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How did you feel at your first kiss?
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 薔薇は甘酸っぱい匂いがする事を、神尾は跡部の家で知った。
 跡部の家の庭には薔薇の茂みがある。
「お前、なに当たり前の事言ってんだ」
「ええ? だってよぅ、俺こんなにたくさん薔薇の花が咲いてるとこ来た事ねえし」
 呆れ返っている跡部に告げて、神尾はゆっくりと歩いた。
 庭にはいろいろな種類の薔薇が植わっている。
 名前や種類など知らなくても、綺麗なものは綺麗だ。
 いい匂いがして、気持ちが良い。
 迂闊に手折る事は出来ないし、棘もよく見るとかなり鋭い。
 極たまに花束なんかで神尾が見る薔薇は、当然棘の処理がされているのだから。
 野生の状態で目にすると、綺麗な薔薇の棘はいっそ強暴だ。
「跡部ってさぁ……何かもう、…薔薇ー!…って感じだよな」
「ああ?」
「だから、薔薇ー!って感じ」
「………………」
 意味が判らねえとうんざり吐き捨てる跡部に神尾は唇を尖らせた。
「何で俺達って、会話出来ねえんだろ?」
「どう考えても貴様のせいだ」
「ええー、どう考えたって跡部のせいだろ!」
 薔薇の咲く茂みに沿って、それでも二人。
 肩を並べて歩いている。
「薔薇なんざ、いい喩えじゃねえだろうが」
「何で? いいじゃん」
 綺麗。
 薔薇も、跡部も。
 それは神尾だって思っている。
 けれども跡部は、さも嫌そうに嘆息した。
「薔薇みたいに害虫に弱い植物にこの俺を喩えんな」
「……そうなのか?」
「だから葡萄畑の周囲に薔薇が植えられてるんだろ」
「は? 葡萄?」
 意味が判らねえと今度は神尾が眉根を寄せる。
 何がどう繋がってそういう話になるのか、神尾には全く理解出来ない。
「ワインの葡萄だよ」
「…はぁ?」
「……何で俺とお前は、こうも会話が成り立たねえんだ」
「どう考えてもそれは跡部のせいだろ」
「バカヤロウ。お前だお前」
 先程したばかりの会話を繰り返す。
 そうして、やっぱり、どうしたって、そうなのに。
 自分達は。
 噛みあわない事の方が、圧倒的に多いのに。
「薔薇は害虫に弱いってさっき言ったろうが」
「ああ。それは聞いたぞ」
「だから薔薇が被害を受けると次は葡萄が被害を受ける。ワインをつくるための葡萄畑の回りには、だから薔薇が植えてあんだよ」
「……葡萄が害虫の被害にあわない目安でってこと?」
「綺麗な薔薇が咲いてりゃ、そこのワインは美味いんだよ」
 跡部が、ふっつり言葉を切る。
 何だ?と神尾は足を止めて隣に居る跡部を見上げた。
 それと同時に唇が軽く重なった。
「………………」
「俺が薔薇でもいいぜ」
 ふ、と吐息に笑みを混ぜた跡部の表情は艶然としていて神尾はくらくらした。
「せいぜいうまいワインになるんだな。お前」
「………は?…」
「側で薔薇が綺麗に咲いてる以上、葡萄は最高級のワインにならなきゃいけねえんだよ。判ったか」
「……、ぃ…、ってぇ…!」
 言葉と同時に、後頭部を景気よく叩かれた。
 手加減も何もない。
「痛ぇだろっ。何すんだ跡部っ」
「うるせえなぁ……」
 薔薇の茂みで。
 甘いような気配もこんなにも簡単に吹き飛ぶ自分達だけれど。
 喧嘩ばかりをこうして繰り返すけど、時々は素直な気持ちを口に出してもみるし。
 手やら足やら出して争う事もあるけれど、時々は抱き締めたり抱き締められたりして安寧してもいるし。
 薔薇と葡萄で、いいのだろう。
 これはこれで。
 自分達は共存しているのだから。
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 そういえば最後の方が思い出せなかった。
 終わったんだっけ?と神尾はぼんやり考えてみたもののやはり何も思い出せない。
 そしてそれで今は。
 何をしているのか。
 今は?と神尾は再度自問する。
 何だかひどくふわふわと気持ちがいい。
 さらさらと温かい。
 確か少し前までは、熱くて、熱くて、熱くて。
 それが痛みなのか快楽なのか区別出来ない強さで、神尾の身体の内側で、放熱している硬い熱を、のんでいた。
 体内で砕けて弾けた熔けた感触を神尾は思い出した。
 終わったのだ。
 思い出した。
 その瞬間を思い出してみれば、身体が震えた。
「……………」
 ふと、神尾は肩を抱かれた。
 眼が開かない。
 でも判った。
 今、神尾の肩を抱いたのは、跡部だ。
 支えられた肩から、湯をかけられる。
 シャワーのようだった。
「……………」
 どうやら浴室に運ばれているらしかった。
 湯船の中にいるらしかった。
 神尾の感覚は少しずつ戻ってきているが、眼を開けるのも動き出すのも酷く億劫で、そのまま頭だけで状況を考える。
 跡部が、自分を浴室に運び、肩を支えられながら自分はバスタブに沈んでいて、肩口からシャワーをかけられている、それが今の状況。
 しかし、意識だけが覚醒し始めた先程の神尾の身震いを跡部はどう思ったのか。
 強い力でいきなりバスタブから抱きかかえられた。
 膝裏に回った腕と、肩を抱かれたままの腕。
 そんな簡単に抱き上げるなと神尾は思ったが、跡部のそのひどく丁寧なやり方に募るのは心地良さばかりだ。
 このままでいてもいい、むしろいたい、そんな風に神尾は思ってしまった。
 跡部が自分を抱き上げたまま歩き出す。
 手足の先から、ぽたぽたと水滴が落ちる。
 爪先が擽ったかった。
 跡部はいつもこうしてくれていたのだろうか。
 湯船に浸され、浴室から運ばれ、バスローブらしきものに包まれて。
 そのまま抱き締められる。
 濡れた身体の水滴はバスローブに吸い込まれていく。
 抱き上げられ、ベッドに寝かされる。
 気持ちのいい厚手のタオルの感触が、手足を辿り、バスローブがゆるめられて、肌触りのいい何かを着せられる。
 跡部は終始無言のまま。
 ゆっくりと進めてくる。
 神尾に触れてくる手は、すごく、丁寧だった。
 おざなりな感触はなく、適当な印象もまるでない。
 いつも、こうされていたのだろうか。
 神尾は眼を閉じたまま、横たわったまま、ゆるい甘さにひたひたと胸の内を埋められてしまう。
 跡部の手に頭を撫でられた。
 髪を撫でつけられたようだった。
 その指先で頬にも軽く接触を受ける。
 折り曲げられた指の関節で、そっと辿られた頬が、熱を帯びないのが不思議なくらい。
 跡部は何もかもが、どうしようもなく優しかった。
「………………」
 いつもは、神尾はこの跡部を知らない。
 跡部とした後に訳が判らなくなって、翌日目覚めれば自分の身なりは整えられていて、跡部にされているのは判っていたもの、こんなやり方だったなんて神尾は今日初めて知った。
 丁寧すぎる。
 優しすぎる。
 意識もない、眠っている自分に。
 目じりに唇が寄せられる。
 髪がまた撫でられて、跡部が隣に横たわったのが、弾んだベッドのスプリングで判った。
 頬にも唇が。
 だから、本当に、何で今こんなにも甘く優しく丁寧なのだ。跡部は。
 神尾は、自分の知らないところで、こんな風にされていたのだと気づかされ、それこそもう何か甘ったるいものにどっぷりと浸ってしまって落ちていく。
 目覚められない。
 起き上がれない。
「………………」
 跡部はゆるやかな指先での接触と、幾度かのキスとで、何のリアクションもない神尾をかまった後、静かに寝入っていった。



 跡部に抱かれて自失している間も、こんなに、とんでもなかったんだと。
 神尾はその日、初めて知った。
 さらさらとした肌触りの中に埋もれながら、神尾はふと目を覚ました。
 気持ちの良い感触は、普段神尾が慣れ親しんでいるもの。
 しかしここは跡部の家だ。
 ガーゼの寝具。
 一昨日ここに来た時、同じこのベッドで使われていた上掛けは、これとは違うものだった。
 まだその時は夜になれば幾らか涼しい気候であったし、何より跡部の部屋の空調は完璧に保たれていたから。
 これから本格的にやってくる夏を思って、神尾は跡部に、夏の寝具はガーゼケットだよなという話をしたからなのか、そうでないのか。
「………………」
 神尾は心地良いガーゼの中で目を開けて、そこに跡部がいないので、微かに唸った。
 逆の事をしたら怒るくせにとぶつぶつ呻いて、重い身体を投げ出すようにしてベッドから降りる。
「………、……」
 跡部のTシャツを一枚、何時の間にやら着せられている。
 捲れたシャツの裾から見えた自分の足の付け根に、男の執着も露な露骨な吸い痕が見下えて神尾は再び唸り声をもらす。
 打撲かと思うほど色濃く残されている。
 立ち上がると、腰がひどく重かった。
 そのくせ腰から足先までの感触は、歩いてみても殆どない。
 歩きづらい事この上なかった。
 神尾は覚束ない足取りで部屋から続くテラスへと出た。
 ガラス扉を押すと、そこには息苦しい熱をはらんだ夜の重い空気がある。
 跡部はテラスの柵に寄りかかってぼんやり頭上を見やっていたが、神尾に気づくと目線を下げて少し皮肉気に唇の端を上げた。
「…なにやってんだよ」
 声がうまく出ない。
 寝起きのせいかもしれないし、先程までしていた行為のせいかもしれない。
 掠れた神尾の声を、しかし跡部は正確に拾い上げた。
「熱さましてるだけだ」
「……って…中のがよっぽど涼しいじゃん」
「気温の話じゃねえよ」
「………………」
 跡部は僅かに目を細め、渇いているらしい上唇をほんの少し覗いている舌先で舐めた。
 その顔は、さっき見た。
 見上げていた。
 ずっと。
「………………」
「お前を抱いた後は、おさまりがつかねえんだよ」
 背にある柵に両肘を乗せ、適当に羽織ったらしい白いシャツはろくに釦もとめられていない。
 神尾が息苦しくなる程に、跡部の表情には卑猥な影がある。
「………ずっと残ってるみたいで、鬱陶しい?」
「誰がそんなこと言った」
「……俺、そこ行ってもいいのか」
 何とはなしに躊躇してしまって、足がとどまり、声も小さく神尾が尋ね入れば、跡部は薄く微笑した。
「キスされるのが嫌でなけりゃな」
「…………やなわけないだろ」
 近づいていく。
 跡部の腕が伸びてくる。
 神尾は跡部に肩を抱かれて、強く、引き寄せられた。
 ふわりと、接触の柔らかなキスで唇が塞がれる。
 そのキスは浅く、長かった。
「…、……跡…部…」
「お前は、ほんと俺ん中から出ていかねえな」
「え?…」
「俺の側にいてもいなくても、俺から近くでも離れていても、俺が起きていようが眠ってよういようが、出ていかねえで俺ん中にいるままだ」
 それはつまりやっぱ鬱陶しいって事か?と思った事が顔にそのまま出たようで。
 神尾は首筋に、噛むような口付けを跡部にされて身を竦めた。
「だいたいお前だろうが」
「…俺…が…なに?」
「鬱陶しいって思うなら」
 お前だと繰り返され、跡部の強い腕が神尾の腰に回ってくる。
 身体と身体が密着して、視線が近くて。
 くたくたと跡部の胸元に落ちていってしまう神尾にしてみれば、それこそ鬱陶しいなんて誰が思うのだと心底呆れる気分だった。
「のこのこ俺の前に顔を出したお前が悪い」
「……跡部…」
 神尾の耳元や首筋に跡部の唇がひっきりなしに触れてきて。
 次第執拗になっていく感触がダイレクトに神尾に沁みこんでくる。
 それは痛みのような明確な刺激で、跡部が言うところの『熱』だ。
 神尾は跡部の背のシャツを握り締め、唇からこらえるような息が零れてしまうのを受諾する。
「神尾」
 気づいている跡部は、けれども何も言わなかった。
 ただ、神尾の名前を呼んだ時の跡部の呼気は、神尾の首筋にひどく熱かった。
 指先にまで、じんわりと熱が走る。
「…………あつい…」
「今から言うな」
「…そんなこと言ったってよぅ」
「お前が言うな」
 俺の方が熱い。
 呻くような声音で、跡部はそう言った。
 実際神尾の唇を塞いだ口付けの合間から、跡部が神尾に含ませてきた舌は、熱の塊のようだった。


 暗くて、苦しい、真夏夜。
 さらりと甘いガーゼに包まれ、もっと熱い、真夏夜。
 走っていると雨が降り出した。
 目的地まではあと少し。
 神尾はスピードを上げた。
 いきなり辺り一面に轟く大きな音で雷が鳴った。
 勢いづいた雨粒は大きい。
「やっべ……」
 これは急がないと。
 これよりも、もっともっと強烈な雷を食らう羽目になる。



 案の定、神尾の考え通り。
 神尾を一喝した雷の剣幕たるやそれは凄まじかった。
「そんな怒鳴んなって。跡部」
 冗談でなく思わず耳を押さえてしまった程の怒声だ。
 ずぶ濡れですみませんと結構真面目に言った神尾は、さすがにこれは人様の家を訪れる恰好ではないと我が身を省みている。
 びしょびしょと言うよりも、もはやぐちゃぐちゃだ。
「……ええと…今日は帰った方がいい…?」
 顔を合わせるなりこの馬鹿!と神尾を怒鳴りつけた跡部は、この神尾の問いかけに一層険しい顔をした。
 はっきり言って恐ろしい形相だった。
 神尾としては、この有様で家に上がっては室内を濡らして汚す事は判りきっていたので言ったまでなのだが、涼しそうな亜麻布のシャツを羽織った跡部は物凄い力で神尾の二の腕を掴み、引き寄せてきて、息も止めるような深い口付けをしかけてきた。
「…………、…ん」
「……何で俺が怒るのかも判らねえのか。お前は」
「…あと…べ…?」
 ずぶ濡れの神尾を、躊躇いもなく身包み抱き締めて。
 同じように濡れていきながら跡部は低く囁いてくる。
 吐息程度のささやきは神尾の唇にかるくぶつかって。
 跡部だなあと神尾は思った。
 三週間ぶりの。
「………跡部」
 神尾も両腕で跡部の背を抱いた。
 見目はすらりとしている跡部の身体は、しなやかでいて、しかし固い。
 ひどく熱い。
「…………風邪ひく前にシャワー浴びろ」
「うん……」
 跡部の口調は平静で、でも肌は熱くて、返事をしてからぽつりと神尾がそれを告げれば即答で返された。
「お前が冷えてんだよ」
「………そう…なのか…?」
「神尾」
 跡部は多分、早く神尾にシャワーを浴びせさせたいようだった。
 神尾もそうと気づいていたが、こうして近くに居て抱き締めあってしまうと、どうしようもなく離れがたくなってしまった。
 促しでまた跡部から名前を呼ばれた神尾は、取り立てて意味のない、ふと思い当たった事を口にする。
「……六月って、何でこんなに雨が降るのに水が無い月で水無月なんだろ…」
「神尾……」
「変じゃね?」
 跡部は一瞬また微かな怒気を滲ませてきた。
 けれど神尾は、判れよ、と念じてぎゅっと跡部の背のシャツを掴み締める。
 判れ。
 こうしていたいのだ。
「……………」
 跡部がまた神尾の唇を塞いできた。
 唇で。
 キスは今度も強くて、深くて、甘ったるい。
「水が無い月って意味じゃねえよ」
「……ちがうのか…?」
「無しって漢字は当て字だ。ついでに『な』は『の』って意味の連体助詞だから、六月の意味は『水の月』だ」
「へえ……」
「日照りが続いて水無しになるから水無月って説もあるがな……」
「……………」
 六月にはいろいろ意味合いがあるようなので。
 神尾は六月の中にいる自分の、渇きと潤いとを否が応でも体感した。
「跡部と会えないでいたから、俺もずーっと水無しの月だったぜ」
「……………」
「でも今は水の月だな」
 たっぷりと、溢れかえる程に。
 こうして抱き締め合える跡部がここにいる。
「渇いて……」
「………跡部…?」
「餓えてんのは…」
 俺だ、と。
 跡部の言葉ごとキスをされた。
「……ふ……、…」
 神尾は跡部の舌先を口腔に含んで。
 沁みこむ様に伝わってくる跡部の存在に。
 思考や体内がゆったりと濡れていくのを感じていた。


 激しいこの夕立のような雨よりも。
 短い時間で、遠慮の無さで。
 欲しがられるのが堪らなかった。
 傷には慣れている。
 過去には執拗ともいえる上級生達からの暴力もあったし、現在では少ない人数で次第にレベルアップしていく対戦相手に敵う為にはある程度の無茶も必要だったからだ。
 自分の傷も、仲間の傷も、そうそういちいち戸惑う余裕も無い程には頻繁だった。
「………神尾」
「ん?」
 しかし、今回一番珍しい人間が、一番らしくない気に仕方をした。
「なんだよ深司」
「その顔……」
「おう、石田との特訓!」
 親指を立て笑顔で応えた神尾に、伊武が長い長い溜息を吐き出した。
「え、なんだよ?」
「………………」
「どうした深司?」
「………………」
 神尾は急激に心配になった。
 肩を落とした伊武なんて滅多に見ない。
 ぼやかず沈黙する伊武もまたしかりだ。
「深司ー…?…どっか痛いのか? 大丈夫か?」
 うろうろと伊武の表情を伺う神尾の顔には無数の傷がある。
 引っかき傷程度ならばまだしも、縦横無尽な切り傷があちこちにある。
 手足にも傷跡は多かったが、何分ここまで顔に傷がある様は一種異様だ。
 お互いの怪我には見慣れている彼らであってもだ。
「あの人、何か言った?」
 神尾の問いかけには何も答えず、伊武は小さな声でひとつだけ神尾に確認する。
「跡部?」
 神尾は小首を傾けた。
 伊武が言うあの人という言い回しは主に一人にだけ向けられる。
「今日会うけど?」
「……もしかしてその顔見せるの初めて?」
「そだな。最近忙しかったからなー」
 特訓で!と再び明るい笑顔を浮かべた神尾に、伊武は堰を切ったかのように、一気にぼやきだした。
 いつもの深司だーとより一層の笑みを浮かべる神尾にはいまひとつ伊武の危惧は伝わらなかった。
 何せ神尾は思っていたからだ。
 跡部のような顔ならばそれこそ一大事だろうが。
 別に自分の顔に多少傷がつこうがたいした問題ではない。
 神尾は気にしないし、跡部だって気にしない。
「………深司の顔でも一大事だなー…」
 伊武のぼやきを聞き流しながら呟いた神尾の言葉に、ぴたりと伊武が口を噤んだ。
 小綺麗に整った伊武の面立ちに、ぴしりと冷たい怒りが浮かぶ。
 神尾は慌てた。
「あ、聞いてる、聞いてるぞ、深司」
「もういい」
「深司ってば…! 俺ちゃんと聞いてたって…!」
「神尾なんかあの人に怒鳴られて、きれられて、足蹴にされてしまえばいい」
 呪詛のように言って踵を返した伊武を、神尾は慌てに慌てて追いかけていくのだった。



 今朝方の伊武とのそんな会話を神尾は思い返していた。
 跡部を見つめたまま。
 跡部は押し黙っている。
 放課後、神尾が跡部の家に行くと、迎えに出てきた玄関先で跡部は僅かに目を瞠り動かなくなってしまったのだ。
「……跡部。……おーい」
「………………」
 少し目を細めるようにした跡部の表情から、あまり機嫌がよくない印象を受ける。
 まさか伊武が言っていたように、自分の傷に関わる事でか?と神尾はこっそり自問した。
 不思議がるだとか、笑うとか、呆れるとか。
 そういうリアクションなら跡部であっても可能性もあるが、不機嫌になるとは全く意味が判らない。
 神尾はおずおずと幾度目かになる呼びかけを口にした。
「跡部?……」
「………入れ」
 低い声。
 きれいなラインの顎で促される。
 横柄な筈の態度が様になる。
 そういうところはいつもの跡部なんだけどなあと神尾は内心でぼやきながら後に続いた。
 部屋に辿りつくなり、立ったまま、跡部は神尾の顔を改めて強く見下ろしてきた。
 そしてやはりあまり機嫌のよくなさそうな態度で、何だそれはと言った。
「何って。テニスしたんだよ」
「テニス?」
「………正確には練習」
 ひやりと冷たい声で跡部が問い返してくるので、渋々神尾はもう少し詳しく言った。
 全国大会前だ。
 お互いに。
 改めてこんな話をするのもどうもなあ、と神尾の歯切れは悪かった。
 しかし跡部が無言のまま、何とも言えない表情で神尾を見据えるのにかちんときた。
 挙句こんなことまで言われたから、神尾はきつく跡部を睨み据える事になる。
「何だってんだ。そのツラは」
「………………」
 跡部は、気にしないと思ったのだ。
 神尾の顔が傷だらけだろうが、そんな事別に。
 それなのにうんざりと嘆息されて、神尾は嫌な気分になった。
 跡部の舌打ちでいよいよ限界に達する。
「見苦しくて悪かったな…!」
「そんな事はどうでもいい」
 きつい声での即答に、神尾の激情はますます強まった。
「そうだよ! どうせたいした顔じゃねえんだからどうでもいいんだよ!」
「言ってねえよ。バァカ」
「だったらそういう顔するなっ、馬鹿はお前だろっ」
 一気に膨れた怒りは、怒鳴ってみても一向に萎まらない。
 跡部は、気にしないと思ったのに。
 顔なんか。
 汚れたように傷がついても、構わないでいてくれるだろうと思っていたのに。
「傷だらけの汚い顔が嫌なら、ずっと目つぶってればいいだろ! それか、もうずーっと会わなけりゃいいじゃん…!」
「…言ってねえって言ってんだろうが」
 神尾の怒りなど簡単に切り捨てるように、急激に跡部の眼差しが険しくなった。
 一瞬神尾はそれに怯んでしまった。
 本気で怒った時の跡部はさすがに怖い。
 跡部が神尾の両手首を壁に押さえつける。
 近づいてきた跡部の顔はやはり怒っていて、しかし、至近距離から見据えられて言われた言葉は辛辣なものとは違っていた。
「傷があろうがなかろうが、俺がいいと思ったものはいいんだよ」
「………………」
 可愛いまんまじゃねえのと皮肉気に囁かれて、神尾は息を詰まらせた。
 耳元での跡部の囁きは、神尾の全身に急激にまわっていく。
 可愛いとか。
 普段言わないだろうがと視線に込めて睨んでやれば、どこまでも聡い男は低く笑って返してくる。
「言わねえだけだ」
「……、……っ……そんだけ嫌そうな顔しておいて……!」
「傷跡なんざマジでどうでもいいんだよ。お前に、この傷がついた時の事が嫌だって言ってんだ」
「………跡部……?…」
 跡部の唇が神尾の頬に寄せられる。
 正確には右頬の一際目立つ二本の切り傷の上にだ。
「痛い思いしたんだろ」
「別に……たいしたこと…、…」
 跡部の舌先が神尾の傷の上をそっと撫でる。
 神尾はびくりと肩を竦ませた。
「………………」
「……、……跡部…」
 首筋にもぐりこむようにキスが埋められる。
 そういえば打ち身の変色した痕がそこにはある筈で。
 跡部の手が神尾の手首から外されて、まさぐるように神尾の四肢を這い回っていく。
 衣服を剥がれていく。
「跡部、……」
「見せねえ気じゃねえだろうな?」
「………え…?」
 壁を背中でずるずると滑り落ちていって、床に座り込んだ時にはもう、神尾の状態は散々だった。
 いつの間にこんなと唖然となるほど、粗方の衣類は中途半端に剥ぎ取られている。
 跡部は神尾の身体にある傷ぜんぶに固執して、眼差しと手と唇とを宛がってきた。
「……ャ……、……そん……」
 傷なんかない、ところまでも。
 それらはやってきて。
 神尾は鳴き声混じりに跡部に両腕を伸ばした。
「ふ……、…ぁ…」
「神尾」
「…………っ……ぁ…」
 身体をきつく抱き返されて、唇をつよくむさぼられる。
「……っ、ん」
 いっそ生々しい傷跡の有無などは、どうでもいいと切り捨てられるのに。
 その傷がついた瞬間のことについては、その全ての瞬間において懸念する男は。
 時に、こんな傷など比ではない熱さと鋭さで神尾に存在する。
 これまで何度も、そして今も、これからも。
「……、跡部……」
「……黙ってろ。下手に煽るな」
 相変わらずの薄い笑みを浮かべている跡部に、神尾は結果的には逆らったらしかった。
 跡部の首に腕を回して、キスを返した。
「………ッ…」
 舌打ち。
 強い力での抱擁。
 その嵐のような勢いにまかれながら、熱さに傷痕が溶けていくような錯覚を神尾は覚えた。


 実際は。
 その後、神尾の身体にはより多くの痕が残ることになったにも関わらず。
 東京タワーはオレンジ色だった。
 昼間は赤いのに、夜になってライトアップされた様子は炎の色で。
 煮詰められた蜜のようにとろとろと光って見えた。
「うわ、すっげ…!」
 ガラスにぺたりと両手の手のひらをつけて。
 神尾は眼下の夜景を見下ろし、声を上げる。
 瞬く無数の灯りで埋め尽くされた夜景は、下界と言ってしまえるくらいとても遠くの光景のように神尾の足元に在った。
「なんだよこれ……マジですっごいなー……!」
 思わず呟いて、ガラスに額も押し当てた神尾の背後で。
 吐息に交じった笑みの気配がする。
 ひどく大人びた嘆息は、神尾をこの展望台に連れてきた男の唇から漏れたものだ。
「な、跡部」
 神尾はくるりと背後を振り返り跡部を見つめて言った。
「すごい!」
「お前はさっきからそればっかじゃねえか」
 皮肉な笑みを浮かべて跡部は神尾の横に並んだ。
「だってよぅ、こんなにたくさん光ってる灯りのところ全部に、人がいるんだぜ?」
「………………」
 神尾の言葉に、何故か跡部は目を瞠った。
 跡部の表情の変化に気づかないまま神尾は更に言い募る。
「すごいよなー。道路流れてるのは車だろ。あれだけの数の車を、人が動かしてんだもんな」
「………………」
「ビルの灯りだってだってさ、仕事してる人がまだあれだけいるってことだもんな。電気のついてる家には、その家の住人がテレビ見たり食事してたりしてて……この灯りの数だけ人間いるんだもんな。すごいよな」
 なあ跡部、ともう一度呼びかけて。
 漸く神尾は跡部が黙ったまま何だかびっくりしたみたいな顔をしているのに気づいた。
「……跡部?」
 なんだよ?と神尾が怪訝に問うと、跡部はやけにまじまじと神尾を見下ろし続け、それから唐突に神尾もよく見慣れた不遜な笑みで唇の端を引き上げた。
「………なんだよ…ぅ…?」
 跡部のリアクションの意味合いが判らず、神尾は眉根を寄せた。
 内心では忙しく、自分は何かおかしな事でも言っただろうかと思い悩んでいる神尾に、跡部はとうとう低い声音で笑い出した。
「な、…なんで笑うんだよっ」
「いや、別に?」
「別にって! 笑ってんだろ!」
 肩まで上下させている跡部に神尾が噛み付くように叫べば、うんざりするほどうっとりさせるようなやり方で跡部が前髪をかきあげて神尾を流し見てくる。
「女と子供は光るもんが好きで、ついでに馬鹿は高いところが好きだとも思ったから、お前をここに連れて来たんだがな」
「……っ…、…なにナチュラルに人のことばかにしてんだよ…!」
「リアクションは、まあ予想通りだったが……」
「…………あと…、…」
 壮大な夜景をも配下に従える暴君さで。
 跡部はガラスに片腕をついて、首を捩じるようにして神尾の唇をキスで塞いだ。
 静かに、深く。
「………ン……、…」
「………………」
 真横に並んだ跡部を見上げていたままキスを受けた神尾は、無理な体勢に首筋を強張らせながら口付けられる。
 跡部の手が神尾の顔に触れた。
 髪を撫でられ、頬を包まれ、後頭部をまさぐられながら、ガラスに背を押し付けられる。
 キスは深くなり、強くなる。
 背中にあるガラス板の存在が、ふと怖くなるほどに唇を貪られて、神尾は跡部の手首に指先を沈ませた。
「ゃ……、……跡…」
「………なんだ。…どうした」
「……こわい…って……」
 高層ビル、神尾の背後にあるのはガラス板一枚だ。
「馬鹿か。割れる訳ねえだろ」
 足元がすくわれそうな夜景。
 またたくネオン、流れるライト。
「跡部…」
「そういうツラするな」
「……跡部?」
「…………なるだろうが…」
「え…?……」
 何が。
 何を。
 したくなると、今跡部は言ったのかと神尾は迷い、しかしすでに神尾の思考をかきみだす勢いで口付けは繰り返されていた。
 キスで舌先を愛撫される。
 跡部がキスに本気になったのは、そういうやり方で判ってしまった。
 角度をかえる度に、ちいさく濡れる音がする。
 可愛らしいようなその音と、跡部のしかけてくるかぶりつくようなキスのやり方の卑猥さとが相まって、次第神尾の足元が覚束なくなってくる。
「…っ……ぅ…」
 落ちる。
 そんな錯覚も当然な場所。
 人のいない、暗い、高層ビルの展望台。
 夜景を背後にしたまま座り込んでしまえば、落ちていく先は遥か遠い下界にまでとイメージしてしまう。
「……、…ャ…」
「………………」
 かくんと膝がぬける。
 座り込んでしまう神尾に口付けたまま、跡部も後を追ってきた。
 ちゃんと。
「………っ……、…は…」
「お前の目が気にいってるんだ。俺は」
「……ぇ……?……」
 瞼に口付けられる。
 跡部の唇は、神尾の睫毛の先にまでキスを落とす。
 神尾は小さく肩を跳ね上げさせた。
「ガキで、バカで、生意気で、そのくせ」
「………………」
「お前にしか見つけられないものを見てる目だ」
 貶されているのか褒められているのか神尾にはさっぱり判らなかった。
 ただ言えることは。
「………………」
 まるで渇望されるかのように。
 さながら強い執着も露に。
 跡部が。
「神尾」
「………………」
 自分の事を。
 欲しがる。
 キスする。
 抱き締める。
「…………跡部…」
 神尾が跡部にそうしたいように、神尾が跡部を好きなのと同じ強さで、望まれている事は判るから。
 星に、夜に、闇に、蕩けるように口付けを絡ませあった。


 浮かんでも、落ちても、光っても、隠れても。
 見えていても、見えていなくても、自分達の恋はここに在る。
 神尾が自宅に帰る事を告げる時、跡部は返事をしないのが常だ。
 それは少しばかり神尾を落ち着かなくさせる。
 帰りづらい。
 かといって。
 実際帰らない訳にもいかないので、神尾は小さく溜息をつき、立ち上がり、跡部の部屋を後にする。
「じゃあな。跡部」
 扉のノブに手をかけた神尾は、音も無かったのに近くなった慣れた香りに背後を振り返る。
 跡部がいた。
 もう唇が触れそうに近い。
 跡部は睫毛を伏せて目を閉じていた。
「………………」
 ノブを掴んでいた神尾の右の手は、跡部の左手に握りとられて。
 片手だけつなぐようにして。
 キスされた。
 舌で探られはしないけれど。
 深くかみあわされて頬が重なる。
 するりと擦ってすべる感触に、頬に熱が集まりそうで神尾は少し身じろいだ。
 後ずさっても背後にあるのは扉で、却ってキスでそのまま押さえつけられてしまう。
「ん…、……」
 握られている手も、少し強くなった。
 唇がゆっくり角度を変えて、その間も、もつれるようにキスは重なったままだ。
 跡部の唇の感触はさらさらと甘い温かさで、キスで、身体も頭の中も抱き締められているみたいになる。
「……っ…ぁ…」
 唇がずれた拍子に小さく声がもれてしまうのが居たたまれない。
 確か自分は帰ろうとしていた筈なのにと、神尾はうまく動かない思考で考える。
 今している、今日最後のキスが、今日した中で一番深くて。
 どんどんどうしようもなくなっていく。
 跡部の舌が、神尾の口腔にゆっくりと入ってくる。
 上顎を撫でられて、舌先を小さく吸われて、濡れた音が唇の合間に生まれる。
 もう、帰るのに。
「も……やめろよ…ぅ…」
「何でだよ…」
 何で、なんて聞きたいのはこっちだと神尾は思った。
 背にある扉に身体をあずけて、辛うじて足場を踏みとどまらせ、囁くほどに小さく低い跡部の声に息をのむ。
 跡部の唇も濡れていた。
「…………帰れなくなるだろ……」
「そうしてんだよ」
「何でだよ…」
「帰したくないからだろ」
 跡部が上体を屈ませてきた。
 俯く神尾の唇を、下からすくいあげるようにして口づけてくる。
 手をつないでいない方の跡部の右手が神尾の頬を包んで、キスがまた深くなった。
 あまり肉感的な印象のない跡部の唇が、次第に貪欲なやり方で自分の唇をむさぼってくるのに。
 神尾は結局どうしようもなくなって、その場に座り込んでしまった。
 跡部はキスをしたまま同じように膝をついてきた。
「………あ…とべ…」
「……………」
 歩けなくして、立てなくして。
 帰したくないなんて本当だろうか。
 跡部の考えは神尾には判りにくい事も多くて、それはお互い様だと跡部に言われた事もある自分達だけれど。
「…跡部……」
 跡部の首の裏側に両手を伸ばす。
 自分が縋りついているのか、跡部を抱き寄せているのか、神尾自身判らなかったけれど。
 そうしたくて、強く。
 近く。
 身体がぴったりと重なって。
 体温が滲んでくる。
 跡部の小さな吐息が神尾の首筋でとける。
「…………帰せなくなるだろ……」
「そうしてんだよ」
「何でだよ…」
「帰りたくないからだろ」
 会う度に、離れる度に、名残惜しんで大切に思っている。


 歩けなくなって、立てなくなって。
 帰りたくないなんて本当だ。
 口に含んだら甘い味のしそうなオレンジ色の夕焼けを見上げて、神尾は携帯の通話ボタンを押した。
 跡部からだ。
 専用の着信音がしたし、でももし音を消してあったとしても、神尾には今かかってきたそれが跡部からの電話だと絶対に判る。
「おい。何で来ないんだよ」
 いきなり神尾の耳に飛び込んできたのはそんな言葉だった。
 日暮れていく空が本当に綺麗で神尾はすうっと息を胸に吸い込んだ。
 返事をするより先に、この間青学に負けた時は来ただろうが、と跡部の声が淡々と言ったので。
「……負けてねえよ」
 神尾は憮然と言ってやった。
 跡部は少し笑ったみたいだった。
「神尾」
「今向かってるとこなんだよ!」
「とろいんだよ。お前」
「うるさい。このせっかち」
 今行く所なんだと。
 もう一度、神尾は繰り返す。
 足を速める。
 もっと。
 もっと。
「おう。早く来い」
「………………」
 やはり笑っているみたいな跡部の声に、神尾も少し唇の端を引き上げて。
 そして、目元を空いている手のひらで擦った。
 拭ったものは、涙なんかじゃない。
 何度も、何度も、惚れ直させる暴君に、八つ当たりじみて腹が立つだけだ。
 敗北を身に浴びても、欠片も弱者にならない。
 揺らぎない強靭さで、屈強に立ちはだかるから。
 悔しい、くらい。
 好きで好きで好きで。
 跡部のテニスはいつでも許容範囲を超える勢いで神尾の気持ちをすべて埋めていく。
 跡部のテニスはどうしてあんなにまでも特別なのか、人の気持ちを揺するのか。
 こんなに跡部を好きな状態で、跡部に会うのが怖いと思ったって、それは道理、無理ない話だろうと神尾は思った。
「ああ、…おい。神尾」
「………なんだよ」
 何かに気づいたような跡部の呼びかけに神尾は小さく応えた。
 こんなにも好きにさせて、自分をどうする気なのかこの男は。
「お前、俺に見惚れたようなツラ見せたら叩き出すぞ」
「……は?」
 跡部が何をいきなり言い出すのか、思わず神尾は、そんなこと言われたら叩き出されるのが確実じゃないかと思ってしまった。
 あんな試合を見せられて、そんな無理な提案のめる訳がない。
 口に出す事こそは、ぐっと堪えたが。
 理不尽な提案に神尾が眉根を寄せていると、跡部も然して面白くなさそうな口調で言った。
「どっかで見たようなとか何とか思ったら、よりにもよって橘じゃねえか」
「は? 橘さんがなんだよ?」
「髪型がだ、馬鹿」
 跡部の言葉に神尾は呆気にとられて。
「橘みたいだと思ってちょっとでも見惚れたようなツラ見せやがったら蹴り出すからな。そこんとこ覚えとけ。いいな」
「………………」
 ばか。
 神尾は声を殺して笑った。
 どういう発想、どういう理屈だと、跡部らしからぬその発言に、神尾は受話器から口元を離して肩を震わせた。
 ばかでばかでばかで。
 本当にもう大好きだ。
「跡部ー……」
「……なに笑ってんだてめえ」
 露骨に不機嫌な声だ。
 神尾は笑いを隠さずに言った。
「あのさ……跡部になら…いいんだよな?」
「ああ?」
「跡部に見惚れるのは…いいんだよな?」
 ちゃんと見ろよ、と神尾は念じてみる。
 自分が誰を見ていて、自分が誰を好きなのか。
 全部、全部、この気持ちを全部見せるから。
 神尾の気持ちを全て目にして、跡部は少しえらそうにしているといい。
 世界で一番跡部のことを好きな人間を側において、自惚れているといい。
 無性にそうしてやりたくなって、神尾は走った。
「待ってろよな…!」
「早くしてくれ」
 呆れたような跡部の声で、電話が切れた。
「……頼んでやがんの。跡部の奴」
 神尾は笑って、もう一度だけ、目元を拭った。

 後は、そう、全力疾走だ。
 花の香りがする。
 なんだろうと神尾は眼差しで香りの行方探して低木に気付く。
 白とえんじの小さな、それなのに香りの濃い花。
「沈丁花」
「………………」
 どんどん先を歩いていって、後ろに誰かがいるなんて考えもしていない背中をみせていたのに、どうして気づくのか。
 神尾の前方を歩いていた跡部の声がする。
 足を止め、肩越しに僅かだけ振り返ってきた気配がしたけれど、神尾は花を見つめた。
 濃い香りは決して不快ではないけれど、あれほどまでに小さな欠片から香ってくることがひどく不思議だ。
「神尾」
 続けざまに名前。
 あまり機嫌のよくなさそうな声だ。
 久しぶりに会った。
 こうして二人で会うのは一月ぶり近い。
 跡部から呼び出されて、跡部からそうされなければ会う事も出来ない自分達を神尾はここ一月で実感していた。
 高等部への進学を来月に控えた跡部は多忙だったようで、音信はぱたりと途切れていた。
 元々学校の違う自分達は跡部からの連絡が途絶えてしまうと、簡単に互いの間に距離が生まれた。
 三月だからというだけでなく。
 自分達は、ずっとそうだったのだ。
 思えば。
 跡部が誘わなければ、神尾は跡部に会えない。
 跡部が抱き寄せてこなければ、神尾は跡部を抱き締められない。
 だから跡部が、何もしなくなったら。
 何もいらなくなったら。
「神尾」
 予感は確信で、想像は現実に近づいているのかもしれない。
 いつまでも沈丁花を見つめている神尾の元へ跡部は戻ってきた。
 荒っぽい手に後頭部を掴まれる。
「………………」
 もっと荒っぽく唇を塞がれた。
 何故こんな人目があるかもしれない場所で。
 でも一瞬。
「………………」
 沈丁花に意識をやっていないと、身近になった跡部の香りにつかまってしまう。
 思い出してしまった。
 一月なかったものなのに。
 神尾が歯噛みした事を一瞬の口付けで悟った跡部は舌打ちをした。
 面倒だよな、と神尾は胸の内でひっそりと凍えた。
 こんなに好きで。
 跡部が。
 だから跡部は自然消滅を狙わないんだと神尾は少しだけ笑いたくなった。
 跡部が好きで、好きで、好きで。
 放っておいたって、いつまでも好きで。
 それは跡部にとっては後々困る事になるのだろう。
 別に危惧されるような事は何もしない。
 出来やしないんだと、神尾は自分を省みて思うけれど。
 跡部は、違うんだなと思った。
 わざわざ、また呼び出して、また会って、こうして。
「………言え」
「………………」
 ぼんやりと、あくまでも沈丁花に気を取られている素振りで視線を逃がしていた神尾の後ろ髪を握り締め。
 跡部が、至近距離で獰猛な声を出した。
 低く、小さな声だ。
「………………」
「いつまでも考えてないで言え」
 酷い奴、と神尾は目を伏せた。
 せめて跡部の家に連れていかれてからにして欲しかった。
 跡部は、きっと知っているのだ。
 神尾が跡部に何を言いたいか。
 だからここで言わせるのだ。
 跡部の部屋だったら、二人きりであったのなら、もう、いくらだって。
 どれだけみっとなくたって、抵抗してやるのに。
 言う事なんか聞いてやらない。
 泣いたって、喚いたって、何でもしてやって、抗ってやるのに。
 こんな、往来で。
 騒げば簡単に人目も集まるような場所で。
 跡部は神尾に言わせて、そして容易くそれを切り捨てるのだ。
 神尾の望みなど、簡単に。
「…………ない…からな…」
 くやしくて、でも意思はかたくて。
 食い縛った歯の隙間から洩らすようにして神尾が口にした言葉は酷く醜く歪んだ。
「別れたって…止めてなんかやんねえよ」
 好きで。
 好きで。
 もう止めろと言われたって、止め方なんか神尾は知らない。
 跡部が好きで。
 別れたって絶対神尾はこのままだ。
「好きなままなんだからな」
 そう言って、神尾は悔しさの腹いせのように、片腕を伸ばし跡部の身体を突き放そうとした。
 跡部が自分で決めた事なら、神尾が何を言ったって無駄な事は判っている。
 だからこの場から立ち去ってはやるけれど、好きなままでいる事は絶対に止めない。
「………ぇ…?」
 しかし、神尾の身体は。
 突き放した跡部の身体と離れる事無く、それどころか闇雲な力で、逆に抱き込まれていた。
 気管が潰される、そんな危機感を持つ程の乱暴さで、そして。
「………………」
 跡部の身体から、一気に力が抜けていくのを、ダイレクトに身で感じた。
 神尾に浴びせかけられたのは、まるで。
 まるで、跡部の。
 安堵感。
「跡…部……?」
 耳元に微かに当たる吐息。
 言葉も出せないというような衝動じみた安寧の吐息は、神尾の凍えた心情を揺らした。
 徐々に強まっていく抱擁。
 抱き締めろよ、と神尾は泣きそうになった。
 どうして、いつもみたいに、抱き締めるのではなくて。
 こんな、まるで縋りついてくるようなやり方で。
「……、…跡部」
 大きな手のひらで、背中をかき抱かれる。
 横暴な束縛ではなく、何故そんな懸命な拘束で。
 まさか跡部は、神尾が言うとでも思っていたのだろうか。
 跡部が口にするのだろうと、神尾が思っていた言葉を。
「………くそったれ…!」
「跡部……」
「思いつめたようなツラしやがるから……!」
 ふざけんなと呻く跡部に抱き締められたまま、もしかして跡部は、焦っていたのだろうかと神尾は眉根を寄せた。
 だってまさか、そんなこと。
 別れ話をされるのかと思うのは普通自分の方だろうと神尾は愕然とした。
 だってまさか。
 跡部がそんな危機感みたいなものを自分に持つだなんて事、神尾は思いもしなかった。
「………跡部」
 笑い出したいのに涙が出るから神尾は目を閉じた。
 手探りで、跡部の背中を抱き返す。
 こんな往来で。
 だから責任と役割は半々で。
 神尾は跡部と同じ力でその背中を抱き返す。


 もう沈丁花の香りはしない。
 神尾が吸い込む空気には跡部の香りだけがした。
 跡部の家に行くなり、二の腕掴まれて部屋に引っ張られて行って。
 ベッドに景気よく放り投げられたものだから、神尾もさすがに何事かと慌てた。
 跡部は唇の端で、薄く笑んでいた。
「な、…………なんだよぅ…?」
 思わず身構えた神尾に、跡部はそれは横柄に、そしてそれは綺麗な仕草で顎を突き出した。
 促す仕草に神尾はベッドを見下ろして、おおっ!と声をあげた。
「うわ、なにこれ…!」
 神尾が乗り上げた事で、僅かにずれた布団から見えているもの。
 思わず上掛けを剥いでしまうと、真っ白な敷毛布が現れた。
「すっげ…! ふわふわじゃん…!」
 やわらかい毛の感触は、手のひらでとろけそうだった。
「ホワイトクラウド敷。羊毛の毛足の長さは三センチ」
「あったかいなー…これ……うわ……めちゃくちゃ気持ちいいー……」
 跡部は何やら説明をしていたが、神尾にしてみれば実際体感している感触に勝るものはない。
 思わず横になると、身体がやわらかいもので温かく包まれてすばらしく気持ちが良かった。
 神尾が羊毛に埋めた片頬を摺り寄せていると、跡部が実に判りやすく不機嫌になっていくのが判って、神尾は思わず笑ってしまった。
「お前が俺をここに投げたんだろ」
「俺のいないベッドで気持いいって言いやがったか。てめえは」
「え…………」
 そういう話かと神尾が息を詰まらせると、跡部はベッドの上に片膝を乗り上げてきた。
「跡部、…?…」
「………………」
 そのままの体勢で、元から二つ緩まっていた胸元のシャツの釦を尚も外す跡部を見上げながら、神尾は恐る恐る身体を起こしかけ、阻まれた。
「………っ…!………あと…、…」
 組み敷かれるように、跡部の身体が被さってくる。
「ちょ……、…ちょっとまて…っ…………待て待て待て跡部っ」
「犬じゃねんだよ俺様は。何だその言い草は」
 思いっきり至近距離で見下ろされる。
 おそろしくきれいな顔をしてると、今更な事をつい思ってしまう神尾だったが、いやいやそうでなく、と首をぶんぶん左右に振った。
「跡部……おい、…これ……ここ、まず、…っ…」
「なに言ってんだがさっぱり判らねえな」
 判っていない筈がない。
 跡部なのである。
 神尾が気づく事に、跡部が気づかない訳がない。
「……跡部ー…!」
 神尾は焦った。
 長い毛足の柔らかな毛布に背面を埋められる感触は本当に心地良かった。
 良かったからこそ、ここでは出来ないと思うのだ。
 こんなに繊細でふわふわで暖かく柔らかいものを。
 どうやって洗えばいいのか神尾には検討もつかない。
 洗わなければならなくなるであろう状況を思えば顔も熱くなってくるし、何より跡部の腕が、横たわって向かいあっている神尾の身体の上に回されてきて、近づく身体にどうしようもなくどぎまぎした。
「…………ったく……縮こまってんじゃねえよ」
「………へ…?」
 たいして痛くもなく、ぺしっと額を叩かれる。
 神尾は目を瞠った。
「…跡部?」
「今は、まだ抱かねえよ」
 いちゃいちゃするだけだと跡部は言った。
「…………………」
 ふわふわの敷布のベッドの上。
 横たわって、くっついて、そして。
「…………いちゃいちゃ…って……あ、…跡部…?…」
「何笑ってんだよ。てめえは」
「だ、………だ……って…、……」
 いちゃいちゃって。
 跡部の口から出た言葉だとは思えなかった。
 おかしくて、笑えて、そしてどうしようもなく擽ったくも甘ったるい。
 肩を震わせて笑ってしまう神尾を、跡部の腕が強く抱きこんでくる。
「それならこういうのは何て言うんだ」
「………ん…ー……」
 頭も抱きこまれた。
 跡部の腕に後頭部を包まれて、釦の大半が外れている跡部の胸元に引き寄せられる。
「…………べたべた?」
「いちゃいちゃと変わらねえだろ」
 どっちもどっちだと言う声と一緒に、眦に唇が押し当てられてきた。
 跡部の声は冷たいくらいの毒づきなのに、触れてきた唇は微笑みの形をしている。
「…………俺が…寒いって言うから…?」
「別に。俺が必要なだけだ」
「そっか………」
 ありがとな、という言葉は口にはしなかった。
 代わりに神尾は、先程は羊毛の敷布に擦り付けた頬を、今は跡部の胸元に摺り寄せた。
 気持ちが良い、その一番は、ここだからと。
 伝わればいい。
 伝わるように。
 跡部の手が、すぐに神尾の後ろ髪をひどく優しげな手で撫でたから、きちんとそれは伝わっている。
「跡部…」」
 それならばもう。
 後はふわふわの敷毛布の上で。
 いちゃいちゃと、べたべたと、過ごすのみだ。
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