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How did you feel at your first kiss?
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 足音、体温、彼の気配。
 空気の密度が変わったようにも思える身に覚えのある変化に、海堂はもうそこに誰がいるのか判った上で振り返った。
 そうして瞬間息をのむ。
 いきなりの距離の近さ。
 おはよう、と顔を近づけて囁いてきた相手の、上半身を屈めているその角度に、ふと、背が伸びたんだな、とも気づく。
 真新しい制服に包まれた体躯は、まだ成長するようだ。
 海堂が目礼を返すと、極自然に海堂と肩を並べて歩きだした乾は、この春、高等部に進学した。
「桜、咲いたなぁ」
「………そうっすね」
 のんびりとした物言いをする低い声に同意すれば、ただそれだけのことで、乾に笑みで甘く煮詰めたような目で見つめられる。
「花見した? 海堂は」
「……人混み嫌いなんで」
「俺も」
「………あんた、そういうの気にしなさそうだけどな」
 いつもは苦労する事も多い、取り立てて意味のないような言葉がするりと唇から零れ、会話が紡がれていく。
 それは取り立てる事のない普通の出来事なのかもしれなかったが、海堂にしてみれば、今となってもやはりそれは不思議で特別な事だった。
 乾だけが海堂から言葉を引き出すのだ。
「人が話してたり、してたりする事に、どうしても意識がいくんだよなぁ…」
 そういう事なら言っている意味も判ると海堂は納得した。
 乾は集中型で没頭型だが、一度に多方面から物事をとらえられる分、そして時間をひどく惜しむ性質の分、何もしないでいるとか何も考えないでいるという事が難しいようだった。
「桜は好きなんだよ。どうせだったら誰もいないような所で静かに見たいもんだけど、まあ無理だろうなそれも」
「………………」
 ふ、と零された溜息を見つめ上げて、目があって。
 何だろう。
 この男の近くは、こんなにも気持ちが澄む。
「…あれ。もしかして無理じゃない?」
「………………」
 目と目を合わせただけで心情を汲まれて、海堂は淡く苦笑いした。
「朝は人いない」
「走ってる時?」
「………っす」
 慣れた早朝ランニング、地元から少し離れた所の桜並木を走り抜けるのは海堂も好きだった。
「七時くらいか?」
「…六時」
「相変わらずだなあ海堂は」
 低く笑い声を響かせて、乾は頭上を仰ぎ見た。
「………………」
 反らされた喉もとの隆起に目をやって、目を閉じた乾の和らいだ表情を見て、海堂の唇は動いていた。
「………行きますか」
「ん?」
「桜。……朝」
 誰かを誘う。
 それだけの事が海堂にとってどれだけ特別な事か。
 判っているのは、誰よりも、乾だ。
「いいの?」
 艶のこもった低い声は嬉しげで、海堂が驚くほどに密やかに赤裸々だ。
「ひとりじめでなくなっても、いい?」
「……そんな風に考えた事はなかったですけど。あんたこそ…誰もいない訳じゃない桜でもいいのかよ」
「海堂がいるよりも良いことなんて俺にはないよ」
 淡々とした声で、とんでもない事を言って、乾は海堂を絶句させる。
 優しい眼差しで、信じられない事を告げて、乾は海堂を戸惑わせる。
 中指で眼鏡の軽く引き上げて、乾は唇の形もやわらかく笑いに引き上げて。
「嬉しい」
 何の衒いもなく、取り繕いもなく、大人びた風貌で、いっそ邪気なく微笑むのだ。
 海堂の気持ちを未経験に揺らし、心音を乱し、何かが溶ける、何かがほどける、乾が全て、そうしてくる。
 自分の知らない、判らないことだらけだけれど。
 与えてくるのが乾だというだけで、海堂は安心した。
 意固地で頑なで融通のきかない自分の中にも、ひょっとするとやわらかいものがひそんでいるのかもしれない。
 それをきっと、乾は取り出してくるのだろう。
 これからどうなるのか判らない、そんな自分にも、不安はまるでなかった。
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