言ったら嫌だろうが」
それはすごく嫌ですけど、とあまりにも素直に鳳に即答されて、宍戸はそれで満足した。
「だから俺も一人でいてやるよ」
「宍戸さんかっこよすぎてくらくらする……」
「ばか、そりゃ熱上がってるだけだろ」
早く帰るぞ、と促し代わりに鳳の背を叩き、二人分の鞄を肩に担いだ宍戸は鳳の手を引いた。
「………宍戸さん」
「危なっかしいんだよ!」
だからだよ、と荒っぽく言って、宍戸は鳳と手を繋いだまま歩く。
鳳に驚かれている自覚はあるから、宍戸の口調はぶっきらぼうだったのに。
鳳が軽やかに笑った気配がして、宍戸はそっと背後を振り返った。
思った通りの笑顔がそこにあって。
「……何だよ」
「俺、具合よくなるかも」
「は?」
「なんか、明日にはもう大丈夫になってる気がする」
怒ろうとして、失敗して。
ひどく甘い鳳の表情に、結局宍戸もつられて笑ってしまう。
「んなわけあるか」
「宍戸さん」
「ごめん、とか言ったら放り出すぞ」
「………………」
ちょっと本気で宍戸が睨んで言えば、目を瞠った鳳が、苦笑いと一緒に。
今日初めて、大変に聞きわけの良い返事を、はい、と言って零してきた。
宍戸はいよいよ、そう、口火を切った。
先程から宍戸がその話を切り出そうとする度に。
はぐらかしたりごまかしたり別の話題を持ってきたり、あまつさえ呼びかけに聞こえない振りまでしてのけた鳳の聞きわけの悪さには、腹が立つどころか笑いが込み上げてきてしまっている宍戸なのだけれど。
宍戸の少し改まった口調に、鳳は小さな溜息をついた後、もう抵抗の手管は出しつくし、観念でもしたのか、無言のまま、じっと宍戸の目を見返してきた。
自分より背の高い男に、上目に見られると言うのも、どうなんだろうか。
それも、なんだかもう、長身で大層な男前なのに、その表情は、いたいけというか、必死というか。
「あー……、と…」
らしくもなく、言い淀む自分も決まり悪いような気分で、宍戸はうなじに手をかけて視線を彷徨わせる。
そんな宍戸を、見るからに王子様然とした風情の鳳が、物言いたげな目をして見つめてくる。
ああもう、かわいいんだかかわいそうなんだか判んねえ、と宍戸は溜息を吐き出した。
「長太郎。明日の約束な、…また、今度にするか」
表面上は問いかけという形をとったが、宍戸の心情的には、決定事項の言い切りに近かった。
それでも宍戸なりに気を使って、なるべく素気なくならないよう、出来るだけ丁寧に言ったのだが。
案の定、鳳の拒絶は凄まじい。
嫌ですと真っ向から突っぱねられた。
「嫌…っつってもよ、お前…」
「嫌です」
低い、重い声。
凄んでいるかのようにも聞こえる鳳の声に、宍戸は眉根を寄せた。
それは鳳の物言いに気分を害したからではなくて。
可哀想になあと痛々しさを噛み締めたからだ。
「……取り敢えず、送ってく」
そう言って宍戸が鳳の持っていた鞄を奪うと、そうさせまいとしたけれど叶わない、鳳の緩慢な所作が何より雄弁に今の状態を物語っている。
「宍戸さん、鞄」
「いいよ。つーか、お前、家まで歩けんのか? 長太郎」
「歩けますよ。……だから鞄、」
鞄の一つや二つ大した事でもないのにと、宍戸は少し呆れた。
宍戸に荷物を持たせるのか余程不満なのか、手を伸ばしてくる鳳を同じ回数だけあしらい、勿論鞄は手放さないまま、宍戸はお互いの距離をわざと近くして歩き出した。
変なところ頑固だよな、と年下の男をちらりと横目に見上げて宍戸は思った。
人のこと言えないけどなという自覚も持ちつつだ。
「………………」
約束なんて、たった一回反古にしたって、また何度だって出来るものだし。
こうやって歩くのに、肩くらい幾らだって貸してやれるのに。
多分そういう事を言っても鳳は聞かないだろう。
腕が時折触れ合うこの距離で、鳳から伝わってくる気配が何となく熱っぽい。
これはもう本格的に、どうしたって風邪だろうと、宍戸は小さく吐息を零す。
見た目の柔和さに相反して、鳳はタフで頑丈だ。
判りやすく体調を崩した所など、これまでに見た事がない。
それがどうやら、今日は珍しい事に、熱まで出しているようだ。
鳳は自身の体調不良を宍戸には知られたくなかったようだけれど、生憎いくら学年が違ったって、宍戸の元に鳳の情報はいくらでも入ってくるのだ。
どうも鳳の具合が悪いらしい。
今日一日で、宍戸は何人からその話を聞いただろうか。
こっそりと放課後正門で待ち伏せてみれば、宍戸には気づかれたくなかったらしい鳳が、かなり参った様子で歩いてきたので、宍戸はそこで鳳を捕獲した。
往生際悪く鳳は何でもないふりをしようとしていたが、どう考えても明日の約束は取り止めた方がいいのは宍戸の目にも明らかだった。
「長太郎」
「………………」
またも聞こえない振りをしているらしい鳳の腕を掴んで、宍戸は足を止めた。
「おーい……聞けって」
「………やです。宍戸さん、信じられないこと言うし」
はあ、と熱を帯びた溜息を零して、鳳は真剣に憂いだ顔をして宍戸を見下ろしてきた。
顔色もよくない。
宍戸がそう思って見つめ返してると、鳳は、がっくりと両肩を落とした。
「俺も、信じられないですけどね…」
ほんとばかだ、と落ち込んだ呟きを口にした鳳に、馬鹿じゃねえよと即座に言って、宍戸は笑った。
「これでこじらせたら馬鹿だけどな」
「……どっちなんですか…」
明日、宍戸さんの誕生日なのに、と。
それこそ地を這うような、それはもう落ち込みきった声音で言われてしまって、仕方がないので宍戸は鳳の腕を掴んでいた手を外し、そのまま鳳の頭をそっと手のひらで撫でた。
それにしたってそこまで落ち込むような事だろうか。
「何で、このタイミングで……風邪とかひくんだか…俺も…訳わかんないですよ…」
「別に風邪くらい、ひく時はひくだろ。長太郎、お前さ、いくらなんでも落ち込み過ぎだろ」
「落ち込みもしますよ…!」
がばっと鳳が勢いよく顔を上げる。
宍戸は鳳の頭を撫でていた手を浮かせる。
鳳は勢いあまって頭痛がしたか、眩暈がしたか。
眉根を寄せて目を閉じる。
宍戸は慌てて片手で鳳の腕を掴んで支え、もう一方の手で今度は鳳の頬を数回撫でた。
「大丈夫か?」
宍戸の問いかけに頷き返しはするけれど、鳳は目を閉じたままだった。
暫く宍戸の手のひらに片頬を預けるようにしてから、ゆっくりと目を開けていく。
互いの目と目が合うと鳳が安心したような顔をするので、宍戸も唇に小さく笑みを刻んだ。
「取り敢えず、お前、ちゃんと治せ」
な?と宍戸が言い聞かせると。
「………明日」
「まだ言うか。中止だ中止」
それだけの言葉に、この世の終わりみたいな顔でショックを受ける鳳の、それでもほんの少しも崩れない整った顔。
でもその顔色は、はっきり言ってどんどん悪くなっている。
「明日は家で休んでろ。うちにも来るな。いいな?」
「…………あんまりだ…宍戸さん…」
宍戸さんの誕生日なのに、と宍戸に体重をかけてくる大きな身体を、宍戸はしまいに本気で笑ってしまいながら受け止めた。
やっぱりこれは、相当に具合が悪いのだろう。
ここまで甘ったれ全開で、愚図る、絡む鳳というのは本当に珍しい。
ここは往来で、両腕で抱え込まれるようにがっしりと抱き込まれた体制もどうかと思うが、宍戸は鳳の腕に抗わなかった。
「お前の調子が良くなったら、明日する筈だった予定は、その時に、ちゃんと全部するからよ」
「宍戸さん誕生日なのに………俺に情けなく寝込んでろって言うんですか」
理不尽というか、何とも滅茶苦茶な事を真剣に鳳に訴えかけられて、ああもうこいつどうしようもねえなと宍戸は固い背中を宥めて撫でてやる。
「安心しろ。寝込んでてもかっこいいよ、お前は」
「そんな筈あるわけないじゃないですか……! 呆れられて、愛想つかされますよ、普通は…」
「誰の話だよ」
低く笑いながら、宍戸は繰り返し鳳の背を撫でた。
「愛想なんか、つかさねえよ」
「でも明日は、俺じゃない誰かと一緒にいるんだ、宍戸さんは……」
本当に、従来の鳳からすると信じられない程の絡みっぷりだ。
そして、ここまでぐだぐだに絡まれても、ほんの少しも腹がたたないのだから、そんな自分が宍戸は我ながら不思議になる。
いったいどれだけ、この男の事が好きなんだろうと思って。
「アホ。明日は俺も一人で部屋に閉じこもるに決まってんだろ」
「………誕生日なのに」
「どうでもいいっての」
宍戸にとって自分の誕生日なんて、鳳が思っている程には然して重大な事ではなかった。
もうだいぶ前から約束していた宍戸の誕生日に二人で出掛ける話は、宍戸にしてみれば、重きがあるのは鳳と一緒にいるという事だけだ。
自分の誕生日そのものに拘りはない。
「誕生日にそれって、あんまりじゃないですか……」
「とか言ってお前、じゃあ俺が明日誰か他の奴と一緒にいるとか言ったら嫌だろうが」
それはすごく嫌ですけど、とあまりにも素直に鳳に即答されて、宍戸はそれで満足した。
「だから俺も一人でいてやるよ」
「宍戸さんかっこよすぎてくらくらする……」
「ばか、そりゃ熱上がってるだけだろ」
早く帰るぞ、と促し代わりに鳳の背を叩き、二人分の鞄を肩に担いだ宍戸は鳳の手を引いた。
「………宍戸さん」
「危なっかしいんだよ!」
だからだよ、と荒っぽく言って、宍戸は鳳と手を繋いだまま歩く。
鳳に驚かれている自覚はあるから、宍戸の口調はぶっきらぼうだったのに。
鳳が軽やかに笑った気配がして、宍戸はそっと背後を振り返った。
思った通りの笑顔がそこにあって。
「……何だよ」
「俺、具合よくなるかも」
「は?」
「なんか、明日にはもう大丈夫になってる気がする」
怒ろうとして、失敗して。
ひどく甘い鳳の表情に、結局宍戸もつられて笑ってしまう。
「んなわけあるか」
「宍戸さん」
「ごめん、とか言ったら放り出すぞ」
「………………」
ちょっと本気で宍戸が睨んで言えば、目を瞠った鳳が、苦笑いと一緒に。
今日初めて、大変に聞きわけの良い返事を、はい、と言って零してきた。
それは露骨に、喧嘩を売ってる顔。
今の宍戸の表情は、見る人によっては、まさにそれなんだろう。
鋭い眼差し、切れ上がった眦。
眼光は強く、力がある。
全体的にシャープで、、雰囲気に隙がない。
そして何より、じっとこちらを見据えてくる表情。
滝はそんな宍戸の視線を受け止めて、柔和に微笑み軽く首を傾けた。
「なに?」
「………あ?」
その睨むような目つきが、実際には別に、本当に自分を睨んでいる訳ではないのだと、滝は勿論知っていたけれど。
どうやら宍戸自身に、滝を見据えていた自覚が全くなかったようなのがおかしくて、滝の笑みは深くなる。
あんなに見ていたのにねと思いながら口にした。
「だってさっきからそうやって、随分こっちを見てるから」
何かなと思って、と付け加えると、宍戸が幾分決まり悪そうな顔になった。
どうやら本当に、これっぽっちも、宍戸にはその自覚がなかったようだ。
「……悪ぃ」
「別にいいよ」
後ろ首に手をやって、目線を伏せ、小さく口にした宍戸は、そもそも滝の目には、どことなくぼんやりしているように見えていた。
正面から、じっと滝を見据えていた目は、元々が切れ長で怜悧なものだから一見するときつい印象だけれど。
気心知れた間柄の滝からすれば、自分の顔を見続けながら何の考え事だろう?という印象だ。
いつもは人の賑わう氷帝のカフェテリアだが、今日は比較的すいている。
滝と宍戸は六人掛けのテーブルを二人でゆったりと使っていた。
ほんの少し前までここにはジローや向日もいて、大層賑やかだったのだけれど。
彼らの待ち人だったらしい忍足が顔を見せると三人でいなくなってしまったので、今はこうして滝と宍戸の二人きりだった。
滝にとってみれば、宍戸は決して気難しい相手ではないけれど、ずっとぼんやりし続けている宍戸に対しては、さて、どうしようかと少々悩む所だ。
ひとまず紅茶のカップを両手にくるみ、口元に運んだ。
そして今まさに口をつけようとしたそのタイミングで、投下された言葉に滝はうっかり紅茶を吹き出しかけた。
「初恋」
「………っ、…は…?…」
初恋?
初恋と言ったのか?宍戸が?と。
滝は硬直した。
正直、それは宍戸の口から出てくるにはあまりにも予想外の言葉だった。
「……さっきあいつらが言ってただろ」
何そんなに驚いてんだと、宍戸が不審気に目を細める。
確かに。
先ほどジローと向日が、初恋の子の話などしていた。
あの二人がそういった話題で話す分には、滝だって少しも驚きなどしなかったのだが、それが宍戸の口から飛び出てこられると、どうしたってびっくりしてしまう。
硬派というか何というか、あまり宍戸が好んでする話題でもないからだ。
一言、初恋という言葉が出てきただけで、滝は充分驚いた。
それなのに、尚宍戸が続けて言った言葉がこれだ。
「長太郎の初恋がお前でも、俺、驚かねえよなぁ」
「………………」
めちゃくちゃだ、あまりにもめちゃくちゃな事を、宍戸は言い出した。
宍戸が驚かなくたって、俺は驚いたよ!と喚き出したい気分だった。
しかし滝は唖然となっていて、絶句していて、喚くどころか無言で宍戸の事を見据えるばかりだった。
瞬きも忘れて、耳にかけていた髪が一束、はらりと落ちても、耳にかけなおす気力もない。
いったい何を言い出したのか、この友人は。
不躾な程まじまじと、それも奇妙な物を見る目で凝視する滝の視線を物ともせず、寧ろ宍戸は少しだけ唇の端を緩めて表情を柔らかくした。
「あいつら言ってただろ。初恋の子は特別で、何となく、ずっとどっかに引っ掛かってるような感じがするって」
宍戸とジローと向日は、幼等部から一緒で比較的自宅も近い、いわゆる幼馴染だ。
始終べったり一緒にいる訳ではないが、付き合いが長い分、気心知れた気安さのような雰囲気が彼らの間にはある。
さっきも、向日の初恋の幼等部のなんとかちゃんの話や、ジローの初恋のお菓子屋さんのなんとかさんの話で盛り上がっているのを、滝は微笑ましく聞いていた。
話題の内容的に、宍戸は直接話に加わらない。
でも滝と同じように話は聞いていて、どうやらその流れで発生したのが件の発言のようだ。
それにしたって、と滝は呆気にとられる。
どうして初恋の話の流れで、そうなるんだ。
「お前なら、いいな」
「………………」
あのねえ、と滝が真面目に意見しようとしたのを、宍戸の表情が遮ってくる。
よりにもよって、宍戸には珍しい、ちょっと甘いやさしい目で笑ってそんな事を言う。
滝は言葉を詰まらせた。
宍戸のその表情は、つまり、あれだ。
愛おしい。
そういう目を、宍戸はしている。
宍戸が今、脳裏に思い浮かべているのは、年下の、あの男の事だろう。
滝はもう、どこから、どうやって、突っ込んでいけばいいのか判断出来なかった。
何で鳳の初恋が自分になるのかとか、どうしてそれならいいのか。
いやそれ以前に、普通に考えてそもそも全然違うだろうとか。
訳の判らない宍戸の発想を咎めるべきか、可哀想な後輩の心中を代弁してやるべきか。
「………………」
無言で錯乱した滝は、ひとまず片手で掴んだティカップで、ぐいっと紅茶を一気飲みする。
たん、とソーサーの上ではなくテーブルの上にカップを置き、一息つかせる。
そして強く宍戸を見据えた。
「………宍戸」
とりあえず。
とにかく。
まずは、これを言っておかないとと滝は低く声を振り絞った。
「それ、鳳には、言わないように」
混乱する思考の中から、どうにかこうにか滝が捻り出した言葉に、宍戸は判りやすく不思議そうな顔をした。
「そうなのか?………あー…そういうの人から言われるのって、やっぱ嫌ってやつ…?」
俺そういうとこよく判んねえんだよなあと呟く宍戸に、いや問題はそこじゃないと滝はがっくりと肩を落とした。
「鳳には言うなって言ったのはね、よりにもよって宍戸から、そんなことそんな顔で言われたら、鳳がダメージ受けるからだよ…っ」
「………何で?」
「なんで、って………」
うわあ、と滝は引いた。
本当に、なんにも、宍戸は判ってない。
冗談でなく、こんな事を宍戸が言っていると知ったら鳳の受けるショックは計り知れないだろう。
「だいたい、鳳の初恋が俺の可能性なんてないよ。そんな可能性、ゼロだよ、ゼロ」
「いや、お前の初恋の話じゃねえし。お前に断言されても」
「宍戸だって同じだろ!」
何言いきっちゃってんの!と滝は訴えたが、宍戸は聞いちゃいない。
「お前、嫌なのか? 長太郎の初恋がお前だったら」
「だから…!」
嫌というなら、少々語弊はあるかもしれないが、それは鳳の方だろう。
あれだけ懐かれて、あれだけ尊敬されて、あれだけ大事にされて、あれだけ愛されて。
何で宍戸は判らないんだと滝は思う。
滝は鳳とダブルスを組んでいた事もあるし、宍戸ほどではないにしろ、鳳の事は判っていると思っていたのだが、ここにきて気づいてしまった。
この宍戸は、あんまり、鳳の事を判っていないんじゃないだろうか。
「………ほんと、マジで、鳳傷つくから」
思わず泣き事めいた口調で滝は呟いた。
何せ滝は本人の口から聞いて知っているのだ。
鳳の初恋が誰かなんて。
今その初恋の相手と付き合っていて、鳳がどれだけ幸せで、どれだけその相手の事が大事かも全部滝は知っている。
「……滝…?」
不思議そうな顔をする宍戸は、やっぱり全然判ってない。
そんな彼を上目にちらりと見上げて、滝は、何をどう言えば伝わるだろうかと必死に頭をフル回転させる。
「………あのね」
「…ん?」
「宍戸が今言ってるのはね、鳳が、宍戸の初恋は跡部だって断言してるのと同じ事なんだよ?」
「はあっ?」
ここにきて漸く、ちょっとだけでも、その突拍子のなさが宍戸に意味が伝わったようで。
露骨な声を上げて愕然とする宍戸を前に、滝は畳みかけていった。
「宍戸の初恋が跡部ならいいなって、鳳に言われてたら、どう思うわけ。宍戸は」
「おま、…それありえねえだろ……どっから来た話だよ」
「だから俺もそう言ってるんだよっ。万が一、鳳が本気でそう思い込んで、断言してたとしたら、宍戸が可哀想だろって話!」
だから思い込みで、それも見当違いなことを言わないようにと。
滝がストレートに、そして真面目に告げると、さすがに複雑極まりない顔で宍戸も大人しくなった。
「………………」
ああもう。
こっちも、あっちも、と滝は苦笑いする。
「本当ならまだしも、何かにつけ推測の引き合いに跡部出されるの、宍戸だって嫌だろう? 鳳の事に俺を絡めるのもそれと一緒だよ」
何故なのか、鳳にとっての跡部というポジションと、宍戸にとっての自分のポジションは、どこか似たものになっているらしい。
気にするようなことは何一つないのにと滝は呆れていて、それは恐らく跡部も同じ心境に違いなかった。
「………お前相手だと、なんにも勝てる気しねえんだよな…」
頬杖をついて、斜に視線を流して宍戸がぽつりと呟いた。
それがあまりにも小さな、真面目な声で、滝は怒っていいのか慰めていいのか、判らなくなる。
「また言ってる。少なくとも、宍戸と鳳の事で、俺は関係ないよ。それに勝ち負けの話なら、宍戸に負けたのは俺の方だろう?」
それ違うと否定してやっても駄目、当人が勝手に気にしているだけの話なのに、それに雁字搦めになる。
こっちも、あっちもだ。
宍戸も、鳳も、それぞれ相手にはぶつけられないから、時折こうして、滝に複雑な心境を零す。
「…滝」
「それで?」
「何が…?」
「こういう風に、宍戸の中の鳳に俺が登場してきちゃうってことは、鳳と喧嘩でもしたの?ってことだよ」
同じように、鳳の中の宍戸にも跡部が登場していたのだから、聞くまでもないけれど。
敢えて明確に言葉にした滝に、けれど宍戸はそこまでは甘えてきたりしない。
「……悪い」
「悪くない」
即答して滝は笑った。
全然悪くない。
「ほんと二人して、馬鹿だなあとは思うけどね」
「………るせえ」
ほんの少し赤くなった宍戸が、からかう気もおきない程度には可愛かったので。
滝は充分満足した。
「…俺も行くわ」
立ちあがって、恐らくは鳳の元へ真直ぐに向かうのであろう宍戸を手のひらを振って見送る。
「………………」
滝は浮かべていた笑みをやわらかくとかして、一人になって。
先程一気に飲み干してしまって空になっているティカップを横目に、もう一杯何か飲もうかなと考える。
「萩之介」
そしてそれは何というタイミング。
しかしそれこそが跡部だというタイミングで。
滝の手元に新しいカップを置いた跡部が、それはもうあからさまに不機嫌そうな仏頂面で滝を見下ろしてきて言った。
「お前は面倒見が良すぎる」
「………跡部もね」
これもらっていいの?と滝が笑いかけると、跡部は言葉でなく視線だけで返事をする。
「ありがとう。ごちそうさま」
「傍迷惑な馬鹿者共に構ってんじゃねえよ」
「まあ、…そのあたりは、ちょっとだけ同意かな」
よりにもよって、ねえ?と滝は跡部に笑いかけた。
跡部は相変わらずの不機嫌な顔だ。
全くもって意味のない、あて馬にもならないであろう立ち位置に、勝手に置かれる自分達。
「俺様は忙しいんだよ」
あいつらに巻き込まれてる暇ねえんだよ、と苦々しく吐き捨てる跡部の初恋だとか。
「だよね。俺も俺なりにね。忙しいんだよね……」
人には言えても、自分の事はなかなかうまくいかない、滝の初恋だとか。
それこそ本当に、色々あるのだ、この日常には。
文句を言ったり呆れてみたり、突っぱねてみたり受け入れてみたり、何だかんだと、時には誰かの手助けなども得て、進んでいくのだ、この日常を。
昼間は蝉の鳴き声が幾重にも幾重にも折り重なって、聴覚が痺れるように揺らされていた。
夕刻、今の神尾の聴覚には、勢いの強いシャワーの水流音が響き続けている。
聞こえてくるのは水の音だけ。
脳裏に浮かぶのはきつくて強い夏の日差しが生み出していた屋外の色濃い影と、そのコントラストだ。
くっきりと対比の強かった、空と、雲と、光と、影と。
そんな事を思い返しながら目を開けた神尾の今の視界には、長い睫毛となめらかな瞼が見えている。
印象的な小さな泣き黒子も間近で、両頬をしっかりと跡部の手のひらに包まれ、角度をつけて塞がれるキスに、神尾はくらくらと目が眩む。
跡部は服を着たままだ。
「…………っ…、…」
思いのほか明け透けに、跡部の舌が口の中に入ってくる。
思わず強張った神尾の背筋を跡部が片手で抱き込んできた。
神尾は何も着ていないから、腰のあたりの際どい位置まで伝い落ちてくる跡部の手のひらの感触が、どうにも気になって身体に力が入ってしまう。
あからさまに跡部の機嫌が悪くなる。
そういうのもキスで判ってしまうようになった自分が恥ずかしいと神尾は赤くなった。
「……嫌がってんじゃねえよ」
「………………」
キスがほどける。
跡部の声はやっぱり不機嫌だった。
神尾の思った通りだ。
でも跡部の思った通りにはなっていない。
神尾は別段嫌がってなどいないのだ。
「………なんで、入ってくるんだよ…」
びしょびしょの跡部を神尾は見上げて言った。
勿論神尾も同じ状態だけれど、神尾はシャワーを浴びにきたのだからこれでいい。
問題は跡部だ。
確かに元々ここは跡部の部屋に併設されたバスルームだから、跡部が入ってきたっていい訳だが、何で服のまま突然乱入してくるんだと神尾は言いたかったのだが、跡部は神尾の腿の側面に手を這わせながら、自身の濡れ髪をもう片方の手で荒くかきあげた。
「家に来るのが遅ぇ。バスルームから出てくるのも遅ぇ」
「………………」
部活を終えて全力疾走でやってきたんだけどとか、汗だくで到着したからシャワー貸してって言ったら貸してくれたのはそもそも跡部で、第一まだバスルームに来て数分かそこらなんだけどとか、神尾の言い分は言葉にする前に奪われる。
また唇を塞がれてしまって、二人がかりでシャワーを浴びながら、神尾は熱のひかない顔の熱さを持て余した。
なんだろう、この、ほんの少しも待っていられないみたいな跡部は。
がっつくようなキスに、思わず神尾はべったりと湯に濡れた跡部の肌に貼りついているシャツに指先で取り縋る。
僅かに唇と唇の合間に空間が生まれる。
終わってしまうのが嫌になるキスは止めて欲しい。
今の自分の顔は、きっと物欲しそうになっているだろうと思うと、神尾は居たたまれなくなった。
「……部活…終わって、すぐ来たんだけど…、……」
ぎゅうっと目を閉じたまま、ささやかな反抗心でもって神尾が言うと。
唇で、ちゅ、と小さく軽いキスの音が弾ける。
「遅ぇよ」
「………まだ……シャワー、ちゃんと浴びてないし…」
「だから遅ぇって言ってんだろうが」
今度は言葉の後にキスの音。
跡部の手は神尾の腿の側面を逆撫でしてくる。
やらしい手つき、と思って意識がそこに向かえば。
何だか肌が、じんと痺れてくるようで、神尾は唇を噛み締めた。
今日は自分の誕生日なのに。
さっきからずっと怒られてるってどうなんだろう。
しかもそれがほんの少しも腹が立たなくて、ある意味理不尽な跡部の物言いに、全くむかつかないのもどうなんだろう。
その上、それはもう、物凄く、凄まじく、真剣な、こんな悪態までつかれて。
「何でてめえは、朝から晩まで完璧に、全部俺様のものじゃねえんだよ」
本気で腹をたてている跡部を前に、神尾はもう、これ以上はないくらいに、赤面した。
本当に、何て事を言い出すんだこの男はと、恨めしく睨もうとしたって駄目だ。
神尾にはもうそんな事は出来ない。
「………………」
本気で苛立たしい顔を露にしてくる、それでも綺麗な跡部の顔を、シャワーの繊細な飛沫の中で見上げながら。
ここから先の自分の時間は、ちゃんと全部渡すから。
それで機嫌直してくれねえかな、と切に思い、切に願う。
神尾は今日誕生日なのだ。
だからプレゼントを欲しがったっていい筈だ。
笑っている跡部を欲しがったって、いい筈だ。
「跡部」
神尾は両腕を跡部の両肩の上に乗せ、指先で、跡部の後ろ首を、そっと包むようにする。
爪先立って、跡部の頬にキスをして、小さく口にした提案は。
あっという間に、神尾が望んだプレゼントを、神尾の目の前に、置いてきた。
それは綺麗な、とても綺麗な、笑顔だった。
夕刻、今の神尾の聴覚には、勢いの強いシャワーの水流音が響き続けている。
聞こえてくるのは水の音だけ。
脳裏に浮かぶのはきつくて強い夏の日差しが生み出していた屋外の色濃い影と、そのコントラストだ。
くっきりと対比の強かった、空と、雲と、光と、影と。
そんな事を思い返しながら目を開けた神尾の今の視界には、長い睫毛となめらかな瞼が見えている。
印象的な小さな泣き黒子も間近で、両頬をしっかりと跡部の手のひらに包まれ、角度をつけて塞がれるキスに、神尾はくらくらと目が眩む。
跡部は服を着たままだ。
「…………っ…、…」
思いのほか明け透けに、跡部の舌が口の中に入ってくる。
思わず強張った神尾の背筋を跡部が片手で抱き込んできた。
神尾は何も着ていないから、腰のあたりの際どい位置まで伝い落ちてくる跡部の手のひらの感触が、どうにも気になって身体に力が入ってしまう。
あからさまに跡部の機嫌が悪くなる。
そういうのもキスで判ってしまうようになった自分が恥ずかしいと神尾は赤くなった。
「……嫌がってんじゃねえよ」
「………………」
キスがほどける。
跡部の声はやっぱり不機嫌だった。
神尾の思った通りだ。
でも跡部の思った通りにはなっていない。
神尾は別段嫌がってなどいないのだ。
「………なんで、入ってくるんだよ…」
びしょびしょの跡部を神尾は見上げて言った。
勿論神尾も同じ状態だけれど、神尾はシャワーを浴びにきたのだからこれでいい。
問題は跡部だ。
確かに元々ここは跡部の部屋に併設されたバスルームだから、跡部が入ってきたっていい訳だが、何で服のまま突然乱入してくるんだと神尾は言いたかったのだが、跡部は神尾の腿の側面に手を這わせながら、自身の濡れ髪をもう片方の手で荒くかきあげた。
「家に来るのが遅ぇ。バスルームから出てくるのも遅ぇ」
「………………」
部活を終えて全力疾走でやってきたんだけどとか、汗だくで到着したからシャワー貸してって言ったら貸してくれたのはそもそも跡部で、第一まだバスルームに来て数分かそこらなんだけどとか、神尾の言い分は言葉にする前に奪われる。
また唇を塞がれてしまって、二人がかりでシャワーを浴びながら、神尾は熱のひかない顔の熱さを持て余した。
なんだろう、この、ほんの少しも待っていられないみたいな跡部は。
がっつくようなキスに、思わず神尾はべったりと湯に濡れた跡部の肌に貼りついているシャツに指先で取り縋る。
僅かに唇と唇の合間に空間が生まれる。
終わってしまうのが嫌になるキスは止めて欲しい。
今の自分の顔は、きっと物欲しそうになっているだろうと思うと、神尾は居たたまれなくなった。
「……部活…終わって、すぐ来たんだけど…、……」
ぎゅうっと目を閉じたまま、ささやかな反抗心でもって神尾が言うと。
唇で、ちゅ、と小さく軽いキスの音が弾ける。
「遅ぇよ」
「………まだ……シャワー、ちゃんと浴びてないし…」
「だから遅ぇって言ってんだろうが」
今度は言葉の後にキスの音。
跡部の手は神尾の腿の側面を逆撫でしてくる。
やらしい手つき、と思って意識がそこに向かえば。
何だか肌が、じんと痺れてくるようで、神尾は唇を噛み締めた。
今日は自分の誕生日なのに。
さっきからずっと怒られてるってどうなんだろう。
しかもそれがほんの少しも腹が立たなくて、ある意味理不尽な跡部の物言いに、全くむかつかないのもどうなんだろう。
その上、それはもう、物凄く、凄まじく、真剣な、こんな悪態までつかれて。
「何でてめえは、朝から晩まで完璧に、全部俺様のものじゃねえんだよ」
本気で腹をたてている跡部を前に、神尾はもう、これ以上はないくらいに、赤面した。
本当に、何て事を言い出すんだこの男はと、恨めしく睨もうとしたって駄目だ。
神尾にはもうそんな事は出来ない。
「………………」
本気で苛立たしい顔を露にしてくる、それでも綺麗な跡部の顔を、シャワーの繊細な飛沫の中で見上げながら。
ここから先の自分の時間は、ちゃんと全部渡すから。
それで機嫌直してくれねえかな、と切に思い、切に願う。
神尾は今日誕生日なのだ。
だからプレゼントを欲しがったっていい筈だ。
笑っている跡部を欲しがったって、いい筈だ。
「跡部」
神尾は両腕を跡部の両肩の上に乗せ、指先で、跡部の後ろ首を、そっと包むようにする。
爪先立って、跡部の頬にキスをして、小さく口にした提案は。
あっという間に、神尾が望んだプレゼントを、神尾の目の前に、置いてきた。
それは綺麗な、とても綺麗な、笑顔だった。
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