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How did you feel at your first kiss?
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 今時分はいろいろな花が咲く。
 梅が咲いて、椿が咲いて、桜が咲いて、躑躅が咲いて、薔薇の季節がやってくる。
 心の花は季節を問わない。
 人の心の移ろいやすさを喩えた言葉でもあり、人の心の美しさを喩えた言葉でもあり、その花は心の中に咲くらしい。
 移ろいやすいから美しいのか、美しいから移ろいやすいのか、どんな色で、どんな形で、咲いているのかも知れない心の花は、自分の中にもあるのだろうか。
 彼の中にもあるのだろうか。
 移ろうならば咲かなくていい。
 どれだけ美しくても咲かなくていい。
 美しくなんてなくていいから。
 咲かせたくない。
 移ろいたくないし、移ろわせたくもないから。





 自分を抱いて、よかったのだろうか、この男は。
「………………」
 海堂は寝具に横たわったまま、そればかりを噛み締めるようにして考えていた。
 向き合って同じように身を横たえている乾は、深く静かに、寝入ったままだ。
 見慣れない乾の寝顔が海堂の胸に詰まる。
 苦しい思いは不快なせいではなく、ただ恋情が濃すぎるせいだ。
 自分の情の強さを海堂は判っている。
 だから極力、ひとりでいたかった。
 乾はそれを知ってか知らずか、ただ一人彼の方から、海堂の最も近くに近づいてきた男だった。
 部内の仲間だとか、ダブルスのパートナーだとか、名前をつけられる関係に収まっても尚、まだ乾は何かを望む顔で海堂の側にいた。
 それが何なのか、乾が言葉で海堂に告げたのは、乾が部活を引退してからだった。
 好きだという言葉を口にする。
 幾度も、そしてその度に、乾はひどく慎重で。
 聞けば必ず、逃げられたくないからだと言った。
 逃げる訳がない。
 海堂はその都度思ったが、口に出しはしなかった。
 何かを押し殺すようにして、そのくせ渇望するかの如く自分を欲しがってくる乾が見慣れなくて。
 時折姿をみせるあからさまな執着が、乾から自分へと向けられる事が訳も無く嬉しくて。
 多分乾が考えている以上に、とっくに、海堂は乾を好きだった。
 何を言われても、何をされても。
 仮に乾の感情が自分の感情と違っていたとしても、海堂は乾を好きだった。
 抱き締められる事にも、キスをされる事にも、抵抗を覚えた事はなかった。
 乱暴にではなく、しかし耐えかねたような拘束の強さで組み敷かれ、身体に大きな手のひらを宛がわれた時も、海堂は乾を好きなまま、ただ、微かな不安だけを抱いていた。
 乾は高等部に上がっていて、初めて組んだダブルスから一年が経っていた。
 その時間をかけた。
 そして今日、こうなったけれど。
 乾は海堂を、抱いたのだけれど。
「………………」
 乾は、よかったのだろうか。
 海堂は繰り返し繰り返しそれを考えた。
 時間も、手間暇もかけて、普通に出来る筈の事を普通に出来ない自分でして。
 慎重に、大事に、されてきたこれまでの時間に見合う程の事だったのかどうか。
 乾の耳に届いた声は。
 乾の手が触れた肌は。
 乾の唇が食んだ熱は。
 それで、よかったのだろうか。
 自分で、本当に、よかったのだろうか。
「………………」
 ねっとりとした熱を帯びた液体で身体の奥深くを濡らされて、つかみしめられた乾の手のひらに自分も零して、あの解放の瞬間から海堂の意識はない。
 せめて直後の乾の顔だけは見ておきたかった。
 もし仮に、心が移ろっていくさなかの表情であっても、せめて見ておいたのならば、今ここでこんなにも不安にかられることはなかったのだ。
 横向きに寝そべったまま、海堂は乾の寝顔を見つめ続けた。
 取り縋った肩が毛布から出て剥き出しになっている。
 固い、熱い、皮膚だった。
 恐らくは自分もそうだ。
 あんなに気遣う事もなかったのに、乾は、ずっと優しかった。「………ん…」
「………………」
 身じろぐ肢体。
 乾の喉から微かな声が漏れる。
 目を覚ますのかもしれない。
 目を閉じてしまおうと海堂は思った。
 怖いのではない。
 不安なのだ。
「………海堂、…?…」
「………………」
 でも瞳を閉ざした拍子に、零れた。
 涙が、何故なのか。
「海堂」
「………………」
 眠った振りは容易く失敗して、ぎょっとしたような乾の声と共に目元に大きな手のひらが宛がわれて、海堂は結局双瞳を開けた。
 また流れていく。
 何で自分は泣くのかと自問したくなった。
「海堂? どこか辛い?」
 乾は半ば飛び起きるようにして上半身を起こし、海堂の目元を拭いながら切羽詰った声で言った。
 上半身を屈めて覗き込んでくるのを、海堂は懸命に見つめ返す。
 焦燥に駆られ、傷んでいるように眉根が寄せられている乾を海堂は掠れ声で呼んだ。
「先輩…」
「………………」
 海堂の言葉の続きを、乾は海堂が見た事のない表情で待っている。
 どうしてそんな、荒っぽい目で。
 見つめてくるのだろうか。
 どうしてそんな、怖がるように。
 自分の言葉を待つのだろうか。
 不安なのは自分の問いかけではなく、乾の返答の方だ。
 海堂はそう思う。
「……また…」
「………………」
「………しますか……さっきみたいなの…次も」
 もう、一度でいいと思われたのか、そうでないのか。
 乾の答えは、海堂が知りたい事を、教えてくれるはずだった。
 自分を抱いて乾はよかったのかどうか。
 享楽の話だけではない。
 快楽の話だけならば、確かに開放はしたのだ。
 お互いに。
「………、…っ……先輩……?」
 おもむろに乾の手が海堂の二の腕を掴んだ。
 骨に直接指が食い込んできたのかと思わせる、尋常でない力でだ。
 それも両方の二の腕をだ。
 海堂はベッドに押し付けられた。
 明確な痛みに海堂が歯を食いしばる。
 その唇に、乾の唇が重なってきた。
「……ン…っ…、……」
「………失敗したな…俺は…」
 唇の合間の乾の言葉に、海堂の胸が冷たく凍える。
 失敗、なのだろうか。
 乾にとって、やはり、自分とのこの行為は。
「…ぅ……、……っ…」
 口付けは、何故か一層強くなった。
 舌を、貪られる。
 合間で漏れる熱を帯びた呼気がどちらのものなのか判らない。
「怖かった?」
「………、ぇ…?……」
 息が継げずに苦しくて、朦朧となった海堂の耳に乾の声だけが届いた。
 意味が、よく判らなかった。
「嫌だったか? 辛かったか?」
「……な……に……、…」
「ごめんな。自覚はある。でもな」
 二の腕に更に強い力で乾の指先が沈んでくる。
 逃げ出す相手を束縛するかのような力だ。
 それはおかしいだろうと、海堂は微かに眉根を寄せて思う。
「海堂」
 そんな追い詰められた顔で。
「無理だ」
 ひそめた凶暴さで。
「好きだ」
 キスの深さ、強さ、そこから滲むこれまでの比ではない恋情。
「逃がしてはやれない。抱かないでもいられない」
 そんな事、望んだ事もない。
「先…、……」
「海堂」
 海堂が伝えたい言葉を、まるで怯えて封じるかのように、乾の口付けが執拗になる。
 固いその背を宥めて撫でてやりたいのに、海堂の腕は凄まじい力で固定されている。
 もどかしさは、しかし海堂の心情を甘く浸していった。
 この凶暴な執着は、美しいものではない。
 花も咲かない荒蕪地にも似ている。
 だからこそ移ろわない力強さを知って、海堂の唇が物言いたげに動く。
 乾が、深いキスを僅かに解く。
「………海堂…?」
 至近距離に、乱れた呼気が溶ける。
「嬉しいです」
「……え…?」
 次もあって、と。
 海堂の唇が、花開くように綻んだ。





 唇色の花が咲いた。


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 四時間目が自習だった。
 それで乾は課題プリントをクラス内最短の時間で仕上げると、即座に一人、教室を出て行った。
 通常は立ち入り禁止になっている屋上へ独自のルートで潜り込み、アスファルトに座り込んで持ってきたノートを広げる。
 整理を怠ると何の意味もなくなるノートの中身は、止め処もなく日々情報が増えていく。
 校舎の壁面に寄りかかりながら、ページを捲り、書き込みと書き写しを繰り返す。
 地上よりも空に近い分、今日は日差しも風も些か強く感じた。
 そういうものを体感しながらデータを纏めるのは良い気分転換になったようで、大分ペースも早く終わりそうだと、乾は残ったページの手触りで思う。
 屋上の出入り口である重い鉄の扉が軋んで開いたのはその時だった。
「…………………」
 真横を振り仰いで、乾はそこによく見知った相手を見た。
「やあ。どうしたの海堂」
 一つ年下の後輩は、乾に気づいて僅かに目を見張っただけだった。
 寡黙な彼は普段から言葉数が少ない。
 そんな海堂が手にしているものを見て、乾は、ああ、と頷いた。
「もう昼なのか。ひょっとして」
「邪魔だったら帰りますけど」
 きつい目をまっすぐに向けていきなりそんな事を言うけれど。
 意味するところは充分に判って乾は笑った。
「いいよ。昼、食べに来たんだろう?」
「………………」
「そうか、もうそんな時間か」
「……あんたいつからいたんすか」
「一時間前って所だね。自習だったんだ」
 座りなよ、と乾が言って少し横にずれると。
 海堂は今度は固まった。
 それで乾は、根気強く海堂を待つことにする。
 海堂に対するこういうタイミングを、乾は自然に覚えていた。
 海堂の、人を寄せ付けない気配だとか、近寄りがたさだとかが、不思議と最初から乾の気にかかって仕方が無かった。
 不快なものではなく、むしろいつも甘いばかりで。
 一年以上かけて到達しているこの現状を、進歩と見ていいのか停滞と見るのかは乾自身まだ悩む部分がある。
「………………」
 海堂は臆病なわけではない。
 でも驚かせたら逃げられる。
 だから例えば今も、乾は立ちすくむ海堂に手を伸ばしてみたくて堪らないのだけれど。
 そこを我慢して少し身体をずらすだけにする。
 たいしてスペースが空いた訳ではない。
 でも海堂は、それで漸くそこに座った。
 部活の時はバンダナに包まれている頭が真横に並ぶ。
 海堂は、その身長から考えると格段に手足が長くて、身体のパーツの配分がいっそ日本人離れしている。
 頭も顔も小ぶりで、そこを覆う黒髪の艶は消えているのを見た事が無い。
「………………」
 目が離せないのはいつものこと。
 気づかれないように、凝視している事を感じさせないように振舞うのもいつものこと。
「………昼、食わねえんすか…」
「ん? ああ、つい熱中しちゃってね。今から購買行くのも面倒だし」
 海堂が来るまでは実際に熱中していたデータ帳が、今では白々しくなるほど、熱中の対象が今はすりかわっている。
 そういう意味での苦笑いで乾が答えると、海堂はきつい眼光のまま微かな溜息をついた。
「…………ゲームに熱中するあまり食事も面倒になって、ゲームしながら食べられるものを考え出した奴のがまだマシに思えてきた……」
「ああ、サンドウィッチ伯爵? 確か海堂のクラスの四時間目は……浦加辺先生か。今年も雑談の内容が一緒だったみたいだな」
「………何でうちの時間割まで」
「ちなみに月曜から金曜までソラで言えるよ」
「…………………」
「俺も乾サンドとか発明してみようか」
「………汁だけで充分っす」
「結構良いもの出来そうなんだけど」
「……いらねーです」
「横着や不精っていうのは一生治らないんだろうなあ…」
「…あんたのどこが横着で不精なんですか」
 乾の手元のデータに目線をやる海堂の、話始まる前の沈黙は徐々に狭まっていて、それが乾をひどく機嫌よくさせた。
 あまり人に懐かない後輩が、特別扱いみたいに自分にだけ気を許しているのが心地良いのか、それとも。
「…………………」
 今更悩むことではないのかもしれないと、本当は乾も腹を括っている。
 抱き締めたいと思った相手は海堂が初めてだった。
 力ずくで、抱き締めたいと。
 時折衝動的に突き上げてくる欲求は、最近よく、乾の中から放たれたがっている。
「先輩」
「……ん?」
「手があかない、今から買いに行くのが面倒、それだけですか。昼食わねー理由は」
 憮然とした顔で嘆息して、海堂は手持ちの包みを膝の上で解いた。
 思わず乾も現れるその中身に目をやった。
「………すごいなあ……相変わらず海堂の家の弁当は」
「……今日はパンだから腹持ち悪いんじゃないかって、普段以上の量持たされたんです」
 パンも具材もスプレッドも、全部個別に入っているバスケットから、海堂は食パンを手に取った。
「どれにします」
「ん?」
「言わなきゃ勝手に挟みますよ」
「……え? くれるの?」
「この量見れば判んだろ…」
 じゃあ、と乾は言われるまま、まずはスプレッドを指さした。
「これはひょっとしてみんな違う?」
「こっちがマヨネーズと刻んだピクルス。こっちがマヨネーズとマスタード。これがクリームチーズと刻んだサーモン。これがチェダーチーズとベーコンビッツ」
「はー……凄いな本当に……じゃ、マスタードの」
「中身は」
「アスパラと、トンカツ、……あとマッシュルーム」
 手際良く具が挟まれていく。
 食パンを半分に折って、海堂がそれを乾に手渡してきた。
「ありがとう」
「………………」
 海堂の目が、いいから食えと言っているので、乾は海堂の作ったサンドイッチに齧り付いた。
 ふんわりと香りの良いパンもまた手作りのようだった。
「うまい。マジで」
 なんだこれはと真剣にサンドイッチに対するカルチャーショックを受けている乾に、海堂はポットから熱い紅茶を入れて差し出してくる。
「………………」
 たぶん本人には、そんなに甘い事をしているという認識は無いのだろうけれど。
 恐らく弟相手にしているようなレベルの行動なのだろうけれど。
 乾にしてみれば相当な事である。
「………………」
 海堂は無表情で自分が食べる分のサンドイッチを作っている。
 クリームチーズとサーモンのスプレッドに、綺麗に茹であがった海老と、サラダ菜、焼いてある帆立を乗せて、檸檬を絞って食べている。
 弾けるような檸檬の香りに一層の恋愛感情を促進されて、いい加減乾だって気恥ずかしかった。
 乾に渡された二つ目のサンドイッチはポテトサラダにアボガドと生のほうれん草をたっぷり挟んだもので、甲斐甲斐しさを感じさせないその絶妙なタイミングに乾は本当にどうしたものかと思う。
 あの海堂が、こんな事をしてくれるのだから。
 相当気を許されている。
 それが判っていて敢えて、それでもと、それ以上を欲する自分をどう制御すべきかと思い悩む。
 そんな乾の耳に、海堂のぶっきらぼうな声が届いた。
「……ちゃんと食って寝ろよ」
 乾が顔を向けると、海堂は手にしたサンドイッチを口に運びながら前方を見据えて言った。
「あんた最近疲れてる」
「そうか?」
 言われた言葉は少し意外で。
 乾はますますじっと海堂を見つめた。
 さすがに視線の強さに応じない訳にはいかなくなったのか、海堂も斜に視線を向けてくる。
「……寝てるんすか。ちゃんと」
「……………」
「今日は今日でメシも食ってないみたいだし」
 サンドイッチを手渡してきた手は自然な気遣いと意外なほどの優しさに満ちていたが、こうして言葉にするのはやはり苦手なようで、海堂は怒ったような口調と顔つきをして見える。
 しかし。
「……………」
 かわいいと、乾は痛みを覚えるように、そう思った。
 きつい海堂の目が、言葉が、その中にぽつんと一滴落ちた故の鮮やかさで。
 かわいかった。
「いや……今の俺のこれは、データどうこうっていうんじゃなくて」
 考えるより先に口が言っていた。
「恋煩いってやつかな」
 言葉にして。
 納得もした。
 データ処理のかける時間はそのまま。
 テニスに費やす時間もそのまま。
 学校に行っている時間、自宅でする学習、そういったものも全てそのままで。
 それなのに最近、寝る時間や食事する時間を減らさなければいけなくなっている理由は、こんなにも簡単だった。
 海堂の事を考えている。
 日増しにその時間が長くなってきている。
 だからだ。
「………………」
 納得したは良かったが、乾にしては何の考えもなしに言ってしまって、果たしてこれを聞いた海堂がどういったリアクションをとるか。
 一抹の危惧を覚えて乾が海堂を見つめていると、海堂は全く乾の予想外の態度をとった。
「………すみません」
 狼狽えることも、呆れることもなく。
 ただ海堂は、ひどく生真面目にそう言った。
 目礼で謝るような仕草もした。
「何で?」
「……乾先輩、自分の事、あんまり人に踏み込まれたり知られたりするの、嫌じゃないですか。だから」
 聞き出して言わせたみたいですみません、と海堂は言った。
 乾は驚いた。
 海堂が、乾の事を知っているとは思ってなかった。
 確かに乾にはそういう所があって、それ故に乾は人当たりがいいのだ。
 付き合いの長く深い、テニス部の同学年の連中には察せられている部分もある。
 だがまさか海堂が知っているとは思わず、乾は目を見張った。
 海堂の、そういう聡さは、ひけらかさないでいるから一層美点だ。
「………参ったな」
「すみません」
「や、…そうじゃなくて」
「…………………」
「確かにそうだね、俺はそういうタイプだな。……だからさ、恋煩いがどうこうっていうのを、そういうつもりで俺はお前に言ったんじゃないんだ」
「…え?」
「海堂に言っちゃったのはさ…」
 つまり、と唇の形だけで告げながら、乾は海堂に顔を近づけた。
 軽く、唇を合わせた。
「…………………」
 屋根もなく。
 高い高い空に地上よりも少しだけ近くの場所で。
 重ねた唇は、ひどく清潔で心地良かった。
「せん………」
「…………………」
 浅く触れ合う唇が動いて。
 至近距離から乾は低く告げた。
「ごめんな。冗談じゃないんだ」
「…………………」
「思いつきでもないし、興味本位でもない」
 動けない海堂を両腕で抱き締めると、乾の胸で海堂は強張った。
「海堂」
 怖いかと乾が口にした時、確実に海堂は怒鳴ると乾は思ったのだが。
 腕の中の海堂を覗き込んだ乾は、そこにあった棘の無い表情にかなり驚いた。
 というより、海堂自身の表情こそが、とにかくびっくりしているというのが一番のような、幼い驚愕をいっぱいに広げていたのだ。
「……海堂…?」
「いや……」
 怖いどころじゃないような様子の海堂が今思っている事を、そっと促すように乾は呼びかけた。
「………見えたから…」
「何が?」
「……目」
「目?……俺の?」
「……………」
 無論いつものように乾は眼鏡をしている。
 しかし、初めての最も近い接近と。
 恐らくは上目遣いで乾が考える以上に強く海堂を見上げてしまっていたようで。
 海堂は乾の眼を見て驚いているようだった。
 珍しいからかと一瞬思った乾の思考を海堂の言葉が遮ってくる。
「……いつも……そういう目で見てるんすか…」
「海堂のこと?……んー……いや、今日は特別だと……普段はもう少しゆるいと思うけど……」
「別に怖いなんて言ってない」
 乾の歯切れの悪さに、また海堂が的確に意味を汲んだらしく、不機嫌そうな言葉を返してくる。
 乾は微かに笑った。
「うん……頼むよそれだけはほんと」
「………怖がるわけないだろうが」
「でも早いよ脈」
 乾の腕の中。
 鍛えられているのにひどく薄い身体の、走るような脈。
「……あんたがあんなことするからだ」
「だな……」
 そのくせもう離れることも出来なくて。
 乾は海堂の背に回していた手でその肢体を抱き寄せた。
「…………………」
 力をこめた。
 腕の中の感触が、一層軽く、薄くなる。
 加減がつかめない。
 胸元に抱き込んだ手触りの甘さに乾が小さく息をつくと、その熱っぽい吐息に当たったのか海堂の身体が震えた。
「………移されてよ」
 恋煩い。
「…………………」
 情けない言い様だと思ったが、きつく抱き締めて乞う様に乾が囁くと、海堂の身体から力が抜けた。
「俺に移して、あんたは完治か」
「治りたいなんて言ってないよ」
 乾は笑った。
「俺はもう、一生かかってる心積もりだしね」
 抱き締めながら、海堂の頭上に唇を埋める。
「…………好きだ」
 そう口にするだけで、充分幸せだというのに。
「…………………」
 乾の腕の中で海堂が、口付け返すように乾の鎖骨あたりに唇を押し付けてきて。
 その感触で教えられた海堂の返事に、乾は甘やかに安寧した。
 中学生、友達同士お泊りっこくらいするだろうと、乾は校舎の影でそう言った。
 六月最初の日の話だ。
「…………あんたと俺とでお泊まりっこですか」
 わざと同じ言葉を使った海堂だったが、その言葉の面映さに言った側から後悔する。
 すると海堂は傍目にはいかにも不機嫌そうな顔になる。
 実際は気恥ずかしさの方が強いせいでの、きつい表情。
 心得ているのか気にしないのか、乾は淡々と海堂に応えた。
「そう、俺達でだ。………うーん……まあかなりアダルトなお泊まりっこだな…」
「……………………」
 ひとけはいないが、あくまで野外、しかも校内。
 そんな場所でそのまま背中に手を宛がわれ、抱き寄せられる。
 しかし抗う事無く海堂は、されるまま乾の胸元に軽く抱きこまれた。
 両腕で大切に抱き締められる。
 ゆるい抱かれ方はひどく甘ったるいが、不思議とあまり恥ずかしくならず、それが海堂は決して嫌いじゃないのだ。
「………そんなんで誕生日プレゼントになるんですか」
「なるよ。夢みたいじゃない。海堂が泊まりにくるなんて」
「それってつまりタダって事なんですけどね…」
「金額のつけようがないプレゼントだから」
 価格なんかつけられない、価値ありすぎてとまで言われれば。
 本当にそんなんでいいのかという海堂の不審も薄らぐ他無い。
「…わかりました」
 泊まりに行きますと海堂が口にしたら、背中にあった乾の手の力が強くなった。
 長い腕にきつく抱き締められた体勢で、海堂は自分の名前を囁く乾の声を聞いた。
「海堂」
「……………………」
 人間の身体には快感を感じる神経があって、それは200~250ヘルツの振動で、最も強く人を興奮させるものらしい。
 乾の声の振動は、恐らくそれそのものなのだ。
 海堂は溜息のような吐息を細く逃がしながら、走るような胸の奥の鼓動を思う。
 電話越しに伝わる声が300~3400ヘルツ。
 だから電話では肝心な所が伝わらない。
 会って、目の前で話さないと。
 神経に訴える声は生まれない。
 一瞬これは電話で聞いた方がよかった事なのかもしれないと海堂はくらくらする頭で考えたが、恐らく乾の声の効力は電話でも如何なく発揮させられたに違いないと思い直す。
「海堂」
 200~250ヘルツで囁かれる自分の名前に、海堂は小さく息をつめて。
「俺の誕生日に、帰さなくていい海堂をありがとう」
「…………明後日言えよ…そんなこと…」
「駄目、すでにかなり浮かれちゃってて」
「……………………」
「済まないね」
 真面目に笑んだ、また一つ年上になる男の腕の中で海堂は五時間目の予鈴のチャイム音を聞いた。









 乾は普段からあまりガツガツした所のない男で、海堂を抱く時に少しだけそういう部分を垣間見せるのに。
 六月三日に日付けが変わったばかりの深夜、その日の乾は終始穏やかだった。
「いつまで…、そこ、…」
「…いつまで? いくまで」
 軽い吐息は微笑らしくて、海堂は濡れそぼった箇所に当たった乾の呼吸に身を竦ませる。
 あやすように長いこと舌で撫でられ続けたそれから生まれる感覚が、海堂の意識を曖昧に霞ませる。
 そのくせ掠れた声がひっきりなしに上がるように吸いつけられたりもして。
 海堂は自分が快感の中にいるのか苦痛の狭間にあるのか判らなくなってくる。
「く………ン…、……ぅ…、…っ…、」
 いつもと順序が逆なのだ。
 もっと正確に言えば、それが乾の口腔に含まれ締め付けられているのは二度目になる。
 殊更丁寧に海堂の身体を柔らかくしてから奥深く入り込んできた乾に長い事揺すりたてられ、所作の全てが優しいからこそおかしくもさせられて。
 互いの解放でしとどに濡れた後、乾は再び海堂をその唇に捕らえた。
 濡れた粘膜ではあったが、直後に与えられた直接的な刺激に海堂は狼狽えて。
 泣き上擦った声で乾の真意を尋ねれば、返された言葉は海堂にとって意味の判りにくいものだった。
「絶対俺のがよかったから、海堂に足りなかった分、よくなって」
 何を言われたのか判らないまま、ずっと乾の唇にそれは食まれている。
「も……、…ばかなこと、やめ……」
 どこをどう見て足りない分などということを考えたのか、海堂は薄い胸を苦しげに喘がせながら浅い呼吸に声を乗せる。
 絶対逆なのに。
 どっちがよかったかなんて話なら、絶対逆だ。
 それなのにこれ以上自分をおかしくさせてどうするんだと繰り返す海堂の悪態は、霞む頭の中でしか放たれず、優しく長く乾の舌に構われ続けてもう海堂は自分で自分が捕まえられない。
「……どうしてもしたくてしてるんだから馬鹿とか言わない」
「…っ…ぁぅ」
 乾が笑って言っているのか怒って言っているのかも判らず、海堂は湿った髪を枕に擦りつけながら仰け反った。
 何をされているのか、甘く練り上げられたような抵抗感の中を拓いていくように海堂は乾の唇に深く含まれる。
 その中で、線で海堂を辿ってくるのは乾の舌先で、声を迸らせた衝撃で更に何かが体内を突き抜けていく。
「ャ……、っ、ァ…ッ、っ」
「……自分のものじゃない快感で頭の中がよくなるっていうのを」
「………っ……ぅ…、っ…ん…、っ」
「海堂で覚えたからね」
 すっかり癖になったと笑って。
 だから諦めてと囁いて。
 次にはもう、乾の舌と唇とが器用に強く絡み付いてきて海堂は背筋を反らせて細い喉声を上げた。
「……っ………、ん…」
 かたい指で丁寧に擦られて、快感の出口を一つに集められる。
 舌に、唇に、指に、海堂の感覚全てをそこに凝縮させられ、絶え間なく弄られて。
「……、…っ…ぅ…、っ……」
「……………………」
 逃げて捩れた腰を卑猥に撫でられ、乾の口腔に音をたてて吸い込まれる。
 声も吸い出されたような気で海堂は弓なりに限界まで反らせた背中を、その一瞬の後、ベッドのスプリングに激しく投げ出した。









 乾に何もしていない。
 乾に何も渡していない。
 どうにかしたいと気はどうしようもなくあるのに、自分の気持ちをどうもっていっていいのか判らない海堂は、ただ乾が望むように、こうして二人で乾の誕生日を迎えているだけだ。
 ただ一緒にいるだけ。
「…………………」
 それでも。
 それだけでも。
 ひょっとしたらいいのかもしれないと、海堂が次第に思うようになっていくのは。
 ベッドで顔をつき合わせている乾の様子を見ているからなのかもしれない。
「十四歳になってまだ二十三日目なのかと思うと…壊しそうで、大事にしないとね」
「…………………」
 低い声が訥々と言う言葉。
 十五歳になって一日目の男はそんな事を言った。
 そうして実際大事に抱き締められてしまえば、それなら自分はいったいどうすればと思うが。
 とろりと脱力した乾は珍しくて、まあいいかと海堂は無言で大人しくしていることにした。
 何かをしたつもりはないけれど。
 乾は確かに和らいでいる。
 眠気にまかせて重たい腕を持ち上げて。
 昔、弟にした事のあるやり方で髪を撫でつけたら、浅く息のかかるキスで唇を塞がれた。
 大人びたキスだった。
「…………………」
 この近さとか。
 この距離とか。
 そういうものに何ら抵抗のない海堂は、乾が考えている以上に、自分が判っている以上に、この男の事が好きなのだろうと思い知らされる。
「…………………」
 唇が離れると眠気の密度がまた少し濃くなって。
 数回繰り返されて口づけられているうちに、とっぷりと睡魔に浸かってもう戻れない。
「来年も」
 問うような。
 断言のような。
 どちらと決められない低い声だけ最後に届いて。
 海堂が応えてその手に握りこんだものが何かを知るのは、翌朝のことになる。









「自分の意思とか努力とかだけじゃどうにもならないことで俺が欲しいのは海堂だけだから」
 海堂しか欲しいものないしと笑った男は、誕生日の夜。
 唯一欲した相手を腕に抱き締めて眠り、翌朝目覚めてそこに、己の指先をゆるく握りこんで眠る海堂の寝顔を見つけ、幸福というものが目に映せる事を知る。

 自分に携帯電話は必要ないと海堂は思っていた。
 わざわざ電話で話をするような相手もいないしメールのやりとりも行わない。
 欲しいと思ったことも一度もない。
 そんな海堂だったが家族にせがまれる形で、中2になってすぐ携帯を持つようになった。
 持つといっても鞄の底の方に入れておくのがせいぜいで、通話は一日中留守電、一日中バイブレーション設定、メールチェックは日に三度すればいい方、通常二度である。
 要は持っているだけで放ったらかしということなのである。
「………あれ、海堂、携帯持ち始めたのか」
「…………………」
 それなのに気づく相手がいた。
「…………先輩」
「何で睨むかな」
 暢気な笑いで乾は海堂の鞄を指差した。
「振動してたから。何も荷物チェックしてるわけじゃないよ」
「………確か三コールで留守電になるように……」
 低く吐き捨てた言葉を拾われる。
「三コールあれば充分だ」
「………………」
 そういう男だった。
 乾を横目に、海堂は長くゆっくり息を吐く。
 番号教えて下さい、と笑いながら言われて。
「覚えてねーんで…」
「じゃ、ちょっと貸して」
「………………」
 何をどう言ったって駄目。
 今度は盛大に溜息をついて、海堂は渋々と自分の鞄を探った。
 掴み取ったものを片手で突き出すと、乾はあっという間に彼のものと海堂のものとに番号登録を済ませる。
「アドレスいじってないんだ。迷惑メール来るから変えておいたほうがいいよ」
「……もう何でも好きなようにすりゃあいいだろ」
 どうせ言わなくてもするんだろうと思いながら、海堂はそっぽを向いて吐き出す。
 案の定。
「そう?」
「………………」
 そう?じゃねえと海堂が内心で毒づいているうち、乾は海堂のアドレス登録を済ませ、海堂の携帯の受信トレイと送信トレイに一件ずつ乾からのメールと乾へのメールを入れてしまっていた。
「………………」
 誰にでもする事なのだろうが自分の携帯番号やメールアドレスなど、不必要なデータにしかならないと、海堂は乾を見やって思う。
 自分達は電話もメールも別にすることもない。
「はい」
「……何すか。これ」
 漸く乾から返されてきた自分の携帯に、海堂は眉根を寄せた。
 下から睨みあげるようにして言うと、にこにこと、乾は実に機嫌がよかった。
「ストラップ。あった方が便利だよ」
 シンプルな金属プレートのついた黒いレザーのストラップが、海堂の真新しい携帯に取り付けられていた。
「それチタンだから、電磁波防止にもいいよ」
「…あんたのでしょうが」
「そうだよ」
「…………自分はどうするんですか」
「そりゃ勿論、同じのを買ってお揃いに………って、だから何でそんなに睨むかなあ?」
 お揃いだと!?と顔を勢いよく上げた海堂に、乾はホールドアップの体勢で両手を上げた。
「革の色は変える。な?」
「………………」
 無言の海堂に、絶対駄目?どうしても駄目?としつこく聞く乾に、結局海堂は同意させられてしまう。
 とびきり大人びているくせに、乾はときおり海堂に甘えるような言い回しをすることがあった。
「…お揃いだとか絶対に」
「言いません」
 聖書に誓うように、片手を上げる乾の、いちいちのオーバーアクション。
 それがまた似合うものだから、ますます変な人だと思う羽目になる。
 よくよく考えれば練習メニューをつくってもらっているとはいえ、こうして部活後一緒に帰ることだって、今更ながら何故なのかと海堂は疑問に思った。
 誰かと一緒に帰ること。
 海堂はしたことがなかった。
「……使う事ないデータまで集めておく必要があるんすか」
 電話だってメールだって。
「使ったら駄目なのか?」
「………………」
 なめらかな声が真面目に問いかけてくる。
 当たり前の疑問のように。
 海堂は思わず舌打ちした。
 そういう言い方がずるい。
「電話嫌か」
「………顔つき合わせてたってこんなで、電話で何話すってんですか」
 愛想に欠けて、協調性もない。
 場を乱しこそしないが、そもそも人付き合い自体が海堂は不得手なのだ。
 そんな自分と電話なんて普通誰も思わないだろうに、何故か乾はやけに拘る。
「こんなって言われてもなあ。俺はそれが良いんだけど」
「……………………」
「口数が少ないだけで、海堂は疑問があったらきちんと聞いてくるし、自分の言いたい事は言うだろう? 俺の話だって、長話だろうがなんだろうが聞いてくれる。コミニュケーションはバッチリだと思うんだけど」
 言われた事のない台詞が次々投げられてきて、海堂は唖然と乾を見上げるばかりだった。
「海堂の声がね、好きなんだ。いい声だよね。電話でも聞けたらいいなって思ったんだけど」
「……………………」
 それはそっちだろうと海堂は睨みつける視線に言葉を込めた。
 正確に意味合いを受け取ったらしい乾はちょっと苦笑めいたものを浮かべて、行こうか、と海堂を促した。
 いつの間にか立ち止まっていたのだ。
 足を止め、じっと相手の顔だけを見上げ、見下ろされ、話していたのかと。
 気づけばそれが何とも言いようのない感情になる。
 肩を並べつつも少し先をいく乾は、海堂を流し見ながら肩の鞄をかけ直す。
「………なんだったらさ、海堂。練習してみる?」
「練習?」
「ああ。電話で話す練習。せっかく一緒だから今ここで」
「…………馬鹿だろあんた」
「そうか?」
 乾がどうしようもなく真顔だったから。
 海堂は呆れ気味に、微かに表情をゆるめた。
 身体から力がふっと抜けるような感じ。
 乾といると時々こうなる。
「海堂はさ、DKグループって何のことだか知ってるか?」
 海堂の沈黙がよくあることなら、乾の突飛な話題転換もまた同様。
 そういえば乾が海堂の無愛想が気にならないというように、海堂も乾のつかみどころのなさが気にならない。
 それが乾だと思うので。
 変わった人だと思っても、嫌だと思った事はないのだ。
「知らねえ」
「そうか。世論調査ってあるだろう。ああいう時に、知らないとか判らないとか答える人々の総称なんだ」
 DKって何の略だか判る?と乾に聞かれ、海堂は真面目に考えた。
 暫くして、頭に何かが、ぽん、と乗せられて。
 それが乾の手のひらだったことに海堂は驚いた。
 気安く優しい不思議な手のひら。
 他人とのこんな近い距離感を海堂は知らない。
「答えは今晩電話で」
「先輩」
「いいだろ?電話しても」
 判らない事を引き伸ばしされることが焦れったくて乾を呼んだ海堂だったが。
 わざわざ手間をかけてでも、そういう理由づけをしてくる乾の言動は、海堂の為。
 悔しいけれど、そういう理由を貰えば電話を気にしなくていいのも確かで。
「………………」
 乾の手のひらの重みを頭に受けながら、海堂は黙って頷いた。
 それで乾が、海堂が見たこともない笑みを浮かべて海堂の髪を軽くかきまぜてくる。
 気持ちが良いと海堂は思った。
 誰かと一緒にいることも。



 数時間後、それでもただ待っているだけは癪だと、海堂は帰りがけに本屋に調べた答えをメールに打って乾に送信した。
 乾宛ての初めてのメールだった。
 電話の約束が反故にされたわけではない。
「Don’t know グループ。当ってるよ。当ってるけどな、海堂。今晩の俺の楽しみをあっさり奪ったな。お前」
 すぐさま電話がかかってきたからだ。
「…………今かけてきてるんですからいいじゃないっすか」
 話するのが予定より早かったのがそんなに不満かと海堂が言ってやれば。
 自分の予期せぬところで出し抜かれると途端に楽しくなって本気を出すという厄介な性分をしている乾は。
 やはりこの時も。
 至極満足そうに海堂を賛辞したのだった。
 海堂の母親は乾の事を気に入っている。
 結構どころか相当な勢いでだ。
 青学テニス部内ではかなりの変わり者で通っている乾だが、さすがに海堂家で、データ収集に勤しむ姿や怪しげな汁作りをする様を見せる機会はないので、落ち着いた礼儀正しい先輩として認識されている。
 海堂が幼い頃から親しい友人をつくって家に招くような性格ではなかった為、中学になって時折家に連れてくるようになった一つ年上の先輩を、海堂の家族達は皆かなりの歓迎でもって迎えている。
 とりわけ母親はその傾向が強くて、元来無邪気な性質をしているものだから、にこにこと微笑んではしきりに乾と話をしたがるのだ。
 海堂はそれが嫌ではなかったが、時折どうもそれに耐えられない時がある。
 多分それは海堂の母親に対する乾の対応が、後輩の母親に対するというより恋人の母親に対するといったものに近いせいだと思っている。
 現実的に間違ってはいない事なのだが、それでも。
「薫。ちょっといい?」
 この日も。
 海堂の母である穂摘が海堂の部屋の扉をノックしながら、おっとりとした声で呼びかけてきた。
 いつものそれに対して、室内で、すみませんと気難しい顔で言ったのが海堂で、何が?と笑ったのが乾だった。
 海堂が溜息と共に立ち上がり扉を開ける。
 そして、う、と息を飲んだ。
 目の前の母親に対してである。
「………か、……母さん……!」
「なあに?」
「それ……!」
「乾さんに、見せたら駄目?」
 軽く首を傾けてくる母親の哀しげな表情に海堂はもっと強く言う事も出来ないが、しかし。
「母さん……!」
「どうしたの? 海堂」
「……、…いえ…何も…!」
 背後を振り返り咄嗟に否定した海堂だったが、乾はすでにすぐ近くまでやって来てしまっていた。
 そして案の定、穂摘が両手で抱えている物を見て、一瞬動きを止めた。
 さすがに乾もびっくりしたんだろうと海堂は何ともいえない顔になった。
「穂摘さんのですか?」
 それでもすぐに優しげな落ち着いた声をかける乾は、海堂抜きでの穂摘との押し問答の末、海堂の母親を名前で呼ぶようになっていた。
 おばさんでいいわよと言う穂摘に、最初から呼びかけを「お母さん」で押し通した乾は、結局「それなら名前で呼んで欲しいな」と穂摘に言われ、それ以来この呼び方が定着している。
 何かが違うと思っているのは海堂だけのようだった。
「この間出来てきたばかりなのよ」
「オーダーなんですか?」
「ええ」
 乾に招き入れられ穂摘が室内に入ってきた。
 海堂は諦めたように小さく息をつき、二人の後に続く。
 元々母親には弱かった。
 しかも、乾と母親が一緒になると、海堂はますます強く出られない。
 気恥ずかしさと気まずさが微妙に入り混じって、殊更寡黙になる海堂だった。
 乾と、母親と、自分と。
 そして。
 今日は更に一匹のテディベアがここにいる。
 穂摘が両手で抱えていたものは、テディベアだった。
「菊丸の所にもあるんだよ」
「…………………」
 こっそり耳打ちしてきた乾に、はあ、と頷くだけの海堂だった。
 菊丸にはとても似合う。
 自分には酷くミスマッチだ。
 そういう相違は、乾は気にならないのだろうかと海堂は思い悩んだ。
「この間、友達の娘さんの結婚式に行ってね、そのお式の最後に、そこの娘さんが彼女にテディベアを渡したの」
「今は花束贈呈だけじゃないんですか?」
「そうね。今はいろいろあるみたいね。しかもそのテディベア、ただのぬいぐるみじゃなかったのよ」
「へえ……何か特別な?」
「そうなの!」
 いつ聞いても、自分の母親と乾の会話には奇妙な気恥ずかしさを覚えて、海堂は尚も押し黙るばかりだった。
 この仲睦まじさが何故か心臓に悪い。
 海堂ばかりがそんな事を思っている間、乾と穂摘は楽しげに話を続けている。
「子供がね、生まれた時の重さで作るテディベアだったの」
 1グラムまで正確に作れるのよと言った穂摘に、察しの良い乾はすでに気づいて穂摘の腕の中にあるテディベアを興味深そうに見つめて言った。
「これは海堂、ですか?」
「そうなのー」
 無邪気に微笑み、ぎゅっとブラウンのテディベアを抱きしめた穂摘は満面の笑顔で乾に事の次第を説明した。
「とっても良いお式でね。テディベアを贈る所では、見ていて私もほろっときちゃって。友人が、この重みだったって言って泣いてるのを見たら、私も、もう貰い泣きしちゃって。それでどうしても私も、もう一度あの時の薫を抱っこしたくなっちゃったの」
「なるほど。それで穂摘さんもそのテディベアを作ったって事なんですね」
「3303グラムだったのよ。薫」
 いとおしそうに腕の中のテディベアを見つめる穂摘は、海堂には到底範疇外の行動をとっているが、だからといってそれが不満な訳ではない。
 だがしかし、何も乾にそれを話して聞かせ、あまつさえ見せにこなくてもと海堂は暗澹とした思いをぐっと飲み込んでいる。
「母さ…………」
 耐え切れずに口を挟んだ海堂だったが、それを黙らせたのは乾だった。
 何だか嫌な予感のしていた海堂を裏切らず、乾は言った。
「穂摘さん。俺も海堂を抱っこさせて貰ってもいいですか?」
「ば、……ッ…」
「ええ勿論! 乾君だったら絶対そう言ってくれると思ったの」
「母さん……っ…」
「はーい……乾君ですよー、薫ー」
 あまりの光景に視界がハレーションを起こしかけている海堂をよそに、穂摘が新米パパに手渡すようにテディベアを乾に差し出す。
 乾がそれをまた大事そうに受け取り、腕の重みを噛み締めるようにして笑うものだから。
 海堂は憤死しそうになった。
 その場に蹲って頭を抱えた海堂を、穂摘も乾もまるで気に留めないでいる始末だ。
「………ああ、…結構重いなあ。生まれたてで、もうこんなにあるんだ…」
「乾君、抱っこ上手ね」
「海堂かと思うと真剣ですよ。抱っこするのも」
「あのなあ…っ!」
 噛み付くように声を荒げても、気にしないどころかテディベア相手にメロメロになっている素振りの二人に、海堂は匙を投げた。
 もう知らん。
 俺は知らん。
 よろよろと部屋の片隅のソファへと腰を下ろした海堂は、尚も続く、姑に婿に初孫かというような目の前の掛け合いに。
 青い顔色で頭を抱えるばかりだった。



 テディベアを抱えた穂摘が部屋を出て行くと、乾はすぐさま海堂のいるソファへやってきた。
「……、……っ……てめ……!…」
「今度は14歳の海堂を抱っこ。…………うわ、何でそんなに暴れるかな」
 笑いながらも楽々と海堂を膝の上に乗せた乾は機嫌が良い。
 いったいなんでそんなにと海堂が毒づくくらいの笑顔だ。
「怒るなよ。嬉しかったんだから」
「何が嬉しいってんですか…!」
「生まれた時の海堂をこの手で抱けるなんて、普通絶対有り得ない事だろ? 穂摘さんには幾ら感謝してもし足りないじゃないか」
「頭おかしいっすよ、あんた!」
「頭? 海堂の事でいっぱいなだけなんだけどねえ………そんなにおかしい?」
「………っ……」
 額も触れ合う至近距離。
 上目で問いかけられて、海堂は息を詰めて赤くなる。
 乾がゆっくり瞬きながら、海堂の唇にキスをした。
 静かに優しく触れられると、暴れたり怒鳴ったりしづらくなって。
 海堂はぎこちなく目を伏せ、それよりもっとぎこちなく唇を開いた。
 口腔で舌をそっと重ねて。
 背中が強く抱きこまれる。
「………あれ欲しいなあ」
「……、……なに言ってん…すか。先輩」
「俺も注文しようかな」
「………………」
 一人ごちる乾が多分に真剣で。
 海堂は本当ならばここで。
 怯むなり呆れるなり怒鳴るなりする所を。
 何故か少し傷ついた思いで、そう感じた事が悔しくもあって、無言で乾の膝から下りようとした。
「海堂?」
「………………」
 驚いて、僅かに焦りをみせて、そのくせどこかに独占欲や執着心を滲ませながら乾が海堂を抱き込んでくる。
 乾の胸に閉じ込められて顔が見えないから。
 だから言ってもいいかと半ば投げやりに思って、海堂は低く呟いた。
 仮に聞き返されたって、二度とは言わない心積もりで。
「……他が欲しいなら俺はいらないだろ」
 だから退くだけだと続けると、すぐさま束縛は強くなった。
 下手にからかうようなことを乾が言おうものなら、ここから蹴飛ばして追い出してやると物騒な決意をかためていた海堂だったが、乾が生真面目に悪かったごめんなさいと繰り返すので。
「…………別にいい」
 そう返すのが精一杯だった。
「海堂が二人現れたんで、両方欲しくなったんだよ。ごめんな」
「………誰が二人っすか。クマだろあれは」
「うん。でも海堂でもある」
「だからクマだって言ってんだろ!」
 乾の膝の上。
 跨って向き合った海堂は、延々と、乾とそんな押し問答を繰り返したのだった。



 この部屋の空気の甘さに、海堂の自覚はない。
本当は、乾がへばっていた筈だった。
 その筈だったのに。


 連日連夜続く雨と湿気に完全に負けて、乾は日常生活すら辛そうにしている。
 いつになったら梅雨明けするんだと力なく言いながら、乾は近頃もっぱら気象情報のデータ収集に忙しい。
 案外と、乾には体力不足の感がある。
 自分よりも遥かに高い上背、重いウェイト。
 それでいてと海堂はその事に最近気づいたばかりだ。
 だらしねえと言い捨てるのは簡単だったが、些か気の毒にも見えてきた乾の不調に、海堂が少しばかり同情を見せ始めた折、乾から週末泊まりにこないかと誘われた。
 乾の両親は多忙で、またこの週末も揃って出張になったとのことで、海堂は少し考え、頷くだけの同意を示した。
 乾の家に泊まりに行く時は必ず、母親に料理の手土産を持たされる。
 最初は料理なんて失礼かしらと言っていた海堂の母親も、当の乾に惜しみない絶賛をされて、今となっては張り切るばかりだ。
 乾のこの様子だと食事もあまりきちんととっていないのではないかと思った海堂は、そのあたりの事を母に告げ、何か用意してもらおうと考えた。
 海堂が真剣にそんなことを考えるくらいに、乾は相当、ばてていたのだ。
 まさか乾の家に行って、それが形勢逆転してしまうなどとは考えてもみなかった海堂であった。



 
「………甘くみてただろう海堂」
 シャワーの下、乾は濡れながら笑んで言った。
 海堂も同じように濡れながら。
 自分の腰を抱く乾を、泣いた後の目で睨みつける。
「……………詐欺だ」
「俺がこの天気に相当くたばってたから、何にもされないと思ってた」
 おかしそうに喉の奥で響かせる笑い声。
 機嫌も元気もいい乾に、海堂はムッとする。
 自分は足元も覚束なくなって、乾に支えられながらシャワーを浴びる始末だというのに。
「海堂」
「…………何すか…」
「海堂って、体温いくつ?」
 首筋の脈を探すように乾の唇が触れてくる。
 小さく息を飲んで、海堂は殊更低くした声で呟いた。
「………37度くらいじゃ…」
「高いね。触るといつも熱いから、それくらいあるかなとは思ってたけど」
 音を立てて首の血管の上を吸われる。
 思わずしゃがみこみそうになった海堂は、乾の肩に咄嗟に手を伸ばしてそれを堪えた。
「…………、……っ……」
「外の気温はそこまで高くないのに……何でだろうな。37度の海堂の中にはずっといたいくらい気持良いのに、たかだか30度の温度には、どうしようもなくばてるんだから」
「……っぁ……」
 腰に宛がわれていた大きな手のひらが卑猥に動いて海堂は歯を食いしばる。
 苦しくて、どうしようもなくなる。
 乱れてくる息も、殺さなければいけない声も、立っていなければいけない事も。
「先、輩…、……」
 壁際に押し付けられて、キスされる。
 舌が触れ合うたび、絡まるたび、身体が震えた。
「…っ……ん」
 よほど自分の身体が熱くなっているのかと海堂が思った訳は、降り注ぐシャワーが急に冷たく感じられたからだった。
 キスが止み、見上げた乾はいつの間にか片手で海堂の腰を抱きこんでいて、空いた手は浴室内に設置された温度設定のパネルの上にあった。
 シャワーの湯もまた。
「これも37度」
「……………………」
「海堂の体温だ。………こっちは随分低く感じるな」
 同じ筈なのになと囁く乾を見上げ、海堂はぬるいシャワーで濡れていく。
 またキスが始まって、また力の抜けていく自分に。
 海堂は少し怖い感じを覚える。
 緊張は緩和していく。
 緩和しすぎて、立っている事すらも困難になっていくのが怖い。
「…………何であんた…急にそんな元気に……」
「なるよ。当然ね」
 深いキス。
「………吸い取られてる……みたいなんですが……」
 海堂が、きつく睨んで言えば、乾は楽しげに笑った。
「……少し分けて。体力不足なんだ。海堂に比べて俺は」
「そんな事は知ってる。………だいたいこれ、少しどころじゃ、…ね……っ……ぁ…」
 角度もついたキスに塞がれ、乾の手がくまなく海堂の身体を辿り出す。



 だから今度は、海堂が。
 乾の腕の中でだけ、熱気にやられたように何もかもが出来なくなって。
 嫌ではないが文句の一つも言いたくなって。
 乾の舌を加減しながら噛んでいく。




 甘く執拗な長いキスで、それこそ嫌と言うほど仕返しされた。
 窓に雨滴が張り付いて、それを見れば閉めっきりの室内にいながら外がどれだけの悪天候かが判る。
 瞳に涙が溜まっていて、それを見れば言葉がなくても今の彼の心情のどれだけ乱れているかが判る。



 雨はただこちら側から見上げているだけでいい。
 涙はただこちら側から見下ろしているだけでいい筈がない。







 乾貞治は自分自身をコントロールする術を知っていて、だから煮詰まった自分を持て余すという経験をした事がなかった。
 テニスにだけは、それに付随するあれこれに僅かに気持が乱れることがあったが、それでも勝ちたいからこそ、負けたくはなかったからこそ、一層感情を制御する事をそのテニスで覚えたのだ。
 決して無理にではなく。
 つくりあげた乾の自我は、物慣れぬ感情にそれでも揺すられたとしても、すぐに崩れてしまう事はなかった。
 その筈だった。
 しかし、そんな乾の自制心に、近頃海堂薫という一つ年下の後輩が揺さぶりをかけてくるようになった。
 愛想がないのに礼儀正しい、誰ともつるまないのに乾とは共に自主トレをする、アンバランスさで逆にバランスをとっているようなストイックな海堂は、無論何か意図して乾にしかけているわけではない。
 乾の方がそんな海堂に対して、感情で興味を、肉体で欲情を自覚したのだ。
 物慣れない感触だった。
 自分のことなのに自分で管理出来ない。
 長くそれを抱えていると、自分が何をしでかすのかの予想がつかなくて、そのことが何より乾を驚かせ、だからこれがまずい事になってしまう前に放ろうと乾は決めた。
 急な夕立で、公園での自主トレを中断せざるを得なくなって、少しはマシかと木立の下に海堂と肩を並べて雨宿りをした時に乾はそれを決めた。
 湿気を含んだ雨が散らばって僅かに息苦しかった。
 その重さに封じ込められたように、二人きりだった。
 乾は、口調ばかりはやけにさらりと、気づけば告げていた。
 好きだよと。
 雨を見上げていた目線を海堂に落として言うと、海堂は黙って乾を見た。
 ひどく不思議そうな顔をしていた。
 じっと乾を見つめてくる。
 怒るか訝しむかするとばかり思っていた海堂が、なんの虚勢もなく無心に自分を見つめてきて、乾は小さく息をのんだ。
 急に、自身の欲求が具体化するのを感じた。
 それまではどこかおぼろげで、抽象的だったのだ。
 自然と体内から零れおちたような好きだという言葉が、何もかもを明確に象って乾の中に溶け込んでいった。
 海堂を、どういう風に好きなのか。
 好きだからどうしたいのか。
 乾が雨音に溶け込ませるように低い声でゆっくり伝えると、海堂は無言でそれを聞き、徐々に驚いて、しまいには絶句した顔になった。
 こんなこと思いもしていなかったんだろうと海堂の心情を汲んで。
 乾は微かに微苦笑する。
「決められないか、判らないなら、試してみてくれないか」
 利用していい。
 それで決められるか、判るかするなら。
 前にもこんな会話をしたと、思い出したのは二人ともだ。
「海堂の返事も一緒かな?」
「…………あんた、それでいいのか」
「俺がショックを受けた言葉が抜けてて嬉しいよ」
 軽口でもなんでもなく、乾は笑って告げた。
 断るとは断言しなかった海堂は、それでもあの時のように、それでいいのかと危ぶむような目をして乾を見ていた。
「……………………」
 それでいいし、そして好きだし、それから先はまたその時に。
 乾は、その時降っていた雨滴のように、海堂の唇にそっと唇を落とした。
 腰を屈めて触れた海堂の身じろがない身体から、ふわりと立ち上るような熱の気配。
 雨の匂い。
 身体の中で一番薄い皮膚と皮膚とを、今出来る、一番近くにいられる方法で、重ねた。
 静かに何かが始まった。







 その日から連日雨が続いた。
 入梅したのだ。
 土壌に降り注いだ雨の量と同等に、それから毎日、乾と海堂とに等しく降り注ぐかのような互いへの感情は、違和感ないまま、限度を知らないまま、貪欲に吸収されていって。
 この感情を、ますますはっきりと形作っていった。
 キスをして、手で触れて、抱きしめあって。
 だんだん言葉が奪われていくようで。
 口数が減った分、相手に触れ合う回数も箇所も時間も増えていった。
 それから数日で乾が初めて海堂を抱いた時も二人は殆ど無言だった。
 雨も降っていた。
 抱いてみると、海堂は終始、ひどくおとなしかった。
 乾はかなり煮詰まったものを抱えて手を出したのにも関わらず、際どく、どうしようもなく、卑猥な事をしかけたりもしたのに、海堂はおとなしかった。
 抗いや拒絶はなく、身じろぎすらも耐えるような必死な身体を、乾は触れて、舐めて、蕩かせた。
 言葉はないまま海堂の大きな瞳に涙だけが溜まったその情景は、乾の息の根を止めるような強烈さだった。
 表面が揺らぐほど、透き通った滴は海堂の瞳に広がって、零れそうで零れないままゆらゆらと膜を張っていた。
 その目で海堂は乾を見ていた。
 乾が慎重に海堂の身体を突き上げる。
 唇を噛んだ海堂は小さく息を詰まらせて、その涙を眦から零した。
 潤んで、零れて、また潤んで、その繰り返しでひっきりなしに濡れていく海堂の瞳を見据えながら、乾はその身体を揺さぶった。
 終わりの方は殆ど突き上げて拓ききってそれでも足りなくてそこで全部を吐き出してもまだ続けた。
 海堂は泣きながら掠れた甘い呼吸に小さな声を時折忍ばせ、乾の首に指を沈ませて、最後は歯を食いしばって事切れた。
 どうしても無くしたくない、誰にも渡したくない、そういう固執と独占欲とが形になっているものをこうして手にして。
 乾は甘くも切羽詰った初めての感情が詰まった身体で、意識を失った海堂を抱き締めた。
 強い雨を浴びているような気もしたし、気づけば濡れている目に見えない霧雨のようだとも思った。







 雨が降る。
 毎日のように。
 飽きもせず。
 止め処もなく降って。
 部活が中止になりがちで、自主トレも大分限られてしまう。
 そうやってテニスが出来ない事で生まれた時間の大半を、乾は海堂と共にいた。
 部屋で新しいトレーニングのメニューを決めたり、それぞれが気ままに好きな事をしたり、そうやって始まっていた筈の時間が、いつの間にかキスにつながり、その先へと進む。
 初めて海堂を抱いた時のやり方を、乾は少し反省していた。
 思い返せばあの海堂が、あれだけ泣くまでのことを、いったいどういうやり方で彼に与えてしまったか。
 翌日、海堂が初めて日課にしている早朝の走り込みを休んだ事も。
 乾の意識下で時折海堂のあの時の様子が思い出せない事も。
 全て自分が相当がっついていた事の証で、乾は自嘲と共に反省をした。
 あの時と同じく聞こえる雨音が、一種戒めの役目を果たす。
 あれから何日目かの今日も、日曜の休日練習が雨で休みになり、乾の部屋に来ていた海堂は乾がキーボードを弾いている間、ベッドによりかかって雑誌を捲っていた。
 暫くしてその海堂の正面に屈んで口付けた乾を、海堂は恐らく、乾がしていた作業が終わったからと思っただろうが実際は違うのだ。
 乾のデータ入力は、まだ途中で。
 単に我慢が出来なくなった。
 首を大きく傾けて軽く唇を合わせると、海堂が息を詰めたのが振動で伝わってきた。
 強張るように緊張する全身を、出来るだけあまり卑猥にならないように手のひらで辿る。
 くどいキスは止めて、うんと軽い接触で、海堂を追い詰めないように乾はキスを続ける。
 深く沈ませてしまいそうになる舌を宥める為、幾度か息継ぎにみせかけキスを中断した。
 下降しない放物線のような感情の高揚に自分が苦しむ事になろうとは、乾は全く考えた事もなかった。
 力づくで抱き竦めたい欲求の詰まる腕で、出来るだけさらりと海堂の身体を辿る。
 我慢強い上に泣き言を決して口にしない海堂は、初めての時最後は一人静かに崩れ落ちていってしまった。
 負けず嫌いもあるのかもしれない。
 こうして身体をあわせる時、海堂は抵抗する事が負けに繋がるとでも言いたげな意固地さで、時折きつく唇を噛んでいる。
 出来ればそうやって海堂が堪えているものが、痛みでなく快楽の方であればいいと乾は願ってやまなかったが、聞くに聞けずに乾は知らないままでいる。
「…………………」
 ベッドの上に引き上げた海堂の四肢を、寝床に慣らすように撫でさすって、乾はその伸びやかな肢体をメガネのレンズ越しに見つめた。
 海堂は、既製の制服ではサイズが合わない。
 ウエストに合わせると踝が覗き、胸囲に合わせると袖丈がまるで足りない。
 制服を手繰らなくても触れられる手首やアキレス腱にゆるく指先を辿らせながら、今自分がしたい事を、この海堂がどこまでなら嫌がらずにいてくれるかを乾は考えた。
 どうせ自制してもそれをオーバーしてしまうのはわかっていたので、せめて最低ラインを決めることだけはしておこうと海堂に浅いキスを落としながら思案する。
 目を閉じないまま口づけていたので、乾が違和感を感じたのは早かった。
 僅かな雨滴が顔に当たって感じる降りだしたばかりの雨の存在のように。
 近すぎてぼやけた視界の隅で、海堂の睫に絡みついたものの気配。
「……海堂…? どうしたの?」
 海堂は乾に組み敷かれたまま、涙の纏わりついた睫を、しかし擦るのも悔しいようで。
 そのままにして、そのくせ乾がその事に気づいたのが耐えられないように眉を顰めて宙を睨みつけていた。
 きつい眼差しにうすく涙が溜まるのを、乾は唖然となって見た。
「海堂………?…」
「…………手…抜きやがって…」
 全く意味のつかめない言葉が聞こえてきた。
 乾がますます困惑を深めていると、海堂はただ怒っているのではないことを乾に知らしめるような、ひどく傷ついた表情を浮かべた。
 それにぎょっとして乾が何かを言いかける前に、海堂は身体を起こしていた。
「もう、いやだ。やめる」
 低い声で吐き捨てた言葉は、明らかに普段の海堂の物言いとは違っていた。
 涙を含んで滑舌がひどくあまかった。
 その口調で海堂は低く吐き捨てる。
「もうしない」
「海堂」
「………なせ。も、いい」
 海堂から、こういう行為への拒絶がつき渡される可能性は、乾も考えた事があった。
 でも今、あまりにもこの状況への違和感があって、乾はこの場から立ち去ろうとする海堂の腕を掴んだ。
 海堂は、何か自分自身に苛立ちながら、傷ついた顔をする。
 突然行ってしまおうとする。
「海堂」
 乾の声が強くなった。
 乾自身が驚いたほど、余裕のない声になった。
 腕を取られた海堂は何故か乾の方を見ようとしない。
 それで乾がますます手の力を強くすると、切迫した促しに海堂は必死に気持を宥めるように小さく息をついた。
 ひどく辛そうに視線を合わせず言う。
「……嫌々しなくていい」
 海堂はそう言い切った。
「……………嫌々…?」
 口に出してみないほうがよかったのだ。
 きっと。
 海堂が継げた言葉を反芻して、乾は目を眇めた。
 口にしてみて、その言葉の意味を考えて、そして。
「俺が、嫌々してるって言ったのか。海堂」
「…………、…っ……」
 乾は掴んでいた海堂の腕を引きずって、かなり乱暴に、海堂をベッドの上に押し倒していた。
 海堂のウエストを引き絞るベルトを利き腕ではないほうで外すと、金属音がやけに攻撃的に部屋に響く。
「………先……、……」
「……………………」
 乾はもう口をきかなかった。 燃え立つような怒りではなく、冷たく凍える塊に息が詰まった。
 海堂が何か言いかける唇を強く塞いで、あからさまに差し入れた舌で、口腔を撫で擦る。
 少しも治まらない。
「…………、っ」
 隙間なく合わせた唇から唾液が零れてくるようなキスはこれまで一度だって海堂にした事はない。
  海堂の舌に執拗に固執するのも、上顎以外の粘膜に舌を這わせるのも、敢えてしないようにしていた事ばかりだった。
 きれいでは終わらないものにまみれて、それでもまだ貪る。
「……っ………ぅ…」
 肩を強く掴まれたが、海堂のその手に引き剥がされるつもりは乾には全くなかった。
 力でかなわない事を力で教えられるのは酷く嫌だろうと判っていながら、乾は海堂に思い知らせるように、その抵抗を無いもののようにあしらった。
 キスを更に強くする。
 潤んだ口腔を音をたててかき回して、さんざ零して、最後に濃度の高い唾液を互いの唇の合間で弛ませる。
「………、…」
 海堂を見下ろしたまま、乾は手の甲で自身の唇を雑に拭った。
 それから赤くなった海堂の唇を舌で舐めあげる。
 乾は海堂の両手首を彼の背中の下で交差させ、左手だけで一まとめに拘束した。
 乾の手の中にある海堂の二本の手首。
 身体の裏側で海堂の両腕を戒めたまま、シャツの上から胸元を舐める。
 二ヶ所歯を立てた。
「っ………、」
 胸を反らせて仰け反るしか出来ない海堂は、更に乾の唇に先端を吸い込まれて掠れた悲鳴を上げた。
 震えが直に乾の舌にしみこんでくる。
 シャツごと含んで乾は唇の次にそこに固執した。
 白い布地が濡れ、浮き上がる海堂の色みに、唾液を絡ませてもまだ続けていると、海堂がしゃくりあげるような声を漏らし始めた。
「……ひ………っ…、……」
「…………………」
「…、……く……、…っ」
 そこをしつこく舐められるのが嫌なのか、力づくで押さえ込まれているのが嫌なのか、恐らくそのどちらもで、海堂は動かせない身体を捩じらせてもがいた。
 雨に濡れたようにシャツが海堂の肌に張り付くまでそこにいた乾は、シーツと海堂の背中の合間で、海堂の手首を握りなおした。
 今度は両手で。
 海堂の手を交差させたまま、乾の右手で海堂の右手を、同じように左手で左手を。
 ぐっと海堂の肩甲骨が寄るほど力を込めて引くと、薄い胸がきつく反り返った。
「………ッ……っ…」
 手綱のように海堂の両手首を引き込みながら、乾は衣服越しに海堂の足の狭間にも加減した歯を食い込ませていく。
「っぁ……」
「……………………」
「……ぁ、っ、ぅ」
 服の上から舐め溶かすには生地も厚く、乾は無言のまま海堂の手首から手を引いた。
 両手でかきわけるように、釦を外し、ジッパーを下ろし、合わせを開く。
「………ャ………、…ッ……」
「……………………」
 開いたそこにすぐ顔を伏せ、埋めるようにして、乾は性急に舌を使った。
 驚かせずに、宥めるように、触れた事しかない。
 ここに舌を宛がう時、海堂はその事実だけで半泣きになることが多かったからだ。
「……、……っ……ぅ、っ…ン……」
 涙を含んだ声で海堂は乾を押しやろうと肩に手をかけてくるが、可哀想なくらい震えの染み渡った指先は苦しげに乾のシャツをかきむしり、その震えばかりを酷くしていく。
 引き剥がせないまま、最後には乾の肩先に取りすがるようにして、シャツを掴み締めているしかないようだった。
 海堂の荒いだ息に交ざって、泣き声や、切羽詰った声や、熱く潤んだような呼気が、乾の耳に届く。
 乾が強く舌を使うと、無理矢理追い立てられるように切迫していくそれらが、一層苦しそうになっていった。
「先…、……」
「……………………」
「…っゃ……ぅ、っ…く……ャ、ぁ、っ」
 濡らした指先を奥まで全部送り込むと、海堂は錯乱しきった悲鳴で身体を捩らせながら、その指を捻らせた乾の口の中に、吐き出した。
 すすり泣くように身体を横向きに丸める海堂の鍛えられた腹部が耐え切れないように痙攣していた。
 乾はゆっくりと顔を上げた。
 海堂の表情は見えなかった。
 必死に海堂が、泣きながら隠しているからだ。
「………………………」
 乾は海堂に含ませた指を、ぐるりと動かした。
 指の腹で押し込んだまま、長い指に見合った距離感で、乾の指が海堂の体内をすきまなく行き来する。
「ッァ…ぁっ」
「………………………」
「…ゃ、………やめ…っ、……そ…れ、ヤ……っ……」
 何か喋るのも辛そうな、切迫した海堂の声を乾はただ聞くだけだった。
 聞き入れはしない。
 横向きに身体を捻った海堂が前髪を掴み締めた手を激しく痙攣させながら、声も出せない状態で乾の指に二度目まで追い上げられていく。
「……ぅ……っ…く…、……ぅ……、ン」
「………………………」
「…、ン、ッ」
 海堂の手で隠されて、彼の目元は乾には見えなかった。
 けれど逆に無防備にさらされていた海堂の濡れた唇の震えから、泣いているのは判った。
 乾がきつく眉根を歪める。
 感情だけでなく、身体の欲も瞬く間に後をついてきた。
 軽く自分のそれに触れ、こんなものを海堂に埋め込むのかと乾は思い、しかしすでにもう海堂の身体にそれを宛がって、乾は押し切ろうとしている。
「………ッァ……」
 上ずった声で喉を反らせた海堂の唇を深く塞ぎ、息もさせないまま乾は自らの手の力も加えて拓いていった。
 舌に絡まる発せられない悲鳴の気配。
 強張り震え出す唇もすきまなく塞ぎきり、とろりと海堂の唇からも瞳からも零れだしたものに、乾も濡れた。







 初めての時にあれだけ慎重に傷つけないようにとそれだけは自らに言い聞かせてしたのに、こんなことになれば何の意味もなくなってしまう。
 まだ夕刻であっても、雨で室内はすでに薄暗い。
 乾は自分に背中を向けている海堂を、ベッドの上で背後から抱き込むようにして横たわる。
 生々しく足が絡まりあう。
 海堂は抗わない。
 きっと動けない。
 乾ですら身じろぎが億劫で、後ろ向きの海堂を抱き寄せながら漸く呼吸が平素の状態に近くなったばかりだった。
「………こういうのが欲しかったのか」
「……………………」
 乾は海堂のうなじに唇を触れ合わせたまま抑揚のない声で問いかけた。
 発した自分の声が掠れていた。
 乾は小さく重い息を吐き出し、言い直した。
「…………違う。悪い。そうじゃない」
「……………………」
「俺が悪かった」
 両腕で、海堂の身体を抱きこむ。
 乾の胸元に誂えたようにおさまる海堂は、何ひとつ抵抗しなかった。
「……嫌々してるって言われてショックだったんだよ」
「……………………」
「出来るだけ脅かさないように、嫌がられないようにしようって。それはずっと考えてきたけど、それが嫌々って見えてたのかってショックで。ごめんな」
「…………ごめんなんて言うな」
 密着しているから聞こえたくらいの小さく低い声だった。
 乾が緩めてしまった腕の拘束に、しかし海堂の方から、手を伸ばしてきた。
 喉の下あたりで乾の腕を抱き込んで。
 決して強い力ではなかったけれど。
「………したくて…してたんすか…」
「したくてしたくてしたくてしたよ」
「……………………」
 乾の腕の中で、海堂の身体から力が抜ける。
 ダイレクトに伝わってきた海堂の心中に、乾も少し戸惑った。
「……俺、したくなくてやってるように見えたか?」
 よりにもよってなんでそんな風にと思って問えば、海堂の低い声はどこか言い辛そうに答えてくる。
「………最初の時と……どんどん違ってくるから……」
「……………………」
「実際してみたら、あんたが考えてたのとは、違ってたんだろうって思って」
「海堂」
 乾は海堂の身体を返し、向き合って抱き寄せた。
「…………乾先輩?」
 自分のしたい事を言葉で言うと、何だか本当にどうしようもない気したが、それでもこのまま海堂に誤解されるよりはどんなにかいい。
 乾が口を開くと、しかし何か言うより先に海堂がそれを遮った。
「先輩。明日も雨っすか」
「………え?………ああ、確か進路が変わってなければ明日の夕方には本州上陸だからな」
 いきなりの問いかけにかなり面食らいながら、それでも乾が今朝みたウェザーニュースの内容を伝えると、そうですか、と海堂は頷き、ゆっくり顔を上げた。
「……頼みがあるんですけど」
「…なんだい?」
「一度ちゃんとしてみてくれないっすか」
「…………………」
 乾は滅多にない事に、完全に絶句して言葉を詰まらせた。
 海堂が何を言い出したのか正直全く判らない。
「……あんた、なんかいろいろ心配してるみたいだけど…俺はそんなヤワじゃねえ」
「…………………」
「案外…どうって事ないかもしれないだろ」
 あんたのしたいこと、と呟いた海堂は、乾が言おうとしてた言葉を聞く前から汲んでいた。
 そのうえで正確に先回りしてそう言った。
「どうって事ないって……」
「……それか……俺が…甘くみてるのかもしれねーし」
「…………………」
「判らない事を、あんたにいろいろ心配されてたり脅かされたりしても俺にはどうしようもねえよ」
 だから、と海堂は乾の胸元にもぐりこむように顔を伏せてきた。
 さらりと触れてきた海堂の髪以外、まだ互いの素肌は熱の名残も汗の名残も色濃いまま、ぴったりと重なった。
 乾は海堂の行動や言う事に驚かされるばかりだったが、こうして身体が近づけばいくらでもまだ欲しくなる。
 今までしていた事で、それでもまだ、外れていない箍があったことを自覚する。
「海堂…………」
「…………俺が…平気でも駄目でも…もうしたくないとかは言わない」
「…………………」
 海堂の言葉が何もかも正確すぎて、乾は目を見開き、それから微苦笑した。
「………どっちになっても。嫌にはならないのか?」
「ならねえ」
「俺のすることも、俺のことも?」
「ならねえって言ってんだろ」
 海堂が自分で決めた事は、決して覆されないから。
 乾は安堵した。
 いろいろな感情が指の先まで詰められていく。
 海堂は乾を甘くみている。
 そして甘やかしてもいる。
 今気づいているのは乾だけだというその2つの事実を、海堂にも知らしめるように、乾は海堂を組み敷いた。
 いつもどこか後ろめたく乾の記憶を刺激した雨音が、不思議と今は自らの心音のように、ひどく耳なじみよく聞こえた。







 その後、乾は海堂に。
 どれだけ海堂が乾を甘く見てていたかを、散々思い知らせたのだが。
 いつも乾が危惧していたような言動は、海堂から何も返されなかった。


  あんた、とんでもないっすね。


 ただ、最後にそう低く呟かれた時、海堂が呆れたように笑ったような気もしたが、海堂の喉元にうずめていた顔を乾が上げた時には、海堂はもう、静かに意識を手放していた。
 海堂薫は人の側に近寄らず、また人を自分に近づける事もしな
  かった。
   目つきがきつく、無口で無愛想な、孤高の14歳である。
   それでてっきり海堂は人見知りか人嫌いなのかと思って。
   彼より一つ年上の乾貞治は、海堂が苦痛にならない距離を丁寧
  に酌みとって、海堂の隣に自分の居場所をしっかりちゃっかり確
  保した。
   ところがどうした事か、ただいま海堂は乾の肩に凭れて眠って
  いる。
   これはいったい。
   どういうことか。
  「……………………」
   マイノートの中でも、今乾が見ていて最も楽しい一冊。
   「海堂のヒミツ100」を一ページ目から見返している乾であ
  る。
   どこかにデータの漏れがあったかと、乾は真剣極まりない。
   あの海堂が、乾によりかかってうとうととまどろむ要素、確立、
  可能性。
   肩にかかっている海堂の頭の重みは、乾にはひどく甘いものに
  思えた。
   横目で見やれば、海堂の小さくて丸い頭が見える。
   何で洗ったらこんなにツヤツヤでサラサラの、ピカピカした黒髪
  になるんだろうかと乾はしみじみ思う。
   この情報は絶対欲しがる相手がいるだろうと判断し、乾は調べて
  おくべきことの箇所書き欄に、ヘアケア用品と書き加えた。
  「……いや、そうでなく」
   今はそんなことでなく。
   うーん、と乾はひとりごちて、ノートを捲る手を早めた。
  「渋谷と新宿を、新聞屋と心中苦と海堂が聞き違えたのは先週の事
  だよな…………だいぶ疲れてるなあと思ったのはこの辺りからで…
  ………俺が海堂に何でも言って欲しいって言ったら、何でも鬱陶し
  いって聞き違えられて、まる二日避けられたし」
   流暢な独り言は乾の専売特許である。
   いまや部内では乾がいくら一人語りをしようとも、怪訝がる者は
  誰一人としていなかった。
  「やっぱり疲れからきた行動なのか? これは」
  「………何すか……」
  「おう、海堂……」
   起きたのかと乾が目線をやれば、鋭すぎる程に鋭い海堂のきつい
  眼差しが、珍しい事に、とろんとしている。
   こしこしと手のひらで目元を擦る仕草も初めて乾が見るもので。
   おまけに海堂は目覚めた後も乾の側から離れない。
   また目を閉じて、乾の肩口で、おさまりのいい場所を探すように
  身じろいでいた。
   それを、ねぐら探し中のマムシの図と称する事は、乾にはひどく
  難しい事だった。
   眠たげな海堂の動作を、これはやけに可愛いなあとしみじみ眺め
  ている以上、マムシと例える余地はない。
  「疲れたの? 海堂」
   そっと囁く乾の声は、歳に見合わない上に不必要な色気の垂れ流
  しだと、友人達の間で評判のよくない張りのある低音である。
  「鬱陶しいっすか」
  「またそれを言う。この間の件は、俺の発音不明瞭、お前の聞き取
  りミス、それでちゃんとカタをつけただろう」
   離れていかれそうで。
   しかし乾が、全然鬱陶しくなんかないからと言い募れば、海堂は
  再び乾の肩に力を抜いて凭れた体制になる。
  「…………ひょっとして俺はお前に結構懐かれてるのかな」
  「…………………」
  「海堂?」
  「…………………」
   海堂は何も応える気はないようだった。
   いいけどねと乾はかすかに笑った。
   苦笑、自嘲、照れ、そんなものが少しづつ交ざった笑みだ。
  「海堂は変わってるな」
  「……ここがもし部室だったら、あんたがそう言うかって絶対つっ
  こまれてるっすよ。その発言」
  「そういえば海堂は言わないね。俺のこと変人って」
   思ってるだけなのかなと付け足すと、海堂は目を閉じたまま言った。
  「……変な人じゃなくて。変えない人って読むなら、そう思ってます
  よ」
  「変えない人?」
  「信念のある人って思ってますけど。乾先輩」


   寡黙で愛想のない海堂薫。
   それでも不意にこんな事を言ってくる。
   もうデータでは収まりきれなくなってきた相手と気づいているから、
  乾はここで海堂にキスがしたくなる自分の壊れかけの思考回路に戸惑
  わなかった。
   今したら、その結果はきっと散々で、この感情を海堂に伝える取っ
  掛かりとしてはとてもまずい事なのだと判っているのに。
   どうしてそれでも自分は、そんな行動を起こしたがっているのかと、
  思って乾は流石にほとほと弱ってしまった。

   He missed the kiss?
  
   彼はキスをしそこねたの?

   Yes

   そう、つまりはそういうこと。
 海堂が乾の胸元にここまでぴったりと背中を寄りかからせたのは、今日が初めてのことである。
 今日は乾の誕生日だ。
「はい。あーん」
「………………」
 乾の指に顎を持ち上げられた海堂は、乾が背後にいるから顔を真っ向から見られない事だけを救いに、そっと唇をひらく。
 しかし顔をきちんと上げれば正面は洗面台の鏡であるから、実際は全て見られているのと同じことだった。
「……………ん…」
 口腔に細いものが差し込まれる。
 アップルミントの香りと味。
 乾が胸元に海堂をもたれかけさせ、そっと海堂の口の中に入れたのは真新しい歯ブラシだった。
 海堂が乾にねだられて、今日の彼の誕生日プレゼントとして買ってきたものだ。
 乾の手にある歯ブラシが海堂の奥歯の真上を適度な強さで行き来する。
 そのやり方は、こまかくて、ゆっくりで、丁寧だ。
「……………………」
 人に歯を磨いてもらうなんて経験が、記憶上の親にだってなくて。
 海堂は面映くて仕方なかった。
 乾はといえば優し気な笑みを浮かべて、本当に楽しそうに、海堂の歯を磨いている。
 海堂のことを胸元に引き寄せ、微かに上向かせ、顎を支えて少しずつ歯を磨いていった。
「……………………」
 海堂の顎をそっとすくうようにして支えている乾の指先の甘さに、海堂は何だかどうしようもなく甘ったるい事をしている気になってしまった。
 歯磨きなんてどうってことない日常行為で、それを誕生日プレゼントにねだる乾は変わり者だとは思ったが、断固拒否したい類のものではなかった。
 乾が背後の高い位置からじっと海堂を見下ろしてくる視線も、ただひたすらに、海堂を可愛がる気でいっぱいの熱っぽさだ。
 どんな顔をしていればいいのか判らない。
 しいて言えば海堂のもっかの困惑はこれくらいのことだった。







 気づいたら前日になっていたのだ。
 6月3日は乾の誕生日で、しかし誕生日だからといってうまい具合には何も思い浮かばず、とうとうその日は明日に迫って、だから海堂は率直に本人に尋ねた。
 部活を終えて、いつものように何とはなしに一緒に帰っていた道すがら。
「先輩、明日…誕生、」
「欲しいもの言っていいの?」
「……………………」
 遮られた。
 しかもそのうえ幾つまで言っていいの?などと聞いてきた乾を、海堂は意識しないまま睨みつけてしまっていたが。
「……………………」
 いざ顔を上げて見てみると乾の表情があまりにも嬉しげで、にこやかなので。
 溜息だけついて怒鳴りかけた言葉はぐっと腹に収めた。
 毒気が抜かれるのだ。
 乾のそういう和やかな笑みには。
 一つだけしか違わない、明日までなら同じ歳の筈なのに。
 乾は物凄く達観したところがあって、いつでもひたすらに落ち着き払っている。
 むしろ暢気と言っていいくらいだ。
 全く動じることがない。
 海堂は小さく呟いた。
「…一個」
 てっきり一つだけかとブーイングがくるのだろうと海堂は思ったのだが、乾はそうかと頷くと、何にしよう?と真剣に悩みだした。
「………………………」
 眼鏡を押し上げる節のある長い指を横目にしながら、海堂は少しだけ、自分の物言いをつらめしく思った。
 言葉が足りなくて、態度もよくなくて、でも本当に好きな相手の誕生日だから。
 望まれれば何でもすると決めている。
 それが無茶であっても、無理難題であっても、とにかく何でもだ。
 乾はあまり物欲がないから、恐らくねだられるのは物ではないだろうと海堂は思っていた。
 自分に何かさせたいことがあるか、もしくは乾が自分に何かしたいことがあるか、恐らくそのあたりだろうと考えながら海堂は乾の返答を待った。
「海堂」
「……………」
「決まった」
「………っす」
「歯ブラシ」
「……………」
「同じものを2本。それ持って明日、家に来て…………ん?…あれ、これってプレゼント2つの、指示1つで、数量オーバーか?」
「…………別に…んなこたねーっすけど…」
「よかった」
 海堂が無言でいた理由は、乾が口にした疑問とは全く別物なのだが、改めて説明するのも憚られる。
 どうして歯ブラシで、それも2本で、そして自分が必要か。
 海堂はそれを言いたかったのだが。
「じゃ海堂。明日。楽しみにしてる」
「……………」
 大人びた人が、子供のように喜んで笑んでくるから。
 あんまりこういう顔を、他の人には見せないなあと思うから。
「………お疲れ様っす」
 詰め寄れない。
「うん」
「…………………」
 去り際、目を閉じて海堂の額に唇を押し当てた乾は、唇と一緒にその姿をも海堂から離していった。
 咄嗟の秘め事めいた接触に、海堂が我に返る前に、乾はもういなくなっていた。
「…………………」
 唇で触れられたのは額なのに、頬が熱い気がする。
 海堂はこういうことを自然に、海堂が怒るタイミングもないままにやってのける乾にやはり適わないと思って、まだ閉店には充分時間のある大型ドラッグストアへと寄り道をした。
 そこで、乾にねだれたものを2つ用意した。
 歯ブラシ。
 あまりに普通ものでは、試供品かコンビニ買いかという気がしてならなかったので、海堂は本来ならあまり手にすることのない色つきの毛の歯ブラシを買った。







 6月3日の誕生日当日、部活が終わって乾の家に連れられていくと、今日もそこに家族の姿はなかった。
 帰りも遅いと乾が言っていて、海堂は自分の家が子供の誕生日には両親ともかなり熱心なのだと気づかされる。
 乾はひどく楽しげで、海堂がぎこちなく差し出した誕生日プレゼントを両手で受け取り笑顔を見せた。
「開けていい?」
「………はあ」
 改めて言われるようなものではないと躊躇した海堂を前に、乾はパッケージを破きハブラシを取り出した。
「海堂」
 長い指に小さく手招かれて、何が何だか判らないまま海堂が連れて行かれたのは洗面所だった。
 充分なスペースを確保しているその場の電気をつけて、乾は蛇口を捻り水を出す。
「歯、みがいていい?」
「……………どーぞ…」
 ここで自分は見てればいいのか?と自問自答した海堂は、しかし乾の思惑にまるで気づけていなかった。
「………え?」
 歯磨き粉をつけたハブラシを片手に、乾は空いているほうの手で海堂を引き寄せた。
 胸元に後ろ向きのまま抱き込まれる。
 海堂の背中と乾の胸元が、ぴったりと重ねられた。
「……なん…、……」
 こんな近くで見てなきゃなんないのかと責めるような目で背後の乾を伺おうとした海堂は、耳の縁に軽く乾の唇を重ねられて、びくっと肩を揺らした。
「………じゃ、みがかせてね。海堂」
「…、え?……俺…、…?」
「そうだよ」
「そ………って、…あんた…」
 当然のように言われた言葉に海堂が愕然としていると、乾の笑い声が振動で伝わってきた。
「海堂から貰ったこのハブラシで、海堂の歯磨きがしたいっていうのが、俺の欲しい誕生日プレゼント」
「………っ……なんだよそれ…、…」
「おかしいか」
 おかしいに決まってると言い返そうとした所、乾に抱き込まれた身体がゆるく揺すられた。
 あやされているような、この密着が、心地いいと思うのは随分と恥ずかしかったけれど。
「海堂に、したいことがたくさんあるんだよね」
「…………………」
「へんなことって意味じゃなくて、例えば全力で甘やかさせてくれないかなあとか」
「……あんたが俺のこと甘やかしまくってるって皆が言ってるの知らないんすか……」
「そんなこと言われてるのか? 全力には程遠いんだけど。まだ」
 部活中も放課後も、しまいには自主トレにまでつきっきりで、幸い海堂の生真面目で立ち寄りがたい独自のスタンスが崩れないから悪目立ちこそしないものの、これ以上の甘やかしというものが果たして何なのか海堂には予想もつかなかった。
「誰も海堂にしたことない事っていうのにもそそられるんだよね」
 だからこれとか、とハブラシを翳された。
「…………乾先輩…」
「そんな呆れた風な溜息つくなよ海堂」
「………ふうなんじゃなくて、呆れてる」
「ひどいなあ」
 それでもやっぱり機嫌よく笑う乾に、歯磨きしていい?と耳元に囁かれ、海堂は結局、乾の思考回路を理解できないまま、同意の頷きを返すのだった。







 子供相手みたいに甲斐甲斐しくお世話されるような気分で乾に歯を磨かれた海堂は、口をゆすいで、乾から手渡された厚手のタオルで口元を拭いた。
「はい、おつかれ」
「…………どーもっす…」
 借りたタオルを返す。
 口の中に残るアップルミントの味と香りは適度な辛みと清涼感で海堂の好みだった。
「いい誕生日だなあ」
「………………」
 にこやかにそんな事を言う乾を上目に見やりながら、海堂は何が何だかと口元を片手で覆う。
「…………んなに…楽しいっすか。人の歯みがくのが」
「いや、人じゃなくて。海堂の、ね」
 だから嬉しいと乾の訂正は早かった。
「……あんたが俺にしたいことって、そんなにあるっすか」
「そうだねえ……一個叶うと二個増えて、って感じかな」
「…………………」
 結局それでは海堂が、乾にして貰うことばかりが増えていくという事で。
 乾がそれがいいと言っても、海堂には納得いかない気がした。
 乾が望んだ誕生日プレゼントがこれなら、それはそれでいいけれど。
 たまには海堂の方から行動に出る事を乾にあげられたらというのは、大分対抗心のようなものであったけれど。
 慣れないことをされて、感覚が麻痺していたのかもしれない。
「海堂?」
 乾の身体に片手の手のひらを当てて。
 そのまま膝を曲げ、屈み込んでいく海堂を、乾の怪訝な声が追う。
 貧血か?と危惧してくる真面目な声に、海堂は俯かせた顔を赤くした。
 自分でも何をしようとしているのかと思うけれど。
「海堂」
「…………………」
 制服のズボンの釦に手をかけて、俯いたまま海堂がその下のジッパーも下ろすと。
 さすがに乾は面食らったような短い沈黙の後、慌てた声を出した。
「おい、………」
「…………るせ…」
「海堂」
 うるさい、と泣きそうになって頭の中でもう一度それを言った海堂は、両手を乾の下腹部に当てて唇をひらいた。
 手は支えとしては使わなかったから、舌ですくって、被せた唇で推し進めた。
「……、ん」
 いきなり口腔で角度がついて、驚いて喉が鳴ってしまう。
「海堂、ちょっと」
 焦りというより少し怒っているようにも聞こえる乾の声に、海堂はますます意固地になった。
 口の中の粘膜を乾に密着させる。
 最初に感じたのは自分の口腔にまだ残っているアップルミントの味や香りで、スーッと呼びこされた清涼感は、乾にも刺激を与えたようだった。
「………、…ッ……」
「ン……っ………」
 乾が洗面台に寄りかかったらしかった。
 僅かに引かれた距離を追うように、海堂が更に深く唇に含むと、質感も温度もまた急に変わった。
「……ふ……ぅ…」
 細い喉声が海堂から零れるのと、乾の手に海堂の髪が握り込まれたのはほぼ同時だった。
 やりかたを考える余裕もない海堂が、噛まないように歯だけは使わず咀嚼する口腔の動きが乾に何を与えているのか、触れるそばから変化していく刺激に海堂はぎこちなく舌を動かし続けた。
 自分がしていることへの羞恥心は止まないが、自分のしていることで起こる乾の変化への奇妙な探究心も止まなくて。
 重だるくなっている顎を一層引き下げられながら、海堂は粘膜を絡ませる。
「く………、ぅ…ん……」
「………海堂」
 癒着しかけているかのように乾と密着し続けている舌が痺れて蕩けそうで怖い。
 すこしだけと逃れたくても海堂の口腔にそれだけのスペースは、もうどこにもなかった。
 目を閉じて今出来ることはもうこれだけだと無心に舌を使う海堂の耳に、切り詰めては短く吐き出される乾の吐息が聞こえた。
 その息遣いに相手の欲情を突きつけられた気になった。
「………ぅ」
 肩をきつくつかまれて海堂の眉根が顰められた。
 海堂の肩を砕きそうな勢いで、しかしそれは海堂を引き剥がそうとしている為らしかった。
「…………、…っ…」
「海堂……」
 力づくは強行しない。
 乾はすぐに、今度は優しく海堂の後ろ髪を撫でて、うなじをあやすようにしながら離れるように言ってくる。
 熱のこもった息遣いに眩暈がして、海堂はぼんやりと乾を見上げた。
 潤んだ視界の中で目が合ったような気がしたその瞬間に上顎が押し上げられた。
 喉の奥に熱いものが、固体か液体か判らない感触でぶつかってくる。
 海堂は打たれたように震えて。
「………、……っ…」
 口からそれが引き出され、膝立ちから床に直接座り込んでしまった海堂の両肩を、同じように屈んできた乾の両手が包み込む。
「…………飲んじゃったの?」
「……………………」
 真摯な問いかけに、じわっと顔が熱くなる。
 俯いたまま初めて海堂は自分が乾にしていた事を思い知らされたような気になった。
 急に乾のいなくなった口腔には、まだ様々な気配が残ったままだった。
 感触も、熱も、質感も。
「……大丈夫か? 海堂?」
「……………………」
「具合悪くなったりしないかな……お前潔癖症なのに何であんな」
 言いかけて、乾は別の事を言った。
 もう一回歯みがいてあげると真顔で引き上げられ、海堂は首を振る。
「いい」
「でもな、海堂」
「……嫌だ」
 朦朧となっている海堂は、何が嫌なのか自分でも判らないまま首を振った。
「……平気なのか?」
 乾の声は、まだ気にやんでいる。
 嫌だったのは乾の方だったかと、初めて自分のした事を後悔しながら。
 海堂が平気だと頷くと、乾にきつく抱き寄せられた。
「じゃあ俺もしていい?」
「……………先輩…?…」
「俺にああいう風にされるのは嫌かと思って、我慢してたんだけど」
「…我慢?」
 何を言われているのかよく判らなかった。
 まだどこか自分は熱に浮かされているのかもしれないと海堂は思った。
 乾の腕の力はまた強くなる。
「…………そのうち、させてって言ってみようかとは思ってたけどね」
 そういうものではないんじゃないかと海堂は怪訝に思ったが、今回に関してはまず自分が無理矢理してしまったという事実があるので強くは出れない。
「………、ていい?」
「……っぁ……」
 伸びてきた乾の手に包み込まれて、海堂は息を詰めて乾の胸元に顔を押し当てた。







 乾の部屋に連れて行かれると、ベッドに寝かされ、いきなり下半身の衣服だけ次々剥ぎ取られた。
 足首でまだ制服がわだかまっているうち、膝を折り曲げられ胸元に押し付けるようなあまりの体勢をとらされて、足の狭間を貪られる。
「……っぅ…っ…ぁ……」
 自分はこんな事していないと海堂は思った。
 頭の中が真ん中からじわじわとたちどころに溶けて、熱が広がって、痺れて、ぐずぐずになっていく。
「…………っ…ん、っ…ゃ…、…っん」
 腰が熱くて、甘ったるく煮詰められて、羞恥心も啜るような音で付け根から先まで余す所なく愛撫されていた。
「ゃめ……、……っ……」
「………海堂は…もっとすごいこと俺にしたろ…?」
 熱い息と微かな笑いの振動もそこに絡められ、海堂は咽び泣いて身体を捩らせた。
 どうもがいても下半身はベッドに押さえ込まれ、乾の口から離れられない。
「し………て、ね……っ………ァっ、ぁ…ッ…」
「………したよ」
「…、………て……な………ゃ…ッ……も…離、……」
 泣き濡れた声で懇願しても、俺もそう言ったのにと許す気は全く無いらしい乾はにべもない。
 吸い込まれた先で何をされているのか、海堂は自分から何もかもがあふれて零れ出す心もとなさと、耐え切れなくなってしまったものをそこで放たなければならない羞恥とに最後は声も出せずにのけぞった。
「………っく…ぅ、んっ」
 吐き出す側から更に促すように吸い込まれ、舌を使われ、海堂は開放感よりも止まない長い絶頂感に錯乱して泣きじゃくるしかなかった。







 その後もう一回、乾の唇で同じ事をされて。
 正確には、同じどころか一度目以上にもっと凄かったので、いったい何をどうされているのかと迂闊に見てしまったのが、またいけなかった。
 視覚からの急激な刺激に追い詰められた海堂に、お前だって俺に見せたと乾に囁かれ、頬をゆっくり撫でられた。
 お互いに、自分はここまでのことはしてないと言いながら、与え合って。
 最後は均等に分け合うように身体を繋げて抱き締めあった。
 シャワーを使わなければどうしようもない状態になっていたので、二人で浴室に行き、手早く湯を浴びる。
 乾の両親だって一日帰ってこないわけではないし、海堂もそんなに帰りが遅くなるわけにもいかない。
「………先輩…俺の使った方のハブラシ」
「なんだ。気づいちゃったか」
 正直、浴室を出て、身支度を整えた際、洗面台を見るまで海堂も忘れていた。
 乾が海堂の歯を磨いたハブラシ。
「…………まさか使う気だったんじゃ…」
「残念だなあ」
「………あんたな……!…」
 噛み付く勢いの海堂を笑って嗜めて、乾はコップにさしていたハブラシを海堂に手渡した。
「今日から海堂のハブラシはこれな」
「……………………」
「俺も、もう一本の方、使わせて貰うから」
 初めて好きになった相手の、初めての誕生日、なれないことばかりで歯がゆい気持ばかりが募ったけれど。
 一生物の誕生日だなあと乾がひとりごちているから。
 ありがとうなと目を合わせて笑うから。
 気持ちに見合うだけの行動がなかなか取れないで、ひそかなジレンマに陥る海堂の、人には言えない自責の部分を、乾は優しく丁寧に撫でていった。




 6月3日のことである。  
 乾貞治は海堂薫の家族にすこぶる評判の良い男だった。
 乾はとにかく礼儀正しい。
 中学生のボキャブラリーかというような言葉を駆使するが決して付け焼刃でなく、あくまでも使い慣れた言葉での敬語であり、会話である。
 上辺だけの物言いではないと、大人は聞けばすぐに判る。
 乾の頭の良さと礼儀正しさ、そしてそれと匹敵するくらい、海堂家の面々が乾を気に入った理由がもうひとつあった。
 至極簡単なことである。
 乾は海堂薫を好きである。
 それはそれは大事にしている。
 そういう態度を隠そうとしないし、言葉を惜しまない。
 褒めるし称えるし感心したりもする。
 海堂の父も母も弟も、自分達の大事な家族である自慢の薫をそこまで尊重されれば、乾を気に入らないわけがなかった。
 しかも海堂は家庭内で、そう饒舌なタイプでなかったから。
 時々海堂家を訪れる乾がもたらす日常話には、食いついて離れない節がある。
 乾がまた実に巧みに「こういう所がお父さんゆずりなんですね」とか「ああだから海堂はあの時こう言ったんだって今お母さんの話を伺って判りました」とか「葉末君と出かけるのが大事だから週末はなかなか俺とは約束してくれないんだよ」とか、それぞれが嬉しがることをこっそり言ったりするものだから。
 乾が家に来るとなると、海堂家の全員がそれはもう大騒ぎになるのだ。
 今日は平日の夕方だった為、まずは海堂の母である穂摘と弟の葉末が、学校が終って海堂家を訪れた乾の話を一頻り楽しく聞き、乾もまたそれに対してにこやかに対応していた。
 ひとり苦い顔をしていた海堂に連れ去られ乾がリビングを後にした時には、穂摘も葉末も随分とその退出を惜しんで寂しがったものだった。
 さすがに二人とも海堂の部屋まではついて行きはしない。
 しかし数時間して母親に「お夕食の冷麺、ハムフン式とピョンヤン式、乾君はどっちが好きか聞いてきて頂戴」と言付かった葉末は、機嫌よく兄の部屋に向かった。
 ノックをして、ドア越しに葉末は問いかける。
「葉末です。母が夕食の冷麺、乾さんはハムフン式とピョンヤン式どちらがお好きですかと聞いていますが」
「………すごいねお母さん」
 少ししてドアが開いて、乾がそっと姿を現す。
 兄の薫が見上げているくらいだから、葉末にとって乾は本当に大きい。
 一生懸命見上げていると、乾が自然に、葉末が目線を合わせやすいように屈んできた。
「もしかして冷麺もお母さんの手打ち?」
「はい」
 へえ、と感心しきって頷く乾は葉末を前に真剣な顔で考え込んだ。
「……ハムフン式は麺がサツマイモでんぷん100%のコシのうんと強い方…… ピョンヤン式がそば粉とジャガイモでんぷんが5対5の噛み切りやすい方……そうだな、ピョンヤン式…がいいかな。お言葉に甘えて。図々しくご馳走になります」
「図々しくなんかありません。乾さん。兄は」
「………海堂。どっちがいい?」
 扉に手をかけたまま背後を振り返った乾の影で、葉末の視界は埋まってしまう。
「……同じで良い?………じゃ葉末君。海堂もピョンヤン式で」
「………あれ。今兄の声しましたか?」
「今海堂の部屋にあるマシン使って筋トレメニュー組んでてね。
やってもらってるんだ。動けないから合図でね」
「そうですか。では母に伝えます」
「うん。どうもありがとう」
 乾に見送られ、葉末はキッチンにいる母親の元に足早に向かっていった。








 ビニールレザー貼りのトレーニングマシンに仰向けに、正確には若干身体を横向きにし、身を丸めていた海堂の肩を乾は手のひらで包んだ。
「…………大丈夫だったろ?」
「……、……っ……」
 僅かなスペースに乾も腰を下ろす。
 乱れきっていた海堂の服に手をかける。
 葉末がドアをノックしてきた直前に手をかけていた所から、確実にその続きを。
「……先輩…、……」
「………ん…?」
「…………頼……から」
 きつい目を伏せているけれど、瞳が濡れかけているのは睫の震えで見て取れた。
 カッターシャツの釦はすでに全部外されていて、腹部の一番細い所の僅か下にあるベルトは半分引き抜かれ、そこの前合わせも乾の指がくぐれるように暴かれている。
 薄い胸元の尖りはシャツごと含まれて濡れている。
 乾の肩を掴んで、必至に突っ張っている海堂の腕は震えていた。
 懸命に乾を押しとどめようとして必至になっている目が乾の手に足の狭間を掴み締められた途端、打たれたようにぎゅっと閉ざされた。
「………、…ッ……」
「葉末君の部屋、隣…?…」
「……も……、やめ…」
 のけぞって露になった海堂の喉に舌を触れ合わせると、悲痛な悲鳴の振動が乾の舌に染み込んできた。
 噛み締められた唇まで、喉からゆっくり舌先を辿らせていく。
 顎をゆるく噛んで、その先のひらいた唇を貪ると、海堂の両手が乾の背中のシャツをきつく握りこんできた。
「…………ぅ……、…」
「声出さないでしよう」
「………出来っこないって知ってるくせ…、…ど……して、そういう…こと…言……」
 泣き言に近い言い方は普段海堂が絶対に口にしない物言いだけに、特別な秘め事めいて乾の耳に届く。
「痛くしない。絶対」
「……、…………」
「気をつけてするから」
 海堂の耳元で低く根気強く繰り返す乾の声に合わせて、海堂は息を詰めた。
「…………じゃ……ね…ぇ…、…よ」
「……ん?」
「そうじゃないだろ……っ……」
 上ずった怒声が、しかしたっぷりと涙を含んでいて。
「海堂」
「も、離………」
 どれもこれも中途半端に身体に絡んでいる服ごと乾が海堂を抱き込むと、離れたがってはいるが、される行為が嫌なわけではない事を表すように、海堂はおとなしく抱き込まれた。
「したくない? 嫌か?」
「…そ、………ずる………」
「………ずるいかな。こういう風に聞くのは…?」
 抱きしめながら、海堂の全身をまさぐる乾の大きな手のひらは随分と卑猥に動き、でも言葉だけは極力ゆっくりと海堂に囁きかけてくる。
「声が心配ならずっと唇を塞いでいるし………後のことが心配なら、大丈夫、汚れないように元通りにしてあげるから」
 全部しないで、これ元通りに戻してあげるからと乾に指を使われて、海堂は細い喉声を上げた。
 すぐに乾の唇に強く塞がれる。
「……っ…ぅ…、ッ…ン…、」
 トレーニングマシンの上の無理な体勢では身じろぐたびに身体がどこかにぶつかって、海堂は乾に唇を塞がれたまま抱き上げられた。
「…、…ぇ……?…、……っん…ぁ…」
 そんなに簡単に抱き上げられるはずもないと唖然としているうちに、床に組み敷かれていた。
 海堂の部屋の中には寝室として使えるように、仕切られているスペースがある。
 常にダブル用の布団が用意されている和室に、しかし運んでいく程悠長な気は乾にはないようで、その場で圧し掛かられた。
「ん……、…っ……ン……っ」
 舌をとられたまま次第に温んできた指に愛撫を繰り返され、ぴったりと海堂をくるんでくる乾の手のひらの感触に、海堂は押し潰されそうになっている身体と意識とを、更に何処かへと引きずられていく。
 自分ではどうしようも出来ない。
「……先輩…、……」
 口付けられながら、指で追い詰められていきながら、海堂は気配で乾がシャツを脱ぎかけているのに気づく。
 お互い半端にシャツの合わせがはだけられたような胸元が重なって、鼓動の速さと強さとに息が詰まった。
「…ッ…ん、っ………」
「俺のシャツで、いいよ。海堂」
「……な………、ァ…っ…」
「代えのTシャツあるから」
 幾分乱雑に乾はシャツを腕から引き抜き、脱いでしまうと。
 この中で、と低く告げてそのシャツで海堂を包んできた。
「……、…っ、…っゃ」
 乾の体温の残るシャツごとつかまれて、そのまま動かされる。
「……やめ……、……」
 いくらなんでもそんなこと出来ないと抗う海堂を、乾は加減のないキスで封じてきた。
「………ン…、……ぅ…、っ」
「……大丈夫だから」
「…ッ…ぁ………」
 足の狭間にある乾のシャツの感触にも、使われる指にも、言い聞かせるような声にも。
 キスで判る熱い息や、濡れそぼった舌、絡める時の音。
 全てにやられて海堂は最後に。
「………これに弱いんだよなあ…」
 眦からこめかみに落としたものは乾の唇に吸い取られた。
 苦笑いを含んだ乾の声を聞きながら、海堂はゆるく抱き取られて。
 漸く、小さく。
 安堵の吐息をつく事が出来た。








 今日二度目の部屋のノックの音に、今度は海堂だけでなく、乾も些か驚いた。
「乾さん。兄さん。夕食の準備が出来ました」
 葉末の声に、乾は海堂の髪を素早く撫でつけながら問いかける。
「冷麺って随分出来上がるの早いな」
「………茹でるの30秒くらいっす………麺も、うち圧搾機あるし……」
 ぼそっと呟いた海堂は、葉末に返事してくださいと浅い息で乾に言った。
「…ありがとう葉末君。簡単に片付けて、すぐ行くよ」
「はい。お待ちしてます」
 明るい返事の後、去っていく足音を聞き、乾は海堂からそっと身体を離した。
 海堂が上半身を起こすのを腕を引いて手伝う。
「……目はもう赤くないけど……俺が泣かしたのばれたら潔く謝るか」
 ひとりごちた乾の言葉にぎこちなく顔を反らせた海堂は、くしゃくしゃになっている乾の制服のシャツを見つけて、目でなく顔を赤くした。
「………あんた、あのシャツ……」
「持って帰るよ勿論」
「冗談……ッ……」
 眼差しも言葉も噛み付く鋭さで海堂が食ってかかっても、乾は飄々と、バッグの中から部活の練習用にと予備で入れていたTシャツを取り出し、着替えている。
 乾の背中の筋肉の動きに、そしてそこに自分が縋りついたせいだろう赤い跡を見つけ、海堂はぐっと息をのむ。
「………先輩は……」
「ん?」
 自分の着替えが済むと、乾はまめなことに今度は海堂の上着を着せ替えながら、首を傾けて海堂の目を覗き込んだ。
「……先輩は……何もしないで……」
 いいのかと。
 その時だけ乾の目を懸命に見返した海堂に、乾は小さく笑った。
「俺としては出入り禁止は絶対避けたいから、今我慢する。
でもいろいろおみやげ貰ったから、取り合えずうち帰って今日の埋め合わせはどうとでもなるよ」
「てめ……、…あのシャツとか…まさか……!…」
「シャツ?………ああ。シャツね。ちゃんと洗ってから、着るなり使うなりするから安心しなさい」
「つか、……っ………」
「本当は今のあれにしたいけどねえ…」
 からかってるのか本気なのか全く読み取れない。
 きつく睨みつける海堂を他所に、乾はいかにも惜しそうに、乱れたシャツを横目にしている。
「捨てろ……」
「勿体無い…」
「じゃ、俺が洗うから、置いてけ……っ…」
「うーん………そのへんのことは食事しながら考えておこう」
「メシ食いながら、んなこと考えんじゃねー…っ!…」
 本気で怒る海堂の、この上ないきつい眼差しすら愛おしそうに。
 乾は見つめて笑顔を見せる。




 食事をしながら、泊まっていって頂戴という穂摘と葉末の誘いの言葉を、今日はしなければならない洗濯があるのでという理由で。
 乾は丁重に詫びて、断った。
 それを聞いた瞬間の海堂の表情は、幸い乾の目にだけ映っていた。
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