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How did you feel at your first kiss?
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 閉じている瞼に光が見えた、そんな気がして。
 海堂は眠気に思い瞼を引き上げていく。
 暗い部屋の中。
 眠い視界にやけにくっきりと海堂の目に映った乾の背中。
 座っていても長身と判る身体のラインから滲んでいるのは、乾が対面しているパソコンのディスプレイ光だ。
 海堂は暫くベッドに横向きに寝たまま乾の背を見つめていた。
 はめたままだった腕時計を、音のしないように毛布の中から引き上げて時間を見れば溜息が零れる。
「…………いい加減休んだらどうなんですか」
「あ、ごめん。眩しかったか」
 低い小声は、そのうえ掠れてもいたのに。
 乾は即座に海堂を振り返ってきた。
 背中の筋肉がシャツ越しに滑らかに隆起するのが見てとれる。
「…………俺の話じゃない」
「ん…?…」
 いいからほら、と海堂は寝ていた寝具の空いたスペースを手の甲で軽く叩く。
 海堂は泊まりに来た身で、これでは誰の為のベッドだが判ったものではない。
 しかし乾はやけに嬉しそうに近づいてきた。
「………………」
 海堂は上掛けの端を軽く持ち上げる。
 更に乾が笑うから、何だか恥ずかしい事でもしているみたいな気にさせられて。
 海堂は目つきもきつく乾を睨み上げた。
 ベッドに寝そべったまま乾を見上げる。
 見慣れぬ角度だ。
 襟ぐりの広いシャツから見える骨ばった鎖骨から首へのラインがやけに雄めいて見えるのは、少し前にそこに両手で縋りついた感触がまだ海堂の手のひらに生々しい所為だ。
「………………」
 足の狭間を口腔に長いこと捕らわれて、肩を押し返していたのは束の間で。
 最後はもう泣き声を噛み殺しながら乾の髪や首の裏側に指先を沈ませていた。
 実際には目にしていない筈の、嚥下した時の喉の動きを考えさせるような乾の首筋を見上げて海堂は唇を噛んだ。
「………………」
 毛布の端を引き上げていた手を下ろしてしまうのとほぼ同時に、するりと乾が毛布にもぐりこんできた。
 眼鏡を手探りでベッドヘッドに置くのを待って、海堂は憮然と言った。
「………あんたいつもこんなことしてんのか」
「いつもとまではいかないよ」
「人がいて落ち着かないとかなら言えばいい……」
「何言ってるんだ」
 低い低い笑い声はほんの少し気だるげで。
 疲れているのかと思えば、海堂の手は自然と乾に向かって伸びる。
 無意識に髪を撫でつけるようにして触れていると、乾は海堂の胸元に顔を伏せてきた。
「……葉末君にもしてあげた?」
「たまにですけど。……あいつ具合悪い時は一緒に寝たがったから」
「いいなあ……海堂がお兄ちゃんか」
「何言ってんっすか。先輩」
 実際の弟よりも数段に甘ったれた所作で乾は海堂の胸元にもぐりこむようにしてくる。
 けれども海堂の腰に回されてきた長い腕に、家族の気配や子供の仕草はまるで滲まない。
「……いー…匂い…」
「…、……せんぱ……、…」
 胸元から首筋に、味わうような唇が寄せられ滑ってくる。
 慈しまれながら楽しまれているように、本当に何かの匂いがするのかどうかは海堂には判らない。
 ただ海堂には、普段とは少し違って、ベッドの中ではあっても、自分に擦り寄って肌と肌を密着させてくる年上の男が、本当に心地良さそうな吐息を零すのに煽られた。
「海堂抱っこしてるとよく眠れるんだよな……」
 臆面もない言葉に、馬鹿言ってんじゃねえと海堂が言えば言ったで。
「海堂に叱れると気持ち良い。すっきりする」
 海堂の胸元で乾が笑うから。
「いいからもう寝ろ! 先輩」
「……ああ」
 怒鳴りつけて、乾の頭を枕に押し付けてやったのに。


 翌朝海堂が目覚めると、恋人はちゃっかりと。
 海堂を抱き締めながら、海堂の胸元におさまっていた。
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 花がある時には葉がなくて、葉がある時には花がない。
 決して出会う事がない花と葉は、しかし一本の茎を共有して生きている。


 日が落ちるのが早くなった。
 夜の色が濃くなった。
 肌を焼くようだった夏の空気はもはや跡形も無い。
 いつものように走っていても、どこか追い立てられるような気持ちになった。
 早くなった夜の訪れに。
 深くなった秋の気配に。
 冷たさを孕んだ外気に。
 近頃の、季節の移り変わりを感じて、それを振り切ってしまいたいような思いが何故胸を巣食うのか。
 海堂には判らない。
「………海堂……ペースあげすぎだ」
「………………」
 低い声と一緒に、背後から手首を取られて止められる。
 言葉だけでは聞き分けない子供を止めるような仕草だと思う。
 それでも別段腹はたたない。
 乾のする事だ。
 それだけで無条件に海堂には受け入れる事が出来る、どこか魔法じみた効力が乾にはある。
 馴染んだ自主トレを共にする時間の最後の走りこみで、言われてみれば確かにペースを上げすぎていたと、海堂はゆっくりと足を止めた。
 海堂の少し後ろを走っていた乾も、そのまま足を止める。
 海堂の手首は、乾の手に捉えられたままだった。
「………………」
 少しだけ乱れている程度の息使いは、冷えてきた夜の空気に容易く溶ける。
 鎮められ、静められる。
 海堂の手首だけが、拘束の器具のように乾に捉まえられていて、放熱するように熱かった。
「花が…咲いてるな」
 唐突な乾の言葉、抑揚のない声に様々な感情を灯している乾の声音が海堂に沁みて来る。
 声で刺激されるような曖昧でいながらも強い印象で。
 海堂が目線を向ければ、燃えるような色の花がある。
 繊細で屈強な、緋色の彼岸花が咲いている。
 乾が花の側へと歩き出したので、自然と海堂もその後に続く事になる。
「彼岸花は、花がある時には葉がなくて、葉がある時には花がないんだ」
「………………」
「決して出会う事がない花と葉は、だけど一本の茎を共有して生きている」
 本来であれば群生する彼岸花は、誰かが分けて植えつけたのか、ほんのひとかたまり、道端に咲いていた。
 同じ茎を持ちながら、決して花と葉が共に有る事はないという彼岸花は、今は花のみで形成されている。
 そんな花はつまり、何かにひどく似通っていないだろうか。
 海堂の抱いた思いに、乾の声音は低く浸透してきて、響いた。
「………海堂」
 笑み交じりの呼びかけに、海堂は顔を上げて乾を見上げた。
「俺達みたいだなんて俺は考えてないぞ」
「…………別に……んなこと言ってねえ」
「花は葉を思い、葉は花を思う。彼岸花はそう言われているから、そういう所はなぞらえてもいいと思うけどね」
 自分達に、と海堂の手首を握る手に力を込めた乾に。
 海堂は気づかされてしまった。
 変化することへの、困惑。
 共にテニスをする事、部活で一緒にいた時間、いつの間にか当然の事になっていた一緒の二人で自主トレ。
 そういうものが、秋の訪れと共に移ろっていくこと。
 変わっていくこと。
 彼岸花の茎のように、確かに乾と海堂とで共有しているものはある。
 思いの軸がある。
 しかし、部活を引退し来年には高等部に上がる乾と、中等部にいる海堂とでは。
 花がある時には葉がなくて葉がある時には花がない、そんな彼岸花のようになるかもしれない現実は確かに未来にあるのだ。
「なあ、海堂」
「………………」
「俺は海堂を思うし、海堂は俺を思う」
 だからこの先、環境が変わっても。
 何も不安にならないようにと、乾は少しだけ海堂をからかって諭すような言い方をした。
 しかし、そうやって物言いを明るく緩めても、手首を握りこむ指の強さに乾の強い気持ちは伝わってきて。
 海堂は、ふと詰めていた息をふわりとほどいた。
「…………あんた…最近」
「ん?」
「………………」
「ああ……言葉を惜しまない事にしただけ」
 海堂の沈黙の中から正確にその意図を汲んだ乾は、恐らく海堂が漠然と抱えた不安にも気づいているのだろう。
 部活を引退した後も自主トレはずっと一緒に続けられていて。
 海堂の感情に細やかに気を配り、それまでよりも随分とストレートな物言いをするようになった。
「海堂がうんざりするくらい言っておこうと思ってね」
 これまでと環境が変わっても。
 何も不安にならないように。
 そう繰り返し、乾は海堂の手を引いた。
 今度は、乾の胸元に。
「………………」
「部活も引退しちゃったからね。海堂に本腰入れようかと」
「………普通それは、受験勉強を言うんじゃないんすか」
 正面から、そっと抱き寄せられるのに逆らわず。
 背中に宛がわれた乾の手のひらの感触に海堂は一瞬目を閉じる。
「海堂の事の方が難しいし、俺の一生がかかってるって感じなんだよね」
「…………真面目に言うな」
「真面目なんだよ」
「…………………」
 乾の胸元に軽く顔を伏せて、思わず海堂は赤くなった。
 本当に乾が真面目なものだから。
 どういう言い草かと、呆れる言葉も羞恥にとけて消える。
「お前を、もっと俺のものしたいんだ。俺は」
 怖いくらいの真剣な欲をぶつけられて、身体が揺らぎそうになる。
 呟くような言い方なのに。
 聞いたこともないような声で乾は海堂にそう言った。
 海堂は乾に背中を抱かれたまま。
 自分からももう少し乾へと近づいた。
 言葉が気持ちに追いつかなくて、海堂に出来るのは動物めいた衝動での接触しかない。
「…………………」
 乾の喉元。
 喉仏に口付けて、小さな動きを唇に感じ取りながら、海堂は腕を伸ばした。
 感触だけを頼りに、手探りで、乾の眼鏡を外し、その目元を手のひらで覆い、爪先立った。
 下から、かぶりつくように。
 乾の唇をキスで塞ぐ。
 乾が言葉を惜しまないと言うのなら、海堂は苦手な言葉の分だけ行動で返していこうと思う。
 花は葉を思い、葉は花を思う、片時も忘れえない、そうして艶やかに咲く彼岸花のように、自分達も咲くならば。
「…………………」
 乾は海堂に目を塞がれたまま、海堂の背筋を抱く手に力を込めてきた。
 絡み合った舌と舌とが、お互いを繋げる。
 花と葉という個々の思いをそれぞれ生み出す茎のように、キスを結んだ。


 繊細で屈強な、緋色の彼岸花が咲いている。
 赤い舌と舌とが絡んで、花のように濡れた。
 三人で結託した時の彼らは最強だ。
 越前、菊丸、不二、彼ら三人の力が最大に発揮される時、恰好の対象となってしまうのが海堂だった。
「海堂先輩って、休み明けだと雰囲気変わるよね」
「………あ?」
「うんうん。休み明けは、一際美人さんだにゃー」
「…………は?」
「そのあたりの秘訣なんかを是非教えて欲しいな」
「…………………」
 朝から、件の三人に取り囲まれ捕まってしまった海堂は、怪訝な顔をしたり唖然となったり困惑を深めたりと忙しい。
 海堂のそんな表情は、さして付き合いがなければ恐らくは全く汲めないものなのだろうが、ここにいる三人には面白い程の変わりようだ。
「おい……お前達」
 海堂の隣に並んで一緒に登校してきた乾は、彼らに提言し、溜息をつく。
 近頃頓に、この三人による、こういった類のからかいが多いのだ。
 乾と海堂が一緒にいたりするともう。
 どこからともなく連れ立って現れては、あれこれとかまをかけてきたり、構ってきたりする。
 乾を突っついても面白くないと言ったのは確か菊丸で、その言葉通り彼らの目的は、恋人同士となった乾と海堂をからかいたい、それだけらしい。
 故に、乾は反応がつまらないとかで、専らその対象は海堂に絞られている。
 基本的に不二と菊丸は海堂に目をかけ可愛がっているようだし、越前も口調の割りに実は海堂にはちょっかい出しつつ懐いているようなので。
 例えばからかう事で海堂を傷つけるのではないかという心配はしていない乾なのだが、何分乾のようには彼らをあしらえない海堂である。
 あまり度が過ぎると、後々大変なのは乾なのだ。
 三人には強く返せない海堂も、その分乾には手厳しい。
「お前達な、毎度毎度そう海堂に無闇に構うな」
「うるさいよ! 乾バイバイ!」
「………英二。まずは普通、今はおはようだろう」
「お疲れーっす」
「………越前…お前な」
「それで海堂は、連休も、この過保護男とずっと一緒だったのかな?」
 菊丸と越前に邪険にされるくらい何でもないと思えてしまう。
 不二が、柔らかな微笑と共に海堂の横にぴったりとついたのを見て、乾はがっくりと肩を落とした。
 これでもう海堂には近づけない。
 とりあえず俺に海堂を返してくれと乾は思うのだが、不二に引き続いて菊丸と越前にも周囲を固められてしまった海堂には、乾は全く近寄れなくなった。
 見当外れのからかいならばまだしも、実際連休中は殆ど一緒にいた乾と海堂である。
 普段ではちょっと出来ないような、時間とかやり方とかで、睦んでいたのもまた事実。
 それ故に、隠し切れない海堂の狼狽は普段よりも色濃くて。
 恰好の餌食にされてしまっている。
「………勘弁してくれよ」
 三人にあれこれとからかわれて海堂は。
 唇を引き結んでいるものの、きつめの目元がうっすらと赤い。
 これは後々自分が責められるなと予測して、乾は最後尾を歩くのだった。


 朝練が始まってしまえばさすがに菊丸達も海堂から離れて、漸くというか代わりにというか、今度は乾が、一緒にストレッチをすべく海堂の横に立った。
「……………先輩」
「……うん?」
 案の定、海堂は乾を睨み上げてきたけれど。
 先ほどの事は手助け無しに傍観者を決めこんでいたわけでもないし、ましてや恰好のからかいネタになるような、例えば見える所にキスマークを残すとか、そういう事をした覚えもないので。
 八つ当たりに近いものだろうと踏んで、小さく笑んで海堂を見返した乾に。
 海堂はいきなり手を伸ばしてきた。
 乾の眼鏡を強引に外す。
「か、……?…」
「………ずるいだろ。あんたばっかり」
 乾から奪い取った眼鏡を手に握り込んで海堂は毒づいた。
「眼鏡に表情隠れてて。俺ばっかりからかわれて。あんたの目だって、眼鏡外せば考えてる事まるわかりな………、って…何で赤くなるんですか」
 きつい目をして言い募っていた海堂が、呆気にとられたような顔をする。
 乾はといえば、海堂の指摘通りの状態で。
 口元を手のひらで覆って、呻くような声で言いよどんでしまう。
「やー……だってさ…」
「……………」
「スイッチが入るだろ……」
「………スイッチ?」
「お前がそうやって俺の眼鏡外したら……なんかもうパブロフの犬で」
 海堂に触れると、すぐに。
 乾は眼鏡を外す事すらも億劫になってしまう。
 眼鏡をかけたままでも無論特には支障はないものの、キスの時だけは、その距離だけ。
 まだ近づける事を知っているから、海堂が手を伸ばして乾の眼鏡を外す。
 まずキスからだから。
 まず眼鏡を外す所からだから。
 すっかり慣習化した行動に、スイッチを入れられてしまう。
「………、……」
 乾の言っている意味が判ったらしく、海堂が言葉を詰まらせ赤くなったが、この時ばかりは海堂の比ではない状態の乾が、呻いて固まって赤くなっている。
 向かい合ったまま、そんな状態からなかなか脱出出来ない彼らであったが、手塚の一喝で漸くストレッチを始める。
 しかし、ちょっと手が触れては赤くなってみたりするものだから。
 その突然のぎこちなさには、あまりに甘ったるく気恥ずかしくて、最強三人組ですらも見て見ぬふりが精一杯なのだった。
 八月後半の朝夕と、少しずつ涼しげな風が吹くようになっていたのだが、九月になった日である今日、天気は朝から猛暑再びというような気温になった。
 午前中から三十度を軽く越え、この日行われた始業式では貧血を起こした数名の女生徒が倒れる事となった。
「で! その子が倒れこむ前に、絶妙なタイミングで受け止めて! 軽々お姫様抱っこで、保健室まで運んでいったわけよ!」
「へえ…流石っすねえ。乾先輩」
「だろぉ?」
 始業式を終えて各教室へと戻っていく中で学年が入り混じり、階段で顔を合わせた菊丸と桃城が、大声でそんな話をしているので。
 内容が、意識せずとも海堂の耳に全部届いてくる。
「でも周りがさ、いっくら冷やかしても乾は平然としちゃっててさー。つまんなかったにゃー」
「確かに乾先輩って、そういう局面で動じなさそうっすね……」
「桃と似てんね」
「そうっすか? 何でしたら英二先輩、俺が教室まで運びましょうか?」
「うわっ、…って言って、ほんとに持ち上げんなってば……!」
 背後で繰り広げられている二人の様子は振り返るまでもなく判って、海堂は呆れ交じりの溜息をつきながら階段を上っていく。
 ぽん、と気安くも丁寧な仕草で背中を軽く叩かれたのはその時だ。
「………不二先輩」
「やあ海堂。おはよう」
 海堂が目礼で挨拶を返すと、不二は柔らかく笑って海堂と肩を並べた。
 二年の教室が三階、三年の教室が四階になるので、何かの話をする程の時間はない。
 黙々と階段を上る海堂を、不二はじっと見つめてくる。
「…………何っすか…?」
「ん? 海堂が今なに考えてるかなーと思って」
「菊丸先輩と桃城の話を聞いてって意味ですか」
「直球だなあ。海堂」
 不二が何だか楽しげに笑ったので、海堂は小さく溜息をつく。
 そんな海堂を見た不二がまた笑い、そうやって笑みと溜息は相乗効果で深められていくようだった。
「……別に何とも思ってないんですけど」
「乾が女の子をお姫様抱っこしたくらいじゃ、海堂は別に気にならない?」
「比べる事じゃないですから」
 虚勢でもなんでもなく、海堂はそう口にした。
 乾が女生徒を抱き上げて運んだり、それを冷やかされたりした事を、海堂が気にやむ筋合いは何もない。
「倒れた人間を放っておく方が、人としてどうかと思うんで」
「海堂、かっこいいね」
 低く言った海堂に反して、不二の言葉は澄んだ声音で予想外に耳通りが良かった。
 不二がそう言い放った瞬間、人混みであふれている階段は一瞬沈黙し、その後にどよめきが走った。
 その気配を感じ取りつつ怪訝にそんな周囲の意味合いを図りかねる海堂に、不二は尚も言った。
「海堂の、かっこよくて、綺麗なところ、僕はすごく好きだなあ」
 軽く笑みも交ぜて、じゃあね、と不二は海堂を追い越し四階へと上っていった。
 三階と四階の合間の踊り場で、はあ、と海堂は眉根を寄せる。
 何であんなに楽しそうなんだろうかと不二の背中を見送った海堂は、何だか周囲の好奇な視線と潜めた会話とに気づいて、不審気に辺りを見やった。
 海堂が振り返ると、周囲の生徒達は強張ったように沈黙した。
「な、………ふ…、不二は、時々ああいう冗談でびっくりさせるなー…! なー、桃!」
「……っス…! そうっスね、英二先輩…!」
 沈黙の中、不自然な程テンションを上げた菊丸と桃城の会話にも海堂は眉を寄せ、結局そんな不可解な周囲の反応など知った事かと、さっさと自分の教室へと向かった。
 海堂の背後で桃城が、てめえの為にフォローしてやってんのにとか何とか喧嘩腰に喚いているのに、海堂はうんざり嘆息するのだった。


 新学期早々、生徒達が飛びついた噂話が二つ。
 一つは三年の乾貞治が、貧血で倒れた同じクラスの女生徒を平然とお姫様抱っこで運んで行ったと、色恋を騒ぎ立てるもの。
 もう一つは三年の不二周助が、公衆の面前で二年の海堂薫に告白らしき事を、口にしたとかしないとか。
 

 散々な冷やかしにも全く動じなかった乾が。
 後者の噂話を聞きつけて、血相変えて下級生の教室へと向かった姿を。
 見ていたのは、笑いを抑えきれない不二、ひとまず彼だけであった。
 真夏のギラギラした光の中で飛ぶ、黒い揚羽蝶の羽のように見えた。
 初めて、間近で見た、レンズで遮られない目。
 暗がりの室内だったのに思わず目が眩んだ。
「海堂?」
「……………」
 眉根を寄せるようにして瞬間目を閉じた海堂に、伺い問いかける、深い低音の呼びかけ。
 乾の声に、海堂はぎこちなく伏せた眼差しを引き上げていった。
 乾の手に掴まれている両肩が、少し痛い。
 唇は痺れて、熱くて、少し怖い。
「……………」
 お互いの身体の、初めての場所で。
 一瞬だけ重なった。
 触れ合わせた。
 唇が言葉を邪魔する。
 嫌だった訳ではないと海堂が首を左右に振ると。
 判ってくれている優しい手に立ったまま後ろ髪を撫でられて、海堂は、ほっとした。
「………先輩」
「ん……」
 ゆるい抱擁の中、吐息程度の返事にどれだけ海堂は宥められたか。
 安堵感を覚えながら、海堂も乾の胸元に額を当てた。
「あんたの目が、蝶みたいだって思っただけだ……」
 初めてのキスは、ふわりと、海堂の視界に黒揚羽蝶の羽ばたきのような光沢を落としていった。
 それが乾の見慣れぬ裸眼であった事を、海堂は唇を塞がれながら気づいた。
「蝶?」
「……黒い揚羽蝶」
 瞳の、どこまでも黒い色味の中に現れる閃光。
 すこし角度が変わると、虹色のような光沢が微かに見てとれる、微妙な移ろいに。
 海堂は目元にふわりと蝶が降り立ったかのように錯覚した。
「ラブラドール効果って知ってるか。海堂」
「……いえ…」
「黒い揚羽蝶の羽みたいにしさ、黒っぽい中で、角度によって見える光沢の事。そういう色の鉱石があるんだ」
 長い腕で海堂を軽く抱き込みながら、乾の声は、ひそめられればひそめられるほどに甘かった。
 抱き止せられるまま、海堂は。
 だからそれが乾の目の色だったのだと告げる。
「俺も、海堂見てていつも思ってた事なんだがな」
「…………先輩…?」
「髪がさ…海堂の」
 綺麗で、と乾は呟きながら、指先に海堂の髪をすくってくる。
 互いの身体が少し離れて。
 海堂は、自分の髪に触れている乾の節くれだった指を見つめた。
「真っ黒なんだが……角度によって光って」
「………………」
「夏の暑い中、目立って飛んでる綺麗な揚羽蝶みたいだって。走ってる時のお前の髪見て考えてた」
「…………あの、…なあ……っ…」
 乾のあまりに衒いのない囁きに。
 饒舌で、居たたまれないような賞賛に。
 海堂が居心地悪げに声を振り絞れば、乾は盗むように海堂の唇を再び掠め取った。
「……俺だって初めてだ。目の事そんな風に言われたの」
「………………」
 苦笑いの気配と、気恥ずかしいようなキスの接触。
 海堂は、ひっそりと狼狽を噛み締めて。
 お互い様らしい、お互いの黒を。
 抱き締めあう事と、口付けを交わす事とで、受諾する事にした。


 黒の中に宿る閃光は。
 ラブラドール効果の行き先は。
 目的に向かって確実に前進する事を表してもいる。
 いっそ彼らの為にあるような、それは架空の揚羽蝶の羽ばたき。
 距離を縮めて、近づいて、やっと、そっと、手に触れる事が出来るもの。
 くだけてシーツにくずれるしかない腰を、背後から固い腕に抱き込まれる。
 それまで海堂の腰を鷲掴みにしていた大きな手のひらが、海堂の腹部を滑って支えてくる。
 どこか慣れないようなその刺激に怯える為、海堂はきつく唇を噛み締めてシーツに顔を伏せた。
「…、ッ…、……」
「………海堂…?」
 乱れた乾の呼気が呼びかけと一緒に耳に当たって、海堂は堪えきれずに、か細い声音を喉から洩らす。
「…………く………ぅ……」
「海堂」
 少し慌てたように乾は海堂の後頭部に顔を寄せてきた。
 宥める仕草で後ろ髪を撫でられ、大丈夫かと低い声で囁かれては。
 それはもう追い討ちでしかない。
「海堂?」
 心配げな声に引きずられて。
 海堂はシーツに顔を伏せたまま、肩越しに視線だけを乾へと差し向ける。
「……ぃ………」
 名前も呼びきれないまま。
 潤みきった挙句に、ぼろぼろと零れてしまった瞳からの液体は、余韻の強さに他ならない。
 それでも海堂のそんな有様を目の当たりにしてしまった乾は、相当慌てたようだった。
「どこか辛い? 海堂?」
「………………」
 首を左右に振った海堂の所作だけでは乾は納得しなかった。
 だから海堂は自分の頬へと伸ばされてきた乾の手に顔を摺り寄せるようにした。
 涙を拭おうとしていた手が緊張でもしたかのように、びくりと跳ねる。
「……海堂?」
「手………」
「………なに?」
 顔を近づけられ、小さな声で聞かれて。
 海堂は乾の手のひらに片頬を預けて息をつく。
「……サーブ練習……どんだけやったん…ですか……」
「え?」
 骨が太くなって、筋肉が固くなって、肉刺の出来た掌、張り詰めた皮膚の強靭さ。
 高みに行き着く為のきざはしを駆け上がる最期の時には、今までにない力で拘束された。
 否が応でも海堂は体感させられる。
 乾の身体を。
 少しでも変化があれば、何もかも赤裸々に。
「悪い。どこか痛ませたか?」
 乾は海堂の言わんとしているところをすぐに悟ったようで。
 神妙な問いかけをしてきたので。
 海堂は濡れた目できつく乾を見据えた。
「……んな…ヤワじゃね……」
「いや、ヤワとかどうとかの話じゃなくてさ。海堂」
 知らぬうちに何か大事をしでかしたとでも言いたげな乾の態度に、海堂は乾の身体の下で身を捩って仰向けになった。
 多分腰の真裏には乾の指の痕がある。
 最期に、握りつぶされそうに掴まれていたあたり。
 次第に痺れるように疼く刺激がそれを海堂に知らしめているから、とりあえず今は乾の目から隠してしまった。
 海堂の言いたい事は、そんな話ではないからだ。
「………………」
 仰向けになって見上げた乾の手を、海堂は改めて正面からそっと手にとって見つめる。
 骨ばった指と、手の甲。
 指の腹も、付け根も、ひどく固い。
 乾はデータを詰める時よりも、身体を動かしている時の方が、より一層ストイックになる。
 海堂は部内でも練習量は常に一番だと言われていたが、それは目につく状況が多いというだけで、実際乾がこなしている量にはとても及んでいない。
 今まるで突然に気づいたみたいに、乾の身体から知る事がある。
 強くなった力や、強固になっていく四肢。
 だからといってそんな乾に、傷つけられたり、ついていけなくなるような自分じゃない事くらい判れと海堂は思う。
「……海堂」
「………………」
 海堂の気の済むまで、その手を預けてくれていた乾だから。
 判らない筈もない。
「俺の手だろ?」
「………当たり前のこと言うな」
 そして抱き締めてきて。
「それでお前は俺の海堂?」
「当たり前のこと何遍も言わせんな…っ!」
 笑みの交じる、低い声は優しい。
 海堂が羞恥に任せて怒鳴りつけても、穏やかで深い抱擁は緩まない。

 幸せそうな相手や、幸せな自分。
 勝つためにするべき事で、何かの変化があったとしても。
 それらは全て幸せの手の内だ。
 乾の生活形態では、寝ている時間はどれくらいあるのだろうかと海堂は常々疑問に思ってしまう。
 テニスに、データ収集に、それ以外にも乾は実に多趣味だった。
 生真面目そうな印象があるが真面目一辺倒ではなく、多岐に渡って何だかんだと造詣が深い。
 時間のやりくりだけは得意なんだよと乾は笑うが、睡眠時間などは二の次にされているのだろうと海堂は思っている。
 最近の海堂は、そんな風に、乾の事を考える瞬間が、毎日のあちこちに増えていっている。
 乾が多忙で、多趣味で、忙しそうなのは出会った頃からそうだったのに。
 今頃になってあれこれ気づいたみたいな気になるのは、有り得ないこととすら思っていたダブルスを、海堂が乾と組む事になってからの事だろうか。
「海堂、この後すこし時間あるか」
「……ッス」
「ちょっとつきあって」
 部活が終わっても、初夏のこの時期は、まだまだ外は明るいままだ。
 部の中でも最後にコートを後にして、着替えの為に部室に入ったところで乾に声をかけられた海堂は、同意の頷きを返したものの、そのまま乾に腕をとられて驚いた。
 乾は着替えを済ませていたが、海堂は当然まだジャージのままなのだ。
「あ、そうか。制服と鞄か」
「え……」
 俺が取ってくると言って、海堂のロッカーへと背中を向けた乾に海堂は面食らう。
 急ぎの用件なのだろうか。
 このままの恰好で行くのかと海堂が所帯なさげに自身の出で立ちを見下ろせば、せっかちだなあ乾はー、とハイトーンの声が海堂へとかけられる。
「菊丸先輩…」
「海堂が戻ってくるの待ってたのは判るけどー。ねえ? 着替えくらいさせろって、言っていいんだぞー? 海堂」
 同級生の中では構われる立場でいる事の多い菊丸は、下級生に対してはお兄ちゃんぶりを発揮してしきりに構ってくる方だ。
 海堂はそういう接触に元々慣れていないものだから、今もこうして背後から伸し掛かるようにしてきた菊丸に対して、微妙に畏まって固まってしまう。
「英二。海堂に乗らないの」
 やんわりと菊丸を嗜めながら場に交ざってきた不二が、乾を流し見て笑う。
「海堂といる時は、乾も何だかかわいいよね」
「……………」
「乾がか?! かわいいか?!」
 言葉の詰まった海堂と、たちどころに叫び声を上げた菊丸とを交互に見やって不二は言った。
「だって英二。僕達を誘ったり、声かけてきたりする時の、乾を考えてみなよ」
「ん?……んん………」
「……どう? 今みたいになる?」
「ならない!」
「だろう?」
 あんな風にテンション上がらないよねと上級生二人に口を揃えて言われても、海堂には乾のテンションというものがよく判らなかった。
 乾は大概落ち着き払っていて、羽目を外すような企み事も涼しい顔でしてのけるタイプだ。
「お待たせ。海堂。行こう」
 持って来た海堂の荷物を、乾は自分が持つと言って海堂には手渡さないまま部室を出ようとする。
「え、……あの、…」
「なーに遠慮してんの海堂。いいんだよ、乾に持たせればー」
 着替えもさせないで強引に連れ出されるんだからー、と菊丸が頬を膨らませる。
「乾。海堂と何処に行くの」
「内緒」
 ほら見てかわいい、と不二は乾を指差して菊丸と海堂を振り返り笑う。
「ああもう、邪魔するなよ二人とも」
「……乾先輩、……」
 海堂は二の腕を乾に取られて、半ば強制的に部室から連れ出される。
 背後を気にする間も許されないまま、走れるか?と聞かれた。
「は?……」
 面食らいつつも頷けば、するりと二の腕から乾の長い指が外れて、広い背中は海堂の先になって走り出す。
「………………」
 急いでいるみたいだけれど、慌てているのではないようだった。
 どちらかといえば楽しい事を待ちきれないみたいな気がすると海堂は思った。
 乾のテンションというものは、海堂にはよく判らないものだけれど。
 どことなく楽しげな乾の気配は判る気がして、そんな乾の背中を追って、海堂は走り出した。


 行き先もわからず走っていくのだから、海堂が見ていたのは乾の背中だけだ。
 結果として数駅分は走った事になるが、乾や海堂にしてみればたいしてきつい距離ではない。
 駅前のビルの書店に続くエスカレター前で、乾は足を止めた。
 そしてエスカレーターには乗らずに近辺をしきりに見回っている乾を、海堂は黙って見つめていた。
「あった」
「……………」
 エスカレターの上り口脇の死角、レンガの塀にそれはあったらしい。
 海堂が乾に近づくと、乾は一冊の本を翳して見せた。
 洋書のようで海堂には見ただけではそれが何の本なのか判らない。
「世界から旅してきて、ここに今はいる本だ」
 ブッククロッシングって知ってるか?と乾は海堂を促して、エスカレーターに乗った。
「読書家の為の活動体でね。サイトでマスター登録をしてBCIDナンバーを発行して、それを貼った本に世界を旅させるんだ」
「本に旅……?」
「そう。例えばこんな風にブッククロッシングの本を見つけたら、サイトに行ってBCIDナンバーを検索すると、この本がどこから来て、どういう人に読まれたのかが調べられる」
 エスカレーターを上がっていった書店のあるフロアにはネットカフェもあって、オープンエリアネットスペースで乾は実際に海堂にそのサイトを見せながら説明した。
 英語サイトだったが、好きな教科でもある海堂には興味の方が勝る。
 今乾が手にしている本は、元はカナダから旅をしてきた本だった。
「自分が本を見つけた事をサイトに書き込んで、読み終えたら好きな場所にまたこの本を置いて旅をさせてやればいい」
「……ここにあるって事はどうして判ったんですか」
「国と街を選んで、検索出来る。まだ日本にはあまり普及していないから、偶然見つけるのは難しいからね」
「ずっと探してたんですか?」
「本当は偶然出会いたかった」
「………………」
 かわいいかもしれないと。
 海堂は唐突に思った。
 真剣に、残念そうに、でもとても嬉しげな、こんな乾が。
 多分、以前なら、そういう微妙な乾の変化は海堂には汲めなかったかもしれない。
 ことテニスが絡めば自分の事だけに手一杯になってしまう海堂は、乾とでなければダブルスなど出来なかったと知っている。
 乾には、何故なのか理解されている事が多くて。
 海堂はそのどこか甘いような安堵感を初めて知ってしまった。
 そうして海堂にも少しずつ、気づけて、判る、乾の心情が見つかっていく。
「どうせ探すなら、失くしたものを探すより、欲しいものを探す方がいいっスよね……」
「………………」
「先輩?」
 呟くようにして言った海堂を、乾が強く見つめてくる。
 何か自分はおかしな事を言ったかと海堂はぎこちなく乾に呼びかける。
「海堂は…」
「………………」
「俺がお前をどれくらい好きか知ってる…?」
「………なに真面目な顔で言ってんですか」
 計測不可能だと。
 自分の理解の範疇外にまでなったと。
 完全敗北を露に見せて、乾は微笑した。
 あまりにも真っ向から言われてしまって、海堂の羞恥心は後からじわじわと込み上げてくる。
 これ以上何か言われたらとても正気を保っていられなくなりそうで。
 海堂は低い声で、話をかえた。
「その本を次に行かせる場所……決まってるんですか」
「全国大会の会場とかどう?」
「………………」
 挙句、同じ事を考えていたのだと知らしめられて。
 もう、どうしようもない。
 優勝は持って帰って。
 この本は置いて帰る。

 誰かの手で、何処かへと、運ばれていく本もあれば。
 自らの手で、此処にだけ、生まれて育む恋情もある。
 大きな笹を軽々と担いで現れた河村に、喜び勇んで飛びついたのは菊丸と桃城だった。
「タカさんナーイス!」
「すっげぇ! でかいっすねえ!」
「こんなんでよかったかなあ?」
 二人がかりの体当たりを物ともしないで温厚な返答を口にする河村に近づいていった不二が微苦笑した。
「英二も桃も。タカさんに無理言ったんじゃないの?」
「えー。言ってないにゃー!」
「そうっすよ。不二先輩。俺達が七夕の笹を探してるの見て、タカさんが好意で持ってきてくれたんっすよ!」
 そうそうと頷く河村の人の良い笑顔に不二も表情を和ませて、四人は数日後にひかえた七夕の飾りつけを始めた。
 部活の時間はもうとうに終わっていた。
 着替えをせずに何をしているのかと思ってみれば、と大石が傍らの手塚を見上げた。
「部室にそんな大きなものたてかけて………手塚、どうする?」
「竜崎先生の許可はとってあるそうだ」
「んー…それならいいんだけど」
 大石と手塚は、仕方ないというように顔をあわせて事の成り行きを見守る。
「これ何っすか。桃先輩」
「ああ? 短冊だろ短冊。何だよ越前。おまえ、七夕やったことねえの?」
「……やるって何を」
「七夕は、願い事書いた短冊をこういう笹に吊るすんだよ。そうすっとその願い事が叶うの!」
 ほらお前も書け!と桃城が越前に色とりどりの短冊の中から一枚を手渡した。
 たくさんの短冊を広げて持っていたのは菊丸だ。
「早く大きくなりますように。とかでもいいんだぜー。おっちび」
「………………」
 越前に睨まれても全くめげずに菊丸は笑い、周辺に残っている部員達に短冊を配ってまわる。
「ほい、手塚! 大石も!」
「…………………」
「あ、…ああ…」
 眉を顰める手塚にも臆す所の全く無い菊丸は、次に短冊を手渡した大石の顔を覗き込むようにして首を傾げた。
「大石。乾と海堂は?」
「……確かまだ走ってたぞ。海堂が走り足りないって言って、乾はそのお目付け役で」
「ええー! まだやってんの? あの二人」
 しょうがないなあと菊丸はふくれて、届けに行っちゃる!と短冊片手に走っていった。
 青学のムードメイカー達の賑々しさとマメさとに、感心するやら呆れるやらの青学テニス部員達は、菊丸に渡された短冊に願い事を書き、それらは桃城の手で笹に結ばれた。
 一通り取り付けると、なかなか壮観な七夕飾りになった。
「うおっ……何っすか、この梵字みたいなのは…!」
「俺だ」
「あ、…部長のっすか?」
 あまりに達筆で!と桃城が豪快に笑う。
 筆ペン片手に手塚はその注釈を延々桃城に語り出した。
「……朝食が和食。……ってこれ越前かい?」
「………ッス」
「そっか……越前は本当に和食が好きなんだなあ」
 また今度うちに食べに来いよと河村が言うのに越前は真剣な顔で必ず行きますと頷いている。
 魔方陣みたいなものから、絵馬や伝言板みたいなものまで。
 多様につり下がった短冊を皆で眺めている所に、猛烈なスピードで走って戻ってきたのは菊丸だった。
「やあ、英二。乾と海堂にも書いて貰ったのか?」
 家内安全、と短冊にしたためた大石が話しかけると、菊丸は先ほどまでよりも一層ひどい膨れっ面をしていた。
「英二?」
「もー! やだ、あの二人!」
「書きたくないとでも言われたのか」
「違う! 乾に渡したら書きかけのデータ帳の上ですぐに書いて返してきたし、海堂は俺が並走して渡したら、走りながら書いて渡してきた!」
「………まあ書いただけいいじゃないか」
 苦笑いを浮かべる大石に、菊丸は、ぷうっと頬を膨らませたまま二枚の短冊を突きつけた。
「あの二人! 別々に書かせて、これだにゃ!」
「………………」
 短冊にそれぞれ書かれていた願い事はひどく短い。

 D1

 それだけだ。
 乾の字と、海堂の字。

 そして、菊丸が心底悔しそうにしているのは。
「ダブルス1は俺らだっつーの! 大石も勿論ダブルス1って書いたよな?!」
 願い事の内容にというより。
 図らずとも同じ事を書ける、乾と海堂の息の合い方に、という事が判るから。
「え?……えっと………」
 大石は胃が痛む様な思いで、家内安全の短冊をそっと握りつぶすのだった。
 例えばそこが物凄い人ごみの雑踏の中だとか、全校集会が行われている校庭だとか、偶然相手を見つけた街中だったとして。
 そういう場で、まるで引き合うようにお互いの目が合う。
 すぐさまお互いの存在を認識する。
 いる、と思って。
 その感が外れた事がなかった。
 探すよりも先に、意思がまっすぐ疎通しているような乾と海堂に。
 それはもういっそ才能の域だと乾に言って笑ったのが、青学テニス部の天才だったという話だ。
「………不二先輩…そんなことあんたに言ったんすか」
「ああ。そう言う不二も不二で、いったいどこでどう俺達の事を見てるんだかな……」
 乾がノートにペンを走らせながら、唇の端を僅かに引き上げる。
 いつものように二人で行う自主トレも、最後の柔軟を済ませた今は、乾の今日のデータが書付られれば全てが終わる。
 首から下げたタオルでこめかみを押さえた海堂は、乾の表情に、ふと眉根を寄せた。
「……先輩?」
「ん?…ああ、ちょっと思い出してさ」
 些細な違和感。
 いったい何をと海堂が問うより先。
 乾はノートを閉じて海堂を見つめた。
「海堂、目立ってたからなあ」
「…………なんの話っすか」
「俺が初めて海堂を見た時の話」
「態度悪くてだろ……」
「いやいや。オーラがね」
 テニス強くなりたいんだなって判る綺麗な強い目立ち方、と乾は言って。
 思い返すように笑みを深める。
「………………」
 どういう表現だと海堂は絶句する。
 しかもそれに加えて乾の和らいだような表情が何とも居たたまれない。
 海堂のそんな困惑を知ってか知らずか、乾は微かに首を片側に傾け、何か自己確認するように頷いた。
「というか、輝いて見えちゃったのは、それだけじゃないかもな」
「か、………」
「所謂一目惚れだった訳だから……キラキラしていたのかもしれないな……」
「ひ、っ…、…キ、……、…」
 何を真顔で、そんな真面目な声音で、言って、そんな訳の判らない事を。
 海堂は錯乱した。
 声は詰まって言葉にならないし、頭は酸欠で何一つ碌な反応も返せない。
 あまりにも自分が関わっているとは到底思えないような言葉を立て続けに乾から放られた海堂が、乾を漸く怒鳴りつけられたのは。
 一呼吸二呼吸おいてどころの騒ぎではない。
 たっぷりと混乱し、惑いまくった挙句に、海堂は声を嗄らして叫んだ。
「………、…あ………、あんたな、!」
「何だ?」
「それだけ頭良いくせして、どうしてそういう所は、そんなに、おかしいんだよ……ッ…」
 海堂の渾身の叫びを、乾はいかにも不服そうに迎えうってきた。
「なあ、海堂? お前こそ、自分のテニスの実力や努力についてはどれも正しく認識してるのに、どうしてこういう事に関しては、そうも無自覚かな?」
 一目惚れは本当の話、と乾に真摯にきっぱりと告げられて。
 海堂はもう、どうしていいのかも判らず、ただ押し黙るしかない。
 気恥ずかしいのか、心もとないのか、きっと両方に違いない。
 そんな海堂の様子に乾が。
 またふと淡い笑みを唇に湛えた。
「……何だ、知らなかったのか? 海堂」
「…………………」
 乾はおもしろそうにそう言った。
 それはからかっているというより、純粋に思いもしない出来事に直面した時特有の笑みだったから、海堂も今度は反抗しなかった。
 無言で頷いた海堂に、乾は今度はそんなに昔ではない頃を思い返して囁いてくる。
「嬉しかったよ。メニューの事でお前に呼ばれた時は」
「…………………」
「俺としては最初から、海堂のこと構ってみたくて仕方なかったからさ」
「……そういう風には全然見えなかったですけど」
「海堂は一人で考えて、一人で何でも実行してたから、そういう俺の願望はばれないように頑張ってたんだよ」
「…………………」
「だから海堂から相談を受けたのは嬉しかったし、そこでそういうきっかけを作ったら、後はもう、俺の方から猛進って感じだっただろう?」
「…………あんたのそういう所が」
「苦手?」
「逆です」
「…ん?」
 さらりと続きを口にした乾の言葉を真っ向から否定して、海堂は言った。
「尊敬してる。…………何だよその顔」
 人との接触が苦手な自分を自覚しているだけに、海堂は、ここまで気心許せる相手を今まで知らなかった。
 乾を知り得たのは、さりげなくも熱心に、海堂との接触を持ち続けてくれた乾だったからと言って過言はない。
 別段急に思いついた訳でもない言葉を口にした海堂は、今度は乾が絶句したのを見て困惑した。
 多少の含羞を自覚しながらも、海堂は面食らったような乾を見据えた。
 乾の長い指が、大きな手のひらが、ゆっくり動いて彼の顔半分を覆う。
「いや………」
「…………………」
「…驚いて」
「………笑ってんだろ」
 ゆるむ表情をそう指摘すれば、乾は誤魔化しもせずあっさり頷いた。
「じわじわと嬉しさが」
「意味わかんねえ」
「…好きだよ? 海堂」
「他人事みたいに言ってんじゃねえ…っ」
「好きだ」
「…、…そういう声出すな…!」
「注文多い所もつくづく好きだ」
「ふざけんなっ」
 上機嫌の乾は、酔っぱらいより余程質が悪い。
 海堂は、怒鳴っても怒鳴っても、繰り返し繰り返し好きだと言ってくる乾を置いて、とうとうそこから走り出した。

 全力で。
 しかし乾に、見失われる事はないだろうという事を海堂は知っている。
 今日は一番最初に乾と顔を合わせたら、そこで言う言葉が海堂にはあった。
 その筈だったのに。
 考えるより先に海堂の口をついて出てたのは、全く関係のない言葉になってしまった。
「顔色悪いっすね……」
 陰鬱に近い悲壮な何かを噛み締めているかのような。
 そんな乾の表情に海堂は呆気にとられた。
 朝っぱらからどういう状態だと海堂は一つ年上の男を一瞬上目に見やった。
 通学路で出会ったので、自然と肩を並べて学校までの道のりを歩いていく。
 乾は重たい溜息をついて、眼鏡のフレームを指先で押し上げた。
「夢見がすこぶる悪くてね……」
「………………」
 夢ぐらいでそこまでなるかと海堂は内心で呆れた。
 口にしなかったのは、すぐに乾が話の先を続けたからだ。
「海堂にふられる夢。リアルすぎて死にそう……」
「………それくらいで死ぬなよ」
「それくらいってな。お前」
 珍しく乾の口調がさばけて荒い。
 強く見つめられて、海堂は、ぐっと息をのんだ。
「……………夢だろうが。たかが」
「夢だよ。でなけりゃこうして学校に行こうとなんかしてないよ」
 本物の海堂見るまで不安で、と複雑そうに消沈する乾の、広い肩ががっくりと落ちているのを見て海堂はとうとう乾を睨みつけた。
 何を勝手にそんな訳の判らない夢なんか見ているのかと。
 いつまでそんな自分でない自分の言葉を引きずっているのかと。
 だんだん腹がたってきて、海堂は歩く速度を早くした。
 乾を追い越し様に言い捨てる。
「そんなにそっちの俺のが良ければ、ずっと引きずってればいい」
「海堂」
 知るか、と海堂は乾を置いて学校へ向かった。
 だいたい、どうして、よりにもよって。
 今日、そんな馬鹿な夢を見るのかと。
 挙句、自分が今日一番に乾に言おうとしていた言葉まで奪って。
 全くもって何もかも苛つくばかりだ。
 そんな海堂の背後から、足早に駆け寄ってきて、あっという間に追いついてきた男が、困ったような、いとおしそうな声を出してくる。
「海堂」
 振り向くのも足を止めるのも癪だ。
 海堂はそう思ってひたすら歩き続けた。
 文句を言いながら。
 ひたすら。
「勝手に夢なんかとシンクロしてんな」
「海堂」
「俺が、あんたを、ふるわけねえだろ」
「海堂ー」
 担がれたかって疑うなり、有り得ないって笑い飛ばすなりしろ、と本気で怒って言った海堂に、とうとう乾が笑いながら背後から抱きついてきた。
「な、……っ……」
「何回惚れ直させるんだ? お前」
 海堂の耳元で、甘い低い声で囁いて。
 そのうえ頬に唇まで寄せて。
 海堂は絶句の後、絶叫した。
「……、…っざけんな……!」
「ふざけてない。嬉しいだけ」
 どこで、なにを、と錯乱しかける海堂に。
 じゃれるように尚も覆い被さってきて。
 大丈夫大丈夫と笑う乾は機嫌がよすぎる。
 朝の通学路だ。
 冗談じゃない。
 海堂は心底からそう思うのだが。
「…………………」
 でも、あまりにも目の前で、あまりにも幸せそうに、乾が笑っているので。
 ああもう今日だから、仕方が無いから、許してやる、と。
 甘い気分に巻き込まれたようになって海堂は乾を睨み据えた。
 赤い顔では何の迫力もないのは承知の上だ。
「乾先輩」
「ん?」
「……、誕生日」
「ありがとう」
「言ってねえよ! まだ!」
「最後まで聞いたら幸せすぎて死にそう」
「………それくらいで死ぬな…!」
 たっぷりと甘えてくるような乾を怒鳴りつけながら、海堂は。
 言葉の続きは、別に今日中に言えればいいのかと、ひっそり思ったりもしたのだった。
 今晩は、乾がそんな碌でもない夢などみないように。
 今日の最後に、告げたい言葉は伝えることにしたのだった。
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