How did you feel at your first kiss?
背が高くて一見風貌は大人びているのに、フリスクはからくて苦手なんだと上級生の輪の中で真顔で手を振っている乾を横目にして海堂は微かに苦笑した。
本当に微かに。
それなのに。
「……笑うなよ。お前」
「………………」
目敏い。
乾が複雑そうな顔をして、即座に海堂の側に近づいてきた。
「あんた……いくつ目があるんですか」
「第三の目? ないよ」
ほら、と前髪をかきあげて乾は海堂に顔を近づける。
いきなり至近距離にきた面立ちに海堂は小さく息をのむ。
緊張ではないが、慣れないものは慣れない。
こんな距離で海堂に近づくのは乾くらいだ。
「………フリスク苦手なら…これ食べますか」
顔を伏せる名目のように、海堂は鞄から小さな丸いアルミ缶を取り出した。
「ジェリービーンズ? 懐かしいな」
NYで売られている大人向けのジェリービーンズは、長いこと、海堂の父親が海外出張の度に母親への土産として買ってきていたものだ。
最近では普通に日本でも買えるようになった。
興味深そうに海堂の手元を覗き込んでくる乾に、海堂は呟いた。
「…手」
「手?」
「手を出してくれなけりゃ中身も出せないだろ…」
「食べさせてくれないの?」
長い人差し指で自身の口元を指し示して微笑む乾に、海堂は微かに赤くなる。
この甘ったれた声が。
声に。
弱いのだ。
「…………………」
どうせ知っててやってんだろうと八つ当たり気味に海堂は乾を睨みすえた。
それをどう思って受け止めたのか、乾は即座にゴメンナサイと頭を下げてきて、自分でジェリービーンズを口に放る。
「……お、…うまいな。これ」
「…………………」
「小さい時に食べたのと全然違う。ジェリービーンズなのにやけに大人っぽい味がする」
シャンパンやワインにも合うように作られているスイーツらしいので、確か味はカクテル風味だった筈だ。
海堂がそう口をひらきかけた所で、乾の顔が再び近づいてきた。
「………海堂みたいだな?」
「…、……な……」
乾はもう一度人差し指で自身の口元を示して囁く。
海堂はもう、今度はもう、微かに赤くどころの話ではなくて。
「……っざけんな…!」
「いや本気」
飄々と言って、乾は海堂の怒声を物ともせずに笑った。
「すこぶる本気」
「…ッ……、……」
何をそんなに誇らしげに言うのかと、海堂は唖然となってしまう。
だからといって乾のように言葉を駆使できない海堂は、結局反論らしい反論も出来ず、ただただ乾を見据えるだけだ。
海堂自身はそうやって、あくまでも睨んでいるつもりなのに。
乾はただただ嬉しげで、微笑むばかりでいる。
本当に微かに。
それなのに。
「……笑うなよ。お前」
「………………」
目敏い。
乾が複雑そうな顔をして、即座に海堂の側に近づいてきた。
「あんた……いくつ目があるんですか」
「第三の目? ないよ」
ほら、と前髪をかきあげて乾は海堂に顔を近づける。
いきなり至近距離にきた面立ちに海堂は小さく息をのむ。
緊張ではないが、慣れないものは慣れない。
こんな距離で海堂に近づくのは乾くらいだ。
「………フリスク苦手なら…これ食べますか」
顔を伏せる名目のように、海堂は鞄から小さな丸いアルミ缶を取り出した。
「ジェリービーンズ? 懐かしいな」
NYで売られている大人向けのジェリービーンズは、長いこと、海堂の父親が海外出張の度に母親への土産として買ってきていたものだ。
最近では普通に日本でも買えるようになった。
興味深そうに海堂の手元を覗き込んでくる乾に、海堂は呟いた。
「…手」
「手?」
「手を出してくれなけりゃ中身も出せないだろ…」
「食べさせてくれないの?」
長い人差し指で自身の口元を指し示して微笑む乾に、海堂は微かに赤くなる。
この甘ったれた声が。
声に。
弱いのだ。
「…………………」
どうせ知っててやってんだろうと八つ当たり気味に海堂は乾を睨みすえた。
それをどう思って受け止めたのか、乾は即座にゴメンナサイと頭を下げてきて、自分でジェリービーンズを口に放る。
「……お、…うまいな。これ」
「…………………」
「小さい時に食べたのと全然違う。ジェリービーンズなのにやけに大人っぽい味がする」
シャンパンやワインにも合うように作られているスイーツらしいので、確か味はカクテル風味だった筈だ。
海堂がそう口をひらきかけた所で、乾の顔が再び近づいてきた。
「………海堂みたいだな?」
「…、……な……」
乾はもう一度人差し指で自身の口元を示して囁く。
海堂はもう、今度はもう、微かに赤くどころの話ではなくて。
「……っざけんな…!」
「いや本気」
飄々と言って、乾は海堂の怒声を物ともせずに笑った。
「すこぶる本気」
「…ッ……、……」
何をそんなに誇らしげに言うのかと、海堂は唖然となってしまう。
だからといって乾のように言葉を駆使できない海堂は、結局反論らしい反論も出来ず、ただただ乾を見据えるだけだ。
海堂自身はそうやって、あくまでも睨んでいるつもりなのに。
乾はただただ嬉しげで、微笑むばかりでいる。
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海堂、と名前を呼ばれた。
テニスコートから海堂はその方角を振り返る。
大きな声を出しても囁いているように聞こえる声音は相変わらずで、フェンスの向こう側にいる乾に海堂は歩み寄っていった。
「……何で入って来ないんですか」
「一応引退した身だし」
「関係ねえ。……んなこと」
憮然と吐き出した海堂に、乾は物柔らかに微笑んだ。
制服姿の乾は、フェンス越し、海堂よりも高い位置から視線を落として、ひっそりと言葉も落とした。
「悪いな。部活中に」
「今終わった所なんで別に…」
「でもコートを出るのはいつも一番最後だからな。海堂は」
知ってるよ、と眼差しで囁かれたようで気恥ずかしい。
海堂の狼狽など笑みで刷くようにいなして、乾は鞄の中から紙袋を取り出し、器用に指先で海堂を手招きした。
「………………」
入ってくればいいものをと海堂は眉根を寄せ、しかし促されるままコートの外に出る。
「はい。これ穂摘さんに渡して」
「………は?」
「お釣りは封筒の中で、ここに一緒に入ってるから」
「……………何っすか。これ」
乾と海堂の母親はひどく気が合うらしく、初めて対面してから以降、時々こういう事がある。
それは別段悪い事ではないのだが、二人が楽しげに話をしている側にいる事は海堂にとっては些か落ち着かなくもあった。
どうにも居たたまれなくなるのだ。
海堂の母親と乾は、海堂を間に挟んで、互いが互いへとひたすらによろしくしあうものなので。
どれだけ重大で大切なものの取り扱いの話をしているのかと聞いてて思ってしまうくらい、二人は海堂に対して真剣だ。
「ピンクガーリック。要はニンニクだ」
海堂に手渡してから、乾は海堂の手の上で紙袋の口をそっと広げた。
中には確かにピンク色のガーリックが幾つも入っている。
「南フランスの粘土質の土壌には、ポリフェノールの一種であるアントシアニンが豊富に含まれているんだ。この成分の為に、こういうピンク色のガーリックが育つ。ちなみに通常のニンニクより甘みがあって、効能は血液の清浄、視力回復、コラーゲンの促進」
「……………何でそれが先輩からうちの親に行くんですか」
乾の淀みない口調を遮る事は容易でない。
けれども海堂が口を開けば、乾はぴたりと口を噤んで、そうして話を遮られても気を悪くした風もなく、海堂に答えてきた。
「この間スーパーで会ったんだ。俺は野菜汁の材料調達。穂摘さんは夕食の買物らしかった。ちなみにメニューはすき焼きの確率93%」
「………先週の土曜日っすね…」
「そうだったな。ああ、そういえば穂摘さんは割り下も手作りなんだな。さすがだな。興味深かったから海堂家のすき焼きのレシピを教わった。覚えておいて損はないだろう。将来的にも」
至って真顔で話し続ける乾に、海堂は小さく溜息をついた。
頭が良すぎるのだろうか。
乾の話はよく脱線する。
「あの……それでどうしてこれが」
「ん?…ああ。その時に話をした訳だ。料理つながりで。最近俺の家の近くのスーパーでピンクガーリックを扱うようになったって言ったら、穂摘さんが買いに行きたいって言うんで、俺がおつかいを頼まれた」
そういう訳で、品物と釣銭だと乾は袋の中身を指差した。
「よろしくな」
はあ、と溜息程度の声で返したものの、乾に手間をかけさせた事は確かなようなので、海堂は頭を下げた。
「……すみません。わざわざ」
「いやいや」
構わないと首を左右に振った後、乾は徐に紙袋の中からピンクガーリックを取り出した。
「羨ましいとは思うけど」
「…は?」
「こいつらは海堂に食われる訳だ」
呟きと共に乾は手にしたピンクガーリックに軽くキスして紙袋に戻した。
笑っている。
海堂は絶句した。
そして紙袋の中身のものと同じ色になった。
「ある意味で間接キスかな」
海堂が睨み上げても構わずに乾は微笑んで。
二人で交わす今日最後の言葉を、そんな風に口にした。
テニスコートから海堂はその方角を振り返る。
大きな声を出しても囁いているように聞こえる声音は相変わらずで、フェンスの向こう側にいる乾に海堂は歩み寄っていった。
「……何で入って来ないんですか」
「一応引退した身だし」
「関係ねえ。……んなこと」
憮然と吐き出した海堂に、乾は物柔らかに微笑んだ。
制服姿の乾は、フェンス越し、海堂よりも高い位置から視線を落として、ひっそりと言葉も落とした。
「悪いな。部活中に」
「今終わった所なんで別に…」
「でもコートを出るのはいつも一番最後だからな。海堂は」
知ってるよ、と眼差しで囁かれたようで気恥ずかしい。
海堂の狼狽など笑みで刷くようにいなして、乾は鞄の中から紙袋を取り出し、器用に指先で海堂を手招きした。
「………………」
入ってくればいいものをと海堂は眉根を寄せ、しかし促されるままコートの外に出る。
「はい。これ穂摘さんに渡して」
「………は?」
「お釣りは封筒の中で、ここに一緒に入ってるから」
「……………何っすか。これ」
乾と海堂の母親はひどく気が合うらしく、初めて対面してから以降、時々こういう事がある。
それは別段悪い事ではないのだが、二人が楽しげに話をしている側にいる事は海堂にとっては些か落ち着かなくもあった。
どうにも居たたまれなくなるのだ。
海堂の母親と乾は、海堂を間に挟んで、互いが互いへとひたすらによろしくしあうものなので。
どれだけ重大で大切なものの取り扱いの話をしているのかと聞いてて思ってしまうくらい、二人は海堂に対して真剣だ。
「ピンクガーリック。要はニンニクだ」
海堂に手渡してから、乾は海堂の手の上で紙袋の口をそっと広げた。
中には確かにピンク色のガーリックが幾つも入っている。
「南フランスの粘土質の土壌には、ポリフェノールの一種であるアントシアニンが豊富に含まれているんだ。この成分の為に、こういうピンク色のガーリックが育つ。ちなみに通常のニンニクより甘みがあって、効能は血液の清浄、視力回復、コラーゲンの促進」
「……………何でそれが先輩からうちの親に行くんですか」
乾の淀みない口調を遮る事は容易でない。
けれども海堂が口を開けば、乾はぴたりと口を噤んで、そうして話を遮られても気を悪くした風もなく、海堂に答えてきた。
「この間スーパーで会ったんだ。俺は野菜汁の材料調達。穂摘さんは夕食の買物らしかった。ちなみにメニューはすき焼きの確率93%」
「………先週の土曜日っすね…」
「そうだったな。ああ、そういえば穂摘さんは割り下も手作りなんだな。さすがだな。興味深かったから海堂家のすき焼きのレシピを教わった。覚えておいて損はないだろう。将来的にも」
至って真顔で話し続ける乾に、海堂は小さく溜息をついた。
頭が良すぎるのだろうか。
乾の話はよく脱線する。
「あの……それでどうしてこれが」
「ん?…ああ。その時に話をした訳だ。料理つながりで。最近俺の家の近くのスーパーでピンクガーリックを扱うようになったって言ったら、穂摘さんが買いに行きたいって言うんで、俺がおつかいを頼まれた」
そういう訳で、品物と釣銭だと乾は袋の中身を指差した。
「よろしくな」
はあ、と溜息程度の声で返したものの、乾に手間をかけさせた事は確かなようなので、海堂は頭を下げた。
「……すみません。わざわざ」
「いやいや」
構わないと首を左右に振った後、乾は徐に紙袋の中からピンクガーリックを取り出した。
「羨ましいとは思うけど」
「…は?」
「こいつらは海堂に食われる訳だ」
呟きと共に乾は手にしたピンクガーリックに軽くキスして紙袋に戻した。
笑っている。
海堂は絶句した。
そして紙袋の中身のものと同じ色になった。
「ある意味で間接キスかな」
海堂が睨み上げても構わずに乾は微笑んで。
二人で交わす今日最後の言葉を、そんな風に口にした。
淀みない口調で語られている言葉は、内容というよりも耳に真っ直ぐに届く音と響きで海堂を寛がせた。
「同じコーヒー豆を使っても挽き方で味が変わるんだよな。いろいろ試してみたらペーパードリップ用よりも豆を荒挽きにして、その分量を多めにして淹れると味がやわらかくなるって判った」
真鍮の細い注ぎ口のケトルを傾け、乾はコーヒーを淹れている。
ペーパーに入れた粉の上に、そっと湯を置くようにして注ぐ一段目。
全体を湿らせ、蒸らしてから、タイミングをはかって二段目。
「味を重ねていくっていう感じが面白い」
そう言って、笑って。
サーバーに抽出されたコーヒーが落ちきらないうちに注ぎ足す三段目。
「注いだ湯を全部としてしまうとコーヒーの味が悪くなるっていうのが不思議だよな」
器用な手の動作が早くなっていく。
四段目、五段目。
湯を注ぎいれ、全てが落ちきらないうちにドリッパーを外し、サーバーからカップに注がれたコーヒーは海堂の前に滑るように給仕される。
「どうぞ。データによると一刻でも早い方が格段にうまい」
節のある、しかし長く真っ直ぐな指を伸ばした手で促され、海堂はカップを手にして口をつける。
乾に、ひどく丁寧に、大切に淹れられた飲み物。
痛いくらいの熱さと香りのいい苦さは、乾に抱き締められた時と同じ感じを海堂に与えた。
「………うまいっすよ」
じっと見つめてくる乾に海堂は小さく言った。
実際に、本当に、コーヒーは美味しかった。
しかし、乾から何らかのリアクションを欲しがられているのがあからさますぎて些か気恥ずかしい。
「それはよかった」
唇をゆっくりと引き上げて微笑む乾の表情も一際優しげで、海堂は相当甘やかされている自分を自覚せざるを得ない。
またひとくち海堂がコーヒーを口に含めば、乾はまた一層の甘やかな目で見つめてくる。
静かで、優しい空気は、こうやって乾がつくってくれるのだ。
「………………」
朝から予想以上の積雪で、自主トレを半ば強引に中止させられ不服でいる態度も露な海堂を、乾は笑って自宅に誘ってきた。
頑張る事と無謀でいる事は別次元だよとやんわり窘めた乾は、そうして海堂の目の前で素早く、そして丁重にコーヒーを淹れて。
今は海堂がそのコーヒーを飲む様を楽しげにテーブルの向かいから見つめてくる。
海堂は海堂で、乾がコーヒーが淹れる様を見ていて、そのコーヒーを口にして、すると何だか拍子抜けするほど気持ちが落ち着いてしまった。
自主トレの出来ない苛立ちもうやむやに立ち消えてしまっていた。
乾は、こういうところがとてつもなくうまいと海堂は思う。
海堂を落ち着かせたり、浮上させたり、後押しや、鞭撻、戒めや、協力。
強引に出る所と、決して踏み込まないでいる所が、いつも絶妙だ。
海堂は、結局自分が乾にどれだけ助力を仰いでいるか、自分自身で図りきれない程だ。
「海堂みたいに、健やかに自立してる子を好きになるとさ」
「………、す………、…」
何の前触れもなしに乾から放たれた言葉に海堂が絶句すると、乾は心底楽しそうに笑みを深めた。
「あれ、海堂がうろたえた」
「………っ……!」
当たり前だと怒鳴ろうとした海堂の頬に乾の手が宛がわれる。
伸ばされてきた乾の手のひらに片頬をすっぽりと覆われ、愛しむようにそっと撫でられて海堂は息を飲んだ。
熱くて、かわいた、大きな手だった。
「俺がしてあげられる事なんて、本当に少ししかないんだよ」
「……に……言って……」
乾には、してもらっている事ばかりで、判ってもらっている事ばかりだ。
海堂の困惑と怒りを、乾は海堂の頬を撫でる指先で消してしまう。
「嫌な事があってもさ」
「………………」
「例えばこうやって熱いコーヒーを飲んで、それで、ほっと落ち着く事が出来る、そういう事を知っている、ちゃんとした子だからな。海堂は。俺としては、せめて人よりうまいコーヒーを淹れられるようにはなりたいと思う訳だ」
「………意味判んねえんですけど」
「海堂がすごく好きだって言ってるんだが?」
「言ってねえだろっ」
海堂は怒鳴って、でも。
乾の手のひらの中の頬を、充分に赤くしている自覚はあった。
「同じコーヒー豆を使っても挽き方で味が変わるんだよな。いろいろ試してみたらペーパードリップ用よりも豆を荒挽きにして、その分量を多めにして淹れると味がやわらかくなるって判った」
真鍮の細い注ぎ口のケトルを傾け、乾はコーヒーを淹れている。
ペーパーに入れた粉の上に、そっと湯を置くようにして注ぐ一段目。
全体を湿らせ、蒸らしてから、タイミングをはかって二段目。
「味を重ねていくっていう感じが面白い」
そう言って、笑って。
サーバーに抽出されたコーヒーが落ちきらないうちに注ぎ足す三段目。
「注いだ湯を全部としてしまうとコーヒーの味が悪くなるっていうのが不思議だよな」
器用な手の動作が早くなっていく。
四段目、五段目。
湯を注ぎいれ、全てが落ちきらないうちにドリッパーを外し、サーバーからカップに注がれたコーヒーは海堂の前に滑るように給仕される。
「どうぞ。データによると一刻でも早い方が格段にうまい」
節のある、しかし長く真っ直ぐな指を伸ばした手で促され、海堂はカップを手にして口をつける。
乾に、ひどく丁寧に、大切に淹れられた飲み物。
痛いくらいの熱さと香りのいい苦さは、乾に抱き締められた時と同じ感じを海堂に与えた。
「………うまいっすよ」
じっと見つめてくる乾に海堂は小さく言った。
実際に、本当に、コーヒーは美味しかった。
しかし、乾から何らかのリアクションを欲しがられているのがあからさますぎて些か気恥ずかしい。
「それはよかった」
唇をゆっくりと引き上げて微笑む乾の表情も一際優しげで、海堂は相当甘やかされている自分を自覚せざるを得ない。
またひとくち海堂がコーヒーを口に含めば、乾はまた一層の甘やかな目で見つめてくる。
静かで、優しい空気は、こうやって乾がつくってくれるのだ。
「………………」
朝から予想以上の積雪で、自主トレを半ば強引に中止させられ不服でいる態度も露な海堂を、乾は笑って自宅に誘ってきた。
頑張る事と無謀でいる事は別次元だよとやんわり窘めた乾は、そうして海堂の目の前で素早く、そして丁重にコーヒーを淹れて。
今は海堂がそのコーヒーを飲む様を楽しげにテーブルの向かいから見つめてくる。
海堂は海堂で、乾がコーヒーが淹れる様を見ていて、そのコーヒーを口にして、すると何だか拍子抜けするほど気持ちが落ち着いてしまった。
自主トレの出来ない苛立ちもうやむやに立ち消えてしまっていた。
乾は、こういうところがとてつもなくうまいと海堂は思う。
海堂を落ち着かせたり、浮上させたり、後押しや、鞭撻、戒めや、協力。
強引に出る所と、決して踏み込まないでいる所が、いつも絶妙だ。
海堂は、結局自分が乾にどれだけ助力を仰いでいるか、自分自身で図りきれない程だ。
「海堂みたいに、健やかに自立してる子を好きになるとさ」
「………、す………、…」
何の前触れもなしに乾から放たれた言葉に海堂が絶句すると、乾は心底楽しそうに笑みを深めた。
「あれ、海堂がうろたえた」
「………っ……!」
当たり前だと怒鳴ろうとした海堂の頬に乾の手が宛がわれる。
伸ばされてきた乾の手のひらに片頬をすっぽりと覆われ、愛しむようにそっと撫でられて海堂は息を飲んだ。
熱くて、かわいた、大きな手だった。
「俺がしてあげられる事なんて、本当に少ししかないんだよ」
「……に……言って……」
乾には、してもらっている事ばかりで、判ってもらっている事ばかりだ。
海堂の困惑と怒りを、乾は海堂の頬を撫でる指先で消してしまう。
「嫌な事があってもさ」
「………………」
「例えばこうやって熱いコーヒーを飲んで、それで、ほっと落ち着く事が出来る、そういう事を知っている、ちゃんとした子だからな。海堂は。俺としては、せめて人よりうまいコーヒーを淹れられるようにはなりたいと思う訳だ」
「………意味判んねえんですけど」
「海堂がすごく好きだって言ってるんだが?」
「言ってねえだろっ」
海堂は怒鳴って、でも。
乾の手のひらの中の頬を、充分に赤くしている自覚はあった。
自分の何かを人に任せる。
海堂にとって、乾は初めてそういう事をした相手だった。
強制でもなんでもなく、自らの意思で。
ましてそれが自分が強くなる為の術であれば尚更の事。
これから先こんな相手は乾の他にいないであろうと海堂は思った。
依存ではないのかと己を危ぶんだ事は幾度かあって、その度に機知に富んだ年上の男は敏感に察し、それは違うよと首を振った。
『依存というなら、それは俺が海堂に、なのかもしれない』
乾はそう言って微かに笑んでいた。
海堂に乾の真意は判らなかったが、執着に似た相手への思い入れが自分だけではないのだという事を知らされ、それは海堂を安堵させもした。
お互いとの距離は、なんて事のない日常の積み重ねで狭まっていく。
理由などなくても、顔を見合わせ、話をする。
和む優しい空気に馴染んで、馴致して、そうしてそんな優しい和やかなものの中から渇望が生まれる事を知る。
さらさらと肌触りのよかった好意が、熱を帯びて苦しい恋情に変化していく時も。
乾がきっと、察してくれたのだろうと海堂は思っていた。
放つ術も心積もりもなかった海堂の感情を、丁寧に酌んで、器用に拾い上げてくれた。
好きだよと囁く事で、飽和して混沌となっていた海堂の気持ちをも名付けてくれて。
でもそれは。
元より乾が抱いていた思いではなかっただろうと海堂は心のどこかで思ってもいた。
乾が誰よりも慎重な男だからこそ、まずは困惑に陥った海堂を救うべく、海堂に手を伸ばし言葉を向けたのだと思っていた。
海堂を抱き締める瞬間。
キスをする寸前。
いつもうまれる僅かな間。
丁寧な抱擁や口付けのさなか、乾が彼自身の感情を探っている気配を海堂は見過ごせない。
無理をさせ、引きずり込んでいるのかと。
そう思ってしまえば最後、海堂はそれまで以上の耐え難さに囚われた。
駄目なら駄目でいっそ早く拒んで欲しいと思う。
それと同時に、突き放されたくないという思いも確かに海堂にはあって、乾の言葉を聞き、キスをされ、抱き締められるたび、ゆっくりと進められていくその日常の繰り返しに、次第どうしようもなくなっていった。
乾に抱き締められて、初めて、ベッドに押さえつけられた。
強い手に組み敷かれ、最後かもしれない確認の予感に海堂は唇を噛む。
乾の手のひらが胸元に宛がわれ、服の上から撫でられる。
普段触れられることのない喉元や首筋に乾の唇が押し当てられて、身体のそこかしこに乾からの接触がある。
乾の所作の全て、強引にも、丁寧にも、なりきれていない。
どっちつかずの微妙な乾の動きに、海堂が感じるものは、最終通告を待つ怯えだけだ。
「……海堂?」
「…………………」
意識するより先に海堂の目じりから落ちていた涙に、嗚咽の声は含まれない。
しかし乾はそれが海堂の瞳から生まれるや否や気づいて、低く重い声で名前を呼んできた。
僅かに顔を横に背けている海堂の、片頬に大きな手が触れてきて。
海堂は眼差しを乾へと向けて言った。
乾の表情は涙で霞んで見え辛かった。
海堂は、呟くように見えない乾に告げた。
「確かめてもいい…」
「…………………」
「でも決めるなら早くしてくれ」
「………決めるって何を」
「だから」
顔をずらして乾を見上げることで、乾の手の親指の付け根に海堂の唇が当たる。
そこに口付けるように海堂は一度目を閉じて、涙を流しきってから睫毛を引き上げる。
「出来ないなら出来ないで、早く」
「そんな選択肢なんかないよ」
「…………………」
「最初からない」
「だ……、…」
何を言ってるんだと乾は言った。
まるで呻くような低い声だった。
「………これだけあせらせておいて」
「乾先輩…?……」
「平気な顔してるなんて思わないでくれ」
初めて乾の前で涙を流した分だろうか。
乾の表情が、海堂にはいつもよりよく見える気がした。
「……平気じゃ…ないんですか」
「ないよ。当然だろ」
海堂の小さな声に、乾は憮然と答える。
怒っているのかもしれない、見慣れぬ乾の表情に海堂は驚いた。
「それから確かめるとか決めるとか、どういう意味でお前は言ってるんだ」
「どういう意味って…それは」
「お前じゃないのか? それは」
確かめているのも。
決めようとしているのも。
「………………」
思いもしなかった疑問を放られ、海堂は愕然とした。
「俺は……今更そんな事しない……」
「俺だってそうだ。最初から全部決まってる。お前が、」
好きで、欲しくて、と抑揚のない声に欲望を詰め込まれ耳元で告げられた。
乾のその焦れたような声に海堂は息をのんだ。
「思いもしてなかったって顔だな」
困った奴だと珍しい乾の苦笑いを耳元に吹き込まれ、海堂はそのまま乾に口付けられた。
舌の絡むキス。
急いたように勢いを増した手。
おり重なった互いの脚、密着する四肢。
塞き止めていたものが放出されていくような勢いに、海堂は僅かだけ狼狽し、混乱した。
涙まで欲しがられるように眦にもキスをされて、気恥ずかしい居たたまれなさを覚えもしたけれど。
お互いが持っていた勘違いを、きちんと訂正しあう余裕はそれぞれにない。
今は、少しでも早く、先に、奥に、続いていきたい。
言葉を惜しむのではなく、言葉を放つ時間を待てない。
思いでのみ動かした身体で、抱きしめあって、今は危うい罠にはまったままで。
このままで。
海堂にとって、乾は初めてそういう事をした相手だった。
強制でもなんでもなく、自らの意思で。
ましてそれが自分が強くなる為の術であれば尚更の事。
これから先こんな相手は乾の他にいないであろうと海堂は思った。
依存ではないのかと己を危ぶんだ事は幾度かあって、その度に機知に富んだ年上の男は敏感に察し、それは違うよと首を振った。
『依存というなら、それは俺が海堂に、なのかもしれない』
乾はそう言って微かに笑んでいた。
海堂に乾の真意は判らなかったが、執着に似た相手への思い入れが自分だけではないのだという事を知らされ、それは海堂を安堵させもした。
お互いとの距離は、なんて事のない日常の積み重ねで狭まっていく。
理由などなくても、顔を見合わせ、話をする。
和む優しい空気に馴染んで、馴致して、そうしてそんな優しい和やかなものの中から渇望が生まれる事を知る。
さらさらと肌触りのよかった好意が、熱を帯びて苦しい恋情に変化していく時も。
乾がきっと、察してくれたのだろうと海堂は思っていた。
放つ術も心積もりもなかった海堂の感情を、丁寧に酌んで、器用に拾い上げてくれた。
好きだよと囁く事で、飽和して混沌となっていた海堂の気持ちをも名付けてくれて。
でもそれは。
元より乾が抱いていた思いではなかっただろうと海堂は心のどこかで思ってもいた。
乾が誰よりも慎重な男だからこそ、まずは困惑に陥った海堂を救うべく、海堂に手を伸ばし言葉を向けたのだと思っていた。
海堂を抱き締める瞬間。
キスをする寸前。
いつもうまれる僅かな間。
丁寧な抱擁や口付けのさなか、乾が彼自身の感情を探っている気配を海堂は見過ごせない。
無理をさせ、引きずり込んでいるのかと。
そう思ってしまえば最後、海堂はそれまで以上の耐え難さに囚われた。
駄目なら駄目でいっそ早く拒んで欲しいと思う。
それと同時に、突き放されたくないという思いも確かに海堂にはあって、乾の言葉を聞き、キスをされ、抱き締められるたび、ゆっくりと進められていくその日常の繰り返しに、次第どうしようもなくなっていった。
乾に抱き締められて、初めて、ベッドに押さえつけられた。
強い手に組み敷かれ、最後かもしれない確認の予感に海堂は唇を噛む。
乾の手のひらが胸元に宛がわれ、服の上から撫でられる。
普段触れられることのない喉元や首筋に乾の唇が押し当てられて、身体のそこかしこに乾からの接触がある。
乾の所作の全て、強引にも、丁寧にも、なりきれていない。
どっちつかずの微妙な乾の動きに、海堂が感じるものは、最終通告を待つ怯えだけだ。
「……海堂?」
「…………………」
意識するより先に海堂の目じりから落ちていた涙に、嗚咽の声は含まれない。
しかし乾はそれが海堂の瞳から生まれるや否や気づいて、低く重い声で名前を呼んできた。
僅かに顔を横に背けている海堂の、片頬に大きな手が触れてきて。
海堂は眼差しを乾へと向けて言った。
乾の表情は涙で霞んで見え辛かった。
海堂は、呟くように見えない乾に告げた。
「確かめてもいい…」
「…………………」
「でも決めるなら早くしてくれ」
「………決めるって何を」
「だから」
顔をずらして乾を見上げることで、乾の手の親指の付け根に海堂の唇が当たる。
そこに口付けるように海堂は一度目を閉じて、涙を流しきってから睫毛を引き上げる。
「出来ないなら出来ないで、早く」
「そんな選択肢なんかないよ」
「…………………」
「最初からない」
「だ……、…」
何を言ってるんだと乾は言った。
まるで呻くような低い声だった。
「………これだけあせらせておいて」
「乾先輩…?……」
「平気な顔してるなんて思わないでくれ」
初めて乾の前で涙を流した分だろうか。
乾の表情が、海堂にはいつもよりよく見える気がした。
「……平気じゃ…ないんですか」
「ないよ。当然だろ」
海堂の小さな声に、乾は憮然と答える。
怒っているのかもしれない、見慣れぬ乾の表情に海堂は驚いた。
「それから確かめるとか決めるとか、どういう意味でお前は言ってるんだ」
「どういう意味って…それは」
「お前じゃないのか? それは」
確かめているのも。
決めようとしているのも。
「………………」
思いもしなかった疑問を放られ、海堂は愕然とした。
「俺は……今更そんな事しない……」
「俺だってそうだ。最初から全部決まってる。お前が、」
好きで、欲しくて、と抑揚のない声に欲望を詰め込まれ耳元で告げられた。
乾のその焦れたような声に海堂は息をのんだ。
「思いもしてなかったって顔だな」
困った奴だと珍しい乾の苦笑いを耳元に吹き込まれ、海堂はそのまま乾に口付けられた。
舌の絡むキス。
急いたように勢いを増した手。
おり重なった互いの脚、密着する四肢。
塞き止めていたものが放出されていくような勢いに、海堂は僅かだけ狼狽し、混乱した。
涙まで欲しがられるように眦にもキスをされて、気恥ずかしい居たたまれなさを覚えもしたけれど。
お互いが持っていた勘違いを、きちんと訂正しあう余裕はそれぞれにない。
今は、少しでも早く、先に、奥に、続いていきたい。
言葉を惜しむのではなく、言葉を放つ時間を待てない。
思いでのみ動かした身体で、抱きしめあって、今は危うい罠にはまったままで。
このままで。
個別の練習メニューについてを語る乾の説明を、逐一の頷きと相槌を入れて生真面目に聞いていた河村は、最後まで聞き終えてから言った。
「うん。よく判ったよ。乾」
「そうか。それはよかった」
ぱたん、と様々なグラフやイラストを書き綴ったデータ帳を閉じて、乾は河村の横にいる不二へと目線を向けた。
「不二は何かあるか?」
「ないよ。僕もよく判った」
微笑む不二には頷きで返して、乾は、これでレギュラー全員終了、と呟いた。
「個人差があるにしても、みんながいるところで一斉に説明した方が、乾は楽なんじゃないのかい?」
朴訥とした河村の物言いには気遣いが滲んでいる。
心配無用、と乾は生真面目に首を左右に振った。
「義務的なトレーニングメニューの話じゃないからな。感性で理解して貰うには、個々のタイプ別によって説明した方が、却って効率がいい」
「……ということはつまり、僕とタカさんの感性が似通ってるから、今こうして一緒に乾の話を聞いたってこと?」
不二の問いかけに乾はその通りと大きく頷いた。
中指で眼鏡のブリッジを押し上げて、低い声は淀みなく言葉を紡ぐ。
「不二とタカさんは視覚派構成タイプだと俺は思ってるんだ」
「……なんだいそれ?」
「先の事を常に考えて、自分のイメージで構成する。こういうタイプには口頭重視よりも視覚で捉えてもらった方が疎通がしやすい」
「…………なんだか……ちょっとした心理学者みたいだな。乾」
思わずといった風に河村が呟くと、不二が小さく笑い声をあげた。
「本当だね。タカさん」
「根拠はあるぞ」
「へえ…どんな?」
二人がかりに興味深く乗り出され、乾の口調が滑らかになる。
「簡単な質問をされた際に、答えを考えている時の視線がどこにあるかで感性タイプが予想出来る。ちなみに何事かを考えている時のお前達の視線は、だいたい左上を見てる」
「そうなのか?」
「……僕も?」
「ほらな」
乾の促しに、あ、と河村と不二の声が重なって、確かに彼らは同じ方向を見上げている。
満足気に乾が唇の端を引き上げると、すごいなあと素直に河村が感嘆した。
「ひょっとして他の皆もそれぞれタイプで分かれてるのか?」
「右上を見る大石は視覚派想起タイプ。今までの記憶の中からイメージを思い浮かべるタイプだな。右下を見る菊丸は聴覚タイプで音に敏感なテンポ重視。左横を見る海堂は身体感覚派。これは触感を優先的に使って物事を認識するタイプだ」
しかし全てが当てはまる訳じゃないけどな、と言って乾が流し見たのは、手塚と桃城と越前だ。
「手塚と越前は考え事をしていても視線が外れない。桃城は曲者。案外とこういう括りに当てはめられない」
どことなく無念そうに見える乾の様子に、河村と不二は顔を見合わせ声にせずに笑った。
「何だ?」
「いや…つくづく乾のデータはすごいと思って。ね、タカさん」
「うん。本当にすごいよ、乾。乾のデータ収集って、もう趣味の域を完全に超えてるよな」
「うん? データは趣味というより俺の生活行動だからな」
「じゃあ…乾の趣味って何?」
テニス以外でだよ、と不二が聞くのに。
乾は顎の辺りに大きな手を宛がって即答した。
「俺の趣味は海堂」
潔くも深みある美声でそんなことを断言されて。
河村と不二の視線は静かに、そしてただちに、左上へと向けられた。
「うん。よく判ったよ。乾」
「そうか。それはよかった」
ぱたん、と様々なグラフやイラストを書き綴ったデータ帳を閉じて、乾は河村の横にいる不二へと目線を向けた。
「不二は何かあるか?」
「ないよ。僕もよく判った」
微笑む不二には頷きで返して、乾は、これでレギュラー全員終了、と呟いた。
「個人差があるにしても、みんながいるところで一斉に説明した方が、乾は楽なんじゃないのかい?」
朴訥とした河村の物言いには気遣いが滲んでいる。
心配無用、と乾は生真面目に首を左右に振った。
「義務的なトレーニングメニューの話じゃないからな。感性で理解して貰うには、個々のタイプ別によって説明した方が、却って効率がいい」
「……ということはつまり、僕とタカさんの感性が似通ってるから、今こうして一緒に乾の話を聞いたってこと?」
不二の問いかけに乾はその通りと大きく頷いた。
中指で眼鏡のブリッジを押し上げて、低い声は淀みなく言葉を紡ぐ。
「不二とタカさんは視覚派構成タイプだと俺は思ってるんだ」
「……なんだいそれ?」
「先の事を常に考えて、自分のイメージで構成する。こういうタイプには口頭重視よりも視覚で捉えてもらった方が疎通がしやすい」
「…………なんだか……ちょっとした心理学者みたいだな。乾」
思わずといった風に河村が呟くと、不二が小さく笑い声をあげた。
「本当だね。タカさん」
「根拠はあるぞ」
「へえ…どんな?」
二人がかりに興味深く乗り出され、乾の口調が滑らかになる。
「簡単な質問をされた際に、答えを考えている時の視線がどこにあるかで感性タイプが予想出来る。ちなみに何事かを考えている時のお前達の視線は、だいたい左上を見てる」
「そうなのか?」
「……僕も?」
「ほらな」
乾の促しに、あ、と河村と不二の声が重なって、確かに彼らは同じ方向を見上げている。
満足気に乾が唇の端を引き上げると、すごいなあと素直に河村が感嘆した。
「ひょっとして他の皆もそれぞれタイプで分かれてるのか?」
「右上を見る大石は視覚派想起タイプ。今までの記憶の中からイメージを思い浮かべるタイプだな。右下を見る菊丸は聴覚タイプで音に敏感なテンポ重視。左横を見る海堂は身体感覚派。これは触感を優先的に使って物事を認識するタイプだ」
しかし全てが当てはまる訳じゃないけどな、と言って乾が流し見たのは、手塚と桃城と越前だ。
「手塚と越前は考え事をしていても視線が外れない。桃城は曲者。案外とこういう括りに当てはめられない」
どことなく無念そうに見える乾の様子に、河村と不二は顔を見合わせ声にせずに笑った。
「何だ?」
「いや…つくづく乾のデータはすごいと思って。ね、タカさん」
「うん。本当にすごいよ、乾。乾のデータ収集って、もう趣味の域を完全に超えてるよな」
「うん? データは趣味というより俺の生活行動だからな」
「じゃあ…乾の趣味って何?」
テニス以外でだよ、と不二が聞くのに。
乾は顎の辺りに大きな手を宛がって即答した。
「俺の趣味は海堂」
潔くも深みある美声でそんなことを断言されて。
河村と不二の視線は静かに、そしてただちに、左上へと向けられた。
集団の中にいても、時々ひとり違う方向を見ている。
誰も見ていない場所を見ている。
だから乾には海堂が寡黙であるにも関わらずひどく際立って目立って見えた。
黙ったままひとり何を見ているのかと海堂の視線を追えば。
例えば雨上がりの歩道の水溜りに映りこんだ真逆の景色であったり、鳴かずに顔だけ出している軒下の燕の巣の中の雛であったり。
つむじ風なのか不思議な螺旋をえがいて舞い上がっている落ち葉であったり、いつもと少し色の違って見える月であったり。
海堂が見つけて、見つめているものは、どれもささやかだけれども印象的なものばかりだった。
海堂が見つめるものは目立たずとも独自だ。
気づく人がいない程度の小さい綺麗な欠片を、きちんと見つめているのが海堂だ。
乾は海堂の視線の先を追うのが癖になった。
海堂が何を見つけて、何を見ているのか。
知りたいと思う欲求が生まれたからだ。
そうして乾は海堂が見ている物を目で追った。
それを見ている海堂の表情も必ず見つめた。
そういう日々の繰り返しだったのだ。
実際口に出して説明してみて改めて。
そういう事だったのだと乾は再認識した。
誰からも気づかれない程度の軽微なものであっても、それらを必ず見つけて見つめている目だから、海堂の双瞳は綺麗なのだ。
「………あれ、海堂。そっち向く?」
乾の部屋、ベッドの上。
まだ時間はある。
先程までひっきりなしに軋んだ音をたてていたベッドは今はこんなにもおとなしい。
海堂を胸元に抱き込んで、回想というほど古い話でもない事を、ぽつぽつ口にしていた乾は、海堂が身じろいで背中を向けて寝返ると、その背に被さるようにまた密着した。
顔を背けられた代わりに乾の眼下に露になった海堂の耳元から首筋が、ふわっと滲むように赤かった。
「海堂?」
「………るせ……」
「からかってないぞ? 俺は」
「……ってる………真面目な顔してるから、余計悪い」
低い声は本当に小さくて、けれども怒っている訳ではない事くらい、乾にもよく判る。
「俺が、そんな風にずっと海堂の事見てたのが居たたまれない?」
少し笑って、乾は海堂の耳元に囁く。
相変わらずその周辺の皮膚は、ほんのりと色味が濃くなっていて綺麗だった。
「海堂が綺麗なものをよく見てて、だからその眼も綺麗なんだって、俺は本気で思ってるから否定されても困るんだが」
「………も、…その声…」
詰るような言葉の割りに言い回しの語尾が弱くて甘い。
海堂は頑なに乾に背を向けたまま、片手を引き上げてきて、自身の耳元に手を当てる。
耳を塞ぐような、めずらしくひどく子供じみた仕草に、乾が煽られないでいられる筈もない。
海堂の指の先と耳の縁とに唇を寄せる。
乾の唇の薄い皮膚を痺れさせる程そこの熱は高かった。
乾が好きだと告げる度、海堂はますます振り返ろうとはしなくなるが、それでも乾は背後から海堂の身体を抱きこむようにして囁き続けた。
「海堂」
いつも真っ直ぐに伸びている背を今は丸めて、ぎこちなく指先を震わせている海堂を抱き寄せていると、乾の思考は未経験の感覚を辿る。
このままやみくもに抱き締めて再び暴いてしまいたいような欲求と、このままゆるく好きだと囁き続けているだけで他には何もいらないと思う気持ちと。
正反対の感情が、不思議と乾の中で吊り合っている。
「………………」
赤い耳元に宛がわれている海堂の手を乾は自身の手で包んだ。
海堂が肩越しに視線を向けてくる。
乱れた前髪の隙間から見えている真っ直ぐな眼差しが今映しているものは。
「………先輩」
「………………」
自分もまた海堂のその眼に映るのだと、今更のように認識しながら。
乾は海堂のこめかみに唇を寄せた。
瞬いた海堂の睫毛の先が、乾の唇に触れる。
そして再び、秘密裡のキス。
宿る思いを隠す必要はない。
誰も見ていない場所を見ている。
だから乾には海堂が寡黙であるにも関わらずひどく際立って目立って見えた。
黙ったままひとり何を見ているのかと海堂の視線を追えば。
例えば雨上がりの歩道の水溜りに映りこんだ真逆の景色であったり、鳴かずに顔だけ出している軒下の燕の巣の中の雛であったり。
つむじ風なのか不思議な螺旋をえがいて舞い上がっている落ち葉であったり、いつもと少し色の違って見える月であったり。
海堂が見つけて、見つめているものは、どれもささやかだけれども印象的なものばかりだった。
海堂が見つめるものは目立たずとも独自だ。
気づく人がいない程度の小さい綺麗な欠片を、きちんと見つめているのが海堂だ。
乾は海堂の視線の先を追うのが癖になった。
海堂が何を見つけて、何を見ているのか。
知りたいと思う欲求が生まれたからだ。
そうして乾は海堂が見ている物を目で追った。
それを見ている海堂の表情も必ず見つめた。
そういう日々の繰り返しだったのだ。
実際口に出して説明してみて改めて。
そういう事だったのだと乾は再認識した。
誰からも気づかれない程度の軽微なものであっても、それらを必ず見つけて見つめている目だから、海堂の双瞳は綺麗なのだ。
「………あれ、海堂。そっち向く?」
乾の部屋、ベッドの上。
まだ時間はある。
先程までひっきりなしに軋んだ音をたてていたベッドは今はこんなにもおとなしい。
海堂を胸元に抱き込んで、回想というほど古い話でもない事を、ぽつぽつ口にしていた乾は、海堂が身じろいで背中を向けて寝返ると、その背に被さるようにまた密着した。
顔を背けられた代わりに乾の眼下に露になった海堂の耳元から首筋が、ふわっと滲むように赤かった。
「海堂?」
「………るせ……」
「からかってないぞ? 俺は」
「……ってる………真面目な顔してるから、余計悪い」
低い声は本当に小さくて、けれども怒っている訳ではない事くらい、乾にもよく判る。
「俺が、そんな風にずっと海堂の事見てたのが居たたまれない?」
少し笑って、乾は海堂の耳元に囁く。
相変わらずその周辺の皮膚は、ほんのりと色味が濃くなっていて綺麗だった。
「海堂が綺麗なものをよく見てて、だからその眼も綺麗なんだって、俺は本気で思ってるから否定されても困るんだが」
「………も、…その声…」
詰るような言葉の割りに言い回しの語尾が弱くて甘い。
海堂は頑なに乾に背を向けたまま、片手を引き上げてきて、自身の耳元に手を当てる。
耳を塞ぐような、めずらしくひどく子供じみた仕草に、乾が煽られないでいられる筈もない。
海堂の指の先と耳の縁とに唇を寄せる。
乾の唇の薄い皮膚を痺れさせる程そこの熱は高かった。
乾が好きだと告げる度、海堂はますます振り返ろうとはしなくなるが、それでも乾は背後から海堂の身体を抱きこむようにして囁き続けた。
「海堂」
いつも真っ直ぐに伸びている背を今は丸めて、ぎこちなく指先を震わせている海堂を抱き寄せていると、乾の思考は未経験の感覚を辿る。
このままやみくもに抱き締めて再び暴いてしまいたいような欲求と、このままゆるく好きだと囁き続けているだけで他には何もいらないと思う気持ちと。
正反対の感情が、不思議と乾の中で吊り合っている。
「………………」
赤い耳元に宛がわれている海堂の手を乾は自身の手で包んだ。
海堂が肩越しに視線を向けてくる。
乱れた前髪の隙間から見えている真っ直ぐな眼差しが今映しているものは。
「………先輩」
「………………」
自分もまた海堂のその眼に映るのだと、今更のように認識しながら。
乾は海堂のこめかみに唇を寄せた。
瞬いた海堂の睫毛の先が、乾の唇に触れる。
そして再び、秘密裡のキス。
宿る思いを隠す必要はない。
越前に奇妙な言葉を放られた。
部活の合間の、僅かな休憩時間のことだ。
「乾先輩って、海堂先輩いないと、もう駄目なんじゃないっスか」
「……越前」
「おっかないなあ」
喜ぶ所じゃないんですかと不敵に笑う越前を、海堂は何の加減もなく睨み据えた。
彼がどういう心積もりでそんな事を言い出したのか海堂には判らなかったが、とにかくこの一学年下の後輩は、海堂が友好的な態度をとれないのを承知の上で、毎日何かしら海堂に話しかけてくる。
今も海堂が幾ら目つきをきつくしてみせた所で、まるで平然とした様子で。
それどころかどこか海堂の反応を探るような笑みを浮かべている。
「……何言ってんだお前は」
「別にからかってんじゃないですよ。海堂先輩」
だって乾先輩が、と越前が言いかけたところで。
当事者の乾が現れた。
「越前もそう思うか」
馴染みのデータ帳を片手に広げ近づいてきた乾は、淡々と海堂と越前の話に加わってくる。
「でも海堂先輩は、そうは思ってないみたいっスね。乾先輩」
「………なに訳わかんねえ話、勝手に話すすめてんですか」
それもいったい何の話なんだと、海堂がきつく眼差しを引き絞る。
「馬鹿なこと言ってんじゃねえ」
最初に越前にそう吐き捨てて、それから海堂は更に目つきをきつくして乾に向き直った。
「あんたもだ。何ふざけて話にのっかってんですか」
「ふざけてないよ? 海堂」
「俺も馬鹿なことなんか言ってませんけど? 海堂先輩」
「………………」
三十三センチの身長差の二人が団結するのに呆れ果て、元々異なる方法ではあるが互いに弁の立つ二人に海堂が口頭で適う訳もない。
海堂は投げやりに嘆息して、さっさとその場から立ち去ろうとした。
「ああ、待て待て海堂」
「………………」
「待ってくれって」
どこまでが本気で、どこまでが冗談なのか。
乾は彼特有の、のんびりとした言い回しで海堂の後を追いかけてきた。
「今日部活の前に、越前に簡単な心理テストをしたんだよ。で、まあその話の流れで、ああいった事を海堂に言った訳なんだが。越前は」
するりと。
乾の手に手首を包まれた。
捉まれたのではなく、あくまで包まれた。
「………………」
海堂は胡散臭い思いを抱えつつも、それで足を止めた。
振り払いづらい、極めて軽い接触の仕方だ。
乾がよく海堂にするやり方だ。
「なあ、海堂。何でもいいから四字熟語を三つ言ってみて」
「………………」
「越前にした心理テストだよ。勿論越前の答えも俺の答えも後でちゃんと教えるから。三つ、言ってみて」
乾の言動が時にひどく突拍子もないということは海堂自身熟知している。
そして結局は、海堂は、そんな乾のペースにのまれてしまうという事も。
「……清廉潔白」
「うん。次は?」
「………一蓮托生」
「最後」
「縦横無尽」
なるほど、と乾はあながちポーズだけではなく生真面目に頷いてみせた。
「海堂らしいな。実に」
「………………」
そんな相槌を入れた乾を海堂が眉根を顰めて見ていると。
すぐにその心理テストとやらの回答が海堂に与えられてきた。
「最初の四字熟語は、その人の人生観」
「………あ?…」
「海堂は清廉潔白。……いかにも海堂らしいだろ?」
真っ向からそんな事を言われても海堂には返事の仕様がない。
「ちなみに俺は、紆余曲折。事情が込み合ってややこしい人生を考えているらしいな。越前は和洋折衷。……食事の事かテニスの事か」
「………………」
二番目はその人の恋愛観、と乾は続けた。
「海堂は一蓮托生。俺はここでも心配事が多いらしくて、内憂外患。ちなみに越前は満身創痍だ。どういう恋愛観なんだか…」
軽口で話をしながら、そんな事までも、乾はデータ帳に書き付けていく。
「最後は、死ぬ直前にその人の人生を振り返った感想だ」
「……………あんた何て言ったんですか」
「以心伝心。………で、まあ最後にそんな事を考えるとしたら、以心伝心の相手は海堂だろうなあ、と…」
「………………」
「他の二つに関してもそうだけど。まあとにかくそういうのに海堂をこじつけて、あれこれ考えてた俺の顔を越前は見てた訳だから。そういう経緯があったから、さっきの話になったんじゃないのかな」
例えそうだとしても。
海堂がいないと乾はもう駄目だなんて事は、絶対にないと海堂は思っているのだけれど。
海堂は、自分が答えた言葉を思い返す。
縦横無尽。
自由自在、思う存分。
最後の時にそう思う事が出来たとしたら、海堂にそういう全てのきっかけを与えてくれたのは恐らく乾だろう。
漠然とながら、はっきりと。
海堂にはそう思えた。
それから、一蓮托生なんていう言葉が今更ながら気恥ずかしく、海堂はぎこちなく話をかえた。
「………最後のは…越前は何て言ったんですか」
「ん?……ああ、越前ね。聞いたら腹立つぞ」
そう言いながらも、乾がどことなく楽しげなように海堂の目には見えていた。
乾はデータ帳で口元を隠すようにしながら、海堂に、そっと耳打ちしてくる。
「連戦連勝、とのことだ」
「……生意気言いやがる」
「全くだ」
乾が笑って、海堂の背中を軽く叩く。
「実際あいつは言うんだろうがな。……さて。内憂外患な俺と、一蓮托生な海堂は、休憩時間終了でダブルスの練習試合だ」
「……っす」
行こう、と乾に促されて。
海堂は、ほんの少し、目を伏せて頷いた。
未来の話を当然のようにする微かな気恥ずかしさや、結局そんな未来もありそうだと、あっさり受け入れてしまえる自分が海堂には不思議だった。
そしてそれで気づいた事があった。
海堂は、乾がいないと駄目なのではなくて、乾でなければ駄目なのだろうと。
自分を省みて思い知る。
そうして、ゆくゆくは乾も、海堂の事をそんな風に思えるように。
今は同じコートで、出来る限り負けない事、少しでもたくさん勝つ事。
そう決めて、そう定めて、海堂は乾と二人でコートに向かうのだった。
部活の合間の、僅かな休憩時間のことだ。
「乾先輩って、海堂先輩いないと、もう駄目なんじゃないっスか」
「……越前」
「おっかないなあ」
喜ぶ所じゃないんですかと不敵に笑う越前を、海堂は何の加減もなく睨み据えた。
彼がどういう心積もりでそんな事を言い出したのか海堂には判らなかったが、とにかくこの一学年下の後輩は、海堂が友好的な態度をとれないのを承知の上で、毎日何かしら海堂に話しかけてくる。
今も海堂が幾ら目つきをきつくしてみせた所で、まるで平然とした様子で。
それどころかどこか海堂の反応を探るような笑みを浮かべている。
「……何言ってんだお前は」
「別にからかってんじゃないですよ。海堂先輩」
だって乾先輩が、と越前が言いかけたところで。
当事者の乾が現れた。
「越前もそう思うか」
馴染みのデータ帳を片手に広げ近づいてきた乾は、淡々と海堂と越前の話に加わってくる。
「でも海堂先輩は、そうは思ってないみたいっスね。乾先輩」
「………なに訳わかんねえ話、勝手に話すすめてんですか」
それもいったい何の話なんだと、海堂がきつく眼差しを引き絞る。
「馬鹿なこと言ってんじゃねえ」
最初に越前にそう吐き捨てて、それから海堂は更に目つきをきつくして乾に向き直った。
「あんたもだ。何ふざけて話にのっかってんですか」
「ふざけてないよ? 海堂」
「俺も馬鹿なことなんか言ってませんけど? 海堂先輩」
「………………」
三十三センチの身長差の二人が団結するのに呆れ果て、元々異なる方法ではあるが互いに弁の立つ二人に海堂が口頭で適う訳もない。
海堂は投げやりに嘆息して、さっさとその場から立ち去ろうとした。
「ああ、待て待て海堂」
「………………」
「待ってくれって」
どこまでが本気で、どこまでが冗談なのか。
乾は彼特有の、のんびりとした言い回しで海堂の後を追いかけてきた。
「今日部活の前に、越前に簡単な心理テストをしたんだよ。で、まあその話の流れで、ああいった事を海堂に言った訳なんだが。越前は」
するりと。
乾の手に手首を包まれた。
捉まれたのではなく、あくまで包まれた。
「………………」
海堂は胡散臭い思いを抱えつつも、それで足を止めた。
振り払いづらい、極めて軽い接触の仕方だ。
乾がよく海堂にするやり方だ。
「なあ、海堂。何でもいいから四字熟語を三つ言ってみて」
「………………」
「越前にした心理テストだよ。勿論越前の答えも俺の答えも後でちゃんと教えるから。三つ、言ってみて」
乾の言動が時にひどく突拍子もないということは海堂自身熟知している。
そして結局は、海堂は、そんな乾のペースにのまれてしまうという事も。
「……清廉潔白」
「うん。次は?」
「………一蓮托生」
「最後」
「縦横無尽」
なるほど、と乾はあながちポーズだけではなく生真面目に頷いてみせた。
「海堂らしいな。実に」
「………………」
そんな相槌を入れた乾を海堂が眉根を顰めて見ていると。
すぐにその心理テストとやらの回答が海堂に与えられてきた。
「最初の四字熟語は、その人の人生観」
「………あ?…」
「海堂は清廉潔白。……いかにも海堂らしいだろ?」
真っ向からそんな事を言われても海堂には返事の仕様がない。
「ちなみに俺は、紆余曲折。事情が込み合ってややこしい人生を考えているらしいな。越前は和洋折衷。……食事の事かテニスの事か」
「………………」
二番目はその人の恋愛観、と乾は続けた。
「海堂は一蓮托生。俺はここでも心配事が多いらしくて、内憂外患。ちなみに越前は満身創痍だ。どういう恋愛観なんだか…」
軽口で話をしながら、そんな事までも、乾はデータ帳に書き付けていく。
「最後は、死ぬ直前にその人の人生を振り返った感想だ」
「……………あんた何て言ったんですか」
「以心伝心。………で、まあ最後にそんな事を考えるとしたら、以心伝心の相手は海堂だろうなあ、と…」
「………………」
「他の二つに関してもそうだけど。まあとにかくそういうのに海堂をこじつけて、あれこれ考えてた俺の顔を越前は見てた訳だから。そういう経緯があったから、さっきの話になったんじゃないのかな」
例えそうだとしても。
海堂がいないと乾はもう駄目だなんて事は、絶対にないと海堂は思っているのだけれど。
海堂は、自分が答えた言葉を思い返す。
縦横無尽。
自由自在、思う存分。
最後の時にそう思う事が出来たとしたら、海堂にそういう全てのきっかけを与えてくれたのは恐らく乾だろう。
漠然とながら、はっきりと。
海堂にはそう思えた。
それから、一蓮托生なんていう言葉が今更ながら気恥ずかしく、海堂はぎこちなく話をかえた。
「………最後のは…越前は何て言ったんですか」
「ん?……ああ、越前ね。聞いたら腹立つぞ」
そう言いながらも、乾がどことなく楽しげなように海堂の目には見えていた。
乾はデータ帳で口元を隠すようにしながら、海堂に、そっと耳打ちしてくる。
「連戦連勝、とのことだ」
「……生意気言いやがる」
「全くだ」
乾が笑って、海堂の背中を軽く叩く。
「実際あいつは言うんだろうがな。……さて。内憂外患な俺と、一蓮托生な海堂は、休憩時間終了でダブルスの練習試合だ」
「……っす」
行こう、と乾に促されて。
海堂は、ほんの少し、目を伏せて頷いた。
未来の話を当然のようにする微かな気恥ずかしさや、結局そんな未来もありそうだと、あっさり受け入れてしまえる自分が海堂には不思議だった。
そしてそれで気づいた事があった。
海堂は、乾がいないと駄目なのではなくて、乾でなければ駄目なのだろうと。
自分を省みて思い知る。
そうして、ゆくゆくは乾も、海堂の事をそんな風に思えるように。
今は同じコートで、出来る限り負けない事、少しでもたくさん勝つ事。
そう決めて、そう定めて、海堂は乾と二人でコートに向かうのだった。
あやうく足先で蹴り出しかけた小さなボトルに寸でで気づき、海堂は身を屈めて手を伸ばす。
手にしてみれば部室に落ちていたそれが誰の物なのかを海堂は知っていた。
海堂が視線を向けた先にいる男の物だ。
「…………………」
部室内に置いてあるプラスチックベンチに腰掛けている乾は、組んだ足の腿の上に乗せたノートに何事かを書きつけながら、近くにいる数人と雑談を交わし、別方向からの質問に答え、手と口がまるで止まらず全くばらばらに動いているような印象だ。
海堂は瞬時躊躇った。
これでまた海堂からも乾に話しかけるというのは気が引けた。
それで、別段話しかける必要もないかと思い、海堂は黙ってその容器を乾の側に置いて行こうとしたのだが、乾に近づいて行くなりいきなり。
「やあ、海堂。お疲れ」
「…………っす…」
乾がノートから顔を上げて声をかけてきたので。
黙っている訳にもいかずに。
海堂は目礼と共に小さく声を出す。
上級生同士の話に割って入ってしまったようではないかと決まり悪くもなって、ぶっきらぼうに手にしていた小さな容器を乾に差し出した。
「………これ」
「ああ、俺のだね。ありがとう海堂。どこかに落ちてた?」
「入口んとこに」
「悪い。躓いた?」
「………んな真似しねえよ…」
乾がノートをとらない。
それまで続けていた三年生での会話を中断させたまま話しかけてくる。
顔を上げて、海堂の目を見てくる。
海堂は何だか身動きがとれなくなってしまった。
だいたい海堂が手渡そうとしている容器を、乾は一向に受け取る気配がない。
「あの…乾先輩」
「ちょうど使おうと思ってた所なんだ」
だったら尚のこと早く受け取ってくれと思って。
海堂は手を乾へと差し向けたのだが。
「海堂やってくれない?」
「…………あ?」
「だからそれ。目薬」
海堂が拾ったものは乾の目薬だった。
その目薬を乾の目線で指し示されて海堂は面食らった。
「………何で俺が」
「してほしいから俺が」
「………………」
「嫌か」
「…………嫌かって」
せめてまだ、笑うなり何なりしてからかっている風情ならばまだしも。
何でそんなに真顔なんだと海堂は戸惑った。
極普通のことを、極めて自然に頼まれているようではないかと思わされる乾の態度に面食らった海堂は。
乾の真意も酌めないまま、同意する事になってしまっていた。
「別に……いいですけど」
「助かる」
じゃ、と言って乾は上を向いた。
「………………」
海堂は眉根を寄せたまま近づいて行って、乾が自分で眼鏡を外そうともしないのに嘆息して目薬のキャップを開ける。
「……眼鏡くらい外して下さい」
「はいはい」
「………なに笑ってんですか」
「え? あ、ほら、外したぞ海堂」
「なにを威張ってんだ……訳わかんね……」
ひとりごちた海堂は渋々乾の正面に立ち、普段とは逆の角度で乾の事を見下ろした。
乾は海堂が見えているのかいないのか、瞬きする事もなく、裸眼を晒している。
「………………」
海堂は左手の指先をそっと乾の頬骨に沿え、乾の右目、そして左目へと点眼する。
普段目にする事のない乾の眼球の白黒の対比はくっきりと強い。
目薬を一滴ずつ落とした刹那、濃い睫毛が微かに動いた。
それも何もかもが一瞬の事だ。
「終わったっすよ。先輩」
強い吸引力に縛られでもしたかのように、海堂の眼差しは暫く乾の双瞳から外せなくなった。
じっと見下ろしたまま海堂がそう告げると、乾が瞼を下ろして。
閉ざされた眼に漸く海堂は身じろげた。
ゆっくりと乾から一歩後退りすれば乾の両眼もそれと同じスピードで見開かれていく。
「うん。一際よく海堂のことが見える」
そう言って乾は、唇の端をゆっくりと引き上げて笑った。
「………なに言ってんですか…」
「ありがとうな、海堂。お前目薬さすのうまいな。今度から海堂にしてもらおうかな」
「あのな……」
「もしくはお返しに俺がさしてやろうか?」
こっちおいでと乾にベンチを叩かれて海堂は呆れ顔で眉根を寄せたのだが、練習中に気づいた事があるからおいでと繰り返されては従わない訳にいかなくなった。
乾の隣に腰掛ける。
ずっと手に持っていたままの目薬を改めて差し出せば、今度は乾もそれを受け取った。
容器を挟んで手と手が重なった時に初めて。
海堂は目の前、部室の中で。
青学テニス部の面々が、顔を背けたり、片手で顔を覆ったり、俯いて頭に手をやったりしているのに気づいた。
「……乾先輩」
「なんだい海堂」
声には出さずにその不可思議な仲間のリアクションの意味合いを乾へ尋ねた海堂に返されたのは、いっそ暢気とも言えるような乾のおっとりとした笑み交じりの応えだった。
「うーん。なんだろうね。あいつら」
飄々とした物言いで、疑問に疑問で返された海堂はおもしろくなさそうに乾を一瞬睨んだのだが、乾が部活中に気づいたという海堂のフォームの話を始めれば。
それなりに長いベンチの、ものすごく片側。
腕と腕の重なる距離で海堂も乾のノートを覗き込む。
点眼液が一液落とされクリアになる視界のように。
彼らのふるまいは、時にどれだけ微かなものであっても周囲にさざめく甘い余波となる。
手にしてみれば部室に落ちていたそれが誰の物なのかを海堂は知っていた。
海堂が視線を向けた先にいる男の物だ。
「…………………」
部室内に置いてあるプラスチックベンチに腰掛けている乾は、組んだ足の腿の上に乗せたノートに何事かを書きつけながら、近くにいる数人と雑談を交わし、別方向からの質問に答え、手と口がまるで止まらず全くばらばらに動いているような印象だ。
海堂は瞬時躊躇った。
これでまた海堂からも乾に話しかけるというのは気が引けた。
それで、別段話しかける必要もないかと思い、海堂は黙ってその容器を乾の側に置いて行こうとしたのだが、乾に近づいて行くなりいきなり。
「やあ、海堂。お疲れ」
「…………っす…」
乾がノートから顔を上げて声をかけてきたので。
黙っている訳にもいかずに。
海堂は目礼と共に小さく声を出す。
上級生同士の話に割って入ってしまったようではないかと決まり悪くもなって、ぶっきらぼうに手にしていた小さな容器を乾に差し出した。
「………これ」
「ああ、俺のだね。ありがとう海堂。どこかに落ちてた?」
「入口んとこに」
「悪い。躓いた?」
「………んな真似しねえよ…」
乾がノートをとらない。
それまで続けていた三年生での会話を中断させたまま話しかけてくる。
顔を上げて、海堂の目を見てくる。
海堂は何だか身動きがとれなくなってしまった。
だいたい海堂が手渡そうとしている容器を、乾は一向に受け取る気配がない。
「あの…乾先輩」
「ちょうど使おうと思ってた所なんだ」
だったら尚のこと早く受け取ってくれと思って。
海堂は手を乾へと差し向けたのだが。
「海堂やってくれない?」
「…………あ?」
「だからそれ。目薬」
海堂が拾ったものは乾の目薬だった。
その目薬を乾の目線で指し示されて海堂は面食らった。
「………何で俺が」
「してほしいから俺が」
「………………」
「嫌か」
「…………嫌かって」
せめてまだ、笑うなり何なりしてからかっている風情ならばまだしも。
何でそんなに真顔なんだと海堂は戸惑った。
極普通のことを、極めて自然に頼まれているようではないかと思わされる乾の態度に面食らった海堂は。
乾の真意も酌めないまま、同意する事になってしまっていた。
「別に……いいですけど」
「助かる」
じゃ、と言って乾は上を向いた。
「………………」
海堂は眉根を寄せたまま近づいて行って、乾が自分で眼鏡を外そうともしないのに嘆息して目薬のキャップを開ける。
「……眼鏡くらい外して下さい」
「はいはい」
「………なに笑ってんですか」
「え? あ、ほら、外したぞ海堂」
「なにを威張ってんだ……訳わかんね……」
ひとりごちた海堂は渋々乾の正面に立ち、普段とは逆の角度で乾の事を見下ろした。
乾は海堂が見えているのかいないのか、瞬きする事もなく、裸眼を晒している。
「………………」
海堂は左手の指先をそっと乾の頬骨に沿え、乾の右目、そして左目へと点眼する。
普段目にする事のない乾の眼球の白黒の対比はくっきりと強い。
目薬を一滴ずつ落とした刹那、濃い睫毛が微かに動いた。
それも何もかもが一瞬の事だ。
「終わったっすよ。先輩」
強い吸引力に縛られでもしたかのように、海堂の眼差しは暫く乾の双瞳から外せなくなった。
じっと見下ろしたまま海堂がそう告げると、乾が瞼を下ろして。
閉ざされた眼に漸く海堂は身じろげた。
ゆっくりと乾から一歩後退りすれば乾の両眼もそれと同じスピードで見開かれていく。
「うん。一際よく海堂のことが見える」
そう言って乾は、唇の端をゆっくりと引き上げて笑った。
「………なに言ってんですか…」
「ありがとうな、海堂。お前目薬さすのうまいな。今度から海堂にしてもらおうかな」
「あのな……」
「もしくはお返しに俺がさしてやろうか?」
こっちおいでと乾にベンチを叩かれて海堂は呆れ顔で眉根を寄せたのだが、練習中に気づいた事があるからおいでと繰り返されては従わない訳にいかなくなった。
乾の隣に腰掛ける。
ずっと手に持っていたままの目薬を改めて差し出せば、今度は乾もそれを受け取った。
容器を挟んで手と手が重なった時に初めて。
海堂は目の前、部室の中で。
青学テニス部の面々が、顔を背けたり、片手で顔を覆ったり、俯いて頭に手をやったりしているのに気づいた。
「……乾先輩」
「なんだい海堂」
声には出さずにその不可思議な仲間のリアクションの意味合いを乾へ尋ねた海堂に返されたのは、いっそ暢気とも言えるような乾のおっとりとした笑み交じりの応えだった。
「うーん。なんだろうね。あいつら」
飄々とした物言いで、疑問に疑問で返された海堂はおもしろくなさそうに乾を一瞬睨んだのだが、乾が部活中に気づいたという海堂のフォームの話を始めれば。
それなりに長いベンチの、ものすごく片側。
腕と腕の重なる距離で海堂も乾のノートを覗き込む。
点眼液が一液落とされクリアになる視界のように。
彼らのふるまいは、時にどれだけ微かなものであっても周囲にさざめく甘い余波となる。
乾と海堂が、二人で行う自主トレの後。
そのまま屋外で話しこむのがさすがに辛い季節になった。
日が落ちた後の空気は一際冷たい。
メニューの修正などを話しているとどうしても時間が長くなってしまうので、近頃は乾の家に立ち寄る事が増えた。
どうせ一人だからというのが乾の言い分で、その言葉通り、海堂はまだ乾の両親と顔をあわせた事がなかった。
「んー……家の中も、たいして外と変わらないな」
「………………」
家人の誰もいない家は、ドアを開けて中に入った直後は乾の言うように寒いくらいだったけれど。
電気をつけて二人で入り込むと、屋外とはやはり違う、家の中というあたたかみが生まれる。
「……おじゃまします」
「律儀だね。海堂は」
目礼と一緒に海堂が口にする言葉に乾が振り返って笑んだ。
「何かあったかい飲物でも持っていくから。先に俺の部屋に行ってて」
「………………」
「…やなの?」
低い笑い声を喉でくぐもらせる乾の言葉に海堂は憮然とする。
二人きりの時だけだけれど、乾は時々海堂相手にこういう子供相手のような声と言葉を使う。
今も。
人の家への訪問に慣れない海堂が、ましてや家人よりも先に一人で部屋に行くという行為を取り分け苦手としている事を知っての上で、乾は優しい甘い声を出すのだ。
海堂が無言のまま乾の後ろについていくと、乾はやけに嬉しそうな笑みを深めてキッチンに向かった。
電気をつけて、ケトルを手にしてお湯を沸かす。
「見張り?」
「………………」
「心配しなくてもホットの野菜汁とか飲ませないけど」
そんな事を言いながら、乾はそっと身体を屈めてきた。
海堂の顔に近づくようにして。
「お湯が沸くまで」
「………………」
「沸いても夢中になってたら噛んでいいよ」
乾の呪文めいた低い囁きに海堂は眉根を寄せて。
そっと押し当てられてきたキスに、海堂の方から唇をひらく。
「…………、ん」
大切なものに触れるような乾の手つきに頭を抱え込まれて、海堂は小さく啼いた。
キッチンの壁に静かに背中を押し当てられる。
海堂の腕がぎこちなく動いて、正面から乾の肩をつかむ。
舌が溶け合うようにして絡められていくにつれ、海堂の手は乾の後ろ首に回り、取り縋るような仕草になっていった。
「ふ、……ぅ………」
ケトルが、湯が沸いた事を知らせて甲高い音をたてた時、むしろ海堂の舌の方が乾に甘ったるく噛まれている状態で。
吐息を詰まらせていた海堂は、ゆるくほどかれていくキスに、まるで一瞬で湯が沸いてしまったかのように錯覚した。
「海堂」
「………………」
初めの宣言通り、湯が沸くまでの時間で、きっちりキスを終わりにした乾だったが。
海堂はそのまま暫く乾に抱き込まれていて、ゆっくりとキスの余韻を鎮めていく乾の気配を感じ取っていた。
それは海堂にも言えた事で。
そうやって、キスの後に無言で抱き締めあっている事で。
指の先までじんわりと暖まっていったような気がした。
「さて……たまには甘いものでも飲んで話そうか……」
抱擁の解き放たれ方もさらりとしていて、それが海堂にはひどく心地良かった。
乾はマグカップを二つ食器棚から取り出して、そこに薬剤のようにメイプルシロップを垂らしていく。
冷蔵庫から取り出したレモンは手で絞って加え、最後にケトルから湯を注いだ。
レモンの柑橘系の匂いとメイプルシロップの甘い匂いとが湯で融けあう香りがする。
そこに最後に乾が振り入れたものに海堂は首を傾げる。
「それ…何っすか」
「カエンペッパー。……まあ、唐辛子」
「………は?」
どうしてここで最後に唐辛子なんだと。
やはり乾の作るものには何かしら難題点があると。
海堂が思った事は全て表情に出ていたようで。
乾が苦笑して海堂にカップを手渡してきた。
「ほんの少ししか入れてないぞ? それにこれはカナダで実際に医学的に証明されてるメイプルシロップの摂取の仕方だ」
飲んでみろと乾に促されて海堂がおっかなびっくり口にしたそれは、拍子抜けするほど普通に美味しかった。
「カリウムやカルシウムが豊富なメイプルシロップに、レモンのビタミンC、カエンペッパーのカプサイシンが加わる事で、効果はまずデトックス」
「……デトックス?」
「体内の毒素、不純物の解体および消滅」
「はあ……」
「細胞の浄化、血管や神経へのプレッシャーや苛立ちの軽減、柔軟性の保持」
「………………」
両手で持ったマグカップに口をつけて、熱い甘い飲物を飲みながら。
海堂はこうなると当分は止まらないであろう乾の事を、上目に見つめた。
「………………」
乾は引き続き、全く淀みない口調で、この飲物の成分やら効能やらを語っている。
海堂は何の気兼ねも遠慮も無く、その飲物で暖まりながら、乾の事を見つめていた。
海堂には、何だかさっぱり判らないような事を語っている表情も、声も。
判らないながらも、ただ好きなので。
見つめていた。
そのまま屋外で話しこむのがさすがに辛い季節になった。
日が落ちた後の空気は一際冷たい。
メニューの修正などを話しているとどうしても時間が長くなってしまうので、近頃は乾の家に立ち寄る事が増えた。
どうせ一人だからというのが乾の言い分で、その言葉通り、海堂はまだ乾の両親と顔をあわせた事がなかった。
「んー……家の中も、たいして外と変わらないな」
「………………」
家人の誰もいない家は、ドアを開けて中に入った直後は乾の言うように寒いくらいだったけれど。
電気をつけて二人で入り込むと、屋外とはやはり違う、家の中というあたたかみが生まれる。
「……おじゃまします」
「律儀だね。海堂は」
目礼と一緒に海堂が口にする言葉に乾が振り返って笑んだ。
「何かあったかい飲物でも持っていくから。先に俺の部屋に行ってて」
「………………」
「…やなの?」
低い笑い声を喉でくぐもらせる乾の言葉に海堂は憮然とする。
二人きりの時だけだけれど、乾は時々海堂相手にこういう子供相手のような声と言葉を使う。
今も。
人の家への訪問に慣れない海堂が、ましてや家人よりも先に一人で部屋に行くという行為を取り分け苦手としている事を知っての上で、乾は優しい甘い声を出すのだ。
海堂が無言のまま乾の後ろについていくと、乾はやけに嬉しそうな笑みを深めてキッチンに向かった。
電気をつけて、ケトルを手にしてお湯を沸かす。
「見張り?」
「………………」
「心配しなくてもホットの野菜汁とか飲ませないけど」
そんな事を言いながら、乾はそっと身体を屈めてきた。
海堂の顔に近づくようにして。
「お湯が沸くまで」
「………………」
「沸いても夢中になってたら噛んでいいよ」
乾の呪文めいた低い囁きに海堂は眉根を寄せて。
そっと押し当てられてきたキスに、海堂の方から唇をひらく。
「…………、ん」
大切なものに触れるような乾の手つきに頭を抱え込まれて、海堂は小さく啼いた。
キッチンの壁に静かに背中を押し当てられる。
海堂の腕がぎこちなく動いて、正面から乾の肩をつかむ。
舌が溶け合うようにして絡められていくにつれ、海堂の手は乾の後ろ首に回り、取り縋るような仕草になっていった。
「ふ、……ぅ………」
ケトルが、湯が沸いた事を知らせて甲高い音をたてた時、むしろ海堂の舌の方が乾に甘ったるく噛まれている状態で。
吐息を詰まらせていた海堂は、ゆるくほどかれていくキスに、まるで一瞬で湯が沸いてしまったかのように錯覚した。
「海堂」
「………………」
初めの宣言通り、湯が沸くまでの時間で、きっちりキスを終わりにした乾だったが。
海堂はそのまま暫く乾に抱き込まれていて、ゆっくりとキスの余韻を鎮めていく乾の気配を感じ取っていた。
それは海堂にも言えた事で。
そうやって、キスの後に無言で抱き締めあっている事で。
指の先までじんわりと暖まっていったような気がした。
「さて……たまには甘いものでも飲んで話そうか……」
抱擁の解き放たれ方もさらりとしていて、それが海堂にはひどく心地良かった。
乾はマグカップを二つ食器棚から取り出して、そこに薬剤のようにメイプルシロップを垂らしていく。
冷蔵庫から取り出したレモンは手で絞って加え、最後にケトルから湯を注いだ。
レモンの柑橘系の匂いとメイプルシロップの甘い匂いとが湯で融けあう香りがする。
そこに最後に乾が振り入れたものに海堂は首を傾げる。
「それ…何っすか」
「カエンペッパー。……まあ、唐辛子」
「………は?」
どうしてここで最後に唐辛子なんだと。
やはり乾の作るものには何かしら難題点があると。
海堂が思った事は全て表情に出ていたようで。
乾が苦笑して海堂にカップを手渡してきた。
「ほんの少ししか入れてないぞ? それにこれはカナダで実際に医学的に証明されてるメイプルシロップの摂取の仕方だ」
飲んでみろと乾に促されて海堂がおっかなびっくり口にしたそれは、拍子抜けするほど普通に美味しかった。
「カリウムやカルシウムが豊富なメイプルシロップに、レモンのビタミンC、カエンペッパーのカプサイシンが加わる事で、効果はまずデトックス」
「……デトックス?」
「体内の毒素、不純物の解体および消滅」
「はあ……」
「細胞の浄化、血管や神経へのプレッシャーや苛立ちの軽減、柔軟性の保持」
「………………」
両手で持ったマグカップに口をつけて、熱い甘い飲物を飲みながら。
海堂はこうなると当分は止まらないであろう乾の事を、上目に見つめた。
「………………」
乾は引き続き、全く淀みない口調で、この飲物の成分やら効能やらを語っている。
海堂は何の気兼ねも遠慮も無く、その飲物で暖まりながら、乾の事を見つめていた。
海堂には、何だかさっぱり判らないような事を語っている表情も、声も。
判らないながらも、ただ好きなので。
見つめていた。
放課後、部室前で海堂と目が合った途端、乾は表情を変えた。
そうと判る人間は限られるだろうが、少なくとも判る人間の中では、それはあからさますぎると言われているレベルの表情で。
海堂にも、それはよく判った。
「海堂ー……」
乾の低音の声が持つ艶っぽさが、遺憾なく発揮された声音。
海堂は生真面目に見つめ返す。
先に来ていたのは海堂の方で、乾は足早に歩み寄ってくるなり海堂の肩を両手で包んだ。
「海堂が足りなくて死にそう」
「……………」
小さな溜息に込められている思いは深そうで、真顔で辛そうに嘆息する乾を、海堂は黙って見上げた。
痛くない程度に鷲掴みにされている両肩の力加減が、あんたはいったい何をふざけているのかと言いたくなる言葉を海堂に飲み込ませてしまう。
「……………」
それっきり乾が何も言わなくなったので。
海堂も黙ったまま、じっと乾を見上げるだけでいた。
「………海堂」
見目も声も一際大人びているくせに。
自分の名前だけをそんな、無闇に甘やかしてやりたくなるような顔をして、声でもって、口にするなと海堂は思う。
「ちょっとだけ抱き締めていい?」
何でちょっとなんだか判らない。
どうしてたくさんじゃ駄目なんだ。
「……ほっそいなあ…」
乾の手に抱き込まれた腰。
あんたの手がでかいんだろうがと思う。
だいたい今更。
何でたった今知ったみたいに言うのか理解不能だ。
海堂は乾の胸元に閉じ込められる。
長い腕で縛り付けられる。
乾のしたい事が海堂のされたい事だと、まさか乾は知らないでいるのだろうか。
「………逃げたい時は本気で逃げるようにね」
自嘲めいた言葉の意味。
そんなことは海堂は知らない。
でもその言葉の道理を使うのならば、つかまえたい時は本気でつかまえればいいのだという事だろう。
言葉の数を知らない自分だけれど、そうと決めて翻さない気持ちは持っている。
あれこれと難しくいろいろ考えて、時折頭も身体も疲労困憊させている男を呼ぶための言葉は知っている。
「先輩」
強く口にして。
強く見つめれば。
疲れて強張ったような表情を浮かべていた乾が、ひどく生々しく戸惑った気配を見せるので、海堂の気持ちも穏やかに凪いでいく。
抱き締めたいのなら好きなだけ。
好きなだけ抱き締めたらいい。
足りないのなら欲しいだけ。
欲しいだけ持っていけばいい。
あと他に、望むものがあるのなら、言ってみろよと思って願って見つめ続ければ。
「………降参」
珍しく少し赤い顔をして、乾は海堂の肩口に顔を伏せた。
無口といよりも。
言葉足らずな自分を海堂は自覚しているけれど。
そんな海棠の性質を加速させたのは、判ってしまいすぎる乾が原因の一端だと思う。
「そうやって、あんまりにも見境なくお前のことを好きにさせていったら、俺は面倒で大変だぞ。海堂」
乾はそう言った。
乾の危惧が海堂の願望だと、まさか乾は知らないでいるのだろうか。
そうと判る人間は限られるだろうが、少なくとも判る人間の中では、それはあからさますぎると言われているレベルの表情で。
海堂にも、それはよく判った。
「海堂ー……」
乾の低音の声が持つ艶っぽさが、遺憾なく発揮された声音。
海堂は生真面目に見つめ返す。
先に来ていたのは海堂の方で、乾は足早に歩み寄ってくるなり海堂の肩を両手で包んだ。
「海堂が足りなくて死にそう」
「……………」
小さな溜息に込められている思いは深そうで、真顔で辛そうに嘆息する乾を、海堂は黙って見上げた。
痛くない程度に鷲掴みにされている両肩の力加減が、あんたはいったい何をふざけているのかと言いたくなる言葉を海堂に飲み込ませてしまう。
「……………」
それっきり乾が何も言わなくなったので。
海堂も黙ったまま、じっと乾を見上げるだけでいた。
「………海堂」
見目も声も一際大人びているくせに。
自分の名前だけをそんな、無闇に甘やかしてやりたくなるような顔をして、声でもって、口にするなと海堂は思う。
「ちょっとだけ抱き締めていい?」
何でちょっとなんだか判らない。
どうしてたくさんじゃ駄目なんだ。
「……ほっそいなあ…」
乾の手に抱き込まれた腰。
あんたの手がでかいんだろうがと思う。
だいたい今更。
何でたった今知ったみたいに言うのか理解不能だ。
海堂は乾の胸元に閉じ込められる。
長い腕で縛り付けられる。
乾のしたい事が海堂のされたい事だと、まさか乾は知らないでいるのだろうか。
「………逃げたい時は本気で逃げるようにね」
自嘲めいた言葉の意味。
そんなことは海堂は知らない。
でもその言葉の道理を使うのならば、つかまえたい時は本気でつかまえればいいのだという事だろう。
言葉の数を知らない自分だけれど、そうと決めて翻さない気持ちは持っている。
あれこれと難しくいろいろ考えて、時折頭も身体も疲労困憊させている男を呼ぶための言葉は知っている。
「先輩」
強く口にして。
強く見つめれば。
疲れて強張ったような表情を浮かべていた乾が、ひどく生々しく戸惑った気配を見せるので、海堂の気持ちも穏やかに凪いでいく。
抱き締めたいのなら好きなだけ。
好きなだけ抱き締めたらいい。
足りないのなら欲しいだけ。
欲しいだけ持っていけばいい。
あと他に、望むものがあるのなら、言ってみろよと思って願って見つめ続ければ。
「………降参」
珍しく少し赤い顔をして、乾は海堂の肩口に顔を伏せた。
無口といよりも。
言葉足らずな自分を海堂は自覚しているけれど。
そんな海棠の性質を加速させたのは、判ってしまいすぎる乾が原因の一端だと思う。
「そうやって、あんまりにも見境なくお前のことを好きにさせていったら、俺は面倒で大変だぞ。海堂」
乾はそう言った。
乾の危惧が海堂の願望だと、まさか乾は知らないでいるのだろうか。
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