How did you feel at your first kiss?
青学三年乾貞治と、青学二年海堂薫は、向かい合わせに対峙している。
テニス部のコート脇にいる二人は、向き合って、顔を合わせて、立っている。
今し方まではおそらく生真面目にテニスの話などしていたのであろう二人だが、誕生日おめでとうと言った乾と、眼を瞠った海堂とで、もっか二人は無言で顔を見合せている。
口を噤んで相手を見ているだけ。
「あそこ、かわいいね」
小さく笑みを零して、不二が呟いた。
「は?……かわいいって、…乾が?」
海堂すっごい睨んでるよっ?と菊丸が頬を引きつらせた。
不二の袖を掴んで揺さぶる菊丸に、不二は今度はもっとはっきりとした笑い声を響かせて否定する。
「違うよ、かわいいのは海堂」
恥ずかしいんだね、と不二は海堂を見つめ直して囁く。
「かーわいい」
「なになにおチビまで!」
恥ずかしいんでショ?海堂センパイ?と越前が肩にラケットを乗せるようにして首を傾け笑う。
「精一杯で威嚇してる子猫っすね。あのカンジ」
「越前に子猫なんて言われたら海堂は絶叫しそうだね」
「不二先輩だってそう思ってんじゃないですか」
「まあ、そうだね」
不二と越前の会話に。
むう、とたちどころに不機嫌そうに頬を膨らませた菊丸は、自分を挟んで左右にいる二人を交互に見やってから、大石に飛びつくようにして走り寄っていった。
「大石ー!」
「ん? どうした、英二」
満面の笑みで菊丸に問いかける大石は、飛びついてきたうえ盛大に泣きついてもきた菊丸にびっくりしたように瞬いた。
「なんだよなんだよみんなしてー! 海堂の誕生日とか、海堂が可愛いのとかは、俺だけが知ってる筈だったのに!」
「…英二?」
ずるいー!と癇癪を起した菊丸を、なんだかよく判らないながらも、そうかそうかと苦笑いで宥めてやりながら、大石は近くにいた桃城に声をかける。
「海堂は、今日誕生日なのか?」
「何で俺に聞くんですか、大石先輩」
心底嫌そうに顔を顰めながらも、そうっすよ、と桃城は言った。
言葉ほど不機嫌ではないのは、大石を見やって、にやりと笑った桃城の表情で見てとれる。
桃城は大石にこっそりと耳打ちする。
「タカさんが特大穴子盛り、ケーキ代わりに差し入れしてくれるって言ってましたよ」
まだ内緒っすけどね?と笑う桃城に、大石もまた困ったような小声で問いかけた。
「おいおい……手塚は知ってるのか?」
「知ってるっすよ。俺とタカさんで了承貰いに行きましたから。サプライズの号令は部長です」
「うーん……何だかんだ言って桃は」
苦笑交じりの大石の呟きを、桃城はあっさりと切って。
「穴子寿司の為なんでね?」
「…ま、そういう事にしておくか」
大石は器用に菊丸を宥めながら、桃城に向かって尚も器用に、溜息と笑みとを同じ分量、洩らした。
何となくざわめきを周辺に感じない訳ではなかったが、それより何より今海堂は、目の前の出来事で手一杯だった。
誕生日おめでとう。
乾は、そう言った。
「ええと……海堂?」
「…………なんで」
「ん? ああ…誕生日?」
海堂の硬直に、最初は困ったような苦笑いで海堂の名前を呼んだ乾は、海堂の言わんとしているところに気づいたようで、あっさりとそれに答えてくる。
「知ってるよ。そりゃ」
「……データ、そんなことまでとってるんですか」
「確かにね。でも、これはちょっと違う」
「………乾先輩?…」
「好きな子のことは、勝手に何でも覚えるし、忘れない」
「…、…は…い?」
「今日がそうだっていう知識があるから、ただ言った訳じゃないよ」
「………………」
乾の手が、バンダナ越しに海堂の頭の上に、ぽんと乗せられる。
数回、かるく、撫でられて。
長身を腰から折るように乾が海堂に顔を近づけてくる。
海堂の耳元に唇を寄せて、乾はもう一度言った。
「誕生日おめでとう。海堂」
「………………」
ぐらぐらと、足元が覚束ない。
海堂はそんな錯覚を覚えた。
乾の手が、まるでそんな海堂の危うげな足元を察しでもしたのか、更にしっかりと海堂の後頭部を支えるようにして。
三度目。
今までで一番近くなった距離は、海堂の耳元へのその言葉以外にも、幾つかのものを海堂へと吹き込んでくる。
「好きな子の誕生日は、おめでとうって、とにかく、ただ言いたい」
落ち着いた低い声で、乾がほんの少しの笑みを混ぜて囁く声に海堂は立ち尽くす。
「何度でも言いたい」
誕生日なのに。
「海堂」
胸の病気にでも、なったのか。
「おめでとう」
息をするだけで。
「誕生日」
呼吸が甘苦しい。
誕生日なのに。
テニス部のコート脇にいる二人は、向き合って、顔を合わせて、立っている。
今し方まではおそらく生真面目にテニスの話などしていたのであろう二人だが、誕生日おめでとうと言った乾と、眼を瞠った海堂とで、もっか二人は無言で顔を見合せている。
口を噤んで相手を見ているだけ。
「あそこ、かわいいね」
小さく笑みを零して、不二が呟いた。
「は?……かわいいって、…乾が?」
海堂すっごい睨んでるよっ?と菊丸が頬を引きつらせた。
不二の袖を掴んで揺さぶる菊丸に、不二は今度はもっとはっきりとした笑い声を響かせて否定する。
「違うよ、かわいいのは海堂」
恥ずかしいんだね、と不二は海堂を見つめ直して囁く。
「かーわいい」
「なになにおチビまで!」
恥ずかしいんでショ?海堂センパイ?と越前が肩にラケットを乗せるようにして首を傾け笑う。
「精一杯で威嚇してる子猫っすね。あのカンジ」
「越前に子猫なんて言われたら海堂は絶叫しそうだね」
「不二先輩だってそう思ってんじゃないですか」
「まあ、そうだね」
不二と越前の会話に。
むう、とたちどころに不機嫌そうに頬を膨らませた菊丸は、自分を挟んで左右にいる二人を交互に見やってから、大石に飛びつくようにして走り寄っていった。
「大石ー!」
「ん? どうした、英二」
満面の笑みで菊丸に問いかける大石は、飛びついてきたうえ盛大に泣きついてもきた菊丸にびっくりしたように瞬いた。
「なんだよなんだよみんなしてー! 海堂の誕生日とか、海堂が可愛いのとかは、俺だけが知ってる筈だったのに!」
「…英二?」
ずるいー!と癇癪を起した菊丸を、なんだかよく判らないながらも、そうかそうかと苦笑いで宥めてやりながら、大石は近くにいた桃城に声をかける。
「海堂は、今日誕生日なのか?」
「何で俺に聞くんですか、大石先輩」
心底嫌そうに顔を顰めながらも、そうっすよ、と桃城は言った。
言葉ほど不機嫌ではないのは、大石を見やって、にやりと笑った桃城の表情で見てとれる。
桃城は大石にこっそりと耳打ちする。
「タカさんが特大穴子盛り、ケーキ代わりに差し入れしてくれるって言ってましたよ」
まだ内緒っすけどね?と笑う桃城に、大石もまた困ったような小声で問いかけた。
「おいおい……手塚は知ってるのか?」
「知ってるっすよ。俺とタカさんで了承貰いに行きましたから。サプライズの号令は部長です」
「うーん……何だかんだ言って桃は」
苦笑交じりの大石の呟きを、桃城はあっさりと切って。
「穴子寿司の為なんでね?」
「…ま、そういう事にしておくか」
大石は器用に菊丸を宥めながら、桃城に向かって尚も器用に、溜息と笑みとを同じ分量、洩らした。
何となくざわめきを周辺に感じない訳ではなかったが、それより何より今海堂は、目の前の出来事で手一杯だった。
誕生日おめでとう。
乾は、そう言った。
「ええと……海堂?」
「…………なんで」
「ん? ああ…誕生日?」
海堂の硬直に、最初は困ったような苦笑いで海堂の名前を呼んだ乾は、海堂の言わんとしているところに気づいたようで、あっさりとそれに答えてくる。
「知ってるよ。そりゃ」
「……データ、そんなことまでとってるんですか」
「確かにね。でも、これはちょっと違う」
「………乾先輩?…」
「好きな子のことは、勝手に何でも覚えるし、忘れない」
「…、…は…い?」
「今日がそうだっていう知識があるから、ただ言った訳じゃないよ」
「………………」
乾の手が、バンダナ越しに海堂の頭の上に、ぽんと乗せられる。
数回、かるく、撫でられて。
長身を腰から折るように乾が海堂に顔を近づけてくる。
海堂の耳元に唇を寄せて、乾はもう一度言った。
「誕生日おめでとう。海堂」
「………………」
ぐらぐらと、足元が覚束ない。
海堂はそんな錯覚を覚えた。
乾の手が、まるでそんな海堂の危うげな足元を察しでもしたのか、更にしっかりと海堂の後頭部を支えるようにして。
三度目。
今までで一番近くなった距離は、海堂の耳元へのその言葉以外にも、幾つかのものを海堂へと吹き込んでくる。
「好きな子の誕生日は、おめでとうって、とにかく、ただ言いたい」
落ち着いた低い声で、乾がほんの少しの笑みを混ぜて囁く声に海堂は立ち尽くす。
「何度でも言いたい」
誕生日なのに。
「海堂」
胸の病気にでも、なったのか。
「おめでとう」
息をするだけで。
「誕生日」
呼吸が甘苦しい。
誕生日なのに。
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突然なのに、驚くよりも、ほっとするようなタイミングでいつも乾は現れる。
当たり前のように自分に差し向けてくる手に、海堂はいつも躊躇する。
必ずの、そのためらいの理由は、何だろうか。
「海堂?」
「………………」
おいで、と微笑まれて、やさしく伸ばされてくる手。
その手を前にして、海堂はいつも動けなくなる。
辛抱強く待たれてしまうとますます踏み出せない。
「………………」
乾は今春、青春学院の高等部へと入学した。
その新しい校舎から、中等部へと忍んでくるように、ふらりと現われた先はテニス部の部室だ。
最後まで部室にいた海堂に、仕事は終わった?と甘い優しい声で誘い出すように帰宅を促して。
それが何だか日常であるような錯覚を海堂に覚えさせる。
どうしてここにいるのかと思うけれど、口に出して尋ねる程不思議な事には思えない。
乾と対峙するだけで、こうして二人でいることに、疑問を覚えなくなるのだ。
一緒にダブルスを組んでいた頃に比べれば、一緒にいる時間は格段に少ない。
でも、迎えにきた乾に促されて部室から出て、しばらく一緒に並んで歩いて。
あまりたくさんは話をしなかったけれど、その沈黙は全然苦痛でない。
それはやはりいつもの自分達だ。
海堂は、気ばかり急いているような最近の自分をうっすら自覚した。
気負っている訳ではないけれど、最上級生になって、新入部員も増えて、環境の変わった春先、気持ちにゆとりが足りない。
昔から、乾といるとそれまで気付かなかった事に思い当たる事がよくあって、今もただ一緒にいるだけなのに、海堂は気づいたあれこれを噛みしめて乾の背中を見やった。
「………………」
今、乾に促されて海堂が進む道は、自宅へ向かう道ではない。
すこし寄り道、と途中で耳元近くに囁かれて。
それに異論はなかったけれど。
「海堂」
ふと足をとめた乾が、後ろ手で差し出してきた手には戸惑う。
乾が、海堂とつなごうとする手。
「………………」
取れと言うのだろうか。
海堂は呼吸を詰めて思う。
いつも、いつも、当然のように差し出される彼の手を。
その都度、当然のように、自分が?と海堂は自問する。
それは乾にはどうという事ではないのかもしれないが、海堂にしてみれば、こうやって身動きもとれなくなる程の出来事なのだ。
乾から与えられるものは大抵、海堂が初めて受け取るものばかりだ。
昔も、今も。
これからもだろうか。
そしてこれからも、この手は海堂に伸ばされるのだろうか。
「ほら。海堂」
「………………」
乾は肩越しに振り返ってきて、やわらかく唇に笑みを浮かべた。
それは日の暮れかけた春の空気に溶け込むような笑みで、大丈夫だよと乾は続けて、じっと海堂を見つめてくる。
何だかますます反応出来なくなる海堂にも、乾は寛容で、根気強い。
しばらく見つめられたまま。
そして結局は乾の方から、海堂の指先をそっと手の中に握りこんできて、大丈夫だからとまた笑う。
「………………」
ひとの言葉を信じる事への安堵と、つながれた手の感触に乱れた鼓動が入り混じる。
乾がゆっくりと歩き出す。
「桜、好きだろう?」
「はい…?」
「すごく綺麗な桜を見つけたから見せてあげるよ」
「………………」
穏やかな声。
惑いのない手。
促され、歩き出し、海堂は乾の広い背中を見つめる。
手を、つないでいていいのだろうか。
こうして。
見下ろすと、乾の大きな手の中に包まれるようになっている自分の手が目に入って、海堂は戸惑う。
同じ分だけ、安心もする。
手をつなぐ。
乾は極自然にそうしたけれど、ものすごく特別な事だと海堂は思う。
あまり、人通りはない。
辺りは少しずつ暮れなずみ、ひっそりと静かだ。
どこに行くのかは知らない。
でも連れられて歩いた。
手と手をつないで歩く。
爪先が疼いた。
乾の歩幅は広くてゆっくりだ。
海堂の呼吸のペースに似通っている。
深くて、合わせてみると、すこしくらくらする。
海堂は黙って歩いた。
固そうな、しっかりとした骨格の背中を見据えて、どことも知れぬ行先は桜のある場所だという事だけが海堂の知り得る世界だ。
「………………」
桜。
今盛りの花が、確かに海堂は好きだった。
それを乾は当然のように知っている。
データ収集が趣味の男であるから、別段特別なことではないのかもしれないけれど。
海堂にしてみれば、いつでもどんなことでも、さりげなく乾に理解されている事が多くて物慣れない。
「ほら。あそこだ」
「………………」
乾の背中しか見ていなかった。
促されて我に返ったような気持ちで海堂は言われた先を見据える。
乾が指さしたのは、本当に小さな公園だった。
雨風に塗装の剥げた小さな遊具は、すでに本来の機能を果たしていない。
小さなベンチがあって、それが辛うじてそこが狭隘ながらも公園なのだと知らしめている程度の空間。
でも、ささやかなその公園には、伸びやかな枝ぶりを広げる桜の樹が、淡い花びらをやわらかく撓ませるようにして花開いていた。
近づいて行って、ベンチの前で、桜を見上げる。
大きすぎない桜の樹は、とても視界の近い所で、ほころぶ花の色味も繊細に咲いていた。
きれいだよなあ、とひとりごちる乾の声に、無意識に頷いた海堂は。
片頬を乾の大きな掌にくるまれ、その動きを途中で止められる。
「…先輩…、…?」
乾の手は海堂の頬をくるんだまま、ゆっくりと上体を屈めるようにしてきて、海堂の唇にそっと重ね被せるような一瞬の接触を落として、離れていく。
「………………」
あまりに自然すぎて、一瞬何事もないかのようにそれを受け入れた海堂だったが、間近にいる乾の顔をぼんやり見ているうち徐々に正気づいてくる。
何を、今、この男は、と絶句する。
あはは、と乾は力の抜けた笑いを零して、ごめんな、と海堂のこめかみに唇を寄せてきた。
「だ…っ……、から…!」
「頷き方、可愛いな、おまえ」
うん、って可愛かったから。
そんなことを言って優しく笑う乾に海堂はますます言葉を失った。
乾は、ごめんごめんと言いながら海堂の手を握ったまま、ひとりベンチに座った。
海堂は乾の正面に立って、普段とは逆位置にいる乾を見下ろした。
「小さすぎるんだな、ここの敷地が」
「………………」
「もうすこし広かったら人も集まって騒がしくなりそうだけど」
桜を見上げて言う乾の、のんびりとくつろいだ笑顔に、海堂は甘苦しい気持ちになった。
疲れてるのかと思い、気づいた時にはつながれていない方の手を海堂は伸ばしていて、乾のこめかみあたりを手のひらでそっと撫でる。
乾が嬉しそうに目を細めて、すこしだけ海堂の手のひらにもたれるようにしてくる。
「なあ、海堂」
「………なんすか…」
「海堂は、桜のどこが好きなんだ?」
「………………」
いきなり何だと思いこそしたが、別に二人でする会話に理由が必要な訳でもない。
海堂は、そっと乾を見下ろして、それから満開の零れだしそうな桜を見やった。
「花が…」
「…うん?」
「花が咲いた後に葉が茂るから」
すこし考える顔をしてから、ああ、と乾は頷いた。
「確かに桜は、花が散って終わり、じゃないな」
花の後に新緑がある。
花が散ってしまっても、物寂しさを感じる前に、青々と艶やかな葉が茂る。
他の花とは違う。
「そうか。判った」
「…先輩?」
「うん? 海堂がね。桜を好きな理由がさ」
「……嫌いな奴はあまりいないと思うんすけど…」
「そうだね。けど、海堂の好きにはいつもちゃんと理由があるからさ。何となく好き、とかいうのはあまりないだろ」
だからそれ知りたくてね、いつも、と乾は言った。
海堂の手を取ったまま、海堂の手の甲を親指の腹でやわらかくたどる。
「好きなものに対して、曖昧な理由とか感覚っていうのがあまりない海堂だから、そういうの余計判りたいって思う」
「………………」
考えもしていなかった事を言われて海堂の思考は逡巡する。
「だから知りたくなる。海堂が好きなものの、理由」
探究心は、乾の専売特許だろう。
真っ直ぐに見上げられる眼差しには、もっと甘い光もあって。
「乾先輩」
「ん?」
「あんたを好きな理由は、もう知ってますか」
それとも聞きますか、と海堂は言って、ひっそりと笑った。
乾があまりにも判りやすく、絶句して、恋に溺れて、撃沈した顔を見せたからだ。
「海堂ー……」
海堂の両手を握り取る乾の手に力が入った。
泣き言めいた声に海堂は何ですかと促すけれど、乾は何も言えないみたいでそれがまた海堂の笑みを深くさせる。
すこし風が吹いて、桜の花びらが散ってくる。
「先輩…?」
「桜はきれいだわ…海堂はきれいだわで……」
参った、と海堂の両手を握り込んだままベンチに座ってがっくり項垂れる乾の肩先にも桜の花びら。
「……なら、顔、上げてください」
自分がどうだかは知らないが、桜は本当に綺麗だ。
ちゃんと見ろと海堂が促せば、乾は顔を上げてきて。
だから海堂は身体を屈めて、近づいた。
そっと、乾の頬に、唇を寄せる。
大切な、大切な、ひとだから。
与えてもらうばかりだった時間が随分と長かったので、急がないけれども、きちんと。
海堂からも与えたいから。
触れるだけの頬へのキスからまずは。
当たり前のように自分に差し向けてくる手に、海堂はいつも躊躇する。
必ずの、そのためらいの理由は、何だろうか。
「海堂?」
「………………」
おいで、と微笑まれて、やさしく伸ばされてくる手。
その手を前にして、海堂はいつも動けなくなる。
辛抱強く待たれてしまうとますます踏み出せない。
「………………」
乾は今春、青春学院の高等部へと入学した。
その新しい校舎から、中等部へと忍んでくるように、ふらりと現われた先はテニス部の部室だ。
最後まで部室にいた海堂に、仕事は終わった?と甘い優しい声で誘い出すように帰宅を促して。
それが何だか日常であるような錯覚を海堂に覚えさせる。
どうしてここにいるのかと思うけれど、口に出して尋ねる程不思議な事には思えない。
乾と対峙するだけで、こうして二人でいることに、疑問を覚えなくなるのだ。
一緒にダブルスを組んでいた頃に比べれば、一緒にいる時間は格段に少ない。
でも、迎えにきた乾に促されて部室から出て、しばらく一緒に並んで歩いて。
あまりたくさんは話をしなかったけれど、その沈黙は全然苦痛でない。
それはやはりいつもの自分達だ。
海堂は、気ばかり急いているような最近の自分をうっすら自覚した。
気負っている訳ではないけれど、最上級生になって、新入部員も増えて、環境の変わった春先、気持ちにゆとりが足りない。
昔から、乾といるとそれまで気付かなかった事に思い当たる事がよくあって、今もただ一緒にいるだけなのに、海堂は気づいたあれこれを噛みしめて乾の背中を見やった。
「………………」
今、乾に促されて海堂が進む道は、自宅へ向かう道ではない。
すこし寄り道、と途中で耳元近くに囁かれて。
それに異論はなかったけれど。
「海堂」
ふと足をとめた乾が、後ろ手で差し出してきた手には戸惑う。
乾が、海堂とつなごうとする手。
「………………」
取れと言うのだろうか。
海堂は呼吸を詰めて思う。
いつも、いつも、当然のように差し出される彼の手を。
その都度、当然のように、自分が?と海堂は自問する。
それは乾にはどうという事ではないのかもしれないが、海堂にしてみれば、こうやって身動きもとれなくなる程の出来事なのだ。
乾から与えられるものは大抵、海堂が初めて受け取るものばかりだ。
昔も、今も。
これからもだろうか。
そしてこれからも、この手は海堂に伸ばされるのだろうか。
「ほら。海堂」
「………………」
乾は肩越しに振り返ってきて、やわらかく唇に笑みを浮かべた。
それは日の暮れかけた春の空気に溶け込むような笑みで、大丈夫だよと乾は続けて、じっと海堂を見つめてくる。
何だかますます反応出来なくなる海堂にも、乾は寛容で、根気強い。
しばらく見つめられたまま。
そして結局は乾の方から、海堂の指先をそっと手の中に握りこんできて、大丈夫だからとまた笑う。
「………………」
ひとの言葉を信じる事への安堵と、つながれた手の感触に乱れた鼓動が入り混じる。
乾がゆっくりと歩き出す。
「桜、好きだろう?」
「はい…?」
「すごく綺麗な桜を見つけたから見せてあげるよ」
「………………」
穏やかな声。
惑いのない手。
促され、歩き出し、海堂は乾の広い背中を見つめる。
手を、つないでいていいのだろうか。
こうして。
見下ろすと、乾の大きな手の中に包まれるようになっている自分の手が目に入って、海堂は戸惑う。
同じ分だけ、安心もする。
手をつなぐ。
乾は極自然にそうしたけれど、ものすごく特別な事だと海堂は思う。
あまり、人通りはない。
辺りは少しずつ暮れなずみ、ひっそりと静かだ。
どこに行くのかは知らない。
でも連れられて歩いた。
手と手をつないで歩く。
爪先が疼いた。
乾の歩幅は広くてゆっくりだ。
海堂の呼吸のペースに似通っている。
深くて、合わせてみると、すこしくらくらする。
海堂は黙って歩いた。
固そうな、しっかりとした骨格の背中を見据えて、どことも知れぬ行先は桜のある場所だという事だけが海堂の知り得る世界だ。
「………………」
桜。
今盛りの花が、確かに海堂は好きだった。
それを乾は当然のように知っている。
データ収集が趣味の男であるから、別段特別なことではないのかもしれないけれど。
海堂にしてみれば、いつでもどんなことでも、さりげなく乾に理解されている事が多くて物慣れない。
「ほら。あそこだ」
「………………」
乾の背中しか見ていなかった。
促されて我に返ったような気持ちで海堂は言われた先を見据える。
乾が指さしたのは、本当に小さな公園だった。
雨風に塗装の剥げた小さな遊具は、すでに本来の機能を果たしていない。
小さなベンチがあって、それが辛うじてそこが狭隘ながらも公園なのだと知らしめている程度の空間。
でも、ささやかなその公園には、伸びやかな枝ぶりを広げる桜の樹が、淡い花びらをやわらかく撓ませるようにして花開いていた。
近づいて行って、ベンチの前で、桜を見上げる。
大きすぎない桜の樹は、とても視界の近い所で、ほころぶ花の色味も繊細に咲いていた。
きれいだよなあ、とひとりごちる乾の声に、無意識に頷いた海堂は。
片頬を乾の大きな掌にくるまれ、その動きを途中で止められる。
「…先輩…、…?」
乾の手は海堂の頬をくるんだまま、ゆっくりと上体を屈めるようにしてきて、海堂の唇にそっと重ね被せるような一瞬の接触を落として、離れていく。
「………………」
あまりに自然すぎて、一瞬何事もないかのようにそれを受け入れた海堂だったが、間近にいる乾の顔をぼんやり見ているうち徐々に正気づいてくる。
何を、今、この男は、と絶句する。
あはは、と乾は力の抜けた笑いを零して、ごめんな、と海堂のこめかみに唇を寄せてきた。
「だ…っ……、から…!」
「頷き方、可愛いな、おまえ」
うん、って可愛かったから。
そんなことを言って優しく笑う乾に海堂はますます言葉を失った。
乾は、ごめんごめんと言いながら海堂の手を握ったまま、ひとりベンチに座った。
海堂は乾の正面に立って、普段とは逆位置にいる乾を見下ろした。
「小さすぎるんだな、ここの敷地が」
「………………」
「もうすこし広かったら人も集まって騒がしくなりそうだけど」
桜を見上げて言う乾の、のんびりとくつろいだ笑顔に、海堂は甘苦しい気持ちになった。
疲れてるのかと思い、気づいた時にはつながれていない方の手を海堂は伸ばしていて、乾のこめかみあたりを手のひらでそっと撫でる。
乾が嬉しそうに目を細めて、すこしだけ海堂の手のひらにもたれるようにしてくる。
「なあ、海堂」
「………なんすか…」
「海堂は、桜のどこが好きなんだ?」
「………………」
いきなり何だと思いこそしたが、別に二人でする会話に理由が必要な訳でもない。
海堂は、そっと乾を見下ろして、それから満開の零れだしそうな桜を見やった。
「花が…」
「…うん?」
「花が咲いた後に葉が茂るから」
すこし考える顔をしてから、ああ、と乾は頷いた。
「確かに桜は、花が散って終わり、じゃないな」
花の後に新緑がある。
花が散ってしまっても、物寂しさを感じる前に、青々と艶やかな葉が茂る。
他の花とは違う。
「そうか。判った」
「…先輩?」
「うん? 海堂がね。桜を好きな理由がさ」
「……嫌いな奴はあまりいないと思うんすけど…」
「そうだね。けど、海堂の好きにはいつもちゃんと理由があるからさ。何となく好き、とかいうのはあまりないだろ」
だからそれ知りたくてね、いつも、と乾は言った。
海堂の手を取ったまま、海堂の手の甲を親指の腹でやわらかくたどる。
「好きなものに対して、曖昧な理由とか感覚っていうのがあまりない海堂だから、そういうの余計判りたいって思う」
「………………」
考えもしていなかった事を言われて海堂の思考は逡巡する。
「だから知りたくなる。海堂が好きなものの、理由」
探究心は、乾の専売特許だろう。
真っ直ぐに見上げられる眼差しには、もっと甘い光もあって。
「乾先輩」
「ん?」
「あんたを好きな理由は、もう知ってますか」
それとも聞きますか、と海堂は言って、ひっそりと笑った。
乾があまりにも判りやすく、絶句して、恋に溺れて、撃沈した顔を見せたからだ。
「海堂ー……」
海堂の両手を握り取る乾の手に力が入った。
泣き言めいた声に海堂は何ですかと促すけれど、乾は何も言えないみたいでそれがまた海堂の笑みを深くさせる。
すこし風が吹いて、桜の花びらが散ってくる。
「先輩…?」
「桜はきれいだわ…海堂はきれいだわで……」
参った、と海堂の両手を握り込んだままベンチに座ってがっくり項垂れる乾の肩先にも桜の花びら。
「……なら、顔、上げてください」
自分がどうだかは知らないが、桜は本当に綺麗だ。
ちゃんと見ろと海堂が促せば、乾は顔を上げてきて。
だから海堂は身体を屈めて、近づいた。
そっと、乾の頬に、唇を寄せる。
大切な、大切な、ひとだから。
与えてもらうばかりだった時間が随分と長かったので、急がないけれども、きちんと。
海堂からも与えたいから。
触れるだけの頬へのキスからまずは。
乾は慎重だ。
しかし臆病ではない。
抱きしめられて、キスをされて、海堂にはそのことがよく判った。
繰り返す手は、戸惑いではなく、丁寧なだけ。
力の強さは、乱暴なのではなく、執着を表す。
乾の腕の中で、海堂は小さく吐息を零す。
「海堂」
耳の際で聞こえた低い声。
されるがまま抱きしめられている海堂が身体を僅かに震わせると、乾の手が海堂の背中を抱いた。
そのまま乾の指先が海堂の肩口からうなじに忍んで来る。
「………、ん…」
かたい指の腹に肌をなぞられて、海堂が僅かに俯くと大きな手のひらがぐっと海堂の後頭部を掴むようにしてきた。
仰向けにされ、唇はすぐに深く塞がれた。
大抵の時は無機質な気配を漂わす乾が、熱をはらむ瞬間に海堂は敏感だった。
生々しく舌を取られて、海堂ははっきりと震えた。
乾は角度のついたキスを尚きつくする。
しっかりと乾の手に支えられている筈の首が、ぐらりと揺らぐような錯覚を覚える。
水の中で溺れるような心もとなさに、海堂は咄嗟に伸ばした手で乾の胸元のシャツを掴んだ。
「海堂…」
キスがほどけ、海堂の手はそこから引きはがされる。
そうした乾の手は優しかった。
「……先輩、…」
乾の指先は海堂の手のひらをやわらかく辿った。
手のひらが疼く。
そんなこと初めて知った。
重ね合わせた手の大きさが違うこと。
「海堂」
名前を呼ばれて、手と手を合わせて、唇と唇も再び重なる。
肌が触れ合う感触より、呼吸が混ざる感触の方がより濃密で強かった。
「ごめんな」
乾の声が呼気に混ざって海堂の唇に触れる。
「ちゃんと、ゆっくりでいいって」
唇を幾度となく塞がれながら。
「そういうふうに、言ってやれなくて、ごめんな」
言葉の意味はあまり判らなくて。
海堂は乾の舌を受け入れるようにわずかに唇をひらくことで精一杯だったから、寧ろ謝るのは自分の方ではないのかと考えた。
キスの、回数が増え、深さが増し、粘膜が過敏になっていく。
ひとりでは出来ないことをされる。
そういうことが海堂には物慣れなくて、ぎこちなくなってしまう所作を乾はその都度優しく詫びて。
でも、乾は絶対に止めはしないし、海堂も絶対に嫌だと思わない。
繰り返される抱擁。
繰り返されるキス。
奪い合うのではなく、与えあっている感じがする。
密度の高い、何か甘くて熱いような、不思議で知らない感覚が溜まっていく。
気持ちの中に、集まって、とどまっていく。
「海堂」
髪を撫でられる。
手をつながれる。
乾の、いったいどこにこんな熱があったのだろう。
海堂は目を閉じて、乾のすることを受け入れて、ふと思う。
テニスをしている時とも違う。
何かに没頭している時とも違う。
この、もどかしさに苦しがっているかのような、どこか切迫した乾の声や力は。
どこに今まで潜んでいたのだろうか。
身動きの取れない自分。
それは乾の力での拘束ではなく、乾があまり露にする事のない内面を僅かずつながらも剥き出しにしてくるからだ。
「………………」
海堂は、乾に繋がれていない方の手をそっと伸ばす。
乾の後首に指先をかけて。
縋って。
途端に一層深くまで貪られた唇を今より更に開いて、熱い舌を受け入れて。
「ン、……」
自らの手でも、乾の首を引き寄せる。
組み合わせた指と指とが更に強く結びつき、どうしようもないほどの安堵感に海堂は浸された。
この人は。
この男は。
自分に何をしているのか、判っているいるのだろうか。
聡明なその思慮の中で、本当にそれを理解しているのだろうかと、海堂はゆっくりと睫毛を引き上げるようにして乾を見詰めた。
唇を重ねた近すぎる距離では、はっきりと見て取れる訳ではないが、それでも。
強すぎる乾の眼の光の強さに、くらりとなって。
「………甘くなった」
ぽつりと漏らした乾の言葉の意味を図りかねる海堂だったが、キスをほどいてから、まるで何かを味わうように乾が舌で唇を舐める仕種に眩暈をひどくして脱力する。
乾の肩口に顔を伏せると、乾は海堂の髪に唇を寄せて、弱ったような笑い交じりの声音で囁いた。
「今、何した…?」
「……知るか…」
掠れた小声では、虚勢を張ったところで何の効力もないだろうと海堂は思ったのだが、乾は暫く無言でいた後、唐突に。
まるで我慢出来なくなったかのようにきつく海堂を抱きしめてきて。
口早に、何か八つ当たりっぽいような事を暫く言っていたのだが、最後は低い声で、好きだとひたすらに。
海堂に浴びせかけるように、言い出したので。
海堂はそれをほんのひとかけらも取りこぼさないよう、乾の背をしっかりと抱きしめ返した。
コミュニケーションは、ひどく不得意だ。
けれど、それでいて、欲しいものには貪欲な自分を海堂は知っている。
海堂を抱きしめて、海堂にキスをする、乾には、だから伝わるはずだ。
伝える身体で、伝わるはずだ。
しかし臆病ではない。
抱きしめられて、キスをされて、海堂にはそのことがよく判った。
繰り返す手は、戸惑いではなく、丁寧なだけ。
力の強さは、乱暴なのではなく、執着を表す。
乾の腕の中で、海堂は小さく吐息を零す。
「海堂」
耳の際で聞こえた低い声。
されるがまま抱きしめられている海堂が身体を僅かに震わせると、乾の手が海堂の背中を抱いた。
そのまま乾の指先が海堂の肩口からうなじに忍んで来る。
「………、ん…」
かたい指の腹に肌をなぞられて、海堂が僅かに俯くと大きな手のひらがぐっと海堂の後頭部を掴むようにしてきた。
仰向けにされ、唇はすぐに深く塞がれた。
大抵の時は無機質な気配を漂わす乾が、熱をはらむ瞬間に海堂は敏感だった。
生々しく舌を取られて、海堂ははっきりと震えた。
乾は角度のついたキスを尚きつくする。
しっかりと乾の手に支えられている筈の首が、ぐらりと揺らぐような錯覚を覚える。
水の中で溺れるような心もとなさに、海堂は咄嗟に伸ばした手で乾の胸元のシャツを掴んだ。
「海堂…」
キスがほどけ、海堂の手はそこから引きはがされる。
そうした乾の手は優しかった。
「……先輩、…」
乾の指先は海堂の手のひらをやわらかく辿った。
手のひらが疼く。
そんなこと初めて知った。
重ね合わせた手の大きさが違うこと。
「海堂」
名前を呼ばれて、手と手を合わせて、唇と唇も再び重なる。
肌が触れ合う感触より、呼吸が混ざる感触の方がより濃密で強かった。
「ごめんな」
乾の声が呼気に混ざって海堂の唇に触れる。
「ちゃんと、ゆっくりでいいって」
唇を幾度となく塞がれながら。
「そういうふうに、言ってやれなくて、ごめんな」
言葉の意味はあまり判らなくて。
海堂は乾の舌を受け入れるようにわずかに唇をひらくことで精一杯だったから、寧ろ謝るのは自分の方ではないのかと考えた。
キスの、回数が増え、深さが増し、粘膜が過敏になっていく。
ひとりでは出来ないことをされる。
そういうことが海堂には物慣れなくて、ぎこちなくなってしまう所作を乾はその都度優しく詫びて。
でも、乾は絶対に止めはしないし、海堂も絶対に嫌だと思わない。
繰り返される抱擁。
繰り返されるキス。
奪い合うのではなく、与えあっている感じがする。
密度の高い、何か甘くて熱いような、不思議で知らない感覚が溜まっていく。
気持ちの中に、集まって、とどまっていく。
「海堂」
髪を撫でられる。
手をつながれる。
乾の、いったいどこにこんな熱があったのだろう。
海堂は目を閉じて、乾のすることを受け入れて、ふと思う。
テニスをしている時とも違う。
何かに没頭している時とも違う。
この、もどかしさに苦しがっているかのような、どこか切迫した乾の声や力は。
どこに今まで潜んでいたのだろうか。
身動きの取れない自分。
それは乾の力での拘束ではなく、乾があまり露にする事のない内面を僅かずつながらも剥き出しにしてくるからだ。
「………………」
海堂は、乾に繋がれていない方の手をそっと伸ばす。
乾の後首に指先をかけて。
縋って。
途端に一層深くまで貪られた唇を今より更に開いて、熱い舌を受け入れて。
「ン、……」
自らの手でも、乾の首を引き寄せる。
組み合わせた指と指とが更に強く結びつき、どうしようもないほどの安堵感に海堂は浸された。
この人は。
この男は。
自分に何をしているのか、判っているいるのだろうか。
聡明なその思慮の中で、本当にそれを理解しているのだろうかと、海堂はゆっくりと睫毛を引き上げるようにして乾を見詰めた。
唇を重ねた近すぎる距離では、はっきりと見て取れる訳ではないが、それでも。
強すぎる乾の眼の光の強さに、くらりとなって。
「………甘くなった」
ぽつりと漏らした乾の言葉の意味を図りかねる海堂だったが、キスをほどいてから、まるで何かを味わうように乾が舌で唇を舐める仕種に眩暈をひどくして脱力する。
乾の肩口に顔を伏せると、乾は海堂の髪に唇を寄せて、弱ったような笑い交じりの声音で囁いた。
「今、何した…?」
「……知るか…」
掠れた小声では、虚勢を張ったところで何の効力もないだろうと海堂は思ったのだが、乾は暫く無言でいた後、唐突に。
まるで我慢出来なくなったかのようにきつく海堂を抱きしめてきて。
口早に、何か八つ当たりっぽいような事を暫く言っていたのだが、最後は低い声で、好きだとひたすらに。
海堂に浴びせかけるように、言い出したので。
海堂はそれをほんのひとかけらも取りこぼさないよう、乾の背をしっかりと抱きしめ返した。
コミュニケーションは、ひどく不得意だ。
けれど、それでいて、欲しいものには貪欲な自分を海堂は知っている。
海堂を抱きしめて、海堂にキスをする、乾には、だから伝わるはずだ。
伝える身体で、伝わるはずだ。
夕焼けに周辺が色づいている中、海堂が乾に視線を向けると、その時すでに乾は海堂を見ていた。
あの、今日、と海堂が口を開くと、暇だよ、とその時点で即答された。
「……………」
「え? 違った?」
おかしいな、と乾が首を傾けるのを前にして、内容は違わないが、何かが違わないだろうかと海堂は思う。
部活が終わった後、テニスコートを囲うフェンスに寄りかかって乾はノートに何かを書き込んでいた。
それが終わるのを見計らって海堂は声をかけようとしていたのだが、ちょっと目を離した隙に、乾はノートではなく海堂の事を見てきていた。
長身からやわらかい視線を向けてくる乾を見返しながら海堂は小さく吐息を零す。
違わないですと首を振ると、よかったと即座に乾が笑みを浮かべた。
「……良かった…っすか?」
「そりゃあね。恥ずかしいだろ、全然そんな話じゃないって言われたら」
食いつきすぎの自覚はあるよと乾は尚も笑う。
海堂には乾の言う事がよく判らなかった。
少し首を傾げるようにして乾を見ていると、乾は広げていたノートを両手で閉じた。
小脇に挟んでから乾は苦笑いを浮かべる。
「あんまりそういう顔しない。………言ってる意味、判るか?」
海堂は正直に首を左右に振った。
乾はやっぱりなという顔をしたけれど、不思議と海堂は腹がたたなかった。
「それはな、海堂。俺が逆上せあがるからだよ」
「のぼせ…あがる……」
「そう。ますますお前に夢中になるからってこと」
「は、…?……」
面喰って固まった海堂の目前に、いつの間にか近寄ってきていた乾が。
バンダナ越しに海堂の頭部を大きな手のひらで撫でてくる。
無骨な手つきだけれど、誰にもされた事のないような事をされて、ますます海堂は固まった。
こんな事を海堂にしてくるのは乾だけだだ。
硬直する。
でも決して嫌ではない。
そしてこんな風に海堂が何も言えず何も動けずじっとしてしまうのも乾に対してだけだ。
乾はゆっくりと数回海堂の頭を撫でてから、長身を少し屈めた。
「もう少し……そうだな、…打ちたいのかな?」
「………っす」
海堂の表情を読むようにして、乾はじっと海堂を見つめて言葉を探して放ってくる。
相変わらず乾の手は海堂の頭上にあるまま。
「少し、つきあって貰えますか」
「少しと言わずに好きなだけいいぞ」
「……あんた…そういう所すごく、…気前良いっすよね…」
「自分でも時々びっくりするよ。お前絡みの事はね。最初から」
「………………」
特別なんだろうなあと、まるで他人事めいて乾が呟くから、海堂は微かに笑い目を伏せる。
唇の端が僅かに引きあがるだけの表情は、乾の目にも触れなかっただろう。
「………………」
最初から。
それを言うなら海堂も、最初から乾に対しては通常の自分らしからぬ行動をとっている自覚はあった。
テニスの事で誰かに相談をしにいくなんて事、海堂は後にも先にも乾にメニューを乞いに行った時くらいなものだ。
上級生である乾は、近寄りがたいタイプではなかったが、独特の世界観があって、海堂とは別の意味合いで単独行動が多い。
それでも海堂よりは数段社交性はあって、多分後輩からトレーニングメニューを乞われれば、それが海堂でなくても応じただろう。
海堂はそう思っていたが、不動峰戦の際に乾が海堂に個人メニューを制作していた事を知った三年生達は一様に驚いていた。
あの乾がねえ、という言葉の意味する所を海堂はよく判っていないままだ。
ただ何となく、こうして乾といる時間が増えていく中で、気づく事もあった。
乾は日増しに、海堂に甘く砕けていく。
海堂を甘やかすというよりは、乾自身の内面を時折いとも容易く海堂に明け渡してくる事がある。
お互いの距離が近くなっていく。
同じ時間を過ごすようになる。
その中で、乾が他の誰にも向けないような目をしてきたり、言葉を伝えてきたり、してくる。
海堂に。
少しずつ、それは海堂にも判るように、深く近くなっていく自分達。
乾の変化を海堂が感じるように、乾もまた海堂の変化を感じているのかもしれない。
「………先輩も…」
「ん?」
「あんまりそういう顔…しない方がいいっすよ…」
乾の手が海堂の頭から離れて。
「どんな顔してる? 俺」
扉でもノックするかのように指の関節を曲げた乾の裏手で。
す、と頬を逆撫でされた海堂は、ひそめた乾の問いかけには無言のまま。
幾許か恨めしい心境で、物慣れない柔らかなその所作の感触を受け止める。
「………………」
それは海堂の事だけしか見ていない目。
外部からの接触には無抵抗なほど柔軟なのに、乾の方から人に手を伸ばす事は殆どないのに、そっと海堂にはいつだって彼から手を伸ばしてくる。
右の頬に触れている乾の右手の甲は、人肌の温かさを海堂に伝えてくる。
「……俺が、つけあがるような顔っすよ」
よく判んねえと思いながら口を開けば、出てきた言葉は本当に海堂にも理解不能だったが。
「いいよ」
それを聞いて乾は笑った。
力の抜けた、くつろいで、柔らかな、優しい顔で笑う。
「そうしていいよ」
耳元でそう言われた。
何故かと海堂が考えるより先、背中を乾の掌で抱き寄せられている体勢になっていて。
甘すぎるような接触はすぐに解けたけれど、抱きしめられたような感触は海堂の体内にじんわりと染み込んでくる。
「むしろそうしてくれ」
「……はあ…」
「海堂、俺をこんなに浮かれさせてどうするんだ」
実際は少しもそんな素振りなど感じさせない乾が、しかし至極心地よさそうに笑ってコートの中へ入っていく。
とろけたような色合いの夕焼け。
海堂が目を細めたのはそのせいだけじゃなかった。
コートに入った乾が振り返ってきた表情と、声とが理由だ。
「海堂」
その声で名前を呼ばれて。
おいで、とラケットを持っていない乾の左手が自分へと伸ばされる。
逆上せ上がる。
こういう事かと、海堂は乾の表情を見て、理解した。
あの、今日、と海堂が口を開くと、暇だよ、とその時点で即答された。
「……………」
「え? 違った?」
おかしいな、と乾が首を傾けるのを前にして、内容は違わないが、何かが違わないだろうかと海堂は思う。
部活が終わった後、テニスコートを囲うフェンスに寄りかかって乾はノートに何かを書き込んでいた。
それが終わるのを見計らって海堂は声をかけようとしていたのだが、ちょっと目を離した隙に、乾はノートではなく海堂の事を見てきていた。
長身からやわらかい視線を向けてくる乾を見返しながら海堂は小さく吐息を零す。
違わないですと首を振ると、よかったと即座に乾が笑みを浮かべた。
「……良かった…っすか?」
「そりゃあね。恥ずかしいだろ、全然そんな話じゃないって言われたら」
食いつきすぎの自覚はあるよと乾は尚も笑う。
海堂には乾の言う事がよく判らなかった。
少し首を傾げるようにして乾を見ていると、乾は広げていたノートを両手で閉じた。
小脇に挟んでから乾は苦笑いを浮かべる。
「あんまりそういう顔しない。………言ってる意味、判るか?」
海堂は正直に首を左右に振った。
乾はやっぱりなという顔をしたけれど、不思議と海堂は腹がたたなかった。
「それはな、海堂。俺が逆上せあがるからだよ」
「のぼせ…あがる……」
「そう。ますますお前に夢中になるからってこと」
「は、…?……」
面喰って固まった海堂の目前に、いつの間にか近寄ってきていた乾が。
バンダナ越しに海堂の頭部を大きな手のひらで撫でてくる。
無骨な手つきだけれど、誰にもされた事のないような事をされて、ますます海堂は固まった。
こんな事を海堂にしてくるのは乾だけだだ。
硬直する。
でも決して嫌ではない。
そしてこんな風に海堂が何も言えず何も動けずじっとしてしまうのも乾に対してだけだ。
乾はゆっくりと数回海堂の頭を撫でてから、長身を少し屈めた。
「もう少し……そうだな、…打ちたいのかな?」
「………っす」
海堂の表情を読むようにして、乾はじっと海堂を見つめて言葉を探して放ってくる。
相変わらず乾の手は海堂の頭上にあるまま。
「少し、つきあって貰えますか」
「少しと言わずに好きなだけいいぞ」
「……あんた…そういう所すごく、…気前良いっすよね…」
「自分でも時々びっくりするよ。お前絡みの事はね。最初から」
「………………」
特別なんだろうなあと、まるで他人事めいて乾が呟くから、海堂は微かに笑い目を伏せる。
唇の端が僅かに引きあがるだけの表情は、乾の目にも触れなかっただろう。
「………………」
最初から。
それを言うなら海堂も、最初から乾に対しては通常の自分らしからぬ行動をとっている自覚はあった。
テニスの事で誰かに相談をしにいくなんて事、海堂は後にも先にも乾にメニューを乞いに行った時くらいなものだ。
上級生である乾は、近寄りがたいタイプではなかったが、独特の世界観があって、海堂とは別の意味合いで単独行動が多い。
それでも海堂よりは数段社交性はあって、多分後輩からトレーニングメニューを乞われれば、それが海堂でなくても応じただろう。
海堂はそう思っていたが、不動峰戦の際に乾が海堂に個人メニューを制作していた事を知った三年生達は一様に驚いていた。
あの乾がねえ、という言葉の意味する所を海堂はよく判っていないままだ。
ただ何となく、こうして乾といる時間が増えていく中で、気づく事もあった。
乾は日増しに、海堂に甘く砕けていく。
海堂を甘やかすというよりは、乾自身の内面を時折いとも容易く海堂に明け渡してくる事がある。
お互いの距離が近くなっていく。
同じ時間を過ごすようになる。
その中で、乾が他の誰にも向けないような目をしてきたり、言葉を伝えてきたり、してくる。
海堂に。
少しずつ、それは海堂にも判るように、深く近くなっていく自分達。
乾の変化を海堂が感じるように、乾もまた海堂の変化を感じているのかもしれない。
「………先輩も…」
「ん?」
「あんまりそういう顔…しない方がいいっすよ…」
乾の手が海堂の頭から離れて。
「どんな顔してる? 俺」
扉でもノックするかのように指の関節を曲げた乾の裏手で。
す、と頬を逆撫でされた海堂は、ひそめた乾の問いかけには無言のまま。
幾許か恨めしい心境で、物慣れない柔らかなその所作の感触を受け止める。
「………………」
それは海堂の事だけしか見ていない目。
外部からの接触には無抵抗なほど柔軟なのに、乾の方から人に手を伸ばす事は殆どないのに、そっと海堂にはいつだって彼から手を伸ばしてくる。
右の頬に触れている乾の右手の甲は、人肌の温かさを海堂に伝えてくる。
「……俺が、つけあがるような顔っすよ」
よく判んねえと思いながら口を開けば、出てきた言葉は本当に海堂にも理解不能だったが。
「いいよ」
それを聞いて乾は笑った。
力の抜けた、くつろいで、柔らかな、優しい顔で笑う。
「そうしていいよ」
耳元でそう言われた。
何故かと海堂が考えるより先、背中を乾の掌で抱き寄せられている体勢になっていて。
甘すぎるような接触はすぐに解けたけれど、抱きしめられたような感触は海堂の体内にじんわりと染み込んでくる。
「むしろそうしてくれ」
「……はあ…」
「海堂、俺をこんなに浮かれさせてどうするんだ」
実際は少しもそんな素振りなど感じさせない乾が、しかし至極心地よさそうに笑ってコートの中へ入っていく。
とろけたような色合いの夕焼け。
海堂が目を細めたのはそのせいだけじゃなかった。
コートに入った乾が振り返ってきた表情と、声とが理由だ。
「海堂」
その声で名前を呼ばれて。
おいで、とラケットを持っていない乾の左手が自分へと伸ばされる。
逆上せ上がる。
こういう事かと、海堂は乾の表情を見て、理解した。
自分の呼吸も相当に荒かったのだけれど、海堂は聴覚に届いた乾の呼気の違和感に、うっすらと眉根を寄せた。
汗か涙か判らない液体で視界が霞むようになっている中、目を凝らして海堂は乾を見据える。
海堂の身体を組み敷いて、顎の先から汗を落とした乾も、目元が沁みるのかわずかに目を眇めていた。
長く深く繋げていた身体は、解けたばかりで。
眼鏡を外した乾の裸眼は、今しがたまでの欲情を、まだしっかりと灯したままで。
うっかりそれを確認してしまった海堂の呼びかけは海堂自身が思っていた以上に掠れた。
「………先…輩…、…」
「……ん…?」
問い返しながら乾は海堂の唇を軽くキスで塞いだ。
海堂もその一瞬は目を閉じて。
余韻のせいなのかかすめる程度のキスにも身の内から震えが起こるのに、そっと耐える。
乾の手が海堂の髪を撫でる。
ただ海堂を、宥めたり甘やかしたりするものではなく、乾がまるで触れずにはいられないような手つきで荒く髪を撫でるので、海堂の余波は尚揺らされた。
「…海堂……」
耳元近くで聞こえた声と、息遣い。
やっぱりかと海堂は思った。
「……先輩、…あんた……」
「何だ…?」
「………もしかして…、風邪…、…っぽいんじゃ…ないんですか」
「え?」
どこかぼんやりと、不思議そうに聞き返した後。
乾は同じ言葉を、その次には笑いながら口にした。
「ええ?……切り替え早いな、お前」
「……切り替え…?」
すぐには普通の会話なんか出来ないようにしたいもんだけど?と悪戯っぽく笑う乾は、海堂の内部の燻るような余波には気づかないのだろうか。
笑いながら軽く咳込んだ広い背中を、海堂は腹立ちと羞恥とでない交ぜになったまま憮然と拳で軽く殴る。
「ごめんごめん」
よしよし、と余計な事を言って乾は海堂を抱き込んで横たわる。
ますます腹が立って海堂は抗ってもがきながらも、乾の長い腕に巻き込まれてしまうと。
けだるい身体はその態勢から心地よさしか認識しなくなる。
海堂は上目に乾を睨みあげた。
こういう時はたいしてきつい眼差しにならないことを知っていたけれど。
「息、に…音、混ざってる…」
「んー…?」
「……喉…、痛いんじゃないっすか…」
「俺の声、嗄れてる?」
乾は少しだけ腕をゆるめてきて、海堂を片腕で抱き寄せたまま覗き込むようにしてくる。
そうやって聞いたくせに、海堂が何か答えるより先、乾はまた勝手にひとりごちた。
「海堂の名前、呼びすぎたかな…」
「…っ…………、…ッ」
からかうならまだいい。
真顔で言うからこの男は、と海堂は乾を睨んで唸るような喉声を洩らす。
たぶん顔は赤いだろう。
目元が熱い。
「それで嗄れたかな」
「………んなわけ、あるか…っ」
だいたいさっきの乾の咳だって、笑って噎せたものではない。
明らかに風邪のひき始めだろう。
「熱は」
海堂が右手を持ち上げて乾の額に当てようとすると、それを乾に阻まれる。
海堂の手は乾の手に握りこまれてしまって、しかしそれは乾の抗いではないようだった。
とらえられた手の指先に乾は笑った形の唇を押しあてる。
「今は熱いに決まってるだろ」
触っても意味ないよと再び海堂を抱きしめてくる。
汗の浮かんだ肌と肌とを重ねあっても、何の違和感もない相手だけれど。
乾が風邪っぽいのであれば、いつまでもこうしていていいわけがない。
海堂は腕を突っぱねて乾の胸元を押しやろうとする。
「……どうして嫌がるかな、海堂」
「機嫌悪い顔すんな…」
「無理だな。実際機嫌が悪い」
開き直るな!と海堂が思わず怒鳴ると、ちゅ、とやけにかわいらしい音をたててまた唇にキスされる。
心なしか乾の唇は熱っぽい気がした。
こんな恰好のままでいては、ひき始めどころか本格的に風邪をこじらせかねない。
海堂とて、はっきりいえば乾が心配なだけだ。
問題がないのなら、このままだらだらと怠惰な時間を送る事に別段異論もないのだ。
「確かに俺は今、機嫌は少し悪いけど、海堂が俺を心配してくれるのは嬉しいんだよ」
「……乾先輩…?」
「仕方ない。今日はここで諦めよう」
海堂が寝込んだら大変だと軽い口調の割には真剣な顔で言って。
乾はシャワー浴びて着替えてくる、とベッドから降りた。
「…大丈夫ですか?」
別に乾がふらついている訳ではなかったが、海堂も身を起こす。
「ついていきますか」
「いちゃいちゃしきれず消化不良の先輩を煽る行為は慎んだ方がいいぞ」
「あんたな…」
真面目な顔で茶化した事を言うのは止めてほしい。
海堂ががっくりと脱力すると、乾は先にごめんな、と海堂の頭に手を置いて、シャワーを浴びに部屋を出て行った。
残された海堂はベッドに倒れるように横たわった。
「………………」
乾の息が乱れが、どういう類のものなのか聞き分けられる自分というものがどこか不思議で、海堂は四肢を投げ出して目を閉じる。
乾は認める言葉は口にしなかったが、同時に否定もしなかったので、おそらく風邪の予兆の自覚があるのだろう。
海堂は目は閉じていたが、乾の事を考えるのに忙しくてまどろむ間もないまま時間をやり過ごす。
シャワーを浴びて服を着た乾が戻ってきて、頭を撫でてきたのでゆっくりと目を開ける。
長身の乾が立ったままなので、寝具に横たわった体制で見上げるとひどく距離がある気がする。
海堂は乾を見つめたまま、ベッドを下りた。
「シャワー、借ります」
「ああ。タオルと着替えは出しておいた」
けど、と乾が続けたので、海堂はそっと首を傾げた。
「……けど、何ですか」
「着替え、いらないか? もう今日は帰る?」
泊まりに来いとあれだけ言い続けた相手に言う事かと海堂は呆れた。
一見無表情の乾が、そんな事を言いながらものすごくへこんでいるのが判るから余計だ。
「先輩。具合は」
「具合?…ああ、…海堂の言った通りだな…喉が多少」
「あとは?」
「んー、…それくらい。あと、ちょっと熱っぽいかも?」
「聞くなよ」
「確かに」
のんびりと乾が笑ってみせるから、さほどひどい状況ではないらしい。
海堂は注意深く乾を見つめてそう理解して。
年上だけれど時折とてつもなく自分の事に無頓着になる相手を見上げて言いつける。
「俺、シャワー浴びてくるんで。戻ってきた時に、あんたが薬飲んで、おとなしくベッドの中にいたら泊まっていきます」
「本当?」
「何びっくりしたような顔してんですか」
正直な話、ちょくちょく小さな風邪をひくのは専ら乾だ。
海堂が体調を崩す事はほとんどない。
海堂が呆れた風に言った時にはもう、乾は部屋の中の引出しをあちこちあさりはじめていた。
薬を探しているらしい。
「………………」
海堂は黙って乾に背を向けて、部屋を出る。
シャワーは、少し長めに浴びていようと思う。
あの調子では風邪薬が見つかるまでに少々時間がかかりそうだ。
そして、この後、ベッドに入っておとなしくして待っているであろう乾の想像をすると。
海堂は何だか必死に薬を探していた今の乾の様子と思い重ねてしまって、浴室に向かう途中、滲んできた笑いを奥歯で噛み殺すのに苦労した。
汗か涙か判らない液体で視界が霞むようになっている中、目を凝らして海堂は乾を見据える。
海堂の身体を組み敷いて、顎の先から汗を落とした乾も、目元が沁みるのかわずかに目を眇めていた。
長く深く繋げていた身体は、解けたばかりで。
眼鏡を外した乾の裸眼は、今しがたまでの欲情を、まだしっかりと灯したままで。
うっかりそれを確認してしまった海堂の呼びかけは海堂自身が思っていた以上に掠れた。
「………先…輩…、…」
「……ん…?」
問い返しながら乾は海堂の唇を軽くキスで塞いだ。
海堂もその一瞬は目を閉じて。
余韻のせいなのかかすめる程度のキスにも身の内から震えが起こるのに、そっと耐える。
乾の手が海堂の髪を撫でる。
ただ海堂を、宥めたり甘やかしたりするものではなく、乾がまるで触れずにはいられないような手つきで荒く髪を撫でるので、海堂の余波は尚揺らされた。
「…海堂……」
耳元近くで聞こえた声と、息遣い。
やっぱりかと海堂は思った。
「……先輩、…あんた……」
「何だ…?」
「………もしかして…、風邪…、…っぽいんじゃ…ないんですか」
「え?」
どこかぼんやりと、不思議そうに聞き返した後。
乾は同じ言葉を、その次には笑いながら口にした。
「ええ?……切り替え早いな、お前」
「……切り替え…?」
すぐには普通の会話なんか出来ないようにしたいもんだけど?と悪戯っぽく笑う乾は、海堂の内部の燻るような余波には気づかないのだろうか。
笑いながら軽く咳込んだ広い背中を、海堂は腹立ちと羞恥とでない交ぜになったまま憮然と拳で軽く殴る。
「ごめんごめん」
よしよし、と余計な事を言って乾は海堂を抱き込んで横たわる。
ますます腹が立って海堂は抗ってもがきながらも、乾の長い腕に巻き込まれてしまうと。
けだるい身体はその態勢から心地よさしか認識しなくなる。
海堂は上目に乾を睨みあげた。
こういう時はたいしてきつい眼差しにならないことを知っていたけれど。
「息、に…音、混ざってる…」
「んー…?」
「……喉…、痛いんじゃないっすか…」
「俺の声、嗄れてる?」
乾は少しだけ腕をゆるめてきて、海堂を片腕で抱き寄せたまま覗き込むようにしてくる。
そうやって聞いたくせに、海堂が何か答えるより先、乾はまた勝手にひとりごちた。
「海堂の名前、呼びすぎたかな…」
「…っ…………、…ッ」
からかうならまだいい。
真顔で言うからこの男は、と海堂は乾を睨んで唸るような喉声を洩らす。
たぶん顔は赤いだろう。
目元が熱い。
「それで嗄れたかな」
「………んなわけ、あるか…っ」
だいたいさっきの乾の咳だって、笑って噎せたものではない。
明らかに風邪のひき始めだろう。
「熱は」
海堂が右手を持ち上げて乾の額に当てようとすると、それを乾に阻まれる。
海堂の手は乾の手に握りこまれてしまって、しかしそれは乾の抗いではないようだった。
とらえられた手の指先に乾は笑った形の唇を押しあてる。
「今は熱いに決まってるだろ」
触っても意味ないよと再び海堂を抱きしめてくる。
汗の浮かんだ肌と肌とを重ねあっても、何の違和感もない相手だけれど。
乾が風邪っぽいのであれば、いつまでもこうしていていいわけがない。
海堂は腕を突っぱねて乾の胸元を押しやろうとする。
「……どうして嫌がるかな、海堂」
「機嫌悪い顔すんな…」
「無理だな。実際機嫌が悪い」
開き直るな!と海堂が思わず怒鳴ると、ちゅ、とやけにかわいらしい音をたててまた唇にキスされる。
心なしか乾の唇は熱っぽい気がした。
こんな恰好のままでいては、ひき始めどころか本格的に風邪をこじらせかねない。
海堂とて、はっきりいえば乾が心配なだけだ。
問題がないのなら、このままだらだらと怠惰な時間を送る事に別段異論もないのだ。
「確かに俺は今、機嫌は少し悪いけど、海堂が俺を心配してくれるのは嬉しいんだよ」
「……乾先輩…?」
「仕方ない。今日はここで諦めよう」
海堂が寝込んだら大変だと軽い口調の割には真剣な顔で言って。
乾はシャワー浴びて着替えてくる、とベッドから降りた。
「…大丈夫ですか?」
別に乾がふらついている訳ではなかったが、海堂も身を起こす。
「ついていきますか」
「いちゃいちゃしきれず消化不良の先輩を煽る行為は慎んだ方がいいぞ」
「あんたな…」
真面目な顔で茶化した事を言うのは止めてほしい。
海堂ががっくりと脱力すると、乾は先にごめんな、と海堂の頭に手を置いて、シャワーを浴びに部屋を出て行った。
残された海堂はベッドに倒れるように横たわった。
「………………」
乾の息が乱れが、どういう類のものなのか聞き分けられる自分というものがどこか不思議で、海堂は四肢を投げ出して目を閉じる。
乾は認める言葉は口にしなかったが、同時に否定もしなかったので、おそらく風邪の予兆の自覚があるのだろう。
海堂は目は閉じていたが、乾の事を考えるのに忙しくてまどろむ間もないまま時間をやり過ごす。
シャワーを浴びて服を着た乾が戻ってきて、頭を撫でてきたのでゆっくりと目を開ける。
長身の乾が立ったままなので、寝具に横たわった体制で見上げるとひどく距離がある気がする。
海堂は乾を見つめたまま、ベッドを下りた。
「シャワー、借ります」
「ああ。タオルと着替えは出しておいた」
けど、と乾が続けたので、海堂はそっと首を傾げた。
「……けど、何ですか」
「着替え、いらないか? もう今日は帰る?」
泊まりに来いとあれだけ言い続けた相手に言う事かと海堂は呆れた。
一見無表情の乾が、そんな事を言いながらものすごくへこんでいるのが判るから余計だ。
「先輩。具合は」
「具合?…ああ、…海堂の言った通りだな…喉が多少」
「あとは?」
「んー、…それくらい。あと、ちょっと熱っぽいかも?」
「聞くなよ」
「確かに」
のんびりと乾が笑ってみせるから、さほどひどい状況ではないらしい。
海堂は注意深く乾を見つめてそう理解して。
年上だけれど時折とてつもなく自分の事に無頓着になる相手を見上げて言いつける。
「俺、シャワー浴びてくるんで。戻ってきた時に、あんたが薬飲んで、おとなしくベッドの中にいたら泊まっていきます」
「本当?」
「何びっくりしたような顔してんですか」
正直な話、ちょくちょく小さな風邪をひくのは専ら乾だ。
海堂が体調を崩す事はほとんどない。
海堂が呆れた風に言った時にはもう、乾は部屋の中の引出しをあちこちあさりはじめていた。
薬を探しているらしい。
「………………」
海堂は黙って乾に背を向けて、部屋を出る。
シャワーは、少し長めに浴びていようと思う。
あの調子では風邪薬が見つかるまでに少々時間がかかりそうだ。
そして、この後、ベッドに入っておとなしくして待っているであろう乾の想像をすると。
海堂は何だか必死に薬を探していた今の乾の様子と思い重ねてしまって、浴室に向かう途中、滲んできた笑いを奥歯で噛み殺すのに苦労した。
乾は絵とも図形とも言えないものをノートに書き出している。
一筆書きに、しかし適当に書いているわけではないらしい。
海堂は怪訝に思ったり気をとられたりしながら乾の書きあげていくものを見つめていた。
ノート一頁いっぱいにその丸い線上に規則的に突出するまた難解な形をしたもの。
「…うん?」
黙ったまま直視してくる海堂の視線に気づいたらしい乾が、ふと手をとめて顔を上げる。
じっと海堂を見つめ返した後に、自分の手元に目をやって、ああと声を上げ、ごめんと頭を下げてくる。
ひどくすまなさそうに詫びてくる乾だが、彼が突然こんな風に突然忘却の彼方にいってしまったり、何かに没頭し始めてしまうことは、珍しいことではなかった。
それに海堂が慣れてしまうくらいには、こうして一緒にいる時間も多かった。
今も、こうして部室に二人でいる訳なのだが、乾は手元の作業に没頭しているようだったので、海堂は斜向かいの椅子に座って待っていたのだ。
元々は乾が海堂を待っていた。
部活が終わった後に自主トレのメニューの事で話があると乾に言われて、日課の走り込みを終えて海堂が部室に戻って来た時にはもう、部室には乾の姿しかなかった。
何かに集中しているようだったので、海堂は着替えを済ませ、そして乾の書き込む図形を見ていた。
「本当にごめん」
「別にいいですけど…」
特に取り繕いなどした訳でもなくあっさりと海堂は返したのだが、乾はやけに神妙に、ともすれば焦ったように謝り続けてくる。
そういえば、こういう状況もまた常だ。
「だから、別にいいですって…そこまで謝りたおさなくても…」
「いや、勝手言って悪いが、別にいいとお前に言われるのもそれはそれで辛いものが」
「はあ…」
口の重い海堂とは対照的に、弁の立つ乾の言葉は普段であればとても判りやすいものなのに。
こういう時の乾は、どうも海堂にはよく分からない物言いをする。
別にいいと自分が言う事で、何故乾が辛くなるのか海堂にはさっぱり判らなかった。
「先輩…それ、何っすか」
言葉のうまくない海堂にはそれ以上どう言っていいか判らなかったので、ぎこちなく別の問いかけを乾に向ける。
先程からずっと気になってもいた事。
海堂の問いかけに、乾は広げたノートを差し出すようにして、海堂へと近づけた。
「これ?」
頷いた海堂と真向かいの位置になる様に乾は席を横に一つずれて。
紙面にペン先を向ける。
「フラクタルっていう図形。こういう風に…」
丸い線上に突出したものを乾は筆記具で指し示す。
「図形の一部を、拡大して見てみると、そこが図形全体の形になってる」
言われるまま海堂が視線を落とすと、確かに図形はそういう形をしていた。
不規則なようで規則的見えたのはそういう訳だったからだろうか。
「……一部なのに全部っすか…」
「そう。考えながら描くと、結構はまるんだよ。複雑な図形になればなるほどね」
気晴らし、と乾は笑った。
海堂にしてみれば、気晴らしというよりそれでは余計に頭を使いそうだと思う。
「出来ればね、俺も、こういう形になりたいんだけどな」
「………先輩が…っすか?」
「ああ」
薄い笑みはすぐに苦笑いに代わって、乾は小さく嘆息する。
「一見めちゃくちゃなようでも、ある一部分を見た時にそれが全体の中の一部分なんだって、ちゃんと判るような理論だとか予想だとかにしたいんだけどね…」
なかなかねえ、と乾が溜息をついて机に顔を伏せるのを、海堂は不思議な面持ちで見つめた。
珍しい。
こんな風に、泣き言めいたような事を乾が言うのも、それが乾のデータベースであるという事も。
自分などにしていい話なのだろうかと海堂は少しばかり困惑した。
机にぐったりと顔を伏せている乾に、果たしてどう対処すればいいのかと海堂は戸惑って瞬きをするが精一杯だ。
「……極力ね、俺みたいなのは意識して全体を見るようにしないと」
どうしてもデータにだけ固執しがちだからさ、と乾は目線だけ海堂に持ち上げて言った。
「どうもねえ…」
「………………」
「迷ってるとか、揺らいでるって訳じゃないんだが、俺のデータっていうのも…」
何を言い出す気かと海堂は内心で唖然とする。
まさか乾がそんな事を言い出すとは露とて思わず、海堂はもう、瞬きすらしなかった。
海堂とて、人に、迷うなと言えるような立場ではない。
普段は動じる事の殆どない乾でも、迷う事は、それはあるだろうと思う。
そして多少なりとも愚痴を言いたいだけなら、その相手が自分であるという事は、それはそれで決して嫌ではなかったけれど。
「いいじゃないですか。危うくても、固執していても」
「……海堂?」
迷ってもいいが、へこむ事ではないだろう。
海堂はそう思って、きっぱりと言った。
「全部ひっくるめて、結局は全部、あんたにしか出来ない事だろ」
大事な事だと海堂は思って、だからそう告げもした。
乾は顔を上げて、じっと海堂の眼差しを見つめ返してくる。
立ち上げた前髪の部分が乱れていたので、海堂は腕を伸ばし、そっと髪を撫でつける。
珍しく、本当にどことなく頼りない顔をされて、海堂はすぐに手が引けなくなった。
「俺は、まだ、その見方を教えて貰わないと、乾先輩が今見ている物が見えないですけど」
「海堂」
「もしあんたが見えてないものが俺に見えたら、その時は俺が教えるから」
乾が海堂にそうしてくれたようにだ。
「後から見返して、あんたが作った形が違ってたら、その時は書き直せばいい」
途中で投げ出さない限り、修正は後からでも、いくらでも、出来るのだ。
乱れた髪を直すというより、頭を撫でるような仕草になってしまった自分の手を、ぎこちなく海堂は乾の髪から離した。
「先輩、…?」
乾の手に阻まれ、握りこまれた手首でその手は捕まってしまったけれど。
海堂が呼びかけると、乾は左手で海堂の右手首を拘束したまま、空いた手を机について立ち上がって。
上半身を乗り出すようにして、そして。
ふわりとぶつけるようなキスを唇にした。
「な、……」
「ええと…ごめん、」
「……謝りながら笑うなよ…っ」
「うん、ごめんな」
だから!と海堂が続けた言葉は再びのキスにのまれた。
至近距離、浅いキスの後海堂の間近で乾が衒いのない顔で笑う。
「俺みたいな男に海堂をありがとう。…誰に言ったら良いのか判らないけど、そう思ったらさ」
だから。
そんな。
とろけそうな顔で微笑むのは止めて欲しい。
海堂はじわじわと滲んでくる気恥ずかしさに顔を背けるのが精々だった。
「……立ち直り早いっすよ、あんた…」
「いつまでもぐずぐず言ってると海堂に愛想つかされそうだからなぁ…」
「だから、笑うなって言ってる、…!」
はいはい、とすこぶる機嫌のいい乾に、机越しにとうとう抱き込まれてしまって。
海堂はいっそ噛みついてやろうかと思ったけれど、結局その唇は噛み締めて。
乾の固い肩口に押しつけるだけにした。
一筆書きに、しかし適当に書いているわけではないらしい。
海堂は怪訝に思ったり気をとられたりしながら乾の書きあげていくものを見つめていた。
ノート一頁いっぱいにその丸い線上に規則的に突出するまた難解な形をしたもの。
「…うん?」
黙ったまま直視してくる海堂の視線に気づいたらしい乾が、ふと手をとめて顔を上げる。
じっと海堂を見つめ返した後に、自分の手元に目をやって、ああと声を上げ、ごめんと頭を下げてくる。
ひどくすまなさそうに詫びてくる乾だが、彼が突然こんな風に突然忘却の彼方にいってしまったり、何かに没頭し始めてしまうことは、珍しいことではなかった。
それに海堂が慣れてしまうくらいには、こうして一緒にいる時間も多かった。
今も、こうして部室に二人でいる訳なのだが、乾は手元の作業に没頭しているようだったので、海堂は斜向かいの椅子に座って待っていたのだ。
元々は乾が海堂を待っていた。
部活が終わった後に自主トレのメニューの事で話があると乾に言われて、日課の走り込みを終えて海堂が部室に戻って来た時にはもう、部室には乾の姿しかなかった。
何かに集中しているようだったので、海堂は着替えを済ませ、そして乾の書き込む図形を見ていた。
「本当にごめん」
「別にいいですけど…」
特に取り繕いなどした訳でもなくあっさりと海堂は返したのだが、乾はやけに神妙に、ともすれば焦ったように謝り続けてくる。
そういえば、こういう状況もまた常だ。
「だから、別にいいですって…そこまで謝りたおさなくても…」
「いや、勝手言って悪いが、別にいいとお前に言われるのもそれはそれで辛いものが」
「はあ…」
口の重い海堂とは対照的に、弁の立つ乾の言葉は普段であればとても判りやすいものなのに。
こういう時の乾は、どうも海堂にはよく分からない物言いをする。
別にいいと自分が言う事で、何故乾が辛くなるのか海堂にはさっぱり判らなかった。
「先輩…それ、何っすか」
言葉のうまくない海堂にはそれ以上どう言っていいか判らなかったので、ぎこちなく別の問いかけを乾に向ける。
先程からずっと気になってもいた事。
海堂の問いかけに、乾は広げたノートを差し出すようにして、海堂へと近づけた。
「これ?」
頷いた海堂と真向かいの位置になる様に乾は席を横に一つずれて。
紙面にペン先を向ける。
「フラクタルっていう図形。こういう風に…」
丸い線上に突出したものを乾は筆記具で指し示す。
「図形の一部を、拡大して見てみると、そこが図形全体の形になってる」
言われるまま海堂が視線を落とすと、確かに図形はそういう形をしていた。
不規則なようで規則的見えたのはそういう訳だったからだろうか。
「……一部なのに全部っすか…」
「そう。考えながら描くと、結構はまるんだよ。複雑な図形になればなるほどね」
気晴らし、と乾は笑った。
海堂にしてみれば、気晴らしというよりそれでは余計に頭を使いそうだと思う。
「出来ればね、俺も、こういう形になりたいんだけどな」
「………先輩が…っすか?」
「ああ」
薄い笑みはすぐに苦笑いに代わって、乾は小さく嘆息する。
「一見めちゃくちゃなようでも、ある一部分を見た時にそれが全体の中の一部分なんだって、ちゃんと判るような理論だとか予想だとかにしたいんだけどね…」
なかなかねえ、と乾が溜息をついて机に顔を伏せるのを、海堂は不思議な面持ちで見つめた。
珍しい。
こんな風に、泣き言めいたような事を乾が言うのも、それが乾のデータベースであるという事も。
自分などにしていい話なのだろうかと海堂は少しばかり困惑した。
机にぐったりと顔を伏せている乾に、果たしてどう対処すればいいのかと海堂は戸惑って瞬きをするが精一杯だ。
「……極力ね、俺みたいなのは意識して全体を見るようにしないと」
どうしてもデータにだけ固執しがちだからさ、と乾は目線だけ海堂に持ち上げて言った。
「どうもねえ…」
「………………」
「迷ってるとか、揺らいでるって訳じゃないんだが、俺のデータっていうのも…」
何を言い出す気かと海堂は内心で唖然とする。
まさか乾がそんな事を言い出すとは露とて思わず、海堂はもう、瞬きすらしなかった。
海堂とて、人に、迷うなと言えるような立場ではない。
普段は動じる事の殆どない乾でも、迷う事は、それはあるだろうと思う。
そして多少なりとも愚痴を言いたいだけなら、その相手が自分であるという事は、それはそれで決して嫌ではなかったけれど。
「いいじゃないですか。危うくても、固執していても」
「……海堂?」
迷ってもいいが、へこむ事ではないだろう。
海堂はそう思って、きっぱりと言った。
「全部ひっくるめて、結局は全部、あんたにしか出来ない事だろ」
大事な事だと海堂は思って、だからそう告げもした。
乾は顔を上げて、じっと海堂の眼差しを見つめ返してくる。
立ち上げた前髪の部分が乱れていたので、海堂は腕を伸ばし、そっと髪を撫でつける。
珍しく、本当にどことなく頼りない顔をされて、海堂はすぐに手が引けなくなった。
「俺は、まだ、その見方を教えて貰わないと、乾先輩が今見ている物が見えないですけど」
「海堂」
「もしあんたが見えてないものが俺に見えたら、その時は俺が教えるから」
乾が海堂にそうしてくれたようにだ。
「後から見返して、あんたが作った形が違ってたら、その時は書き直せばいい」
途中で投げ出さない限り、修正は後からでも、いくらでも、出来るのだ。
乱れた髪を直すというより、頭を撫でるような仕草になってしまった自分の手を、ぎこちなく海堂は乾の髪から離した。
「先輩、…?」
乾の手に阻まれ、握りこまれた手首でその手は捕まってしまったけれど。
海堂が呼びかけると、乾は左手で海堂の右手首を拘束したまま、空いた手を机について立ち上がって。
上半身を乗り出すようにして、そして。
ふわりとぶつけるようなキスを唇にした。
「な、……」
「ええと…ごめん、」
「……謝りながら笑うなよ…っ」
「うん、ごめんな」
だから!と海堂が続けた言葉は再びのキスにのまれた。
至近距離、浅いキスの後海堂の間近で乾が衒いのない顔で笑う。
「俺みたいな男に海堂をありがとう。…誰に言ったら良いのか判らないけど、そう思ったらさ」
だから。
そんな。
とろけそうな顔で微笑むのは止めて欲しい。
海堂はじわじわと滲んでくる気恥ずかしさに顔を背けるのが精々だった。
「……立ち直り早いっすよ、あんた…」
「いつまでもぐずぐず言ってると海堂に愛想つかされそうだからなぁ…」
「だから、笑うなって言ってる、…!」
はいはい、とすこぶる機嫌のいい乾に、机越しにとうとう抱き込まれてしまって。
海堂はいっそ噛みついてやろうかと思ったけれど、結局その唇は噛み締めて。
乾の固い肩口に押しつけるだけにした。
海堂は少し俯いている。
睫が動いて、視線だけが持ち上がって。
じっと上目に見つめる眼差しに対峙しているのは乾だ。
「駄目」
「………………」
「とにかく、駄目」
ほぼ無表情に答えている乾を横目に、彼らから少し離れた所で含み笑いを堪えきれず吹き出してしまっている菊丸は、隣にいる不二のジャージの裾を引っ張った。
「不二、不二、なー、あれ。あれ見て」
言われる前にすでにその光景には気づいていたらしく、不二は視線を一瞬二人に向けてから、菊丸に微笑んだ。
菊丸は不二の肩に手をかけて、尚身体を震わせて笑い続ける。
「すごいなー。珍しーなー。乾のヤツ」
「それこそ、すごい顔してるけどね」
「心を鬼にしてってやつ?」
「あんなに動揺してる乾は初めて見るね」
「俺もー」
彼らの嬉々とした視線に、普段の乾であればすでに気づいていただろうけれど。
今ばかりは、乾は完全に目の前の相手に粗方の感情も感覚ももっていかれてしまっている。
同級生達の指摘通り、乾は今とても必死だ。
それなのに相手は容赦なかった。
寡黙な海堂は、乾の答えを頭の中で反芻して、尚いろいろ考えた上で、ぽつりと言った。
「………駄目…っすか?」
「う、…」
「どうしても…」
駄目っすか、と海堂が真剣な眼で乾を見て言った。
眼光が鋭く、とかく目つきがきついと言われている海堂だったが、いい加減誰よりも彼を見ている乾の目には、どこかしょんぼりとしている様子もはっきりと感じ取れて。
すんなりと伸びた首筋が僅かに傾けられ、真っ直ぐに見上げてこられるのに乾はとうとうがっくりと肩を落とした。。
「おま、……お前な…それはずるい」
「………ずるい」
「そうだろう? それはずるいだろう。俺の分が悪すぎる」
乾はもう誰の目から見ても必死だ。
一人訳が判っていないのは、当事者の海堂だけだ。
乾にずるいと言われて、ますます真剣な顔であれこれ考え出した海堂の様子は、戸惑いも露で、それでいて一生懸命で。
遠巻きに様子を伺っていた不二は微笑を深め、菊丸は至極羨ましそうな顔をした。
「海堂もなかなか罪作りだね」
「いいなー、乾。いいなー…」
「ものすごく本気でしょう、英二」
「本気も本気! 海堂可愛いなー」
じたばたと動き回る菊丸の肩に、不二が手を置いて、声をひそめて問いかける。
「ね、英二。あれ、どうなると思う?」
「乾が負けて、結局海堂が言ってる通りに、練習メニューを増やす!……不二は?」
「んー、逆?」
「え、何で?」
「乾はベストなメニューを海堂に渡してる。海堂に無理させて負担かけさせるような事はしないでしょ」
「ものっすごい流されかけてるけど?」
「戦ってるねえ…」
面白い、と不二は口元に握った拳を当てて、肩を震わせていた。
「じゃあさじゃあさ、不二、帰りのアイス賭けようぜ」
「いいよー」
そこまで賑やかに話題にされていても尚。
乾は全く不二と菊丸に気づかないままだった。
彼らが言うように、戦いのさなかなのだ。
「乾先輩」
必要があって呼びかける時以外に、海堂が人の名前を口にすることはあまりない。
これだけ面と向かっている体勢で、見据えられ、名前を呼ばれると、正直、理知的な部分がごっそり抜け落ちそうな気分になる。
「海堂…」
お願いします勘弁して下さいと頭を下げたくなりながら乾は海堂の両肩に手を乗せた。
「…乾先輩?」
海堂の肩は手のひらの中におさめてしまうと見目よりかなり華奢だ。
「もう少し我慢して」
海堂に言っているのか自分に言い聞かせているのか判らないなと乾は思ってしまう。
「きちんと、作っていこう」
テニスをする、強くなる為の身体。
それから。
まだ海堂は知らない乾の心情、それを告げる為の過程、告げられても海堂が危ぶんだり混乱したりしないで、それが本当の事なのだと聞けるだけの心と関係を。
無理にするのは乾の本意ではない。
最短で辿りつきたいから、横着も無理もしない。
乾はそう思っている。
「………判りました。すみません。勝手言いました」
「いや、……それは全然。ぐらつく俺が悪い…」
「は?…先輩?」
よくよく考えた上での言葉だったのだろう。
海堂は、気分を害した風でも、自棄気味なようでもなく、真摯に謝ってきた。
それに対してつい乾も本音がもれて、海堂を怪訝にさせる。
「どうか…したんすか…」
不器用ながらも真剣に乾の顔を覗き込んでこようとする海堂のぎこちない気遣いに、乾は撃沈しかけるというものだ。
海堂という存在が可愛くてならない。
自覚したらそれは余計にひどくなった気がしてならない。
死ぬ気で頑張ろう。
思わず本気でそんな事を決意してしまう乾だ。
睫が動いて、視線だけが持ち上がって。
じっと上目に見つめる眼差しに対峙しているのは乾だ。
「駄目」
「………………」
「とにかく、駄目」
ほぼ無表情に答えている乾を横目に、彼らから少し離れた所で含み笑いを堪えきれず吹き出してしまっている菊丸は、隣にいる不二のジャージの裾を引っ張った。
「不二、不二、なー、あれ。あれ見て」
言われる前にすでにその光景には気づいていたらしく、不二は視線を一瞬二人に向けてから、菊丸に微笑んだ。
菊丸は不二の肩に手をかけて、尚身体を震わせて笑い続ける。
「すごいなー。珍しーなー。乾のヤツ」
「それこそ、すごい顔してるけどね」
「心を鬼にしてってやつ?」
「あんなに動揺してる乾は初めて見るね」
「俺もー」
彼らの嬉々とした視線に、普段の乾であればすでに気づいていただろうけれど。
今ばかりは、乾は完全に目の前の相手に粗方の感情も感覚ももっていかれてしまっている。
同級生達の指摘通り、乾は今とても必死だ。
それなのに相手は容赦なかった。
寡黙な海堂は、乾の答えを頭の中で反芻して、尚いろいろ考えた上で、ぽつりと言った。
「………駄目…っすか?」
「う、…」
「どうしても…」
駄目っすか、と海堂が真剣な眼で乾を見て言った。
眼光が鋭く、とかく目つきがきついと言われている海堂だったが、いい加減誰よりも彼を見ている乾の目には、どこかしょんぼりとしている様子もはっきりと感じ取れて。
すんなりと伸びた首筋が僅かに傾けられ、真っ直ぐに見上げてこられるのに乾はとうとうがっくりと肩を落とした。。
「おま、……お前な…それはずるい」
「………ずるい」
「そうだろう? それはずるいだろう。俺の分が悪すぎる」
乾はもう誰の目から見ても必死だ。
一人訳が判っていないのは、当事者の海堂だけだ。
乾にずるいと言われて、ますます真剣な顔であれこれ考え出した海堂の様子は、戸惑いも露で、それでいて一生懸命で。
遠巻きに様子を伺っていた不二は微笑を深め、菊丸は至極羨ましそうな顔をした。
「海堂もなかなか罪作りだね」
「いいなー、乾。いいなー…」
「ものすごく本気でしょう、英二」
「本気も本気! 海堂可愛いなー」
じたばたと動き回る菊丸の肩に、不二が手を置いて、声をひそめて問いかける。
「ね、英二。あれ、どうなると思う?」
「乾が負けて、結局海堂が言ってる通りに、練習メニューを増やす!……不二は?」
「んー、逆?」
「え、何で?」
「乾はベストなメニューを海堂に渡してる。海堂に無理させて負担かけさせるような事はしないでしょ」
「ものっすごい流されかけてるけど?」
「戦ってるねえ…」
面白い、と不二は口元に握った拳を当てて、肩を震わせていた。
「じゃあさじゃあさ、不二、帰りのアイス賭けようぜ」
「いいよー」
そこまで賑やかに話題にされていても尚。
乾は全く不二と菊丸に気づかないままだった。
彼らが言うように、戦いのさなかなのだ。
「乾先輩」
必要があって呼びかける時以外に、海堂が人の名前を口にすることはあまりない。
これだけ面と向かっている体勢で、見据えられ、名前を呼ばれると、正直、理知的な部分がごっそり抜け落ちそうな気分になる。
「海堂…」
お願いします勘弁して下さいと頭を下げたくなりながら乾は海堂の両肩に手を乗せた。
「…乾先輩?」
海堂の肩は手のひらの中におさめてしまうと見目よりかなり華奢だ。
「もう少し我慢して」
海堂に言っているのか自分に言い聞かせているのか判らないなと乾は思ってしまう。
「きちんと、作っていこう」
テニスをする、強くなる為の身体。
それから。
まだ海堂は知らない乾の心情、それを告げる為の過程、告げられても海堂が危ぶんだり混乱したりしないで、それが本当の事なのだと聞けるだけの心と関係を。
無理にするのは乾の本意ではない。
最短で辿りつきたいから、横着も無理もしない。
乾はそう思っている。
「………判りました。すみません。勝手言いました」
「いや、……それは全然。ぐらつく俺が悪い…」
「は?…先輩?」
よくよく考えた上での言葉だったのだろう。
海堂は、気分を害した風でも、自棄気味なようでもなく、真摯に謝ってきた。
それに対してつい乾も本音がもれて、海堂を怪訝にさせる。
「どうか…したんすか…」
不器用ながらも真剣に乾の顔を覗き込んでこようとする海堂のぎこちない気遣いに、乾は撃沈しかけるというものだ。
海堂という存在が可愛くてならない。
自覚したらそれは余計にひどくなった気がしてならない。
死ぬ気で頑張ろう。
思わず本気でそんな事を決意してしまう乾だ。
乾のノートは秘密のノートだが、書き方にいろいろと癖があるので、恐らく他人が見ても理解の難しい代物だ。
特にプレイを見ながらデータを取る時は、紙面にあまり目線を落とさないので、字は歪んだり重なったりして、乾本人ですら時折文面の判別に苦しむ事がある。
「乾先輩」
「なんだい、越前」
データ収集中でも声をかけられれば返す。
涼しい顔で五感をフル稼動させるから、マシンだとかロボット扱いされる事があるのだ。
「海堂先輩って、猫みたいっすね」
「…ああ?」
「乾先輩にしか懐かないんっすか?」
わざわざ越前が声をかけてくるくらいだ。
何の話かと思えばこれかと乾はきりのいいところでデータを取るのを止めた。
珍しい、と口笛が吹かれる。
「越前」
「そんなにっこり笑って怒んないで下さいよ」
おっかないなあと言いながらも笑っている小さな一年は、恐らく先程の乾と海堂の会話を聞いていたのだろう。
会話と言っても、海堂は一言も喋っていない。
彼は寡黙なのだ。
データをとりつつ乾は少し離れたところにいる海堂に気づいて、彼を呼んだ。
海堂、おいで、と手招きすると、海堂は黙って近づいてきた。
今日の海堂の様子を見ていて思いついたトレーニング方法を書き付けた頁をノートから破って、はい、と手渡した。
やってごらんと乾が言うと海堂の両手で受け取って頷いていた。
バンダナ越しに形のいい小さな頭に手を置いて、乾は海堂を見送った、それだけの事なのだが。
それで懐いているなんて言われてしまうのだから、海堂の一匹狼ぶりも相当だ。
しかし乾にしてみれば、ちょっと尋常でなく海堂はかわいいと思う。
とても気に入っている海堂を、意味は違うとしてもやはり気に入っている相手というのはすぐに判る。
例えばこのルーキーだ。
「別に怒っちゃいないよ」
「そうっすか? 牽制されてるっぽいんですけど?」
あきらかにからかう笑みで、この一年は、生意気というよりは豪胆だと乾は思う。
「構いたくなりません? ああいうひと」
「あげないよ」
「とりゃしませんよ」
いらないし、とキャップのつばを少し引き下げ、呆れた風に言ってすぐ。
また目線を上目に上げてくる。
「乾先輩、海堂先輩が懐いてくるように何か仕組んだんですか」
「人聞きの悪いこと言うなぁ越前」
実際そのての問いかけは同級生からも時折向けられる。
乾は涼しい顔であしらいながら、やはりそういう風に見られるのかと内心複雑だ。
「俺も、多分ああいうひと、構うのうまいっすよ?」
猫っぽいから、慣れてるしね。
越前の言い方に、乾は呟くように応えた。
「確かにな。実際海堂も、お前を気にかけてるからな」
お兄ちゃんだからなあと、こればっかりは自分に向けられることのない部分かと嘆息する。
海堂には弟がいる。
それを知った時、なるほどな、と乾は思ったのだ。
雰囲気がきつく、人を寄せ付けないような海堂だが、随分とその内面はやわらかい。
時折見かける光景で、例えば小動物や子供に差し向ける手などは、いつも、ぎこちなくも優しいものだ。
「お兄ちゃん。懐きたそうに見えるぞ?」
「別にそういう訳じゃないですけど」
「でも考えてみたら悪い想像でもないだろう?」
「……やですよ。あんなおっかない兄貴なんか」
「優しいぞ。海堂は」
「………あんた、のろけてんの?」
「そうだね」
乾は機嫌よく笑った。
自分自身の感情には、もう気づいている。
ただどうしようもなく、たったひとりが気にかかるのだ。
越前は呆れたような溜息をついて、あっそ、と言い捨てて退散していった。
まだ、のろけというほど、海堂と深く関わっている訳ではないので。
これ以上話すとなれば、単に乾の片恋話だったのだが、あいにくそれは言葉にされることはなく、乾の胸のうちにあるだけだった。
その頃海堂はといえば、コート裏の木陰で、乾から貰ったノートの紙片に目を通していたのだが。
時折過剰にスキンシップの激しくなる上級生につかまり、かたまっていた。
「かーいどう。何してんのー?」
「……別に、…何も…」
背中から、全身でのしかかられて。
ごろごろと喉を鳴らす猫のようにくっついてくる菊丸に、海堂は動揺する。
普段から、同級生や下級生はおろか、目上の相手でも、海堂にむやみに構ってくるような者はいないのに。
雰囲気がきつい、目つきが悪い、近寄りがたい、怖い。
そんな評価が常なだけに、こんな風にされると海堂はどうしていいのか全く持って判らないのだ。
「海堂は、お日様の匂いがするねえ」
「………は…ぁ…」
「んー。きもちいー」
「あの、…菊丸…先輩…」
癖のある毛先が当たって頬がくすぐったい。
ぐりぐりと額を肩口に押し付けてこられ、その気配は海堂が好きな小動物そのもので、邪険にもし辛かった。
つい目で大石の姿を探してしまいながら海堂が小さく首を竦めると、普段はどちらかといえば幼いような話し方をする菊丸が、海堂の耳元できっぱりと言った。
「なあ、海堂。恋の悩みは俺にしなよね」
「……は…?」
一瞬何を言われたのか判らなかった。
海堂が問い返すと、首に絡まっている菊丸の腕に、ぎゅっと力が入る。
「海堂が頼りにしてるのは乾かもしれないけどさ。そんな相手への恋の悩みとかはさ、俺! な? 俺にしよ?」
「こ、……」
いきなり何を言われたのか。
頭はさっぱり理解しなかったが、それでも恋という言葉と、あの男の名前だけが、海堂の思考にするりと入ってきた。
硬直した海堂の頭を荒っぽく撫でてくる菊丸にされるがまま、揺さぶられて。
「海堂が、頑張り方が判らないかもっていうの、恋の悩みくらいじゃん」
俺だって海堂のこと構いたいー、乾ばっかずるいー、と耳元で泣きまねをされて海堂は一層混乱した。
菊丸の言っている事は判らない事だらけなのに。
ひとつだけ、どうしてそれを知っているんだと取り乱しそうになる出来事が含まれていて。
「ほいっ、海堂」
「……え……」
「ゆびきり!」
強引に小指をとられてゆびきりされて。
じゃあねー!と走り去っていく菊丸を見送ることもできないまま。
海堂は地面に両手をつき、がっくりとうなだれる。
俯かせた顔が赤いことは、誰の目にもふれていない。
特にプレイを見ながらデータを取る時は、紙面にあまり目線を落とさないので、字は歪んだり重なったりして、乾本人ですら時折文面の判別に苦しむ事がある。
「乾先輩」
「なんだい、越前」
データ収集中でも声をかけられれば返す。
涼しい顔で五感をフル稼動させるから、マシンだとかロボット扱いされる事があるのだ。
「海堂先輩って、猫みたいっすね」
「…ああ?」
「乾先輩にしか懐かないんっすか?」
わざわざ越前が声をかけてくるくらいだ。
何の話かと思えばこれかと乾はきりのいいところでデータを取るのを止めた。
珍しい、と口笛が吹かれる。
「越前」
「そんなにっこり笑って怒んないで下さいよ」
おっかないなあと言いながらも笑っている小さな一年は、恐らく先程の乾と海堂の会話を聞いていたのだろう。
会話と言っても、海堂は一言も喋っていない。
彼は寡黙なのだ。
データをとりつつ乾は少し離れたところにいる海堂に気づいて、彼を呼んだ。
海堂、おいで、と手招きすると、海堂は黙って近づいてきた。
今日の海堂の様子を見ていて思いついたトレーニング方法を書き付けた頁をノートから破って、はい、と手渡した。
やってごらんと乾が言うと海堂の両手で受け取って頷いていた。
バンダナ越しに形のいい小さな頭に手を置いて、乾は海堂を見送った、それだけの事なのだが。
それで懐いているなんて言われてしまうのだから、海堂の一匹狼ぶりも相当だ。
しかし乾にしてみれば、ちょっと尋常でなく海堂はかわいいと思う。
とても気に入っている海堂を、意味は違うとしてもやはり気に入っている相手というのはすぐに判る。
例えばこのルーキーだ。
「別に怒っちゃいないよ」
「そうっすか? 牽制されてるっぽいんですけど?」
あきらかにからかう笑みで、この一年は、生意気というよりは豪胆だと乾は思う。
「構いたくなりません? ああいうひと」
「あげないよ」
「とりゃしませんよ」
いらないし、とキャップのつばを少し引き下げ、呆れた風に言ってすぐ。
また目線を上目に上げてくる。
「乾先輩、海堂先輩が懐いてくるように何か仕組んだんですか」
「人聞きの悪いこと言うなぁ越前」
実際そのての問いかけは同級生からも時折向けられる。
乾は涼しい顔であしらいながら、やはりそういう風に見られるのかと内心複雑だ。
「俺も、多分ああいうひと、構うのうまいっすよ?」
猫っぽいから、慣れてるしね。
越前の言い方に、乾は呟くように応えた。
「確かにな。実際海堂も、お前を気にかけてるからな」
お兄ちゃんだからなあと、こればっかりは自分に向けられることのない部分かと嘆息する。
海堂には弟がいる。
それを知った時、なるほどな、と乾は思ったのだ。
雰囲気がきつく、人を寄せ付けないような海堂だが、随分とその内面はやわらかい。
時折見かける光景で、例えば小動物や子供に差し向ける手などは、いつも、ぎこちなくも優しいものだ。
「お兄ちゃん。懐きたそうに見えるぞ?」
「別にそういう訳じゃないですけど」
「でも考えてみたら悪い想像でもないだろう?」
「……やですよ。あんなおっかない兄貴なんか」
「優しいぞ。海堂は」
「………あんた、のろけてんの?」
「そうだね」
乾は機嫌よく笑った。
自分自身の感情には、もう気づいている。
ただどうしようもなく、たったひとりが気にかかるのだ。
越前は呆れたような溜息をついて、あっそ、と言い捨てて退散していった。
まだ、のろけというほど、海堂と深く関わっている訳ではないので。
これ以上話すとなれば、単に乾の片恋話だったのだが、あいにくそれは言葉にされることはなく、乾の胸のうちにあるだけだった。
その頃海堂はといえば、コート裏の木陰で、乾から貰ったノートの紙片に目を通していたのだが。
時折過剰にスキンシップの激しくなる上級生につかまり、かたまっていた。
「かーいどう。何してんのー?」
「……別に、…何も…」
背中から、全身でのしかかられて。
ごろごろと喉を鳴らす猫のようにくっついてくる菊丸に、海堂は動揺する。
普段から、同級生や下級生はおろか、目上の相手でも、海堂にむやみに構ってくるような者はいないのに。
雰囲気がきつい、目つきが悪い、近寄りがたい、怖い。
そんな評価が常なだけに、こんな風にされると海堂はどうしていいのか全く持って判らないのだ。
「海堂は、お日様の匂いがするねえ」
「………は…ぁ…」
「んー。きもちいー」
「あの、…菊丸…先輩…」
癖のある毛先が当たって頬がくすぐったい。
ぐりぐりと額を肩口に押し付けてこられ、その気配は海堂が好きな小動物そのもので、邪険にもし辛かった。
つい目で大石の姿を探してしまいながら海堂が小さく首を竦めると、普段はどちらかといえば幼いような話し方をする菊丸が、海堂の耳元できっぱりと言った。
「なあ、海堂。恋の悩みは俺にしなよね」
「……は…?」
一瞬何を言われたのか判らなかった。
海堂が問い返すと、首に絡まっている菊丸の腕に、ぎゅっと力が入る。
「海堂が頼りにしてるのは乾かもしれないけどさ。そんな相手への恋の悩みとかはさ、俺! な? 俺にしよ?」
「こ、……」
いきなり何を言われたのか。
頭はさっぱり理解しなかったが、それでも恋という言葉と、あの男の名前だけが、海堂の思考にするりと入ってきた。
硬直した海堂の頭を荒っぽく撫でてくる菊丸にされるがまま、揺さぶられて。
「海堂が、頑張り方が判らないかもっていうの、恋の悩みくらいじゃん」
俺だって海堂のこと構いたいー、乾ばっかずるいー、と耳元で泣きまねをされて海堂は一層混乱した。
菊丸の言っている事は判らない事だらけなのに。
ひとつだけ、どうしてそれを知っているんだと取り乱しそうになる出来事が含まれていて。
「ほいっ、海堂」
「……え……」
「ゆびきり!」
強引に小指をとられてゆびきりされて。
じゃあねー!と走り去っていく菊丸を見送ることもできないまま。
海堂は地面に両手をつき、がっくりとうなだれる。
俯かせた顔が赤いことは、誰の目にもふれていない。
気持ちの消し方を、教えて欲しかった。
気持ちの消し方を、教えてくれるだろうか。
気持ちは、彼に向いているものだけれど。
無意識にでも自分が頼ってしまうのは、結局、彼だ。
どこか乗り物酔いに似ていた。
小さな違和感を自覚するなり、たちどころに深みにはまる。
振り切れない。
ロードワーク、日課の走りこみを欠かさない海堂だ。
普段であれば、どうってことのない距離だ。
この程度の走りこみで、疲労する筈がない。
しかし、到着地点である青学のグランドのネット裏で、海堂は前屈みになって手の甲でこめかみを拭った。
たいして汗もかいていないと判っていたが、海堂はそうしながら上体を起こし、頭上の青空に視線を逃がすようにして深く吐息を零す。
「顔色よくないな。海堂」
「………………」
不意に言葉をかけられた。
乾だ。
海堂は雑に首を左右に振った。
「どうした」
「……何でもねー…です」
もう一度首を振ったにも関わらず、いつの間にか海堂の隣に立っていた乾は、海堂の顔を覗き込むように長身を屈めてきた。
どこか具合でも悪いか?と真摯な目に問われる。
人付き合いのうまくない自覚のある海堂にすれば、乾はひどく不思議な存在だった。
用事などなくても相手の方から海堂に話しかけてくる人物など、そうはいない。
乾という男がどれだけ注意深く周囲を見ているか、海堂もよく知っていた。
だから海堂に話しかけてくるのも、別段自分だけが特別という事ではないと海堂も判っているのだが、それにしたって乾のような相手は珍しいのだ。
「海堂」
乾は一見他人に無関心そうだが、実際のところ人に興味がなければデータなど集められないだろうと海堂も気づき始めていた。
乾は思慮深く、同じように情深い。
あからさまに表立つものではないけれど。
今も、海堂がいくら素っ気無く返事をしても、気分を害した風もない。
「………………」
海堂は重い息が詰まってしまったような喉に無意識に手をやった。
あまり人から構われた事のない海堂は、いつも落ち着かない心情で、乾と対峙する。
年上の男は、髪をかきあげた。
乾のこめかみも汗で濡れていた。
白いシャツは鎖骨のぎりぎりのラインだけ晒して、胸元に張り付いている。
「海堂。体調よくない時はちゃんと言って」
「………………」
骨ばった手は、乾の頭から、今度は海堂へと。
そっと近づいてきて。
バンダナ越しに海堂の頭に、ふわりと乗せられる。
気遣わしい眼差しが近くなる。
こんな真似を他人からされたことがなくて海堂は固まった。
「………………」
「ここ最近、いつもそうだと思ってたんだが…」
どこか具合でも?と再び乾に問われて、海堂は黙って首を左右に振るしかない。
そういう心配はいらないのだと、どういう風に言えばいいのか、海堂には判らなかった。
僅かに弾んだ息のまま、頭上の乾の手のひらをどうすることも出来ずに、ただ視線だけを逸らす。
ここ最近といえば、海堂も思っている事がある。
乾も、変だ。
手は、離れない。
「海堂…?」
今目の前にいる乾は困っていた。
そういう顔を隠さない。
どちらかといえば普段はあまり赤裸々に表情を晒すことがないのに、先程からずっと、そんな顔をして海堂の隣にいる。
乾も、変だ。
そう思ったことが口をついて出ていた。
「……先輩も、です」
「………何?」
不思議そうに問いかけられて、海堂は目線を上げた。
「海堂?」
「…先輩も。最近変っすよ」
「変? 俺?」
半分は八つ当たり。
多分それだ。
自分の感情が不安定だから、勝手に乾のせいにもしているのだろうと、海堂自身が思っている。
でももう半分は、言葉の通り、乾も変だと確かに思っている。
彼もまた、どこか自分と似た気配だ。
時に思いつめ、時に気も漫ろになる。
更にそのくせ、構う、みたいな。
まるで、構う、みたいな。
気にかけられる、そういうふるまいに。
乾からのそういう接触に。
海堂はどうしていいのか判らなくなる。
構われる事にも慣れないし、こんな風に一人と向き合う事が、これまで海堂にはなかったからだ。
「ああ…それはな、海堂。お前の」
海堂が思わず言ってしまったのと同様に。
乾もそれと似た言い方で、言った。
「……俺の?」
海堂が、問い返す。
乾は、何だか我に返ったみたいに少しだけ動揺して。
珍しく困ったように言いよどんだ。
「いや、……何でも…」
「………………」
「聞かなかった事に……っていうのは無しかな?」
海堂は黙っているのに、乾はじっと海堂を見据えてきて溜息をつく。
「…無しだな。うん」
「………………」
「ただ、な…」
とにかく乾の言葉はどれもこれも歯切れが悪かった。
それは海堂を苛立たせるというよりは困惑させるものだった。
乾は、何を言いたいのだろう。
何を思っているのだろう。
人に対して、そんな風に思ったのは初めてかもしれないと海堂も戸惑う。
頭に乗せられている乾の手のひらが身じろいで、海堂自身もまた同様に。
「ごめん…」
「………………」
「本気で言っていいのかどうか判らない。ますますお前の具合悪くするかも」
「………………」
「海堂ー……」
泣きつくような情けない小声に、ふと海堂は緊張をゆるめた。
唐突に、乾のその声で気づいたからだ。
戸惑っているのは自分だけではない。
乾もまたそうならば、乾のように人の感情に敏感でない自分は、せめて伝える事があるだろう。
「……乾先輩」
「何?」
気遣わしいように、それでいてどこか勢い込んで乾が促してくる。
海堂は息を吸って、乾の目を見て言った。
「俺は……具合が悪い訳じゃないんで……すみません」
大丈夫です、と告げると。
そう?と少しほっとしたように乾が笑みを見せてくる。
海堂も肩から力が抜けた。
それでまた海堂は自覚する。
近頃自分がかかえている違和感。
それは決して体調不良などではなく。
「緊張…してました」
言葉を捜すようにして、一言ずつ口にする海堂に、乾は複雑そうな顔でその言葉を反復した。
「………緊張…」
「…………っす」
それが一番正しいと海堂は思った。
緊張、するのだ。
乾といると。
「それは……やっぱり、よくない意味で、だよな…?」
ひとりごちる乾の、やけに深刻な様子に首をかしげながら、海堂は言葉を捜す。
「よくない態度して…すみません」
「いや、…原因俺でしょ。海堂のせいじゃない」
そう言って、乾は再び考え込む。
長身の乾の肩が何だかがっくりと落ちているようで、海堂は珍しくも自分の方から乾を覗き込むようにして呼びかける。
「あの…乾…先輩?」
こんなことを言っていいのかどうか判らないが、今海堂が率直に思ったことは。
「………なんか…落ち込んでますか」
「そうだね……うん、…落ち込んでます」
「………………」
「………………」
自分が緊張すると何故乾が落ち込むのか、正直海堂には判らなかった。
海堂が乾に感じる緊張は、多分。
殆ど唯一といってもいい、自分に構ってくる年上の男に、気持ちを引きずられて平静でいられなくなる自分にだ。
馬鹿な事を考えそうで怖い、戒めようと思っている時点ですでにまずい。
「とりあえず、少しずつ」
「……先輩?」
頑張るか、と真剣な顔で呟いた乾に。
海堂の呼びかけは届いていないようだった。
よし、と決意する乾の顔を見上げて、海堂は僅かに目を細めた。
自覚してしまえば、認めてさえしまえば、この緊張めいた違和感は薄れるのだろう。
判ってはいたが、海堂は、まだ。
緊張というバリアの中で、ひっそりと息を潜める事を選んだ。
気持ちの消し方を、教えてくれるだろうか。
気持ちは、彼に向いているものだけれど。
無意識にでも自分が頼ってしまうのは、結局、彼だ。
どこか乗り物酔いに似ていた。
小さな違和感を自覚するなり、たちどころに深みにはまる。
振り切れない。
ロードワーク、日課の走りこみを欠かさない海堂だ。
普段であれば、どうってことのない距離だ。
この程度の走りこみで、疲労する筈がない。
しかし、到着地点である青学のグランドのネット裏で、海堂は前屈みになって手の甲でこめかみを拭った。
たいして汗もかいていないと判っていたが、海堂はそうしながら上体を起こし、頭上の青空に視線を逃がすようにして深く吐息を零す。
「顔色よくないな。海堂」
「………………」
不意に言葉をかけられた。
乾だ。
海堂は雑に首を左右に振った。
「どうした」
「……何でもねー…です」
もう一度首を振ったにも関わらず、いつの間にか海堂の隣に立っていた乾は、海堂の顔を覗き込むように長身を屈めてきた。
どこか具合でも悪いか?と真摯な目に問われる。
人付き合いのうまくない自覚のある海堂にすれば、乾はひどく不思議な存在だった。
用事などなくても相手の方から海堂に話しかけてくる人物など、そうはいない。
乾という男がどれだけ注意深く周囲を見ているか、海堂もよく知っていた。
だから海堂に話しかけてくるのも、別段自分だけが特別という事ではないと海堂も判っているのだが、それにしたって乾のような相手は珍しいのだ。
「海堂」
乾は一見他人に無関心そうだが、実際のところ人に興味がなければデータなど集められないだろうと海堂も気づき始めていた。
乾は思慮深く、同じように情深い。
あからさまに表立つものではないけれど。
今も、海堂がいくら素っ気無く返事をしても、気分を害した風もない。
「………………」
海堂は重い息が詰まってしまったような喉に無意識に手をやった。
あまり人から構われた事のない海堂は、いつも落ち着かない心情で、乾と対峙する。
年上の男は、髪をかきあげた。
乾のこめかみも汗で濡れていた。
白いシャツは鎖骨のぎりぎりのラインだけ晒して、胸元に張り付いている。
「海堂。体調よくない時はちゃんと言って」
「………………」
骨ばった手は、乾の頭から、今度は海堂へと。
そっと近づいてきて。
バンダナ越しに海堂の頭に、ふわりと乗せられる。
気遣わしい眼差しが近くなる。
こんな真似を他人からされたことがなくて海堂は固まった。
「………………」
「ここ最近、いつもそうだと思ってたんだが…」
どこか具合でも?と再び乾に問われて、海堂は黙って首を左右に振るしかない。
そういう心配はいらないのだと、どういう風に言えばいいのか、海堂には判らなかった。
僅かに弾んだ息のまま、頭上の乾の手のひらをどうすることも出来ずに、ただ視線だけを逸らす。
ここ最近といえば、海堂も思っている事がある。
乾も、変だ。
手は、離れない。
「海堂…?」
今目の前にいる乾は困っていた。
そういう顔を隠さない。
どちらかといえば普段はあまり赤裸々に表情を晒すことがないのに、先程からずっと、そんな顔をして海堂の隣にいる。
乾も、変だ。
そう思ったことが口をついて出ていた。
「……先輩も、です」
「………何?」
不思議そうに問いかけられて、海堂は目線を上げた。
「海堂?」
「…先輩も。最近変っすよ」
「変? 俺?」
半分は八つ当たり。
多分それだ。
自分の感情が不安定だから、勝手に乾のせいにもしているのだろうと、海堂自身が思っている。
でももう半分は、言葉の通り、乾も変だと確かに思っている。
彼もまた、どこか自分と似た気配だ。
時に思いつめ、時に気も漫ろになる。
更にそのくせ、構う、みたいな。
まるで、構う、みたいな。
気にかけられる、そういうふるまいに。
乾からのそういう接触に。
海堂はどうしていいのか判らなくなる。
構われる事にも慣れないし、こんな風に一人と向き合う事が、これまで海堂にはなかったからだ。
「ああ…それはな、海堂。お前の」
海堂が思わず言ってしまったのと同様に。
乾もそれと似た言い方で、言った。
「……俺の?」
海堂が、問い返す。
乾は、何だか我に返ったみたいに少しだけ動揺して。
珍しく困ったように言いよどんだ。
「いや、……何でも…」
「………………」
「聞かなかった事に……っていうのは無しかな?」
海堂は黙っているのに、乾はじっと海堂を見据えてきて溜息をつく。
「…無しだな。うん」
「………………」
「ただ、な…」
とにかく乾の言葉はどれもこれも歯切れが悪かった。
それは海堂を苛立たせるというよりは困惑させるものだった。
乾は、何を言いたいのだろう。
何を思っているのだろう。
人に対して、そんな風に思ったのは初めてかもしれないと海堂も戸惑う。
頭に乗せられている乾の手のひらが身じろいで、海堂自身もまた同様に。
「ごめん…」
「………………」
「本気で言っていいのかどうか判らない。ますますお前の具合悪くするかも」
「………………」
「海堂ー……」
泣きつくような情けない小声に、ふと海堂は緊張をゆるめた。
唐突に、乾のその声で気づいたからだ。
戸惑っているのは自分だけではない。
乾もまたそうならば、乾のように人の感情に敏感でない自分は、せめて伝える事があるだろう。
「……乾先輩」
「何?」
気遣わしいように、それでいてどこか勢い込んで乾が促してくる。
海堂は息を吸って、乾の目を見て言った。
「俺は……具合が悪い訳じゃないんで……すみません」
大丈夫です、と告げると。
そう?と少しほっとしたように乾が笑みを見せてくる。
海堂も肩から力が抜けた。
それでまた海堂は自覚する。
近頃自分がかかえている違和感。
それは決して体調不良などではなく。
「緊張…してました」
言葉を捜すようにして、一言ずつ口にする海堂に、乾は複雑そうな顔でその言葉を反復した。
「………緊張…」
「…………っす」
それが一番正しいと海堂は思った。
緊張、するのだ。
乾といると。
「それは……やっぱり、よくない意味で、だよな…?」
ひとりごちる乾の、やけに深刻な様子に首をかしげながら、海堂は言葉を捜す。
「よくない態度して…すみません」
「いや、…原因俺でしょ。海堂のせいじゃない」
そう言って、乾は再び考え込む。
長身の乾の肩が何だかがっくりと落ちているようで、海堂は珍しくも自分の方から乾を覗き込むようにして呼びかける。
「あの…乾…先輩?」
こんなことを言っていいのかどうか判らないが、今海堂が率直に思ったことは。
「………なんか…落ち込んでますか」
「そうだね……うん、…落ち込んでます」
「………………」
「………………」
自分が緊張すると何故乾が落ち込むのか、正直海堂には判らなかった。
海堂が乾に感じる緊張は、多分。
殆ど唯一といってもいい、自分に構ってくる年上の男に、気持ちを引きずられて平静でいられなくなる自分にだ。
馬鹿な事を考えそうで怖い、戒めようと思っている時点ですでにまずい。
「とりあえず、少しずつ」
「……先輩?」
頑張るか、と真剣な顔で呟いた乾に。
海堂の呼びかけは届いていないようだった。
よし、と決意する乾の顔を見上げて、海堂は僅かに目を細めた。
自覚してしまえば、認めてさえしまえば、この緊張めいた違和感は薄れるのだろう。
判ってはいたが、海堂は、まだ。
緊張というバリアの中で、ひっそりと息を潜める事を選んだ。
とりつくしまがない。
乾はそういう怒り方をする。
声を荒げたり、手をあげたり、そういうことは決してしない。
溜息一つ、もしくは重い沈黙で、密やかに深く内に閉じこもって怒るのだ。
「………………」
そんな乾を海堂は放課後の中庭で見つけた。
長い足を、片方を投げ出し、もう片方を膝で曲げて立てて、芝生に座っている。
立てた膝に右腕を乗せ、左手に持っているノートに何事かを書き込んでいる。
その横顔に気づいて、ああ怒ってるな、と海堂は思った。
何にかまでは、判らないけれど。
密やかに、そして完璧に、人を寄せ付けない気配を放っている事だけは確かだ。
目立った訳ではなかった。
寧ろ、乾は普段から彼自身が植物のような雰囲気を持っていて、存在を誇示してくるようなことは決してしない。
今も緑の芝生の中に沈むように溶け込んでいて、ただ密やかに怒っているのだ。
海堂は渡り廊下で足を止めて、暫く乾を見つめ続けた。
もし立場が逆であるならば。
乾は、例え海堂がどれだけ不機嫌で、腹をたてていたとしても、迷わず側に来るだろう。
そうして海堂がどれほど突っぱねようとも、跳ねつけようとも、海堂の苛立ちなど容易く引き出し、浄化してみせるのだろう。
自分には到底出来ないようなことを、乾はいつも容易く海堂にしてみせるのだ。
「………………」
制服の、シャツの釦が一つ多く開いている。
ノートに走らせているペンの動きが早くて荒い。
見えない乾の目元も、とてもぼんやりとした風情でいるとは思えなかった。
乾は大切な時、大事な時、肝心な時は大抵一人になる。
誰も近寄らせず一人でああして、今は怒っている。
海堂は、そんな乾に自分が出来ることが何もないと判るから眉根を寄せる。
恐らくは、このまま気づかぬふりで通り過ぎてしまうことが一番良いのだろう。
お互いにとって。
そうすれば、自分には何も出来ることがないと沈む気持ちをこれ以上突き詰めなくてもいいし、その心中を誰にも気づかせたくない乾の思惑も荒らすことなく済むのだ。
でも、それが、嫌だ、ひどく、嫌だ、そう思って。
海堂は唇を引き結んで立ち止まっていた場所から一歩を踏み出す。
海堂は乾のようには何一つ出来ないだろうけれど。
もしかしたら気づかない振りという事が唯一自分に出来る事なのかもしれないけれど。
海堂は、悔しいと、漠然と、思いながら。
乾の元へと歩く。
判っている、海堂は、乾がするようには、出来ないという事を。
ただ、それでも、気づけなかった自分では、もうないのだから。
海堂は、乾を見ている。
近くにいる時は必ず。
遠くにいても考える。
いつも、いつも、いつもだ。
見過ごせる相手ではなくなった。
何もしないでいい相手ではない。
「………………」
海堂は乾の背後から彼に近づいて行った。
肩幅のある背中は少し丸まっている。
その背中が、海堂の足音に気づいたようで、振り返りざま真っ直ぐに伸びていく。
拒絶の背中、そこを目掛けて海堂は背中合わせに芝生に座った。
ほとんどぶつかるような勢いだったのにも関わらず、揺らぎもせずに海堂を背で受け止めた乾は、己の背中に凭れているのが海堂だと、何故かすぐに気づいたようだった。
言葉も放たなかったし、顔だって見せなかったのにだ。
「…っと、……海堂?」
「………………」
「あれ…?…おい、…海堂?」
振り向いてこないように体重をかけて背中に寄りかかる。
乾は、今しがたまでの気配が嘘のようにほどけて、あれ?と繰り返している。
海堂は応えなかった。
乾は何度も海堂を呼んだ。
「………………」
「かーいどう」
背中をあわせで伝わる振動。
「こっち向かんで下さい」
「え?」
機嫌が悪い事など一目瞭然だった乾だ。
それなのに、乾は。
海堂には、まるで気遣わしいような態度を見せる。
へんな人だと海堂は思って、乾の背中にもたれて目を閉じる。
「ええと……海堂?」
乾はますます弱ったような声になった。
何だか落ち着きなくごそごそと動いている。
海堂は無言のまま乾の背中に寄りかかった。
気遣わしいように惑っている広い背中に、すべて預けて。
「………………」
機嫌の悪い乾を、見て見ぬ振りする事が出来ない。
だからといって、彼のようにやさしい物言いで宥めたりも出来ない。
どうしたのかと、尋ねる事すら出来ない。
気を紛らわせるような雑談をふる事も出来ない。
出来る事なんて何一つない。
「……海堂…どうした?」
「………………」
何度となく振り返ろうとする乾を海堂は無言の圧力でその都度制して、無視をして。
それでも海堂が考えることは乾のことだけだ。
海堂にとって乾は、側にいるだけでいろいろな事を教えてくれる。
海堂がないと決め付けている己の中の迷いや苛立ちを、一度必ず形にしてからどうすればいいのかを示唆してくれる。
今こうして仄かな体温が浸透してくる乾の背中の温かさは、海堂にとっては明確な安心感で。
同じものを何ひとつ返せない自分が歯がゆくなって海堂は口を噤んだ。
「……もしかして海堂、俺に怒ってる?」
「………………」
「心当たりは……あるにはあるが」
どういう意味だ、とふと海堂は怪訝に思った。
いきなり乾がおかしな事を言い出したから、不審に眉間に皺が寄る。
まさか今の、海堂自身が不可解だと思うこの心中まで乾は正しく認識しているということだろうか。
「八つ当たりだけはしないようにと思ってだな……」
「………………」
「しなくても、駄目か?」
「………………」
「そういうの考えただけで腹が立つ?」
海堂は何も喋っていない。
それでどうして会話になっているのか、それは海堂にだって不思議だ。
こういうことは四六時中だ。
部内でも周囲に不思議がられている。
何故相手のことが判るのか。
何故って、そんなの知るか、と海堂は思って一層乾の背中に凭れかかった。
判っているのはいつも乾で、自分は何も出来なくて。
これでは単に自分が拗ねているだけではないだろうかと海堂もうっすら自覚せざるを得ない。
「そうは言ってもな、おい…」
相変わらず乾は淡々と言葉を紡いでくる。
海堂は押し黙る。
「俺だって、お前に関しては狭量すぎやしないかと思うけどな」
「………………」
「……ちょっと嫉妬心募らせただけだぞ…?」
乾が。
また更におかしな事を言い出した。
振り向くなと言ったのは海堂だったが、突拍子のないその乾の言葉に海堂は振り返りそうになってしまった。
何を言い出したのか、この男は。
「海堂が、桃城や越前と、あんなにじゃれてるから」
いつどこで誰がだっ、と海堂は叫びそうになって、そう出来なかったのは。
これまで海堂が一方的に寄りかかっていた乾の背中が、突如海堂へと重みをかけてきたからだ。
乾の方から海堂の背中に凭れてきたのだ。
それも珍しく砕けた、不貞腐れたような口ぶりで、海堂に愚痴を言いながらだ。
珍しい。
本当に、というかむしろ、初めてじゃないかと海堂は面食らってそれを受け止めていた。
「昼休みに、お前達見かけてさ」
「………………」
「口喧嘩だとしても、お前、確実に桃相手だと口数が多いんだよな…」
だからそれはただの口喧嘩、それ以外の何物でもないだろうと海堂は呆れた。
「越前には時々、明らかに、いいお兄ちゃんの目してる。俺には絶対見せない顔だよ」
言いざま溜息までつかれてしまい、またぐっと背中に体重をかけられて。
苦しい、と思いながら。
自分がいいお兄ちゃんでいたいのは葉末に対してだけだと海堂は尚呆れる。
乾の思考回路がさっぱりわからない。
何故そんな事を乾が考えるのかも。
もしそれに、本当に海堂が気づいたとして、何故それで海堂が怒ると思うのかも。
「少し羨ましかったり悔しかったりで、嫉妬しました。悪かった。怒るなよ」
「………………」
「おーいって……海堂ー」
「………………」
「ごめん。ごめんなさい。俺が悪かった。ちゃんと謝るから」
「………………」
乾は、口調より数倍は真面目な様子で海堂に謝っている。
次第に海堂は呆れるのを止めて、純粋に、ただびっくりした。
まさか、そんな事が、本当に原因だと言うのだろうか。
乾のあの不機嫌さの。
「………………」
背中合わせの自分達の会話。
顔はまるで見えないけれど、乾が大人びた表情で拗ねているのはよく判って、海堂は微かに、本当に微かに、唇を笑みの形に引き上げた。
それは意識などせずとも、乾を思うから、ただ零れる笑みだ。
自分が笑っていることに海堂は暫くしてから気づいた。
相変わらず背中側で乾がぶつぶつと拗ねたり謝ったりしている。
「………………」
早く。
そう、早く。
早く乾が気づくといい。
海堂は思った。
「………………」
海堂のささやかなその笑みに。
気づいたら、そうしたらきっと、その時に。
もしかしたら海堂にも、乾に、してやれる事が出来るのに違い。
そう思ったから海堂は、乾を思って笑みの形の唇のまま目を閉じた。
乾はそういう怒り方をする。
声を荒げたり、手をあげたり、そういうことは決してしない。
溜息一つ、もしくは重い沈黙で、密やかに深く内に閉じこもって怒るのだ。
「………………」
そんな乾を海堂は放課後の中庭で見つけた。
長い足を、片方を投げ出し、もう片方を膝で曲げて立てて、芝生に座っている。
立てた膝に右腕を乗せ、左手に持っているノートに何事かを書き込んでいる。
その横顔に気づいて、ああ怒ってるな、と海堂は思った。
何にかまでは、判らないけれど。
密やかに、そして完璧に、人を寄せ付けない気配を放っている事だけは確かだ。
目立った訳ではなかった。
寧ろ、乾は普段から彼自身が植物のような雰囲気を持っていて、存在を誇示してくるようなことは決してしない。
今も緑の芝生の中に沈むように溶け込んでいて、ただ密やかに怒っているのだ。
海堂は渡り廊下で足を止めて、暫く乾を見つめ続けた。
もし立場が逆であるならば。
乾は、例え海堂がどれだけ不機嫌で、腹をたてていたとしても、迷わず側に来るだろう。
そうして海堂がどれほど突っぱねようとも、跳ねつけようとも、海堂の苛立ちなど容易く引き出し、浄化してみせるのだろう。
自分には到底出来ないようなことを、乾はいつも容易く海堂にしてみせるのだ。
「………………」
制服の、シャツの釦が一つ多く開いている。
ノートに走らせているペンの動きが早くて荒い。
見えない乾の目元も、とてもぼんやりとした風情でいるとは思えなかった。
乾は大切な時、大事な時、肝心な時は大抵一人になる。
誰も近寄らせず一人でああして、今は怒っている。
海堂は、そんな乾に自分が出来ることが何もないと判るから眉根を寄せる。
恐らくは、このまま気づかぬふりで通り過ぎてしまうことが一番良いのだろう。
お互いにとって。
そうすれば、自分には何も出来ることがないと沈む気持ちをこれ以上突き詰めなくてもいいし、その心中を誰にも気づかせたくない乾の思惑も荒らすことなく済むのだ。
でも、それが、嫌だ、ひどく、嫌だ、そう思って。
海堂は唇を引き結んで立ち止まっていた場所から一歩を踏み出す。
海堂は乾のようには何一つ出来ないだろうけれど。
もしかしたら気づかない振りという事が唯一自分に出来る事なのかもしれないけれど。
海堂は、悔しいと、漠然と、思いながら。
乾の元へと歩く。
判っている、海堂は、乾がするようには、出来ないという事を。
ただ、それでも、気づけなかった自分では、もうないのだから。
海堂は、乾を見ている。
近くにいる時は必ず。
遠くにいても考える。
いつも、いつも、いつもだ。
見過ごせる相手ではなくなった。
何もしないでいい相手ではない。
「………………」
海堂は乾の背後から彼に近づいて行った。
肩幅のある背中は少し丸まっている。
その背中が、海堂の足音に気づいたようで、振り返りざま真っ直ぐに伸びていく。
拒絶の背中、そこを目掛けて海堂は背中合わせに芝生に座った。
ほとんどぶつかるような勢いだったのにも関わらず、揺らぎもせずに海堂を背で受け止めた乾は、己の背中に凭れているのが海堂だと、何故かすぐに気づいたようだった。
言葉も放たなかったし、顔だって見せなかったのにだ。
「…っと、……海堂?」
「………………」
「あれ…?…おい、…海堂?」
振り向いてこないように体重をかけて背中に寄りかかる。
乾は、今しがたまでの気配が嘘のようにほどけて、あれ?と繰り返している。
海堂は応えなかった。
乾は何度も海堂を呼んだ。
「………………」
「かーいどう」
背中をあわせで伝わる振動。
「こっち向かんで下さい」
「え?」
機嫌が悪い事など一目瞭然だった乾だ。
それなのに、乾は。
海堂には、まるで気遣わしいような態度を見せる。
へんな人だと海堂は思って、乾の背中にもたれて目を閉じる。
「ええと……海堂?」
乾はますます弱ったような声になった。
何だか落ち着きなくごそごそと動いている。
海堂は無言のまま乾の背中に寄りかかった。
気遣わしいように惑っている広い背中に、すべて預けて。
「………………」
機嫌の悪い乾を、見て見ぬ振りする事が出来ない。
だからといって、彼のようにやさしい物言いで宥めたりも出来ない。
どうしたのかと、尋ねる事すら出来ない。
気を紛らわせるような雑談をふる事も出来ない。
出来る事なんて何一つない。
「……海堂…どうした?」
「………………」
何度となく振り返ろうとする乾を海堂は無言の圧力でその都度制して、無視をして。
それでも海堂が考えることは乾のことだけだ。
海堂にとって乾は、側にいるだけでいろいろな事を教えてくれる。
海堂がないと決め付けている己の中の迷いや苛立ちを、一度必ず形にしてからどうすればいいのかを示唆してくれる。
今こうして仄かな体温が浸透してくる乾の背中の温かさは、海堂にとっては明確な安心感で。
同じものを何ひとつ返せない自分が歯がゆくなって海堂は口を噤んだ。
「……もしかして海堂、俺に怒ってる?」
「………………」
「心当たりは……あるにはあるが」
どういう意味だ、とふと海堂は怪訝に思った。
いきなり乾がおかしな事を言い出したから、不審に眉間に皺が寄る。
まさか今の、海堂自身が不可解だと思うこの心中まで乾は正しく認識しているということだろうか。
「八つ当たりだけはしないようにと思ってだな……」
「………………」
「しなくても、駄目か?」
「………………」
「そういうの考えただけで腹が立つ?」
海堂は何も喋っていない。
それでどうして会話になっているのか、それは海堂にだって不思議だ。
こういうことは四六時中だ。
部内でも周囲に不思議がられている。
何故相手のことが判るのか。
何故って、そんなの知るか、と海堂は思って一層乾の背中に凭れかかった。
判っているのはいつも乾で、自分は何も出来なくて。
これでは単に自分が拗ねているだけではないだろうかと海堂もうっすら自覚せざるを得ない。
「そうは言ってもな、おい…」
相変わらず乾は淡々と言葉を紡いでくる。
海堂は押し黙る。
「俺だって、お前に関しては狭量すぎやしないかと思うけどな」
「………………」
「……ちょっと嫉妬心募らせただけだぞ…?」
乾が。
また更におかしな事を言い出した。
振り向くなと言ったのは海堂だったが、突拍子のないその乾の言葉に海堂は振り返りそうになってしまった。
何を言い出したのか、この男は。
「海堂が、桃城や越前と、あんなにじゃれてるから」
いつどこで誰がだっ、と海堂は叫びそうになって、そう出来なかったのは。
これまで海堂が一方的に寄りかかっていた乾の背中が、突如海堂へと重みをかけてきたからだ。
乾の方から海堂の背中に凭れてきたのだ。
それも珍しく砕けた、不貞腐れたような口ぶりで、海堂に愚痴を言いながらだ。
珍しい。
本当に、というかむしろ、初めてじゃないかと海堂は面食らってそれを受け止めていた。
「昼休みに、お前達見かけてさ」
「………………」
「口喧嘩だとしても、お前、確実に桃相手だと口数が多いんだよな…」
だからそれはただの口喧嘩、それ以外の何物でもないだろうと海堂は呆れた。
「越前には時々、明らかに、いいお兄ちゃんの目してる。俺には絶対見せない顔だよ」
言いざま溜息までつかれてしまい、またぐっと背中に体重をかけられて。
苦しい、と思いながら。
自分がいいお兄ちゃんでいたいのは葉末に対してだけだと海堂は尚呆れる。
乾の思考回路がさっぱりわからない。
何故そんな事を乾が考えるのかも。
もしそれに、本当に海堂が気づいたとして、何故それで海堂が怒ると思うのかも。
「少し羨ましかったり悔しかったりで、嫉妬しました。悪かった。怒るなよ」
「………………」
「おーいって……海堂ー」
「………………」
「ごめん。ごめんなさい。俺が悪かった。ちゃんと謝るから」
「………………」
乾は、口調より数倍は真面目な様子で海堂に謝っている。
次第に海堂は呆れるのを止めて、純粋に、ただびっくりした。
まさか、そんな事が、本当に原因だと言うのだろうか。
乾のあの不機嫌さの。
「………………」
背中合わせの自分達の会話。
顔はまるで見えないけれど、乾が大人びた表情で拗ねているのはよく判って、海堂は微かに、本当に微かに、唇を笑みの形に引き上げた。
それは意識などせずとも、乾を思うから、ただ零れる笑みだ。
自分が笑っていることに海堂は暫くしてから気づいた。
相変わらず背中側で乾がぶつぶつと拗ねたり謝ったりしている。
「………………」
早く。
そう、早く。
早く乾が気づくといい。
海堂は思った。
「………………」
海堂のささやかなその笑みに。
気づいたら、そうしたらきっと、その時に。
もしかしたら海堂にも、乾に、してやれる事が出来るのに違い。
そう思ったから海堂は、乾を思って笑みの形の唇のまま目を閉じた。
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