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How did you feel at your first kiss?
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 どきりとする程涼しい風が吹いた。
 八月になったというのに、夏ではなく秋がやってきたかのような気配は、夕涼みと言ってしまう事すら憚られる。
 光が淡く消されて、いっそ煙っているかのような夕暮れの中、海堂は一人で歩いていた。
 手に下げているビニールバックの中には、シャンプーとリンス、石鹸、ボディタオルなどが詰まっていた。
「海堂ー。どこ行くのー」
 遠い距離のある所からの声。
 唐突な呼びかけ。
 けれど海堂は驚かなかった。
 乾のいるマンションの前だなと思って通っていたので、無意識に視線も頭上の一室を見上げてもいたからだ。
 そうして見上げた先にいた乾は、ベランダの手すりに手をついて、ひらりと大きな手のひらを振って海堂の歩を止めさせた。
「……風呂っす」
「ええー?」
「…風!呂!」
「ああー、お風呂ー?」
 いかにも暢気な様子だが、大声を張り上げているわけでもない乾の声は、海堂の耳に楽に届いてきた。
「ちょっとそこで待ってて。海堂」
 三分、と乾は言って。
 ベランダから唐突に姿を消した。
「………………」
 海堂は溜息をついた。
 乾はいつも唐突だ。
 ひどく落ち着いているようなのに、突拍子もない事を平気でしたりする。
 実際乾はすぐに海堂の前に現れた。
 紙袋をひとつ手に提げている。
「お待たせ。行こうか」
「………あの?」
「銭湯だろ?……あれ、富士の湯じゃなく?」
「……いや……それはそうなんですけど」
「じゃあ行こう」
 乾は長い脚でのんびり歩いた。
 海堂はその隣に並び、再びの溜息だ。
 海堂が向かっている行先は、確かにここからあと五分ほど歩いた先にある富士の湯、銭湯だ。
 しかし問題は行先ではない。
「…………何であんたが一緒に来るんですか」
「銭湯って俺行ったことないんだよな」
「………………」
 だからって。
 海堂はその呟きを飲み込んだ。
 やけに乾が楽しそうだったからだ。
 持っている紙袋の中身は、タオルとか着替えの類なのだろう。
 慌てて、そして無理矢理突っ込んできたらしく、中身が少し見えていた。
「海堂の家の風呂どうしたんだ? 壊れたとか?」
「………そうです。明日業者が来て、点検してから見積もり出すとかで」
「シャワーも駄目なのか」
「水しか出ない」
「そうか」
 海堂は銭湯行った事ある?と乾が突然に海堂の顔を覗き込んできた。
 いきなり目の前に現れた乾の顔に息をのみつつ、海堂は首を横に振る。
 乾は淡々と話を続けた。
「葉末君と一緒じゃないんだ」
「……葉末は、早い時間に母親と行ってきたんで」
「銭湯って何時からやってるんだ?」
「四時って言ってましたけど」
 へえ、と乾は興味深そうに頷いた。
「なあ、海堂」
「……何っすか」
「俺って将来、銭湯通いしてそうじゃない? 木造の古いアパート、風呂無しに住んでてさ」
 その想像は実に容易かった。
 あっさり頷けると海堂は思った。
 後学の為にと乾は本当に楽しそうで、海堂も自然と表情を緩めていた。
 富士の湯について、湯ののれんをくぐる。
 向かって右が男湯で、左が女湯だ。
 右に進み、木製の下駄箱に靴を入れる。
 下駄箱の鍵は金属板で、見た目の大きさに比べて重かった。
 それを手にガラス戸を横に引いて中に入り、金額表を確認して料金を払う。
 奥にあるロッカーの前で服を脱ぎながら、海堂は乾に言った。
「風呂つきのとこ住んだ方がいいっすよ。先輩」
 そんな海堂の言葉に乾は神妙に頷いた。
「だな。一回四百五十円か。思ったより金がかかるんだな、銭湯ってのは」
 一ヶ月にかかる金額がと口に出して計算しながら、乾は最後に眼鏡を外してタオルだけ手に持った。
「あ、海堂」
「…はい?」
「シャンプーとか貸してくれ」
「……はあ」
「それからさ。実はあんまりよく見えてないんだけど、手とか引いてっていうお願いは…」 ありかな?と問いかけてくる乾が、微かに笑っている。
 乾の視力がどれほどなのか海堂は正確には知らなかったが、とりあえず今のこれは半分以上海堂をからかっているのだろう。
 海堂は大袈裟な溜息を吐き出して、おもむろに乾の手をとった。
「……海堂?」
 言っておいて驚く乾を引っ張るように海堂は歩き出す。
「敬って、労りますよ」
「おいおい。お前、そんなお年寄り相手みたいな事言うなよ」
 言いながら乾も笑っている。
 結局浴場の中に入るまで手が繋がったままになってしまった。
 中には誰もいなかったので、まあいいかと思いながらも、やはりどこか気恥ずかしい。 それにしてもこんなに誰もいなくて経営は大丈夫なのだろうかと海堂は考えながら、髪を洗い。身体を洗う。
 乾は興味深そうに周囲を一周してから、海堂の持って来たシャンプーや石鹸などで同じように髪と身体を洗い、湯船に沈んだ。
「結構深いな、これ。子供とか大丈夫なのか」
「回りの段になってる所に座らせておくんじゃないんですか」
「貸切だなあ……」
「……みたいっすね」
 乾は、不思議だ。
 特別な事は言わないが、口の重い海堂から言葉を引き出す。
 会話をさせる。
 たいした話ではなくても、何の気詰りもしないやりとりで、話が交わせる。
「………………」
 海堂はずっと、必要でない言葉、意味のない言葉は、無用だと思っていた。
 言葉よりも行動の方が重要だと思っていた。
 ずっと、そうしてきたのだけれど。
 乾といると、そうする事が難しくなる。
 言葉は使わないと。
 乾は以前海堂にそう言った。
 奇妙なほど、海堂の言動を理解している彼が、そう言った。
 言葉にした事で、現実になる事ってあるよ。
 言葉にすれば、誰かがそれを聞いていて、いつか返ってくる事もあるよ。
 そう、ひとりごとのように海堂に言った。
「………先輩…」
「何だ?」
 どこまで見えているのか判らない乾の眼が、海堂を見据えてくる。
 たっぷりと溢れている湯に肩先まで沈めて、海堂は湯の中で手を伸ばした。
「………………」
 乾は問い返さない。
 からかわない。
 言葉を使えと海堂には告げたくせに、乾は黙って、そして何よりも正確に、湯の中で海堂の手をとった。
 指と指が組まれて。
 自分達は一続きになる。
 手を引いて。
 手をつないで。
 そのどちらでもいい。
 温かな液体の中で握った手のひらは、確かに、大切な感触がした。



 フルーツ牛乳というのを飲んでみたいという意見は一致して、湯上りにお互いがその瓶入りの甘い飲み物を飲んだせいで。
 銭湯からの帰り道、乾の住むマンション前での別れ際。
 唇と唇が掠っただけのキスが、やけに、ものすごく、甘い味と余韻を互いの唇に残した。
 至近距離で笑った吐息を漏らした乾の考えている事は、海堂と同じ事だ。
 海堂もつられて微かに吐息に笑みを含ませた。
 きっと、もしかしたら、何年か後にも、同じ事をしているかもしれない自分達。
 否定出来ない。
 むしろ、どこか確信じみていて気恥ずかしい。
 風呂無しの木造アパートだとか。
 銭湯の行き帰りの道だとか。
 どうしよう、そんな未来。
 現実になったら笑える。
 だから出来たら将来、笑いたい。 
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