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How did you feel at your first kiss?
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 一緒に眠る。
 そうするといつも決まって、寝つく時には赤澤にキスをされる。
 普段の観月はあまり寝つきの良い方ではないのに、甘い丁寧なやり方で優しく口付けられていると、首の辺りからじわりと温かくなって、そこからゆるく溶け込んだ熱に手足の先まで温まって、眠くなる。
 恐らくそれまでの間に散々疲れるような事をされているせいもあるのだろうが、キスの為に閉じた瞼がそのまま眠りにつながって、甘やかされる舌の感触を体感しながらいつの間にか眠ってしまっているのが常だ。
 その時だけのやり方のキス。
 眠りにつく時以外に、そのキスはされない気がする。
 ぼんやりと、観月は考えていた。
 その、不思議なキスの事、それから。
「………………」
 寝つきのよくない観月の、寝つきをよくする男は、目覚めのよくない観月の、目覚めもよくする。
 観月は目を閉じたまま、昨夜の事を考えている。
 そうしている今はもう、朝なのだと判っている。
 低血圧気味の観月は、正直な所朝は苦手だった。
 マネージャー業もこなす以上、部活では誰よりも早くコートにいる観月だが、毎朝だるく目覚めている。
 それが、赤澤と寝た翌朝だけは、目覚めまでも甘ったるいのだ。
「………………」
 赤澤は観月の髪を撫でて起こす。
 観月が覚醒し出す時、いつからそうしているのか、赤澤はその大きな手のひらで観月の髪をゆっくり撫でている。
 いつも。
 心地良さで目が覚める。
 すぐに目を開けたりは出来ないが、観月は赤澤に髪を撫でられているのを感覚で追いながら、まどろんで、目を覚ます。
 声をかけられなくても、肩を揺すられなくても、とろけるように目覚める。
 時間がさほどない時だけ、その上で、そう、こんな風に。
 手を、握られる。
「………………」
 指先を包みこむよう握り取られる。
 繋がった手と手。
 感じる体温。
 観月は目を開けた。
「はよ」
「………………」
 観月の指先に赤澤の言葉が当たる。
 指に、赤澤の唇の感触がする。
 ぎこちなく数回瞬いて、それから観月は、じっと赤澤を見た。
「寝起きも綺麗だなぁ…お前」
「………………」
 おはよう、ともう一度言った赤澤は、同じ声の調子でそんな事を軽く言って。
 それこそ朝一番によくもそんな鮮やかな笑い顔が出来るものだと観月が内心で感心するような表情で起き上がった。
 横向きで寝ていた観月の身体を滑らかな所作でうつ伏せにしてくる。
 赤澤にされるがままでいる観月は、喋るのがだるいので黙っているものの、もう目はきちんと覚めている。
 それなのに赤澤の手のひらが観月の背筋から腰にかけて、ゆっくりとやわらかな圧でマッサージのような動きをほどこしてくるから、うっかりうっとり目を閉じてしまう。
 昨晩、幾らか無理な体勢をとったりした事は事実で、それを解きほぐすかのように、赤澤は観月の薄い背から腰にかけてを擦ってくる。
 起き抜けに、冗談のように気持ちがいい。
 観月は小さく吐息を零した。
「………………」
 赤澤は毎回普通にこんな起こし方をしてくるが、こんな事が癖になってしまったらどうしたらいいのか。
 怖いような気がする。
「……も、起き…ます」
「おう」
 ずっと、なんて思ってしまいそうで。
 観月が小声で言って身体を起こそうとすると、赤澤はするりと手を引いて、観月の肩を抱くようにした。
 手助けと気づかせないような自然さで。
「………………」
 観月が上半身を起こすと、赤澤は観月の頬に軽くキスをしてベッドから下りた。
 長い髪を右手でかきあげて、シャワーしてくると言って、部屋を出て行った。
「………………」
 残された観月は、赤澤にキスされた頬を押さえるのも気恥ずかしく、曖昧にそこに宛がいかけていた手を、結局は自分の後ろ首に運んだ。
 俯いて、小刻みに早くなる心臓の音に、じんわりと頬を熱くさせる。
 赤澤がいなくなって、一人になると、こういう羞恥心が一気に膨れ上がるのだ。
 寝起きの顔色の悪さは自負している観月だったが、赤澤と眠った日の翌朝の顔色は、見なくても判っていた。
 あの男は、自分の身体に、良いのか悪いのか。
 観月はそんな事を考えた。
 それは一向に答えが出ない疑問であったが、でも、ひとつだけ判っていることがある。
 例え良くても悪くても。
 なくなったら、こまる。
 観月はその事だけは、とてもよく、判っていた。
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 強制だ。
 強制休憩。
 観月は机の前から、いとも強引に引き剥がされた。
 力づくというべきか、腕づくというべきか。
「ちょ、…と…っ…」
 乱暴な、と観月に怒鳴る隙すら与えずに。
 赤澤は、長い腕で観月の身体を巻き込んできた。
 背後から抱え込まれ、無理矢理赤澤ごと床に座り込まされる。
 痛みは何もないものの、これはあまりにも暴挙だ。
 観月がきつい目で背後を振り返ろうとすると、耳元で声がした。
 直接声音を吹き込むように、低く。
「十五分休憩」
 赤澤はそう言って、ぎゅっと観月を抱き寄せてきた。
「………………」
 肩口に懐かれるように顔を埋められて、観月は咄嗟に息を詰めた。
 首筋を、赤澤の長い髪が擽る。
 思いのほか強い手の力。
 でもそれはどこかおそろしく心地良く、観月を束縛している。
 うっかり流されそうになる。
 観月は背後の赤澤を睨もうと身じろぎながら口をひらいた。
「邪魔しないでくださ…、…」
「しねえよ」
「……、っ……」
「しない。休憩だって言ったろ?」
 もがく自分などいとも容易く封じてくれてと観月が恨めしく肩口にいる赤澤を見下ろせば。
 赤澤の手はやわらかく観月を抱き締め直してきた。
「プラス、俺の栄養補給タイムな」
「……なにばかなこと…言ってるんですか…」
 もっと厳しく意見しようとして、でも観月がそう出来なかった訳は、
 赤澤が観月の後ろ首に唇をそっと寄せてきたからだ。
「…………っ……」
「痕はつけねえよ」
 大丈夫、と観月の腹部に回っている赤澤の手のひらが観月を宥めるように動いたけれど。
 それ以前に、そのかすかな接触だけで。
 どれだけ観月が影響を及ぼされるかを考えない赤澤に観月は立腹する。
 判っているようで判っていない男。
 しかも、部の為に纏めなければならない練習メニューや対戦校のデータを目の前にして、よりにもよってその邪魔をするのが部長だというのはいったい何の冗談なのか。
「観月」
「………………」
 抱き込まれたまま微かに身体を揺すられた。
 なめらかな低音で名前だけを繰り返される。
 無頓着で大雑把なのに、赤澤は観月の気配に敏感だ。
 観月が少しでも煮詰まってくると、早い段階ですぐに腕を伸ばしてくる。
 判っていないようで判っている男。
 本当は。
「………………」
 素直に赤澤のその手に身を預ける事は、観月はしない。
 そんなことは観月は出来ない。
 それなのに。
 赤澤が強引を装って、いつもこうしてしまうのだ。
 観月は背中に当たる赤澤の体温に、やけっぱちになって凭れかかった。
 抱き寄せられる。
 また強く。
 感触だけではっきりとしないが、多分髪にキスをされた。
「…、赤澤」
「ん…?」
 甘ったるい密着が、じわじわと羞恥心に姿を変えて、観月へと浸透してくる。
 せめてもの救いは顔が見えないこの体勢だと観月は思って。
 しかしそれすらも、恐らくは最初から赤澤の意図した事なのだろうと思えば少々癪にもなってくる。
 裏表のない赤澤の言動は、それゆえに観月には率直過ぎて。
 いつも余裕を奪われる。
「なあ。観月のリンゴ食っていい?」
「………………」
 気楽な口調で、どうでもいいような話で。
 観月の硬直を紛らわせる空気をつくってくる赤澤に、観月はもう、抗う気力もなくおとなしく頷いていた。
 観月の実家からルドルフの寮宛てに大量に送られてきたリンゴを、誰よりもせっせと食べているのは、この赤澤だ。
 今更改めて聞くような事ではないと判っていながらも、どうぞ、と観月が言えば。
 徐に観月の目の前に、赤澤の手が持つリンゴがひとつ現れる。
「……もう持って来てるんじゃないですか」
「一緒に食おうと思ってさ」
「僕は丸齧りはしないって言ってるでしょう」
「丸じゃなけりゃいいんだろ」
 胸元に観月を抱き込んだまま、赤澤は観月の眼下で両手を使い、リンゴを二つに手で割った。
「……馬鹿力」
 果肉の割れる小気味良い音に紛れて観月が呟けば、赤澤は左手の半分を自分で食べて、右手の半分を観月の口元に近づけてきた。
 半分ならいいってものじゃないと思いながらも、結局観月も口を開ける。
「うまいよなー」
「食べるたびに、それ言ってますね…」
「マジでうまいからさ」
「……そうですか」
 率直な言葉は何度も聞いたのに、その都度心底から感嘆して言われてしまうと、聞く側の観月としても奇妙に面映くなった。
 赤澤の手からリンゴをかじりながら、観月はふと思い立つ。
「……北欧のリンゴの話って知ってます?」
「いや? どんな?」
 十五分の休憩時間。
 残りがあとどれくらいかは判らないけれど。
 このくらいの話は出来るだろうと観月は囁いた。
「北欧四カ国の人間性…といいますか。特徴を現したたとえ話です。道にリンゴが落ちていたらどうするか」
「特徴ねえ…」
「ズボンで擦って食べるのがノルウェー人。考え事をしていてリンゴに気づかないのがフィンランド人。食べたいけど気づかないふりで通り過ぎるのがスウェーデン人。拾って売るのがデンマーク人」
「まさしくお国柄ってやつだな」
「貴方はどうします」
「俺?」
「そう。貴方です」
 無論食べるのだろうなと観月は思って聞いたのだが。
 赤澤は違う答えを口にした。
「落とした奴を探すかな」
「………………」
「何か変なこと言ったか?」
「……いえ。そうですね」
 ああこの男には。
 本当に、憶測やデータなど、何の役にもたたない。
 観月は心底から、そう思った。
 食べたりせずに探すだろう。
 確かにこの男なら。
「それで観月は俺に文句を言いながらも、それにちゃんとつきあってくれて、その上しっかり落とし主を探してきそうだよな」
「………………」
 お前のそういうとこがホント好きだぜ?とあまりにもさらりと付け加えられて。
 本当に。
 何を言い出すか判ったものではない男の腕の中で、観月はリンゴを喉に詰まらせる。
 果実の破片に色まで変えさせられた観月の頬には、笑った形の赤澤の唇が。
 丁寧に、丁寧に、寄せられた。
 怒ったな、これは結構本気で、と観月はひっそりと思った。
 握り締められている手首には、痛みよりも熱を覚えた。
 赤澤の本気の力がそこに加えられている事を観月は理解していたが、それは痛みではなく、手首の脈の中の血液が煮えて熔けだすような感触ばかりを観月に伝えてくる。
 相変わらず赤澤の怒りの沸騰点が観月には判りづらかった。
 大概の事はゆったりとやり過ごし、激昂しても自分自身でそれを宥める術を知っている男は、寛容で懐深い。
 滅多な事で、人に対して怒る事はしないのに。
 それこそ観月がいくら辛辣な言葉を口にしても、たいした諍いにもならないのに。
「赤澤、」
 観月が掴まれた手首をいくら振り払おうとしても、それはびくともしなかった。
 テニス部の部室で、二人きりでいて、コートではもう部活も始まる時間だ。
 もう行きますよと向けた背を、腕を引かれて引き戻される。
「………………」
 肩越しに観月が振り返れば、そこにはひどく真剣な目をした赤澤がいた。
 笑わない時。
 赤澤の顔は、本来のきつい面立ちが際立って、危うく鋭く尖って見える。
 おかしな男だ。
 観月は唇を引き結んで思う。
 睨み返すように見据えて思う。
 だから、普段から。
 言い争いをしていても。
 観月が、言い過ぎたと思うような時は然して怒りもせずにいるくせに。
 いったい今日の何が、今までの会話にどの部分が、そこまで彼を苛立たせたのかと不審に思う。
「………………」
 観月は、再度渾身の力で自身の手を取り返すようにもがき、その反動のまま赤澤を振り切って部室を出て行こうとした。
 しかし観月の手首は依然赤澤の手のひらに捕らわれたままで。
 背を返すどころか、そのまま強く引き込まれ、部室の壁にきつく背中を押し付けられた体勢で拘束される。
「何を、…っ…」
「行くな」
「勝手なこと言わないで下さい!」
 観月の視界に影が落ちる。
 赤澤の肢体の影にも雁字搦めにされてしまうように。
 影が落ちる。
 観月はひどい威圧感を覚えた。
 息苦しい。
 怯みそうな自分が嫌で、観月は赤澤を意固地になって睨み据えた。
「行くな。今ここで話を終わらせたくない」
 大きい声を出された訳でもないのに、ビリビリと肌に響いてくる呻き声じみた獰猛な声。
 普段の明るくさばけた口調の男と同一人物かと観月が危ぶむ程に、赤澤の声音はきつかった。
 話も何も、なにを話していたかすら観月は見失っている。
 赤澤に、これほどまでに食い下がられるような話をしていた覚えはないのだ。
「いい加減にしなさい……! いつまでもこんな所にいて、裕太君が呼びに、…」
「……逆効果だ。お前」
 いつもなら観月の言葉を遮るような真似は絶対にしない赤澤が低すぎる声で言う。
 今口にするなと、壁に一層強く肩を押さえつけられ、そのまま唇が塞がれる。
「ン、…」
 びくりと観月は身体を竦ませた。
 まさかそうされるとはこれっぽっちも思っていなくて、ひらいたままの唇に赤澤のそれを受けとめる。
 深く噛みあう。
 赤澤を引き剥がそうと持ち上げた腕は、両方とも再度手首を握り込まれて壁に打ち付けられた。
 乱暴な。
 こんなこといつもなら絶対にしない。 
 キスが強い。
 荒い。
 迂闊にも泣きそうになって観月は顔を歪ませた。
 噛み付くようなキスが怖い訳ではない。
 恐怖ではなく怖いと感じたのは、普段とはあまりに違うキスに相手が赤澤だという事すら見失いそうになったからだ。
「、………か…ざわ、」
 唇の角度を変える一瞬で漏らした声は。観月自身で呆れる程にか細かった。
 手首の拘束は緩まないまま、赤澤が唇を離す。
 額と額が触れ合う距離で見据えてくる。
「俺が何に怒ってんだか、訳判らないっていう顔すんな」
「………かりません…よ…っ」
 ほんの少しだけ赤澤の気配が和らいだと思った途端、やみくもな衝動で瞳が潤んできた事を自覚して観月はうろたえた。
 こんなことくらいでなんでと困惑しながら息を詰めていると、赤澤が大きく顔を片側に傾けて、観月の眦に口付けてきた。
 唇にするようなやり方のキスだった。
 赤澤の舌先で、目尻を軽く舐められる。
 そんな所舐めるから濡れるんだと憤りながら、観月は唇を噛み締めた。
「あのな? 観月」
「……、………」
「お前が好きで、お前を一番大事にして、何が悪い。そこに腹立てられたって、俺はこれっぽっちもそれは変えらんねえよ」
 そんな言葉を交わしていた。
 確かに。
 そうだ、と観月はゆるゆると思い出す。
 部室にいた観月を赤澤が迎えに来て、もう部活が始まる頃で、だから早く行きましょうと観月は言ったのに。
 迎えにきた赤澤に、きちんと礼も言ったのに。
 赤澤が気遣わしい事ばかり言い出して、一向にコートに向かおうとしないどころか、観月を引きとめてきたから。
「お前が、ちゃんと全部考えてるのは判ってる。でもお前の心配をするなってのは聞けねえよ」
「………………」
 そう観月が口にしてからだ。
 赤澤が本気で怒り出したのは。
 大概の事には寛容な赤澤が、どうしてそれくらいの事でと観月は思うのだけれど。
 現実、単にその一言が発端で赤澤はこうまで怒っているのだ。
 だいたい観月は、部室でほんの少し仮眠をとっていただけなのに。
「………どうしてそれでそこまで怒るんですか」
 壁に押さえつけられている両手首の拘束は、まだ解けない。
 赤澤の声もきつく低いままだ。
 力づくにされる事が嫌いな自分を知っていてこれかと、観月は赤澤から視線を外した。
 こんな程度のことで泣き出しそうな自分はおかしい。
 でも顔をそらした途端、手首から指を外して抱き締めてくる赤澤もどうかと思った。
 それも、両腕で観月を胸元に抱き込む優しいやり方で。
「お前が俺の一番大事なもんを粗雑に扱うからだろうが」
「な、……」
「挙句に、お前の心配はしなくて結構とか言われるわ、部活に行くって話ぶった切られるわ」
「…、…っ…それは…」
「ついでにもっと言わせて貰えば、俺が一番大事なもんを、俺にこれっぽっちも大事にさせないし、可愛がらせもしないからだよ。お前が」
「何馬鹿なこと言ってんですか…っ……」
 だからむかついたんだよと、いきなり拗ねた口調で憮然と赤澤に告げられてしまった観月は、赤澤の胸元におさまったまま怒鳴るしかない。
 その言葉を聞いた途端、体温が上がった自分も馬鹿だとつくづく思ったけれど。
「馬鹿だよ。欲求不満の八つ当たりだ」
 開き直ったようなさばさばとした口調と、ほんの少しの笑み交じりの言葉は、普段の赤澤だ。
 そのことにやみくもな安堵感が募って、しかし同時に観月を気づいている。
 赤澤が、そういう言い方で、この場を紛れさせてくれている事。
 そんな茶化した言い方をして、その実赤澤の本音は、本当にただ観月が心配なだけなのだろう。
「だからって、あんな大袈裟に心配されなくても、……」
 自己管理の元の仮眠でしょうがと観月は呻きつつ、ちがう、本当に言いたいのは、とすぐに思い直す。
「……っ…だいたい…、…欲求不満だなんて人聞きの悪い事言わないで下さい…!」
「別に俺は自己申告恥ずかしくもねえけど?」
「あなたの問題じゃありません!」
 僕が相手で欲求不満だなんて失礼極まりない。
 観月が毅然と言い切ると、赤澤が一瞬の沈黙の後、殊更きつく観月を抱き締めなおして声を上げて笑い出した。
「お前、なんかそれ違くね?」
「なに爆笑してんですか…!」
 笑う赤澤に抱き潰されそうになりながら、観月は腹立ち紛れに赤澤の首筋に唇を押し当てる。
 ふわっと抱擁の腕が解けた。
「観月…?」
「………………」
 観月は赤澤のユニフォームの胸元を掴んで支えにして、軽く爪先立った。
 今度は唇を掠ってやって。
 本当に、恥ずかしくて腹がたつ。
「観月?」
 甘い優しい声で丁寧に伺ってこられては尚更だ。
 心配などは、しなくて結構。
 無駄に気を使われたいとも思わない。
 ただ、と観月は赤澤に向き直り、腹の内を少しだけ晒してやろうと決める。
「あなたが僕を、本気で全部欲しがらないでよくなったら、あなたの目の前から完璧に消えてやる」
 矛盾していると言いたければ言うといい。
 観月の尊大な眼差しの先で、赤澤はあっさり手を振った。
「あ、そりゃない」
 即答だ。
 ないないと言い切る。
 観月の滅多に言わない本音をあっさりと切り捨てて、そんな赤澤に憮然とした観月の唇に、優しい甘いキスを落として赤澤は笑う。
「……すげえこと言い出すなあ…お前」
「………………」
「また惚れ直したけど」
 そうですか、と返すのが実際のところ精一杯の観月は、部室の扉がノックされてひっそりと安堵する。
「裕太君ですね」
「………だからこの体勢でそういう事言うなって言ってんだろ」
「そういう事も何も裕太君は裕太君でしょう」
 扉の向こう側で、部長ー?観月さんー?と声が聞こえてくる。
 キスを重ねる距離の赤澤の唇に、それでも意図的に後輩の名前を少し多めになすりつけてやるくらいは、意趣返しでいいだろうと観月は思う。
 結局、赤澤が本気で怒ったり、距離をあけてこられたりしたら、自分に出来る事はないのだと観月は思っているからだ。
「……ったく」
 苦笑いで赤澤は降参してきた。
「悪い、裕太。すぐ行く!」
「赤澤部長?」
「おう」
「じゃ、行ってます」
 何故か開かない扉越しの、大声を張り上げる二人の会話に観月が不思議に思っていると、赤澤が観月の唇に最後のキスをしながら言った。
「聡くて理解ある後輩で有難いよな?」
「……っな…、……まさか、裕太君…」
「中に俺がいるって判ってからはお前の名前を呼ばない気遣いの後輩」
 さ、行くか、と赤澤は観月に手を伸ばした。
 赤澤の手は、今した最後のキスのような感触で観月の手首を包みこみ、観月を連れて強引に走り出した。
 クリスマスの静かな夜だ。
「………なに見てるんですか」
「観月」
 寮のベッドで。
 うとうととまどろむような浅い眠りから、ふと睫毛を引き上げた観月は、同じように横たわっている赤澤の視線に晒されていた自分を知り、小さく呻いた。
 観月が自分でも判るほど眠気にとろけた声だった。
 赤澤が笑っていた。
「…………悪趣味ですよ」
「寝顔も好きなんだよ」
 人の寝顔なんか見てと詰ろうとしていた観月の言葉を赤澤はあっさりと遮った。
「あなた何でもいいんじゃないですか」
 泣いている顔も、と言われた事がある。
 怒っている顔も、笑っている顔も、真面目な顔も、困っている顔も。
 ともかく四六時中、観月は赤澤にそんな事を言われている気がする。
 その都度うろたえてなどいられないと思うのに。
「観月はどんなでもいいよ」
「………………」
 低い赤澤の声が、夜の静寂に滲むように響いた。
 長めの髪が横たわっている事で寝乱れて、真っ直ぐに観月を見据えてくる視線を露にしている。
 さらりとした口調はいつも率直で、そのくせ言葉の意味は後から観月を雁字搦めにしてくるのだ。
 こういう男なのだろう。
 きっと誰にでも。
「一緒にいる時に寂しそうなのは、ちょっと痛いかな」
「………………」
「何か寂しくさせたか」
 そんなのあなたのせいに決まってるでしょうと、言ってやろうかと一瞬思ったものの、観月は口を噤んだ。
 我ながら馬鹿な事でと判っているからだ。
 代わりに観月は溜息交じりに呟いた。
「そんなに僕の顔が好きですか」
「うん?」
 観月の視界に、ふいに影が落ちる。
 赤澤がベッドに腕をついて、上体を伸び上げるようにして観月の唇を浅いキスで掠った。
 どれだけ丁寧にされているのかは、やはり一瞬後に気づく。
 キスされた瞬間は、あまりに自然すぎて判らないのだ。
「顔なあ……確かに俺はお前の顔、好きだけどよ。好みなのは丸ごと全部だから、顔見えない時でも結構ヤバイ」
 今度は赤澤の手が伸びてきた。
 骨ばった指に髪を触られる。
 赤澤の声音は独り言のようだった。
「声だけ聞こえてくるとか、影だけ見えてるとか」
「………声はともかく影って何ですか」
「とにかく頭…てゆーか、顔。ずばぬけて小さいのとか、影だと一発だぜ」
 コートにうつってる影とかな、かわいい、と臆面もなく告げられて観月は絶句する。
 そんなこと言われた事がない。
 影なんか好きだとか言われて赤くなりそうな自分も信じられない。
「声もな、すごいいい」
 ゆったりと微笑む赤澤は、昨日のクリスマス礼拝の賛美歌もよかったしなと囁いた。
 ひょっとすると、赤澤の方こそ大分眠いのかもしれない。
 本当に質が悪いと観月が赤い顔で唸りたくなるほど、声も気配も甘く気だるかった。
 観月の髪を手遊びしながら、無防備すぎて観月が怖くなるほど心情を全て観月に晒してくる。
 赤澤は、好きだという言葉を繰り返し繰り返し口にする。
 でもほんの少しもその言葉に込めた感情や、その言葉が観月に与える影響力が薄まる事はなかった。
「………………」
 観月は自分の前髪に触れている赤澤の手首を目前に見つめながら、その内側に静かに唇を寄せた。
 唇の薄い皮膚に、とくんと脈が重なった。
 大きくかわいた熱い手のひらに。
 髪ではなく片頬を包まれたと観月が思った時にはもう、唇が深く塞がれていた。
「……、…ん…」
 自分に乗り上がってきた赤澤の背を観月は伸ばした腕で抱き込んだ。
 こんなにも近い距離。
 触れられた瞬間は平気だったのに、やはり後からだんだんと怖くなってくるけれど。
 唇を開いて、舌で繋がって、濡れて、生々しく、こんな事をして怖くもなってくるけれど。
「観月」
「………っ……は…」
 零れた吐息にまで丁寧に口付けてくる赤澤だからこそ怖くて、でもそれは失くせないものを見つけてしまった慣れぬ飢餓感のせいだと観月は知っている。
「……観月?」
「随分…眠そうだったくせに…」
 全然平気そうだったくせにと、まるで恨み言めいた言葉が勝手に観月の口から零れてくる。
 それはここ最近の話でもあって。
 キスのさなかに織り交ぜた観月の呟きに赤澤は微かに苦笑いした。
 舌先を赤澤に甘ったるく噛まれる。
「賛美歌独唱のお前の、喉痛めさせる訳にいかないだろう」
「………もうクリスマスは終わりました」
「歌えなくなっても…?」
 もう賛美歌は歌わない。
 もう時期にクリスマスは終わる。
「……好きにして下さい」
「お前の声、獲っちまっても?」
 微量の獰猛な提案に、観月は身体の力を抜いて艶然と笑った。
「どうぞ。僕の声が聞けないでいても、あなたが我慢出来る範囲でね」
 どうなるのだろうかと寧ろ後の状況を楽しみに思い、観月は今年のクリスマスを終わらせた。
 俺も行くと言ってきかないのだ。
 まるで駄々をこねる子供の言い草だ。
「ついてくるなと言ってるでしょう…!」
 観月はじめは道中足早に歩きながら、前方を見据えたままで幾度もそう言った。
 するとその都度その相手は、同じ回数、俺も行くと返してきた。
「目立ってしょうがないんですよ! あなたみたいに、やたらとでかくて色の黒い人が偵察についてきたら!」
 観月はとうとう立ち止まった。
 背後にいた男を振り返って怒鳴る。
 相手は、お、という顔をして観月と同じく足を止めた。
「帰りなさい!」
 他校のデータ収集に向かっている観月にとって、今目の前にいる男は、はっきりいって一緒に連れていきたくない相手筆頭だ。
 目立ちすぎる。
 怪しいこと極まりないと憤慨している観月をよそに、相手の男、赤澤吉朗は飄々としたもので観月に平然と言い返してきた。
「お前みたいに、やたら綺麗で色の白い奴が偵察に行ったって充分目立つだろうが」
「な…っ………」
「俺もついていく。もう帰り道判んねえし」
 唇の端を引き上げて笑う赤澤の表情は明るく快活だった。
 前髪を骨ばった長い指ででかきあげながら、うそぶいてそんな事を言う割に。
 全く不誠実に見えない所が、赤澤の最も不思議な所だった。
 観月は唇を噛み締めて赤澤を睨みつけているのだが、彼はまるで動じた風もない。
「日比野第五だっけ? 歩いていくのか?」
「………………」
 むしろ穏やかに問いかけながら、デジタル機器があれこれ入っている観月の鞄を赤澤は観月の手元から奪い取った。
 どれもコンパクトであるけれど、如何せん様々なツールが詰まっている観月の鞄は、見た目よりも遥かに重い。
「………………」
 赤澤は観月の鞄を肩にかけ歩き出した。
 観月は赤澤の背中をきつく見据えながら、声にならない声で唸るような悪態をつくしか出来なくなる。
 赤澤は派手な野性味を晒しつつも徹底したフェミニストでもある。
 バランスがいいのかわるいのかさっぱり判らない。
 それが赤澤なのだ。
 観月は身軽になって、しかしだからといって嬉しい訳でもなくいる。
 赤くなっている自分が嫌なのだ。
「観月ー」
「………………」
 観月に背を向けたまま赤澤は片手を肩先まで挙げて、来い来いと指先の仕草で観月を促した。
 そうやって敢えて赤澤が振り向かないでいるという事は、結局観月の今の状態など全て見通しているのに違いなかった。
 それがまた観月には悔しいのだ。



 都大会の四回戦の相手校になると観月が目星をつけた日比野第五の偵察には、然程時間がかからなかった。
 もういいのかと赤澤が観月に聞いたくらいに早く済んだ。
「ええ。ダブルスで決まりますよ。僕と貴方は出番無しですね」
 問題はその次に来るであろう青学ですと観月は言って、赤澤に帰りを促した。
「後は部屋でまとめます」
「そうか」
「………そうかって、ちょっと何、…」
 いきなり赤澤に腕を取られて引っ張られる。
 観月は目を丸くした。
 何でこんな。
 突如赤澤は自分の腕を取って帰路とは逆の方角に向かって歩いているのだ。
「赤澤、…っ…」
「予定より早く終わったんだろ? 少し寄り道して行こうぜ」
「ど、……どこに行くんですか…!」
「んー? なんか甘いもんでも食いに行こうかと」
「は?」
「好きだろ?」
 ケーキとか、お前さ、と赤澤は歩きながら観月を流し見てきた。
「あなた、何意味の判らないこと言って、……」
「疲れた時には甘いものってのが定説だろ?」
 赤澤が目を細めた。
 笑うといきなり人懐っこくなるのだ。
 この男は。
「………………」
「お前の事だから無茶しすぎてぶっ倒れるとかは思ってないけどな。寮戻ったらどうせすぐ部屋に籠もってまたデータ分析すんだろ?」
「いけませんか。それが僕の仕事です」
「いけなかねえよ。頼りにしてる」
「………………」
 一歩間違えると悪目立ちしかねない風貌で、それは優しく笑ってみせる。
 最初から観月に無条件に信頼を寄せてきた赤澤がいなければ、はえぬき組とスクール組とが混合する部内の融合はなかったかもしれない。
 赤澤が部長だったからこそ、観月が多少暴君めいた指示を出しても不協和音は生まれなかったのだ。
 それは誰よりも観月が自覚していた。
「………どこまで行くんですか」
 観月は異論を唱えるのを止めた。
 手首の辺りはまだ赤澤に掴まれたまま。
 歩きながら小さく尋ねれば、赤澤の歩調が少し遅くなった。
「まあ、近場で」
「…………あなた絶対浮きますよ。とんでもなく居心地悪いですよ」
「行ってみなけりゃ判んねえだろ」
「……だいたいなんでこんな事」
 話を蒸し返して観月が呟く言葉を赤澤は当然のように聞きつけた。
「だからさ、お前好きだろ。ケーキとか紅茶とか。俺はそういうお前を見てるのが好きだしな。だから一緒に行くって言ってる。問題あるか?」
「………ありますよ」
 何をさらっととんでもない事を言ってるんだと観月は唖然とした。
 好きとか何故そんな風に言えるのか。
 この男。
「あっても行く」
 また駄々をこねる子供再びだ。
 そんな見目をして、こんな言い草で。
 ありえない。
 観月は頭上を仰いで溜息をつくしかなかった。

 

 近場でと赤澤は言ったが、電車に乗った。
 駅からは然程離れていない。
 そうして観月が連れていかれたのは観月もよく知る著名なホテルで行われていたデザートビュッフェだった。
 ケーキの類はあまり食べない赤澤は、案の定コーヒーだけとってすでに席についている。
 周囲は見事に女性陣しかいないが、赤澤はまるで気にした風もなかった。
 テニスの試合にしても日常生活にしても、赤澤は豪胆だ。
 どうあっても自分のペースでいる。
「………………」
 赤澤が周囲の女性達から集めている視線は、好奇というよりも、もっと華やいだ気配に満ちている。
 それにどこまで気づいているのかいないのか。
 観月は不機嫌に睨みつけてやったが、赤澤はコーヒーカップに口をつけながら、邪気のない笑みで笑いかけてくるだけだ。
「………………」
 嘆息するしかない観月は、好きなケーキだけを厳選して皿に取り分け、クレープをオレンジのリキュールでフランベしてもらったものと、紅茶のカップを手に席に戻った。
「観月、ここのスタッフよりうまいんじゃねえ?」
「……何がですか」
「皿の持ち方とか、ウォーキング?」
「ウォーキングって全く意味判らないですけど」
「まあまあ」
 笑う赤澤に観月はプレート二枚とカップを卓上に置いて席につく。
「これ」
「ん?」
 ケーキのプレートを赤澤の方に差し出す。
「スイートポテト。さつまいもです」
 これなら食べられるでしょうと観月が言うと、案外素直に赤澤はフォークに刺して、スイートポテトを口に放り込む。
 一口だ。
「おー…これうまい」
「……こっちのも、食べられますよ」
「わざわざ俺が食えるの探してきてくれたのか?」
「………っ…」
 観月は、ぐっと息を飲んだ。
 こういう所が、赤澤は、デリカシーがないのだ。
 それこそわざわざ言葉にして言う事かと観月は赤澤を睨み据えて。
「探すまでもないです。こんなこと」
 見れば判るんですからとか。
 焼き芋が好きならスイートポテトが食べられない訳ないでしょうとか。
 観月が何をどう言っても、赤澤は唇に浮かべた笑みを消さなかった。
 腹立ち紛れに観月が甘いオレンジのシロップがたっぷりしみたクレープシュゼットを食べ始めると、赤澤は片手で頬杖した体勢で、じっと観月を見つめたままになった。
 あまりに直視されて、さしもの観月も居心地が悪くなる程だった。
「なあ、観月」
「……なんですか!」
 手は止めないものの語気荒く問い返した観月に、赤澤は言った。
「そこのフロントの横ん所のコンシェルジュ、俺の親父なんだけどさ」
「………、……は……?!…」
「紹介していい?」
「何の冗談……、…」
「や、冗談じゃなくてマジな話」
「このホテル…って…」
「そう。俺の親父が勤めてるとこ。今も見えてんだけどさ」
 さすがにもう冗談だろうと観月も言えなくなった。
 赤澤の父親の職業は観月も知っていたし、ここに連れてこられた時何故赤澤がこんなホテルのデザートビュッフェなど知っているのかと疑問に思った謎もそれで解ける。
「なあ、いい?」
「駄目です…!」
「えー…何で」
 えーとか言うな!と観月は真っ赤になって怒鳴った。
 無論、声はひそめてだが。
「こんな恰好でご挨拶できるわけないでしょう…!」
「どこから見てもちゃんとしてるし、綺麗だけどな?」
「き…、…っ……」
 憤死してしまいそうな観月になど赤澤はお構い無しに笑んでいる。
「何ですかその笑い顔は…!」
「いや、かわいいなあと…」
「か…、…っ……」
 もういやだ。
 もうしぬ。
 観月は叫びだしたくなった。
 なんなんだこの男。
「自慢してえじゃん?」
 いったい自分の父親に自分の友人をどう自慢する気なのかと危ぶんだ観月は、ひどく物騒な考えに直面してしまった。
「赤澤……あなた……何て言って僕を紹介する気なんですか」
「ああ?……あー……そうだなあ……」
「………………」
「こいつは、俺の……」
「………………」
「俺の……観月です。って感じか」
「……っ…、…俺の観月ってなんなんですか! 俺の観月って!」
 ふわりと甘いオレンジの香りの中。
 そんな言い争いがエスカレートしていく。
 とんでもない。
 めちゃくちゃだ。
 観月は、ともかく、断固として。
 今この状況下で赤澤の父親と対面する事だけは避けようと、それだけに必死になった。
 真っ赤になって、涙目で、会える訳がない。



 翌日、聖ルドルフのテニスコートにはいつもの光景が繰り広げられていた。
 声を荒げる観月と、笑ってそれを宥める赤澤と。
 いつものことだとその喧騒を気にした風も無いテニス部員達の耳に届かなかった詳細は。
「な、…っ……気づかれてたんですか…っ?」
「みたいだなー。お前のシュゼットは実に綺麗だったなとか言われたし」
「……それは……クレープ…の話なわけ…」
「ないだろうな」
 肩を竦める赤澤に、観月は茫然とした。
 クレープシュゼットは、クレープの女王様という意味なので。
 赤澤の父親が言った言葉が、クレープの話のわけがない。
 だから嫌だったのだ。
 だから抱かれたくなかった。
 抱いた後に、赤澤に。
 ああいう顔をされる事を、ああいう態度をとられる事を、観月は多分、最初から判っていた。
 嫌だった、でも、したかった。
 して欲しかった。



 外は酷い夕立だった。
 窓ガラスの向こう側の光景は、雨の飛沫にけぶっていて視界も儘ならない。
 夜の闇とは違う濁った色で満ちている。
 まるで奥にあるものを全く見透かせない状態の感情のようだ。
 それは自分のものか、他人のものか。
 どちらもだと、観月は吐息を零す。
「………………」
 夏休みに入って数日。
 今日はずっと天気がよかったから、寮に残っている輩は少ないらしかった。
 寮内はとても静かだった。
 皆どこかしらに出かけているのだろう。
 観月は夕立が降り出す随分前から食堂に居て、何があるでもない屋外の風景をガラス窓越しに見やっていた。
 目の前にあるノートパソコンはスクリーンセーバーの星を煌かせ続けている。
 身体はいろいろな理由でだるくて、本来なら自室で休むのが得策だと観月も判っているのだが、どうして自分がここから動かないでいるのかは謎だった。
 これではまるで、待っているみたいではないかと観月は自嘲する。
「おはよーだーね。観月」
「………十六時半回ってます。何がおはようですか」
「昼寝から起きたおはよう」
 柳沢が欠伸に笑いを交ぜて観月の背後から現れ、隣の席に座った。
 いつもはきちんとセットされている髪がくしゃくしゃだ。
 襟刳りの広いシャツの胸元は寝乱れて皺になっていて、だらしないと観月が苦言を呈そうとするより早く柳沢は言った。
「喧嘩しただーね?」
 観月はひらきかけていた唇を閉ざした。
 まだ少し眠たそうな目をした柳沢は、頬杖をついて観月を流し見ている。
「いいえ」
 観月は、しらばっくれるのは止めた。
 やってやれない事はないが、これでいて柳沢は結構厄介な相手だからだ。
「喧嘩じゃなく、観月が怒ってるだけ?」
「怒ってなどいません」
「じゃあ赤澤の方が怒ってるだーね」
「知りません」
 観月はぴしりと柳沢の言葉を遮った。
 狼狽の欠片も無い、いっそ冷徹な物言いだと客観的に思う。
 我ながら、うんざりする程だ。
「淳から貰ったから観月にもやるだーね」
「………………」
 柳沢はそんな観月の応答に別段気にした風もなく、ズボンのポケットからとても小さなアイスブルーのキャンディを取り出して観月の手に握らせた。
「……モンクスのキャンディですね」
「冷たくて気持ち良いだーね」
 指先でつまむ程度のミニキャンディを口に放った柳沢を横目に、観月も黙ってそれに倣った。
 口に含むと甘すぎず辛すぎない清涼感が喉近くまで広がった。
 何となくそれだけで僅かに淀みが流される。
 観月は溜息をついた。
 柳沢は黙っている。
 もう一粒、観月はキャンディを口に入れた。
 清涼感のあるアイスブルーのミニキャンディが、まるで薬か何かのような気持ちで。
 これを口にしたら、話す事が出来るような面持ちで。
「今何か言っただーね? 観月」
「………柳沢」
 観月は眉を顰めた。
 まだ何も言っていない。
 しかしこれから、今まさに、言おうとはしていた。
 そういう心情を全て酌まれているかのようなタイミングでの柳沢からの呼びかけに、観月は眼差しをきつくしたが、柳沢は飄々としているばかりだ。
「観月?」
「………………」
 いっそ何の思惑もなさそうな邪気のない顔だ。
 観月は降伏した。
「喧嘩はしていません。僕は怒ってなどいません。赤澤は…」
 一度言葉を止めて、観月は溜息と一緒に低く言った。
「……つまらなかったんでしょう」
「何がだーね?」
「………………」
 僕が。
 観月がそう口に出す寸前、それは遮られた。
「お前、それ以上喋るな」
「…………、…」
 赤澤だった。
「うわ。びしょ濡れだーね。赤澤」
 タオルタオルと柳沢はフットワークも軽く立ち上がり寮の部屋に向かったらしかった。
 観月は唖然と全身濡れそぼった赤澤を見上げるだけだ。
 この夕立に降られて、長い髪はべったりと褐色の肌に貼りついている。
「観月」
「………………」
 それ以上喋るなと言いながら、赤澤は押し殺した声で観月に詰め寄ってきた。
「つまらなかったんだろうって、何だ」
 荒く前髪をかきあげる大きな手のひらは、昨夜観月の肌の上を辿った。
「どういう意味だ。観月」
「………………」
 赤澤の手が観月の肩を鷲掴む。
 骨に直接指が沈んでくるように鈍くそこが痛んだ。
「観月!」
「……、…ッ…」
 痛みにと、怒声にと。
 観月が唇を噛みしめる。
 手荒に肩が揺すられた。
「赤澤! 何してるだーね!」
 物凄い慌て方で、タオルを片手に持った柳沢が駆け寄ってくる。
「放っとけ!」
「お前、観月に何してるだーね」
 赤澤の怒声に全く臆する事無く柳沢は血相を変えていて、そんな彼の背後から部屋にいたらしい木更津も顔を出した。
 慌てふためく事はしないものの、木更津もまた一方的に赤澤だけを窘めた。
「ちょっと赤澤。観月と慎也に何すんの」
 柳沢と木更津が二人がかりで間に割って入ってきて、観月は赤澤の手から引き離された。
 まるで庇い立てするかのような柳沢と木更津の背中を観月は傍線と見据えた。
 何故彼らは自分を庇うのだろうかと怪訝に思う。
 こんな時まで絶対に、自分の言う事を聞けというつもりはない。
 赤澤は別に悪くない。
 何も悪くない。
 後悔は後から悔やむから後悔で、それは仕方の無い事なのだ。
 観月は、それが判っていたけれど、それでも欲しかったのだ。
「赤澤、ちょっとは自分の力とか考えなよね。あんな力いっぱい掴んだら観月の肩が砕ける」
「あんな風に食ってかかるのも止めるだーね! 観月に実家帰られでもしたらどう責任とるだーね!」
 結構な剣幕で赤澤に詰め寄っている柳沢と木更津の声、それを片っ端から切り捨てている赤澤の怒鳴り声が、寮内で反響する。
 観月は額に手をやって一喝した。
「うるさい! 落ち着きなさい貴方達…!」
 ぴたりと全員が口を噤む。
 たちどころに辺りは静まった。
 のろのろと、不服も露に唇を尖らせて柳沢が観月を振り返ってきた。
「……って観月にいわれるっていうのは、どうなんだーね…」
 木更津も不満も露に声のトーンを低くして振り返ってくる。
「……随分ひどい話じゃない? 観月」
「………………」
 赤澤だけが一人、怒りを滲ませたまま複雑そうな顔で押し黙っている。
 喧騒が止んだら止んだで、観月は訳も無く沈痛な面持ちを伏せた。
「慎也」
「……判ってるだーね。淳」
 深々と嘆息した柳沢が、観月の腕を掴んで窓辺に連れて行く。
「…柳沢?」
 一方木更津は赤澤を引っ張ってきて、窓辺に観月と赤澤を残し、彼らは背を向けてきた。
 そして肩越しに同時のタイミングで振り返ってきて、ピッと立てた人差し指を差し向けられる。
 ちゃんと話をしろと眼で言われた。
「………………」
 後は二人きりでカタをつけろという意味らしい。
 そういうわりにはちゃっかり二人とも、様子を伺って食堂の出入口に屈んで隠れる辺りが食えない。
 観月が、そんな柳沢と木更津の行動に意識をやっている間、赤澤は再び観月の肩を掴んだ。
 先程とは違う。
 精一杯加減しているのだと観月には判った。
「泣くなって……どうすりゃいいんだ」
「………………」
 改めて向き合った途端、赤澤の言うとおり観月の双瞳は潤みかけてしまっていた。
「そんなに嫌だったのか?」
 苦く問われて観月はきつく唇を噛んだ。
 この、馬鹿。
 観月は自分らしくもないと承知の上で、口汚く赤澤を罵りたくなる。
 濡れた赤澤のシャツの胸元を掴み、引っ張って、観月は赤澤の耳元に唇を近づけた。 「…………して」
「……みづ…、……」
「もう一回、して」
 ひどく悔しくて。
 本当に泣き出しそうになって。
 でも観月は言った。
 声が震えているのが自分で判った。
「赤澤! 何言われたか知らないけどとにかく今は観月の言うこと聞いておくだーね!」
 隠れている事を忘れているのか、はなから隠れているつもりもないのか、無責任極まりない台詞で柳沢にけしかけられた赤澤は、観月を見下ろし唖然としているままだ。
「………観月…?」
「今度は、あんな顔させない」
 もう一度チャンスくらいくれたっていいだろうと観月は言外に赤澤を詰った。
 うまく出来なかったとか、赤澤のしたいようには出来てなかったとか、それならそれで。 術を代えて再度挑む事くらい観月には難しくない。
「僕が泣いてるのが嫌なら、ずっと目瞑っていればいい。違う事を考えていればいい」
「おい、観月」
「僕がうつ伏せのまま、絶対に顔上げないでいる。だから」
「観月!」
 泣き出した観月を、あんな苦々しい顔で見たりしなくて済むように。
 してみて、後悔されて、それ一度きりでおしまいだなんて観月には我慢出来ない。
「嫌でも、したくなくても、もう一回」
「お前……お前な……!」
 赤澤は無理矢理振り絞ったかのような声で呻いた。
「観月、お前自分で何言ってるのか本当に判ってるのか」
「………………」
 やみくもな力で抱き締められた。
 何でそんな必死に、と観月は息を詰める。
 赤澤の肩越しに、もう出入り口に柳沢達の姿がない事を知る。
 それ抜きにしても、観月の身体から力が抜けた。
「…赤澤」
 ひっそりと名を呼べば、一層強く抱き竦められた。
「嫌で……泣いたんじゃないのか…?」
「貴方があんな顔で僕を見るからです…っ…」
「………お前にどれだけダメージ与えたかって…」
 観月は必死に両腕を伸ばした。
 赤澤の背中を抱く。
「放っておくな……っ…」
「観月」
 同じ力で抱き返される。
 全身濡れている筈の赤澤の身体が熱くて、全身かわいている筈の観月の身体が濡れている。
 こうやって、お互い染み渡るように行き来するもの全部で、抱き締め合いたいだけだ。
 望みはそれだけ。
「………放っておくな、…馬鹿…」
「ん。………悪かった。観月。ごめんな?」
 甘やかされても腹はたたない。
 結局、こうしたかったのだ。
 観月は。
「ごめんな」
 でも。
「……それ以上謝ったら許しませんからね…」
「…判ってる」
 赤澤は笑ったようだった。
 少しも手の力は緩まない。
 謝られたいのではないという事を赤澤が判ってくれているのなら、観月はそれだけでいいのだ。
 もう一回、と囁きで煽ってしがみつく。
 駄目押しに。
「………お前…な」
 赤澤の零した笑いの気配はたちまち欲情を含んで苦しげになる。
 観月は微笑んだ。
 綻んだ唇が、褐色の首筋にそっと重なった。



 花押は署名の印。
 唇は恋人の肌に同じ事を残せる箇所だ。
 圧迫感をはらんだまま、蠕動し出しているのは観月だ。
 赤澤に食い入るように見据えられながら、涙と、あえかな呼気と、震えや熱を帯びた小さな声を洩らす。
 手のひらと手のひらを一部の隙間もなく重ねた上で絡めとられた指で、赤澤の手の甲に縋り、爪を立てる。
 強張る身体は尚募る緊張と唐突な弛緩とを繰り返した。
「赤澤……、……」
「………大丈夫だ。待ってる」
 欲望に切羽詰ったような息を洩らしているのに、赤澤の唇はそっと観月の目元の端に落ちてきた。
「観月」
 好きだと呟くように言って、淡く微笑むから。
 繋ぎとめられていない方の手を観月は必死で伸ばした。
 汗の落ちる赤澤のこめかみに。
 指先は、観月自身が呆れる程に震えていた。
 熱い汗がその指の先に触れて、観月はまた少し泣いた。
「観月?」
 触れ合わせている肌も、息も、汗も、全てが熱い。
 観月を圧し拓いて、観月を抱き締めて、観月だけを見ている赤澤に。
 もう、何なんだこの男はと観月は胸が押し潰されそうになる。
 力づくなのに優しい。
 余裕があるようで切羽詰っていた。
 甘ったるくて焦れてもいる。
 観月だけを見つめている。
 観月だけしか見ていない。
 そんな事あっていい筈ない。
「……赤澤…」
「何だ?……」
 赤澤の両手に頬を包れ、骨ばった指の先に眦を拭われる。
 慰めるような、いたわるような仕草に。
 凪ぐ気持ちと焦れる気持ちが沸き起こる。
「………なにを……言わせたいんですか…あなたは…」
 責めるように言った言葉は泣き濡れて弱々しくなってしまった。
 顔を背けようとすれば、自然と赤澤の手のひらに自分の方から頬を寄せる仕草になってしまって、観月はますます追い詰められる。
「……観月…」
 しかし濡れた頬にやわらかいキスが押し当てられて、身体の奥が慎重に揺すられれば、観月は赤澤の背に取り縋るように腕を伸ばした。
「………、…っ……」
 観月の唇が触れた赤澤の肩は、熱くて、なめらかに硬かった。
 日に焼けた太陽の匂いがする。
「ん、…っ…、……」
「……殴れよ…?」
「な…に…、……?…」
「嫌だったり、痛かったりしたらちゃんと」
「………………」
「言葉に出すのが嫌でも、殴って止めるくらいはしてくれ」
「……れるわけ、ないでしょう……!」
 そんな事を真顔で危惧する男の事が、いったいどれだけ好きでいると思っているのか。
 両腕でかき抱くように抱き締めている赤澤にこそ、欲しいなら欲しいでちゃんと、言葉で言うなり態度に出すなりして欲しがれと願う。
「僕にそんな真似……させる気でいるんですか」
「……泣くなって」
「誰が、泣かせて…、…」
「俺だ。………俺だよ。判ってる。何をどうやっても泣かせちまうんだ。お前の事」
「赤澤…」
「お前が可哀相で、可愛くて、自分で自分がどうしようもないって思うけどな……」
 どこか仄かに自嘲を残したまま、好きだ、と掠れる声で繰り返され、幾度も幾度も請われるように囁かれて、観月の中で感情が揺れる。
 気持ちの揺らぎは招待の判らないうねりを呼んで、体内に含まされている赤澤に観月の方から関わっていくような動きを呼んだ。
「……っ…ぅ…」
「…、…バカ……お前…」
 息を詰めた赤澤に、珍しくなじるような言い方をされても観月は何も苛立たない。
 羞恥ついでにまた少し泣いて、焦った声を出す赤澤の、欲に濡れていく表情をじっと見上げた。
「おい」
「………っぁ…」
「観月…?……おい、大丈夫か」
「も、…しつこい…っ…」
「しつこいってお前……泣くなよ」
「……いい加減慣れろ…っ……」
「慣れねえよ。何回見たって可哀相だわ可愛いわ…お前は何なんだよ、ほんと」
 八つ当たりじみた言葉が耳に甘い。
 広い背中に腕を回せば赤澤が上体を屈めてきた。
 すでに体内に深くのんでいる熱量が、その動きに伴って、観月の内部で伸び上がってくるような触感で観月の神経を焦がす。
「ふ……ぁ…っ……」
「……、……どうなってんだよ…マジで…」
 くそ、と耳元で毒づかれても嬉しくて。
 観月は上擦った涙声で赤澤の名を繰り返し呼んだ。
 拓かれた箇所から絶え間なく送り込まれてくる刺激は、赤澤が動き出す前から観月が感じていたもので。
「ん…っ…、ん、っ…ぁ…、」
 それが実際にゆっくりではあるが揺さぶられ出してしまうといよいよ誤魔化しきれなくなった。
 観月の濡れた声を探るようにしながら、赤澤は身体を進めてくる。
 退いては、また、奥深くに忍んでくる。
 食い返し、繰り返し、そしてとうとう、こんな中まで。
 入ってきた。
「………っ、ひ…」
「観月」
「…、く…ぅ………」
 熱い息と共に首筋を甘く食まれて。
 とける、と苦しがるような、それでいて低い、甘い、囁く声に観月の方こそそうなった。
 気持ちが溢れて涙になる。
 声になる。
 観月が嗚咽交じりに赤澤の名を呼べば、そんな自分に執着した優しい手で頭を撫でられて、キスを重ねられ、身体を揺さぶられたからおかしくならない筈がない。
 シーツをかきむしろうとした手を再び奪われ、強く指を絡めとられた。
 密着した手のひらの熱さに浮かされる。
 組み合わせた指と指で、互いへと縋りつく。
「観月」
 浅いキスが、唇に触れる。
 幾度も。
 荒いでいる呼気とは裏腹に、赤澤の所作は丁寧で優しかった。
 執着のように繰り返されるキスに観月の啜り泣きはますます止まらなくなってしまう。
 身体の中に、恐らくはひどい我慢を強いられている熱がある。
 切ないくらいに優しいキスの感触と、同じ人間のものとは思えない猛々しい気配がする。
 なんてばかなんだと、観月は眦から涙を零しながら、両膝で赤澤の腰を挟みつけ観月の方からキスを返した。
「み、……」
 息をのんだ赤澤の唇を舌先でそっと舐める。
 両足を、その腰にいっそ絡みつかせてしまおうかと、泣き濡れた目で赤澤を強く見据える。
「……っ…ァ、…ぁ…、っ…ァ」
「………、……悪い……」
「ん…、っ…ぅ……く…、…ぅ」
「マジで……やばい…、…」
 赤澤の長い髪が観月の首筋を擽って、ものすごい力で抱きすくめられながら、赤澤が送り込んでくる律動の激しさに観月はしゃくりあげて泣いた。
 両手で、きつく、赤澤の背を抱き込みながら。
 怖いくらいに荒い腰の動きに観月の身体はシーツの上をずれていき、その度に赤澤の強い腕で引き戻された。
「…ひ……、…っ…ぁ、っ」
「観月」
「ン……、…ぁ…、…っ…ァ」
 噛み付くように口付けられ、赤澤の動きが更に加速して、それはいっそ暴挙と言っていいのかもしれなかった。
 けれど観月が今ここで泣くのは、それが、少しも嫌でないからだ。
 手加減も何も出来なくて、それを苦しがりながらも、自分の中で快感を貪っている赤澤が、観月に堪らない安堵感と陶酔感を植えつけてくる。
 我を忘れるくらい、欲しがればいい。
 優しい、優しい、男だから。
 勝手なようで、無茶なようで、しかし何があっても観月を絶対に大切にしている男だから。
「……好き、だ」
「………ッ……ぅ」
「好きだ。観月」
 低い声で、熱に浮かされているような、しかし真摯で切羽詰った声音で、赤澤は観月にそう繰り返した。
「好きだ……」
「…、……ぅ………ぁ」
「観月」
 赤澤は声でも観月をおかしくする。
 言葉で観月の頭の中まで愛撫してくる。
 挑発のつもりは全くなかった。
 観月だって限界だったのだ。
 真剣に優しくされて、本気で大事にされて、無条件に信頼されて。
 赤澤に、そうされればされるほど、それよりもっとと望んでしまいそうな自分の飢餓感が怖かっただけだ。
 いつ、これが取り上げられてしまうのか。
 いつ、もう、そうされなくなってしまうのか。
 そんなことばかりを考えてしまう。
 望むのはいつでも自分ばかりで、与えてくれるのはいつも彼ばかりで。
 だから観月は、自分には赤澤に与えられるものは何もないし、赤澤には観月に望むものは何もない、そんな風に考えてしまう。
 そんな風に考えたから、言ったのだ。
「あなたは僕を側に置いておけば満足なんですね」
 飾っておけばそれでいい。
 連れて歩くには良いなんていう評価も観月自身聞き慣れた。
「観月」
「………………」
 しかし赤澤は、そう口にしたきり黙った。
 言われた言葉の意味を考えるように押し黙った。
 確かそれまでは、当たり障りのない話を交わしていた筈だった。
 ルドルフの寮の、観月の部屋で。
 他愛のない、会話を。
「………………」
 沈黙が部屋に満ちる。
 無表情の赤澤は、観月の目には見知らぬ男のように見えた。
 こんな空気になってしまった事は、観月の予想の範疇外だった。
「………観月?」
 こんな声で呼ばれる事も。
「俺は…お前にそう思わせたのか」
 抑揚のない問いかけや、きつくなった視線。
 観月は小さく息を詰める。
 ベッドによりかかるようにして床に座っていた赤澤が、立てた片膝に乗せた右手で拳をつくる。
 口元を覆い、舌打ちのような吐息をついた後、赤澤のその拳は床を強く打った。
 カーペットに吸音されて、音はしない。
 でも明らかな振動に観月は片を揺らす。
「俺は、お前を無くすような真似は出来ないし、しない」
「……………」
「でも、それはお前を抱かないっていう意味じゃねえんだよ」
 決して声を荒げたりはしないけれど、赤澤が酷く機嫌を損ねている事は観月にも理解出来た。
 机に向かっていた観月の元へ、肉食獣の敏捷さで立った赤澤に、観月は腕を掴まれてベッドへと放られる。
「……、…っ…」
「お前の口で言われて、許せる台詞じゃねえよ。観月」
 餓えたように食らいつかれた。
 唇に。
 手首を握り締められ、シーツに押さえつけられた。
 観月に口付けながら、赤澤は片膝で寝具の上に乗り上がってきた。
 キスはきつい。
 舌が痛い。
 息が混ざって、唾液が混ざって、観月の唇は赤澤の唇と密着し、卑猥に歪んだ。
「…、…ぅ…、…」
 この男に。
 執着される相手は、いったいどんな子なのだろうかと、思った事がある。
「……………」
「……っ…、…は…、…、…」
「……………」
「ンっ、………、…」
 吐いた息も、吸い込む息も熱くて。
 苦しくて。
 もがいてでも逃げたい。
 力で押さえつけられて、唇をむさぼられて。
 茹だったように指先までじんじんと痺れて、顔なんか真っ赤だろうと容易に判るだけに居たたまれない。
「…………っ……く…」
「観月。嫌がってんじゃないんだったら暴れるな」
「………ゃ……」
 観月、と窘めるような赤澤の呼びかけに観月は泣きたくなった。
 もう、赤澤の手は信じられないほど優しく観月の身体に触れている。
 あれほど強く拘束されていた手首が甘く握り込まれて、先ほどまで締め付けていた所を労るように長い指の先で撫でられている。
 強引なまま。
 押さえつけられて、力づくで、それなのに。
「赤、澤………」
「ああ。俺だ」
 えらそうで。
「観月」
 優しくて。
「好きだ」
 熱を帯びた声。
 力が抜けた。
「観月」
 赤澤の手のひらが掠っただけで、神経を直接握り潰されたみたいに観月の中で何かが溶ける。
 少しも痛くはなく、でもひどく辛い。
「観月……」
「………ャ…、……」
 泣き出さないのが奇跡だ。
 そう思っても。
 自分を追い詰める一方の赤澤を、罵る言葉なんか何一つ観月の手にはない。
「…っ…、…」
「観月」
 赤澤の手のひらで、観月は目元を拭われた。
 泣いてなんかいない、ただ泣きそうなだけでいるのに。
 察して宛がわれた手に涙が呼ばれてしまう。
「…………っ…ぅ」
「嫌か?」
「……、……、…っ…」
「ごめんな」
 俺はどうしてもしたいと赤澤は言って、観月の足に手をかける。
 迷わない手が、躊躇わない指先が、観月に触れる。
 その手に服越しに包まれて、観月はしゃくりあげるように喉を詰まらせた。
「お前が、俺でいく所が見たい」
「………ッ……、…」
 囁くようであったのに。
 赤澤の、低い、その声に。
 観月の神経は今度こそ本当に、赤澤の手中で、全てを砕かれた。
 時々、赤澤との距離がひどく近くなっている。
 校内で話しかけられてきた時に自分に触れる赤澤の髪の先だとか、コートで並び合う時に微かに重なる二の腕だとか。
 でも、そういう時に観月が身構え感じた違和感は、極力小さいものだった。
 恐らく赤澤が観月を気遣って、時間をかけて、縮めた距離だと思われた。
 観月は他人とのそういう近さや気安さに慣れていない。
 しかし赤澤のそういう接触は決して苦痛ではなく、だから観月は、そう気づいた時から更に縮まっていく赤澤との距離に、もうされるがままでいる事にした。
 咎めたりする事はせず、軽く流す事にした。
 赤澤は、派手な見目を裏切る気さくさで、誰に対してもそういう所があったから。
 観月には手にあまるような赤澤からのスキンシップの深さも、いちいち目くじらをたてても仕方ない事なのだろうと諦めて。
 だから観月は、自分とは違う赤澤という人間のする事に、何も口を挟まなかったというのに。
 ある時赤澤が、観月の寮室で、今まで観月が知らなかったやり方で自分を抱き締めてきて。
 好きだと言ってきて。
 その瞬間、観月は自分が感じた暴力的な羞恥心と、そこから湧き上がる認めたくもなかった劣等感とに、烈火の如く怒った。
 好きだなんて。
 簡単に。
 自分に。
 言った赤澤に。
 観月は悔しくてどうしようもなくなった。
 観月が赤澤にぶつけたものがただの怒りだったら、赤澤はそれを単なる拒否として受けいれたのかもしれない。
 しかし滅多に見せないのに、観月の困惑や衝動には誰より敏感な赤澤は。
 好きだという赤澤の言葉をきっかけに激高し出した観月に、まるで宥めて労るような手を伸ばしてきた。
「観月?」
「……ッ…、」
 唇を噛み締めて、観月はその手を叩き落す。
「全部、知ってて、やってるくせに……っ…」
「何がだ。観月」
 激情型のようでいて、その実冷静なのは赤澤だ。
 観月とは正反対で、観月は冷静に見せているだけで激情には逆らえない。
「俺のことなんか……判ってて、余裕で、だから自分の好きな事が出来て」
 振り絞る声の聞き苦しさに観月は眉根を寄せながら、赤澤から顔を背けた。
 悔しくて、悔しくて堪らなかったのだ。
「どうしてそんなあなたと僕が、こんな……っ…」
 観月が感情に任せて叫んで押し退けた男は、派手な顔の造りには繊細すぎるような困惑の表情を浮かべた。
「……観月。悪い。よく判んねえよ」
「嘘ばっかり……!」
 声を尖らせた観月の手首が、赤澤に握りこまれる。
 過剰反応のように、びくりと震えた自分が忌々しいと、観月は今度は意地で赤澤を睨み据えた。
 赤澤は、怖いくらい真剣に見えた。
「嘘はない」
「………………」
「一つも。絶対だ」
「………っ………な、…も……っ…」
 振り解こうとしても、びくともしない赤澤に、観月は苛ついた。
 挙句とうとう抱き締められた。
「……、…ッ…ャ、」
「観月」
 身体に直接染みこんでくる様な囁きに束縛されて、観月は震えた。
「お前には全部見せてる。全部話してる。お前には何一つ敵わないって、俺は知ってるから。今更取り繕う嘘もない」
「それなら……っ…!」
 それならば。
 何故自分の事を好きだなんて言うのかと。
 観月は叫び出したくなった。
 観月が、どれだけ。
 どれだけ、赤澤を好きか。
 好きなのか。
 知っているから告げるのではないのか。
 好きな相手に好きだと告げる、そんな恐ろしいこと観月には絶対に出来ない。
 自分の髪をこんな風に撫でて、抱き締めている男が。
 この男が。
 観月を厭い、去っていったら。
 もうどうしたらいいのか判らない。
「観月」
 いい加減で、適当で。
 そんな風に観月が最初に思っていた男は、懐深い大人びた面も持っていて。
 軽薄で、感情的で、そう決め込んでいたのを裏切って。
 明るく優しい、そんな男だった。
「…赤…澤……」
「……ああ」
 抱き締めてくるのなら、もう、その腕でこのまま抱きつぶしてしまって欲しい。
 何もかもこの腕で、ぐしゃぐしゃに壊して抱え込んでくれたらいい。
「………僕を」
「…お前を……?…」
「どうしようもなく好きで、……好きで、堪らなくなった時以外、好きだなんて言うな」
「観月?」
「抱きたくて頭がおかしくなりそうになった時以外、抱いたりするな」
「好きだ」
「人の話を…っ…、……」
 何度目になるのか、観月が叫びかけたところをさらうようにきつく抱き竦められて言葉を封じられた。
 背筋が反り返って、喉元に噛み付かれるような口付けを受けた。
 聞いてる、と荒いだ呻き声が赤澤の唇から零れて。
 ぞくりと観月は身体を震わせた。
 胸元に抱きこまれたまま手首を痛いくらい掴まれて、持っていかれた先で、掠る程度に一瞬。
 触れた苦しげな熱の生々しさに観月は息を詰めた。
「……っ………」
「悪ぃ……」
 ごめんな、とそれでも耐えかねたように首筋を噛まれて、その感触にも震えながら観月は赤澤の胸元にぶつけるように顔を伏せた。
「………観月…?」
「なんでもいい……っ……」
「………………」
「も……なんでもいいから……」
 指先が痺れたようになっている。
 指の先まで、ねっとりと欲情を詰め込まれてしまったようで、観月に出来る事は観月自身には耐え難い、泣きつくような掠れ声で促す事だけだった。
 赤澤はその声に煽られでもしたかのように抱き締めてくる力が強くなって。
 観月は赤澤の腕の中で溺れたように肩を喘がせた。
 好きにすればいいと自分を投げ出してみれば、強靭な腕はひどく大切そうに観月を受け止めて。
 身体に回された腕の力は強いのに、どこかぎこちなく耐えいるような気配が堪らなかった。
「観月……」
「………………」
 身体をまさぐられて泣き出しそうになるのが、興奮のせいだと判るから。
 観月は赤澤から逃げなかった。
 固い、大きな手のひらのする事を受け入れたまま、震える腕を赤澤へと伸ばし返せば、倍以上の力で赤澤から抱き竦められる。
「……、…っ…」
「観月」
 自分を欲しがる男。
 赤澤を抱き返しながら、観月はもう、赤澤には何をされてもいいと思った。
 何をされてもいいと思うけれど、観月が知りたい事もたくさんある。
「……赤澤。あなた、好きなんですか」
 熱に浮かされたように観月が細い声で言えば、壊されそうに抱き締められて、かき抱かれて、観月が言った数倍もの熱量をはらんだ声に口説かれた。
 繰り返される程にその言葉は、威力を増して観月の胸を焼く。
「好きだ」
「…………、……」
「観月」
 幾ら浴びせかけられても、威力を失わず、安くもならず、何度も言われたら真実味がなくなるなんて疑いようもない声で。
「……好きだ」
「………………」
 観月の事を何も知らないで、見た目だけで声をかけてくる相手は大勢いるけれど。
 観月の事を全部知った上で、そんな風に言ってくる相手なんて世界中探したってこの男だけだ。
「………バカ」
 本当に。
 本当に、本当に、どれだけ馬鹿なんだと観月が心底思う赤澤の方からも同じ言葉が囁かれる。
「馬鹿はお前だ……」
「……失礼な。あなたに言われたくないです……」
「操れよ。うまく」
 お前が好きすぎて何するか判らねえ、とひどく実直に言った赤澤の普段は見せない凶暴さに。
 身体は微かに怯えで戦くけれど、心は甘くなだらかで、観月は淡く笑みを浮かべた。
「言われなくても。僕の最も得意な分野ですから」
「観月」
「…………それで、どうするんですか……それは…」
 赤澤の、自分を請うる声と身体とを間近にして、観月がそれを口にしたのは。
 多分赤澤が、今はそれを抑えようとしているのを感じ取ったからだった。
 どこか悔しく思う気持ちと、どこか安堵している気持ちと。
 自分の中の両極端な感情を認めた上で、敢えて口にして問いかけた観月は。
 赤澤の乱暴な腕に痛いくらい抱き締められながら。
 そういえば過去に珍しく赤澤から、敵情視察はいいが過度の挑発だけは慎めよと言われた事があるのを思い出した。
「………好きだっつった日にいきなり抱くとか…お前の好みじゃねえだろ」
「よくおわかりで」
「……………くそ。じゃ、気づかない振りくらいしろよ」
「無茶な。白々しいです。そんななんですから気づかないわけない」
 熱っぽい抱擁の中。
 不釣合いな程の軽口を叩きながら。
 言葉にはしないけれど。
 本当はふんわりとした安堵感を胸に住まわせて、観月は赤澤に心のうちだけで甘える事にした。
 でも礼儀だけは通しておこうと、観月は赤澤に抱き締められながら、返事だけは言っておく事にする。
「折を見て、時期を選んでなら、何をされてもいいですよ……」
「……観月…、…?」
「そのくらいには、あなたを好きですから」
 告げた途端我が身を襲った骨まで軋ませる物凄い力での抱擁も。
 言葉も無くしたような赤澤の気配も。
 それを幸せと繋げられるくらいに好きな男の背に観月は腕を伸ばした。
 褐色の肌をしたこの男は、最近何かと自分に触れる。
 恋人同士でも何でもないのに、今日などはまるでキスでもするかのように。
 指先で頬を撫で、顎にも触れた。
 そこで手を止め、じっと見つめてきて。
「あ、わりぃ」
「………………」
 ぐっと自分が唇を引き結んだのに気付いて、呆気なく詫び、手を離していく。
「綺麗だと思ってつい」
「……………き」
「き?」
「綺麗なんて言うなと何度言ったら……!」
「あ?……ああ、そうだったか?」
 わざとならたいしたものだが、この男は平然とそんな事を言い、あっさり謝った。
「悪いな。当たり前のこと改めて、何度も言う事はないわな」
「…………、……」
 綺麗だと。
 今日の天気を口にするように、何かにつけ彼は自分に向けてその言葉を使う。
 自分の性格の悪さを知った上で、それを口にしてくる相手を、彼しか知らない。
「どうした? 観月」
「…………………」
「綺麗な顔そんなにしてよ」
 また言った。
 まだ言った。
 そんなこと。
「………赤澤部長。あなたは人の顔の事あれこれ口出しすぎです」
「あ? まあ、否定はしないけど」
 感情起伏が激しいタイプなのに、案外と冷静で。
 勝手なようでいて、人の話にきちんと耳を傾ける。
 いい加減だとばかり思っていたのに、根が真面目で。
「…………………」
 テニスだって。
 最初は特筆するような能力があるようにはとても見えなかったのに。 
 何故この男が部長なんだと呆れていたのに。
 今はその自分が、上辺だけの呼びかけでも何でもなく、心から、彼を。
 部長と呼んでいる。
 部長と信頼してもいる。
「俺は、別に観月と違って綺麗なものが好きなわけじゃねーよ」
 フランクな接触。
 気安い所作。
 向けられる笑顔。
 触れられる。
 見つめられる。
 どうにかなる。
「お前の事が好きなんだ」
 そんな風に簡単に言った。
 もう本当に悔しくて。
 どうしてやろうかと睨みつけたつもりが、目からは涙が滲んでくる。
「………綺麗だなあ……お前」
 どこか痛そうに赤澤は微笑み、腕を伸ばしてきた。
 長い、腕。
 抱き締められた。
 痛い。
「…観月」
 熱い。
「…………………」
 放熱しているのは赤澤、痛いのはきっとお互い様。
 悔しいから言葉なんて使うのは止めた。
 本当に小さく、彼の耳元でしゃくりあげてやった。
「………みづ、……」
 平然と自分に触れてきた彼が、簡単に自分を抱き潰せるような彼が、狼狽え、煽られ、その不安定な焦燥感が伝わってきて少しだけ胸をすく。
 こういう男には、言葉よりも態度で判らせるのがいいのだきっと。
 簡単に好きだなんて言えた事を後悔するくらい。
 欲しがって、少しはおかしくなりなさいと。
 抱き込まれた熱っぽい腕の中で思う。
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