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How did you feel at your first kiss?
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 跡部は外で会う時の方が、余裕がある気がする。
 神尾が時々跡部の家に行くと、跡部はあまり外では見せない顔をする。
 それが素なのかもしれないけれど。
 その少し疲れたような、大人びた気配が未経験の感情で神尾を雁字搦めにする。
「神尾」
「………なに?」
 広いベッドで声がする。
 跡部を探す。
 まだ元に戻らない呼吸が邪魔をしているのか、散々に泣いた眼球が疲労しているのか、神尾は実際はこんなにも近くにいた跡部を、すぐに見つめてやれなかった。
 跡部の手が神尾の髪に乱暴に押し入ってきたから漸く、同じように身体を投げ出し、顔だけ向けてきている跡部を見つけた。
「………………」
 神尾を貪るだけ貪った跡部はテニスをした後のように汗で額を濡らしていて、怖いようなきつい目で神尾を見ていた。
「………………」
 神尾は身じろぐ事すら大儀な身体を、息を詰めて動かした。
 ベッドに腕をつき、跡部に必死で近づいていく。
 感覚は真綿のように軽いのに、実際は碌に動かない重い腰をひきずるようにして、横たわったままで跡部と向き合うような角度まで身体をずらす。
 跡部は食い入るような目でずっと神尾を見ていた。
「………………」
 八つ当たりとか、鬱憤晴らしとか、そういうものではなかったと神尾は思う。
 今日の跡部に、ちょっと容赦がなかったのは。
 嫌だと言うと一層動きがきつくなって、だからもう無理だと何度も告げたのに、神尾は跡部に神経のひとつひとつを潰されるようにして長い時間抱かれていた。
 外で待ち合わせた時は、跡部は相変わらず、どこか人をくったような笑みを唇にたたえていたのに。
 この部屋の扉を閉めてからだ。
 もう跡部は笑わなかった。
 伸びてきた腕。
 噛み付くようなキス。
 引き千切る勢いで服が剥ぎ取られ、伸し掛かってきた屈強な肢体。
「………………」
 最近やっと身体が慣れてきたように思っていたけど、全然だったんだなあと、神尾は跡部を見つめながらぼんやりと思った。
 心臓の音が、聞いたこともないような速さで乱れて。
 喉の奥の方から声が出っぱなしになる感じだとか、身体を普段動かさない方向に押さえられたり捻られたり広げられたりするのとか。
 今こうして、半ば放心した状態でなければ、とても思い返せないことばかりだ。
「神尾」
「………………」
 両手首をシーツに真上から押し付けられ、跡部が神尾を組み敷いてくる。
 正直、もうどうやったって、するのは無理だ。
 神尾はいきなりの跡部の行動に息をのんだが、されるままでいる以外に、今出来る事は何もなかった。
「………………」
 怒っているわけでも、不機嫌なだけでも、ないようだった。
 跡部の炯眼は、ひたすら鋭く、神尾だけを見つめてくる。
 その目を見ていて、なんとなく、神尾には判った気がした。
「………………」
 跡部が、神尾の片足を手で掴む。
 腿の裏側に手のひらを宛て、神尾の胸に密着させるように押さえつける。
 現れたふくらはぎに唇を宛て、跡部は神尾の目を貪婪に見据えた。
「一生縛ってやる」
「………………」
「もし俺から逃げ出したら」
「……ばかだなあ…跡部は…」
 やっぱりそうだった。
 神尾はもうどこにも力の入らない身体を投げ出したまま、跡部に、そっと言う。
「お前から逃げたいって思ってる奴相手にじゃなきゃ、それ、脅し文句になんねーじゃん……」
「………………」
「それが脅し文句になる相手じゃないじゃん。俺」
 跡部って、ばか、と力の入らない声で呟く。
 試すなら判りやすくすればいいのに。
 試されてると、もし自分が気付かなかったら、どうする気なのかと。
 神尾は内心で毒づいた。
 でも半面で、自分が絶対に気付くと判っているから、神尾はへたをすると一方的にダメージを受けているのかもしれない跡部のきつい表情をじっと見上げた。
「跡部がするなら、どんなことでもいいや。俺」
 何をされてもいいなんて笑っちゃうけど、と告げて実際笑ってみせれば。
 跡部は神尾の足から手を離した。
「………………」
 無理だと思いながらも、跡部がしたいなら自分もそうなるかも、と思って晒していた身体を跡部の腕に抱き締められる。
 互いから擦り寄るような抱擁で、位置がずれ、神尾の胸元に跡部の頭がくる。
 神尾は両腕で、ゆるく跡部の頭を抱いた。
 甘えてよと言って、素直に甘えてくるような相手ではないから。
 甘えられている事に気付かない振りで、こうして抱き締める。
「…………おい。身体」
「……気持ちいい…」
「馬鹿野郎」
「うん」
 跡部の髪が胸元にある。
 響いてくる声ごとゆるく抱き込んで、神尾は微笑んだ。


 跡部がここにいてくれるから、気持ち良い。
 一生縛ってやるなんて言葉、嬉しいだけだ。
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 跡部がキスを使うようになった。
 キスをするんじゃなくて、キスを使う。

 例えばいつもするような言い争いで、神尾が激昂して怒っていると。
 仕方ねえなと呆れた跡部がキスを使う。
 舌先を浅く入れて、音をさせ、ちょっと甘めのキスを使われ、神尾がぐったりしかけると。
 跡部は唇を離し、どこか皮肉な笑みを浮かべて、神尾の顔を眺め下ろしている。

 例えば今日はヤダと跡部の腕から逃げる神尾にキスを使って。
 散々煽るようなキスを、そのくせあっさり終わらせて。
 これでもまだ嫌か?と露骨にからかう言葉で結局神尾の方から強請らせたりする。

 例えば約束をドタキャンされて、消沈して拗ねたくもなる状態の神尾に跡部はキスを使って。
 これで機嫌直ったかよと、何だかひどく単純みたいな扱いで、言うだけ言ってそこからいなくなる。

 例えば。

「………キリないし」
 神尾は溜息を吐き出した。
 考えてみると、こんなことばかりだった。
 言われるまでもなく、神尾は跡部にキスされるのに弱くて。
 怒っていたり、嫌だったり、哀しんだり、落ち込んだりしている時。
 いくら言葉を尽くしてもそういう感情が晴れない時。
 跡部のキスで丸め込まれたり、誤魔化されたりした事が、決して少なくないのだ。
 単純な奴、と跡部に呆れられるのは悔しかったが、実際キスをされると神尾は駄目になってしまう。
 跡部のキスひとつで駄目になる。
「………絶対に跡部の奴…俺なんか、ちょろいとか思ってんだぜ…」
 言って自分で落ち込んだ。
 跡部のキスが好きだけれど。
 でもキスを使われるのは好きじゃない。
 神尾は最近それを考えて鬱々する。
 キスを使われているのだと、思い当たった時から毎日その事を考えている。
「……何ブツブツ言ってやがる」
「………………」
 真上から声が降ってくる。
 神尾は膝を抱え込むようにしてしゃがみこんだ体勢で、顔を上げた。
 待ち合わせ相手の跡部がいる。
 制服を着ていても、つくづく中学生離れした顔立ちだと思う。
 今日は跡部が時間通りに来た事を、神尾は跡部の身体の向こうに見える駅前の電光掲示の時刻で知る。
 跡部の遅刻が原因の言い争いにも、よく使われる。
 キス。
「………………」
 神尾は膝に手を置いて立ち上がった。
「鬱陶しいツラしてんなあ…お前」
「………………」
 いきなり跡部にそう言われた。
 腹がたつより哀しくなった。
「何ヘソ曲げてんだよ」
「曲げてない」
「曲げてんだろ」
「違う。考え事」
「……ハ、お前が考え事?」
「悪いかよ」
 喧嘩腰にでなく神尾が返すと、跡部はちょっと嫌な笑い方をした。
「精々たかが知れてるがな。お前の考え事じゃ」
「………だったらなんだよ」
「くっだらねえことだろ。どうせ」
 ヘソ曲げてんのどっちだよ、とふと神尾は思った。
 食って掛かるような剣幕ではなく、跡部は時々、こんな風に神尾に絡む。
 よほど自分が跡部に見下されているんだろうと思うような感じで。
 今だって、会うなりいきなりこんなだ。
 やけにつっかかってくるような跡部に、いつもならいくらだって言い返せる神尾も、今日は何だか胸がつかえて言葉が出てこない。
 何も顔をあわせるなりこんな所で言い争う事もないだろうに。
「お前が考える事なんざ、どうせたいしたレベルの話じゃねえんだから、いい加減その鬱陶しい顔どうにかしろ」
 うんざりした跡部の声に、どうせ本当にそうなのだからと神尾は心の中だけで言った。
 神尾がここ数日、ずっと考え込んでいる事なんか、くだらないのだ。
 本当に。
 どうしようもなく。
 でも、と神尾は思った。
 そう思ったら、口に出さなかった言葉の代わりみたいに、瞳から涙を零してしまった。
 跡部を見据えたまま。
「…………、…っ………」
「…………………」
 跡部が息を詰めたのを、神尾はぼんやり見つめる。
 何をそんな慌てたみたいな。
 ぎょっとしたような顔を跡部がしているのか。
「…………………」
 瞬くと涙が頬に落ちていく感触がする。
 神尾はそのまま跡部をじっと見上げて。
「……てめえ、何泣いて」
「………………」
「……、……来い」
 引っ手繰るようにして手首を掴まれ、跡部に引きずられていく。
 今日は跡部の用事が何かあって、出かける事にした筈なのに。
 何故か駅前から神尾が連れて行かれたのは跡部の家だった。
 舌打ちと一緒に、跡部の部屋のソファに身体を投げられて。
 そんな荒っぽい跡部の仕草も、ふんわりと柔らかいソファは全て吸い込んだ。
「だから何考えてそんなツラしてんのか、話してみろって言ってんだろうが。さっきから」
「………………」
 頭悪いのはどっちだよと、神尾は普段跡部に言われている台詞を思い出した。
 話してみろって思ってるなら、そう言えばいい。
 どう思い起こしたって、跡部は一度もそんな事を言っていない。
「神尾!」
「……もう跡部とキスしない」
 それでも話せと言われたから、神尾は神尾で答えたのに。
 神尾は跡部に、今まで見たことのないようなきつい表情で睨みつけられ胸倉を掴まれた。
「てめえ………」
「もうやだ」
「ふざけんな…!」
 跡部の怒声がビリビリと鼓膜を刺激して、神尾は身を竦めながらもそのまま覆い被さってきた跡部に腕を突っ張った。
「もう、キス、やだ…!」
「そんなてめえの言い草」
「そういうの、やだ…っ…」
「聞く訳ねえだろうが……ッ!」
 激怒している跡部を、神尾は不思議と怖いとは思わなかった。
 怒っているというより、焦っているような乱れを跡部から感じたからだ。
 強引にでも口付けられそうになって、神尾は跡部の胸元にもぐるように顔を埋めた。
「……、神尾?」
 だって跡部のキスが好きなのだ。
 だからそのキスを使われるのが嫌で、普通の、使われないキスなら、してと強請ってもいいくらい好きなのだから。
「おい………」
 跡部の胸元に顔を埋めてしまった神尾に、僅かに怒りの削げたような声音で跡部が呼びかけてくる。
 躊躇しているような気配がする。
 神尾は跡部の胸元のシャツを両手で握り締めながら。
 そこに顔を埋めて、多分たどたどしさ極まりない言葉で。
 夢中で。
 跡部に真意を告げる。
 子供みたいに一方的に相手を詰るような言葉も使ったのに、跡部は一度も怒らなかった。
 全部黙って聞いていた。
 癇癪じみた勢いで神尾がひとしきり吐き出すと、いつの間にか神尾は跡部の膝の上に載せられていた。
 跡部の胸に顔を伏せたまま、少しずつ落ち着いてきた神尾が狼狽を滲ませ出すと、跡部の指先が手探りするように神尾の唇に宛がわれる。
「したい時にしかしてねえよ」
「………………」
「お前を従わせられるなんて自惚れてもいない」
 跡部にしては珍しい、不貞腐れたような言い方だった。
 神尾の唇の表面を暫く辿った跡部の指は、そこからまた手探りで神尾の目元に辿りつく。
 眦を指先で拭われた。
「いきなり泣くな」
「……跡部…」
「不意打ちで泣くんじゃねえ」
 焦らせやがってと吐き捨てられて、神尾は漸く跡部の胸元から顔を上げた。
 そこで目にした跡部の表情に胸が苦しくなって。
 神尾はそっと跡部の唇をキスで掠めた。
「…………てめえだって使ってんじゃねえか」
「………え?……今のは…、…」
 違う、と言った唇を、今度は跡部から塞がれる。
「俺だって違う」
「…………………」
「そういう事だろうが」
「………そっか………ごめん」
 そうなのか、と神尾は繰り返して言う。
 キスはやっぱり、使うものではなくて、するもの、してしまうもの、したいもの。
 今のキスを『使った』と言われるのはショックだったから。
「……跡部、俺の言った事で、傷ついた? ごめん」
「自惚れんな」
 馬鹿がと跡部は言い捨てたが。
 神尾は跡部に両腕を伸ばした。
「跡部……」
「…………………」
 抱き返された背中が熱くなる。
 同じ力で抱き締めあって、同じ思いでキスをする。
 全てが永遠に、均等につり合うのは難しい。
 でもこの一瞬は確かに均等で、一瞬の積み重ねが永遠だ。
 生まれて初めてのインフルエンザだった。
 おおーっ!と思わず感動の声を上げた神尾は、かかりつけの医者に馬鹿者と頭を叩かれた。
 くれぐれも安静にしていなさいと言いつけられた言葉と薬を持って病院を出ると、途端に何だか足元がぐらぐらして、やけに目が回った。
 気持ち悪い、寒い、頭痛い、吐く、と何だか呪文のように繰り返しながら家に辿りついた所までだ。
 神尾の記憶があったのは。
 その後、神尾は水曜日までの丸三日間、寝込んでしまった。
 四日目にどうにか起き上がり、携帯の受信フォルダを埋めていたお見舞いメールに返信をうつところまで回復した。
 金曜日はもう学校に行ってもいいかなと思ったのだが、どうせすぐに週末なんだからここできちんと治しなさいときつく親に言われて、結局金曜日も学校を休んだ。
 土日に、両親が遠方の親戚の結婚式に呼ばれていたことは神尾も判っていたから、安心して行かせるためにはここは大人しくしていた方がいいぞと神尾自身が判断したのだ。
 姉はここぞとばかりに友達の家に泊まりに行くと言っていたし。
「………どうしよっかなー…」
 そんな金曜日。
 神尾は布団の中で、真剣に考え事をしていた。
 明日、実は神尾は跡部と会う約束をしている。
 体調を崩した当初は、それまでには風邪くらい絶対に治っているものだと思っていたのだが、さすがはインフルエンザだなあと神尾はしみじみと関心してしまう。
 結局ギリギリまで引きずってしまった。
 今はもう時々咳が出るくらいで。
 自分的には完治も同然と思っている神尾だが、万が一跡部にうつしでもしたらと思うと、どうにも躊躇いが色濃くなってしまう。
「…………やっぱ止めといた方がいいんだろうなー……」
 会いたいけど。
「………………しょうがないかー……」
 すごく会いたいけど。
「…………………」
 神尾は大きな溜息をついて、手探りで枕もとの携帯をつかんで、跡部にメールを打った。
 跡部は今授業中だろうとは思ったが、あまり遅くにキャンセルの連絡というのも怒られそうだし。
 そう思って、神尾は短いメールを送信する。
「…………………」
 考え事が決着して、断りのメールも入れて。
 そうしたら何だか無性に寂しくなってきた神尾は、布団の中に潜り込んだ。
 その時に、無意識に一緒に引き込んでいたいた携帯が、いきなりメールの受信音を響かせ始めた。
「うわっ………え、…あれ……跡部だ…」
 携帯を手にして、ぷはっと布団から顔を出した神尾は、サブディスプレイに映し出される跡部の名前に驚いた。
 授業中だよな?と部屋の時計を見ながらそのメールを読むと、内容はたったの一文だった。

『理由は』

「…………あ…書かなかったっけ…?」
 神尾は布団に再び横になって、メールを打つ。
 その後の返事もすぐにきた。
 やはりひどく短い文だったけれど。

『月曜からインフルエンザで学校休んでて、もう治ったけど一応うつしたら悪いから』
『熱は』
『もう下がった。咳が少しくらい。来週は駄目か?』
『家族はちゃんといるのか』

 質問に答えろよな、と神尾は少し不貞腐れた。
 会いたいのに。
 会えないから。
 次はいつって決めたいのに。

『ちゃんといた。だからもう治ってんだよ』
『判った』

 それで終わりだ。
 しつこいかなと思ったけど、もう一度だけ、明日の代わりにいつ会うかのメールを神尾は入れたのに。
 返事は返ってこなかった。
 怒ったり、不貞腐れたり、拗ねていたのも束の間。
 しまいに本当にどうしようもなく寂しくなってきてしまって、神尾は毛布を目元近くまで引き上げて、ぐずぐずと眠りについたのだった。


 翌日、朝早く出て行った両親の気配を、神尾は布団の中でまどろんだまま感じて。
 そのまま起きる事無く、うとうとと眠って。
 次にまたぼんやり覚醒しかけた時、今度は姉が出かけていく気配が玄関先でする。
 姉の声。
 出掛けて行った。
 これで、今日明日はもう一人だ。
「………………」
 嫌な夢みたいに、ふと思い出したのは、昨日の跡部とのメール。
 でもそれは夢ではなくて本当の話。
「………んだよ……ドタキャンだからって怒るなよな」
「誰も怒っちゃいねえよ」
「…………え……、………えええええ?」
 悪態に返事が返されて神尾は飛び起きた。
 部屋には、紛う事なき跡部の姿があった。
「な、…なん、…なんで、跡部が…っ」
「来たからだろ」
 起き上がんな、とバサッと顔に毛布を被せられる。
 そのまま肩を押されて横たわらされても、神尾の混乱は収まらない。
「なんで跡部…っ…!」
「騒ぐな。また熱でるぞ」
「…………、……」
 言われた言葉にでなく、頬に触れてくる跡部の手の感触に神尾は口を噤んだ。
 ひんやりと気持ちの良い手だった。
「………………」
 思わず目を瞑り、そして開き、跡部の手が動いて、また神尾は目を瞑る、そして開く。
 跡部は無表情で、神尾の頬に手のひらを宛がっていた。
「お前の姉貴に断っておいた。今日誰もいないんだろ」
「……なんで…?」
「お前が昨日のメールで今日は誰もいないって言っただろうが」
「………そんなの言ってない…」
「親はちゃんといたって自分で書いたのもう忘れてんのか」
「……………それは書いたけど……」
「つまり今日はいないって事だろうが意味として」
 なんでそうやって顔触るのかも聞いてみたかったが、何となく跡部は無意識でそうしてそうで、口に出して聞いたら止められてしまう気がして神尾は聞けなかった。
 その代わりにもうひとつのなんでを口にする。
「……なんで昨日、次はいつにするって俺が聞いたのスルーしたんだよ」
「だから次ってのは今日だろう」
「………会えないって言ったら、判ったって返事したじゃん」
「今日ここに誰もお前の家族がいないのが、判ったって言ったんだ」
「…………うー……」
 悔しくて唸っても。
 馬鹿と素っ気無く言われるだけ。
 上目に跡部を睨み上げた神尾は、視界を跡部の手に塞がれた。
「……、跡…」
「………………」
 唇を何かが掠った。
 なんで、という言葉は今度は飲み込んだ。
「…………うつるぜ?」
「うつせばいいだろ」
「………そんな簡単に言うなよ。言っとくけど、すっごいしんどいんだぞ…」
「……おとなしくしてろ」
「………………」
 低く告げられ、もう一度、今度は目元を塞がれないまま、あやすようなキスが短く二度。
 唇に重ねられる。
「………………」
 胸が甘ったるく詰まって、跡部がすごく優しいのが判って、神尾は泣くかもしれないと思った。
「飯は食わせてやる」
「………うん…」
 おとなしく頷いたらキスをくれた。
「退屈なら、話し相手でも読み聞かせでも、仕方ないからつきあってやる」
「…………うん…」
 もう一度のそのキスの後、まず何したいと跡部が囁くから、神尾はキスしたいと口にした。
 返事より先に与えられて、神尾は目を閉じた。
 唇を開いたのは神尾からで、入ってきた跡部の舌は長く神尾の口腔にいて、ずっと優しかった。
「……………何時までいてくれる?」
 それだけは聞いておこうと思うくらい、キスは心地良かった。
「泊めろ」
 そんな跡部の返事が嬉しくて。
 神尾は跡部にキスされたまま、跡部と重ねた唇の下で笑った。
 とりたてて目立つところなんてない奴だと思っていたいから。
 跡部は神尾を直視したくなかった。
 見据えていると、余計な事ばかりが目に付いた。
 接触すればするほどもどかしく何かが気にかかった。
 神尾の言葉に、行動に、身体に、強く固執し始める自分自身を、いっそ呆れて。
 跡部は身の内に沸き上がる苛立ちは大概直接神尾ヘとぶつけた。
 責めるのではなく、詰る方法で。
 飢餓感を嘲笑で塗りこめて。
 今日も神尾が跡部の部屋の扉を開けるなり言った。
「あの女とストリートテニス場にいたんだってな」
 跡部の方から神尾を自宅に呼びつけるが、迎えに出た事は殆どなかった。
 何度そうしても神尾は遠慮がちに跡部の部屋の扉を開ける。
 最初の頃は想像も出来なかったような、顔で。
「……あの女? ストリートテニス場って…俺?」
 ぎこちなく室内に入って来ながら、そっとこちらを伺ってくるような神尾の声音や目線が。
 跡部の苛立ちを増幅させる。
「しらばっくれてもいいが」
「…ぇ…? なに…」
 制服のタイを粗雑に外しながら跡部は神尾に近づいた。
 尖った肩がびくりと竦むのを目の端に捉え、跡部は静かに目を細めた。
「度越して付け上がってやがると」
「……跡部…、…っ…?」
 神尾の額に手を当てて、そのまま閉じた扉に強くその身体を押し付けた跡部は、片手の中に顔の半分が隠せてしまってるのではないかというような神尾の小さな顔を見下ろして。
 その耳元に抑揚のない声を吹き込んだ。
「………、……」
 あからさまな言葉に神尾の身体が強張るのを感じる。
 構わず跡部は、神尾の耳の縁を、ゆっくりと噛んだ。
「…………っ…ぅ…、」
 か細い喉声に煽られた分、強く歯を立ててしまったらしく、神尾の震えが酷くなる。
 顔を背けて、激しく戦慄いている首筋に跡部が指先を滑らせると、泣き声交じりの声が上がった。
「ャ…、……ッ……」
 わざと露骨に身体中を撫で上げていくと、神尾は両手を突っ張らせて跡部を押しのけようとした。
 その都度きつく跡部は神尾の耳の縁を噛んだ。
「………っぁ…」
「………………」
 痛々しいように赤く染まった神尾の耳を跡部が舌で舐め上げると、神尾はその場に崩れ落ちた。
 座り込んでしまった神尾をそのまま床に押さえつけ、跡部は随分と即物的だと自嘲しながら神尾の服を剥ぎ取っていく。
 体重をかけて乗り上げ、膝で神尾の脇腹を固定する。
 こういう風に力で押さえつけられるのを神尾はひどく嫌がって。
 今も少し濡れた目が、物言いたげに跡部を睨み上げていた。
「なん…で……こう、…いう…!」
「お前が嫌がるから」
 判っていてやっているのだ。
 跡部は相手を屈服させる容赦のなさで、神尾を押さえつけ、身体を暴いていく。
 神尾は本気で嫌がって、跡部の下から逃れようと肢体をもがかせた。
 力づくでそれを阻み、跡部は快感にも屈服しろと唆すように、あからさまな口での愛撫を神尾の足を抱え込み繰り返した。
 高めの声が荒い呼吸に掠れて、涙に熔けて、跡部の神経を焼くような声になる。
「…やめ…、…ァ、っ、…っャ…ぁ…」
「嫌なんだろ? だからやるんだよ」
「…………ん…で……?…」
「本気で腹たってくるからそういうツラするな」
「………っ……ぅ…」
 唇を封じるようにきつく口付けながら、跡部は力で神尾の身体を拓いていった。
 握り締めて床に押し付けた神尾の手首も。
 口腔で苦しげに震えている舌も。
 縛り上げるように拘束したまま。
 こうやって。
 全てを無理矢理にでも束縛していても。
 神尾が逃げていくような喪失感は跡部の胸から消え失せない。
 圧倒的な力で奪っても。
 細やかで綺麗なものは指の隙間から零れていくようで。
 ほんの少しも、跡部に安堵感を与えはしないのだ。



 こんなことばかりを。
 繰り返して。



 熱っぽくなっている神尾の耳の縁に、跡部が指先で触れると。
 床に横たわっていた神尾は前髪を握り締めて肩を丸め、身体を小さく縮めた。
「………………」
 そんな神尾が本当に小さく見えて。
 跡部は壁に寄りかかり、神尾の耳に触れながら渇いた声で言った。
「こっちもお前も男だから」
「………………」
「本気で抵抗されたら俺だって力で好き勝手は出来ねえ」
「………………」
 言い訳で口にした訳ではなかった。
「それが頭にあるから本気で腹たった時は、俺は手加減なんてしねえよ」
 手加減なんかして、その隙に反撃をくらうかもしれねえし、と不遜に跡部は吐き捨てる。
「……なまじ逃げ足は速ぇしな」
「…………俺が…」
 泣きじゃくった挙句の神尾の声は掠れていてひどく小さかった。
「結局本気で、抵抗なんかしてないいって言いたいんだな……」
「………………」
 疲れきった声と言葉。
「俺が…もし本気で抵抗してたら、跡部だって無理矢理何とかなんて出来ないってことだよな……」
 跡部が触れている神尾の耳の熱からは想像難いほどの、小さく強張った声だった。
 跡部は思わず神尾から手を離す。
 震えがちな神尾の声は聞き様によっては自虐的な言葉を紡いだ。
「…そうだよ。俺は、嫌だって口では言ってても、本気で抵抗なんか……」
「止せ」
「跡部にされるんなら、どんなことだって、たぶん、」
「……止せって言ってんだろうが!」
 そんなことを言わせたい訳ではないのだ。
 ましてや、神尾にそんな事を言わせて。
 どんな顔を、させているのか。
 身体を起こした神尾を、強引に抱き竦めてそれを制そうとした跡部は。
 そうしてみれば実際。
 自分が、まるで縋りつくように。
 神尾に腕を伸ばし、その身体を抱き締めていることに気付いていた。
 両腕が、神尾を尚も締め付けるように、強くなる。
「泣くな」
「…………っ…」
「もうしない」
「…………いい」
 嗄れた声は、しかし確かにこの時、きっぱりと否定の意を唱えた。
「していい……」
 神尾の腕が跡部の背に回る。
「何してもいい」
「……………」
 跡部は息を飲む。
 神尾はぽつりと短い言葉を零すようにして続けた。
「この間、夜、杏ちゃんとストテニ場行ったけど」
「………………」
「それは橘さんと不二さんの試合を止める為だぜ…?」
「……橘と不二?」
「ん」
 喋るのもまだどこか辛そうな神尾の声は、跡部のささくれ立った部分をそっとならすように優しげだった。
 それだけだ、と神尾は跡部に告げた。
「跡部。それから」
「………………」
「本当に、何しても、いいよ。俺は平気」

 好きだよ跡部、と。

 神尾は、小さな、小さな声で言った。
「………………」
 初めての、神尾の言葉だった。


 聞いた跡部は、まるでどこかが痛いように、端正なその顔を歪めたけれど。
 その表情は神尾の肩口に埋められ、もう誰の目にも触れない。
 完璧に整っている跡部の指が、時々、彼のこめかみから頭部をかなり強い力で鷲摑みにしている仕草が目に付いて、神尾は言った。
「跡部、ひょっとして頭痛いのか?」
「………………」
 振り返ってきた跡部は。
 何だか嫌そうな顔で神尾を見た。
「さっきから何回かそうやってるけど」
 構わずに神尾が跡部の手の所作を指摘すると、今度は睨まれた。
 しかし神尾は気にしない。
 跡部のベッドに寄りかかるようにして床に座り込み、立てた膝を抱え込みながら尚も問いかける。
「なあ跡部」
「………黙ってろ」
 偏頭痛だと吐き捨てて跡部は再び机に向かった。
 再開されたタイピングの音は、早くて淀みない。
 それは生徒会の書類らしく、神尾が跡部の部屋に来てから「ちょっと待ってろ」と言われてもう四十分が経過している。
 退屈は退屈だったが、決してそればかりではなく、神尾は四つん這いで跡部に近寄っていった。
「なーあ?」
 手を伸ばし、くいっと跡部のシャツの裾を引っ張ると、相当凶悪な顔で跡部は神尾を振り返り、睨み下ろした。
「俺の言葉が理解出来ねえのかお前は」
「ちっさい声で喋ってるだろ」
 軽く小首を傾げるようにして応え、神尾は跡部のシャツをまた引っ張った。
「跡部。ちょっと休憩しろよ」
「てめえ…何のために人が、さっさとこいつを終わらせようとしてるのか判ってねえのか」
「でも俺心配だぜ。跡部」
「………………」
 跡部が何だか言葉に詰まったように黙ったので、神尾もぽろりと零れた自分の言葉に後々気恥ずかしい思いをすることになった。
「……あのさ、俺、マッサージとか出来るぜ」
 首とか頭とかを解してやると楽になる頭痛もあるのだと懸命に言い募ると、跡部が椅子に座ったまま、くるりと振り返ってきた。
「お前は頭痛なんかしねえだろうが」
「深司がよくなる」
「それでお前がマッサージしてやんのかよ」
「うまいって言われるぜ。俺」
「気にいらねえ」
「は? 何で?」
 パーン、と音だけはやけに大きく頭を叩かれ神尾は眉を顰めた。
「痛い!」
「………………」
 でもその後で。
 一度は叩いた神尾の頭を、撫でて、髪を梳き出した跡部の手は。
 優しすぎて涙ぐみたくなるくらい甘い仕草だった。
 神尾が上向いて目を閉じて。
 頭を撫でられ、髪を梳かれていると。
 何の小動物だと苦笑い交じりに跡部に言われた。
「下手なマッサージで俺の頭痛を悪化させやがったら……」
「………………」
 今夜ベッドの中で起こる事を暗示され、ひどく怖いような台詞を耳元で跡部に囁かれたが。
 不思議と感覚が麻痺して怖く聞こえず、神尾は、いいよとだけ言った。
「跡部。ここ寝て」
 自分の膝を軽く叩いて、神尾は跡部を呼んだ。
 跡部は椅子から立って神尾の首筋に食らいつくようなキスをしてから神尾の膝を枕にして横たわる。
「身体は横じゃなくて縦な。…うん。そう」
 正座から足だけ崩した体勢で、閉じて合わさった神尾の両腿の狭間に跡部の頭が納まるように促す。
 跡部の頭上は神尾の腹部にあたって。
 神尾は跡部のその頭に、近場にあったスポーツタオルをふわりと被せた。
 そして、タオル越しに、肩と、首と、頭を揉み込んでいく。
 神尾の膝を枕にして、跡部は両足を投げ出し上向きに寝ている。
「…………うまいなお前」
「……そうか?」
 ぽつりと跡部が言った。
 神尾は筋肉の硬さとは異なる跡部の身体の強張りに、何だか可哀想になってくる。
 それくらい凝り固まっていて。
 頭痛も確かに起こるだろうと気の毒になってくる。
 タオル越しに頭や額、髪の生え際や眼窩の周りを丁寧に指圧していくと、跡部が溜息をついたのが指先に伝わってくる。
「…跡部?」
「眠っちまいそうだからもういい」
「眠っていいよ…」
「……ふざけんな……何の為に書類を家に持ち帰ってまで…」
 神尾を家の前で延々待たせない為に、跡部は帰ってきたのだ。
 四十分間は、放っておかれた訳では決してない。
 せめて神尾の目の届く所で、少しでも早く、全てを片付けて、それから。
「…………………」
 全部を言葉にはしないけれど。
 跡部のそういう心情が、神尾にもちゃんと判っているから。
「……キスとかしたら眠るか?」
「それはお前だろ」
 抱かれた後の習慣というか、慣例というか。
 神尾の条件反射に似た習性を跡部に口にされて。
 かすかに赤くなった神尾はむっとしたまま、上体を屈めていった。
 タオルで跡部の目元を覆ってしまっているからちょうどいい。
 上唇に、下唇を。
 下唇に、上唇を。
 慣れない合わせ方で跡部にキスを落とす。
 何度も何度も何度も。
 唇を重ねる。

 跡部は眠ってしまった。

 キスをしながら跡部が眠るなんていう体験は初めてで。
 神尾もすこぶる気分が良かった。
 またたく間に世界が変わる。
 目が覚めてそこに跡部がいると未だにぎょっとする。
 今なんかもそうだ。
「………………」
 あったかくて気持ち良い温みの中で、まだ外暗いなあとぼんやり思いながら神尾が目を開けると。
 いきなり跡部の顔が間近にあった。
 その上いつからそうしているのか神尾には全く見当がつかないが、跡部の手に頬の辺りを撫でられていたりしたから神尾は本当にびっくりした。
 寝そべったまま自分を見据える跡部の顔が、凄まじく格好良くて凄まじくおっかないから、もう尚更だ。
 寝起きの跡部は顔はとびきり不機嫌だけれど、仕草はとびきり優しい。
 今だって神尾を睨むような顔をしているが、飽きる事無く頬や髪を撫でつけられている手は甘い。
 顔とやってる事とが物凄いギャップなので、結局神尾は心臓だけを大きく響かせ、硬直して、されるがままでいるしかない。
「おい」
「……なに…」
 薄暗がりの中、じっと互いを見つめて交わす今日最初の言葉。
 ひとしきり神尾の頬や髪をいじりたおしてから、跡部は一層きつく神尾を睨むみたいに目を細めた。
「お前ウインクできねえだろ」
「……は?」
「両目瞑っちまうタイプだ。典型的不器用」
「………んなこと何で判んだよ」
「見りゃ判る。触ってても判った」
「何でそんなんで判んだよ」
「判るから判るんだよ」
 いいからやってみせなと跡部が不遜に言い放つ。
 頭から決めてかかられると思い切り反発したくなる。
 神尾はムッとなって跡部を睨みつける。
 まだ大分眠くて、多分たいした迫力にもなっていないと自分で判る。
「やってみろって」
 完全にからかっている意地の悪い声だ。
 笑い方もえらそうで。
 それなのに神尾の前髪を払って両目を露にさせた跡部の指先だけはいやになるくらい優しかった。
「………………」
 やりゃーいいんだろうとやけっぱちで。
 神尾は片目を瞑る。
 片目のつもりで瞑ったが、結局いつものように両目が閉じてしまって視界は闇になる。
「………………」
 闇の中で唇に。
 ふわりとかぶさるものがある。
 あさく触れて。
 あまく痺れて。
 それが離れてから、震えるように神尾が目を開けたら。
 少し上体を起こすようにしていた跡部が、神尾へとまた屈んでくる所だった。
「……もう一回してみな」
「………ん」
「お前、一生ウインク出来なくていいぜ」
「………………」
 練習するならいくらでもつきあってやるがと跡部が唇の合間で言った。
 神尾はウインクのつもりで、でも出来てしまう暗闇の中。
 重なるさらさらとした唇の優しい感触に思わず手を伸ばす。
 神尾の手に触れたのは跡部の髪で。
 それをゆるく握りこみながら、神尾は忍んできた跡部の舌をゆっくりのんだ。
 跡部がソフトクリームを舐めるところなんて見た事がない。
 棒アイスを齧ったり、カップのアイスを木のスプーンですくって食べているのも、当然見た事がない。
 でも神尾が跡部の家に行くようになって。
 跡部の家の夕食をたまに一緒に食べるようになると。
 どうやら跡部も家ではアイスを食べるのだという事を知るようになる。
 跡部の家では食後に必ずデザートがつくのだ。
「デザートのない食事は食事じゃねえだろ」
 そんな風に跡部は言うのだ。
 そうして、神尾が跡部の家に行って食事をすると、必ず最後に一緒にデザートを食べる。
 やたらと大きな皿の中央に、何だか宝石みたいに果物とかケーキとかが盛り付けられて。
 それを先の平べったいやけにキラキラ光る銀色のスプーンで食べる。
 アイスクリームって言ったら、それはグラスアラヴァニーユだって言いなおされた。
 シャーベットって言ったらソルベだって言われた。
 かき氷って言ったらグラニテだって言われる。
 どれも甘くて美味しくてやたら綺麗で、もう名前なんか何でもいいかと思うから、神尾は喧嘩はしない。
 跡部の家のデザートは、何だかやたらとキラキラしてる。
 神尾はそれが気に入っていた。
 アイスには必ずソースをかけて食べる。
 それも毎日違う。
 チョコレートだったり、マンゴーだったり、イチゴだったり、キャラメルだったり。
 花の香りのするものだったり、少し苦くて、でもアイスにかけると不思議と美味しく感じるものだったり。
 神尾がそういうアイスの食べ方を気に入ったのが判ったのか、跡部は神尾が遊びに行くと、食事をしない日でもアイスだけは用意しておいてくれるようになった。
 跡部の家のアイスは気持ちが良い。
 食べると、頭の中がふわふわになる。
 甘くて、冷たくて、熱くなって、眠たくなる。
「…………アキラ。それクスリ一服盛られてるのと一緒」
 呆れ返って言われた言葉の意味が神尾にはよく判らなかった。
「アイスクリームで酔わされて、その後あの人に何されてんの」
「酔わされてなんていねーって。食ってんのアイスだぜ?」
「かかってんのリキュールでしょ」
「なんだそれ? かかってんのってチョコとかキャラメルとかイチゴとか、」
「の、リキュール。でしょ」
 神尾は無知だし。
 跡部さんはつけ込むし。
 伊武はそうぼやいて、それからぼやいて、更にぼやいて、ひたすらぼやいた。
「だいたいアキラは正月の甘酒でも、おかずの漬物でも、酔っちゃえるくらい酒弱いのに。酔っ払いのおじさんが近くにいても酔うし、予防接種の注射前のアルコール消毒だって、毎回あやしいっていうのに」
 なんで気付かないのかなあ、信じられないよなあ、と憂鬱そうに繰り返す親友の綺麗な横顔を見ながら。
「え…、…でも…なんか跡部……」
 呟いた言葉は呆気なくスルーされたけれど、神尾は何だかいろいろ思い出して顔を少し赤くする。
 優しいのだ。
 そういう時。
 跡部の家のアイスを食べた後の、ふわふわで、くらくらで、熱くて眠たくてとろとろする神尾に跡部が。
 額を触られたり、後ろ向きに抱きかかえられて座ったり、髪を撫でられたり。
 距離が近くて。
 いつもよりずっとくっついていて。
 触られて。
 いつもよりそっとあちこちを。
 こっち向けって言われて、ずっと顔を見続けて。
 もっと欲しいかって言われて、アイスを食べさせて貰ったり。
 きっと覚えてねえなって言われて、何か嬉しい言葉をいっぱいいっぱい言われたり。
 確かにアイスにかかっている綺麗な色のソースは日に日に量が増えていっている気もするし、食えって言ってアイスを勧める時の跡部の顔はちょっとなんだか悪巧みでもしてそうな悪い笑い方をするけれど。
 それでも跡部は綺麗だし。
 それでもアイスは美味しいし。
 それでも。
 その後の時間は、いつもいつも気持ちが良いから。
「今日も部活終わったら跡部さん家に行くの?」
「……え、……うん」
 不健全だなあ伊武が溜息をつく。
 不健全なのかなあと神尾は赤くなる。
 アイスクリームを二人で食べるという話なんですが。
 中学校の美術の授業のデッサンが裸体モデルだなんて、氷帝はいかれていると神尾は思う。
 いくら金持ちの私立校だからって。
「……………今日のモデルはじっとしとらん奴だなあ…」
 ぼやく不動峰の美術教師を、神尾は教壇の上に置かれた椅子に座って睨みつけた。
 うちなんかこれだぞっ、と神尾は叫び出しそうになる。
 出席簿順に当番が回ってきて、毎週授業開始からの十分がデッサンタイム。
 今日の当番は神尾だった。
 昨日、跡部とこの話をしていた。
 ついでに聞いた氷帝の美術デッサンの話も思い出して、神尾はムカムカする。
 裸体モデルって、まさか生徒が順番にやるのかと言ったら、馬鹿かと呆れられた。
 だってうちはそういうシステムなんだと言い返したのをきっかけに、何となく跡部の機嫌が悪くなって。
 神尾は神尾で、跡部のこの目が、いわゆるその裸体モデルの女性を見つめて、デッサン画を描くのかと思ったら気分が悪くて。
 いつもの小競り合いが始まった。
 そうしてそこからいつもの言い争いを経て、今日になって、自分達はいつものように喧嘩をしたままだ。
「………………涙目になるほどじっとしてるのが苦痛か神尾」
 お前は全くしょうがないなと、パンチとアフロ、どっちつかずの爆発頭の教師は言った。
「伊武。神尾と代われ」
 教師の指名が成されるや否や伊武が勢い良くぼやき出した。
「神尾と代われ?……どうしていつもアキラのフォローはオレがしなくちゃいけないんだよ。オレは出席番号一番で、とっくにモデルは済んでるのに。だいたいああいう晒し者みたいな真似、本来オレはしたくないんだよね。一度やれば充分だよ。何のために生徒が何人もいるんだよ。オレが二度もやる必要なんかないよね。うん。そうだよ。オレはモデルなんかしなくたっていいよ」
 聞こえるか聞こえないかの声のトーンなのに、女子席からたちまち声が上がった。
「えー、そんなこと言わないで伊武君!」
「そうだよー。伊武君ってすっごく描き易いもん。二度だって何度だっていいよ」
「綺麗だし、絶対動かないし」
 悪かったな綺麗じゃなくて!と女子ゾーンに言い返す神尾に、男子ゾーンから慰めともからかいともつかない声が飛ぶ。
「大丈夫だ神尾! 安心しろ! お前は綺麗じゃないが可愛いから!」
「そうそう涙目のアキラちゃんもなかなかだから!」
「その目だって一つで良いから描きやすいしな!」
 たちまちざわめく教室内に、美術教師の大声が響いた。
「判った判った! 神尾、どんなにじっとしてるのが嫌なら、何してたっていいからあと十分だけそこに座ってろ! 伊武はもう口閉じろ! それから今日の神尾に関しては、もうどんなポーズでもいいから全員好きに描け!」
 収集が、これで一応ついたのかつかないのか。
 とりあえず神尾はムカムカしながら跡部の事を考え、伊武は溜息と共に口を噤み、クラスメイト達は一部の悪ふざけを含み思い思いの神尾を描いた。


 その日の放課後、いつもは一緒に帰る伊武が、何だか今日は気配がするからと。
 神尾には少々意味不明なぼやきでもって先に帰ってしまったので、神尾は一人で帰途につく事になった。
 MDからの音楽で頭をいっぱいにしたいのに、どうしてもそこに跡部の声とか顔とかが浮かんできて落ち着かない。
 俯きがちにどんどん足早に歩いていったらぶつかった。
 硬くて、何かしっかりとした、揺るがないもの。
 額を押さえて神尾が顔を上げたら、それは跡部だった。
「な……………」
「………………」
 見るからに不機嫌そうな跡部は、無言のまま神尾の腕を掴んだ。
「おい、…っ……」
 別に痛いと言う程ではないけれど。
「………跡部?」
「お前なんかモデルにしたって」
「……はあ?」
 何不機嫌そうな顔してんだと、神尾は跡部を見上げた。
 たかだか美術の授業の話。
 跡部が、不動峰という学校のシステムを馬鹿にしてるのか、神尾自身の事を馬鹿にしてるのか。
 どちらにしろ結構どうでもいい事で態度を悪くしてるよな、と。
 神尾は毒気が抜かれたように、そう思った。
「普通の中学校はそういうもんなんだよ。お前らみたいな金持ち校と一緒にすんな。中学生に裸体モデルでデッサンとらせる学校の方が普通ありえねーよ」
「…………石膏像だ。バァカ」
「………へ?……人間じゃねーの?」
「それこそそんな中学校がどこにあるんだ。馬鹿」
 この天然、と頭を叩かれる。
「…ぃ…ってぇ…!……」
「行くぞ」
「………え? どこに」
 ぐいっと腕を引っ張られた。
「ついてこない気か」
「………睨むなよ」
 聞いてる事には答えないで、勝手な事を言って。
 何となくおかしくなって神尾は笑ってしまった。 
 跡部はどんどん先に行く。
 逆らわずについていく神尾は、黙っているのもつまらなくて、今日の美術の時間の話をした。
 椅子に座ってじっとしているのが苦痛だった事。
 モデルとして、女子は友人を支持して、男子は神尾へフォローなのかどうなのかよく判らない事を言っていたこと。
 教師が、今日の神尾だけは好きなポーズで描いていいと言ったので、悪ふざけをした一部の連中にグラビアモデルみたいなポーズのデッサンを描かれたこと。
 制服なんか当然着てなくて、それこそヌードモデルみたいな絵だったこと。
「……、跡部、っ?」
 跡部の部屋につくなり、それまで無言のままだった跡部に、ベッドに放り出された。
 普段よりも乱暴に制服を脱がされ、上顎から喉まで侵入しそうに、深く舌を含まされたキスをされた。
 跡部の悪態も、神尾には何が何だか判らない。
 驚いているけれど、怖い訳ではないので、神尾は性急な跡部にされるがまま、抱かれてしまった。


 翌週の美術の時間、神尾はクロッキー帳を開いて叫んだ。 
「ドッペルゲンガー!」
 俺が俺を描いてる!と言った神尾に、隣にいた伊武がうんざりした眼差しを向けてきた。
「うるさい…神尾…」
「深司深司!見てみろよこれ!」
「……………」
 広げられたクロッキー帳に目を落とす。
 神尾は「すっげー!」と感動し、伊武は「ああやだ、もうやだ、こんな露骨な絵」とぼやいた。
 神尾のクロッキー帳の最終ページには、神尾が描かれていた。
 驚くほど丹精なデッサン画。
 顔を横にしてうつぶせに寝ている神尾の目は閉じられていて、口元近くに指先を軽く握りこんだ手があった。
 肩は剥き出しで、身体の下にはドレープの流動線も見事なシーツ。
 髪の、少し湿った感じまでひどくリアルだ。
「……………」
 誰がどこでどういう状況でこの絵を描いたのか。
 簡単に判ってしまった伊武は、ドッペルゲンガー!と騒いでいる神尾を横目に深々と溜息をついたのだった。
 今更何か欲しいものはないかと跡部に聞く気にはなれなかった。
 何でも手にしている男だからだ。
 仮に手にしてなくて欲しいものは、人から貰うものではなくて自ら手に入れたがる男だからだ。
 跡部の誕生日をどうしたらいいか。
 神尾はずっと考えていた。
 跡部が、誰からも貰った事のないものをあげたかった。
 跡部に、誰にもあげた事のないものをあげたかった。
 そんな神尾へ、奇跡の光がさすように。
 跡部へのプレゼントが見つかったのは、まだ夏も盛りの頃だった。
 これだ!と確信した神尾はそれから。
 CDを何枚か分。
 映画を何回か分。
 ゲームソフトを何本か分。
 コンビニに行くのを何回か分。
 我慢して貯めたお金で、跡部にラブレターを出しに行った。
 場所は南紀白浜。
 強面ながら気のいいオジサンの運転するデコトラをヒッチハイクして、辿り着いた枯木灘海岸。
 そこの海底、推進十メートルにある赤いポストが神尾の目的地だった。
  
 そうして生まれてはじめてのウェットスーツを着込んだ神尾が海底ポストに投函した跡部へのラブレターは、くしくも跡部の誕生日当日の月曜日に配達されてきたわけなのだが。
 ラブレター片手に跡部の形相は凄まじかった。

「………テメエ」
 声で人が殺せそうな跡部の言葉に、神尾はけろりとしたものだった。
「どうしたんだ跡部」
「どうしたじゃねえ」
 海底ポストだあ?と跡部は金持ちらしからぬガラの悪さで呻いた。
「……ヒッチハイクだ?」
「ああ。すっげーいい人に当たってさあ」
「見知らぬ野郎の車に乗ったって言ってんのかお前」
「電飾ギラギラのデコトラな。俺初めて乗った。面白かったぜ!」
 何怒ってんだ跡部、と神尾が言うと。
 跡部は乱暴に神尾の後ろ髪を掴んだ。
「い……ってーなー! もー!」
「……水深何メートルって言いやがった」
「十メートル」
 さっきも言ったじゃんかと言った神尾の口は跡部の唇に塞がれた。
「…、…ん……っ、ん…っ…」
 荒っぽく唇が離れる。
「ダイビングもした事ないだろうがテメエは!」
「……っ………ちゃ……んと、インストラクター…の人つ…いたし!」
 人魚みたいだって感心されたんだぜという言葉の途中で神尾はまた跡部に濃厚な口付けをぶつけられた。
「…………っぅ…、」
「頭いかれてんじゃねーのかお前もそいつも」
「……なん…で、そ…ゆーこと…ばっか、言うんだ…よ…っ…」
 キスが苦しくて。
 声が冷たくて。
 要するに跡部が怒っていて。
「ど、して怒るんだよ……、…?」
「……………」
 誕生日だから。
 跡部が好きだから。
 普通じゃない手紙を、特別な手紙を、神尾は出したかっただけだ。
 だからお金を貯めて、だから初めて行く土地に行って。
 生まれて初めてラブレターを書いた。
 跡部に手紙を書く事だって初めてだった。
 ロープにつかまって海底に潜っていくと、視界が狭くて、身体がゆらゆらして、自分が息をしているのかどうかも判らなかった。
 海の底に古びた赤いポストを見つけた時はドキドキした。
 百五十円で買った専用ハガキを投函した時は嬉しかった。
 跡部が、受け取って、どんな顔をするかな、とか。
 何て言うかな、とか。
 考えて、ずっと、楽しみにしていたのに。
「……ひ……、…ぅ…」
「…………………」
 しゃくりあげた途端、涙は呆気なく目から出てきて。
 両方の二の腕の辺りをきつく跡部に鷲づかみにされている神尾は、首を左右に振ってキスを解く。
「も、…いい……!…」
「神尾」
「……捨てれば、いい…!……」
 もう帰ると神尾が声を振り絞ると、縛りつけられるような強い力で跡部に抱き締められる。
「…………っ…」
「神尾」
「ふ…、……ぇ…」
 跡部の胸にきつく顔を押し当てて、両手で跡部の来ているシャツを握り締めて、泣き止めない神尾の背を跡部の手がかき抱いてくる。
「…………泣くな」
「……、っ…、……ッ…」
「お前が悪いんだから泣くんじゃねえ」
 跡部が吐き捨てるように言った。
 くそったれ、と毒づかれて。
 でも不思議と。
 神尾の、あれだけ痛んだ胸の内が凪ぐように和らいだ。
 跡部のその言葉で。
 背中を這い上がってきて、神尾の後頭部を撫でる跡部の手のひらの感触で。
「形見残すような真似するな」
 泣きながら神尾は笑う。
 跡部に抱き締められながら。
「………に……ばか…なことゆ…ってんだよ……」
「ヒッチハイクなんか二度とするな」
 本当にいい人だったよ、と思ったけれど神尾は言わなかった。
「海になんか二度と潜るな」
 インストラクターもちゃんといるし、ずっとロープにつかまって降りていくし、危ない要素なんか何も無いのに、と思ったけれどやはり神尾は言わなかった。
「……形見…になってたら……」
「………………」
「今泣いてたの……跡部だったよな……」
 跡部をからかって神尾はそう言ったのに。
「……そう判ってるなら二度とするな」
「…………ば…かだなあ…跡部…」
 結局くしゃくしゃになって神尾は泣いた。
 食いしばった歯の隙間からもらすような跡部の声がこの上なく真剣で、いとおしくて、泣いた。



 ラブレターなんだからちゃんと読めよ、と連れていかれたベッドで浴びせかけられるようなキスの合間をぬって神尾は跡部に告げた。
 跡部の返事は簡単で。
「誰が見ても絶対訳のわかんねえ手紙だから、ずっと持っててやる」
 たくさんハートを書いて、結局真っ赤に塗りつぶされたようなハガキ。
 でも光に透かすとペンの形跡で初めてその正しい内容が判るハガキ。
 簡単に見抜いた跡部は、多分神尾が書いたハートと同じような数、神尾の肌に薄赤い印を重ねていった。
 わけがわからない。
 ずっと声を上げ続けそう。
 喚き出しそう。
 口走りそう。
 暴れそう。
 逃げ出しそう。
 泣き出したらきっと止まらない。
 きっと何もかもぐちゃぐちゃだ。
「………、っ…、…」
 跡部の身体の下に押し潰されるように抱きこまれて。
 開かされた神尾の足の狭間には跡部の胴体があって。
 強張る神尾の内腿は、跡部の身体を挟み込んで締め付けるように擦り寄ってしまう。
 神尾自身が感覚のうまくつかめない所を長いこと触れていた跡部の指先が。
 離れていくと。
「……ぅ………」
 今度こそ本当に取り乱しそうな全ての予感が神尾の混乱を悪化させた。
 そこに指じゃなく押し当てられ、そこから拓かれそうになって。
 混乱を閉じ込めるので神尾は必死だった。
「神尾」
「………っ、」
 耳元で跡部の声がする。
 耳に触れた跡部の吐息は両足の狭間に押し当てられているものと同じ熱量を放っている。
 頭の中が霞んだ。
「……痛いのはお前で我慢しろ」
 食いしばった歯の隙間からもらすように跡部が告げてきた言葉は。
「俺にはどうしようもしてやれねえよ。悪いがな」
「………あと……べ…?…」
 神尾は、跡部が、どうして苦しいようなこんな声を出すのだろうかと、至近距離から目を凝らす。
 どうして跡部が目を眇めているのか。
 呼吸が浅いのか。
 汗で前髪が湿っているのか。
 どうして跡部が、と神尾は苦しい息を呑む。
「もし痛いんじゃなくて、気持ち悪いならすぐに止める」
「跡…、……」
 やめないで。
 それだけでもう、神尾の中は、それだけだ。
「跡部」
 やめないで、と手で訴える。
 神尾が跡部に両手でしがみつくと、すぐに背中を抱き締め返された。
「………………」
 何でもいい、どんな事を言ってしまっても、してしまっても、ぐちゃぐちゃになっても、いいから。
 やめるのは嫌だと神尾は思った。
 このまま、神尾の知らない事を、跡部と。
 しようとしている事は、相手は、痛いとか、気持ち悪いとか、怖いとか、不安だとか、そういう区別をつけて続けるとか止めるとか決められるような対象ではもうなかった。
「………ぁ…とべ…」
「………………」 
 もう少しどうにか、もっと別の、ちゃんとした正しい言葉や伝え方がある筈なのに。
 痛いとか好きだとか、そういう感情を。
 その言葉だけを使わなくても、もっとずっとちゃんとした言いようがあるように思うのに。
 言葉の追いつかない気持ちがもどかしかった。
 好きより好きなのだ。
「跡部」
 でも、少なくとも。
 この言葉を知っている自分を、幸せだと神尾は思った。
「跡部」
「神尾」
 そしてこの言葉をもらえる自分も。
「………………」
 唇を深く合わせた。
 お互いに唇をひらき、お互いに舌をむさぼった。
 これと同じ事を、別のところでするだけだと思って。
 神尾の身体から混乱の要素は全て溶けた。
 指を絡めて手をつなぎ、身体を食い違わせて繋がった。
「……っぁ、…、跡…、部…っ」
「神尾、…」
 違う言葉を喋る自分達だけれど、この言葉で表している感情は同じだ。

 同じ気持ちを、違う言葉で伝えあっているだけだ。
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