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How did you feel at your first kiss?
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 観月はいつもいい香りがした。
 彼のいる場所には不思議と澄んだ甘い香りが漂う。
 今日のそれは薔薇の芳香にも似た匂いの紅茶の香りだった。
 カップを両手に、ぼうっとしている観月は、ルドルフの寮にある食堂の片隅の席で、窓の外に目線を向けたまま動かない。
 窓の真下の植え込みには、今が盛りと薔薇が咲き誇っている。
「…赤澤部長」
「おう」
 どうした、と赤澤はひっそりと自分を呼んだ裕太を振りかえった。
 相手が小声だったので赤澤も同様に声をひそめて問い返す。
 裕太は至極遠慮がちに呟いた。
「観月さんに今話しかけるのは…止めておいた方がいいでしょうか」
「観月?」
 赤澤は裕太の言葉に促されるように、肩越しに再度観月へと視線を向ける。
 相変わらず観月はぼんやりとした風情で動かず、手にした紅茶を飲んでいるのかいないのか、窓の外の薔薇を見ているのかいないのか、まるで読めないといった感じだ。
 赤澤はちょっと笑って、真面目な顔で返答を待つ裕太に言ってやる。
「別にお前なら、いつ話しかけたって全然問題ないと思うけどな?」
 多分に本心だったのだが、そういう訳にはいきませんと裕太は慎重だった。
観月が考え事をしているのなら、邪魔をするなど以ての外だと思っているらしい。
 あまりに裕太が真剣な顔をするので、判った判ったと赤澤は笑って言った。
「そうだなあ……あと二~三分したら大丈夫だぜ」
「そうしたら、観月さんの考え事も一段落ですか?」
「いくらなんでもあいつの頭ん中まで判んねえよ」
 そうじゃなくてな、と赤澤は裕太の肩に腕を回した。
 見てみろと空いた方の手で観月を指指す。
「あいつのカップ、もうあんまり湯気たってないだろ」
「湯気とか見えるんですか? この距離で?」
 裕太がびっくりしたような声を上げる。
 まあなー、とのんびりと赤澤は言って、僅かに眉根を寄せた。
「あれはさ、…あー、何つったっけ、香り楽しむみたいなやつ」
「……アロマテラピーとかですか?」
 確か姉が実家でよくやっていたなと裕太が思いながら言えば、それそれと赤澤が頷いた。
「姉貴がいると違うな、やっぱ」
 赤澤の手の甲で軽く胸元を叩かれた裕太がさっきよりも驚いた声を上げた。
「………赤澤部長、俺に姉がいるって知ってたんですか」
 何せ兄が兄なので。
 そちらが有名すぎる分、案外姉の存在には気づかれていない事が多いのだ。
 それで裕太はひどく驚いたのだが、赤澤は若干の勘違いをしたようで。
「なんだ、秘密だったのか?」
 そりゃ悪い、と真面目に言う赤澤に裕太は慌てて首を振った。
「いや、別に秘密ってわけじゃ…」
「そっか。ならいいんだけどよ。……それで、そのアロマテラピー中な訳だ、観月は」
 自分の知ってるアロマテラピーと違うと思った裕太の気持はそのまま表情に出ていたようで、赤澤が内緒話のように裕太の耳元で説明を始める。
「あいつ紅茶を飲むのも勿論好きだけど、香りも好きなんだよ。時々ああやって、湯気で上がってくる紅茶の匂いで、気持を落ち着かせようとしてるわけだ」
「何か……心配事とか、あるってことですか…?」
「それは違うんじゃねえかな。情報量が半端なく多いから、時々ああやって自分で息抜きしてんだよ」
 テニス部のブレインである観月は、練習メニューから個々の状態の把握、他校のデータ収集まで、常に頭をフル稼働させている。
「あいつ、俺の分まで頭使わなきゃなんねえから、大変なんだよ」
 笑う赤澤に、けれども裕太は頷かなかった。
 テニス部のあらゆる内情を取り仕切っているのは確かにマネージャーでもありプレイヤーでもある観月だったが、そんな観月の変化に誰よりも機敏で、誰よりも早く察し、手を伸ばせる事が出来るのが赤澤だったからだ。
「見た目よりか遙かに身体は頑丈なんだけど、見た目のまんまに心情は繊細だろ。観月は」
「セルフコントロールも、すごいですよね」
 いっそもっと頼ってくれたらいいのにと裕太は思っているが、観月は絶対にそういう弱みを人に見せない事を知っている。
 誰にも頼ろうとしない観月を、一番上手に休ませ、手を貸せるのが誰かも知っている。
「……あの紅茶をわざわざいれてるあたりが、結構観月も疲労感たまってるって事だよなぁ…」
 この距離でまさか紅茶の香りが、それも茶葉の種類まで判るのかと、裕太はいよいよもって唖然とする。
 部長の赤澤が只者でないなと思うのはこんな時余計にだ。
「今日の観月の誕生日会の誘いだろ?」 
「あ、はい。柳沢先輩に頼まれて」
 裕太が適役だーね、裕太にしか出来ないだーね、と何故か連呼された言葉を思い返しながら裕太が応えると、同じような事を赤澤からも言われて面食らう。
「悪ぃな、後輩頼りっぱなしの上級生らで。お前じゃないと出来ないからな、観月誘うの」
「……別にそんなことないと思いますけど…」
「俺らなら、馬鹿なこと言ってないで素振りでもやれって言われるのが関の山だって。へたすりゃ僕は行きませんよくらい言うぜ、あいつ」
 低く笑い声を響かせながら、頼むな、と体温の高い赤澤の手のひらに背を叩かれる。
 それがGOサインかのように、裕太は観月に向かって歩き出した。
 途中一回だけ背後を振り返ると、赤澤は観月の所まで行ってしまうと死角におさまる柱の陰に、腕を組んで寄りかかった所だった





 話を聞いて、判りましたと頷くと、目に見えてほっとしたような表情を浮かべた裕太に、全く、と観月は後輩に気づかれないよう溜息を奥歯で噛み砕く。
 彼に言って越させる辺りが姑息なのだ。
 同級生達は。
「裕太君、わざわざありがとう」
 真面目に礼を言った観月に裕太が深く頭を下げる。、
「いえ、観月さん。じゃあ、お待ちしてますね」
「ええ、後でまた………あ、それと」
「はい?」
 下げた頭をすぐさま上げて観月を伺ってくるような素直な裕太の表情に、観月は少しはにかんだように笑った。
「祝ってくれてありがとう」
 裕太君だけに言っておきます、と笑いを悪戯っぽく変化させて付け足す。
 もう一度大きく頭を下げた裕太もまた笑顔で立ち去って行く。
 その背中を微笑ましく見送ってから、ふう、と観月は肩から息を抜く。
 ずっと手にしていた紅茶のカップをソーサーに戻すと、それが合図と決めていた訳でもないのに、当然のように赤澤が近づいてきた。
 それも、手には湯気の立つカップを持ってだ。
「………………」
「冷めたら飲まないだろ、観月は」
 そう言うと、赤澤は温かい紅茶を観月に手渡し、観月が戻した方のカップを片手で無造作に掴むと、ぐいっと一息に飲み干した。
 上下する喉元を座ったまま見上げて、観月は裕太の時とは一変させた表情で赤澤を見据えた。
「ケーキはラズベリーパイでしょうね?」
「誰の誕生日だよ」
 赤澤が笑う。
「僕のですよ。その僕が言ってるんです」
「はいはい、勿論そのように」
 承知してます、と赤澤が丁寧に言った。
 それから少しだけ溜息混じりの、赤澤にしては珍しい口調で一人ごちる。
「……お前、裕太の事可愛がりすぎだろ、ほんと」
「後輩をこき使いすぎです、貴方達は」
「仕方ねえだろ、お前の誕生日、祝いたいんだから」
 裕太からじゃなきゃお前断るだろ?とやけにきっぱり赤澤に言い切られる。
 それはそれで癪だと観月は思う。
 事実だから余計に。
「だから俺らは裕太に頼るしかねえの」
「ラズベリーパイだけじゃ等価交換になりませんね」
「あいつにしか見せてないものと聞かせてないものあるだろ。充分だろ、等価交換」
 赤澤がそこにいるのは知っていたけれど、しっかりどこまで聞いて、何まで見ているのかと、観月は呆れ半分感心半分になった。
「なんですか、その羨ましがるみたいな口調は」
「みたいじゃなくてな。実際羨ましい」
「貴方が言わないで下さい、貴方が!」
 誰よりも。
 誰よりも。
 観月を知って、観月から奪って、観月に与える男が、尚且つ言う事ではない。
 本心から、何より観月が、そう思っているのに。
 寛容で、大雑把で、無頓着で、それなのに何故か観月に対してだけは、赤澤は、そうならない。
 そういうまるで飢餓感のような執着心が自分に向けられていること、それが、ほんの少しも嫌でない自分のことも観月にはちょっと怖かった。
「自分が昨日から今日にかけて、僕に何をして、僕から何を持っていったか、その自覚は?」
「事実は事実として、勿論自覚してる」
「……っ、…それなら猶更でしょうがっ! まだ欲しがるって、いったい何事なんですか、どれだけ欲しがりですかっ!」
 誰もいない事をいい事に、声が荒くなり、深夜睦みあった、まだどこかリアルな記憶で観月の顔は赤くなる。
 だいたい、いつもはリラックスする為に紅茶の香りを好む観月の意識を今なお全部持っていったままなのはこの男で、ふわふわと浮き立つような気持ちは一向に静まらないのもやはりこの男のせいなのだ。
「ん、ごめん」
 思いのほか真面目な声、しかしそれと同時に腰から身を屈めて、赤澤は観月の唇に重ねるだけのキスをしてきた。
「おめでとう、観月」
「……っ……、…っ」
 それはもう何度も聞きましたと怒鳴るべきなのか、こんな所で何をするのかと怒鳴るべきなのか。
 難しい二者選択ではないのに、結局観月は、何も返せなかった。
 赤澤が、また、ゆっくりと近づいてくる。
 紅茶の味。
 薔薇の気配。
 それは観月の誕生日に繰り返される、あまりにも優しいキスを彩る、あれこれだった。
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 もしも、ほんの少しでも。
 本当に、本当にほんの少しであっても、普段と違う態度を見せられたら、相手を蹴り飛ばしてでもここから逃げ出してやろうと観月は思っていた。
 自分の上にいる男。
 自分を組み敷いているこの男が、怖い訳じゃない。
 これから始まろうとしている行為が、不安な訳でもない。
「観月」
 少し荒れた声は、しかし急かさずに、穏やかに観月の名前を呼んでくる。
 赤澤の声。
 それがもし、今のこの場だからだと作られたような甘さだったら、絶対蹴り飛ばしているのにと観月は歯噛みした。
 確かに甘く、この上なく優しい赤澤の声。
 それは腹が立つくらい、本当に、普段通りの声だった。
 いつだって、赤澤は観月の名前を口にする時、こういう声を出す。
「………………」
 赤澤が近づいてくる。
 彼の手のひらが観月の頬を撫でてくる。
 観月は目を閉じた。
 距離が近くとも、恐怖や緊張は、まるでない。
 この空気は通常の自分達のものだ。
 髪に、唇が寄せられる。
 仰向けに寝ている観月の肩を、赤澤がもう片方の手のひらに包んで、そっと撫で下ろしていく、そんな仕草も。
 全部。
 全部、全部。
 特別なものではなく、いつもの赤澤の手つきだった。
 当たり前の普段と何ら変わりない自分達。
「………………」
 ここにきて漸く、観月は赤澤に過剰に気を使われたり、勝手に心配されていない事が判って、ほっと息をついた。
 細く息を吐く。
 そういう意味では、もしかすると、観月も緊張していたのかもしれない。
 意識していたのは自分の方だったかと、あまり認めたくないような事を素直に認めて、観月はそれまでずっと閉じていた目をひらいた。
 それと殆ど同時に、ここ最近で習い覚えたキスが、唇に落ちてくる。
 目を開けたまま受け止めた観月は、間近に見えた赤澤の睫毛の長さにどきりとした。
 そんな事、これまで気にした事なんかなかったのに。
「………………」
 唇はふんわりと重なって、離れないまま角度が変わる。
 ゆっくりと隙間を埋められていくように、キスで唇が塞がれ、互いが密着していく。
 テニスをしている時の赤澤からすると信じられないくらい繊細で丁寧な行動だけれど。
 今この時だからと特別にやり方を変えている訳ではない事を観月はもう知っているので、腕を持ち上げて、指先を赤澤の髪の中へと埋めた。
 片手では心もとなくて、もう一方の手も。
 両手で、赤澤の頭部をかき抱くようにして自分から唇をひらくと、赤澤の舌を含まされた。
 熱さと生々しさとを同時に感じて、身体が震える。
 赤澤には普段と違う何か特別なような態度を決してとられたくなかったのに、そんな観月自身がいつもとは違う事ばかりをしてしまっている。
 赤澤を抱き寄せる事も、自ら唇をひらく事も、キスに震える事も。
 今頃になって観月は目の奥が熱くなってくるのを感じた。
 それが羞恥なのか、興奮なのか、不安なのか、動揺なのか。
 何故か観月には判らなかった。
 判らないキスの続きが、そこから先の出来事が、ひどく特別な事になっていくのかもしれないと、急に気づいて観月は狼狽する。
「観月」
 解かれたキスの後。
 はっきりとした声に呼びかけられ、意識するより先に、ぎくりと観月は身体を竦ませた。
 ここまできて怖気づいた訳ではないが、今、自分が明らかな躊躇を覚えたのは事実だったからだ。
 そんな自分に赤澤が何を言い出すのか正直見当もつかず、観月はこの上なく頼りない気持ちで赤澤を見上げた。
「………………」
 見上げた赤澤の表情は、やはり普段と何も変わらない。
 目が合うと、いつものように、彼は笑って。
 それから赤澤は、甘えるように観月の肩口に顔を埋めてきた。
 唇に笑みを刻んだまま、本当に、甘えるみたいに擦り寄ってくる。
 観月はちょっと驚いた。
 こういう赤澤は、初めてかもしれない。
「……赤澤…、?」
 まだ彼の髪へと埋めていた指先で、無意識に、観月は赤澤の頭を抱き寄せるようにした。
 赤澤からの接触は、全く躊躇われず、何だか全部を、自分に預けてきたかのように観月には思えた。
 観月は少し赤くなった。
 今の、この赤澤を抱きとめている自分の腕。
 まるで恋人に対する包容力だと思うと、自分はいったいいつの間に、こんなにも赤澤を好きになったのかと息をのむ。
「観月ー……」
「………なんですか」
「好きだ」
「………………」
 知ってます、と内心で応えて、観月は赤澤の頭を両手で大切に抱き締めた。
 好きになればいいのだ。
 もっと好きになって、ずっとこうやって甘えて、自分に溺れればいい。
 まるで願うみたいにそう思う。
 こんな欲求が自分の中にあった事を、観月は今日、初めて知った。
「………だったら」
 好きと応える代わりに。
 観月は赤澤を抱き締めながら、命じる。
「早く貴方のものにしなさい」
 この恋のために、とにかく早く。
 暑い暑い暑いと、判りきったことを揃いも揃って口にしている。
 観月は辟易とした。
「はいはい、うるさいですよー、あなたたち」
 面倒極まりないと赤裸々に態度に出して、観月は手を打ち叩く。
「集中して聞かないとどんどん時間は延びますからね。それでもいいのならいつまでもそうやって囀っていなさい」
「さえずるって何だーね」
「そうだよ観月。だいたい観月」
「ああもう好きなだけどうぞ。まだまだここで太陽を浴びていたいようなので、お付き合いしますよ」
 観月が意図的に冷徹な言い方で畳みかければ、チームメイトは揃って一気に大人しくなった。
 出来るなら最初からそうして下さいよと観月はこっそり溜息を零す。
 暑いのなんて、観月だって当然そうなのだ。
 さっさと説明も終わりにしたい。
「それでは。明日の練習試合の注意事項について。説明の所要時間は五分です。邪魔しないで聞きなさい」 
 はーい、と少々間延びはしているが従順な返事が上がったので、観月は中断していた話を再開させた。
 強い日差しの下、ただ一人だけが心地よさそうに青空を見上げて笑んでいるのを横目に。



 観月の話が終わると、テニス部の面々は解散の掛声と共に一気にコートから散らばった。
 観月がラケットの他に資料を入れたファイルやフォーム確認の為のデジカメなどをまとめて持つと、横から一式攫われた。
「……何ですか」
 持って行く、というように赤澤が観月の結構な荷物を手に軽く首を傾ける。
「いいです。自分で持てます」
「じゃ、観月は俺のラケット頼む」
「………………」
 交換条件のようで、ちっとも釣り合っていない。
 観月は日に焼けた赤澤の顔を見上げてあからさまに溜息をついた。
 無論赤澤がそれを気にした風はない。
 赤澤が、こんな風にどこかエスコートじみた立ち居振る舞いを観月にすることは珍しくなかった。
 一見、粗野といったほうがいいかもしれないくらい大雑把な赤澤なのだが、彼は相当なフェミニストだ。
 それも相手を選ばないで自然にやってのけるので、見た目のギャップと相まってか、かなりもてる。
 だからといって観月は女生徒達のように、赤澤に優しくされてはしゃいだりときめいたりなどする気はないので、結局単に居心地が悪いだけになる。
 部長とマネージャーという大義名分があるが、それを使う場合甲斐甲斐しく世話をするのはマネージャーである観月の役目の筈だ。
 何故こういう関係になっているのか観月は不思議でならなかった。
「………荷物なんて持たなくていいから、それだったら試合の説明の方してください」
「観月が話す方が判りやすいからさ」
 サンキューな、と快活に赤澤は笑う。
 観月の小言も気にせず、照りつける太陽を見上げて赤澤の笑みは消えないままだ。
「好きですか」
 そんなに暑いのが、と観月が尋ねると。
 何故か一瞬面食らったように押し黙った赤澤が、そっちかと言ってまた笑う。
「好きだぜ。夏はいいよな」
「そっちかってどういう…」
「いや、お前のことをって意味かと思ってよ」
「はい?」
 好きですか、そんなに。
 それがどうして自分の事になるのだ。
 だいたいそんな事を何故自分が真っ向から赤澤に聞かなければならないのだ。
 観月は叫びそうになるのをぐっと堪えた。
「赤澤、貴方……平気そうに見えますけど、のぼせてるんじゃないんですか。本当は」
「のぼせてっつーか、浮かれてるみたいだな」
「……は?」
「夏好きだし、隣にお前いるし」
「………………」
 この、男は、と。
 観月は奥歯を噛み締めた。
 さっきから言いたい放題何なんだ。
 観月が無言で赤澤を睨み上げると、すぐにその視線に気づいて、悪いと赤澤が苦笑いした。
 おそらくは率直な、何の意図もなく赤澤の口をついて出たであろう言葉だという事は観月も判っている。
 いわゆる口説くような言葉を赤澤が口にする事を、観月は徹底的に諫めているので。
「………………」
 別に赤澤が嫌いな訳ではない。
 現に、こんな風に突っぱねてみせた所で、実際観月は赤澤と付き合っているのだ。
 それを観月が公にしたくないだけの話。
 そういう心情が素気ない態度を呼んで、素気ないくらいならまだいいのだが、随分ひどい態度をとってしまっている気がする。
 今更ながらに観月は気になって、そっと隣の赤澤を盗み見た。
 見たところ赤澤は怒った風もないし、不機嫌な様子も見受けられなかった。
 でも、こんな態度を繰り返していたら、そのうち本気で呆れられそうだ。
 いくら飄々とした赤澤だって、四六時中素気なくされていれば嫌気もわいてくるかもしれない。
 そう思った途端、無性に観月は不安にかられた。
 歩みが遅くなる。
「観月?」
 どうした?と赤澤はすぐに観月の様子の変化に気づいて振り返ってきた。
 足の止まってしまった観月の所まで近づいてきて。
 ぽん、と頭の上に赤澤の手のひらが乗せられた感触に、観月は自分が俯いていた事を知る。
「俺、何かお前を不安にさせたか?」
 実際、不安になっている。
 でもそれは、赤澤のせいではない事も知っている。
 それでも観月は顔を上げる事すら出来なくて。
「なあ」
「………………」
「お前、色々怒ったり嫌がったりするけどさ。二人っきりの時に好きだって言うと、ちゃんと聞いてくれて、すごく恥ずかしそうにしてるのが可愛いなって思ってんだよ。俺はいつも」
「………………」
「今のは、俺が、気が緩んで口に出しちまっただけ。な?」
 ごめん、と軽く頭を撫でられて。
 たいしたことないみたいに観月の不安を浚って。
 そんな風に何もかも見透かされているのに、今度はもう腹を立てる事も観月は出来ない。
 ただ、そんな風に言ってくれる赤澤に、訳もなく安心もして、憎まれ口の一つも言えないまま小さく一つ頷くので、観月は精一杯だった。




 優しく、出来たらいい。
 普通で、いられたらいい。
 好きだと、素直に返せたらいい。
 そのどれも、何一つ、出来ないのに。
 それなのに。




 観月が黙って頷いただけの事で、赤澤は笑った。
 明るく、優しい、当たり前のような笑顔で。
 観月の傍にいたまま観月の何もかもを奪っていく、そんな男だった。

 嫌いな事はいっぱいある。
 騒がしい場所や、ガサツな行動、人の話を聞かない相手、鬱陶しい天候。
 思い通りに進まない計画、抑制の出来ない感情、欺かれること、まずい食事、見苦しい情景。
 あげていく側から増えていくみたいに、それくらい、観月にとって嫌いな事はたくさんあった。
 傍からは、神経質だとかデリケートだとかいう言葉で簡単に纏められてしまう無数の出来事。
 ちなみにそういう自分への評価も、観月はやはり嫌いだった。
 別に神経が細い訳でもないし、繊細な訳でもない。
 普通に考えて、こんなものを好きな人間がいるのかと観月は思う。
 当たり前の苦痛や不満を、異様なように受け取られる事こそ不服で、だから観月はそういった事を極力口にしなかった。
 溜息でそれを一蹴し、流す術を身につけた。
 そういうわけで、今となっては、夥しい数ある観月の嫌いな物を把握している相手など誰もいない。
 誰もいない筈なのに。
 何故か、過去に観月が口にした事は全て記憶していて、更に口に出した事のない嗜好まで把握している男が一人いた。
「観月、寄りかかっていいぞ」
「………はい?」
 ルドルフの屋外用のテニスコートで、ベンチに座って練習メニューの打ち合わせをしていた只中だ。
 赤澤の言葉に観月は不審げに顔を顰めた。
「なに気味の悪いこと言ってるんです。貴方」
「だって雨上がりだろう?」
「……それが何だって言うんです」
 肩を越す長い髪をゴムで括っている赤澤が、切れ長の目で観月を流し見てくる。
 観月の愛想のない言葉にも気にした風もない。
 それどころか彼は、淡々とした口調で、観月の思いもしなかった言葉を紡いだ。
「雨の塩素の匂いで気分悪くなるだろ、お前」
「………………」
 そんな事、口に出した事は、一度もない。
 観月が睨むように見返してもまるで動じない赤澤が、観月の頬を掌でそっと撫でた。
 あまり甘くないやり方だったけれど、その接触に観月は息を飲む。
「肩にもたれるとかじゃなくて。背中で寄りかかってきていいし」
「しませんよそんなこと!」
 全力で否定しつつ、観月は赤澤に問いかけた。
「雨の話なんて……貴方にした事ない筈ですけど」
 実際、苦手なのだ。
 雨上がりの、塩素の混じった匂い。
 元々観月は匂いには敏感で、それで機嫌だけでなく気分まで悪くなることも度々あった。
 ただ、それこそ雨上がりの匂いだけで具合が悪くなるなどと言おうものなら、どういうからかいかたをされるか判ったものではない。
 だからこれは誰にも言った事がないのだ。
 確実に。
「あー、聞いちゃいないけどさ」
「それなら何故」
「見てりゃ判るだろ」
「………………」
 どういう意味だと観月が尋ねるより先。
 赤澤が、上半身を屈めるようにして、ぐっと観月の顔に近づいてくる。
 急に間近で、下から覗きこむようにされて。
 観月が息を詰めると、赤澤は淡く笑みを浮かべた。
「具合悪いってとこまではいかないみたいだけどな。気分が悪いって顔はするからさ。雨上がりは」
 そこまであからさまに自分の感情が顔に出ているとは思わなかった観月は、赤澤の指摘にどう返していいのか判らなくなった。
 そんな困惑までよんでしまったかのように、赤澤が唇の端を引き上げて声をひそめる。
「俺がお前を好きすぎるんだ。ダダ漏れって訳じゃねえから、気にするな」
「………、っ…」
 さらっと言われた言葉に雁字搦めにされた気分で、観月は赤澤から視線を外した。
「寮に戻っててもいいぞ」
「……追い出されるみたいで不愉快です」
「そっか? じゃ、こうしてな」
 肩を抱かれて引き寄せられる。
 同時に赤澤は片足を折り曲げてベンチに上げて、横向きに座って背中を向ける。
 かたい背中にこめかみを当てることになり、観月はますます気難しげに眉間を歪めた。
 結局こんな体勢だ。
 しかし観月はそのままそこで目を閉じる。
 雨の匂いはまだ周囲に散乱している。
 体温の高い男の熱は正直暑苦しい。
 でも、嘘みたいに観月は楽になる。
 何なんだ、と唸るように観月は重心を赤澤の背中にかけた。
 誰かに甘えるなんて、それこそ観月の一番嫌う事なのに。
「なあ」
「………何ですか」
「お前、ちゃんと寄りかかってるよな?」
 感触が軽すぎて判らねえなどと言いながら、おそらく観月が嫌がるから、赤澤は振り返ってまでは確かめないのだろう。
 あまりに真面目な問いかけに、観月は握った拳で赤澤の背中を一度叩いてやった。
「どれだけ鈍いんですか」
「おー、いたか」
「いたかじゃありません!」
 笑っている赤澤に、観月は腹を立て、呆れて、そして、恥ずかしくなる。
 赤澤には、結局ダダ漏れな気がする。
 嫌いな事も、好きな事も。
 でも、多分その原因は自分だ。
 赤澤が察するばかりでなく、自分が発しているのだろうと観月は思った。
 だから今。
 こうしている今。
 観月の感情は、赤澤には判りやす過ぎる程に判りやすく伝わってしまっているに違いないのだけれど。
 もういい、と観月は諦めた。
 赤澤の背に持たれて諦めた。

 好きすぎるんだ。

 そんなの、どっちがだ。
 こっちだってだ。

「いいです。もう。諦めてあげます」
「ん?」
 低い問いかけに、観月は何でもありませんと呟いて、ますます赤澤の背中に体重をかけた。
 毎年美しく必ず咲くけれど、誰のものにもならずに呆気なくも完璧に散ってしまうから。
 一時だけの花に、皆固執するのかもしれない。
 事細かに手をかけることもなく、相手はただ、人が見上げるばかりの花だ。
 まだ開花の萌しのまるでない桜の木の下、観月はぼんやりと、空とその枝先を見上げて思う。
「お前がそうしてると、もう咲いてるように見えるな」
 低い声に、花などない木に花が咲いているように見えると言われて、意味を計りかねる。
 赤澤はゆっくりと観月の佇む近くまで歩み寄ってきた。
「観月が見てるっていうのは、それくらいの効力があるって気がするんだよな」
「訳のわからないこと言わないでください……」
 桜の樹を見上げ、観月の事を語る。
 むやみやたらに甘い優しい声を出されて、観月はぎこちなく目線をずらした。
 どうしてこう赤澤は、さらりと流れる穏やかな声で、観月には理解のし辛い事ばかり言うのか。
 ささいな言葉も赤澤から向けられると観月は身動きが取れなくなる。
「花が咲けば、ここらじゅうまたすごい人なんだろうな」
 木の幹に手をかけて、赤澤がなめらかな低音で一人ごちる。
 観月が困惑すれば、すぐに察して会話を流すのだ。
 いつも、この男は。
 観月は内心歯噛みするような思いで、この辺りの、今はまだ枯れ木も同然の桜並木に視線を流す。
 蕾一つ綻んでいないから、その状態の桜を気に留める者など誰もいない。
 それを思えば桜が人の目を集める期間など花が開く一時だけの事だ。
 盛りの頃の賑わいが、どの花よりも華やかな分、その落差が激しく思える。
「………赤澤、貴方、桜は好きですか」
「ああ。……観月はあんまり好きじゃないみたいだな」
 綺麗な花というより、哀しい花だと、観月は考えてしまうのだ。
 桜の花。
 人々が盛り上がれば盛り上がるほど、綺麗だと花に傾倒すればするほど、妙に物悲しく思えてならない。
 そういう感情を抱く観月に何故か赤澤は気づいているようで、観月は複雑だった。
 彼が自分を判ってしまえる理由は何なのだろう。
 彼が自分のことを判ってしまえる、その理由は。
「……桜が嫌いな訳ではないです」
「あー…、どっちかっていうと、桜にお前が同調しちまう感じだな」
「………………」
 簡単に言ってのけた言葉のストレートさは観月に戸惑いを覚えさせる。
 違和感ではなく、あくまでも困惑だ。
 赤澤という存在が、観月に度々こういった感情を呼び起こさせる。
「桜は……」
「ん?」
 言葉を探りながら。
 感情を突き詰めていく。
 観月が普段しないことを、赤澤といるとしなければならなくなる。
 計算や、情報では、役に立たないこと。
 それらがあれば答えを導き出す事はたやすいのに、それらがないから、答えまでの過程を手探りしなければならないのだ。
「綺麗に咲いている時だけは、特別扱いされるほどに持て囃されるのに。花が咲いていない間は、誰も見向きもしないじゃないですか…」
「そういうとこあるな、確かに」
 花が咲いている時と咲いていない時とであまりに格差のある反応を受ける桜は。
 結果を出した時と出せない時とで存在価値すら危ぶまれそうな自分と似ている。
 だから好きじゃないのかもしれない。
 ふと、そんな事に観月は気づいた。
 花を結ばない桜を愛でる人間はいないだろう。
 そんな事は当たり前だ。
 少しも理不尽なんかじゃない。
「でもな、観月」
 それなのにこの男は、何故そんな優しい目で花のない桜を見上げるのか。
 結果の出せない自分を見つめるのか。
 そんな風に微笑んで。
「花が咲いていない時の桜の方が大事だって人もいるぜ?」
「……はい?」
 こめかみの辺りに折り曲げた指の関節を押し当てて、赤澤が珍しく気難しそうな表情で何かを思い出そうとしている。
 彼の傍らで観月はそれを窺った。
「あー、……草木染めだ」
「草木染め、ですか?」
「そう。綺麗な桜色を出すには、花が咲く前の樹の皮を使うんだって聞いたことがある」
 花が咲かなくたって、誰も見向きもしない何てことはないのだと、赤澤は言いきった。
 それは桜の話だろう。
 でも、それだけでもないのだろう。
「第一、花だけが桜じゃないだろ。幹も枝も、花が咲いてない状態ひっくるめて、全部で桜なんだから」
「………………」
 大きな手を樹の幹に宛がって、見上げて。
 赤澤が口にした言葉が、どれだけ今の観月の感情に浸透してくるか。
 赤澤は何も、気づいていないかもしれない。
 でも、それは大した問題ではないのだ。
「赤澤」
 呼びかければこちらを向いて。
 その後の言葉が続かなくても。
 気にした風もなく笑っている赤澤の存在そのものを、あるがままで観月も受諾できるから。
 ふ、と花びら程度の吐息を零して観月は呟いた。
「……さっきまでよりも、好きですよ」
 桜の話。
 でも本当は桜だけじゃなくて。
 けれどそれは言葉にしなかった。
「咲いたら、花、見にくるか」
「花見の混雑には辟易するので遠慮します」
「校内の桜くらいならいいだろ?」
「まあ。それくらいなら。そうですね。考えておきます」
 いつの間にか並んで歩き出していて、当たり前みたいに言葉を交わして。
 本当にささいなこの程度の約束に、嬉しそうに笑っている男を横目に。
 ふと。
 そんな赤澤から流れ込んできたみたいに観月もまた、自分も同じ笑みを浮かべている事に気付かされる。
 同じ空間で、同じ感情を分かち合う。
 笑みはどちらかだけのものではない。
 もう、自分達で、共有しているもの。
 桜が早く、咲けばいい。
 多分観月は初めてそんな事を考えた。
 桜は咲いていいのだ。
 咲ける、そのタイミングで、ただ咲けばいい。


 花、開け。
 念じてか、祈ってか。
 咲いていいのだと知ったから、花開け。
 聖ルドルフのテニス部内で、実しやかに言われている。
 赤澤吉朗は観月はじめに底抜けに甘い。
 べたべたに甘やかすというより、あくまでも観月至上主義というのが身に沁み込んでいるかのような信頼ぶりなのだという。
 観月にしてみれば、一方的に自分が赤澤に甘やかされているかのような言い方をされているならば即座に全力で否定するのだが、そのあたり付き合いの長いテニス部員達は心得ていて、心酔だとか傾倒だとか信用だとかいう言葉を使われて評されてしまうので、結局そういった発言は放置に至っている。
 もう一人の当事者である赤澤は、感情の振り幅が激しいながらもそれを自分で処理出来てしまえるタイプなので、周囲から言われる言葉に惑わされたり狼狽えたりすることは皆無に等しい。
 観月に甘いと言われても、そうだなあと呑気に笑っているだけだ。
 そんな赤澤が、もっか観月の目の前で物凄い怒った顔をしている。
 怒りの矛先は観月に他ならない。
「おま、……お前なあ…!」
 屋外であっても、びりびりと空気が震えるような重たい怒声だ。
 珍しい。
 快活な物言いの赤澤が言葉を詰まらせるのも、荒っぽい声で観月を怒鳴りつけるのも。
 観月は、そんな赤澤を見上げて眉根を寄せた。
「何ですか」
「何ですかじゃないだろう!」
 更に輪のかかった大声で一喝され、観月はますます不機嫌に表情を歪めた。
 うるさいのは嫌いだ。
 目線に込めて赤澤を睨みつける。
「何やってんだよ、お前はっ」
 自分の肩に伸びてきた赤澤の手を拒むように観月が僅かに身を引くと、怒っているくせに赤澤は微かな躊躇で観月の様子を慎重に伺ってくる。
「………………」
 舌打ち。
 珍しい。
 観月がそんな事を思いながら見据えた赤澤は、物凄い派手な溜息をつくと、一度は止めたその腕で。
 今度は一切の躊躇もなく、観月の背中に手をまわし強く抱き込んできた。
「………………」
 馬鹿野郎と耳元近くで呻かれる。
 互いの身体の間では観月の本が押し挟まれている。
 ルドルフの敷地内、寮までたいした距離がある訳でもなかったが、観月は誘惑に負けたのだ。
 買ってきた本を、すぐにでも読みたくなって。
 外出した格好のままベンチに座って本を読み、夢中になって、結果時間が過ぎていたらしい。
 半ば近くまで読み進めたところで観月は赤澤に怒鳴られたのだ。
 赤澤は見ただけで観月の状況を全て悟ったようだった。
 最初は、目と目が合っただけなのだ。
 観月が誌面からほんの少しずらした視線と。
 大分離れた所から観月に気づいた赤澤の視線と。
 交錯したのは一瞬。
 でも、赤澤は怒って、観月はそれに気づいた。
 説明など何もしていないのに、視線が合っただけでこれだ。
「………………」
 観月は赤澤の腕の中で、小さく溜息をつく。
 本くらい好きな時に読ませろと内心で毒づけば、まるでそれを直接聞きつけたかのように赤澤が言った。
「本くらい部屋の中で読めばいいだろう」
「………早く読みたかったんですよ」
「我慢するにしたって、ここまで来てれば、部屋まで五分もかからないだろうが」
「その五分が惜しいんです」
 片腕ではあったが、しっかりと赤澤に抱き締められているので。
 観月の声は幾分くぐもった。
 赤澤は観月の背中に当てていた手のひらをすべらせて、観月の後頭部を支え荒っぽく嘆息する。
「こんなに身体冷やしてやることかよ」
「別に寒くありませんけど」
「お前を見つけた時の俺の心臓くらい冷えてんだろうが」
「どっちにしたって大袈裟な…」
 赤澤がそんな事を言うから、外気の冷たさに、いきなり気づかされたような気になるのだ。
 観月は赤澤の腕の中で、そんな事を思った。
「…本…買ってきたばかりなんですけど…?」
「本より自分の心配しろ」
 憮然と告げられて、観月も同じような口調で赤澤に返してやった。
「僕の出番なんかありませんよ。貴方が勝手に心配するから」
「こんなになるまで身体冷やさせてるようじゃ、それも全然足りてねえよ」
 言っている傍から、ああもう、と唸るように呟いて、赤澤は一層強く観月を抱き締めてくる。
 赤澤の熱いくらいの体温で、やっと温かみを覚えるような気になる観月は、そのまま立ち上がるように促される。
 観月は逆らわなかった。
 赤澤は観月のカバンを持ち、本を持ち、そして別の方の手で観月の肩を抱き、歩き始める。
 観月はやっぱり逆らわなかった。
 強引な、と上目に赤澤を睨みつつも、この程度の事で真剣に自分を心配する赤澤の本気の度合いも判るから。
「………赤澤」
「何だ」
「……そこまで真剣に焦った顔しないで下さい」
「知るか。責任持てねえよ、自分の顔の事まで」
 赤澤の長い髪は、決して彼の表情を隠しはしない。
 歩きながらとはいえ、観月が間近から横目に見る赤澤は憮然としていた。
「紅茶入れて行く」
 先に行ってろと寮に入るなり赤澤に言われて、観月は即答した。
「いりません」
「寒いんだろうが」
 寒ければ勿論。
 例え寒くなくても、外出先から戻れば、紅茶を入れて飲むのは観月の習慣だ。
 熟知している赤澤の提案を即座に否定した観月に、赤澤は生真面目に怪訝な顔を向けてくる。
 観月はその視線を受け止めなかった。
「…寒いですよ」
 そっぽを向くように赤澤から顔を背けて、小さな声で告げる。
「だから」
 このまま。
 そうでなければ。
 もし、今自分の肩を抱いている赤澤の腕がここでほどけたら。
 そこから、たちどころに、冷たくなっていってしまうのだと、判れ。
「紅茶は、いりません」
 だからこのまま、離れないで閉じこもってしまいたいのだと、判れ。
「……観月ぃ…」
 大らかだが察しもいい男は、きちんと観月の心情を汲み取ったようだった。
 今日はつくづく、赤澤の珍しい声を聞く日だと観月は含み笑う。
 表情は全く見えなかったけれど。
 観月の肩を抱く赤澤の手に力が入って、このまま二人で部屋に戻るべく歩き出す彼の声音に潜む完全降服に似た響きに充分満足して。 
 観月は、ふわりと、失っていた体温を自らの力でも取り返した。
 待ち合わせをしていた訳ではないので。
「遅刻だな。ごめん」
 この赤澤の台詞はおかしいと観月は思った。
 表情に感情がそのまま浮かんだらしく、赤澤は快活に笑う。
「悪ぃ。独り言」
「…独り言の域を越えてます」
 赤澤は地声が大きい。
 でもそれは不思議と耳障りな音ではなかった。
 低い声の響き方は、むしろ穏やかだ。
「お前が待ってたら、俺にとっては遅刻と同じだ」
「………別に待ってませんけど」
「そうだな」
 俺が見つけただけだと赤澤は言って、改めて問いかけてきた。
「用事、済んだのか?」
「ええ。思ったより電話が早く終わったので」
 このまま寮に帰ろうか、それとも。
 赤澤を待ってみようか。
 思ったのは観月で、だから赤澤を待っていたという事も事実なのだと観月にだって判っている。
 でも赤澤が、いつものようにさりげなく流してくれるので。
 結局は、自分はそれに甘えるのだ。
 観月が実家に電話をかけると言うと、察しの良い赤澤は、すでに引退している部活をのぞいてくると言って観月から離れていった。
 それでいて、このタイミングの良さで再び観月の元に戻ってくるのだ。
 これが全て計算づくの行動ならばいい。
 赤澤の場合はそうでないから困るのだ。
「寮戻るか?」
「………………」
「じゃ、ちょっと付き合え」
 観月は黙っていただけだ。
 それなのに赤澤は寮には向かわず、まるで赤澤の都合で連れまわすかのように観月を誘った。
 部屋にある筈の観月のマフラーを放ってくるあたり、どれだけ自分はこの男に見透かされているのかと、観月は溜息をついた。
 寒いと思っていたのは事実なので、観月は無言のまま白いマフラーを首に巻きつけた。
「………部はどうだったんですか」
「球出ししてたら金田に横取りされた」
「何も貴方が球出ししなくたって…」
「あいつらにも言われた」
 別にいいじゃないかよなあ?と赤澤は前髪をかきあげながら観月を振り返ってくる。
 肩を越える長髪が不思議と馴染んでいる男の表情は楽しそうだった。
「裕太が相当スタミナついてたぜ」
「試合したんですか?」
「ああ。俺の前にもゲームやってたみたいだが、全然ばててなかった」
「勝ったのは?」
「ん? どっちが勝ってもお前に叱られそうだな…」
 あくまでも飄々ととしている赤澤に、観月は同じことを二度言わせるなと視線に込めて睨めば。
 赤澤は、ひらりと片手を上げた。
「俺」
「それならいいです」
「いいのかよ?」
「その状況で負けたのなら、貴方、相当なまってますよ」
 観月は相当素気なく言い捨てたのに、赤澤は、そりゃそうかと言って大らかに笑っている。
 付き合えと言っておきながら、赤澤はどこか目的地があるという訳でもないようで。
 ただゆっくりと歩き続けながら、観月と日常話をするだけだ。
 多分赤澤は観月が家族と連絡を取り合う話の内容を、だいたい判っている筈だ。
 敢えて聞いてはこないけれど。
 それは寧ろ赤澤の懐深さの現れでもあるようだ。
「赤澤」
「何だ?」
「貴方、遠距離恋愛とか、出来なさそうですね」
 するのか?と振り返ってきた赤澤の表情が、観月が予想していなかったほど平然としていて、面喰う。
「お前となら何でも出来るんじゃないかと俺は思ってるが」
「………………」
「決定事項でも、何の問題もないぞ」
「……決定事項じゃなかったら…?」
「その場合は」
「………………」
「駄々をこねてみようかと思う」
「………………」
 先程の返事以上に、観月の予想にまるでなかった返答だった。
 観月は大きく目を見開いて赤澤を凝視した。
 この男は、何を堂々と言い切っているのか。
 駄々をこねる。
 全くもって赤澤とは不釣り合いな台詞に、ばかみたいに安堵する自分にも観月は呆れた。
 勝つためにルドルフに来た自分。
 勝てなかった自分。
 高校からの進路をどうするか、自分が揺らぐから、家族も帰って来いと言うのだろう。
 最初にこの学校に来た時のように、断固たる決意をもっていれば、自分の家族は決して反対などしない事を観月も判っているのだ。
 負けるのは悔しくて苛立たしい。
 自信が砕かれるのは恥ずかしく居たたまれない。
 それでも尚、勝ちたいと、勝てるのだと、言い切れるだけの強い自己をもう一度持って、また実行する、それが観月のこれからだ。
 全部判っている。
 全部決めている。
「どっちだって構わない」
「………………」
 赤澤は笑って、手を伸ばしてきた。
 観月の片頬を掌に包み、しっかりと目線を合わせて。
「お前が好きだから大丈夫」
「………………」
 大丈夫。
 そう言い切られて、だからこの男には敵わないんだと観月は思い知らされる。
 迷いようのない言葉に、どう返事をすればいいのか判らなくて、観月は顔を僅かに動かした。
 頬にあった赤澤の手のひらのくぼみに、唇を寄せる。
 目を閉じて、キスを、贈る。
 その手に後頭部を抱え込まれるようにして、観月は赤澤の胸に抱き締められた。



 自分の未来は自分で決めた。
 そのことで、観月はひとつだけ後悔している。
 もし自分で決めなかったら、見られたかもしれないこと。
 赤澤が駄々をこねるところも、少しは見てみたかったな、と思ったからだ。
 確か赤澤の父親はホテルマンだった筈だ。
 ふとそれに思い当たって、観月は聞いた。
「赤澤、貴方、父親似でしょう?」
 肩先を越えたる髪をゴムで括っていた赤澤は、観月に目線を寄越してきて。
「何で知ってるんだ?」
 屈託のない顔で笑った。
 職業のイメージという訳ではないが、相手に気づかせない気遣いを極普通にしてみせるという点で、観月はそんな事を思い、赤澤に尋ねていた。
 常々口では大雑把だと言ってはいるものの、どちらかと言えばプライベート空間に他人がいることを好まない観月が、赤澤とこうして二人でいる事には慣れてきているのだから。
 多分何でもない素振りでいる赤澤が、実の所あれこれと気を回しているのではないだろうかと考えたのだ。
「何でも遺伝子のレベルを越えてるらしいぜ。外も中もそっくりなんだってさ。まあ、自分でも確かに親父似だとは思うけどな」
 観月はどっち似だ?と聞きながら、赤澤は観月を後ろから抱き寄せてきた。
 ルドルフの寮内、観月の部屋で人目はないものの。
 膝を立てて座り込んでいる赤澤と自分の背中がぴったりくっついて。
 観月は中途半端に身体を身じろがせた。
 逃げるにしては弱すぎた抵抗は、かえって赤澤の腕の中に、すっぽり身体を預けてしまうような体勢になってしまう。
「ちょっと、」
「どっち似?」
 耳元のすぐ近くで、率直な疑問を放たれる。
 赤澤の声は、普段はどちらかというと荒っぽい。
 しかし笑みを含むととろりと優しくなる。
 しっかりとした筋肉の利き腕が、観月の身体の前を通って左肩を包み、尚互いの距離を近づけさせる。
 どうしようもないような密着ぶりだ。
 正面から顔をつきあわせていないだけまだマシだったが、観月はちょっと居たたまれなかった。
 こうまでべったりと人との距離が近い事なんて、観月は赤澤で初めて知ったので。 
「母親、ですけど」
 ぎこちなく言った返事に、赤澤がまた邪気なく笑い、そのくせ真面目にこうも言う。
「そりゃ最高に美人なお袋さんだな」
「貴方ねえ、…」
 あまりに真っ当に、真顔で言われると対応に困るのだ。
 観月が呆れて言葉を途切れさせると、赤澤は観月を背後からしっかりと抱き込みながら振動だけでまた新たな笑みを伝えてくる。
「あのな? 観月」
「…何ですか」
「観月が自分で自覚してる、その数倍は実際綺麗だぞ? お前」
「………………」
 赤澤は何かにつけ観月にその言葉を寄越すので。
 軽くかわすなり慣れてしまえばいいものを、どうしても観月は赤澤からのその言葉には戸惑ってしまう。
 赤澤以外の相手からそう言われるのなら、当たり前でしょうと軽く言い返す事くらい出来るのに。
 赤澤だと駄目だった。
 多分その理由は、もう観月も判っている。
 ふと考え込んだ観月の沈黙をよんで、赤澤が観月を軽く腕の中で揺さぶってくる。
「何だよ?」
「別に…」
「何?」
 ん?と観月の肩口に、赤澤が顔を横向きに預けるようにして、観月の表情をのぞき込んでくる。
 甘ったれた仕草のようで、結局は観月の一蹴などでは全く狼狽えない赤澤の剛胆さを表してもいる。
 なつきながらも引く事はしない赤澤の促しに、観月は渋々口を開いた。
 あまり言いたくない。
 言ってしまえば、それは単に拗ねているだけのようだと、言う前から判るからだ。
「…綺麗ならば何でもいいっていうくらい、好きなように聞こえますよ」
「何が?」
 綺麗な人が、だ。
 黙り込んで答えにした観月に、赤澤は真面目な顔で観月を見やりながら、おもむろに眉を顰めた。
 怒っていると言うよりも、不本意を露わにする表情だ。
「俺は、綺麗だったから、観月に惚れた訳じゃないんだが」
「……は?」
 思わず観月も少し背後を振り返るようにして赤澤を見た。
 しかし、がっしりとした腕に抱き寄せられているから、それも侭ならず、観月は窮屈な体勢になる。
 その分お互いの距離はまた密着して。
「違うんですか」
 赤澤は何度もそれを言う。
 だいたい他に理由なんかないだろうと観月は思っていたので、心底驚いた。
 そんな観月に赤澤は溜息をついて、観月の額の少し上辺りの髪を、長い指で軽く乱してきた。
「違うって。惚れた観月が、綺麗だったんだよ」
 後付けなのだと赤澤は言う。
 観月はますます呆気にとられた。
 四六時中、綺麗だ綺麗だと口にするので、赤澤が自分に拘った理由はそこなのだろうとばかり思っていた。
「貴方、それじゃ、いったい僕の何が気に入ったんです…」
 真顔で口にした観月に、赤澤は益々唖然とした後、おいおいと弱ったような笑みを唇に浮かべた。
「色々あるだろうが、色々」
「僕にですか」
「そうだよ。何でそんな驚くんだ」
 大きな手のひらを観月の額に当てて、赤澤はゆっくりと抱き寄せてきて。
 観月はふわりと高い体温に包まれる。
「お前なら、信頼出来るってのが、まず最初」
「………赤澤、貴方ちょっとおかしいですよ。それ」
 観月は本気で眉を寄せて呟いた。
 自分がすることは命令で、それは信頼とは結びつかない。
「何がだよ」
「信頼って……何で僕を」
「するだろ、信頼」
 本当に、ただ当たり前のように赤澤は言う。
 ますます観月が面食らい混乱していると、至近距離にいるのに、おーい、と呼びかけながら赤澤は観月を強く抱き込んだ。
「お前だぞ? 当たり前だろうが」
「………だから、…それが判らないんですけど」 
「何でだ? お前だから、俺は…っつーか、俺たちは、今こうしてると思うが?」
 卑怯な手は使わない。
 使う必要がない。
 でも、それに近いような事を、命じたり、取り組ませてきたと、観月は思っている。
 テニスで勝つ為、聖ルドルフというチームを作る為。
 別に悔やんでいるわけではなかったが、そういう自分がチームメイトから信頼されていると聞くのはどうにも居心地が悪かった。
 複雑に押し黙る観月に何を感じたのか、赤澤が、それを解くように笑いかけてくる。
「俺達はみんな、好きでお前の言うこと聞いてるの、判ってるよな?」
 強制されてじゃないんだが?とからかうような声で赤澤は囁いてくる。
「どんだけスパルタなメニューでも、呆れるような強引な指示でも、それでいいと思えばやる。その時はすぐに理解出来なくても、お前の言うことは後々に充分に効力を噛みしめさせられるんだって事は学習してる。だから、まずはやるんだ」
 お前だからっていう信頼は、そういう事だと赤澤は落ち着いた口調で観月に告げて、尚きつく観月を抱き締める。
 苦しい筈なのに、観月は赤澤の腕の中に収まって、力が抜ける。
 だが、ただおとなしくしているのは気恥ずかしい面もあって、返す言葉は虚勢を張ってしまうけれど。
「……よく考えれば、貴方達、僕の言う事を素直に聞く方が少ないですね」
「そうかー?」
「そうですよ」
「観月ー」
「何ですか」
 肩越しに振り返り、きつく言い返した観月の唇に、赤澤の唇が重ねられる。
「……ッ…、」
 何で、この流れで、このタイミングで、キスなんだと、観月は赤くなって怒った。
「赤澤、…貴方ね…!」
「んー、完璧惚れ込んだ相手が、こうまで綺麗だっていうんだから、すげえよなあ」
 言葉を全く惜しまない赤澤に、観月は何だかくらくらしてきた。
 これだけ四六時中、綺麗だ綺麗だ言いながら、実は顔には後から気づいたという赤澤の言い分を叱りつけているうちに、観月も自分の言っている事の意味が次第に判らなくなってくる。
「一目惚れくらい普通にしなさいよ!」
 極めつけにこんな言葉を放った観月に、動じない赤澤は暢気に笑った。
「あ、それは普通に毎回してる」
「…は?」
「今もしてる」
 実際、ただ怒鳴っているだけの観月を、赤澤は甘い甘い目で見据えてきている。
 さながら、一目惚れの目だ。
 だからそれが口先だけの言い逃れでないことは観月にも充分伝わっているのだが。
「一目惚れは、後から繰り返すものじゃありません…!」
「そんなの誰が決めたんだよ?」
「常識でしょうが常識!」
「じゃ、俺は常識外って事で」
 喧嘩のようにじゃれあって、抱きしめられながら暴れて。
 キスの合間に言い合い。
 怒って笑って呆れて絡んで。
 何なのだ。
 赤澤といると、めちゃくちゃだ、と観月は思う。
「………また、そういう顔まで見せる」
 いつの間にか床に組み敷かれるような体勢になっていて。
 観月が赤澤を睨みつけると、赤澤は何故か何かの勝ち負けに負けたような調子で囁いて、軽く観月の唇をキスで塞いだ。
「……何かご不満ですか」
 離れた唇の合間で観月が言えば。
「いや、これっぽっちも」
「その割には、不服そうな顔をしていますが?」
「キスしてる時は、その顔ちゃんと見られないからどうしたもんかなーと思ってるだけだ」
 薄い微笑と一緒に、真剣にそんな言葉を返されて観月はますます憤慨する。
「……っ…、しなきゃいいでしょう、だったら!」
「いや、したい」
「、した…、……じゃ、見るな!」
「いや、見たい」
「……馬鹿澤っ」
「どうしたらいい?」
「知るかっ」
 自分達はいったい何を言い争っているのかと、怒りか呆れか判らないまま、頭が痛いと観月が思っていると。
 赤澤の唇が喉元に落ちてきて、観月は思わず結わえられている赤澤の髪を引っ張った。
「何してるんですか」
「うん」
「うん、って何ですか!」
 また新しくしたいことがだな、と赤澤は呟きながら、観月の首筋に唇を寄せる。
 全く落ち着きのない。
 そう思いながら、観月の心臓も落ち着きなく荒れる。
 怒りすぎて疲れた、と自分に言い訳と大義名分を与えて。
 観月は身体の力を抜いた。
 赤澤が床と観月の背中の間に手を入れてきて、寝たまま抱き寄せてくる。
 絡みつかせる腕と腕。
 密着する身体と身体。
 賑やかな言い争いはふいに止んで。
 お互いを抱きしめ合う為の静寂は、ほんの少しもこの場に不自然ではなかった。
 言葉もなく、体感するのは。
 好きになる瞬間を繰り返す。
 こういう日常の、よくある一欠片だった。
 二人でいて一緒にすることなんて、精々がテニスくらいだろうと観月は思っていた。
 部長である赤澤と自分とでは。
 テニスの他に共通するような趣味などなく、性格なんかはもうまるっきり正反対で、たぶんテニスがなかったらこうして同じ学校にいても口をきくことすらなかったかもしれない。
 決して相手が嫌いなのではなく、お互い毛色が違いすぎて、接触すらないであろうというのが観月の了見だ。
「………………」
 ルドルフの寮内の食堂で、観月は頬杖をついて夕焼け空を横目に眺めている。
 まるで朝陽のような夕陽の濃さが、やけに赤澤の印象を彷彿させる。
 そんな夕焼けを、きれいだと思う自分に溜息が出る。
 夕闇に近くなっている空は、すでに薄暗くくすんだり、白く煙るような夜の色の空で、その上を夕焼けの色はとろりと溶け出しながら空を滴っている。
 観月が食堂の窓ガラス越しにそんな空を見ていると、背後から肩に手が置かれる。
 そのまま軽く引かれて。
 背中に相手の身体が当たる。
 それが誰だか観月にはきちんと判るし、唐突な接触に慣れつつはあるから、驚きこそしないものの。
「………なんですか」
「ん? 何見てんのかなぁって思ってさ」
 気安い接触、近い距離、そんなものに馴染んでいく自分自身が観月には信じ難かった。
 観月の視線を赤澤は追いかけてくる。
 目線の行き先を辿って空を見て。
 暫くの後、低い声でぽつりと、きれいだなあと呟いた。
 囁かれるような言葉より、肩にあるままの手が些か気になる。
 観月は視線を空から外さないまま返した。
「そうですね」
「あー…でも、もう時期に消えちまうな。夕焼け」
 さばさばとした口調に観月は唇に笑みを刻む。
 和んでというよりは、その刹那に対してだ。
「瞬間的だから綺麗なんですよ」
「そういうもんか?」
「現に、こうして綺麗でしょう?」
 頬杖をついていた体勢から観月が背後を振り返ろうと仰ぎ見た先。
 立ったままの赤澤の目は、すでに夕焼けではなく、観月を見下ろしていた。
 真っ直ぐすぎる眼差しと、まともに眼と眼が合って。
 観月は無意識に浮かべていた笑みを静かに消して息をのむ。
「確かに…」
「………………」
「一瞬なのも、綺麗だったけど」
 赤澤の手のひらが、するりと観月の片頬を包む。
 消えた観月の笑みを見る目をした後、赤澤が、じっと観月も見据えて生真面目に言う。
「別に瞬間的じゃなくても綺麗なもんは綺麗だけどな?」
「なに……」
 赤澤が自分に対してその言葉を向けていることは観月にも判ったけれど。
 何故だか、赤澤にそう言われるのが、観月は苦手だった。
 他の誰が言ったとしても、笑って受け入れられるであろう言葉が、赤澤の口から放たれると、無性に逃げ出したいような気分になるのだ。
 そんな訳がない。
 綺麗なんかじゃない。
 いつも、そう思うのだ。
 目線を逸らした観月の頬から手を引いて、赤澤は黙って観月の左隣に座った。
 引き出した椅子に浅く腰掛け、赤澤は観月の左肩に軽く背中を凭れかけてくる。
 それでは窓にも背を向けてしまっている格好で、夕焼けなど全く見えない。
 無論赤澤の視界に観月も入らない。
「………………」
 赤澤に見られなくて観月がほっとするのは自分自身について。
 赤澤が見ない事が、勿体ないと観月が思うのは、夕焼けについて。
 相反するささやかな感情の対立は観月の胸の内に生まれる。
「………………」
 夕暮れの、一番綺麗な一瞬に赤澤は興味がないようで。
 それは、やはり自分とは好むものが違うのだなと観月に思わせたのだけれど。
「集中させてやるからさ」
「…はい?」
「夕焼け見るの」
 好きだろ、お前、と赤澤は低い声でゆったりと告げた後。
「だから、その後は構えよ」
「……なにを…言っているのか判りませんよ。部長」
 肩口にある、日に焼けた髪を見下ろしながら、観月は幾分歯切れの悪い口調で返す。
 本当は。
 本当のところは。
 赤澤の言わんとしている事が、判っていたので。
 構えって、なんだそれはと観月は憮然と赤くなる。
「判んない? そっか。じゃ、それは夕焼け消えた後説明する」
「………そんなに寄りかからないでくださいよ…!」
 集中など出来るはずがないだろう。
 こんな接触をしている体勢では。
 羞恥を噛んだ素っ気ない観月の言い様に、赤澤は気にした風もなく、しょうがねえだろ?とのんびりと言う。
「前から抱き込んだら、お前夕焼け見えないし」
「…、抱……、離れればいいんですよ。離れれば!」
「やだ」
「やだじゃない!」
「やだー」
「なに甘えてんですか!」
 観月が声を荒げると、両腕を胸の前で組んだ赤澤は、観月の左腕に凭れかかったまま笑う。
「そうそう。つまり甘えてんだよな。俺」
「赤澤、あなたねえ…!」
「だってなぁ……お前はさ、観月。人から要求されれば必ずそれ以上を返してくるから」
 分析だけじゃなくて、どんなことでもさ、と笑う赤澤が。
 いつの間にか観月のあれこれを掌握しているように。
「そういうのを見越して、全力で甘え倒してくるのを止めろと言ってるんだ…!」
「悪ぃ」
「笑うなっ」
「お前は怒るな」
 心地よさそうに笑う赤澤を、観月もまた理解している。

 懐柔の術はお互いが持っているのだ。
 まるでタイプの違う自分達だけれど。
 ほんの少しも、持て余すなんて事は、ないのだ。
 腕と背中と。
 触れあう箇所が少しだけあれば。
 目線なんか合わなくても、別に平気。
 言い争うような言葉ばかりを放っていても平気。
 似ていなくても、同じじゃなくても、一緒にいて、嬉しいから。
 それだけでもう、なにもかもが平気なのだ。
 部屋の外は暑い。
 部屋の中は冷えている。
 夏だからだ。
 お互いに黙って服を脱いだり脱がされたりしている時に、ふと赤澤が、呟くように言った。
「お前、身体冷たいな」
「………………」
 言うなり硬い手のひらが観月を抱き寄せてきて。
 赤澤の両腕に身ぐるみ抱き締められる。
 観月はされるままだったけれど、いきなりにはリアクションしがたい言葉を紡がれた事にも、中途半端な体制で抱き込まれてしまったことにも躊躇して口を噤んだままでいる。
「………………」
 観月を包む腕は熱い。
 硬くて、強靭だけれど、感触は優しかった。
 抱く意味合いを異ならせた腕だったけれど、観月に対する熱量は冷めないままだと判るので、観月は抱き寄せられた赤澤の胸元で目を閉じる。
 釦を外しただけで、まだ羽織っている状態のシャツ越しにも、赤澤の胸元からはくっきりとした体温で熱を感じる。
 先に上着を剥がれてしまっている観月としては、自分の身体が冷たいという事で、改めてお互いの体温の違いを感じ取っていたのだが、赤澤が行為を中断したまま一向に動かないので。
 上目にちらりと赤澤を睨み据えた。
「ん…?」
「……、…っ」
 赤澤は観月に問い返しながら唇を奪う。
 観月はちいさく喉声を上げて目を瞑る。
 キスは短かった。
 赤澤は観月の眼尻に唇を寄せながら、観月の肩に回していた腕で丁寧に抱き寄せ直してきた。
 剥き出しの観月の二の腕をそっと手のひらで撫でさすって、ベッドサイドのリモコンを逆の手に取ると部屋のクーラーを消した。
 そもそもそれは、後輩の練習につきあって、午後はずっと外にいたらしい赤澤がつけた冷房だったのに。
「……なんで消すんですか」
 聞くまでもなく、赤澤とは逆に今日は室内にこもってデータ分析に取り組んでいた観月の、冷房に冷え切った身体のせいだということは判っていたけれど。
 観月ばかりを優先するような赤澤の態度が時々観月の反発心を煽る。
「後でまたつけるさ」
「今暑いんでしょう、貴方」
「この後の方が熱いだろ?」
「……途中で止めておいてよく言いますね」
「止めねえよ。中断だ」
 欲求を隠さない声で囁かれ、耳元に唇を寄せられ、微笑まれる。
 観月は赤澤の腕の中でくらりと眩暈めいたものを覚える。
 ベッドの縁に腰かけて、赤澤の腕に包まれ凭れていると、冷えた肌とは別の所から身体が熱を持っていく。
 赤澤は観月の頭上や首筋に唇を落としながら、指同士を絡めるように手と手を重ねた。
 何だか半裸の状態で、ただ手を繋いで身体を寄せている状態の方がよほど気恥かしい。
「観月」
「……なんですか」
「赤いのかわいいな」
「は…?」
 なにが、と顔を上げかけた観月は耳の縁を赤澤の唇に食まれてびくりと身体を竦ませた。
「あと、ほら。手も、指の先だけ赤い」
「………っ……」
 指を絡めあった手を軽く持ち上げられ、耳とは違い観月の目に入る位置で赤く色づいた先端を浅く赤澤の唇に含まれる。
 すこし濡れた粘膜の感触が観月の爪の上をすべる。
「…っ……、……」
「あー…目赤くされんのはちょっと心臓に悪いけどな」
 真顔でそんな事を言いながら、赤澤は観月の瞼にもキスを落とす。
 ちいさな灯火を撒き散らすのは止めてほしい。
 観月は心底からそう思った。
 自分がこんなに発火しやすいなんて知らなかった。
「も、やだ」
「…ん?」
「あつい、」
 なじるような言い方で。
 ほんの少しもかわいいはずなんかないのに。
 言い方までかわいくしないでくれと赤澤にのしかかられてしまう。
「………………」
 広い背中を抱き返して。
 放熱しているような赤澤の高い体温を吸い込むように観月は手に力を込める。
 観月に浸透してくる赤澤の存在は、冷えた肌に熱を与えるように、異なるものでありながらも異物ではない。
「もう、…」
「観月」
「…いいでしょう、もう…っ」
 今の自分の身体の、どこに冷たい箇所があるというのか。
 観月が声を振り絞って、気持ちも振り絞って、いい加減にしてくれと訴えれば。
 餓えたようなキスが、きつく、観月の唇を塞いだ。
 赤澤の長い髪が首筋をくすぐる。
 擽ったさよりも、ちりちりと肌を煽られる刺激が怖くて、観月は赤澤の髪を覚束ない手で頭の形に撫でつけるようにしながら、深みを欲しがる舌を迎え入れ、唇をひらいた。
「……っ…、…ぅ…」
「………………」
「ん…、っ…、…、」
 キスは熱かった。
 舌が蕩けそうになる。
 絡めても絡めても足りない。
 そう訴えるようなやり方で。
「……っふ…、…ぁ…」
「観月」
 ほどかれたばかりの唇を赤澤の親指の腹が辿る。
 おそらくそこが、今、どこよりも赤いのだろう。
 無意識に薄くひらいた唇で、観月が赤澤の親指を浅く含み、目を閉じると。
 すぐにこれまでの数倍の勢いで、唇が塞がれ、赤澤の両腕に観月の背筋は浮くほど抱き竦められた。
 強い腕を、その力強さを、乱暴だと観月が思うことはなかった。
 観月は寧ろほっとして、力を抜く。
 互いの身体の間で熱が溶けて汗が生まれる。
 濡れあう事は嫌じゃない。
 頭の中が痺れるような熱さが、じんわりと思考に食い込んでくる。
 考えの纏まらない脳裏、それもやはり、観月に少しも不快を感じさせない。
 普段とは、まるで違う。
 汗で濡れて、熱が溢れて。
「赤澤…、……」
 浮かされたような呼びかけを聞きつけて、赤澤が観月の肌に唇と舌とを這わせながら低く言う。
「……クーラーつけるか?」
「…、っ…いいかげん、…に…」
「…観月?」
「よそみばっか、しないで下さい…!」
「よそみ?」
 冷たいだ熱いだと、手を止められるのはもううんざりだ。
 責めながらどこか泣き声混じりの観月の言葉に、赤澤は笑いもせず、怒りもしなかった。
 ただひどく生真面目に、荒いだ吐息を零しながら観月の唇を塞いで。
「お前しか見てない」
 そう一言だけ。


 あとはもう、お互い様。
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