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 今夜から雪が降るらしい。
 海堂の日課である所の夜のマラソンを、だからといって止めようとは思わなかったが、それでも海堂なりに状況に応じようという心積もりはあったのだ。
 いつもより距離を減らして切り上げてくるくらいは海堂にだって出来る。
 それなのに。
「海堂」
「……………」
 海堂の家の前に乾がいた。
 学校には着てこない冬のコートがますます乾の年齢を読めなくする。
「……何してるんっすか」
「今日は夜ランは中止」
「あんたまさかそれだけを言いにわざわざここまで来たのかよ…」
「メールじゃ読まないかもしれないだろ」
「………だからって」
 乾は決して暇な男ではない。
 むしろ多忙を極めている。
 それなのに何故自分のトレーニングを止める為だけにわざわざ足を運んできたのかと、海堂は目を据わらせて凄んだ。
「そんな顔しても駄目。寒い時は怪我をしやすいんだから」
「ストレッチならいつも以上にしますけど」
「いくら入念にやっても今日は寒すぎる。風邪ひいたらどうするんだ」
「………あんたじゃあるまいし。俺は風邪なんかひかねーっすよ」
「ひどいなあ」
 引かない海堂をどう見たのか。
 乾は不意に唇の端を引き上げるようにして、意味ありげな笑みを浮かべた。
「判った。じゃあ、海堂」
「……何っすか」
「三キロくらいは走らせてあげるから、おいで」
「は?……」
「ベッドの上でもそれくらいは走れるよ」
 走らせてあげる、と囁いた乾の声は。
 うんざりするほど美声だ。
 低くて、甘い。
「………っ……」
 手首を握られた。
 痛くはないが、外せない。
 海堂は何とも上機嫌に見える乾を見据えて、薄ら寒い思いを味わった。
「……、……先輩……」
「だからそういう顔もしないの。海堂」
 俺が脅してるみたいだろ?と笑う乾に海堂はいよいよ動揺した。
「や、……先輩。俺、今日走んの、止めるんで」
「うん。それがいいよ」
「あの…手を」
「逃げないなら離してあげる」
「……………」
 乾が。
 笑っているその表情ほど、余裕がある訳ではないらしいと気づいて海堂は、ひどく落ち着かない気持ちになった。
 そういえばこうして二人で会うのも久しぶりだ。
 青春学園の高等部への進学を決めたら決めたで、乾はいっそ受験期よりも忙しそうで。
 海堂は海堂で、そんな乾にどこか遠慮をしてしまっていて。
 元々積極的に人と交流するタイプではない海堂は、乾が落ち着くまではと思って、特に何のリアクションもとっていなかった。
 乾は痺れをきらしたのかもしれない。
 飄々としているようだけれど、握り込まれた手首は相当力が込められている。
「乾先輩」
「ん?」
「先輩も…走りたいっすか」
 真直ぐに乾を見上げて言った海堂に。
 乾は生真面目に頷いた。
「ああ」
「……………」
「走りたい」
「どれくらい」
「うーん…三キロくらい」
「本当は?」
「四.五キロくらい」
 言いながら笑う乾の即答は、多分に本音だろう。
 乾の手から伝わってくる体温と、笑いの振動。
 恥ずかしいのか。
 おかしいのか。
 判らなくなってきた。
 そう思って海堂は長く息を吐き出した。
「……その溜息の意味は何?」
 乾の笑いが深くなる。
 腕の力が強くなる。
 高揚感を自覚した。
 久しぶりに会って、嬉しがっているのだ。
 自分たちは、お互いに。

 四.五キロは、どこで走ろう。
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 発端は不二だった。
 海堂眠そうだね、と朝練前の部室で海堂に声をかけてきたのだ。
 ちょうどその時あくびをかみころしていて、若干潤んだ目の海堂は、いつもの深い溜息と供に言った。
「………先輩は寝言でも『データ、データ』ってブツブツ言ってウルサイんス」
「へえ」
 楽しそうに微笑んだ不二に海堂は気づかず着替えの手をすすめる。
 そんな海堂の真横に並んで、不二も着替えを始めながら穏やかに話を続ける。
「乾は寝言の時は声大きいんだ?」
「別に大きくは。普段と似たような…それより小さいかくらいっスけど…」
「へえ」
 でも聞こえて困るくらいなんだと言った不二に、こくりと海堂は頷く。
「……うわ…降参」
 いきなり声を出して笑い出した不二に、漸く海堂がいぶかしむ顔になる。
「……は?」
「僕の負け」
「何がっすか?」
「不二。負けと認めたのならすぐに退散」
「乾先輩?」
 そのうえ突然に現れた乾が事も無げに不二をあしらおうとするのにも面食らい、海堂は目上の二人を交互に見やっている。
「あの……」
「あれ、ひどいな乾。そんな追い払うみたいに」
「追い払ってなんかないさ」
「そうかなぁ」
「そうだよ」
「海堂は、素直だね」
「は?」
 いきなり話をふられてこられて海堂はまたもや全くその展開についていけない。
「乾も少しは海堂を見習えばいいのに」
「お前もな。不二」
「、さっきからいったい何の話……」
「海堂」
「………、…」
 にっこりと笑う不二が海堂の両肩に手を置いた。
 目線は自分よりも下にあるのに、ひどく存在感の強い不二に一瞬言葉を詰まらせた海堂は、不二の手によって乾の元へと押し出される。
「はい。乾」
「………あの、不二せんぱ……」
 そっと乾に差し出される。
 海堂が肩越しに振り返ると、不二はもう背を向けていて、楽しげな足取りで歩いていってしまっていた。
「………………」
「どうした? 海堂」
「訳が判らねえよ……あんたたち」
「そうかな? 極めて判りやすい構図だったじゃないか」
 海堂が可愛くて、不二は面白がって、俺はからかわれて。
 乾はそう言って、海堂はやっぱり訳が判らない。
「それで今は、海堂は意味が判らない、俺はちょっとヤキモチやいてる。簡単だろ?」
「ヤキモチって何だよ」
 ますます話を難しくする一方の乾を睨みつけて、海堂は不機嫌になった。
 乾にヤキモチをやかれるような事は何もない。
「………俺みたいに口下手で無愛想な奴、先輩意外に誰が面倒見るんですか」
「面倒、か」
 そうしてとうとう笑い出した乾に海堂は不機嫌を通り越し腹をたてた。
 これ以上何を言っても意味ないと思って乾に背を向ける。
「………待って」
「……………、…っ……、…」
 足早に部室を出て行こうとしたところを背後から長い腕に巻き込まれるように抱き寄せられて、海堂がぎょっとしたのを正しく悟って宥めるように。
 海堂の耳元で乾の囁く声がした。
「大丈夫。誰もいない」
「………、離…」
「それとね。俺は面倒なんかみてないよ?」
「………………」
「不二も言ってたろ? 海堂は素直だからそんな風に騙されてくれてるけどさ」
「騙されて……って何っすか」
「面倒みてますなんて見せかけて、ほんとのところ俺違うだろ?」
「……あんたの本当の所なんて、あんたにしか判らないんじゃないのかよ…」
「うーん……そのへんのことは海堂以外にはバレバレっぽいよ?」
「…、悪かったな…!」
 それは自分だけが乾の事を判らないと言われたようなもので、海堂は考えるより先に荒げた声をあげて乾の腕を振り切った。
「………っと…」
「……、……」
 しかし乾は今度は正面から海堂を抱き締めてきた。
 それも今度はもう振りほどけない。
「海堂。待った」
「………、……何なんだよ…あんたは…!」
「だから、面倒みてますって素振りで海堂を独占しようとしてるだけの俺だろ」
「………ああ?」
「俺って、言い回しとか態度、そんなにまわりくどいタイプかな?」
 珍しく弱っているような乾の口ぶりに、僅かに海堂の溜飲も下がって、海堂は抗うのを止めた。
「……だから判りにくいって言ってるじゃないっすか」
「………じゃ…不二の忠告も聞いて、海堂見習って素直になるからさ。怒るなよ」
「………………」
 相手にあまえてこられると強くは出られなくなる自分を熟知している海堂は、嘆息交じりに肩の力を抜く。
「先輩とテニスがあれば、俺は他に何もいらない」
「海堂」
「………俺が単純だから、あんたは七面倒くさくても構わねえよ」
「…………駄目だ…降参。俺の完全なる敗北だ……」
 先程の不二と似たような事を口にする乾が、海堂にはやはりよく判らなかった。
 
 ものすごい力で抱き締めてくる乾が、海堂にはやはりよく判らなかった。
 手塚に呼ばれた乾は、手塚に向けて判ったと言うなり振り返り、海堂の事を呼んだ。
「悪い。少しそこで待っててくれる?」
「………………」
 海堂が小さく頷いたのを見てから乾は手塚の元へ向かう。
 何とはなしにその背を見送り、海堂は首にかけたタオルでこめかみからの汗を拭う。
「………………」 
 約束というほどの約束ではない。
 部活のさなかに、終わった後残れる?と言ったのは乾だ。
 いきなり屈み込んで海堂のふくらはぎに手を当ててそう言ったので、恐らくメニューの修正か何かのようだ。
 手塚に呼ばれたのならわざわざ自分に確認とらなくても帰りはしないのにと少し呆れて。
 そういえば前にも似た様な事があったのを海堂は思い出した。
 口に出してそれを告げた時、海堂は手塚崇拝主義者だからなあと乾に苦笑いされたのだ。
「かーいどう。乾のこと、そんなに好き?」
「………………」
 いきなりすぎる程いきなり、軽やかにそんな声をかけられ海堂は固まった。
 背中に飛び掛ってくるようにぶつかってきた身体。
「………………」
 部内で、海堂に対して、可愛がりたいという態度を顕著に表すのが、乾と、そしてもう一人。
 この菊丸だ。
 入部当初は菊丸のスキンシップにも大概戸惑った海堂だったが、最近はこれでも幾らか免疫が出来て、前ほどは激しくうろたえなくなった。
「薫ちゃん?」
 背後からぐっと顔を近づけてきた菊丸の大きな目を目の当たりにして。
 幾らかの慣れと、そして。
 こんなにも性格は違うのに、何故か同類意識で自分に構ってくる菊丸に、海堂も時折素になって言葉を返してしまう事があって。
 でも、そういう時の菊丸がひどく嬉しそうなので、最近何となく海堂は菊丸に対して肩の力が抜けている。
「ね。乾のこと、そんなに好き?」
「……好きなんじゃない」
「うん?」
 すごく好きなんだと小さくもはっきりと口に出してしまってから、海堂は急に我に返った。
「……、…ッ……」
「あー…大丈夫大丈夫」
 飛びのきかけたところを力で抱え込むように菊丸に抱きつかれ。
「俺しか聞いてないよ、大丈夫!」
「………っ……、…」
 宥められてしまった。
 まるで噛んで含めるみたいにだ。
「…………………」
 でも実際菊丸は、乾がいる時は割合盛大にからかってくる事が多いけれど、海堂一人の時は無闇に突付いてくるような事はしない。
 乾曰く、お兄ちゃんぶりを発揮しているという事らしい。
「あ。乾が睨んでるー」
「…………………」
 海堂を抱き締めたまま菊丸は明るく笑い、もっと抱きついちゃえーと言って力を入れてくる。
「うわー。走ってくるよー」
 愛されてるなあと、さらりと言われた言葉が。
 海堂の耳に優しく残った。


 あまり余裕のない顔で駆け寄ってきて、菊丸を引き剥がし、怒りたいのか泣きつきたいのか微妙な声で、乾は海堂の名を口にする。
「………海堂…!」
「先輩って」
「何」
「意外と子供っぽいんですね」
 自覚はあるのか咄嗟に言葉に詰まった乾を見つめて。
 海堂は、恐らく乾だけが判る範囲で。
 かすかに。
 わらった。
「………そういうアンタも嫌いじゃないッスよ」
「…、海堂」
 たまにはそういう風に、慌てる乾を見るのもいいと海堂は思う。


 言葉を考えあぐねている乾の姿は、海堂の目にも、優しく残った。
 気づかれないように息を詰めたのに。
 気づかわしいように頬を撫でられた。
 海堂は掠れた声で乾に告げる。
「初めてじゃねえっすよ……」
「……うん。でもね」
 乾のそれは、はっきりと欲情している声なのに。
 寸でで踏みとどまれて、海堂は乾を睨み上げる。
 多分、さほどきつい目にはなっていないのだろうと、海堂自身判っていた。
 折り重なって、擦れあって、触れ合っている身体は放熱するように熱い。
 お互いに。
「無理させてるって自覚はあるんだ」
「………何が無理だよ」
「そこのところ言葉にしたら怒るだろ。海堂」
 乾がちょっと笑った。
 汗に濡れた彼のこめかみを、涙に濡れた目で見上げて。
 滲むような熱が一層酷くなる。
 欲しくて堪らないのはお互い様で、交わす言葉は双方とも熱を含み、それなのにこんなところで敢えて耐え忍んでいるような真似をするのも大概おかしな話だと思う。
 普段から至極淡々としている乾が欲を剥き出しにしてみせる稀有なこの瞬間を、時折焦がれるような思いで海堂は欲している。
 気遣わなくていいから。
 もう幾度も幾度も繰り返している事なのだから、したいようにすればいいと思う。
 喉が痛むような熱気をはらんだ息を唇からぎこちなく逃がしながら、海堂は乾の頬に手を差し伸べ返した。
「無理なことなんて何もしてねえよ」
「……海堂?」
「あんたにされて嫌なことなんて何もない」
 欲しがる気持ちを伝えきれているか、そればかりを懸念して、海堂は乾を見つめた。
 応えはすぐに与えられる。
「海堂、俺が最初にお前を抱き締める時、お前は必ず震えるってこと、判ってるか」
 優しいけれどきつくもある目で乾からも見据えられ、囁かれた言葉に海堂は瞬いて目を伏せる。
 羞恥は一瞬で。
「…………………」
 すぐに顔を上げ、海堂は乾の頬に触れ合わせた指先をそっと滑らせていく。
「あんたの手…冷たいくせに、」
「…………………」
「触れられるとそこがなんだか熱いんだよ…」
「……海堂」
「………嫌がってるわけでも…怖がってるわけでもない」
 だから、と。
 海堂は自分から乾の首に両手を絡める。
「先輩に触れてる間は、年の差とか、男同士だとか、忘れられる…」
 呟くだけの声。
 それを乾は流さなかった。
「忘れなくていいよ」
「…………………」
 熱っぽい囁きと一緒にすくい上げるように背筋を抱かれる。
 痛いくらいに抱き締められて、引き合うように噛み合わせたキスへ、のめり込む。
「知ってていい。全部。だから俺は海堂を好きなんだから」
「…………………」
 何の迷いもなく乾はそう言った。
 何の問題もない事のように。
「先輩」
「うん」
 乾の手に髪を撫でつけるように頭を数回撫でられながら、間近から目を覗きこまれる。
 そういう一連の仕草は、甘やかされているものだと判っていながら、逆らうのはひどく難しかった。
 じっと見返す先、乾の表情が変化していくのも。
 海堂を急激に、深い処まで、追い詰めていく。
「海堂」
 手繰り込むようにお互いの指を絡める。
 海堂は、何を気づかれてもいいと思って身体をひらき、乾は、気づかわしさをかなぐり捨てて身体を押し進める。
 つなげられるところは全てつないで、こんなに近くにいる相手が見えなくなるくらい。
 見失いそうになるくらい。
 激しさにまかれても、怖くはない。

 知ってていい。
 判ってていい。
 だから好きなのだと乾が言ってくれるなら。
 海堂に怖い事は何もない。
 海堂薫は紛う事なき猫科だ。
 乾は思った。
「海堂ー。なに怒ってるんだ?」
「………………」
 口数が少ないのは普段から。
 でも今はそれに加えて威嚇するように気配が尖っていて、逆立つ毛並みが目に見えるような気すらする。
 更には目つきも相当きつい。
 しかしそれは乾にしてみれば怖いというより弱ったなというのが正直な心情だった。
「海堂。なあって…」
「………………」
 どうしたの、と生真面目に聞いても海堂は答えない。
 海堂は口数が少ないだけで、上手に問いかければ言葉を口にするのは厭わない質だと乾は判っているだけに。
 さてどうしたものかと、自分の方を見ようとしない海堂を眺め下ろして嘆息する。
 部活の最中は、まだ。
 余分な私語が無くてもそうは困らないし、海堂が不機嫌でもテニスをする事は出来た訳なのだが。
 帰り道に二人きりでいてこれではさすがに。
「海堂」
 乾は、先行く海堂の手をとった。
 それは無造作に振り払われたけれど、振り向いてはくれたので良しとする。
 全く人馴れしていない猫の目で睨みつけられもしたが、この際それでも構わない。
「何に怒ってるか教えてくれ」
「………………」
 お願い、と神妙に乾は呟いて、もう一度海堂の手を握った。
 敢無くも素気無く。
 二度目もその手は振り払われる。
 ただ初めて、海堂は口をきいてくれた。
「他の奴の前で眼鏡とるの……気にくわねぇ」
「………は?」
 問い返しておいて何だが、乾はすぐに海堂が何を言っているのかを理解した。
 四時間目の体育、種目はマラソンだった。
 一時間走り続ければ冬場のこの時期でもさすがに汗をかく。
 水飲み場で顔を洗おうとした所、その場に居た女子数名が眼鏡を外した乾が見てみたいと言い出して。
 派手に盛り上がり始めた彼女達の前で、あっさりと眼鏡を外した乾は、うってかわった静寂の中顔を洗い、立ち去る背中で歓声にも似た賑やかな彼女達の声を聞いた。
「……わざとやっただろ」
「え?」
「俺が見てるの知ってて、わざとやった。それが一番気にくわねぇ……」
「海堂」
 さすがに、これは。
 しまったと、乾も慌てた。
 海堂の言う事に相違はない。
 水飲み場近くの渡り廊下。
 海堂が通りかかっているのは乾も知っていた。
 声をかけて呼び止めるには距離があって。
 気付かず通り過ぎられていくのも少々癪で。
 確かにそういう理由もあった。
 普段なら、別に隠している訳ではないが、乾は好き好んで裸眼を晒したりはしないのだ。
「……海堂?」
「何が気に入らない?」
「ええと………」
「あてつけにしたんだったら、別に俺が怒ってたって関係ないっすよね」
「ごめんなさい!」
 もう速攻も速攻で乾は頭を下げた。
 海堂の言葉尻に被せる勢いで。
 これは確かに自分が悪い。
 認めたらこれはもう謝るしかない。
「悪かった。ごめんなさい」
「………………」
 海堂は黙っている。
 下げた頭をすぐに戻す訳にもいかず、乾は平身低頭の体勢で、じっとした。
 どれくらいかして、頭を叩かれた。
 ぽん、と痛すぎもなく甘すぎもなく。
 乾は顔を上げた。
 その勢いに躊躇したように宙に浮いた中途半端な手の指を握り込みながら、海堂は溜息をついていた。
「自分でやっといて、何で俺が怒ったら簡単に頭なんか下げるんすか」
「海堂」
「………離れてたって、ちゃんとあんただって、俺は気付いてる」
「ごめん。意地の悪い事した」
「………………」
「……海堂?」
「アンタの『イジワル』なら許してやる……」
「………………」
 きつい目で睨みつけてくる海堂が、不機嫌な声で口にした、何だか可愛いような言葉に。
 乾は面食らい、そして。
 ゆるやかに微苦笑する。
「………勝てないな……海堂には」
「…よく言う」
「本当に」
 負けてもいいなんて思うこと自体、本来乾の思考にはない事なのに。
 海堂には、こういう負けなら、いくらでも甘んじてという気になる。
「負けっぱなしだ。海堂に」
「………………」
 潜めた声で、好きだよと告げた乾に海堂は僅かに眉根を寄せた。
「海堂…?」
 そして、変わらない不機嫌そうなきつい目で乾を見つめたまま。
「好きだって言うなら、証拠見せてみろよ」
「………………」
 気にくわないと言った海堂の気持ちに潜むのはおそらく嫉妬心で、そういうものの表現方法にひどく不器用な海堂が、精一杯の言葉で欲しがるものは。
 寧ろ乾を甘やかすものでもあったが。
「………………」
 好きだと思う気持ちの分の証拠として。
 乾は海堂の両肩を手で包み、海堂の持つ最もやわらかい器官を同じもので塞ぐ。
 おとなしく上向いてくれる海堂の唇に、深すぎるほどに舌を忍び入れ、キスを。
「………家に連れて帰ってもいいか」
「一日くらい大人しく反省して下さい」
「イジワルだけじゃなくて、俺のオネガイの方も、許してくれないかな?」
「……、…甘えんな…っ」
 結局今日一日で三回、海堂に手を振り払われた乾は思う。


 猫を可愛がるのは難しい。
 そこねてしまった猫のご機嫌を伺うのは、更に更に難しい。
 しかしだ。
 これ程に愛しい存在を、無くしてしまうのは。
 恐ろしいまでに難しい。
 夜のランニングは海堂の日課で、幾つかあるランニングコースは、全て部の先輩である乾が厳選してつくりあげたものだった。
「やっぱり走ってた」
「………乾先輩」
 大晦日の夜も日課に例外無く走っていた海堂は、通り過ぎようとしていたマンションの、植え込みの所に立っていた乾に声をかけられる。
「………………」
 ゆっくりと、海堂は足を止めた。
 乾の家はこのマンションの一室にある。
 それを知ってはいたが驚いて、海堂は怪訝な顔で乾を見やった。
 こんなところでいったいなにを。
 そう考えて。
「今年最後にもう一回会えるかなと思ってね」
 低く耳に伝わってくる乾の声。
「………俺にですか」
「そう。海堂に」
「………………」
 息を乱すまでではないが、肩で呼吸を繰り返しながら、海堂はますます不可解な思いで乾の言葉を聞いた。
 乾の表情からは何も汲み取れない。
 低音の声と話し方は、いつものようにゆったりと丁寧だった。
「今年一年を振り返ってね」
「………………」
「今年も一年やっぱりそうだったな、と思って」
「………そうって…何すか」
「海堂を好きだなあというのがそう」
「はあ。………?」
 あんまりさらりと普通に言われたものだから。
 海堂もこんな風に極めてあっさり頷いてしまった。
 頷いてしまってから。
 何かがおかしくないかと急激に思う。
「………………」
 そんな海堂に、乾はゆっくりと唇の端を引き上げた。
「知ってた?」
「………あ…?」
「俺は海堂が好きだよ」
「……あの…、」
 乾の右手が伸びてきた。
 そう思った時にはもう、その手に正面から自分の左手を握り込まれていて。
「………、っ…」
 海堂はぐっと言葉に詰まる。
 手。
 繋がれた、手。
「……………」
 乾は、普通の顔して、平気な顔して、手なんか繋いできて。
 海堂は、悔しくて、猛烈に、不意打ちに、悔しくなって。
 憮然と黙り込んだ。
 混乱はパニックではなく、沸々と込み上げてくる怒りに酷似していた。
 乾を、海堂はその感情のまま、きつく睨みつけようとした。
 でも。
 ふと。
 海堂は戸惑った。
 頼りない不安を覚えた。
 海堂は気付いたのだ。
 乾の手は冷たい。
 とても、冷たい。
「……………」
 海堂の視線は、きつくなれずに乾を凝視した。
 それに気付いた乾が、珍しく決まり悪そうに微笑んだから。
 その表情を目にした途端、ふわりと、海堂の身体の中で何かが灯ったように温かくなる。
 温かさが、満ち満ちてきて、あっという間に熱の塊になる。
 海堂は、乾の手の冷たさが心地良いと急に思った。
 そして、この一瞬で、どれだけ自分の熱が高まったのかを考え、硬直した。
 何故こんな事にと惑う未経験の類の緊張感は、瞬く間に海堂を追い詰めた。
「海堂」
 怖いみたいに身体が竦む。
 言葉が出てこない。
 聞き慣れた声に名前を呼ばれて。
 混乱がひどくなるわけがわからない。
「つきあって」
「………は? つきあうって」
「うん」
「つきあうって、交換日記でもするんですか」
 本当にひどい混乱のまま口走った海堂に、乾はそれもいいけどね、と微笑を浮かべる。
「俺が三ページ書いて、海堂が三行とかかな」
「あんたが文章書き慣れしすぎてるんです」
「そうだなあ……だから交換日記じゃない方向で、どうかな?」
 何がだからなのか。
 交換日記じゃない方向ってどっちの方向なんだとか。
 考えて考えて考えて。
 海堂は突然、空いていた右手で自分の頭を抱えた。
「海堂?」
「………っ……あーっ!」
「あれ? どうした?」
「アンタのこと考えると頭ん中グルグルするッ」
「……………」
「……、…っなに笑ってんだよっ」
 この上ない激高で叫んだつもりが、乾のリアクションは余計に海堂を煽ってきた。
 海堂の見たまま。
 乾は口元を大きな手のひらで覆って肩を震わせている。
 笑っている。
 海堂は自分ををここまで混乱させた挙句に笑っている乾を、今度こそ本当に、本気で睨みつけた。
 さすがに乾が気付いて首を左右に振った。
「いや、…嬉しくて。ごめん。気を悪くしないで欲しいんだけど」
「……っ……ど…ゆー……ッ」
「興味ないとか、どうでもいいとかいうような拒絶も想定してたからさ」
 グルグルって可愛い、可愛すぎる、と臆面もなく言われて。
 その声音の甘さに海堂はうろたえた。
 こんな乾を、海堂は知らない。
 手を握られたまま、もうこれ以上怒鳴る事も、ましてや赤くなるなんて真似も到底出来なくて。
 海堂が顔を強張らせていると、乾の笑いは緩やかにおさまっていった。
 次第に。
 優しそうだけれど、生真面目な表情に移ろっていく。
「………………」
「海堂…」
「………………」
「来年は、俺のこと考えてよ。海堂」
 ゆっくりでいいから、と乾の手が僅かに力を込めてきて。
 海堂は密着した肌と肌で気付く。
 乾の手のひらが、きちんと温かくなっているのに気付く。
 自分がそれを温かくしたのかと思うと、戸惑いと物慣れない羞恥心とが相まって海堂は言葉に詰まった。
「ね……」
「………………」
「長期戦の方が得意だろ?」
 そんな海堂に囁くように乾は言った。
「……なんのこと言って…」
「海堂の得意なやり方で良いから俺のこと考えて」
「………………」
 乾は薄い笑みを唇にたたえたままだったけれど、とても真剣だった。
 それがよく判った。
 それくらいには理解している。
 今、海堂にしてみれば、ひどく突飛な事を言い出した乾だが。
 そんな彼に戸惑ってばかりの海堂だが。
「…………俺は」
「ん?」
「あんたのこと………尊敬してる」
「ありがとう」
「……誰かと一緒にトレーニングするなんて、あんたが初めてだった」
「うん」
「でも、……そういう好きじゃなくて、考えろって事ですか」
「ああ」
 難しいかな、と囁いた乾を海堂は漸く見据える事が出来た。
「………………」
 難しいこと。
 判らないこと。
 そういったものを、何でも。
 やさしくして、教えてくれるのが乾だった。
「……俺のが先輩より持久力あるんですけど」
「振り切ろうと思ってる?」
「………そうじゃねえ」
「俺が早々脱落すると思ってるんだったら取り越し苦労だな。海堂」
「………………」
「試してごらん」
 好きなようにさせてくれているようで、巧みな誘導のうまい男。
 そんな乾の手中に在る気がしてならないが、海堂は何だかそれでもいいような気になった。
 一年の最後の日。
 寒空の下にどれだけ居たのか知れない乾の冷たい手。
「判りました。来年は、あんたのこと考える」
 判るまで。
「来年は、じゃなくて。今からだよ海堂」
「…………は?」
「年が明けた」
 おめでとう、と笑いながら。
 乾は時計の文字盤を視線で指し示す。
 そこに視線を落とした海堂は、一瞬だけ、乾に軽く抱き寄せられた。
「……………」
 自分自身が、いとも簡単に乾の胸元におさまることを思い知らされながら、海堂は新しい年の、新しい一日の、冷たい冷気を深く胸に吸い込んだ。

 今日からどんな毎日が始まるのか。

 それを思って海堂は。
 乾と手を繋いだまま、新年を迎えたのだった。
 雪の降るクリスマスは翌年の繁栄を象徴するのだと乾が空を見上げて言った。
 本当に、いつ雪が降り出してもおかしくないような冷気に周囲は満ちている。
 そんな乾の隣で海堂は、雪の気配よりも、来年の事を考えているのかもしれない乾の心情を酌みたくなる。
 しかし、いくら見つめたところで、海堂には判らなかった。
 乾の表情から、今乾が何を考えているのかは。
「…………………」
 終業式を終え、海堂の冬休み用のトレーニングメニューを作ってあった乾に呼び出され、丁寧な説明を受けた後。
 海堂は、乾と肩を並べて歩いている。
 それぞれの家へと向かっている。
 別れるのは、あと幾つか先の曲がり角。
 今日の学校内は、何とはなしに浮き足立っていた。
 二学期が終わるせいと、そしてクリスマスイブという日のせいとで。
「…………………」
 でもこうして学校を出て、乾と歩いていると、校内のあの喧騒も嘘のように静かだった。
 冷たい外気と、慣れた気安い沈黙。
 乾の少し後をついて歩きながら、一つだけ普段と違って海堂の気持ちが沈鬱に沈むのは。
 乾の両手にある真新しいなめし革の手袋のせいだ。
 乾がしている、その見慣れぬ革の手袋は。
 今朝は、乾の手には、はめられてはいなかった。
 それは何となく、海堂の気持ちを沈ませる手袋だった。
 恐らくクリスマスプレゼントなのだろうと海堂は思った。
 海堂のクラスでも、可愛らしげなラッピングを施した包みを手にしていた女性陣は多かった。
 寒い冬の景色と対照的に、それらは目にひどく華やかだった。
 乾もきっと、誰かからか。
 クリスマスプレゼントとして、それを貰ったのだろうと思う。
 そういう事が出来る相手の行動を、自分は羨んでいるのかもしれないと思う。
 自分らしくない。
 その思いが海堂を沈ませていた。
 好きな相手に、好きと伝える事は難しい。
 海堂には取り分けのこと。
 思う気持ちばかりが蓄積して、言葉にも形にも、しにくい。
 乾は大概よく海堂の真意を酌んでくれる男だったが、例えば海堂にはそれと同じ事が出来ない。
 乾を好きで、でもそれは、それだけだ。
 そこで止まってしまっている。
 海堂の心中で、留まってしまっている。
 クリスマスという大義名分があっても、乾に対して、海堂は身動きがとれない。
 見つめているだけだ。
 僅かな悋気に焼かれるように、手袋を。
「海堂」
「…………………」
 そしてもう、幾つか先の曲がり角まで自分達は来てしまっていて。
 ここで、いつものように別れて。
 それで二人でいるこの時間も終わりだ。
 足を止め、ゆっくりと振り返ってきた乾を、海堂はじっと見上げていた。
 またな、と動くであろう唇を。
 じっと、見ていると。
「…………………」
 何も言わないで、乾は。
 そっと掠めるように、身体を屈めて、海堂の唇に、キスをした。
 消えていくひとひらの雪のように一瞬。
 驚いて、声にはならなくて、大きく目を見開いて、海堂は乾を見つめた。
 するりと手を取られ、なけなしの死角になっているスペースに身を寄せる。
「……いつかは指輪をはめるんだろうけど」
「…………………」
「今の所は手袋ってことでね」
 乾は微笑んで、左手の手袋をはずし、それを海堂の左手へ。
 両手で丁寧につける。
 そして今度は右の手袋をはずし、同じように海堂の右手へとはめた。
「…………え?」
「クリスマスプレゼント」
 温めておきました、と珍しくふざけたような笑み交じりの声で言った乾に、海堂は瞬きを繰り返しながら、自身の手元を見た。
「乾先輩?」
 語尾のもつれるような幼い発音になってしまうくらい驚いて。
 海堂は、ほんの少し前まで嫉妬するように見ていた手袋が、思いの他かじかんでいた自身の指先をゆるゆると温まらせていくのに感じ入った。
 手袋を貰って嬉しいというより、手袋を乾にはめられたのが嬉しいだなんて、そう思ってしまった感情が気恥ずかしかった。
「海堂」
「………………」
 乾の右手が海堂の背に回され、そのまま背中側から、海堂の右肩を掴む。
 片腕で抱き寄せられ、僅かに首を傾けた乾がゆっくり顔を近づけてくる。
「…………………」
 喉を反らせ、唇でキスを受け止める。
 触れるなりしっかりと重なってきた唇の感触に海堂は指先に更に熱が灯るような感触を覚える。
「…………、ん」
「…………………」
「……っ…………」
 ひどく大切そうに、乾に抱かれているのが判る。
 キスの、優しくて、でも強い感情の感じだとか。
 それは、クリスマスだからというわけでもないけれど。
 クリスマスらしいという気もした。
 大事なキスをしている気がする。
「海堂」
 乾の左手も海堂の背に回る。
 背中で交差された二本の腕で、しっかりと、抱き込まれる。
「いい匂い……」
「………、……」
 海堂の首筋に顔を伏せた乾の、低音の声の振動に。
 痺れるようになって、海堂は息をのむ。
 乾が顔を上げる時、互いの頬と頬とがこすれあった感触の甘さに鼓動が乱れる。
「海堂といると、クリスマスも特別な日みたいに思えるな……」
「………………」
 それこそ海堂が思っていたままの事を乾に言われる。
 元々自分達は、あまりイベント事に興味がない。
 でも、二人でいると、意味が違ってくるように思えた。
「………………」
「……海堂?」
 思わず乾の胸元に額を当てるように顔を伏せた海堂は、問いかけてくる声と、しっかりと背を支えている大きな手のひらの感触とに、静かに深い吐息を零す。
 ここは、心地良い。
 藹々としている。
 自分が誰かの腕の中で、こんな思いをするとは、海堂は考えてみたこともなかった。
「やっぱり、アンタの側が落ち着く……」
「………………」
 この腕に抱かれると、こんがらがった思考がゆっくり緩んでいくような気がする。
 強くなっていく気がする。
 力が抜ける気がする。
「もう少しだけ、……側にいてもいいですか?」
 手袋をはめた手が温かくて、抱き寄せられている腕の中も穏やかで。
 ぽつりと洩らした海堂の言葉に、乾は。
 一時の沈黙の後、低く、低く、呟いた。
「………やられた」
 その、呻くような声がいとおしくて。
 海堂は、乾からは見えないその場所で、微かに、笑った。
 乾がデータ収集に没頭するのはいつもの事だ。
 でも今日に限って海堂がそれを咎めたのには、海堂なりの言い分があった。
 乾が彼自身の為に無茶をするなら、もう少しは黙っていられたのだ。
 しかし、部活後に、乾に誘われて。
 立ち寄った乾の部屋で、海堂の調整メニューを一から見直し始めた乾の、そのあまりの専念ぶりに。
 海堂は次第に眉根を寄せていった。
 乾が海堂の為だけにつくるメニューは、海堂にとって、必要不可欠なものになっている。
 でも、その半面で、ただでさえ時間の足りない生活を送っている乾に、自分の為だけに根を詰めさせているという事実は時折海堂を悩ませた。
 そこまでさせてしまっていいものだろうかと、実際幾度か口に出した事もある。
 大抵乾は笑って、いいよ、と優しい声をくれるのだが、それを聞いても海堂にはその事が気がかりだった。
 そうして今日のように、目の前で海堂のデータをつくることに没頭する乾を見てしまったものだから、海堂は思わず、その言葉を乾の背に向かって投げていた。
「データと俺と、どっちが大事なんですかっ」
 口調は海堂自身が考えていたよりも荒くなってしまって、でも呟くくらいの声量でしかなかったのに、乾はすぐに振り返ってきた。
 海堂は、腹がたったというよりも、呆れてその言葉を乾にぶつけたのだが、乾は傍目に見てもはっきりと判るくらい狼狽しているように見えた。 
「海堂」
「……………」
 上擦っても、低い声。
 乾が立ち上がって、海堂の正面に近づいてきた。
 大きな手に肩を掴まれる。
 思いのほか強い力に、自分のデータをつくらせておいて、あの言い草はなかったかと海堂が躊躇した隙をつくようにして乾に押し倒される。
 ほとんどもつれこむ勢いで、海堂は腰掛けていたベッドに身体を沈められた。
 海堂の背で、毛布から空気が抜ける音がする。
「乾先輩、……」
 きつく抱き締められたまま押し倒されたものの、乾から、怒りの乱暴な気配は伝わってこなかった。
 それどころか、これではまるで。
「…………乾先輩…」
「………………」
 しがみついてくるようだと。
 海堂は思った。
 自然と、固い背をあやすように手を伸ばしてしまう。
「乾先輩…」
「………………」
 多分、同じような台詞を今までにも言われた事があるんだろうと、海堂は乾の背を下から抱き締めながら思った。
 馬鹿な事を言ったと、急激に悔やむ気持ちが湧き出てきて、そっと乾の背を擦った。
 あんな言い方、よりにもよって自分が。
 決して言うべきではなかったと。
 ちゃんと、思ったままを言えばよかったと。
 海堂は小さく息をついた。
「……俺の事で、あんたに無理して欲しくないって意味だ……変な言い方してすみません」
「………海堂」
 やっと口を開いてくれた乾に少し安心して、海堂は身体の力を抜いた。
 言葉のうまくない海堂にはそれ以上言いようがない。
 乾の返事を待っていると、乾は、感触で探り当てるような少々即物的なやり方で唇を重ねてきた。
「ン、………」
 唇から、ベッドに押さえ込まれるように口付けられて、海堂は乾のシャツを握り締めた。
 容赦なく絡んでくる舌に呼吸を奪われ、海堂は口をひらく。
 そこに尚も乾の舌が、深みを探って落ちてくる。
「………ぅ…」
 ああ、不安がらせた、と思って。
 荒い乾のキスで、気付いて。
 海堂は、乾にひとしきり、深いキスで唇を貪られた。
「…………トラウマっすか…?」
 散々に口付けられた唇は、まだ痺れるようで。
 キスが止むなり掠れた声で問いかけた海堂は、乾の返事を待たないで、すみません、ともう一度言った。
 乾なら絶対に聞かれていそうな事を。
 乾なら絶対に返答に詰まりそうな事を。
 何も自分まで言う事なかった。
「……お前と比べられるようなもの、俺には何もないよ」
「………………」
「俺が好きになってもいいのかって、そんな事したらまずいんじゃないかって、思うくらい大事なんだ」
 熱のこもった乾の言葉に。
 かきくどくような声音に。
 乾を抱き締めながら、海堂は胸を詰まらせる。
 そんな乾の思いに、見合う自分なのかは判らないけれど。
「俺にはよく判ん無いっすけど……」
 乾の言う言葉。
 でも。
「多分…あんたは間違って無いっすよ」
 俺は、嬉しいから、と海堂は乾の耳元で言った。
「海堂?」
 今顔を見られるのは本当に恥ずかしくて、顔を上げたそうにした乾の首に取り縋るようにして海堂は腕を回した。
「……俺は…あんたがそういう風に言ってくれるの、嬉しいから」
 そして。
 好きだ、という、海堂からの言葉は。
 声という形になる前に、乾のキスで甘く潰された。
 海堂の両腕が乾の首の裏側に絡んだまま。
 強引な口付けをされ、声にはならなかった。
 けれど、その言葉の染みた海堂の唇は、幾度も幾度も乾のキスにからめとられて、乾の中へと伝わっていく。


 言葉も感情も感覚も。
 重ねた唇から互いへと、沈んでいくようなイメージで。
 判る事の出来るキスがある。
 あまり繰り返してばかりいるのも信用性に欠けるだろうかと、乾も一時、迷いはしたけれど。
「海堂」
 己の腕に抱き締めて、その名を呼べる悦楽に、抗えない。
「好きだ」
 そう口にする時の高揚感、その都度見たことのない表情を晒す海堂を、望む欲求は凌げない。
 浴びせかけるように囁き続け、抱き締め続け、逃げようとする海堂を決して離さず繰り返していると、時期に海堂は、乾の腕の中で大人しくなる。
 こうなるまでには、ある程度の時間が必要だけれど。
 その時間は乾にとって決して苦痛ではなかった。
 寧ろ欣喜だ。
「……海堂」
「………………」
 腕の中におさまる海堂をそっと見下ろして囁きかける乾の視界で、海堂は少し赤い目元に震える睫毛の影を落とす。
「好きだ……」
「…………わ……かったから…」
 戸惑って、力の無くなる声。
「…好きだよ」
「……っ…、……!」
 怒って荒くなる気配。
 それらが全て、乾にはとろりと甘く感じられる。
 乾が笑みを深めるのを、何だか悔しそうに海堂は睨みつけてくる。
 何が悔しいの?と寧ろ相手に対しての敗北感なら余程強い乾が、腕の中の海堂を軽く揺らす。
 顔を近づけて。
 海堂?と囁けば。
「……わかったって、言ってんだろ……っ…」
 好きだと乾が繰り返し口にするのが、いったいどれほど海堂の心中を乱すのか。
 震え出しそうに混乱している海堂の困惑が愛しいと思う。
 知らない表情ばかりを次々見せられ、乾は海堂の頬に指先を這わせ、その表情に更に近づいた。
「口説くのはお一人様一回限りなんて…誰が決めたんだ?」
「………、……」
「言いたいんだ何度でも」
 極軽く唇を重ねてから両腕できつく海堂を抱き締める。
 繰り返し、繰り返し、その体勢で乾が囁けば。
 海堂の手が乾の背のシャツを、きゅっと握り込んだのが気配で判る。
「……海堂?」
「俺は……」
「………ん…?」
 少しだけ身体を離して乾が見下ろす先で、海堂は小さく息をつき、そして顔を上向けてくる。
「……………」
 躊躇っても、まっすぐに。
 見つめてくる目が自分を見ているということに、乾は体験したことのない深い充足感で満たされる。
 きつい、眼差しは。
 真摯だ。
「俺と一緒にいること、後悔させない」
「……海堂」
「そういう風に、思ってる」
「ありがとう」
「…………………」
 礼なら俺が言いたいと、至極真面目な小さな声で海堂は言った。
「…………………」
 心からの感謝を、焦がれるようにしたくなる程の存在は、乾の腕にあつらえられたもののように収まっている。
「好きだ……」
 耐えかねたような。
 呻く声音でまた繰り返し囁く乾の背を、海堂の両腕が、しっかりと抱き締め返してくる。
「俺なんかに惚れて…馬鹿だアンタ」
 ぶっきらぼうな声の中に、一滴ぽつんと落とされた海堂の感情は。
 一瞬で波紋を描いて水面を染めた、見目鮮やかな色インクのように乾へと伝わってくる。
 甘く苦しむ海堂の含羞みの色は。
 声だけでなく。
 襟足の髪が零れて露になった海堂の項をも、ほんのりと甘い色に染め上げていた。
 ものすごい勢いで走ってきた乾に、さらわれるように抱き締められたのには、心底面食らった。
 海堂は、まず呆気にとられ、それから硬直し、最後に赤くなった。
「ちょ……、…」
 漸く海堂がそんな言葉を発する事が出来たのは。
 乾に抱きしめられてから、どれくらい経った頃だったか。
「…、…先輩…」
 いきなりストリートテニス場で乾に抱き締められている状況もつかめないでいる海堂は、まして周囲にチームメイトがいるのに気付くと一層激しく混乱した。
 何故こんな所で、こんな真似、と視線を泳がせる。
 乾は離れない。
「薫ちゃーん。もう少しそうしておいてあげなってばー」
「……、…菊丸先輩?」
「そうだぜマムシ。お前、乾先輩にどれだけ心配かけたか判ってんのかよ?」
「な、…桃城…っ…」
「よかったなあ海堂。記憶が戻って」
「記憶……って……あの、大石先輩、」
「裕太と二人で猫二匹って感じだったね。可愛かったよ。海堂」
「ね、…!…不二先輩…何言っ…」
「乾に、きちんと医者に連れて行ってもらえよ?」
「河村先輩」
 乾に抱き締められながら次々かけられる言葉に、しどろもどろになっている海堂は、最後にふと、越前の物言いたげな視線に気をとられる。
「おい……?」
「…………………」
 ただ一人、じっと海堂を見ているだけだった越前は、普段の不敵な笑みや不遜な態度は欠片も見せず、トレードマークの帽子を手で取って一礼した。
「越前?」
 アリガトウゴザイマシタ、と聞こえた気がして海堂は呼びかけたのだが。
 越前は、海堂の見慣れない表情をするだけだった。
 先輩も同級生も後輩も、結局それで全員連れ立って帰っていってしまい、海堂は今尚自身を抱き締め続ける乾と二人、その場に取り残される。
「…………先輩」
「うん?」
「………誰か一人くらい状況説明してくれたっていいんじゃねえっすか…」
 何がどうなって、それでこうなのかと。
 海堂は大きな溜息を吐き出す。
 実は未だに乾に抱き締められているのだが、人目がなくなった分いくらか気が落ち着いて。
 海堂は乾の固い背中を、ゆるく握りこんだ拳で軽く叩いた。
 促すように。
「………………」 
「桃がフレームで打ち損じたダンクが、越前に向かって飛んできて……海堂が越前を庇って、そのショックで記憶喪失だ。……思い出したか?」
 落ち着いた乾の声に引き出されるように。
 海堂の記憶に、越前の顔が浮かんできた。
「……記憶…喪失」
「そうだ。お前、なんにも覚えてなかったんだぞ」
「…………え…?」
 耳馴染みはいい言葉だが、実体験を見たり聞いたりした事は一度もない記憶喪失とやらに自分がなっていたらしいと知らされて。
 海堂は正直呆気にとられた。
 ところがどうも、乾は腑に落ちない事があるような口ぶりで海堂を抱き締める手に力を込めてきた。
「………先輩?」
「俺さあ……」
「………………」
「お前を河原に連れていったんだよ。手ぬぐい渡して。あの特訓すれば思い出すかなとか思ってね」
「………………」
「それでも駄目で。挙句逃げられて。気が逸って、つい、一大決心の告白をしたら同じ言葉でふられてねえ…」
「…………一大決心の告白?」
 何の事かと海堂が乾に抱き締められたまま身じろぐと、初めて乾の腕の束縛がゆるんだ。
 海堂がそっと見据えると、乾は溜息交じり微苦笑で言った。
「俺に未来預けてみるか?」
「………………」
「ことわるっ………と海堂には一言で玉砕」
 その経緯を聞き、海堂は腹をたてた。
 怒鳴るよりも、睨みつけるよりも、もっと深いところで腹がたった。
「海堂?」
「………………」
 口下手で口数の少ない海堂の真意を、いつだって誰より正しく汲み取る乾は。
 この時も案の定、海堂の感情起伏を察して穏やかな声で囁いた。
「海堂に言ったんだよ…?」
「………聞いてねえよ」
「………………」
「俺は覚えてねえ」
 拗ねているような物言いなんか、海堂はこれまでに、したことがない。
 それなのに口をついて出る言葉は僻みに他ならなくて。
「俺じゃない俺にそんなこと言うな」
「海堂」
「なんで……そいつが先に言われてんだよ」
「海堂…」
 乾は薄く笑った。
 優しい、笑い方で、ほんの少しも腹はたたなかった。
「焦るあまりに本能で口から出てしまった、いつも持っている本音、という事で……納得してくれないか」
「………………」
「畢生の告白に、同じ相手に同じ言葉でふられて、かなり落ち込んだ俺に免じて許してくれると有難いんだが……駄目か?」
「………三度目は断らねえよ」
「…海堂」
「何時か、何か、」
 気が向いたら。
 告白っていうのをすればいい。
 そうしたら今度は。
 三度目は。
 最初から頷くからと海堂は心で思う。
「……アンタ頭いいんだから、俺の言いたいことくらい分かるだろ」
 一度目は確かに断った。
 でもその後応えた。
 二度目も、今の自分に言うなら応える。
 だから、と海堂は。
 正気を焼かれそうな羞恥心を堪えて顔を上げる。
 乾の目を見る。
「海堂」
 そこにあったのは乾の嬉しそうな笑い顔で余計に恥ずかしくなる。
「……とんでもないこと言い出すかもよ」
「…………構わねえよ……」
 楽しみだと言う低い甘い声と一緒にもう一度。
 海堂は乾に抱き締められた。
 乾からの二度目の告白を聞いた自分はもういないが、その自分は今のこの抱擁を知らないのだと思う事で。
 全ては帳消しだろうと海堂は思うことにした。
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