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How did you feel at your first kiss?
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 置いてあるのではない。
 忘れられているのだ。
 海堂は溜息をつく。
「乾先輩」
 ノート、と困惑気味にそれを差し出し海堂が告げると、部室から出ようとしていた乾は足を止めて振り返り、唇に苦笑を刻んだ。
「それ忘れるようじゃ、どうかしてるな」
「…そうは言ってねえ」
「ありがとう。海堂」
「………………」
 収集しているデータを書きつけたノートを、乾がどこかに置き忘れて帰るなど通常ではありえない。
 海堂は困ったような苛立つような気分になった。
「ん…? 大丈夫だよ。疲れてるわけじゃないから」
 海堂の手からノートを受け取って、乾はそっと囁いた。
 薄く笑んでいる乾の表情を間近から見上げて、海堂は再び溜息混じりに乾と共に部室を出て、カギを閉める。
 今日も部室を出るのは自分達が最後だ。
 大石から預っている鍵を制服のポケットに入れて、海堂は乾の隣を歩いた。
「乾先輩」
「何だ?」
「今度の試合…立海のD2、どう予測してるんすか」
「蓮二と切原」
 なめらかな低音は気負い無く、しかし断言した。
 海堂がちらりと伺ってみても、乾の表情に変化はない。
「どうした…? 海堂」
「………………」
 寧ろ海堂の視線に気づいて乾は表情を動かした。
「シングルスじゃなく…」
「うん?」
 ダブルスで、と海堂が言った所で。
 ああ、と乾は全てを理解した顔で頷いた。
「何か俺が、ものすごく考え込んでると…海堂は思ってる?」
「…別に」
 そんなんじゃなねえ、と海堂は、自身でも歯切れの悪い事を自覚しつつ呻いた。
 ただ。
 海堂は、乾が紛れもないシングルスプレイヤーだということを知っている。
 立海の柳とダブルスを組んでいた乾が、どういう経緯でそのコンビを解消したのかも聞いている。
 その人もまた、乾がシングルスプレイヤーである事を確信していて、それ故に黙って姿を消したのなら。
 再び互いが対戦する場がダブルスの試合であるという事は、柳にとっても乾にとってもどれだけの意味を持つ事になるのか。
 その場で乾とダブルスを組んでいる相手が自分であるという事が、どういう事であるのか。
 海堂は、ふと、途方にくれる気持ちになったのだ。
「………………」
 暗い道を、肩を並べて歩く自分達が、ダブルスであるという事が。
 今更ながらに重い焦燥感を海堂に知らしめる。
 次の試合で、自分達がダブルスであるという事が決まってから。
 短い期間ながらもこれまで以上に二人でいる時間が増えた中で、例えば今のように、何よりも大切なデータ帳を置き忘れる乾の様子などを目の当たりにすれば尚更だ。
 しかし、それ故に、そういう考え事に捕らわれかけていた海堂は、いきなり乾に手を握られてひどく驚いた。
「な、……」
「努力するっていう事を、教えてくれたよ。お前の手が」
「………………」
「頑張るっていう事を、俺は海堂を見ていて、初めてちゃんと理解したんだ」
 自分のかたい手のひらを、もっとかたい乾の手のひらが擦るようにしてくるのを海堂は見開いた目で見下ろした。
「言葉自体が、どこかありきたりすぎて、俺はよく判ってなかった。頑張るとか、努力するとか」
 乾は微笑んでいるようだった。
 声がやわらかかった。
 海堂は伏せた目線を上げられなかったけれど、それが判った。
「俺の言葉やデータで、動く海堂を見ていて。強くなっていくのを見ていて。俺は初めて自分を省みられた気がしたんだ」
「乾先輩…?」
「正直、誰かとダブルスを組む事はもうないだろうと思ったりもしてた」
「………………」
「お前だけだ。どうにかしてでもって、ダブルスに固執したのはな」
 握られている手に力がこもり、海堂は顔を上げた。
 乾は海堂を見ていた。
「俺はお前の事を、何だか見せびらかしたいような気分なんだ」
 笑って言うその表情は明るかった。
 乾は楽しげにそう告げて、海堂の手を離し、代わりに軽く肩を抱いてきた。
「蓮二とダブルスで試合をするなら尚更だ」
 勝ちたいんだと笑いながらも強く乾が言う。
 海堂は唇に微かな笑みを浮かべ、言いようのない感情に、目を伏せる。
「…勝ちたいとか言うな」
「海堂」
「絶対に勝つ」
 一瞬だけ、微かにだけ。
 海堂は乾の腕に身体を預けた。
 それから乾の腕からするりと抜け出した。
「走って帰るっス」
「おいおい…」
 オーバーワーク、と呟く乾の口調と、どこか名残惜しげに宙に浮いた手の動きがおかしくて、海堂は笑みを浮かべながら背を向けた。
 振り返りながらも流し見た乾が、すっきりとした目で苦笑いしているので、海堂は遠慮なく全力で走り出した。
 勝ちたい、でもない。
 勝とう、でもない。
 勝つ、のだから。
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