How did you feel at your first kiss?
四時間目が自習だった。
それで乾は課題プリントをクラス内最短の時間で仕上げると、即座に一人、教室を出て行った。
通常は立ち入り禁止になっている屋上へ独自のルートで潜り込み、アスファルトに座り込んで持ってきたノートを広げる。
整理を怠ると何の意味もなくなるノートの中身は、止め処もなく日々情報が増えていく。
校舎の壁面に寄りかかりながら、ページを捲り、書き込みと書き写しを繰り返す。
地上よりも空に近い分、今日は日差しも風も些か強く感じた。
そういうものを体感しながらデータを纏めるのは良い気分転換になったようで、大分ペースも早く終わりそうだと、乾は残ったページの手触りで思う。
屋上の出入り口である重い鉄の扉が軋んで開いたのはその時だった。
「…………………」
真横を振り仰いで、乾はそこによく見知った相手を見た。
「やあ。どうしたの海堂」
一つ年下の後輩は、乾に気づいて僅かに目を見張っただけだった。
寡黙な彼は普段から言葉数が少ない。
そんな海堂が手にしているものを見て、乾は、ああ、と頷いた。
「もう昼なのか。ひょっとして」
「邪魔だったら帰りますけど」
きつい目をまっすぐに向けていきなりそんな事を言うけれど。
意味するところは充分に判って乾は笑った。
「いいよ。昼、食べに来たんだろう?」
「………………」
「そうか、もうそんな時間か」
「……あんたいつからいたんすか」
「一時間前って所だね。自習だったんだ」
座りなよ、と乾が言って少し横にずれると。
海堂は今度は固まった。
それで乾は、根気強く海堂を待つことにする。
海堂に対するこういうタイミングを、乾は自然に覚えていた。
海堂の、人を寄せ付けない気配だとか、近寄りがたさだとかが、不思議と最初から乾の気にかかって仕方が無かった。
不快なものではなく、むしろいつも甘いばかりで。
一年以上かけて到達しているこの現状を、進歩と見ていいのか停滞と見るのかは乾自身まだ悩む部分がある。
「………………」
海堂は臆病なわけではない。
でも驚かせたら逃げられる。
だから例えば今も、乾は立ちすくむ海堂に手を伸ばしてみたくて堪らないのだけれど。
そこを我慢して少し身体をずらすだけにする。
たいしてスペースが空いた訳ではない。
でも海堂は、それで漸くそこに座った。
部活の時はバンダナに包まれている頭が真横に並ぶ。
海堂は、その身長から考えると格段に手足が長くて、身体のパーツの配分がいっそ日本人離れしている。
頭も顔も小ぶりで、そこを覆う黒髪の艶は消えているのを見た事が無い。
「………………」
目が離せないのはいつものこと。
気づかれないように、凝視している事を感じさせないように振舞うのもいつものこと。
「………昼、食わねえんすか…」
「ん? ああ、つい熱中しちゃってね。今から購買行くのも面倒だし」
海堂が来るまでは実際に熱中していたデータ帳が、今では白々しくなるほど、熱中の対象が今はすりかわっている。
そういう意味での苦笑いで乾が答えると、海堂はきつい眼光のまま微かな溜息をついた。
「…………ゲームに熱中するあまり食事も面倒になって、ゲームしながら食べられるものを考え出した奴のがまだマシに思えてきた……」
「ああ、サンドウィッチ伯爵? 確か海堂のクラスの四時間目は……浦加辺先生か。今年も雑談の内容が一緒だったみたいだな」
「………何でうちの時間割まで」
「ちなみに月曜から金曜までソラで言えるよ」
「…………………」
「俺も乾サンドとか発明してみようか」
「………汁だけで充分っす」
「結構良いもの出来そうなんだけど」
「……いらねーです」
「横着や不精っていうのは一生治らないんだろうなあ…」
「…あんたのどこが横着で不精なんですか」
乾の手元のデータに目線をやる海堂の、話始まる前の沈黙は徐々に狭まっていて、それが乾をひどく機嫌よくさせた。
あまり人に懐かない後輩が、特別扱いみたいに自分にだけ気を許しているのが心地良いのか、それとも。
「…………………」
今更悩むことではないのかもしれないと、本当は乾も腹を括っている。
抱き締めたいと思った相手は海堂が初めてだった。
力ずくで、抱き締めたいと。
時折衝動的に突き上げてくる欲求は、最近よく、乾の中から放たれたがっている。
「先輩」
「……ん?」
「手があかない、今から買いに行くのが面倒、それだけですか。昼食わねー理由は」
憮然とした顔で嘆息して、海堂は手持ちの包みを膝の上で解いた。
思わず乾も現れるその中身に目をやった。
「………すごいなあ……相変わらず海堂の家の弁当は」
「……今日はパンだから腹持ち悪いんじゃないかって、普段以上の量持たされたんです」
パンも具材もスプレッドも、全部個別に入っているバスケットから、海堂は食パンを手に取った。
「どれにします」
「ん?」
「言わなきゃ勝手に挟みますよ」
「……え? くれるの?」
「この量見れば判んだろ…」
じゃあ、と乾は言われるまま、まずはスプレッドを指さした。
「これはひょっとしてみんな違う?」
「こっちがマヨネーズと刻んだピクルス。こっちがマヨネーズとマスタード。これがクリームチーズと刻んだサーモン。これがチェダーチーズとベーコンビッツ」
「はー……凄いな本当に……じゃ、マスタードの」
「中身は」
「アスパラと、トンカツ、……あとマッシュルーム」
手際良く具が挟まれていく。
食パンを半分に折って、海堂がそれを乾に手渡してきた。
「ありがとう」
「………………」
海堂の目が、いいから食えと言っているので、乾は海堂の作ったサンドイッチに齧り付いた。
ふんわりと香りの良いパンもまた手作りのようだった。
「うまい。マジで」
なんだこれはと真剣にサンドイッチに対するカルチャーショックを受けている乾に、海堂はポットから熱い紅茶を入れて差し出してくる。
「………………」
たぶん本人には、そんなに甘い事をしているという認識は無いのだろうけれど。
恐らく弟相手にしているようなレベルの行動なのだろうけれど。
乾にしてみれば相当な事である。
「………………」
海堂は無表情で自分が食べる分のサンドイッチを作っている。
クリームチーズとサーモンのスプレッドに、綺麗に茹であがった海老と、サラダ菜、焼いてある帆立を乗せて、檸檬を絞って食べている。
弾けるような檸檬の香りに一層の恋愛感情を促進されて、いい加減乾だって気恥ずかしかった。
乾に渡された二つ目のサンドイッチはポテトサラダにアボガドと生のほうれん草をたっぷり挟んだもので、甲斐甲斐しさを感じさせないその絶妙なタイミングに乾は本当にどうしたものかと思う。
あの海堂が、こんな事をしてくれるのだから。
相当気を許されている。
それが判っていて敢えて、それでもと、それ以上を欲する自分をどう制御すべきかと思い悩む。
そんな乾の耳に、海堂のぶっきらぼうな声が届いた。
「……ちゃんと食って寝ろよ」
乾が顔を向けると、海堂は手にしたサンドイッチを口に運びながら前方を見据えて言った。
「あんた最近疲れてる」
「そうか?」
言われた言葉は少し意外で。
乾はますますじっと海堂を見つめた。
さすがに視線の強さに応じない訳にはいかなくなったのか、海堂も斜に視線を向けてくる。
「……寝てるんすか。ちゃんと」
「……………」
「今日は今日でメシも食ってないみたいだし」
サンドイッチを手渡してきた手は自然な気遣いと意外なほどの優しさに満ちていたが、こうして言葉にするのはやはり苦手なようで、海堂は怒ったような口調と顔つきをして見える。
しかし。
「……………」
かわいいと、乾は痛みを覚えるように、そう思った。
きつい海堂の目が、言葉が、その中にぽつんと一滴落ちた故の鮮やかさで。
かわいかった。
「いや……今の俺のこれは、データどうこうっていうんじゃなくて」
考えるより先に口が言っていた。
「恋煩いってやつかな」
言葉にして。
納得もした。
データ処理のかける時間はそのまま。
テニスに費やす時間もそのまま。
学校に行っている時間、自宅でする学習、そういったものも全てそのままで。
それなのに最近、寝る時間や食事する時間を減らさなければいけなくなっている理由は、こんなにも簡単だった。
海堂の事を考えている。
日増しにその時間が長くなってきている。
だからだ。
「………………」
納得したは良かったが、乾にしては何の考えもなしに言ってしまって、果たしてこれを聞いた海堂がどういったリアクションをとるか。
一抹の危惧を覚えて乾が海堂を見つめていると、海堂は全く乾の予想外の態度をとった。
「………すみません」
狼狽えることも、呆れることもなく。
ただ海堂は、ひどく生真面目にそう言った。
目礼で謝るような仕草もした。
「何で?」
「……乾先輩、自分の事、あんまり人に踏み込まれたり知られたりするの、嫌じゃないですか。だから」
聞き出して言わせたみたいですみません、と海堂は言った。
乾は驚いた。
海堂が、乾の事を知っているとは思ってなかった。
確かに乾にはそういう所があって、それ故に乾は人当たりがいいのだ。
付き合いの長く深い、テニス部の同学年の連中には察せられている部分もある。
だがまさか海堂が知っているとは思わず、乾は目を見張った。
海堂の、そういう聡さは、ひけらかさないでいるから一層美点だ。
「………参ったな」
「すみません」
「や、…そうじゃなくて」
「…………………」
「確かにそうだね、俺はそういうタイプだな。……だからさ、恋煩いがどうこうっていうのを、そういうつもりで俺はお前に言ったんじゃないんだ」
「…え?」
「海堂に言っちゃったのはさ…」
つまり、と唇の形だけで告げながら、乾は海堂に顔を近づけた。
軽く、唇を合わせた。
「…………………」
屋根もなく。
高い高い空に地上よりも少しだけ近くの場所で。
重ねた唇は、ひどく清潔で心地良かった。
「せん………」
「…………………」
浅く触れ合う唇が動いて。
至近距離から乾は低く告げた。
「ごめんな。冗談じゃないんだ」
「…………………」
「思いつきでもないし、興味本位でもない」
動けない海堂を両腕で抱き締めると、乾の胸で海堂は強張った。
「海堂」
怖いかと乾が口にした時、確実に海堂は怒鳴ると乾は思ったのだが。
腕の中の海堂を覗き込んだ乾は、そこにあった棘の無い表情にかなり驚いた。
というより、海堂自身の表情こそが、とにかくびっくりしているというのが一番のような、幼い驚愕をいっぱいに広げていたのだ。
「……海堂…?」
「いや……」
怖いどころじゃないような様子の海堂が今思っている事を、そっと促すように乾は呼びかけた。
「………見えたから…」
「何が?」
「……目」
「目?……俺の?」
「……………」
無論いつものように乾は眼鏡をしている。
しかし、初めての最も近い接近と。
恐らくは上目遣いで乾が考える以上に強く海堂を見上げてしまっていたようで。
海堂は乾の眼を見て驚いているようだった。
珍しいからかと一瞬思った乾の思考を海堂の言葉が遮ってくる。
「……いつも……そういう目で見てるんすか…」
「海堂のこと?……んー……いや、今日は特別だと……普段はもう少しゆるいと思うけど……」
「別に怖いなんて言ってない」
乾の歯切れの悪さに、また海堂が的確に意味を汲んだらしく、不機嫌そうな言葉を返してくる。
乾は微かに笑った。
「うん……頼むよそれだけはほんと」
「………怖がるわけないだろうが」
「でも早いよ脈」
乾の腕の中。
鍛えられているのにひどく薄い身体の、走るような脈。
「……あんたがあんなことするからだ」
「だな……」
そのくせもう離れることも出来なくて。
乾は海堂の背に回していた手でその肢体を抱き寄せた。
「…………………」
力をこめた。
腕の中の感触が、一層軽く、薄くなる。
加減がつかめない。
胸元に抱き込んだ手触りの甘さに乾が小さく息をつくと、その熱っぽい吐息に当たったのか海堂の身体が震えた。
「………移されてよ」
恋煩い。
「…………………」
情けない言い様だと思ったが、きつく抱き締めて乞う様に乾が囁くと、海堂の身体から力が抜けた。
「俺に移して、あんたは完治か」
「治りたいなんて言ってないよ」
乾は笑った。
「俺はもう、一生かかってる心積もりだしね」
抱き締めながら、海堂の頭上に唇を埋める。
「…………好きだ」
そう口にするだけで、充分幸せだというのに。
「…………………」
乾の腕の中で海堂が、口付け返すように乾の鎖骨あたりに唇を押し付けてきて。
その感触で教えられた海堂の返事に、乾は甘やかに安寧した。
それで乾は課題プリントをクラス内最短の時間で仕上げると、即座に一人、教室を出て行った。
通常は立ち入り禁止になっている屋上へ独自のルートで潜り込み、アスファルトに座り込んで持ってきたノートを広げる。
整理を怠ると何の意味もなくなるノートの中身は、止め処もなく日々情報が増えていく。
校舎の壁面に寄りかかりながら、ページを捲り、書き込みと書き写しを繰り返す。
地上よりも空に近い分、今日は日差しも風も些か強く感じた。
そういうものを体感しながらデータを纏めるのは良い気分転換になったようで、大分ペースも早く終わりそうだと、乾は残ったページの手触りで思う。
屋上の出入り口である重い鉄の扉が軋んで開いたのはその時だった。
「…………………」
真横を振り仰いで、乾はそこによく見知った相手を見た。
「やあ。どうしたの海堂」
一つ年下の後輩は、乾に気づいて僅かに目を見張っただけだった。
寡黙な彼は普段から言葉数が少ない。
そんな海堂が手にしているものを見て、乾は、ああ、と頷いた。
「もう昼なのか。ひょっとして」
「邪魔だったら帰りますけど」
きつい目をまっすぐに向けていきなりそんな事を言うけれど。
意味するところは充分に判って乾は笑った。
「いいよ。昼、食べに来たんだろう?」
「………………」
「そうか、もうそんな時間か」
「……あんたいつからいたんすか」
「一時間前って所だね。自習だったんだ」
座りなよ、と乾が言って少し横にずれると。
海堂は今度は固まった。
それで乾は、根気強く海堂を待つことにする。
海堂に対するこういうタイミングを、乾は自然に覚えていた。
海堂の、人を寄せ付けない気配だとか、近寄りがたさだとかが、不思議と最初から乾の気にかかって仕方が無かった。
不快なものではなく、むしろいつも甘いばかりで。
一年以上かけて到達しているこの現状を、進歩と見ていいのか停滞と見るのかは乾自身まだ悩む部分がある。
「………………」
海堂は臆病なわけではない。
でも驚かせたら逃げられる。
だから例えば今も、乾は立ちすくむ海堂に手を伸ばしてみたくて堪らないのだけれど。
そこを我慢して少し身体をずらすだけにする。
たいしてスペースが空いた訳ではない。
でも海堂は、それで漸くそこに座った。
部活の時はバンダナに包まれている頭が真横に並ぶ。
海堂は、その身長から考えると格段に手足が長くて、身体のパーツの配分がいっそ日本人離れしている。
頭も顔も小ぶりで、そこを覆う黒髪の艶は消えているのを見た事が無い。
「………………」
目が離せないのはいつものこと。
気づかれないように、凝視している事を感じさせないように振舞うのもいつものこと。
「………昼、食わねえんすか…」
「ん? ああ、つい熱中しちゃってね。今から購買行くのも面倒だし」
海堂が来るまでは実際に熱中していたデータ帳が、今では白々しくなるほど、熱中の対象が今はすりかわっている。
そういう意味での苦笑いで乾が答えると、海堂はきつい眼光のまま微かな溜息をついた。
「…………ゲームに熱中するあまり食事も面倒になって、ゲームしながら食べられるものを考え出した奴のがまだマシに思えてきた……」
「ああ、サンドウィッチ伯爵? 確か海堂のクラスの四時間目は……浦加辺先生か。今年も雑談の内容が一緒だったみたいだな」
「………何でうちの時間割まで」
「ちなみに月曜から金曜までソラで言えるよ」
「…………………」
「俺も乾サンドとか発明してみようか」
「………汁だけで充分っす」
「結構良いもの出来そうなんだけど」
「……いらねーです」
「横着や不精っていうのは一生治らないんだろうなあ…」
「…あんたのどこが横着で不精なんですか」
乾の手元のデータに目線をやる海堂の、話始まる前の沈黙は徐々に狭まっていて、それが乾をひどく機嫌よくさせた。
あまり人に懐かない後輩が、特別扱いみたいに自分にだけ気を許しているのが心地良いのか、それとも。
「…………………」
今更悩むことではないのかもしれないと、本当は乾も腹を括っている。
抱き締めたいと思った相手は海堂が初めてだった。
力ずくで、抱き締めたいと。
時折衝動的に突き上げてくる欲求は、最近よく、乾の中から放たれたがっている。
「先輩」
「……ん?」
「手があかない、今から買いに行くのが面倒、それだけですか。昼食わねー理由は」
憮然とした顔で嘆息して、海堂は手持ちの包みを膝の上で解いた。
思わず乾も現れるその中身に目をやった。
「………すごいなあ……相変わらず海堂の家の弁当は」
「……今日はパンだから腹持ち悪いんじゃないかって、普段以上の量持たされたんです」
パンも具材もスプレッドも、全部個別に入っているバスケットから、海堂は食パンを手に取った。
「どれにします」
「ん?」
「言わなきゃ勝手に挟みますよ」
「……え? くれるの?」
「この量見れば判んだろ…」
じゃあ、と乾は言われるまま、まずはスプレッドを指さした。
「これはひょっとしてみんな違う?」
「こっちがマヨネーズと刻んだピクルス。こっちがマヨネーズとマスタード。これがクリームチーズと刻んだサーモン。これがチェダーチーズとベーコンビッツ」
「はー……凄いな本当に……じゃ、マスタードの」
「中身は」
「アスパラと、トンカツ、……あとマッシュルーム」
手際良く具が挟まれていく。
食パンを半分に折って、海堂がそれを乾に手渡してきた。
「ありがとう」
「………………」
海堂の目が、いいから食えと言っているので、乾は海堂の作ったサンドイッチに齧り付いた。
ふんわりと香りの良いパンもまた手作りのようだった。
「うまい。マジで」
なんだこれはと真剣にサンドイッチに対するカルチャーショックを受けている乾に、海堂はポットから熱い紅茶を入れて差し出してくる。
「………………」
たぶん本人には、そんなに甘い事をしているという認識は無いのだろうけれど。
恐らく弟相手にしているようなレベルの行動なのだろうけれど。
乾にしてみれば相当な事である。
「………………」
海堂は無表情で自分が食べる分のサンドイッチを作っている。
クリームチーズとサーモンのスプレッドに、綺麗に茹であがった海老と、サラダ菜、焼いてある帆立を乗せて、檸檬を絞って食べている。
弾けるような檸檬の香りに一層の恋愛感情を促進されて、いい加減乾だって気恥ずかしかった。
乾に渡された二つ目のサンドイッチはポテトサラダにアボガドと生のほうれん草をたっぷり挟んだもので、甲斐甲斐しさを感じさせないその絶妙なタイミングに乾は本当にどうしたものかと思う。
あの海堂が、こんな事をしてくれるのだから。
相当気を許されている。
それが判っていて敢えて、それでもと、それ以上を欲する自分をどう制御すべきかと思い悩む。
そんな乾の耳に、海堂のぶっきらぼうな声が届いた。
「……ちゃんと食って寝ろよ」
乾が顔を向けると、海堂は手にしたサンドイッチを口に運びながら前方を見据えて言った。
「あんた最近疲れてる」
「そうか?」
言われた言葉は少し意外で。
乾はますますじっと海堂を見つめた。
さすがに視線の強さに応じない訳にはいかなくなったのか、海堂も斜に視線を向けてくる。
「……寝てるんすか。ちゃんと」
「……………」
「今日は今日でメシも食ってないみたいだし」
サンドイッチを手渡してきた手は自然な気遣いと意外なほどの優しさに満ちていたが、こうして言葉にするのはやはり苦手なようで、海堂は怒ったような口調と顔つきをして見える。
しかし。
「……………」
かわいいと、乾は痛みを覚えるように、そう思った。
きつい海堂の目が、言葉が、その中にぽつんと一滴落ちた故の鮮やかさで。
かわいかった。
「いや……今の俺のこれは、データどうこうっていうんじゃなくて」
考えるより先に口が言っていた。
「恋煩いってやつかな」
言葉にして。
納得もした。
データ処理のかける時間はそのまま。
テニスに費やす時間もそのまま。
学校に行っている時間、自宅でする学習、そういったものも全てそのままで。
それなのに最近、寝る時間や食事する時間を減らさなければいけなくなっている理由は、こんなにも簡単だった。
海堂の事を考えている。
日増しにその時間が長くなってきている。
だからだ。
「………………」
納得したは良かったが、乾にしては何の考えもなしに言ってしまって、果たしてこれを聞いた海堂がどういったリアクションをとるか。
一抹の危惧を覚えて乾が海堂を見つめていると、海堂は全く乾の予想外の態度をとった。
「………すみません」
狼狽えることも、呆れることもなく。
ただ海堂は、ひどく生真面目にそう言った。
目礼で謝るような仕草もした。
「何で?」
「……乾先輩、自分の事、あんまり人に踏み込まれたり知られたりするの、嫌じゃないですか。だから」
聞き出して言わせたみたいですみません、と海堂は言った。
乾は驚いた。
海堂が、乾の事を知っているとは思ってなかった。
確かに乾にはそういう所があって、それ故に乾は人当たりがいいのだ。
付き合いの長く深い、テニス部の同学年の連中には察せられている部分もある。
だがまさか海堂が知っているとは思わず、乾は目を見張った。
海堂の、そういう聡さは、ひけらかさないでいるから一層美点だ。
「………参ったな」
「すみません」
「や、…そうじゃなくて」
「…………………」
「確かにそうだね、俺はそういうタイプだな。……だからさ、恋煩いがどうこうっていうのを、そういうつもりで俺はお前に言ったんじゃないんだ」
「…え?」
「海堂に言っちゃったのはさ…」
つまり、と唇の形だけで告げながら、乾は海堂に顔を近づけた。
軽く、唇を合わせた。
「…………………」
屋根もなく。
高い高い空に地上よりも少しだけ近くの場所で。
重ねた唇は、ひどく清潔で心地良かった。
「せん………」
「…………………」
浅く触れ合う唇が動いて。
至近距離から乾は低く告げた。
「ごめんな。冗談じゃないんだ」
「…………………」
「思いつきでもないし、興味本位でもない」
動けない海堂を両腕で抱き締めると、乾の胸で海堂は強張った。
「海堂」
怖いかと乾が口にした時、確実に海堂は怒鳴ると乾は思ったのだが。
腕の中の海堂を覗き込んだ乾は、そこにあった棘の無い表情にかなり驚いた。
というより、海堂自身の表情こそが、とにかくびっくりしているというのが一番のような、幼い驚愕をいっぱいに広げていたのだ。
「……海堂…?」
「いや……」
怖いどころじゃないような様子の海堂が今思っている事を、そっと促すように乾は呼びかけた。
「………見えたから…」
「何が?」
「……目」
「目?……俺の?」
「……………」
無論いつものように乾は眼鏡をしている。
しかし、初めての最も近い接近と。
恐らくは上目遣いで乾が考える以上に強く海堂を見上げてしまっていたようで。
海堂は乾の眼を見て驚いているようだった。
珍しいからかと一瞬思った乾の思考を海堂の言葉が遮ってくる。
「……いつも……そういう目で見てるんすか…」
「海堂のこと?……んー……いや、今日は特別だと……普段はもう少しゆるいと思うけど……」
「別に怖いなんて言ってない」
乾の歯切れの悪さに、また海堂が的確に意味を汲んだらしく、不機嫌そうな言葉を返してくる。
乾は微かに笑った。
「うん……頼むよそれだけはほんと」
「………怖がるわけないだろうが」
「でも早いよ脈」
乾の腕の中。
鍛えられているのにひどく薄い身体の、走るような脈。
「……あんたがあんなことするからだ」
「だな……」
そのくせもう離れることも出来なくて。
乾は海堂の背に回していた手でその肢体を抱き寄せた。
「…………………」
力をこめた。
腕の中の感触が、一層軽く、薄くなる。
加減がつかめない。
胸元に抱き込んだ手触りの甘さに乾が小さく息をつくと、その熱っぽい吐息に当たったのか海堂の身体が震えた。
「………移されてよ」
恋煩い。
「…………………」
情けない言い様だと思ったが、きつく抱き締めて乞う様に乾が囁くと、海堂の身体から力が抜けた。
「俺に移して、あんたは完治か」
「治りたいなんて言ってないよ」
乾は笑った。
「俺はもう、一生かかってる心積もりだしね」
抱き締めながら、海堂の頭上に唇を埋める。
「…………好きだ」
そう口にするだけで、充分幸せだというのに。
「…………………」
乾の腕の中で海堂が、口付け返すように乾の鎖骨あたりに唇を押し付けてきて。
その感触で教えられた海堂の返事に、乾は甘やかに安寧した。
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