忍者ブログ
How did you feel at your first kiss?
[1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [6]  [7]  [8]  [9]  [10
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 海堂は驚かなかった。
 乾はその事に驚いた。
 何せ今のこの体勢。
 膝枕というより、膝腹枕だろう。
 上半身を起こしている海堂の腿に乾は頭を乗せていて、薄く固い腹部に額を押し当て、張りつめた硬質なラインの腰には腕をしっかり回している。
 甘ったれの域を越えて、ただひたすらにべったりくっついているという自覚はあった。
 さすがに乾にも。
「海堂ー…」
「………どうしたんですか」
 素っ気無いような声は、しかしいつでもぎこちなく過敏だ。
 乾が呻いて初めて、海堂はそんなリアクションをした。
 小さく落ちてきた声には生返事だけして、乾は海堂のやわらかな体温を感じ入るように腹部に尚も密着する。
「先輩?」
「暑っ苦しい上に鬱陶しくて悪いな」
「言ってねえよ。んなこと」
 欠片も甘い声ではなかったけれど、海堂は乾のする事を諾々と受け入れたままだ。
「きもちいい」
「………………」
 はあ、と力の抜けたような返事が、海堂の身体から響いてくる。
 微かな羞恥心の交ざる憮然とした気配もしたが、乾がそう言えば海堂はそれを奪うような事はしない。
 あんたが何したいんだか俺にはさっぱり判らねえと言いながら、海堂は腿に乾の頭を乗せられたまま身じろぐ事はない。
 決して無意味に絡みたい訳でも、管を巻くような真似をしたい訳でもないのだが、乾は海堂を拘束しつつあれこれと呟いた。
 それに対しての海堂の返事は短く、でも必ずあった。
「珍しいな、今日の海堂は。いい加減怒鳴りつけるなり蹴り飛ばすなりすればいいのに」
「面倒なんで」
「そりゃ面倒だよな。でかい図体の男に力任せにしがみつかれて、膝の上でぐだぐだ言われてれば」
「そんなのはもう慣れてる」
「慣れてるかあ……慣れたら、後は飽きるとかだろうなあ……」
「乾先輩」
 頭に重いものが落ちてきたと思ったら。
 それはどうやら海堂の拳のようだった。
 乾に呻く隙も与えず、今度は平手で叩かれる。
 同じ場所をだ。
 容赦がない。
「しつけえんだよ」
 凄む、本気の、低い声だ。
 乾は苦笑いを海堂の腹部に埋めた。
「全くだ。俺自身でも否定しない」
「うるせえ。あんたじゃねえ。俺がだ」
 あんた今俺と他の誰かと間違えてんのかと海堂に言われて、さすがに乾は身体を起こした。
 幾ら何でも、そんな事がある筈がない。
「海堂、」
 しかし、起こしかけた乾の身体は、海堂の手で強引に戻された。
 先程拳を落とされ、平手で叩かれた後頭部を、今度は手のひらでぐいっと押さえ込まれたのだ。
 再び海堂の腿に横向きの顔を乗せた乾は、自分の髪を海堂の指先が繰り返しすいていくのを感触で知る。
「慣れたって、俺は飽きねえよ。俺がしつけえの、あんた知ってんだろ」
 ぶっきらぼうな口調で、でも海堂は落ち着いていた。
 ひどく慣れない事をしている海堂の手は、とても丁寧だった。
「暑っ苦しかろうが、鬱陶しかろうが、あんただろ」
 だったら俺は変わんねえよ、と海堂が呟く。
 海堂が言ったのはそれだけだった。
 海堂の言葉使いは時折こんな風に不思議だと乾は思う。
 好きだと言われるよりも強く、好きだと告げられたような気持ちになる。
 言葉を尽してしまいがちな乾の隣で、ぽつりと重鎮の言葉のみを置いてくる。
 それが海堂だ。
 詰め込みすぎた知識や予測や思考のせいで度々穿ちがちになったり身動きがとれなくなったりする乾の隣で、不器用なのに揺るがない、頑なそうでいてやわらかなものを持った姿でいる。
 それが海堂だ。
「何に…誰に、感謝したらいいんだろうな。お前の事は」
 ご両親か?やっぱり、などと言いながら乾は海堂の腿の上で寝返りをうった。
 仰向けになる。
 乾が見上げた先、海堂が珍しく薄く笑っている。
「自分を褒め称えればいいんじゃないっすか」
「どうして?」
「あんただけだから」
 何が、とそこの所は。
 初めから無い言葉のように抜けているのに。
 やはり海堂の言葉は、乾にはひどく不思議だった。
 好きだと言われるよりも強く、好きだと告げられたような気持ちになる。
 口移しに同じ言葉を返したら、自分の気持ちも全く同じように伝わるのだろうかと思いながら、乾は下から腕を伸ばす。
 しかし実際は。
 声を出すよりも先に、引き寄せた海堂の唇に口付けてしまったせいで。
 その試みは叶わなかった。


 叶わなかったのに。
 でも海堂は、それはきれいな笑みを乾にくれたのだけれど。
PR
 また余所見する、と笑われた。
 それに対して、まともに顔を見ていられる訳ないだろうと海堂は思い、笑う乾をきつく睨みつけたのだが、乾は目が合ったと言って機嫌がよくなった。
「………………」
 キスをする前。
 視線を向ける先も、表情の在り方も、息の仕方も、手の置き所も。
 海堂にはわからない事だらけだ。
 乾の笑みが優しくなって、ひどく大切そうに軽く唇を掠られる。
 だから、どうしたら。
 ぎこちなく海堂は、いるしかできない。
 そしてキスをされた後もそれは同じ事だ。
 乾は海堂の肩口に顔を伏せて笑った。
 辛うじて笑い声はたてないでいるものの、肩があからさまに上下している。
「………、…っ…」
「や、…駄目だ…我慢できない」
「してねえで笑ってんだろーが…っ……」
「いやいや…我慢できないっていうのはさ…」
 こっち、と言って。
 乾は海堂を抱き締めてきた。
 しっかりと背中と後頭部とを抱き込まれる。
 乾の胸元に、嘘みたいにすっぽりとおさめられて、海堂は熱を帯びる顔を自覚しつつも噛み付いた。
「あんたみたいに余裕ねーんだよ、こっちは…!」
「俺だってないよ。そんなもの」
 好きで好きで好きでと。
 低い声で淡々と、乾がやたらとそれを繰り返してくるので。
 海堂は居たたまれず、耳を塞ぎたくなった。
 抱き込まれているこの体勢では到底不可能な事だったが。
「耳でも塞ぎたそうだな。海堂」
「…っ…、……」
「そんな事しても聞こえなくならないと思うが…」
 すこぶる機嫌よく笑う乾は、腕をゆるめてきた。
 お互いの合間に少しの空間が出来る。
 乾の手のひらが海堂の両耳を覆う。
 海堂はそうされたまま乾を見返した。
「………………」
 音が。
「海堂?」
 音が、する。
 血液が流れている音だろうか。
 耳元にぴたりと宛がわれた乾の手のひらから聞こえてくる音。
 それに集中して無意識に目を閉じた海堂は、再び唇を塞がれて、赤くなった。
 ねだりでもしたかのような自身の振る舞いに気づいたからだ。
「なんか可愛い顔してたな、今」
 何考えた?と乾がからかうでもない丁寧な口調で聞いてくる。
 可愛いとか言うなと憮然としながらも、海堂は乾の音を尚もよく聞くように、その手のひらに耳元を預ける。
 それだけの所作で乾は理解したようだ。
 海堂の両耳に手のひらを宛てながら、近づいてきて囁いた。
「こうやって耳塞いだ時に聞こえてくる音って、何の音だか知ってるか。海堂」
「……血液の流れる音じゃないんですか」
「そう思われがちだけどな」
 違うんだよ、と乾は言った。
「手のひらの筋肉が収縮してる音なんだよ、これ」
 は?と思わず海堂は口にしていた。
「それって」
「疑うなよ」
 本当の話、と笑う乾に、疑った訳ではと否定しながらも、海堂は自分の耳を覆っている乾の手のひらに集中する。
「筋肉は、細長い筋線維が束になってるだろう? 筋肉っていうのは収縮する時に微量の音が出てる。それが聞こえるんだ」
「………………」
 これは乾の手のひらの筋肉が収縮している音。
 海堂は、じっと耳を傾けた。
「だからそういう顔するとな……」
「………………」
 言葉途中で、また。
 キスをされた。
 今度はもう少し深くて、長くて、重ねられたキスだ。
 聴覚を遮断され、海堂に聞こえているのは乾の音だけだった。
 海堂は唇をひらいていて、含まされた舌は、ひどく心地良かった。
 キスがほどけて乾を見つめていると、珍しく乾が視線を泳がせた。
「………本当に両極端だな。海堂は」
「………………」
 余所見か直視だ、と乾は囁き淡く苦笑いをしている。
 海堂は無言で手を持ち上げた。
 乾がしているように、海堂も。
 乾の耳元を両手の手のひらで覆う。
 乾にも聞こえているだろうか。
 海堂の手のひらの筋肉の収縮音。
 自分達の手は、同じ物を掴む、異なる手だ。
「………………」
 お互いがお互いで聞いている音、それらを生む手は、いつの間にか重ねられて。
 指を絡めて。
 繋ぎ合った両手を下に落とし、静かにまたキスをする。
 吐息も溶かしあう距離。
 合わでた手のひら。
 手のひらの音と音が重なって、互いの唇と唇が重なって、ゆっくり和いでいくのが判る。


 余所見の仕方など、判らなくなった。
 構う、という言葉を海堂は使った。
 乾は少し考えてから口をひらく。
「俺ってそんなに海堂を構ってる?」
 海堂に言われた言葉で乾は聞き返した。
 何の気もなくといった風を装いながら、その実、かなり慎重に。
 何せ海堂は、未だ手放しに乾に心中を晒す事は決してしない。
 乾にメニューを作って貰うという状況を前にして、漸く海堂は、乾に対して今のこの距離感になったのだ。
 この距離は、急いて詰めれば容易く開きをつけられる。
 乾はそんな気がしてならない。
「………………」
 例えばこんな時。
 テニスのこと以外で乾が最初から過度に言葉を並べてしまうと、海堂は即座に沈黙してしまう。
 これが桃城相手だったりすると、海堂はちゃんと、言われた言葉や感情に見合う量で返すんだがなあ、と乾は内心で嘆息している。
 その点でまだ自分などは、海堂に対して構えられる存在なのだろうと乾は考えている。
 海堂の言った、構うという言葉とは別の意味でだ。
「そうか…? 構ってるかな」
 そんな訳で極力控えめな問いかけと疑問にとどめた乾に対して、海堂はといえば、こくりと頷いた。
 それは溜息をつくような頷きだったが、困ったり弱ったりしている訳ではないようだと乾は尚も細かく海堂の様子を伺う。
「わざわざ…こんな風に俺に構うのは、…あんたくらいだ」
 一言ずつ重く呟くような言い方で。
 構う、と海堂は言うけれど。
 乾が今海堂にしている事は、多分そんなに特別なことではない筈だ。
 メニューの受け渡しがてら昼飯を一緒に食おうと誘い、天気が良いので部室の裏庭に座り込んで弁当を広げている。
 乾は正直な所機嫌がいい。
 気分がいいのだ。
 海堂といると。
 そして海堂はといえば、構うと言うくらいだから、少々この場の居心地が悪いらしかった。
 豪勢な弁当に箸をつけながら、少し眉根が寄っている。
 そんな海堂の表情を、乾は自分の顔が緩んでいる自覚は持ちつつ、盗み見ていた。
 多分海堂からは、弁当に没頭しているようにしか見えないだろうと確信しつつ。
「羨ましいならお前らもそうすればって俺は言ってるんだけどな」
「…は?」
 一呼吸後に、怪訝そうな短い声が乾に放られる。
 海堂は何に対してもストイックだ。
 何だか話し方まで。
 感情を抑えたような口調や声音で話すのが常だけれど、多分、海堂の素での話し方や声はもっと柔らかい感じなんだろうなと乾は思っている。
 弁当の中身を着々と片付けていきながら、乾は淡々と言った。
「海堂が乾にだけ懐いたー、馬鹿乾ー!……ってのはどういう理屈なんだろうな…」
「………乾先輩?」
「脅してるんじゃないよね?…なんて微笑まれて一言聞かれるよりかはマシだが」
「あの……」
 ああ、菊丸と不二がね、と付け加えた乾の視界の端。
 海堂の目が見開かれるのだ見えた。
 正面に座っていて盗み見ているっていうのもどうなの、と乾は密やかに思うが、あんまり直視すると視線逸らされるからなあと誰に言うでもない言い訳を頭の中で添えてみたりする。
 何せこの後輩は。
 海堂は。
 誰とも馴れ合わない。
 上級生には寡黙に礼儀を払うが、必要最低限の接触程度で、それは同級生に対しても下級生に対しても代わらない。
 乾の同級生たちが言うように、そんな海堂に乾は懐かれているといえば懐かれているのかもしれない。
 けれど、乾が欲しいのは、今のこの状況だけではないのだ。
「海堂は、俺だけがお前に構うって言うけどさ。……ええと、そうだな…例え話で言うと…」
 思案して呟きながら、乾は正面から海堂の目を見た。
 じっと見据えると、海堂は同じように乾を見返してくる。
「そうだ。…例えば写真を撮ろうとして。俺が撮る人って事でね」
「……はあ」
「うちのテニスコートで、テニス部全員の集合写真を撮るとする。その時に、海堂だけを大きく写すには、俺はどうしたらいいと思う?」
 別に大きく写さなくていいという低い呟きを乾は笑いで流して、つれない後輩を取り成した。
「例え話だよ」
「………………」
「それにはさ、お前の力がいると俺は思う」
「…俺…っすか」
「そう」
 あくまで写真を撮るのは俺だけど、と前置きして乾は話を続けた。
「俺が立ち止まって、カメラを構えて。離れたところで一箇所に集合させたテニス部のメンバーをフレームに入るようにレンズを覗く」
「………………」
「そうしてから、海堂にだけ、俺の方へ近づいて来てもらう」
「………………」
「海堂だけが俺に近づいて来れば、部員たちはフレームに全部おさまってるまま、海堂だけを大きく写せるだろう?」
 そういう風にさ、と乾は密やかに海堂に告げる。
「こっちおいでって、呼んだのが俺でも。海堂が近づいてきてくれたんなら、海堂だけが大きく写ってる写真が撮れるだろう。今っていうのは、つまりそういう状況なんだと俺は思う」
 乾が海堂を構っただけでは、互いの距離など縮まらない。
 海堂が応えてくれたから、他の人間とは違う距離感になったのだ。
「全体を入れる為に、一番肝心なものが小さくなるのは不条理だと思うんだよ」
「そこのところは…よく……判らないっすけど」
 その前の話は。
 何となく理解した。
 海堂は、そう言った。
 どことなく面映そうに見えるのが、何だかやけにかわいらしく思えてならない。
 乾はひっそり笑った。
 少なくとも、そう遠くはない未来には。
 全員を写すから、という大義名分など無しにして、海堂だけの写真を撮れるように。
 つまり、何かしらの理由があって、こうして向き合い昼食を共にしているのではなく、もっと単純に、もっと簡単な理由で、構うとか構われるとか、したいわけなのだ。
 乾は。
「海堂。食わないと時間なくなるぞ」
「………………」
 考えもうとしかけていた海堂を、謎かけのような会話から解いてやる。
 乾も弁当に取り掛かりながら、新緑の木陰で、ふと願う。
 そこのところも、いずれはよく、判ってくれよと。
 寡黙でガードの固い後輩の、ひどくやわらかい部分に思いを馳せて、ふと希った。
 朝練に向かう通学路で顔を合わせた乾に、出会い頭いきなり。
 まじまじと見つめられて、しみじみと呟かれた言葉に、海堂は脱力する。
「海堂は……いい匂いがするな……」
「………………」
 何をそんな真顔で。
 何をそんな良い声で。
 言っているのかと。
 海堂は内心でのみ言葉にする。
 なりゆき上、自然と肩を並べて歩き出してからも、乾は伸びのある滑らかな声で呟いている。
「いつもそうだが……今日は特に」
「………………」
 顎のあたりに手をやって、生真面目にそんな事を言う乾に。
 海堂は、今度ははっきりと、溜息を零した。
「………食いますか」
 そして、そう聞いた。
「うん?」
 乾はこんなに鼻のきくタイプだったのだろうかと思いながら、海堂が鞄の中から取り出したものは、今朝方母親に手渡された半透明の袋だ。
 ろうびきされたワックスペーパーで出来ているマルシェの中身は。
「うまそう」
「……どうぞ」
 口を開けて乾に差し出すと、確かにイチゴの匂いだったと乾は笑って長い指を袋の中に忍ばせてくる。
 母親に半ば無理矢理、お友達と食べなさいと持たされた時は果たしてどうしたものかと思ったのだが。
 よかったのかもしれない。
 昨夜海堂の家で焼かれたそのクッキーは、作りおきをあまりしない母親にしては珍しく大量だった。
「これうまいな。ん?……このイチゴって、もしかして生?」
「……はあ…」
 弟の葉末が好きで春になると度々海堂家で作られるイチゴのクッキーは、生のままのイチゴを刻んで入れて焼く。
 焼いている最中も、焼きあがりも、イチゴの香りが広がるので、案外身体にもしみついているのかもしれないと海堂は思った。
「先輩……もしかして、朝飯食ってないんですか」
「ちょっと昨日遅くてね」
 ぎりぎりまで寝てたと笑う乾に、海堂は再び溜息をつき、袋を押し付けた。
「お?」
「………食え。全部」
「食えってお前」
 先輩だぞ俺はと乾が笑う。
 やわらかい言い方をする乾に、いいから、と海堂は尚も強引に、その袋を押し付けた。
 言葉のうまくない自覚はあるから。
 本当は、いろいろと思う事はあるけれど、言えないまま海堂は黙って乾を見据えるだけだ。
 乾の睡眠不足の原因の中には、彼がテニス部の為にデータをまとめている時間もあるだろう。
 趣味だからねと大抵笑ってやりすごしているけれど、部の為の無償のデータベースは
、すさまじい徹底ぶりなのだ。
 海堂の視線を真っ向から受け止めて、乾は少し考える顔をして、そして。
「ありがとう。じゃ、頂くよ」
「………………」
 乾の笑い方は、いつもやわらかい。
 お母さんによろしくな、と低い声で言いながらクッキーをまた口に放り込む乾の横で、海堂は小さく頷いた。
 一見日常生活に無頓着なようでいて、あれだけ緻密な計画を練る乾だから。
 実際は、海堂が危惧するような事は何もないのかもしれない。
 眠る時間、休む時間、食べる時間、それらは必要な分ちゃんと乾に取り込まれているのだろうけれど。
 何故か、海堂には乾が気にかかるのだ。
 目が離せないような、不安定さを覚えてしまう。
 自分の思い込みに過ぎないと判っていながら、海堂はどうして自分がこんなにも乾が気にかかるのかは判らないでいた。
「さっきも言ったけど、海堂はいつもいい匂いがするんだよなぁ……」
「………は…?」
 クッキーを食べる乾と考え事にはまった海堂とで、とりたてて会話もなく歩いていた二人だったが、徐に乾が言った言葉に海堂は不審気に相手を見やった。
 乾は海堂に語りかけているのか独り言なのかよく判らない話し方で。
「昨日、渡り廊下で擦れ違ったろ」
「……乾先輩が教室移動って言ってた…?」
「そう、昼休みの後。あの時も、今時擦れ違って石鹸の香りがするってすごいことだと思ってたんだが」
「…………石鹸使って雑巾洗った後だっただけですけど…」
 あまりに廊下の水飲み場が酷い状態だったので、手を洗うついでにそこにあった雑巾で拭き、そのままにしておくのが嫌で石鹸を使って洗っただけの話だ。
「それは見てたけどさ。海堂は、そういう所、ほんといいな。ちゃんとしてて」
「……は…ぁ…」
「雑巾洗いだろうが何だろうが、海堂から石鹸の香りというのは事実な訳だし?」
「あんたの言い方……なんか……」
「ん?」
「………何でもないっす」
 口にするほうが気恥ずかしい気がして、海堂は首を振った。
「今日も朝からお前はいい匂いだし」
「……腹減ってたんだろ…あんた」
「腹の減り方にも、いろいろあるよな」
「え?……」
 乾の口調がすこし変わって、不思議に思い海堂が見上げた先で。
 乾は確かに、何か意味のあるような笑みで海堂を見下ろしてきていた。
 目が合うと、何故かまるで何かをごまかすかのように乾は手にしていたクッキーを海堂の口に入れてきた。
「…………、…」
 無意識に一口海堂がそれを咀嚼するなり今度は。
「海堂、明日誕生日だな」
 乾はそんな事を言ってきた。
 クッキーを食べさせられたいきなりの行動には驚いた海堂だったが、今度のいきなりの問いかけには別段驚く事もなく、海堂は頷いた。
 甘酸っぱいクッキーを食べてから口にする。
「乾先輩の頭ん中には、どれだけのデータが頭に入ってんですか…」
 誕生日まで全部インプットされているのかと思うと本当に驚いてしまう。
 海堂のそんな呟きに、しかし乾は深々と溜息を吐き出し、肩を落とした。
「…先輩?」
 そんな態度に驚いて、海堂が怪訝に乾の名を呼ぶと。
 乾は複雑そうに空を見上げてしまう。
「………………」
「データ収集が趣味っていうのは、こういう時に不利なんだな」
「……何の話っすか…」
「特別って事にならないんだな……参った」
「あの」
 乾は何を言っているのだろうと海堂は不審を募らせて眼差しで探るものの、少しも真意はつかめなかった。


 変な人だ。
 そう、本当に。
 海堂は思う。
 でも、変な人だから気になるのではないという事は、海堂にも薄々判ってきている。
 何よりもまず先に、ただ気になるから。
 とにかく気になるから。
 それから変だと思い、何だろうと思い、どうしたんだろうと思い。
 結局いつも、いつまでも、乾のことを気にかけている。
 乾の事ばかりを考えている。


 自分の中に、まるで封じられているかのように、ひそんでいるものは何なのだろう。
 イチゴの香りが、やけにそれを擽る気がした。
 乾といると、海堂はよく上級生に構われる。
 つまりはそれは乾の同級生からということで、最も出現率の高い相手は、海堂よりも少しだけ背が低い。
「あー! 乾が海堂にヘンなクスリ飲ませてるー!」
 放課後、途中から一緒になった乾と、海堂が部室に向かうさなか。
 遭遇した菊丸が、言うなり駆け寄ってきて、海堂の背中に飛びついてくる。
 ぐっ、と海堂は咄嗟に息を詰まらせたものの、身軽な相手のウエイトはかなり軽くて助かった。
 そのまま背中に張り付かれたが、耐えられないほど重くはないのだ。
 ただ。
「………………」
 こういう気安い接触に海堂は弱い。
 どうしたらいいのかまるで判らない。
 とりえずこの衝撃で、今しがた乾の手で口に入れられたものを海堂はろくろく噛まずに飲み込んだ。
「人聞きの悪い事を言うんじゃない。英二」
 渋い顔をした乾の事など菊丸は目に入らないというような勢いで。
「大丈夫? 海堂」
「………………」
 菊丸先輩は心配だよーと言いながら、背後から顔を覗き込んでくるその人懐っこさに。
 海堂はなかなか慣れない。
 背中にどっかりと乗りかかられたまま、呻くような曖昧な頷きを返す海堂から、強引に菊丸を引き剥がしたのは乾だった。
「何すんだよ、乾!」
「何すんだじゃない。こういうところに入ってくるか普通」
「………………」
 こういう、というのは、どういう?と海堂は怪訝に眉根を寄せた。
 海堂の疑問はすぐに乾が言葉にしてきた。
「せっかく二人でいるっていうのに、見て見ぬ振りくらいしろ。友達甲斐のない奴だな」
 乾がさらりとあまりに恥ずかしいような事を菊丸に言ったので。
 海堂は唖然と乾を見据えるだけになる。
 たまたま一緒になって、歩いて、それだけだった行動に、いきなり甘い含みをもたされた。
 海堂が飲み込んだ甘いものよりも、もっと甘い。
「うっわー、開き直っちゃってる! もー、バカ乾! 二人っきりにかこつけて、薫ちゃんに変な薬飲ませんなっ」
「海堂の口に入れたのはチョコレートだよ。変な薬なんて飲ませるわけないだろう。なあ、海堂」
「………、はあ…」
 急に話を振ってこられて、海堂は乾の流し目に怯みつつも頷いた。
「変なチョコとかじゃないだろーな!」
「英二…お前、俺のことを何だと思ってるんだ」
「マッドサイエンス!」
「……あのなあ」
 気心知れた上級生同士の会話を、海堂はこの場から立ち去る事も出来ず、戸惑いつつ足を止めて見やっている。
「海堂、ほんとにただのチョコだった?!」
「は……」
 菊丸からも勢い良く話を向けられ、頷くより先に海堂は菊丸にぎゅっと抱き締められた。
「…、…っ…」
「俺心配! いい? 海堂。乾がヤバイと思ったら、速攻逃げな!」
「………はぁ…」
 あまりの剣幕に海堂が溜息と問いかけの入り混じったような声を上げると、乾が苦笑いして即座に間に割って入ってくる。
「おいおい。頷くなよ海堂」
「や、…頷いた訳じゃないですけど…」
「頷いてよ海堂!」
「離れろよ英二」
「力ずくで離しておいてから言うか!」
 乾はまた、菊丸の言った通りに。
 強引に海堂から菊丸を引き剥がしてきた。
 そして適当な口調で鞄に手をやって。
「お前にもチョコレートをやろう。だからこれ持って帰れ」
「これから部活だろ! 帰んねーよ」
 乾は無造作に、先程海堂の口に入れてきた小さなチョコレートを、今度は菊丸の手に握らせる。
 海堂には包み紙を破いて、丁寧にひとつ、口に入れてきたそれを。
 菊丸には鞄の中から雑に無数掴み取って、押し付けていた。
「ハーシーのキスチョコじゃん。ったくもー、余計にやらしいな」
「何がだ」
「食わせてやんのがだよ」
 菊丸は乾をからかっているのに、その言葉に今更ながら羞恥にかられたのは海堂の方だった。
 何となく、別段疑問ももたないで、海堂は乾に促されるままおとなしく口をひらいてしまったが。
 よくよく考えれば、チョコレートを食べさせられる、という行動が。
 異様に気恥ずかしい事のように思えてくる。
 思わず口許を片手で覆った海堂は、その上。
 いきなり。
 乾に強く引き寄せられて、何事かと激しく混乱した。
 海堂が乾を見上げると、肩にある乾の手に、更に強く抱き寄せられる。
 その体勢で乾は菊丸に言った。
「ハーシーのそのチョコレートが、どうしてキスチョコっていうか知ってるか?」
 聞いておいて乾は、すぐに答えを口にした。
「工場で、このチョコレートが機械に落ちる時、チュッとキスの時の音がするから名付けられた。何なら聞いていくか」
「……っ…、……」
「サイテー! バカ乾っ!」
 ものすごい速さで菊丸は部室へ走って行ってしまった。
 海堂は海堂で、乾に肩から抱き寄せられたまま、赤くなって戦慄いた。
 気持ち的には、菊丸と同じ言葉を口にして、菊丸と同じように走り去りたかった。
「海堂?」
「……、…っ…」
 笑っている乾に。
 案の定。
 あのチョコレートが作られる過程の音を、たてられる。
 頬の上に。
 

 逃げ出せなかったから。
 逃げ出さなかったから。
 唇をキスで塞ぐと、同時に目を閉じる。
 海堂の癖だ。
 乾はいつもひっそりとそれを見ていた。
 浅い、触れるだけのキスを、ゆっくりと重ねていくたび。
 その都度、海堂の睫毛は、キスが離れれば引き上がり、唇を塞げば伏せられて。
 震えて、動いて。
 そういう海堂の瞬きが乾の目にはひどく甘く映って見えた。
 寡黙で言葉数の少ない海堂の、雄弁な所作のように見えた。
 長い睫毛の先には、唇を寄せる事も可能だ。
 時折そっとキスのように睫毛を唇で掠めると、海堂は小さく息を詰める。
 ほっそりとした首筋を両手に包んで、すぐさま深く唇を塞ぎ、舌を貪る。
 乾の手のひらの中で海堂の肌が熱を持つ。
 乾が舌先で舐めている海堂の口腔も熱っぽかった。
 苦しげに逃げられそうになるとキスを深くして、それからゆっくりと柔らかに開放する。
 そんなキスを織り重ねていくと、海堂の手は乾の肩口のシャツを、ぎゅっと固く握り締めてくるようになる。 
「…、乾…先輩……」
「………ん…?」
 僅かに唇が離れた隙を狙われた海堂の呼びかけに、乾は目を伏せて問い返す。
 掠れた声は、普段の海堂の声音と違い、か細く不安気だ。
 乾がキスをほどいて間近に見下ろせば、海堂の睫毛がまた引き上がる。
 目尻が涙めいた気配をたたえていて、そこに唇を寄せてから、もう一度。
 どうした?と言葉で促すと、海堂はもどかしそうに眉根を寄せた。
 言葉が見つけられない時の表情だ。
「海堂」
「………………」
 顰められた眉間を唇を掠めて、乾はそれを海堂に教える。
 顎を指先数本で支え、唇に小さく音をたててキスをすると、唸るような呻くような声を微かに上げて、海堂は乾の胸元に顔を埋めてきた。
 乾は自分が身に纏う衣服から空気が抜ける音を聞きながら、海堂の形良い後頭部を胸元に抱え込む。
「……何怒ってるのかな。海堂は」
「あんたが笑ってるからだろ…っ」
 いつもいつもと詰る海堂の声は、乾の胸元で、直接肌に吸い込まれていくようだった。
 顔を隠してやっと海堂は言う気になったらしい。
 乾が吐息程度に問い返すのを敏感に察して、珍しく饒舌に言葉を紡ぐ。
 普段よりかは、というレベルのものではあるけれど。
「……それ、あんたの癖かもしれないですけど…! そうやって余裕かまして笑われると腹立つんだよ…!」
 怒鳴り声はやはり乾の胸元に直接響く。
 その荒い口調ほど、海堂は怒っているわけではないようだった。
 乾が黙って見下ろすと、綺麗な黒髪の毛先がかかるうなじが赤かった。
 そこにそっと指先を伸ばした乾は、びくりと震えた海堂の肌の上を指で撫でるようにしながら、余裕ねえ?と忍び笑った。
「教えてやろうな。海堂」
「………………」
「お前が見ている俺のその顔は、余裕がある笑い顔なんかじゃないぞ」
「………………」
「にやけ顔とか、しまりのない顔とか言うならまだしも」
 ちゃんと見えてるのか?と呆れた思いで笑えば。
 腹立ち紛れの所作で、握った拳を肩口にぶつけられる。
 海堂は時々こんな風に無意識にひどく幼い態度を見せてきて、それが乾には随分と気に入りだ。
「だいたいそういうことなら俺からも言わせて貰うけど」
「……、…なん……すか」
 海堂の襟足の髪を指ですくいとりながら、それこそあからさまだと自覚する笑みと共に乾は囁いた。
「キスされてる時の海堂は、色気がありすぎだと俺は思うが」
 お前の癖かもしれないけど?と。
 先程海堂に言われた言葉で、乾は返して。
 海堂が暴れ出したり逃げ出したりする前に、両腕でその身体を抱き竦める。
 しっかりと。
「……ッ…、…んな、もんある、か…!」
「そうか…海堂は見られないな」
 可哀想に。
 乾は真剣に、そう告げて、可哀想な可愛い相手を抱き締めている。
 春の雨に打たれている三色すみれを見つめているのは白と黒のコントラストが強い二つの瞳だ。
 瞬きをあまりしない海堂の眼は、色も光も鮮やかに強い。
 じっと、何を見る時でも、ただひたすらに、じっと。
 その対象を見据えている海堂の眼は、乾の胸を爽快にすく。
「……何っすか…」
「うん?」
 自ら見据える時の眼差しはあんなにも強いのに、見つめられる事には弱いのも不思議だ。
 乾の視線に気づいた海堂の気配に、逃げられそうと思って乾は、海堂が校舎の窓辺から見下ろしていた中庭にある花壇の花に視線を移した。
 雨の屋外。
 渡り廊下は少しだけ肌寒くすらあった。
「ギリシャ神話で、小さな丘の上に咲いていた純白のすみれのつぼみにキューピットの矢が外れて当たって、それで三色すみれが生まれたって記述があるな。名前がパンジーなのはフランスのパンセから。思うって意味だね。花が小首をかしげて物思いにふけっている人を連想させるから」
 一息に言うと、海堂が面食らった顔をするのがおかしかった。
 本当は、先程までの海堂こそ、パンジーのようだったと乾は思っていたが、口には出さない。
 言えば必ず、逃げられるだろう今度こそは本当に。
「今日の雨は冷たいな。夜冷え込みそうだから、今晩の夜ランは極力控えめに。……まあ、出来たら走らない方向で」
「………………」
 海堂の眼をじっと見つめて乾が言うと、目つきが悪いと名高い後輩の眼は睨み返してくる事もなく。
 珍しい瞬きを、数回忙しなく繰り返した。
 眼を伏せた事で睫毛がよく見てとれた。
 艶のある真っ直ぐな睫毛を乾がこんなに近くで見るのはここ最近になってからだ。
 自主トレのメニューを海堂に乞われるまで、こうしてメニューを渡すようになるまで、同じ部に一年以上いながらもこの距離感は存在したことがない。
 乾はデータ収集が趣味だったが、そんな乾の元へこんなにも率直にその知識を望んで欲しがってきた相手は海堂が初めてだった。
 あの海堂がね、と乾が最初に内心で思った感情には。
 驚きよりも、ひどく純度の高い感悦めいたものが色濃い。
「海堂」
「………………」
 少し屈んで顔を近づけるようにして伺うと、この近い距離感に慣れないのか、海堂が黙ったまま息を詰める。
 脅かしたい訳では無論ない。
 乾は半分に折ったプリンタ用紙を数枚、海堂に手渡して視線をはずしてやった。
「はい。これに雨の日用のメニューもついてるから」
「……乾先輩?」
「無茶はしない。判ったか?」
「………………」
 口調は変えなかったが、乾の最後の言葉に、海堂は頷いた。
 こくりと、その所作を。
 視界の端に捉えた乾は、率直に思ってしまった。
 かわいい。
 何だろう、この後輩は。
「ありがとうございました」
 低い声で言い、頭を下げる。
 バンダナを巻いていない黒髪は、その動きでさらりと動いた。
「また放課後な」
 乾の言葉に、海堂は目礼をして背を向けた。
 乾は海堂の後姿を窓辺に寄りかかったまま見送った。
「………………」
 乾は顎に手をやって。
 パンセ。
 物思う。
 自分の心情を。
「………………」
 何だろう、あの後輩は。
「…構いたい。…可愛がりたい」
 突き詰めてみて、今、乾の心中にあるのは。
 多分そのどちらかの言葉が近いと結論づける。 
 小さく呟いてみる事で納得しながらも、乾はふと、微かに笑いもした。
 何だろう、あの後輩は。
 そして。
 何だろう、今の自分は。


 物思う。
 物思う。
 今しばらくは物思う。
 そろそろ限界だろう。
 本人が気づいていないけれど、海堂は判ってしまって手を伸ばす。
「先輩」
 オーバーワークです、と続けた言葉は。
 五回に四回は乾が海堂に向けて言う言葉だが、五回に一回は海堂が乾に向けて言う言葉だ。
「海堂?」
「………………」
 不思議そうな顔をする乾に溜息をつき、海堂は首を左右に振った。
 乾の部屋、何時間データに没頭しているつもりなのか、この男は。
 集中力の継続時間について、ついこの間は海堂を窘め諭した本人が今日はこれだ。
「………………」
 ペンは没収。
 ノートは勝手に閉じた。
 デジタル機器は電源を落とし、あからさまに物足りなさそうな顔をする乾の前で、海堂はお互いの距離を縮める。
 物足りなさを訴える両腕で、それなら自分を抱き締めろと近づいた。
「………海堂」
「………………」
 触ってみて、確かめる言い方に、そうだと返す代わりに海堂はじっとしていた。
 背中に乾の手のひらが宛がわれる。
 いつまでもいつまでも無機質な物体ばかり触っていた乾の手は、生命の感触に麻痺したかのようにぎこちない。
 それでもゆっくり海堂の背筋を撫で擦るように動く所作はたどたどしくも優しい。
「海堂」
「はい」
 噛み締めるように名前を呼ばれた。
 これはもう、しっかり認識している声だ。
 海堂が頷くと、密着感が増した。
 ぐっと背中を抱き寄せられ、海堂の身体は乾の胸元で薄くなる。
 一所に夢中になって、周囲が見えなくなってしまう似た者同士の自分達だ。
 海堂もよく乾にトレーニングのオーバーワークを窘められるが、乾のデスクワークも相当に基準外だ。
 海堂が止めなければ何時までも何時までも乾は没頭していて、限度ぎりぎりの睡眠時間や食事で毎日をまかなってしまう。
「海堂」
「………………」
「もう少し」
「……先輩?」
 もう少し何だと海堂が聞き返せないまま、長い腕は一層強く海堂を抱きこんでくる。
 いっそ苦しいくらいに強くだ。
「……何っすか…先輩」
 ぽつんと海堂が低く口にすると、乾は唸るような声を出した後、海堂と同じような言い方をした。
 低く、端的に。
「わかんない」
 そんな乾らしくもない子供っぽい言い方が。
 可愛いように思えてならない。
 こんなにも強い腕で抱き寄せてくるのに、甘えるように顔を伏せてもくる。
「先輩」
 海堂は、そんな乾の奇妙なアンバランスさに、闇雲な安堵感を覚える事があった。
 人付き合いに器用なようでいて、自己管理に長けていて、でも乾はまるで海堂のように誰にも見せないバランスの悪さ、そして脆さを持っている。
「嘘だよ。判ってる」
「………………」
 好きだ、と言う。
 だからもう少し、と言う。
 抱き締められる力が増す。
 こうしていたがる腕。
 乞うのか、請うのか。
 乾は海堂を抱き締めて、ゆるゆると溶解していく。
 戻ってくる。
 何かから、何処かから。
 乾はいつもこうして、海堂を抱き締めて、漸く。
「温かいな、お前、身体」
「………………」
 簡単にいつでも冷えてしまっている乾の手が、ゆっくりと海堂の体温で温まっていく。
 同化していく意識。
 それを体感する。
 何処かからか戻ってくる時の乾は、いつでもこうして海堂の腕の中に在る。
 抜きんでた能力を、いっそ天才という言葉が中和しようとしている。
 それが、海堂が持った不二の印象だった。
 底が見えない、事実も見えない。
 何の話の流れだったか、一緒にいた乾は生真面目に、判るよと何度も頷いた。
「天才という以外に、称する言葉がないからね、不二のテニスは。でも、そういう特殊な能力っていうのは、あまりにも強すぎると持ち主を滅ぼしかねないんだよ」
 だから強すぎて、だから枯渇してるんだ不二は、と乾は言った。
 その言葉の意味までは海堂にはよく判らなかったけれど。
 淡々とした乾の物言いに籠もる、懸念の温かさのことは今でもよく覚えている。
 ランニングを終えた海堂が、ストレッチの為に最後に立ち寄る馴染みの公園でそんな事をふと思い出したのは、そこで不二の姿を見かけたからだ。
「………………」
 公園と歩道の合間を埋めているユキヤナギに、歩道側の不二が足を止めている。
 海堂は公園内にいて、互いの間には少し距離があった。
 ユキヤナギは、やわらかな曲線を描く枝に雪の降り積もったような花を咲かせている。
 たっぷりと、零れ落ちんばかりに、白い花は開花している。
 小さな花弁のせいか、清楚な色みのせいか、あくまでも静寂な雪のように楚々とした花の合間に不二が見える。
 植物と対峙して同化するかのような無機質な印象が、乾と似ていると海堂は思った。
 不二が顔を上げる。
 撫でるように見つめられて目が合った。
「………………」
 咄嗟に海堂が目礼をすると、不二は見慣れた柔和な笑顔になった。
「海堂。自主トレかい?」
 大きな声など決して出さないのに、不二の声はあくまでもやわらかく伸びがあった。
「乾は?」
「…一人ですけど」
「じゃあそっちに行こう」
「は?…」
 そう言うと、不二は公園の中に入ってきた。
 何がじゃあなんだろうかと海堂が怪訝に思っていると、聡い年上の相手は海堂の表情で疑問を酌んだらしく、邪魔者にはなりたくないからね、と囁いてきた。
 からかわれた訳ではいようなのだが、それで海堂は、ぐっと言葉を詰まらせてしまった。
 知られているとはいえ、こういう時にどういう対応をとればいいのか。
 海堂には、まるで判らない。
 狼狽というよりも硬直でますます動けなくなる海堂の、すぐ近くまで不二がやってきて足を止めた
「………………」
 冷たい外気に、甘い匂いがふと溶ける。
 やさしい温かい香りは、不二が腕を動かしてより一層つよくなる。
「海堂、これ、ちょっと一緒に食べない?」
 軽く持ち上げた紙袋。
 海堂もよく知っている文字のロゴがプリントされている。
「タカさんがね、玉子焼き、焼いてくれたんだ。焼きたてだよ」
 甘い玉子焼きの匂い。
 ああ、と海堂は納得した。
「……おめでとうございます。誕生日」
「あれ?…ありがとう。どうして知ってるの」
「昨日乾先輩から聞いたんで…」
「ほんと乾は何から何まで」
 小さく声に出して不二が笑う。
 他にも何か言ってた?と悪戯っぽく目線で覗き込また。
「……二月二十八日生まれは、海王星により強く支配されるから…魔術的能力が強いとか…」
「乾は占い師でも生きていけそうだね」
 今度こそ本当にはっきりと笑い出した不二の言葉に、海堂も全くだと思った。
 乾の知識欲は深すぎる。
 興味のある範囲も広すぎる。
 この人はどういう大人になっていくのだろう。
 海堂はそう思い、乾は乾で。
 俺は俺のままだろうね、一生、と言っていた。
「………………」
 ふと回想に飛んだ海堂の思考を、不二の落ち着いた声がゆっくり今に戻してくる。
「タカさんちの玉子焼き美味しいよね」
「あ…、……そうっすね」
「誕生日に欲しいものある?って聞かれたから、ねだっちゃったよ。タカさんが焼いてくれるのがいいって言ったら、焼く所から見せてくれて、今僕はその帰り」
 不二が持っている紙袋を見つめてから海堂に改めてもう一度一緒に食べようよと言った。
 しかし海堂は、それなら尚更、と思った。
「海堂。あそこのベンチ行こうか」
「あの、……不二先輩」
「ん?」
「いや……それは家で食った方がいいんじゃないっすか…」
 俺まで食うのはどうかと、と控えめに告げた海堂のジャージの裾を、不二が握りこんで引張ってくる。
 海堂はその様を見下ろし焦った。
「ちょ、…」
「海堂はさ、つまみ食いって、したくならない?」  
「は?」
「玉子焼きね、焼いてるところからずーっと見ててさ。持って帰ってくる間もすごいいい匂いしててね。僕としては限界なんで、ここは先輩命令兼、誕生日プレゼントって事でつきあいなさい」
 楽しげに言う不二にそれ以上抗いようもなく、海堂は自分よりも小柄な不二に引張られて公園のベンチに座った。
 不二が膝の上で玉子焼きの経木をほどく。
 明るい黄色に焼きあがった玉子焼きから甘い出汁の香りが漂って、紙袋の中から割り箸を取り出した不二が端から一口玉子焼きを口に入れて、ふわりと笑う。
「やっぱり美味しい。………はい、海堂」
「………………」
「どうしたの、海堂?」
 小首を傾げる不二は、箸でつかまえた玉子焼きを海堂の口元にもってきて、あーん、と言っている。
 どうしたもこうしたもと海堂は固まった。
「あーん」
「………あの…不二先輩…」
「まだあったかいよ。はい、あーん」
 いや、だから、と海堂が頭の中をぐるぐるさせて強張ったままでいると、不二は微笑みながら距離を縮めてくる。
 笑っているけれど、ちょっと目が怖かった。
 上司からのお酌を断った会社員の図が咄嗟に海堂の脳裏に浮かぶ。
 ベンチで、肩が触れるくらい近くなった目上の相手から、だからといって逃げ出すわけにもいかず。
 そんな海堂の様子が、傍目には懸命に虚勢を張ってびくついているのを隠すかのように見えるらしく、不二は笑っていた。
 逃げ腰の海堂の口元に根気よく玉子焼きは翳されたまま。
 海堂は、とうとう腹をくくった。
 口をあけていくと、不二によって口の中に玉子焼きが運ばれてくる。
 玉子焼きは、ほんのりとあたたかかった。
 やさしいあまい味がした。
「どう?」
「…美味いっす」
「だよね」
 不二は自分が褒められている時よりよほど嬉しそうに微笑んで、自分と、そして海堂へと、せっせと箸を運んだ。
「や、俺はもうほんと、充分で……」
「ダーメ。癖になっちゃったよ」
「…癖?」
「そう。野良の美猫が漸く自分の手から食べ物食べてくれたみたいな感じがするなあ……こうしてると」
「の、…っ、……びね…、っ?」
 不二がいったい何を言い出したのか皆目不明のまま、しかし面食らった海堂は促されるままに不二に玉子焼きを食べさせられる。
 これのどこが誕生日プレゼントになっているのか甚だ疑問だった。
「あ、海堂」
「は…、はい?」
「占い師が来たよ。相性診断でもしてもらおうか」
 また新たな玉子焼きを不二によって運ばれた海堂が、箸の先を口に入れたまま目線をやると。
 そこにはユキヤナギ。
 風が吹いたのか舞ってばらけて散る花弁の中、実際は勢いよく走ってくる事で花弁を散らした男が猛スピードで海堂と不二の前に現れた。
 結構必死な形相に玉子焼きを口に入れたまま海堂が驚いていると、肩先に白い小花を纏わせた男、乾は頬を引き攣らせてベンチに並ぶ海堂と不二を見下ろしてくる。
「誕生日おめでとう、不二。それで聞くがこれはどういう状況だ?」
「どうもありがとう、乾。僕と海堂の相性診断でもしてもらおうかって話をしてた所だよ」
「………………」
 ごくん、と玉子焼きを飲み込んだ海堂は、二人の上級生の様子を代わる代わる見やる。
 乾も不二も見目は淡々と、淀みなく会話を始めて、言葉が一時も止まない。
「乾、公共の花を散らしすぎだよ」
「ユキヤナギの花は散りやすくて、葉はしおれやすいものだ」
「ついでに確かバラ科だよね。あの花」
「そうだ。バラ科だ」
「玉子焼きはタカさんが焼いてくれたんだよ」
「美味そうだな」
「乾も食べる? 箸はこれしかないから乾は手でいいよ」
「どうして俺は箸じゃないんだ」
「さあ…?」
 決して険悪というわけではないが、これはどうにも居たたまれない。
 固まる海堂を他所に会話を続けた上級生達だったが、海堂の態度に出ない倉皇さに気づいたせいなのか、時期にやりとりが収まっていく。
 残りの玉子焼きを経木で包みなおして紙袋に入れた不二が、立ち上がる。
「それじゃ、僕はそろそろ帰ろうかな」
 海堂ありがとうねと不二に言われたものの、海堂は何に対して礼を言われたのか判らなかった。
 寧ろ礼を言うのは自分ではないだろうかとベンチから腰を浮かせかけたところで、いきなり不二のいた場所に乾が座って腕を引かれてしまう。
「乾先輩?」
「そんなすぐ帰らなくてもいいだろう?」
「や、…帰ろうとしたわけじゃ…」
 距離が。
 距離が近い。
 不二の時とは違う狼狽に海堂が怯んでいると、また笑った不二が、手を振って公園から出ていった。
 結局は気心知れた者同士らしく、乾と不二は笑って別れていく。
 しかしその間も何故か、乾は海堂の腕を掴んだままだった。
「あの、…乾先輩」
 そして、不二がユキヤナギの花の向こう側に消えていなくなると。
 今度は腕を掴まれたまま、海堂の肩口に乾の頭が凭れかかってくる。
 乾の唇から溜息が零れる。
「ああよかった。返してもらえないかと思った」
「………あんた…何言ってんですか」
 自分の肩口にいる乾を見下ろして呆れた海堂だったが、乾の言い方が、あまりに生真面目で、子供っぽくて、要するに何だかかわいかったものだから。
 徐々に口元に苦笑が滲んでくる。
「だって海堂、俺は昨今ないくらい驚いたぞ」
「………………」
 からかうでも怒るでもなく、しみじみ言われてしまうと確かにそれも当然かもしれないと海堂は思った。
 不二に、玉子焼きを食べさせて貰っていた訳だから。
 公園のベンチで。
「ちょっと羨ましいなあ、あれ」
「……あんた、どっちの目線で言ってんですか」
「どっちも楽しそうだけど、強いて言うなら海堂に食べさせる方かな」
 互いの身体の合間で。
 ベンチの上で。
 手のひらが合わさって、指が一本ずつ絡んでいって、手をつなぐ。
 こっそりと。
 しっかりと。
「…部屋の中とかでなら、別にいいですけど」
「不二とは公の場所だったのに?」
「………俺の方問題なんで」
 焦るのと、恥ずかしいのとは違う。
 戸惑うのと、面映いのとが違うように。
 どうせそんな違いの事など乾は気づいているくせに。
 海堂は思ったが、乾は相変わらず海堂に密着したまま憂いたっぷりに呟いた。
「河村の玉子焼きかぁ……海堂じゃなかったら、絶対誰にも食べさせてないだろうな、不二は」
「……そんな事あるわけないでしょうが」
「あるって。俺には箸も使わせないんだぞ」
「あんた結局玉子焼きが食べたかったってだけの話っすか…」
「いや、玉子焼きの味は、今海堂にキスすれば判る話だからいいんだけど」
「な、………っよくねえ…!」
 やんなよ!と飛びのきかけた海堂を、繋いだ手で押しとどめて。
 乾はまるで魔法のように、海堂の唇をキスで掠めとってきた。
「…っ………」
 笑って、甘えて、尚抱き締めてくる乾の腕から。
 とうとう海堂は飛び出した。
「あ…逃げられた」
 向かう先はユキヤナギの向こう側。
 最後に聞こえた乾の声。
「………………」
 乾の腕から逃れる事は、実際問題こうして結構簡単で。
 だからこそ海堂は、それが難しくて、毎回苦労するのだ。
 逃がし方も巧い相手の、心地いい腕の中から。
 毎回逃げる方だって、いろいろ辛いのだ。
 本当はそのままでいたい時だって、逃げないといけない事もあるからだ。


 黒髪に白い小花を散らばせてユキヤナギを走り抜けた海堂は、さながら憂鬱な黒猫の如く。
 突拍子も無い話題転換は乾の専売特許だと海堂は思っている。
 無論乾の中では考えの流れがあっての言葉なのだろうけれど、乾はその流れというものを殆ど表面化させないので、海堂からするとさっぱり判らないのだ。
「心中ってさ、どうなんだろうね、あれは」
 抑揚のない物言いで結構とんでもない事を言っている年上の男を海堂は胡乱に見据えた。
 海堂の日課の夜のランニングに、いい加減身体がなまるからつき合わせてと言って同行した乾は、エスカレーター式の青春学園の三年生とはいえ、いわゆる受験生という身の上だ。
「…………したいんですか」
 乾ならば余裕だとばかり思っていたが、ひょっとして受験ストレスってやつだろうかと、海堂は出来るだけ慎重に問いかける。
 うまくない聞き方だとは思ったが仕方が無い。
 海堂は大概こういう事は苦手なのだ。
 走りこみながら話をすると、やはり息が少し乱れる。
 暗がりの中で互いの息が白く濃くなって見えた。
「いや」
 乾は海堂の生真面目な反応がおかしかったのか、笑って首を振った。
「それはない。……もし仮に俺がそんな事言ったら、海堂、即座に俺に愛想つかしそうだし」
「その前に二~三発殴るかもしんねえ……」
「男前だ」
「そういう問題じゃねえよ」
 本当に大丈夫なんだろうかと海堂はこっそりと乾を伺い見た。
 走りながらでも判った事が一つ。
 上背がある彼を見やる目線にまた角度がついてしまった気がする。
 部活を引退してからも、乾の身長はまだ伸びているのかもしれない。
「心配しないでいいよ、海堂」
「……すんなって方が無理でしょうが。そんな話して」
「ごめん」
 乾の笑い顔は明るかったので内心でほっとしながら。
 海堂は、悪態をつかずにはいられなかった。
 心配になって当たり前だ。
 こんな。
「悪かったって、海堂。ゴメンナサイ」
 笑いながら謝られたってなと海堂が目線で訴えてやっても乾の表情は変わらなかった。
「今日って、心中禁止令の発布の日なんだよ。知ってたか、海堂」
「……徳川吉宗のですか」
「そう。さすが」
 肩を並べて、走る。
 随分久しぶりで、でも何の違和感もない。
「一七二三年。心中をしたものは大罪。生き残っても死罪。心中って言葉を使うのも禁止したってやつだね」
「はあ……」
「どうなんだろうね、あれは。心中って」
 乾の言葉がまた繰り返される。
 相変わらず乾の考えている事は海堂には判らなかったけれど。
「死ぬほど好きとか、好きすぎて死にそう、とかなら判るんだけどね。海堂がいるから」
「………………」
 またとんでもないというか、どうしようもないというか。
 海堂が、ここから乾を振り切って走って帰りたくなるような事を平気で言い出した男に、海堂は相槌もうてない。
 乾はお構い無しに話を続ける。
「好きだから死んでしまおうとか、もう死ぬしかない好きだとか、そういうのも同じ感情なのかな、と」
 教科書眺めながら考えた訳だよと乾が言う。
「あんたな……」
 長く沈黙した後、海堂は呆れた。
 余計なお世話を承知で、ちゃんと普通に勉強しろよという言葉が喉まで出かかる。
 しかしそれを口にしなかったのは、それよりもっと言っておきたい事があったからだ。
「俺は、そういうのは好きじゃねえ」
 第一、と海堂は走りながらまっすぐ前を見て言った。
「そんな風にしねえよ、絶対」
 乾の事が好きで、その事がこれから先。
 どういう現実と絡むのかは、海堂にはまだ判らない。
 けれど、少なくともそんな風に、好きだから死んでしまおうだとか、もう死ぬしかないとか、そんな風にはならない。
 ならないと、海堂が決めた。
 乾の視線を感じたが、海堂は前を見て走り続けた。
「俺は、拘り方とか、のめりこみ方とかが激しいだろう?」
「俺のがしつこいっすよ」
「ディープな所まで、つい考える」
「俺はそういう事が苦手なんで、先輩がその分深く考えてくれていいです」
 冷たい夜気のなか走る。
 不思議と寒さは感じない。
「勿論心中なんかは望まないけど、どっか似たような事なのかもしれない。俺が考えてるのは」
「明らかにやばかったら反論するんで」
 好きにしていいと海堂が初めて視線を乾へと向ける。
 乾は夜空を見ていて、そして、たぶん海堂が見えていないものも見ている。
「………………」
 乾の内面は複雑だ。
 緻密にデータ収集したがるのは、いつもどこか、なにか足りないのだと訴えているようにも見えた。
 人に興味がなかったら、データなど集められない。
 でもそれでいてどこか人と距離を置こうとする所もある。
 強くて危うくて、乾のそういう所に海堂は共鳴する。
 自分達は所々似ていて、同じ物が欠けていたり、過剰に余ったりしている。
 全てがきっちりと噛み合ったりはしていないからこそ、離れたくないのだ。
「………………」
 乾の視線がふわりと海堂に降りてくる。
「末永くよろしく」
 笑う乾の物言いは淡々としていて、どこか冗談のようにも聞こえるけれど。
 了解、と真摯に呟いて海堂はピッチを上げた。
 走る、走る、スピードを上げて。
 逃げているのではない、進んでいるのだ。
 早く、早く、今よりももっと、もっと先にまで。
 行くために。
 進むために。
 先に立つのは、その時先に立てる方でいい。
 その時早く、走れる方でいい。
 走りながらお互いの指先が繋がる。
 くいとどめる為ではなく、引きずり寄せる為でもなく、どこかで確かに触れたくて繋がる。
 一瞬で、充分だ。
アーカイブ
ブログ内検索
バーコード
カウンター
アクセス解析
忍者ブログ [PR]