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 ずっと後ろにいる。
 ずっと後ろに立っていて、ずっと後ろを歩いている。
 今日はずっとそうだ。
「…先輩」
「ん?」
 海堂が足を止めて振り返ると、背後にいた乾も足を止めた。
 ぴったり真後ろにつかれている訳ではないのだが、いつもとは違う位置に海堂はどうにも落ち着かなくなってしまった。
「何さっきから後ろにいるんすか」
「ああ…ちょっと…」
「ちょっとじゃないだろうが…」
 思わず呻くような声が出てしまうのも仕方ない事だと海堂は思った。
 とにかく、今日乾はずっと海堂の後ろ側にいる。
 自主トレ中も、終わって帰途についている今もだ。
 いつもは大抵海堂の視界に入ってきている乾が、今日はそうでないから。
 どうにも違和感を覚えて仕方なかった。
 海堂が、睨む程ではないが、じっと見据えた先で乾はテニスバッグを肩にかけなおして薄く笑みを浮かべた。
「きれいな歩き方だなあと思ってさ」
「…は?」
 僅かにだけ首を傾けて、乾は微笑したままそう言った。
「惚れ惚れしてる所なんだが」
「……っ…」
 海堂を絶句させた乾の衒いない言葉は尚も続く。
「いくら見てても飽きないなあ、と。確かに今日一日中考えてたよ。海堂は後姿も綺麗だよなぁ…」
「馬鹿だろあんた…っ」
 そう怒鳴るしか海堂には出来なかった。
 他にいったいどんなリアクションがとれるというのか。
 しかし海堂が、そう怒鳴ったところで乾はけろりとしたもので、あっさり首を左右に振ったかと思うと、言ったのはこんな言葉だ。
「馬鹿というか、海堂マニアと言われたよ」
「………………」
 何だその言葉はと絶句した後、海堂はどこか恐々乾に尋ねた。
「……誰にっすか」
「不二」
 やはりと思った気持ちも無くはない。
 しかしそれにしたっていったいどんなシチュエーションでその台詞が放たれたのかと思うと、海堂も訳もなく取り乱しそうになってしまった。
「……あんた」
「いや、悪いな。俺判りやすいらしくて」
「さっぱり判んねえよっ」
 淡々と告げてくる乾に海堂は背を向けて歩き出した。
 本気で怒っている訳ではなく、込み上げてくるような羞恥心にどうにも居たたまれなくなった為だ。 
 海堂は乾の先をどんどん歩いた。
 意地になった。
 もう後ろは見ない、ひたすら前を見て歩く。
 乾がきちんと背後にいることは気配で判っていた。
 立秋を過ぎても世界はこんなにも夏のままだ。
 焼けつくような日差しは肌に体感できる程なのに、それよりもっと乾の気配の方が。
 海堂の感覚にはリアルだった。
「海堂」
「………………」
「鬱陶しいか?」
「……そういうこと言ってんじゃない」
 背後に居るなと海堂が思うのは、鬱陶しいからではなくて。
「好きだよ。海堂」
「……、…目合わせないで言うな」
「正面から言うと顔伏せるだろう?」
「近すぎなんだよ距離が! 極端すぎる!」
「わがままだなあ」
 先を行く海堂、背後にいる乾。
 視線は絡まないのに、あまりにも幸せそうに乾に言われてしまったのが判り、海堂は息を詰める。
 我儘なんて、そんなものどっちがだ。
 海堂にだっていろいろ思う所はある。
「………………」
 足を止めないまま、海堂は頭上を仰ぎ見た。
 わめきたてるような蝉の鳴声はどこから聞こえてくるのか。
 違う種類の鳴声が反響しあって、青く高く抜けた空へと立ち消えていく。
「……先輩?」
 突然に、乾が海堂の横に並んで来た。
 やっと、いつもの定位置。
 しかし何で突然にこうもあっさり戻ってきたのかと海堂が訝しげに伺い見ると、乾も高い位置から丁寧に海堂を見下ろしていた。
「肩がいつもより下がったから」
「………………」
「ごめんな」
 謝るんじゃねえと言うのは簡単だったが、海堂はその言葉を飲んだ。
 乾がどうして謝ったのか、その理由は多分正しい筈だからだ。
「……怒らせてって思って言ってんなら聞かねぇ」
 低く告げれば、乾も小さく返してきた。
「寂しがらせてごめんな」
「……、…口に出すなっ」
「だから我儘だよ海堂」
 至極幸せそうに、楽しそうに、乾はそう繰り返した。


 間違ってない。
 だからってな。
 そんな思いを込めて乾を睨みつける海堂だったが、その肩は、それで漸く普段のラインを保つのだった。
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 どきりとする程涼しい風が吹いた。
 八月になったというのに、夏ではなく秋がやってきたかのような気配は、夕涼みと言ってしまう事すら憚られる。
 光が淡く消されて、いっそ煙っているかのような夕暮れの中、海堂は一人で歩いていた。
 手に下げているビニールバックの中には、シャンプーとリンス、石鹸、ボディタオルなどが詰まっていた。
「海堂ー。どこ行くのー」
 遠い距離のある所からの声。
 唐突な呼びかけ。
 けれど海堂は驚かなかった。
 乾のいるマンションの前だなと思って通っていたので、無意識に視線も頭上の一室を見上げてもいたからだ。
 そうして見上げた先にいた乾は、ベランダの手すりに手をついて、ひらりと大きな手のひらを振って海堂の歩を止めさせた。
「……風呂っす」
「ええー?」
「…風!呂!」
「ああー、お風呂ー?」
 いかにも暢気な様子だが、大声を張り上げているわけでもない乾の声は、海堂の耳に楽に届いてきた。
「ちょっとそこで待ってて。海堂」
 三分、と乾は言って。
 ベランダから唐突に姿を消した。
「………………」
 海堂は溜息をついた。
 乾はいつも唐突だ。
 ひどく落ち着いているようなのに、突拍子もない事を平気でしたりする。
 実際乾はすぐに海堂の前に現れた。
 紙袋をひとつ手に提げている。
「お待たせ。行こうか」
「………あの?」
「銭湯だろ?……あれ、富士の湯じゃなく?」
「……いや……それはそうなんですけど」
「じゃあ行こう」
 乾は長い脚でのんびり歩いた。
 海堂はその隣に並び、再びの溜息だ。
 海堂が向かっている行先は、確かにここからあと五分ほど歩いた先にある富士の湯、銭湯だ。
 しかし問題は行先ではない。
「…………何であんたが一緒に来るんですか」
「銭湯って俺行ったことないんだよな」
「………………」
 だからって。
 海堂はその呟きを飲み込んだ。
 やけに乾が楽しそうだったからだ。
 持っている紙袋の中身は、タオルとか着替えの類なのだろう。
 慌てて、そして無理矢理突っ込んできたらしく、中身が少し見えていた。
「海堂の家の風呂どうしたんだ? 壊れたとか?」
「………そうです。明日業者が来て、点検してから見積もり出すとかで」
「シャワーも駄目なのか」
「水しか出ない」
「そうか」
 海堂は銭湯行った事ある?と乾が突然に海堂の顔を覗き込んできた。
 いきなり目の前に現れた乾の顔に息をのみつつ、海堂は首を横に振る。
 乾は淡々と話を続けた。
「葉末君と一緒じゃないんだ」
「……葉末は、早い時間に母親と行ってきたんで」
「銭湯って何時からやってるんだ?」
「四時って言ってましたけど」
 へえ、と乾は興味深そうに頷いた。
「なあ、海堂」
「……何っすか」
「俺って将来、銭湯通いしてそうじゃない? 木造の古いアパート、風呂無しに住んでてさ」
 その想像は実に容易かった。
 あっさり頷けると海堂は思った。
 後学の為にと乾は本当に楽しそうで、海堂も自然と表情を緩めていた。
 富士の湯について、湯ののれんをくぐる。
 向かって右が男湯で、左が女湯だ。
 右に進み、木製の下駄箱に靴を入れる。
 下駄箱の鍵は金属板で、見た目の大きさに比べて重かった。
 それを手にガラス戸を横に引いて中に入り、金額表を確認して料金を払う。
 奥にあるロッカーの前で服を脱ぎながら、海堂は乾に言った。
「風呂つきのとこ住んだ方がいいっすよ。先輩」
 そんな海堂の言葉に乾は神妙に頷いた。
「だな。一回四百五十円か。思ったより金がかかるんだな、銭湯ってのは」
 一ヶ月にかかる金額がと口に出して計算しながら、乾は最後に眼鏡を外してタオルだけ手に持った。
「あ、海堂」
「…はい?」
「シャンプーとか貸してくれ」
「……はあ」
「それからさ。実はあんまりよく見えてないんだけど、手とか引いてっていうお願いは…」 ありかな?と問いかけてくる乾が、微かに笑っている。
 乾の視力がどれほどなのか海堂は正確には知らなかったが、とりあえず今のこれは半分以上海堂をからかっているのだろう。
 海堂は大袈裟な溜息を吐き出して、おもむろに乾の手をとった。
「……海堂?」
 言っておいて驚く乾を引っ張るように海堂は歩き出す。
「敬って、労りますよ」
「おいおい。お前、そんなお年寄り相手みたいな事言うなよ」
 言いながら乾も笑っている。
 結局浴場の中に入るまで手が繋がったままになってしまった。
 中には誰もいなかったので、まあいいかと思いながらも、やはりどこか気恥ずかしい。 それにしてもこんなに誰もいなくて経営は大丈夫なのだろうかと海堂は考えながら、髪を洗い。身体を洗う。
 乾は興味深そうに周囲を一周してから、海堂の持って来たシャンプーや石鹸などで同じように髪と身体を洗い、湯船に沈んだ。
「結構深いな、これ。子供とか大丈夫なのか」
「回りの段になってる所に座らせておくんじゃないんですか」
「貸切だなあ……」
「……みたいっすね」
 乾は、不思議だ。
 特別な事は言わないが、口の重い海堂から言葉を引き出す。
 会話をさせる。
 たいした話ではなくても、何の気詰りもしないやりとりで、話が交わせる。
「………………」
 海堂はずっと、必要でない言葉、意味のない言葉は、無用だと思っていた。
 言葉よりも行動の方が重要だと思っていた。
 ずっと、そうしてきたのだけれど。
 乾といると、そうする事が難しくなる。
 言葉は使わないと。
 乾は以前海堂にそう言った。
 奇妙なほど、海堂の言動を理解している彼が、そう言った。
 言葉にした事で、現実になる事ってあるよ。
 言葉にすれば、誰かがそれを聞いていて、いつか返ってくる事もあるよ。
 そう、ひとりごとのように海堂に言った。
「………先輩…」
「何だ?」
 どこまで見えているのか判らない乾の眼が、海堂を見据えてくる。
 たっぷりと溢れている湯に肩先まで沈めて、海堂は湯の中で手を伸ばした。
「………………」
 乾は問い返さない。
 からかわない。
 言葉を使えと海堂には告げたくせに、乾は黙って、そして何よりも正確に、湯の中で海堂の手をとった。
 指と指が組まれて。
 自分達は一続きになる。
 手を引いて。
 手をつないで。
 そのどちらでもいい。
 温かな液体の中で握った手のひらは、確かに、大切な感触がした。



 フルーツ牛乳というのを飲んでみたいという意見は一致して、湯上りにお互いがその瓶入りの甘い飲み物を飲んだせいで。
 銭湯からの帰り道、乾の住むマンション前での別れ際。
 唇と唇が掠っただけのキスが、やけに、ものすごく、甘い味と余韻を互いの唇に残した。
 至近距離で笑った吐息を漏らした乾の考えている事は、海堂と同じ事だ。
 海堂もつられて微かに吐息に笑みを含ませた。
 きっと、もしかしたら、何年か後にも、同じ事をしているかもしれない自分達。
 否定出来ない。
 むしろ、どこか確信じみていて気恥ずかしい。
 風呂無しの木造アパートだとか。
 銭湯の行き帰りの道だとか。
 どうしよう、そんな未来。
 現実になったら笑える。
 だから出来たら将来、笑いたい。 
 努力して掴めるものは何なのか。
 諦めない先にあるものは何なのか。
 その経過も結果も、全てを見せてくれた。
 そんな存在は稀有だ。
 共に在る。
 それがどれだけ特別な事であるか。
 恋に落ちる。
 それがどれだけ至当な事であるか。
 判っているから、のめりこむ。



 ココナッツミルクと発酵バターがベースの白いエビカレーをスプーンですくい、口に運ぶ。
 舌に感じたスパイスを、フェンネル、カルダモン、と確認していた乾は、野菜汁に最適なスパイスは何だろうかとふと思った。
 そういえば最近、野菜汁を改良する時間がとれていない。
 何のスケジュールが押しているせいだろうかと記憶を辿っていくと、たちまち考え事が芋蔓式に増えていく。
「……乾先輩」
「………………」
「乾先輩!」
「………うん?」
 どうやら名前を呼ばれている。
 乾が顔を上げると、正面の席に座っている後輩が深く肩で息をついていた。
「いつまでスプーンを口にくわえたまんまでいるんスか」
「……へ?……ああ……」
 そういえば、海堂の言うように。
 確かにと乾はスプーンを口から引き出し、もう一口を素早く食べてから脇に置いた鞄の中身を探った。
 今乾の頭の中は、幾つかの考え事が同時進行で流れている。
 書き留めないと取りこぼしが出るのは確実だ。
 乾はノートに文字を書き散らしながら、口腔にじんわりと残るカレーの味をしみじみ美味しいと思った。
 エビのエキスを含んだ辛くも円やかなカレーだ。
 もう一口食べたいが、如何せん今は手が止まらない。
「乾先輩」
「ん…?……」
 低い声は呆れと窘めを隠さなかった。
 ひたすらに紙面に文章を書き付けている乾の手が止まるのを見計らって、向かい側から海堂の腕が伸びてくる。
 ノートを取られて、閉じられた。
「おい?」
「……メシ食ってる時くらい、止めたらどうです」
 寡黙な海堂は、乾といる時は普段よりも僅かに饒舌だ。
 敬語は崩さないが、寧ろ年長者のような物言いも、ぶっきらぼうな中に真摯な気遣いが滲んでいて心地いい。
 乾は微苦笑と共に素直にそう思った。
「行儀悪いな。確かに」
「………それだけじゃなくて。メシん時くらい、頭休めた方がいい」
「………………」
 憮然とした表情で海堂は眼を伏せた。
 スープカレーを食べている海堂の、まっすぐに伸びた姿勢、綺麗な手捌きを乾は直視する。
 そんな視線に気づいているのかいないのか、海堂はちらりと目線を上向けてきて言った。
「あんた四六時中考え事してんだから。メシ食う時くらい俺を見てればいいだろ」
 うわ、と乾は眼を眇めた。
 きた、と胸を押さえたくなる。
 海堂の言葉数は、少ない分ストレートだ。
 厳しい方向にも、甘い方向にも、真っ直ぐだ。
 命令なのかお願いなのか提案なのか判らない所が乾を直撃する。
「………………」
 海堂は言うだけ言うと、あとは黙々とスープカレーを食べ続けた。
 柄の長いスプーンを節のない長い指が掴んでいる。
 さらさらとしたスープを一滴も零す事無く唇へと運ぶ動き。
 唇は香辛料に刺激でも受けたのか普段よりも色濃く赤い。
 いつもはバンダナに抑えられている髪が、さらりと小さな丸い頭から滑る。
 何の音もしない。
 海堂の回りだけが無声映画のように冴え冴えと静かだ。
 きれいに食べきったスープカレーの皿にスプーンが置かれる。
 海堂が先程と同じように上向きの目線を乾に宛がってきて、怒鳴った。
「ただ見ててどうすんですか…!」
 とにかく食えよっと乾を一喝した海堂の目元が、うっすらと赤かった。
 そういう海堂のどこかにではなく、そういう海堂自身に見惚れる。
 乾は海堂に見据えられたまま、エビカレーの続きにとりかかった。
 ただ見られているという事もまた。
 何とも言えない甘い気分で乾の胸の内が埋まった。
 思考までも湿らせてくる湿気にはほとほとうんざりするが、実際目の前で汗に濡れている海堂の姿は、乾の目には不思議と爽然として見えた。
「はい、お疲れ。終了だ」
「…………っす…」
 最後のランニングを仕上げて足を止めた海堂が、無造作に肩口で額の汗を拭う。
 乾に目礼してきた海堂の睫毛も、汗を含んだように濡れて色濃くなっていた。
 慣例の二人で行う自主トレを終えて、乾は小型のクーラーボックスの中からボトルを取り出した。
「海堂」
 途端に海堂が、きつい眼差しの中に怯えの色を翳すので、乾は微苦笑してボトルキャップを開けた。
「牛乳。ただのね」
「………………」
 十中八九野菜汁だと思っている海堂が、またいかにも判りやすくその肩から息を抜いた。
 こうやって徐々に素の表情を晒してくる海堂に、乾の興味が薄れる事はなかった。
 興味というよりもはや執着だ。
「ちょうど飲み頃だ」
「飲み頃……?」
「そう。凍らせてきたからね」
 ほら、と乾がボトルの中身を見せるようにすると、警戒心の強い猫が好奇心に負けたかのように目線を寄こしてくる。
 黒い髪と黒い目の、きつくて綺麗な後輩は。
 乾の目に近頃ひどく甘かった。
「牛乳を凍らせるとね、まずは水分から先に固まっていく」
「は……?」
「いわゆる不純物というか、牛乳で言うなら栄養成分みたいな物が、水分の後に固まっていく。溶ける時はその逆だ。栄養分から先に溶けていく」
 つまり半解凍のこの状態の牛乳は、栄養素も高く、味も濃いのだと乾は海堂に飲んでみるよう促した。
 海堂はおとなしく従ってきた。
 ふわりとやわらかそうな唇がボトルの口に株さる。
 上向いて、細い喉元が露になる。
 一口二口飲んで海堂は目を瞠った。
「……だろう?」
 乾が軽く頭を傾けて微笑み問えば、海堂は小さく頷いた。
 黙って、それがやけに幼い仕草に思えた。
 乾は無意識に海堂の濡れている髪の先に手をやった。
 バンダナを外してやると、抗わないどころか、それこそ猫のようにふるりと頭を振った。
 ミルクを飲んだばかりの唇の色が一際きれいだ。
「凍結濃縮ってね。ジュースなんかでも使われてるよ。果汁を濃縮させる為に、果汁を凍らせて水分だけを分離させる」
「………汁でやんないで下さいよ…」
「あれ。判った?」
 途端に逆毛立つ猫のように気配を尖らせる海堂がまたどうにも乾を煽り立てる。
 乾は忍び笑いを漏らしながら、それはまあ冗談だけどと呟いた。
「栄養素が高くなりそうだと思ったのは事実だけどね」
「これ以上のグレードアップは勘弁してほしいんですけど…」
 海堂の心底からの苦い声に、乾は尚も笑みを深めた。
「…凍結濃縮っていうのは、海堂みたいだな」
「……は?」
「口数がね、少ない分」
「……………」
「海堂の言葉は濃く濃縮されてるよ」
 馴れ合ってはこないし、あまり多くを語りもしないし、海堂の言葉は大概端的で飾りがない。
 だからこそ、濁りなく、躊躇いなく、濃くて強い。
「………あんたは逆っすね…」
「そうだな。だから言葉は惜しまないようにしてる」
「……………」
 乾が、海堂を抱き締めるたび、好きだと繰り返すのは。
 だからなのだ。
 自分達は何かひとつだけがひどく似通っていると乾は感じている。
 でもそれ以外のものの殆どは、異なる事ばかりだ。
 しかし、それだからこそうまくいっているのもまた事実だった


 少しずつでもたくさん欲しい。
 時々だけれども大きく欲しい。
 違うやり方で、同じ気持ちで分け与えられるのが、自分達だ。
 星のない夜空で幾ら目を凝らして星を探した所で、見つからない。
 無数の星空の中から、たった一つの星だけを探す事もまた同様に。
 

 無いものは見つけようが無い。
 しかし有り過ぎてもそこから見つけ出す事はなかなかに困難だ。
 海堂は学校帰りに立ち寄ったCDショップで、大量のCDが収められているラックの端から片っ端に、収録曲の曲目を確認している。
 生誕二百五十年を迎えた事を記念して設けられている件の作曲家のラックは、記念全集から復刻版までより一層の品揃えで、言うなればおびただしい星を瞬かせている夜空のようなものだ。
 収録された曲は無数の星だ。
 海堂はそれらひとつずつを手にとっては、曲名を確認していった。
「………………」
 これで何件目のCDショップになるのか。
 本当はすぐにでも欲しいなら、店員に尋ねるなり、ネットで注文するなりすれば確実なのは判っている上で、海堂は自分の目で探し出したかったのだ。
「………………」
 ラックの何段目にさしかかった時だったか、海堂の手が止まった。
 セピア色が日に焼けて明るくなった色みの中、楽器を手にした女性がジャケットに描かれているCDは他の全集などに比べると薄かった。
 しかし紛う事無く海堂が探していた曲だ。
 ふ、と笑みとも吐息ともつかない息を唇からもらした海堂は、背後から名前を呼ばれるのと一緒に肩に手を置かれて、飛び上がりかけた。
 実際に跳ね上がった肩先を宥めるように手のひらに包んだ男は海堂の背後で笑った。
「どうしたんだ? そんなに驚くなんて」
「……乾先輩…」
 気配もなくいきなり現れられては普通驚くと、海堂が胸の内で思っただけで乾は言った。
「悪かったよ。そういうつもりじゃなかったんだって」
「………………」
「海堂、なにか真剣な感じだったから、どのタイミングで声かけていいものかと…………あれ?」
 乾の視線が、海堂が手にしていたものに留まる。
「あれ、…それって、ひょっとして」
 海堂は溜息をついた。
 乾が気を取られているのを承知の上で、海堂は黙って歩き出し、レジに向かった。
「海堂」
「ラッピングの時間くらい待って欲しいんですけど」
「は?」
 乾にしては珍しく、状況がさっぱり判っていない声を上げたが、海堂は返事をしなかった。
 レジでラッピングを頼み、受け取って店を出る。
 乾は海堂の後ろについてきていた。
 ショップを出たところで、海堂はくるりと振り返って手提げ袋を持っている片手を乾へと突き出した。
「…え?」
 乾は面食らった顔をしていた。
「どうぞ。あんたに渡そうと思って買ったんで」
「モーツァルト…?」
「そうです。きらきら星変奏曲だろ」
「………………」
 乾が言っていた。
 だから海堂は覚えている。
 だから海堂は探した。
「………あんな独り言みたいな話で?」
 きらきら星は、元はパリのシャンソンの恋の歌。
 それをテーマにモーツァルトがつくったきらきら星の変奏曲。
 綺麗で可愛い曲だよと乾に言っていたのは不二で、初めて聞いたとそれに応えた乾は、いつか聴いてみようと言いながら、その事は頭の中だけにおさめたようだった。
 いつものように手元のノートには書き止めなかったから。
 これは日常の忙殺に追いやられるなと海堂は思ったのだ。
 あの日、乾は誕生日だった。
「ずっと覚えてて?」
「………………」
「ずっと探してくれてたんだ…?」
「…………誕生日が」
「ん?」
 乾の眼差しが甘すぎて気恥ずかしい。
 海堂はぶっきらぼうに言った。
「あんた、…誕生日…俺がいるだけでいいとか……ふざけたことしか言わねえから……」
「おいおい。ふざけてないよ。大真面目だ俺は」
「……、………っ……とにかく……!」
 海堂は赤くなっている自分を自覚した上で、口早に後を続けた。
「誕生日、なんにも渡せなかったから!」
「……海堂」
 ここで抱き締めたら殴られるんだろうなあと乾は笑った。
 そしてそっと、誰にも気づかれないように、ほんの一瞬。
 海堂の指先が乾の手に握りこまれる。
 海堂は驚いたが、逃げはしなかった。
「ありがとう。海堂」
「………………」
「CDも嬉しい。もっと嬉しいのは、誕生日から十二日間経ってもその間ずっと俺の事を考えて探してくれてた事だよ」
「……あんたの事なら、いつも考えてる」
 別にこの十二時間が珍しい訳じゃない。
 海堂が低く告げると、乾は海堂がこれまで見た事がないくらい、嬉しそうな顔をした。
「うちで一緒に聴かない?」
「……きらきら星ですか」
「そう。恋の歌ね」
 綺麗で可愛いらしいから、と乾は言って海堂の肩を軽く抱いて歩き出した。
「………………」
 これは本当にとてつもなく機嫌が良いらしい。
 海堂は驚いて目を見開いたが、それはそれで海堂もまた嬉しかったので。
 黙って海堂も乾と共に歩き出した。


 きらきら星、恋を告げる、その曲のさなかに。
 沈みに、浮かびに、光るべく。
 一緒にいよう。
 いとけなく、シンプルでいて、単調にならない馴染みのいい調べは。
 愛しく。
 自分達のようであるといい。
 着替えを済ませた乾が財布を取り出した。
 その中にたたんで入れてあったメモを見ている。
 確認し、再びしまう。 そして乾はくるりと振り返って海堂を見た。
「……………」
 汁か。
 汁なのか。
「海堂。スーパーで買物つきあわない?」
「……………」
 やはり汁なんだな。
 海堂は自問自答を繰り返し、結論づけ、そして長い長い溜息をついた。
 部室の中では、声にならない声で阿鼻叫喚、顔を歪めたテニス部の面々が、海堂へと目線だけのエールを送ってくる。
 見張ってて…!
 確認してこい…!
 ものによっては避けてきて…!
「……………」
 そんな眼差しはエールというよりもはや懇願だ。
「海堂?」
「……もう行けますけど…」
「そうか。じゃあな、みんな。行こう海堂」
「………っす」
 乾は時々海堂を連れて野菜汁の材料の調達をする。
 それは彼らが部活後に共に自主トレをしている流れでもあるのだが、秘密主義者の乾にしては珍しい行動だった。
 汁に関して戦々恐々している青学テニス部の面々は、とにかく様子を探ってこいとばかりに海堂を暗黙の懇願で見送るのが常だ。
 海堂も正直あの汁は不得手だ。
 しかし時々こうして一緒に買出しにつきあってみると、確かに身体にいいものを乾が厳選している事だけは確かなのだと気づいた。
 嫌がらせと思われるのは心外だなあと苦笑する乾に、つい、そういう訳ではないのだと生真面目に応えるあたりが海堂の海堂たる所以だ。
「五月が来るまでは、顎の下までボタンを掛けよ。六月が来るまでは、ぼろでも脱ぐな。………そういうことわざが外国にはあってね」
「はあ……」
「つまり今時分の天候の変化には気をつけないと身体を悪くするよっていう戒めなんだが」
 制服姿の中学生男子が二人、一見不似合いと思しき場所スーパーの野菜売り場に居ながらも、乾は慣れた様子で買い物カゴに野菜を入れていく。
「健康の為にね、五月の薬草でサラダを作って食べるのがいいらしいよ」
 乾は饒舌だが、うるさい感じが全くしないのはその声質のせいだろうと海堂は思っている。
 乾の声は、低くて、なめらかだ。
 気を許している相手には語尾が少しゆるくなる。
 そういう乾の声を、海堂はよく耳にした。
「ホウレンソウ、レタス、セージ。それを酢とオイルと砂糖を少々で和えて、ゆで卵とエディブルフラワーで飾る」
「エディブルフラワー…?」
「食用の花だね」
 ほらこれ、と乾がパックを手に取る。
 小ぶりの花が詰まったパックも買物カゴに入れられた。
「……サラダがいいなら、そのまま食いましょうや…」
「液体は体内吸収率がいいんだぞ」
 その乾の返答に、今更ながら。
 やっぱりこれら全部汁にする気なんだなと、海堂は鬱々と買物カゴの中に目線をやった。
「物を噛むって事も大事っすよ」
「ん?……んー……」
 生返事で微苦笑しながら乾は肩越しに海堂を見つめてきた。
「サラダにしたら、海堂はこの後うちに寄ってくれるのかな」
「………別に汁だって寄りますよ」
 思わず、ぽつりとそう洩らしてしまった海堂は、乾がひどく嬉しげに目を細めてくるのに慌てた。
「見張りでって意味です!」
「……えー……見張りかぁ…」
 微かに甘えの滲む、こんな時の乾の口調に、海堂は滅法弱かった。
 知ってて乾がやっているのなら、絶対に流されてなんかやらない。
 しかし乾は自覚もしていないらしく、極たまに海堂といる時にだけ、こういう声や眼差しを見せてくるからたちが悪い。
 肩とか落とすなと怒鳴りたくなる。
 それをぐっと堪えて、海堂は乾の背後で、その背中から視線を逃しながら言った。
「………これ、サラダにするなら」
「海堂」
 乾も前方を向いたまま。
「そんな簡単に自分の身体を売るようなこと言っちゃ駄目だよ。海堂」
「な、……っ……気色悪いこと言うな…ッ」
 さすがに怒鳴った。
 顔が赤いことを自覚しながらの海堂の一喝に、あながち的外れな事も言ってないだろう?と乾が微かに笑んで海堂を流し見てきた。
「そんなにヤバイか? 野菜汁って?」
「………っ…たり前…、…」
「どれも身体にいいものなんだぞ」
「それは判ってます……!」
 乾が当てずっぽうに野菜を選んでいるのではないことくらい海堂も知っている。
 でもせめてあと少し。
 もう少し、どうにか出来ないのだろうか。
 味を。
「作りたては結構普通の味なんだけど」
 乾が真顔で言い出して、海堂もふと真面目に返した。
「……そうなん…ですか?」
「ああ。家で作って学校に持っていくから味が変わるのかもなあ…」
「……………」
「作りたて、試してみない?」
 最後に添えられた微笑に、誘うのはそれだけが理由ではないのだけれどという乾の意味合いを感じて海堂は溜息をつく。
「だから……別に俺はどっちだって行くっつってんじゃないですか……」
 とにかく絶対連れ帰りたい。
 とにかく絶対帰したくない。
 そんな風に念を押さなくたって、自分は。
「……………」
 そう思い、応えた海堂の返答に。
 乾が大人びた面立ち満面に安堵の笑みを浮かべるから。
 スーパーの野菜売り場で甘ったるい気分になってしまう。
 それこそ、そんなこと。
 野菜汁の味より普通有り得ないだろうと、歯噛みしてみるものの、致し方ない。
 どうしようもない。
 今週から父親が出張に行っている。
 だから夕食の時間がいつもより遅い。
 だから平気なのだと海堂が説明すると、そういうことかと乾は納得した。
 乾の家に来ても、海堂の帰宅時間は、いつも規則正しく夕食前だ。
 乾の両親は揃って帰宅が遅いので気にする事はないのだが、海堂家の生活リズムを正しく認識している乾としては、今日の海堂の様子にふと疑問を覚えての問いかけだった。
 午後五時近くなっても海堂がゆったりとしていたので、時間は平気?と口にした乾は状況を把握して小さく笑った。
「よかった。あやうく今日最後のキスをして、海堂を見送ってしまうところだった」
「……、…何っすか…それ」
 ぐっと息を詰めた海堂が小声で呟く。
 問いかけにもなっていないのは、忙しない瞬きに狼狽が滲むのが見てとれて、判る。
「今おじさんはニューヨークか」
 そっと話題を変えてやると、海堂は微かにほっとしたようだった。 
 日本とニューヨークの時差を考えるのが苦手だとぽつりと言った。
 乾は即座にいつも手にしている馴染みのノートを広げた。
「日本とニューヨークの時差は十四時間。現地時間に二時間足して、昼と夜を逆にしたのが日本での時間だ」
 数字と、簡単な記号。
 海堂に見えるようにノートを広げ、乾はシャープペンで書きこんでいく。
「ただし今は夏時間だから、一時間を足すんでいい。今こっちが午後五時だから、ニューヨークは午前四時って事になるな」
「……サマータイムってやつですか」
「四月の第一日曜日から、十月の最終土曜日までな。それまではプラス一時間」
 おいで、と乾は海堂の手を引いた。
「…先輩?」
 PCの置いてある机の前まで連れて行き、海堂を椅子に座らせる。
 怪訝に振り返ってくるのを制するように乾は海堂の背後から、薄い背に覆い被さるように近づいた。
 マウスに手を伸ばし、数回クリックして開いたサイトを見るように海堂の耳元で囁いて促した。
「これ……」
「ロックフェラーセンターだよ。ライブ中継だからさすがにまだ暗いね」
「……ずっと中継されてるんですか」
「そうだよ」
 近すぎる距離に僅かにうろたえる気配が甘くてかわいい。
 表情を緩めれば勿論即座に海堂は怒り出すだろうから、乾は敢えて極めて真顔でいるのだ。
 背後からそっと腕の中に抱きこむようにしている体勢を解く気はなかったので。
「ロックフェラーセンターのクリスマスイルミネーション、聞いた事ある?」
「……、……ライトアップの派手な…?」
 同じモニタを見る為の至近距離と思おうとしているらしい海堂の精一杯の返答に、乾自身いつまでこの平静が保てるかと自分の事を危ぶんだ。
「このアングルでよく見えるんだよ。気分転換に時々見てた」
「自宅で…ニューヨークのクリスマスツリーっすか…」
「そう。ささやかな贅沢ってとこ。……イルミネーションが終わっても、これはこれで面白いから、今も時々見てるよ」
 人の姿、車の動き、装飾の国旗の棚びき。
 プライバシーを侵害することはない、しかしリアルな十四時間時差のある光景。
 深夜にデータ処理をしている最中に見る昼間の光景や、目覚めたてで見る夕暮れの景色に、ふと不思議な思いにとらわれる事があった。
「アドレス、送っておく」
「……乾先輩」
 だから。
 今はこっち、と乾は海堂に座らせた椅子をこちら側に回転させた。
「え……」
 椅子に座ったままくるりと回った海堂の唇に、乾は高い所から、そっと唇をかぶせる。
 息をのんだ微かな気配。
 虚勢という平静はここまでだ。
 海堂の両の頬を両手で支えて、乾はゆっくりとキスを深くする。
「…………ん…」
 あえかな喉声。
 繊細な熱を放つ舌をむさぼっていきながら、今日お互いへと許されている時間の全てを使い切る為に、繰り返す。

 キスは時間も刻めた。
 小さな溜息をついた不二は自分の背後にいる菊丸をちらりと流し見て、今しがた言われた言葉を寸分違わず繰り返した。
「英二。あそこにいるのは生霊でも亡霊でも自縛霊でもトイレの花子さんでもうしろの百太郎でもなく乾だよ」
「……ほえっ?…」
 不二を盾にしていた菊丸が教室の前扉から中を覗くように不二の肩越しに顔を出す。
 不二が電気のスイッチに手を伸ばし、薄暗い教室は一気に明るくなった。
「乾だ!」
「そうだよ」
「乾かよ!」
「乾だよ」
 放課後、すでに暗がりと化した誰もいない筈の教室に人影が!と半泣きで不二を呼びにきた菊丸は、今では頬を膨らませて憤りも露に教室へと足を踏み入れていく。
 三年十一組。
 下校時刻を少し過ぎたこの時間に一人居残っていたらしい乾は、机にうつ伏せていて、確かめるまでもなく熟睡中だ。
「人騒がせな奴! 乾」
「困ったね……こうなっちゃうと乾は何したって起きないんだよね……」
 乾の机の脇に立ち、菊丸と不二はそれでも肩を揺すったり声をかけたりはしてみる。
 しかし、どうにも万年ギリギリの睡眠時間で生活しているらしい乾は、時折ふっつりと事切れるようにしてこんな状態に陥るのだ。
 限界を超えて眠りに落ちた乾は、とにかくちょっとやそっとの事では目を覚まさない。
「うーん…人選ミスだね。英二。僕らじゃ二人がかりでも乾は運べないよ」
「生霊か亡霊か自縛霊か花子か百太郎だったら不二でバッチリだったのに!」
「どういう意味」
 微笑みと一緒に、きらりと瞳を光らせた不二に、菊丸は頭がもげそうなほど首を左右に振った。
「や、なんも意味ないです!」
「そう?」
「そーでっす!」
 今度は上下に再びものすごい勢いで首を振った菊丸は、少々ふらつきながら不二の肩につかまった。
「大丈夫?」
「うん! へーき」
 多少無理矢理っぽく笑みを浮かべた菊丸は、素早く立ち直り、見なかった振りで置いていったらダメかな?と乾を指差した。
「そうだねえ……青学テニス部のブレーンが受験苦で失踪……なんて騒ぎは困るよね」
「乾、そういうのやけにはまるもんなー」
「かといって乾の家に連絡しても家族の人はまだ誰も帰ってないだろうし……」
「置いてきましたの事後報告じゃ、俺たちがものすごーく酷い友達みたいになっちゃうしねー…」
 どうしようか?と可愛らしく悩み合いながらも、二人は乾の頭上で結構な事を言いあっている。
「乾を運べそうな…って言ったら」
「タカさんか桃だよねえ……」
 菊丸の提案に不二は首を左右に振った。
「タカさんはダメ。乾を持ち上げて怪我とかしたら大変」
「桃だってこんなことで呼び出したら可哀相じゃん」
「英二が言えば桃はすっ飛んで来るでしょ」
「不二が頼めばタカさんだって快く引き受けてくれるよ」
 うーん、と唸って結局二人の会話は堂々巡りだ。
 時折気まぐれに乾の背を叩いたり、耳元で叫んだりしてみるのだが、依然乾は目を覚まさなかった。
 ほとほと弱りかけた時だ。
「………先輩?」
 誰にという訳ではなく放たれたらしい呼びかけに、菊丸と不二はくるりと背後を振り返った。
 開けたままにしていた教室の前扉。
 教室内に入ってくるでもなくそこから遠慮がちに顔を見せているのはあまり表情らしい表情もない海堂だった。
「あー、海堂!」
 菊丸と不二が同時に叫び、海堂は些か怯んだように息を詰める。
 そうだ海堂だ、海堂がいた、という面持ちで上級生二人は手招きで海堂を中に呼び入れる。
 戸惑い気味に、しかし目礼を忘れずに、海堂が教室に入ってきた。
「………どうかしたんすか」
 低く呟きながら、しかし海堂はすぐに状況がのみこめたようだった。
 菊丸と不二が身体をずらしてみせた先、机にうつ伏せて寝入っている乾が目に入ったのだ。
「海堂こそどうしたんだよー? こんな時間に三年の校舎に何の用?」
「もしかして乾と待ち合わせしてたりした?」
 菊丸の問いかけと不二の確認に、海堂は、まあ、と曖昧な返事をした。
「ええー! 乾ひどーい!」
 たちまち大きな声を上げたのは菊丸だ。
「海堂待ちぼうけさせて自分は寝てる訳?」
「……いや…たいして待ってませんから」
「庇わなくていいよっ」
 ひどいひどいと連呼する菊丸に同調こそしないものの、不二も似たような事を思っているらしく、じゃあもう遅いから三人で一緒に帰ろうかと微笑んだ。
「は…? 乾先輩は、」
「寝かせておけばいいよ。ね、英二」
「そうそう! 明日の朝まで乾はここでたっぷり寝ればいいよ!」
「あの……乾先輩くらいなら俺普通に運べますけど」
 海堂のすらりとした四肢は一見は目立たないが極めて良質な筋肉がついていて、見目のともすれば華奢に見える程の手足の伸びやかさとは裏腹にその腕力も強い。
 乾を担ぎ上げる事くらい造作ないと言った口調は、確かにその内容が事実でもあるのだが。
「海堂ー……お前、ビジュアル的にびっくりしちゃうからそれは止しなってば」
「……どういう…?…」
「ま、海堂に担ぎ上げられて帰宅したなんて事を、後から乾が知ったらそれはそれで面白いかもね」
 がっくりと肩を落とす菊丸の言う事も、口元に拳を当てて含み笑う不二の言う事も、海堂はうまく理解する事が出来ない。
 しかしこのままでは二人の上級生に連れ出されてしまう事だけは確かだった。
「起こします。乾先輩」
「無理無理! 俺らだって散々に揺さぶったり怒鳴ったり擽ったり殴ったりしたけど駄目だったもん! ね、不二」
「僕は殴ってないよ」
「足踏んづけただけだっけ?」
「英二は乾の背中の上に完全に乗っかってたよね」
「………………」
 海堂は思わず溜息をつく。
 上級生の容赦なさに対してもだし、それでも起きない男に対してもだ。
 依然菊丸と不二の会話が続き、海堂は、とにかくこの場は一刻も早く乾を起こしてここから帰ろうと決める。
 海堂の手は乾のうつ伏せた頭に伸ばされる。
 指先が髪に沈んで、数回。
 頭を撫でつけるようにその手が動いた。
「………………」
 何とは無しに不二と菊丸は目を瞠った。
 思わず口を噤んで見据えてしまったものは、海堂の所作のあまりのやわらかさとやさしさだ。
 でもそれは特別なものというよりも、極自然な仕草にも見えた。
 いっそ心地良さに余計に寝入ってしまいそうな海堂の所作はゆっくりと繰り返され、後頭部を撫でられていた乾がふと微かに身じろいだ。
 おおー!と声にならない声を菊丸があげ、さすがに不二も驚きに睫毛を瞬かせた。
 海堂の指先は乾の髪に埋められたまま尚も静かに撫でつけている。
 繰り返されている。
「………、…かいど……?…」
「…目ぇ覚めたっすか。先輩」
「……ん……?………あれ…?」
 乾がだるそうに顔を上げた。
 海堂の手はすぐには退かない。
「ちゃんと布団で寝ないと疲れとれないっすよ…」
 例えば。
 待ちぼうけをくらわされたというのに全く怒りもしない海堂の言動だとか。
 例えば。
 生半可な事では絶対に目覚めない乾の眠りを静かな指先だけで解く海堂の振る舞いだとか。
 その場に居合わせてしまった菊丸と不二を愕然とさせた海堂薫は、結局最後まで硬質な声で優しい言葉を、強靭な手で甘い仕草を、慎み深く露呈した。


 乾はそういう海堂を、友人達にはあまり見せたくなかったらしいというのは。
 後々の乾の態度で、菊丸と不二には充分察する事が出来た。
 誰よりも深い寛容さは、結局一番年下の彼が持ち合わせているようだった。
 いきなりの気配に驚いたものの、咄嗟に振り返ってみれば慌て戸惑う必要もない事を海堂は知った。
 無意識に肩から力を抜いたのは、背後にいたのが乾だったからだ。
「枯れてないよ。大丈夫」
「………………」
 海堂が引っ込めかけた手に、触れないながらも重なるようにして、乾の手が海堂の動きをとめる。
「花かんざしだね」
 落ち着いた低い声だ。
「和紙みたいな花びらだけど、枯れてる訳じゃないから」
 心配しなくても大丈夫と言った乾の声が、ぐっと近くなって海堂は今度はもう振り返るに振り返れなくなった。
 気になって、花を。
 手を伸ばしていたのは確かに海堂自身で。
 でもだからってどうしてこう絶対に見過ごす事無く気づかれてしまうのか。
 乾からの接触はいつもこんな風にひどく不思議だ。
 海堂が気を取られた花は、白は白のまま透けていくような色合いの小さなもの。
 緑の葉、白い花弁、黄色の花軸。
 はっきりと花が咲いていく過程は、やはり季節の移ろいを感じさせて、何の気はなしに手を延べてみて。
 指先に触れた花びらのあまりにかわいた感触に、作り物のような肌触りに、海堂が戸惑った一瞬を浚うように、乾はこうして海堂の背後にいる。
「この花は開花前の蕾が面白いんだ」
 ほら、と乾の指がすくいあげてみせた花かんざしの蕾。
 花びらが、外側から徐々に開いていくようで、中心はあくまでまるくかたい蕾のままだ。
「外側から、ゆっくり開いていく」
「………………」
 蕾の軸を取り囲み、外側からゆっくりと。
 それを告げる乾の声が僅かに緩んで、どこか柔らかく耳に届いた。
 まるであんたじゃないかと海堂は思って。
 覆い被さるようにして背後にいる乾を微かに流し見る。
 本音はなかなか晒さずに。
 かといって人を寄せ付けない硬質さもない。
 一緒にいる事に気まずさを感じさせず、いつの間にか距離が縮まって、こうして側に居れば少しずつだけ本意を見せてもくれる。
 全部ではない。
 でも、外側から花開いていくこの蕾のようには、海堂は許されている。
 それは判っている。
「………海堂みたいだよな…」
「………………」
 乾と目が合い、そんな言葉を口に出されて。
 似ている事を考えはするが、決して同じでない自分達を、海堂は苦笑いしたくなる。
 お互いの距離が近くなって、恋愛感情を持つようになって、それでも。
 あくまでも、実際自分達は別々の人間だ。
 いつかどうにも相容れなくなって、諍いが起きたりするのかもしれない。
 そんな事を考えてしまうくらいに、どこか不安めいたものがいつでもこの感情に潜んでいる。
 けれど乾と海堂が同じでないのは当たり前のことだと知っているから。
 その上で、こんな事もあったりするから。
「……あれ。それは逆…とか考えてるな。お前」
「………………」
 乾は海堂の心情に機微を解している。
 背後を視線だけで見る海堂と、そんな海堂を覗き込んでくる乾とで、窮屈な体勢の中視線は引き結ばれて。
 同じ花を見て、物凄く似ていて結局真逆の事を思う自分達は、それでもこうして抱き締め合える。
 乾が海堂の背後から両腕で海堂を抱き締めてくる。
 海堂はおとなしくその抱擁におさまった。
「……海堂の真ん中は、まだひらいて貰えてないなと、俺は思うんだが。お前もそんな風に考えてたりするって事か?」
 少しの驚きは、お互いのもの。
 自分は全部見せてるだろうと思う気持ちも、お互いのもの。
「まあ…それならそれで」
「………………」
「ちゃんと咲くまで末永く一緒にいればいいか」
 低い声で生真面目に、やわらかな提案を口にする乾の腕を。
 海堂は自身の胸の前で抱き込んだ。
 乾の手のひらが海堂の頬を包むように動いたので、その手のひらのくぼみに、海堂はそっと唇を押し当てた。

 無理に剥がされていくのではなく。
 徐々に剥いでいくから、花開くまで行く末永く。
 暮れかけの温む風とよく似た甘い微かな接触を乾は感じた。
 立ち止まって振り返ると、自身の着ているジャケットの裾が海堂の手の中にある。
 乾の少し後ろを歩いていた海堂がとった仕草にしては、物珍しいものだった。
 なんだい?と乾が眼差しで問いかけると、海堂は黙って動いた。
 乾のジャケットの裾を右手にしたまま膝を曲げずに屈んで、乾の足元へ左手を伸ばす。
 海堂がすくいあげるようにして手のひらに拾い上げたものは、肉厚の花弁の白い花だ。
 無意識に乾は頭上を見上げた。
 街路樹が白い花を暮れ初めの空に向け咲かせていた。
 よく、こうも大きな。
 そして純白の花が、葉もない枝先に花開いているものだといっそ感嘆する。
「………………」
 踏み躙られる花を憂いだのか、それとも転ぶなり滑るなりするかもしれない我が身が案じられたのか。
 乾がそんな事を考えていると、海堂は乾に寄り添うように並んだまま静かな声で言った。
「両方っすよ…」
「え? あれ…声に出してた?」
「顔見りゃ判ります」
 呆れた風に海堂は小さな溜息を吐き出した。
 手のひらに白い花をすくい、海堂も乾がそうしたように街路樹を見上げてきた。
 本当ならば、まだああして空に近い場所で咲いていた筈の花の姿も。
 万が一にでも足元のそれを踏む事で怪我をするかもしれない可能性があった乾の事も。
 同じ気持ちで案じ、守ろうとする海堂の仕草は、乾の目にひどくやさしく映った。
 頭上を見上げている海堂の黒髪が、さらりと風に揺らいで整った額が一瞬だけ露になる。
 乾は海堂の手のひらから引き取るようにその白い花を手にする。
「……これはコブシだっけか…」
「似てるけど違う。みんな空を向いてるから、これはモクレンっすよ」
 へえ、と乾が視線を花から海堂に落としても、海堂はどこか無心に花を見上げていた。
 コブシとモクレンは同じ時期に咲く同じような花だけれど、モクレンの花は全て上に向いて咲き、コブシは様々な方向に咲くのだと海堂は訥々と言った。
「海堂はモクレンの方が好きだろ」
「………………」
 海堂は応えなかったが、乾は薄く笑って歩き出した。
 乾の横を海堂もついてくる。
「……その花持っていくんですか」
「うん。捨ておけないからな。枯れるまで大事に俺の部屋に置いておいて…枯れたら」
「………枯れたら?」
「そうだな……土に埋めてあげようかな」
 海堂がひどく不思議そうな顔をしたので、乾は笑みを深めて並んで歩く海堂を流し見た。
「海堂の好きな花ならそれくらい大切にして当然だろ」
 それで海堂の事は。
 それこそ当然、もっともっと大切にするけどなと乾が続けると。
 いつもはモクレンの花のように、真っ直ぐに前を、上を、見ている海堂が。
 コブシの花の咲く向きのように、あちらを、こちらを、向いている様が乾にはたまらなく可愛く思えたのだった。
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