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How did you feel at your first kiss?
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 小さな溜息をついた不二は自分の背後にいる菊丸をちらりと流し見て、今しがた言われた言葉を寸分違わず繰り返した。
「英二。あそこにいるのは生霊でも亡霊でも自縛霊でもトイレの花子さんでもうしろの百太郎でもなく乾だよ」
「……ほえっ?…」
 不二を盾にしていた菊丸が教室の前扉から中を覗くように不二の肩越しに顔を出す。
 不二が電気のスイッチに手を伸ばし、薄暗い教室は一気に明るくなった。
「乾だ!」
「そうだよ」
「乾かよ!」
「乾だよ」
 放課後、すでに暗がりと化した誰もいない筈の教室に人影が!と半泣きで不二を呼びにきた菊丸は、今では頬を膨らませて憤りも露に教室へと足を踏み入れていく。
 三年十一組。
 下校時刻を少し過ぎたこの時間に一人居残っていたらしい乾は、机にうつ伏せていて、確かめるまでもなく熟睡中だ。
「人騒がせな奴! 乾」
「困ったね……こうなっちゃうと乾は何したって起きないんだよね……」
 乾の机の脇に立ち、菊丸と不二はそれでも肩を揺すったり声をかけたりはしてみる。
 しかし、どうにも万年ギリギリの睡眠時間で生活しているらしい乾は、時折ふっつりと事切れるようにしてこんな状態に陥るのだ。
 限界を超えて眠りに落ちた乾は、とにかくちょっとやそっとの事では目を覚まさない。
「うーん…人選ミスだね。英二。僕らじゃ二人がかりでも乾は運べないよ」
「生霊か亡霊か自縛霊か花子か百太郎だったら不二でバッチリだったのに!」
「どういう意味」
 微笑みと一緒に、きらりと瞳を光らせた不二に、菊丸は頭がもげそうなほど首を左右に振った。
「や、なんも意味ないです!」
「そう?」
「そーでっす!」
 今度は上下に再びものすごい勢いで首を振った菊丸は、少々ふらつきながら不二の肩につかまった。
「大丈夫?」
「うん! へーき」
 多少無理矢理っぽく笑みを浮かべた菊丸は、素早く立ち直り、見なかった振りで置いていったらダメかな?と乾を指差した。
「そうだねえ……青学テニス部のブレーンが受験苦で失踪……なんて騒ぎは困るよね」
「乾、そういうのやけにはまるもんなー」
「かといって乾の家に連絡しても家族の人はまだ誰も帰ってないだろうし……」
「置いてきましたの事後報告じゃ、俺たちがものすごーく酷い友達みたいになっちゃうしねー…」
 どうしようか?と可愛らしく悩み合いながらも、二人は乾の頭上で結構な事を言いあっている。
「乾を運べそうな…って言ったら」
「タカさんか桃だよねえ……」
 菊丸の提案に不二は首を左右に振った。
「タカさんはダメ。乾を持ち上げて怪我とかしたら大変」
「桃だってこんなことで呼び出したら可哀相じゃん」
「英二が言えば桃はすっ飛んで来るでしょ」
「不二が頼めばタカさんだって快く引き受けてくれるよ」
 うーん、と唸って結局二人の会話は堂々巡りだ。
 時折気まぐれに乾の背を叩いたり、耳元で叫んだりしてみるのだが、依然乾は目を覚まさなかった。
 ほとほと弱りかけた時だ。
「………先輩?」
 誰にという訳ではなく放たれたらしい呼びかけに、菊丸と不二はくるりと背後を振り返った。
 開けたままにしていた教室の前扉。
 教室内に入ってくるでもなくそこから遠慮がちに顔を見せているのはあまり表情らしい表情もない海堂だった。
「あー、海堂!」
 菊丸と不二が同時に叫び、海堂は些か怯んだように息を詰める。
 そうだ海堂だ、海堂がいた、という面持ちで上級生二人は手招きで海堂を中に呼び入れる。
 戸惑い気味に、しかし目礼を忘れずに、海堂が教室に入ってきた。
「………どうかしたんすか」
 低く呟きながら、しかし海堂はすぐに状況がのみこめたようだった。
 菊丸と不二が身体をずらしてみせた先、机にうつ伏せて寝入っている乾が目に入ったのだ。
「海堂こそどうしたんだよー? こんな時間に三年の校舎に何の用?」
「もしかして乾と待ち合わせしてたりした?」
 菊丸の問いかけと不二の確認に、海堂は、まあ、と曖昧な返事をした。
「ええー! 乾ひどーい!」
 たちまち大きな声を上げたのは菊丸だ。
「海堂待ちぼうけさせて自分は寝てる訳?」
「……いや…たいして待ってませんから」
「庇わなくていいよっ」
 ひどいひどいと連呼する菊丸に同調こそしないものの、不二も似たような事を思っているらしく、じゃあもう遅いから三人で一緒に帰ろうかと微笑んだ。
「は…? 乾先輩は、」
「寝かせておけばいいよ。ね、英二」
「そうそう! 明日の朝まで乾はここでたっぷり寝ればいいよ!」
「あの……乾先輩くらいなら俺普通に運べますけど」
 海堂のすらりとした四肢は一見は目立たないが極めて良質な筋肉がついていて、見目のともすれば華奢に見える程の手足の伸びやかさとは裏腹にその腕力も強い。
 乾を担ぎ上げる事くらい造作ないと言った口調は、確かにその内容が事実でもあるのだが。
「海堂ー……お前、ビジュアル的にびっくりしちゃうからそれは止しなってば」
「……どういう…?…」
「ま、海堂に担ぎ上げられて帰宅したなんて事を、後から乾が知ったらそれはそれで面白いかもね」
 がっくりと肩を落とす菊丸の言う事も、口元に拳を当てて含み笑う不二の言う事も、海堂はうまく理解する事が出来ない。
 しかしこのままでは二人の上級生に連れ出されてしまう事だけは確かだった。
「起こします。乾先輩」
「無理無理! 俺らだって散々に揺さぶったり怒鳴ったり擽ったり殴ったりしたけど駄目だったもん! ね、不二」
「僕は殴ってないよ」
「足踏んづけただけだっけ?」
「英二は乾の背中の上に完全に乗っかってたよね」
「………………」
 海堂は思わず溜息をつく。
 上級生の容赦なさに対してもだし、それでも起きない男に対してもだ。
 依然菊丸と不二の会話が続き、海堂は、とにかくこの場は一刻も早く乾を起こしてここから帰ろうと決める。
 海堂の手は乾のうつ伏せた頭に伸ばされる。
 指先が髪に沈んで、数回。
 頭を撫でつけるようにその手が動いた。
「………………」
 何とは無しに不二と菊丸は目を瞠った。
 思わず口を噤んで見据えてしまったものは、海堂の所作のあまりのやわらかさとやさしさだ。
 でもそれは特別なものというよりも、極自然な仕草にも見えた。
 いっそ心地良さに余計に寝入ってしまいそうな海堂の所作はゆっくりと繰り返され、後頭部を撫でられていた乾がふと微かに身じろいだ。
 おおー!と声にならない声を菊丸があげ、さすがに不二も驚きに睫毛を瞬かせた。
 海堂の指先は乾の髪に埋められたまま尚も静かに撫でつけている。
 繰り返されている。
「………、…かいど……?…」
「…目ぇ覚めたっすか。先輩」
「……ん……?………あれ…?」
 乾がだるそうに顔を上げた。
 海堂の手はすぐには退かない。
「ちゃんと布団で寝ないと疲れとれないっすよ…」
 例えば。
 待ちぼうけをくらわされたというのに全く怒りもしない海堂の言動だとか。
 例えば。
 生半可な事では絶対に目覚めない乾の眠りを静かな指先だけで解く海堂の振る舞いだとか。
 その場に居合わせてしまった菊丸と不二を愕然とさせた海堂薫は、結局最後まで硬質な声で優しい言葉を、強靭な手で甘い仕草を、慎み深く露呈した。


 乾はそういう海堂を、友人達にはあまり見せたくなかったらしいというのは。
 後々の乾の態度で、菊丸と不二には充分察する事が出来た。
 誰よりも深い寛容さは、結局一番年下の彼が持ち合わせているようだった。
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