How did you feel at your first kiss?
電車にはあまり乗らないなんて、いかにも金持ちな事をさらりと言うから、じゃあ電車で行こうぜと神尾は跡部に言った。
勿論それは嫌がらせとかじゃなくて。
何につけても経験値の高い跡部が、殆どした事のない行動があるなんて珍しいなと思ったせいだ。
夏だし、せっかくだし、海に行こう!と神尾が言うと、てっきり面倒がるかと思った跡部は、不思議とあっさり神尾の提案に同意した。
却って神尾の方が面食らう。
「………人、多いかもしれないぜ?」
夏休みだしさあ、毎日暑いしさあ、と続けて、神尾は跡部からの返答を窺う。
「海っつっても、ブルジョワっぽいとこじゃないぜ? ふつーのとこ」
「………………」
「泳いだりとかじゃなくて、ただ見るだけっていうか。足くらいまでは入るかもしれないけど、そんな感じの海だぜ?」
そういうんでも、本当に?と念を押す。
神尾とて、行きたいのは本当、でも、ついあれこれと牽制するような言葉を紡いでしまう。
そんな神尾を跡部は呆れた顔で一瞥した。
「お前の行きたい所に連れていけばいいだろう」
冷めてる皮肉気な表情で、でも、そんな事を言って神尾を見つめてくる眼差しだけは、正直かなり甘くて。
「………あー…うん………そー…する」
そんな訳で、神尾は跡部と二人で電車に乗っている。
長旅という程の距離ではないが、数回電車を乗り継いだ。
どの電車に乗り込んでも、その都度盛大な注目を集める跡部は、相変わらずそんな視線にはまるでお構いなしだ。
乗り慣れないと言いながら、それでもいつの間にか電車内に馴染んでもいるようで。
時折窓の外の流れていく景色に目をやる跡部を、神尾は同じ回数そっと見やった。
見慣れようもない程に整った顔と、派手で華やかな雰囲気と。
肌も髪も瞳も透きとおるような色素で出来ているのに、脆弱さのまるでない力強さ。
跡部は、どうしたって目立つ。
周囲からの視線は相変わらず多々感じて、ああでもそういう風に盗み見るなんて自分こそがそうかと、神尾は内心で少々複雑に思った。
盗み見るように。
たぶん、みとれているのだろう。
二人で電車に乗るなんて、あまりない、この状況下。
結局こうなるのだ、自分は。
この場にいる誰よりも、熱っぽく跡部を見ているに違いない。
「………………」
いっそ昔の方が平気だったなと神尾は思い返した。
跡部の顔がどれだけ綺麗だろうが、神尾がそこに拘ったり、ましてやみとれるなんて事はなかったし。
一緒に出かけるのが嬉しいとか、二人で海に向う事が楽しみでならないとか、そういう感情で胸の中がどきどきするなんて事もなかったのに。
跡部とつきあいだして、どんどんそういうものが増えていく。
溢れ出させても、枯渇の気配もなく、ただただふくれあがるばかりなのだ。
きっと、自分が変なんだ。
神尾はそう考えている。
だって跡部は変わらない。
喧嘩めいた言葉の応酬ばかりだった出会いの当初から考えたら、格段に優しい所や甘い所も見せてくれるけれど。
でも多分跡部のそういう部分は、本来、元々跡部にあるものなのだ。
昔の神尾はそれに全く気付かなくて、今になって、些細なあれこれに漸く気が向くようになった。
神尾は跡部とつきあうようになって、世の中が引っ繰り返ったような衝撃を受けたけれど、跡部はあくまでも跡部のままだ。
衝撃などなかった筈だ。
それはそれでいいと神尾は思っている。
だって、それは相手が、あくまでもあの跡部なのだから、仕方がない事なのだ。
跡部は変わらないだろう。
でもこうやって限度なく頭の中が跡部ばかりになっていく自分は、どうなんだろう。
何も特別な事をしていなくても、殆ど勝手に、跡部で埋まってしまうような自分は。
「………………」
線路を走る電車の揺れと音。
周囲からの視線。
特に会話のない自分達。
徐々に海に近づいて行く。
電車の窓の外には、海の気配を帯びた真夏の風景が次々と流れていっている。
車内の混み具合は適度だった。
座る座席はなく、立っている乗客も少なくないが、混雑という程でもない。
並んで立っている跡部と神尾の距離感は、少し近くなったり、また元に戻ったり。
レトロな電車が急な曲がり角を走り抜ける際に音をたてて揺れても、立っている跡部の足元は全く揺らがなかった。
こんな場所でも独自の世界に君臨するかの如く、跡部は圧倒的な存在感を放つ。
バランス感覚いいよなあと神尾がぼんやりと考えた時だ。
「何だ」
「え?」
いよいよじっと見つめすぎたのか、跡部の怜悧な視線が電車外の風景から神尾へと唐突に戻ってきた。
短く問われ、あからさまに視線を外すのも不自然かと、神尾はどうにかそれは踏みとどまった。
とどのつまり相当熱烈に跡部を見ていたのであろう自分が、今いったいどんな顔をしているのかはさすがに考えたくなかった。
「どこで降りる」
「え…?………、…高校駅前」
ひそめる事はなかったが何となく小さな声で返答した神尾を一瞥して、跡部は再び車窓の外へと視線を向ける。
跡部が気づかない訳がないのに。
神尾の少々の居た堪れなさを汲んでくれたのか、跡部は何も言わなかった。
「………………」
そうやってまた眼下に晒されたなめらかでシャープな印象の跡部の横顔を、また見詰めていてもいいのかどうか。
一時逡巡した神尾は、次の瞬間、思わぬ事態に息を飲んだ。
「…………っ……」
左の親指を、そっと、跡部の手に取られたのだ。
跡部の親指と人差し指に付け根を挟まれ、そこからゆっくりと、爪先まで滑り下ろされる。
それだけの接触に、一緒に自分の中の何かも持って行かれそうで、神尾は小さく首を竦めた。
「……、………な…」
何やって、と言って咄嗟に引きかけた神尾の手の、今度は小指を、跡部が握りこんでくる。
手を繋いでいるというよりも、これは。
愛撫だ。
明らかな。
そしてあからさまな。
神尾は真っ赤になった。
これだけ。
これだけなのに、なんで、と。
跡部を責めるより自分の反応に混乱する。
第一、電車内でこういうのって、どうなんだ。
人目は、あるどころじゃない。
跡部に対して凄まじく集まってきているというのに。
絶対見られてる。
全部、見られている。
「悪くねえんじゃねえの。電車も」
「……ぇ…?」
混乱するあまりに硬直し、強引にでも取り戻しそびれている己の手を、跡部の手に甘ったるくいじられ、こんな真似いよいよ往来でまずいだろうと神尾が意を決して腕を引く、またそのタイミングで。
跡部の親指と人差し指に挟まれた、神尾の薬指の爪。
それだけで簡単に、神尾は跡部に引き戻される。
「…、跡部……」
「手くらい寄越せ」
それで聞きわけてやるから、と神尾の耳元で跡部が低く囁いた。
神尾をからかう声音ではない。
それはまるで妥協案の提案だ。
否、いっそ懇願めいて。
跡部が何でそんな事を言って、何でこんな手つきで、ずっと、そっと、自分に触れてくるのか。
こうやって爪先を跡部の指に挟まれているだけで、小さな炎が爪先に灯るようだった。
じん、と疼くような熱が生まれるのも判って、ますます恥ずかしかった。
「………絶対、すっげえ、見られてる…」
呻くように呟けば、溜息のように笑われて。
「それがどうした」
「…、…跡部、さあ」
何でそう衒いがないんだと神尾は言葉を詰まらせる。
「この程度で、そこまでなるお前が俺には判んねえよ」
「………………」
言って、笑った跡部が。
いっそ屈託なくて。
ああもうだめだと神尾は顔を伏せた。
そうしたらそうしたで神尾の視界に入ってくるのは、指先同士で繋がる自分と跡部の手なのだけれど。
どれだけ恥ずかしくたって。
人の視線を気にしたって。
結局神尾はそれを振り払えない。
そういう事実がまたどうしようもなく恥ずかしい。
「おい」
「…………なに…」
「お前、いざって時はちゃんと弁明しろよ」
「弁明…?……」
いざって時って、なに?と神尾が視線を上げると、どのアングルから見ようが綺麗極まりない男が、不遜に言った。
「俺様が痴漢呼ばわりされる状況下になったらだよ」
「…は?」
振ってきた言葉を反復し、神尾は唖然とした。
かすかな接触を続ける指先は、ちょっとだけ、いやらしさもあるけれど。
よりにもよっての跡部の発言に、神尾は結局、噴き出してしまった。
懸命に声を殺そうとしながらも、肩を激しく震わせ、俯いて、笑いが止まらなくなる。
痴漢って、この、男が?と思いながら。
神尾は初めて自分から、跡部の指先を握り返した。
「跡部、変」
「てめえに変呼ばわりされる筋合いはねえ」
「だ、……だって…、痴漢って」
神尾はとにかく大きな声にならないように笑い声を懸命に抑えながら、何それと息も絶え絶えに額を跡部の肩口の押し当てた。
距離の近くなった跡部から、舌打ちめいた溜息が聞こえてくる。
でもそれは少しも乱暴な印象にはならなかった。
「…ここじゃねえのかよ」
「あ。降りないと!」
車内アナウンスと開いた扉で我に返って、神尾は慌てて電車から降りた。
跡部の手を引くようにして。
走り出すようにして。
「この駅、ホームのベンチから、海がすっごい綺麗に見えんだぜ!」
「穴場ってやつか」
周囲に人がいないのを見てとって跡部が呟く。
「だいたいは海に直接行くし、夏休みだとこの駅の乗客殆どいないらしいから」
あ、ほら、あそこ!と神尾は跡部を連れてホームのベンチに向かった。
海は線路の向こう側の視野に大きくひらけていた。
キラキラと水面に太陽の光が反射している。
「綺麗じゃーん!」
「それなら、いいな」
「ん?」
ベンチに座ろうとした所で、神尾の腰に跡部の腕が回った。
引き寄せられ、すぐに、唇が塞がれる。
「………………」
一度、瞬いた神尾の視界は、今の今まで夏の海をいっぱいに映していたのに。
今は跡部で埋められている。
「………………」
キスとか、こんなところでどうなんだと思うのに。
一瞬みたいな短さで解かれてしまうと、もっと欲しくなるのが、困る。
「……そういうツラ見せるな」
「…え………うん……ごめん」
「謝れっつってねえ」
どこかぶっきらぼうに言って、跡部がベンチに座る。
腕を引かれて神尾もそれにならう。
ベンチの上に置いた神尾の手に、跡部の手が重なった。
電車の中でのそれとは違う。
今度はしっかりと手のひらと手のひらを合わせて、指も絡め合う繋ぎ方だ。
自分達は隣同士に並んで座り、視線は海を見ているけれど。
手を繋いで、意識は全部、お互いに向けられてもいて。
「悪くねえ」
「………………」
機嫌の良い跡部の声に、神尾は海を見たまま唇を引き上げた。
自分が気に入っているもの、好きなもの、良いと思うもの、そういう出来事に共感が得られるのは嬉しい。
でももし跡部が共感しなくても、それはそれで文句など言いながらも自分はきっと楽しいのだろうと神尾は知っていた。
まだ今は、遠巻きにしている海を眺めながら。
しばらくお互い口を噤んだが、しかしそれは多分、雄弁すぎるほどに雄弁な、沈黙だったのだ。
何せ、さあ海まで行こうと立ち上がったタイミングは、まるではかったように、二人同時だったからだ。
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