How did you feel at your first kiss?
部内一身軽な最上級生は、人に飛びつくのが癖だ。
大概の相手は慣れもあるのかそうやって飛びついてくる菊丸の好きにさせている事が常だが、一人、近頃それを完璧にかわすようになった人物がいる。
同じく三年の乾だ。
「もー! 乾のヤツー!」
ぺりぺりと絆創膏の包み紙を破きながら膨れている菊丸の隣で、ダブルスのパートナーである大石は困ったように笑っていた。
「また乾に避けられて転がったのか? 英二」
「ほんと乾のヤツ最近ナマイキなんだよな!」
どれ、貼ろうか、と大石は菊丸の手から絆創膏を取った。
真新しい擦り傷は、アクロバテイックなプレイが多い菊丸にはよくあることだ。
部で用意している救急箱からこの絆創膏を取ってくる際に乾と遭遇したのだろうと大石は考えて苦笑いする。
しかし大石は敢えて何も言わず、菊丸が、こっちと言って突き出してきた頬に絆創膏を貼り付けた。
そんな大石の代わりに、思う事は同じでも、言葉にして菊丸を諫めたのはその場にいた不二だった。
「英二、乾に飛びついたら駄目だって、この間言ったよね?」
「だって不二ー」
青学のゴールデンペアの向かいで、不二は笑って菊丸をたしなめて、それに菊丸は尚一層の膨れっ面をする。
「恋路をあたたかくみまもってあげよう、ってその意味が判んない!」
「意味も何もそのまんまなんだけど…」
困ったねえ?と不二は大石に笑いかけ、大石もひどく複雑そうに笑いを返す。
そんな二人を見やって菊丸はますます頬を膨らませた。
「何で二人だけで判りあっちゃってるわけ!」
大石のばかやろう!と菊丸に捨て台詞をされた大石は、どうして俺だけばかやろうなんだと言いながら、きちんと走っていった菊丸の後を追いかけていく。
残された不二は口元に握った拳を宛がって、あっちもこっちも大変だ、と呟いた。
不二が言った、あっちだかこっちだかを現すもう片方の人物は、部室にいた。
一人、考えている。
徐に部室の扉が外側から開き、そちらに目をやって漸く、乾は表情を変えた。
誰よりも長い距離を走りこむランニングに幾分呼吸を弾ませた後輩がそこにいたからだ。
「……乾先輩?」
何してんですか、と抑揚のない声にほんの少し怪訝な気配を滲ませて海堂が声をかけてくる。
海堂はおそらく代えのバンダナとタオルを取りに来たところだろう。
乾はその場で、救急箱を片手にしたまま海堂に笑いかけた。
「何してると思う?」
「…………わかんねえから聞いてんですけど」
「それもそうだ」
憮然とした物言い、目つきの鋭い表情。
それでいて海堂は律儀に言葉を返してくるのだ。
だから乾も思うままの言葉を口にする。
「海堂の事を考えてた」
「………………」
乾の言葉に訳が判らないとあまりにも素直に表情に出して。
それでも。
海堂はまたぽつりと言葉を零す。
「……救急箱持ってですか」
「そう。救急箱持って」
右手に救急箱。
その体勢で部室で一人ぼうっとしている様は少々奇異だ。
それはわからなくもないけれど、と乾は思いながら部室のベンチに座った。
脇に救急箱を置く。
「いつもありがとうな、海堂」
「……何の事ですか」
「救急箱の整理をしてくれてるだろ? 海堂がいつも」
足りないものは補充して、期限切れのものは処分して。
当たり前のように、普段使い慣れない人間が蓋を開けても何がどこにあるのか一目瞭然になっている、いつでも整理整頓された救急箱。
さりげなく気を配っているのはいつも海堂だ。
「別に、……んな大袈裟なもんじゃ…」
戸惑って珍しく言いよどんだ海堂に、隣へ座るよう手で促せば、海堂は乾の望むままに腰を下ろしてきた。
「さっき菊丸が来たよ」
「…どこか怪我でも」
「擦り傷だよ。大丈夫」
心配しなくても平気だと目で伝えれば、些か決まり悪そうに海堂は視線を逸らせた。
ぶっきらぼうで、人と馴れ合う事が苦手で、それでいて軸にあるものはひどくやさしい人としての感情だ。
海堂の、きつい印象も、やわらかな内側も、乾はひどく好きだと思う。
「救急箱の絆創膏は永遠に無くならないで、勝手に増えてるもんだと思ってるぞ、たぶん。菊丸」
「そんな事ねえよ…」
「ん?」
「………菊丸先輩に礼言われた事ある」
へえ、と乾は目を見開いた。
二人きりだとすこしだけ言葉数の多くなる海堂の言葉と、菊丸の言動に。
「そうか。ちゃんと判ってたか」
「…………別にどうでもいいっす」
素っ気無く言って立ち上がった海堂に、乾は腕を伸ばした。
手首を握りこむ。
振り払われはしない。
海堂の眼差しがすこし揺れていた。
「………何ですか」
「うん」
「……うんって何だよ」
「うん」
囁くように頷いて、乾は海堂の手首を引いた。
僅かに海堂が上体を屈めてくる。
部室の扉が開いたのはその時だ。
「腕擦り剥いたっ。絆創膏ー!」
「……、…っ……」
「……………菊丸…お前…」
「あれ。何してんの二人とも」
勢いよく部室に入ってきた菊丸が、開け放った扉のところで目を大きく見開いて。
びくっと肩先を揺らした海堂と、重たい溜息を吐き出した乾の様子に不思議そうな顔をしている。
そして次の瞬間には本当に猫さながらの俊敏さで。
「薫ちゃんっ、絆創膏ちょうだい!」
「……っ……せん…、ぱ…」
「…………海堂に飛びつくな」
「何だよ乾ー。お前じゃなけりゃいいんだろ。いいじゃん別にぃ」
菊丸は海堂を背中側から抱き寄せるように飛びついて、海堂の肩口に顎を乗せて乾をじろりと上目に睨んでいる。
乾の表情も憮然としていて、上級生二人の間に挟まれた海堂は硬直している。
「ともかく海堂から離れるんだ」
「やだよー。海堂は別にいいよな? 俺がくっついてたって、飛びついたって、いいよな? な?」
甘える猫のように擦りついてこられて、海堂はかたまったまま菊丸を見て、それから無言の圧迫感を放つ乾を見て、せわしない。
「おーい、英二、ちゃんと絆創膏貼ったのか? 傷ばっか増やして本当にお前は…あんまり心配させな…、…あれ?」
「英二……だからそういう事しちゃいけないって言ってるのに…」
心底心配そうに、開け放ったままの扉から顔を出した大石と、その横で淡い笑みを浮かべている不二までも現れて、部室内は一層賑やかになる。
「不二が言ったのは乾だろー」
「どうでもいいから海堂を早く返してくれないか。菊丸」
「乾……頼む、ちょっと落ち着いてくれ…怖いぞ、目が…」
「ねえ大石。ひょっとして英二には恋路の意味が通じてないのかなぁ?」
「………………」
訳が判らないまま上級生達の賑やかな輪に放り込まれて、言葉にならず複雑そうな顔をするのは、たった一人の二年生だけだった。
それぞれが違う、一人ひとりが違う、でもその中に交ざる個々の誰もが、それに違和感を覚えることはない。
それは言葉の見つからないでいる海堂にもまた言える事で。
その唇に戸惑い気味の、しかし笑みが刻まれるのももう直だ。
大概の相手は慣れもあるのかそうやって飛びついてくる菊丸の好きにさせている事が常だが、一人、近頃それを完璧にかわすようになった人物がいる。
同じく三年の乾だ。
「もー! 乾のヤツー!」
ぺりぺりと絆創膏の包み紙を破きながら膨れている菊丸の隣で、ダブルスのパートナーである大石は困ったように笑っていた。
「また乾に避けられて転がったのか? 英二」
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どれ、貼ろうか、と大石は菊丸の手から絆創膏を取った。
真新しい擦り傷は、アクロバテイックなプレイが多い菊丸にはよくあることだ。
部で用意している救急箱からこの絆創膏を取ってくる際に乾と遭遇したのだろうと大石は考えて苦笑いする。
しかし大石は敢えて何も言わず、菊丸が、こっちと言って突き出してきた頬に絆創膏を貼り付けた。
そんな大石の代わりに、思う事は同じでも、言葉にして菊丸を諫めたのはその場にいた不二だった。
「英二、乾に飛びついたら駄目だって、この間言ったよね?」
「だって不二ー」
青学のゴールデンペアの向かいで、不二は笑って菊丸をたしなめて、それに菊丸は尚一層の膨れっ面をする。
「恋路をあたたかくみまもってあげよう、ってその意味が判んない!」
「意味も何もそのまんまなんだけど…」
困ったねえ?と不二は大石に笑いかけ、大石もひどく複雑そうに笑いを返す。
そんな二人を見やって菊丸はますます頬を膨らませた。
「何で二人だけで判りあっちゃってるわけ!」
大石のばかやろう!と菊丸に捨て台詞をされた大石は、どうして俺だけばかやろうなんだと言いながら、きちんと走っていった菊丸の後を追いかけていく。
残された不二は口元に握った拳を宛がって、あっちもこっちも大変だ、と呟いた。
不二が言った、あっちだかこっちだかを現すもう片方の人物は、部室にいた。
一人、考えている。
徐に部室の扉が外側から開き、そちらに目をやって漸く、乾は表情を変えた。
誰よりも長い距離を走りこむランニングに幾分呼吸を弾ませた後輩がそこにいたからだ。
「……乾先輩?」
何してんですか、と抑揚のない声にほんの少し怪訝な気配を滲ませて海堂が声をかけてくる。
海堂はおそらく代えのバンダナとタオルを取りに来たところだろう。
乾はその場で、救急箱を片手にしたまま海堂に笑いかけた。
「何してると思う?」
「…………わかんねえから聞いてんですけど」
「それもそうだ」
憮然とした物言い、目つきの鋭い表情。
それでいて海堂は律儀に言葉を返してくるのだ。
だから乾も思うままの言葉を口にする。
「海堂の事を考えてた」
「………………」
乾の言葉に訳が判らないとあまりにも素直に表情に出して。
それでも。
海堂はまたぽつりと言葉を零す。
「……救急箱持ってですか」
「そう。救急箱持って」
右手に救急箱。
その体勢で部室で一人ぼうっとしている様は少々奇異だ。
それはわからなくもないけれど、と乾は思いながら部室のベンチに座った。
脇に救急箱を置く。
「いつもありがとうな、海堂」
「……何の事ですか」
「救急箱の整理をしてくれてるだろ? 海堂がいつも」
足りないものは補充して、期限切れのものは処分して。
当たり前のように、普段使い慣れない人間が蓋を開けても何がどこにあるのか一目瞭然になっている、いつでも整理整頓された救急箱。
さりげなく気を配っているのはいつも海堂だ。
「別に、……んな大袈裟なもんじゃ…」
戸惑って珍しく言いよどんだ海堂に、隣へ座るよう手で促せば、海堂は乾の望むままに腰を下ろしてきた。
「さっき菊丸が来たよ」
「…どこか怪我でも」
「擦り傷だよ。大丈夫」
心配しなくても平気だと目で伝えれば、些か決まり悪そうに海堂は視線を逸らせた。
ぶっきらぼうで、人と馴れ合う事が苦手で、それでいて軸にあるものはひどくやさしい人としての感情だ。
海堂の、きつい印象も、やわらかな内側も、乾はひどく好きだと思う。
「救急箱の絆創膏は永遠に無くならないで、勝手に増えてるもんだと思ってるぞ、たぶん。菊丸」
「そんな事ねえよ…」
「ん?」
「………菊丸先輩に礼言われた事ある」
へえ、と乾は目を見開いた。
二人きりだとすこしだけ言葉数の多くなる海堂の言葉と、菊丸の言動に。
「そうか。ちゃんと判ってたか」
「…………別にどうでもいいっす」
素っ気無く言って立ち上がった海堂に、乾は腕を伸ばした。
手首を握りこむ。
振り払われはしない。
海堂の眼差しがすこし揺れていた。
「………何ですか」
「うん」
「……うんって何だよ」
「うん」
囁くように頷いて、乾は海堂の手首を引いた。
僅かに海堂が上体を屈めてくる。
部室の扉が開いたのはその時だ。
「腕擦り剥いたっ。絆創膏ー!」
「……、…っ……」
「……………菊丸…お前…」
「あれ。何してんの二人とも」
勢いよく部室に入ってきた菊丸が、開け放った扉のところで目を大きく見開いて。
びくっと肩先を揺らした海堂と、重たい溜息を吐き出した乾の様子に不思議そうな顔をしている。
そして次の瞬間には本当に猫さながらの俊敏さで。
「薫ちゃんっ、絆創膏ちょうだい!」
「……っ……せん…、ぱ…」
「…………海堂に飛びつくな」
「何だよ乾ー。お前じゃなけりゃいいんだろ。いいじゃん別にぃ」
菊丸は海堂を背中側から抱き寄せるように飛びついて、海堂の肩口に顎を乗せて乾をじろりと上目に睨んでいる。
乾の表情も憮然としていて、上級生二人の間に挟まれた海堂は硬直している。
「ともかく海堂から離れるんだ」
「やだよー。海堂は別にいいよな? 俺がくっついてたって、飛びついたって、いいよな? な?」
甘える猫のように擦りついてこられて、海堂はかたまったまま菊丸を見て、それから無言の圧迫感を放つ乾を見て、せわしない。
「おーい、英二、ちゃんと絆創膏貼ったのか? 傷ばっか増やして本当にお前は…あんまり心配させな…、…あれ?」
「英二……だからそういう事しちゃいけないって言ってるのに…」
心底心配そうに、開け放ったままの扉から顔を出した大石と、その横で淡い笑みを浮かべている不二までも現れて、部室内は一層賑やかになる。
「不二が言ったのは乾だろー」
「どうでもいいから海堂を早く返してくれないか。菊丸」
「乾……頼む、ちょっと落ち着いてくれ…怖いぞ、目が…」
「ねえ大石。ひょっとして英二には恋路の意味が通じてないのかなぁ?」
「………………」
訳が判らないまま上級生達の賑やかな輪に放り込まれて、言葉にならず複雑そうな顔をするのは、たった一人の二年生だけだった。
それぞれが違う、一人ひとりが違う、でもその中に交ざる個々の誰もが、それに違和感を覚えることはない。
それは言葉の見つからないでいる海堂にもまた言える事で。
その唇に戸惑い気味の、しかし笑みが刻まれるのももう直だ。
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足音、体温、彼の気配。
空気の密度が変わったようにも思える身に覚えのある変化に、海堂はもうそこに誰がいるのか判った上で振り返った。
そうして瞬間息をのむ。
いきなりの距離の近さ。
おはよう、と顔を近づけて囁いてきた相手の、上半身を屈めているその角度に、ふと、背が伸びたんだな、とも気づく。
真新しい制服に包まれた体躯は、まだ成長するようだ。
海堂が目礼を返すと、極自然に海堂と肩を並べて歩きだした乾は、この春、高等部に進学した。
「桜、咲いたなぁ」
「………そうっすね」
のんびりとした物言いをする低い声に同意すれば、ただそれだけのことで、乾に笑みで甘く煮詰めたような目で見つめられる。
「花見した? 海堂は」
「……人混み嫌いなんで」
「俺も」
「………あんた、そういうの気にしなさそうだけどな」
いつもは苦労する事も多い、取り立てて意味のないような言葉がするりと唇から零れ、会話が紡がれていく。
それは取り立てる事のない普通の出来事なのかもしれなかったが、海堂にしてみれば、今となってもやはりそれは不思議で特別な事だった。
乾だけが海堂から言葉を引き出すのだ。
「人が話してたり、してたりする事に、どうしても意識がいくんだよなぁ…」
そういう事なら言っている意味も判ると海堂は納得した。
乾は集中型で没頭型だが、一度に多方面から物事をとらえられる分、そして時間をひどく惜しむ性質の分、何もしないでいるとか何も考えないでいるという事が難しいようだった。
「桜は好きなんだよ。どうせだったら誰もいないような所で静かに見たいもんだけど、まあ無理だろうなそれも」
「………………」
ふ、と零された溜息を見つめ上げて、目があって。
何だろう。
この男の近くは、こんなにも気持ちが澄む。
「…あれ。もしかして無理じゃない?」
「………………」
目と目を合わせただけで心情を汲まれて、海堂は淡く苦笑いした。
「朝は人いない」
「走ってる時?」
「………っす」
慣れた早朝ランニング、地元から少し離れた所の桜並木を走り抜けるのは海堂も好きだった。
「七時くらいか?」
「…六時」
「相変わらずだなあ海堂は」
低く笑い声を響かせて、乾は頭上を仰ぎ見た。
「………………」
反らされた喉もとの隆起に目をやって、目を閉じた乾の和らいだ表情を見て、海堂の唇は動いていた。
「………行きますか」
「ん?」
「桜。……朝」
誰かを誘う。
それだけの事が海堂にとってどれだけ特別な事か。
判っているのは、誰よりも、乾だ。
「いいの?」
艶のこもった低い声は嬉しげで、海堂が驚くほどに密やかに赤裸々だ。
「ひとりじめでなくなっても、いい?」
「……そんな風に考えた事はなかったですけど。あんたこそ…誰もいない訳じゃない桜でもいいのかよ」
「海堂がいるよりも良いことなんて俺にはないよ」
淡々とした声で、とんでもない事を言って、乾は海堂を絶句させる。
優しい眼差しで、信じられない事を告げて、乾は海堂を戸惑わせる。
中指で眼鏡の軽く引き上げて、乾は唇の形もやわらかく笑いに引き上げて。
「嬉しい」
何の衒いもなく、取り繕いもなく、大人びた風貌で、いっそ邪気なく微笑むのだ。
海堂の気持ちを未経験に揺らし、心音を乱し、何かが溶ける、何かがほどける、乾が全て、そうしてくる。
自分の知らない、判らないことだらけだけれど。
与えてくるのが乾だというだけで、海堂は安心した。
意固地で頑なで融通のきかない自分の中にも、ひょっとするとやわらかいものがひそんでいるのかもしれない。
それをきっと、乾は取り出してくるのだろう。
これからどうなるのか判らない、そんな自分にも、不安はまるでなかった。
空気の密度が変わったようにも思える身に覚えのある変化に、海堂はもうそこに誰がいるのか判った上で振り返った。
そうして瞬間息をのむ。
いきなりの距離の近さ。
おはよう、と顔を近づけて囁いてきた相手の、上半身を屈めているその角度に、ふと、背が伸びたんだな、とも気づく。
真新しい制服に包まれた体躯は、まだ成長するようだ。
海堂が目礼を返すと、極自然に海堂と肩を並べて歩きだした乾は、この春、高等部に進学した。
「桜、咲いたなぁ」
「………そうっすね」
のんびりとした物言いをする低い声に同意すれば、ただそれだけのことで、乾に笑みで甘く煮詰めたような目で見つめられる。
「花見した? 海堂は」
「……人混み嫌いなんで」
「俺も」
「………あんた、そういうの気にしなさそうだけどな」
いつもは苦労する事も多い、取り立てて意味のないような言葉がするりと唇から零れ、会話が紡がれていく。
それは取り立てる事のない普通の出来事なのかもしれなかったが、海堂にしてみれば、今となってもやはりそれは不思議で特別な事だった。
乾だけが海堂から言葉を引き出すのだ。
「人が話してたり、してたりする事に、どうしても意識がいくんだよなぁ…」
そういう事なら言っている意味も判ると海堂は納得した。
乾は集中型で没頭型だが、一度に多方面から物事をとらえられる分、そして時間をひどく惜しむ性質の分、何もしないでいるとか何も考えないでいるという事が難しいようだった。
「桜は好きなんだよ。どうせだったら誰もいないような所で静かに見たいもんだけど、まあ無理だろうなそれも」
「………………」
ふ、と零された溜息を見つめ上げて、目があって。
何だろう。
この男の近くは、こんなにも気持ちが澄む。
「…あれ。もしかして無理じゃない?」
「………………」
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「朝は人いない」
「走ってる時?」
「………っす」
慣れた早朝ランニング、地元から少し離れた所の桜並木を走り抜けるのは海堂も好きだった。
「七時くらいか?」
「…六時」
「相変わらずだなあ海堂は」
低く笑い声を響かせて、乾は頭上を仰ぎ見た。
「………………」
反らされた喉もとの隆起に目をやって、目を閉じた乾の和らいだ表情を見て、海堂の唇は動いていた。
「………行きますか」
「ん?」
「桜。……朝」
誰かを誘う。
それだけの事が海堂にとってどれだけ特別な事か。
判っているのは、誰よりも、乾だ。
「いいの?」
艶のこもった低い声は嬉しげで、海堂が驚くほどに密やかに赤裸々だ。
「ひとりじめでなくなっても、いい?」
「……そんな風に考えた事はなかったですけど。あんたこそ…誰もいない訳じゃない桜でもいいのかよ」
「海堂がいるよりも良いことなんて俺にはないよ」
淡々とした声で、とんでもない事を言って、乾は海堂を絶句させる。
優しい眼差しで、信じられない事を告げて、乾は海堂を戸惑わせる。
中指で眼鏡の軽く引き上げて、乾は唇の形もやわらかく笑いに引き上げて。
「嬉しい」
何の衒いもなく、取り繕いもなく、大人びた風貌で、いっそ邪気なく微笑むのだ。
海堂の気持ちを未経験に揺らし、心音を乱し、何かが溶ける、何かがほどける、乾が全て、そうしてくる。
自分の知らない、判らないことだらけだけれど。
与えてくるのが乾だというだけで、海堂は安心した。
意固地で頑なで融通のきかない自分の中にも、ひょっとするとやわらかいものがひそんでいるのかもしれない。
それをきっと、乾は取り出してくるのだろう。
これからどうなるのか判らない、そんな自分にも、不安はまるでなかった。
昼休み、乾はふらふらと部室に現れた。
案の定だと部室で彼を迎え入れた海堂は思う。
長身を幾分丸まった猫背で普段よりも少しだけ小さくして、それでもゆったりと和んだ笑顔で乾は近寄ってきて、海堂の隣に座った。
「待たせた?」
ごめんな、と低い声で囁き乾は海堂の顔を覗きこむようにした。
部室の長椅子は充分ゆとりがあるのに、互いの距離は随分と近い。
海堂は乾と目線を合わせて、小さく首を左右に振る。
そっか、と乾は笑った。
乾は何だかいつもさりげなくて優しい笑い方をする。
「………………」
以前は、乾はもっと、せっかちというか、マイペースな男だと、海堂は思っていた。
知識欲旺盛で、独自の行動をとるから、そう見えていた。
乾の言動は突拍子がないと感じていた海堂だったが、次第に海堂にも、乾の慎重で丁寧な部分が判るようになってきた。
そういう乾が海堂に深い理解と強い信頼をくれるから、海堂は随分と気持ちが楽になる。
今も、昼休みに部室でという唐突な海堂の呼び出しに、乾はおそらく不思議に感じているだろうけれどもいきなりそれを尋ねてきたりはしない。
海堂の隣でしっかりと目線を合わせての笑みを浮かべた後は、ふっと気配を散らせてくれる。
それは海堂の一呼吸分だ。
「呼び出してすみません」
「いいや? こっちこそ」
「…は?」
「機嫌よすぎて悪いね」
「………何っすか…それ」
「言葉のままだよ」
確かに機嫌の良さそうな、やさしいやわらかな口調だ。
自分といると乾は時々こんな風になる。
それが判ってしまって海堂はほんの少し戸惑って。
でも、多分他の誰にもしない行動を、それで乾にはとってしまうのだ。
海堂は乾の肘あたりの制服に指を伸ばす。
きゅっと握りこんで軽く引くと、おや?というように乾が海堂の手を見下ろした。
「……ん?」
「呼び出したのは…」
「うん」
「ちゃんと起こすんで」
「海堂?」
「少し、寝た方がいいです……あんた」
びっくりしたように海堂を見つめてくる乾の腕を、海堂は視線をずらして引っ張った。
少々無理矢理に。
乾は逆らわなかった。
すべて海堂がしたようになる。
乾は仰向けで海堂の腿の上に頭を乗せ、突如変わった体勢のバランスをとるように長い足を片方膝から折り曲げて長椅子の上に乗せ、もう片方を床についたまま海堂を見上げてきた。
骨ばった大きな手の片方は腹部の上に乗っていて、逆の手は長椅子の上から少しはみ出るように伸ばされていた。
頭だけ海堂の腿の上に、四肢は脱力して投げ出されていて。
「………………」
「気づくと俺はこんな風にすごく役得な体勢なわけだが……」
それこそ嬉しそうな笑みをひとつ唇に湛えて、乾はゆったりと海堂の膝枕の上で最後の力を抜いてきた。
海堂は黙って乾の眼鏡をとった。
慎重にそれをテーブルの上に置き、右の手のひらで乾の目元をそっと覆った。
昼間のあかりを遮る為。
それから、疲れている目は手のひらで包むように覆ってやれば体温の蒸気で温められると聞いたからだ。
じんわりと目が温まるのか、暫くすると乾の唇からちいさく吐息が零れた。
海堂も微かに息をもらし、囁いた。
「寝たら起きれないかもしれないから、寝ないでいるっていうの、止めた方がいいっすよ……先輩」
「そうだなあ」
また、ちゃんと、寝てない。
それが今朝海堂が乾を見て最初に感じた事。
だから昼休みにこうして呼び出した。
「それから、寝て起きてもどうせ眠いなら寝なくても一緒だっていうのも…」
「うん」
「変っすよ」
「うん」
乾の目元を手のひらで覆って。
腿を枕代わりにして。
目覚ましのアラームの代わりもする。
それくらいしか出来ないけれど。
本当はもっと上手に、何か出来ることは他にあるかもしれないけれど。
今の海堂にはこれが精一杯だ。
今朝、乾と最初に会った時からずっと海堂は考えていて、結局出来るのはこれくらいのことだけれど。
「海堂」
「……はい?」
「じゃ、お言葉に甘えて」
乾の唇の端が笑みの形に引きあがる。
海堂はそれを眺め下ろして、見えていない相手に頷きだけで返した。
乾はちゃんと判ってくれて。
「………あー……そういえば、朝弱い人でも効果的に目覚める方法ってさ…」
「……喋ってないで寝て下さい。昼休みそんなに時間ねえんだから…」
呆れ混じりに海堂が言えば、乾はふわふわと笑いながら、最後にこれだけとどことなく眠気の滲んで蕩けたような低音で言った。
「目を覚まして、起きたらすぐにできる楽しみを、何かひとつ用意しておくことだって言うよな」
「楽しみ……っすか…」
「そう。……例えば、甘いものが好きなら、プリンでもケーキでも、起きたら食べられるってものを用意しておく。聴きたい音楽があればそれを用意しておく。そういうの。ご褒美みたいな感じかな」
確かに、その心理はよく判る。
海堂が、早起きが然して苦痛でないのは、日課の早朝ランニングがあるからだ。
走るのが好きで、その為の起床時間を厭うことはなかった。
海堂が黙って聞いていると、乾はまたあのやわらかな笑みを零して小声で言う。
「目を覚ました時に最初に見るのが海堂で」
「………………」
「その海堂に起こしてもらえるかと思うと、起きるのが楽しみだ」
「………………」
それは聞いた側から消えていくような、小さくささやかな声音だったけれど。
海堂の胸に、すうっと忍んで、微かな熱を放って、そこに定着する。
気持ちの住処に定着する。
「………………」
寝入っていく男を腿に乗せ、目元を丁寧に覆い、海堂は空いた手を、乾の腹部の上、そこに乗せている手の上に重ねた。
案の定だと部室で彼を迎え入れた海堂は思う。
長身を幾分丸まった猫背で普段よりも少しだけ小さくして、それでもゆったりと和んだ笑顔で乾は近寄ってきて、海堂の隣に座った。
「待たせた?」
ごめんな、と低い声で囁き乾は海堂の顔を覗きこむようにした。
部室の長椅子は充分ゆとりがあるのに、互いの距離は随分と近い。
海堂は乾と目線を合わせて、小さく首を左右に振る。
そっか、と乾は笑った。
乾は何だかいつもさりげなくて優しい笑い方をする。
「………………」
以前は、乾はもっと、せっかちというか、マイペースな男だと、海堂は思っていた。
知識欲旺盛で、独自の行動をとるから、そう見えていた。
乾の言動は突拍子がないと感じていた海堂だったが、次第に海堂にも、乾の慎重で丁寧な部分が判るようになってきた。
そういう乾が海堂に深い理解と強い信頼をくれるから、海堂は随分と気持ちが楽になる。
今も、昼休みに部室でという唐突な海堂の呼び出しに、乾はおそらく不思議に感じているだろうけれどもいきなりそれを尋ねてきたりはしない。
海堂の隣でしっかりと目線を合わせての笑みを浮かべた後は、ふっと気配を散らせてくれる。
それは海堂の一呼吸分だ。
「呼び出してすみません」
「いいや? こっちこそ」
「…は?」
「機嫌よすぎて悪いね」
「………何っすか…それ」
「言葉のままだよ」
確かに機嫌の良さそうな、やさしいやわらかな口調だ。
自分といると乾は時々こんな風になる。
それが判ってしまって海堂はほんの少し戸惑って。
でも、多分他の誰にもしない行動を、それで乾にはとってしまうのだ。
海堂は乾の肘あたりの制服に指を伸ばす。
きゅっと握りこんで軽く引くと、おや?というように乾が海堂の手を見下ろした。
「……ん?」
「呼び出したのは…」
「うん」
「ちゃんと起こすんで」
「海堂?」
「少し、寝た方がいいです……あんた」
びっくりしたように海堂を見つめてくる乾の腕を、海堂は視線をずらして引っ張った。
少々無理矢理に。
乾は逆らわなかった。
すべて海堂がしたようになる。
乾は仰向けで海堂の腿の上に頭を乗せ、突如変わった体勢のバランスをとるように長い足を片方膝から折り曲げて長椅子の上に乗せ、もう片方を床についたまま海堂を見上げてきた。
骨ばった大きな手の片方は腹部の上に乗っていて、逆の手は長椅子の上から少しはみ出るように伸ばされていた。
頭だけ海堂の腿の上に、四肢は脱力して投げ出されていて。
「………………」
「気づくと俺はこんな風にすごく役得な体勢なわけだが……」
それこそ嬉しそうな笑みをひとつ唇に湛えて、乾はゆったりと海堂の膝枕の上で最後の力を抜いてきた。
海堂は黙って乾の眼鏡をとった。
慎重にそれをテーブルの上に置き、右の手のひらで乾の目元をそっと覆った。
昼間のあかりを遮る為。
それから、疲れている目は手のひらで包むように覆ってやれば体温の蒸気で温められると聞いたからだ。
じんわりと目が温まるのか、暫くすると乾の唇からちいさく吐息が零れた。
海堂も微かに息をもらし、囁いた。
「寝たら起きれないかもしれないから、寝ないでいるっていうの、止めた方がいいっすよ……先輩」
「そうだなあ」
また、ちゃんと、寝てない。
それが今朝海堂が乾を見て最初に感じた事。
だから昼休みにこうして呼び出した。
「それから、寝て起きてもどうせ眠いなら寝なくても一緒だっていうのも…」
「うん」
「変っすよ」
「うん」
乾の目元を手のひらで覆って。
腿を枕代わりにして。
目覚ましのアラームの代わりもする。
それくらいしか出来ないけれど。
本当はもっと上手に、何か出来ることは他にあるかもしれないけれど。
今の海堂にはこれが精一杯だ。
今朝、乾と最初に会った時からずっと海堂は考えていて、結局出来るのはこれくらいのことだけれど。
「海堂」
「……はい?」
「じゃ、お言葉に甘えて」
乾の唇の端が笑みの形に引きあがる。
海堂はそれを眺め下ろして、見えていない相手に頷きだけで返した。
乾はちゃんと判ってくれて。
「………あー……そういえば、朝弱い人でも効果的に目覚める方法ってさ…」
「……喋ってないで寝て下さい。昼休みそんなに時間ねえんだから…」
呆れ混じりに海堂が言えば、乾はふわふわと笑いながら、最後にこれだけとどことなく眠気の滲んで蕩けたような低音で言った。
「目を覚まして、起きたらすぐにできる楽しみを、何かひとつ用意しておくことだって言うよな」
「楽しみ……っすか…」
「そう。……例えば、甘いものが好きなら、プリンでもケーキでも、起きたら食べられるってものを用意しておく。聴きたい音楽があればそれを用意しておく。そういうの。ご褒美みたいな感じかな」
確かに、その心理はよく判る。
海堂が、早起きが然して苦痛でないのは、日課の早朝ランニングがあるからだ。
走るのが好きで、その為の起床時間を厭うことはなかった。
海堂が黙って聞いていると、乾はまたあのやわらかな笑みを零して小声で言う。
「目を覚ました時に最初に見るのが海堂で」
「………………」
「その海堂に起こしてもらえるかと思うと、起きるのが楽しみだ」
「………………」
それは聞いた側から消えていくような、小さくささやかな声音だったけれど。
海堂の胸に、すうっと忍んで、微かな熱を放って、そこに定着する。
気持ちの住処に定着する。
「………………」
寝入っていく男を腿に乗せ、目元を丁寧に覆い、海堂は空いた手を、乾の腹部の上、そこに乗せている手の上に重ねた。
耳をすませても寝息は全く聞こえない。
目で凝視してみても顔には全く変化がなく、横向きで寝ている為に上向きになっている右肩の微かな上下の動きで、どうにか呼吸の様子が認められる。
海堂の寝方は静かだ。
寝返りもろくにうたない。
静かに寝入って、静かに寝続けて、静かに目覚める。
「………………」
乾は若干窮屈なベッドの中で、海堂を見ていた。
前髪が滑り落ち、なめらかな額が露になっている。
顔のすぐ近くで手のひらを上向きにして置いてある左手の指先の丸まり具合が赤ん坊のように稚い。
不思議な子だなあと乾は思う。
何もかも、とてもきちんとした子だ。
傍にいてずっと見ていたくなる。
何もかも、それでいて不器用な子だ。
一人でまっすぐ立っていて、とてもストイックで、それだから気にかかる。
構いたい、なんて欲求が自分の中にあるなんて事は。
乾は海堂がいなければ恐らく気づかなかった。
海堂の方からトレーニングのメニューのことで声をかけられた時は、乾は正直驚いた。
さすがの乾もまるで予想だにしていなかったのだ。
そしてそれからの乾は、海堂に、あれではまるでただただ夢中だったとばかりに傾倒して、メニューをつくり、体調を診て、ダブルスを組み、一緒に自主トレをした。
実際に不二からは、乾は海堂に夢中だねと言われて笑われてもいる。
海堂に関しては、乾は今すぐ全部を知りたいという欲求よりも、そうしてしまうことが勿体無いと思う気持ちの方が強かった。
今、乾の目の前にいる存在は、乾にとってひどく勿体無い幸福のようであったから。
「………………」
乾が見つめる先、海堂が微かにみじろいだ。
折り曲げられた左手の指先がちいさく動く。
乾は爪先に唇を寄せた。
つややかな爪の表面が、するりと乾の唇を撫でる。
生まれたてのようなかわいらしい動きの指先が、乾の唇の感触で大人びる。
「……目が覚めた?」
「…………乾…先輩…」
「ああ」
もう一度海堂の指の関節に唇を寄せて、乾は海堂の隣に横たわったまま手を伸ばす。
髪に触れると、海堂は一瞬目を閉じて、乾の手をそのまま受け入れた。
ふと乾の脳裏にある記憶の中の海堂と、今目の前にいる海堂の表情とが重なった。
「………………」
慎重に探り、慎重に穿つものの、幾許かの我慢をさせている自覚はあって、いつもその身体を貪りながら乾は海堂の反応を一つの取りこぼしもないよう、じっと見据えていた。
だから今日、どちらかといえば息を詰めて、辛いばかりではないものの濃すぎる感覚を必死になって受け止めている海堂が、不意にうろたえたような顔をした事に乾はすぐに気づいた。
海堂の困惑は次第に深まって、乾がその身を穿つ度、わななきだす唇や、滲んできた涙がひどく潤ませた目が、何に覚えているのかに気づいて、乾の飢餓感を急激に煽り立ててきた。
声も出せない様子の海堂は、声より雄弁に体感しているものを身体で示していて、その困惑ごと抱き締めて、拓いた身体を揺さぶると、海堂は乾が初めて見る顔で泣き出した。
辛そう、だとか。
可哀想、だとか。
そういう泣き顔ではなかった。
あれはむしろ。
「きれいな顔してた」
すごく、ね、と乾は海堂にゆったりと囁く。
折り曲げた指の関節で、海堂の頬を辿る。
思い出す目をした事が海堂にも正しく伝わったようで、お互い顔を合わせて横たわったまま、海堂が息を飲んだ。
怯えた後に、途方にくれたように一瞬だけ頼りなくなった目元が、ぼうっと赤く染まっていくのが判る。
「、ふざけ…」
「て、ない。本気」
本当、と乾は生真面目に呟く。
手の甲で海堂の頬をするりと逆撫でする。
「本当に。本気の話」
乾は繰り返した。
本当に、そうなのだ。
「………………」
海堂は長い眠りから目覚めた訳ではない。
時間にしたら、今の眠りなどほんの十分程度の事だった。
海堂は最後の最後で、乾を一層の恋情の坩堝に叩き込むようなすさまじくきれいな顔を見せて、いって。
「海堂」
「………………」
骨張った手で海堂の頬を撫でる。
乾が記憶を思い浮かべて、そして今こうして言っている言葉を、海堂は少し怖い様子で息をつめて受け止めている。
濃すぎるかな、と乾自身も思ったけれど、視線も言葉も止められない。
睫を伏せて、布団にもぐるよう俯く海堂を、乾はやわらかく抱き込んだ。
「先輩…、…」
「かわいくて、どうしようね」
「な、ん……」
「俺はこんなにお前が好きで、どうなっていくんだろうな…」
乾を包んで甘く複雑にうねった海堂の感触に。
乾で高まって、乾でいった、あの一連の表情に。
今乾の腕の中で羞恥に駆られ、強張っている戸惑いに。
困惑のきつい眼差しに。
全部に。
どうしようね、と困るどころかただ甘く凪いだ気持ちで問いかける。
両手でそっと抱き寄せて、両足は絡ませあうように近づいて。
赤く色づく海堂のあちこちに、乾は唇を寄せた。
「また、見たい」
「………っ…、…先…輩」
「海堂の。ああいうの、また見たい」
海堂の首筋に唇を押し当てたまま乾が強請れば、海堂は戦慄きながら乾の頭を両腕で抱き寄せてきた。
きれいな首筋を、肌を、惜しみなく自ら与えるが如く乾の頭を抱き寄せてくるぎこちない仕草だけで堪らなかった。
乾は身体を起こすのと同時に唇を塞いで海堂を組み敷いて。
口づけながら両手で海堂の肌を辿った。
撫でて、愛しんで、擦って、包んで。
海堂は熱をはらんだ呼吸を切なげに乱して、散らして、乾の頭をずっと、そっと、抱き込んでいた。
言葉をあまり使わない海堂だけれど。
躊躇いのない手はいつでも乾に惜しみない。
目で凝視してみても顔には全く変化がなく、横向きで寝ている為に上向きになっている右肩の微かな上下の動きで、どうにか呼吸の様子が認められる。
海堂の寝方は静かだ。
寝返りもろくにうたない。
静かに寝入って、静かに寝続けて、静かに目覚める。
「………………」
乾は若干窮屈なベッドの中で、海堂を見ていた。
前髪が滑り落ち、なめらかな額が露になっている。
顔のすぐ近くで手のひらを上向きにして置いてある左手の指先の丸まり具合が赤ん坊のように稚い。
不思議な子だなあと乾は思う。
何もかも、とてもきちんとした子だ。
傍にいてずっと見ていたくなる。
何もかも、それでいて不器用な子だ。
一人でまっすぐ立っていて、とてもストイックで、それだから気にかかる。
構いたい、なんて欲求が自分の中にあるなんて事は。
乾は海堂がいなければ恐らく気づかなかった。
海堂の方からトレーニングのメニューのことで声をかけられた時は、乾は正直驚いた。
さすがの乾もまるで予想だにしていなかったのだ。
そしてそれからの乾は、海堂に、あれではまるでただただ夢中だったとばかりに傾倒して、メニューをつくり、体調を診て、ダブルスを組み、一緒に自主トレをした。
実際に不二からは、乾は海堂に夢中だねと言われて笑われてもいる。
海堂に関しては、乾は今すぐ全部を知りたいという欲求よりも、そうしてしまうことが勿体無いと思う気持ちの方が強かった。
今、乾の目の前にいる存在は、乾にとってひどく勿体無い幸福のようであったから。
「………………」
乾が見つめる先、海堂が微かにみじろいだ。
折り曲げられた左手の指先がちいさく動く。
乾は爪先に唇を寄せた。
つややかな爪の表面が、するりと乾の唇を撫でる。
生まれたてのようなかわいらしい動きの指先が、乾の唇の感触で大人びる。
「……目が覚めた?」
「…………乾…先輩…」
「ああ」
もう一度海堂の指の関節に唇を寄せて、乾は海堂の隣に横たわったまま手を伸ばす。
髪に触れると、海堂は一瞬目を閉じて、乾の手をそのまま受け入れた。
ふと乾の脳裏にある記憶の中の海堂と、今目の前にいる海堂の表情とが重なった。
「………………」
慎重に探り、慎重に穿つものの、幾許かの我慢をさせている自覚はあって、いつもその身体を貪りながら乾は海堂の反応を一つの取りこぼしもないよう、じっと見据えていた。
だから今日、どちらかといえば息を詰めて、辛いばかりではないものの濃すぎる感覚を必死になって受け止めている海堂が、不意にうろたえたような顔をした事に乾はすぐに気づいた。
海堂の困惑は次第に深まって、乾がその身を穿つ度、わななきだす唇や、滲んできた涙がひどく潤ませた目が、何に覚えているのかに気づいて、乾の飢餓感を急激に煽り立ててきた。
声も出せない様子の海堂は、声より雄弁に体感しているものを身体で示していて、その困惑ごと抱き締めて、拓いた身体を揺さぶると、海堂は乾が初めて見る顔で泣き出した。
辛そう、だとか。
可哀想、だとか。
そういう泣き顔ではなかった。
あれはむしろ。
「きれいな顔してた」
すごく、ね、と乾は海堂にゆったりと囁く。
折り曲げた指の関節で、海堂の頬を辿る。
思い出す目をした事が海堂にも正しく伝わったようで、お互い顔を合わせて横たわったまま、海堂が息を飲んだ。
怯えた後に、途方にくれたように一瞬だけ頼りなくなった目元が、ぼうっと赤く染まっていくのが判る。
「、ふざけ…」
「て、ない。本気」
本当、と乾は生真面目に呟く。
手の甲で海堂の頬をするりと逆撫でする。
「本当に。本気の話」
乾は繰り返した。
本当に、そうなのだ。
「………………」
海堂は長い眠りから目覚めた訳ではない。
時間にしたら、今の眠りなどほんの十分程度の事だった。
海堂は最後の最後で、乾を一層の恋情の坩堝に叩き込むようなすさまじくきれいな顔を見せて、いって。
「海堂」
「………………」
骨張った手で海堂の頬を撫でる。
乾が記憶を思い浮かべて、そして今こうして言っている言葉を、海堂は少し怖い様子で息をつめて受け止めている。
濃すぎるかな、と乾自身も思ったけれど、視線も言葉も止められない。
睫を伏せて、布団にもぐるよう俯く海堂を、乾はやわらかく抱き込んだ。
「先輩…、…」
「かわいくて、どうしようね」
「な、ん……」
「俺はこんなにお前が好きで、どうなっていくんだろうな…」
乾を包んで甘く複雑にうねった海堂の感触に。
乾で高まって、乾でいった、あの一連の表情に。
今乾の腕の中で羞恥に駆られ、強張っている戸惑いに。
困惑のきつい眼差しに。
全部に。
どうしようね、と困るどころかただ甘く凪いだ気持ちで問いかける。
両手でそっと抱き寄せて、両足は絡ませあうように近づいて。
赤く色づく海堂のあちこちに、乾は唇を寄せた。
「また、見たい」
「………っ…、…先…輩」
「海堂の。ああいうの、また見たい」
海堂の首筋に唇を押し当てたまま乾が強請れば、海堂は戦慄きながら乾の頭を両腕で抱き寄せてきた。
きれいな首筋を、肌を、惜しみなく自ら与えるが如く乾の頭を抱き寄せてくるぎこちない仕草だけで堪らなかった。
乾は身体を起こすのと同時に唇を塞いで海堂を組み敷いて。
口づけながら両手で海堂の肌を辿った。
撫でて、愛しんで、擦って、包んで。
海堂は熱をはらんだ呼吸を切なげに乱して、散らして、乾の頭をずっと、そっと、抱き込んでいた。
言葉をあまり使わない海堂だけれど。
躊躇いのない手はいつでも乾に惜しみない。
かわいいなあと思う。
乾は、つい笑みを零した。
前方から歩いてくるよく似た面立ちの兄弟は、色違いのマフラーを巻いていた。
「……いいなあ」
「やんねえからな。葉末は」
一月の天気の悪い寒空の下、偶然対面した相手に、乾が最初に零した呟きに。
乾の後輩は、いかにも判りやすい表情で乾を牽制してきた。
多分に真剣な顔でそんな事を言って、海堂は自身の背後に連れていた弟を隠してしまった。
そういう本気の威嚇と、本気の心配。
言葉も仕草も本当にかわいい。
乾は頷いて笑った。
「確かに葉末君みたいな弟がいたらいいけど、海堂みたいなお兄ちゃんっていうのも、すごくいいと思ってさ。海堂見てると」
「……………こんなでかい弟いらねえ」
普段口の重い海堂は、それでも去年の夏にダブルスを組んでから、乾相手に少しずつ言葉数が多くなった。
乾が部活を引退した後も、自主トレを時々一緒にしたり、直接テニスをしなくても一緒にいる時間が出来た。
そういう、つまりは恋人を。
そんなに真剣に睨みつけるのはどうかと思うよ?と。
乾は海堂の耳元で笑み混じりにひっそりと告げた。
「乾さん」
恐らく海堂は怒鳴るか何かしたかったのだろうけれど。
ぐっと息をのんだ海堂が何か言うよりも先、海堂の背後に隠されていた葉末が、顔を出してきた。
海堂の腕と胴の間から律儀にぺこりと頭を下げてから、これもまた兄弟ゆずりのかわいげのある威嚇で乾をじいっと見上げてくる。
乾は一層笑みを深めて首を左右に振った。
「とらないとらない。お兄ちゃんとらないから。葉末くん。そんな両方から睨まなくても」
本当に仲良いね、と乾は左手で葉末の頭を撫で、右手の指の関節で海堂の頬を撫でた。
葉末は擽ったそうに首を竦め、海堂は息を詰めて緊張しつつ、その目元がうっすらと赤くなる。
「別に俺は、海堂のお兄ちゃん役とか、葉末くんの弟役とかでもいいよ」
「……もう似たようなもんだろ…」
海堂が呆れた風に言う声に被って、葉末がしみじみと言う。
「わあ、ぼく弟が欲しかったんです」
きらきらとした葉末の表情に、一瞬の沈黙の後、乾は笑い出し、海堂は唖然として、顔を見合わせた。
葉末はそんな二人を見上げて、冗談ですと言う様に、にこにこと笑った。
「乾さんに兄さんはあげられませんけど、これはあげられます」
よかったらどうぞ、と葉末は海堂の背後から出てきて、胸の所で腕に抱えていた紙袋を乾へと差し出した。
ひょいと乾が中を覗き込むと、微かに湯気のたつ焼芋がゴロゴロと入っていた。
「いっぱいおまけしてもらったんです」
「美人のお兄ちゃんと、かわいい弟の兄弟だからだね。…じゃ、ひとついただこう」
ごちそうさま、と乾は紙袋の中から焼き芋をひとつ手に取った。
思いのほか手は冷えていたらしく、じわりと熱が浸透してくる。
「……あんた、何でそんな薄着なんですか」
溜息混じりに海堂は首に巻いていた白いマフラーを外す。
両手でふわりと乾の首にかけて丁寧に巻きつけていく。
「おい、海堂」
「プリンタのインクでもきれたんですか?」
「……何で判るんだ」
「あんたの行く先にある店考えて。何となくっす」
呆れた風情で吐息を零し、海堂は微かに笑った。
人に気づかれる事の少ない微量の笑みが、乾には判るし、それがこの上なく目に甘い。
手には焼き芋があるせいもあり、乾は海堂の動きをとどめる事はできなかった。
ただ、海堂の首から自身の首から移されてきたマフラーは、手の中の食べ物同様に染入るように温かかった。
「海堂。これ」
「次会った時でいいです」
「いや、それは勿論だけど。これじゃ今寒いだろう、お前が」
「別に」
「別にってお前…」
「……寒くなくなったんだよっ」
あれ?と乾は首を傾げた。
ひそめた声だったけれど、海堂は実際に肌を温かそうな色にして、怒鳴っていた。
「行くぞ。葉末」
「はい。乾さん、さようなら。またうちに遊びにきてくださいね」
乾に向き直ってしっかりと挨拶をする葉末の手から紙袋を受け取って、海堂はあっさりと背を向け歩き出した。
「………………」
そんないきなりの別れ方。
しかし、それがこわいくらい幸せな別れ方で、乾は海堂の手で巻かれたマフラーに口元を埋めて、ぽつりと呟いた。
目は真っ直ぐに恋人の後姿を見つめている。
「……うなじまで真っ赤だよ…お前」
誰に告げるでもなく放たれた乾の言葉は、今ここにある日常という真実だ。
乾は、つい笑みを零した。
前方から歩いてくるよく似た面立ちの兄弟は、色違いのマフラーを巻いていた。
「……いいなあ」
「やんねえからな。葉末は」
一月の天気の悪い寒空の下、偶然対面した相手に、乾が最初に零した呟きに。
乾の後輩は、いかにも判りやすい表情で乾を牽制してきた。
多分に真剣な顔でそんな事を言って、海堂は自身の背後に連れていた弟を隠してしまった。
そういう本気の威嚇と、本気の心配。
言葉も仕草も本当にかわいい。
乾は頷いて笑った。
「確かに葉末君みたいな弟がいたらいいけど、海堂みたいなお兄ちゃんっていうのも、すごくいいと思ってさ。海堂見てると」
「……………こんなでかい弟いらねえ」
普段口の重い海堂は、それでも去年の夏にダブルスを組んでから、乾相手に少しずつ言葉数が多くなった。
乾が部活を引退した後も、自主トレを時々一緒にしたり、直接テニスをしなくても一緒にいる時間が出来た。
そういう、つまりは恋人を。
そんなに真剣に睨みつけるのはどうかと思うよ?と。
乾は海堂の耳元で笑み混じりにひっそりと告げた。
「乾さん」
恐らく海堂は怒鳴るか何かしたかったのだろうけれど。
ぐっと息をのんだ海堂が何か言うよりも先、海堂の背後に隠されていた葉末が、顔を出してきた。
海堂の腕と胴の間から律儀にぺこりと頭を下げてから、これもまた兄弟ゆずりのかわいげのある威嚇で乾をじいっと見上げてくる。
乾は一層笑みを深めて首を左右に振った。
「とらないとらない。お兄ちゃんとらないから。葉末くん。そんな両方から睨まなくても」
本当に仲良いね、と乾は左手で葉末の頭を撫で、右手の指の関節で海堂の頬を撫でた。
葉末は擽ったそうに首を竦め、海堂は息を詰めて緊張しつつ、その目元がうっすらと赤くなる。
「別に俺は、海堂のお兄ちゃん役とか、葉末くんの弟役とかでもいいよ」
「……もう似たようなもんだろ…」
海堂が呆れた風に言う声に被って、葉末がしみじみと言う。
「わあ、ぼく弟が欲しかったんです」
きらきらとした葉末の表情に、一瞬の沈黙の後、乾は笑い出し、海堂は唖然として、顔を見合わせた。
葉末はそんな二人を見上げて、冗談ですと言う様に、にこにこと笑った。
「乾さんに兄さんはあげられませんけど、これはあげられます」
よかったらどうぞ、と葉末は海堂の背後から出てきて、胸の所で腕に抱えていた紙袋を乾へと差し出した。
ひょいと乾が中を覗き込むと、微かに湯気のたつ焼芋がゴロゴロと入っていた。
「いっぱいおまけしてもらったんです」
「美人のお兄ちゃんと、かわいい弟の兄弟だからだね。…じゃ、ひとついただこう」
ごちそうさま、と乾は紙袋の中から焼き芋をひとつ手に取った。
思いのほか手は冷えていたらしく、じわりと熱が浸透してくる。
「……あんた、何でそんな薄着なんですか」
溜息混じりに海堂は首に巻いていた白いマフラーを外す。
両手でふわりと乾の首にかけて丁寧に巻きつけていく。
「おい、海堂」
「プリンタのインクでもきれたんですか?」
「……何で判るんだ」
「あんたの行く先にある店考えて。何となくっす」
呆れた風情で吐息を零し、海堂は微かに笑った。
人に気づかれる事の少ない微量の笑みが、乾には判るし、それがこの上なく目に甘い。
手には焼き芋があるせいもあり、乾は海堂の動きをとどめる事はできなかった。
ただ、海堂の首から自身の首から移されてきたマフラーは、手の中の食べ物同様に染入るように温かかった。
「海堂。これ」
「次会った時でいいです」
「いや、それは勿論だけど。これじゃ今寒いだろう、お前が」
「別に」
「別にってお前…」
「……寒くなくなったんだよっ」
あれ?と乾は首を傾げた。
ひそめた声だったけれど、海堂は実際に肌を温かそうな色にして、怒鳴っていた。
「行くぞ。葉末」
「はい。乾さん、さようなら。またうちに遊びにきてくださいね」
乾に向き直ってしっかりと挨拶をする葉末の手から紙袋を受け取って、海堂はあっさりと背を向け歩き出した。
「………………」
そんないきなりの別れ方。
しかし、それがこわいくらい幸せな別れ方で、乾は海堂の手で巻かれたマフラーに口元を埋めて、ぽつりと呟いた。
目は真っ直ぐに恋人の後姿を見つめている。
「……うなじまで真っ赤だよ…お前」
誰に告げるでもなく放たれた乾の言葉は、今ここにある日常という真実だ。
校内の渡り廊下を歩く海堂は、通路の窓ガラスの鳴る音に足を止めた。
音のした方向に視線を向けると、結露に僅かに煙った窓越しに、見知った姿を見つけて。
目を見開き、少し考え、歩み寄る。
中庭側から、中指の第二関節で窓ガラスを軽くノックしてきた相手は上級生だ。
海堂が窓を開けようと手をかけると、その相手、乾は唇を笑みの形に引き上げて首を左右に振った。
「………………」
制された海堂が戸惑って眉根を寄せると、乾は人差し指で窓ガラスに文字を書いてきた。
『元気?』
「………………」
海堂の方から見てそう読めるのだから、乾は文字を逆向きで書いている筈なのに、その所作は滑らかだった。
わざわざ文字にして聞かれる意味が判らず、海堂は怪訝に窓越しの乾を見やった。
海堂が無言で再度窓枠に手を伸ばすと、乾は笑って更に手早く文字を綴った。
『寒いからあけない』
「………………」
乾は外にいる訳だから、どうやら海堂を気遣っての事らしい。
別に寒いくらいが何だと海堂は内心呆れたが、乾が最初に書いた『元気?』の文字を丸で囲って僅かに首を傾けてくる。
「………ッス…」
聞こえないと判っていても小さく声にしてしまいながら、海堂は頷いた。
内側からの膜のような窓の結露と違い、外側から乾が指でなぞる文字は、あまりはっきりとは残らない。
耳で聞く音の余韻のように、目の前の文字が消えていく。
『それならよかった』
『今日部活ないよな?』
『これから雨降るらしい。カサ持ってきてる?』
次々に書かれていく文字に、頷いたり、首を振ったりしながら。
海堂はもどかしさを覚えてしまう。
別に答えに困るような事は聞かれていない。
僅かな所作だけで意思は伝えられる。
でも、もどかしい。
ひどく、もどかしいのだ。
「………………」
言葉のうまくない、口の重い自分に。
こんなにも話したいと思わせる乾が、海堂には不思議だった。
端的な意思表示には、こんな風に、言葉がいらない事もあるけれど。
それでも言葉で伝えたい、海堂にとって乾はいつでもそういう相手だった。
『一緒に帰りたいけど、予定あるか』
「……、………」
そして海堂は、その文字に、問いかけに、憮然とした。
漢字を、よくもそんな早いスピードで逆向きから書けるものだと驚くのが半分。
文字を、あまりにも率直な言葉で綴られて気恥ずかしいのが半分。
「………………」
リアクションを示さない海堂に、乾は。
返事、とでも言うように。
立てた人差し指で、ちょんちょんと窓ガラスを指差してくる。
返事を書けと、催促されて。
頼むから、と海堂は今更のように羞恥にかられて歯噛みした。
いったい。
何をやっているのだ自分達は。
じわじわと侵食してくる羞恥心に居たたまれなくなる。
窓を開けて、顔を合わせて、言葉にして。
そうすれば別に、たいしたことでもなんでもない筈だ。
それが、こんな風なやりとりにしてしまうと。
そう気付いてしまえばあまりにも。
「………………」
海堂が顔を俯かせ、後ろ髪を握り締めて。
もう強行に窓を開けてしまおうかと考えると、乾はそれを察したようなタイミングで。
尚も楽しそうに笑みを深め、まるで、しょうがないなあとでも言いたげに素早く人差し指を動かした。
『YES , NO』
「………………」
『どっちかに丸つけて?』
笑う乾は、海堂をからかっているのではない。
単に、海堂からこの状況下での文字での返事が欲しくて堪らないだけなのだ。
海堂にもそれは判った。
窓ガラスを間に隔てて、声に出す会話の出来ない状態で、意思のやりとりがしたいだけ。
愛しいと気持ちの満ちた目で見つめられ、微笑まれては、海堂も意地を張るのと羞恥に打ち勝つとのではどちらが得策か迷う余裕も失って。
殆ど無意識に、それでいて震えるようなぎこちない指で、丸を。
外側から乾が書いたYESの文字を、海堂は内側から、丸で囲んだ。
とても、声が、聞きたい。
そう、強く、思ったまま。
冷たい窓ガラスをなぞった筈の人差し指の先が、いつまでもいつまでも。
熱がたまったようになって、温かい。
音のした方向に視線を向けると、結露に僅かに煙った窓越しに、見知った姿を見つけて。
目を見開き、少し考え、歩み寄る。
中庭側から、中指の第二関節で窓ガラスを軽くノックしてきた相手は上級生だ。
海堂が窓を開けようと手をかけると、その相手、乾は唇を笑みの形に引き上げて首を左右に振った。
「………………」
制された海堂が戸惑って眉根を寄せると、乾は人差し指で窓ガラスに文字を書いてきた。
『元気?』
「………………」
海堂の方から見てそう読めるのだから、乾は文字を逆向きで書いている筈なのに、その所作は滑らかだった。
わざわざ文字にして聞かれる意味が判らず、海堂は怪訝に窓越しの乾を見やった。
海堂が無言で再度窓枠に手を伸ばすと、乾は笑って更に手早く文字を綴った。
『寒いからあけない』
「………………」
乾は外にいる訳だから、どうやら海堂を気遣っての事らしい。
別に寒いくらいが何だと海堂は内心呆れたが、乾が最初に書いた『元気?』の文字を丸で囲って僅かに首を傾けてくる。
「………ッス…」
聞こえないと判っていても小さく声にしてしまいながら、海堂は頷いた。
内側からの膜のような窓の結露と違い、外側から乾が指でなぞる文字は、あまりはっきりとは残らない。
耳で聞く音の余韻のように、目の前の文字が消えていく。
『それならよかった』
『今日部活ないよな?』
『これから雨降るらしい。カサ持ってきてる?』
次々に書かれていく文字に、頷いたり、首を振ったりしながら。
海堂はもどかしさを覚えてしまう。
別に答えに困るような事は聞かれていない。
僅かな所作だけで意思は伝えられる。
でも、もどかしい。
ひどく、もどかしいのだ。
「………………」
言葉のうまくない、口の重い自分に。
こんなにも話したいと思わせる乾が、海堂には不思議だった。
端的な意思表示には、こんな風に、言葉がいらない事もあるけれど。
それでも言葉で伝えたい、海堂にとって乾はいつでもそういう相手だった。
『一緒に帰りたいけど、予定あるか』
「……、………」
そして海堂は、その文字に、問いかけに、憮然とした。
漢字を、よくもそんな早いスピードで逆向きから書けるものだと驚くのが半分。
文字を、あまりにも率直な言葉で綴られて気恥ずかしいのが半分。
「………………」
リアクションを示さない海堂に、乾は。
返事、とでも言うように。
立てた人差し指で、ちょんちょんと窓ガラスを指差してくる。
返事を書けと、催促されて。
頼むから、と海堂は今更のように羞恥にかられて歯噛みした。
いったい。
何をやっているのだ自分達は。
じわじわと侵食してくる羞恥心に居たたまれなくなる。
窓を開けて、顔を合わせて、言葉にして。
そうすれば別に、たいしたことでもなんでもない筈だ。
それが、こんな風なやりとりにしてしまうと。
そう気付いてしまえばあまりにも。
「………………」
海堂が顔を俯かせ、後ろ髪を握り締めて。
もう強行に窓を開けてしまおうかと考えると、乾はそれを察したようなタイミングで。
尚も楽しそうに笑みを深め、まるで、しょうがないなあとでも言いたげに素早く人差し指を動かした。
『YES , NO』
「………………」
『どっちかに丸つけて?』
笑う乾は、海堂をからかっているのではない。
単に、海堂からこの状況下での文字での返事が欲しくて堪らないだけなのだ。
海堂にもそれは判った。
窓ガラスを間に隔てて、声に出す会話の出来ない状態で、意思のやりとりがしたいだけ。
愛しいと気持ちの満ちた目で見つめられ、微笑まれては、海堂も意地を張るのと羞恥に打ち勝つとのではどちらが得策か迷う余裕も失って。
殆ど無意識に、それでいて震えるようなぎこちない指で、丸を。
外側から乾が書いたYESの文字を、海堂は内側から、丸で囲んだ。
とても、声が、聞きたい。
そう、強く、思ったまま。
冷たい窓ガラスをなぞった筈の人差し指の先が、いつまでもいつまでも。
熱がたまったようになって、温かい。
例えば、聞き取れなかった言葉の聞き返し方。
電話の切り方。
雑談の終わらせ方。
キスの始め方。
繋げた身体の離し方。
乾のやり方は、いつも特別で、いつも普通で、優しく流れていく。
海堂は乾にされた事、言われた事を、思い出すことは出来るけれど。
乾がいつも必要以上に誇示してはこないから、海堂はゆっくりと、考えたり受け入れたり不思議に思ったりする事が出来る。
乾の言動は独特だと言われているらしい。
海堂も最初はそう思った。
でもゆっくりと、ずっと、傍にいて。
深いところが判ってくる。
乾独自の、言葉の言い回しや、物事の突き詰め方、フットワーク、興味の対象。
自己が確立していて、むやみやたらと感化されることはないようでいて、でも決して頑なではない。
個人主義に思われがちだが、誰よりも、人の異変や変化に敏感だ。
何でも好きなようにしているようでいて、実際は自分の事などは平気で後回しにしたりする。
乾の深いところを知っていく。
それと同時に、海堂も乾に深いところを知られていく。
人に見せなかったような自分を、見せられるし、見せたりもする。
「……かーいどう」
「………………」
ベッドから降りようとしていた海堂は、背後からの乾の腕でいとも簡単に毛布へと引き戻されてしまう。
巻きついてくる両腕でしっかりと抱え込まれて、でもその腕の力は無理矢理というよりは手放しの甘えでしかない。
「どこ行くの」
「………喉かわいたんで…」
離せと言うのは簡単だ。
でも海堂は自身の腹部に回されている乾の手を軽く叩いてその言葉の代わりにした。
離されたくないのだと、ひっそりと思う。
「……離したくないなあ…」
「………………」
海堂の心中をそっくり奪って乾の主観にすりかえたような言葉。
低い声で艶めいてねだられて、海堂は小さく肩を竦めた。
海堂よりも背の高い乾だったが、ベッドの中でこうして横たわっていると、身長差というものはなくなってしまう。
それでもこうして背後からすっぽりと肢体を包まれてしまうと、乾の身長が自分よりも高いということを思い知らされる。
海堂は背後から年上の男に甘えてこられて、その腕の中に封じ込められて、吐息をこぼす。
呆れてでもなく、諦めてでもなく。
あいしていて、その束縛を。
「海堂」
うなじに、肩口に、唇を寄せられる。
「……時間が来たら、帰んのはあんただろうが…」
海堂の部屋で。
今はこうして二人きりでいるけれど。
あとどれだけかしたら、然程多くはない時間が過ぎたら、乾は帰っていく。
学年がひとつ違うという事は、それだけで日常生活の中に接点が少ない。
圧倒的に。
乾が部活を引退してからは尚の事で。
毎日、ひどく渇望している気がする。
一緒にいられれば、満たされすぎて、今度はこうして甘ったるくなるばかりだ。
「海堂」
「…はい?」
首筋に唇が押し当てられて、海堂は目を閉じて返事をした。
ただ抱きしめあったり、睦みあったり、話をしたり。
そういう事は、平素にいきなりするとなると、なかなかできない。
海堂が身構えてしまうのだ。
しかし、こんな風に事後に。
脱力している時ならば、海堂にも必要以上の身構えがなくなった。
乾は当然判っているのだろう。
した後の、海堂への構い方は。
優しいという一言では、到底くくれない程で。
甘やかし方も、甘え方も、手加減がない。
「七年後…っていうのは、これは、計算間違いだな、やっぱり」
「先輩?……」
いきなり何の話だと肩越しに乾を振り返ろうとした海堂の唇は。窮屈な体勢のまま浅いキスで塞がれた。
唇と唇とが離れる時に、小さく音がした。
「………………」
「五年後にしよう。二年早めて」
「………何の話っすか…」
「俺が大学を出る時じゃなく、海堂が大学に入る時で」
海堂の困惑などお構いなしに乾は話を進めていく。
乾は時々、七年後、の話をする。
何かにつけ、七年後を語る。
どうやら七年後というのは乾が大学を卒業する年らしい。
海堂は自分の背後で、しがみつくようにして抱きしめてくる乾が、ぶつぶつと呟く言葉に淡く微笑した。
海堂のいる所に帰りたい。
まるっきりプロポーズのような言葉を、乾は将来の展望への、志望動機のようにしてよく口にした。
淡々と、浮ついた所などまるで見せず、堅実に計画しているらしい。
「乾先輩」
「何だ、海堂?」
「大事な話をする時はちゃんと正面からにして下さい」
乾が考えている事であっても、乾だけの話ではないのだ。
予定を変更するというのなら、ちゃんと、自分の顔を見て、目を見て、自分にも話をしろと海堂は言った。
乾は迷う風に少し笑って、海堂を抱き込む腕に力を込めてきた。
ぴったりと背中に密着する体温。
背後から耳の縁に唇が寄せられる。
「…………何やってんですか。人の話聞いて…」
「今正面から海堂のこと見たら、もう一回手を出しそうなんだが」
「……百まで数えて、それまでに終わるんならいいっすよ」
海堂はあくまで時間を気にして言ったのだが、乾は身体を震わせて笑い出した。
海堂は抱きしめられたままだから、それが全部伝わってくる。
「………何馬鹿笑いしてんですか。あんた」
「や、…想像したらあまりに可愛くて」
「可愛いわけあるか…!」
「可愛いだろ。普通に考えて」
何がどうしたのか、ツボにはまったように乾は笑ったままになる。
海堂は憮然となって、だがしかし。
笑うだけ笑った乾が、次第に笑いがおさめていって、ふうっと最後に息を整えるように吐息を零した後。
生真面目な声で囁いた言葉に、縛り付けられて。
泣き言めいた言葉をもらす羽目になった。
「可愛い」
「………うるせぇよ、先輩」
背中側から海堂の頬にあてがわれていた乾の手のひら、その親指の付け根辺りに。
図らずとも口付けのように唇が当たり、海堂が漏らした悪態が、そこに擦り付けられる。
そうして乾の手のひらは、海堂が咎めたせいなのか、もう言葉にはせずに。
声に出さずにそれを伝えるように。
海堂の顔を丁寧に、丁寧に撫でた。
電話の切り方。
雑談の終わらせ方。
キスの始め方。
繋げた身体の離し方。
乾のやり方は、いつも特別で、いつも普通で、優しく流れていく。
海堂は乾にされた事、言われた事を、思い出すことは出来るけれど。
乾がいつも必要以上に誇示してはこないから、海堂はゆっくりと、考えたり受け入れたり不思議に思ったりする事が出来る。
乾の言動は独特だと言われているらしい。
海堂も最初はそう思った。
でもゆっくりと、ずっと、傍にいて。
深いところが判ってくる。
乾独自の、言葉の言い回しや、物事の突き詰め方、フットワーク、興味の対象。
自己が確立していて、むやみやたらと感化されることはないようでいて、でも決して頑なではない。
個人主義に思われがちだが、誰よりも、人の異変や変化に敏感だ。
何でも好きなようにしているようでいて、実際は自分の事などは平気で後回しにしたりする。
乾の深いところを知っていく。
それと同時に、海堂も乾に深いところを知られていく。
人に見せなかったような自分を、見せられるし、見せたりもする。
「……かーいどう」
「………………」
ベッドから降りようとしていた海堂は、背後からの乾の腕でいとも簡単に毛布へと引き戻されてしまう。
巻きついてくる両腕でしっかりと抱え込まれて、でもその腕の力は無理矢理というよりは手放しの甘えでしかない。
「どこ行くの」
「………喉かわいたんで…」
離せと言うのは簡単だ。
でも海堂は自身の腹部に回されている乾の手を軽く叩いてその言葉の代わりにした。
離されたくないのだと、ひっそりと思う。
「……離したくないなあ…」
「………………」
海堂の心中をそっくり奪って乾の主観にすりかえたような言葉。
低い声で艶めいてねだられて、海堂は小さく肩を竦めた。
海堂よりも背の高い乾だったが、ベッドの中でこうして横たわっていると、身長差というものはなくなってしまう。
それでもこうして背後からすっぽりと肢体を包まれてしまうと、乾の身長が自分よりも高いということを思い知らされる。
海堂は背後から年上の男に甘えてこられて、その腕の中に封じ込められて、吐息をこぼす。
呆れてでもなく、諦めてでもなく。
あいしていて、その束縛を。
「海堂」
うなじに、肩口に、唇を寄せられる。
「……時間が来たら、帰んのはあんただろうが…」
海堂の部屋で。
今はこうして二人きりでいるけれど。
あとどれだけかしたら、然程多くはない時間が過ぎたら、乾は帰っていく。
学年がひとつ違うという事は、それだけで日常生活の中に接点が少ない。
圧倒的に。
乾が部活を引退してからは尚の事で。
毎日、ひどく渇望している気がする。
一緒にいられれば、満たされすぎて、今度はこうして甘ったるくなるばかりだ。
「海堂」
「…はい?」
首筋に唇が押し当てられて、海堂は目を閉じて返事をした。
ただ抱きしめあったり、睦みあったり、話をしたり。
そういう事は、平素にいきなりするとなると、なかなかできない。
海堂が身構えてしまうのだ。
しかし、こんな風に事後に。
脱力している時ならば、海堂にも必要以上の身構えがなくなった。
乾は当然判っているのだろう。
した後の、海堂への構い方は。
優しいという一言では、到底くくれない程で。
甘やかし方も、甘え方も、手加減がない。
「七年後…っていうのは、これは、計算間違いだな、やっぱり」
「先輩?……」
いきなり何の話だと肩越しに乾を振り返ろうとした海堂の唇は。窮屈な体勢のまま浅いキスで塞がれた。
唇と唇とが離れる時に、小さく音がした。
「………………」
「五年後にしよう。二年早めて」
「………何の話っすか…」
「俺が大学を出る時じゃなく、海堂が大学に入る時で」
海堂の困惑などお構いなしに乾は話を進めていく。
乾は時々、七年後、の話をする。
何かにつけ、七年後を語る。
どうやら七年後というのは乾が大学を卒業する年らしい。
海堂は自分の背後で、しがみつくようにして抱きしめてくる乾が、ぶつぶつと呟く言葉に淡く微笑した。
海堂のいる所に帰りたい。
まるっきりプロポーズのような言葉を、乾は将来の展望への、志望動機のようにしてよく口にした。
淡々と、浮ついた所などまるで見せず、堅実に計画しているらしい。
「乾先輩」
「何だ、海堂?」
「大事な話をする時はちゃんと正面からにして下さい」
乾が考えている事であっても、乾だけの話ではないのだ。
予定を変更するというのなら、ちゃんと、自分の顔を見て、目を見て、自分にも話をしろと海堂は言った。
乾は迷う風に少し笑って、海堂を抱き込む腕に力を込めてきた。
ぴったりと背中に密着する体温。
背後から耳の縁に唇が寄せられる。
「…………何やってんですか。人の話聞いて…」
「今正面から海堂のこと見たら、もう一回手を出しそうなんだが」
「……百まで数えて、それまでに終わるんならいいっすよ」
海堂はあくまで時間を気にして言ったのだが、乾は身体を震わせて笑い出した。
海堂は抱きしめられたままだから、それが全部伝わってくる。
「………何馬鹿笑いしてんですか。あんた」
「や、…想像したらあまりに可愛くて」
「可愛いわけあるか…!」
「可愛いだろ。普通に考えて」
何がどうしたのか、ツボにはまったように乾は笑ったままになる。
海堂は憮然となって、だがしかし。
笑うだけ笑った乾が、次第に笑いがおさめていって、ふうっと最後に息を整えるように吐息を零した後。
生真面目な声で囁いた言葉に、縛り付けられて。
泣き言めいた言葉をもらす羽目になった。
「可愛い」
「………うるせぇよ、先輩」
背中側から海堂の頬にあてがわれていた乾の手のひら、その親指の付け根辺りに。
図らずとも口付けのように唇が当たり、海堂が漏らした悪態が、そこに擦り付けられる。
そうして乾の手のひらは、海堂が咎めたせいなのか、もう言葉にはせずに。
声に出さずにそれを伝えるように。
海堂の顔を丁寧に、丁寧に撫でた。
海堂が見ている。
盗み見るということを知らない海堂の視線は率直だ。
乾は唇に微かに笑みを刻んだ。
海堂に見られているもの。
それが自分だという事、それだけで口元の緩む自分がおかしかった。
部室の片隅で乾はベンチに座り、組んだ足の腿の上でノートに書き込みをしながら、そっと目線を海堂に向ける。
少し距離を置いて同じベンチに座っている海堂に、どうかした?と目で問いかけてやると、海堂の最初の疑問がその目を見ただけで乾には判ってしまった。
「珍しい? 俺が鉛筆使うの」
海堂が驚いたように目を見張る。
それから、海堂は顎を引くようにして小さく頷いた。
案外見られているものなんだなと乾は思って、右手を軽く持ち上げる。
乾は普段ボールペンを使う。
確かに鉛筆を持つのは久しぶりだ。
「北極グマは左利き…なんですか」
次いで、海堂はそう呟いた。
「みたいだな。確かめたのかね」
軸の黒い鉛筆には白抜きの英文で、そう書いてある。
海堂は動物好きだ。
じっとその一文に集中して、ずっと考えていたのかと思うと、それが乾には堪らなく可愛いように思えた。
それならばこれも、と乾は海堂と逆側に置いていた鞄の中から取り出したメモパッドを海堂側に置く。
「………北極グマは…黒い…」
「………………」
「半透明の毛皮が、白く見せている」
ですか?と言いたげに乾を見据えてくる海堂の視線。
訥々とした低い声での口調や、その実直な眼差しに。
乾はもう、本当に。
どうしようもなく可愛いと、しみじみ思った。
鉛筆同様に、黒地のメモパッドに白で印字された英文を読んで真剣に考え込む海堂を見やって、完全降伏したくなる程だ。
ロンドンの博物館土産という事で、いつだったか知り合いから貰ったままになっていたものを、ほんの気まぐれで使い出して良かったと、随分とささいな事でも幸せを噛み締められる自分がおかしかった。
幸せの根源にあるもの。
それはあの海堂が、テニスのこと以外で自分に目を向ける、言葉を向ける、そういうことだ。
乾は、いつの間にか自分にひどく大切で稀有な存在になっていた相手を見やりながら、きっとこの生真面目な後輩は、今晩は北極グマのことを調べたりするんだろうなと予想して微笑した。
「…………何っすか…」
「ん?」
海堂が警戒するような顔をする。
困らなくてもいいのに、と乾は結局笑みを深めてしまう。
乾が笑うと、海堂はいつもこういう顔をする。
困ったようにうろたえて、するりと逃げられそうになる。
「海堂。もうひとつあったよ。そういえば」
「………………」
「ジャンプが出来ない唯一の哺乳類はなんだと思う?」
乾は鞄の中から四角いプラスチックの鉛筆削りを取り出した。
印字されている英文を自分に向け、読み上げて質問すると。
乾の笑みひとつで逃げかけていた海堂が、気をとられてまた生真面目に考え込むのが目に甘い。
「はい。答え」
「……え、…」
ぽん、と海堂の手のひらに小さな鉛筆削りを乗せてやる。
海堂は面食らったような顔で、乾と、鉛筆削りとを見やっている。
「あの、…乾先輩…」
「あげる」
乾は笑って立ち上がった。
まだ気安いと呼ぶには程遠い関係ではあるが、多分少し前までなら。
乾が何かをあげると言っても、海堂は受け取らなかっただろう。
例え今は、答えが知りたいのだとしても、海堂は小さなその文具を、乾につき返してきたりはしない。
それどころか即座に手のひらにある鉛筆削りをじっと見下ろし、真剣な顔で答えを読み取った海堂の頭に、乾は立ち上がり様、笑って軽く手のひらを置いた。
さらさらと優しい涼しい感触がした。
ゾウはジャンプが出来ない唯一の哺乳類である。
そんなプリントがされた不思議な鉛筆削りは、それからずっと海堂のペンケースの中にある。
盗み見るということを知らない海堂の視線は率直だ。
乾は唇に微かに笑みを刻んだ。
海堂に見られているもの。
それが自分だという事、それだけで口元の緩む自分がおかしかった。
部室の片隅で乾はベンチに座り、組んだ足の腿の上でノートに書き込みをしながら、そっと目線を海堂に向ける。
少し距離を置いて同じベンチに座っている海堂に、どうかした?と目で問いかけてやると、海堂の最初の疑問がその目を見ただけで乾には判ってしまった。
「珍しい? 俺が鉛筆使うの」
海堂が驚いたように目を見張る。
それから、海堂は顎を引くようにして小さく頷いた。
案外見られているものなんだなと乾は思って、右手を軽く持ち上げる。
乾は普段ボールペンを使う。
確かに鉛筆を持つのは久しぶりだ。
「北極グマは左利き…なんですか」
次いで、海堂はそう呟いた。
「みたいだな。確かめたのかね」
軸の黒い鉛筆には白抜きの英文で、そう書いてある。
海堂は動物好きだ。
じっとその一文に集中して、ずっと考えていたのかと思うと、それが乾には堪らなく可愛いように思えた。
それならばこれも、と乾は海堂と逆側に置いていた鞄の中から取り出したメモパッドを海堂側に置く。
「………北極グマは…黒い…」
「………………」
「半透明の毛皮が、白く見せている」
ですか?と言いたげに乾を見据えてくる海堂の視線。
訥々とした低い声での口調や、その実直な眼差しに。
乾はもう、本当に。
どうしようもなく可愛いと、しみじみ思った。
鉛筆同様に、黒地のメモパッドに白で印字された英文を読んで真剣に考え込む海堂を見やって、完全降伏したくなる程だ。
ロンドンの博物館土産という事で、いつだったか知り合いから貰ったままになっていたものを、ほんの気まぐれで使い出して良かったと、随分とささいな事でも幸せを噛み締められる自分がおかしかった。
幸せの根源にあるもの。
それはあの海堂が、テニスのこと以外で自分に目を向ける、言葉を向ける、そういうことだ。
乾は、いつの間にか自分にひどく大切で稀有な存在になっていた相手を見やりながら、きっとこの生真面目な後輩は、今晩は北極グマのことを調べたりするんだろうなと予想して微笑した。
「…………何っすか…」
「ん?」
海堂が警戒するような顔をする。
困らなくてもいいのに、と乾は結局笑みを深めてしまう。
乾が笑うと、海堂はいつもこういう顔をする。
困ったようにうろたえて、するりと逃げられそうになる。
「海堂。もうひとつあったよ。そういえば」
「………………」
「ジャンプが出来ない唯一の哺乳類はなんだと思う?」
乾は鞄の中から四角いプラスチックの鉛筆削りを取り出した。
印字されている英文を自分に向け、読み上げて質問すると。
乾の笑みひとつで逃げかけていた海堂が、気をとられてまた生真面目に考え込むのが目に甘い。
「はい。答え」
「……え、…」
ぽん、と海堂の手のひらに小さな鉛筆削りを乗せてやる。
海堂は面食らったような顔で、乾と、鉛筆削りとを見やっている。
「あの、…乾先輩…」
「あげる」
乾は笑って立ち上がった。
まだ気安いと呼ぶには程遠い関係ではあるが、多分少し前までなら。
乾が何かをあげると言っても、海堂は受け取らなかっただろう。
例え今は、答えが知りたいのだとしても、海堂は小さなその文具を、乾につき返してきたりはしない。
それどころか即座に手のひらにある鉛筆削りをじっと見下ろし、真剣な顔で答えを読み取った海堂の頭に、乾は立ち上がり様、笑って軽く手のひらを置いた。
さらさらと優しい涼しい感触がした。
ゾウはジャンプが出来ない唯一の哺乳類である。
そんなプリントがされた不思議な鉛筆削りは、それからずっと海堂のペンケースの中にある。
小さな小さな白い花が咲いていて、小さな小さな薄皮の丸い実を生らせている。
まだ薄緑色の実は時期に掠れた茶色に変わる。
「フウセンカズラか」
「………………」
自主トレでよく利用する公園の片隅で、ジャージ姿の乾が視線を流す。
乾の隣で、首にかけたタオルで額の汗を拭っていた海堂は視線を移す。
二人、同じ物を見つめて、それから互いへと目を向けた。
「…………乾先輩?」
目が合うといきなり乾の手が伸びてきて、海堂のこめかみから顎へと伝い落ちる汗を、その指先が捕まえた。
生真面目に海堂の汗で濡れた自身の指先を見つめる乾の表情に、海堂は少し首を傾けて問う。
乾が、花を見つけた時と同じ眼差しで、自身の指先を見つめているからだ。
海堂の汗を、乾の瞳は、優しげに、やわらかに、そして気をとられている目で見つめている。
問いかけにも返答はなく、海堂は複雑に沈黙したまま首にかけていたタオルの端で乾の指先を拭ってしまう。
「ひどいな」
宝物でも奪われたみたいに苦笑いする乾を軽く睨んで、海堂は群生しているフウセンカズラに視線を逃がした。
「種が」
「…うん?」
「これの」
種。
たどたどしい、言葉のうまくない自分から、どうして乾はいつも言葉を引き出すのだろうと海堂は不思議に思った。
「種?」
低い声。
あまり抑揚をつけない、淡々とした物言い。
乾のそんな相槌に、海堂は尚も言葉を返すのだ。
「……ッス。……形、知ってます…?」
「一つの実の中に三つずつ種が入ってるって形は理解してるが……そういう話ではなく?」
「………………」
海堂は、淡く枯れ色に近づいていっている実をひとつ、片手で軽く取り崩した。
それを乗せたままの手のひらを乾に差し出す。
乾の骨ばった手が海堂の手のひらの上に翳され、指先が種を転がす。
「へえ…」
「………………」
「全部になのか?」
一粒一粒に。
フウセンカズラの実にはハートのマークが刻まれている。
黒い種に白いハートだ。
乾の指先が摘まんだ種にも当然のこと。
「これは知らなかったな」
「……俺は花の名前を知らなかった」
海堂が知っていたのは種の模様だけだ。
乾は花の名前だけだと言う。
「海堂」
「………………」
呼ばれて顔を上げるなり。
唇に、キスをされた。
ふいうちの事に目を瞠れば、乾はすぐに離れていって。
「……な……、?」
「お前と居たい」
「…乾先輩?」
「お前が、要る」
「………………」
「そんな事ばかり考えてるんだ。俺は」
静かな声はとても落ち着いて聞こえて、海堂は、乾の言葉を正しいアクセントで受け入れた。
そして、何をそんな当たり前の事、と思った。
居たいのも、要るのも、そんなことは自分こそがだ。
じっと乾を見上げた海堂の後頭部に、乾の手のひらが宛がわれて。
乾の肩口に軽く押さえつけられるようにして、海堂は抱き締められた。
「俺は外側の事しか判らないから」
「………………」
「内側の事を知っている海堂に固執する」
「乾先輩」
海堂の方からも、乾の背中側から回した手で乾の肩を抱き返す。
請うような事を言わなくてもいいのだと、伝わるだろうか。
固執というならば、いっそ自分の方がどれだけ。
「………………」
乾を抱き締めたことで、海堂の手のひらからは三粒の種が零れ落ちていった。
小さな黒い種の、小さな白いハートは、自分達の抱擁でばらけて、口付けで散らばって、そうしてこの場所に、また根付いて花を咲かすだろう。
約束のように。
知っている事が違うというなら。
知らない事が違うというなら。
それがどれほどの安堵であるのか、自分達はちゃんと知っている。
まだ薄緑色の実は時期に掠れた茶色に変わる。
「フウセンカズラか」
「………………」
自主トレでよく利用する公園の片隅で、ジャージ姿の乾が視線を流す。
乾の隣で、首にかけたタオルで額の汗を拭っていた海堂は視線を移す。
二人、同じ物を見つめて、それから互いへと目を向けた。
「…………乾先輩?」
目が合うといきなり乾の手が伸びてきて、海堂のこめかみから顎へと伝い落ちる汗を、その指先が捕まえた。
生真面目に海堂の汗で濡れた自身の指先を見つめる乾の表情に、海堂は少し首を傾けて問う。
乾が、花を見つけた時と同じ眼差しで、自身の指先を見つめているからだ。
海堂の汗を、乾の瞳は、優しげに、やわらかに、そして気をとられている目で見つめている。
問いかけにも返答はなく、海堂は複雑に沈黙したまま首にかけていたタオルの端で乾の指先を拭ってしまう。
「ひどいな」
宝物でも奪われたみたいに苦笑いする乾を軽く睨んで、海堂は群生しているフウセンカズラに視線を逃がした。
「種が」
「…うん?」
「これの」
種。
たどたどしい、言葉のうまくない自分から、どうして乾はいつも言葉を引き出すのだろうと海堂は不思議に思った。
「種?」
低い声。
あまり抑揚をつけない、淡々とした物言い。
乾のそんな相槌に、海堂は尚も言葉を返すのだ。
「……ッス。……形、知ってます…?」
「一つの実の中に三つずつ種が入ってるって形は理解してるが……そういう話ではなく?」
「………………」
海堂は、淡く枯れ色に近づいていっている実をひとつ、片手で軽く取り崩した。
それを乗せたままの手のひらを乾に差し出す。
乾の骨ばった手が海堂の手のひらの上に翳され、指先が種を転がす。
「へえ…」
「………………」
「全部になのか?」
一粒一粒に。
フウセンカズラの実にはハートのマークが刻まれている。
黒い種に白いハートだ。
乾の指先が摘まんだ種にも当然のこと。
「これは知らなかったな」
「……俺は花の名前を知らなかった」
海堂が知っていたのは種の模様だけだ。
乾は花の名前だけだと言う。
「海堂」
「………………」
呼ばれて顔を上げるなり。
唇に、キスをされた。
ふいうちの事に目を瞠れば、乾はすぐに離れていって。
「……な……、?」
「お前と居たい」
「…乾先輩?」
「お前が、要る」
「………………」
「そんな事ばかり考えてるんだ。俺は」
静かな声はとても落ち着いて聞こえて、海堂は、乾の言葉を正しいアクセントで受け入れた。
そして、何をそんな当たり前の事、と思った。
居たいのも、要るのも、そんなことは自分こそがだ。
じっと乾を見上げた海堂の後頭部に、乾の手のひらが宛がわれて。
乾の肩口に軽く押さえつけられるようにして、海堂は抱き締められた。
「俺は外側の事しか判らないから」
「………………」
「内側の事を知っている海堂に固執する」
「乾先輩」
海堂の方からも、乾の背中側から回した手で乾の肩を抱き返す。
請うような事を言わなくてもいいのだと、伝わるだろうか。
固執というならば、いっそ自分の方がどれだけ。
「………………」
乾を抱き締めたことで、海堂の手のひらからは三粒の種が零れ落ちていった。
小さな黒い種の、小さな白いハートは、自分達の抱擁でばらけて、口付けで散らばって、そうしてこの場所に、また根付いて花を咲かすだろう。
約束のように。
知っている事が違うというなら。
知らない事が違うというなら。
それがどれほどの安堵であるのか、自分達はちゃんと知っている。
置いてあるのではない。
忘れられているのだ。
海堂は溜息をつく。
「乾先輩」
ノート、と困惑気味にそれを差し出し海堂が告げると、部室から出ようとしていた乾は足を止めて振り返り、唇に苦笑を刻んだ。
「それ忘れるようじゃ、どうかしてるな」
「…そうは言ってねえ」
「ありがとう。海堂」
「………………」
収集しているデータを書きつけたノートを、乾がどこかに置き忘れて帰るなど通常ではありえない。
海堂は困ったような苛立つような気分になった。
「ん…? 大丈夫だよ。疲れてるわけじゃないから」
海堂の手からノートを受け取って、乾はそっと囁いた。
薄く笑んでいる乾の表情を間近から見上げて、海堂は再び溜息混じりに乾と共に部室を出て、カギを閉める。
今日も部室を出るのは自分達が最後だ。
大石から預っている鍵を制服のポケットに入れて、海堂は乾の隣を歩いた。
「乾先輩」
「何だ?」
「今度の試合…立海のD2、どう予測してるんすか」
「蓮二と切原」
なめらかな低音は気負い無く、しかし断言した。
海堂がちらりと伺ってみても、乾の表情に変化はない。
「どうした…? 海堂」
「………………」
寧ろ海堂の視線に気づいて乾は表情を動かした。
「シングルスじゃなく…」
「うん?」
ダブルスで、と海堂が言った所で。
ああ、と乾は全てを理解した顔で頷いた。
「何か俺が、ものすごく考え込んでると…海堂は思ってる?」
「…別に」
そんなんじゃなねえ、と海堂は、自身でも歯切れの悪い事を自覚しつつ呻いた。
ただ。
海堂は、乾が紛れもないシングルスプレイヤーだということを知っている。
立海の柳とダブルスを組んでいた乾が、どういう経緯でそのコンビを解消したのかも聞いている。
その人もまた、乾がシングルスプレイヤーである事を確信していて、それ故に黙って姿を消したのなら。
再び互いが対戦する場がダブルスの試合であるという事は、柳にとっても乾にとってもどれだけの意味を持つ事になるのか。
その場で乾とダブルスを組んでいる相手が自分であるという事が、どういう事であるのか。
海堂は、ふと、途方にくれる気持ちになったのだ。
「………………」
暗い道を、肩を並べて歩く自分達が、ダブルスであるという事が。
今更ながらに重い焦燥感を海堂に知らしめる。
次の試合で、自分達がダブルスであるという事が決まってから。
短い期間ながらもこれまで以上に二人でいる時間が増えた中で、例えば今のように、何よりも大切なデータ帳を置き忘れる乾の様子などを目の当たりにすれば尚更だ。
しかし、それ故に、そういう考え事に捕らわれかけていた海堂は、いきなり乾に手を握られてひどく驚いた。
「な、……」
「努力するっていう事を、教えてくれたよ。お前の手が」
「………………」
「頑張るっていう事を、俺は海堂を見ていて、初めてちゃんと理解したんだ」
自分のかたい手のひらを、もっとかたい乾の手のひらが擦るようにしてくるのを海堂は見開いた目で見下ろした。
「言葉自体が、どこかありきたりすぎて、俺はよく判ってなかった。頑張るとか、努力するとか」
乾は微笑んでいるようだった。
声がやわらかかった。
海堂は伏せた目線を上げられなかったけれど、それが判った。
「俺の言葉やデータで、動く海堂を見ていて。強くなっていくのを見ていて。俺は初めて自分を省みられた気がしたんだ」
「乾先輩…?」
「正直、誰かとダブルスを組む事はもうないだろうと思ったりもしてた」
「………………」
「お前だけだ。どうにかしてでもって、ダブルスに固執したのはな」
握られている手に力がこもり、海堂は顔を上げた。
乾は海堂を見ていた。
「俺はお前の事を、何だか見せびらかしたいような気分なんだ」
笑って言うその表情は明るかった。
乾は楽しげにそう告げて、海堂の手を離し、代わりに軽く肩を抱いてきた。
「蓮二とダブルスで試合をするなら尚更だ」
勝ちたいんだと笑いながらも強く乾が言う。
海堂は唇に微かな笑みを浮かべ、言いようのない感情に、目を伏せる。
「…勝ちたいとか言うな」
「海堂」
「絶対に勝つ」
一瞬だけ、微かにだけ。
海堂は乾の腕に身体を預けた。
それから乾の腕からするりと抜け出した。
「走って帰るっス」
「おいおい…」
オーバーワーク、と呟く乾の口調と、どこか名残惜しげに宙に浮いた手の動きがおかしくて、海堂は笑みを浮かべながら背を向けた。
振り返りながらも流し見た乾が、すっきりとした目で苦笑いしているので、海堂は遠慮なく全力で走り出した。
勝ちたい、でもない。
勝とう、でもない。
勝つ、のだから。
忘れられているのだ。
海堂は溜息をつく。
「乾先輩」
ノート、と困惑気味にそれを差し出し海堂が告げると、部室から出ようとしていた乾は足を止めて振り返り、唇に苦笑を刻んだ。
「それ忘れるようじゃ、どうかしてるな」
「…そうは言ってねえ」
「ありがとう。海堂」
「………………」
収集しているデータを書きつけたノートを、乾がどこかに置き忘れて帰るなど通常ではありえない。
海堂は困ったような苛立つような気分になった。
「ん…? 大丈夫だよ。疲れてるわけじゃないから」
海堂の手からノートを受け取って、乾はそっと囁いた。
薄く笑んでいる乾の表情を間近から見上げて、海堂は再び溜息混じりに乾と共に部室を出て、カギを閉める。
今日も部室を出るのは自分達が最後だ。
大石から預っている鍵を制服のポケットに入れて、海堂は乾の隣を歩いた。
「乾先輩」
「何だ?」
「今度の試合…立海のD2、どう予測してるんすか」
「蓮二と切原」
なめらかな低音は気負い無く、しかし断言した。
海堂がちらりと伺ってみても、乾の表情に変化はない。
「どうした…? 海堂」
「………………」
寧ろ海堂の視線に気づいて乾は表情を動かした。
「シングルスじゃなく…」
「うん?」
ダブルスで、と海堂が言った所で。
ああ、と乾は全てを理解した顔で頷いた。
「何か俺が、ものすごく考え込んでると…海堂は思ってる?」
「…別に」
そんなんじゃなねえ、と海堂は、自身でも歯切れの悪い事を自覚しつつ呻いた。
ただ。
海堂は、乾が紛れもないシングルスプレイヤーだということを知っている。
立海の柳とダブルスを組んでいた乾が、どういう経緯でそのコンビを解消したのかも聞いている。
その人もまた、乾がシングルスプレイヤーである事を確信していて、それ故に黙って姿を消したのなら。
再び互いが対戦する場がダブルスの試合であるという事は、柳にとっても乾にとってもどれだけの意味を持つ事になるのか。
その場で乾とダブルスを組んでいる相手が自分であるという事が、どういう事であるのか。
海堂は、ふと、途方にくれる気持ちになったのだ。
「………………」
暗い道を、肩を並べて歩く自分達が、ダブルスであるという事が。
今更ながらに重い焦燥感を海堂に知らしめる。
次の試合で、自分達がダブルスであるという事が決まってから。
短い期間ながらもこれまで以上に二人でいる時間が増えた中で、例えば今のように、何よりも大切なデータ帳を置き忘れる乾の様子などを目の当たりにすれば尚更だ。
しかし、それ故に、そういう考え事に捕らわれかけていた海堂は、いきなり乾に手を握られてひどく驚いた。
「な、……」
「努力するっていう事を、教えてくれたよ。お前の手が」
「………………」
「頑張るっていう事を、俺は海堂を見ていて、初めてちゃんと理解したんだ」
自分のかたい手のひらを、もっとかたい乾の手のひらが擦るようにしてくるのを海堂は見開いた目で見下ろした。
「言葉自体が、どこかありきたりすぎて、俺はよく判ってなかった。頑張るとか、努力するとか」
乾は微笑んでいるようだった。
声がやわらかかった。
海堂は伏せた目線を上げられなかったけれど、それが判った。
「俺の言葉やデータで、動く海堂を見ていて。強くなっていくのを見ていて。俺は初めて自分を省みられた気がしたんだ」
「乾先輩…?」
「正直、誰かとダブルスを組む事はもうないだろうと思ったりもしてた」
「………………」
「お前だけだ。どうにかしてでもって、ダブルスに固執したのはな」
握られている手に力がこもり、海堂は顔を上げた。
乾は海堂を見ていた。
「俺はお前の事を、何だか見せびらかしたいような気分なんだ」
笑って言うその表情は明るかった。
乾は楽しげにそう告げて、海堂の手を離し、代わりに軽く肩を抱いてきた。
「蓮二とダブルスで試合をするなら尚更だ」
勝ちたいんだと笑いながらも強く乾が言う。
海堂は唇に微かな笑みを浮かべ、言いようのない感情に、目を伏せる。
「…勝ちたいとか言うな」
「海堂」
「絶対に勝つ」
一瞬だけ、微かにだけ。
海堂は乾の腕に身体を預けた。
それから乾の腕からするりと抜け出した。
「走って帰るっス」
「おいおい…」
オーバーワーク、と呟く乾の口調と、どこか名残惜しげに宙に浮いた手の動きがおかしくて、海堂は笑みを浮かべながら背を向けた。
振り返りながらも流し見た乾が、すっきりとした目で苦笑いしているので、海堂は遠慮なく全力で走り出した。
勝ちたい、でもない。
勝とう、でもない。
勝つ、のだから。
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