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How did you feel at your first kiss?
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 跡部が温泉に入っている。
 暗がりの露天風呂だ。
「………………」
 とてつもなく不思議な光景かもと思ってしまった感情は、露骨に神尾の顔に出たようで。
 跡部が湯に浸かったまま少し顎を持ち上げて、神尾の事を見下ろすような目をしてきた。
 えらそうで、昔はすごく腹が立ったそんな目も、今はすっかり見慣れてしまって気にならない。
 睨まれて怖い訳ではないけれど、神尾は口元近くまで湯に沈んで、ちらりとそんな跡部を見返してやった。
 入浴最終時間の深夜0時に近い露天風呂。
 跡部と神尾の二人だけしかいない。
 貸切にしている訳でも、跡部家の私物の露天風呂という訳でもない。
 単にこんな時間まで露天風呂にいる輩がいないというだけだ。
 最初、跡部に温泉に行くぞと誘われた時は、神尾は少し驚いた。
 温泉とか、浴衣とか、旅館とか。
 そういうイメージが跡部に全くなかったからだ。
 だからこそ、見てみたいなどと思ってしまって。
 神尾は跡部の誘いに同意して、この週末は二人で一泊の小旅行だ。
 しかし案の定というべきか、そこはやはりあの跡部で。
 連れてこられたのは神尾が想像していたような旅館ではなかった。
 会員制のリゾートホテルとやらで、後々こっそりとネットで調べてみたら会員登録には数百万を要するシステムの、とにかく広くて綺麗なホテルだった。
 でもそんなホテルでも、いろいろと楽しい事の方が多くて気後れも徐々に薄らいでいった。
 ホテルに向かう為に初めて乗った登山電車の急勾配は、世界第二位というだけあって、面白くて。
 隠し扉のような秘密めいた出入り口や、水に浮かんだように建てられたレストラン、壁一面の窓ガラスの部屋はただただ広い。
 夕食は会席料理で、そんなもの生まれて初めて食べた神尾だったが、和食だったせいかフォークやナイフを気にしなくていい分、気楽に食べられて。
 味もすこぶる良かったし。
 唯一神尾の考え通りだった浴衣と羽織が部屋にあったから、それを着る跡部なんてものをしっかり見る事が出来たし。
 一日の最後には、こんな風に寛ぎきって露天風呂につかっているというわけだ。
 二人で。
「神尾」
「………………」
 跡部に呼ばれても、神尾は肩まで全部湯に浸って、黙って跡部を見つめるだけでいた。
 互いの距離は微妙だ。
 手を伸ばしても届かない。
「………………」
 跡部に実に無造作に手招かれる。
 どうしようかなと神尾は少し考える。
「何もしねえよ。来いって」
「………………」
 神尾をどう見ているのか、跡部はそんな風に言った。
 別に。
 何かしたっていいのに、なんて。
 咄嗟に思ってしまった自分がひたすら耐えがたい一心で、神尾は湯の中、俯き加減に跡部へと近づいていく。
 たいして進まないうち。
「………、…」
 暗くてよく判らなかったけれど、湯の中で腕が取られて引き寄せられる。
 跡部に。
「………………」
 浮力に従って、まるで宙に浮かんで、引かれて、自分がひどく軽いものになってしまったような錯覚と供に跡部の腕に肩を抱かれる。
 神尾が顔を上げるなり、濡れた温かい唇はふわりと神尾の唇を塞ぐ。
 跡部のキスは接触がやわらかい分、幾度も神尾の唇に重なってきた。
 頭の中がふわふわする。
 胸の中がとろとろする。
 浮力以上に、たちまち自分の全部が軽く、柔らかく、溶けてしまって、なくなりそうで。
 神尾は跡部の舌に舐められて熱くなった唇で小さく訴えた。
「……も、…ヤダ」
「………あ?」
「…………のぼせたら…ど…すんだよ…」
「大事に運んでいってやる」
 即答されて神尾はもう一度、もうヤダと思った。
 顔が熱い。
 言われた言葉にもだけれど、お湯の中でいつの間にか指を全部絡めるようにして繋ぎあった手の感触が。
 甘すぎて気恥ずかしいのだ。
 どこまでも甘く温かで。
「…………………」
 だいたい機嫌のいい跡部もいけない。
 いつもはもっと回りくどかったり複雑だったりする優しい部分が、判り易くなりすぎていていけない。
 そんな跡部にじっと見据えられて、神尾は再びお湯の中に沈みたくなってしまった。
 何でそんな風に見るんだと思いながら、神尾は小声で聞いた。
「………跡部、今なに考えてんの?」
「さっきメシ食ってた時のお前の顔」
「……は?」
 それってどういう、と神尾が聞きかけた所をあっさりと遮って。
「幸せが形になったとしたら、それはさっきのお前なんだろうな」
 唇の端を引き上げて笑う跡部の表情に、う、と神尾は言葉を詰まらせた。
 そんな顔で、そんな事言って、そんなのはずるい。
「べ……別に……メシ美味かったのが理由なだけじゃ、ないんだからな……っ…」
「へえ?」
 そうかよ、と神尾の言い分などまるで信じていない口ぶりで跡部は笑っている。
 確かに、ものすごく、食事は美味しくて、いっそ感動もしたけれど。
 幸せが形になっているとまで言われるなら、本当の、真実を判らせてやりたくなる。
「………そんなのは…跡部といて楽しいからに決まってるじゃんか」
「…………………」
 悔しさ紛れに小さく言ったら、跡部がちょっと面食らったような顔をしたので。
 神尾の機嫌が少し浮上する。
 でも、その後の沈黙が思ったよりも長引いて。
 神尾も徐々に、いい加減恥ずかしくなってしまった。
「…………………」
 ひどく静かな気配の中、神尾が再び湯に深く浸かりかけていく。
 ちゃぷんと響いた湯の音に交ざって、跡部が言った。
「お前」
「……なに」
「俺がのぼせたら責任もって運べよ」
「………、…出来るわけないだろ…ッ…」
「やれ。バカ」
 お前のせいだろうがと、さらりと毒づいた跡部の表情を。
 探るまでの余裕は、神尾にはなかったのだった。

 周囲には、露天風呂を囲っている笹の葉擦れの音だけがしていた。
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