How did you feel at your first kiss?
だから嫌だったのだ。
だから抱かれたくなかった。
抱いた後に、赤澤に。
ああいう顔をされる事を、ああいう態度をとられる事を、観月は多分、最初から判っていた。
嫌だった、でも、したかった。
して欲しかった。
外は酷い夕立だった。
窓ガラスの向こう側の光景は、雨の飛沫にけぶっていて視界も儘ならない。
夜の闇とは違う濁った色で満ちている。
まるで奥にあるものを全く見透かせない状態の感情のようだ。
それは自分のものか、他人のものか。
どちらもだと、観月は吐息を零す。
「………………」
夏休みに入って数日。
今日はずっと天気がよかったから、寮に残っている輩は少ないらしかった。
寮内はとても静かだった。
皆どこかしらに出かけているのだろう。
観月は夕立が降り出す随分前から食堂に居て、何があるでもない屋外の風景をガラス窓越しに見やっていた。
目の前にあるノートパソコンはスクリーンセーバーの星を煌かせ続けている。
身体はいろいろな理由でだるくて、本来なら自室で休むのが得策だと観月も判っているのだが、どうして自分がここから動かないでいるのかは謎だった。
これではまるで、待っているみたいではないかと観月は自嘲する。
「おはよーだーね。観月」
「………十六時半回ってます。何がおはようですか」
「昼寝から起きたおはよう」
柳沢が欠伸に笑いを交ぜて観月の背後から現れ、隣の席に座った。
いつもはきちんとセットされている髪がくしゃくしゃだ。
襟刳りの広いシャツの胸元は寝乱れて皺になっていて、だらしないと観月が苦言を呈そうとするより早く柳沢は言った。
「喧嘩しただーね?」
観月はひらきかけていた唇を閉ざした。
まだ少し眠たそうな目をした柳沢は、頬杖をついて観月を流し見ている。
「いいえ」
観月は、しらばっくれるのは止めた。
やってやれない事はないが、これでいて柳沢は結構厄介な相手だからだ。
「喧嘩じゃなく、観月が怒ってるだけ?」
「怒ってなどいません」
「じゃあ赤澤の方が怒ってるだーね」
「知りません」
観月はぴしりと柳沢の言葉を遮った。
狼狽の欠片も無い、いっそ冷徹な物言いだと客観的に思う。
我ながら、うんざりする程だ。
「淳から貰ったから観月にもやるだーね」
「………………」
柳沢はそんな観月の応答に別段気にした風もなく、ズボンのポケットからとても小さなアイスブルーのキャンディを取り出して観月の手に握らせた。
「……モンクスのキャンディですね」
「冷たくて気持ち良いだーね」
指先でつまむ程度のミニキャンディを口に放った柳沢を横目に、観月も黙ってそれに倣った。
口に含むと甘すぎず辛すぎない清涼感が喉近くまで広がった。
何となくそれだけで僅かに淀みが流される。
観月は溜息をついた。
柳沢は黙っている。
もう一粒、観月はキャンディを口に入れた。
清涼感のあるアイスブルーのミニキャンディが、まるで薬か何かのような気持ちで。
これを口にしたら、話す事が出来るような面持ちで。
「今何か言っただーね? 観月」
「………柳沢」
観月は眉を顰めた。
まだ何も言っていない。
しかしこれから、今まさに、言おうとはしていた。
そういう心情を全て酌まれているかのようなタイミングでの柳沢からの呼びかけに、観月は眼差しをきつくしたが、柳沢は飄々としているばかりだ。
「観月?」
「………………」
いっそ何の思惑もなさそうな邪気のない顔だ。
観月は降伏した。
「喧嘩はしていません。僕は怒ってなどいません。赤澤は…」
一度言葉を止めて、観月は溜息と一緒に低く言った。
「……つまらなかったんでしょう」
「何がだーね?」
「………………」
僕が。
観月がそう口に出す寸前、それは遮られた。
「お前、それ以上喋るな」
「…………、…」
赤澤だった。
「うわ。びしょ濡れだーね。赤澤」
タオルタオルと柳沢はフットワークも軽く立ち上がり寮の部屋に向かったらしかった。
観月は唖然と全身濡れそぼった赤澤を見上げるだけだ。
この夕立に降られて、長い髪はべったりと褐色の肌に貼りついている。
「観月」
「………………」
それ以上喋るなと言いながら、赤澤は押し殺した声で観月に詰め寄ってきた。
「つまらなかったんだろうって、何だ」
荒く前髪をかきあげる大きな手のひらは、昨夜観月の肌の上を辿った。
「どういう意味だ。観月」
「………………」
赤澤の手が観月の肩を鷲掴む。
骨に直接指が沈んでくるように鈍くそこが痛んだ。
「観月!」
「……、…ッ…」
痛みにと、怒声にと。
観月が唇を噛みしめる。
手荒に肩が揺すられた。
「赤澤! 何してるだーね!」
物凄い慌て方で、タオルを片手に持った柳沢が駆け寄ってくる。
「放っとけ!」
「お前、観月に何してるだーね」
赤澤の怒声に全く臆する事無く柳沢は血相を変えていて、そんな彼の背後から部屋にいたらしい木更津も顔を出した。
慌てふためく事はしないものの、木更津もまた一方的に赤澤だけを窘めた。
「ちょっと赤澤。観月と慎也に何すんの」
柳沢と木更津が二人がかりで間に割って入ってきて、観月は赤澤の手から引き離された。
まるで庇い立てするかのような柳沢と木更津の背中を観月は傍線と見据えた。
何故彼らは自分を庇うのだろうかと怪訝に思う。
こんな時まで絶対に、自分の言う事を聞けというつもりはない。
赤澤は別に悪くない。
何も悪くない。
後悔は後から悔やむから後悔で、それは仕方の無い事なのだ。
観月は、それが判っていたけれど、それでも欲しかったのだ。
「赤澤、ちょっとは自分の力とか考えなよね。あんな力いっぱい掴んだら観月の肩が砕ける」
「あんな風に食ってかかるのも止めるだーね! 観月に実家帰られでもしたらどう責任とるだーね!」
結構な剣幕で赤澤に詰め寄っている柳沢と木更津の声、それを片っ端から切り捨てている赤澤の怒鳴り声が、寮内で反響する。
観月は額に手をやって一喝した。
「うるさい! 落ち着きなさい貴方達…!」
ぴたりと全員が口を噤む。
たちどころに辺りは静まった。
のろのろと、不服も露に唇を尖らせて柳沢が観月を振り返ってきた。
「……って観月にいわれるっていうのは、どうなんだーね…」
木更津も不満も露に声のトーンを低くして振り返ってくる。
「……随分ひどい話じゃない? 観月」
「………………」
赤澤だけが一人、怒りを滲ませたまま複雑そうな顔で押し黙っている。
喧騒が止んだら止んだで、観月は訳も無く沈痛な面持ちを伏せた。
「慎也」
「……判ってるだーね。淳」
深々と嘆息した柳沢が、観月の腕を掴んで窓辺に連れて行く。
「…柳沢?」
一方木更津は赤澤を引っ張ってきて、窓辺に観月と赤澤を残し、彼らは背を向けてきた。
そして肩越しに同時のタイミングで振り返ってきて、ピッと立てた人差し指を差し向けられる。
ちゃんと話をしろと眼で言われた。
「………………」
後は二人きりでカタをつけろという意味らしい。
そういうわりにはちゃっかり二人とも、様子を伺って食堂の出入口に屈んで隠れる辺りが食えない。
観月が、そんな柳沢と木更津の行動に意識をやっている間、赤澤は再び観月の肩を掴んだ。
先程とは違う。
精一杯加減しているのだと観月には判った。
「泣くなって……どうすりゃいいんだ」
「………………」
改めて向き合った途端、赤澤の言うとおり観月の双瞳は潤みかけてしまっていた。
「そんなに嫌だったのか?」
苦く問われて観月はきつく唇を噛んだ。
この、馬鹿。
観月は自分らしくもないと承知の上で、口汚く赤澤を罵りたくなる。
濡れた赤澤のシャツの胸元を掴み、引っ張って、観月は赤澤の耳元に唇を近づけた。 「…………して」
「……みづ…、……」
「もう一回、して」
ひどく悔しくて。
本当に泣き出しそうになって。
でも観月は言った。
声が震えているのが自分で判った。
「赤澤! 何言われたか知らないけどとにかく今は観月の言うこと聞いておくだーね!」
隠れている事を忘れているのか、はなから隠れているつもりもないのか、無責任極まりない台詞で柳沢にけしかけられた赤澤は、観月を見下ろし唖然としているままだ。
「………観月…?」
「今度は、あんな顔させない」
もう一度チャンスくらいくれたっていいだろうと観月は言外に赤澤を詰った。
うまく出来なかったとか、赤澤のしたいようには出来てなかったとか、それならそれで。 術を代えて再度挑む事くらい観月には難しくない。
「僕が泣いてるのが嫌なら、ずっと目瞑っていればいい。違う事を考えていればいい」
「おい、観月」
「僕がうつ伏せのまま、絶対に顔上げないでいる。だから」
「観月!」
泣き出した観月を、あんな苦々しい顔で見たりしなくて済むように。
してみて、後悔されて、それ一度きりでおしまいだなんて観月には我慢出来ない。
「嫌でも、したくなくても、もう一回」
「お前……お前な……!」
赤澤は無理矢理振り絞ったかのような声で呻いた。
「観月、お前自分で何言ってるのか本当に判ってるのか」
「………………」
やみくもな力で抱き締められた。
何でそんな必死に、と観月は息を詰める。
赤澤の肩越しに、もう出入り口に柳沢達の姿がない事を知る。
それ抜きにしても、観月の身体から力が抜けた。
「…赤澤」
ひっそりと名を呼べば、一層強く抱き竦められた。
「嫌で……泣いたんじゃないのか…?」
「貴方があんな顔で僕を見るからです…っ…」
「………お前にどれだけダメージ与えたかって…」
観月は必死に両腕を伸ばした。
赤澤の背中を抱く。
「放っておくな……っ…」
「観月」
同じ力で抱き返される。
全身濡れている筈の赤澤の身体が熱くて、全身かわいている筈の観月の身体が濡れている。
こうやって、お互い染み渡るように行き来するもの全部で、抱き締め合いたいだけだ。
望みはそれだけ。
「………放っておくな、…馬鹿…」
「ん。………悪かった。観月。ごめんな?」
甘やかされても腹はたたない。
結局、こうしたかったのだ。
観月は。
「ごめんな」
でも。
「……それ以上謝ったら許しませんからね…」
「…判ってる」
赤澤は笑ったようだった。
少しも手の力は緩まない。
謝られたいのではないという事を赤澤が判ってくれているのなら、観月はそれだけでいいのだ。
もう一回、と囁きで煽ってしがみつく。
駄目押しに。
「………お前…な」
赤澤の零した笑いの気配はたちまち欲情を含んで苦しげになる。
観月は微笑んだ。
綻んだ唇が、褐色の首筋にそっと重なった。
花押は署名の印。
唇は恋人の肌に同じ事を残せる箇所だ。
だから抱かれたくなかった。
抱いた後に、赤澤に。
ああいう顔をされる事を、ああいう態度をとられる事を、観月は多分、最初から判っていた。
嫌だった、でも、したかった。
して欲しかった。
外は酷い夕立だった。
窓ガラスの向こう側の光景は、雨の飛沫にけぶっていて視界も儘ならない。
夜の闇とは違う濁った色で満ちている。
まるで奥にあるものを全く見透かせない状態の感情のようだ。
それは自分のものか、他人のものか。
どちらもだと、観月は吐息を零す。
「………………」
夏休みに入って数日。
今日はずっと天気がよかったから、寮に残っている輩は少ないらしかった。
寮内はとても静かだった。
皆どこかしらに出かけているのだろう。
観月は夕立が降り出す随分前から食堂に居て、何があるでもない屋外の風景をガラス窓越しに見やっていた。
目の前にあるノートパソコンはスクリーンセーバーの星を煌かせ続けている。
身体はいろいろな理由でだるくて、本来なら自室で休むのが得策だと観月も判っているのだが、どうして自分がここから動かないでいるのかは謎だった。
これではまるで、待っているみたいではないかと観月は自嘲する。
「おはよーだーね。観月」
「………十六時半回ってます。何がおはようですか」
「昼寝から起きたおはよう」
柳沢が欠伸に笑いを交ぜて観月の背後から現れ、隣の席に座った。
いつもはきちんとセットされている髪がくしゃくしゃだ。
襟刳りの広いシャツの胸元は寝乱れて皺になっていて、だらしないと観月が苦言を呈そうとするより早く柳沢は言った。
「喧嘩しただーね?」
観月はひらきかけていた唇を閉ざした。
まだ少し眠たそうな目をした柳沢は、頬杖をついて観月を流し見ている。
「いいえ」
観月は、しらばっくれるのは止めた。
やってやれない事はないが、これでいて柳沢は結構厄介な相手だからだ。
「喧嘩じゃなく、観月が怒ってるだけ?」
「怒ってなどいません」
「じゃあ赤澤の方が怒ってるだーね」
「知りません」
観月はぴしりと柳沢の言葉を遮った。
狼狽の欠片も無い、いっそ冷徹な物言いだと客観的に思う。
我ながら、うんざりする程だ。
「淳から貰ったから観月にもやるだーね」
「………………」
柳沢はそんな観月の応答に別段気にした風もなく、ズボンのポケットからとても小さなアイスブルーのキャンディを取り出して観月の手に握らせた。
「……モンクスのキャンディですね」
「冷たくて気持ち良いだーね」
指先でつまむ程度のミニキャンディを口に放った柳沢を横目に、観月も黙ってそれに倣った。
口に含むと甘すぎず辛すぎない清涼感が喉近くまで広がった。
何となくそれだけで僅かに淀みが流される。
観月は溜息をついた。
柳沢は黙っている。
もう一粒、観月はキャンディを口に入れた。
清涼感のあるアイスブルーのミニキャンディが、まるで薬か何かのような気持ちで。
これを口にしたら、話す事が出来るような面持ちで。
「今何か言っただーね? 観月」
「………柳沢」
観月は眉を顰めた。
まだ何も言っていない。
しかしこれから、今まさに、言おうとはしていた。
そういう心情を全て酌まれているかのようなタイミングでの柳沢からの呼びかけに、観月は眼差しをきつくしたが、柳沢は飄々としているばかりだ。
「観月?」
「………………」
いっそ何の思惑もなさそうな邪気のない顔だ。
観月は降伏した。
「喧嘩はしていません。僕は怒ってなどいません。赤澤は…」
一度言葉を止めて、観月は溜息と一緒に低く言った。
「……つまらなかったんでしょう」
「何がだーね?」
「………………」
僕が。
観月がそう口に出す寸前、それは遮られた。
「お前、それ以上喋るな」
「…………、…」
赤澤だった。
「うわ。びしょ濡れだーね。赤澤」
タオルタオルと柳沢はフットワークも軽く立ち上がり寮の部屋に向かったらしかった。
観月は唖然と全身濡れそぼった赤澤を見上げるだけだ。
この夕立に降られて、長い髪はべったりと褐色の肌に貼りついている。
「観月」
「………………」
それ以上喋るなと言いながら、赤澤は押し殺した声で観月に詰め寄ってきた。
「つまらなかったんだろうって、何だ」
荒く前髪をかきあげる大きな手のひらは、昨夜観月の肌の上を辿った。
「どういう意味だ。観月」
「………………」
赤澤の手が観月の肩を鷲掴む。
骨に直接指が沈んでくるように鈍くそこが痛んだ。
「観月!」
「……、…ッ…」
痛みにと、怒声にと。
観月が唇を噛みしめる。
手荒に肩が揺すられた。
「赤澤! 何してるだーね!」
物凄い慌て方で、タオルを片手に持った柳沢が駆け寄ってくる。
「放っとけ!」
「お前、観月に何してるだーね」
赤澤の怒声に全く臆する事無く柳沢は血相を変えていて、そんな彼の背後から部屋にいたらしい木更津も顔を出した。
慌てふためく事はしないものの、木更津もまた一方的に赤澤だけを窘めた。
「ちょっと赤澤。観月と慎也に何すんの」
柳沢と木更津が二人がかりで間に割って入ってきて、観月は赤澤の手から引き離された。
まるで庇い立てするかのような柳沢と木更津の背中を観月は傍線と見据えた。
何故彼らは自分を庇うのだろうかと怪訝に思う。
こんな時まで絶対に、自分の言う事を聞けというつもりはない。
赤澤は別に悪くない。
何も悪くない。
後悔は後から悔やむから後悔で、それは仕方の無い事なのだ。
観月は、それが判っていたけれど、それでも欲しかったのだ。
「赤澤、ちょっとは自分の力とか考えなよね。あんな力いっぱい掴んだら観月の肩が砕ける」
「あんな風に食ってかかるのも止めるだーね! 観月に実家帰られでもしたらどう責任とるだーね!」
結構な剣幕で赤澤に詰め寄っている柳沢と木更津の声、それを片っ端から切り捨てている赤澤の怒鳴り声が、寮内で反響する。
観月は額に手をやって一喝した。
「うるさい! 落ち着きなさい貴方達…!」
ぴたりと全員が口を噤む。
たちどころに辺りは静まった。
のろのろと、不服も露に唇を尖らせて柳沢が観月を振り返ってきた。
「……って観月にいわれるっていうのは、どうなんだーね…」
木更津も不満も露に声のトーンを低くして振り返ってくる。
「……随分ひどい話じゃない? 観月」
「………………」
赤澤だけが一人、怒りを滲ませたまま複雑そうな顔で押し黙っている。
喧騒が止んだら止んだで、観月は訳も無く沈痛な面持ちを伏せた。
「慎也」
「……判ってるだーね。淳」
深々と嘆息した柳沢が、観月の腕を掴んで窓辺に連れて行く。
「…柳沢?」
一方木更津は赤澤を引っ張ってきて、窓辺に観月と赤澤を残し、彼らは背を向けてきた。
そして肩越しに同時のタイミングで振り返ってきて、ピッと立てた人差し指を差し向けられる。
ちゃんと話をしろと眼で言われた。
「………………」
後は二人きりでカタをつけろという意味らしい。
そういうわりにはちゃっかり二人とも、様子を伺って食堂の出入口に屈んで隠れる辺りが食えない。
観月が、そんな柳沢と木更津の行動に意識をやっている間、赤澤は再び観月の肩を掴んだ。
先程とは違う。
精一杯加減しているのだと観月には判った。
「泣くなって……どうすりゃいいんだ」
「………………」
改めて向き合った途端、赤澤の言うとおり観月の双瞳は潤みかけてしまっていた。
「そんなに嫌だったのか?」
苦く問われて観月はきつく唇を噛んだ。
この、馬鹿。
観月は自分らしくもないと承知の上で、口汚く赤澤を罵りたくなる。
濡れた赤澤のシャツの胸元を掴み、引っ張って、観月は赤澤の耳元に唇を近づけた。 「…………して」
「……みづ…、……」
「もう一回、して」
ひどく悔しくて。
本当に泣き出しそうになって。
でも観月は言った。
声が震えているのが自分で判った。
「赤澤! 何言われたか知らないけどとにかく今は観月の言うこと聞いておくだーね!」
隠れている事を忘れているのか、はなから隠れているつもりもないのか、無責任極まりない台詞で柳沢にけしかけられた赤澤は、観月を見下ろし唖然としているままだ。
「………観月…?」
「今度は、あんな顔させない」
もう一度チャンスくらいくれたっていいだろうと観月は言外に赤澤を詰った。
うまく出来なかったとか、赤澤のしたいようには出来てなかったとか、それならそれで。 術を代えて再度挑む事くらい観月には難しくない。
「僕が泣いてるのが嫌なら、ずっと目瞑っていればいい。違う事を考えていればいい」
「おい、観月」
「僕がうつ伏せのまま、絶対に顔上げないでいる。だから」
「観月!」
泣き出した観月を、あんな苦々しい顔で見たりしなくて済むように。
してみて、後悔されて、それ一度きりでおしまいだなんて観月には我慢出来ない。
「嫌でも、したくなくても、もう一回」
「お前……お前な……!」
赤澤は無理矢理振り絞ったかのような声で呻いた。
「観月、お前自分で何言ってるのか本当に判ってるのか」
「………………」
やみくもな力で抱き締められた。
何でそんな必死に、と観月は息を詰める。
赤澤の肩越しに、もう出入り口に柳沢達の姿がない事を知る。
それ抜きにしても、観月の身体から力が抜けた。
「…赤澤」
ひっそりと名を呼べば、一層強く抱き竦められた。
「嫌で……泣いたんじゃないのか…?」
「貴方があんな顔で僕を見るからです…っ…」
「………お前にどれだけダメージ与えたかって…」
観月は必死に両腕を伸ばした。
赤澤の背中を抱く。
「放っておくな……っ…」
「観月」
同じ力で抱き返される。
全身濡れている筈の赤澤の身体が熱くて、全身かわいている筈の観月の身体が濡れている。
こうやって、お互い染み渡るように行き来するもの全部で、抱き締め合いたいだけだ。
望みはそれだけ。
「………放っておくな、…馬鹿…」
「ん。………悪かった。観月。ごめんな?」
甘やかされても腹はたたない。
結局、こうしたかったのだ。
観月は。
「ごめんな」
でも。
「……それ以上謝ったら許しませんからね…」
「…判ってる」
赤澤は笑ったようだった。
少しも手の力は緩まない。
謝られたいのではないという事を赤澤が判ってくれているのなら、観月はそれだけでいいのだ。
もう一回、と囁きで煽ってしがみつく。
駄目押しに。
「………お前…な」
赤澤の零した笑いの気配はたちまち欲情を含んで苦しげになる。
観月は微笑んだ。
綻んだ唇が、褐色の首筋にそっと重なった。
花押は署名の印。
唇は恋人の肌に同じ事を残せる箇所だ。
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