How did you feel at your first kiss?
夜のランニングは海堂の日課で、幾つかあるランニングコースは、全て部の先輩である乾が厳選してつくりあげたものだった。
「やっぱり走ってた」
「………乾先輩」
大晦日の夜も日課に例外無く走っていた海堂は、通り過ぎようとしていたマンションの、植え込みの所に立っていた乾に声をかけられる。
「………………」
ゆっくりと、海堂は足を止めた。
乾の家はこのマンションの一室にある。
それを知ってはいたが驚いて、海堂は怪訝な顔で乾を見やった。
こんなところでいったいなにを。
そう考えて。
「今年最後にもう一回会えるかなと思ってね」
低く耳に伝わってくる乾の声。
「………俺にですか」
「そう。海堂に」
「………………」
息を乱すまでではないが、肩で呼吸を繰り返しながら、海堂はますます不可解な思いで乾の言葉を聞いた。
乾の表情からは何も汲み取れない。
低音の声と話し方は、いつものようにゆったりと丁寧だった。
「今年一年を振り返ってね」
「………………」
「今年も一年やっぱりそうだったな、と思って」
「………そうって…何すか」
「海堂を好きだなあというのがそう」
「はあ。………?」
あんまりさらりと普通に言われたものだから。
海堂もこんな風に極めてあっさり頷いてしまった。
頷いてしまってから。
何かがおかしくないかと急激に思う。
「………………」
そんな海堂に、乾はゆっくりと唇の端を引き上げた。
「知ってた?」
「………あ…?」
「俺は海堂が好きだよ」
「……あの…、」
乾の右手が伸びてきた。
そう思った時にはもう、その手に正面から自分の左手を握り込まれていて。
「………、っ…」
海堂はぐっと言葉に詰まる。
手。
繋がれた、手。
「……………」
乾は、普通の顔して、平気な顔して、手なんか繋いできて。
海堂は、悔しくて、猛烈に、不意打ちに、悔しくなって。
憮然と黙り込んだ。
混乱はパニックではなく、沸々と込み上げてくる怒りに酷似していた。
乾を、海堂はその感情のまま、きつく睨みつけようとした。
でも。
ふと。
海堂は戸惑った。
頼りない不安を覚えた。
海堂は気付いたのだ。
乾の手は冷たい。
とても、冷たい。
「……………」
海堂の視線は、きつくなれずに乾を凝視した。
それに気付いた乾が、珍しく決まり悪そうに微笑んだから。
その表情を目にした途端、ふわりと、海堂の身体の中で何かが灯ったように温かくなる。
温かさが、満ち満ちてきて、あっという間に熱の塊になる。
海堂は、乾の手の冷たさが心地良いと急に思った。
そして、この一瞬で、どれだけ自分の熱が高まったのかを考え、硬直した。
何故こんな事にと惑う未経験の類の緊張感は、瞬く間に海堂を追い詰めた。
「海堂」
怖いみたいに身体が竦む。
言葉が出てこない。
聞き慣れた声に名前を呼ばれて。
混乱がひどくなるわけがわからない。
「つきあって」
「………は? つきあうって」
「うん」
「つきあうって、交換日記でもするんですか」
本当にひどい混乱のまま口走った海堂に、乾はそれもいいけどね、と微笑を浮かべる。
「俺が三ページ書いて、海堂が三行とかかな」
「あんたが文章書き慣れしすぎてるんです」
「そうだなあ……だから交換日記じゃない方向で、どうかな?」
何がだからなのか。
交換日記じゃない方向ってどっちの方向なんだとか。
考えて考えて考えて。
海堂は突然、空いていた右手で自分の頭を抱えた。
「海堂?」
「………っ……あーっ!」
「あれ? どうした?」
「アンタのこと考えると頭ん中グルグルするッ」
「……………」
「……、…っなに笑ってんだよっ」
この上ない激高で叫んだつもりが、乾のリアクションは余計に海堂を煽ってきた。
海堂の見たまま。
乾は口元を大きな手のひらで覆って肩を震わせている。
笑っている。
海堂は自分ををここまで混乱させた挙句に笑っている乾を、今度こそ本当に、本気で睨みつけた。
さすがに乾が気付いて首を左右に振った。
「いや、…嬉しくて。ごめん。気を悪くしないで欲しいんだけど」
「……っ……ど…ゆー……ッ」
「興味ないとか、どうでもいいとかいうような拒絶も想定してたからさ」
グルグルって可愛い、可愛すぎる、と臆面もなく言われて。
その声音の甘さに海堂はうろたえた。
こんな乾を、海堂は知らない。
手を握られたまま、もうこれ以上怒鳴る事も、ましてや赤くなるなんて真似も到底出来なくて。
海堂が顔を強張らせていると、乾の笑いは緩やかにおさまっていった。
次第に。
優しそうだけれど、生真面目な表情に移ろっていく。
「………………」
「海堂…」
「………………」
「来年は、俺のこと考えてよ。海堂」
ゆっくりでいいから、と乾の手が僅かに力を込めてきて。
海堂は密着した肌と肌で気付く。
乾の手のひらが、きちんと温かくなっているのに気付く。
自分がそれを温かくしたのかと思うと、戸惑いと物慣れない羞恥心とが相まって海堂は言葉に詰まった。
「ね……」
「………………」
「長期戦の方が得意だろ?」
そんな海堂に囁くように乾は言った。
「……なんのこと言って…」
「海堂の得意なやり方で良いから俺のこと考えて」
「………………」
乾は薄い笑みを唇にたたえたままだったけれど、とても真剣だった。
それがよく判った。
それくらいには理解している。
今、海堂にしてみれば、ひどく突飛な事を言い出した乾だが。
そんな彼に戸惑ってばかりの海堂だが。
「…………俺は」
「ん?」
「あんたのこと………尊敬してる」
「ありがとう」
「……誰かと一緒にトレーニングするなんて、あんたが初めてだった」
「うん」
「でも、……そういう好きじゃなくて、考えろって事ですか」
「ああ」
難しいかな、と囁いた乾を海堂は漸く見据える事が出来た。
「………………」
難しいこと。
判らないこと。
そういったものを、何でも。
やさしくして、教えてくれるのが乾だった。
「……俺のが先輩より持久力あるんですけど」
「振り切ろうと思ってる?」
「………そうじゃねえ」
「俺が早々脱落すると思ってるんだったら取り越し苦労だな。海堂」
「………………」
「試してごらん」
好きなようにさせてくれているようで、巧みな誘導のうまい男。
そんな乾の手中に在る気がしてならないが、海堂は何だかそれでもいいような気になった。
一年の最後の日。
寒空の下にどれだけ居たのか知れない乾の冷たい手。
「判りました。来年は、あんたのこと考える」
判るまで。
「来年は、じゃなくて。今からだよ海堂」
「…………は?」
「年が明けた」
おめでとう、と笑いながら。
乾は時計の文字盤を視線で指し示す。
そこに視線を落とした海堂は、一瞬だけ、乾に軽く抱き寄せられた。
「……………」
自分自身が、いとも簡単に乾の胸元におさまることを思い知らされながら、海堂は新しい年の、新しい一日の、冷たい冷気を深く胸に吸い込んだ。
今日からどんな毎日が始まるのか。
それを思って海堂は。
乾と手を繋いだまま、新年を迎えたのだった。
「やっぱり走ってた」
「………乾先輩」
大晦日の夜も日課に例外無く走っていた海堂は、通り過ぎようとしていたマンションの、植え込みの所に立っていた乾に声をかけられる。
「………………」
ゆっくりと、海堂は足を止めた。
乾の家はこのマンションの一室にある。
それを知ってはいたが驚いて、海堂は怪訝な顔で乾を見やった。
こんなところでいったいなにを。
そう考えて。
「今年最後にもう一回会えるかなと思ってね」
低く耳に伝わってくる乾の声。
「………俺にですか」
「そう。海堂に」
「………………」
息を乱すまでではないが、肩で呼吸を繰り返しながら、海堂はますます不可解な思いで乾の言葉を聞いた。
乾の表情からは何も汲み取れない。
低音の声と話し方は、いつものようにゆったりと丁寧だった。
「今年一年を振り返ってね」
「………………」
「今年も一年やっぱりそうだったな、と思って」
「………そうって…何すか」
「海堂を好きだなあというのがそう」
「はあ。………?」
あんまりさらりと普通に言われたものだから。
海堂もこんな風に極めてあっさり頷いてしまった。
頷いてしまってから。
何かがおかしくないかと急激に思う。
「………………」
そんな海堂に、乾はゆっくりと唇の端を引き上げた。
「知ってた?」
「………あ…?」
「俺は海堂が好きだよ」
「……あの…、」
乾の右手が伸びてきた。
そう思った時にはもう、その手に正面から自分の左手を握り込まれていて。
「………、っ…」
海堂はぐっと言葉に詰まる。
手。
繋がれた、手。
「……………」
乾は、普通の顔して、平気な顔して、手なんか繋いできて。
海堂は、悔しくて、猛烈に、不意打ちに、悔しくなって。
憮然と黙り込んだ。
混乱はパニックではなく、沸々と込み上げてくる怒りに酷似していた。
乾を、海堂はその感情のまま、きつく睨みつけようとした。
でも。
ふと。
海堂は戸惑った。
頼りない不安を覚えた。
海堂は気付いたのだ。
乾の手は冷たい。
とても、冷たい。
「……………」
海堂の視線は、きつくなれずに乾を凝視した。
それに気付いた乾が、珍しく決まり悪そうに微笑んだから。
その表情を目にした途端、ふわりと、海堂の身体の中で何かが灯ったように温かくなる。
温かさが、満ち満ちてきて、あっという間に熱の塊になる。
海堂は、乾の手の冷たさが心地良いと急に思った。
そして、この一瞬で、どれだけ自分の熱が高まったのかを考え、硬直した。
何故こんな事にと惑う未経験の類の緊張感は、瞬く間に海堂を追い詰めた。
「海堂」
怖いみたいに身体が竦む。
言葉が出てこない。
聞き慣れた声に名前を呼ばれて。
混乱がひどくなるわけがわからない。
「つきあって」
「………は? つきあうって」
「うん」
「つきあうって、交換日記でもするんですか」
本当にひどい混乱のまま口走った海堂に、乾はそれもいいけどね、と微笑を浮かべる。
「俺が三ページ書いて、海堂が三行とかかな」
「あんたが文章書き慣れしすぎてるんです」
「そうだなあ……だから交換日記じゃない方向で、どうかな?」
何がだからなのか。
交換日記じゃない方向ってどっちの方向なんだとか。
考えて考えて考えて。
海堂は突然、空いていた右手で自分の頭を抱えた。
「海堂?」
「………っ……あーっ!」
「あれ? どうした?」
「アンタのこと考えると頭ん中グルグルするッ」
「……………」
「……、…っなに笑ってんだよっ」
この上ない激高で叫んだつもりが、乾のリアクションは余計に海堂を煽ってきた。
海堂の見たまま。
乾は口元を大きな手のひらで覆って肩を震わせている。
笑っている。
海堂は自分ををここまで混乱させた挙句に笑っている乾を、今度こそ本当に、本気で睨みつけた。
さすがに乾が気付いて首を左右に振った。
「いや、…嬉しくて。ごめん。気を悪くしないで欲しいんだけど」
「……っ……ど…ゆー……ッ」
「興味ないとか、どうでもいいとかいうような拒絶も想定してたからさ」
グルグルって可愛い、可愛すぎる、と臆面もなく言われて。
その声音の甘さに海堂はうろたえた。
こんな乾を、海堂は知らない。
手を握られたまま、もうこれ以上怒鳴る事も、ましてや赤くなるなんて真似も到底出来なくて。
海堂が顔を強張らせていると、乾の笑いは緩やかにおさまっていった。
次第に。
優しそうだけれど、生真面目な表情に移ろっていく。
「………………」
「海堂…」
「………………」
「来年は、俺のこと考えてよ。海堂」
ゆっくりでいいから、と乾の手が僅かに力を込めてきて。
海堂は密着した肌と肌で気付く。
乾の手のひらが、きちんと温かくなっているのに気付く。
自分がそれを温かくしたのかと思うと、戸惑いと物慣れない羞恥心とが相まって海堂は言葉に詰まった。
「ね……」
「………………」
「長期戦の方が得意だろ?」
そんな海堂に囁くように乾は言った。
「……なんのこと言って…」
「海堂の得意なやり方で良いから俺のこと考えて」
「………………」
乾は薄い笑みを唇にたたえたままだったけれど、とても真剣だった。
それがよく判った。
それくらいには理解している。
今、海堂にしてみれば、ひどく突飛な事を言い出した乾だが。
そんな彼に戸惑ってばかりの海堂だが。
「…………俺は」
「ん?」
「あんたのこと………尊敬してる」
「ありがとう」
「……誰かと一緒にトレーニングするなんて、あんたが初めてだった」
「うん」
「でも、……そういう好きじゃなくて、考えろって事ですか」
「ああ」
難しいかな、と囁いた乾を海堂は漸く見据える事が出来た。
「………………」
難しいこと。
判らないこと。
そういったものを、何でも。
やさしくして、教えてくれるのが乾だった。
「……俺のが先輩より持久力あるんですけど」
「振り切ろうと思ってる?」
「………そうじゃねえ」
「俺が早々脱落すると思ってるんだったら取り越し苦労だな。海堂」
「………………」
「試してごらん」
好きなようにさせてくれているようで、巧みな誘導のうまい男。
そんな乾の手中に在る気がしてならないが、海堂は何だかそれでもいいような気になった。
一年の最後の日。
寒空の下にどれだけ居たのか知れない乾の冷たい手。
「判りました。来年は、あんたのこと考える」
判るまで。
「来年は、じゃなくて。今からだよ海堂」
「…………は?」
「年が明けた」
おめでとう、と笑いながら。
乾は時計の文字盤を視線で指し示す。
そこに視線を落とした海堂は、一瞬だけ、乾に軽く抱き寄せられた。
「……………」
自分自身が、いとも簡単に乾の胸元におさまることを思い知らされながら、海堂は新しい年の、新しい一日の、冷たい冷気を深く胸に吸い込んだ。
今日からどんな毎日が始まるのか。
それを思って海堂は。
乾と手を繋いだまま、新年を迎えたのだった。
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