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 乾汁がバージョンアップするらしいという噂が流れて、青学テニス部は、どよめいていた。
 乾が漢方薬の販売店で店主と話しこんでいたとか、スーパーの野菜売り場の前で品質表示を確かめていたとか、様々なサイトを巡ってレシピを集めプリントアウトしたファイルをいつも持っているとか、どうも不穏な動きが増えている。
 乾汁には過敏な面々である。
 それとなくカマをかけてみても、乾はのらりくらりとはぐらかすばかりなので、業を煮やした彼らによって矢面に立たされたのが海堂だった。
 海堂になら話すかもしれないから探って来いと、三年からも二年からも一年からも日々せっつかれた海堂は、自分にだって話すとは到底思えないながらも、ある日決意して乾に概要を尋ねる事になった。
 その時たまたま、昼休みに実験室で一人、何かの作業に没頭しているらしい乾を見かけてしまったのもいい後押しだった。
 海堂自身、それを見て恐怖が募ってしまったせいもある。
「やあ、海堂」
「……っす」
 遠慮がちに実験室の前扉を引いた海堂に、然して驚きもせず、乾はそう声をかけてきた。
「乾汁じゃないから入っておいで」
「………………」
 笑っている。
 海堂が無言で近づいていくと、乾はあれこれ混ぜ合わせながら、無色透明ながらも発泡する液体を作っていた。
「………何してるんですか」
「ん? 今日結構暑いだろ?」
「はあ……」
「四時間目の授業で、中原中也やってさ……無性にソーダ水がね」
 作りたくなってと乾が言うので、普通飲みたくなってじゃないのかと海堂は怪訝に乾を見つめた。
「何の詩か判る? 初夏の詩」
「………アメリカの国旗とソーダ水とが…」
「恋し始める頃。……アタリだ」
 さすがだね、と乾に言われて海堂は何となく落ち着かない。
 二人きりの時の乾のやわらかさが、それこそ日に日に高まっていく気温のように熱を増して甘くなるようで落ち着かない。
「ドライアイスのかけらを水に溶かして砂糖を入れてもサイダーっぽくなるし、こうやって酸性の液体に炭酸ナトリウムを入れても炭酸水が出来るんだが」
 色がついていた方が中也っぽいよな、と乾は呟いて手持ちの炭酸水を窓の外に翳して見ている。
 そんな乾の横顔を何をするでもなくぼんやり見ていた海堂に、乾の視線が戻ってくる。
「海堂はさ、クリームソーダとかあんまり飲まなかった?」
 基本的にジャンクフードは殆ど食べない海堂を熟知している乾は、あの緑色はいかにも着色料って感じだもんな、と言って笑った。
「………レモン味のアイスクリームソーダは飲みましたよ」
「アイスクリームソーダって、レモン味もあるのか?」
 小さい頃、時々両親に連れて行かれた銀座の店の名前を告げて海堂が頷けば、乾は興味深そうな顔をした。
「味もレモン?」
「……そりゃ勿論…」
「他にも種類あるのか?」
「オレンジがあった気が……」
「へえ」
 そういえば最近行ってないなと海堂は思った。
 どこかレトロな老舗のパーラーは、父親とのデートでよく訪れたのだとそこに行く度に母親が口にした。
「連れてってよ。海堂」
「………は?」
 そんな風に子供の頃の事を考えていた海堂は、乾の突然の言葉に驚いてしまった。
「……乾先輩?」
「海堂のご両親のデートスポットだったんだろ? 歴史は受け継ごう」
「な、…っ……なに言って……」
「頼むよ」
「………、………っ…」
 乾が、笑ってはいるけれど、とても真面目にそう言うから。
 どっと恥ずかしくなって、海堂は激しく狼狽えたのだった。


 結局週末、海堂は乾と一緒にレモン味のアイスクリームソーダを飲んだ。
 事前に、そこの店に海堂が乾と行くと知った母親は、何故だか大層喜んで。
 事後に、乾汁のバージョンアップは当面未定だという情報を海堂から聞かされたテニス部の面々も大層喜んで。
 そんな人々の狭間で、乾と海堂には。
 レモン味のアイスクリームソーダの、明るく軽く爽やかな印象の、初夏の思い出が発泡水のように生まれたのだった。
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 唇が触れる寸前に、もうそのイメージが頭に浮かんで、唇同士が触れあえばもう、咀嚼されているかのように口腔でつかまるキスのその先を察して足元が危うくなる。
 キスは、自分は、苦手なのかもしれないと海堂は思った。
「…………ン…、」
 乾は両手で、必ず海堂の頭なり肩なりを包むように支え、熱っぽくはあっても身勝手では決してない、優しいキスをくれるのだけれど。
 無理強いされた事も勿論ないのだけれど。
 重ね合わせた唇の狭間から、やんわりと獲られた舌が、奪われ呑まれる気がしてならない。
 質感や、動き方。
 そういう生々しい舌を海堂は普段知らないし、たっぷりと舌先を這わされどこもかしこもくまなく辿られると、乾から逃れたいのか逃れられなくなるのか、どちらにしろ怖いような衝動に突き動かされる。
「……っ…ん…」
「海堂……」
「………、…は……」
 自分自身の息の乱れが生々しく海堂の耳につき、乾は彼自身がキスがしたいというよりもはや、一方的に海堂を愛撫する為の口付けを施しているのではいかと海堂は思った。
 自分ばかりが、もう、率直に心中を吐露すれば、ただ気持ちよくて。
 唇が、そんな器官だなんて、海堂は知らなかった。
「……海堂?」
「…………ぅ……」
 俯いて震える海堂に、乾の低い呼びかけがかかる。
 頬に指先を宛がわれ、海堂の震えはますますひどくなった。
 顔を上げさせたいのか、乾の固く滑らかな指は海堂の頬から顎へと、顔の表面を滑っていく。
「……っ……、……く…」
「頭が良い人間ほど、こういう事に過敏なんだよ…」
「…………、っ…」
 感覚を考えるから、と言った乾の指先はあくまで優しく海堂の顔のラインを撫でている。
「……、…先輩…、は…」
 それなら乾はどうなのかと。
 頭が良いなんて、自分より乾の方が余程そうなのにと。
 海堂は詰りたい気で口にした言葉は、海堂が自分でぎょっとするほど掠れた震え声だ。
「………ん?……」
「……………へ……ー…きな、くせ…しやが…って…、」
「……海堂」
 本気で言ってる?と耳元に囁かれ、海堂は首を竦めた。
「………、ひ……」
「さわる?……」
「……ぇ…?」
「………何で俺が海堂を抱き締められないか、気づかない?」
 顔を俯かせていた海堂に、見えてるだろうにと乾は溜息交じりの呟きを洩らした。
「見え……?」
「…………………」
「…………、…」
 ぼんやりと、潤んだ視界にいた海堂が、乾の言葉に誘導されるように、随分とあからさまな彼の状態に気づく。
「…………ぁ」
 首の裏側まで、かあっと熱くなったのが自分でも判って。
 しかもその首筋に乾からキスまで落とされた海堂は、もう訳の判らない衝動にへたりこみそうになる。
「………いくら皆が帰った後だからって、部室でしたのはまずかったな」
「……………」
 本当に。
 いろいろなことが、まずいと、海堂は乾が言うのと同じ気持ちを胸に抱く。


 キスは、自分達は、苦手なのかもしれない。
 軽く触れ合うだけでおさまらなくて、一度きりで終われなくて、結局引くに引けないところまで暴走してしまう自分達は。
 キスは、きっと苦手だと思う。
 別段人に気をつかう方ではないと、海堂は自分自身を思うのだけれど。
 自分の誕生日に、目覚めてここまで具合が悪いというのはどうしたらいいものか、深く悩んだ。
 風邪か。
 風邪なのか?と自問する海堂は、上半身を起こした体制のまま、なかなか寝床から出られない。
 頭が重く、喉に痛みのような違和感がある。
 身体が熱っぽく軋んでだるい。
「……………」
 ぼうっと剥ぎかけの布団を見下ろしながら、背筋にじわじわ広がる悪寒を気のせいとすることも無理だと悟り、海堂は細い溜息を零した。
 両親も弟も、普段風邪など滅多にひかない海堂が、よりにもよっての今日という日に寝込んだりなどしたら、いったいどれだけ心配するか判らない。
 もし明日寝込むとしたら、それはそれでいいだろうと決意して。
 海堂は寝床から漸く起き出した。
 海堂の家族は全員朝が早い。
 家族の揃う食卓で、日課の早朝ランニングを今日は休むと海堂が口にした時、手の込んだ料理を少量ずつ、懐石料理のような品揃えで用意していた母親は微笑み、新聞に目を通していた父親も微笑み、兄の海堂にひどく懐いている弟も微笑んだ。
 そんな家族の様子を見て、海堂のその場での気分はかなりよくなった。


 朝食と身支度とを済ませ登校した海堂が、再び下り坂を転げるように体調不良を自覚したのは一時間目の科目が終わった頃からだった。
 昼までにあと三時間。
 そう思うと、時間のあまりの長さに一気に倦怠感が増した。
 登校時、授業が始まる前にテニス部の上級生を中心に顔を合わせておいて良かったと海堂は思った。
 どうして知っているのか、彼らは口々に、海堂の誕生日を祝う言葉を口にした。
 愛想がないながらも、一人一人に生真面目に礼を言う海堂の態度は、気心知れたメンバーを充分満足させたようで、続きは部活の後な!といわれた言葉を思い返すと、そこまでもつかどうか、海堂はふらつくような頭に手をやって考え込んでしまう。
 そんな事をしていると、今度は生意気な一年生からメールが届く。
 内容といったら長文の英文で、件名から察するにこれも誕生祝のメッセージのようだった。
 返事をうつ気力がないが読むだけ読んでそのままにしておく訳にもいかず、授業はともかく部活を休もうとは全く思わない海堂は、結局具合が悪いことを自覚しながら残りの三時間を乗り切った。
 元々寡黙な海堂が、休み時間を含め、無言かつ無表情で押し通しても。
 傍目には特別具合が悪いだとか不機嫌だとかいうようには見えないようだった。
「…………………」
 良かったのか悪かったのか。
 昼休みになると、海堂はおそらく誕生日仕様になっているであろう弁当箱を持って、教室を出た。
 吐き気がないのが幸いだが、食欲も然してない。
 かといってこの弁当を残すのも憚れるしで、海堂は廊下を歩いて行きながら、この後どうしようかと思い悩んだ。
 そうして、決して、朦朧とまではなっていないつもりだったのだが。
 海堂は、歩いていた廊下で、向かい側から来た人物に、ぶつかった。
 肩と肩がぶつかるといったような接触などではなく、相手の胸元にそのまま正面から入り込むように。
「………、……すみませ…」
「海堂」
「…………先輩」
 その瞬間、やけに慣れたような感じがしたと思ったら。
 海堂は、乾にぶつかっていた。
 馴染みの良い腕に肩を掴まれ、低い声はいつもの角度から降ってくる。
「無理するなと言いたいんだけど」
「……………」
「今日だから。…気をつかう海堂の性格も判るから」
 少しでいいから何か食べて。
 食後にはちゃんとこれ飲んで。
 そう言って。
 乾に何かを握らされる。
 海堂はぼんやりと自分の手を見つめた。
 乾の手もまだそこにある。
 長い指と、骨ばった甲。
 乾が持っていて、海堂に握らせたのは、小さな紙の箱だった。
 まるでギフトボックスのようなそれは、真新しい風邪薬のパッケージだ。
「薬飲んだら保健室」
「……乾先輩…」
「部活に行く前に、俺が様子見に行くからそれまで寝てて。その時に駄目だと思ったら俺がそのまま送ってく」
「……………」
「反論は受け付けないよ」
 優しくて。
 優しい分。
 きっと心配して。
 すごく心配して。
 ちょっと怒っているかもしれない。
 海堂は、そんな乾を見上げて頷いた。
「……………」
 海堂に手渡した薬の箱から引いた手を、乾が海堂の額から眦にすべらせる。
「………少し熱っぽいか」
「……………」
 無意識に、海堂はその手に擦り寄りたい気になった。
 大きな手がひどく心地いい。
 乾を見つめながら、首を乾の手のある方に僅かに傾ける海堂に。
 気難しいような、甘い狼狽のような躊躇を目にして、熱っぽくなる理由なんてこれだろうと海堂は思った。
「…………ありがとうございます」
 微かに笑んで海堂が言うと、乾に、そっと抱き締められた。
 ここは学校の廊下なのだと今更ながらに海堂は思ったが。
 思考の霞む海堂には、それ以上追及する気力がなく。
 そして、乾がそうするのなら、おそらくは人目もないのだろうと信じる事でされるに任せた。
「………先輩?」
「……うつってくれればいいんだがな」
「え……、……?…」
「こんな一瞬でもさ」
 そうして抱擁はゆるく解かれる。


 乾が海堂にしてくれる事は。
 向けてくれる言葉は。
 いつも海堂に未経験の感情を呼び起こす。
 海堂の誕生日にも、こうしてとびきりの。
 海堂を理解をしてくれているという、最大級のギフトを。
 海堂はお兄ちゃん気質だねえと言ったのは、海堂より一学年上の不二だった。
 その時海堂は、背中に菊丸をぶら下げていた。
 無論進んでしていた事ではなく、一方的に受身でだ。
 菊丸もまた海堂よりも一つ年上なのだが、典型的な末っ子体質で、加えて邪気なく人懐っこい。
 海堂も、菊丸からのこういう接触に最初はとてつもなく驚いたのだが、度重なる強襲に今や大分慣らされた。
「そだねー。海堂は、何かこう懐きたくなる感じする」
「は…?」
「おチビにも、さりげなーく優しいしね!」
「はあ?」
「お兄ちゃんだよな!」
「そうだね」
「………………」
 にこにこと微笑む上級生二人を、海堂は唖然と見やった。
 正気とはとても思えないような言い様だ。
 有り得ないだろうそんな現実。
 海堂本人が、何より誰よりそう思うのに、上級生達はそこに一層の追い討ちを放ってくる。
「乾とか手加減なしに海堂に甘えたおしてるよな!」
「ああ、乾ね。確かに。海堂も、たまには厳しく突き放したっていいんだよ?」
「そうそう! 困った事あったら俺らにちゃんと言いに来いよなー!」
「………………」
 不二と菊丸の言い様に、海堂は衝撃すら覚えて硬直した。
 彼らが立ち去った後も、暫くその場から動けない。
 本当に今話題にされていたのは自分達の話なのだろうかと。
 思い返そうにも、碌に思考が働かないのだ。
「あれ、海堂」
「………………」
「どうした。ぼうっとして」
 しかもそこに姿を見せてきたのが乾で、海堂はまじまじと長身の彼を見上げた。
 この男が、自分に甘えたおす?
 そして自分はそれを殆ど突き放す事もしない?
 有り得ねえ。
 そう呻くか叫ぶかしてしまいそうになる自分をどうにか抑えて、海堂は乾に問いかけた。
「……あんたは何してるんですか」
「俺か? 海堂を探して、見つけたところ」
「何か用っすか」
「うん。疲れてくると、甘いものが欲しくなるだろ」
「……は?」
「俺は海堂が欲しくなる」
 笑って言うので。
 乾の口調は軽いのだが。
 その低くてよく響く声の効力は強い。
「………、…な…」
「ちょっと構ってよ。海堂」
 適当にあしらうんでもいいからと。
 尚もやわらかく笑んで言ってくる乾に、海堂は憮然とした。
 怒りも交えて、乾を見つめて、言い放つ。
「あんたは片手間に構えるような相手じゃねえよ」
「海堂?」
「適当にとか、出来る訳ねえ」
「………………」
 何を考えてそんな馬鹿な事を言うのかと、海堂は乾を強く見据える。
 そうやって、海堂が睨みつけた先で、乾が。
 何だか虚をつかれたような顔をして、そして。
「……元気、出た」
「…………は?」
「や、……めちゃめちゃ元気出た」
「………訳判んね」
「ここでキスとかしたら海堂は怒るかな」
「……ッ…、…ふ…ざけたこと、マジなツラして聞いてくるな……っ!」
 どういうからかい方だと海堂は尚も憤慨するが、何故か乾は真顔で悩んでいるような顔をしている。
 しかも嬉しそうな。
 顔もしている。
「海堂」
「…、…耳元で……、!」
 喋るな、と怒鳴ろうとした海堂の唇を、乾が恐ろしく上手く、一瞬だけ掠った。
「…………っ」
「……元気出た」
「……………」
 囁くような声に。
 微笑む顔に。
 そんな乾に。
「……………」
 結局海堂は怒りきれなくなる。
 それどころか寧ろ、多分二人の上級生に言われた通り。
 乾を突き放すなんて事、海堂には到底出来ないのだ。
 海堂は、ただ人を甘やかす事はしないし、出来もしないけれど。
 不思議と乾相手には、甘やかすような幾つかの方法があるらしい。
 我が事ながら、まるで他人事のように海堂が思うのは。
 未だに何の自覚もないからだ。

 海堂が判る事は、ただ。
 和んだり嬉しそうだったりする乾から、熱っぽくも甘く、伝わってくるものの気配だけだ。
 海堂には、口に出せない事がたくさんあって、それらは例えば、弱音だとか諦めだとか泣き言だとかいうものだった。
 どれもが海堂の好きでない行動や感情で、そして同時にそれらはいつでも、海堂の手の届く所にあったりもした。
 だからこそ絶対につかまえない。
 絶対に認めない。
 そんな暇があったら、もっとするべき事がある筈だと、海堂は信じていた。
 それでも時折、自分が負けない為の術を見つけられない事もあって。
 そういう時に、ひどく上手な方法で手を貸してくれたのが乾だった。
 海堂には物慣れない、自分自身の深い所まで曝け出すような乾との付き合いが、苦痛であった事は一度もない。
 それはきっと、様々な可能性を示唆してくれる乾の、言いなりになるのではなくて。
 乾のくれる手段から、自分で考えて選び信じる事が出来るからだと海堂は思っていた。
 テニスが強くなりたくて。
 そんな海堂にその為の手段を教えて、そして選ばせてくれたのは乾だった。
「……海堂? 大丈夫か?」
「………………」
 そんなテニスと、何だか同じだと海堂が思ったのが、乾との付き合いの変化で。
 テニスがもっと強くなりたいと思ったように、乾の事ももっと欲した。
 テニスの時と同じように、乾はそんな海堂に、どうするといいのかを教えてくれた。
 とても生真面目に、海堂にもよく判る言い方で、乾に好きだと告げられて初めて、海堂も自分の感情に正しい名前をつけられたのだ。
 そして今、海堂の目の前。
 優しくて長いキスをそっとほどいた乾が、海堂の様子を真剣に伺ってくる。
 海堂の体内から退いた乾に、宥めるようなキスをされながら、落ち着いてきてはいるものの、海堂の身体は乱されたまま、浅い呼吸に蠢き、ひききらない汗に濡れている。
 テニスへの熱と、乾への熱は、最初はひどく似通っていると海堂は思った。
 だが徐々に、同じではないという事を知るようにもなった。
 海堂が、テニスであれば絶対に認めたくないような、弱音や諦めや泣き言といったものが、何故か乾といるこういう時には、ぽろりといつの間にか零れ落ちてしまうのだ。
「海堂」
「………おかしく…なる…」
「…ん?」
「……あんたに…され、ると…、…どんどんおかしくなる…」
 息を乱しながら、涙まじりのこんな言葉。
 泣き言でなくて何なのだと海堂は思う。
 でも、貪られるキスに喉を鳴らし、揺すられる動きに声を嗄らし、名を呼ばれる声に身体を震わせる、そういう事がどんどんひどくなる。
 自分はおかしいんじゃないかと思うくらい。
 乾が好きで、何をされても、頭も身体も乱されていくばかりだ。
「当たり前だろ」
「………………」
 吐息を零すように乾が笑った。
 困惑する海堂を腕の中に閉じ込めるよう組み敷いて、頬に口付けてくる。
 無き濡れた海堂の睫毛の涙を払うよう、乾の睫毛も瞬きと供に触れてくる。
 あんなに卑猥に動いていたのが信じられないくらい。
 それはきっとお互い様なのだろうと海堂は思ったが、それでも。
 こうして静かに肌を寄せている自分達を、けだるい身体でぼんやり感じ入りながら、海堂は乾を見つめた。
「海堂が、よくって、頭も身体もおかしくなるって思うように、やってるんだから」
「………………」
「本気でおかしくなるように、本気で抱いてるんだから当たり前なんだよ」
「………そうなん…すか…?」
「そうなんです」
「……俺も、そういう風に考えて、したら……乾先輩も本気でおかしくなるんですか」
「これ以上おかしくならないって。俺は」
 面食らったような顔をした後、乾は海堂を抱き込むようにして隣に横たわった。
 屈託なく笑い出した乾に肩を抱かれたまま、海堂に睡魔が差し込んでくる。
「…………乾先輩は………余裕があるように…見えるんですけど…」
「余裕ある奴があんな真似するか?」
 身体の際どい箇所を幾つか。
 大きな手のひらに触れられる感触がして、海堂の全身に震えが走るけれども。
 乾の声は、海堂の耳に、何だか愕然としているように聞こえたのだけれども。
 海堂の睡魔もまた一層濃くなってしまって。
 もう確かめる余力も何もなく、海堂は乾の胸元に、顔を伏せて寝入ってしまった。
 海堂のその異変に気づいたのは、最初に母親で、それと殆ど時を同じくして、乾だった。
「海堂」
「…何っすか」
 呼び止められるだけでなく、二の腕もとられた。
 乾の手は指が長いだけでなく手のひらも相当大きいので。
 あまりにも簡単に海堂の腕は乾の手に包まれる。
「………乾先輩」
「身体のサイズは一緒。だとすると……」
 乾のその手で、勝手に自分のサイズを知られているらしい事に海堂は複雑な思いをしながら、ぎこちなく腕を引いた。
 乾はすぐに逃がしてくれたが、じっと見つめてくる視線は、ずれなかった。
「海堂、最近服の買い方、変えた?」
「………………」
 やっぱり、と海堂は思った。
 今朝方母親にも同じ事を言われたのだ。
 そしてそれは、誰に言われずとも海堂自身が最もよく判っている事だった。
「手足に合わせると、服のサイズが極端に大きくなるの嫌がってただろ?」
 手足の長い海堂は、乾が指摘するように、服選びが難しい。
 胸元や腰周りが不恰好に泳ぐくらいならと、丈を無視する事が多いのだ。
 結果、袖や裾が足りない服が多い。
 どうせ成長期だと海堂は構わずにいるのだが、それが最近、海堂は服を買う度、失敗する。
 私服であっても制服のシャツであっても、何故だかいつも丈が充分足りてしまう。
 つまり今までは避けていた、胸や腰周りにゆとりがありすぎる服を買ってしまう。
 それも、時々は更に、全然サイズの違うような服をもだ。
 今朝洗濯物を干す母親に言われた矢先、今度は学校に来て乾に指摘された。
「………………」
「………ん?」
 顎を引くようにして乾を見上げた海堂に、乾は僅かに首を傾けてくる。
 促されるような小さな問いかけに、海堂は低い声で言った。
「…………あんたのせいだ」
「俺? 何で?」
「………………」
 乾は心底不思議そうな顔をした。
 もうこれ以上言えるかと、海堂は後退りしかけた所をまた乾の腕に捉まった。
「おっと……」
「…………、…」
「何で俺のせい?」
 優しげに笑う乾は、今度は海堂が身を捩っても、逃がしてはくれなかった。
 何かに興味をそそられた時の乾は、普段よりも少し強引になる。
「海堂?」
 答えるまで乾は自分を離さない気だと悟って。
 うっかり口を滑らせた己を海堂は自責したけれど。
 こうなったらもう仕方ない。
「………服、広げてみて」
 その時に。
「これくらいだって」
 頭で。
「思って」
「…海堂?」
「肩の幅とか、頭があんたのサイズで覚えちまってて」
 だから失敗する。
 ああこれくらいだ、と。
 肩幅だとか。
 服を広げてみた手が覚えているのは。
 頭が判断するのは。
 いつも乾の。
「……、…っ…に…すんですか……!」
 いきなり身包み抱き込まれて海堂は思わず叫んだ。
 耳元で、何だか気恥ずかしくなる甘い笑い声が聞こえてくる。
「照れ隠し」
「……っ……、」
 甘ったるい照れは、その低い声での囁きと供に、海堂にも伝染してきてしまった。
 離せととにかく怒鳴ってみても。
 何だか妙に力ない言い方になってしまって、却って居たたまれない。
 服のサイズを間違って買い続けてしまう事も、それを返品や交換する事もなく、着たままでいる事も。
 何もかもが海堂にしてみれば恥ずかしいというのに、乾が嬉しがっている気配ばかりが伝わってくるから。
 海堂もまた、照れ隠しの所存で。
 抱き締められるままに乾の胸元に顔を伏せるのだった。
 部活中、柔軟の最中、乾は開脚して前屈している海堂の横に屈んで問いかけた。
「何か悩み事?」
「………………」
 海堂の気配が尖る。
 それに構わずに、乾が長い足を折ってそこにしゃがんだままでいると、海堂は一度胸を完全に地面につけてから、ゆっくりと顔を起こしていく動きの流れで乾を見やってきた。
「………………」
 すこしバツの悪そうな顔をしている。
 乾がもしそれを口に出していたら、きっと近くにいる一年生トリオにまた、何故判ると騒がれたに違いない。
 乾の目にはこんなにも明らかである海堂の表情は、乾以外の人間には、どうにも判りづらいらしいので。
「どうした?」
 軽い口調で尚も乾が問いかければ、小さく息を零して、そして漸く海堂は答えてくる。
 膝を抱え込むようにして長身を屈ませている乾は、丁寧に相槌をうった。
「葉末が」
「うん」
「………四つ葉のクローバーを探してる」
「四つ葉のクローバー?」
「……そうッス」
 そこまで聞いて、乾は顎に、折り曲げた指の関節を当てて考えた。
 そして、ああ、と頷いた乾を。
 海堂は怪訝そうに見つめている。
「判った。いくら探しても四葉のクローバーが見つからないから、葉末くんはお兄ちゃんに相談してきたわけだ」
「………………」
 海堂が複雑そうに視線を反らしたので、乾は自分が正しく言い当てられた事を悟った。
「海堂、もしかして結構いろいろな所探してるだろ」
「………………」
「練習時間は……削らないだろうからな。起床時間を一時間ばかり早めた?」
「………ほんとは、変な力とか持ってんだろ。あんた」
「可愛いこと言うなあ。海堂は」
 乾があくまで真顔で言うと、海堂は首筋まで綺麗に赤く染まった。
「………、……っ……」
「まあまあ。そう怒らないでくれ。誰にも聞こえてないから」
 噛み付いてきそうな海堂がやはり可愛くて、乾は笑って話を代える。
「確かに四つ葉のクローバーを見つけるのは、なかなか大変な事だな。今は四つ葉のクローバーを花屋で売ってる時代だけれど、出来る事ならそんなんじゃなくて、偶然に見つけたいものだろうし」
「…………だから苦労してるんじゃないっすか」
「幸福の象徴だからね。有難みを考えれば、そう簡単に見つからない方がいいのかもしれないけどな。海堂は、どうして四つ葉のクローバーが、見つけると幸せになれるっていうか知ってるか?」
 知らねえと即答してきた海堂の言葉に被せて、乾は話を続けた。
「クローバーの葉には一枚ずつ意味があってね。三つ葉は、希望と信仰と愛情を意味している。その他の、もう一枚の葉に、幸福って意味がある」
 海堂の視線が再び乾の方に戻ってくる。
 きつい眼差しを浮かべる海堂の瞳は、至近距離から直視すると、虹彩の色が濃くて綺麗だった。
 白と黒のコントラストがくっきりとしている目で海堂は乾を見据えた。
「それなら、わざわざ四つ葉じゃなくてもいいんじゃないっすか」
「ん?」
「三つ葉の時に、もうそれだけのものがあれば、四枚目なんてなくても幸福じゃないですか」
「…成る程」
「…………何っすか…」
「いや、確かに。海堂といれば、イコール幸せだよな。わざわざ幸福だけ単品で欲しがる必要もない」
「……、…っ…な、に言ってんですか……!」
「まあまあ」
 すごく良い事教えてあげるから、と乾は海堂の耳元に唇を近づけた。
 あからさまな内緒話に、触れ合わなくても近い距離で、海堂の体温がふわりと上がったのが乾にはよく判った。
「いつものあの河原の、昨日俺が座ってた辺りの。左側にあったよ。四つ葉のクローバー」
「………は?」
「葉末くん連れて行ってきな。それとなく弟くんがあの辺りを探すようにお兄ちゃんは頑張って」
「…………マジっすか」
「こんな嘘つかないよ」
 笑う乾に、海堂は眉間を顰めた。
 機嫌が悪いのではなく、こういう顔の時は大抵何か大きな疑問を抱えている事が多い。
 他に質問は?と乾が笑みを滲ませたままの唇で問うと、案の定というべきか、海堂は眉間を歪ませたまま言った。
「………乾先輩だって、やっぱりそういう迷信みたいなのは信じてないんだって思っただけっす」
「何で?」
「……見つけても取らなかったんだろ」
 四つ葉のクローバー。
「ああ…それは目先の幸福に充分満ち足りていたわけだから」
「…………は?」
「は?じゃなくて」
 嗜めるような言い方をしたものの、乾はすこぶる機嫌よく笑った。
「昨日河原で、俺の目の前にいたのは、海堂、お前だけだろ」
 見つけたら幸せになれる四つ葉のクローバー。
 それより希少価値のある。
 それより大切な。
 それより実際、確実に幸せになれるもの。
 目を奪われて手を差し伸べたくなるのはどちらかなんて、今更言うまでもないだろう、乾はそう思う。
「海堂がいたから四つ葉のクローバーは俺に無下に摘まれる事なく葉末くんの元に行く。つまりお前自身が、幸せのお守りみたいなものだってことだよ」
「………っ、……恥ずかしいことベラベラ並べてんじゃねえ…っ!」
「恥ずかしがり屋だな。海堂は」
「ふざけんな……っ」
 海堂の怒鳴り声と、乾の笑い声と。
 交ざりあって消えていく先は、桜も終わった春の空へだ。
 SOSなんていう件名で、本文は「今日暇か」という一文。
 何事かと呆れてみせたいところではあるが、内心結構慌てて海堂は乾に電話をした。
 受話器越しの乾の声は、低音なのは普段と変わらず、別段焦った風もない。
 しかし一刻を争うかもしれない提案をしてきた。
「海堂。今晩花見に行かないか」
「…………花見…っすか?」
「いきなりここまで暖かくなるとは思ってなくて急で悪いが。あ、ちなみに人混みではない」
 なかなか咲かないと言われていた今年の桜が魔法のように花開いたのは、気温が前日に比べていきなり十度も上がった昨日の事だ。
 世の中一斉に花見。
 どこの名所も相当な人入りだと、昨日からニュースが伝えていた。
 そんな中で人混みでない花見など出来るのかと危ぶみながら、海堂はその日。
 毎晩恒例のロードワークを早めに切り上げ、いったん自宅に戻ってから電話で乾に言われた通り彼の家であるマンションへと向かったのだった。



 そこに人の姿は全くなかった。
「見下ろす桜っていうのも悪くないと思うんだけど」
 どうだ?と乾に問いかけられた海堂は、頷きながら、尚も桜も見つめる。
 眼下に。
「………………」
 どこに出かけるのかと思ってみれば、乾に連れて来られたのはマンションの屋上だった。
 非常口の扉を開けて、脚を踏み入れた螺旋階段。
 真下の駐輪場を見下ろせば、そこには数本の桜の樹があった。
 大きな枝ぶりで、足元に広がるように桜の花が咲き乱れている。
 風のよく通る螺旋階段に座り込んで。
 夜桜を見下ろすのは、海堂が初めてするやり方だった。
「ほうじ茶とかいれてみたけど」
「………………」
 ステンレスのポットを見せられて、海堂は一層俯いた。
 笑う。
 声はたてないし、顔も見えないだろうけれど、肩の微量な震えで気づいたらしく、乾の声にも笑みが交じる。
「なに。笑って」
「…………確かに笑える立場じゃないんですけど」
「ん?」
 これ、と海堂は持っていた紙袋を手渡した。
 笑みの余韻が微かに残る海堂の表情を、乾が僅かに目を細めて見ている。
「母親に持たされたんで」
「お重だ。凄いな。もしかしてお花見弁当?」
「……小さめの器ではあるんですけど…こんな時間に三段食えますか」
「当然」
 海堂の母親は料理がうまい。
 加えてマメで、季節感を大切にする。
 お花見にはお重のお弁当ですと言ったかと思うと。
 あっという間に気恥ずかしいくらい春らしいお花見弁当を作って、海堂に持たせたのである。
 海堂の母親は、乾の事をすこぶるよく気に入っている。
「あんたの名前出したらこうなった」
「感謝だなあ。……お、箸は一組か」
「……は?」
「何から何まで有難い」
 気を使って頂いてるなあと乾が笑い、マジか?と海堂は思わず呟く。
 そして本当に箸が一組しかないのを見て、がっくり肩を落とした。
 他意があるのかないのか、我が親ながら図りかねると海堂は思った。
 酢ばすやスモークサーモンの手毬寿司、白坂昆布の茶巾寿司など手でつまめるものはともかく、う巻き卵や巻き蒸し南蛮などは、面白がる乾に促されるまま口を開けて食べさせられたりもしたものだから。
 アルコールなんて当然ない花見であるのに。
 海堂は、何だか酔っ払ったような気分にさせられてしまった。
 こんな所で何をしてるんだかというような思いは、見下ろす眼下の桜の前では意味を成さない気もした。
「……俺が桜を好きなのも、データ収集済みだったんですか」
「聞こうと思って呼んだんだ。まだ予想の段階だったから」
「………俺の事で知らねーことないだろ。あんた」
「まさか」
 指についたご飯粒を歯で噛んで乾は笑った。
 ちょうど同じ仕草をしようとしていた海堂は、ふと思いとどまってしまって。
 その一瞬をぬって乾が海堂の手首を掴んだ。
 海堂の指先の一粒を、乾はあっさり食べてしまった。
「な、……」
「花見の席の無礼講って事でよろしく」
「意味わかんねえ……!」
「海堂、桜並みに綺麗な色だな」
「は?……、…」
 乾は笑っていた筈なのに。
 今、海堂の目の前に、あっという間に近づいてきていた乾の顔は真顔で。
 眼鏡の隙間から垣間見える切れ長の目の強さにも息をのむ。
 乾の言葉の通りならば、赤くなっているらしい海堂の頬を、するりと固い指先がなぞってくる。
 散り初めの、桜の花びらくらいのキスに、唇を掠めとられる。
「海堂」
「……………」
 唇が。
 離れていく時に視線が重なって。
「……………」
 今度は首筋にキスをうずめられた。
 痛みというのも憚られる儚さで肌が震えて。
 多分、そこに痕をつけられた。
「………乾先輩」
 海堂の首筋に顔を埋めたまま、ごめんと応えてくる声はやわらかくて。
 性懲りも無く海堂の耳元の下あたりに唇を寄せてくる乾を、しかし押しのける気は沸き起こらず。
 海堂は乾の髪に指を差し入れた。
 喉元への口付けを自ら受諾している姿勢も。
 桜に酔いでもしたか、今は構わない気がした。
 海堂は、ゆっくりと息を吸い込む。
 春の闇の匂い。
「……………」
 乾に背を抱かれて。
 螺旋階段の鉄パイプに身体を押さえつけられて。
 唇と唇とが重なる。
「……………」
 生々しい欲には直結しない、けれども丁寧なキスの繰り返しは。
 満開の。
 零れ落ちんばかりの、桜のようだと海堂は空ろに思う。

 桜と空との狭間で。
 キスは深く、なっていった。
 筋肉の張った腕がゆったりと海堂に向けて伸ばされてきた。
「海堂。ちょっとそれ貸して」
「………………」
 部室で乾がねだってきたものは海堂のバンダナだった。
 まだ着替え途中だった海堂は、先に着替えを済ませていた乾が、コートに向かうでもなく部室内の長椅子に座っているなとは思っていたのだが、突然にそんな事を言われて、バンダナなんてどうするのかと怪訝に目で問いかける。
 ちょうどコートに出ようとしていた桃城が、乾先輩に何ガンくれてんだぁ?と大声を出すので、うるせえ!と怒鳴り返した海堂を。
 乾はといえば優しげな笑みを含んだ顔で見つめてくるばかりだ。
「貸して? 海堂」
「………どーぞ」
 どうせ着替え終わらなければ頭に巻くことも出来ない訳だから。
 海堂はバンダナを手にとった。
「桃の奴、おかしなこと言ってたな」
「……おかしなこと?」
 差し伸べられている乾の手に渡す直前に。
「お前がガンくれてるとかなんとかさ……」
 言われたことの意味が判んなくて、密かに困ってる時の、すごい可愛い顔なのにな、と乾が言うものだから。
 海堂は乾の手に手渡そうとしていたバンダナを、思わず乾に向けて投げつけてしまっていた。
「き、……気色悪いこと言うな…っ」
「なんで?」
 すごく気色いいよ?と乾は笑う。
「………っ……」
 どうせからかうなら、もっと判りやすくあからさまにからかってくれと、海堂は叫び出しそうになった。
 そんな、どう考えても不自然におかしなこと、とても言えやしないが。
 何故乾は真顔でそんな事を言ってのけるのかと、海堂は今度こそ本当に、力いっぱい乾の事を睨みつける。
「海堂。着替えないのか?」
「…………、…っ…あんたが邪魔してんだろ…!」
「海堂が遅刻したら、グラウンド10周の罰則には付き合うつもりだけど」
 優しい声が一層優しくなって。
 気づけば部室に誰もいないのをいい事に、乾の態度にますます衒いがなくなってくるのが海堂にも判る。
 これはもうさっさと着替えて部活に向かおうと海堂は猛スピードで着替えを済ませた。
 その間乾は海堂のバンダナを弄っていたようだが、海堂の身支度が済むと実にいいタイミングでバンダナを返してきた。
 しかしそのバンダナは。
「…………乾先輩」
「何だ?」
「……あんた……ガキの悪戯じゃあるまいし……」
 バンダナの端が結ばれていた。
 いつものように海堂が頭にそれを結ぶためには、解かなければならないしっかりとした結び目。
 呆れ返った海堂が、怒鳴る気力も無く自分のバンダナを手にして深い溜息を吐き出していると。
 ふわりと、海堂の後頭部に乾の手のひらが宛がわれる。
「……………」
 大きな手の感触。
 顔が上げられなくなる。
「……………」
 誰もいない部室とはいえ、ひどく大切そうに数回。
 乾の手に後頭部を撫でられて海堂は硬直する。
「恋の結び目って知ってるかい?」
「……………」
「昔、兵士に恋心を持った人は、兵士が身に着けてるスカーフに恋の結び目を結んで自分の気持ちを現した」
 いつの間にか乾は海堂の手からバンダナを奪っていて。
 端に固い結び目を作ったままの状態で、海堂の頭にそのバンダナを巻いた。
「……………」
 海堂は。
 好きだと、乾に言われる事になかなか慣れない。
 好きだと、乾に伝える事にもなかなか慣れない。
 嫌なわけでは勿論なくて。
 どうしていいのか、判らなくなるのだ。
 そんな海堂を慮ってか、乾はよく、好きだという言葉を使わないで、好きだと伝えてくる事がある。
 今みたいに。
「そろそろ行こうか」
「…先輩」
 そういう乾をとても好きだと海堂は思う。
「……………」
「海堂」
 そう、心で思えば。
 言葉にしなくても気づいてくれる乾に。
 海堂は、今は甘えることにする。
 そんなこと、乾に伝えた事は一度もないけれど。

 恋の結び目が結ばれたままのバンダナ。
 今日海堂が身につけている彼のトレードマークでもあるその代物に、どういう意味合いが込められているかとか。
 そのバンダナを外さずに、つけたままで、部活をする海堂の心情や。
 それを見つめる乾の心境も。
 誰も気づかないものだし、誰も知りえない事だけれど、概してそんな程度でいいのかもしれない。
 まずは何よりも当事者が。
 判っていなければ始まらない。

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 春先、空気は大分ぬるまった。
 川の水は、まだ冷たい。
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 川べりに座り込んでノートを広げ、あれこれと書きつけていた乾に呼びかけられる。
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「……………」
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「……………」
 家族でもない誰かに、そんな風に触れられた事などなかった海堂も。
 不思議と、乾には最初から抵抗感を持たずにいられた。
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「……好きっすよ」
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 最初の頃は何でそんな事を聞くのかとか、あんたに関係ないだろうだとか、あれこれ思ったものだが。
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「日本の花だよな。俺も好きなんだが……この河原には生えてなくて良かったな」
「……………」
 それはどういう意味かと視線で乾を伺った海堂に、乾は近頃一層大人びてきた笑みを向けてきた。
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 そんな風に微笑まれると、もっと優しくなっていくようで。
 何だか怖いくらいだなんて事を思わされてしまう。
「ここに桜が咲いてたら」
「……………」
「きっと見物人で賑わうだろ?」
 話しながら。
 ゆっくりと、近づいてくる乾の顔。
 低い声を紡ぐ口元を、ぼんやりと海堂は見つめた。
「そうしたら、こんな風に海堂とのんびり出来ないし」
「……………」
「二人でこうも、していられない」
「……………」
 散り初めの桜の花弁が、地面に落ちるように。
 乾の唇が海堂の唇を掠めた。
 さらさらと、微かに聞こえる川面の水の流れが、一瞬だけ途絶えた。
 唇と唇が触れていた一瞬の間だけ。
「海堂」
 小さく啄ばむようなキスが、頬と、耳の縁にも。
 海堂は目を閉じてそれを受ける。
「……………」
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 双瞳を閉ざした海堂の、何もない筈の眼下に。
 静かに、次々と、散り始めた桜の花弁。
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「……先輩……」
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「……………」
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 海堂の脳裏に在るのは、淡く繊細な花弁が寄り集まって、とろけるように咲く桜の花。
 そして、その花弁のようなキスを重ねてくる、この男のことだけだ。
 ひっきりなしに海堂を掠っていく乾からのキス。
 終わりたくないキスを、今海堂は、乾で知った。
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