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How did you feel at your first kiss?
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おかしいなおかしいなと神尾がしきりに首を傾げて呟くのがいい加減面倒になった。
 跡部は神尾の手を握る。
 途端に数センチ露骨に飛び上った神尾が、勢いよく跡部を見上げて口をぱくぱくと動かした。
 声はない。
 どうも出ないらしい。
 跡部は唇の端を引き上げた。
「行くぞ」
「…あ…とべ、…!」
「何だ」
「手、っ」
「あん?」
「だからっ、手っ」
 ぶん、と腕から大きく振られたが、みすみす振り解かさせる訳がない。
 跡部はしっかりと互いの指を絡めて繋いだ手をそのまま自分の口元近くまで持ち上げて、神尾の顔を上目に覗きこんでやった。
 身長は、無論跡部の方が高い。
 しかし上目で覗き込む。
 その効果の程は明らかだ。
 神尾は、どっと赤くなった。
 判りやす過ぎる表情で、再び声もなく、開閉だけを繰り返す薄い唇に執着が募る前に、跡部はさっさと歩き出す事にした。
 半ば神尾を引きずるようにして、ゲートをくぐる。
 二人で足を踏み入れたその先が、どこかと言えば。
「お前が来たいっつったんだろうが」
「や、…、そ、だけどさ…!」
 水族館である。
「そうなんだけどさ…!」
 十月四日の事だった。



 イルカショーのステージの最前列で、相変わらず神尾は、おかしいなおかしいなと首を傾げていた。
 飽きねえなこいつ、と横目で呆れる跡部も、結局は。
 自分も同じだという自覚は持っている。
 跡部は跡部で、まるで飽きずにそんな神尾を眺めているのだから。
「なあ、跡部? 今日、跡部の誕生日だろ?」
「それが何だ」
 判り切った事を確認するなと言い捨てても、珍しく神尾は噛みついてこなかった。
 むしろ眉毛を下げるような頼りなげな表情で、途方に暮れたような顔で、じっと跡部を見上げてくる。
 ガキくせえ、と思う反面。
 何なんだそのツラはと腹も立ってくる。
 己の分の悪さを自覚させられるからだ。
 周辺は、それこそ本物の、お子様だらけだ。
 子供、幼児、揃ってきゃあきゃあと賑やか極まりない。
 そもそもこの状況下にいる自分という図も跡部には些か頭が痛い所なのに。
 どうしてこんな場所で、そのど真ん中で、うっかり自分はこんな気分になっているのか。
 原因を、睨むように跡部は見据えた。
「………………」
 普段あまり目にする事のないような表情で自分を必死に直視してくる神尾の存在は、うっかりと跡部に現実を忘れかけさせる。
 要は、何と言うかもう。
 肩でも抱いてさっさと唇でも塞ぎたいというのが跡部の心情だ。
「………………」
「跡部の誕生日なのにさあ……何で俺が行きたいって言ったとこに来てんの? 俺ら」
 普段、長い前髪に隠れている筈の神尾の左目が露になる。
 露骨に首を傾げるからだ。
 ほっそりとした首筋に気を取られる自分に、跡部は盛大な溜息を零した。
「た、……溜息つくくらいなら、ちゃんと希望言えば良いだろ…っ」
 俺は跡部にちゃんと聞いたのに!と眉間を歪める神尾は盛大な勘違いをしているようで、仕方なく跡部は軽く笑った。
 様にならねえシチュエーションだと呆れながら、跡部は神尾の耳元に顔を近づける。
「笑ってろ」
「……え…?」
 吐息程度の囁きも、さすがにこの至近距離では正確に聞きとったらしい。
 神尾の微かな問いかけに、跡部は尚声をひそめた。
「…お前のそういうツラが見たいから、ここがいいって言ったんだ」
 だから笑ってろと。
 ごまかしとか、からかいではない、あくまでも本音で跡部は告げた。
 あの時神尾が、あまりにも楽しそうな顔で言ったから。
 だから跡部もそれが欲しくなった。

『跡部、イルカってさ、すっげーの! 可愛いの!』
『あのな? イルカって、いっつもわくわくしてんだって!』
『何してても、遊んでて、わくわくしてて、楽しいって思ってるんだって!』
『ものっすごい可愛くね? 俺、イルカって、本物見たことないんだよなー。そんなの知ったら本物見たくなるよなー』

 そう言って、たまたま見ていた雑誌の中の記事を、神尾は跡部に見せてきた。
 はっきり言って、そういうのはイルカというよりお前だろ、と跡部は考えていたのだけれど。
 神尾の、全開の、満面の、笑顔を見て、思ったのだけれど。
 別段ねだられた訳でもないのに、それなら本物のイルカくらいすぐにでも見せてやると跡部が動くくらいには、神尾の笑顔には威力があった。
 思い出して、跡部の唇から微かに笑みが零れる。
 そしてそれと同時に。
「神尾。俺様は赤くなれとは言ってねえ」
 わざと意地悪く言ってやれば、神尾は真っ赤な顔のまま跡部を睨みつけてきた。
 跡部が囁いた方の耳を片手で覆って、わなわなと震えている。
 今度こそ、跡部は屈託なく笑った。
 おかしくて、そして多分、浮かれてもいて。
「跡部ー!」
 笛の音が響き渡った。
 始まるぞ、と隣に座る神尾の薄い背中に跡部が手を当てた時だ。
 挨拶代わりにか、プールからイルカが高く空に飛び上がる。
 大きな水音と同時に、派手な水飛沫がたって。
「……………何やってんだ、お前…」
「え? 何が? いや、それより大丈夫か? 跡部」
 弾けた子供達の甲高い声の共鳴も一瞬無になる。
 そのくらい、跡部は呆気にとられて、自分を庇うようにしてきた神尾を見やった。
 イルカの起こした水飛沫は大量にではないものの、それでもあきらかな水分量で周辺に飛び散っている。
 現に神尾の髪は水滴を帯びていた。
「濡れなかった? 大丈夫?」
「………………」
 どうやらこの可愛いのに男前に庇われたらしいと再認識し、跡部はそれは複雑に押し黙った。
 よりにもよって、どういう有様だ、これは。
 お兄ちゃんやさしいね!なんて近くにいた幼女に称賛されている神尾を、跡部は尚も唖然と見やるしかない。
「そうか? でもさー、出来たら、やさしいより、かっこいいって言ってくれよな?」
「うん! お兄ちゃんかっこいい!」
「おー、サンキュー!」
「…………おい」
 仲睦まじい会話に、跡部は目を据わらせて低く割って入った。
 神尾がこちらに顔を向けてくるのに。
 その濡れ髪に。
 笑顔の余韻に。
 とにかく何もかもに跡部は眉を顰め、呟いた。
「浮気してんじゃねえ」
「………………」
 多分に本音でしかない、我ながら物騒な声が出た。
 今更取り繕う気もなくて、跡部が真面目に神尾を睨み据えていると、神尾はやっぱり、それは派手に赤くなって。
 そのくせ妙に従順に、こくりと小さく頷いたりもした。
「……ん。…ごめん」
「………………」
「………………」
「それから?」
「…え?」
 なに?とぎこちなく伺ってくる神尾に、仕方ねえなと跡部は肩を竦めた。
「俺様の誕生日だろ」
「………うん」
「少しでも祝う気があるなら、俺のしたいことさせて、俺の見たいものを見せろ」
 命令。
 そして同時に。
 それは神尾にしか向けない甘えでもある。
 ゆっくり瞬きして跡部の瞳を見つめ返した神尾は、結局のところ跡部の望むように、行動するようだった。
「………………」
 そっと、周囲からは見えないように、互いの身体の間で、手と手を繋ぐ。
 指を絡め、繋がって。
 そして神尾は跡部をそっと窺い見て、どこかほっとしたような小さな息をついた。
「………………」
 再びジャンプするイルカに、神尾の視線が移行する。
 無心な、稚い眼差しと。
 未だ跡部を引きずって余韻に微かに染まる頬とを。
 跡部は欠片の遠慮もなく、その体勢から存分に堪能した。


 果たしてその日その場所で。
 誰より何より高い周波数で。
 ワクワクと、何もかを楽しんでいたのは、誰だったのか。
 イルカのショーは幾度となく水飛沫を立ち上げて、その都度小さな虹の弧を生み、アニバーサリーをささやかに、繰り返し、祝福したのだった。

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 電車にはあまり乗らないなんて、いかにも金持ちな事をさらりと言うから、じゃあ電車で行こうぜと神尾は跡部に言った。
 勿論それは嫌がらせとかじゃなくて。
 何につけても経験値の高い跡部が、殆どした事のない行動があるなんて珍しいなと思ったせいだ。
 夏だし、せっかくだし、海に行こう!と神尾が言うと、てっきり面倒がるかと思った跡部は、不思議とあっさり神尾の提案に同意した。
 却って神尾の方が面食らう。
「………人、多いかもしれないぜ?」
 夏休みだしさあ、毎日暑いしさあ、と続けて、神尾は跡部からの返答を窺う。
「海っつっても、ブルジョワっぽいとこじゃないぜ? ふつーのとこ」
「………………」
「泳いだりとかじゃなくて、ただ見るだけっていうか。足くらいまでは入るかもしれないけど、そんな感じの海だぜ?」
 そういうんでも、本当に?と念を押す。
 神尾とて、行きたいのは本当、でも、ついあれこれと牽制するような言葉を紡いでしまう。
 そんな神尾を跡部は呆れた顔で一瞥した。
「お前の行きたい所に連れていけばいいだろう」
 冷めてる皮肉気な表情で、でも、そんな事を言って神尾を見つめてくる眼差しだけは、正直かなり甘くて。
「………あー…うん………そー…する」
 そんな訳で、神尾は跡部と二人で電車に乗っている。
 長旅という程の距離ではないが、数回電車を乗り継いだ。
 どの電車に乗り込んでも、その都度盛大な注目を集める跡部は、相変わらずそんな視線にはまるでお構いなしだ。
 乗り慣れないと言いながら、それでもいつの間にか電車内に馴染んでもいるようで。
 時折窓の外の流れていく景色に目をやる跡部を、神尾は同じ回数そっと見やった。
 見慣れようもない程に整った顔と、派手で華やかな雰囲気と。
 肌も髪も瞳も透きとおるような色素で出来ているのに、脆弱さのまるでない力強さ。
 跡部は、どうしたって目立つ。
 周囲からの視線は相変わらず多々感じて、ああでもそういう風に盗み見るなんて自分こそがそうかと、神尾は内心で少々複雑に思った。
 盗み見るように。
 たぶん、みとれているのだろう。
 二人で電車に乗るなんて、あまりない、この状況下。
 結局こうなるのだ、自分は。
 この場にいる誰よりも、熱っぽく跡部を見ているに違いない。
「………………」
 いっそ昔の方が平気だったなと神尾は思い返した。
 跡部の顔がどれだけ綺麗だろうが、神尾がそこに拘ったり、ましてやみとれるなんて事はなかったし。
 一緒に出かけるのが嬉しいとか、二人で海に向う事が楽しみでならないとか、そういう感情で胸の中がどきどきするなんて事もなかったのに。
 跡部とつきあいだして、どんどんそういうものが増えていく。
 溢れ出させても、枯渇の気配もなく、ただただふくれあがるばかりなのだ。
 きっと、自分が変なんだ。
 神尾はそう考えている。
 だって跡部は変わらない。
 喧嘩めいた言葉の応酬ばかりだった出会いの当初から考えたら、格段に優しい所や甘い所も見せてくれるけれど。
 でも多分跡部のそういう部分は、本来、元々跡部にあるものなのだ。
 昔の神尾はそれに全く気付かなくて、今になって、些細なあれこれに漸く気が向くようになった。
 神尾は跡部とつきあうようになって、世の中が引っ繰り返ったような衝撃を受けたけれど、跡部はあくまでも跡部のままだ。
 衝撃などなかった筈だ。
 それはそれでいいと神尾は思っている。
 だって、それは相手が、あくまでもあの跡部なのだから、仕方がない事なのだ。
 跡部は変わらないだろう。
 でもこうやって限度なく頭の中が跡部ばかりになっていく自分は、どうなんだろう。
 何も特別な事をしていなくても、殆ど勝手に、跡部で埋まってしまうような自分は。
「………………」
 線路を走る電車の揺れと音。
 周囲からの視線。
 特に会話のない自分達。
 徐々に海に近づいて行く。
 電車の窓の外には、海の気配を帯びた真夏の風景が次々と流れていっている。
 車内の混み具合は適度だった。
 座る座席はなく、立っている乗客も少なくないが、混雑という程でもない。
 並んで立っている跡部と神尾の距離感は、少し近くなったり、また元に戻ったり。
 レトロな電車が急な曲がり角を走り抜ける際に音をたてて揺れても、立っている跡部の足元は全く揺らがなかった。
 こんな場所でも独自の世界に君臨するかの如く、跡部は圧倒的な存在感を放つ。
 バランス感覚いいよなあと神尾がぼんやりと考えた時だ。
「何だ」
「え?」
 いよいよじっと見つめすぎたのか、跡部の怜悧な視線が電車外の風景から神尾へと唐突に戻ってきた。
 短く問われ、あからさまに視線を外すのも不自然かと、神尾はどうにかそれは踏みとどまった。
 とどのつまり相当熱烈に跡部を見ていたのであろう自分が、今いったいどんな顔をしているのかはさすがに考えたくなかった。
「どこで降りる」
「え…?………、…高校駅前」
 ひそめる事はなかったが何となく小さな声で返答した神尾を一瞥して、跡部は再び車窓の外へと視線を向ける。
 跡部が気づかない訳がないのに。
 神尾の少々の居た堪れなさを汲んでくれたのか、跡部は何も言わなかった。
「………………」
 そうやってまた眼下に晒されたなめらかでシャープな印象の跡部の横顔を、また見詰めていてもいいのかどうか。
 一時逡巡した神尾は、次の瞬間、思わぬ事態に息を飲んだ。
「…………っ……」
 左の親指を、そっと、跡部の手に取られたのだ。
 跡部の親指と人差し指に付け根を挟まれ、そこからゆっくりと、爪先まで滑り下ろされる。
 それだけの接触に、一緒に自分の中の何かも持って行かれそうで、神尾は小さく首を竦めた。
「……、………な…」
 何やって、と言って咄嗟に引きかけた神尾の手の、今度は小指を、跡部が握りこんでくる。
 手を繋いでいるというよりも、これは。
 愛撫だ。
 明らかな。
 そしてあからさまな。
 神尾は真っ赤になった。
 これだけ。
 これだけなのに、なんで、と。
 跡部を責めるより自分の反応に混乱する。
 第一、電車内でこういうのって、どうなんだ。
 人目は、あるどころじゃない。
 跡部に対して凄まじく集まってきているというのに。
 絶対見られてる。
 全部、見られている。
「悪くねえんじゃねえの。電車も」 
「……ぇ…?」
 混乱するあまりに硬直し、強引にでも取り戻しそびれている己の手を、跡部の手に甘ったるくいじられ、こんな真似いよいよ往来でまずいだろうと神尾が意を決して腕を引く、またそのタイミングで。
 跡部の親指と人差し指に挟まれた、神尾の薬指の爪。
 それだけで簡単に、神尾は跡部に引き戻される。
「…、跡部……」
「手くらい寄越せ」
 それで聞きわけてやるから、と神尾の耳元で跡部が低く囁いた。
 神尾をからかう声音ではない。
 それはまるで妥協案の提案だ。
 否、いっそ懇願めいて。
 跡部が何でそんな事を言って、何でこんな手つきで、ずっと、そっと、自分に触れてくるのか。
 こうやって爪先を跡部の指に挟まれているだけで、小さな炎が爪先に灯るようだった。
 じん、と疼くような熱が生まれるのも判って、ますます恥ずかしかった。
「………絶対、すっげえ、見られてる…」
 呻くように呟けば、溜息のように笑われて。
「それがどうした」
「…、…跡部、さあ」
 何でそう衒いがないんだと神尾は言葉を詰まらせる。
「この程度で、そこまでなるお前が俺には判んねえよ」
「………………」
 言って、笑った跡部が。
 いっそ屈託なくて。
 ああもうだめだと神尾は顔を伏せた。
 そうしたらそうしたで神尾の視界に入ってくるのは、指先同士で繋がる自分と跡部の手なのだけれど。
 どれだけ恥ずかしくたって。
 人の視線を気にしたって。
 結局神尾はそれを振り払えない。
 そういう事実がまたどうしようもなく恥ずかしい。
「おい」
「…………なに…」
「お前、いざって時はちゃんと弁明しろよ」
「弁明…?……」
 いざって時って、なに?と神尾が視線を上げると、どのアングルから見ようが綺麗極まりない男が、不遜に言った。
「俺様が痴漢呼ばわりされる状況下になったらだよ」
「…は?」
 振ってきた言葉を反復し、神尾は唖然とした。
 かすかな接触を続ける指先は、ちょっとだけ、いやらしさもあるけれど。
 よりにもよっての跡部の発言に、神尾は結局、噴き出してしまった。
 懸命に声を殺そうとしながらも、肩を激しく震わせ、俯いて、笑いが止まらなくなる。
 痴漢って、この、男が?と思いながら。
 神尾は初めて自分から、跡部の指先を握り返した。
「跡部、変」
「てめえに変呼ばわりされる筋合いはねえ」
「だ、……だって…、痴漢って」
 神尾はとにかく大きな声にならないように笑い声を懸命に抑えながら、何それと息も絶え絶えに額を跡部の肩口の押し当てた。
 距離の近くなった跡部から、舌打ちめいた溜息が聞こえてくる。
 でもそれは少しも乱暴な印象にはならなかった。
「…ここじゃねえのかよ」
「あ。降りないと!」
 車内アナウンスと開いた扉で我に返って、神尾は慌てて電車から降りた。
 跡部の手を引くようにして。
 走り出すようにして。
「この駅、ホームのベンチから、海がすっごい綺麗に見えんだぜ!」
「穴場ってやつか」
 周囲に人がいないのを見てとって跡部が呟く。
「だいたいは海に直接行くし、夏休みだとこの駅の乗客殆どいないらしいから」
 あ、ほら、あそこ!と神尾は跡部を連れてホームのベンチに向かった。
 海は線路の向こう側の視野に大きくひらけていた。
 キラキラと水面に太陽の光が反射している。
「綺麗じゃーん!」
「それなら、いいな」
「ん?」
 ベンチに座ろうとした所で、神尾の腰に跡部の腕が回った。
 引き寄せられ、すぐに、唇が塞がれる。
「………………」
 一度、瞬いた神尾の視界は、今の今まで夏の海をいっぱいに映していたのに。
 今は跡部で埋められている。
「………………」
 キスとか、こんなところでどうなんだと思うのに。
 一瞬みたいな短さで解かれてしまうと、もっと欲しくなるのが、困る。
「……そういうツラ見せるな」
「…え………うん……ごめん」
「謝れっつってねえ」
 どこかぶっきらぼうに言って、跡部がベンチに座る。
 腕を引かれて神尾もそれにならう。
 ベンチの上に置いた神尾の手に、跡部の手が重なった。
 電車の中でのそれとは違う。
 今度はしっかりと手のひらと手のひらを合わせて、指も絡め合う繋ぎ方だ。
 自分達は隣同士に並んで座り、視線は海を見ているけれど。
 手を繋いで、意識は全部、お互いに向けられてもいて。
「悪くねえ」
「………………」
 機嫌の良い跡部の声に、神尾は海を見たまま唇を引き上げた。
 自分が気に入っているもの、好きなもの、良いと思うもの、そういう出来事に共感が得られるのは嬉しい。
 でももし跡部が共感しなくても、それはそれで文句など言いながらも自分はきっと楽しいのだろうと神尾は知っていた。
 まだ今は、遠巻きにしている海を眺めながら。
 しばらくお互い口を噤んだが、しかしそれは多分、雄弁すぎるほどに雄弁な、沈黙だったのだ。


 何せ、さあ海まで行こうと立ち上がったタイミングは、まるではかったように、二人同時だったからだ。


 プライドを捨てて、それで跡部が手に入れたものが、この世の中に、二つある。
 一つは跡部が目指すテニスのレベル。
 そしてもう一つが、今跡部の腕の中に収まっている。
「跡部ってさあ、俺の知らない事、ほんっとたくさん知ってるよな…」
「………………」
 台風の後だからか昨日の夜中の星が綺麗だったなんて話から、天の川銀河の中にダイヤモンド並みの密度を持つ惑星が発見されている話になって。
 跡部の声に大人しく耳を傾けていた神尾が、ひとしきり話を聞き終えて、しみじみと呟く。
 跡部の胸元に靠れて寄りかかるような体勢の神尾の身体は、跡部の腕の中に、すっぽりとはまっている。
 テニスをしている時などには然程感じないのだが、神尾の骨格は随分と華奢だ。
 跡部が背後から腕を回すと、その身体は片腕だけであまりにも簡単に抱え込めてしまえる。
 毛並みの重厚なラグに座り込み、神尾を背後から抱え込みながら跡部が見下ろせば、そこだけやけに中性的に見える細いうなじがあって、襟足を短く切っているから、ひどくなめらかな肌の質感が剝き出しで、跡部はついそれに気をとられる。
 こんな風に、思わぬところに隙がある神尾は、背後にいる跡部が、どういう目で自分の肌を見ているか気づきもしない。
「……っ…、ちょ…え? なに、…擽った…、っ」
 結局欲求に負けて、跡部が神尾の首筋に唇を寄せ顔を埋めると、神尾がからりと笑って身じろいだ。
「くすぐったいってば! なんだよう、跡部ー」
「………お前の思考回路が俺には予想つかねえんだから条件は一緒だろ」
「え? 何…?」
 何の話?と笑いながら神尾が身体を捩って跡部の方に顔を向けてくる。
 腕の中からは逃がしはしなかったけれど、跡部は神尾の頬を片手で支えて軽く唇に口づけてから言った。
「俺がお前の知らない事を知ってるっつったろうが、今」
「………あー…」
 その話かというように神尾は頷いて、それよりも今は赤くなった顔を隠したいのか、また元のように跡部に背中を向けようとする。
 神尾がじたばたともがいている様は、跡部の機嫌を良くした。
 がっしりと、腕でも足でもホールドしてやって見下ろしていると、神尾の肌はどんどん赤く染まっていった。
「もー、なんなんだよっ、跡部」
 さっきから!と神尾が怒鳴り、跡部はそれを黙って流す。
 神尾は怒っているけれど、恥ずかしがっている表情は甘ったるい。
 跡部は神尾を無視しているが、しかけているのは一方的に跡部の方だ。
 どちらにしろ、どこからどう見ても、自分達はじゃれあっているようにしか見えないだろうと跡部は考えた。
 べったりくっついた自分達。
 この俺様がねえ?と跡部は神尾から見えない場所で、唇の端に苦笑を刻んだ。
 自分達が、こんな風に一緒に時間を過ごすようになるなんて、出会った当初は思いもしなかった。
 それはおそらく神尾もだろう。
 ただ跡部には、少なくとも神尾よりは、先見の明がある。
 跡部のインサイトは、テニスだけに使われるものではなかった。
 どうでもいいような言い争いや言葉の応酬しかしていなかった頃から、何となく、跡部には判っていた。
 だからこそ、相当意地の悪いような真似もしたし、神尾に対しての態度は決して良いものではなかった。
 跡部は判っていたから、牽制したのだ。
 神尾の存在が、自分の中で表面化しない部分を刺激する事も、完璧さを崩す事も。
 ゆくゆく、分が悪くなるのがどちらで、飢えたように渇望するのがどちらか。
 跡部は最初から、その殆どが、判っていた。
 自分から弱みを作る人間はいない。
 そんな風に思っていた、つまりは跡部のプライドだ。
 しかし、自分のプライドに固執する事で、進化が停滞する事を。
 跡部はテニスと、そして神尾で、知ったのだ。
「……なあ、跡部ー」
「何だよ」
 抵抗を諦めたのか、神尾が跡部の胸元に改めて深く寄りかかるように体重をかけてきて、そのまま仰のき、跡部の顔を見上げるようにしてくる。
 跡部は両腕を神尾の胸の前で交差させ、尖った肩を手に包んで目線を合わせる。
「跡部って、俺の考えてる事、判んないのか?」
「何嬉しそうなツラしてんだよ」
「だってよう」
 跡部でも判らないことあるのかと思って、と神尾は機嫌よく言った。
 皮肉気な笑みで、跡部はそれを一掃した。
「バァカ。単純なお前の考えてる事くらい判るに決まってんだろ」
「跡部、言ってることさっきと違くね?!」
「俺が言ってるのはお前が考えてる事じゃなくてお前の思考回路の方だ」
 それって違うのか?と怪訝に首を傾げている神尾の反応は、いつでもこんな風に素直極まりない。
 いわゆる単純というやつだ。
 それなのに、それがどうしてそうなったというような、ひどく不思議な地点に着地する。
「な、じゃあ、今は?」
「…アア?」
「今。俺の考えてる事」 
 さっきはキス一つで真っ赤になっていたのに、今は跡部の腕の中で跡部に全力で拘束されながらも、神尾はすっかり寛ぎきった様子で笑っている。
 跡部の腕に自分からも手をかけて、当ててみろという風に神尾はまた跡部を振り仰いできた。
 その額に跡部が唇を落とし、口づけると、擽ったそうに肩を竦めてから、ぺしりと跡部の腕を叩いてくる。
「何だ」
「何だじゃない!」
 しすぎ!とむくれる神尾の口も、逆向きの角度のキスで塞いだ。
「足りねえよ、バァカ」
 からかいに本音を混ぜ込んで囁いてから。
「良いのか、言って」
「……え…?」
 サプライズなんじゃねえの?と小さく問いかけた声は、我ながら甘くて嬉しげで、跡部は自嘲しつつも、大きく目を見開いた神尾の判りやすい表情に喉で笑いを響かせる。
 日付が変われば、誕生日だ。
 神尾が何をしたいのかは、判るような判らないような。
 取り敢えず、自分の誕生日に日付が変わるその瞬間、自分の腕の中には神尾がいるようなので。
 跡部にはそれだけあれば充分だったから、神尾の思惑には気づかない振りをしてやってもいいと思った。
 わざと、ちらりと、ほのめかしてやると、サプライズをしたいらしい神尾は慌てふためいて凄い事になった。
「言うなっ。言わないでっ。俺の頭の中も読むなっ」
「さて?」
「わーっ、ばかっ、最低っ」
 叫んだところでどうしようもないだろうと跡部は呆れながらも、暴れる神尾を身包み抱え込むようにして、結局のところ流されてやる。
 神尾の全て良いように。
 それくらい、跡部には。
 どうって事のない事なのだから。



 誕生日くらい、忘れた事にしてやろう。



 昼間は蝉の鳴き声が幾重にも幾重にも折り重なって、聴覚が痺れるように揺らされていた。
 夕刻、今の神尾の聴覚には、勢いの強いシャワーの水流音が響き続けている。
 聞こえてくるのは水の音だけ。
 脳裏に浮かぶのはきつくて強い夏の日差しが生み出していた屋外の色濃い影と、そのコントラストだ。
 くっきりと対比の強かった、空と、雲と、光と、影と。
 そんな事を思い返しながら目を開けた神尾の今の視界には、長い睫毛となめらかな瞼が見えている。
 印象的な小さな泣き黒子も間近で、両頬をしっかりと跡部の手のひらに包まれ、角度をつけて塞がれるキスに、神尾はくらくらと目が眩む。
 跡部は服を着たままだ。
「…………っ…、…」
 思いのほか明け透けに、跡部の舌が口の中に入ってくる。
 思わず強張った神尾の背筋を跡部が片手で抱き込んできた。
 神尾は何も着ていないから、腰のあたりの際どい位置まで伝い落ちてくる跡部の手のひらの感触が、どうにも気になって身体に力が入ってしまう。
 あからさまに跡部の機嫌が悪くなる。
 そういうのもキスで判ってしまうようになった自分が恥ずかしいと神尾は赤くなった。
「……嫌がってんじゃねえよ」
「………………」
 キスがほどける。
 跡部の声はやっぱり不機嫌だった。
 神尾の思った通りだ。
 でも跡部の思った通りにはなっていない。
 神尾は別段嫌がってなどいないのだ。
「………なんで、入ってくるんだよ…」
 びしょびしょの跡部を神尾は見上げて言った。
 勿論神尾も同じ状態だけれど、神尾はシャワーを浴びにきたのだからこれでいい。
 問題は跡部だ。
 確かに元々ここは跡部の部屋に併設されたバスルームだから、跡部が入ってきたっていい訳だが、何で服のまま突然乱入してくるんだと神尾は言いたかったのだが、跡部は神尾の腿の側面に手を這わせながら、自身の濡れ髪をもう片方の手で荒くかきあげた。
「家に来るのが遅ぇ。バスルームから出てくるのも遅ぇ」
「………………」
 部活を終えて全力疾走でやってきたんだけどとか、汗だくで到着したからシャワー貸してって言ったら貸してくれたのはそもそも跡部で、第一まだバスルームに来て数分かそこらなんだけどとか、神尾の言い分は言葉にする前に奪われる。
 また唇を塞がれてしまって、二人がかりでシャワーを浴びながら、神尾は熱のひかない顔の熱さを持て余した。
 なんだろう、この、ほんの少しも待っていられないみたいな跡部は。
 がっつくようなキスに、思わず神尾はべったりと湯に濡れた跡部の肌に貼りついているシャツに指先で取り縋る。
 僅かに唇と唇の合間に空間が生まれる。
 終わってしまうのが嫌になるキスは止めて欲しい。
 今の自分の顔は、きっと物欲しそうになっているだろうと思うと、神尾は居たたまれなくなった。
「……部活…終わって、すぐ来たんだけど…、……」
 ぎゅうっと目を閉じたまま、ささやかな反抗心でもって神尾が言うと。
 唇で、ちゅ、と小さく軽いキスの音が弾ける。
「遅ぇよ」
「………まだ……シャワー、ちゃんと浴びてないし…」
「だから遅ぇって言ってんだろうが」
 今度は言葉の後にキスの音。
 跡部の手は神尾の腿の側面を逆撫でしてくる。
 やらしい手つき、と思って意識がそこに向かえば。
 何だか肌が、じんと痺れてくるようで、神尾は唇を噛み締めた。
 今日は自分の誕生日なのに。
 さっきからずっと怒られてるってどうなんだろう。
 しかもそれがほんの少しも腹が立たなくて、ある意味理不尽な跡部の物言いに、全くむかつかないのもどうなんだろう。
 その上、それはもう、物凄く、凄まじく、真剣な、こんな悪態までつかれて。
「何でてめえは、朝から晩まで完璧に、全部俺様のものじゃねえんだよ」
 本気で腹をたてている跡部を前に、神尾はもう、これ以上はないくらいに、赤面した。
 本当に、何て事を言い出すんだこの男はと、恨めしく睨もうとしたって駄目だ。
 神尾にはもうそんな事は出来ない。
「………………」
 本気で苛立たしい顔を露にしてくる、それでも綺麗な跡部の顔を、シャワーの繊細な飛沫の中で見上げながら。
 ここから先の自分の時間は、ちゃんと全部渡すから。
 それで機嫌直してくれねえかな、と切に思い、切に願う。
 神尾は今日誕生日なのだ。
 だからプレゼントを欲しがったっていい筈だ。
 笑っている跡部を欲しがったって、いい筈だ。
「跡部」
 神尾は両腕を跡部の両肩の上に乗せ、指先で、跡部の後ろ首を、そっと包むようにする。
 爪先立って、跡部の頬にキスをして、小さく口にした提案は。
 あっという間に、神尾が望んだプレゼントを、神尾の目の前に、置いてきた。



 それは綺麗な、とても綺麗な、笑顔だった。

 跡部から甘い匂いがした。
 アルコールのような、ちょっとくらっとするけれど、甘い匂い。
 何だろう?と神尾は机に向かっている跡部の背後に近づいて行って、跡部の肩越しに、ひょいと彼の手元を覗き込んだ。
「あと五分で終わる」
 待ってろ、と振り返りもしないくせに、思いのほか強い声で言った跡部に、神尾は笑ってしまう。
 跡部の俺様っぷりは相変わらずだが、最近神尾には、跡部の命令にも色々な種類がある事が判ってきた。
 今のは、跡部なりの、けん制なのだ。
 本当に、本当に、ほんの少しだけれど、だから帰るなというニュアンスが込められている事が判るので、神尾は取り敢えず帰るつもりはないという事を態度で表した。
 跡部の背中におぶさるように貼りついて。
 書き物をしている跡部の邪魔になるならすぐに離れようと思ったが、器用な男はそのまま変わらずにペンを走らせている。
 跡部が先程から書いているのはプライベートな手紙のようなのだが、何せ英語で書かれているので、どうせ見ても判らないしと神尾もそのままの体勢でいることにした。
 紙面をペンが走る音だけがする。
 相変わらず跡部からは甘い匂いがする。
 こうしてくっついていると、はっきりと判る香りに、今日はバレンタインデーだから、たぶんチョコレートの匂いかな、と神尾は思った。
 毎年、とんでもない量のチョコレートを跡部は貰うらしい。
 神尾は学校も学年も違うし、それは跡部のチームメイトから聞いただけの話なのだが、聞かされていなくても、そのとんでもなさぶりは容易く想像することが出来た。
 跡部の家に呼ばれ、部活を済ませてからやってきた神尾は、正直な所、今日はあまりここに来たくなかったなと思っていた。
 跡部にチョコレートを渡しにくる女の子達と鉢合わせするんじゃないかと思って身構えていたのもある。
 きっと家中チョコレートだらけで、そういう、跡部の事を好きで、それで集まったチョコレートに囲まれるのもどうかと思った。
 しかし、神尾の予想に反して、跡部の家に来客はないし、目につく所にチョコレートも見えなかった。
 跡部は神尾を部屋に招き入れて、ちょっと長いキスをしてから、少し待っていろと神尾をソファに座らせた。
 それからずっと手紙を書いている。
「神尾」
「ん?」
「五分経った途端、離れんじゃねえぞ」
 凄むような言葉の割に、跡部の声がかなり優しかったので、急に神尾は気恥ずかしくなってくる。
「それはわかんない」
「アア?」
「………わかんない」
 何かくらくらする。
 甘い匂いがするから。
 神尾がぼんやりとした言葉を紡いで跡部の肩口に顔を伏せると、頭上に跡部の手のひらが置かれた感触がする。
「てめえ、まさか匂いだけで酔ってんじゃねえだろうな」
「……、ん…?」
 無造作に髪をかきまぜられる感触が気持ち良い。
 羞恥が溶かされていくようで、神尾は自分からも、跡部に抱きつく手に力を込める。
「デ・アトラメンティスのワインインク。バローロベースの」
「……眠たくなるような名前だなぁ…」
「寝かせるか、バカ」
 そういえば紙面に綴られた文字は、ワインレッドの色をしていた。
 その後も跡部の説明は続いて、それが水を一滴も使わずに、インク剤と純粋なワインだけを混ぜて作られたインクだと知る。
 神尾がぼんやりと相槌を打っていると、急激にペンの走る音が速くなり、またあのくらっとする香りが強くなる。
「ガキくせえな、本当にお前は」
 そしてペンを置く音。
 跡部の身体が椅子に座ったまま反転し、ふりほどかれたと感じたのは一瞬、すぐに頭を抱え込まれるように支えられ、今日二回目のキスで唇を塞がれる。
「いらねえのか?」
「……なに…?……」
「俺様からのチョコレートだよ」
 思いもしなかった言葉に、ぱちりと神尾は目を開けた。
「え?」
 跡部?と神尾が呟くと。
 そうだよ、と尊大に跡部が頷く。
「俺に? 跡部がくれんの?」
 その発想はなかった。
 神尾は心底驚いた。
「ラブレター付きだ。有難さも倍増だろうが。死ぬ気で訳せよ」
 跡部が立てた親指で、今まで書いていたあの手紙を指し示す。
「えー、俺が英語苦手なの知ってんだろ。何で日本語で書かねえんだよう」
「あれはドイツ語だ、バーカ」
「余計悪いだろっ」
 いつもの言い争い、何ら変わらぬ自分達。
 そんな中での、今日だけのスペシャルは。
 チョコレートとラブレター。

 キスをほどいた後、神尾は少し考えた。
 これでいいわけないよなと真剣に首を傾げる。
 不満というか、言うなれば不審に思う。
 そういった感情は、そのまま神尾の表情に浮かんでいたようで、跡部が眉をひそめて神尾の頬を手のひらで擦るようにしてきた。
「何だ? お前、このツラ」
 素気ない言葉、呆れた口調。
 怜悧な目は睨むようで、でも、跡部の手がやわらかく神尾の頬を包み直してくるその触れかたはひどく優しかった。
 猫の顔でも撫でるみたいにされて、神尾は首を竦める。
 だらりとソファに寄りかかっている跡部と向き合って、神尾はソファについていた右膝を降ろした。
 神尾の手は、まだ跡部の両肩の上に乗っている。
「……あのさ」
「アア?」
 ソファに座っている分、跡部の方が神尾よりも視線の位置が低い。
 それでも神尾は俯きがちにしながら上目で窺うように跡部を見やって、少しだけ唇を尖らせ、不平を口にした。
「これ、おかしくね?」
「何が」
「……や、…おかしいって言うか、………跡部さぁ…もうちょっと真面目に」
 言われ方が気に食わなかったのか、言葉の途中で跡部の手が神尾の髪をぐしゃぐしゃにしてくる。
 雑な手つきに咄嗟に怒って逃れようとする神尾が、跡部の肩の上に置いたまま突っ張った腕の手首辺りに。
 跡部が軽く頭を凭れかけさせてくる。
 ラインのきつい輪郭に跡部の髪がふわりとかかって、こちらの息が詰まるような流し目で見つめて来られて、神尾は、うわあと咄嗟に視線をよそに逃がした。
 こういう表情をする跡部には引きずられる。
 引きずり込まれる。
「俺様にどうしろって?」
「………………」
 どうしろって、だからもう少し真面目に、とよそを向いたまま言いかけて。
 結局神尾は止めた。
 正直、神尾も判っていたので。
 跡部がふざけている訳ではないという事。
 ただ、それでも、これではおかしいと思う。
「………っていうかさ、あのさ、……これじゃ、同じじゃん」
「だから何が」
「だから…っ」
 あくまで冷静な跡部に、神尾は跡部の肩を掴んだまま声を大きくした。
「好きだって言って、抱き締めて、キスして、これじゃ、こういうんじゃ、普段とおんなじじゃん!」
「それが何だ」
「それが何だじゃないだろっ。跡部、今日、誕生日なんだから、もっとちゃんと…! なんかあんだろ、なんか…! こんな、普通のことじゃくて…!」
 繰り返すが、今日は、跡部の誕生日なのだ。
 跡部はとにかく何でも持ってる男なので、誕生日にあげるプレゼントなんて神尾は到底思いつかない。
 だから跡部に直接聞いた。
 何かしてほしいこととか、ある?
 そう聞いた神尾に跡部がねだったのは、家に来い、泊まって行け、好きだって言え、抱き締めろ、それでキスしろ、そんな命令みたいな出来事。
 たいして考えるでもなく言われたそれらが、神尾の不審の原因だ。
 言う通りにしたはしたけど。
 こんなこと、普段だって普通にしている。
 当たり前みたいに、とまではさすがにいかないが、好きだなあって思ったら神尾は跡部に好きだって言うし。
 自分から抱きついたり、跡部の抱擁に彼を抱き締め返したりもするし、神尾の方からキスすることだってある。
 だから、そういう事じゃなくて。
 せっかく誕生日なのだから、もっと何かあるだろうと神尾は思うのだ。
 跡部が言うなら、多少ハードルの高い事でも頑張ってみようかなんて思っての提案だったのに、どうして跡部が欲してくるものが、当たり前になりつつある自分達の日常の行動ばかりなのか。
「神尾」
「え、?………、っわ」
 跡部の肩に置いていた腕を引かれた。
 神尾は再びソファに膝をつくようにして、跡部の胸元に抱き込まれる。
「俺はこれが当たり前だなんて思った事ねえよ」
「……え…?」
 跡部の胸元から、声が直接響いてくる。
 髪を撫でつけるように後頭部を撫でられて、神尾は視線を上げて跡部を見上げた。
 どの角度から見ても隙のない綺麗な顔だ。
 そんな跡部が何か不思議な事を神尾に言う。
「お前がここに来るのも、泊まっていくのも。俺を好きだって言うのも、俺を抱き締めるのも、キスすんのも、俺は特別なことだと思ってるから、今日もそうしろって言った」
「………………」
 普段から、きつい事ばっかり言って、口は悪いし、態度もえらそうだし。
 甘いところなんて無いに等しい、そんな跡部が言うから、神尾は何だかくらくらしてくる。
「俺が……跡部のこと好きなのとか、…跡部には当たり前のことじゃないの…?」
 そう言ってんだろうがと憮然とした跡部に低く言われて、噛みつくようにキスされた。
 深く角度のついたキスはきつくて、でも、口腔を探ってきた舌は甘くてやわらかかった。
 神尾はゆっくり目を閉じながら両手を伸ばす。
 跡部の後ろ髪に指先を潜り込ませて、ゆるく髪をかきまぜ、縋りつく。
 それでキスがまたなめらかに深くなった。
「………………」
 跡部の誕生日なのに、まるで自分がとてもいいもののように思えてくる。
 こんなんでいいのかな?と神尾はやはり思うのだけれど。
 自分を抱き締める跡部の手つきの甘さに、それもうやむやになっていった。
「跡部、誕生日おめでと」
 酔っ払ったような気分でキスの合間に神尾が告げると、跡部が少し笑ったのが判る。
 すぐに再開されたキスで合わせた跡部の唇が、笑みの形を、していたので。
 それを同じく唇で感じとって、神尾もまた、自然と微笑んだ。
 跡部は絶対に時間を無駄にしない。
 ちょっと神尾の想像には難しいくらいの多忙な毎日を送っているらしいので、持て余す暇などまるでなく、退屈を覚えるなんて事もないようだ。
 かといって余裕のない慌ただしい姿なんて絶対人に見せないが、神尾が窺える様子だけ取っても、すでに常人とは違うレベルに忙しそうだ。
 これだけ色々何でも完璧にこなせたら制限ないだろうなと神尾は思う。
 そんな跡部が、何をするでもなく、先程からずっと、神尾を見ている。
 徐に手を伸ばしてきて、神尾の髪に触れながら、はっきり言ってどうでもいいことを、だらだらと喋っている。
「お前、この髪型に意味あんの?」
「…意味って何」
「いつどの状況でもこれだからよ」
 跡部の部屋のソファに並んで座って、神尾は何か距離が近いと思う度に、少し身体を引いて。
 跡部はすぐにその距離を埋めてきて。
 その繰り返しで神尾はいつの間にかソファの端の方に座っている。
 勿論跡部はそんな神尾のすぐ横にいる。
「髪は、これで、しょうがねえの!」
「ふうん?」
「分け目はここで勝手に分かれるし」
 言えばその分け目に跡部が指を伸ばしてくる。
「髪はすぐ、ぺたんってなるし」
 元からそうだから放っておけと素気なく言ってやったのに、跡部はまるで気にした風もなく、親指と人差し指に神尾の髪を一束挟んで、毛先まで滑らせてくる。
 するん、と髪の先が跡部の指から落ちる。
「………ていうか、跡部、何なんだよさっきから」
「アア?」
「なんか……くっついてくるし…! 人の事、ガン見だし!」
 敢えて気にしないようにって、突っ込まないでやってるのに!と神尾は自分でも訳が判らぬまま癇癪を起こした。
 要するに、正直な話、だんだん恥ずかしくなってきて神尾は落ち着かないのだ。
「別にいいだろ。俺がお前をどう見ようが」
「落ち着かないんだよっ」
「慣れねえなあ、お前」
 慣れる訳がないだろう!という言葉を、叫ぶ前に神尾はぐっと飲み込んだ。
 含み笑う跡部のゆるんだ気配に、物慣れないのはお前のせいだと視線に込めて睨んでやるのが精一杯。
 神尾だって知っている。
 落ち着かないのは、ドキドキするからだ。
 一緒にいる毎に、跡部が、今まで見た事のない顔をしてみせるからだ。
 楽しそうだったり、嬉しそうだったり、するから。
 時間を無駄にしない跡部が自分の横で寛いでいる。
 どうでもいい事を話して、だらだらと過ごしている。
 それが跡部にとって大事な事なんだと、言葉を使わないで思い知らせてくるから、神尾は猛烈に恥ずかしくなる。
「珍しいよな。ここまで俺に慣れねえってのも」
「………………」
 綺麗な顔で呆れてみせる。
 世の中はこの男にそんなに簡単に慣れるのかと神尾はものすごい驚いた。
 言わないけど。
「ま、お前にも一向に飽きねえけどな」
「………跡部さあ…」
「何だよ」
 神尾がちょっと声のトーンを落とすと、跡部は聞き返しておきながら、手のひらで神尾の頬をやけに丁寧に包んで軽いキスをしかけてきた。
 ふわりと落ち着いた香りがする。
「何だよ、神尾」
「………………」
「そんな顔させるようなキスしてねえだろ」
 少し不機嫌に跡部が言って、キスのせいじゃないと神尾は不貞腐れた。
 飽きるとか。
 跡部に言われると、ひやりとする。
 その時どうなるんだろう、もうこういう風にはいられないのかなと思うと、神尾は自分でも驚くくらい、しょんぼりしてくる。
「おい、」
「だから……跡部さあ…」
 ああもう自分から言いたくない。
 だからといって自分から聞きたくもない。
 だけど、言って、聞いて、心の準備というやつをしておかないと、と神尾は溜息で踏ん切りをつける。
「神尾」
 重く名前を呼ばれて、そう言えば何で跡部はこんなにおっかない顔してるんだろうと、神尾は思った。
 よくよく見ると、おっかないというより、何だか。
「てめえはもう飽きてるとか思ってんじゃねえだろうな」
「………………」
 その話は跡部じゃなかったかと神尾は首を傾げた。
 いつの間に、自分が飽きている事になっているのか。
「……それ、跡部じゃん」
「バァカ。俺は一生飽きねえよ」
「………え?」
「俺の話はいいんだよ。てめえだ、てめえ」
 ムッとしてるような。
 でもそれだけじゃない。
 あまりこれまで見たことのない表情の跡部に、突然に半ばのしかかられてしまい、神尾の身体はソファの背もたれをずるずると滑った。
「跡…部…?」
 キスに近づいてくる跡部の肩に伸ばした神尾の手は、跡部を押しやる為にではなく、取り縋るように動いた。
 肩口あたりのシャツを、両手にきゅっと握り締めると、今までしたことのないやり方で口づけられた。
「………ん…、…ん、っ、…」
 わずかに唇が離れると、とろりと唾液が零れてきて神尾は目を回した。
「え、………なん…、…ん…、んっ」
 離れて、すぐに塞ぎ直された唇で、尚、とろとろと甘ったるいキスをされて。
 うわ、と声にならない声で神尾は動揺した。
「こっちは段階踏んでやってるんだ」
「………え…?…、…」
 キスが解かれても頭がくらくらして喋れない。
 ただ跡部が繰り返し与えてくるキスに、神尾は唇をひらくだけになる。
「…っ……ぅ、ン」
「そう簡単に飽きさせてなんざ、やらねえよ」
「跡……、…」
 なんかもう、わけのわからないことになっている。
 自分のどこをどう見たら、跡部に飽きてる事になるんだと、神尾は理解不能な振る舞いばかりの王様を涙目で見上げた。
 ソファに並んで座るだけでドキドキしているのに。
 飽きるとか飽きないとか、それ以前に。
「…………心臓…止まる…かも」
「アア?」
「跡部といると早死にしそー…」
 ふざけんなとかなり本気に跡部に凄まれて。
 睨まれて。
 噛みつかれて。
「……っ…、ン」
 長いキスは、甘いキスで。
 神尾は濡れた唇から、色々なことを甘く憂う溜息を零した。
 珍しく神尾が気難しい顔をしているので、目線だけで何だと跡部が問いかけると、床に座り込んだまま神尾はもぞもぞと動き出した。
「何か、ひりひりする……って言うか、ピリピリ?…する」
「どこが」
「背中?」
「てめえの事を俺に聞いてどうすんだ、バァカ」
「何か、とにかくこのへんが」
 ううー、と呻きながら背中に後ろ手を伸ばす神尾に呆れた溜息をつきつつ、跡部は正面からその痩躯を抱きこんだ。
 胸元に収まった神尾が着ているTシャツの襟繰りを引き、背中あたりの肌を見下す。
「あー……」
「え、なに? 何か出来てる?」
 ちょっとだけ身構えて、、飛び上るような反応を見せる神尾の様子は何かにつけ子供っぽい。
 本当に子供っぽいのだが、この身体に。
 その傷をつけたのは。
 また、その状況は。
「……そういや、噛んだんだったな」
 神尾の肌に歯を立てたのは跡部だ。
 細い首の裏側の、肩甲骨近く。
「え! 何か虫とか?」
 見当はずれの言葉を放ってくる神尾の、小さく丸い頭を跡部は叩いて憮然とする。
 虫呼ばわりされたのだから当然の反応だと思うが、神尾は神尾で怒ってくる。
「痛い!」
「てめえの記憶の有効時間は何時間だ? それとも何分か? アア?」
「な、なに怒ってんだよう!」
「この俺様を虫呼ばわりしやがって、どれだけ馬鹿だ、てめえは」
 何の事だと一瞬きょとんとした顔をした神尾だったが、跡部の指先が神尾のうなじを軽く辿った仕草に一瞬首を竦め、そこから徐々に記憶の回路が繋がったらしかった。
「あ、………跡部、かよぅ…」
 語尾が情けなく立ち消える。
 表情は声以上に判りやすかった。
「………………」
 神尾のそういう態度は、いつでも変わらない。
 怒ったり、たてついてきたり、びっくりするくらい素直だったり、どうでもいいことを恥ずかしがったり。
 案外ふてぶてしくタフでもあったり、何の躊躇いもなく、単純に可愛かったりする。
 好きにしているつもりでも、少しも思いのままになっていない感覚は、跡部にしてみればいつでも不可思議な印象のままだ。
 正面から改めて神尾を腕に抱き込んで。
 昨夜自分がつけた噛み跡に、神尾の衣服越しに跡部が唇を落とすと、神尾の身体が殊更小さく縮まった。
「………………」
 昨日もそうだった。
 力づくで抱き締めていないと、まるで制御できない感情。
 歯でも立てて噛み殺さないと正気でいられなくなるような衝動。
 それらを跡部に与えるのは、いつだって神尾だ。
 本人は全くの無自覚のようだし、説明してみたところで伝わる筈もない。
「……跡部…」
「なに緊張してんだよ」
「す、……するよ、…緊張!」
 当たり前だろと喚く身体は、今、跡部の腕の中に確かにある。
 確かにこうして、あって、抱きしめているのに。
 まだ欲しい、まだ抱きしめたい。
 力のこもる跡部の腕の中で、神尾の身体の感触は薄くなる。
 くぐもった声に名前を呼ばれて、噛みつくようなキスで返す。
 跡部は神尾の唇を塞ぎながら、抱き締める腕に力が入りすぎて、ひどく窮屈な口付けを自覚した。
 身体はぴったりと密着して、互いの隙間がなくなって、鼓動も混ざって溶ける。
「噛みつきでもしねえと、」
「………え…?」
 耐えられない。
 そんなあの一瞬の衝撃が果たして神尾に理解できるのかどうか謎だと、跡部は言葉を途中で切った。
 お前のせいだと跡部は思っているから。
 神尾に向ける口調は責める響きで。
 逆に口付けや服越しにそこを撫でる跡部の指先は丁寧で執拗になる。
 繰り返していると、神尾が喉奥で声を詰まらせて、跡部の腕の中で、とろりとやわらかい気配になる。
 それはそれで跡部の焦燥感は増すばかりだ。
 甘く落ちてきた重みに、そっとキスを終わらせる。
「………途中で、…黙んな…、ばか…」
 深いキスから逃してやった直後、もつれたような口調で神尾が悪態をついた。
 言葉は単なる虚勢のようで、実際は不安なのか、神尾はひどく落ち着かない。
 仕方がないので跡部は神尾でも判るように教えてやった。
「よすぎて、噛みつくとか抱き締めるとかしてねえと、こっちは終われない。全部お前のせいだから、ある程度痕が痛いのくらいはお前が責任とって引き受けろ」
「は……?………なん…、なに、それ……意味わかんな、っ…」
「意味が判らなくても赤くなんのかよ。…は、随分器用じゃねえの?」
 赤い頬を手の甲で逆撫でしてやると、神尾はほとんど涙目で跡部を睨みつけてきた。
「跡部が…!」
「ああ?」
「そういう、やらしい顔、するからだろ…っ…」
「……やらしい…ねえ…?」
 どんなだよ?と笑って聞いておきながら、跡部だって薄々自覚もしているのだけれど。
 自分の顔が、とりわけ神尾に充分すぎる程に効き目があることもしっているから。
 ぐっと顔を近づけて笑ってやる。
「それくらい、俺をよくしてんのは、てめえだろ?」
「み…っ…、…耳元で喋んなよっ」
「半ベソかよ」
 笑い出した自分の胸元が握りしめられた神尾の拳で叩かれるのを跡部は見下し、尚笑う。
 すっかり子供の癇癪だろう。
 これでは。
 赤い顔をして、赤い目をして、言い返したくても何も言えなくなって睨んでくる。
 その眼差しがきつければきついほど、跡部の機嫌はよくなるばかりだ。
「笑うなっ、ばかっ」
「いいだろ別に。俺がどんな顔してようが」
「よくないいぃ…!」
 これほどまでの跡部の本音の言葉と行動を前にして、いっそ強気に出れば圧倒的に勝ち目があるのは神尾の方の筈なのに。
 全くそれに気がつかない上、本来は分が悪い跡部の、全てからかいなのだと本気で思っているらしい。
 馬鹿な奴だと心底から思って、かわいくてどうにかなりそうだともうっかり思って、跡部は神尾を両腕で抱き締めた。
 相変わらず神尾は、勝っていながら負けていると思いこみ、ただひたすらに跡部の腕の中で喚いていたが。
 あいにく跡部もそこをフォローする気はなく、勝手な神尾の思い込みを、上機嫌のまま放置したのだった。
 最初にキスをされた時は本当にびっくりしたけれど、その先があるのだと知った時は、その比ではなく驚いた。
 跡部からのキスは、少しずつ時間が長くなって、少しずつ重なり方が深くなって。
 唇の表面の感触だけだったのは最初の数回。
 徐々に口腔や舌などの粘膜の感触を繰り返し与えられ、それだけでも神尾はかなり目を回していたのだ。
 なので、今日に至って、跡部の指先が神尾の耳元からするりと髪の内部にもぐってきて、跡部の唇で首筋を撫で下ろされ、神尾は飛び上った。
 キスは終着地点ではなかったのだ。
「………………」
 ぎくりと竦み上がった神尾の喉元で、跡部が低く笑った。
「さすがに流されねえか」
「…なが…、……え?…」
 神尾が言葉を詰まらせていると、ちらりと上目を寄越して、跡部は唇の端を引き上げてきた。
 どの角度から見ても、うんざりするほど秀麗な顔立ちだ。
 そのせいか、はたまた違う理由のせいなのか、神尾はのぼせたように顔を赤くして押し黙る。
 普段だったら、そういう、人を観察するようなツラすんなと、怒鳴る事など神尾にとって簡単な事なのに。
 出来ずに言葉に詰まる。
 そんな神尾の様子をつぶさに見やって、跡部は、また小さく笑った。
「ま、この先の意味は判ってるみてえじゃねえの」
「………っ……」
 頭を片手で抱え込まれるように、跡部の指先に力がかけられるのが判った。
 下から首を反らして伸びあがる跡部に、唇を塞がれる。
 キスで塞がれ出口を無くして、ますます荒く鳴り出したのは神尾の体内の鼓動だ。
 それでもキスはいつも通り。
 いや、正しくは、やっぱり少しずつ、長くなっているし、深くなっているのだけれど。
 跡部の空いている方の手が、神尾のシャツの裾から内部に忍んでくる。
「……、……ッ…」
 咄嗟に神尾は両腕を突っ張らせた。
 跡部を押し返すような所作に自覚はなくて、自らの手で跡部を引き剥がして初めて、神尾は茫然とした。
「あ………」
 拒絶、した訳ではないのだ。
 ものすごく矛盾しているかもしれないけれど。
 でも、だから、神尾は慌てた。
 跡部のキスから逃げるような真似をしたのも初めてだった。
 ひょっとすると物凄く怒っているんじゃないかと、恐る恐る神尾が伺い見た先で、跡部は、何故か機嫌が良い時の、少しばかり皮肉気な笑みをその唇に刻んでいる。
 うわあ、こいつ、人がびびってるの見て楽しんでやがる、と神尾は頬を引き攣らせた。
 それって物凄く悪趣味なことだろう。
 咄嗟に怒鳴りつけてやろうと神尾は思ったのに、何故か頬に軽いキスを受けて、どっと赤くなって、済し崩しだ。
「取り敢えず返事を寄越せ」
 何だか跡部から擦り寄ってくるようなキスがまた頬を掠って、神尾はくらくらと、跡部に問い返す。
「……返事って…なに」
「許可しろっつってんだよ」
 許可って何のだよう?と思わず泣き言めいた言葉を放った神尾は、そもそも返事などと言いながら、はなから選択肢がない跡部の物言いに、つくづく俺様な男なのだと思い知る。
「早くしろ」
「は…っ…早くとか言うな、馬鹿…!」
「早くじゃなけりゃいつだ」
 一分後か二分後かと矢継ぎ早に跡部が畳み掛けてくる。
 咄嗟に神尾は言い返していた。
「ご、………いや、…十分後……!」
「十分だな。判った」
「………………」
 自分で言っておいて何だが、十分って何だ、何なんだ…!と神尾は錯乱した。
 あっさり引いた跡部にも若干面食らう。
 正直な所、跡部が本気な事は神尾にも充分に判っていた。
 からかうような雰囲気を作っているが、どこか切羽詰った焦燥感のようなものを、確かに神尾は目の前の男から感じていたからだ。
 だから余計に身構えてしまったのだが、そんな跡部が日常の俺様ぶりを考えても実に珍しい事に、神尾の言う通りに十分を待つらしかった。
 くるりと身体を反転させられ、神尾は背後から跡部に抱き込まれる。
 背中にぴったりと跡部が密着していて、頭上に唇を埋められているのも感触で判った。
「な…、に、……この格好…」
「顔見たまま待ってられる訳ねえだろ」
 低く呟くような声に、神尾はこれ以上はないと思っていたのに、また頭の中が茹だる。
 煮えてくる。
 そういう真剣な声で言う事かと言ってやりたいが、頭も働かないし唇も動かないのだ。
 神尾は自分でも知らず知らずに混乱と動揺を深めていて、跡部はそれを熟知しているようだった。
 それから何も言わずにいる跡部の腕の中で、神尾は、呻くような声を洩らしながら、考える、ことになった。


 一分が経ち、二分が経ち、三分が経ち。
 四分、五分、六分。
 七分が経ち、八分が経ち、九分が経ち。


 十分が経った。

 十五分が経った。

 二十分が経った。


「面白ぇなあ、ほんと、お前」
 跡部は珍しく屈託なく笑みを零し、オラ、返事、と神尾を抱き込み揺すってくる。
 神尾は自分の胸元を通って肩を掴んできている跡部の肘下あたりを抱えて、大混乱を極めてショート寸前だ。
「や、…マジで、しぬ……」
「バァカ。死ぬ訳ねえだろ、この先控えて」
 ここから出してと目を回して神尾が言っても、しがみついてきてんのお前だろうと跡部はますます笑うばかりだ。
 そう、跡部は、笑っている。
 どれだけ神尾が待たせても、怒りもしない。
 何でだろうと神尾は跡部の腕の中で考えた。
 背後にいる跡部の表情は見えないけれど、明らかに機嫌がいい。
 普段だったら業を煮やして怒鳴ってきてる筈なのに。
 だらだらと、ただ時間が過ぎていくような、はっきりしないやり取りなど決して好まない男なのに。


 三十分が経った。

 それから。


 跡部の溜息にうなじがくすぐられて神尾は肩を竦める。
 仕方ねえな、と跡部の声がして、さすがにキレたのだろうかと神尾は思ったのだが、そうではなかった。
「俺が、お前の許可を貰ってやろうと思ったが、お前が言えないなら仕方ない」
「……跡部…?」
 跡部の腕の中で身体が返される。
 数十分ぶりに、正面から顔をつきあわせる。
 両頬を跡部の手のひらに包まれ、支えられ、唇に甘ったるいキスを貰って、それが多分神尾の最後の困惑を吸い取っていった。
「お前には拒否権やるから」
「………………」
 僅かに離れた唇と唇の合間で囁かれる。
「嫌なら全力出して逃げな。逃げきれないなら腹くくれ」
 もう、跡部は、笑っていなかった。
 ズキズキと、鼓動が熱くて、早くて、息苦しくなる。
 神尾をそうしておかしくする表情で、跡部は神尾の衣服に手をかけた。


 えらそうな王様の、それは最大級の譲歩だろう。
 だから貰った拒否権を、神尾はどこかそこらに、必死になって、投げ捨てた。
 今時、真正面から、仲直りしようぜなんて言ってくるのはどうなんだ。
「跡部ー。なあ。仲直りしようよ」
「………………」
 不機嫌全開の跡部に敢えて話しかけてくる輩など氷帝にだっていないというのに。
 他校生で、年下で、そんな相手が何故真っ向から跡部の顔を覗き込んでくるのだ。
 臆した風もない。
 しかし、僅かばかり落ち込んだ様子は隠さず、神尾は無言を貫き通している跡部の傍でそれを繰り返す。
 仲直り。
 意味が判らない。
 理解不能だ。
 跡部はうんざりと神尾を睨みつけた。
 顔の片側を隠す神尾の長めの前髪はいつもと変わらず、その表情の半分を隠している。
 見える見えないは、跡部にしてみれば然して問題ではなかった。
 神尾相手に洞察力を働かせる必要もない。
 見たままが全て、それ以上でもそれ以下でもないのが神尾だ。
 跡部の部屋に二人きりでいて、喧嘩のきっかけになった出来事などいちいち思い返していられない程、要するにどうってことのない自分達にとって日常的言い争いを今日もして。
 怒って神尾は喚き、怒って跡部は口をきかなくなる。
 腹が立つ、でも神尾は出ていかないし、跡部は追い返さない。
 結局相当不穏な空気の中、相変わらず二人でいて、どればかりが経ったのか。
 もっか神尾は仲直りとやらを提案してきて、跡部はそれを無視している。
「な、跡部。仲直りしようぜ」
「………………」
 何故説得されているのだ。
 ともすれば優しげな口調で、まるで言いくるめられているかのように。
 そう思えば、跡部の目つきはますますきつく鋭さを増す。
 意図的に視線を神尾からずらしていたというのに、そんな跡部の視界に、ひょっこりと神尾は彼の方から入ってきた。
 ソファに座る跡部の正面に立っている神尾が、腰から上体を屈めるようにして顔を背けた跡部の眼差しをじっと上目に追って見詰めてくる。
 瞳に一滴、心細さなど落しているから、気に食わないと思う跡部の感情は完全に限界値に近くなる。
 手加減無しの不機嫌を込めて、跡部は神尾を睨みつけ、吐き捨てた。
「何だよ、この距離は」
 ふざけてんのかてめえ、と跡部が低く呻くと。
 神尾が一生懸命何かを考える顔をしながら、そろりと跡部に近寄ってきた。
 遅いと怒鳴りつけたい気分を奥歯で噛み殺して、跡部は引っ手繰るように神尾の腰に腕を回し抱き込んだ。
「…、…うわ……ちょ…っ…」
「うるせえ!」
 もがくような素振りにますます腹が立って、跡部は結局神尾を怒鳴って腕に力を込める。
 平らな、薄い腹部ごと抱き込む事は跡部にはあまりにも簡単すぎた。
 そのまま我ながら跡部が物騒だろうと自覚する目つきで神尾を睨み上げると、慌てていた神尾は数回の瞬きですっかり落ち着いて、そのくせどこか困ったような曖昧な笑みを唇に浮かべていた。
「跡部怒ってるからさあ……近づいてもいいのかなって。ちょっと悩んだんだよう」
「………………」
 知った事かと跡部は一瞥で切り捨てる。
 そもそもいつまでも手も伸ばせない距離にいるようでは、仲直りとやらをする気など本当はないんだろうと、跡部が非難を込めて睨めば、それを受け止めた神尾の手が跡部の肩の上に、ふわりと置かれる。
「ごめんな、跡部」
「ごめんで済む訳ねえだろ」
 だいたい、あの中途半端な距離感を保たれて、仲直りも何もない。
 繰り返し不機嫌なオーラを撒き散らす跡部に対して、神尾の手は跡部の肩から髪へと移動して。
 跡部の髪を軽く撫でるような所作をする。
 ごめんと繰り返す神尾の言葉は、いかにもふわふわと軽く聞こえるのに。
「あのさあ、跡部」
「………………」
「どんだけ喧嘩しても、俺、お前を好きなままだろ? それ、知らねえってことないよな?」
 当たり前の事を言うように、神尾の口調には何の気負いもない。
 軽い口調ほど、言葉の意味は軽くはない。
 神尾の指先は恋人を余裕で甘やかせるほど器用ではないから、跡部の髪を撫でる動きは本当に下手で、でも、素直すぎるほどに素直な言葉はどこまでも生真面目だ。
「すっげえむかついても、嫌いになったりしないし。めちゃめちゃ腹立っても、やっぱり跡部が好きだから。だからさ、俺は跡部と喧嘩したら、ちゃんと仲直りしたいんだけど」
 真面目に言う神尾に、跡部は何となく未だむかついて、腹が立って、でも神尾と同じように思うのも事実なので。
 神尾の二の腕辺りを掴み、強引に神尾を自分の方へと引きずり寄せた。
 近づいてきた神尾の唇に跡部が下から喰いつくように口づけると、本気で慌てたような小さな声が間近になった神尾の喉に詰まったのが聞こえた。
 距離が近いから神尾の顔が熱を帯びた事も判った。
 ぐっと神尾の首の裏側を掴んで強く引き寄せて、思う存分その唇をむさぼって。
 跡部が舌先を覗かせたまま神尾を口付けから解放すると、神尾の狼狽はすぐさま溢れ出し零れ落ちてくる。
「な…っ……なんで、この状況で……っ…」
「何でだ? 馬鹿言ってんじゃねえよ、神尾」
「だ、…だって…! 仲直りしよって、話してる時に何でこんな…!」
「普通定番だろうが」
「ええっ。や。ムリ。こんなのしながら話とか俺絶対無理…っ」
 赤くなっているのか青くなっているのか、神尾は跡部には全くもって理解できない事を言い、じたばたと暴れ出す。
 挙句に跡部から離れようともがくので。
「仲直りってのを、する気あんのか、てめえ!」
「こ…っ、…こっちの台詞だ、馬鹿跡部…っ!」
 意味が判らない。
 訳が判らない。
 それはお互いがお互いに思っている事。
 それで何度も喧嘩をするし、仲直りの傍からまた言い争いが始まったりするのだけれど。
 それでも、どうしたって、この相手でないと嫌で、喧嘩したって一緒にいるのがいいのだ。
「うわ、跡部、なんで服脱がす、っ」
「この上まだそんな事言ってんのか」
「や、…ちょっと…それは、仲直りしてから…! な? な?」
「しながらすりゃいいだろうが」
 もう何が何だかというような有様で。
 お互い、それはもはや甘ったるいような罵り合いや取っ組み合いで、髪も呼吸も心音も乱して。
 全部乱れて。
 全部もつれて。
 もう目も当てられない。

 こんがらがって、もうどこかから解きようもない。
 それが二人の、恋の縺れ。
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