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How did you feel at your first kiss?
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 神尾はベッドにうつ伏せになっている。
 両手の手のひらの上に顎を乗せて肘をつき、上半身だけ僅かに持ち上げ、じいっと見つめている。
 少しだけ首を傾けて、真夜中。
 見つめているのは跡部だ。
「………………」
 隣で眠る綺麗な寝顔。
 それはいつ見ても、そうなのだけれど。
 神尾は瞬きもしないで跡部を見つめる。
 見惚れているというよりは、ちょっと、実は、笑いたい。
 神尾は今、結構本気で笑いたい。
 けれどもここまで圧倒的に綺麗な寝顔を晒されては、笑うに笑えない。
 跡部ー、と神尾は声にしないで口の中で呟いた。
「……腹出して寝るなよう…」
 面白すぎると神尾は思った。
 でも笑えない。
 面白いのと同時に、色気過多だろうこれはと心底から思うからだ。
 するりとなめらかな肌と鋭利な顔のライン、目を閉じていても跡部のきつく整った風貌は変わらない。
 そんな寝顔なのに、仰向けになっている跡部のシャツの裾は無防備に捲りあがっていて、引き締まった腹部が際どく露だ。
 直してやった方がいいのだろうかと思うものの、神尾は迂闊に手を伸ばせない。
 跡部の熟睡を妨げるのもこわいし、腹を出して寝ている様が婀娜めいているなんて、いったいどういう男なんだと感じてこわい。
 さわれない。
 確か以前は、人がいて熟睡なんか出来るかと怜悧な目をして言っていたのに。
 つきあい始めて一年近くになった今、こんなにも深い眠りで跡部は今神尾の隣に横たわっている。
 固く滑らかな腹筋は、呼吸に合わせて微かに動いて、じっと、いつまで見つめていても、飽きなくて。
 神尾は先程からずっとこの体勢だ。
 おもしろい。
 色っぽい。
 可愛らしい。
「………………」
 ここに、寝ているのは跡部だ。
 むさぼるように深い眠りへと沈んで、無防備にしている、跡部だ。
 安心、してるのかな?と、神尾は誰に問うでもなく思う。
 跡部が、安心しているのだとしたら、神尾は嬉しい。
 どうしてかなんて説明できないけれど、ただ、そういう風に思うのだ。
 ベッドの上は静かだ。
 神尾は自分の心臓の音を聞いている。
 とくとくと血液の流れを聞いている。
 目でみる跡部の腹部、その動きに自分の呼吸を合わせてみる。
 すこし、最初は苦しい気がする、ゆったりとした呼吸だった。
 跡部のリズムはゆっくりと次第に神尾のリズムになる。
 同じ速さで息をする。
 同じ深さで息をする。
 跡部の中に溺れていくような緩やかな浮遊感。
 跡部の呼吸は神尾の呼吸になって、全身を隅々まで走りぬけていくように気持ちいい。
 神尾は目を閉じて、もう身体が覚えたリズムで息を吸い、息を吐く。
 もう見なくても判る、跡部と同じやり方で。
「…………俺も行こ」
 つぶやいた。
 行こう、このまま、同じリズムで跡部のところに。
 神尾は目を開けて、同じ体勢でいて少し痺れている手を伸ばし、跡部のシャツを直してやった。
 はだけたシャツで露になっていた腹部を覆ってやった。
 跡部は起きない。
 上掛けをかけてやる。
 跡部は起きない。
 神尾は片手で頬杖をつき、ぽんぽん、ともう片方の手で跡部の額を軽くたたいた。
 跡部は起きない。
 赤ん坊寝かしつけてるみたいな手つきだな、とぼんやり神尾は考えた。
 跡部は、赤ん坊でも何でもないけれど。
 よく眠っていて、そこは可愛い、それが嬉しい、神尾はそう思うのだ。
「…………跡部…」
 実際にくっつきはしないけれど、横たわって、並んで。
 跡部と同じ呼吸をしながら神尾は身体をベッドに埋める。
 横向きに、跡部の寝顔を横顔で見据える。
 本当に熟睡だ。
「ちゃんと…連れてけよな」
 神尾は眠気にとろけた声で呟いた。
 ちゃんと自分も眠って、今跡部がいる場所に行くから、だから跡部もちゃんと連れてけ、と念じる。



 その日神尾の夢の中に跡部はいた。
 もしくは跡部の夢に神尾は忍んだ。
 どちらの中であったかは、別段問題ない。
 ただそこに跡部がいて、神尾がいて、昼間二人でふと見上げた桜と、同じ花が咲いていて。
 重ねる呼吸が同じだったから。
 目覚めはこの上なく穏やかで、ひどく安らいだものだった。
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 何につけ、神尾は跡部に怒られたり呆れられたり馬鹿にされたりするのだ。
 何で、これだけの事を言われたりされたりして嫌いにならないのか、自分自身が不思議でならない。
 今だって。
「……っ……、ぅ…」
「………………」
 今だって、あれ、何だっけ?と、神尾はぼうっとした頭の中で迷った。
 思えば考え事などとても出来ない状況にある神尾は、どんどん濃密さを増してくる接触に、せいぜい息を詰まらせているのが精一杯だった。
 強引で甘ったるいキスは随分長い。
 何だか思い出せないのだけれど、今しがたまで散々に毒舌をふるっていた、その口と同じ口だとは到底思えないほど。
 キスは、神尾がじわじわと赤くなり、次第に目を潤ませて、思考も麻痺していく程に。
 強くて、深くて、濃くて、丁寧で。
 そう、丁寧で、丁寧で、本当に丁寧で。
 何だかもう、ずっと、ずっと、こんな状況だ。
 強引だったものがいつの間にかすごく優しくなっていて、ふんわりと唇を覆い、やさしくあまい舌が神尾の口腔を撫でていく。
 神尾の右肩をかるく包んでいる跡部の左手も温かい。
 あれ、何か、すごく、やさしくないか、と神尾が戸惑った時だ。
 唇が離され、跡部の声が間近から聞こえてきた。
「………瞬きするな。擽ってえんだよ」
「…、え……?…」
 当たる、と至近距離で跡部が片目をすがめている。
 そちら側の頬に、神尾の睫毛が当たると言われているらしかった。
 その口調に、ほんの少し、キスをする前の跡部を思い出す。
 どういえば、何か、やけに絡んでくるみたいなこと言い出したんだよな、と神尾が跡部の言動を思い返していると、跡部は結局神尾に返事もさせず、また。
「…、ん」
 角度をつけて、唇を重ねてきた。
 啄み、深く塞がれ、離れて、ひらかれて。
 何かされる度、神尾は小さく息を詰まらせて震えた。
 跡部の指先が神尾の髪をいじり、舌が舌をくすぐり、とろりと呼吸が交ざる。
 泣きたい訳ではないのに目がじわっと潤んできて、神尾がどうしたらいいのか判らなくなった瞬間をさらうように跡部が両手で神尾を抱き締めてきた。
「…………ふ…っ、…ぅ」
「神尾」
 すっぽりと全身を包むように抱き締められ、髪に口づけられる。
「小さくなってんじゃねえよ」
 笑い交じりにからかわれて耳を唇で辿られて。
 跡部の指摘通り身体を竦ませてしまっていた神尾は、抱き締められるまま、ぎこちなく身じろいだ。
「震えんな。体温上げんな。エロい声出すな」
「…、し…てな…、」
 からかっているのか怒っているのか、つかみづらい声で跡部が矢継ぎ早に言う。
 どうリアクションしていいのかまるで判らず、神尾は戸惑ってしまう。
 服の上から跡部に身体を撫で回されて、足元がふらついた。
「ちょ、……っ…、ゃ、…っ、ッ」
「するなっつーことばっかしやがるな、てめえは…」
「ん…っ……、…く……」
 足の間に強引に跡部の片足が入れられ、腰を鷲掴みにされる。
 それと同時に耳のすぐ下を舐められて、吸われて、神尾はびくびくと震えながら跡部の背中のシャツに取り縋る。
「っ…ゃ……ぁ……」
「………っとに、よぉ…」
 むかつく、と。
 本当に怒っているのか、本当にからかっているだけなのか、判別しがたい口調で吐き捨てた跡部が、手酷く腿で神尾の両足の狭間を押し上げ、神尾の両手首を部屋の壁に押し付け、唇をきつく貪ってくる。
 やっぱり、こうして。
 跡部は怒ったり呆れたり馬鹿にしてきたり、するのに。
 神尾はそうされながら、何故か、甘ったるいおかしな感情を詰め込まれている気分になる。
 唾液が撓むようなやり方でキスが終わって、神尾が朦朧と跡部のことを考えていると、跡部も、何だか似たような事を言い出した。
「お前の頭の中身があまりにも空っぽすぎて、詰め込んでも詰め込んでも、欠片も理解しねえのが本当に腹立つんだよ」
 凄むような目と、口調と。
 怖くはないけれど、戸惑って、神尾は少しだけ瞳を潤ませる。
 泣いた訳ではなく、それこそキスがあまりにも凄すぎたのだ。
「気づけってのが、無理だな。てめえには」
 その空っぽの頭でも理解できるように言ってやる、と尊大に宣言されて。
 神尾は初めて、言うなれば告白のようなもの、を跡部から浴びせかけられた。
「あとべ、じゅんばん、ヘン…くない…?」
 何だかもう、する事はしてるし。
 キスだけじゃなくて、全部、冬にはもうあらゆることを跡部にされまくっているのに。
 春になって、桜も咲きそうな今時分になって、今、それ言う?と神尾はキスで切れ切れの息の下、言って、笑った。
 でも、ずっと、跡部もそうだったら嬉しいかも、と神尾は思っていたので。
 言われたら、嬉しかったので。
「俺も、ずうっと、好きだったけど?」
 そう言ってやったら、跡部は。
 神尾の初めて見る跡部になった。
 神尾の初めて知る跡部になった。
 桜の季節の話だ。
 跡部はうっすら目を開けた。
 間近に見えるのは神尾の瞼の薄い皮膚の色と、上の空の気配だ。
 上の空。
 構っている相手からそんな態度をとられれば、普通は腹がたつだけだが、よりにもよって、と跡部は眉根を寄せた。
 むかつくはむかつくのだが、単純にただ腹をたてている訳ではない自覚もしつつ跡部は目つきをきつくする。
「…おい」
「………、……ふ…」
 キスを強引に止め、唇を引き剥がすと、跡部がソファに組み敷いて貪っていた唇からは細い熱い息が漏れた。
 至近距離から見下ろせば、閉ざされていた瞼が開いて、瞬きする震える睫の下でその目は潤んでいた。
 赤くなっている頬を多少手荒に指先で擦ってやって、跡部は不機嫌に凄んだ。
「本当にてめえは俺を苛つかせるのだけはうまいな」
「…え…?………」
 必要以上にきつくなってしまった物言いは跡部の本心を隠す虚勢にすぎなかったのだが、潤んだ目の神尾はひどく不安げに跡部を見上げてきた。
「ごめ、……」
「………………」
 そんな顔をするくらいならキスのさなかに上の空になどならなければいいものをと跡部は嘆息した。
 跡部の溜息に神尾が小さく竦む。
 つながっていた視線が神尾の方から解かれそうになって、跡部は逃げかける小さな顔を片手で包んでもう一度口付けた。
 残り火の再燃のように、飢えに微かな火がついて。
 舌で深く口腔を貪ると神尾の子供っぽい手が懸命に跡部のシャツを掴んで取り縋ってくる。
 不器用な手つきだ。
 でも、それを感じている跡部のキスも、多分神尾のそれと同じようなものだった。
 不器用に自分達はいつも手探りだ。
 お互いの事には、いつもこうしてたどたどしくなる。
 ひとしきり黙ってキスを交わしてから、跡部は引き千切るようにして唇を離し、神尾の喉元に顔を埋めた。
「……跡部…?」
 だからそういう心細げな声を出すくらいならな、と跡部は憮然として。
 しかし、黙っていても神尾に通じる訳ではないので、投げやりに言ってやった。
「他のこと考えてんじゃねえよ。生意気に」
「え?……や、…そ…ゆーんじゃなく…」
 跡部の肩あたりのシャツをぎゅっと両手で握りこんだまま、神尾が慌てた声を出す。
 ちがうちがうと言い募る懸命さに少しばかり跡部の気も晴れた。
 むかつくだけならまだいい。
 キスをしているさなかに気も漫ろにされて、それがただ純粋に嫌なのだからどうしようもないと、跡部は自嘲を決して見せずに嘆息する。
 黙ったまま神尾の喉元に顔を伏せていると、どうやら神尾には荒い声を放って怒鳴るより、よほどこういう態度の方が堪えるのだと跡部は知った。
「跡部。違うってば」
「………………」
「跡部ー。なーってば」
 せいぜい戸惑えばいい。
 跡部が答えないでいると、案の定と言うべきか、神尾は跡部を両腕で抱き締めるようにしておろおろし出した。
「な、跡部、…なぁ、ごめんってば…」
「………………」
 ぎゅうっと。
 しがみつかれているんだか抱き締められているんだか判らない感触に包まれて、跡部は完全に脱力した。
 薄い身体に体重をかけても、神尾は苦しがるよりも、相変わらず慌てているままだ。
 細いけれどもしっかりとした腕で跡部の背中を抱く神尾は、生意気にも跡部の背中を宥めるように叩いたりして、さすったりもして、むやみやたらに一生懸命だ。
「違うんだよう。数字がさ、四がさ、不思議だなーって思ってただけなんだって」
 突然神尾が言い出した言葉の意味が、跡部にはまるで判らなかった。
 無言でいる跡部に神尾は尚も必死だ。
「増やして読むとさ、し、なんだけど、減らして読むと、よん、じゃん」
「……ああ?」
「な、不思議だろ?」
「…………お前の頭の中がな」
「へ?」
 跡部はゆらりと頭を持ち上げる。
 上げた視線で剣呑と神尾を見据えると、神尾がぱちりと音でもしそうに瞬きした。
「…跡部?」
「てめえは、そんなくだらねえこと考えてやがんのか…!」
 キスのさなかにと跡部が怒鳴ると、神尾は一気に赤くなった。
 あ、とか、う、とか、声にならない形で唇が動いている。
 どうして今更これくらいでそこまで赤くなれるのか。
 跡部には理解不能だ。
「だ…、…跡部が、…!」
 あまつさえここで人のせいにされる筋合いもない。
「俺が何だ」
 憮然と跡部は促した。
 明晰な頭脳を持つ跡部でも、神尾の考えそうな事というのは案外予想がつかない。
 そんなくだらない事に気をとられるようなキスをした覚えもないがと跡部は不機嫌に神尾を睨みつけた。
「俺が、何だ」
 言葉を区切って睨みつけてやると、神尾はちょっと涙目になった。
 普段から仮に跡部が怒鳴ろうが不機嫌になろうがまるで怯まない神尾だ。
 その涙目は羞恥からきているものらしかった。
「俺、もう帰るって、四回目、だぞ。言ったの」
「………ああ?」
 跡部は怪訝に眉をひそめた。
 案の定神尾が更に訳の判らない事を言い出したのだ。
「四回も、もう帰るって、言ってんのに」
「………………」
「お前、そのたんび、…キス、とか…するし…!」
「……とかって何だ。それ言うなら、しか、だろうが」
 キスしかしてねえだろと毒づくと、神尾は拳を握って、その手の甲を口元に押し当ててますます赤く茹だった。
「だ…っ、…から! あと、十秒…だけって、そしたら、今度こそ帰るんだって、数えてたら、…そしたら、よんが、あれ?って…!」
「神尾。…お前な」
「そしたら、四がさ…!」
 四が!と叫ぶ神尾に跡部は頭を抱えたくなった。
 数々の事実にだ。
「………………」
 四回も阻止したのか自分はと、無意識の己の行動を突きつけられ。
 神尾はそんな赤い顔をして、そういえばキスを抗う素振りはなく、どうやらやめなければならないキスをとめられなくて、小さなタイムリミットでずるずると先延ばしにしていたと。
 そう神尾は言っているらしい。
 四が!と相変わらず色気も何もない言葉を叫ぶ神尾の姿に煽られる自分もどうかしていると跡部は思いながらも。
 神尾の両手首をソファに押さえつけた。
「……跡…、…部…?」
「………帰るって、十回言えたら、帰してやる」
 あと六回な、と吐息程度に囁いて跡部は神尾の唇を塞ぐ。
 神尾の手首に力をかけて、咄嗟に少しだけもがいた神尾の動きを遮った。
 ひとしきり貪って、小さな喉声が幾分苦しげになったので僅かに唇をずらしてやると、濡れたような呼気を吐き出して神尾が跡部を涙目で睨む。
「言…え…ね、じゃん……っ…、なんにも、これじゃ」
 赤い顔で抗議してくる神尾の顔を、跡部は満足気に眺め下ろして、濡れた唇を啄ばんでからまた舌を挿入させる。
「んん、…、……っ…」
「言えなきゃこのまんまだからな。お前」
「…っ……門限…、あん…だよ…」
 知ってて何で意地悪ばっかするんだよと切れ切れに神尾に叫ばれて、跡部は楽しくて仕方がなかった。
 そこまで話せるならば、さっさとあと六回。
 帰ると言えばいいものを。
 そう思うと楽しくて仕方がなかったのだ。



 十回に。
 到達しないと帰れない神尾は「し」と読むだろう回数を、跡部は心のうちで「よん」と読むのだ。
 逆からのカウントダウンは、ラスト一回をおそらくひどく名残惜しく思うからだ。
 跡部は口が悪い。
 上品で綺麗な顔をしているのに、ちょっとびっくりするくらい口が悪い。
 神尾相手だと取り分けにだ。
「今年は雪がいっぱい降るよなあ」
「何浮かれてんだお前。見苦しい」
 言葉と一緒に冷たい目線も向けられる。
 最初のうちは神尾もいちいち腹をたてたり傷ついたりしていたが近頃ではすっかり慣れた。
「何で今年って、いっつも週末に雪降るんだろうな?」
「知るか」
 面倒くさそうに言い放つ跡部は彼の机で紙の束を捲っている。
 生徒会か部活絡みの事なのだろう。
 ものすごいスピードで紙面に目を滑らせ、捲っている。
「雪積もってさー、まだ誰も足跡つけてないとこ一番乗りするの好きなんだ。俺」
「ガキ」
「そういうの気持ちいいじゃん? 雪もまだ真っ白で綺麗だし」
 跡部の家の紅茶は綺麗な色をしていて香りもいい。
 カップの縁に口をつけ、飲んだ後に、ほっと息をつきたくなる紅茶だ。
 そういえばこのカップも、以前に高そうで割っちゃったら怖いからそれがちょっと嫌だと言ったら、てめえしか使わねえよと跡部に吐き捨てられた代物だ。
 割りたきゃ割れと言った口で、その時はそれ相応の躾もさせてもらうがなと睨まれたりもした。
「学校はさー、すぐ踏み荒らされちまうんだよな。近所の公園とかもそう。俺、ここんとこ一番乗り出来てないんだよなー。つまんねーなー」
「お前のスピードレベルじゃその程度だろ」
「五十mなら俺絶対跡部より早いぜ!」
「頭も身体も、中身が空だからな。お前は」
「むかつく…!」
 神尾が声を荒げて跡部を睨みつけると、跡部は凄まじく不機嫌な顔で、神尾に詰め寄ってきていた。
「こっちの台詞だ。いい加減黙れ。うるせえ」
 ぐいっと手首を引っ張られて、神尾は床に組み敷かれた。
 乱暴だったのに、少しも痛くない。
 背中にはふわふわのラグがあるからだ。
 普通に布団に寝ているみたいに快適だ。
「………………」
「いつまでも、お前の中身のない話につき合わされてる俺の身にもなってみろ」
「……な、っ……ほんと跡部ってむかつく…!」
 いい加減慣れたとさっきは思った神尾だったが、やはりなかなかそこまではまだ達観できない。
 ムッとして跡部を睨みあげると、だいたい神尾を呼んでおきながら放っておいたのは跡部のくせにと反発心が擡げてくる。
 跡部は冷めた目で神尾を見下ろしながら、神尾の服に手をかけた。
 無造作に服を脱がされていく。
 神尾は一気に赤くなった。
 それを見て跡部が唇の端を引き上げる。
「永遠処女か。お前は」
「しょ、……っ……」
 ギャーッと叫びたくなるのを必死で堪える神尾を見下ろし跡部は肩を震わせて笑い出す。
 声には出さないけれど、笑いながら身体を探ってくる跡部は本当に最低だと神尾は内心で喚きまくった。
 言葉にしてもよかったが、うっかり変な声が出てきそうになっているからそれもちょっと怖い。
「うちの庭なんざ、雪が積もった後に足跡ついた事ねえよ」
「……え…?…、……」
 鎖骨の窪みを舐められながらだったので、神尾は小さく震えながら跡部の言葉を聞き返し、なんとなく跡部の言う言葉を理解した。
 跡部の家は広い。
 庭も広い。
 神尾を馬鹿にするだけあって、雪が降っても跡部がこの家の庭で遊ぶなんて事はまずしないだろう。
「いー……な…ー…」
 思わず口から出た呟きを跡部がきつい目を向けて聞き返してくる。
「ああ?」
「そっか……まっさらなんだ……雪、降っても…跡部のとこ…って…」
 それも、いつも。
 勿体無い、と思った神尾に跡部が徐に言った。
「来たきゃ来ればいいだろう」
「跡部?」
「そんなに雪で遊びたいなら、頭の悪い野良猫の一匹くらい情けで遊ばせてやる」
「俺のことかよそれ…!」
「自覚あるだけお前も少しは脳味噌あるんだな」
「跡部ー!」
 神尾が叫んだ言葉を、跡部の唇が塞いできた。
 何か、すごいキスで塞いできた。
 神尾の顔は真っ赤になって、頭の中は真っ白になった。



 そういえばそんな話をしたなと神尾が思い出したのは、それから数日後の週末。
 今日は朝練もないしと、気持ちのいい惰眠をむさぼっていた日曜日の午前中、神尾の携帯が鳴り出したのだ。
 眠いまま手探りで通話ボタンを押し、ベッドの中で携帯に耳を当てれば、そこから神尾に聞こえてきたものは、世の中を氷の世界にしてしまいそうなほど不機嫌極まりない跡部の声だった。
 寝ぼけ眼の神尾には、どうして雪が降った後に寝ている事をそこまで跡部に罵られなければならないのかさっぱり判らなかったが。
 言われて知った窓の外の銀世界、それから足跡ひとつついていないという跡部の家の庭の話に、数日前の出来事を思い出してベッドから飛び起きた。
「今から行く!」
「もう来るな」
「えー、いいじゃんかよ! 行く」
 来るなとうんざりとした口調で言いながら、跡部は最後には、野良猫の一匹くらい目を瞑ってやるとか、野良猫らしく裏門から入って来いとか言って、電話をきった。
 神尾は即座に身支度を整えて、シザーバッグに携帯や財布などを適当に入れてベルトに引っ掛け、家を出た。
 ところどころ雪かきの済んでいる歩道を走って跡部の家へと向かった。
 夜じゅう降ったのだろう。
 雪は結構積もっていて、晴天の日差しを受けてキラキラしている。
 跡部は神尾を野良猫扱いで、裏門から入って来いと言っていた。
 幾分不貞腐れながら、神尾は跡部の家の裏口に回ると、門扉の所に跡部が立っていた。
「跡部!」
 おはようと神尾は言ったのに跡部は返事もしないで顎で神尾を中へと促した。
「朝っぱから、ほんっとえらそう。跡部って」
「えらいんだよ。学習能力が、本当にねえな。お前は」
 鷹揚に言った跡部の横を膨れてすり抜けて、神尾は敷地に足を踏み入れる。
 神尾の表情は一気に笑顔になった。
 本当に、何のあともついていない一面の雪景色だ。
 人の足跡も、車の通った後も、雪かきの後もない。
 さくさくと、神尾が踏みしめた足跡だけがつく。
「すっげーきれー!」
 何の木かは知らないが、複雑で繊細な枝ぶりの上にも雪は積もって、日の光を受けて反射している。
 ベンチも、外灯も、眩しい白い雪で覆われている。
 一歩一歩足に感じる真新しい雪の感触。
 見渡す先はなだらかな雪景色で、振り返る先は自らの歩いた後だけだ。
 神尾は思う存分歩き回り、時に走り、結構置くまで進んでから、ばふっと雪に倒れこんだ。
 転がりまわる。
「これやってみたかったんだよなー」
 積もった新しい雪と、広いスペースがなければ、そうは出来ない。
 ひとしきり、寧ろ思う存分、神尾は降り積もった雪を堪能した。
 大の字になって青空を見上げて、雪に埋もれる。
 そのまま伸びをするように仰ぎ見た視界に、神尾は腕を組んで立っている跡部の姿を映して、どきりとした。
「………………」
 てっきり家の中に入っているのだとばかり神尾は思っていた。
 跡部は神尾と違って雪ではしゃいだりはしないだろうし、ただ立っている事もしないだろう。
 だからおそらく家の中に戻って、温かい紅茶でも飲んで自分のしたい事をしているのだろうと神尾は思っていた。
 しかし跡部はずっとその場に立っていたようだ。
 いったい何をしているんだろうかと考えて、神尾はちょっと思い当たった出来事に、どぎまぎした。
 まさか、とは思うけれど。
 まさかただ見ていたのだろうか。
 跡部は、神尾を。
「………………」
 こうやって雪に寝転んでいると、さすがに少しずつ身体が冷たくなってきて。
 まだ幾分名残惜しいと思いながらも神尾は起き上がった。
 全身雪まみれになっている。
 神尾は両手足の雪を軽く払って、再び周辺を歩き回った。
 踏んでない所がなくなるまで。
 実際はそんな事は到底無理なくらい広い敷地内で、神尾が延々歩き回っている間、時折神尾が伺い見た跡部は、黙って神尾を見ているようだった。
「……跡部って」
 わかんね、と神尾は小さく口にする。
 辛辣で、意地悪で、神尾の事を馬鹿にしてばかりで。
 でも。
 それでいて、神尾の言う言葉を無視したりしない。
 いつも、どんな事だって受け止めて返事をくれる。
 からっかたり、呆れたりしているくせに、神尾が言ったことを絶対に忘れない。
「雪も…覚えてたんだ…跡部」
 何だか妙にくすぐったい気分だった。
 神尾は跡部に背を向けてその場にしゃがみこんだ。
「…………変な奴だよな、跡部って」
 ぽつんと呟いて、神尾は赤くなっているであろう両頬を自分の手でぺちんと叩いた。
 何で自分は赤くなってるんだろう、こんなに。
「………………」
 神尾は膝を抱え込むようにしゃがみ、俯いて。
 暫く考えてから、腰のシザーバッグを開けた。
 確か入っていた筈、と内蔵のチャックを引く。
 そしてそこからマジックを取り出し、庭の植え込みに手を伸ばし、寒椿の葉を一枚失敬する。
 つやつやとした葉にマジックで文字を書き、それを手元の雪で包んで丸める。
 そしてもうひとつ、もう少し小さめの雪玉をつくり、重ねれば。
 両手でそっとつつむように持つ程度の大きさの雪だるまができあがる。
「………………」
 神尾はそれを持って跡部の元へと向かった。
 雪を踏み鳴らす。
 近づいていく。
「跡部」
 コートは雪まみれ、髪の先から僅かに水滴を零す神尾を見て、跡部は呆れたと言う様に溜息をついた。
 跡部のそんな表情は、神尾が手渡したものを見て更にあからさまになる。
「ガキだガキだと思っちゃいたけどここまでかよ」
「やる」
「ああ?」
 神尾は、自分が作った雪だるまを、跡部に突きつけた。
 伸ばした両手の手のひらの上、ちょこんと乗っている小さな雪だるまは顔も手もない。
「捨ててもいいよ!」
 神尾は強引に跡部の手に雪だるまを押し付けて跡部に手を振った。
「今日は帰る。ありがとな、跡部」
 ああ?と眉根を寄せた跡部の顔が不機嫌なわけは、押し付けられた雪だるまのせいか、心行くまで一人遊びつくしてさっさと帰る神尾のせいか。
 全く関係ないかもしれないし、その両方のせいかもしれない。
 神尾は跡部を追い越し、走り出してから。
 もう一度跡部を振り返って手を振った。
 勿論跡部が手を振り返す筈がない。
 ただ、とりあえず。
 その時はまだ、跡部の手の上に雪だるまは乗っていた。



 椿の葉に神尾が書いた小さな文字、短い言葉。
『また来たい』
 さながらタイムカプセルでも埋めたような気持ちで。
 雪だるまに閉じ込めた神尾の率直な感情は、でも誰の目に触れることもないだろう。
 それでいいと神尾は思う。
 跡部に気づかれない、自分の本音はささやかだけれども心の底からあのとき思った感情だ。
 跡部の手に、小さな雪だるま。
 そのミスマッチを思い浮かべて、神尾は少し笑ってしまった。
 全然似合わない、違和感のありすぎる組み合わせだが、とりあえず神尾の目の前では神尾がつくった雪だるまを捨てなかった跡部は。
 すごく辛辣だったり、冷たかったりするけど。
 とても素っ気無かったりするけれど。
 そうでいながら優しい所もあるのだ。
 すごく。
 とても。


 翌週の週末も、
神尾はまた、先週同様跡部に電話で厳しく怒鳴られ目覚めた。
 だから今日は一週間に一度の朝寝坊が出来る日で。
 それをしかもどうしてまた怒鳴られて目覚めなければならないのかと神尾は不可思議に思いながら、跡部に呼びつけられ、逆らえず、慣れた道を走っている。
 自分で行っておいて何まだ寝てやがるんだとかなんとか。
 跡部は言っていた。
 今日は別段約束もしていないし。
 雪だって一昨日までは降っていたけれど、昨日からは晴天だ。
 訳が判らないまま辿り着いた跡部の家で、神尾は、信じられないものを見た。
 神尾が椿の葉に書いた手紙。
 それが、跡部の部屋から直結のバルコニーの手すりの上にあったのだ。
 雪だるまは、何故か跡部の部屋の中、机に座った位置からよく見える位置にいたらしい。
 あの日からずっと、いたらしい。
 寒いと、痛いところが増える。
 ぎゅうっと眉根を寄せて唇を歪ませる神尾に、跡部は容赦ない。
「肉を食え。ビタミンを取れ。馬鹿の一つ覚えじゃあるまいし野菜ばっか食ってりゃいいわけねえだろうが」
 何なんだこれは、と言い放った跡部に、神尾は乱暴に手を引かれた。
 跡部の眼下に晒された神尾の指先は、ささくれが悪化して爪の際にところどころ血が滲んでいる。
 関節の上の皮膚は横一文字にうっすらと切れている。
 神尾自身、何というか、荒れた手だなあとは思っているのだ。
 跡部の手から自身のその荒れた手を取り替えそうとするのだが、跡部の指は神尾の手首に食い込んで外れない。
「寒いとさぁ…なんか、こうなんだよぅ…」
 今年はやけに酷い気もするけれど。
 膨れた神尾に、跡部は視線をきつくしてくる。
「手は濡れたら拭け。放っておくな。何なんだこれは」
 跡部は再び同じ言葉を毒づいて、神尾の手首を掴んだまま、ぐいぐいと神尾を引きずって歩き出した。
 玄関のポーチから跡部の部屋へと強引に引っ張られていきながら、神尾は頭ごなしの物言いだとか振る舞いだとかに対して、跡部に文句を言おうとした。
 言おうとしたのだが。
 案外に跡部に気遣われているのが判ってしまって、どうにも面映く、悪態もつき辛くなってしまった。
 神尾の荒れたり切れたりしている皮膚には触れないように。
 跡部がしているのが判ったからだ。
「…跡部?」
 跡部の部屋に連れこまれると、神尾はソファに座るよう仕草で促された。
 部屋と扉続きになっている専用の浴室へと一度姿を消した跡部は、暫くすると、歯医者にありそうな、それでいて比もなく高価そうなスタンド式の陶器の洗面ボウルを引いてきた。
 湯気がたっている。
 キャスターのついた洗面ボウルのスタンドは、神尾の前で止まった。
 跡部は肘から九十度に曲げた左手に、ふんわりとした白地に金の刺繍がされているタオルをかけていて、無造作に両腕のシャツの袖口をまくった。
「貸せ」
「……は?」
「は?じゃねえ。手だよ。貸せ」
 顎を持ち上げて、神尾を見下ろしてくる尊大な眼差しに。
 神尾はつくづく、跡部だなあと思ってしまう。
 でも時々、態度と言葉と行動が、噛み合わなくなるのもまた跡部だ。
 手?と首を傾げて神尾は跡部の目を見上げる。
 冴え冴えとした目元には、いっそ億劫な気配を漂わせていて。
 けれど跡部の所作は甲斐甲斐しかった。
 跡部は右手で、どこから出したのかロイヤルブルーの小さな小瓶のキャップを開けて、洗面ボウルに数滴その中身を垂らした。
 跡部の手に上着の袖をまくられながら、神尾は思わずボウルの中を覗き込んで深く息を吸った。
「なんか、すごく、いー…においするなぁ…」
 何それ?と神尾が好奇心で尋ねても、跡部の返事はなかった。
「………、っ…、わ」
 軽く湯をかきまぜてから、跡部の手は強引に神尾のそれぞれの両手首を掴み、香りのする湯の中に沈めてきた。
 ピリッとした感触は、少し熱めの湯のせいか、塞がっている切り傷に滲みたせいか。
 小さく首を竦めた神尾の様子を見ながら、跡部の手のひらが神尾の手首をくるんだ所から指先に向けてゆっくりと滑っていく。
 湯の中で、手首から小指の先。
 薬指の先、中指の先、人差し指の先、親指の先。
 指を、一本ずつ、ひどく丁寧に包んで、適度な指圧が加えられる。
 それから跡部の親指の腹が、ゆっくりと。
 神尾の手の甲をマッサージするように辿った。
 うっかりうっとりと心地よく、神尾は揺らぐ湯の中で跡部の手に撫でられている自身の両手をぼうっと見据えた。
「…滲みんのか?」
「え? ううん。全然」
 ちらりと跡部が視線を向けてきたので、神尾は大慌てで首を左右に振った。
 不遜な目つきとは裏腹に、跡部の手はどうしようもなく丁寧だった。
「………………」
 手、とける。
 迂闊に神尾はそんな事を思ったくらいにだ。
「何で涙目なんだよ」
「………ぇ…?」
 聞いておきながら、結局跡部には全部判っているに違いなかった。
 薄い唇の端が、僅かに卑猥に持ち上がった。
 神尾は、じわっと熱を帯びた顔を自覚しながらも、そのまま黙って跡部を睨みつける。
 こういう顔をする時の跡部に怯んだら負けだ。
 怯んだり狼狽したりしてみせたら、跡部はここぞとばかりに神尾が全く太刀打ちできないやり方をとってくる。
 だから気丈に。
 神尾は懸命に跡部を見据えたのだが、跡部の笑みはゆっくりと深くなっていって。
 笑ったままの形の唇が、いきなり神尾の眦に押し付けられてきた。
 思わず神尾が首を竦めると、跡部ははっきりと声にして笑って、神尾の両手を湯から引き出し即座にタオルで包みこんだ。
 ふかふかとしたタオル越しに、神尾の濡れた手は跡部によって拭かれていく。
 ほかほかと指先まで温かくて、神尾は跡部の成すがままだ。
 じっと跡部を見上げている神尾に、跡部は二度ほどその体勢のまま屈み込んできて、唇に浅く口付けてきた。
 右に傾いたキスと、左に傾いたキスと。
 そして、跡部は丁重に神尾の手を拭ってから、神尾の隣に腰を下ろした。
 ソファに肩を並べて座る。
 肩先が触れ合う距離には、むしろほっとして。
 神尾は跡部によって、温められほぐされた自分の手をそっと見下ろした。
「終わりじゃねえよ」
「は?」
 馬鹿、と再び手首を握りこまれ、神尾は戸惑った。
 二度目のキスが、あまりに。
 微かだったけれど、長くて。
 うまく頭が働かない。
 開放されて、ぼんやりしてしまった神尾に、跡部は洗面ボウルを載せたアイアン台の下のほうの棚板から、銀色のチューブを手に取った。
 それを一度自身の手のひらに出してから、両手を使って神尾の手に片方ずつ刷り込んでいく。
 濃厚な質感だったクリームは、すぐに水のようにさらさらとやわらかくなって肌に浸透していく。
 手のひらを合わせたり、指を絡めたり。
 爪をなぞり、骨と骨の間をたどる。
 それはひどく心地よかったのだけれど。
「………………」
 一瞬、ちくりと神尾の胸が痛む。
 跡部は慣れた手つきで、神尾が初めて感じる事をしてくるから。
 以前は他の誰かにも。
 跡部がしたことなのかなと思うと、痛かったのだけれど。
「うちの奴らが見たら間違いなく腰抜かす」
「……跡部?」
「この俺様にこんな真似させる身の程知らずはてめえくらいだ」
 全く、と毒づきながら。
 怜悧な目を細めるようにして神尾の手を見下ろしながら。
 跡部の手つきはあくまでも優しかった。
「………………」
 クリームを塗り込められているのか、ただ手と手を絡めているのか。
 神尾には次第に判らなくなってきた。
 されるに任せて神尾は跡部の顔や絡む互いの手を見ていると、啄ばむように途中幾度かキスを盗まれた。
「お前、手だけどうしてこんなに乾燥してやがんだよ」
「…………手…?」
「他はこんなでよ」
 ふ、と跡部の笑み交じりの呼気が神尾の唇に当たる。
 また少し長く唇を塞がれていた後のことだ。
 他とか、こんなとか、意味する箇所の状況を示唆されて。
 至近距離での微笑が艶めいていて。
 神尾はくたくたと跡部の胸元に顔を伏せていってしまう。
 跡部は機嫌良さ気に笑い声をたてて神尾の背中を抱きこんできた。
「おい」
「……な…に…?」
「大事にしてやるから、めちゃくちゃにさせろ」
「………なんだよそれ…」
 神尾は赤くなりながらも、噴き出してしまった。
 どういう言い草だよと思って笑っていると、跡部の身体がのしかかってきて、ソファに組み敷かれた。
 跡部を見上げる。
 やさしい花の匂いがする。
 ゆっくりと、深く、唇を塞がれた。
 神尾の両手は無意識のうちに跡部の首の裏側に絡んでいた。
 確か、手だけがとても温かかったのに。
 いつの間にかその熱は全身の、外にも内にも侵食してきている。
 温かなキスが止んでも。
 その熱が鎮まる事はなかった。
 その熱は高まるばかりだった。
 ありえない。
 それは当事者も、部外者も、思っていること。
 ありえない。
 誰もがその光景に目を留めて、一度は咄嗟にそこから顔を背けてしまってから。
 恐る恐る、事実を確かめるべく、視線を引き戻してしまうような。
 そんな光景が駅のホームのベンチを中心にして繰り広げられている。
 惑う人々の視線の先では、氷帝学園の派手な制服を着た派手な顔の男が、足を広げてベンチに座っている。
 肘から曲げた両腕を背もたれに乗せて、秀麗な目元を一見不機嫌そうに鋭くさせている。
 色素の薄い髪や瞳は、儚さよりも鋭利さを際立たせ、そんな彼の上質の生地と裁縫で仕立てられた制服にくるまれた腿の上。
 小さな丸い頭が乗っている。
 そちらは学ランに包まれている細い四肢だ。
 くったりとなっている。
 王様のような男に膝枕をしてもらい朽ち果てている青白い顔の男、それが神尾だ。 
 ベンチに横柄に、同時に優雅に、寄りかかって座り、細めた視線で己の膝の上の物体を容赦なく見据え、低くなめらかな声を浴びせかけている男、それが跡部だ。
「虚弱児」
「…………ぅー…」
 神尾の呻き声に跡部は唇を歪めて笑った。
「てめえが普段山のように食ってやがるのは、実際は何だったんだ。何の餌だ。そのへんの雑草か」
「ほーれんそう…だよう……」
「あれだけの量のほうれん草食ってて貧血なんざおこすか。馬鹿野郎」
「………貧血…じゃ、ねー、もん」
「ふざけんな。顔色ねえじゃねえか」
 跡部は言って、神尾の黒髪をぞんざいに弄りながら、その指先を頬や額にまで滑らせる。
 冷たい肌しやがってと跡部が指先に感じたままを告げてくると、神尾が肩をすぼめるようにして、一層丸くなる。
 跡部の膝の上で。
「…………のりものよい、だもんよぅ…」
 耳をすまさなければ聞こえない程の小声に、跡部は皮肉気に唇の端を引き上げた。
「混んでる電車に乗れるのか、ほんとに大丈夫なのかって、俺様にえらそうにほざいてた奴が、結局乗り物酔いねえ?」
 うぅ、と神尾は再三呻いた。
 跡部の言葉は次々と容赦ない。
 ただ、言っている事は辛辣そうでいて、実際のところは。
 跡部はどことなく、むしろ機嫌が良い。
 腹をたてた跡部は喋らなくなる。
 不機嫌な跡部は表情すら動かさない。
 それを知っている神尾からすると、今の跡部は機嫌が良いと判るのだ。
 今日の放課後、跡部から神尾に電話がきた。
 今どこにいて何をしているのかを聞かれた神尾が、グリップテープを買いに数駅離れた駅まで出ると告げると、どういう気まぐれか跡部も行くと言い出した。
 気まぐれというのは、神尾に付き合うことではなく、跡部が電車に乗るということだ。
 神尾は驚いた。
 何せ跡部の交通手段といったら、普通なら、自家の運転手つきの送迎車のみだ。
 そんな跡部が、神尾と共に電車に乗ると言う。
 驚いてから、神尾は疑わしく心配をした。
 曰く、本当に大丈夫なのかと。
 その沿線は学校が多いので、学生を中心に電車はほぼ毎日混みあっている。
 駅前で待ち合わせて、顔を合わせてから何度も何度も、大丈夫なのかと神尾は繰り返した。
 跡部は判りやすく憮然としていたが、実際車内の混雑を目にした時は、うんざりと嘆息していたのを神尾もしっかりと見ていた。
 そんな風にして二人で乗り込んだ電車。
 数駅の距離を行き、下車して目的地の駅につくなり、よろよろとホームのベンチに倒れこんだのは何故か神尾だった。
 神尾驚いたが、跡部も珍しく呆けた顔で暫し神尾を見下ろし、その後はもう。
 跡部は容赦なく神尾に雑言を放り、ベンチに踏ん反り返って、そして膝上に神尾の頭を乗せていた。
「跡部…ぇ……なんか、ちゅうもくが…、痛いんだけど…」
「アア?」
「……視線が…ちくちくする……」
「は、…この程度が気になるとはな。お前、普段どれだけ人に注目された経験がねえんだよ」
「……跡部と一緒にすんなよなぁ…」
 跡部の左の手のひらは、ずっと、神尾の頭に乗せられている。
 指先が髪をすいたり頬を撫でたり耳をいじったりする。
 ベンチに横柄に寄りかかっている姿や、怜悧で綺麗な顔や、皮肉気でよどみない言葉の羅列。
 そんな跡部に惹きつけられている視線や感情は、偶然間近で一緒に感じている神尾からしてみると、強すぎて落ち着かない。
 こういう注目に慣れているあたりが跡部は普通じゃないと思うのだ。
「言っておくがな、神尾」
「………ぇ?」
「今この状況が、世の中の注目を浴びてるっていうならな。お前も原因担ってるってことだからな」
「…………んなこと言ったって…よぅ…」
 まだ気持ち悪い。
 頭の中がぐるぐる回っていて、呼吸がどうしても浅くなる。
 目の前の暗さや、チカチカと点滅した視野はどうにか収まったものの、なかなか起き上がれないのだ。
 確かに、これでは。
 跡部の心配ばかりしていて自分がこれでは。
 情けないこと極まりないと神尾も思っているのだが。
 実際問題、乗り物酔いをして、人酔いをして、神尾は未だ跡部の腿を枕にしている状態だ。
「息苦しいの、だめなんだよう……閉じ込められんのとか…さぁ…」
 跡部とは違う理由だが、神尾にしたって、満員電車や人ごみはあまり得意ではない。
 風が感じられないからだ。
 自分の足で走れないからだ。
 息苦しさや閉塞感には、すぐに我慢が出来なくなる。
「よく言うぜ…」
 吐き捨てられて神尾は怪訝に跡部の名前を呼んだ。
「………跡部…?」
「四六時中されてんだろうが」
「……は…?」
 俺にだよ、と跡部が更に言った気がして。
 神尾はのろのろと目線を上げた。
 四六時中、跡部にされていること。
 自分が息苦しくなるくらい。
 自分の事を、跡部が閉じ込めているという事なのだろうか。
 神尾は跡部にいわれた言葉を不思議に思い、考える。
 だって跡部は、そんなことしない。
 四六時中とか、閉じ込めるとか、ありえないだろう。
 それこそ。
「俺は……跡部は……いっつも、よゆうだなーって。思うぜ」
「てめえは頭いかれてるからな」
 判んねえんだろうよ、と跡部は尚も言う。
 いっそ辛辣に。
 少しも腹はたたなかったが、神尾にはさっぱり意味が判らなかった。
 跡部の左手がおもむろに神尾の髪をぐしゃぐしゃにする。
「ちょ、……」
「お前なんざな、神尾」
「………跡部……?…」
「少しでも目離せば、その隙に他所事に気をとられてるわ、学習はしねえわ、気づけばどっかにすっ飛んで行ってて姿は見えねえわ」
「…跡部ぇ…?」
「てめえの逃げ足の速さにだけは、こっちも相当必死でいるんだよ」
 そうやって、跡部はどんどん変なことを言う。
 おかしなことばかり言う。
 変だろ、それ。
 だから神尾は思った。
 だからふらふらする中、首を捻って、真上にいる跡部の目を、じっと見上げた。
「な、……跡部、」
 まだひたすらに言い募ろうとしている跡部を強引に止める。
 跡部が眉根を寄せた顔と見上げる。
「何だ」
 そして問う。
「俺…逃げたことあるか?」
「………………」
「跡部から、逃げたこと…あるか?」
「…ねえよ」
 そうだよ。
 ないよ。
 そんなこと、したことない。
 そんなこと、跡部だって判っているのに、だったら何でだ、と神尾は跡部を睨んだ。
「………………」
 跡部は神尾があまり見慣れない表情をしていた。
 いつもと変わりないようのしてみせることに、失敗したかのような。
 神尾の知らない顔をしていた。
 どこか、少しだけ、頼りないような。
 そんな事を思ってしまって、神尾は。
 う、と息を詰めた。
 たちどころに、狼狽と腹立ちとが混ざってきて、神尾は出来得る限りで語気荒く言った。
「ないだろ。……ないじゃんかよ!」
「ねえよ」
「じゃ、変なこと言うなよな……!」
 ないと跡部は言っているのに。
 それなのに、跡部は。
 何故か、からかうでもなく、あしらうでもなく、神尾を強く見下ろしたまま真面目な顔で言い切った。
 懇願か、命令か。
 神尾の思いもしなかった言葉。
「これまではない。だから、これからも逃げるな」
「………………」
「判ったのか。神尾」
 いつもみたいに、意地悪く笑うとか。
 有無を言わせない横暴な言い方をするとか。
 すれば、まだ、いいのに。
 神尾は驚いた。
 しみじみと。
「………逃げねえよ」
「………………」
「……なんだよ。なんなんだよ……跡部って……跡部って、」
 ばかだったんだなあ、と。
 考えるより先に神尾の口から零れてしまった。
 さすがに跡部は目を細めて剣呑と神尾を睨んできたけれど。
「アア? てめえ、今何言った」
「……ばか跡部」
 けれども神尾はお構いなしに、信じらんねー、と跡部の膝の上で目を瞑る。
 凄む跡部に呆気にとられながら、具合が悪いのに託けて。
 実際は、こんな場所で甘えたりしがみついたり出来るわけがないから、気持ちだけでそうして、跡部の膝の上で、顔を伏せる、目を閉じる、肩を窄ませる。
 跡部の手が神尾の頭を撫でた。
 親指が伸ばされてきて、神尾の唇を、キスするように掠った。
「………よけい、くらくら、してきた…、」
 本当に、横になっているのに、ぐらりと世界がまわる。
 唇の形だけ動かしたような神尾の呟きを、跡部は正確に拾い上げた。
 今度は、少し笑っていた。
「落ち着くまでこうしてりゃいいだろ」
「……落ち着かねえもん。全然」
 乗り物酔いの名残。
 人からの注目。
 跡部の手。
 落ち着かない。
 しかもその上、跡部がひどくドキドキさせるからだ。
「それならずっとこうしてればいい」
「…………すっごい見られてると思うんだけど…」
「見られる事の何が問題なのか俺にはさっぱり判らねえな」
 ばか跡部、と思わず呻いた神尾の唇を、跡部は親指の腹で、一際強く、擦った。
 きついキスくらい、強く。
 最近、夜暗くなるのが早いなあと思うようになった。
 季節が変わっていっているという事は判っている。
 でも、一日の時間は毎日二十四時間で同じ筈なのに。
 何だかこれでは一緒にいられる時間だけが短くなったような気がしてならない。
 神尾は窓辺に手をついて、日の暮れた空をぼんやり見上げて考えた。
 言いたくない言葉を言った後は気が重くなる。
 そろそろ帰ると告げた神尾に。
 ああ、と頷いた後、何かを考える顔をして。
 跡部は、ちょっと待てと言いおいて、この部屋、彼の自室を出ていった。
「神尾」
 戻ってきた跡部の手にはマフラーがあった。
 名前を呼ばれて振り返った神尾に、跡部はその手を軽く持ち上げて、顎も少し上げて、目を細めた。
「来いよ」
 貸してやる、結んでやる、と言った跡部は、神尾がすぐに反応しないのを見て取ると、顎で促してきた。
「可愛くしてやるよ」
 来い、と尊大に笑みを浮かべられて言われた言葉に神尾は堪らず赤くなった。
「…、可愛く、ってなんだよ…っ」
「マフラーのひとつやふたつで、てめえの顔が変わる訳もねえけどな」
 平然と言い捨てた跡部だったが、神尾の元まで近づいてくると、折り曲げた指の関節で神尾の首筋を軽く逆撫でした。
「………っ、…」
「そろそろ制服の上にもう一枚着てくるか、マフラー巻いてくるかして来い」
 ほっせぇ首、と呟いて。
 肩を竦め、目を細める跡部を。
 恨めしく上目に睨んだ神尾だったが、跡部はゆったりと唇の端を引き上げて癖のある笑みを浮かべて素知らぬ態度だ。
 あからさまに神尾をからかっているような、人をくった目をしているくせに。
 跡部の手つきは、丁寧だった。
 見るからに上質そうなマフラーを、ふわりと神尾の首に巻きつける。
 やわらかい。
 かるい。
 そしてあたたかい。
「………………」
 なめらかな手の動きでマフラーを神尾の首に二巻きし、喉の下辺りで所作のシンプルさには不似合いな程、凝った結びを手際よく作る。
 跡部の手つきを見下ろしていた神尾は、ふと跡部が屈みこんできたのに気づいて顔を上げた。
「………ぇ……」
 唇をやわらかく塞がれる。
 神尾は小さく息をのむ。
 濡れた微かな音。
 ゆっくりと跡部の唇は離れていった。
「………………」
 思わず後を追うように、神尾の目線も意識も跡部についていってしまいそうになった。
「………………」
「マフラーのあるなし関係ねえよ。お前は」
「……あ…と……べ…?」
「どうしたって可愛くてしょうがねえ」
 いきなり言われた。
 腹立つ、なんて憮然とした言葉も言われた。
 神尾は息が詰まってしまった。
 胸も詰まってしまった。
 この男は俺の事を殺す気だ。
 きっと。
 そんな事を思って固まった。
 ありえないだろ、可愛いとか、ありえないだろ。
「………何硬直してやがるんだ。てめえは」
「え、……」
 溜息を吐き出した跡部が、指先まで完璧に整っている手で神尾の片頬を包んだ。
 左の頬を跡部の片手に覆われながら、神尾はまた、跡部からの口付けを受ける。
 キスというのは唇でするのだな、という。
 当たり前の事を教え込まされるように、跡部は神尾の唇を繰り返し繰り返し塞いだ。
「…ぁ、……跡部…、…」
「………………」
「…、んっ……、…、っ…」
 軽く啄ばまれて、きつく塞がれて。
 微かに掠られて、ふかく奪われて。
 もう帰るのに、どうしてそんなにいろいろのキスをするのだと、神尾は自分の頬を支えている跡部の腕に指先を縋らせる。
 キスが漸く止まって初めて。
 神尾は、泣き言のように言った。
「も…、…マフラーいらない…」
「……ああ?」
 熱い、と涙目で跡部を睨みつけると。
 珍しく跡部が狼狽したような顔をした。
「そりゃ………まあ、よかったんじゃねえの? 帰り道寒くねえだろ」
 すぐに無理矢理、いつもの皮肉気な顔をしたけれど。
 あまり長くは持たなかったようで。
 負けてやる、と結局呻いて跡部は、覆いかぶさるようにして神尾を抱きしめてきた。
「………車を出させる」
「………………」
「もう少しいろ」
 そんなの。
 神尾は、嬉しいだけだ。
 ただ、嬉しいだけだ。
 ありえないだろ、嬉しいとか、ありえないだろ。
 跡部に抱きしめられながら、神尾は息も絶え絶えになって、そう思った。
 丁寧なキスがゆっくりと離れていく。
 神尾が目を閉じたまま小さく息をつこうとすると、不意打ちに跡部から再びのキスされて、思わず目を見開き至近距離から目線が合ってしまう。
「何が欲しい」
「……え……?…」
 一言の、前と後とに。
 跡部は尚も軽く神尾の唇を掠った。
 神尾には、跡部の声は、抑揚がないのに、甘い音に聞こえる。
「…なに…?」
「それは俺が聞いてる」
 きつい目を細めて、また端的に跡部は言った。
 冷たい表情と見る人は多いと思う。
 でも今の神尾にはそうは思えなくて、微かに笑んだ。
 その唇を跡部がまた塞ぐ。
 丁寧に。
「ン…、……」
「誕生日だろうが。何が欲しいんだ」
「……俺…の…?」
 お前以外に誰がいると不機嫌に首筋を食まれて神尾は跡部の後頭部を両手で抱きかかえるようにしながら笑った。
 少し不機嫌で、少し不本意で、少し焦れていて、少し拗ねているような跡部を抱き締めて、神尾はすぐに答える。
「いらない」
 何もいらない、と神尾がきっぱり言うと、跡部は神尾の両手首を手のひらに包んで壁に押し付けてきた。
 憮然と、そしてどこか困ったような顔をしている跡部が近づいてくる。
 丁寧なキスは、丁寧すぎてどんどん深くなる。
 舌を舌で弄られて、神尾は小さく喉声を漏らした。
 目を閉じても、神尾は跡部の事を考えている。
 跡部は神尾が何も欲しがらない時、いつもああいう顔をする。
 物でも、行動でも、望まれないと不安にでも駆られるのか、乱暴な困惑を露にしてくる。
 こういう時の跡部の不機嫌は、決して嫌ではなかった。
 痛む手首ときついキスとに撒かれながら、神尾は、どういう風に言ったらきちんと跡部に伝わるかな、と考える。
 止まないようなキスのさなかに何度も何度も考えた。
「…あと…べ……跡…、…部」
 聞いて、と念じてキスされながら神尾が跡部の名前を呼ぶと、舌がもつれるような小声でも跡部は正しく拾ってくれる。
 拘束の手首はそのままだったけれど、神尾は跡部を見上げて、濡れた唇に微かな笑みを浮かべた。
「新しくは、いらない」
「………………」
「誕生日…、…俺…新しいものは何もいらないから」
 とらないでくれたらいいよ、と神尾は小さく呟いた。
 何をだ、と跡部が顔を近づけてくるから、困ったけれど。
 とても、とても困ったけれど。
 赤くなる頬を自覚しながら、それでも。
 じっと跡部を見据えて言葉にする。
「跡部が……俺から、跡部を、とらないでくれたら…それだけでいい…よ…」
「お前……誰にそれ言ってんだ」
「……だから跡部に言ってんの」
 プレゼントはそういうのがいい、と。
 続けるや否や。
 神尾の羞恥心など慮る事などまるでしない跡部が神尾の唇を塞ぐ。
 身体を弄る。
「ぇ…、……ちょ…っ……、と、…跡部…?……跡部?」
「お前みたいな馬鹿、見たことねえ」
 苛立った鋭い語気で罵られて。
 甘ったるい抱擁とがっつくキスに縛られて。
 神尾は思う。


 くれるのか。
 くれないのか。
 跡部は、神尾が欲しいプレゼントを。


 どうしても神尾は聞いてみたい事なのに、どうしても跡部は言わせてくれないようだった。
 跡部の家の庭には噴水がある。
 西洋式の言わずもがなゴージャス極まりない代物だ。
 どこか美術館とか公園だとかにあってしかるべきだろうという、桁違いに大掛かりな噴水。
 日も暮れて、薄闇の中、神尾は跡部と共にそこににいる。
「うわ…」
 吹き上げる水力がいきなり強くなった。
 中央の水飛沫が、夜空に高く高く突き上げていく。
 神尾は見上げて、思わず声を上げた。
 それと同時に、すぐさま後ろ髪を掴まれもした。
 跡部に。
 乱暴に。
「……っ…、て…! 痛い、って、跡部…!」
 結構本気の力だ。
 横暴な仕草に神尾が抗議を口にしたのも束の間。
 跡部は低い声で吐き捨ててきた。
「なに余所見してやがる。神尾の分際で」
「あーっ、何だよその言い方!」
「うるせえ」
 綺麗な顔を露骨に不機嫌に歪ませて、跡部は神尾の髪を手に握りこんだまま、きつく神尾に口付けてきた。
 有無も言わせず。
 ただきつく。
 つよく、ふかく。
「…っ、…ぅ、」
 今し方。
 唇と唇が触れる寸前に、噴水に気をとられてしまったのは確かに神尾だったが。
 その事を咎める以上のやり方で卑猥に口付けられてしまって、神尾は身体から芯がなくなっていく不安定さで、跡部からのがっつくようなキスを受けとめる。
 跡部が怒る理由も判らなくはなかったが、でも。
 ここまで怒んなくてもいいじゃん、と神尾は思った。
 しかも、その濃密なキスに、もう充分追い詰められていたのに。
 更にあからさまに舌と舌とを絡められ、濡れた粘膜を啜られた時にはもう、神尾は涙目になっていた。
「……、…、ャ…」
 離れた唇から、濡れたものが零れる。
 喉まで伝っていく。
 跡部はその流れを追って、舌先を神尾の肌の上で動かした。
「……ふ……、…」
 神尾は軽く仰け反って、跡部の肩口のシャツを両手で握りこむ。
 跡部はすぐに戻ってきた。
「てめえが余所見なんざするからだ」
 辛辣に咎めた割には、跡部の手は不意に優しくなった。
 神尾の髪を掴み締めるのを止めて、神尾の後頭部をゆるく撫で付けてくるように動いた。
 強引に塞がれていた唇を、一度、やわらかく塞ぎなおした後。
 跡部の唇は、神尾の下唇と上唇を順に含んでくる。
 唇を啄ばまれて、結局神尾はくたくたと跡部の胸元に顔を埋めた。
 噴水の縁に腰掛けている自分達。
 こんなにも近くにある水の音が、とても遠くの方から聞こえてくるようだった。
「噴水……見ただけなのに…よぅ…」
 焚きつけられて。
 煽られて。
 どうしたらいいのだ。
 こんなで。
「………………」
 神尾の半泣きの抗議を、跡部はいかにも機嫌良さそうに聞いている。
「構いやしねえだろ」
 お前に欲しがらせんのは俺の趣味だ、と耳元でとんでもなくいやらしい声が告げてくる。
 神尾は真っ赤になって唸った。
「そういうこと言うなっ」
「ああ? 何が不満だ」
「…、言うなっ、ばかっ」
 神尾がどう怒鳴ろうとも、跡部は薄笑いで神尾の身体を手のひらで撫で、耳の縁に口付けて、頬を寄せてくる。
 全身で、手加減無く、そそのかしてくる跡部に。
 神尾は乱れてしまいそうな息を噛み殺しながら、跡部にしがみつき、抗議する。
「欲しがれよ。もっと」
「…っ、だ…から…そういうこと言うなってば!」 
「いいじゃねえか。俺が手に入るんなら」
「自分で言うかそういう事っ」
「てめえが一向に言わねえから俺が言ってやってんだよ」
 欲しがれ、と跡部は神尾に何度も告げる。
 今だけでなく、今までも幾度となく、そう告げてきた。
 足りない、足りない、とまるで訴えているかのように何度も。
 跡部がどうしてそうも貪欲に自分から引き出したがるのか、神尾には不思議でならなかったのだけれど。
「……俺が、跡部の事どう好きかなんて…全部知ってるくせによぅ…」
 言わせんなよなあと眉尻を下げる神尾を、跡部はしなやかな腕できつく抱き込んでくる。
「知らねえな」
「………………」
「俺は知らない」
 笑っているのに、熱っぽい声で。
 ぞんざいな言い方なのに、まるで切に祈るように。
 跡部は言うのだ。
「俺を欲しがれよ」
「……もっと…?」
「もっと。…ずっとな」
 どうしようもないようなキスで縛られる。
 夜の噴水の、淡い水飛沫が身体に当たる。
 降ってくるものを身に浴びて、抱き締めあって、外から濡れて、口付けあって、中からも濡れて。
 もっと、も。
 ずっと、も。
 叶えるよ、と神尾は思う。
 望む跡部の背中に回す手に力を込めると、何かにひどく枯渇している男が、やわらかに吐息したのが判って、神尾はほっとした。
 いつの間にか意識がなかったり、少しして目は開けたもののまだ寝てろって言われたり、何だかうとうととまどろんだ時間は随分長いように神尾は思っていたのだが、実際はたいした時間ではなかったようだ。
 ふ、と瞼を開けて。
 幾度目かの覚醒の時も、神尾の視界にいる跡部は変わらないままだった。
 横たわって向き合って、自分を見ている。
 ずっと、そうだ。
 そして神尾が目にする度に、跡部は同じ表情でいる。
「………ぁ…、…と…べ」
「………………」
 声が出づらくて、呼びかけてから神尾は咳払いをした。
 その振動で少しだけ身体が痛む。
 眉根を寄せて一瞬目を閉じた後、神尾は跡部をじっと見据えた。
 ぐったりうつぶせたまま顔だけ跡部の方を向いている神尾は重い腕を懸命に持ち上げる。
 跡部の髪の先に、指を寄せる。
「……のさ…ー……跡部ー……」
 跡部の髪は柔らかかった。
 さらりと神尾の指先から零れる。
 色素の薄さは角度によってきらきらと光って見える。
「おれ…さー……」
「………………」
「…テニスでも…べんきょーでも、すごいやったら、疲れるじゃん…?……それとおんなじだと思うんだけどよぅ……」
 だからさー、と神尾は力の入らない声で言った。
 だから、俺見てそういう風に落ち込まないでくんねーかなー、と呟いた。
 跡部の髪に触れながら。
 跡部は、いつもした後に神尾の事をじっと見つめてくる。
 神尾が眠っていようが、ぐったりしていようが、黙って見つめていてそこから離れない。
 その目が、跡部が、神尾にはどうも、した事を落ち込んでいるように見えてならないのだ。
「誰が落ち込むか」
 跡部は憮然と即答してくるけれど。
 神尾にはそう見えるのだ。
 本当はもっとちゃんと、自分が普段のようにしていれば。
 きっと跡部はこんな顔をしないんだろうなと神尾は思う。
 でも、跡部に抱かれるって相当とんでもない事なんだぜと、思わず当人に言いたくなるほどに、神尾の身体は跡部とすると卑猥な甘い熱で満たされる。
 終わった後から暫く動けなくなるのは、直接身体が受けた出来事が原因というより、余韻や記憶でも神尾を雁字搦めにする跡部のやり方のせいだ。
 そこのところ判ってんのかなあ、と神尾は生真面目に危惧して跡部の髪に触れていた指先で跡部の前髪をかきあげる。
「………ぁ…」
 その手が跡部の手に握りこまれ、強く引き寄せられた。
 横たわったまま、手繰りこまれる動きで抱き締められた。
「誰が落ち込むか。バカ」
 そうやって繰り返すから神尾は笑ってしまうのだ。
 そうやって拘るという事は、どうでもいい事ではないからだ。
 笑う形の神尾の唇を跡部はきついキスで塞いでくるけれど。
 のしかかってこられて、今度は神尾の前髪を跡部がかきあげてくる。
 執着するようなやみくもな手つきで何度も髪を撫でつけられる事が、ひどく神尾を安堵させた。
「………っ…ぁ…、」
 ずれた唇。
 神尾の視界にある跡部の唇は濡れていて、恐らく自分のそれも同じで。
 潤んだ気配が潜む口腔に、小さく神尾が喉を鳴らす。
「ん、……」
 すぐに塞がれて。
「………ぅ」
 探られて。
「…、っ……は、」
 開放と。
「く……、……ん」
 拘束と。
「………ぁ…と…、…べ…」
「………………」
「跡…、………跡部…、」
「呼ぶな」
「…跡部…、…」
「呼ぶなっつってんだろうが」
 荒い口調を紡ぐ唇。
 神尾の方から近づいていった。
 腕を伸ばす。
 首にしがみつく。
 神尾から跡部に口付けた後、跡部の首筋に神尾は顔を埋めた。
 耳元近くで呻き声がした。
 自分の名前だ、と神尾がそれに気づいた時には跡部の手のひらがすでに神尾の素肌を弄っていた。
「人の唆し方なんざ覚えんじゃねえよ」
「…、ァ……、…な…に…?」
「……んな事ばっかうまくなりやがって」
 ふざけんな、と悪態ごと唇にキスをぶつけられる。
 跡部の手で、的確な、濃すぎる愉悦をまた一から数えなおすように引き出されていきながら、神尾はぼんやりと、どうしてまたこの状況になっているのか不思議に思う。
 だって確か、すごく何度も、して。
 終わったんじゃなかったか。
「神尾」
 跡部が何を言って。
「………っ…ァ、」
 自分が何を言って。
 こうなっているのか。
 それを思い返そうとしても、そんな余裕など、もう欠片も与えられなかった。
 神尾は跡部の髪を握り締めて、口腔深くまで貪られるようなキスを受け止めるので、精一杯だったのだ。
 余裕のなさは不思議と跡部からも伝わってきていたので。
 神尾は安心しきって、濃い熱に撒かれた。
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