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How did you feel at your first kiss?
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 観月がシャワーを浴びて浴室から出てきたのを見計らいでもしたかのように、部屋の扉がノックされた。
 タオルで濡れ髪を拭きながらパジャマ姿の観月が静かに扉を開けると、そこには赤澤が私服姿で立っていた。
「結構降られたか?」
「…シャワーを浴びる程度にはね」
 予報にもなかった事とはいえ、データ重視の観月からすると、こういう不意打ちに行き当たるのは些か不本意だ。
 出先から寮に戻るまでに、言葉通りに雨に降られた観月は溜息をつきながら、入りますかと赤澤に尋ねる。
 入っていいならと笑う赤澤に観月は身体をずらした。
 一人でいる時間が好きで、寮生活をしていながら何なのだが、あまり部屋に来訪者が来る事を好まない観月だったが、
赤澤には慣らされた感がある。
 頻繁に現れるが、観月が断れば無理強いはしないで帰る赤澤だから、観月も慣れた。。
 扉の隙間から身体を滑り込ませるようにして赤澤が観月の部屋の中に入ってくるのを横目に、観月はあらかたの水分を拭き取ったタオルでおざなりに髪を拭きながら呟く。
「貴方も濡れたんですか、部長」
 赤澤も今日はでかけていた筈だ。
 天気予報にもなかった突然の通り雨に観月が降られたくらいだ。
 赤澤とて同じだろうと観月は思っていたのだが、赤澤の長い髪はかわいていて、少しも雨を感じさせない。
 じっと見つめる観月に赤澤があっさり首を左右に振った。
「いいや。俺は濡れなかった。傘持ってた」
「……随分珍しいじゃないですか。折り畳み傘なんて絶対持って歩かないのに」
「大事なものがあったからな、今日は」
「…大事なもの?」
「ああ」
 これ、と赤澤が目の高さまで持ち上げたものは、彼が右手に持っているマチの広い紙袋だ。
「なんですか、これは」
「ケーキ。食おうぜ」
「は?」
 おめでとう、と言って赤澤は観月の額に軽く唇を寄せた。
 面喰って観月は無防備にそのキスを受け止めてしまう。
 赤澤の唇が離れると、頬にはほんのりと熱が残った。
 瞬きをして、観月が無意識に額に手の甲を当てていると、赤澤が屈みこむようにして観月の唇にもキスで触れ、誕生日だろ?と唇と唇の合間で囁く。
「なんで……知って…」
「好きな奴の誕生日くらい知ってるだろ、普通」
 気負いのない声は優しかった。
 触れるだけの唇と同じくらい。
「………………」
 赤澤はいつもそうだ。
 観月は唸りたいのをこらえるように、赤澤を睨み据える。
 たぶん、睨んでるようには見えないだろうが、悔しいじゃないかと内心で誰に言うでもなく観月は言い訳をする。
 好きだなんて言葉、観月には扱い辛くて仕方無いのに、赤澤はいつでもさらさらと観月にそれを注ぐのだ。
「食堂行くと、人が集まるからなあ……少しだけ独り占めさせろよ。…な?」
「別に、誰も」
 反論など容易く封じられる。
 部屋の中なのに赤澤の手に肩など抱かれてテーブルまで歩いて座らされる。
「紅茶、取りあえず缶で勘弁な」
 袋の中から取り出した紅茶の缶を片手に二本持ってテーブルに置き、大雑把そうな手なのに丁寧にケーキの箱も取り出した。
 小ぶりの箱だったが、赤澤が中から引き出したケーキに観月は目を瞠る。
「……赤澤。貴方、これ何て言って頼んだんですか」
 箱に見合う大きさでケーキも小ぶりではあったが、しかし、小さいながらも二段重ねのデコレーションケーキは、さながら。
「どう見ても、ウエディングケーキのミニチュアじゃないですか……」
 クリームのデコレーションは繊細だ。
 レース細工のように、細く細やかなラインで絞り出された飾りつけは上品で、あとは綺麗な色の赤い実と、控え目な粉砂糖のみの装飾も観月好みではあるけれど。
 赤澤は観月の言葉を受け止めて、確かにそれっぽいと明るく笑った後、ウエディングとは言ってないけどな、と観月の目を覗き込んだ。
「すっげえ大事で、大好きな奴の誕生日ケーキ…っつっただけ」
「な、……」
「綺麗な奴で、綺麗なものが好きだから、そういうケーキを探しただけ」
 伏目に観月を見つめる赤澤の眼差しは甘い。
 食おうぜ、と目元にキスされながら言われて。
 赤澤はプラスチックのスプーンを観月に手渡し、二つの缶のプルトップを開ける。
「このまま…ですか」
「切り分けるの難しそうだろ?」
「確かに…そうですが…」
 少なくとも観月は、小さいサイズとはいえホールのケーキに直接フォークを刺すということを、した事がない。
 普段であれば絶対にしないのに。
「ほら」
 赤澤がひとくちぶん、フォークに刺したケーキを観月の口元に近づける。
「自分で食べますよ…!」
「そうだな。まあ、取りあえずこれは食って」
「……っ……」
 長い指がフォークの柄の方を挟み、観月を、見つめて赤澤が微かに首を傾ける。
 あーん、と声にはしないで唇だけ動かしてくるから余計に気恥ずかしい。
 観月は自棄になった。
 口を開けて、ケーキを食べる。
 人の手から物を食べさせられるなんて記憶にない。
 赤澤は、そうやって観月にケーキを食べさせると、その同じフォークを使って、今度は自分の口にケーキを運んだ。
 だからどうしてそういう事を平然とやるんだと怒鳴ってやりたいけれど、声が上ずりそうで観月は諦めた。
 手渡されたフォークで、自分も同じように手を伸ばす。
 お互い向き合って、両側からケーキを食べ始め、しばらくは無言だったが、小さく赤澤が声にして笑ったので観月はちらりと上目に赤澤を見やる。
 何ですかと眼差しで訴えれば、赤澤は言葉をはぐらかしはしなかった。
「いや、なんか初めての共同作業…ってやつみたいだなぁと…」
 ケーキ入刃でもあるまいし。
「な、っ…」
 思って、声が荒っぽくなってしまうのは気恥ずかしいからだ。
 また話がウエディングに絡んで、赤澤と、赤澤相手だから、そういう話になるのが恥ずかしいのだと、何故気付かないのかと観月は歯噛みする。
 赤澤を睨むように目つきをきつくする。
 まるでこたえた風もなく、赤澤は笑っていた。
「ケーキ入刃より、一緒にこうやって食ってる共同作業のがいいな、俺は」
 言いながら、フォークを持っていない方の手が伸びてきて、大きな手のひらが観月の頭に乗せられる。
 まだ湿った髪をそっと撫でつけてくる手の温かさに、もう本当にこんなことされたら誤魔化すものも誤魔化せないと、観月は顔を赤くした。
「なんなんですか、さっきから貴方…、……」
「風呂上りで、パジャマ姿で、ケーキ食ってるのが可愛い」
「からかわないでください…!」
「からかってない。年上になっちまったけどな、可愛い、お前」
 他に誰もいないのに、自慢するみたいなその口調は何なのか。
 微笑んではいるけれど、むしろ真面目な顔で赤澤が告げてくるから居たたまれない。
「観月」
「……っ…、…」
 突然観月の隣にやってきた赤澤が、両手で観月を抱き込んでくる。
「ちょっと食うの休憩な?」
「……なん…、…」
 赤澤の胸元に抱き寄せられて、ぽんぽんと背中を叩かれて。
 フォーク持ったままですよと観月が叫ぶと、すぐにそれが取られてテーブルに置かれ、今日初めての、唇へのキスが落ちてくる。
「………、…ん」
 甘い匂いがする。
 クリームの、ケーキの、そして何より触れ方の本当に甘いキスで唇を塞がれて、抗えた試しがない。
 パジャマ越しに観月は肩を赤澤の手のひらに包まれ、唇をやわらかく吸われてキスがほどける。
 吐き出す吐息が震えそうで、観月は俯いた。
「……ごめんな?…続き、食うか?」
 耳元で囁かれる。
 観月は首を左右に振って、赤澤の胸元に今度は自分から身体をあずける。
 背中に回った赤澤の手が、すこし驚いているのが判った。
「続き、…」
「…観月?」
「……ケーキじゃない方で」
 消えそうな声だったのに、赤澤はちゃんと聞きとった。
 からかうような事を言わない男だとわかってはいたけれど、赤澤が黙って受け止めてくれるから観月はほっとする。
 早く脈打っている観月の首筋を手のひらに包むように支えながら、赤澤は観月の額に、そっと唇を押し当てた。
「………赤澤…」
「ん…?」
「ケーキ…ありがとうございます」
「俺も」
「え?」
「俺には観月をありがとう」
 よく判らない返事を貰い、面食らう観月の唇に赤澤は丁寧なキスを寄せて。
 パジャマがゆっくり、剥ぎ取られていった。
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 赤澤がコートの中で固まっている。
 聖ルドルフのテニス部内でシングルスのトーナメント戦を行った試合での最終勝利者でありながら、赤澤は試合が終わった後も何か思う顔でコートに立ちつくし、周辺の視線を集めている。
「どうしただーね。赤澤は」
「さあ?」
 柳沢の問いかけに首を傾げた木更津は、裕太からも同じ質問を向けられて、何で俺に聞くのかなと肩を竦める。
「俺にはよく判らない。二人とも観月に聞けばいいのに」
「無理だーね! なあ、裕太」
「そうですよ!」
 そもそも普段から精神的にも体力的にもタフな赤澤の様子がどこかおかしいとなれば、原因は大抵ひとつなのだ。
「…どうせ観月絡みだろうって、二人とも思ってるってわけだ」
 木更津の冷静な声に、柳沢と裕太が揃って大きく、こくりと頷いた時だ。
「悪い。走ってくる」
 それまでどこかぼうっと空を見上げていた赤澤が、特に誰に言ったというでもない口調でそう告げて、長い髪を右手でかきまぜるようにしてコートから走って出て行ってしまった。
 落ち込んでいる風ではない。
 機嫌が悪いといった気配もしない。
 ただ普段のさばさばとして何事にも直球な赤澤ではなく、何か気難しげに、煮え切らないものを無理やり飲み込んでいるような。
 何とも曖昧な雰囲気を滲ませている。
 喧嘩だろうか。
 そう思って三人がそっと盗み見た観月は、コート脇のベンチに座っている。
 腿に乗せたノートパソコンの画面ではなく、走っていった赤澤の背中を見ていた。
「喧嘩……」
「………って感じでもないんだけどなぁ」
「ですよね…観月さんも、ちょっと腑に落ちないっていうか…戸惑ってるって感じですよね…」
 何なんだと迷う部員たちをよそに部活が終了する時間になっても部長は戻らない。
 溜息混じりにマネージャーである観月がベンチから立ち上がり、終了の号令をかけ、部活を終わらせてもまだ赤澤は帰らない。
 観月が無表情のまま、ひとり部室には向かわず、ジャージ姿のまま歩き出したのを横目に。
 テニス部員たちは慌てて部室へと向かい、身支度を整え、次々帰宅していく。
 有能で手厳しい辛辣なマネージャーと、寛容でマイペースで大らかな部長の言い争いは、珍しい事ではないものの、迫力がある事には変わりない。
「さ、俺達も帰ろっか」
「だーね」
「…大丈夫でしょうか? 観月さんたち」
 真面目に肩を落とす裕太を間に挟んで、寮へと歩いて行きながら、柳沢と木更津のダブルスコンビは図らずとも同時に、内心で同じ事を考えていた。
 そろそろかな、と。
 つまりはそういう事だ。




 観月はテニスコートを離れ、部室棟を過ぎ、グラウンドに向かう途中、教会の手前で足を止めた。
 赤澤が教会の壁に、寄り掛かって立っている。
 仰のいた喉元を汗が伝っている。
「部長」
 歩み寄って行き、手にしてきたタオルを観月が差し出しても、赤澤はどこかぼんやりとしている。
 黙って見返してくるばかりなので、観月は溜息交じりにタオルを赤澤のこめかみあたりに押し当てた。
 汗を押さえるようにしてやりながら、静かに問いかける。
「どうしたんですか。部長」
 されるがままでいる赤澤の長い髪が、汗で首筋に張り付いているのを、そっと指先で払う。
「そんなに調子悪そうには見えないですけど…何かありましたか」
「観月」
「何ですか」
「………………」
 しっかりと名前を呼んできたのに、それで口を噤んでしまう赤澤にも不思議と苛立つことはなく、観月は淡々と先を促した。
「何ですか? 赤澤部長」
 二人で向き合って立っている足元に射し込む教会の日陰の色が次第に傾きを広げ、濃くなっていく。
 観月も黙ると、静かに沈黙が落ち、場は音も色身も密やかに静まった。
 見下ろすように観月を見つめてきていた赤澤が、深い溜息を吐き出しながら低い声を放ったのは、どればかりしてからのことだったか。
「……、…っ…あー、…! マジで駄目だ」
「…赤澤…?」
 突然に声を上げた赤澤は。
「走ってくる」
「は?」
 面喰った観月を余所にまたもや走り出そうとして、しかし今度は観月がそれを行かせない。
「あなた、さっきから走る走るって」
「悪い。観月」
 赤澤の強い腕が、それでも力の加減を気遣うような手つきで観月の肩にかけられる。
 押しのけられる。
 観月を避けて走っていこうとする赤澤を、観月は両手で押しとどめた。
「待ちなさい」
 ユニフォームを握りこむ子供っぽいしぐさになってしまったが、気にしてなどいられない。
 観月は目線をきつくして赤澤に対峙する。
「ちょっと落ち着きなさい。何がどうしたんですか!」
「……止めるなよ」
 赤澤が少々面食らったような顔をして観月を見つめてくる。
 まさか止められるなんて思ってもみなかったという顔だ。
 走ってくるだけだって、とその後付け加えられた言葉に、観月は更に眉間を歪めた。
「いい加減オーバーワークです。いくらあなたが頑丈だからって、むやみやたらに走ったって、意味ないです」
「勘弁しろよ…観月」
 走らせろって、と赤澤が普段あまりしないぞんざいな所作と声とで観月の制止を振り切ろうとする。
 そうなってくるとだんだんと観月も憮然となって、口調が荒くなる。
「だいたい、何を考えてるか知りませんけど、そんな風に上の空でやたらに走ったって怪我するだけですよ」
「上の空じゃねえよ」
「上の空ですよ!」
「空っぽにしたくて走ってんだっての…!」
 大声を出したかと思うと、赤澤は続けざま更なる声で怒鳴った。
「俺の頭の中なんざ、お前の事ばっかだよ!」
「……は?」
 一言もらすのが精一杯。
 それっきり絶句した観月の表情をどう見たのか、赤澤は深く嘆息して、軽く頭を左右に振った。
「いや、…それは元からだからいい」
 よくない!と咄嗟に言ってしまいそうで、言うことの出来なかった観月に対して、赤澤も少し頭が冷えたようだった。
 大きく目を見開いたままの観月を横目に見やって、小さく溜息をつく。
 溜息ばかり何回つく気だと観月はぼんやり思う。
「あのな、観月」
「……なん…ですか」
「俺は、お前が好きだ」
「………はい…?」
「それはさっきも言ったけど、まあ、元から。かなり前から、ずっとだけどな」
「…部長?」
 だけどな、と赤澤が真面目な顔で観月を強く見据えてくる。
 咄嗟に観月は息をのんだ。
「お前に手を出したい」
「………………」
 怖いくらい真剣な顔で。
 声で。
 いったい何を言い出したのかと観月は唖然と赤澤を見返した。
 好きだと言ったのか。
 手を出したいと言ったのか。
 この男は、自分に。
 きつすぎるような精悍な顔立ちで、真剣に告げられて、観月は混乱すら出来ない。
 言葉は言葉のままだ。
 そして赤澤は嘘をつかない。
 ごまかすこともしない。
 この驚愕は、観月に混乱ではなく幾許かの怒りを運んできた。
 それは次第に濃く、強くなる。
 元から、前から、好きだとか。
 そんなの観月は知らない。
 今の今まで知らなかった。
 しかも赤澤が、それは別にいい、なんて言う事も気に食わない。
 そういう風に、避けておけるような感情なのか。
 それから、と観月は思考の回転を尚早めていく。
 何より観月が一番に腹をたてたのは、赤澤が頭の中を空っぽにしたいなんて言った言葉だ。
 何故空っぽにされなければならないのか全くもって理解不能だ。
「……っ、…だから、貴方は馬鹿だっていうんです!」
 観月は声を振り絞って叫んだ。
 だいたい、と更に感情の赴くまま、観月は赤澤を怒鳴りつけた。
「僕に手を出したいならそうすればいい。何故しないんですか!」
「おい、」
「僕にしたいことがあるんでしょう? そういう事が、違う事で発散出来るとでも本気で思ってるんですか?」
 観月の明確な怒りに面食らっていた赤澤だったが、観月の最後の言葉にはきっぱりと首を左右に振った。
「いや、それは無理だ。今走ってて完璧にそれは判った」
「遅い!」
「容赦ねえなあ…」
「貴方は情けない声を出さないでください」
 それでも、赤澤が微かに笑った顔に、観月は内心ひどく安心した。
 ここ最近の赤澤ときたら、観月をもってしても何を考えているのかまるで判らず、その事がどうしてこんなにと観月自身びっくりするくらい、心許なく思えてならなかったのだ。
 いつもどれだけストレートに感情を明け渡されていたのか、それをひしひしと思い知らされた。
「観月」
「………………」
 さりげなさすぎて、そうされて一呼吸たってから初めて、観月は気づいた。
 抱き寄せられている。
 教会の影、観月は赤澤の腕の中にいる。
「………………」
 胸が、痛い。
 ひとつ強く心音が鳴って思わず息を詰める。
「…赤澤…?」
「でもな、観月」
 囁くような赤澤の声は振動で伝わってくる。
「お前、ああいうこと言うのは止めとけ」
「……何ですか」
「したいならすればいいとかだよ」
「いけませんか」
 言葉を返せば、顔が見合わせられないほど互いが近くにいることに気づかされる。
 観月の言葉は赤澤の胸元に篭った。
 赤澤の言葉は観月の髪先に触れる。
「どうして僕だけ文句言われるんですか」
「文句って、お前」
「正しく順を踏むなら別に問題はないでしょう。何を貴方は愚図愚図言ってるんですか」
 胸は、相変わらず、ずきずきと痛むくらいに鳴っていて。
 観月は怖い訳でもないのに震える唇を噛みしめながら、言い募った。
 赤澤は何だか唖然としていた風だったが、一度きつく観月を抱き締めてから、観月の肩に手を置いた。
 ひどく大切そうな手つきで肩を包まれ、そっと離される。
 観月が顔を上げると、汗で濡れた顔がゆっくり近付いてきて。
 赤澤の長い髪も汗に濡れていて。
 お前が好きでどうにかなりそうだという赤澤の言葉が、甘い詰りで観月の唇になすりつけれる。
 言葉をそのまま封じ込むよう唇が塞がられ、赤澤の舌が中に入りたそうに観月の唇のあわいを擽った。
 遠慮がちな舌先を、いっそそそのかすように少し噛んでやろうとした観月だったが、うすく唇をひらくなり貪欲に赤澤の舌に侵入してこられて、むしろほっとした。
 頭をかかえこまれるように固定される。
 強引だ。
 そして優しい。
 そんなキスを繰り返される。
 赤澤の手のひらの中で、自分が小さく閉じ込められていくような甘苦しさがあった。
「観月………観月…、」
「………っ…ぅ…」
 角度を変えられ、塞ぎ直され、唇を、何度も、何度も、キスで触れられて。
 赤澤の腕の中で、再び胸元に押さえつけられるように抱きしめられてからも、観月は幾度も薄い肩を喘がせ続けた。
 その間ずっと、観月の背中は赤澤の手のひらに撫で摩られていた。 
「…赤澤…部長、……あなた、…ね…」
「……ん?」
「これが最初で最後…って訳じゃないんですから…!」
 もう少しそのへん考えなさいよと観月が叱ると、赤澤は喉奥で転がすような笑いを零して、そうだなと言いながら両腕で観月を身ぐるみぎゅうぎゅうと抱きしめてくる。
「だから…! 逃げたりしてないんですから、そんなに力を入れなくていいでしょう…っ…」
「悪い」
 何だかもう、どんどん今になって恥ずかしくなってきた。
 照れ隠しのように怒り出す観月を抱きよせて、赤澤はここ最近の彼とはまるで別人だ。
「正しく順を踏めば、問題ない。…ってことで、OKか?」
「……さっきそう言ったでしょう」
「判った。もし俺が正しくなかったら、お前が修正してくれ」
 いきなりふるなよと赤澤が言うので、馬鹿と悪態をつきながら、観月も両腕で赤澤の背中を抱きしめ返す。
「僕がずるかったら、あなたが訂正を」
「ん」
 誓い合う。
 何故ならここはそういう場所だからだ。
 休日を利用して、観月が他校への敵情視察を終えルドルフ寮に戻って来たのは夕刻前のまだ明るい時分だった。
 いつもは賑やかな寮内のサロンも、休日ということで外出者が多いのか、各々室内で好きに過ごしているのか、ひっそりと静まっている。
「よう、おかえり。観月」
 いきなりそう声をかけられても、別段観月は驚きはしなかった。
 ただ、僅かに見開かれた眼は、すぐに、すうっと細められて。
「貴方……」
 観月はあからさまに深く大きな溜息を吐き出す。
 呆れも露わにして。
 観月は一人サロンにいた赤澤へと詰め寄っていく。
「何なんですかその格好は……!」
 眉根寄せた観月は足を止め、間近に対峙した赤澤を睨みつける。
 赤澤は呑気に首を傾けた。
「何だ?」
「何だじゃありません!」
 赤澤が手にして口をつけているのはホットの缶コーヒーのようだったが、この冬の時期でも日に焼けた色のままの赤澤の肌は、肩から剥き出しになっている。
 ノースリーブのシャツ一枚だけの格好は、いくら寮内であっても、この時期異様だ。
 しかも缶コーヒーを飲むのに軽く腕を上げれば、ダブルウエストのカーゴパンツから上、腹部は簡単に曝け出されている。
「この寒いのに何ですかその格好は。貴方何考えてるんですか、」
「ん…ほんとだ。冷たいな」
「…………、……」
 風邪でもひいたらと続けるつもりで赤澤を叱り飛ばしていた観月は、瞬間、息をのんだ。
 缶コーヒーを持っていない方の赤澤の手が、観月の頬を掠って、そのままそっと包み込んできたからだ。
 硬直してしまった自分を観月が自覚するより先、その手は離れていったけれど。
「お疲れさん」
「………………」
 そう言って、赤澤は缶コーヒーを観月の手に握らせてきた。
「……え?…」
「少しはマシだろ」
 笑った赤澤の顔が近くにあって。
 観月は今はもう離れてしまった赤澤の手のひらの感触を、己の頬にまざまざと感じ取った。
 そこにあった、赤澤の手のひら。
「………………」
 急に、何を、どう言えばいいのか、観月は判らなくなる。
 途方にくれたようになって無言で立ち尽くす観月は、そんな自分を間近から見つめてくる赤澤の視線に、自分がゆっくりと絡めとられていくように錯覚した。
 落とされている視線はやわらかい。
 見下ろされているのに、威圧感はおろか、ただひたすらにふんわりと甘い気配だけがする。
 冬だとか、寒いだとか、冷たいだとか。
 今の今まで、観月が口にしていたり体感していたものが、すべて吹っ飛んでいったしまったかのようだ。
 指の先にまで熱が詰め込まれた。
 じんわりと痺れる熱は観月を内側から温めて、それが判るから観月は赤澤から視線を外した。
 ずっと見返していたら、今よりもっととんでもなくなりそうで、視線を逃がしたのだ。
「………………」
 呼吸の為の息にすら熱がこもりそうで、観月は思わず、手にしていた缶コーヒーを一口飲んだ。
 飲んだそばから、こくりと喉を通っていった液体の感触と、気づいてしまった事実に、また目を瞠る。
 じっと、手にした缶コーヒーを観月は見つめてしまった。
「観月?」
「………………」
 不思議そうな赤澤の呼びかけに、観月はまじまじと見つめていた手の中のものから、赤澤へと、視線を移した。
「どうした?」
 舌火傷したとかじゃねえよな?と気遣わしく屈んで顔を近づけてくる赤澤に、そんなわけありますかと観月は苦笑いで返した。
 どう言って良いものか判らないのだが、取りあえず赤澤が心配そうなので、思ったままの事を口にする。
「……こういうの」
「ん?」
「回し飲みとか……出来なかったんですけどね…」
 別段潔癖症というわけではない。
 けれど、誰かの飲みかけの飲み物を口にするなんて事を、観月はこれまで、一度もした事がない。
 意識しての事ではなかったが、勧められれば断っていたし、自らそうしようと思った事もなかった。
「初めてだったので」
 ちょっと驚いただけです、と観月が呟き終わるか終らないかのうちに。
「………え、…?」
 抱き寄せられて観月はか細い声を上げる。
「……赤澤…?」
 硬い胸元に押しあてられるように。
 背中を交差して肩に回った赤澤の手に抱き込まれている。
 落としこそしなかったが傾いてはいないかと、観月が手にした缶コーヒーを気にしたのも一瞬のことで。
 痛くはないけれど更にぎゅっと赤澤に抱きしめられて、観月は戸惑った。
「なん……ですか、…急に…」
「熱出そう…」
「は?……ちょっと、貴方、風邪っぽいんじゃないんですか」
 そんな格好してるから!と怒鳴った観月は首筋に赤澤の唇が埋められて、ぎくりとする。
「ん、……っ、…な…に……」
 軽くそこを啄ばまれて、観月は急激に力なくなってしまった声をこぼした。
「……赤…澤…、…?」
「ヤバイ…」
 熱っぽい囁きに観月は本気で焦ってくる。
「大丈夫ですか?……ちょ、…っ……部屋に帰りますよ、」
 本気で具合が悪くなっているのではないかと危ぶんで、観月は赤澤の背を片手で抱き返すように促した。
 何だかずっしりと重みを増した気がする赤澤の身体を受け止めるのに、足元が覚束なくなってくる。
「そりゃ有難いけど……観月、判って言ってんだろうな…?」
「はい…?…」
 熱い、と次の瞬間観月が思った箇所は、自分の唇だ。
 こんな所でされる筈のない事、その感触。
「な…、…っ……なに考えて…、…っ」
 寮の、こんな場所で。
 噛みつくようなキスなんかされた。
 信じられないと観月は愕然と赤澤を見返した。
 いつものように叱りつけようとして、でもそれが出来ないのは、間近で見る赤澤の婀娜めいた表情に完全に中てられたからだ。
 どうしてそんな、急に。
 嬉しそうな笑みを浮かべたまま、苦しそうな欲情を強くさらしてくるのだ。
 途方にくれたような声で観月が呼びかければ、赤澤はきちんと説明をくれた。 
「そうだな…お前、回し飲みとか絶対しないよなって、思ってさ」
「………………」
「それがさらっと飲んじまって、挙句初めてだって言って、ちょっと驚いたって、言ってるの、お前、その驚いた顔とか声とか、めちゃくちゃ可愛かったんだよ」
「………、…な……」
「あー、くそ、ヤバイ、どうすんだ。一気に頭回っちまった」
 くらくらしてきた、と熱のこもった声で紡がれる言葉はどれも取り繕いなくストレートで。
 観月は聞いてる端から盛大に赤くなったが、いつものように何かを言い返す事が出来ない。
 まるで混乱や欲情が伝染してくるかのように、観月の頭も一気に回ってきてしまったかのようだ。
「こんな所でそんな事言わないでください……!」
 信じられない、と弱い声で詰りながら、観月は赤澤の広い背中を握った拳で叩いた。
 たいした力もこめられない。
 これでは、早く連れて行けというねだる意味合いでしかない。
「………………」
 そんな観月の左手は、すぐに、赤澤の手に握りこまれた。
 しっかりと。
 そして引きずられていく。
 それは観月の望んだように。
「………………」
 部屋につくまで一度も振り返らなかった赤澤の背中に、しかし観月が不安を覚えることはなく。
 部屋につくなり改めて重ねられた赤澤の唇に、安堵と眩暈と衝動とを与えられた。
 観月の実家から聖ルドルフ寮に送られてきた大量のさくらんぼは瞬く間になくなった。
 余ったら時はどうしようかと観月が思うような量だったのだが、それも杞憂に終わったようだ。
 各部屋を回って配るまでもなく、食堂に置いておいただけで全てのさくらんぼが引き取られていった。
「観月さん、ありがとうございます。いただきます」
 甘いもの好きの後輩が律儀に頭を下げてくるので、観月も部屋に帰る足を止めてひっそりと小声で耳打ちする。
「裕太君、まだ僕の部屋にもありますから、それ食べ終えたらまたいつでもいらっしゃい」
「ありがとうございます。でもお家の方、観月さんに一番に食べて貰いたいんだと思いますから」
 ちゃんと観月さんも食べて下さいね、と観月が目をかけている後輩は屈託なく笑顔になった。
 邪気のない表情は伝染する。
 観月も自然と零れたように笑って、手を上げ裕太と擦れ違う。
 本当に、どうしてあそこまでと思うくらいに。
 裕太は自分に懐いていると観月は思う。
 自分はあまり良い先輩ではないだろうにと思いながら観月が寮の自室に戻ってくると、室内には壁際に寄せたさくらんぼの箱と。
 それから壁に寄りかかって座っている赤澤の姿があった。
 かつて観月に、裕太は懐いているんじゃなくてお前を慕ってるんだよ、と観月の自嘲を訂正してきた男だ。
 その上、見当違いの悋気までちらつかせてきた訳の判らない男。
 自然と裕太からうつった笑みは別のものにすりかわる。
「なんだ観月。人の顔見るなり溜息かよ?」
 低い声はさばけていて、唇の端には笑みが刻まれているから、言葉程気分を害しているようではないようだ。
 長い脚を投げ出して座り、右膝だけ立て膝になっている赤澤はのんびりとそう言って、観月を見つめてくる。
 赤澤の手元にあるさくらんぼの箱は手つかずのままだ。
「食べないんですか」
「ん? 待ってた」
「別に待ってなくても。好きに食べてて下さいって言ったでしょう」
 今度はかなりはっきりとした吐息を零して、観月は椅子を引いて机に向かう。
 赤澤は身体の向きこそ違えど、観月の足元に座り込んでいるような位置にいる。
 斜に眺めおろした眼差しを観月が向けると、赤澤は穏やかに笑っていた。
「家の人たちは、ともあれお前にって心情で送ってくれたんだろうしな」
 きれいだよな、と赤澤が箱に整然と並んでおさまっているさくらんぼを見やって囁く。
 どうして果物を見るのにそんな甘い眼差しをするのだろうか。
 うっかりと赤澤のそんな表情を食い入るように見つめてしまいそうで、観月はぎこちなく視線を外す。
「さくらんぼの実には、目に見えない小さな穴があるんですよ」
 何か喋っていないと落ち着かないような気になって、観月は赤澤を見ないまま話し続けた。
「だから雨に当たると実の中に水が入り込んで、膨らんで、パンクしてしまうんです」
 そういう点で手の掛かっている果物ですね、と添えた観月の声に被せるように。
 赤澤から放たれてきた言葉の意味が、観月にはすぐには判らなかった。
「そういうのを知ってるなら、気をつけろよ」
「…はい?」
 何か扱いがまずかっただろうかと、観月がさくらんぼの箱を見ると、赤澤が首を左右に張った。
「違う。お前」
「僕が何ですか」
「まんまお前だろ、今の」
「今の…って…」
「目に見えないのも同じだな」
 無数の穴、それがすなわち観月に脆さが無数あると、そう赤澤は言っているのだろうか。
 観月はたちまち憮然となった。
 椅子に座ったまま目線だけでなく身体ごと赤澤に向き直る。
「そういうものに人を例えないでくれませんか」
 どういう意味で赤澤がそう言ったのか。
 正確に理解している訳ではないけれど。
 とりあえずの見目の可愛らしさや手間暇のかかる性質、人の手がいつだって必要で、放っておかれたら正しく育つことも出来ないその果実に己を例えられるのは、正直観月を複雑に苛立たせた。
 まるで見当違いだと言い切れない自分を自覚しているから余計にだ。
 そして、現にそんな観月に一番労力を費やしているのがこの赤澤だから観月の心情は更に荒らくれる。
「手塩にかけて、囲うように、ただ守って?」
「おい、怒るなって」
「何で怒ってるのか判らないで適当に宥めないで下さい」
 ただひたすらに大切にしてくるような赤澤の腕を。
 観月は時にはひどくいやだと思う事がある。
 守られるような接触を。
 与えられて安堵する自分もだ。
 赤澤を睨んでいた眼を観月が逸らすより先、赤澤の腕が伸ばされてくる。
「判ってるっつの」
 握りこまれた指先。
 赤澤は距離を縮めることなく手だけをつないできた。
「弱いとか手がかかるだとか言ってるんじゃない」
「………………」
「観月が、いくらさくらんぼそのものでもな? お前が傷まないようにって、手を伸ばしても、守っても。最後はちゃんと違う」
 赤澤の言っている事が少しおかしい。
 観月は憤慨以外のそんな思いで眉を顰めた。
 観月が怒っているのは、可愛らしすぎる弱く脆い果実に例えられる自分自身と、一方的な擁護が必要だと言われているかのような事実に対してだ。
 最後というのは何だ。
「……何ですか。最後はって」
「出荷はしないって事だよ」
「…出荷……?」
「観月を食うのは俺だけだって話」
「な、……なに言ってるんですか、赤澤…!」
「食う為だけに育てる訳でもないしな」
 本当に。
 真顔で。
 いったい何を言うのかと、観月は咄嗟に何一つ言い返せなくなった自分自身にも呆れた。
 赤澤はそんな観月をどう見たのか、観月の指先を握りこむ手に、ぎゅっと力を入れてきた。
「お前が好きだって事」
「……、…っ……」
「好きだよ。観月」
 赤澤は繰り返す。
 観月が硬直していると、腕が引かれた。
 椅子に座っていた体制から床に座り込んだのに、どこも少しも痛くない。
 観月は赤澤の広い胸に抱き込まれていた。
「………………」
 胸元に押し当てられた自分の顔が熱を帯びていくのが判って観月はますます何も言えない。
 長い両腕に囲い込まれるように抱き締められて、自分がまるでとても小さく弱いものになってしまうような感覚もこわい。
 こわいのに、いやではないから、どうしようもない。
 膨らんで、膨らんで、パンクしてしまいそうだ。
 これでは本当に。
「観月」
「………っ……、…ゃ」
 赤澤の声や、抱擁や、体温や、匂いが。
 自分の中に入り込んで、埋まっていって、膨れ上がり破裂しそうだ。
「おーい……観月…」
 参ったな、と苦笑交じりの赤澤の声音が耳元間近から聞こえる。
 観月の混乱を過敏に察したのであろう赤澤は、観月をやわらかく抱き締めなおして、耳の縁にそっと唇を落としてくる。
「好きだ」
 弱くなったのではなく、小さくなっただけ。
 甘い声は少しだけ変貌して尚も観月に囁いてくる。
 繰り返し、繰り返し、それでいて全くおざなりにならない赤澤の低い声。
「ばか、…っ…もう、いい…、…!」
 もういい、それ以上言うなと、そう繰り返しても止まらない。
 好きだと、降る雨のように赤澤の唇から告げられ続け、浴びせかけられ、観月は息も絶え絶えになった。
「も、……何なんですか、…っ……貴方は……!」
「何って」
 お前にベタ惚れなんだよ、とやわらかく耳元で笑われて。
「…言葉の暴力ですよ…!」
 焦がれるような声も。
 耳元で囁いてくるやり方も。
 衒いのない言葉も。
 全部。
 全部全部暴力だ、ここまでくると、と観月は八つ当たりじみている事を自覚しながらも責め立てた。
 赤澤がそれで機嫌を悪くする事はなかった。
 ただ軽い溜息と一緒に。
 少しだけ身体を離して。
「非常にデリケートだな、お前は」
 判っちゃいたが、とからかうでもなく苦笑いする。
「面倒なら放っておけばいいんです」
「バカ」
 日に焼けた精悍な顔は、随分と情けない顔で観月を覗き込んできて。
 それでも何ら遜色ない面立ちを唇が触れ合う距離まで近づけてきて。
「お前が面倒だった事なんざ一度もねえよ」
「……っ…近い…、」
「そうか?」
 薄く笑った形の唇でキスされる。
「ん、…っ…」
「構わせろよ」
 な?と甘く角度を変えられて、口づけられて。
 ぎゅっと赤澤にしがみついてしまった観月は、更に熱っぽい手に背中を抱き返されて目を閉じる。
 キスで床に押し倒されて、首筋をくすぐる赤澤の長い髪の感触に微かに震える。
「……か…ざわ」
「…ん…?」
 構わせろ、まで言うのなら。
 これまでだって散々に赤澤は観月を甘やかしてきたのだから。
「途中で飽きたりなんかしたら…その場で枯れてやる」
 きつく睨み据えて観月は言ったのに。
 赤澤は、蕩けても精悍な顔だちを少しも損なわない笑い方で観月の頬に口づけた。
「それならお前は一生綺麗なままだな」
 臆面もなく言い切った赤澤に観月が返せる言葉はない。
 けれど言葉の代わりに、観月は赤澤の唇へ。
 重ねた唇、忍ばせた舌先。
 赤澤だけしか口にしない、赤澤だけしか口に出来ないものを、観月の方から差し出した。


 大事に噛まれて、熟れた。
 ほんの少しも不自然さを、例えば後ろ暗いような思いだとか、違和感だとかを、観月にまるで感じさせずに赤澤は観月の身体に触れる。
 それはいつも魔法じみた赤澤の手腕だ。
 人と接触を持つことは観月にとって実はひどく難しい事だった。
 イニシアチブが自分にあるのならば幾らでも手段と方法が選べるのだが、自分では躱せない相手からの接触には身動きがとれなくなる。
 人づきあいに不慣れなのだ。
 そう見せない為に虚勢を張っている自覚もある。
 それなのに何故か赤澤相手にはそれを感じない。
 どこか戸惑うことはあっても、赤澤に見られることや言われることや触れられることを、嫌悪した事は一度たりともなかった。
 自分を抱く男を観月はいつも不思議に思うけれど。
 それが嫌だった事はない。
 抱きしめられて、抱きつくされて。
 肌を直接辿られ、体内まで深々と暴かれて。
 そんなことをされても、苦しいのは羞恥心の酷さだけで、あとは何も苦痛でなかった。
 もちろん事後しばらくは赤澤と面と向かえない観月だったが、ひとしきり後始末と身繕いをされ、丁寧に扱われた後寝かされたベッドで髪など撫でられたりすればもう、今更張るような意地もなかった。
 毎回、本当に思い返せばとんでもないようなことをされているのだが、観月の混乱は悉く赤澤に粉砕されて、すべて終わった後はただぐったりとなるだけだ。
 痛みではなく、余韻でもなく、例えようのない色濃い甘い赤澤の存在感は、観月の身体の内部や肌の表面にちかちかと瞬く欠片のように存在している。
 強かったり切なかったり濃かったり優しかったり。
 そのせいで観月はこんな風に、いつまでもぐったりと脱力する羽目になるのだ、きっと。
「観月」
 低く落ち着いた声は柔らかくて、うっかりうっとりしかける自分に観月が気づくのも、こんな時にはよくある事だった。
 観月を抱いた後の赤澤の声は、いつもよりも更に深くて優しい。
 呼ばれて、観月は数回震わせるようにして瞬かせた睫毛をゆっくりと引き上げて目をあける。
 寮のベッドはさして高さがない。
 床に片膝を立てて座り込んだ赤澤と、ベッドに横たわる観月の眼差しとは、そう大差ない。
「………………」
 目と目が合うと、赤澤は顔を近づけてきて、一瞬観月の唇を掠ってまた離れていく。
 軽い接触だ。
 観月の目前で、赤澤は。
 笑みの気配に目元や唇が緩んで尚、顔つきは男っぽいまま再度観月の唇を静かに塞ぐ。
 最中は気づけないような唇のやわらかさと、観月は幾度となく瞬くのにいつ見つめても観月を見つめている赤澤の目と。
 観月は繰り返される浅いキスの合間に掠れ声を零す。
「……何で、毎回、そう…」
「………うん?」
「嬉しくて、…たまらない、みたいな顔…」
 してるんですか、と。
 呆れと羞恥がないまぜになったまま観月が口にすると、赤澤はその笑みを衒いなく深めてきた。
 言葉よりよほど雄弁な表情を赤澤は持っている。。
「なあ、観月」
「…なんですか」
 額と額が触れ合う。
 またキスに唇が掠られる。
「お前体温低いだろ?」
「……あなたが高すぎるんですよ」
 いきなりの赤澤からの問いかけに、力なく返した観月は、伸びてきた赤澤の手に前髪をいじられながら顔を覗きこまれる。
 髪の毛一本一本にまで神経が通っているようだと、観月はありもしない事を思った。
 赤澤が触れる。
 そこに熱がともる。
 抱かれるたびに身体も脳裏も焼き尽くされると切に思う。
 それほどまでに赤澤の熱は凄まじかった。
 そんな赤澤にしてみれば、観月の体温や放熱などぬるいくらいだろうとも思う。
 そんな事を考える観月に、赤澤は曲げた指の関節で観月の頬を撫でるようにしながら言う。
「お前さ、いつでも体温低くて、肌なんざ、四六時中ひんやりしてんのに」
「………………」
「セックスの後は、足先まで熱くなってるからさ」
 そういうのが判って、嬉しいんだよ、と赤澤は続けて囁いた。
 なっ、と咄嗟に言葉を詰まらせた観月に構わず、赤澤はまた軽くキスを送ってきた。
「……お前も、よくなってんだなあとか思って、喜んでるわけ」
 そういうのが嬉しいからしまりのない顔になるわけ、とはっきりいって、観月は絶対言わないけれど、色っぽいだけの顔で言うのだ。
「赤澤、…貴方ね…ぇ…!」
 赤くなる自分をごまかすように観月が叫びかければ、ふいに観月は手を握られる。
 赤澤にしっかりと握りこまれた指先。
 熱い手。
 ベッドに横たわったまま、いったい何なのだと観月は身構えた。
 ぎゅっと赤澤の手に力が入り、赤澤はひそめた低い声をあまく煮詰めて囁いてくる。
 うっかり観月が俯いてしまったせいなのか。
 何度も繰り返し告げてくる。
「いつもは冷たい指の先まで、高い熱詰め込んで、お前がよくなってんのが嬉しいんだよ」
「……、…っ……」
「首元とかも赤くてな…」
 身体中震えているのも、身体中濡れているのも、全部いい、と赤澤は随分な事を言ってきた。
 観月はどんな顔をしていればいいのか判らなくなって絶句した。
「終わった後のお前の身体、やばいんだって、ほんと」
 すげえやられんの、見とれてんの、と臆面もなく言葉は紡がれ、握りこまれた指ごと観月の右手を赤澤の口元へと引っ張られる。
 手に口づけられる。
 怯えではなかったけれど、観月はびくりと身体を竦ませた。
「俺がどんな顔してんのか、そんなわけでだいたいの予想はつくけどな」
 なにかいけないものがとろけているような声で赤澤は観月の指先に口づけながら話し続ける。
 観月はどんどん喋れなくなる。
 何も言えなくなる。
 でも自分たちは今確かに二人きりで会話をしているのだ。
 口づけを受けていた観月の手は運ばれて、赤澤の片頬を包むよう導かれる。
「お前に惚れ直して」
「………………」
「お前にまた…はまっていく顔って訳だ」
 どうしようもなく恥ずかしい事を言っているのに、ほんのすこしもだらしなくならず、精悍なままいやらしさの濃密さだけ増してくるような相手に、いったいどういう顔で対峙すればいいのか観月にはまるで判らなかった。
 横たわっているのにくらくらと眩暈がする。
 激しく、色濃く、どうしたらいいのだ。
 手に触れている赤澤の頬。
 感触。
「綺麗な顔、するよな…観月は」
 しているのではなく、する、と赤澤は言った。
 熱の籠った嘆息と共に囁かれ、首を反らし、伸ばし、近づいてきた赤澤の唇が観月の唇に重ねられる。
 手と手は握り合って。
 でも二人、ベッドの上と、床の上。
 行為は済んでいて、身体を繋げているわけでもないのに、今日一番の甘ったるさで向き合っている。
 これは、これこそ、いつ終わるともしれない。
 もし今の自分の顔が、赤澤の言うように綺麗なものだったとしたら。
 観月は震えるような身体を持て余して唇をひらく。
 すぐさま絡んできた赤澤の舌は、入っていたのか与えられたのか。
 どちらにしろ、赤澤がいて、赤澤を見つめるから、この顔なのだ。
 この顔をするのだ、自分は。
「……貴方の、好みですか」
「好みが服着て歩いてるようなもんだ」
「服、かれこれ数時間着てませんけど」
 観月自身は自嘲してしまうような憎まれ口なのに。
 赤澤ときたら蕩けそうな顔で笑いだすのだ。
「観月」
「……なんですか」
「もう一回」
「無理です……、…って、…ちょ…っと、無理!……無理だって言って、…っ」
 じゃれつくようにのしかかってきた赤澤の手はきわどいラインを辿ってくるけれど。
 結局はその広い胸元であやすように抱きしめられる結末を観月は確信していた。
 部活が始まる前に確認しておきたい事がいくつか出来て、観月は腕時計で昼休みの残り時間を確かめて立ち上がる。
 テニス部の部室を出て、校舎に戻り、向かった先は赤澤のいる教室だ。
 昼休み、赤澤がどこにいるかは判らないが、何となく教室だろうと観月が踏んだ通りに。
 赤澤は窓際の席に座っていた。
 彼の周囲には数名の生徒がいたが、観月が扉から中を窺ったのとほぼ同時に目と目が合った。
「観月」
 そう口にしたかと思えばもう、赤澤は観月に所にやってきていた。
 教室の扉の上部に左手を伸ばし、観月を見下ろしてくる。
「お前、メシ食ったのか? 食堂来なかったろ」
「食べました。やることがあったので部室で食べたんです」
 自身の長身を影にするようにして、赤澤がそっと右手の指先で観月の頬を撫でてくる。
 観月が睨むと、赤澤は見えてない、と告げるように首を左右に軽く振った。
「………部活の前に確認しておきたい事があるんですが」
 今時間は、と観月が問いかけた時にはもう、背中をたたくついでのような自然な所作で肩を抱かれていて。
 赤澤に促され歩き出していた。
「赤澤、なに、」
「給湯室で話しようぜ」
「何でわざわざそんな所で!」
「いいから。来いよ」
「よくありません。命令しないで下さい」
 憮然として赤澤の手を振りはらおうとした観月に、赤澤は歩きながら視線だけ向けてきて。
 やわらかい光の目で観月を見据えてひそめた声で囁いた。
「お前に命令はしないよ」
「………………」
「一緒にいてくれ」
 お願いならいいか?と甘く笑う。
 観月は絶句して、そのまま赤澤に連れて行かれてしまった。
 給湯室。
 各階にあるものの、はっきり言ってここを生徒が使う事は殆どない。
「………何でこんなところで……」
「ん? お湯が出るだろ」
「……お湯?」
 赤澤が腕まくりをして、給湯室においてあったプラスチックの大きな容器を蛇口からの水で軽く流した。
 何か洗い物でもした時にでも伏せておく為のものなのか、それでいて出番はないらしく真新しいそれに、赤澤は給湯器のお湯を張った。
 それから何故か観月の袖口も釦を外して捲くっていく。
「ちょっと、赤澤……」
「確認って何だ? 時間ないんだろ?」
「え?……ああ……今日から新しく始めるメニューの…」
 言いかけて観月が途中で言葉を切ったのは。
 今度もまたいきなり、赤澤に両手を握られ、引っ張られたからだ。
「な、……」
「何?」
「それはこっちの台詞です…!」
 赤澤の手に取られた観月の右手と左手は、プラスチックの容器に沈められた。
 赤澤と手を繋いだまま。
 湯の温度は少し熱い。
 観月は微かに眉根を寄せて怒鳴ったが、赤澤はのんびりと湯の中で観月と手を繋いでいる。
「手浴?」
「何で僕に聞くんですかっ」
「頭。痛いんだろ?」
「………………」
 ん?と軽く首を横に倒して赤澤は低い声で問いかけてくる。
 本当にどこから見てもいかにも大雑把そうな男なのに、赤澤は誰よりも人を見ている。
 観月の事にも、真っ先に、どれだけ些細な事であっても気づくのは赤澤だ。
「痛みには体内水分のバランスが関わってるってお前言ってたろ。頭痛とか、肩こりとか」
「それは……言いましたけど…」
「手っ取り早く全身があったまるらしいぜ?」
 赤澤は観月の手を湯から引き出し、蛇口の下に促して、流水に晒す。
「お湯に三分、水道水で十秒。これを五回くらい繰り返せばいいんだってよ」
 話しながら出来るだろ?と赤澤は言った。
 再度湯に沈められてから、赤澤の手は観月から離れていったけれど、湯と水とを行き来させる時は赤澤が手を伸ばしてきた。
 手浴のおかげなのか、赤澤の言動のせいなのか、異様に血流が促進されている気がする。
 観月は気難しくゆがめていた顔に熱の色を射し、とても黙っていられる状況ではないため、確認事項を矢継ぎ早に口にしていたものの。
 正直な所。
 もう、何が何だか判らなかった。
 その後の記憶が、どうにもなかった。


 放課後のテニスコートで、生え抜き組と補強組との合同練習のさなか、明らかに思惑ありげに近づいてくる人物が二人。
 観月は眉を顰める。
「観月ー、今日の昼休み、給湯室に密会カップルがいたらしいんだけどー」
「誰だか知ってるだーね?」
 にやにやと笑っているルドルフのダブルスコンビを手加減なく睨みつけ、観月は怒鳴った。
「知りませんっ」
 両側からまとわりついてくる彼らを押しやりながら、観月はそもそもの根源であるコートの中にいる男を見やって内心でうらみつらみを繰り返す。
 長い腕のストローク。
 気持ちよさそうにラリーを続けている赤澤に、観月は思うだけの悪態をついている。
 昼休みからずっと。
 しかし、あれから、確かに。
 ここ最近観月を悩ませていた頭の鈍い痛みは。
 優しく、優しく、霧散して。
 もう今はどこにも、存在していない。
 熱いことは痛いことだと知っている。
 過度の熱は観月にとってはいつでも痛みだ。
「あのさ、観月。言っていい?」
 木更津はうんざりとした顔をしていたが、観月はもっとうんざりという顔をした。
「ジャージを脱げと言われるのはいい加減聞き飽きてます。そうでないなら言いなさい」
 今日だけでいったい幾度、同じことを言われたことか。
 恐らくはまた同じ提言だろうと観月は思い、今朝方打ち出してきた個別の練習メニューが書かれた紙の束を荒く捲っていく。
 日陰などどこにもないコートで浴びる五月の直射日光は、観月にはいっそ凶器だ。
 目に見えない紫外線は、容易く観月の神経まで射し込んで。
 神経を直にひりつかせてくる。
 一番上まできっちり上げたジャージのジッパーで覆っても首元はジリジリと紫外線をつかまえている。
 ジャージで両手足の露出は殆どないにも関わらず、皮膚が痛い。
 眼球まで痛むようで無意識のうちにこの時期の観月は節目がちになる。
 眉根も寄るし、表情もきつくなる。
 いつもそうだ。
 この時期、そして夏の熱は、残酷で、遠慮がなくて、観月には苦痛でしかない。
「観月さぁ…見てるだけでこっちまで暑いんだけど」
「見なければいいでしょう」
「観月見ないでどうやって部活するの」
「指示を聞いていれば充分です」
 今日は何でも日中の最高気温は三十度を越えるらしい。
 真夏日だ。
 観月とて決して暑くない訳ではないのだ。
 ジャージをきっちりと上下着込んで尚淡々としているから、よほど暑さに強いと思われている節もあるが、観月とて暑いものは暑い。
 暑いのだが、直射日光に晒した後の日焼けの方が厄介だから、観月も耐えているのだ。
 自身の肌は熱と相性が悪い。
 日焼けは火傷の領域に近い。
 だからこそ我慢して、暑いさなかにも完全防備でいるのだから、それを傍から勝手にどうこう言われたくないと観月は思う。
 あからさまな不機嫌を隠せずにいる観月だったが、それこそ木更津も観月のそういう態度には慣れたものだ。
 観月の目つきなど気にもせずといった風情で近づいてきて、いきなり正面から観月の胸元のジャージを両手に握りこんでくる。
「………脱げ」
 何ですかと問い返そうとした観月の言葉より先に、木更津は無理矢理観月のジャージを剥ぎ取ろうとしてくる。
「冗談、…っ…、っちょっと、何勝手に…!」
 一見涼しげな顔をしている木更津を、よくよく近場で観月が見据えれば、どんよりとその目が据わっている。
 今日の暑さには、彼も相当やられてしまっているらしかった。
 観月の一喝など気にした風もなく、無理矢理にジャージを脱がそうとしてくる。
 観月が怒鳴っても睨んでも抵抗してもお構い無しだ。
 ただでさえ暑い所に無駄なとっくみあいをする気力も体力もないと、観月は即座に切れた。
 投げ飛ばす、と思って怒鳴って手を伸ばす。
「いい加減に、…っ!」
「はいはい、そこまで」
 観月が大声を張り上げ、一暴れしかけた時だ。
 あまりにも自然に、同時に唐突に、日に焼けた長い腕が観月と木更津の間に入ってきた。
 のんびりとした口調の、低い声。
「元気いーな。お前ら」
 その腕は、極自然に観月の背後から伸びてきて。
 観月の肩へとまわされる。
 後方へと引き寄せられ、観月の背中に当たるのは体温の高い広い胸元だ。
 熱い、と観月は思う。
 けれど不思議とその熱量は観月に全く不快感を与えない。
 やんわり抱き込まれていても。
 この炎天下に。
 不快でない。
「こいつの日焼けは、イコール火傷。一日背中焼けば仰向け寝禁止令が医者から出るんだからよ」
「………………」
 観月を抱き寄せてそう話すのは赤澤だ。
 木更津が、そんなことは知ってるけど、この格好は見ていて余計に暑さが増すと今度は赤澤に噛み付いている。
 赤澤は飄々と言った。
「暑いの気持ちいいだろうが」
「そんなこと言ってるのは赤澤だけだよ。赤澤は絶対、どこか南国の、異国の生まれだ」
 見た目からしてそうだと木更津が言っているのには観月も内心で同意した。
 赤澤は常夏だ。
 日に焼けた肌はどの季節にも黒く、夏になればなるほどテンションもモチベーションも上がっていく。
 誰もがぐったりする暑さであっても、気持ちよさそうに灼熱の中にいる。
 目を閉じて、空を仰いで、日差しを浴びている。
 観月とはまるで違う。
 観月には熱は痛みだが、赤澤には熱は安らぎなのだろう。
「そんなこと言ったら東京は南国かよ?」
「今日みたいな天気ならそうだよ」
「お前、結構やばいんじゃね? 目すわってるぞ。柳沢の顔でも見て落ち着いて来いよ」
 からかうような、あしらうような、一見軽くて、それでいて。
 赤澤の言動は深みがあって判りやすい。
 木更津は少し黙った後に、嘆息した。
「……そうする」
 木更津が即座に背中を向けたのを、観月は唖然と赤澤の腕の中で見送った。
 随分と簡単にとりなしてくれたものだ。
「…………赤澤」
「あ?」
「いい加減に離せ」
 溜息を吐き出しながら告げれば。
 はいよ、と赤澤はするりと腕をほどく。
 呆気ないようでいて、実際は余韻でまだ抱き込まれているような不思議な感触が観月を縛る。
 赤澤は観月の隣に並んだ。
「お前、それいつ作ったんだ?」
 上半身を僅かに屈めるようにして赤澤は観月の手元を覗き込んでくる。
 二の腕と二の腕がぶつかる。
「昨日です。プリントアウトは今朝ですが」
「サンキュ」
「僕の仕事です」
 いちいち礼なんか言うなと睨みつければ、バーカ、と身体を軽くぶつけられる。
「言うに決まってんだろうが」
「………………」
 太陽を浴びて、所々金色に見える赤澤の髪に観月は一瞬目を細める。
「いつもありがとうな」
 もしかすると。
 微笑むその表情にかもしれないが、まぶしいものを見つめるように赤澤を見る。
「だから、…何を当たり前の事を…」
「お前がいる事やする事、当たり前なんて思った事ないぜ」
「……赤澤?」
「俺がお前の隣にいるって事は、当たり前にするけどな」
 笑う赤澤と、自分との距離は、いつも。
 少しずつ、少しずつ、縮まって、気づいた時にはもう、いつも、こんなにも、近い。
 観月は赤澤を見上げる。
 赤澤は太陽を背負うようにしていて。
 何だかこわいようなあまいような言葉を放られて。
 笑みを含んで優しくなった目をした赤澤の影が落ちてくる。
 ゆっくりと自分に落ちてくる。
「暑っ苦しいだーね、そこ…! いちゃつくのもいい加減にするだーね…!」
 突如響いた声に、観月はぎくりとした。
 どこかに吸い込まれていくように、赤澤に、ぼうっとしていた自分に気づいたからだ。
 柳沢と一緒に戻ってきた木更津が、柳沢の隣で小さく笑い声を零している。
「どこまで観月至上主義なのかな。赤澤は」
 観月のために日影?と木更津が言うのに、観月は目を瞠る。
 日影。
 赤澤の影。
「………赤澤…貴方…」
 やけに距離が近いとは思ったが、観月と肩を並べている赤澤が、観月に影を落としていたことに今更ながらに気づく。
 呟くように名前を口にすると、赤澤の手の甲が、極軽く観月の頬を掠った。
 下から上に、やわらかく、一瞬だけ撫でるような接触だ。
「少し日に焼けちまったかな…」
 向けられる眼差しが心配そうだから観月は絶句する。
 このバカ澤、と心中で呻くように思い。
 みるみるうちに、少しどころでなく、盛大に。
「あらら……真っ赤だね」
 笑う木更津と。
「ちょ、…観月、熱? 普通じゃないだーね、その顔は」
 慌てる柳沢と。
「冷やしてくる。すぐ戻る」
 観月の肩を抱いた赤澤は、背後の二人にそう言い置いて歩き出す。
「赤澤、……」
 部室の脇にある水飲み場まで連れて行かれた観月は。
「………、ん…」
 盗むようなキスをされた後、水飲み場の影で赤澤の胸元に深く抱きこまれて。
 確かにそれで顔に直射日光は当たらないけれど、顔なんかますます熱くなってしまった。
「………冷えません…よ……こんなことしてたら」
 胸元に顔を埋めているから目には見えていないだろうが観月は自身の頬の熱を自覚している。
 赤澤は両腕で観月をしっかりと抱き込んだまま、不思議な返答を響かせてきた。
「俺の頭を冷やしてんだよ」
「……はい…?」
「のぼせあがってんの。お前に」
 あんな綺麗な色してみせるからよ、と赤澤が吐息を零したのが判って。
 観月はくらくらした。
「あのまま見てたらやばいけど、目逸らすだけじゃ意味ねーし」
 他の奴にも見せたくないしと、赤澤は真面目な声で告げてくる。
 お互い身動きとれなくなる。
 お互いこのままでいるしかなくなる。
 熱い、暑い、中にこのまま。
 赤澤は時折、観月を外に連れ出す。
 外というのはつまり、聖ルドルフの寮や学校やテニスコートを離れた場所だ。
 観月が忙しい時ほど強引に連れ出すので、大概最初は観月は不機嫌で。
 赤澤はそれを宥めるように笑っている。
 それでもさすがに幾度かそれを繰り返されれば、いろいろと考え事や仕事の多い観月が煮詰まる前に気分転換で連れ出されている事が判るので、観月の愚痴も変化していくようになる。
 最初のうちは、自分はこんなことをしている暇はないという文句だったのが、今では。
「………赤澤、貴方…皆が何て言ってるのか知ってますか」
「ん? 皆?」
「テニス部員達ですよ」
「あいつらが何か言ってんのか?」
 陸サーファーなどと呼ばれる事も多いらしい赤澤の見目は、日に焼けた肌と髪で、手足も長い。
 派手気味の外見と、ほんの少し意外だと人に思わせる、気安さと気さくさ。
 今も赤澤は観月の前で屈託なく笑っている。
「……初めての育児に煮詰まってる新妻に気分転換させる為に外出機会をつくる旦那」
「そりゃ甲斐性あっていいな」
 快活に笑う赤澤の衒いのなさに、例えの奇妙さを追求してくれと観月は片手で頭を抱える。
 今日赤澤につれてこられた場所は、頭上に青空がひらけているオープンエリアのテラス席。
 空中庭園さながらの景色と開放感、隣接のテーブルと距離がある所も、適度な人の集まり具合も、観月の好みにぴたりとあった場所で。
 夏場ならば遠慮したい日中の直射日光も、この時期はまだ肌にやわらかかった。
 昼飯食おうぜと誘い出された日曜日だ。
 赤澤はびっくりするほど観月の嗜好を理解している。
 リードする所はリードして、基本的には観月に主導権をとらせている所も、観月の性格を掌握しているからなのだろう。
 赤澤の隣は、寸分の違和感もなく、確かに観月に心地よかった。
 多少は作られたものであるだろうに、そんな事を観月にまるで感じさせない、赤澤の生む空気だ。
「お前のそれ美味そうな」
 ギャルソンに運ばれてきたプレートを見やって、何だっけそれ、頬杖をついて赤澤は観月に問いかける。
「エッグスベネディクト。半熟玉子とスモークベーコンとオランデーズソースのオープンサンドですよ」
 観月の説明に頷き相槌をうちながらも、赤澤はじっとプレートを見つめていて、その眼差しに観月は仕方なくと言った風に半分あげますよと呟いた。
 途端に赤澤が明るい笑い顔を見せるから、観月はひどい夏の日差しに晒されているような気分になる。
 顔が、思考が、胸が、あつい。
「サンキュ、観月。じゃあ俺のモッフルバーガーも半分やるよ」
「齧った残り半分なんていりませんよ。自分で全部食べて下さい」
 観月が、すげなくあしらっても。
 赤澤はこたえない。
 いつもの自分達だ。
「おっと、観月、ドレッシングストップ」
「はい?」
 サイドプレートのサラダにかける為に別途でやってきたドレッシングボトルを振っていた観月の手の甲に、赤澤の指先が触れる。
 手と手が重なるようになると、見慣れてはいてもつい毎回同じ事を思ってしまう。
 それは観月だけでなく赤澤も同様らしかった。
「しっかしお前ほんと色白いな」
「貴方が黒いんですよ」
「いや、お前の肌白いのは、俺のあるなし関係なくだろ」
 そんな事を言いながら、赤澤のやけに色気のある骨ばった手にそっと甲を撫でられて、観月は小さく息を飲んだが、決してそれは不快なせいではなかった。
 本当はあまり他人との接触は好きでない観月だったが、赤澤の時折の接触に戸惑う理由は多分違う理由だろう。
「観月、ドレッシングは上下に振るより、左右に振ったほうがうまいらしいぜ」
 観月の手からドレッシングボトルを取り上げて、赤澤は説明しながらボトルを振った。
「上下に振って、こう置いておくだろ。………ほら、結構すぐ二層に分かれていくけど、左右に振った場合は……」
 ドアノブを回すように、真ん中を掴んでそこを軸に左右に振ったボトルは、テーブルに置いてから結構な時間がたっても混ざったままでいる。
「…………本当ですね」
「混ざり方で同じものでも味が変わるからな」
 ほら、と赤澤は観月のサラダにドレッシングをかけた。
 大雑把なようでいて、赤澤はこういう時の些細な仕草が、不思議と堂に入っている。
 赤澤のランチプレートも運ばれてきて、それには豪快にかぶりつく様を目の前に見ながら、一見粗野なようでいて、少しも下卑て見えない不思議な男を観月は眺めた。
 フォークに刺して口に運んだサラダは美味しかった。
 ナイフとフォークでオープンサンドを切り分けて口に運ぶ自分と、片手で鷲掴んだバーガーを租借している彼と。
 見た目も、仕草も、まるで違う。
 相反するおかしな二人に見えているだろうと思いながら、観月は促されるまま赤澤と淡々と会話を交わした。
「なあ、来週からの練習試合の日程決まったのか?」
「勿論です。前に渡した仮日程そのままで決定です」
「あれかなり詰め込んでたろ? 全部おさえられたのか?」
「当然でしょう」
 赤澤が口笛を吹くので、行儀が悪いと睨みつけながら、観月は何をこの程度のことで赤澤がそんなにも感心したような顔をするのかと呆れた。
 自分達の希望も通した上での、複数校との練習試合だ。
 スケジュール調整は容易くはないが、決して難しいわけでもない。
 だいたいそれがマネージャーである観月のするべき当然の仕事だ。
 観月はナイフとフォークで切り分けたエッグスベネディクトを口に運びながら憮然と赤澤を睨み据えた。
「あれくらいのことが出来なくてマネージャーを名乗る資格なんてありませんよ」
「実際有能だよな、お前はどっちやらせても」
 赤澤は、当たり前の事をただ告げただけというような落ち着いた声で言って。
 観月が一瞬手を止めたのも見咎めずに笑う。
「ひとくちくれ。お前食ってるやつ」
「……半分あげますって言ったでしょう」
「ひとくちがいい」
 胸の前で組んだ両腕をテーブルに乗せて、ぐいっと顔を近づけてきた赤澤に観月は瞬時戸惑った。
 近くになった赤澤の長い髪からは日の香りがする。
 日に焼けた肌と、長髪と、派手作りの外見で寧ろ人懐っこく笑いかけてくる赤澤に無防備に口を開けてこられて固まってしまった。
 ひとくち、とねだって無防備に口を開けている様は、普通であれば間が抜けて見えても何らおかしくないはずだ。
 それなのに。
「………………」
 観月は複雑極まりない顔で押し黙ったまま動けない。
 赤澤は、人一倍さりげなく観月を気遣いながらも、決してそれを過剰に露出させない。
 それでいて時折、観月が叱るほど子供じみたり甘えてきたりするのだ。
 何か意図する所があるのかないのか。
 赤澤がどこまで無意識でどこまで他意があるのか、それが観月には判らない。
「観月、顎外れそ…」
 甘ったれた目で責めてきたと思えば、観月がフォークに刺して宙に浮かせていたオープンサンドに自ら食いついてくる。
「…、…っ…貴方ね…!」
「ごちそーさん」
 テーブル越しに乗り出してきて勝手に観月の使っているフォークに口に寄せた赤澤に、観月が押し殺した声で怒鳴っても、赤澤はどこ吹く風といった風情だ。
 観月を構ったり見守ったりしながら、赤澤はここにいる。
 学校や部活でない場所であっても、彼はここにいるのだ。
 自分のところに。
 観月は、それがどれだけの自分への信頼であるのかを判った上で、飄々と頭上の青空を見上げている赤澤に笑みを零す。
 溜息に織り交ぜたそれは、すぐに赤澤の知る所になって。
「………………」
 この上なく嬉しそうに赤澤が目を細めてきて、その表情だけで、観月もまるで今ここにある光が全てその表情に集められたかのような眩しいさなかに放り込まれた面持ちになる。
「観月のその顔見ると、何でも出来ちまいそうになるよ」
「……、……なに…言ってるんですか」
「お前には、そういう力もある」
 だからここにいてくれと、赤澤は低いなめらかな声で観月に言った。
 それは。
 そんなことは。
 観月こそが告げたい言葉だ。
 こんな言葉をくれる。
 こんな力をくれる。
 ここにいてほしい。
 ここにいてほしい。
 赤澤のようには言えないけれど。
 張らないでいい意地で、必要な言葉を時折躊躇う自分だけれど。
 せめて、と観月は思う。
 せめて、赤澤が。
 何でも出来てしまいそうになると言ってくれたものを、見せていようと思う。


 ここにいる。
 ここにいて。
 真夜中の、部外者の、侵入者。
 暗がりの中の気配に観月は呆れを露に溜息をついた。
「……何してるんですか」
 布団の中から呻いた観月に、長身の男は足音ひとつ立てずにベッドに近づいてきた。
「全然びびらねえな、観月」
「………………」
 笑いの混じった密やかな低い声。
 びびるわけないでしょうと観月は内心で思う。
 この男の気配が判らないわけがない。
「何をしに来たんですか、こんな時間に」
 幾ら観月の一人部屋とはいえ、寮にこんな時間に忍んでくるなんて尋常でない。
 赤澤は決して品行方正ではないが、派手な見目とは多少ギャップを感じる大らかで人好きのする性格は、生徒からも教師からも人気と信頼がある。
 そんな赤澤であっても、深夜の寮の無断侵入が見つかれば、それ相応の処分が下されるだろう。
 観月は眉根を寄せて目をきつくしたまま、少しずつ慣れてきた目に映る赤澤を見上げ、睨んだ。
「赤澤、貴方」
「夜這い」
「………は?」
「だから、何しに来たかって言うから。夜這いに来た」
 ぎしりとベッドが軋む。
 ベッドの端に腰掛けた赤澤が、上半身を僅かに捻って屈んでくる。
 観月の顔を覗き込むように近づいてきて。
「………………」
 大きな手のひらが観月の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「寮のボイラー完全故障だって?」
「………………」
 何で俺を呼ばねえの?と赤澤はひそめた低音にほんの少し笑みを交ぜて至近距離から観月を見つめてくる。
「なんで…」
 赤澤の言ったものとは違う意味合いで何でと聞き返した観月に、赤澤は唇の端を一層引き上げた。
「柳沢からメールがきた。寮の暖房全滅、今晩から雪が降ってこの冬一番の冷え込み、観月が凍るってな」
「寮長が不法侵入そそのかしてどうするんですか…」
「入り口からの手引きは木更津だったぜ」
「………全く」
 友人達の素行に呆れ、そんなメールでここまでやってきてしまうこの男にも呆れ、観月は口元近くまで引き上げた上掛けの中で溜息をつく。
 今日には業者を呼ぶといってはいたが、暖房の一切が故障した寮内は、冷えきっている。
 本格的に冷え込む前にと、早めの就寝が通達されていたが、正直身ぐるみ布団に包まっていても底冷えするような寒さはあまりごまかせなかった。
 観月の体温は元々平均以下なのだ。
 その上、山形の出身なら寒さには強いだろうと言われがちだが、寒い場所ほど防寒対策はきちんとされている。
 東京の方がよほど無防備で寒いと感じる。
 以前観月がそう言った事も、恐らく覚えているのだろう。
 柳沢も木更津も、そしてこの赤澤も。
「顔まで冷てえな…」
 額に触れた大きな手。
 眦に寄せられた唇。
 その温かな気配に、うっかり気持ちが緩んだ隙に。
 赤澤がするりとベッドにもぐりこんできた。
「ちょ、…」
 長い腕が観月をくるみこむ。
 丁寧に深く抱き込まれ、観月はうっすらと体温を上げた。
 赤澤は温かかった。
 長い髪だけが、ほんの少し冷たい。
 それでもこうして抱き締められれば、それすらどうしようもなく心地よかった。
 胸と胸が合うほど身体が重なり、パジャマ姿の観月がふんわりと温かさを感じる赤澤のやわらかな着衣に、観月はふと目を瞠る。
「貴方、まさかその格好のまま…」
「ん?…どこか冷たいか?」
「違います」
 逆だと観月は赤澤の肩口から顔を上げた。
 夜目を凝らせば、赤澤の上着は白いクルーネックのセーター一枚で、イージーパンツもこうして足を絡ませるようにしていても少しも冷たく感じない。
 ジッパーなどの冷たい金具はひとつもない。
 服を着たままベッドに入ってこられ、抱き締められても、違和感のまるでない感触がするばかりだ。
 やわらかな素材の軽装。
「コートはそこに放ってある」
 その言葉にコートは着てきたのだと判って安心したものの、おそらく赤澤ならば全て考慮した上での服なのだろう。
 そこまでするかと思うが。
 そこまでするのだ赤澤は。
「あとどこか寒いとこは?」
「………………」
 ぴったりと抱き締められて。
 触れる箇所は肌であっても服でもあっても温かいものばかりで。
 気持ちもよく、想いも温められて、観月は暗い室内であるから、もういっそいいかという気分で言った。
「中」
「…ん?」
「中が寒い」
 随分な言い方だと観月自身頭を抱えたくなったが、赤澤は長い指で観月の顎を包んで仰のかせ、すぐに唇をキスで塞いできた。
 重なった唇の形は笑っていなくて観月は少し安堵した。
 舌が入れられて、のしかかられて、濡れた粘膜の音が静かな室内に密やかに響く。
「……、ン…、…」
「……………」
「ふ……っ…ぁ……」
 角度が変えられ、吐息が絡んで、観月も赤澤の後ろ首に手を伸ばす。
 唇がまた深く重なり、生まれた熱が四肢に走って頭の中にも熱が溜まる。
「…観月」
「……っ……、……」
 長いキスの終わりに囁かれた声で、観月はぐったりと寝具に落ちた。
 終わった後でもまだとろけそうな甘ったるい余韻を残すキスは、爪の下まで痺れるような熱を詰め込んできた。
 赤澤は殊更丁寧に観月を抱き締めなおして、再び並んで横たわった。
 毛布と布団を観月の肩にかけ直してくれた手が、そのまま観月の背を抱いてくる。
「風が出てきたな…」
「………………」
 頬に軽く口付けられながら囁かれて。
 寝ていいぞという風に背中を軽く叩かれる。
 催眠効果でもありそうな低い声と、寝かしつけるような手の一定の動きと、温まった身体と。
 赤澤に言われるままに、今すぐにでも眠りに落ちてしまえそうな意識に、観月は逆らった。
 何も言わずに、じっと上目に赤澤を見つめる。
「どうした? 眠れないか?」
「………………」
「観月?」
 赤澤の胸に観月は顔を伏せた。
 額を押し当てた胸元は、本当に心地よかったけれど。
「……眠ったら帰るんでしょう」
 だから眠らないと、これでは暗に言っているようなものだ。
 多分自分はすでに睡魔に半ば引きずられているのだと観月は思う。
 そうでなければ、こんな甘ったれた事を言う筈がない。
 普段とは違う自分に、きっと赤澤も何かからかう類の言葉を言ってくるのだろうと観月は思ったが、赤澤の生真面目な声はそういう言葉を紡がなかった。
「お前が眠っても、俺が帰れないようにすればいいだろう…?」
 からかいでもなく、提案でもなく、そそのかすのでもなく、ねだるのもでもない。
 それは不思議な口調だった。
「観月にしがみつかれてたら、俺からは絶対に引き剥がせないぜ…?」
 ほんの少しの甘えの滲んだ優しい声だった。
 観月は黙って赤澤の背中に腕を回して目を閉じた。
 腕の中の感触は、完全降伏の無防備さだ。
 恐らく観月を抱き返す赤澤の手のひらも同じものを感じている筈だ。


 安心した。


 温かさと同じくらいにそれを感じて、観月はそのまま眠りについた。
 日に焼けた腕が、ふわりと赤澤の頭上にあげられ、その手が観月を呼んでいる。
 ルドルフ寮の食堂だ。
 観月はそれを見止めると前髪をかきあげて大きな溜息を吐き出した。
「観月」
 来いよと滑らかな低音に尚も促され、不承不承近づいていく。
 座れよと仕草で観月を促す赤澤の手にはスプーンが握られている。
 骨ばった手は無駄な色気がある。
 観月はそんな事を思ってしまった自分に歯噛みして、苦い顔で赤澤の向かいの席に座った。
「貴方……柳沢達とカレー食べてきたんじゃないんですか」
「食ってきたぜ。ルーには何にも入ってないカレーでさ。揚げた夏野菜を、自分の好みでトッピングしてってやつ」
 すげえ美味かったと笑う表情は屈託無くも大人っぽい。
「観月も誘ったのに断られたって、木更津言ってたぜ?」
「……貴方の誕生日でしょう。僕が行ってどうするんです」
「にやける俺でも見てからかいたかったんじゃねえの?」
「…………どっちがですか」
 思わず呟いてしまった観月の言葉を、赤澤は聞き逃したのか敢えて流したのか、何も言わなかった。
 目の前にあるカレーをスプーンで口に運び、一口食べるなり赤澤は首を反らして食堂の調理場に向かって叫んだだけだ。
「おばちゃーん、このカレー、すっげえ美味いよ」
 おかわりある?と続けた赤澤に、調理場から顔を出した馴染みの女性が、どんどん食べなと笑って答えるのを観月は見やって再び野溜息だ。
「外でカレー食べてきて、ここでもまたカレーですか」
 いくら今日が赤澤の誕生日で。
 いくら彼が無類のカレー好きだからと言って。
 これはどうなのだろうか。
 観月のそんな思惑をよそに、赤澤は目の前で豪快にカレーを食べている。
 観月はまじまじと赤澤を見やった。
「昨日は裕太君のお宅でカボチャカレー食べてきたでしょう」
「ああ。実家に邪魔してまではさすがに悪いなあとは思ったけどな。あいつどうしてもって譲んなくてよ。俺カボチャカレーってのは初めて食ったけど美味かったぜ」
「裕太君、お姉さんがいますよね」
「あー、いたいた。青学の不二にそっくりの姉貴な」
「美人だったでしょう」
「お前ほどじゃないけど、まあそうだな」
「………ばかでしょう…貴方…!」
 観月が思わず本気で怒鳴ると、赤澤は笑って空になった皿を持ち、立ち上がった。
 そして二杯目も大盛りのカレーを手にして戻ってくると、観月は怒りを持続する気力もなく脱力した。
「…………まだ食べるんですか…」
「お前も食わない?」
「だから貴方の誕生日でしょう」
 二杯目をよそってもらう際の赤澤と調理場との短いやりとりは、観月の耳にも届いていた。
 親ほど年の離れた相手に、ありがとうと丁寧な笑顔と気さくな言葉で礼を言って、軽く会話を交わす赤澤は、寮の関係者や教師陣の覚えもめでたい。
「まだたくさんあるって言ってたぜ」
「そうですか…」
 本当に、いったいどれだけカレーが好きなのか。
 観月が適当な返事と一緒にそういう眼差しを向けてやると、赤澤はラフなのに粗野に見えない不思議な食べ方でカレーを口に運びながら上目になった。
 観月と視線を合わせてくる。
「……何ですか」
「俺、カレーが好きだって言ってるだろ?」
「知ってますよ。だとしても、いくら好きだからって、ちょっと普通じゃないですけどね」
「だからさ。それだよ」
 何がそれだ。
 不遜に眼差しで告げた観月に、赤澤は言った。
「好きって自分で公言してるんだからよ」
「………………」
「そうまで言うなら、これくらいが普通だろ」
 赤澤の言い方はさらさらとしていながらも何か深い意味があるような響きで。
 観月は怪訝に小首を傾ける。
「……普通って領域じゃ、全然、全く、ないと思いますが」
「そうか?」
 赤澤はのんびりと観月の目を見つめて、その目を更にゆっくりと細める。
「けど俺は、何でもかんでも好き好き言ってる訳じゃねえからさ」
「…赤澤?」
「好きだって。口に出して、何度だって、言うようなものは、俺にしてみれば全部特別だ」
 お前はそれ知ってんだろ?と潜めたような声で言ってこられて。
 観月は瞬間よく意味が判らず困惑した。
 そんな観月を見て赤澤が小さく笑んだ。
「知ってんだろ」
 な?と唇の端に笑みを浮かべた赤澤が、カレーを食べる手を止めて、スプーンを持っていない方の手を伸ばし、観月の髪の先に一瞬だけ触れた。
「………………」
 好きだ、と赤澤が公言して憚らないもの。
 例えばそれは、カレー。
 それから、テニス。
 ルドルフ。
 そして。
「俺の好きっていうのは、そういう事だ」
「……幾ら食べたってカレーは飽きないって話ですか」
 ひとけのない夏休み中の寮の食堂で。
 生徒は自分達だけしかいなくて。
 でもだからって、どことなく濃密になりそうな気配がしなくもないこんな状況を。
 観月は過度に反応しないよう、当たり障りのない口調で遮った。
 敢えてここでカレーの話だろうと言い切った観月に、赤澤は逆らうでもなく、そうそうと頷いてくる。
 しかし、そうやって頷きはしたのだが、その後で、赤澤は、こうも言ったのだ。
「お前以上に好きなものなんか俺にはないけどな」
 俺の、カレーのレベルで、普通の領域じゃないなんて言ってんなと声なく笑う赤澤に、観月は思わず、ぐっと息を飲んだ。
 そういう。
 好きなものに対する固執という話を聞き、赤澤が観月に執着している事を仄めかされて。
 観月が感じるものは、歓喜でも羞恥でもない。
 きっぱりと断言してしまえる、迷いのない赤澤の強さの原因は、きっと。
「……赤澤、貴方。絶対に僕が」
「ん?」
「貴方を…嫌いにならないって知ってるから、そんなに強気なんでしょう」
 甘く見られて、全く、と観月は苦く言った。
 自ら結局ぶり返してしまった話題にも、察しのよすぎる自身の思考にも、観月は呆れていたのだ。
 ついでに言えば、普段はあまり吐露したくない心情を、何故か今あっさりと口にしてしまった事にも観月は呆れている。
 でも、観月がこういうような事を言ってしまって。
 それで付け上がるような男なら、いっそ良かったのだ。
「あのな、観月。俺はお前を甘く見てるんじゃない。決めてるだけだ」
「………………」
「お前の事は諦めない」
「………………」
「そう俺は決めた」
 静かな声で告げてくるような男だから。
 おかしくされるのだ。
 唇を引き結んだ観月に、赤澤は何を思ったのか、ふとその表情を緩めた。
「もし振ろうとしても、往生際相当悪いぞ。俺は」
「…、…振りませんよ!」
「あ…、マジ?」
「…………っ…、」
 思わずの勢いで言ってしまった観月は、赤澤の表情を目にして、真っ赤になった。
「怒るなよー、観月」
「うるさい…! 喜ぶな、バカ…!」
「無理だろ、それは」
 本当に。
 とろりと甘く喜ばれてしまって。
 微笑まれてしまって。
 言葉の出なくなってしまった観月の頬を、赤澤の指が軽く擦った。
「俺はお前を諦めない」
「………………」
「もしこれから先、何かしらの事があったとしても。観月と二度と会えないような事には、絶対にしない」
 笑ったまま、でも少しもふざけた所のない言い方とやり方とで、赤澤が観月に伝えてくる言葉。
「トラブルなり、問題点なり、障害なりあったとして。でもそこで、そういう事をクリアする努力は絶対に惜しまない」
 そんな風に甘い表情で誓われてしまって、観月はどうしていいのか判らなくなってしまった。
 振り切ることも、ごまかすことも、はぐらかすことも出来ない。
 聞いていられない。
 でも決して、聞きたくない訳ではないのだ。
「お前がこれから先のいつかに、ひょっとして俺の為なんて理由で離れようとしても、俺は絶対に頷かないし」
「………………」
「お前が心変わりする気なんか絶対に起こさせないようにしてやるって。思ってんだよ」
 いつもな、と。
 少しだけ危なく放ってこられた赤澤の心情に。
 怖そうな、物騒な、そんな欠片に擽られて、観月はとうとう、最も自分らしくないと思われる姿を晒して、口を開いた。
 逃げだと思われても今は構わなかった。
 真っ向から、返す言葉が見つからない。
「カレー食べながら言う台詞ですか……!」
 観月が真っ赤になって震えて怒鳴った言葉に、赤澤は低い声を甘く転がして笑った。
「怒ってていいけど、席は立つなよ」
 顔見せてと甘ったれてこられて、どぎまぎとする自分が一番最悪だ。
 観月が赤澤を叱りつける事で中断させてしまった話を、赤澤はだからといって捨てたりも隠したりもしない。
 いつでも彼はそれを持っていて、いつでもそれを実行するのだろう。
 これからもずっと。
「あ、おい…立つなって」
 観月は足元に置いていた紙袋を手にとって、立ち上がった。
 上から赤澤を見下ろす。
 精悍な顔立ちを随分とあからさまに、判りやすく拗ねさせている男の顔を見据えて、観月は紙袋をテーブルに置いた。
「…ん? 何…これ、くれんの?」
 視線だけで尊大に頷けば、赤澤は観月が恥ずかしくなるような甘ったるい笑顔になってその紙袋の中を覗きこむ。
「え……すげ、もしかしてこれ」
「………………」
 透明なガラスの保存瓶。
 赤澤の大きな手がやすやす掴んで持ち上げたその瓶の中身は、数日前から仕込んであった。
「お前が作ったとか…?」
「当たり前でしょう」
 観月が言えば、赤澤はそれは盛大に驚いた顔をした。
「福神漬けって作れんの? つーか、何で出来てんの」
「あれだけ食べてて知らないんですか」
 呆れた、と観月が呟く間も。
 赤澤は保存瓶を嬉々として見つめている。
「大根、茄子、白瓜、蓮根、鉈豆、紫蘇の実、生姜。七種類の野菜を、塩漬して細く刻んでから、塩抜き、圧縮、そして砂糖や醤油などの調味液に漬けこん………聞いてるんですか。赤澤」
「観月。食っていい?」
「………好きにどうぞ」
 あまりにも判りやすく赤澤が喜ぶので、観月はもう呆れてそう言うしかなかった。
 食べてはその都度に、美味いとひたすらに繰り返す赤澤を。
 観月は面映くあしらいながら。
 人生で。
 一番最初に覚えて、実行した料理が福神漬けだなんて。
 これはもう、赤澤が相手だからに他ならないと思った。
 心変わりする気なんか絶対に起こさせないようにしてやるなんて。
 そう思って、企んで、根回ししているなんて。
 そんなのは自分の方の台詞だと思った。
 たかだかカレーの話だが。
 そんなにも好きだと赤澤が言うのなら。
 必需品の付け合わせからして、手中に収めてやる。
 幸い、そういう手管は赤澤よりも自分の方が長けていると観月は思っている。
 無意識にしてのける赤澤に、負けっぱなしになるつもりはなかった。
「赤澤」
「…ん?」
「カレー、三杯目を、食べてもいいですけど」
 寮の部屋に戻るべく赤澤に背中を向けかけながら、観月は赤澤を流し見て言った。
「その後に、部屋で食べるカレーよりも好きなものの余地は残しておきなさい」
 少しでも残したら二度と食べさせない。
 そう言った観月は、流し見た赤澤の面立ちの、最後の最後に浮かんだ表情を目にして、至極満足した。
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