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How did you feel at your first kiss?
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 帰宅時に家から車を呼んで、跡部は今朝から自分の元に集まったバースデイプレゼントの山を全て運ばせた。
 そうやって。
 身軽になったと思ったのはほんの一時。
 今度は、学校を出たら出たで。
 その瞬間から跡部の元へと再び集まり出すプレゼントの数々に、跡部慣れしきっている氷帝テニス部の面々ですらも呆れたり感心したりと実に忙しい。
「………さすがですね…跡部さん」
 ギフトボックスが詰め込まれていく紙袋を両手に下げて鳳は生真面目に感心している。
 樺地は鞄があるから、そっちは俺が持つよと言い出した人の良い鳳の少し前を歩きながら、機嫌が悪いのは宍戸だ。
「下級生を顎で使ってんじゃねえよ。跡部」
「ああ? 鳳が自分で持つって言ったんだろうが。お前こそどれだけ鳳に過保護なんだ? 宍戸よ」
「うるせえ!」
 人の悪い笑みを浮かべる跡部と、不機嫌さが増す宍戸の小競り合いはいつもの事で。
 鳳は困ったように笑い、樺地は困ったように沈黙して、上級生の後を歩いていく。
 眠たくて眠たくてどうしようもなくなって、ふらふらよろよろ辛うじてといった状態で歩いているジローにかかりきりなのは日吉と滝で。
 最後尾にいる向日はそんな三人を指差して笑っている。
「なあなあ侑士。ジローの奴、おむつが重い、歩き始めの幼児みたいじゃね? おもしれー!」
「それで、あっちがおとんで、そっちがおかん?」
「そうそうそう!」
 日吉と滝は、身体を半分に折る勢いで爆笑する向日ではなく、悪ノリさせる忍足を責める様に、ジローを挟んで振り返り、睨みつけてくる。
 そんな事など眼中にない様子で飄々と向日を増長させるような相槌ばかりをうっていた忍足が、ふいに低い声を響かせて言った。
「跡部」
「何だ」
 足を止めた最前部と最後部。
 目線を合わせた二人の狭間で他のメンバーも思わず立ち止まる。
「パンダや」
「………ああ?」
「パンダが走ってくる」
 忍足が指で指し示した先は、彼等が歩く歩道脇の道路の向こう側。
「……………パンダ……」
「…………………ほんとにパンダだ……」
 パンダー、イェーイ、と突如目を覚ましてハイテンションになったジローを除く全ての人間が、唖然となって見つめた先。
 きぐるみパンダがものすごいスピードで道路を渡ってこちら側に向かって走ってくる。
 次の瞬間、ギャー!と叫んだのは向日で、何故かといえば勢いあまったパンダが躓いて、そのままのスピードでこちら側にゴロゴロと転がってきたからだ。
 阿鼻叫喚の中、お前らどけ!と物凄い大声を出したのは跡部で、言われなくても!と言葉にならないままにその場から飛びのいたのが全員だ。
 白と黒とのパンダは、何故か一人避けなかった跡部にぶつかって、でんぐり返って漸く止まった。
 歩道に足を開いて座り込んだ態勢で、ごろんと被り物の頭が落ちる。
 身体だけがパンダになったその物体。
 パンダのなかみは満面の笑顔でパンダ手を上げて言った。
「よう、跡部!」
 不動峰中の二年、神尾アキラがパンダのなかみだ。
 正真正銘その場に腰を抜かしてしまった氷帝学園テニス部の面々の中で、流石は元カリスマ部長、跡部景吾である。
「…………何の真似だこれは」
「パンダだよ! 見てわかれよう。可愛いだろう? パンダ」
「可愛かねえよ。馬鹿」
「馬鹿って言った! 可愛いじゃんかよ!」
「……んな訳わかんねえパンダよりか俺は中身のがいいんだよ…!」
「パンダ可愛いじゃんか! この可愛さ判んないなんてバカだろ跡部!」
 神尾は跡部の発言を流したのか気づいていないのか。
 結構とんでもなく甘い事を跡部が口走ったのを、その場にいた人間はしっかり聞きつけてしまって更なるダメージで立ち上がれない。
 ただでさえ、きぐるみパンダ姿がやけに似合っている神尾と、氷帝きっての有名人跡部との異色の構図はインパクトが強すぎるのだ。
 どうやら喧嘩しながらも交わされる二人の会話の端々から伺うに、神尾は友人のピンチヒッターとして、このきぐるみを着ているらしい。
 バイト代も出るんだぜ!と今度は一転してにこにこと笑う神尾は、座ってしまっている跡部に顔を近づけるようにして、四つん這いになっている。
 往来で見るのは有り得ない光景だろうと、自然と集まってしまった座り込み組達は、手に手をとらんばかりになっていた。
「てめえ……何でよりによって今日、バイトなんざしやがるんだ」
「今日だからだろー。跡部、誕生日おめでとうなー」
「ついでみたいに言うんじゃねえよ」
 跡部さんものすごく拗ねてます。
 鳳が大真面目に跡部を評するのに、異論の返答は勿論ない。
「ついでなんかじゃないって。だってもうバイト終わったんだぜ? このまま跡部の所行こうと思ったら、跡部が見えたからさ。だから俺走ってきたんだぜ」
「………危ないだろうが」
「そういや跡部って、パンダの中身が俺でも驚かなかったな?」
「当たり前だ。何着てたって中身がお前なら判るに決まってる」
 跡部さんものすごい愛ですね。
 尚も鳳が言って、それで漸く面々は呪縛が解かれたようにのろのろと動き出した。
 これ以上ここにいるのは居たたまれない。
 だいたい跡部も神尾も、お互いの事しか見えていない。
「樺地、跡部の荷物貸せ。あいつん家の庭に放り投げてくる!」
「……ウス」
「宍戸さん、ここに置いていかないんですか?」
「お前の持ってるその誕生日プレゼントがあるだろ……そんなもん置いていけねえだろ。庭に一個投げるも二個投げるも同じだ」
「………神尾君の為ですね。宍戸さん優しい」
「うるせ」
 ここはここで甘い。
 一方ジローは現実逃避で再び眠ってしまったので、日吉と滝がまたもや悪戦苦闘し始めた。
 一人威勢良く悪態ついている岳人の隣で、忍足は真剣に考え込んでいる。
「なあ岳人。このパンダの頭はどないしよか……」
「転がしとけ侑士…!」
「まあ、そう怒んなや。岳人」
「最悪カップルだ……あいつら……」
「いやいや……ある意味最強やで?」
 そうして往来に残されたのは。
 今日誕生日を迎えた綺麗な顔の男と。
 パンダのきぐるみを着た一つ年下の恋人と。
 パンダの頭のみだった。
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 広いベッドの上で。
 柔らかい毛布の内側で。
 囲われてしまう腕の中でのおいかけっこ。

 
 跡部の声は、まるで自分に手をやいているかのように聞こえた。
「おい。逃げるな」
「逃げるだろ。逃げるよ普通。何で引っぱんだよ」
 疲れた身体で必死にもがく神尾を、跡部は難なく封じ込めた。
 裸の胸に引き寄せられる。
 背中に手のひらが宛がわれる。
 まだ少し息があがっている。
 跡部も、神尾も。
「しねえよ。もう。…………しねえって言ってんだろ。逃げんな。何で暴れんだ」
 神尾が尚ももがくのを止めないでいたら、跡部は不機嫌そうに、でも根気良く、神尾を宥めすかそうとしてくる。
 跡部にも多少の倦怠感が垣間見える腕に抱き締められて、神尾は、何でかなんて聞くなよと思った。
 何でかなんて、そんな事は決まっているのだ。
「だってよう……」
「…何だ」
「跡部がもうしないって言っても、……じゃあこうやってて俺がしたくなったらどうすんだよ」
「………………」
「………どうすんだよ?」
 そしたら困るだろうと神尾は思って言ったのに。
 何だかとんでもないようなすごい力で跡部に抱き締められてしまった。
「…、っ……な…、…に……?…苦し…、…って、ば…! 跡部、?」
「………どう考えても今のはお前が悪いだろ」
「は?…いや、俺は全然悪くないだろ…っ……」
 だいたいまだ服も着ていないのだ。
 お互い。
 こんな風にきつくぎゅっと抱き締められたりなんかすると、へんになる。
「………人がしねえって言ってやってる側からこれか」
 らしくもなく甘やかしすぎたと苦々しく呟いた跡部に抱き締められて、神尾はもうもがくことすら許してもらえなくなった。
「ちょっとは判れ。てめえも」
「…、跡部?」
 手をとられる。
 導かれる。
 触れさせられて、包みこむようにしろと教えられる。
「……、っ…、……」
 手のひらの中で感じた脈に背筋を震わせた神尾は、唇を跡部からのキスで深く塞がれてしまう。
 すきまなく食い違わせた唇は甘く密着して、生々しく口腔を舌で辿られる。
 手の中で。
 重くなる。
 熱くなる。
 神尾はいよいよどうにも出来なくなって、キスを受けながら瞳を潤ませた。
「…………、」
 するとすぐに跡部の唇は神尾の眦へとやってきた。
「やらねえよ。泣くな、バカ」
「……んで…?…」
「ああ?」
「しな……ぃ…、の……何で……?」
「最初に言った」
「でも、だって、これ」
 神尾は次第に顔を赤くしていく。
 伝導してきた。
 跡部に触れている手のひらから。
「あーうるせえ。こんなのはいつもだっつーの」
「………………」
「今までだってどれだけこのまんま我慢させてきたと思ってやがんだ。お前」
 いい加減呆れ返ったような跡部の物言いに、神尾は狼狽した。
「な、…そんなの俺、知らなか……」
「教えなかったんだよ」
「…………言えよ…ばか」
 くたくたと神尾の身体から力が抜けていく。
 跡部が少し笑ったのが振動で判った。
「お前はくたばってんので精一杯だからな」
「………がまんとかするなら、それでもすればよかったんだ」
 どれだけ自分がくたばっていたって。
 でも、神尾のそんな言い分は。
 跡部によって手荒に甘く切り捨てられた。
「俺の一番大事なもん壊せってのか? 正真正銘の馬鹿だな。てめえは」
 雑な声音。
 凄む言葉。
 そんな風に本気で大事にしてきて。
 本気で呆れ果てている跡部に。
 神尾が出来る事といったら。
「………どっちが正真正銘の馬鹿だよ」
「アア?」
「俺がしたくなったらどうするんだって、俺は最初にちゃんと言ったのに」
「神尾?」
「……………どうすんだよ」
 拗ねきって。
 神尾は跡部の首筋に両腕でしがみついた。


 おいかけてこないなら、おいかけていく。
 おいかけてくるなら、例え逃げはしてみても、最後にはきちんとつかまえられてやるから。

 どうするんだと、一方的に責めてやるくらいは神尾だけの特権だ。
 跡部の家の玄関で、帰り際のキスが中途半端に途切れた。
 唇同士は触れ合ってはいたものの、浅く開かされた唇をくぐられる事無く跡部が離れて。
「……、…ん…」
 それを惜しむような喉声が咄嗟に出てしまった事に気づいて、神尾は即座に顔を赤くする。
「……………、っ」
「神尾」
「……っ…、…るさい…っ!」
 あからさまな笑い交じりの跡部の問いかけに神尾は一層の剣幕で喚いた。
「じゃあな…ッ…俺は帰る…!」
「待て……こら」
 跡部に肩を掴まれて、神尾が身体を捩っても、その手はなかなか外れない。
 低い笑いを噛み殺そうともせず、跡部は何が楽しいのかと神尾が憤慨するほど笑って。
 神尾を玄関扉に押さえつけてきた。
「まだだろ。途中だ」
 逃げるな、と笑ったまま顔を近づけてきた跡部に、せめてもの抵抗と、神尾が出来たのは歯を食いしばる事くらいで。
「……、……ぅ……」
 しかしそれも、請うように唇の表面を跡部に舐められてしまってはひとたまりもない。
 結局必要以上に深く、長くなってしまったキスは、通常の別れ際のそれとは大分種類の異なったものとなった。
「………っ…だよ……」
「何だ?……立てねえのかよ」
 がくがくと膝が笑いそうで、覚束なくなる神尾の足元を見透かした跡部の手のひらに、腿の脇を辿られる。
 神尾はもう、逃げ出してでも帰ろうと決意して跡部の胸を押した。
「……っと。待ちやがれ、馬鹿」
「馬鹿だと?! 馬鹿ってなんだ…!」
「喚くな。うるせえ」
「じゃあ離せ!」
「…………ったく……さっきみたいにずっと可愛くしてりゃあいいのにな? オマエ」
「……かわ…、…っ……」
 今度はもう、可愛いってなんだと叫んで問うよりも。
 可愛くなくて悪かったなと、どこか力なく毒づいた神尾に。
 跡部は言った。
「別に悪かねえよ」
「………………」
 神尾の耳元で、笑った声で。
「そうやってしょぼくれてんのも、それなりに好みだ」
 結局神尾を派手に赤面させ、跡部はもう一度軽く神尾の唇をキスで掠めて、外に出た。
 神尾の腕を引いて。
「………跡部?」
 見送りについて出てきたのかと思いきや、跡部は神尾の手を取ったまま、庭へと向かう。
 怪訝に呼びかけた神尾を振り返りこそしないものの。
 手を握るというより、全部の指を絡めるというような接触はひどく甘くて、神尾もただおとなしく後をついていくしかなかった。
 跡部の家の庭は広い。
 どこまで行くのかと思いつつ歩いていた神尾は、跡部の背中ばかり見ていたから、それに気づくのに遅れた。
「これを持って行かせるの忘れたって、さっき思い出したんだよ」
「……え?」
 中断したキスの事を言っているらしい跡部が足を止めた。
 神尾もつられて足を止め、漸く前方のその花に気づいた。
「ヒマワリ…!」
 小ぶりな向日葵が、力強い黄色を発光させるようにして咲き乱れている。
 群集だ。
 神尾が近づいていくと、丈は神尾の胸元近くまで伸びた花自体は小ぶりな向日葵が、今が盛りというように咲き乱れていた。
 花びらは瑞々しくて、咲き初めと気づいた。
「え、……何でだ? もう九月なのに……」
「狂い咲きしやがった。八月中は気配もなかったのに」
「すっごい数だなあ………」
 大袈裟な話ではなく、帯状に伸びていく黄色の連なりに、神尾は感心しきった溜息を吐く。
「家に持ってけ」
「いいのか?」
「今切らせる」
「いいよ、俺自分でやる! あ、ハサミ借りてくるな!」
 跡部は時々、庭の花を神尾に持たせる。
 母親と姉とがそれを喜ぶので、神尾が跡部に伝えると、殊更にそれは慣習化した。
 この間などは薔薇の盛りの季節だったものだから、跡部の家に来る度、神尾は恥ずかしいくらいの薔薇の花束を持たされて帰っていた。
 そんなことを繰り返しているうち顔馴染みになった跡部邸のガーデニング担当の初老男性から、神尾は剪定鋏を借り受けた。
 向日葵の咲き乱れる場所まで神尾が全力で走っていくと、眩しいくらいの色と量とで圧倒してくるその花よりも、もっと強い存在感で、跡部が立っている。
「………………」
 ひどく健康的で、明るい向日葵の印象は、跡部の持つ雰囲気とはまるで違うけれど。
 花の美しさを損なわせる事は決してしないのもまた跡部だ。
 神尾がそんな事を考えて足を止めると、跡部は神尾に気づいて視線を向けてくる。
「好きなだけ切っていけ」
「……うん」
 顎で軽く指し示され、神尾は向日葵の花の中に埋もれるようにして足を踏み入れる。
 手前から切れば簡単なのだが、せっかく庭から見える一面を切り崩すのは惜しい気がしたからだ。
 奥の方の花から切っていき、左手に抱える。
 数本で遠慮するのも馬鹿らしいほど咲いているので、神尾は繰り返し繰り返し剪定鋏を使った。
 跡部が、何だかじっとそんな神尾を見つめてくるので。
 神尾は向日葵を腕に抱きながら、一本ずつ増やしていきながら、何だよ?と跡部に問いかける。
 跡部は僅かに目を細めるような表情をした。
 それから、神尾をからかう時特有の、少し皮肉めいた薄い微笑を唇に刷く。
「どれがお前だか判んねえな」
「………は?」
「そうやってると。向日葵なんだかお前なんだか判らなくなるって言ってる」
「どういう意味……」
 向日葵と自分が区別つけられないとはどういう意味だと、神尾は怪訝に手に持つ花と跡部とを見比べる。
 訳が判らない。
 でもふとそれが、なんだかとてもおかしく思えてきて。
 神尾は笑った。
「訳わかんね。跡部」
「……だからそういう」
「え?……」
 跡部が溜息をつきながら近づいてくる。
 両手が向日葵で埋められている神尾の唇に、キスをする。
「………、…なん…」
「馬鹿みたいに真っ直ぐ、太陽の方しか向かねえんだよ。この花は」
 少し、何だか、嫉妬するみたいな珍しい言い方を跡部がしたので。
 神尾は不思議に思った。
「………だから……向いてるだろ。まっすぐ」
 そっと言っても、跡部はまだ表情を崩さない。
 恥ずかしいなあ、と思いながらも。
 神尾は意を決して言った。
「跡部の方だけ。………まっすぐ…向いてるじゃん」
「………赤い向日葵なんざ初めて見たな」
 一瞬面食らってしまった自分を、まるで誤魔化すように。
 跡部はそんな言い方をした。


 太陽のような吸引力。
 人から言われるまでもなく自覚しているくせに、引き寄せているだけでは足りないらしい太陽の独占欲が、夏の花の向日葵を、まだまだ盛りで咲かせている。
 気が遠くなってしまった。


 マズイ、と頭の中で神尾が思った時には、もう手遅れで。
 体内には、まだしっかりと、強すぎる程の存在感が埋まったままで、でも逆らいがたい衝動で目の前は真っ暗になっていた。
「おい、……っ…?…」
 そんな中で、聞きなれない、焦った声で。
「……神尾っ?」
 跡部に名前を呼ばれた事だけが、辛うじて、神尾の記憶の残像となった。


 神尾が十六歳になった日、その前の年の誕生日や、更に前の年の誕生日の時と同様、神尾の隣には跡部の姿があった。
 最悪の第一印象で跡部と出会った時は中二だった神尾も、今では高一になって。
 一学年の差は何年経っても埋まらないにしても、今日から跡部の誕生日までの数ヶ月は、年齢は同じになる。
 跡部は、ずっと一緒にいても、それでも目を瞠るくらい、どんどん大人びていくのに。
 自分はたいして変わらないなあ、というのが、十六歳になった朝、洗面台で顔を洗って、鏡に映った自分の顔を見た時の神尾の感想だ。
 多分、見た目だけではなくて、性格とか、行動とか、そういうものも。
 跡部と初めて出会った時から、自分は然して変化がないと神尾は思う。
 跡部はいろいろと変わった。
 正反対になったという訳ではなく、もっとすごくなっていったというか。
 元々完璧みたいに整っていた顔立ちは、尚も凄みを増して一層綺麗になっていく。
 足だけ伸びていくみたいに背が伸びる。
 見目の上品さに充分伴う洗練された立ち居振る舞いをしつつ、口をきくと実はかなりさばけた印象で、毒舌家だが変に取り澄ましたところがないので、逆に周囲から一目おかれる事になる。
 神尾に対しても、言葉でからかったり、態度であしらったり、そういう事は今でも勿論あるのだけれど。
 例えば神尾の話す事に対して、先を促す時とか。
 別れ際のキスだとか。
 すごく甘く、すごく優しくなった。
 始めの頃は、お互いの感情をただぶつけあう、声を張り上げるような喧嘩ばかりしていたのだが、最近ではそういう感情まかせな言い争いは殆どなくなった。
「………………」
 神尾はふと、自分は何で、こんな、昔の事をしきりに思い返しながら今の事を考えていたりするのだろうかと、思って。
 ぼんやりと、あれ?と違和感に気づく。
 意識が、すうっと身体に戻ってきたような感じがする。
 もう一度、あれ?と思いながら、神尾は目を開けた。
「神尾?………」
「…………跡…部…?」
 軽く肩を揺すられている。
 神尾を覗き込むようにしていた跡部は、目に見えて安寧の表情を浮かべた。
「………………」
 綺麗な、男。
 神尾は、跡部を見上げて思う。
「………おい?」
「……………ん……」
 気遣わし気に頬を手のひらに包まれて、平気だという意味合いで神尾はこくりと頷いた。
「……どうした?」
「…ん…?……なに…?…」
「何じゃねえだろ……」
 酷くしたか?と跡部は真剣な表情で言った。
 一瞬意味を図りかねて。
 神尾はただ無心に跡部を見返してしまう。
「………え?」
「乱暴だったかって聞いてる」
「……、……な……」
 低い声にあくまでも真剣に問われて。
 漸く意味を理解した神尾は、言葉を詰まらせた。
 多分顔は赤い。
 尋常でない羞恥に完全に負けてしまっている。
 ベッドの上、神尾の顔の脇に肘をついて、顔を近づけてきている跡部の面立ちは秀麗だ。
 その顔で、二年もずっとしている事なのに、今更だろうに、真剣にそんな危惧をみせてくるのは。
 ものすごくずるいと神尾は思った。
「や、……全然そんなんじゃ、……何でそんな…」
「気失ってた。お前」
「……あ、…えっと………それは跡部のせいじゃなくって…、…」
 うわあ、と神尾は叫び出したかった。
 尚も間近から跡部に見つめ下ろされている自分の顔は相当に赤い筈だ。
 神尾はもう息も絶え絶えに言った。
「気を失って…ってのは、…えっと、………献血のせいかなあ…と…」
「……献血?」
 跡部の眉が微かに寄せられる。
 神尾は必死に頷いて。
 あ、まだちょっとくらっときてるな、と思う。
「十六になったらさ、やってみたかったんだよ。献血」
「全血の二百mlか」
「……十六はそれしか出来ねえもん……四百mlとか成分献血は、十八になったらやるんだ」
 跡部と会う前に、神尾は初めての献血ルームに立ち寄った。
 病院みたいなのを想像していた神尾は、待合室の漫画や雑誌の量や、ベッドごとに小型テレビがあったりすることや、自販機以外にもたくさんの飲み物が無料だったり、ドーナツやアイスが用意されていたり、ゲーム機やマッサージチェアー、しまいには手相の占い師までいたりする献血ルームを堪能し、真っ赤な献血手帳を受け取って、生まれて初めての献血をしてきたのだ。
 その足で跡部の家に来て、最初のキスのまま抱きすくめられ、身体を繋げている中で、眩暈のようにそれはやってきて。
 ヤバイ、と神尾が思った時にはもう、ブラックアウトしてしまっていた。
 そんな訳で、ひょっとしたら貧血のような自失だったのだと、神尾は跡部に告げた。
 どうやら要らぬ心配をかけてしまったようなので。
 悪かったなあと思いながら、神妙に神尾は申告したのだが、話を聞くにつれ跡部の形相が変わっていって呆気にとられる。
「………馬鹿かテメエは」
 辛辣な、恐ろしい程低く平坦な声音で跡部は言った。
「献血なんかしてんじゃねえよ」
「……、…なんかってなんだよ…!」
 吐き捨てるような跡部の言葉に神尾もつられる。
「血とられて貧血起こすような奴が、献血なんてするんじゃねえって言ってんだよ」
「絶対貧血って訳じゃないかもだろ…!」
「自分で貧血だって言っただろうが!」
「ひょっとしたらって付けたよ俺は! だいたい初めてなんだから、まずはやってみなくちゃ判んないだろっ」
「じゃあもう二度とするなっ」
 だいたいお前の血を何で見も知らぬ野郎に、とか。
 何だかちょっととんでもない事をぺろりと言われたのだが、完璧に腹をたてている神尾にはそれを拾い上げる余裕がない。
「この人非人!」
「うるせえ!」
「俺の夢だった善意の行動に難癖つけてんじゃねえ! バカ跡部!」
「知るか! 俺以外の奴に構ってんじゃねえ!」
「何でそうお前は俺様なんだよっ」
 跡部が、凄く、大人びたと。
 確か少し前までは、考えていた筈なのに。
 何だ、全然変わってないじゃん、と神尾は思った。
 昔はいつも、神尾には訳の判らない所で跡部は腹をたてていた。

 でも、こういう喧嘩はちょっと久しぶりだなと神尾は思って。
 実はちょっと、楽しくもあった。
 聴覚の駆使は全く苦にならないけれど、視覚の駆使は駄目なんだと生真面目な顔をして言った神尾に跡部は呆れた。
「お前が読書出来ねえのは、目の問題じゃなくて頭の中身の問題だろうが」
「むかつく!」
「……だから語意が増えねえんだ」
「…………ごい?」
「……………」
 やっぱ馬鹿だろコイツ、と跡部は嘆息する。
「ボキャブラリーって事だよ」
「あー………」
「……判ってねえだろうが」
「…………うん」
 そのくせ跡部が拍子抜けする程あっさりと肯定してみせた神尾は、まあいいかーと暢気に笑った。
 笑うと極端に印象の柔らかくなる神尾の表情は跡部の溜息を再び呼んで、続く言葉を些か軽いものに変えさせた。
「それで? ひと夏にたった十冊の読書感想文も未だに一冊もクリア出来ないでいるお前が、俺様に何の用だ」
 尊大と言われようが思われようが構わず。
 ソファに深く寄りかかり足を組んだ跡部は、己の足元にちょこんと座っている神尾を細めた眼差しで見下ろした。
 夏休みももう折り返し地点を過ぎている。
 先まで聞かずとも、ここまで話を聞けばもう大概理解できるというものだ。
 大方、読書感想文の代行という事だろう。
 本来であるなら、跡部の性質的に人にそんな情けをかけてやる要素はこれっぽちもない。
 人に、宿題を写させてやる事すらしないのに。
 ましてや人の宿題をやってやるなんて行為は絶対にありえない。
 通常ならば言われるまでもなくそんな申し出は即刻却下であるが、何分今回は相手が神尾である。
 年下でありながら、跡部を跡部とも思っていないような、要するに跡部という男に対して、もういっそ無頓着でもある神尾だ。
 宿題手伝ってくれ!くらいは平気で言うだろう。
 ならばいっそ交換条件を持ちかけてみた方が、結果として自分が得かもしれないと跡部は考えていた。
 そんな跡部の足元で。
 神尾は跡部を見上げて、笑顔を見せる。
 判っていてやっている筈もないが、その邪気のない笑顔には、どうも不埒な交換条件を諌められたような気持ちにさせられ、跡部は眉根を寄せた。
「あのさ。跡部はたくさん本読んでんじゃん」
「当たり前だろうが。てめえと一緒にすんな」
「うん。だからさ」
 俺の代わりに感想文書いて、とか何とか。
 言い出すのだろうと考えていた跡部の思考は、続く神尾の言葉によって遮られた。
「俺に、本読んで」
「……ああ?」
「俺さー、頭よくないけど、跡部の言った事とかは全部覚えてるし」
「……………」
「むかつく事とかも言うけど、俺、跡部の声は、すげー好きだし。跡部が読んでくれるの聞くんなら、読者感想文十冊とか、楽勝な気がする」
 だからお願い、と顔の前で両手を合わせた体勢で、大真面目に頼んでくる神尾を、跡部は半ば唖然と見下ろした。
「……………」
 馬鹿と天才は紙一重だというけれど。
 こいつはその紙に違いない。
 跡部はそう思った。
「……跡部?」
 もしくは、知性は低いが恋愛は天才か。
「……お前の頭じゃ、一日一冊が限界だろ」
「え?」
「だから十日間」
 短期集中型なんだ俺はと跡部は言って、神尾の腕を掴んで自分の膝を跨がせるように引き上げた。
「当然泊まりだからな」
「………は?」
「読み聞かせは眠る前にベッドの中で、が基本だろう」
「…………、……あと……」
 神尾が、うろたえて赤くなるのを目にしながら。
 跡部は神尾と軽く唇を合わせた。
「……っ…、……」
「本の選択権は俺だからな」
 とびきり長い話の本を一冊。
 とびきり甘い話の本を一冊。
 泣かせてやろうかとか、怖がらせてやろうかとか。
 跡部は頭の中にある情報を探って、十日間の夜の為の、十冊の本をチョイスするのだった。
 夏休みに入ってすぐ、母方の田舎に家族で行く事になったと跡部に伝えた時から、神尾にはどことなく違和感があった。
 神尾が話をした時の跡部の態度が、露骨におかしかったという訳ではない。
 跡部は極めてあっさりとした様子で、別段不機嫌になったりもしなかった。
 それなのに、どことなく、変かもしれないと神尾は思ったのだ。
 田舎に行っていたのは一週間。
 その間メールや電話もしたのだが、神尾の違和感は消えなかった。
 別段冷たい態度をとられたとか、気にかかる言動を仄めかされたりとか、そういう事はなかったのに。
 どうも気にかかるこの感じは何だろうと、神尾はずっと考えていた。
 一週間して、田舎から帰ってきたその足で、神尾は跡部の元へ向かった。
 今から行っていい?と尋ねたメールには、跡部が今居る場所だけが打たれたメールが返ってきた。
 この金持ちめと、神尾は相変わらずの跡部に苦笑いして携帯をたたんだ。
 とにかく広い、城か何かと思わせるような跡部の家は、そんな自宅の他にも都内に数箇所マンションがある。
 部活の教化トレーニングが始まるといえば氷帝に一番近いマンションに、試験期間になれば集中する為にとまた別のマンションに、あげくには鍋用のマンションまである。
「……鍋食べるためのマンションとか有り得ないだろ。普通」
 IHのクッキングヒーターがダイニングテーブルに埋め込み式になっているそのマンションに連れていかれた時は、神尾も本当に心底から呆れた。
 その時の事を思い出しながら、神尾は今跡部がいるというマンションへと急ぐ。
 手に持ったビニールの手提げ袋が少し重くて、でも神尾の足取りは軽く速いままだった。


 玄関のオートロックだけ開けて貰い、あとは数機あるエレベーターの中から、跡部の家に行く専用エレベーターを選んで乗り込む。
 そこで教わっている暗証番号を押すとエレベーターは漸く動いて、その指定階で停まる。
 そうやって専用エントランスへと辿りついてみれば、鍵は勿論のこと、跡部の家の扉も大胆に開いていて。
 神尾は、いつものように、お邪魔しまーすと声をかけて中に入った。
 セキュリティが厳重で、なかなかこの玄関までやって来れないのは判ってはいるけれど、一応扉も閉めておく。
 神尾が見当をつけて向かったリビングに、跡部はいた。
「跡部ー?」
「よう」
 ソファで本を読んでいたらしい跡部は、肩越しに神尾に視線を流してきた。
「今日帰りだったっけか…」
 読みさしの本を閉じて呟いた跡部に、神尾は膨れて、不服を訴える。
「がっかりしたみたいに言うか?!」
「別にがっかりしちゃいねえよ」
 いつもだったら、こういう時、神尾を面白そうにからかってきたり、皮肉な笑いで応酬してくる跡部なのに、返答はあくまでも静かなもので。
 静かというか、力ないような、覇気のない感じに、神尾はふと眉根を寄せる。
「跡部、どした?」
「何が」
「なんか…元気なくね…?」
「別に普通だが?」
 言葉ではそう言うが、実際はどこかぼんやりしているような気がして、神尾はソファの裏側から跡部の背後に立ってビニール袋の中身を一つ取り出した。
「……食う?」
 跡部の肩に腕を乗せるようにして差し出して見せたのは、今朝捥いできたばかりの赤いトマトだ。
 田舎の畑で真っ赤に熟れていたのを、帰る直前に取ってきた。
「リコペルシコン・エスクレンタム」
「は?」
「トマトの学名だ」
 食べられる狼の桃って意味だと呟きながら、跡部は神尾の手からトマトを食べた。
 何だか訳もなく神尾は戸惑った。
 自分でしておいて何だが、自分の手から跡部が物を食べるのは初めてで。
 人馴れしていない動物か何かが、初めて自分の手から物を食べてくれたみたいな。
 奇妙に気持ちが高ぶる気がしてどきどきする。
「………………」
 丸齧りしているのに粗野な印象は全くない、端整な顔で。
 跡部は二口目、三口目、と齧っていく。
 神尾は黙って見下ろしているしか出来なくなる。
「うまいぜ?」
「……、…ん」
 何だか言葉が詰まって喋れないでいる神尾に、跡部がちらりと視線を上げて言ってくる。
 返答するのが精一杯の神尾の手から、跡部はトマトを一個食べきって。
 ついでに神尾の指先も軽く舐めてきた。
「………っ……」
 咄嗟に引いた神尾の手を跡部は掴んで、ソファの背もたれに後頭部を乗せて仰向けに神尾を見上げてきた。
「トマトってのは、性欲促進の作用があるって判ってて食わせたんじゃねえのか」
「え?……なん、……知らねーよそんなの…っ」
 適当な事を言ってからかわれているのかと思った神尾の思考をよんだのか、跡部は呆れた顔をした。
「フランスではポム・ダムール、イギリスはラブ・アップル、どっちも意味は愛のリンゴ。日本じゃトマトだが語源はトマトゥルで、膨らむ果実って意味だ。この俺が、でまかせ言う訳ねえだろ」
「……、ぅ……いや、別に、でまかせとは言ってないけど……!」
 どことなく気だるげな跡部の腕に、手と頭を掴まれて。
 神尾は手繰り寄せられていく。
 顔の向きがいつもと違って、下にいるのも跡部で。
 慣れない体勢でのキスに狼狽した神尾は、触れ合う寸前に泣き言めいた言葉を洩らした。
「……跡部、なんかへんだよ…」
「………ああ?」
 唇と唇が触れる直前。
 でも吐息は唇の表面に当たって、それだけで震えがくる。
 そっと零した言葉をそれでも拾ってきた跡部に、神尾は小声で続けた。
「元気ないっていうか……ぼーっとしてるっていうか……電話とかでもそうだったけど……なんかへんだった。今会ってても、やっぱ、なんかへんだ」
「………どういう言い草だ」
 呆れたような吐息は少し不機嫌そうで。
 少しだけ、無理矢理な感じでキスをされた。
「ん…っ、…、…っ、ぅ……」
「………………」
「…………っ…ぁ…」
 真下からの舌に口腔を擽られて喉を詰まらせる。
 挙句に引きずり込まれるようにして、その体勢のままソファを越えさせられ、跡部の膝に横たわるように引っ張られてしまった。
「…、ッ……跡部…、…っ…?」
 世界が回って、乱暴な仕草に無茶するなと詰る目線を神尾が向ければ、身体が捩れるような窮屈な体制のまま、また跡部に唇を塞がれる。
「ふ……っ……ぅ……」
「てめえのこと考えてただけだっての」
「……ぇ…?」
 元気がないみたいな、ぼうっとしているみたいな、らしくない跡部の電話越しの声。
「充電切れみてえなもんだろ。おとなしくなってて何が悪い」
 静かというか、力ないというか、覇気のない感じで、本を読んでいた跡部。
「………ここでいいな?」
 キスを重ねるごと、強くなっていく接触。
 漸くいつもの、からかうような目に。
 灯るどこか焦れたような熱。
 身体を服の上から弄られて、神尾は何だかくらくらしてきた。

 愛のリンゴで餌付けしてしまった。
 膨らむ果実を食べさせた。
 少しずつ、いつもの跡部になっていく。
 触れた身体で、交わす目線で、与えられる言葉で、神尾は理解していった。
 跡部が温泉に入っている。
 暗がりの露天風呂だ。
「………………」
 とてつもなく不思議な光景かもと思ってしまった感情は、露骨に神尾の顔に出たようで。
 跡部が湯に浸かったまま少し顎を持ち上げて、神尾の事を見下ろすような目をしてきた。
 えらそうで、昔はすごく腹が立ったそんな目も、今はすっかり見慣れてしまって気にならない。
 睨まれて怖い訳ではないけれど、神尾は口元近くまで湯に沈んで、ちらりとそんな跡部を見返してやった。
 入浴最終時間の深夜0時に近い露天風呂。
 跡部と神尾の二人だけしかいない。
 貸切にしている訳でも、跡部家の私物の露天風呂という訳でもない。
 単にこんな時間まで露天風呂にいる輩がいないというだけだ。
 最初、跡部に温泉に行くぞと誘われた時は、神尾は少し驚いた。
 温泉とか、浴衣とか、旅館とか。
 そういうイメージが跡部に全くなかったからだ。
 だからこそ、見てみたいなどと思ってしまって。
 神尾は跡部の誘いに同意して、この週末は二人で一泊の小旅行だ。
 しかし案の定というべきか、そこはやはりあの跡部で。
 連れてこられたのは神尾が想像していたような旅館ではなかった。
 会員制のリゾートホテルとやらで、後々こっそりとネットで調べてみたら会員登録には数百万を要するシステムの、とにかく広くて綺麗なホテルだった。
 でもそんなホテルでも、いろいろと楽しい事の方が多くて気後れも徐々に薄らいでいった。
 ホテルに向かう為に初めて乗った登山電車の急勾配は、世界第二位というだけあって、面白くて。
 隠し扉のような秘密めいた出入り口や、水に浮かんだように建てられたレストラン、壁一面の窓ガラスの部屋はただただ広い。
 夕食は会席料理で、そんなもの生まれて初めて食べた神尾だったが、和食だったせいかフォークやナイフを気にしなくていい分、気楽に食べられて。
 味もすこぶる良かったし。
 唯一神尾の考え通りだった浴衣と羽織が部屋にあったから、それを着る跡部なんてものをしっかり見る事が出来たし。
 一日の最後には、こんな風に寛ぎきって露天風呂につかっているというわけだ。
 二人で。
「神尾」
「………………」
 跡部に呼ばれても、神尾は肩まで全部湯に浸って、黙って跡部を見つめるだけでいた。
 互いの距離は微妙だ。
 手を伸ばしても届かない。
「………………」
 跡部に実に無造作に手招かれる。
 どうしようかなと神尾は少し考える。
「何もしねえよ。来いって」
「………………」
 神尾をどう見ているのか、跡部はそんな風に言った。
 別に。
 何かしたっていいのに、なんて。
 咄嗟に思ってしまった自分がひたすら耐えがたい一心で、神尾は湯の中、俯き加減に跡部へと近づいていく。
 たいして進まないうち。
「………、…」
 暗くてよく判らなかったけれど、湯の中で腕が取られて引き寄せられる。
 跡部に。
「………………」
 浮力に従って、まるで宙に浮かんで、引かれて、自分がひどく軽いものになってしまったような錯覚と供に跡部の腕に肩を抱かれる。
 神尾が顔を上げるなり、濡れた温かい唇はふわりと神尾の唇を塞ぐ。
 跡部のキスは接触がやわらかい分、幾度も神尾の唇に重なってきた。
 頭の中がふわふわする。
 胸の中がとろとろする。
 浮力以上に、たちまち自分の全部が軽く、柔らかく、溶けてしまって、なくなりそうで。
 神尾は跡部の舌に舐められて熱くなった唇で小さく訴えた。
「……も、…ヤダ」
「………あ?」
「…………のぼせたら…ど…すんだよ…」
「大事に運んでいってやる」
 即答されて神尾はもう一度、もうヤダと思った。
 顔が熱い。
 言われた言葉にもだけれど、お湯の中でいつの間にか指を全部絡めるようにして繋ぎあった手の感触が。
 甘すぎて気恥ずかしいのだ。
 どこまでも甘く温かで。
「…………………」
 だいたい機嫌のいい跡部もいけない。
 いつもはもっと回りくどかったり複雑だったりする優しい部分が、判り易くなりすぎていていけない。
 そんな跡部にじっと見据えられて、神尾は再びお湯の中に沈みたくなってしまった。
 何でそんな風に見るんだと思いながら、神尾は小声で聞いた。
「………跡部、今なに考えてんの?」
「さっきメシ食ってた時のお前の顔」
「……は?」
 それってどういう、と神尾が聞きかけた所をあっさりと遮って。
「幸せが形になったとしたら、それはさっきのお前なんだろうな」
 唇の端を引き上げて笑う跡部の表情に、う、と神尾は言葉を詰まらせた。
 そんな顔で、そんな事言って、そんなのはずるい。
「べ……別に……メシ美味かったのが理由なだけじゃ、ないんだからな……っ…」
「へえ?」
 そうかよ、と神尾の言い分などまるで信じていない口ぶりで跡部は笑っている。
 確かに、ものすごく、食事は美味しくて、いっそ感動もしたけれど。
 幸せが形になっているとまで言われるなら、本当の、真実を判らせてやりたくなる。
「………そんなのは…跡部といて楽しいからに決まってるじゃんか」
「…………………」
 悔しさ紛れに小さく言ったら、跡部がちょっと面食らったような顔をしたので。
 神尾の機嫌が少し浮上する。
 でも、その後の沈黙が思ったよりも長引いて。
 神尾も徐々に、いい加減恥ずかしくなってしまった。
「…………………」
 ひどく静かな気配の中、神尾が再び湯に深く浸かりかけていく。
 ちゃぷんと響いた湯の音に交ざって、跡部が言った。
「お前」
「……なに」
「俺がのぼせたら責任もって運べよ」
「………、…出来るわけないだろ…ッ…」
「やれ。バカ」
 お前のせいだろうがと、さらりと毒づいた跡部の表情を。
 探るまでの余裕は、神尾にはなかったのだった。

 周囲には、露天風呂を囲っている笹の葉擦れの音だけがしていた。
 神尾が跡部の家に行くと、いつも物珍しくていかにも高級そうなケーキの類が用意されているようになったのはいつくらいからだったろうか。
 甘いものが好きで、会う度にそういったものをうまいうまいと言って食べている神尾だったから、跡部が用意させているのは明らかだったけれど。
 今日は綺麗なピンク色の、口に入れるとたちどころに溶けて無くなる、軽くてさっくりとした触感のお菓子だった。
「これなに?」
 跡部の家で食べるものには大抵この言葉がつきもので。
 ぱくぱくと口に運びながら神尾は跡部に問いかけた。
「シャンパンビスキュイ」
 聞いても判らないのはいつものこと。
 首を傾げていると、跡部は淡々と説明した。
「卵白を泡立てて、乾燥焼きにしたジャンパーニュ地方の銘菓だ」
「いい匂いするけど……ちょっとアルコール入ってる?」
「食用色粉を水じゃなくてオー・ド・ヴィで溶いてる程度にはな」
「オーなんとかってなに」
「……キルシュとか」
「………………」
「まあ酒だ」
「ふーん。うまいなー」
 溜息をつきながらも、跡部はこういう所が結構マメだ。
 あまり言動を惜しまないというか、基本的に面倒見がいいのだ。
 俺様のくせして。
「あ、雨降ってきたな」
「泊まってけ」
「………跡部ー……」
 窓の外の様子に気づいて神尾はそれを口にしただけなのに、即答で跡部から返されてきた言葉に神尾は力なく肩を落とした。
「どういう理屈だよ……」
 雨なんか、降ってきたとはいえパラパラと疎らだ。
 帰れなくなる程では到底ない。
 それなのに真顔で、当然の事のように跡部が言うものだから。
 ちょっとくすぐったいような照れくささも感じつつ、神尾はじっと跡部を見据えた。
 シャンパンビスキュイを長い指に取り、口に運ぶ跡部の所作からは、目が離せない。
 ここまで綺麗な男ってのがいるんだなあとしみじみ神尾は思う。
「七夕だから泊まっていくってのは理由になんねえのか」
「………や、……なんていうかそれは随分恥ずかしい理由では……」
 跡部は恋愛沙汰にもいろいろと慣れているようで、こういう事を言ったりしても平然としているものだが。
 神尾にしてみれば、まだまだ気恥ずかしいことばかりだった。
「七夕っていえば、……雨降ったから、織姫と彦星は会えないんだよな?」
 ぎこちなくも慌てて話題をすりかえれば。
 跡部は溜息混じりに神尾を軽く睨んでくる。
 その上、テーブルに片肘ついて、薄く開いた唇から覗かせた舌の上で、シャンパンビスキュイがとける様を見せ付けてくるとか。
 恥ずかしいからほんとよしてくれと頭を下げたくなる神尾だった。
「か、…可哀想だよな……、…元々一年に一回しか会えないのに、雨だったら、その日も駄目になるなんてさ……!」
「………その時は本来一匹の筈の案内役のカササギが無数現れて、天の川に自分達の身体で橋をかけてくれんだよ」
「え、そうなのか?」
 なら良かったな!と言い終わるか言い終わらないかのうち。
 神尾は跡部に腕を引っ張られる。
 難なく跡部の胸元に収まるよう抱き込まれてしまって。
「…………、……跡部……」
「泊まらねえなら、ここのいる間はこれくらい近くにいろっての」
「………………」
 からかって笑われているくらいなら、いっそまだ良かった。
 でも、静かにこんな事を言われると、神尾はもうどうしていいのか判らない。
「………空の上でもおんなじ感じなのかな…」
「どっちのが恥ずかしいんだよ」
 喉で低く笑った跡部の両腕が、強く神尾の背にまわる。
 痛いくらいにきつく抱き寄せられて。
 かぶりつくように口付けられて。
「……、……ッ……ん…」
「神尾…」
「……ン…、…ぁ…と…、…っ…ん、」
 錯覚でなく、甘い舌と舌とでキスをつなぐ。
 雨交じりの七夕。
 跡部に床に組み敷かれて、神尾はほんの少しの間だけ、天空の恋人達の事を考えた。
「……帰れなくしてやればいいだけの話だな」
 欲情に濡れた跡部の、物騒にも聞こえる低い声に。
 もうとてもじゃないが、他所事に気をとられている場合ではなくなった神尾だった。
 我慢ができなくなった神尾は、ベッドに組み敷かれた所で跡部を押し退けた。
 予測はしていたが案の定跡部は神尾を睨みつけてきて、そう簡単には逃してはくれない。
「あと、べ…っ……離せってば…! 手!」
 手首を真上から押さえつけられて、そこにもろに体重をかけられた。
 身体も乗り上げられて。
 こうなるともう跡部はびくともしない。
 神尾は再度本格的にベッドに組み敷かれる事になった。
 跡部の家に来てすぐのこの有様。
 あー、とも、うー、ともつかない呻き声をあげて神尾はジタバタと足でもがいた。
「………てめえ…」
 そんな神尾の抵抗を眼下に見下ろして、跡部の表情が馬鹿みたいに剣呑と尖るから。
 跡部の今の心情を理解して、神尾もつい、慌てた。
 いい加減我慢の限界だというのに、つい、そうじゃなくてと、首を左右に打ち振った。
「嫌がってんじゃねえってば…!」
「どこから見たって立派に嫌がってんだろうが」
「ちが、うってば!…もう、離せって、とにかく!」
「……半ベソで抵抗か?」
 不機嫌極まりなく喉奥で笑われて。
 逃がすか、と獰猛に告げられて。
 唇が塞がれそうになる寸前。
 とうとう神尾は、それこそ半ベソで叫んだ。
「かゆい!」
「………ああ?」
「かゆいんだよっ。虫に食われたのっ。ああもうっ」
 我慢出来ないと思って神尾は跡部を睨んで暴れた。
 多分部活中だ。
 だからこの季節は嫌なのだと神尾は恨めしく己の体質を呪う。
 何故なのか神尾は蚊に刺されやすい。
 体温が高く、子供体温だからだと仲間内からは毎年からかわれている。
 神尾にとって、入梅から初夏にかけては最も被害の大きな憂鬱な時期なのである。
 だから自分の叫んだ言葉に面食らった跡部の顔を目前にしながらも、それでも緩まない手の拘束に本気で焦れる。
 それなのにだ。
「…………食われたってのが、気にくわねえな」
「馬鹿かっ。蚊だ蚊っ!」
 何を真顔で言ってやがると神尾は心底から跡部を呆れたが、それより何より今は背中を襲う掻痒感が重大だ。
 無意識にシーツに背を擦りつけるようにしていると、跡部の表情にちょっと危なげな笑みが浮かんだ気がして神尾は物凄く嫌な予感がした。
 嫌な予感は外れない。
 跡部は神尾の耳の縁を噛むようにして囁いてきた。
「我慢できなくなると自分から派手に動いちまうのは一緒みたいだな」
「…、……っ……な」
 それとこれとは全然違うと思っても。
 神尾が口には出せないのは、じわじわと滲んでくる羞恥心のせいだ。
 全然違う事のはずなのに。
 跡部が意地悪するから、許してくれないから、神尾がもがくのは確かに共通点だ。
「………ッ……、」
 ぐっと言葉を詰まらせて神尾が跡部を睨みつければ、癖のある笑みを浮かべたまま漸く跡部から行動を起こしてくれるのもまた一緒。
「…………………」
 腕が離され、うつ伏せにされ、いとも簡単にシャツを剥ぎ取れる。
「一昨日俺がつけた痕に交ざっちまってんじゃねえの」
 含み笑いながらも、どれだよ?と聞いてくる跡部に、掻過しながら場所を手で指し示そうとして、そういえば手が届きそうもない所だと神尾は気づく。
 第一跡部の台詞にもますます羞恥は募り、呻きながらやけっぱちに、もっと上だとか右だとか神尾は喚いた。
 跡部は笑いながら神尾の皮膚を噛んでくる。
 それもどうなんだろうかと思いつつ、神尾は跡部の歯でむず痒さを宥められる。
 多少強く噛まれても、いっそ気持ちよくて、そのうち痒いんだか痛いんだか気持ち良いんだか何だか判らなくなってくる。
 なしくずしに、そして本格的に、跡部に抱かれ始めている事に神尾が気づいた時にはもう大概手遅れで。
 終始うつ伏せでしかけられたものだから、神尾の背中は跡部に完全に支配されて、吸われたり噛まれたり舐められたりで紅色に様々に刻まれてしまった。

 蚊に刺されやすいお子様体温どころではない。
 跡部に狙われて淫らに身体の色を変えられる始末の神尾だった。
 四階建ての鉄筋コンクリートの部室棟の屋上から、跡部が飛び降りようとしている。
 そういうことなので、下界は凄い騒ぎになった。
 騒いでいるのは氷帝テニス部のレギュラー陣だ。
 部室棟の向かいにある体育館から、筋トレメニューをこなして出てきた彼等が見たものは、誰かと何事か揉めているらしい跡部の姿だ。
 校舎の物ほど頑丈ではない部室棟の屋上フェンスの外側に、跡部は出てしまっている。
 普通に腰を下ろして座れるくらいのスペースはあるものの、どうやら激しく激高しているらしい跡部は。
 屋上の方へと顔を向けて怒鳴っているので、真下から見上げる様子は決して心臓に良いものではなかった。
「……何してんねや…跡部…」
 一見冷静でいるようで、しかし真っ先に声を上げたのは忍足だった。
 そんな忍足の隣で向日が突然走り出し、そして適当な所で止まり、笑って叫ぶ。
「着地はー! ここらじゃねえ?」
 飛んでみそー!と嬉々と口にした向日に忍足が駆け寄った。
「そんなんお前にしか出来へんわ!」
「そうだな! 跡部には無理だよなー!」
「嬉しそうに笑っとる場合やないて。もう」
 氷帝のD2がそんな小競り合いをしている間も、跡部は空中に背を向けて、相変わらず誰かに何かを怒鳴っている。
 恐らく下界の喧騒など気にもかけていないと思われた。
「跡部ー? 跡部ー? 跡部ー?」
 珍しく起きているジローが壊れたおもちゃみたいにエンドレスに叫び、日吉が唖然と口を開け、樺地が固まる。
 そういう仲間達のリアクションも全てひっくるめた上で、うんざりした溜息を吐き出す宍戸に駆け寄ったのは鳳だった。
「宍戸さん……! どうしましょう……!」
「ほっとけ」
「はい」
 真顔で焦っていた鳳の筈なのに、宍戸のたった一言で至極あっさり頷き落ち着く。
 その様子に向日が爆笑し、忍足が呆れ返った。
「どんだけ宍戸のわんこだお前ー! すっげー笑える!」
「はい?」
 何かおかしかったですか?と鳳は宍戸に聞いた。
「宍戸さんが放っておけって言うなら、大丈夫って事ですもんね…?」
「………………」
 宍戸は困ったような怒ったような目で鳳を見返して、片手を上げた。
「…ついてこい。長太郎」
「はい!」
 歯切れ良い同意を口にした鳳を従えて、宍戸が歩き出す。
「どこ行くん。宍戸」
「部室棟の屋上」
「俺らも行こか?」
「お前らは跡部が落ちてきたら受け止める役。そこに待機」
 宍戸が跡部を突き落としに!と声に出した忍足と、声には出さなかった日吉とが、同じ思いで頬を引きつらせれば。
 向日は小さな身体で樺地を引っ張り、受け止めの段取りを決めている。
 ジローは叫びつかれて眠ってしまっていた。
 宍戸は深々と溜息をつきながら、大股で歩き、部室棟の階段を上っていく。
 そうして屋上へと辿りついて見れば、宍戸の予想通りの光景が広がり、彼の溜息は一層深く重くなる。
「跡部…! 危ないだろっ、戻れってばっ!」
 屋上で叫んでいる他校生に、鳳が、あれ?と声を上げた。
「不動峰の神尾君ですね……宍戸さん」
「それ以外に跡部にあんなことやらせる奴がいるかよ」
 屋上まで来たものの、進んでそれ以上踏み込む気はないらしく、宍戸は非常口の重い鉄扉に寄りかかった。
 鳳もそれに並ぶ。
「うるせーって言ってんだろ! この馬鹿!」
「何そんな怒ってんだよ……っ!」
「だから馬鹿だって言ってんだ! そんな事も判らないで叫んでんじゃねーよ!」
「叫んでんのは跡部だろっ………って、うわ、危ねえってば…っ! 跡部っ!」
 地上の比ではない喧しさに不機嫌を極めていく宍戸を、鳳がそっと見下ろした。
「………喧嘩……ですかね」
「してない時があるか? あいつら」
「はあ……まあ……」
 鳳の唇が苦笑いを浮かべる。
 鳳と宍戸の姿など目にも入っていない様子の彼らは、確かに四六時中よく喧嘩をしている。
 でも。
「てめえ、自分が言った事なんざ、すっかり忘れてやがんだろうが」
「………っ…、跡部が、そんな怒るようなこと…言ったか?!」
「そんなに俺が気にくわねえなら、ここから突き落とせばいいだろうとか、言いやがっただろうがっ!」
 凄まじい跡部の怒声は、離れた所にいる鳳と宍戸でも眉を寄せる程の恫喝だった。
 神尾が僅かに怯んだ様子も見て取れる。
「な、……だっ…、…」
「ふざけたこと言いやがって……久々に本気で腹が立ったぜ……!」
「そ……それくらいで何で……」
「アア? それくらい?」
「うわあっ、あぶないっ、あぶないってば跡部っ」
 見るに耐えない馬鹿がいる、と呻くように零した宍戸に眼差しを向けて、鳳が苦笑のまま問いかける。
「……二人に言ってるんですか?」
「跡部にだよ」
「俺は、よく判りますよ。部長があそこまで怒るの」
「あ?」
 宍戸が見上げてくるのを受け止めるように見つめて。
 鳳は微笑んだ。
「どれだけ喧嘩してる時だって、屋上で取っ組み合いになったとしたって、一番好きで、一番大事な相手に、突き飛ばせばいいだなんて言われたら傷つきます」
「………つまり、あれは今、傷ついてるって?」
 細い顎で宍戸がうんざりと指し示したのは、今度は確認をとるまでもなく、確かに跡部だ。
「傷ついて、それで、そういうこと言う相手を本気で叱りたい気持ち、判ります」
「それなら、お前みたいにそうやって口で言えばいいじゃねえか。跡部も」
 それが何であいつが飛び降りの真似事なんざしてる?と宍戸は不機嫌そうに吐き捨てる。「判れ……って事じゃないですか?」
「神尾もってことか?」
「はい」
 宍戸は鳳の穏やかな応えに溜息をつき、壁に寄りかかって立ったまま、腕組みした。
「そういう事なら出る幕ねえな」
「……………」
 鳳が無言で上半身を屈めて来た。
 影が落ちた視界に、宍戸がちらりと目線を上げれば、もう間近に薄く目を伏せた鳳の顔があった。
「………なんだよ」
 唇が触れる寸前に宍戸が囁けば、鳳は動きを止めて宍戸よりも小さな声で言う。
「……あてられて」
「あいつらにか…?」
「はい」
「………お前も相当の変わり者だな……」
「宍戸さんの事が好きすぎるだけですよ」
「別にそれは悪いことじゃないからいい」
 そして軽く唇を合わせた二人に、当然全く気づいていない跡部と神尾は。
 結局。
 フェンスの向こう側にいる跡部が、納得して機嫌を直すまで、神尾がごめんなさいと叫び続けるという、何とも奇妙な光景を繰り広げ続けているのであった。
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