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How did you feel at your first kiss?
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 あやうく足先で蹴り出しかけた小さなボトルに寸でで気づき、海堂は身を屈めて手を伸ばす。
 手にしてみれば部室に落ちていたそれが誰の物なのかを海堂は知っていた。
 海堂が視線を向けた先にいる男の物だ。
「…………………」
 部室内に置いてあるプラスチックベンチに腰掛けている乾は、組んだ足の腿の上に乗せたノートに何事かを書きつけながら、近くにいる数人と雑談を交わし、別方向からの質問に答え、手と口がまるで止まらず全くばらばらに動いているような印象だ。
 海堂は瞬時躊躇った。
 これでまた海堂からも乾に話しかけるというのは気が引けた。
 それで、別段話しかける必要もないかと思い、海堂は黙ってその容器を乾の側に置いて行こうとしたのだが、乾に近づいて行くなりいきなり。
「やあ、海堂。お疲れ」
「…………っす…」
 乾がノートから顔を上げて声をかけてきたので。
 黙っている訳にもいかずに。
 海堂は目礼と共に小さく声を出す。
 上級生同士の話に割って入ってしまったようではないかと決まり悪くもなって、ぶっきらぼうに手にしていた小さな容器を乾に差し出した。
「………これ」
「ああ、俺のだね。ありがとう海堂。どこかに落ちてた?」
「入口んとこに」
「悪い。躓いた?」
「………んな真似しねえよ…」
 乾がノートをとらない。
 それまで続けていた三年生での会話を中断させたまま話しかけてくる。
 顔を上げて、海堂の目を見てくる。
 海堂は何だか身動きがとれなくなってしまった。
 だいたい海堂が手渡そうとしている容器を、乾は一向に受け取る気配がない。
「あの…乾先輩」
「ちょうど使おうと思ってた所なんだ」
 だったら尚のこと早く受け取ってくれと思って。
 海堂は手を乾へと差し向けたのだが。
「海堂やってくれない?」
「…………あ?」
「だからそれ。目薬」
 海堂が拾ったものは乾の目薬だった。
 その目薬を乾の目線で指し示されて海堂は面食らった。
「………何で俺が」
「してほしいから俺が」
「………………」
「嫌か」
「…………嫌かって」
 せめてまだ、笑うなり何なりしてからかっている風情ならばまだしも。
 何でそんなに真顔なんだと海堂は戸惑った。
 極普通のことを、極めて自然に頼まれているようではないかと思わされる乾の態度に面食らった海堂は。
 乾の真意も酌めないまま、同意する事になってしまっていた。
「別に……いいですけど」
「助かる」
 じゃ、と言って乾は上を向いた。
「………………」
 海堂は眉根を寄せたまま近づいて行って、乾が自分で眼鏡を外そうともしないのに嘆息して目薬のキャップを開ける。
「……眼鏡くらい外して下さい」
「はいはい」
「………なに笑ってんですか」
「え? あ、ほら、外したぞ海堂」
「なにを威張ってんだ……訳わかんね……」
 ひとりごちた海堂は渋々乾の正面に立ち、普段とは逆の角度で乾の事を見下ろした。
 乾は海堂が見えているのかいないのか、瞬きする事もなく、裸眼を晒している。
「………………」
 海堂は左手の指先をそっと乾の頬骨に沿え、乾の右目、そして左目へと点眼する。
 普段目にする事のない乾の眼球の白黒の対比はくっきりと強い。
 目薬を一滴ずつ落とした刹那、濃い睫毛が微かに動いた。
 それも何もかもが一瞬の事だ。
「終わったっすよ。先輩」
 強い吸引力に縛られでもしたかのように、海堂の眼差しは暫く乾の双瞳から外せなくなった。
 じっと見下ろしたまま海堂がそう告げると、乾が瞼を下ろして。
 閉ざされた眼に漸く海堂は身じろげた。
 ゆっくりと乾から一歩後退りすれば乾の両眼もそれと同じスピードで見開かれていく。
「うん。一際よく海堂のことが見える」
 そう言って乾は、唇の端をゆっくりと引き上げて笑った。
「………なに言ってんですか…」
「ありがとうな、海堂。お前目薬さすのうまいな。今度から海堂にしてもらおうかな」
「あのな……」
「もしくはお返しに俺がさしてやろうか?」
 こっちおいでと乾にベンチを叩かれて海堂は呆れ顔で眉根を寄せたのだが、練習中に気づいた事があるからおいでと繰り返されては従わない訳にいかなくなった。
 乾の隣に腰掛ける。
 ずっと手に持っていたままの目薬を改めて差し出せば、今度は乾もそれを受け取った。
 容器を挟んで手と手が重なった時に初めて。
 海堂は目の前、部室の中で。
 青学テニス部の面々が、顔を背けたり、片手で顔を覆ったり、俯いて頭に手をやったりしているのに気づいた。
「……乾先輩」
「なんだい海堂」
 声には出さずにその不可思議な仲間のリアクションの意味合いを乾へ尋ねた海堂に返されたのは、いっそ暢気とも言えるような乾のおっとりとした笑み交じりの応えだった。
「うーん。なんだろうね。あいつら」
 飄々とした物言いで、疑問に疑問で返された海堂はおもしろくなさそうに乾を一瞬睨んだのだが、乾が部活中に気づいたという海堂のフォームの話を始めれば。
 それなりに長いベンチの、ものすごく片側。
 腕と腕の重なる距離で海堂も乾のノートを覗き込む。


 点眼液が一液落とされクリアになる視界のように。
 彼らのふるまいは、時にどれだけ微かなものであっても周囲にさざめく甘い余波となる。
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