How did you feel at your first kiss?
まだ誰も空から降ってきた雪に気づいていない。
細かな粉雪の欠片は、白が白ともまだ見えない。
夜にほど近い空の黒の中に溶け込んでしまっている、目に見えない細雪。
跡部は親族との会食の場であったレストランを出て、僅かの間、そんな空と雪の欠片とを見上げていた。
「………………」
張りつめた冷気、微かな光でしかない雪の気配。
誰も知らない。
誰も気づかない。
そんな静寂と鋭い冷気とに、いっそほっとして。
跡部は溜息を吐き出すと時間を確かめつつ待ち合わせ場所に足を進めた。
煩わしい時間が済んだ事で跡部が抱いた安寧は、予想以上に寒い外気によってすぐに苦い焦心に取って代わる。
レストランからその場所までの距離が近かった事だけが今の跡部の救いだ。
「跡部! なんだー早かったなー」
「………………」
待ち合わせ場所は跡部が指定した。
レストランに程近いファッションビルの中。
屋内に設置された噴水がオブジェも兼ねて高く水飛沫を上げている側で、神尾は白いピーコートを着て立っていた。
細い首には同じく白いマフラーが巻かれている。
すぐに跡部に気づいた神尾の表情は最初は紛うことなく笑顔だったが、跡部が近づいていくにつれ、大きく目を瞠っていくのが判る。
大方原因は自分の格好だろうと跡部は思った。
今日の会食の為に、例え親族であっても誰からも見縊られない為に。
一分の隙もなく完璧に上質のスーツを着込んでいた跡部は、神尾の前に立って薄く笑った。
跡部の家の事とか、こういうような格好だとか。
対面して、神尾が怯んだとしても、逃すなんて気は跡部には全くない。
「跡部」
「何だ」
「お前……コートどうしたんだよ?」
「………ああ?」
しかし神尾の言葉は跡部の自嘲めいた笑みを全く異なったものに摩り替えさせた。
神尾は跡部を呆気にとられたように見つめてはいるが、その原因はスーツではないようだった。
「コート! 着てこなかったのかよ?」
「………………」
神尾は僅かに首を傾けて声を大きくする。
「今日雪降るかもって言ってたんだぜ? 外だってすっごい寒いじゃんか! なんでそんな薄着で来たんだよ」
「………………」
神尾の言うように。
跡部はスーツ姿のまま、コートを羽織ってもいなかった。
別段跡部は気にならなかったのだ。
しがらみの多い会食の場をさっさと後にして、少しでも早く、ここに来る事しか考えていなかった。
寒いと思いもしなかった。
「信じらんねー……! 風邪とかひいたらどうすんだよ!」
「………………」
どうやら怒っているらしい神尾を見下ろしながら、跡部はこの、健やかで真っ直ぐな生き物は何だろうと考えた。
「ああほら手もこんなだし…!」
跡部の冷えた指先を、ぎゅっと握りこんでくる神尾の手。
自分よりも小さくて、細くて、しかし少しも弱くない。
跡部に気持ちよく怒り、跡部に気持ちよく笑う。
この存在は何なのだ。
「ちょっと待ってろよな」
くるりと翻るようにしなやかな背が向けられて、走って行ってしまった神尾を、跡部は食い入るように見据えた。
賑やかで、目まぐるしくて、そのくせ健気だ。
「跡部!」
明るく優しい笑顔で戻ってきて、神尾は跡部に自動販売機で買ってきたらしい缶コーヒーを握らせた。
「とりあえずこれ持って」
「神尾」
「家の用事、全部済んだのか?」
「……ああ」
「そっか。じゃ、もうこの後何してもいいんだな?」
神尾の物言いの言質をとるように、跡部は唇の端を引き上げた。
「お前に何していいんだよ?」
「だから。何してもいいんだって言ってるんだよ」
やなことあったんだろ?と神尾は跡部を見上げて言った。
「………………」
「気晴らしになる事あるなら、ぜんぶ跡部のしたいようにしていい。……たまにはな!」
最後には照れの滲むぶっきらぼうな言葉を添えて、しかし神尾は微笑んでいる。
跡部は神尾の肩を抱いて歩き出した。
「うわ、…急になに…、…?」
「気晴らしとか言うんじゃねえ」
「……跡部?」
「滅入ってるなんて、みっともねえとこ見せても。お前に会わなきゃいられねえこっちの心情酌めって言ってんだよ」
歩きながらビルの外へと出る自動ドアを越えた瞬間跡部は神尾の肩に回していた手で一層強く神尾を抱き込んで、その唇を掠った。
「………、…どこで……っ…、なに……っ…」
「恥ずかしけりゃ下向いてろ。俺は構わない」
唇を手で押さえて神尾は赤くなっている。
その慌てぶりや見事な赤面ぶりに、跡部は少しずつ、呼吸が楽になるような気持ちになる。
「……下なんか向かねえよ…っ」
恐らく対抗心からか、神尾はそんな事を言ったが、言葉通りに上向いた後、あれ、と神尾は呟いて視線を上空の高い所に向けた。
「雪だ」
「……ああ、さっきちらついてたな」
粉雪。
細雪。
今は先程よりも明確な白が頼りなく揺れながら天空から落ちてくる。
跡部は神尾の肩から手を外す。
神尾は雪を見ていて、跡部は神尾を見ていた。
どれくらいそうしていたのか、はっと我に返った神尾の視線が跡部に戻ってくる。
「…………あ。だから跡部!」
「何だよ」
「そんな恰好でいたら風邪ひくって! だいたい寒くないのかよ?」
神尾は、跡部の肘下辺りを掴んで、ぐいぐいと引いて歩き出した。
「…………………」
散歩をねだる子犬か何かだなと跡部は心中でこっそりと思い、笑う。
「おい。神尾」
「え?」
「左手は缶コーヒー」
神尾に掴まれている左腕、手には先程手渡された缶コーヒーを持っている。
浸透してくる熱で手のひらが温かい。
跡部はそれとは逆の手、冷たい右手を翳して見せた。
「こっちはどうすりゃいいんだ?」
「………、どう…って…」
跡部自身、子供っぽくていい加減笑える己の言い草に、しかし神尾は笑わなかった。
微かな雪が、触れた瞬間に溶けていくくらいの熱量で顔を僅かに赤くして。
神尾は右を見て、左を見て、もう一度右を見て、もう一度左も見た。
「…………………」
児童の信号機歩行かと跡部は笑いを噛み殺した。
慎重に、そして慌しく。
左右の確認を行った後、漸く。
神尾の左手は跡部の右手に重なった。
指と指とを絡め、手のひらを合わせ、手が繋がれた。
互いの手と手は、祈りの形で結ばれる。
小さいまま、細かなまま、落ちる微かな雪も、その形の上で静かに消えた。
細かな粉雪の欠片は、白が白ともまだ見えない。
夜にほど近い空の黒の中に溶け込んでしまっている、目に見えない細雪。
跡部は親族との会食の場であったレストランを出て、僅かの間、そんな空と雪の欠片とを見上げていた。
「………………」
張りつめた冷気、微かな光でしかない雪の気配。
誰も知らない。
誰も気づかない。
そんな静寂と鋭い冷気とに、いっそほっとして。
跡部は溜息を吐き出すと時間を確かめつつ待ち合わせ場所に足を進めた。
煩わしい時間が済んだ事で跡部が抱いた安寧は、予想以上に寒い外気によってすぐに苦い焦心に取って代わる。
レストランからその場所までの距離が近かった事だけが今の跡部の救いだ。
「跡部! なんだー早かったなー」
「………………」
待ち合わせ場所は跡部が指定した。
レストランに程近いファッションビルの中。
屋内に設置された噴水がオブジェも兼ねて高く水飛沫を上げている側で、神尾は白いピーコートを着て立っていた。
細い首には同じく白いマフラーが巻かれている。
すぐに跡部に気づいた神尾の表情は最初は紛うことなく笑顔だったが、跡部が近づいていくにつれ、大きく目を瞠っていくのが判る。
大方原因は自分の格好だろうと跡部は思った。
今日の会食の為に、例え親族であっても誰からも見縊られない為に。
一分の隙もなく完璧に上質のスーツを着込んでいた跡部は、神尾の前に立って薄く笑った。
跡部の家の事とか、こういうような格好だとか。
対面して、神尾が怯んだとしても、逃すなんて気は跡部には全くない。
「跡部」
「何だ」
「お前……コートどうしたんだよ?」
「………ああ?」
しかし神尾の言葉は跡部の自嘲めいた笑みを全く異なったものに摩り替えさせた。
神尾は跡部を呆気にとられたように見つめてはいるが、その原因はスーツではないようだった。
「コート! 着てこなかったのかよ?」
「………………」
神尾は僅かに首を傾けて声を大きくする。
「今日雪降るかもって言ってたんだぜ? 外だってすっごい寒いじゃんか! なんでそんな薄着で来たんだよ」
「………………」
神尾の言うように。
跡部はスーツ姿のまま、コートを羽織ってもいなかった。
別段跡部は気にならなかったのだ。
しがらみの多い会食の場をさっさと後にして、少しでも早く、ここに来る事しか考えていなかった。
寒いと思いもしなかった。
「信じらんねー……! 風邪とかひいたらどうすんだよ!」
「………………」
どうやら怒っているらしい神尾を見下ろしながら、跡部はこの、健やかで真っ直ぐな生き物は何だろうと考えた。
「ああほら手もこんなだし…!」
跡部の冷えた指先を、ぎゅっと握りこんでくる神尾の手。
自分よりも小さくて、細くて、しかし少しも弱くない。
跡部に気持ちよく怒り、跡部に気持ちよく笑う。
この存在は何なのだ。
「ちょっと待ってろよな」
くるりと翻るようにしなやかな背が向けられて、走って行ってしまった神尾を、跡部は食い入るように見据えた。
賑やかで、目まぐるしくて、そのくせ健気だ。
「跡部!」
明るく優しい笑顔で戻ってきて、神尾は跡部に自動販売機で買ってきたらしい缶コーヒーを握らせた。
「とりあえずこれ持って」
「神尾」
「家の用事、全部済んだのか?」
「……ああ」
「そっか。じゃ、もうこの後何してもいいんだな?」
神尾の物言いの言質をとるように、跡部は唇の端を引き上げた。
「お前に何していいんだよ?」
「だから。何してもいいんだって言ってるんだよ」
やなことあったんだろ?と神尾は跡部を見上げて言った。
「………………」
「気晴らしになる事あるなら、ぜんぶ跡部のしたいようにしていい。……たまにはな!」
最後には照れの滲むぶっきらぼうな言葉を添えて、しかし神尾は微笑んでいる。
跡部は神尾の肩を抱いて歩き出した。
「うわ、…急になに…、…?」
「気晴らしとか言うんじゃねえ」
「……跡部?」
「滅入ってるなんて、みっともねえとこ見せても。お前に会わなきゃいられねえこっちの心情酌めって言ってんだよ」
歩きながらビルの外へと出る自動ドアを越えた瞬間跡部は神尾の肩に回していた手で一層強く神尾を抱き込んで、その唇を掠った。
「………、…どこで……っ…、なに……っ…」
「恥ずかしけりゃ下向いてろ。俺は構わない」
唇を手で押さえて神尾は赤くなっている。
その慌てぶりや見事な赤面ぶりに、跡部は少しずつ、呼吸が楽になるような気持ちになる。
「……下なんか向かねえよ…っ」
恐らく対抗心からか、神尾はそんな事を言ったが、言葉通りに上向いた後、あれ、と神尾は呟いて視線を上空の高い所に向けた。
「雪だ」
「……ああ、さっきちらついてたな」
粉雪。
細雪。
今は先程よりも明確な白が頼りなく揺れながら天空から落ちてくる。
跡部は神尾の肩から手を外す。
神尾は雪を見ていて、跡部は神尾を見ていた。
どれくらいそうしていたのか、はっと我に返った神尾の視線が跡部に戻ってくる。
「…………あ。だから跡部!」
「何だよ」
「そんな恰好でいたら風邪ひくって! だいたい寒くないのかよ?」
神尾は、跡部の肘下辺りを掴んで、ぐいぐいと引いて歩き出した。
「…………………」
散歩をねだる子犬か何かだなと跡部は心中でこっそりと思い、笑う。
「おい。神尾」
「え?」
「左手は缶コーヒー」
神尾に掴まれている左腕、手には先程手渡された缶コーヒーを持っている。
浸透してくる熱で手のひらが温かい。
跡部はそれとは逆の手、冷たい右手を翳して見せた。
「こっちはどうすりゃいいんだ?」
「………、どう…って…」
跡部自身、子供っぽくていい加減笑える己の言い草に、しかし神尾は笑わなかった。
微かな雪が、触れた瞬間に溶けていくくらいの熱量で顔を僅かに赤くして。
神尾は右を見て、左を見て、もう一度右を見て、もう一度左も見た。
「…………………」
児童の信号機歩行かと跡部は笑いを噛み殺した。
慎重に、そして慌しく。
左右の確認を行った後、漸く。
神尾の左手は跡部の右手に重なった。
指と指とを絡め、手のひらを合わせ、手が繋がれた。
互いの手と手は、祈りの形で結ばれる。
小さいまま、細かなまま、落ちる微かな雪も、その形の上で静かに消えた。
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