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How did you feel at your first kiss?
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 眠そうだな、と海堂は思った。
 海堂の視線の先で目を閉ざしかけているのは乾で、しかしその乾が突然ぱちりと目を開けたので海堂はちょっと息を詰めた。
 てっきり乾がそのまま眠りに落ちるのだとばかり思っていたので。
「………………」
 眼鏡を外している裸眼の乾は、それでも数回、睡魔と戦うような瞬きをした後、徐に起き上がってベッドから降りた。
 緩慢な動作は、普段は無機質な印象の乾と違い、どこか生々しい。
 均等に筋肉の乗った背中の感触が海堂の手の中にまだ鮮明だったせいかもしれない。
「…はい、海堂」
「………………」
 何やら乾は彼の部屋にある机の引出しの中身をあさり、すぐに戻ってきた。
 そして海堂の隣に滑り込むようにまたベッドに横になる。
 今し方までと、全く同じ体勢だ。
 顔だけ向きあわせるようにして寝そべるお互いの間、シーツの上には乾が持ってきた紙包が置かれている。
 手のひらに乗るくらいのサイズだ。
 何ですかと海堂が声に出すより先に、乾が微かな笑みを吐息に混ぜるようにして囁いてきた。
「誕生日プレゼント」
「………………」
「あー…勿論今日じゃない事は判って言ってる」
「…はあ」
 事実、海堂の誕生日は二週間も前だ。
 それが何故今、誕生日プレゼントなのか。
「二週間後ならね、大丈夫じゃないかなあと思って」
「………………」
 眠気が強いせいか、乾の口調はのんびりとして、やわらかい。
 四六時中寝不足なのだから眠りたい時は眠ればいいと海堂は思うのに、乾は敢えてそれに逆らうようにして言葉を紡ぐ。
 大丈夫って何がだと海堂は紙包とそんな乾とを交互に見やった。
 動かしたのは眼差しだけ。
 でも乾が先ほどよりも明確に笑って、海堂の前髪に指を忍ばせ、撫で上げてくる。
「当日にさ。誕生日おめでとうってプレゼント渡して、海堂が、警戒心とか遠慮とか抜きに普通に受け取ってくれる確率は…」
 何パーセントか、乾は言ったようなのだが、睡魔にぼやけた低い声はよく聞き取れなかった。
「二週間後くらいなら、何で今になって急にとか思いながらも、普通に受け取ってくれそうだな、と思った訳なんだが………どう?」
「………………」
 単なる思い付きではなく、結構真剣に考えたらしい。
 自身の中での成功確率とを天秤にかけ返事を聞きたがる乾の眼差しに、さらさらと優しく甘い指先の感触に、海堂は、どこまでも把握され、懐柔されている自分を知って少しばかり複雑な気持ちになった。
 けれどそれは不快なものではなく、ひどく純度の高い気恥ずかしさだ。
「……乾先輩…」
「うん」
 ありがとうございます、と海堂が呟くと、乾が乱れた前髪の隙間で目を細めた。
 普段額にかからない乾の前髪のそんな感じの方こそ撫でつけてやりたくなるが、海堂にはまだその行動はハードルが高すぎる。
 それでも、眠いのに逆らってまで話をしたがる乾だとか、海堂の性格を判った上であれやこれやと思案する乾だとかに、海堂は体感した事のない感情を揺さぶられた。
「………普通じゃなかったな」 
「……は…?」
「ありがとう」
「…はい?」
 ありがとうって何がだと海堂は困惑した。
 言うのは自分で、乾ではない筈だ。
 けれども乾は嬉しげで、楽しげで、いったい今の自分に何を見ているのかと海堂は途方にくれる。
「今年が十四日後で、こういう海堂を見られる訳だから……来年は一日早めてもいいかな…」
「先輩……?」
「再来年は二日早めて……一年に一日ペースで詰めていけば、十四年後からは当日にちゃんと、当たり前みたいに祝っていい計算………」
 あまりに気の長すぎる計画に海堂は呆気にとられた。
 そして。
 身体から全ての力を抜くように笑ってしまった。
「…海堂?」
「………………」
 ああまた。
 いよいよ眠りに落ちようとしていた乾を引き戻してしまった。
 不思議そうに問いかけてくる乾に、海堂はそっと腕を伸ばした。
 髪をかきあげたり、頭を撫でたりは、ハードルが高くても。
 これなら、と手のひらでそっと乾の目元を覆う。
 瞬いたのか、手のひらのくぼみが擽ったい。
 乾の睫毛は長いのだと、海堂はその感触で知ったような気になった。
「………………」
 当たり前みたいに祝って良いのだろうと、乾は先に続く未来を見ていて。
 そんな言葉に、そんな未来までそれこそ当たり前のように一緒にいること前提の意味合いが、海堂にはひどく甘く、それでいてとても現実的な響きで、落ちてくる。
 思考の中、心の中、現実の中に。
「………………」
 海堂の手のひらの体温は、疲れがちの乾の目元を余程心地よく温めたようで、魔法じみた容易さで乾は眠ってしまった。
 海堂がそっと手のひらを外しても、乾は深く眠ったままだった。
「………絶対、十四年もかからないっすよ…」
 自分の手をじっと見つめ、小さく呟いた後、海堂は微かに笑った。
 でもそれを乾に直接言うのは止めておく。
 気の短い自分が、気の長い約束を、悪くないなと思ったからだった。
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 二人だけの時って何喋ってんの?と乾に正面切って聞いてきたのは、確か菊丸だった。
 隣で大石が困ったように笑って菊丸を窘めていたけれど、菊丸は乾をからかうというよりかなり真面目に疑問に思っているようだったので、乾は笑って答えたのだ。
 何って、色々。
 すこぶる機嫌の良い乾の返答に、菊丸は眉間をぎゅっと寄せるようにして首を傾げていた。
 色々って、あの海堂と、乾が、色々?喋んの?マジで?と矢継ぎ早に菊丸が問いかけてくるのに、乾は逐一頷いた。
 それってちゃんと会話?
 乾が勝手に喋ってるとかじゃなくて?
 菊丸の言葉はいつものように率直で、明け透けで。
 やっぱり隣の大石だけが、菊丸の言動に慌てたり叱ったりしていたのを乾は思い出す。
 でも多分あれが一般的な認識なのだろうとも自覚している。
 乾と、海堂という、その組み合わせは。
 ダブルスを組む事が決まってから、驚かれなかった試しがない。
 一番ダブルスしなさそうな者同士が組んだって感じだねと微笑んでいたのは不二だ。
 ダブルスを組むに至った経緯は、まだ誰も知らない。
 乾が海堂を誘ったと知ったら、また驚かれるのだろうか。
 そんな事を頬杖をついて考えながら、乾の手も口も、全く別の動きをしている。
 広げたノートにフォーメーションのパターンを書きつけ、言葉で解説をする。
 乾のクラスで、放課後、机を挟んで目の前にいるのは少しだけ居心地の悪そうな海堂だ。
 けれど海堂の居心地の悪そうな気配は、乾と二人きりだからなのではなく、ここが三年生の教室だから落ち着かないのだということは乾にはちゃんと判っていた。
 海堂は、まだ、乾のテリトリーに入ってくる事には慎重だ。
 だからつい、余計に海堂からそうさせたくて、仕向けてしまったのだ。
「乾先輩は…」
 海堂の声が、低く乾の名前を口にする。
 いつも気配を張り詰めさせている感のある海堂は、しかし空気を慎重に読む所がある。
 口数が多くない分、言葉を放つ瞬間に敏感なのだ。
 乾の説明も思考も遮らない、ほんの僅かな隙を縫うようにして、口をひらいてくる。
 ん?と乾は目線を上目に持ち上げた。
「…ダブルス、組んでた事あるんですか」
「………何で?」
 かなり意外な事を尋ねられた。
 乾は目を瞠る。
 そんな乾をどう見たのか、海堂が僅かに決まり悪気に視線を外してくる。
 普段はバンダナに覆われている事の多い海堂の黒髪が、さらりと零れた。
「いや、……いいです…」
「別に聞いちゃまずい事じゃないよ。ただちょっと驚いてさ」
 その前髪に、つい手を伸ばしたくなる。
 さすがにそれは飛びのかれるかもしれないと乾は自制したのだけれど。
「俺と一緒のコートは居心地悪いとか?」
 何せ初めてのコンビだ。
 未だ手探りな感は否めない。
「いや、………そう…じゃないから、あんたが」
 実はダブルスに慣れてるんじゃないかと、と口にした海堂の言葉の語尾が曖昧に消えていく。
 乾は唇に笑みを刻んで、あまり人に言った事のない話を海堂に伝えた。
「ジュニアの時はね、ダブルスだったよ」
「そう……なんすか…」
「ああ。自分がシングルスをやるとは、当時は全く思ってなかったな」
「………………」
 口の重い海堂はよく沈黙を落とすけれど。
 今のこの沈黙には、余計な事を聞いてしまったかと悔んでいるような心情が赤裸々すぎて、乾は笑みを浮かべたまま、ペンを机の上に置いた。
「なあ、海堂。ちょっと辺りを見回してみてくれないか」
「……は?」
「ぐるっと」
 立てた人差し指で空間をぐるりと回す。
 面食らった顔の海堂は、だからといって、突然切り替えられた会話を怒るような態度は見せなかった。
 根本的に、海堂がひどく素直だと思うのはこういう時だ。
 訳が判らないといった顔のまま、海堂は乾に言われた通りに、三年の教室を見回した。
「目についたものを、何でもいいから五つ上げてみて」
「……黒板、椅子、机、鞄、カーテン」
「うん。じゃあ次は、黄色いものがないか、見回して見て。あったら五つ言って」
「………チョーク、……花瓶…、花………、それ」
 それ、と海堂が言ったのは机に置いた乾のシャープペンだ。
「それだけしか、黄色は目につかないですけど…」
 いいよ、大丈夫、と乾は頷いた。
 それから不審気な海堂の目を、正面からじっと見つめる。
「どうだった? 海堂」
「………………」
「意識を変えると、目に入ってくるものも変わるだろう? 海堂は同じ場所で、同じように辺りを見回したのに、一度目に目に映っていたものと、二度目に目に映ったものは全然違う」
 海堂の瞳がゆっくりと瞠られて、乾は満足した。
「脳の動きが変わると、身体の動きも変わるんだよ。体感してみると、実感できるだろう? だから俺は、テニスにデータが必要だと思ったんだ。そういうのを覚えたというか、習ったのがジュニアの時のダブルスだ」
 だから何も悪い思い出などない。
 あの時以来の、誰かとダブルスを組むという感覚は、もっと懐かしいような気持ちを呼び起こすかと思いきや、そうでもない。
 経験だけではなぞれないのだ。
 今、乾の思考のかなりの部分を占める、目の前にいるこの存在は。
「俺は、こんな風に分析や理屈の先行型で」
「………………」
「海堂は、行動力と精神力の先行型だから、タイプは全く違う。でも、だから勝てると俺は思ってる」
 どう思う? 海堂はと、乾は海堂を見つめて尋ねた。
「……俺は、俺のやりたいようにやる」
 海堂の口数は少ない。
 言葉は端的だ。
 曖昧な表現を彼はあまり使わない。
「ダブルスには、多分慣れない。けど、あんたには慣れると思う」
「………………」
 凄い事を言うなと乾は内心で感嘆した。
 それは言うなれば、警戒心の塊のような孤高の野良猫が、そちらの方から近づいてきて、こちらが伸ばした指先に頬を擦り寄せ、自ら膝に乗ってくるようなものだ。
 その無条件の信頼は何なのだ。
「あんたの言葉は、判りやすい」 
 そう口にしている間、海堂は何かに耳をすませ、何かを反芻するような顔で目を閉じる。
 その無防備な表情は何なのだ。
「………………」 
 ああ、ほら、自分の意識が変わってしまった。
 海堂のくれた言葉と表情と信頼とで、乾はそれを自覚する。
 目に入ってくるものが変わる。
 身体の動きが変わる。
「海堂」
 先に確認を取ると断られそうだ。
 そんな事を考えながら、乾は海堂の肩に手を置き、引き寄せて、キスをした。
 軽く噛み合わせ、たわませ、ゆっくりと、離す。
 至近距離に、大きく見開かれた海堂の瞳があった。
「…卑怯だな」
 一瞬は浮かべた笑みを、しかし乾はすぐに消した。
 乾の声は張り詰めて、低くなる。
「卑怯でも何でもいい」
 強烈な飢餓感が込み上げてくる腕で。
 乾は海堂を抱き寄せた。
 押しのけるようにした机が、派手な音をたてたけれど。
 今の乾には、腕に封じ胸に抱き寄せた海堂の存在だけが思考の全てだ。
 思いのほか行動力の先行型でもあった己を知って、乾は本来の自分の専売特許である分析を海堂に任せるべく、まずは海堂が判りやすいと言ってくれた自分の言葉で、この恋を形にしようと、静かに口を開いていった。

 耳馴染みの良い穏やかな話声が、ふと止んだ。
 海堂が顔を上げたその時にはもう、びっくりするくらい近くに乾がいた。
 真っ正面から掠ってくるようなキスが唇に当たる。
 目を見開いたままそれを受け入れ、それからひとつ、大きく瞬いて。
 海堂は固まった。
 一つの机を挟んで向かい合い、ノートに描かれたフォーメーションを頭に入れながら、打ち合わせしていた内容が。
 急激にどこか遠くへ飛んでいった。
 今のは、何だろう。
 無意識に触って確かめそうになる本能で。、少しだけ海堂の指先は跳ねた。
 乾が、ちょっと何かを確かめるように、海堂の目を覗き込んでくる。
 至近距離で、目と目がはっきりと合うと、ふうっと何かが戻ってきたような感覚がした。
 息を吸い込んで、また目を瞠り、再度海堂は硬直する。
 遅れて強くなる鼓動が少し苦しかった。
「………先輩」
「うん?」
 低い呼びかけに、もっと低い声で、短く返される。
 途端に続きの言葉が見つからなくなって、海堂は途方に暮れた。
 そんな海堂の心情は赤裸々だったようで、乾が大きな手のひらで海堂の後頭部を包み込むようにしながら、額と額とを重ねてきた。
「…うん、……ごめん」
 いきなりで、と囁いた乾の口調が。
 殊の外、力ない。
 何でそんな声を出すんだと、海堂は身じろぎ一つしないまま思い、呟く。
「………データ…っすか…」
「何?」
「……だから…これ」
 たぶん。
 今したのは。
 キスだ。
 乾が言うように、本当に、いきなりの、それはキスだった。
 一体何の役に立つのかなどとは見当もつかないが、乾のした事だ。
 欲しかったものはデータかと海堂は問いかけ、そしてそれに対して乾の返答はと言えば。
「……お前は、俺をどんな奴だと思ってんの」
 曖昧な苦笑いとも、誤魔化した憤慨ともつかない、ますます力の抜けた声で乾は溜息みたいにそう口にした。
 海堂の後頭部から後ろ首をへと手のひらを這わせ、その大きな手のひらで、海堂のうなじを掴むように固定して、今度は角度をつけたキスをしかけてくる。
 座っている椅子の上で身体が滑って、微かに軋んだ金属音と、視界の端のずれた風景に、ここが教室だという事を今更のように思い知らされる。
 意識がよそに向いた事を悟ったらしい乾がキスをきつくしてきて、正直海堂は目が回った。
 くらくらなんてかわいいものではなくて、視野はぐらぐらと、大きく回る。
 座っているのに足場を見失ったような面持ちで、海堂が咄嗟に指先を縋らせたのは机の上にあった乾の腕のシャツだった。
 まるでしがみつくように、その布地を手繰り寄せ、握り込む。
 慣れない粘着音がする。
 それもその筈で、キスが解けると細く唾液が撓んだ。
「したくて、いよいよ、我慢が出来なくなったのか、…とは考えないのか?」
「………………」
 え? と問い返したつもりだった海堂の口からは、実際何の言葉も発せられなかった。
 唇を、乾の指の腹にゆっくりと辿られても、やはり言葉は出てこない。
「データなんか、どうでもいいんだ」
「………………」
 乾の言葉とは思えないような言葉。
 それが、乾の声で、聞こえてくる。
「どうでもいい。どうでもよくなる。………何なんだろうな、本当に」
 テニスの事を語る時の乾の口調に迷いが滲むことなど決してないのに。
 どうして今、こんなにも揺れた声を出すのだろう。
 海堂と同じような、途方に暮れた戸惑いを見せるのだろう。
 それに気づいた海堂から、硬直が、緩やかに解けていく。
 そして、まるでその代わりだとでも言うように、何処かに嵌まっていくような乾に、海堂は慌てて指先で取り縋る。
 今度は、自分が頼る縁を探す為ではなく、乾をここへ引きとめておく為に。
「どうでもよくねえだろ…」
「よくなるんだよ。海堂にかかると」
「……俺のせいっスか」
 何ですかそれ、と呆れた溜息を零した唇に、また不意打ちで乾の唇が重ねられる。
 三度目か、と思った途端、何故だか急激に海堂はキスを自覚した。
 だから。
 なんでこんな事になってるんだと、今更も今更のタイミングで目元を赤くしながら乾を睨みつける。
 お、と乾が小さな声を出した。
「………さすがに海堂に睨みつけられると少し正気になるな」
 少し笑みも含んで。
 乾が取り戻し始めた微かな余裕の欠片に、海堂は殊更視線をきつくした。
 派手な音を立てて椅子を背後に押し出し、立ち上がった。
「うわ、ちょ…っ…待った…!」
「知るかっ!」
 本気で慌てる乾を置いて、さっさとその場から離れるべく、海堂は鞄を持って教室を出る。
「海堂、お前、ちゃんと告白くらいさせろ……!」
 何やら背後で乾が叫んでいたが、乾の見せた余裕の素振りに対して、それを聞いてやらないという腹いせに出た海堂が、足を止める事はなかったのだった。
 気配に振り返った途端、今まさに自分に対して飛びかかってこようとしている相手を目にして、海堂が覚えたものは危機感ではなかった。
「おっはよう! 海堂!」
「……、…おはようございます、」
 身体ごとぶつかってくるかのように背中にどすんとのしかかられる。
 流石に若干足元を揺らがせたものの海堂は持ちこたえて、どうにか朝の挨拶だけは返した。
 誰に対しても人懐っこい上級生は、そのまま海堂の背中にぴったりくっついて、制服越しに体温で暖をとっているようだった。
「んんー、海堂温かいにゃー」
「………………」
 二月も今日で終わるが、まだまだ外気は冷たくて寒い。
 菊丸が言うように、確かにこうしてくっついていると、海堂の背中も温かった。
 ごろごろと喉でも鳴らしそうな勢いで、にこにこと笑って、ぐりぐりと肩口に額を押し当ててくる菊丸を、海堂は振りほどけないでいる。
 温かさが惜しいからという訳ではなく、相手が上級生だからという訳でもない。
 正直な所、どう対応していいのか海堂には判らなかったからだ。
 ここまで衒いなく、人に懐かれたり接触された事がないので。
 どうすればいいのかまるで判らない。
 加えて、無類の動物好きである海堂にとっては、猫さながらの菊丸の言動は無下に出来ない気にさせられる。
 背中にほぼ同身長である菊丸を背負ったまま通学路で立ち往生するしかなくなる。
 近くに在ると、菊丸からはいつも歯磨き粉のミントの香りがする。
「………菊丸先輩」
「ん?」
「遅刻するっス…」
「あはは、それは困る」 
 困ると言いつつ、菊丸は海堂から離れない。
 それこそ猫のような大きな目で、肩口からじっと自分を見つめてくる菊丸に、海堂は息を詰める。 
「海堂ってさー」
 海堂の緊張など恐らく全く気にもしないで、菊丸はのんびりと言った。
「なんかいっつもいい匂いするねー」
「……は…?」
「なんだろなー、これ。んー……?…洗濯したてみたいな、アイロンがけの後みたいな。なんだろ。な、海堂はどう思う?」
「………はあ…」
 会話になっているのかいないのか。
 海堂が悩んでいると、やわらかい声が割って入ってきた。
「英二。海堂が困ってるよ」
「あ、不二だ。おはよ!」
「おはよう。海堂も、おはよう」
「………おはよう、ございます」
 愛想のない海堂の声にも、不二は笑みを深くして。
 菊丸の背中を、ぽんと手のひらで叩いた。
「さっき大石がコンビニでプリン二つ買ってたよ」
 今日発売のアレ、と不二が言うと、菊丸が跳びはねるように海堂の背中から離れた。
「イチゴとチョコレートのやつ!」 
「そう。ピンクペッパーが隠し味の。英二が前に、発売されたら絶対食べたいって言ってたからね。大石の事だから、覚えてたんじゃない?」
「もー、大石、大っ好き!」
 そう言うが早いか。
 菊丸は走り出して、あっという間に、その背中は見えなくなった。
「元気だよねえ、英二」
「………」
 笑う不二の隣で、海堂は曖昧に頷きつつも、内心ではしみじみそれに同意する。
 突然現れた菊丸がいなくなって、今度は不二と二人になって。
 実のところ人見知りの激しい海堂は、これはこれでまた緊張めいて押し黙る。
 そういった海堂の性質を熟知している上級生達は、菊丸にしろ不二にしろ、気にした風はなかったが。
 しかし今日は普段とは違い、海堂の方から不二に呼びかける。
「………不二先輩」
 海堂からの呼びかけに、珍しく不二の表情が判りやすくびっくりして。
「ん?」
 それでもすぐに、続きを話しかけやすくする柔らかい雰囲気で、不二が問い返してくる。
 海堂は少し視線をさまよわせて、息を整えるように吐き出した後、鞄の中からコンビニの袋を取り出して不二に差し出した。
「あれ、海堂も、あのプリン買ったんだ」
「……ビターチョコレートの、方っス」
 今日新発売のラインナップの、もう片方。
 こちらの隠し味は唐辛子だ。
「………こっちの方がいいって、不二先輩言ってたんで」
「え、……これ、僕に?」
 不二が大きく目を見開いて、本当に驚いた顔をするので。
 海堂はどういう態度をとっていいものかと真面目に悩んで、ただ無言で頷いた。
 不二と菊丸と大石が、雑誌に載っていた今春に向けてのコンビニの新スイーツの記事を見ていた場所に、たまたま海堂も居合わせたのだ。
 辛いもの好きのせいか、僕はこっちがいいな、と不二が言っていた方のプリン。
 それが一つだけ入っているコンビニの袋を、不二が海堂の手から受け取った。
 らしくもなく緊張していたのか、肩から力が抜けたのを海堂は自覚した。
 おめでとうございます、と海堂は低く呟いた。
 誕生日、とも小さく付け加える。
「うわ……嬉しいな…」
 思わず零れたような不二の声に、海堂は決まり悪いような落ち着きのなさを覚える。
「………いや、別に、」
 プリン一つだけですけどと言いよどむ海堂に、不二は首を振った。
「ううん、だけなんて事ないよ。本当に嬉しい。ありがとう、海堂」
「……や、…ですから、そんな大層な………」
 海堂の困惑をよそに、不二が、いっそ感動でもしているかのような顔をする。
 そしてそれが決して上辺だけのものではなくて、本心からの表情だと、海堂にも判るので。
 海堂としてはますます、どうしていればいいのか判らなくなる。
「あの、………遅刻…するんで……」
「あ、そうだね。うん、行こう」
 不二は相変わらず両手の上にコンビニの袋を乗せ、笑顔でそれを見つめている。
 慣れない事をしたという自覚がある上に、隣でずっとそんな様子を見せられて海堂の居た堪れなさはピークに達する。
 先程の菊丸さながらに、ここから走り去るのは問題の行為になるだろうか。
「ねえ、海堂」
 少々気もそぞろになっていた海堂は、不二からの呼びかけにぎこちなく視線を返した。
 あ、と海堂が思ったのは、そうして見おろした不二の表情が、少し意味ありげな笑みに変化していたからだ。
 不二がこういう表情をする時は、海堂にとってあまり心臓によくないような言葉が投下される。
「乾に自慢してもいい?」
「………は?」
「海堂に、誕生日おめでとうって言って貰って、プレゼント貰ったんだよって。言ってもいい?」
「プレゼントって……、そんな大袈裟な」
 海堂の言葉を遮って、不二がちょっと悪い目をする。
「言ったら絶対、乾にものすごく羨ましがられるね。…うん。もしかしたら、とんでもなく悔しがられるかな?」
「あの、…」
「ひょっとしたら半狂乱になるかも。うわあ、からかい甲斐があるなあ…」
「不二先輩…、…?」
 楽しくなってきたなあ、と。
 いったいどこまでが本気か判らない表情で不二が笑い、海堂は隣で頬を引き攣らせた。
「大丈夫大丈夫、ちゃんと手加減してからかってくるから」
「………………」
 大丈夫って何がだとか。
 手加減って何だとか。
 海堂にも言いたい事は色々あったが、こういうモードの時の不二に海堂が何かを言える訳がなかった。
「もし昼休みか放課後にでも、乾が海堂に泣きついてきたら慰めてやって?」
 ちょっと鬱陶しいかもしれないけど、と不二が悪戯っぽく付け加える。
 本当に今更ながら、そのからかいというのが、何を、どこまでするつもりなのかと。
 不二を見返して海堂は絶句する。
「ありがとね、海堂」
 コンビニの袋を目の高さまで持ち上げて、そう言って。
 不二は足取りも軽く歩き出す。
 その少し後を黙ってついていきながら。
 二月二十九日。
 果たして今日がどんな日になるのかと、海堂はひっそりと頭を悩ませるのだった。
 乾はたくさんチョコレートを持っている。
 普段から鞄の中に結構な数のチョコレートが入っているのだ。
 データ収集癖のある彼が言うには、チョコレートの原料であるカカオの成分は色々と利点が多いそうで、以前海堂もその話を幾度となく聞いたのだが、要するに身体や頭に良いんだなくらいの認識として残っていた。
 何せ乾にかかると、ポリフェノールの効能やら、カカオマスの含有量が五十%ならどう、七十%ならこう、ととてもお菓子の類の蘊蓄を聞いているとは思えない事態になるからだ。
 いっそ薬かサプリメントの一貫という気になってくる。
 そんなチョコレートの他にも、ガムや飴なども乾は持ち歩いていて、確かブドウ糖の塊やらナッツ類なども常備していた筈だ。
 そういう事を海堂が知ったのは、乾とダブルスを組むようになってからだった。
 一緒にトレーニングをしたり、戦術の解説などを受けたりしている時に、乾がちょくちょくそれらを海堂にくれたので。
 その時々に一番効果のあるものを、いつもの蘊蓄と一緒に手渡されるので、海堂も乾からチョコレートやガムや飴などを貰って食べる事には慣れきっていた。
「はい、海堂」
「………………」
 だが流石にこんな風に。
 直接口に運ばれた事は、なかったのに。
 つい条件反射のように、名前を呼ばれて顔を上げた海堂は、その時すでに口元に近づけられていたチョコレートをそのまま乾の指先から口に入れてしまった。
 乾の指の先が唇に少し当たって、受け入れてしまってから海堂は目を瞠った。
 いつものチョコレートだけれど。
 何となく、今日がバレンタインデーで。
 乾に呼ばれた待ち合わせ場所の正門前で、出会い頭に食べさせられてしまうと、意味合いが特別なもののように思えてしまう。
 そんな自分の思考回路に少々落ち込んで、海堂は会釈で礼を告げ、チョコレートを咀嚼した。
「………………」
 このタイミングで食べる事に、どういう意味があるんだろうと、怪訝に思ったのがどうやら表情に明け透けに出てしまっていたようだ。
 乾が小さく笑って、自身も薄いアルミ箔を剥いたチョコレートを口に入れて海堂を見下ろす。
「特別に用意って訳じゃないけどな。バレンタインチョコレートってやつだ」
「………はあ…」
「ん?」
「いや……何であんたが俺に何ですか」
「海堂が俺の好きな子だから」
 もう口の中で溶けてなくなってしまっているチョコレートを、詰まらせたような気分で、海堂は、ぐっと息を飲んだ。
 乾は相変わらず真意の掴めない飄々とした表情で海堂の背中を大きな手のひらで軽く擦った。
「バレンタインデー当日に、学校の正門前でチョコレートを食べさせて、この程度のリアクションで済んだんだから、やっぱり計画っていうのは重要だな」
「………計画って、あんた」
 まさか、と海堂は眉を顰めた。
 まさか、乾が普段からチョコレートを常備して、それを何かにつけ海堂に与えていた、昨年の初夏からの日常は。
 今日の日の為の前振りだとでも言うのだろうか。
 まさかと言いつつ、海堂はすでにそれを確信してしまった。
 確かに、チョコレートにおけるこれまでの日常の積み重ねがあったから。
 バレンタインデーに乾からチョコレートを食べさせられたこんな事態にも、然して抵抗感を覚えなかった。
「………乾先輩」
「何だ、海堂?」
「……あんた……どれだけ先まで、計画っての、立ててるんですか」
「海堂に関してはねえ……」
 長期計画だよ、と流し目を寄越してくる乾を、ちらりと上目で見返して海堂は複雑に口を噤む。
 海堂には、到底見越せないくらい先の先まで。
 きっと乾は見ているのだろう。
「俺は、今の事しか判んねえよ……」
「いいんだよ、それで。今の積み重ねが、過去になるし未来になるんだから」
 海堂が堅実で俺はすごく助かってる、と告げてきた乾の言葉の意味が。
 やはり海堂にはよく判らなかったけれど。
「………どうもッス」
「うん?」
「チョコレート」
 眉間に皺を寄せたまま海堂は言ったのに、それは嬉しそうに乾が笑うので。
 海堂もまた、乾と同様。
 これでいいんだな、と思ったのだった。

 日曜日に他校との練習試合に赴いた屋外のテニスコートで、海堂は自動販売機を前に、立ち竦んでいる。
 乾は少し離れた所からそんな海堂に気づいたので、暫し様子を黙って窺っていた。
 何せ海堂は、どこか人慣れしない野生の猫のような所があるので。
 いきなり声をかけると逃げられる確率が結構高い。
 乾が気配を殺して見据える先で、たっぷりと数分。
 海堂はその場に立ち尽くしていた。
 手にしたものを、ただじっと見下ろしている。
 どうやらそれは自動販売機から取り出した缶ジュースのようだった。
「………………」
 あれくらい気がかりな事があるのなら、いっそ声をかけても大丈夫だろうと、乾は歩き出した。
 海堂は乾に全く気付いていないようなので、近くまで寄って静かに呼びかける。
「海堂」
「……、……乾先輩…」
 小さく反応する様は、やはり、びっくりして毛を逆立てる仔猫のようだ。
 言えば当人に絶対怒鳴られるので乾は勿論口にはしないけれど。
 代わりに、乾は海堂の手元に視線を落として、淡々と言った。
「間違えた?」
「………………」
 海堂が手にしていたのは炭酸飲料だ。
 彼がその類の飲み物を自分からは選ばない事を乾は知っている。
 ああそれでか、と乾は粗方の合点がいった。
 海堂が随分と長い事立ち尽くしていた訳。
 彼は迷っているのだろう。
 かわいいな、と思う。
 思うだけに留めて、乾は後押しの言葉を放った。
「それなら越前にやるといい」
 まるで今思いついた提案みたいに乾は口にしたが、実際海堂の頭にはその選択肢がすでにあるという事を判った上での助言だ。
 青学のルーキーは、事ある毎にその炭酸飲料を飲んでいる。
 相当好物のようだと、データ収集癖のある乾だけでなく、海堂もきちんと知っているのだ。
 ただ、海堂の性格上、越前にジュース一本渡す事が、相当ハードルの高い行為だという事も乾は理解しているので。
 何というか。
 微笑ましいというか。
 やはりどうしたってかわいいなあと思う気持ちが脇でてきてしまうので、乾は懸命にそれが表面化しないよう努め、わざと無表情を取り繕った。
 そんな乾に、突如海堂が。
「うん?」
「………………」
 手を伸ばしてきたかと思うと、掴んだ缶ジュースを、乾の胸元近くに、ぐいっと押し当ててきた。
 きつい目元をそうして伏せると、海堂の睫毛の長さが際立った。
 そのままそっぽを向くような仕草も。
 普段海堂が滅多にしない分、どこか幼く乾の目には映った。
「どうした?」
 からかうつもりはなかったし、海堂の意図している所は充分理解していた乾だったけれど。
 無言で自分に押しつけられる缶ジュースと、うまく言葉に出来ない海堂がますますかわいいものだから、つい笑ってしまう。
 海堂が機嫌を悪くする前にと、乾は右手で缶ジュースを受け取り、左手を海堂のバンダナ越しに頭の上に乗せて、そっと海堂の目線を拾い上げた。
「俺が渡してくればいいか?」
「………………」
 年上の自分を使いだてする事は気が引けるようで、海堂は不機嫌にはならなかった。
 困ったように、普段は鋭い眼光を乾に遠慮がちに乾へと向けてくるだけだ。
「………………」
 思えば、こういう風に海堂に使われるなんて事。
 少し前だったら有り得なかったはずだ。
 そう思えば寧ろ感慨深い。
 海堂は大抵単独行動をとっていたし、部内の上級生相手には、礼儀を払いつつも彼の方から接触してくる事など皆無だったからだ。
 トレーニングメニューを考えたり、一緒に自主トレをするようになったり、自分に対して少しずつほどけてくる海堂から乾は目が離せなくて時々困る。
 自分が、まるで執着しているかのように海堂に拘ってしまう、その自覚があるからだ。
「一番上手なやり方で渡してくるから心配しなくていいよ」
「………………」
 越前の好きなジュース。
 それを海堂から越前へ。
 手渡しの仲介役は乾だ。
 内面のやわらかみを必要以上に硬質な態度でひた隠す海堂が、あの生意気なスーパールーキー相手に、後々なるべく困らないようにしてあげようと、乾は笑みを浮かべた。
「……先輩」
「ん?」
 物言いたげな海堂の目が、じっと自分を見上げてくる。
 それだけのことが、どうしてこんなに、浮かれる程嬉しいんだろうかと、乾は唇の端を引き上げる。
 はっきりいって、海堂どころか。
 こんな有様では自分の方こそが、越前の、格好のからかいのネタになるだろうと、乾は思う。
 恐らく乾の予想通り、越前は、海堂に傾倒する乾を見抜いて、また何か鋭い言葉を放ってくるのだろう。
「それもいいか」
「………はい?」
「いや。それじゃ、また後でな」
 行ってくるよと、乾は缶ジュースを持っていない方の手を海堂の肩にかけた。
 しっかりと鍛えてあるしなやかな肌の感触は、それでいて乾の手のひらには、ひどく甘い余韻を残す。
 不思議な、不思議な、存在だった。
 乾にとっての海堂は。
 まるで考えの纏まらない、でもその纏まらなさに、もう少し浸っていようと乾は考えている。


 多分、そう遠くはない未来、自分の感情は全て明け透けに、そして判りやすく単純に、纏まるであろう予感がする。


 だから今は、あともう少しだけ。
 訳の判らなさに足掻くのだ。
 お帰り海堂、と聞き慣れた声がした。
 海堂が顔を上げれば歩いて行く方向の少し先に乾が立っていて、ひらひらと片手を振っていた。
「乾先輩…」
 多分、乾を見てほっとした海堂の心情は、表情や態度にも出ていたのだろう。
 乾は少しだけ目を瞠って、それからゆっくりと微笑むと、海堂の元へとやってきた。
 対峙して、近くから海堂を見下ろした乾は、片手で海堂の頭を撫でるように髪をかきまぜてくる。
「お疲れ」
 笑んでいる乾の手に抗う気力も、もはや海堂には残っていなかった。




 夏休みに入って早々、海堂は母親の実家に家族揃って帰省する事になっていた。
 中学に入ってから休みとくればテニス三昧で、盆暮れ正月は自宅にいるのも精一杯といった状態だったので、なかなか祖父母に会う事もなく、海堂も気にはしていたのだ。
 中学三年のこの夏に、高校に入ればまた忙しくなるだろうからと、思い切って数日泊まりに行く事になり、それはそれで良かったのだが。
「やっぱり親戚大集合だったか?」
「………ッス」
 そうかー、と優しげに頷く乾の横に並んで歩きながら、海堂は大変に賑やかだったこの三日の事を思い返して、長く息を吐いた。
 元々の性格に長男気質加わって、どうにも甘え慣れしていない海堂には、大人達から年少の親戚まで、たっぷりと構われまくる事にかなりの気力を持っていかれてしまったのだ。
「合宿とかは普通に出来るんだから、団体行動が駄目だって訳でもないと思うが」
「テニスは別です…」
「大人数が苦手?」
「まあ……多少…」
 こんな風に当たり前のように会話をしているが、そもそも約束もしていないのに当たり前みたいにこうしている自分達は何なんだろうと海堂は考える。
 ちらりと盗み見るように傍らの男を見上げれば、気づいているのかいないのか。
 乾は前を見たまま、よく頑張ってきたじゃないかと言った。
「見てきたみたいに言いますね」
「想像に難くないね」
 さっきは正面から伸びてきた乾の手が、今度は横から。
 頭を抱き寄せるようにされて、またくしゃくしゃと指先に髪をかき乱される。
「………………」
 この人には何をされても平気だな、と海堂は思った。
 乾以外の誰にされても、こんな風に普通に受け入れる事は到底出来なさそうだ。
 思えば最初から、乾に対しては海堂の言動はいつもそれまで人には見せられなかったものばかりだった。
 頼るとか。
 甘えるとか。
 それ以上の事も。
 何でこの男には出来たんだろう。
「ん? どうした?」
 じっと乾を見上げている視線に、乾が不思議そうに海堂を覗き込んできた。
「……疲れちゃったか」
 疑問とも確信とも言いかねる口調だったが、海堂は黙って頷いた。
 乾はあっさりとした手つきで数回海堂の頭を撫でてから、何飲む?と近くの自販機を指さした。
「本音は、うちに連れて帰りたい所なんだけど」
 早く休ませてあげたいからこれで悪いな、と乾が先に立って自販機に近づいていく。
「………………」
 広い背中を見つめて、海堂は考えた。
 疲れきった後、一人でいるより乾と一緒にいる方がよほど休まるとか。
 そんなのは、もう、いつからだったのか。
「乾先輩…」
「んー…?」
 どう言えば良いのか海堂には見当もつかない。
 何にする?と振り返ってくる乾の気配に、だから何の考えもなしに動いた。
 額を、触れるか触れないか程度に少しだけ。
 乾の背中に押し当てた。
「………海堂」
「………………」
「振り返ったら、ダッシュとか、無しな」
 物凄く慎重に乾が宣言するのがおかしかった。
 物凄く神経を集中させて乾が振り返るタイミングを図っているのも。
 海堂は俯いたまま考えた。
 家族は、もう一日田舎に残ることになって、予定通り帰ってきたのは海堂だけだ。
 だから。
「逃げるなよー」
「………………」
 猫でも捕獲するような言い方で、いよいよ振り返ろうとする乾を。
 今日は自分を持ち帰るつもりの全くないこの男を。
 この後どう持ち帰ろうかと、海堂は真剣に考えている。 
 すごい集中力というものはつまり、色々な方向へとそれが向けられる。
 特に乾の場合はその傾向が強いように思う。
 集中していると他の事は目に入らないようだし、何かのきっかけで別の事が気になると瞬く間にそちらに没頭したりする。
 海堂は、机を挟んで真向かいに座っている乾の様子を見ながら、しみじみと、そう考えた。
 放課後、もう誰もいないから入っておいでと、乾の教室にメールで呼ばれた。
 海堂が行ってみると、乾は広げたノートを前に何やら思案顔で。
 それもいつもの事と言えばいつもの事、海堂は目礼して教室に入り乾の前の席の椅子を引き出して座った。
 それから大分経ってから、ちょっと待っててな、と顔を上げない乾が呟き、どうぞと海堂は答えた。
 背中を向けるのも何なので身体は乾と面と向っているものの、乾は何やら呟きながら一心不乱にノートに文字を綴っている。
 そんな様子を何とは無しに海堂は見つめている。
「………………」
 乾の手が。
 ああ、探してるな、と海堂は思って、消しゴムを近くに滑らせてやる。
 乾の指先がそれに当たって、確実に手に取る。
 ふと気付くと足元にマーカーが落ちている。
 海堂は座ったまま屈んでマーカーを拾い上げ、机の上に置いた。
 ほどなくして、また何かを探す手で乾の手が動き出し、そのマーカーを取る。
 集中の仕方が、どこか子供っぽいのが乾だ。
 海堂は少しだけ唇の端を緩めた。
 夢中になる、没頭する、そうする事で他が見えなくなる性質は自分達の共通点かもしれない。
 でも、こうやって二人でいれば、目の届かない範囲を片方が補う事も出来るのだ。
「海堂」
「……何っすか?」
 いきなり呼びかけてきて、ノートの一枚を千切った乾が、知ってたか?と生真面目な声で問いかけてくる。
 てっきり何かテニスに関するデータだと思って差し出された紙に視線を落とした海堂は、そこに書きつけられた言葉を見て眉根を寄せる。
「乾先輩。何ですか、これ」
「うん。さっき気づいたんだけどな」
 いまあいたい。
 紙面に書かれていた文字だ。
 海堂は真面目に首を傾げると、乾は今の今まで没頭していたデータ帳を徐にぱたんと閉じて、机の端に押しやった。
 指先で文字の上を叩く。
 ここにきて初めて、正面から目と目が合った。
「逆から読むと、いたい、あまい、ってなるんだな。これ」
「………………」
 今、会いたい。
 痛い、甘い。
 回文というやつかと思いつつ、海堂は曖昧に頷いた。
「……はあ…」
 それがどうかしたのだろうか。
 でも、それを訊ねるのを海堂は止めた。
 多分、意味はないのだろう。
 乾の思考は取り留めない。
「海堂に会いたいなあと思ってさ」
「………………」
「頭の中で考えた言葉が何でか逆さになったらこうなって」
 発見もしたから、これはもう海堂に直接言おうと思って呼んだわけだ、と乾は笑う。
 そうして恐らく海堂が到着する間に全く別に思いついた事があって、データ帳を開いたのだろう。
 すると今度はそちらに夢中になって。
 しばらく海堂は放置されていた訳なのだが、不思議と乾のそういう所が、海堂は気にならなかった。
 時々、おかしな人だとは思うけれど。
 物事に集中して、のめり込んでいる時の乾が、海堂は嫌いでなかった。
 乾の書くデータのように、きっと頭の中もびっしりと情報や知識で埋まっているであろう男が、ふと自分の事を思い立ったりするという現実が少し不思議で。
 無意識に気の緩んだ表情になった自分に、海堂は気づかなかった。
「あー…、やっぱ、呼んで良かった……」
 頭上に大きな手のひらが乗せられる。
 何だと海堂が目を見開くと、乾がやけに和んだ顔で微笑んでいた。
「海堂の、こういう顔見られるんだからなあ」
「………別に、顔なんて普段と変わっちゃいないと思いますけど」
「海堂には見えないもんな?」
 だから。
 何で、そう、嬉しそうに笑うのだ。
 乾の方こそ。
 どうにも気まずくなって海堂は視線を乾から外した。
「あの」
「ん?」
「………頭。撫でんの止めて貰えます」
「黙って俺の手を叩き落とさないで、まず聞いてくれる所が優しいよな、海堂」
「あんた、さっきから何なんですかっ」
 優しい笑顔と、優しい手と。
 心底から嬉しそうなその気配は何なんだ。
 海堂が噛みつくように怒鳴っても、やはり乾は楽し気に、手を退かさない、笑みを絶やさない。
 そうしてやっぱり海堂も、振り払えないのだ。
「黙って待っててくれて、ありがとな」
「………………」
「消しゴムとマーカーも、ありがとう」
 気づいていないとばかり思っていたのに気づいていて。
「こういうのも、恥ずかしいのに、ちゃんと我慢してくれてありがとう」
「……判ってんなら…っ」
 頭を撫でられるとか、本当にありえないくらい恥ずかしいんだと思う海堂の心中も、きっちり把握した上で、乾は止めない。
 何だか頭の中がぐるぐるする。
 海堂は黙りこむ。
 心臓が痛い。
 感情が甘い。
 痛い、甘い、今会いたい。
 つまりこういう事かと。
 実感させられている気分で、乾の手の感触に甘んじた。
 少しずつ目が合う時間が長くなってきた。
 それでいて、会話する時間が増えれば増えるほど、一緒にいる時間が長くなれば長くなるほど、何故か海堂の視線は乾からぎこちなく逸らされていくのが、最初乾も不思議だったのだけれど。
 すぐにその理由が判るようになる。
 どうも海堂は物慣れないらしい。
 人と極普通の会話を交わすこと。
 何となく、ただ一緒にいること。
 決意や意志でもって相手を見据える事は出来るのに、ちょっとした接触や日常会話などには、困惑も露な目で海堂は視線を逸らせる。
 内面はどこまでも柔らかいのに、外見がどこまでも硬質で、そういうギャップは乾にしてみれば何も問題のないことなのに、当の本人はそういう当たり前の事に対して、どうしたらいいのか判らないようだった。
 呼びかければ、こちらを向く。
 見つめていると視線が逃げる。
 肩に手をおけば受け止める。
 置き続けていると心情の揺れがすぐに伝わってくる。
 繊細かと思うと豪胆な所もあって、懐きはしないが懐深い。
 海堂の中に、こんなに様々な要素が詰まっていることを、今の今まで気づいていなかった自分に乾は驚いた。
 データを取る事が日常で、だからそうやって集めたデータで、何となくだいたいの事は判ってしまっている気になっていた。
 実際は、これまで採取したデータでは気付かなかったことばかり、海堂は示してくる。
 海堂のことで新しく気づいた点を、乾は何故かデータにとろうという気にもなれなくて、そういった場面に直面する度、今目の前で知る出来事に、ただ、夢中になる。
 この感情は何だと乾自身が唖然とする。
 海堂に対して向けてしまう、まるで執着のような固執する感情は。
「先輩?」
 低い、小さな呼びかけに籠もる気遣いの響きを聞くよりも感覚で掴まえて、それだけでくらくらするような感じ。
「………あの?」
「ああ、悪い。ちょっと考え事」
 ごめんな、と乾は海堂を見つめて返した。
 早朝のテニスコートは、まだ自分達しかいない。
 澄んだ静かな空気の中、ぼうっとしていたのは自分なのに、邪魔をしたかと思ったのだろう、海堂の僅かな戸惑いが透けて見えた。
 だから乾は畳みかけた。
「今日はこれ。イレギュラーボール。どこに跳ねるか判らない」
 手にしていた特殊形状のボールを海堂の手に握らせた。
 おとなしく手のひらをひらく仕草が、普段の海堂からは見られないどこか子供っぽい所作で、そんな事にも一々乾は気にかかる。
「投げて、受け止める。敏捷性、反射神経、動体視力、集中力のトレーニングに最適だ」
「……ッス」
 頷いているだけ。
 でも海堂のその様が乾にはもうどうしようもないほど重要な事に思える。
 結局海堂がどんな振る舞いをしても、どんな表情をしても、どんな言葉を口にしても、もう何もかもが乾に刺さってくるので。
 そういうことなんだな、と認めるしかない。
「…あの、…乾先輩?……ひょっとして具合悪いんですか」
「いや、すまん」
 つくづく気もそぞろに見えるのだろう。
 海堂の問いかけに乾は何でもないんだと続けようとして、出来なかった。
 言葉が詰まったのだ。
 喉下で、完全に。
「……熱は…ないみたいですけど」
 海堂は腕を伸ばしてきて、手のひらで乾の首の片側を、そっと包みこんだ。
 手のひらに乾の体温を感じ取って小さく呟いた声と、僅かに首を傾ける仕草とに、乾の心情も跳びはねる。
 イレギュラーボールの軌跡のように、海堂から指し向けられてくるものが、自分のどこに跳ねてくるのかが判らない。
 そのどれも、取り逃すつもりは勿論ないけれど。
「………海堂…」
「はい?」
 むやみやたらに、降参したいような気持ちになる。
 浮かれたいのか落ち着きたいのか判らない。
 無心に乾の呼びかけの続きを待っているらしい海堂の目は、今はしっかりと乾を見据えている。
 好きだと告げたら、海堂はどうするだろう。
 視線は逃げていくだろうか。
 手のひらは離れていくだろうか。
 幾つもの疑問は浮かぶ。
 けれど不思議と告げる事が怖いとは思わず、乾は肩の力を抜いた。

 まずは受け止めやすく、判りやすく、彼に渡す。
 その後の事は、その後から考える事にする。
 そう順序を決めて、乾は海堂に、ゆっくりと笑いかけた。
 単独行動が多いという自覚は、勿論ある。
 でも海堂は、そんな自分よりも実はもっと単独行動が多いと思っている相手がいた。
 何故かあまり孤立が目立たないけれど。
 その相手、乾は一人で行動する事がとにかく多い。
 付き合いが悪い訳ではないようなのだが、ふと気づくと、その場にいないという事が、よくあった。
 秘密主義者なのだ。
 そんな乾が今、おいでおいでと手招きしている。
 乾が顔と手を出しているのは化学準備室だ。
 海堂は、乾が自分を呼んでいると判ってはいたが、それでもつい辺りを見回すようにして乾に笑われる。
「そうそう。俺は海堂を呼んでる」
「………………」
「おいで、海堂」
「………………」
 何でそんな所にいるのか。
 何で自分を呼ぶのか。
 何で。
 疑問は多々ありつつ、それでも海堂は言われるまま乾の所へと向かう。
 何ですかと乾に問うより先に、手首を軽く握りこまれて、するりと室内に入れられた。
「先輩」
 返事のように頬にキスをされて海堂は絶句した。
 背後で扉はすでに閉められていたけれど、校内でこういう事をされたのは初めてだった。
「一発殴られるかもとは思ってたんだが、ありがとうな海堂」
 のんきに笑う乾に海堂は溜息をついた。
「……あんたを殴ったことなんかねえよ」
「コートの中で胸倉つかまれて怒鳴られた事はあるけどな」
「状況考えりゃ当然でしょうが!」
「判ってる。感謝してるんだ」
 言葉にかぶせて、今度は唇にキスが落とされてきた。
 海堂は目を伏せて、それを素直に受け止める。
 不思議と、今度はそうするのが自然な気がしたからだ。
「……つくづくよく出来た奴だよな、海堂は」
「あんた以外にそんなこと言う奴誰もいねえよ」
 乾の大きな手のひらが背中に回ってくる。
 抱き寄せられて、長身の乾の腕の中に囲われる。
 海堂は溜息混じりに呟いた。
「……何でこんな時間に、こんなとこにいるんですか」
「ちょっと考え事しようかなと思ってさ」
「なら、…」
「待った待った。帰ろうとしない」
 ぎゅっと抱き寄せられてしまって、挙句背後で施錠の音を聞いてしまって、海堂は乾の胸元で微妙に赤くなった。
 随分と子供じみた引き留め方をしてくれたものだと思う。
 それこそ突き飛ばすなり怒るなりするのは簡単だが、結局海堂もこの状況に甘んじてしまうのだ。
「海堂を抱き締めてる方が良い」
「……はあ…」
 生返事になってしまうのは、返しようがないくらいに乾の声が真剣で、甘いからだ。
「カーテン、開いてます…」
「あっち側から見える角度じゃないから大丈夫」
「………………」
 透明なガラス窓の向こうが気がかりで進言した海堂に、乾は子供っぽいような口調で呟いた。
「完全に外と遮断するとまずいだろう。心情的に」
「何が?」
「俺が。暴走したら海堂困るだろ」
「別に……」
「殴ってでも止められる?」
「殴る殴るって、あんたさっきからなあ、」
「海堂にそれだけのことさせるかもっていう自覚があるから言ってるだけだよ」
 乾の両手が海堂の腰まで降りてきて。
 密着していた胸元が空いた。
 海堂は呆れを込めて乾を睨み上げる。
 それでも。
 近づいてきた乾に対して、唇をひらいたのは海堂の意志だ。
 くぐってきた舌を口腔に招き入れて、舌を使われる濃いキスをひとしきり受け入れる。
 キスで潤みきった唇を丁寧に愛撫されるようなやり方で、静かに唇と唇の接触は止む。
「海堂、早く高等部おいで」
「一年経てば普通にいきます」
 一年かあ、と乾ががっくりと肩を落とすのが海堂には不思議だった。
 中等部と高等部とに別れたって、足りない分は学校の外で会えばいいだろう。
 別に困らないだろうと思うのに。
 乾には案外ダメージが大きいようだった。
 それが海堂には不思議だった。
「考え事って、そういう事っすか」
「ん?……んー……、ん」
「返事の意味が判らねえ……」
「うん」
 幾分はっきりとした返答と共に、ふいをつくように乾が海堂の額に小さく音をたててキスをしてきて。
 甘ったるいやり方にいろいろな事が有耶無耶になってしまう。
 ただ何となく、海堂の中に。
 落ち込む乾を甘やかしたいような奇妙な感じが残った。
「乾先輩」
 海堂は腕を伸ばして乾の頭をそっと抱え込むように引き寄せた。
「………………」
 乾は少し驚いた顔をしていて。
 しかし海堂の腕に逆らわない。
「海堂」
 低い声が鎖骨のあたりにぶつかる。
 海堂がそこに乾を引き寄せたからだ。
「……ものすごく……ご褒美を貰ってるような感じなんだが…」
 海堂は返事をしなかった。
 実際どうなのか判らなかったからだ。
 単純に。
 率直に。
 今したいことをしただけだから。
 そう思いを込めた手で抱き締める。
 特別な、ひと。
 乾の手に腰を抱かれて、お互いがお互いの思いを込めた手で繋ぎ止める。
 特別な、ひと。
 繋がる、絡まる、結びつける。
 それは幾つもあったっていい。
 もしどこか一つが緩んでも、他がある。
 解けた個所を直している間も大丈夫だ。
 卒業くらいで離れようもないことは。
 こうしていれば判るだろう。
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