忍者ブログ
How did you feel at your first kiss?
[1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [6]  [7]  [8]  [9]  [10]  [11
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 嘆くに嘆けないといった有体で暫くうろうろと部活が始まる寸前のコート近辺を歩き回っていた菊丸が、いかにも憂鬱そうな溜息をつくなり走り出した行先は、不二の元だった。
「不二ぃー!」
「うん? どうしたの英二」
 コートの隅に座って予備ラケットのグリップテープを巻き直していた不二が笑みを浮かべながら顔を上げると、菊丸は不二に対峙するように勢いよくその場にしゃがみこむ。
 小さくなったその体勢で、視線だけを引き上げて。
 菊丸は思いきりひそめた声で言った。
「今週もやっぱりなんですけど…!」
「ああ…海堂?」
 不二も小声で問い返す。
 二人の三年生の視線の行先は、話の矛先である後輩へと流されている。
「………………」
 見据えられている海堂は、同学年の桃城といつものように小競り合いを繰り交わしていて、まるで気づいてもいない。
 慣れた光景である彼らの怒鳴り合いの様子を横目にしながら、困ったねと不二が淡く苦笑した。
 不二もすでに気づいていた事を、菊丸が、ぷうと頬を膨らませて改めて言い放つ。
「やらしいなあ、もう!」
「確かにああいうのってやらしいかも」
「ちょっと乾にひとこと言った方がよくない?!」
「うーん……乾が気づかない訳ないから、案外わざとかもよ。英二」
 サイアクじゃんそれと泣き言気味に怒る菊丸が、先々週の月曜日に気づいた。
 海堂の、掠れ声。
 どうしたの海堂!声掠れてるけど風邪?と彼の背中に飛びついて聞いた菊丸は、至近距離から見てしまったのだ。
 菊丸を振り返りながら、喉元に手をやって、一瞬後に喉を詰まらせた赤くなった海堂を。
 風邪かとは聞いたものの。
 海堂の掠れた声にはほんのりと気だるさも交じっていた。
 婀娜めいた声に後から思い当たったような気持ちで。。
 感の良い菊丸はパッとそこから飛びのいて、お大事ににゃ!と錯乱気味の声をかけて不二の元へダッシュした。
 大石だと胃を痛めかねないのでと菊丸が選択した相手は流石で、週末は泊まりだったんだろうねえとやんわりと微苦笑を浮かべていた。
「先週もだし、今週もだし! 月曜の海堂は掠れ声! 何をやらかしてんだよ乾の奴はー!」
 憤慨する菊丸と向き合っている不二は、小さく声を上げて笑い出した。
「海堂絡みだと、ほんと乾に突っかかるね、英二は」
「だってさあ…! 乾の奴、薫ちゃん独り占めすんだもん」
「自分にはあんな風に懐いてくれなかったのに?」
 そうだよっ、と菊丸は逆毛立つ猫さながらに言った。
 年上や同級生には構われたがりの菊丸は、年下相手だと、急に庇護欲が姿を現すようだった。
 気ままなようでいて後輩の面倒見も良いし、進んで年下の集まりの中にも入っていく。
 菊丸が、構いたいと決めた相手には尚更で。
「確かに桃や越前みたいにはいかなかったね、海堂は」
「そだよ。でもさ、別に俺にだけに懐いてくれないっていうんじゃないからしょうがないって思ってたのにさ! なーんで乾に、あんなに懐いちゃったのさー」
 ひどい話だろー、と不平たっぷりに頬を膨れさせる菊丸の頭上に、ぽん、とノートが乗せられる。
「んにゃ?」
「あ、乾」
 逆光で菊丸の背後に立った男の名前を不二が口にすると、菊丸は物凄い勢いで立ち上がった。
「ちょっと乾! 毎週毎週海堂の声嗄らせてんなよ!」
「大きな声を出すな英二」
「………なに、その声」
 ん?と菊丸が眉根を寄せる。
 座ったまま二人を見上げていた不二も僅かに首を傾けた。
 掠れた声。
 乾もまた。
「今週は二人して本当に風邪でもひいたわけ?」
 低くよく響く乾の声が、殊更ハスキーに嗄れていて。
 菊丸がふと、態度を軟化させて問いかけると、乾は真顔で言った。
「んー…海堂の名前呼びすぎたかな…」
「……ッ……死んでしまえ……!」
 ギャー!と喧嘩上等の猫よろしく叫んだ菊丸と、大きな溜息をついた不二をその場に残して、乾は桃城との喧嘩が一段落したらしい海堂の元へと向かう。
 海堂は菊丸の絶叫にびっくりした顔をしていた。
「どうしたんっすか…菊丸先輩」
「さあ? 熱っぽいみたいだね。顔も赤いし」
 途端に心配そうな目で菊丸を見やる海堂に、乾はそっと囁いた。
「海堂は? 喉、平気?」
「……、…別に」
 指の先で触れるか触れないか。
 海堂の喉元に宛がった乾の指先にあたる、息をのむ僅かな振動。
 可愛いと思って乾が見下ろしていると、海堂は勝気な眼差しで睨み上げてきた。
「……先輩のが酷いだろうが」
「海堂の名前呼びすぎたかな?」
 先程口にしたのと同じ言葉。
 しかし海堂は、菊丸が叫んだようにはならず、ぐっと言葉を詰まらせ顔を背けながら呻くようにして言った。
「…………呼びすぎだ」
「海堂の頭の中に少しは詰め込めたかな」
 前髪の先を一束つまんで、バンダナ越しに小さな後頭部を手のひらに一瞬包む。
 打ち合わせをカモフラージュさせる手持ちのノートをうまく使って、周囲に注目させないように海堂に触れている乾に、海堂からは非難の眼差しが差し向けられるけれど。
「……まだ残ってる? 俺の声」
 海堂?と直接耳元に囁くと。
 びくりと甘く竦んだ海堂が、乾の元から走り去っていってしまった。
「ああ、逃げられた」
「不二。人の背中に隠れて立ち聞きってのはどういう了見だ」
「相手が僕で、それを海堂が気づいていなければ、乾的には何も問題ないよね」
「まあ確かに」
 自分の背後から、ひょいと姿を現した不二を、乾は斜に見やって吐息を零す。
「誇示欲相当強かったんだね。乾」
「相手が相手だから必死なだけだよ」
「あそこまで懐かれてまだ足りないかって、英二が怒るよ。そんな事言ったら」
「ただ懐かれたい訳じゃないんでね。俺は」
 英二と違ってな、と苦笑いで肩を竦めた乾に不二は丁寧に頷いた。
「大事にね。乾」
「当然だ」
 乾が、事と次第によっては容易く高まる衝動と焦燥を、慎重に制御しようとしている事は不二にも伝わっているようだった。
 一見希薄そうに見える乾の執着は、行先が一度定まってしまうと、もうずれない。
 外れないまま、深くなる。
 強くなる。
 見目では決して気づかせないが、情の濃い海堂はそんな乾の深く強い愛着をもあっさりのみこんでしまうから尚更だ。
 考え事に没頭し出した乾に慣れた不二は、じゃあねと言って場を離れていく。
 乾は嗄れた自分の声で、小さく笑う。



 名前を、思いを、海堂に詰め込みたかったなんて、体裁のいい言い訳だ。
 名前を、思いを、吐き出さないと、どうしようもなくなっただけの話だ。
PR
 乾の言葉はいつもながら完璧だった。

「受験前の大切な時期に、外泊だなんて厚かましいお願いをしてしまって本当に申し訳ありません。海堂君ならば全く問題ないと思っているんですが、僕も昨年同じ試験を受けましたし、もしよかったら少しでも彼の参考になればと思いまして」

 昨年の問題だけでなく、ここ数年分の青春学園高等部の試験問題を纏め上げたファイルを持って迎えに現れた乾を、受験シーズンの外泊なんてと咎める人間が海堂家にいる筈も無かった。
 手放しの感謝と喜びようで母親に差し出された海堂の心中は複雑極まりなかった。



 口に出した事は実行する。
 一見口数の多い乾だが、実際は黙さず語らずという面が多々あって、だからこそ己の行動をきっぱりと口に出した時は必ずそれを実行する。
 乾の部屋で、予備校もかくやというような完璧な受験対策を教えられた海堂は、改めてこの人はとんでもないなと思った。
「さっきも言ったけど、海堂の受験に関しては俺は全く心配してないからね。余計な事したかなあともちょっと思ってる」
「や、…とんでもないです。ほんと助かりました」
 ありがとうございます、と海堂は座ったまま乾にきっちりと頭を下げた。
 一年前、初めてダブルスを組んだ時から、乾に教わる事というのはどれも海堂の頭にきちんと入って消えない。
 テニスにデータだなんて、自分には絶対出来ない事だと思っていた海堂に、筋道立てて端的に戦術や統計を教えた乾だ。
 受験対策と称したこの数時間の充実ぶりは本当に凄かった。
 今日乾の両親が仕事でいない事は判っていたので、海堂の母親が持たせた重箱のお弁当で夕食を済ませ、過去行われたテニスの大会のDVDを観たり、ここ最近の近況ともつかないような他愛ない話をしたりした。
 高等部に上がってからの乾は、夏くらいまでは本当に多忙だったようで、時々疲れた顔を見せていたけれど、また隠れて独自にメニュー組んでるなと察した海堂は何も言わないでいた。
 乾の秘密主義は今に始まった事ではない。
 夏が過ぎた頃にはすっかりペースを作ったようだった。
 ちょうど海堂もそのくらいまでは最高学年になった部活動で忙しい毎日だったので、秋くらいからまた二人で会う時間が増えてきた。
 そうこうしているうちに海堂の受験の時期になり、長いと思っていた一年は結構早く時間が過ぎていく。
「とりあえず様子見ながらでもいいからさ。ゆくゆくはダブルスでよろしくな」
「………絶対俺と組めくらい言え」
「海堂が言ってくれると思って遠慮したんだけど?」
 風呂に入り、、髪がかわいた頃を見計らってベッドに入る。
 布団敷こうか?と乾が言ったのに海堂は首を振った。
 左右にだ。
「敷く素振りも全然見せないで、よく言うっすね……」
 呆れた海堂を片腕で抱き込んで横たわった乾は笑っていた。
「まあまあ」
 唇に重なるだけのキスが触れる。
「…………しないんですか。本当に」
「万が一にでも具合悪くさせる訳にはいかないだろ」
 先週はスミマセンと笑う乾に、さすがに海堂は赤くなった。
 暫くできないからと羽目を外したのはお互い共で、あれは完璧に連帯責任だろう。
「受験終わるのを、本当に心待ちにしてるよ」
「……恥ずかしいこと真顔で言わないでくれますか」
 早く電気を消してくれと海堂は思った。
 早く寝てしまおう。
「あ、そうだ。せっかくだからバレンタインしようか、海堂」
「…は?」
 ところが電気を消してからいきなり乾がそんな事を言い出してきて、海堂は面食らう。
 確かに明日はバレンタインデーという日ではあるのだが。
「乾先輩?」
「口あけて。海堂」
 ベッドに仰向けに寝たまま、海堂はこの暗がりで乾が何をし出すのかと困惑する。
 ベッドヘッドに置いてあったらしく、何かのパッケージを破る音が頭上でする。
 まだ目が慣れないでいる海堂は、唇に何かを入れられた。
 乾の指先が唇に触れている。
 味は、チョコレート。
「歯医者さんが作ったチョコレート」
「……え?」
「噛んじゃ駄目だよ。海堂。舌の上でゆっくり溶かして」
「………………」
「キシリトール配合でね、寝ている間に作用する、夜ベッドで食べるチョコレート」
 低い声での説明と一緒に、海堂は唇を塞がれる。
 軽いキスだけれど、甘い。
 優しい触れ方だった。
「………あんたは?」
「今口に入れた」
 そうして乾は海堂と身体を並べてベッドに横になる。
「なあ、海堂」
「……なんですか」
「セックスしなくても、ベッドの上で口の中が同じ味ってのは結構卑猥だなあ……」
「………っ…、……そういう事を口に出して言うな…っ」
 喋る度に感じるチョコレート。
 同じ味。
 お互いの口腔の味。
 チョコレートを食べながら眠るなんていう初体験を海堂がした二月十四日の事だった。
 寝返りをうちかけて目が覚めた。
 腰の軸が痛みに似て重く、ベッドの上で丸くなっただけで終わってしまう。
 喉で息を詰めただけで言葉にはならなかった筈なのに、海堂と一緒に寝ていた乾がベッドから降りた気配がしたので。
 海堂は片頬をシーツに埋めてまま瞼を引き上げる。
「……先輩…」
「ん……」
 乾の部屋は、まだ薄暗い。
 海堂が嗄れた声で呼ぶと、なめらかな低音の交じった呼気でのみ返された。
 頭を極軽く、ぽんぽんと大きな手のひらに覆われて、うっかり身体の力を抜いた海堂の隙を浚って乾は部屋を出ていった。
 すぐ戻ると耳元に囁かれていたので、海堂はそれ以上何も言わないでいた。
「………………」
 薄れかけている眠気と、増してきた倦怠感。
 指の先まで埋まっている充足感と、肢体の節々にある痛みにまでは到達していない微量の疼き。
 重い熱、深い息、濃い残響。
 乾の声と、乾の温度と、乾の身体の形とが、海堂に交ざって、入り組んで、絡み合って、未だもつれたままだった。
 夜中に目覚めたらこんななのかと、海堂は思い知らされた気で茫然とした。
「………、…ふ……」
 寝着にしていたシャツの裾が不意にたくしあげられ、海堂は小さく首を竦めた。
 戻ってきた乾が、そのまま海堂をうつ伏せにして、ベッドの縁に腰掛けて言う。
「寝てていいよ。海堂」
「先輩…?……」
 乾の眠りは短く浅い。
 起こしてしまったのかと、海堂がひやりとすれば、察しも頭も良い男はやんわりと否定をくれた。
「正直な所、気がかりでうまく眠れなかったからね」
「………え…?……、…っ………」
 うつ伏せになっている海堂は、シャツを捲くられた腰に、広い範囲で熱いものを乗せられて、一瞬息を詰め、一気にといた。
 じわっと浸透してきた熱の心地良さに身体が弛緩する。
 レンジで加熱してきたらしい蒸しタオルを海堂の腰に乗せ、乾が上から大きな手のひらでゆっくり押し付けてくる。
「引きずり上げたまま、長かったからなあ……痛む?」
「え?……いえ、寧ろ気持ちいい…ですけど……」
 引きずり上げたまま長かったって何がと考え込んだ海堂は、熱の心地良さに相当ぼんやりしていたらしい自分に少ししてから漸く気づいた。
 乾に組み敷かれていた時間の事を思い出したのだ。
 今更ながらに。
「無理な体勢で散々したから、後になってまずかったかと思ってな。……本当に大丈夫か、海堂」
「………ぅ…」
 真剣に、本当に真剣に、そんな心配しないで欲しいと海堂は居たたまれなさにおかしくなりそうだった。
 うつぶせたまま手元のシーツをかたく握り締めてしまったのは、眠りに落ちる前までの、二人分の欲情を思い返してしまったからだ。
 欲しい欲しいとそればかりになって、放熱して訴えた二人分の欲望が、我が事ながら生々しくて、言葉も出ない。
「………………」
 乾は温んできたタオルを海堂の肌の上から外し、二枚目のタオルを広げているようだった。
 パンッと小気味良い音がして、また海堂の腰の真上に染み入るような熱が乗る。
 乾の手のひらの形に、ぎゅっと圧し込まれて、海堂の唇からは無意識にゆるい吐息が零れる。
 タオル三枚分繰り返されてから、乾は海堂のシャツを下ろし、海堂が仰向けになれるよう極自然に手を貸してから言った。
「大丈夫か? もう一回用意してくるか?」
「………や、……もう…いいっす…」
 ありがとうございましたと礼を言いながらも、記憶の羞恥心だけでなく、現実でもここまで甘やかされてしまって、海堂は切れ切れにしか言葉を紡げない。
 部屋が暗がりで、今が夜で、本当によかったと海堂は思った。
「どこか他にきつい所は…?」
「いえ、…どこも、全然」
 乾によって丁寧に温められた腰は、もう充分寝返りもうてる状態だった。
 全身に甘ったるい倦怠感は詰まったままだが、ほんの少しも不調を訴える箇所はない。
 海堂が小さく返した言葉に、乾はタオルを机に放って、眼鏡を外した。
 ベッドヘッドに眼鏡を置いた音がした。
 そのまま乾が、海堂を抱き込むようにしてベッドにもぐりこんでくる。
 同じ毛布の中。
 小さく欠伸をした気配に、ふと海堂は気をとられた。
「……乾先輩…?」
「…安心したら眠くなってきた」
「………………」
 乾は、寝る間も惜しんで何かをいつもしている。
 眠りが浅くて、何かあればすぐに目を覚ましてしまう。
 そんな乾がもらした欠伸にも、告げてきた言葉にも、海堂は驚いた。
 密やかに、どぎまぎと、視線だけを引き上げた海堂は、大分慣れてきた暗がりの視界で、自分をゆるく抱き込んだまま乾が眠たげに睫毛を落としていくのをじっと見つめていた。
「………………」
 安心。
 本当に、その一語に尽きる乾の寝顔を無防備に晒されて。
 海堂はぐらぐらする思考を宥めるべく無理矢理目を閉じた。
 何なのだ、この男は、本当に。
 うっかり、いとも簡単に、また同じ相手、同じ恋に、落ちていく。
 何度も何度も、好きになる。
 何なのだ、この男は、本当に。
 海堂は詰りようもない思いで、胸のうちが溶けていく気分を味わうしかない。
 もうどうせなら、それならいっそ巻き込んで。
 同じにしてやると決意したりもする。
 溶け出した二種類のクリームが、完全にふたつ、交ざってしまって。
 そうなればもう元の味のふたつに分離する事は、不可能になっているような状態にしてやると、睡魔に絡めとられながら海堂は決めた。



 本当は、すでに、とうに、共に液体状になっているという事に、彼ら二人気づいていれば。
 互いを抱き締め合って眠るこの睡眠が、こうも深く甘い事の意味も、容易く知れるというものなのだが、それもまたそのうちに知ればいいだけの事でもある。
 昼休みも残り十分をきったところで乾が現れた。
 二年七組、海堂の教室にだ。
「乾先輩」
 些か面食らいつつも、海堂は教室の前扉へと足を向けた。
 ドアの上部に片手を当てて長身を僅かに前倒しにしていた上級生は、海堂が近づいていくと姿勢を正した。
「やあ、悪いな。海堂」
「別に悪かねえですけど……どうしたんですか」
 乾が部活を引退してからも、メニューのことなどで時々昼休みを一緒に過ごす事はあった。
 けれど、こんな風に乾が海堂の教室を訪れてきた事は、これまで一度もなかった。
 何か緊急の話だろうかと危ぶんだ海堂の僅かな緊張を、乾ののんびりとした言葉が砕く。
「なあ海堂。今日の放課後、蓮二と会うんだが。その場にちょっと付き合って欲しいんだけど都合どう?」
「………………」
 乾が言うところの蓮二というのは、つまり彼の幼馴染で立海大付属の柳蓮二であるという事は、無論海堂にもすぐに理解ができた。
 立海の参謀、達人、そして乾と同じデータテニスをする男。
 問題は。
「どうしてそこに俺が行くんですか」
 ものすごくおかしな事を言い出した相手を海堂は怪訝に伺い見ながら、そう口にする。
 どうして自分がそこに。
 元来単独行動の多く、むしろ極度の人見知りの感もある海堂からすると。
 相手が例え過去の対戦校の選手だとしても。
 例え乾の親しい友人であったとしても。
 寧ろそれなら尚更のこと、乾の言うような事が出来る訳がない。
 や、無理っす、とそれでも目礼はして背中を向けた海堂の腕を乾は引いてきた。
「待った。海堂。頼むよ」
「頼まれたって困るんで」
 無愛想に返す海堂に、乾は取り縋らんばかりにして、言い募ってきた。
「二対一になる上に、終始激しく威嚇されるんだぞ。何だかおっかなくてな…一緒に行ってくれよ海堂」
 そんな事を言いながらもたいして脅えてる風もなく。
 乾は淡々と、それどころかどこかひどく面白がっているような気配を醸し出していて。
 海堂はいぶかしむように眉根を寄せた。
「……柳さん以外に誰かいるって事っすか?」
「ああ。二年生エース切原赤也が、蓮二にべったりくっついていて、フーフー威嚇してきて面白いから見にいこう」
 真顔で、しかしこれでも確実だ。
 乾は完全に状況を楽しんでいる。
 海堂は今度こそはっきりと呆れて嘆息した。
「威嚇されるって、あんた何やってんですか」
「特に何も。それなのに、どこからともなく現れては、蓮二が貞治って呼ぶ毎に噛みつかれそうな目で睨まれるし、俺が蓮二って呼べばそれはもう手酷く罵られたりするんだよねえ…」
 別段腹を立てている訳でもないらしい乾の紡ぐ嘆きの言葉の数々に、海堂は控えめに問いかけた。
「……柳さんと切原ってのは…」
「うん? ああ、まあそういう事なんだろうな。面と向かって確かめてはいないけど、ああまで判りやすくこられるとね」
 二人の頭上で予鈴が鳴る。
 あと五分しか時間がない。
 海堂は乾に腕を取られたまま、じっと乾を見据えた。
 改めて断りをいれる。
「俺は切原の気持ちも判らなくはないんで」
「でも海堂は蓮二を睨みつけたり罵ったりしないだろう? ちなみに切原はその度に蓮二に厳しくやられて、極めて悪循環なんだけどね」
「楽しそうっすね…乾先輩」
「なかなか興味深いよ」
 ということで、どう?と食い下がってくる乾は、結局同意以外欲しくないのかもしれない。
 そんな乾も珍しくはあるけれど。
「柳さんの気持ちも少しは判るんで遠慮します」
 海堂は、どちらの気持ちも少しずつ判る気がした。
 切原の気持ちも判る。
 好きな相手が、幼馴染でもありダブルスのパートナーであったこともある相手と親密に話をしている場に居合わせる、ちくりと胸の痛むような痛くないけれど苦しい感じだとか。
「………………」
 柳の気持ちも判る。
 好きな相手を、好きな相手の側にいる自分を、例えば見せびらかしたいという観念は持っていないのだろう、あの人も。
 多分。
 海堂はそう思った。
 自分もそうだ。
 隠そうとは思わない。
 ただ、特別な相手といる時の自分は、誰彼構わず見せて回れるものでもない。
 乾といる時の自分の緩さに徐々に自覚のある海堂だったから尚更だ。
 柳ならばそんなものは上手に隠すのだろうけれど。
「海堂ー」
 やけに甘ったれた声で泣きつかれたって、海堂は首を縦には振らなかった。
 たぶんもうすぐ本鈴が鳴る。
 今更ながらだがこんなにも人目のあるところで自分達は何をしているのかと思いながらも。
 海堂は、じっと乾を見上げた。
「…海堂?」
「あんたは面白いものが見られるから行こうって言うけど」
「うん?」
「俺はどうせあんたしか見ない」
 だからそういう誘いは無駄だ、と乾にだけ聞こえる声で言って。
 海堂は横開きの扉をぴしゃりと閉めた。
 廊下に乾を閉め出した理由は、一つに本鈴が鳴ったから。
 そしてもう一つに、とてもじゃないが今の自分の顔を見られてはたまらないと思ったからだ。
 海堂は自宅の玄関口で目を瞠って二人を出迎えた。
 買物に出かけていた母親が、乾と一緒に帰ってきた。
「ただいま。薫」
「やあ、海堂」
「………………」
 状況がつかめないながらも、海堂はおかえりと母親に言い、乾には目礼した。
「荷物持ってくれてありがとうね。乾君」
「いいえ」
 どうぞ、と乾がにこやかに穂摘に手渡したスーパーの袋はどう見ても本来の目的であるスパイスの小瓶一つしか入っていない。
 乾自身が持っているスーパーの袋の方がはるかに大きく膨らんでいて重そうだった。
「あがっていって頂きたいんだけど、急いでおうちに帰らないと駄目なのよね」
 哀しげな溜息をついた穂摘が、五分だけ待っていてもらえる?と乾を見上げて、了解を得るなり素早くキッチンに入ったのを海堂は怪訝に見送った。
「あの…?」
「スーパーで偶然穂摘さんと会ってね。一目でも海堂に会えるかなあという下心でついてきました」
 声を潜め、悪戯っぽく笑う乾に、海堂は息を飲む。
 それだけの言葉で赤くなりそうな気配がする頬に手の甲を押し当ててから、海堂はとにかくこんな所じゃなんだからと乾を促したのだが、それは乾の苦笑でやんわりと阻まれた。
「実は両親が二人して週末から寝込んじゃってね」
「……風邪っすか?」
「腹にきちゃってるもんだから、よもやノロかと思ったけど大丈夫。今は食欲も出てきたみたいで」
 それでこれ、と乾は持っているスーパーの袋を軽く持ち上げてみせた。
 珍しく俺は今回無事だと笑う乾を、海堂はじっと見つめた。
「あんたは……ちゃんとメシ食ってんですか」
「親子だねえ、海堂。同じ事をスーパーで穂摘さんにも聞かれた」
 そして若干の駄目出しをくらいましたと続ける。
 どうやらそれは買物の内容についてものようで、乾の視線がそこに軽く落とされた。
「100㎏の豚肉から130㎏のハムが出来る話とか、おっかないやら興味深いやらでなあ…」
「………化合物や添加物に絶対反対って訳じゃないけど体調不良の時は身体に良い物をってよく言ってますよ」
 乾は軽い症状で治りも早いのだが、割合と頻繁に風邪をひく。
 何事にも緻密な彼だけあって、最初と最後のケアがきちんとしているから大事ではないものの、それを知っている海堂はつい小さな溜息をついてしまう。
「ちゃんと食って、ちゃんと寝ろ。風邪は身体が弱ってる時にうつるんだから」
「ありがとう。海堂」
「……、…別に礼言われるような事じゃ」
 乾の浮かべた笑みとストレートな言葉にたじろいで、海堂は顔を背けた。
 また頬に赤みがぶりかえしそうで怖い。
 年上の乾が、時折海堂に見せる砕けた無防備な甘えに、海堂はいつまでたっても慣れないのだ。
「玄関先でお待たせしちゃって本当にごめんなさいね」
 穂摘がキッチンから戻ってきた事に海堂は思わずほっとしてしまう。
 タッパーや紙製のランチボックスを幾つか抱えた穂摘は、マチの広い紙袋に手早くそれらを詰めていきながら一つ一つ説明をした。
「これはお粥。ご両親にね。お米をミキサーで砕いてあるから、水をタッパーいっぱいまで入れて鍋に移して煮ればすぐに出来るわ。こっちはおろしれんこんのスープ。整腸作用があるから温めて食べてね。これが玄米餅で、乾君はスープだけじゃ物足りないでしょうから、焼いて入れてみて。こっちのはミートボールとコーンのクリームシチュー。それと、薫」
 ぐいっと背を押されて海堂は面食らった。
「…、…え?」
 背後を振り返った海堂の視線の先、見慣れた柔和な笑顔を浮かべる穂摘がいた。
 さすがに乾も驚いたようで、それまで逐一告げていたありがとうございますとかすごいなとかすみませんだとかいった言葉がぴたりと止んだ。
「だって乾君はもう荷物を持っているし、もしすぐ乾君がご飯を食べるとしたら一人じゃ味気ないでしょう? 本当は寄っていって欲しいのよ、でもご両親の事も心配でしょうから」
 だからね、薫、と微笑む姿に、乾と海堂がまだリアクションをとれずにいると。
 穂摘の表情がゆっくりと曇った。
 でもやっぱりそれはお邪魔かしらねえ、という呟きを、しかし今度は乾がきっぱり遮った。
「風邪をうつしたら大変なので長くは引き止めませんから、食事の間だけでもよろしいですか? お付き合いしてもらって」
「ええ。勿論。さ、薫。支度して」
 ちゃんとコート着ていくのよと促す母親と、すさまじく明るい笑顔の乾とに、海堂は発する言葉もないまま家を出る事になった。



 外は風もなく穏やかな天気だった。
「悪いね、海堂」
「……別に構わないっすけど」
 機嫌の良すぎる乾を上目に見上げたまま海堂は小さく応えた。
「うん?」
 乾は眼差しで言葉の先を促してくる。
「…………何でそんなに機嫌良いんですか。あんた」
「一目会えればいいなあと思っていたのが、それ以上の結果になったのが嬉しいからだね」
「……明日になれば普通に学校で会うだろ」
「今日会えたって事が大事なんだよ」
「今日…何かの日ですか」
「アニバーサリーでなくても一日一日は大事なもんだろう?」
「まあ、…そりゃそうですけど」
 のんびりとした会話を繰り交わしながら、そういえば、部活や学校も関係なく、約束をした訳でもなく、偶然だけの結果でこうして肩を並べて歩いているという事は滅多にないと思う。
 滅多にないという事は、つまりこれは、特別な事なのかもしれない。
 その割にはゆったりと力が抜けているけれど。
「………………」
 特別という事は、別段畏まったりするものではないのだなと海堂は知った。
「買物帰り、家についたら玄関で海堂のお出迎えを受けるっていうのは、かなりのインパクトだったな」
 乾のそんな言葉に海堂は呆れた。
 だいたい、しみじみ噛み締めるように言うような事かと。
 だって。
「それが日常になんだろ」
「…海堂?」
 何年か後には。
「違うんですか」
「いや。全くこれっぽちも違わない」
 熱出そうなんだけどと上機嫌のまま笑う乾に、海堂は今度こそ心底から呆れた。
「俺がちょっと何か言うだけで狼狽えたりするのに、自分はとんでもないこと平気で言うんだからなあ。海堂は」
「俺は当たり前の事しか言ってねえ…」
「ほらまたそうやってさー」
 だからそういう甘えた言い方をどうしてするんだと海堂は今日幾度目かになる顔の熱を自覚した。
 上背があって、声は低く響いて、年齢不相応の落ち着き払った態度だとか、ひとたび口をひらけば何人たりとも太刀打ちできない滑らかな饒舌さだとか。
 乾は、ともすれば目立って当然の風貌を、不思議と無機質に潜ませるのがひどくうまい。
「やあ。海堂。お疲れ様」
「………………」
「座ったら?」
 朝練前の自主練を終えて一度部室に戻った海堂を、部室で迎えた乾は、木製の長椅子に腰掛け、壁に寄りかかっていた。
 長い脚を持て余しがちに折り曲げて、手元のノートに何かを書きつけている。
 思いもしなかった乾の存在を目の当たりにして、しかし海堂は別段驚きはしなかった。
 今部室に乾がいるとは思っていなかった。
 でもこうして直面すれば、それは極めて自然な事でしかなく、海堂はこめかみを伝う汗を腕で拭いながら静かに乾に近づいていく。
 座ったら?と制服姿の乾が指し示したところ。
 それは今乾が座っている長椅子だ。
 海堂は黙ってそこに腰を下ろした。
「………微妙な距離だなあ」
「………………」
 近すぎたかと海堂が距離を空けようとすると、逆逆逆と乾がかなりの早口で言った。
 ぱたんとノートも閉じて、海堂が空けかけた距離分、にじり寄ってくる。
「逆だって海堂」
「……はあ…」
 ぐっと近づいてきた乾の顔に、海堂はぎこちなく頷いた。
「ん? すごいな汗。どれだけ走ったんだ?」
「別にいつも通りっスけど……」
 乾の指先が海堂の前髪を一束すくいあげてくる。
 距離の近さ。
 眼差しの絡み方。
 髪先と指先とでひとつなぎになる自分達。
 じっと見つめてくる乾の視線に、海堂は小さく、息を飲んだ。
 普段。
 無機質な、どこか植物めいた気配のする乾が。
 時々見せるこういう空気が、正直海堂を躊躇させる。
 海堂は思うのだ。
 乾は、本当はもっと、何か激しく迸るようなものを持っている男なのかもしれない。
 冷静な態度で、日常そんな事など欠片も感じさせないでいるけれど、本当はもっと。
「………………」
 そう考えると、乾という男はとても警戒心が強いタイプなのかもしれないと海堂は思った。
 本音をそう簡単には人に察知させない。
 見せない、晒さない。
 穏やかなようでいて、重要な事は決して表立たせない乾の、言うなればその警戒心。
 今はそれがふと緩んでいるようで、どうにも海堂は気がそぞろになる。
 最近乾は、海堂の知らない顔ばかり見せる。
「海堂、最近そういう顔見せてくれるようになったよな」
「………は?…」
「だから、そういう」
 近すぎるような距離感で、メガネのレンズ越しに、乾の黒目がちな目が瞬きもせずに海堂を直視したまま告げてくる言葉。
「警戒心緩めて貰えてるのかなあと密かに嬉しかったりするんだが」
「よく意味が判んねえんですけど……」
「うん」
「うんって。だから何が」
「この距離になってもさ…飛びのかれないのが嬉しいというか」
「……誰がいつ飛びのいたよ!」
「意識的にだよ」
 思わず噛み付くように怒鳴った海堂に、乾は不意打ちのように、にこりと笑った。
 ひどく楽しそうな笑みだ。
「海堂、ちゃんと俺を見てる」
「………………」
 微笑と一緒に囁かれた吐息の甘さに海堂は狼狽する。
 そして同時に言われた言葉を反芻して、でも、そうだ、意識は決して乾から飛びのかない、それに気づく。
 その事を噛み締めるように体感しながら、海堂は低く呟いた。
「………あんただってそうだろうが」
「俺が何?」
「あんたみたいに警戒心の強い奴いねえよ…」
「それに気づく奴こそ稀だ」
 人当たり良いって評判なんだぞ俺はと言って、乾は尚も笑った。
 データ収集が趣味だなんて究極の人好きだと思う反面、乾の他人へ何かを望む事のない意識の希薄さにも、海堂はもう気づいている。
 恐らくは、お互いに、警戒心が強いのだ。
 自分達は、似ているところなどないようでいて、こんなにも同じものも持っているということ。
「もう少し近くても?」
「………もう充分近い」
「だから、ここからもう少し」
 そんな方法、海堂には判らないから、じっとしていた。
 乾が海堂の前髪を指先に摘まんだまま、近づいてくる。
 もっと、今よりももっと、だから、こうなる。
「………………」
 掠るように触れた唇と唇。
 離れて、また触れて、離れて、また触れる。
 海堂は乾の唇が触れてくる度、瞬いた。
 睫毛の動きが気になったのか、最後に乾の唇は海堂の睫毛の先に触れてきた。
 唇が離れた後の方が、じわりと熱を帯びた気がした。
 唇の表面。
「………………」
 お互い黙っていた。
 でももう一回だけというように。
 同時に互いの頭が傾き、唇が触れる。
 海堂の汗が、ぽつんと乾の頬に落ちる。
 もどかしいような満ち足りたような不思議な気分だった。
 間違ってない。
 望み、望まれている事は、これだ。
 警戒心の強い自分達は、いつも少しずつ確かめながら、確信している。
 気配で判る。
 今海堂の背後に近づいてきているのは乾だ。
 無機質な故に穏やかな、癖のない気色。
「海堂」
 呼ばれて振り返るのが常だけれど、今日海堂はそうしなかった。
 まただ、と思ってしまったからだ。
「海堂?」
「………………」
 ぽん、と頭の上に大きな手のひらが乗せられる。
 もう海堂の背に身体が触れそうなほど近くに乾はいる。
 昼休み。
 急激に冷え込んできた初冬の中庭は寒く、生徒の姿も殆どない。
 そんな中で、背後に居る乾から体温の余波させ感じられそうな至近距離で、海堂はぽつりと呟いた。
「……あんた」
「ん?」
「なんでいつもそうやって後ろから」
「何?」
 そっと耳元近くで問い返されて、乾の呼気に晒された海堂は息を詰まらせてしまう。
「……、…何でもねえよ、」
「いや…ちっとも何でもなくなさそうだから」
「……っ……」
 さりげなく手首をとられている。
 咄嗟に振り切ろうとした身体が前に進まない。
「乾先輩、…」
「海堂。なに怒ってるの」
 静かな言い方だったが、海堂は慌てた。
「…、…別に怒ってなんか」
 しかもいきなり腹部に乾の片腕が回りこんできて、ぐいっと抱き込まれたものだからぎょっとする。
 いくらひとけがなくたって、こんな様をどこから誰が見ているか判らない。
 しかしそうやってうろたえる海堂をよそに、乾は飄々としたものだった。
「最近校舎で俺が声をかけると、海堂いつも不機嫌になるよな?」
 何が嫌なんだ?と低い声で囁かれて。
 耳の縁に当たる呼気。
 乾が怒っている訳ではないと判っていながらも、その真剣な口調と感触に海堂は一層慌てた。
「…っ…不機嫌になんか…」
「じゃあさっき言いかけた事は?」
 もう殆ど、どんなごまかしもきかない程の密着の仕方で。
 校内でこれはないだろうと錯乱しきった海堂が、恨めしく肩越しに乾を睨み上げる。
 ん?と尚も平静に促してくる乾に、結局海堂はやけっぱちに噛み付いた。
「だからッ」
「…何だ?」
「そうやって、近頃いつも人の背後から来やがんの、あんただろ…っ」
 顔見たくなけりゃ無理矢理声かけてくんな!と呻いて付け足せば、乾は暴れる野良猫に手こずるような態度で海堂を一層深く抱え込んできた。
「ちょ…、…っ…」
「ああ……そういう……」
 長い腕に締め付けられるようにされて、いよいよ海堂も赤くなる。
 乾はといえば、まるでお構い無しに、勝手に何だかんだと納得している素振りだ。
「なるほど。……いや、でもな、それはな…海堂」
 ほら、あれだ、と乾にしては歯切れの悪い物言いに、海堂はきつく眼差しを引き絞った。
 斜め上を鋭く睨みつけると、乾が真顔で首を左右に振った。
「違う違う。誤魔化してんじゃないよ。ええと……そうだな、つまり俺の心情を説明すると、ティカップの模様の話」
「……ああ?」
「海堂はさ、ティカップの持ち手ってどっち向きで出すのが正しいと思う?」
 まあちょっと座ろうかと乾に促されるまま、海堂は乾と並んで中庭にあるベンチに腰を落ち着けた。
 乾の話が突飛なのはいつもの事だ。
 怪訝に思いながらも海堂は言われた言葉を反芻する。
「つまりそういう話。正しい正しくないの話じゃないってこと」
「……全く意味判んねえんですけど」
 過程を飛ばして結論にいってしまう乾も健在だ。
 海堂は呆れながらも生真面目に意見した。
 この男は、そういう男なのだ。
 乾の事で海堂に判る事は少ないけれど、考えなしでない事は知っている。
 案の定今だって、乾は訥々と海堂に語って聞かせた。
「カップの取っ手を右側にして出すのがアメリカ式。手を伸ばしてすぐ飲めるように、極めて合理的にだ」
「はあ…」
「対して取っ手を左側にして出すのがヨーロッパ式だ。取っ手を左側から右側に動かす間に、カップの模様を楽しむ為にそうする」
「………………」
「で、俺はヨーロッパ式な訳だ」
 俺を振り返ってくるのに半周する海堂を見てるのが好きなんだよと衒いも無く言ってのけた乾に海堂は絶句した。
「振り返ってくる海堂の顔が見たいから、ついいつも後ろから声をかけるという事になる」
「………………」
「前から見るのも勿論好きなんだけど」
 いろいろ海堂フェチで悪いねと薄く笑う乾に、海堂はくたくたとベンチに懐いてしまいそうになった。
 全く考えもしなかった言葉を次々向けられて、いい加減海堂の許容範囲を超えている。
 こんなことを自分に言う相手も。
 思う相手も。
 乾以外にいない。
 誰もいない。
 この男は、何でそんなに、こんな自分に拘るのか判らない。
「海堂?」
 判らないと思った事をどうやら口からも放っていたらしく、乾が微苦笑と一緒に再び手のひらを海堂の頭の上に乗せてきた。
「俺からしてみたら海堂は奇跡的だよ」
「………は…?」
「海堂の持ってる信念とか、努力の仕方、結果の出し方」
「………………」
「どれもこれも俺には初めて見るもので、きっと自覚無しにそれは俺がずっと欲しがってたものなんだろうなって海堂を見て気づいた」
「あんた…何言って…」
 俺はそんなに、と言い募った海堂の言葉を乾は遮った。
「すごいんだよ。俺にとって、お前しかいないんだから」
「………………」
 優しい声で告げられて、海堂は混乱してしまう。
 あまりにも特別な言葉ばかり、次々乾から向けられて。
「………何で今日はそういうこと言うんですか」
 呆然と呟けば、乾は笑った。
「海堂が聞いたからだろ」
「…俺?」
「どうしていつも後ろからって、聞いただろ?」
「それとこれとは全然話が違うだろ…」
「一緒」
 乾が笑みを深めた。
 ベンチに深く寄りかかって海堂を流し見てくる。
「海堂も知ってるだろう? 俺はいろいろ考えてるんだよ。何をするにもね」
「………………」
「海堂を抱き締める向きだって理由がある。この程度の事はいつも考えてるんだ」
 それからふと、乾は面白そうに付け加えた。
「……それでも全然足りてない」
「………………」
「ついでに他に質問は?」
 あればこの機会に答えるけどと。
 乾は笑って話題を変えてきたけれど。
 海堂はといえば、あまりにも壮大な話の欠片だけ聞かされたような面持ちで首を左右に振るしかない。
 全然足りてない。
 それは乾に対して海堂が思う事でもあった。
 まだお互いのこと、判らないこと、知らないことだらけだ。
 同じ部活の先輩後輩として数年。
 結構長く関わってきていたとも思ったが、それはどうやら単純に気のせいなようで。
 全然足りてない。
 まだまだ足りてない。
 これまでもこれからも、もっとずっとちゃんと一緒に。
 いないと解けない謎だらけだ。
 喉ですか、と海堂が低く呟くと、乾は少しの間視線をあらぬ方へと飛ばしてから観念したようだった。
 背の高い大人びた風貌とはミスマッチな所作で、こくりと頷いてくるから。
 海堂は大きく嘆息した。
「……窓開けたまま遅くまでデータまとめてて、そのまま机で寝てたとか言わねーよな」
「海堂、見てたのか」
「見てたらベッドで寝かせてる!」
「確かに」
 暢気に笑う乾は海堂の憤慨に気にした風も無く、長い指の先で喉元をゆるく辿っている。
「声、おかしくないだろ? 何で判った?」
 休日の自主トレからの帰り道だ。
「……もっと早く判ってたら、とっとと家に帰しました」
 乾の呼吸が、随分と渇き乱れていると海堂が気づいたのは、仕上げのランニングの後だった。
 もしやと思って注意深く乾を窺うと、何となくだが体調不良の気配がした。
 なので、気のせいならいいと思いながら海堂が問いかけた言葉に、乾はしかし肯定を返してきたわけだから。
 海堂が不機嫌になるのは道理だ。
「海堂と一緒にいたかったんだよ」
 怒るなよと笑う乾の声音に海堂は息を詰まらせながらも剣呑と乾を睨み上げた。
「送っていきます。家まで」
「それは嬉しい」
 でもたいしたことないぞと乾は海堂に告げてくる。
 今日の夕焼けは鮮やかだった。
 肩を並べて歩く。
 乾は温和に、海堂は憮然と、でもお互いがお互いといる時の空気は、いつも藹々としていた。
 自主トレをしている河原から乾の家の前まで、然程の距離もない。
 すぐに辿りついたマンションの前で、海堂は改めて乾を見上げた。
「ご両親いるんですか」
「いや?」
「……あんた、家帰って、メシ食って、薬飲んで、早く寝ますか」
「い………や、努力はします。そうするように」
 本当はあっさりそれを否定しようとしたのであろう乾は、海堂の眼差しの鋭さにやけに神妙な返事をしてきた。
「おい、海堂?」
 海堂は乾の腕をとって歩き出した。
「薬飲むまでは見届けて帰ります」
 当てにならないのだ。
 乾は。
 自己管理を怠るような事はないと海堂も思うのだけれど、これくらいたいしたことないと思っている以上油断ならない。
 海堂はぐいぐいと乾の腕を引っ張って、マンションのエントランスに入り、エレベーターに乗り込む。
 目的の階で降り、海堂はドアの前で乾が鍵を取り出すのを腕を組んで待った。
 乾は妙に機嫌が良かった。
「どうぞ。海堂」
 入って、とドアを背で支え海堂を先に促してくる。
「………………」
「ん?」
「…おじゃまします」
「はい、どうぞ」
 初めて訪れた訳ではないので、乾の部屋がどこにあるのかは判っている。
 海堂は乾に促されるまま先を歩き、乾の部屋で手荷物を下ろした。
「風邪薬と、何か腹に入れるもの」
「何でそんな睨むんだよ海堂」
「俺の目の前で飲んで貰う。それ見たら帰ります」
「それじゃ逆効果だ。飲みたくなくなる」
 海堂は乾の部屋の壁に背を押し当てられる。
 立ったまま、乾が上半身を屈めてきて、海堂の唇に重なるだけのキスをしてきた。
 舌で探られる事はないけれど、重なっている時間は長かった。
 離れる時に小さく粘膜が音をたてる。
「………あんた」
「…ん?」
「口…、熱い」
「そうか?」
 中までまだなのに?とひそめた声での乾の笑いが、振動で海堂の唇に伝わってくる。
 多分、ひきはじめの風邪を、乾は海堂にうつしたくないのだろう。
 だから粘膜が直接触れ合うようなキスは、最初からする気がないのだ。
 まだ、などと言いながらも。
「………………」
 海堂は不機嫌になって、乾のジャージの胸元を片手で掴み取った。
 ぐいっと引き寄せて下から乾の唇を塞ぐ。
 舌で、海堂の方から乾の唇をくぐると、やはり中は熱かった。
 それを海堂が確かめた途端、痛いくらいに海堂の舌は乾に絡めとられた。
「ン、…っ……」
「………………」
「……ぅ……、っ…」
 優しく髪を撫でてくる手と、遠慮なく深みを探る舌とが、同じ人間の器官とは思えなかった。
 乾にはそういうところがある。
 一度目はあっさりと触れるだけのキスで済ませたくせに、二度目はがっつくようなこんなキスだ。
 海堂が小さく忙しなく喉を鳴らしてやっと唇は離れていった。
「海堂」
「……、薬」
「別に薬飲むのが嫌でしてるわけじゃないんだが」
 さすがに苦笑いを浮かべた乾が、海堂をキッチンへと連れて歩き出す。
 乾の家では薬はそこにあるらしく、ラックから取り出したメディカルボックスをテーブルの上に置き、乾は冷蔵庫を開けた。
「何か腹に入れるもの……って、今日は調味料しか入ってないな、この冷蔵庫」
「……牛乳ありますか」
「ああ。あるよ」
「リンゴ一個貰います」
「海堂?」
 テーブルの上の陶器の皿に真赤なリンゴがある。
 そのうちの一つを海堂は手にして、乾から牛乳パックを受け取った。
「ちょっと台所借ります」
「はい、どうぞ」
 乾は面白そうに答えてきて、椅子をひき、そこに腰を下ろした。
 海堂は置いてあったジューサーをすすぎ、中に牛乳を注ぐ。
 リンゴもざっと水で洗い、包丁で四等分してリンゴの芯を取った。
 皮は剥かずに牛乳の中に入れる。
 スイッチを入れて少しだけ攪拌して、スープ皿らしい器に中身を注ぎいれた。
 スプーンと一緒に乾に手渡す。
「ふわふわだな」
「………………」
「綺麗なピンク色で」
 お前の肌みたいだと余計な事を呟く乾の頭を、弱冠の手加減と共に海堂は平手で叩いた。
「いいから早く食えっ」
「いただきます」
 乾は笑っている。
 ずれた眼鏡を外してしまい、卓上に置いてからスプーンを口に運び、うまいなこれと言った。
「リンゴと牛乳だけでこんな触感になるのか」
「……飲み込むのが辛くなるとうちでは昔からこれなんで」
 味はほんのりと甘く、淡いピンクの色合いで、そしてスプーンですくわないと口に運べない、今となっては少々気恥ずかしくも思える取り合わせなのだが、海堂の家ではこれが定番だった。
 腹持ちもすこぶる良い。
「うまかった。ごちそうさま」
「薬」
「はいはい。海堂は厳しいな。……喉の痛み…は、…これか」
「水」
「海堂は気が効くな」
「いちいちうるさい…!」
 薬を探し出した乾にコップに入れた水を手渡しながら海堂は怒鳴った。
 乾が薬を飲んでいる間にジューサーと皿とスプーンを洗う。
「海堂は手際がいいなー」
「乾先輩!」
「からかってんじゃないって」
 洗い物を伏せている海堂の背後からのしかかるように乾が被さってくる。
 背中にぴったりと密着している乾の体温に、閉じ込められているかのような長い腕に、海堂はじわじわと赤くなる。
 自分の方が熱が出てどうするんだと言葉にならずに悪態をつきたくなるが仕方がない。
 乾相手だと、こうなるのだ。
 乾だけに、こうなのだから。
「風邪うつしたらごめんな」
「………………」
 緩まない手が嬉しい。
 離れない距離に安堵している。
 リンゴとミルクの味のするキスのさなかに海堂が考えていた事は、それだけだった。
 今年の十五夜は強烈な雨風で月など到底望める状態ではなかった。
 季節行事に忠実やかな海堂の母親はそれをひどく残念がって、翌々日の晴天の日の夜、二日遅れのお月見をしましょうと言って、改めてススキを活け、月見団子をたくさん作った。
 そして夜の走りこみに出ようとしていた海堂を呼び止めると、乾と会うのかどうかを確認した上で、月見団子のお重を持たせてきたのだ。
 持たされた海堂は、いつもの河原まで本気で走っていく訳にもいかずペースを落とした分乾よりも後に河原についた。
 月明かりで夜目にもはっきり相手の表情が判る。
 先に来ていた乾は海堂の口から事情を聞くと笑って、河原の土手を指差して言った。
「しようか。お月見」
 それで二人は河原の土手に並んで座り、冴え冴えと煌く月を見上げたのだ。
 どこかで秋の虫の鳴き声がしていた。
「これも穂摘さんの手作り?」
「………っす」
「すごいな」
 深さのある小ぶりのお重の蓋を開けると積まれた月見団子が現れて、乾は頂きますと言って手を伸ばしてきた。
 ひょいと一個口に入れて目を見開く。
「……お」
「………………」
 海堂はじっと乾を見据える。
「月見団子って、こんなにうまいものなのか……」
 真面目な乾の呟きに、海堂は判る人でなければ判らない程度の薄い笑みを唇に浮かべた。
 乾は判る人なので海堂の表情を目にして同じように笑みで返してくる。
「何?」
「………や、」
 なんでもないと海堂が言えば、それ以上追い込んできたりはしない。
 乾は次の団子に手を伸ばす。
「あれ、さっきのと味違う?」
「ああ…」
 見た目は全く同じ。
 取り立てて変哲のない白い月見団子なのだが、乾の言うように二種類入っているのだ。
「うちのは白玉粉も入ってるんで…水で練らないで、牛乳で練ったのと豆腐で練ったのがあるから味が違うかと」
「へえ…手間隙かかってるんだな」
「別にそれほど大変な訳では…」
「………………」
「……、…何っすか…」
 乾が顔を近づけてきたので、海堂は小さく息を飲む。
 見返して問うと、乾が唇に笑みを刻んだ。
「もしかして海堂も、これ作った?」
「………っ…、……」
 いきなり切り込んでこられて、海堂は怯んでしまった。
 別にそれが何だと返せばいいだけの話なのは判っているのだが。
「海堂」
「……っ…たら…、何…」
 手伝っただけだ。
 でも乾にも食べさせると知っていたら、手伝わなかったかもしれない。
 別に嫌な訳ではない。
 ただどうしようもなく気恥ずかしい。
 でも、一口食べて。
 うまいと言った乾の言葉が、嬉しかったのも本当だ。
「月見団子が自家製で作れるなんてすごいよな」
「………別にただ混ぜるだけで…」
「俺は家事は分担制であるべきだと思う派なんだが……掃除苦手なんだよなあ…」
「は…?」
「でも料理は絶対海堂のが美味い筈だし」
「あの…乾先輩…」
「仕事で分ける当番制じゃなくて、曜日か週かで分けるんでどうだろう」
「あんた、さっきから何の話してるんですか」
「え? 将来の話を」
 俺達の、と乾は言った。
「………………」
 団子を食いながらか。
 海堂はがっくり肩を落とした。
 しかしそれは突拍子もないと呆れているというよりも。
 真面目にそんな事を考えて、思い悩んでいる乾にどうしようもなく気恥ずかしい思いをさせられたからだ。
 乾は月見団子を黙々と食べて、ああでもないこうでもないと呟いてる。
 乾がとりやすいようにお重を彼の方に向けてやりながら、海堂は秋の月を見上げた。
 月は、潔く綺麗だ。
「乾先輩」
「ん?……ああ、何だ? 海堂」
「その時が来たら、役割分担は俺が振るから、今からぐだぐだ考えてんじゃねえよ」
「……は?」
「………月見だろ。月見ろよ」
 綺麗だから。
 そう眼差しで促すと、何故か乾は感嘆したような溜息を零し、そして。
 海堂を土手の草むらに押し倒してきた。
 それは丁寧に。
「なん…、……」
「いや……俺達の将来の話なんて俺が言っても、それを全く否定しない海堂にくらっときただけ」
「俺は月を見ろって言ってんのに、月に背向けてどうするんすか…!」
「え…じゃあ…」
「………っ…、…」
 すぐさまくるりと体勢が変えられる。
 乾が草むらに背を宛て仰向けになり、海堂はその上に引き上げられた。
「これならいいか」
「………………」
 よくない。
 全然よくない。
「………………」
 海堂が見下ろす先で。
 乾の両腕が伸びてくる。
 海堂の頭を抱えるようにして引き寄せてくる。
 唇にされそうなキス。
 やはりよくない。
 キスがじゃなくて。
「………………」
 この体勢になったところで、結局乾は月を見上げてはいないのだ。
 海堂ばかりを見ているだけだ。
「…、月を…」
「ん」
「見ろ…って、…言…」
「…海堂のがいいなぁ」
 囁く小声が唇に当たる。
 潜めた乾のささやきに眩暈がする。
 海堂は目を閉じた。
 乾の舌を唇をひらいて受け入れる。


 月は、また後で。
 今は、このまま。
 剥き出しになっている肩を、乾の手のひらに包まれた。
 海堂の目線の先にある乾の手の甲は骨ばっている。
 海堂の肩に触れている乾の手のひらは温かく固かった。
 じんわりと染入るような体温に、もう季節は秋なのだなと海堂は思った。
「……肩冷やす」
「………………」
 乾も同じ事を考えたようで、そう呟くとベッドから出て行こうとする。
 海堂は汗で濡れている乾の背に手を伸ばした。
 指先が触れたか触れないかで乾は振り返る。
 上半身を捩じって屈ませ、まだ荒い呼気を零す海堂の唇に乾はキスを落としてきた。
 含んだ乾の舌もまだ熱かった。
「シャワー浴びられるか」
 キスが解けての問いかけに海堂が頷くと、すぐにまた唇は塞がれた。
「一緒に行くか」
 暫くしての再度の問いかけには首を左右に振ったら、ひとしきり舌で口腔を弄り合うような口付けに長く捕まってしまった。
 時間をかけたキスが、熱っぽい吐息を漏らしてほどける。
「長袖のシャツと、厚手の上掛けと、どっちがいい?」
「………あんたは?」
 唇の触れ合う距離で、乾は小さく笑った。
「俺はどちらかを選んだ海堂で温まる」
「…………ふざけてねえで、あんたもちゃんとしろよ」
「じゃ、両方用意しておく」
 先シャワー浴びてくる、と目元に音をたててキスされて。
 海堂はじわじわと顔の熱を上げた。
 キスなんかもう、どうしようもないくらい繰り返していたのにだ。
 乾がベッドから出て行く背中を今度を見送って、海堂は枕に片頬を埋めた。
 燻る熱がまだ消えないのに、それでも外気の変化を感じ取れるのが不思議だ。
 余韻の色濃い身体は甘ったるく気だるいのに、些細な異変を感じ取る事も出来る。
 海堂は目を閉じた。
「………………」
 じん、と疼く首筋は乾の最後の吐息を埋められた場所。
 頭皮まで痺れる感触は、乾の指が海堂の髪をすきあげていった経路。
 ひりつく脇腹には乾に執拗に残された痕があって、強靭な四肢に取り縋った海堂の指先全てには未だ生々しく乾の肌の感触がある。
 今しがた乾の手に包まれた肩、食い合わせられた唇、吸い込まれた舌先。
 目で見なくても、こんなにも、判る事が多くて、海堂は寧ろほっとする。
 乾の固執が判る。
 自身の身体のあちこちに在る名残で判る。
 海堂は、結果として形になることばかりを追ってしまう自分の傾向を知っていて、でも、全てが形になっているものではないという事を判ってもいた。
 判りづらい、判りにくい、そういうものの方が実際は圧倒的に多いのだ。
 本当は。
「………………」
 頬に当たる感触。
 乾の手のひら。
 海堂が目を開けた。
 乾の手の中で睫毛を、瞼を、引き上げる。
「……眠い?」
「………………」
 名前を呼ぶと起こしてしまうと思ったのだろうか。
 乾の小さな問いかけに、寝てない、と海堂は呟いた。
「…………もったいないって思っただけだ…」
「海堂?…」
「……あんたの感触が…いろんなとこに残ってるから」
 う、と乾が息を詰めたのが手のひらから伝わってきて、海堂は上目に乾を伺い見た。
「………お前な」
「べつに……シャワーくらいで消えるもんでもないですけど……」
 乾は本当に何とも言えないような顔をしていたので、海堂は微かに笑んだ。
「シャワー借ります」
 ゆっくりと起き上がる。
 あっさりと組み敷かれる。
「…………乾先輩…?…」
 何故再びこうなっているのだろう。
 海堂は今日二度目の不思議に思う。
 首筋に乾が顔を埋める。
 熱の籠もった吐息。
「乾先輩?……」
「………身体は拭くし、パジャマも着せるし、上掛けは秋用にするし、ともかく全部ちゃんとするから」
「………………」
 もういっかい、と唸られた。


 唸られて。
 ねだられたのかも。
 せがまれたのかも。
 しれなかった。
アーカイブ
ブログ内検索
バーコード
カウンター
アクセス解析
忍者ブログ [PR]