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How did you feel at your first kiss?
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 人一番体力のある海堂も、こればかりは、全く勝手が違う事のようで。
 乾が見下ろす先、乱れた髪で目元を隠して浅く息を継いでいる。
 口元には手の甲が宛てられ、背けた首筋が汗で濡れていた。
「海堂」
「………、…」
 前髪をかきあげてやると泣き濡れた目が現れる。
 乾が海堂の眦に唇を寄せても、海堂は嫌がらなかった。
 まだ小さく弾んだ息を繰り返す海堂の肩を抱きこみながら、乾もそっと身を横たえた。
 腕枕をするような体勢になる。
 それでも海堂はおとなしかった。
「……………」
 人馴れしない海堂が、自分にだけは特別扱いのようにこんな事を許してくれるのを。
 乾は決して、当然のことだと思った事はなかった。
 少しずつ少しずつ。
 警戒心が強くて、礼儀正しいのに人との接触に不自由な海堂との距離を縮めた。
 気詰りと感じさせないよう、二人きりでいる時間も徐々に覚えさせた。
「……………」
 乾は海堂の前髪を手すさびに弄りながら、そのくらいまでは冷静だった自分を思い返して微苦笑する。
 一緒に自主トレをするようになった。
 一緒にダブルスを組むようになった。
 抱き締めたくなった。
 抱き締めた。
 キスをしたくなった。
 キスをした。
「……海堂」
 顔を近づけ、声を潜め、名前を呼ぶと微かに海堂の睫毛が動く。
 伏し目になった後、目線がゆっくりと上がってくる。
 まだ戻ってこられないのかも知れない。
 頑是無い眼差しは普段と違って頼りないくらいに柔らかだった。
「大丈夫か?」
「………………」
 唇が僅かに動く。
 乾は言葉を聞くより先に口付けたくなって、海堂の唇に自分のそれをゆっくりと重ねた。
 また微かに海堂の唇が動く。
 そうすると今度はそこに潜む清潔な舌が欲しくなって乾は深く口付けた。
「………ん………」
「………………」
「…………………っ…」
 海堂に覆いかぶさるようにして。
 ひとしきり唇を重ねた後、乾は海堂の唇から離れたが、その時に、熱っぽく乱れたような海堂の吐息が唇に触れて離れがたくてどうしようもなくなった。
「………………」
 海堂は眠ってしまいたいように見えた。
 億劫そうに瞬きを繰り返す。
 乾が海堂の髪を再び弄り出すと、幼児のように、ことりと眠りに落ちた。
 呆気ないくらいに。
 容易く。
「………………」
 少しそれも寂しい気がしたが、はっきりいって自業自得と乾は理解している。
 ここまで海堂を疲れさせたのは誰か。
 何をしたからか。
「……海堂…」
 それでも。
 眠ってしまった海堂が、まるで、乾のことなど知らない人間であるかのように見えて。
 こうしてじっと見つめているのもやはり寂寥感が募って落ち着かない。
「……追いかけてくか…」
 夢の中に。
「…………………」
 乾は海堂を抱き込んで、目を閉じた。
 すぐに見つけられると、いい。
 データも、推測も、まるで役にたたない世界の話だが。
 見つけられない筈もないだろうと乾は思う。
 そして眠る。
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 乾という男は実際相当に上背があるのに、全く圧迫感がない。
 どこか無機質な気配の持ち主で、話し始めれば饒舌なのだが沈黙し続けるのも決して苦痛ではないらしく、四六時中何かしらの考え事をし、それに没頭し始めると植物みたいに気配が消える。
 そんな乾の側が、海堂には不思議と心地良かった。
 乾の周囲はとても呼吸のしやすい、落ち着いた密度に満ちている。
「………………」
 部活が終わり、部室で制服に着替えながら、海堂はこっそりと背後の乾を伺った。
 乾は先ほどからずっと、ノートに何かしらを書きつけている。
 一時も手を休める事なく、中断もしない。
 海堂が部室に入ってきた時、すでにもう他の者の姿はなく、着替えを済ませた乾が一人でいた。
 その時から、今までずっと、沈黙が続いている。
 だがそれは海堂にとって少しも苦痛ではなかった。
 静かな沈黙だった。
 ただ海堂は、この後どうしようかを考えて、少しだけ悩んでいる。
 何となく乾を待っていたいような。
 自分の中にそんな物慣れない気持ちがあることを、海堂は認めていて。
 でも、いざそうしようと決めてしまうには、最後の踏ん切りがつかなくて。
 基本的に単独行動しかとれない海堂には、誰かを、そのすぐ側で待つという経験がなかった。
 どうしようかと思い悩む分、つい行動が遅くなる。
 シャツの釦を下からとめていきながら、海堂は、何の理由もなく自分がここにいられる時間のカウントダウンを自らでしているような気分になる。
「………………」
 最後のゼロを唱えるように。
 シャツの一番上の釦を海堂がとめ、溜息をついた時だった。
「計算通り」
「………………」
「同時だな」
 乾の声だ。
 振り返った海堂の視線の先。
 乾は、ぱたんと音をさせてノートを閉じた。
「……乾先輩?」
「海堂の着替えと、俺のデータ整理が終わるのは、俺の予想通り同時刻」
 そう言って。
 乾は、唇の端を引き上げる。
「……俺に気付いてたんですか?」
 乾の眉が器用に跳ね上がる。
「当たり前だろ海堂。俺がお前に気付かない訳あるか」
「………目はノートを直視。手は一度も止まらない」
「そうしないと同時に終わるのは無理そうだったしね。第一、目や手がどうでも、感情は全部海堂に向いてるから」
「…………………」
 何の衒いもない。
 乾はそんな事を言って、立ち上がり、海堂の元へと近づいてきた。
 海堂は、緊張とは違う何かで、居住まいを正すような心持になる。
 乾を見上げた。
「…………………」
「……海堂」
「………、……」
 背の高い乾が、僅かに上体だけ屈めるようにして、海堂にゆっくりと顔を近づけてくる。
 乾の声は、海堂の耳元のすぐ近くに直接ぶつかってきた。
 咄嗟に息を詰めた海堂の耳に、直に触れそうな至近距離で。
 乾は海堂の名前を繰り返した。
 海堂の背中がロッカーに当たる。
 まるで追い詰められているような体勢で、乾に名前を呼ばれる。
「海堂」
「…………………」
 視界いっぱいに、あるのは乾の身体で。
 自分と同じ制服のシャツ。
 普段は無機質な乾の気配が、熱量をいきなり増したように海堂には思えた。
 自分の耳元にいる乾の声に、海堂は幾度目か、息をのむ。
「………海堂、なんか…熱っぽい?」
「……、…………」
 判っていてそんな事を言っているのなら、もう罵詈雑言尽くしてやろうと海堂は思った。
 しかし乾の声は真摯でそれも疑えない。
 どっちがだと心中でのみ海堂は毒づいた。
「………っ……、」
 すると突然首筋に、差し伸べられてきた乾の指先が当たって。
 海堂は身を竦ませる。
 渇いた大きな手のひら。
 それが海堂の体温を確かめるように、首の脇に潜りこんできて、包まれて。
 海堂は乾のその手首に、取り縋るようにして指先を食い込ませた。
 それと同時に乾が覆い被さるようにして海堂の唇を塞いできた。
「…………、ん」
 熱を確かめる乾の手の中で、海堂の動脈は走るように震えた。
 乾の手首に、更にきつく海堂が指を縋らせれば、乾のキスがまた一層強くなる。
「ン…、…っ………」
 キスの歯止めがきかなくなる。
 言葉も交わせなくなる。
 誰もいなくなった部室で、ただ唇を合わせることしか出来なくなる。
 例えば息を零すとか、例えば相手の身体に触れるとか、例えば相手の舌と絡まりあうとか。
 何かしらのリアクションごとに、キスが追い詰められて深くなる。
「……………、ァ」
「………………」
「ぅ………」
 唇が離れると、海堂の唇は零れるものに濡れた。
 こくん、と海堂の喉が鳴り、それでも唇から伝ったものを、乾の指が拭った。
「………熱上がってるのは俺だな」
 乾の、ひそめた低い声の甘さが。
 海堂へとみるみるうちに侵食してきて。
 海堂は浅い呼吸を繰り返すばかりだった。
 乾の胸に抱きこまれて。
 沈黙する自分達。
 そこから、切望するように背をかき抱かれるのが堪らなかった。
 今こうしている乾は、普段の乾とは違う。
 その身に備えている従容とした雰囲気を削ぎ落とし、繰り返し繰り返し、海堂の名前を囁きながら口付けてくる熱量の高さには、海堂の躊躇も熔かされた。
「海堂…」
 そう呼ばれるまま、浮かされたような目で海堂は乾を見上げる。
「………………」
 互いに灯ったこの熱を。
 ゆっくり宥めあうよう心を決める。
 互いが互いへと伸ばした腕で。
 背中を抱き寄せ、身体を寄せる。

 この先よりも、今はこのキスがしたい。
 呼吸のように、このキスをしていたい。
 ここ一年、青学テニス部の持久走のワンツーフィニッシュは、手塚、海堂、という順で決まっていた。
 肩を痛めた手塚が、治療の為に部を離れて、その後は二番手は流動したが、長距離を先頭で走り終えるのは必ず海堂だった。
「………これに…関しちゃ、マジで化物、だぜ、あの…野郎…!」
 遠い背中に悪態をついた桃城に、いつの間にかするすると追いついてきていた不二が走りながらの笑顔で言った。
「ね、今日はどうしたんだろう?」
「……何が…っスか。不二先輩」
 何気に余裕ですねと桃城が見やった先で、何気に桃はバテバテだと不二は笑った。
「乾がね。二番手キープしてるんだ」
「………あ…?……あー、…みたいっすね…確かに珍し……」
「気になるから近くに行ってみようかな。桃お先」
「俺も行くっすよ…!」
「……練習前にコンビニの中華まん全種類、しかも二個ずつなんて食べたりするからだよ」
 軽やかにスピードアップした不二のすぐ後を、菊丸やら越前やら、基本的に野次馬見物が嫌いでない面々が桃城を次々と追い抜いていった。
「………くっそ……豚トロまんを三個で止めときゃ俺だって……!」
「…………部活前にその量は明らかに食べすぎだぞ桃」
「あ、大石先輩…!」
「本当に桃はよく食べるなあ」
「タカさんまで…!」
 今日の乾汁の餌食は俺なのか?!と顔面蒼白になる桃城だったが。
 レギュラー陣の誰もが何とはなしに、今日は乾汁は無しの方向でいくんじゃないかと思っている。
 何分今日の乾は、とてもそれどころではなさそうだったので。
 


 さすがに旧知の仲間。
 誰もが正しく乾という男を理解していた。
 今日の乾はいつもは生きがいと言ってもいい汁の事など、欠片も頭になかった。
 乾の頭の中は、はっきり言ってしまうと、自分の前方を走っている伸びやかな長い手足の後輩の事しかないような状態だ。
 ゴール地点寸前で、また距離を開けられたが、それでも。
「…………………」
 海堂、乾、の順で千五百mを走り終えた。
 肩で大きく息を繰り返しながら、乾は海堂の手をとった。
 無論背後から来る友人達からは死角であるという事は確認した上での行動だったが。
 海堂は即座に、びくりと反応した。
 まだ走り足りなさそうな海堂の呼吸はあまり乱れていない。
 それでもうっすらと顔が赤くなっていくのがつぶさに見てとれて、乾は唇の端を引き上げた。
「やれば出来るな俺も」
「………そんなに息荒く言われても」
「そう言うな海堂。神がかりじゃないか。俺が千五百で二着ってのは」
「………………」
 一向に落ち着かない呼吸で。
 笑いながらも苦しげに話す乾に海堂は眉を寄せた。
 乾の手からそっと逃れて。
 乾はそっと逃がしてくれて。
「………………」
 海堂は自分のタオルを手にとった。
 それを乾の頭にふわりと被せる。
「海堂?」
「………………」
 タオル越しに、海堂は乾のこめかみから頬を通って顎に落ちていった汗を拭う。
「…………汗…すごいっすよ……」
「……そりゃあもう必死だったから」
 ぶっきらぼうでいながら、細やかな気配りの感じられる手で。
 ひとしきり顔の汗を拭われた乾は、ふと差し向けられてきた海堂の小さな声に、上半身を屈めた。
「………ん…?」
「……………だから……」
「何?……」
 海堂はどことなく言いにくそうに、躊躇ったような沈黙をつくった。
 根気よく乾がそのままの体勢で待っていると、中途半端に乾の顔からタオルを離して、海堂は時期に、ぽつりと言った。
「………何でそんなに今日は」
「…ああ、持久走のこと?」
 もったいぶるつもりもないから、乾はあっさりと白状する。
「髪がね」
「………髪?」
「そう。海堂の髪」
 不思議そうに聞き返してきた海堂に乾が頷く。
「バンダナしないで走るの、珍しいじゃないか」
「……あ…」
「普段でもサラサラで綺麗な髪だとは思ってたけどな。走り出したら、その髪が、またすごいよくて」
「……、……」
 海堂が、また赤くなった。
 からかってないよと乾はすぐさま小さく付け加える。
「……本当に綺麗だった」
「…………先輩」
「あんまり綺麗で、気付いたらふらふらと後を、ってわけ」
 含み笑って、乾は海堂の髪の先を一束、指先で摘まむ。
 きゅっと微かに音がたつ。
 海堂は何だか硬直したように動かない。
 乾は、あまりあからさまにならないように。
 もう少しだけ、と唇を動かした。
 海堂は乾を睨みつけてきたが、拒まなかったし、一層頬を赤くもした。
「……こんなにサラサラだと、三つ編みとか出来なさそうだな」
「………何すかそれ」
 呆れ返った口調の海堂を、甘くあしらう乾はすこぶる機嫌が良かった。
「うちのクラスの女性陣がね。昼休みに三つ編み早編み競争なんてのをやってたからさ。興味深く眺めてたらいつの間にか頭の中は海堂の事だけになってて」
「……、…だから何で三つ編みで俺……!」
「海堂より綺麗な髪を、俺は知らないなあと思ったわけ。彼女らに俺の心の声が聞こえてたら、とても二着は無理だったな」
 殺されると笑いながら、乾は両手を素早く海堂の髪へ宛がう。
「あ。ほら。すぐほどける」
「………っ……何やって…」
「三つ編み」
 昼休みの光景を思い出し、見よう見まねで乾がやってみると。
 海堂の髪は、乾が手を離すと同時に跡形もなく元通りに戻っていった。
 真直ぐで、艶のある細い黒髪。
「何いちゃいちゃしてるの? 乾」
「やあ不二」
「乾にご褒美かい? 海堂」
「…………っ……、…」
 絶句する海堂は、気付けば不二どころか、他のレギュラー陣からも取り囲まれていた事を知る。
 面白がっているような雰囲気に、海堂が出来た反抗は、せいぜい乾を睨みつける事くらいだったようで。
 その後はもう。
「……あ。逃げた」
 一際海堂をからかう声音で越前が言った通り、海堂はその場から走っていってしまった。


 レギュラー陣で持久走の最下位となった桃城が、単独で走ってきた海堂を見つけ、笑いたけりゃ笑え!とやけっぱちに怒鳴った時。
 海堂は笑うどころか、生まれて初めて桃城に感謝してやってもいいような気になっていた。
 少なくとも桃城は、三つ編みにされた海堂を見ていない、唯一の、青学テニス部のレギュラー陣だったわけだ。
 昨晩母親が手紙を書いていた。
 銀色のキャップのインクボトルには、ピンクともパープルともつかない不思議な色のインクが入っていて、大事にしているガラスペンで手紙をしたためていた。
 ふと顔を上げた母親は海堂に向けて、学生時代からの友人宛てなのだと言って、小さく笑みながらその手紙を持ち上げて見せた。
 そこには、何も書かれていなかった。

 甘い色合いのインクは、外国製のあぶり出し用のインクだった。
 父親が愛用してるマーベラスの炎で、試し書きした別の紙面をそっとあぶると、ゆっくりと浮かび上がってきた文字の羅列。
 滲むように。
 今までは何もなかったところに、はっきりと姿を現していく文字。
 まるで自分の頭の中のようだと海堂は思った。
 ライターの炎のような、極小さなきっかで一気にあぶり出され、形を成していく。
 一見目に見えなくても、正しい手法を使えば、こんなにも鮮やかにさらされるもの。
 暴き出された感は否めず、だからといってそれを不快と思った事は一度もない。
 自分の感情も、このインクのようなどこか甘いような色をしているのだろうかと海堂はぼんやり考えた。
 
 あの色の感情で、海堂が考えたのは、乾のことだった。
 昨夜の曖昧な羞恥をふと思い返してしまって、海堂は慌てた。
 今はトレーニング中だ。
 ましてその乾とだ。
 考え事に没頭してしまった自分が、乾に気付かれているかどうか。
 柔軟をしながらこっそり盗み見た海堂は、案の定、乾としっかりと目が合った。
「………………」
 気付かれて当然だ。
 決まり悪げに柔軟を中断した海堂に、しかし乾は意外な言葉を口にした。
 口元に当てていた彼愛用のデータノートを外して、やんわりと微苦笑して。
「気付かれたか」
「………はい…?」
「うまく隠し見てたつもりだったんだけど、やっぱり海堂は気配に敏感だな」
「…………………」
 全く思いもしていなかった事を言われて海堂は面食らう。
 その隙に、ジャージ姿の乾はノートを置いて、もう海堂の前に屈んでいた。
 両足を開いて座り、中途半端な前屈の体勢でいる海堂の正面に腰を下ろし、乾は海堂の右の足首をつかんだ。
 咄嗟に少し身体に力が入った海堂だったが、二人でする自主トレの後で、乾が海堂の筋肉をチェックすることは時々あったので、すぐに脱力する。
 ほんの僅かだけ海堂に残った緊張は、それでも相手が乾だという事以外に理由はない。
 乾の手は、手のひら全体でマッサージしていくように海堂の足首からふくらはぎまですべってくる。
「こっちのパワーアンクル、また少し外しておいたほうがいいな」
「………っす……」
 硬い手のひら。
 骨ばって長い指。
 乾の手は暖かかった。
 そんなことを心地良く海堂が思っていられたのは、乾の手が海堂の膝にかかるまでだった。
 乾の指の腹が膝裏の薄い皮膚に触れた途端、思わず海堂は息を詰めた。
 ことさらに、ゆるくそこを撫でられる。
 咄嗟に目も瞑ってしまい、海堂はその感触に耐えた。
「…乾…先ぱ…?」
「……俺があからさますぎるのか海堂が敏感すぎるのか」
「な、………」
 唇の端を引き上げて言い、乾は両手で海堂の膝を包んだ。
 乾の両方の手の指が膝裏にかかって海堂の足が竦み上がる。
 飲み水を両手ですくうようにして、海堂の膝を包み、乾はゆっくりと上体を屈めてくる。
「……、……っ……」
 膝に唇を押し当てられ、海堂は小さく声を上げた。
 舌先で舐められるのを感触で理解して、海堂は乾の肩を掴む。
「止め…、……」
「…………それは難しい…」
 なにいって、と声にならない声で海堂が訴える間に、乾の手は膝から腿へ這い上がってくる。
 どこかまだマッサージの延長のようなやり方で逆撫でされていくが、ハーフパンツを押し上げられ、足の付け根の極薄い皮膚に乾の指先が沈んできた時にはもう、海堂もそんな事を言ってはいられなくなった。
「………ッ…、…ぁ…」
 乾の肩をつかんだまま、背を丸めて小さく声を上げた海堂に、風邪が吹き付けてくるようなキスが与えられる。
「…………………」
 噛み締めた唇を掠めるだけのキスだったが、乾からの忍んだ欲情の気配に海堂はくらりと眩暈じみたものを感じた。
「………お持ち帰りしてもいいか?」
「…………知るか…っ……」
 ごめんごめん、と。
 軽い口調の割には神妙な声音で、乾は言って。
 海堂の腕を引き上げながら立ち上がった。


 あのインクの色をしているであろう海堂の感情は。
 またもや乾からの接触や言葉でもって、海堂の脳裏にはっきりとした形となってあぶり出された。
 乾のミスだと言って、小さく笑ったのは不二だった。
 本当だ!全くだ!とそこに便乗して大笑いを始めたのが菊丸。
 控えめな苦笑いをしたのが大石。
 完全なる無表情だったのが手塚である。
 昼休みに廊下で偶然顔を合わせたテニス部の四人のレギュラー陣。
 彼らがもっか恰好のネタにしているのは、校内に響き渡る呼び出し放送の。
 その声の主と、内容についてだった。
『繰り返します。二年七組。海堂…薫』
「うっわーエロイ!エロエロ!」
 地団駄を踏みながら爆笑する発狂寸前の菊丸の横で、不二が軽やかに笑う。
「うーん…すごいね。乾の本気声」
「本気声って不二……」
「あれ。大石には判らない?」
「……いや。お前達の言いたいことは判るさ。判るんだが」
「無駄にエロイ!エロエロボイスの垂れ流しだにゃー乾!」
「……………英二」
 右の不二に慌て、左の菊丸にもっと慌て、大石は実に忙しい。
『至急テニス部部室に』
「何故乾が海堂を部室に呼んでいる?」
「何故って手塚…」
 とうとう正面の手塚にも慌て、大石はいよいよ限界が近い。
 胃を押さえる仕草に哀れを感じたのか、不二と菊丸は怪訝がる手塚の両サイドを固めた。
「馬鹿だよにゃー乾は!俺たちが集まってる時に、こんな放送かけちゃってさー」
 もう言い訳きかにゃーい!と菊丸は手塚の真横でケラケラ笑う。
「タカさんは今職員室だしね。乾が完璧に私用で海堂を呼んだって事は、周知の事実になっちゃったってわけだ」
「不二。だから何故乾は海堂を呼ん」
「ねえ手塚。乾が本気を出すとああいう声になるんだね」
「本気を出す?」
 なんだそれはと聞く手塚をあっさりスルーして、不二は菊丸ときらびやかに盛り上がり始めた。
「なんかあんな声流しちゃってさ、ここいらの空気、ピンクくない?」
「うん。ピンクか紫かって感じだよね。英二」
「薫の前のタメがまたエロイ!」
「聞いてるこっちが恥ずかしい」
「ラブい! ラブすぎ乾! 海堂のこと全校生徒の前で口説いてるようなもんじゃんか!」
「乾らしいよねえ…」
「ねー?」
 続く二人の会話に、意味が判らないんだが?と生真面目な矛先を手塚から向けられた大石は、きりきりと痛む胃に引きつりながらも手塚を嗜めるように肩に手を置く。
「気に、気にするな手塚」
『海堂薫』
「…うっわー!三度目いった!」
「切な気だねえ…乾…。放送部さしおいて美声披露しちゃって」
「超エロボイス…!俺駄目…なんかもーこれ聞いてると死ぬ…!」
「大石。乾は何回海堂を呼ぶ気」
「手塚。それは勿論来るまでじゃない?」
「……そうなのか?不二」
「たぶんね」
 でも大丈夫、ほらみんな見てご覧、と不二の指先がすっと持ち上がり、廊下の奥を指し示す。
 つられて全員が視線をそこに差し向ければ。
 そこに見えているのはまさに今放送で呼び出しをかけられている海堂薫だった。
 こちらに向かって走ってくる。
「やあ海堂」
 彼が急いでいるのは誰の目にも明らかで。
 しかし部の上級生が四人も揃っていれば、根が真面目な海堂がそこを素通り出来る筈がない。
 まして声をかけたのは不二である。
「………っす…」
 走っていた足を止めて、海堂は目礼してきた。
 部活の時とは違い、バンダナをしていない黒髪の襟足が首筋からさらりと零れる。
「海堂ー。えらいなー部室まで走ってくの?」
 じゃれつくような菊丸に背中から覆い被さられて海堂はぎこちなく身じろいだ。
「あの、菊丸先輩…」
「こら英二。海堂が困ってるじゃないか」
「ほーい」
 大石が嗜めるとあっさり手を引いた菊丸だったが、完全に悪戯っ子の表情で、ぐいっと海堂に顔を近づける。
「全校放送で口説かれてる気分は?」
「…くど、?」
「もー照れないのー薫ちゃん!」
 可愛いなあ!と菊丸に再度飛び掛られ、頭でも背中でも、かい繰り回されて。
 海堂は、かといってそんな菊丸を振り払うに振り払えずされるがままだった。
「英二!」
「だって大石ー。乾がさー」
「大胆というか、策士というか、ある意味なんとも衒いがない男だよ。乾は」
「どうも俺には未だにお前達の話が判らないんだが」
 海堂そっちのけで賑やかになっていく三年生達をよそに、海堂は溜息を噛み殺しながらなるべくさりげなく菊丸の腕から逃れた。
「……じゃ、悪いんですけど俺行くんで」
「なんだよー。乾ばっかじゃなくて、海堂もラブラブなんじゃん!」
 そんな急ぐ事ないだろう?と絡み出した菊丸に。
 海堂は急ぎますと生真面目に言った。
「早いところ行かないとやばいっすから」
「ヤバイって何が?」
 海堂は、少し言葉を考えるような沈黙の後。
「……乾先輩…相当具合悪そうだから」
「乾が?」
 何で?どうして?と菊丸が言えば、さっきの放送の声でわかりませんかと寧ろ不思議そうに海堂が返してくる。
「………………」
 三年生達は思わず顔を見合わせた。
 はっきり言って乾のあの放送の声は。
 海堂の名前を繰り返した、菊丸言うところエロボイスでしかないという認識である。
「…………じゃ、すみません」
「……ああ」
「……おう」
「……じゃあにゃー」
「……いってらっしゃい」
 走り出した海堂の背が、あっという間に小さくなっていくのを、三年生達は思わず揃って手を振り見送るのだった。

 そしてその日乾は。

 午後の授業を受けず、部活も休み、見事に早退をした。
 何とはなしに三年生から、尊敬の念のこもった眼差しを、一身に浴びる海堂薫であった。
 乾の機嫌があまりよくないようだと、口付けられながら海堂は思った。
 舌が貪られる。
 深く、というより。
 強く。
「…っ……、…」
 海堂はうっすらと目を開ける。
 乾の表情は近すぎて見えない。
 普段ならあやすように呼吸の時間をくれる乾が、舌を絡めとったままキスを解かない。
「ン……ッ…」
「………………」
「……ぅ……」
 乾の硬い指が、ひっきりなしに海堂の胸元をさまよっている。
 時折痛みを覚える箇所があって、海堂は乾に絡めとられたままの舌を震わせる。
 たいした事のない筈の打撲は。
 乾の唇と指とでここまで追い詰められ、胸の内でがなるような鼓動を繰り返していた。
「………海堂」
「…、……っ……」
 どれくらいぶりにか唇が離れ、海堂は肩で息をした。
 頭がふらつく。
 仰向けに寝ているのに眩暈がした。
 試合の後だってこんな風にはならない。
 唇がひりついて、口腔はひどく熱いのに、乾に奪われ続けた舌は痺れるようになって感覚が危うかった。
「………ツ…、…っ……」
 乾の大きな手のひらで胸元を押さえ込まれ、海堂ははっきりと呻いた。
 二日前の些細なトラブルで打撲した胸は、ここまで痛んではいなかった筈なのに。
 乾に触れられて、思い出したかのように疼き出す。
「お前に、こんなものを残した相手は?」
「…………………」
「海堂」
 抑揚のない乾の声が聞き取り辛く、海堂は空ろな目を向けただけだった。
 正直、海堂の打撲の跡を見て、乾がこんな風になるとは思っていなかったのだ。
 驚くかもしれない。
 少しは怒るかもしれない。
 海堂の認識はその程度だった。
 まさか乾がこんなに静かに怒って、手加減のない不機嫌をありのままぶつけてくるとは考えていなかった。
「……………」
 何なんだこれ、と。
 また胸の上で。
 乾の手のひらに押し込まれて自覚する痛み。
 その聞き慣れないきつい問いかけにも雁字搦めにされて、海堂は眉を寄せたまま首を左右に振った。
 うまく言えそうになかった。
「……………」
「海堂。俺にも、我慢出来る事と出来ない事があるんだよ」
「………………」
「お前を……こう、した相手」
 眼鏡のない乾からの視線に撫でられた胸元が熱くなる。
 海堂は息を飲んで。
「…………、…先…輩、」
「庇っても結果は同じだ」
「……庇ってなんか…ね…よ」
「同じだよ。海堂」
 冷たいくらいに激怒している乾が、怖い訳ではない。
 でも。
「………………」
 海堂は震えるように手を伸ばした。
 乾の首に両腕を絡めるようにしがみつく。
「……いやでも全国大会行けばいる……」
「どこの中学だ」
「………六里ヶ丘とか…」
「ああ。取材班のいる中学だ」
 尚更都合が良いと乾は低く言い、海堂の唇に噛み付くような荒いキスをした。
「お前に怖がられても」
「……誰が怖がるんですか」
 海堂は気配の鋭くなっている乾の髪に指先を沈ませた。
 乾からの、きつい口づけを受けながら、舌をあけ渡す。
 痛いくらいに奪われる舌。
「………………」
 海堂は全身から力を抜いた。
 滅多にない乾の不機嫌の取り込み方を覚えたい。

 それすらも、欲しい。
 部活のメンバーで電車やバスなどの乗物に乗る時、乾は仲間達と少し離れたところで、座ったり立ったりしていることが多い。
 仲間の目の届く距離だけれど、大抵少し離れた所に彼は居て、データ整理をするか眠るかしている。
 そんな乾が最近、空席や空間を見つけては、一人でなく。
 手を取ったり。
 背を引き寄せたり。
 名前をそっと呼ぶ事で。
 海堂の事も、そこへ一緒に連れて行くようになった。
 二人で、集団から離れるようになった。
 時々仲間内からからかうような冷やかしの声がかかる。
 そういうものに全く慣れていない海堂が固まってしまうのを見て、乾は大抵軽く笑う。
 気にするなと低い声で穏やかに言い、躊躇する海堂を連れ出していく。
 どうして自分を連れてくるのかと海堂は乾に時々聞いた。
『一緒にいたい』
 耳元で、低い声が、大抵は、そう言った。
 時々内容が変わった。
『多少くっついていても不自然じゃないシチュエーションだから、海堂を側に置いておきたい』
『見せびらかしたいのもあるかな』
 乾からの、特別な扱い。
 それは海堂にとってひどく気恥ずかしいものなのに、少しも嫌なことじゃなかった。
 海堂は今日も乾に聞いていた。
 何度そうされても不思議なままの、二人きりになる理由。
 そして今日の乾からの言葉は、海堂が初めて聞いたものだった。
「海堂、電車やバスで座ると、だいたい眠るだろ。これが可愛くて」
「………………」
 隣同士で腰掛けて数分。
 実際もう、うとうとしかけていた。
 乾の手に上手に促されて、いつの間にか乾の肩を借りていた。
 囁かれても、気持ち良いばかりで。
 何だか髪に、触られたりもしているようだけれど。
 どうでもよかった。
 心地よかった。
「海堂見てたら眠くなってきた」
 俺にも肩貸して、と。
 笑みの気配と共に乾から海堂へと凭れてきた重み。
 ひどく近い距離。
 揺れる車内。
 同じ呼吸で目を閉じたまま、何もかもがとろけるように、自然で優しい。
 二の腕を軽く叩かれて、海堂は自分を呼ぶその所作に視線を向ける。
「海堂」
 まだ海堂の二の腕に触れたままになっている大きな手。
「………ミーティング中」
「うん。だから小さい声で」
 すでに充分声を潜めていた乾の更なる言い様に、海堂は眉根を寄せた。
 何せ今はテニス部のレギュラー陣が集まっての臨時ミーティングの最中である。
 本来部活のある日ではないので全員制服姿だった。
 いくら後ろの方の席に座っているとはいえ、海堂はこういう状況で私語が出来るタイプではない。
「なあ。一個だけ質問」
「………………」
「なあ…海堂。一個だけ」
「………………」
「海堂ー…」
 ああもうっ、と怒鳴ってしまいそうになるのをぐっと堪えて。
 海堂は乾を睨んだ。
「……何ですか」
「あ、答えてくれる?」
「…………、いいから早く言えって」
 乾にゆさゆさと腕を揺すられた海堂は、衝動を辛うじてやり過ごす。
 それに引き換え乾はのんびりとしたもので、海堂にまた少し近づいてきて。
 海堂を見つめながら唇の端をやんわりと引き上げた。
「あのさ。旅行に行くとしたら海堂はどこに行きたい?」
「…………クルンテープ」
「天使の住む都か。いいね」
「………………」
 タイ語だよなあ、それ、と。
 至極平然と答えた乾に。
 果たして彼に知らない事なんかあるのかどうかと。
 海堂は歯噛みした。
 適当にはぐらかしたつもりが何の役にもたっていない。
 少しくらい動じるとか面食らうとかないんだろうかと一つ年上の男を見つめていると。
 その男は、また一層海堂に近づいてきた。
 腕と腕が必要以上に密着して、重みをかけてこられてるようでもあって。
 海堂はぎょっとする。
「ちょ、…」
「うん。ちょっと予算の関係で国外は無理だね。国内でどこかない?」
 勝手に話を続けるなと毒づいてから海堂は僅かに戸惑った。
「………さっきからあんた何言ってるんですか」
「うん? コレ。当たっちゃったよ」
 そう言って乾が海堂に取り出して見せた紙片。
「……旅行券?」
「そう。懸賞でね」
 だからどこかに行かないかと乾は言った。
「今月三連休あるだろう?」
 行こうよ、と低く囁かれる。
「…………………」
 近頃時々海堂は乾のこういう声を聞く。
 普段の落ち着いた声の中に、嬉しそうだったり楽しそうだったりする感情を交ぜて、更にすごく優しい感じの。
「…………判りました。でもとりあえずその話は後で…」
「今したい」
「……、我儘言ってんじゃねえ」
「海堂には我儘言いたくなるんだ」
「…………っ…、……」
 何の衒いもなく言い切られ、とうとう海堂が羞恥だか理性だか一般論だか、何だか判らない感情で耐え切れずに声を荒げようとした時だった。
「乾! 海堂!」
 よく聞きなれた怒声が、室内にビリビリと反響する。
 彼の一喝は、いくら繰り返されても人が慣れることはない。
 あーあと乾は眉間を顰め、海堂は微かに首を竦めた。
「いい加減私語を慎め!そこの二人!」
「……ごもっともだけど手塚。お前、今日くらいはそれ止めろ」
 たいしてこたえた風もなく、ただ苦笑いしてそう言った乾に、それこそ今日ばかりはと他の面子も乾に加勢した。
「そうだよ手塚ー。手塚の誕生日祝いについて話してるのに、そうやって手塚がいつもの調子だと、なんかもうやりにくいったらないにゃー」
「全くだよね。英二。僕らが提案した企画なんか真っ先に手塚本人から却下だものね」
「中学生がそんな場所に出入りしていいわけないだろう」
 手塚の抑揚のない断言に菊丸と不二は顔を見合わせて呟く。
「ただのカフェなのにー…」
「アルコールは夜だけなのにね…」
「おしゃれで可愛いのににゃー…」
「ひどいよね手塚…」
 いや、何もひどい呼ばわりまでは、と言いながら大石も幾分困ったような顔で手塚を伺っている。
「タカさんの所でも駄目なのか?手塚」
「いつもいつも河村の家に集まって、客商売していらっしゃるのに家の方にご迷惑だろう」
「え、そんな事ないぞ?手塚。親父も楽しみにしてるし…」
「そうっすよ部長!タカさんだってこう言ってるんですから、ごちそうになりに行きましょうよ!」
 河村に桃城と加勢が増えていっても、手塚の態度は変わらない。
「俺の誕生日を祝ってくれるというその気持ちだけでいいと何度言えば判る」
 誰がここに手塚を呼んだんだと一同が頭を抱えてしまう。
 内密に事をすすめるつもりが、すっかりばれているうえ、出す案出す案、本人に全て却下されていくのである。
「お前たちは放っておくと、贅沢や無茶な事ばかりしようとする。誕生日おめでとうと言ってくれた各自の言葉だけで俺は充分だ」
 鋭い視線を均一に配った手塚に、いや、だからそういうんじゃなくてと面々は肩を落とした。
 もっとこう、情緒というか、中学生らしい盛り上がりをだなと各々が手塚に必死で意見する。
 しかし彼らの部長手塚国光には。そういった事はまるで通じない。
「…………………」
 すっかり完全に不貞腐れてしまっているのは青学期待のルーキーからあっという間に今や戦力の中心となっている越前で、彼などはもう部屋の隅の席で、目深に被ったキャップのツバから、じとーっと暗い視線を手塚に向けている。
 不貞腐れているというより、これはもう完全に拗ねているのだ。
「………部長は言うこと聞かないし……乾先輩と海堂先輩は部長や俺達そっちのけでいちゃついてるし…」
「いちゃ、……ッ、」
「悪かったな越前」
 全然悪がっていない笑顔で乾が答え、海堂はとうとう絶句した。
 生意気な後輩の平然とした言い様にか、真意の掴み辛い先輩の臆面もない物言いにか。
 とにかく海堂は固まって、そんな彼を気遣うのは何故か手塚だった。
「大丈夫か海堂」
「う、……っす」
「手塚。越前が可哀想だろう。いい加減大人しく祝われろよ」
「………かわいそう?」
「なあ越前?」
「………何かムカツク」
 言うだけ言って乾は手塚と越前から離れた。
 再び海堂に近づいてきて「それで旅行はどうしようか?」とまたあの不思議に甘い低音で囁いてくる。
「乾先輩」
「大丈夫。ああ言っておけば手塚はもう越前の提案をそのままのむよ」
 それより俺達の予定、と内緒話をするように海堂に耳打ちした乾に。
 誰からともなく、いちゃつくなーという声が飛び交うのだった。


 手塚のバースデイには、越前の家のテニスコートで、手塚杯と称したレギュラー陣のトーナメント戦が行われた。
 優勝者はやはりの主役である。
 手塚杯の影で、あろうことかとある賭けが行われていたらしく、試合後、乾が落ち込み、海堂が機嫌良さげにしていた。
 賭けの対象は旅行の行き先のようだった。
「海堂ー。やっぱり温泉にしようってー」
「往生際悪いっすよ。信州に蕎麦食いに行くんです」
「浴衣ー…旅館ー…」
 男のロマンー、と嘆いている乾に、海堂が赤くなる。
「だからそこー!手塚の誕生日にいちゃつくんじゃなーい!」
 菊丸の大声を、タオルで汗を拭きながら手塚が制する。
「俺は別に構わんが」
「……そういう問題じゃないんですけど。部長」
「越前」
 決勝戦を終えたばかりの二人は、同じようにタオルを首にひっかけていった。
 手塚の手が越前のキャップの上に乗る。
 また強くなった。
 そう言った手塚に、越前がゆっくりと笑った。


 数日後の三連休、乾と海堂は長野に蕎麦を食べに行った。
 乾言うところの男のロマンも、海堂の妥協により、どうやら無事に遂行されたらしかった。
 これはこれでクルンテープ。
 天使の住む都の話だ。
 背中に大きな手のひらがぴったりと宛がわれている。
 海堂はゆっくり息を吸い込んだ。
 呼吸をよんで、乾が力をかけてくる。
「………………」
 少しずつ息を吐き出しながら、海堂は上体を前方に倒していく。
 乾に正しいストレッチを教わってから、海堂の身体の柔軟性は増したと思う。
「最後、押すよ。息吐き出しきって」
「………………」
 海堂の呼吸と乾の圧力とが的確にかみ合って、海堂の胸は床についた。
「やわらかくなったなあ海堂」
「………どうも」
 後ろ髪をくしゃりとかきまぜられる。
 乾の手が離れ、海堂もゆっくりと身体を起こした。
「………………」
 すると背後にいたはずの乾がいきなり正面にいて海堂は目を見張る。
 長身の膝を折って屈んでいた乾は、顔を上げた海堂のバンダナを取った。
「………なんですか…」
「少し身体が張ってるから、今日はこれでおしまい」
「…………っす」
 以前だったら反発していたかもしれないが。
 今は全て信頼しているから頷いた。
「先輩も疲れ溜まってるみたいだから今日は早く寝た方がいいです」
「俺?」
 何か変か?と乾は海堂の前にしゃがみこんだまま首を傾げる。
「乾先輩のノート」
「俺のノート?」
「さっき見せてくれた」
「ああ、見せたね」
 何か書いてあったか?と言った乾に海堂は低く答えた。
「蝶が飛んでた」
「…蝶?」
「あんた疲れてくると、データの横に蝶書くんだ」
 三角形が二つくっついた、一筆書きの蝶。
 海堂がそれに気付いたのは最近だ。
 考え事をしているのかと思った乾が、データの余白に蝶を書いている時が時々あって、それがどうやら乾が疲れてきた証拠らしいということ。
「本当に?」
「…気付いてなかったんすか」
「全然」
 乾はノートをとってきて、ペラペラと捲りながら。
「うわ……本当だ」
「………………」
 そんな乾の様子に海堂はちいさく笑んだ。
 柔らかくなった筋肉の中に張りがあるからと、触れて判ること。
 蝶がたくさん飛んでいたからと、見て判ること。
「それじゃあ今日は二人で休むか」
 強くなりたい時に、休まなければならないという事が、以前の海堂には出来なかったけれど。
 今ならば。
「……うち来ますか」
「よろこんで」
 小さく何だかかわいらしいような音をたてられ唇に。
 触れた、軽いキスは蝶が止まったイメージで。
 近づくにつれ二人の雰囲気が妙に初々しく、和やかである事が判る。
 ぽつぽつと言葉を繋いで話をしている海堂と柳生の元へ向かった乾は、不二の魔法を信じているから迷わず手を伸ばした。
 海堂に。
「先…、……」
 声をかけるより先に、骨ばっているようで触れるとなめらかな海堂の手を握り、引き寄せて、乾の胸元に海堂の背が軽く当たる。
 さらりと揺れた黒髪からは温かな優しい香りがする。
「………乾先輩?」
 乾は海堂の背後から手を回し、そっと肢体を抱き込んだ。
 乾の手の下で海堂の薄い下腹部が強張ったのが判った。
「……乾くん」
「…、…何し、………」
 全く表情の読めない柳生と。
 ぎょっとしたように振り返ろうとする海堂と。
 この立ち位置の関係から、背後の仲間達からは乾は海堂の後ろに立ったとしか見えないであろうことを確信して、一層腕の力を強めた乾と。
 三人が対峙する。
「……、乾、先輩……!」
「海堂くん」
「………っ……、…」
「後ろにいる彼らからは乾くんのその手は見えていないから安心するといい」
「………………」
「それから乾くん。海堂くんに、あまり可哀想な事をするのはやめたまえ」
 そんなに怖い顔をするのも、と柳生は淡々と言う。
「…………は…?」
 振り返ってこようとする海堂を、乾は振り返らせなかった。
 抱き込む腕の力を強くする事で。
 一層封じ込めてしまった。
 海堂が身体を硬直させる。
「……なるほど? 海堂くんには見せたことないみたいですね」
 そういう顔をと柳生は言って唇に笑みを刻む。
 乾は無言で否定せず、海堂は狼狽えて肯定しない。
「海堂くん」
 柳生一人がさらさらと、冷静な低い声で言葉を紡いだ。
「乾くんはひょっとするとかなりの激情型のようだ」
「……激情型?」
「きみに声をかける時は気をつけないといけませんね。うちのメンバーにも伝えておきましょう。……うちの参謀あたりならばとっくに知っているかもしれませんがね」
「………な、」
「よろしくな。柳生」
「よろしくされましょう。では」
 柳生は最初に話しかけてきたとき同様、にこやかに。
 乾と海堂に目を配って背を向けた。
「海堂くん。またこの間のように偶然どこかで会える事もあるでしょうから」
 話の続きはその時にまたと言い置いて、柳生はほんの少しからかうような笑みを肩越しに残して立ち去った。
「………………」
 残された二人のうちの一人、海堂が。
 強い力で乾の腕を振り解いたのはその直後の事だ。
「あんた人前で何考えてんだ…?!」
 乾は海堂のきつい双瞳をじっと見つめる。
「当然海堂の事を」
「………ッ……」
「それから心配しなくても不二がうまくやってくれている。誰も俺たちを見ちゃいないさ」
「…、っ……そういう話じゃ……!」
 乾が何か言う度、海堂は言葉を詰まらせたり目元を赤くしたり声を荒げた。
 その度乾は可愛いなあとか可愛いなあとか可愛いなあとか思っている。
 でも実はひっそりと胸の内で自己嫌悪中でもある。
 警戒心が強くて人に懐かない海堂の性格に、乾はどこかで安心していた部分がある。
 自分だけが別格の扱いをされる奇跡を感謝することはあれ、自分以外にもその可能性も持つ人間が居るかもしれないというような事は考えなかった。
「……とにかく…! ここはもう全国大会、…!」
 よほど衝撃が強いものだったのか、海堂は言葉が最後まで続かずどこかぐったりとしている。
「うん。全国だね」
 乾がいつものようにやんわりと言葉を繋いでやると、小さく息を継いで幾分冷静さを取り戻したらしく、海堂は頷いた。
「………っす。だから先輩…」
「何て丁度良いんだろうな」
「……………あ?」
「だから全国で。はっきりさせておくのにちょうどいい、良い機会だ」
「…………テニスの話…してるんすよね…?」
「ああ。テニスと海堂の話を」
 青学テニス部の力と。
 お前が誰のものかを。
「……、…ッ……!」
 乾が言うなり海堂は染め上がるように赤くなった。
「…っ、あんた、なに言い出す……ッ…」
「海堂をとられたくないって焦ってるんだ」
「焦、……どこがだよ?!」
 いったいあんたのそのどこが焦ってるんだ!と声を荒げた海堂は、叫んだせいで有耶無耶になりかけた乾の台詞を聞きとがめ、すっと目を据わらせる。
「とられたくないってなんだ」
「うん? そのままの意味だよ」
「なに馬鹿なこと……」
「全校の前でキスとかして俺も宣誓しておくかな」
「、っ、ほんとに馬鹿だろあんた…!」
「必死なだけだよ」
 海堂を見つめて、乾は微笑する。
「…………………」
 本当に、必死なだけ。
 そう思って伝える自嘲の笑みであったけれど。
 海堂は心底呆れているようで目線がひどく鋭かった。
「さすがに全国大会でキスはしないよ」
 だからそんなに呆れないでよと乾が言うと。
「……そっちじゃねえよ」
 低く海堂が呟いた。
「あんたみたいな物好きが他にいる訳ねえだろ」
「………………」
 謙遜のレベルの発言でないのは海堂の表情を見れば乾にはすぐに判る。
 本気で吐き捨てている海堂に乾は苦笑いするしかない。
 努力は正しく認識していて、魅力にはてんで無頓着な海堂に、乾の焦燥感は判らない。
「参った………本当にどうしよう? 海堂」
「…………知るか…っ…」
 海堂は乾の問いかけをどう思ったのか、まるでからかわれている事を怒るような顔をして乾を睨みつけ、走って行ってしまった。
「だから乾、そういう態度で妬いたって海堂には判らないってば」
「不二」
 音も無く隣に立った不二に、別段驚くでもない乾は溜息をつく。
「あれは寧ろ怒らせたね。すごい目してたよ」
 くすりと笑った不二に乾は頷いた。
「ああ。すごい可愛かったよな」

 そして不二もいなくなる。

 不二が立ち去る時に言った言葉は、不二にしては珍しい、力ない声での『海堂馬鹿』という呟きだった。
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