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How did you feel at your first kiss?
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 学校からの帰り道に待ち合わせた跡部と、駅の構内を通り抜ける際に、ある機械を見かけて神尾は足を止めた。
 思い出した。
「跡部、悪い。ちょっと待って」
「ああ?」
 少し先を歩いていた跡部の制服の裾を握り締めて引っ張る。
 即答された低く呻くような口調ほどはガラの悪くない眼差しが跡部の肩越しに神尾へと流されてくる。
 神尾は空いている手で、目に留まったその機械を指差して、跡部に言った。
「俺、証明写真撮らなきゃいけなかったんだった」
「……普通に喋れ」
「喋ってんじゃん」
 ちょっと付き合ってくれようと跡部の制服の裾を尚も引張ると、思いのほかあっさりと跡部は神尾の後についてきた。
「受験用かよ」
「そ。この間学校でも撮ったんだけど一応予備も用意しておけって」
 受験する学校がいきなり増えるかもしれないし、受験票から剥がれる事もあるかもしれないし、と神尾は一つずつ指を折りながら話し、証明写真の機械と向かい合う。
 駅の地下構内の片隅。
 証明写真を撮る以外に用はない為か、すぐ後方の雑踏とは違ってやけにその場は静かだった。
 神尾は箱型の機械の外側についている鏡に向かって、適当に髪を整えた。
 元々癖のない神尾の髪は寝癖に悩まされる事もない。
 財布から小銭を浚って、さっさとすませてしまおうと神尾がカーテンに手を伸ばした所で、肩を引かれた。
「お前、本当に受験生の自覚あんのかよ」
 呆れ返った跡部の言葉に神尾は背後を振り返ろうとしたが、振り返るまでもなくそのまま引き戻されて再び向き合うことになった鏡の中に。
 跡部の顔も一緒に映りこんだので。
 そのまま前を見据えて神尾は鏡の中に問いかけた。
「へ? なんで?」
 跡部はといえば、それはもううんざりとした表情で嘆息している。
「頭の出来が微妙なんだから格好くらいまともにいけっての」
「し…っつれいな奴だなー…」
「俺様は間違った事なんざこれっぽっちも言ってねえがな」
 うう、と唇を噛んで、鏡に映っている跡部を睨みすえた神尾だったが、跡部は一見軽薄そうな薄笑いを返してきただけだった。
「………………」
 高校に上がってから、毒のある美形に一層磨きのかかった跡部は、後は無言で。
 神尾の髪に長い指先を沈めてきて、髪を流し、毛先を作る。
 簡素な鏡の中、跡部は僅かに細めた目で神尾を見据えながら、神尾の制服の襟元も整える。
 綺麗な指で、そしてふいに、にやりと笑う。
「どうした? 顔赤いぜ?」
「………、…うるせえ…」
 身長差がまた広がってきているので、跡部は上体を屈めるようにして神尾の耳元で囁いてきた。
 ん?と促す吐息は笑み交じりで、神尾は声にならない声で悪態をつくしかない。
 やらしい顔しやがってー!とか。
 やらしい目で見やがってー!とか。
 やらしい触り方しやがってー!とか。
 やらしい、つまりそれだけだった、神尾の言いたい事は。
「いい具合にエロい感じになったんじゃねえの」
 それこそ卑猥な低音で囁いてきた跡部の指先は、どういう意味だと神尾が噛み付くより先に、駄目押しと言わんばかりに親指の腹で神尾の唇を少し強めに擦ってきた。
 痛いような感触の後に、神尾の唇に濃くなった血の気の色がつく。
「ばっ、ばっ、馬鹿か跡部っ!」
「ああ?」
「……、っじゅ、受験用の写真、撮るんだ俺はっ! エロとか言うなっ!」
「そうかよ。それなら早くしろよ、お前。俺様を待たせるなんざ百万年早ぇよ」
 神尾を無造作に証明写真の箱の中に押し込んだ跡部は、それでも手早く椅子の高さを調整し、神尾の手から小銭を奪い、硬貨を入れるなりカーテンを閉めて外に出た。
「いいか。早くしろよ」
 声だけが外から聞こえてきた。
「こ…っ……こういうのはなっ、撮る前にそれなりの気持ちの準備ってもんが…っ……」
 そんな事を言った所で、跡部に通じるわけがない。
 しょうがない。
 相手は暴君だ。
 神尾はそう思い、半ばやけっぱちで姿勢を正した。
 撮影開始のボタンを押す。
 ガラス板の向こう側は黒くて、ガラスに映りこんだ自分を見て、色味など判りもしない筈なのに、うわあやだこれ、と神尾が思った時にはシャッター音だ。
 唇どころではない。
 顔が真赤だ多分。
 神尾は確信した。
「終わったんなら、さっさと出て来い」
 カーテン越しに、外からすぐさま跡部の声がした。
 機械の自動音声は撮り直しの有無を尋ねてくる。
 ああもうっ、と神尾は呻いた。
「こんなんでいい訳ないだろっ……撮り直す!」
 そう叫びながら神尾が再度ボタンを押すと、いきなりカーテンが開いた。
「…っな…、…!」
「………………」
 突然の事に心底驚いた神尾が、逃げられる訳もないのに咄嗟に右肩側の壁に身を引くと、狭い個室の中に強引に割り込んできた跡部が、後ろ手にカーテンを締め、空いた手で神尾の後ろ首を掴んできた。
 大きな手のひらは容易く神尾の後ろ首を鷲掴み、親指の先で器用に神尾の顎を上向きに角度づけて固定する。
「……っ、ン…」
「………………」
「………ん……んっ」
 何の手加減もない濃厚なキスに唇を塞がれ、神尾が大きく目を見開いてしまった時だ。
 機械からのシャッター音がした。
「ン…っ…?…ん?…、…ぇ…っ…?」
「おら、出な」
「…………、…っとべ……っ、おま、…っ」
 強引に腕を掴まれ引っ張り出される。
「信じらんね……ッ! お前、最悪…っ!」
「逃げたけりゃ?」
 好きにしな、とでも言うように駅の雑踏に向かって顎で促してくる跡部に、つい激情のまま乗せられそうになった神尾だったが、その後に続いた嘯く跡部の言葉に、はっと息をのんで走り出すのを思いとどめた。
「最高の証明写真が出来たんじゃねえの?」
「……うあっ…写真…っ!」
 そうだあんなもの残して行けるわけがない。
 まだ機械から出てこない写真に、神尾は慌てふためいた。
 それを跡部は笑って見ている。
「有難く使えよ」
「使えるか馬鹿っ」
「ご利益あるぜ」
 早く出て来いよっと機械に叫び、跡部には馬鹿馬鹿馬鹿っ!と連呼した神尾は息も荒く涙目だ。
 長い長い数分を経て、証明写真が落ちてくる。
「あ、ばかっ、返せっ」
「まあ…それなりに良い出来じゃねーの」
 神尾の数倍手早く、跡部が人差し指と中指で挟み込んで奪った証明写真は、完璧にフレームインしたキスシーンが写っている。
「何でそれ跡部が持ってくんだようっ!」
 指に挟んだ写真をひらひらと肩の上で揺らしながら跡部が歩き出す。
 神尾は一瞬の間の後、ダッシュでその背を追った。
「そんなにこいつを履歴書に貼りたかったか。お前は」
「ちが…、っ…、……んなわけあるか…っ」
「いらねえんなら俺が貰う」
 あまりにも楽しげに、跡部はそんな事を言って、神尾を絶句させる。
 お願いです返して下さいと、今なら頭を下げることも出来ると神尾は思った。
 それは本当に、恥ずかしい代物ですからと、神尾は跡部に奪われた証明写真を恨めしく見据えて思う。
 だってそれは、つまりはそう。
 証明写真だ。
 正真正銘の。
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 欲情した跡部が判るようになった。
 普段から彼が持ち合わせている淫靡な気配よりもっと。
 色濃く変貌した顔を、跡部は神尾を組み敷き、見つめあうさなかに晒す。
 跡部の顔。
 吐く言葉。
 漏れる息。
 そういうものが全部、神尾の前で暴かれるのだ。
 最初のうちは。
 例えば抱かれる時などに、何でいきなり、だとか。
 跡部ばかり平然としていて、これではあまりにも不公平ではないだろうか、とか。
 思っていた神尾だったが、近頃いろいろ判るようになってきたのだ。
 跡部も欲情する。
 それを神尾に向けてくる。
 薄い色の瞳に濡れたような熱が煌き灯る所から始まって。
 まばたきをしなくなる。
 長い睫毛がやけに目につくようになるのは、薄く目を細めるように伏目がちに見つめてくるからだ。
 それもひどい至近距離から。
 生々しい視線で、それこそ神尾の顔からちょっとした所作まで何一つ取りこぼさず見つめてくる。
 見つめたままで身体中まさぐってくる。
 跡部の手は不思議だ。
 指先はこの上なく繊細なのに、手のひらは傍若無人に触って確かめるかのように神尾の四肢のあらゆる所を包み、さすり、辿ってくる。
 子供のような、動物のような。
 率直で、卑猥な手に。
 神尾は身体も顔も撫でられる。
 普段辛辣な言葉を吐くことの多い跡部の唇の中は、とろりとやわらかかった。
 神尾は自分の身体のあちこちでそのことを知っている。
 そのやわらかいものは神尾の殆どの場所を含んだからだ。
 やけに苦しがる顔で跡部が自分を貪る事も。
 甘ったるく喉を鳴らして吐き出してくる事も。
 神尾は今は知っている。
 でも昔は知らなかったそういうものが気づけるようになったからといって、ほんの少しも余裕が生まれたりはしなかったけれど。
 結局は、跡部に翻弄されて、神尾はめちゃくちゃになる。
「………キリねえな」
「……、……ごめ………」
 ベッドの上でしとどに潤んで身体を震わせている神尾は、幾度目かの放埓を体内に含み入れた後も、跡部から与えられ続けるキスに呼気を乱して胸を喘がせている。
 もう跡部は、中にはいないのに。
 だから跡部の呻きは最もで。
 終わっても終わってもおさまりきれない身体が神尾自身怖かった。
 性懲りもなくまた震え慄いている。
 跡部のキスに口腔を濡らして、また。
 まだ。
「てめえじゃねえだろ」
「……え…、…?……」
「…馬鹿が」
「………っひ…、…っ…」
 跡部の両手に頭を包まれて、きつく固定されながら唇が塞がれる。
 神尾の身体に跡部が通る。
 脳まで直結しそうに、一息に。
 凄まじい圧倒的な熱で。
「…ッ……、っ、…、っ…ぅ…」
 喉を震わせる神尾の唇は完全に塞がれて、嬌声も出ない。
 神尾の眦からあふれて零れる涙は、苦しいだけではない。
 跡部は、幾度もその手のひらで拭ってくるけれど。
 思考が届かないような深い所で、絡み合えている自分達が不思議で、怖くて、訳もなく嬉しかった。
 跡部、と口にしたい。
 言葉にしたい。
 好きで、好きで、胸が押しつぶされそうに詰まっているものを、跡部がこうしてまだ与えてくるから。
 懇願してでも呼びたい。
 跡部。
「……っぁ、」
「…、……舌まで、いちいちエロいんだよお前は…」
 低く吐き捨ててくるような悪態と一緒にキスが解かれる。
 跡部に貪られていた舌が、どう動いてしまっていたのか神尾には知る由もないけれど。
 跡部の名前を呼びたくてもがいていただけだから。
「………、とべ……あ、…っ…跡…部…、っ…跡部」
 堰をきって迸り出る言葉に神尾は震え上がる。
 キリがない。
 キリがない。
 本当に。
 そんなことは本当にお互い様だ。
「………ぁぅ、…っ、…」
「………くそったれ、」
 また跡部が悪態をついて、がっつくように動きを早める。
 神尾を強く、きつく、揺さぶってきた跡部の赤裸々な欲望に。
 見合う必死な仕草で、神尾は跡部の背中をかきいだく。
 抱き締め返す。
 キリがない。
 はてがない。
 しょうがない。


 好きすぎて、それが募りすぎて、こんな事でも繰り返さなければもう、どうしようも、ない。
 しっかりと暖房のきいた跡部の家の一室で食べる、今日の昼ご飯は冷たいとうもろこしのスパゲティだった。
 一口食べるなり、それがあまりに美味しかったので、これうまいなあ、またこれ食べたいなあと言った神尾に、跡部は間髪入れずに明日また来ればいいと言った。
「……今さっき顔合わせたばっかで、もう明日の話かよう」
 なんかへんなのと妙な気恥ずかしさで神尾が呟けば、どっちがだと跡部は呆れた顔をした。
「今食ってる最中の物を、また食べたいとか言ってるお前に言われたかねえよ」
「だってうまいし」
「ああ、そうかよ」
「…ぅ、すっげ、むかつく」
「これっぽっちも気にならねえな」
 口の悪い跡部は表情一つ動かさず、神尾に対してそんな事を言いながら、いいから食えと顎で指図してくる。
 本当に高飛車な男だ。
「……なんでそう、いちいちえらそうかなあ、跡部は」
「えらそうじゃなくて実際えらいんだよ、俺様は。お前はつくづく馬鹿だな」
 皮肉気に唇の端を引き上げる跡部は、手にしたフォークを、まるで魔法の道具のように優美に扱っていた。
 あれは本当に普通のフォークなんだろうかと神尾が危ぶむほど。
 自分が手にしているものと本当に同じなのだろうかと不思議に思えるほど。
 跡部の手つきも、操られるフォークも、その動きの全てが滑らかで綺麗だった。
「………………」
 跡部はフォークの先を垂直に皿に宛て、僅かな動きでスパゲティをからめとっては口に運んでいる。
 殆どフォークを動かしていないように見えるのに、きれいに巻きつけられたスパゲティは跡部の口に入っていく。
 つい神尾が食べるのも忘れて見入ってしまうくらい、跡部の所作は指先まで完璧に整っていた。
 神尾の率直な視線に、当然気づく跡部が。
 眉根を寄せて何だと睨みつけてくる。
 神尾はしみじみ呟いた。
「なあ、跡部ー。昔々さ」
「ああ?」
「イタリアのお姫様がフランスの王子様の所にお嫁に行く時に、フォークを持って行ったって話知ってるか?」
「王子の前でスパゲティを少しでもきれいに食べられるようにって話だろ」
「それそれ。…でさ、跡部って、それみたい」
 上品であるけれど豪胆にスパゲティを食べていた跡部がどうしようもなく不機嫌そうにフォークを操る動きを止めた。
「俺がどっちだって」
「イタリアのお姫様」
「それでお前がフランスの王子様かよ」
「まあ、そう。…何? 不満?」
 俺すっごい大事にするのに、お姫様。
 神尾がそう思って跡部を見返すと、跡部はフォークを更に置き、立ち上がった。
「へ…? 跡部…?」
「俺が女だったらそうするって?」
「は? 跡部が女?……それはそれで凄いけどさ」
 すぐに神尾の側までやってきて、腕を組み目を細めて神尾を見下す跡部は、不機嫌極まりなかった。
 あ、ばかだな、と。
 神尾は即座に思った。
 ばかだ、跡部。
「……今みたいにって事だぜ?」
「………………」
 何だかさすがに見つめ返すのはどうにも。
 だから神尾はスパゲティをくるくるとフォークに巻きつけながら言った。
「俺、今、跡部がすっごく大事なんだからな」
「………………」
 視線は感じるけれど、跡部は何も言わない。
 暫くして、神尾は、聞いてしまった。
 見てしまった。
 だから。
 神尾はやけっぱちに怒鳴るしかなくなった。
「……信じてないだろっ」
「いや……お前、顔、火噴きそうだぜ」
「………っ……とべが笑うからだろ…っ」
「何で俺が笑うと赤くなんだよ」
 それはだって、きれいに笑うからだ。
 跡部が、ひどく幸せそうに笑うからだ。
 神尾が言った言葉に、あんなにも不機嫌そうになっていたくせに。
 たった一言、また神尾の言葉でそんな顔をするからだ。
「自分で言っておいて照れてんじゃねえよ。バァカ」
「照れてない!」
「純情王子だな」
「お前はとんだお姫様だぞ!」
 跡部の指先が神尾に伸びてきて、爪の先まで綺麗な指が、するりと神尾の頬を撫でた。
「キスしてやるよ。王子様」
 顔上げな、とうんざりするほど色っぽい声に言われて、神尾は発狂しそうになった。
「スパゲティ食べてんの! 俺はっ!」
「食いながらでも別にキスするのは構わねえだろ」
 構うだろっと怒鳴ろうとした神尾の顎を跡部は指先で軽く支えて。
 神尾の頬に唇を寄せてきた。
 こめかみと。
 額にも。
 甘ったるい軽い触れるだけのキス。
「食ってていいぜ?」
「……くっ、…く…っ…食えるか…っ! こんなんでっ!」
 ちゅ、と可愛らしくも小さな音をたてるのは絶対にわざとだ。



 王子様はもう、全身茹で上がるような気持ちで、行儀の悪いお姫様にされるがままだった。
 何も聞こえないという音が聞こえそうだと思う。
 耳をすませて、一人、深夜のベッドで丸くなる。
 目を閉じる。
 何も見えないという物が見えていそうだと思う。
 静かで、暗くて、でもそう感じているのは自分だけで、本当はこの世界には今も何かの音がしていて、何か様々な物が見えているべきなのかもしれない。
 息を吸う、息を吐く、でも実際に吸えているのか吐けているのか、呼吸を自分はしているのかしているつもりなだけなのか。
 判らないというよりも決められない。
 本当は、どうなのだろう。
 本当は、本当って、何なのだろう。
 ずっとずっと考えているのはそんな事だ。
「………………」
 部屋の扉が開いた気配がする。
 神尾は目を開けた。
 もぐりこんでいた毛布の中から顔を出した。
 暗い部屋、即座に。
 神尾の横に滑り込んでくる冷たい服を纏ったままの男。
「帰って……きた」
「決まってるだろうが」
 低い声。
 背中を抱かれる。
 冷たい服。
 冷たい指。
 外は恐らく恐ろしく寒いのに違いない。
「跡部……」
「お前、何考えてた」
「………………」
「神尾」
 髪を撫でつけられる。
 何かを堪えているような跡部の手つきに神尾は小さく息を吸い込む。
 冷えた、慣れた、香りがする。
 跡部の匂いだ。
「………跡部…」
 帰ってきた、もう一度そう思った。
 神尾は抱き込まれている跡部の喉元に擦り寄るように近づいた。
 神尾の方から近づいた時、初めて跡部の拘束が暴力的に強まった。
「お前のいない何処に帰るって?」
「………………」
「言えよ。神尾」
 苛立っているようで、その実跡部の手は優しすぎる程優しく神尾を抱きこんでいた。
 服を着たままベッドに潜り込んできた冷たい感触の跡部は、自分から暖をとることは出来ないのかと思うと神尾は微かに物悲しくなる。
 こんなにくっついているのに。
「………………」
 もっと暖かくいられて、そんな辛そうな声など出さないで済む場所が、きっと跡部にはある。
 寒いままで、辛いままで、自分とここに居る事ない筈なのに。
「………………」
 涙は、こんなにも距離の近い、跡部の衣服に直接滲み込んでいってしまう。
 身体中縛りつけられるように。
 痛いくらいに。
 跡部の腕の力が強くなって、神尾は小さくしゃくりあげた。
 どうしてまた、もしくはまだ。
 こんな風に不安なのか。
 疑問に思うのが半分。
 どうしてもなにもないと判っているのが半分。
 混乱する神尾を抱き締めてくる跡部の腕の力はますます強まる。
 跡部の世界が広すぎて。
 一緒にいる時間が長くなればなるほど果てしなく広がっていって。
 神尾には今こうして自分のしたいようにしている事が、跡部にとって正しいのかどうか、見渡す事も出来ないでいる。
 そんな神尾の懸念や脅えに跡部は敏感で強暴だ。
「一生こんな風にお前を泣かせるんだとしても、怖がらせるんだとしても、逃がしやしねえよ」
 上着を脱ぎ捨てただけのフォーマルのシャツ、その下の跡部の身体は外気に冷やされたままのように冷たい。
 実家の用事で跡部が呼び出される事が増えて、跡部は何も言わないで、でも神尾には何かが判ってもいた。
 全てを知っているらしい跡部の家の人間に呼び出され、離別を促され、身動きがとれなくなった時に、すでに自分はこんな現実を予兆していたと神尾は思ったのだ。
 同意をした訳ではない。
 でも否定も出来なかった。
 跡部はすぐにその出来事を知り、神尾が初めて見る凶暴さで、獰猛さで、そして怯えで、神尾を雁字搦めにしてきた。
 恐怖心というなら、それを持ったのは跡部の方だった。
「もしお前が逃げても、俺は絶対に逃がしてやらねえからな」
「……跡部」
 逃げたい訳がない。
 怖くても、不安でも、例えば今日のように。
 大晦日、実家からの呼び出しに跡部が出かけて行き、彼の帰りを待っているだけしか出来ないこんな時間があったとしても。
 逃げたい訳がない。
 でも、逃げたい?と跡部に向かって思って聞きたい気持ちも神尾の中には在るのだ。
「………だって、俺といると、跡部は冷たいままだぜ…」
 こんな風に。
 跡部がこの出で立ちで、実家で、誰に何を言われ、何を言い返しているのか。
 それを神尾は知らないでいるけれど。
 本当はもっと、跡部に全てがいいようになっている場所があるのかもしれないのに。
「馬鹿だな。てめえは」
「………………」
 昔っから本当にと跡部が微かに笑った気配がした。
 そのままキスを、された。
「冷たいかよ」
 問われて神尾は息を飲む。
 重なった唇は冷えていた。
 しかし、ひらいて絡ませ合った舌は燃え立つように熱かった。
「冷たいかよ」
 もう一度跡部が言うのに、神尾は首を振った。
 左右に、強く。
 熱い。
 熱かったから、何度も首を振った。
「………………」
 口づけて知る跡部の中の熱さ。
「お前だけだろうが。こう出来るのも、これ知ってんのも」
 俺を中身まで凍らせるなと跡部は言った。
 お前がいるから中身は凍らないんだと跡部は言った。
「跡部……」
「ああ」
「…跡部……跡部……」
 跡部の言葉は年月が立つ毎に神尾に判りやすくなっていった。
 出会った当初は混乱ばかりしていたのに。
 今は跡部の言葉で神尾は解ける。
 でもこんな風に気持ちが甘く苦く押しつぶされてしまえば、言葉には変えられない。
 抱き締められて、涙の上に口付けられて。
 何も言えなくなる。
 本当は唇に直接それが欲しい。
 言葉が捕まえられないから、神尾はねだるように跡部の顎を小さく一度啄ばんだ。
「跡部」
「……、…お前な…」
「好きだよ」
 神尾がその言葉を口にすると、跡部はいつも同じ顔をする。
 いつもの不遜な顔ではなく、神尾だけが知る、神尾の言葉には置き換えられない顔をする。
「好きだ」
「ずっと言ってろ」
 気失うまでずっと、と跡部が嗄れた声で言う。
 荒々しく神尾のパジャマの中に跡部の手のひらが入り、耐えかねたような手のひらが直接神尾の肌を辿る。
 ああ、手のひらも、ゆっくりゆっくり、ちゃんと温かくなっていると、神尾は気づいた。
「本当に、俺でいいのかな…跡部…」
「お前だ」
 お前がいいと、尋ねる訳でもない神尾の呟きに跡部の声音は真摯だ。
「好きだよ…跡部」
「お前以外、いらねえんだよ」
「跡部」
「捨てたら、狂う」
 自分達は、本当に会話をしているのかどうか。
 時々判らなくなるけれど。
 例え意味が判らなかったとしても、相手の言葉が必要な時がある。
「跡部…」
「捨てやがったら、狂ってやる」
「好き」
「いいな」
「跡部」
 抱き締めあう。
 怖くてもいいじゃないかと、ここにきて漸く神尾は思う。
 だって、好きだ。
 ずっと一緒にいるのなら、怖くても、いい。
 不安で、泣いても、こうしている方がずっといい。
 抱き締めあう。
 抱き締めあう。
 静寂という音を聞き、暗闇という色を見て、それは何一つ間違いでないと知るこの身で。



 この不安定で怖い感情こそが、永遠の幸せなのだと知っている自分達だから。
 泊まっていけと当たり前のように跡部は命じるけれど、そうそう外泊が出来るわけがない。
 中学生だぞ俺は。
 神尾は憮然と、跡部に言った事があるのだが。
 返答は、こっちもそうだ馬鹿野郎と全くもってにべもなかった。
 神尾が帰ると答える日は、決まって跡部は不機嫌になる。
「………何でついてくんだよ」
「アア?」
 すっかり日暮れが早くなった。
 暗い道を黙って歩く沈黙の重さに耐えかねて神尾が呟けば、背後からの返答はガラが悪い事この上ない。
 それでも神尾がちらりと振り返った視線の先にいる跡部は、暗闇にあっても華やかで、秀麗な顔も整ったスタイルも嫌って程よく目立つ。
 ファーのついたジャケットなんか、そんな当たり前みたいに着こなすなよなと神尾は内心で思った。
「ついてく訳ねえだろ。何で俺がてめえなんかに」
「………………」
「送ってやってんだろうが。彼氏が直々に、こうやって」
 素っ気無くも冷たい言い方のすぐ後で、今度はそんな風に言ってくるから嫌だ。
 どういう顔をしていいのか判らない。
 神尾は黙って前を向いた。
 歩く足は止めない。
 俯きがちに歩を進める神尾の後ろを跡部は歩いてくる。
 帰ると言った神尾に、いつものように不機嫌になったくせに。
 実際神尾が身支度を始めると、何故か一緒に出てきた跡部だ。
 何にも喋らない。
 ただついてくる。
 視線だけはやけにひしひしと背に感じて神尾はどうにも居たたまれなくなった。
 振り返りたい。
 振り返りたくない。
 走ってしまいたい。
 もっとゆっくり歩きたい。
 頭の中がごちゃごちゃになる。
「神尾」
「………………」
「お前の歩き方、やけにみっともねえな」
「………ッ……誰のせいだと…、…!」
 それなのに、冷淡な声でいきなりそんな言葉を放られて。
 神尾は思わず足を止め、背後の跡部を物凄い勢いで振り返って怒鳴った。
 跡部は胸の前で両腕を組み、唇の端を引き上げて笑っていた。
「ア? 誰のせいだって?」
「……、…っ…まえのせいだよ…!」
「俺は黙ってお前の後ろ歩いてただけだろうがよ」
「ずっとあるみたいなんだよ…!」
「……へえ?」
 目を細めて笑う跡部の表情が、すごくいやらしい顔になった。
 ものすごく綺麗でもあるけれど。
 勢いで怒鳴ってしまった神尾だったが、跡部のその顔つきに、はっと息を飲む。
 ずっとあるみたいだと、言った言葉は咄嗟のもの。
 でも。
 どこに、とか、なにが、とか。
 そういうニュアンスは後からじわじわと神尾の羞恥を侵食してきた。
「ま…俺も似たようなもんだけどな」
「……え?」
 ずっとお前の、と跡部が言った所で神尾が絶叫する。
 場所も何も忘れて喚いた。
 跡部は露骨に眉を顰めた。
「うるせえな」
「おま、…っ…なに、言おうとして…っ!」
「ああ?」
 真っ赤になった神尾を、跡部は心底から呆れながらも、さも面白そうに眺めてくる。
「だから俺もずっとお前の」
「…ッ、…言うな…っ! 最低! 最悪!」
「てめえが聞いておいてその言い草か?」
 そのうえ力づくで神尾を抱き込んできて、キスまでしてきた。
「………、ぅ…、…」
「………………」
「…っ………」
「……今度から、泊まらねえ日はシャワー貸さねえからな」
 肩口の匂いを味わわれている気配に神尾は一層真っ赤になった。
 跡部自身が使っている筈のボディソープの香りが、まるで気に食わないみたいな顔を跡部はしていた。
「ゆくゆく変えてやるよ」
「……え……?」
「お前の帰る場所をだ」
「…………跡部?」
 駄目押しのようなきついキスをされた後に、軽く身体が突き放される。
「せいぜいよろよろと、帰るんだな」
 冴え冴えとした声。
 いつもの、そっけない跡部の口調だ。
 でも後ろ手に軽く手を振られて、それだけの事に神尾の顔は、やはり赤いままでいるしかなかった。
「もー……訳わかんねー…跡部…」
 珍しく泣き言めいた言葉が神尾の唇からもれる。
 身体の奥深くに、今尚残る余韻を植えつけただけでは飽き足らず。
 神尾の唇にもまた、まだキスのさなかのような余情が塗り込められて、神尾はまさしくよろよろと帰途につくしかなくなった。
 部活が終わったら来いとだけ打たれているメールが来た。
 それでも随分とマシになったもんだよなあと、神尾は画面を見てしみじみ思ったものだ。
 差出人は跡部景吾。
 最初の頃の跡部なら、この内容ならば間違いなく本文は、来い、だけだった筈だ。
 こちらの予定などお構いなしに。
 それは今も、多少はそうなのかもしれないが。
 でも今は、尊大な態度は然して変わらないが、ちょっといろいろ違う事もある。
 跡部が変わったのか、神尾が気づくようになったのか。
 最近あんまりこういう些細な事では喧嘩しなくなったなあと神尾は思った。
「三十分待ってろ」
 例えば神尾がこうやって、言われた通りに跡部の家に行くと、人の事を呼びつけたくせに跡部は振り返りもせずにパソコンに向かって何か作業中だったりする。
 これは以前からよくある事。
 それでも今は、何をしているのかは言わないけれど、どれくらい時間がかかるのかは言ってくれるので。
 神尾は慣れた場所に腰を落ち着ける。
 跡部の部屋の派手な赤いソファに寄りかかって、床に直接座り込むのが神尾は好きなのだ。
 以前の神尾は、用事を済ませてから呼べよとよく憤慨していたのだが、親友の伊武が最悪にうんざりとした顔で「少しでも早く会いたいんじゃないの。目離してる間に神尾は何してるか判らないから」と言った事があって、それ以来神尾は腹がたたなくなった。
 こんな風に放置されたままでも。
 そうなのかな、そうだったらいいな、と勝手に思っているので。
「………………」
 今日は三十分かと神尾は考えて、鞄の中から宿題を取り出した。
 別に勉強したい訳ではないのだが、三日前に出たその宿題の提出日は明日なのだ。
 そして然して難しい内容ではないが手付かずのままなのである。
 ちょうどいいからと神尾はソファに寄りかかったまま、ロータイプのガラステーブルの上に教科書とノートを広げた。
 会話のない部屋は静かだ。
 けれど気詰りは全く無かった。
 跡部の指はパソコンのキーボードを叩き、神尾の指はシャープペンをノートの上に走らせている。
 一点集中型と自他共に認める神尾が宿題に没頭して、どれくらい経ったのか。
 よし、終わり、と神尾はシャープペンを置き、勢いのままガバッと顔を上げる。
 ひゅっ、と神尾の喉が鳴った。
「…………ッ…」
「どういうリアクションだよ、てめえ」
 神尾に背を向けて机に向かっていた筈の跡部が、椅子に座ったまま神尾の方を向いていた。
 長い足を片方、膝から折り曲げて。
 椅子の座面に乗せ、右手で抱えている。
 そして直視していた。
 神尾を。
「び、…びっくりした…!」
 うおー、と神尾はバクバクしている胸に片手を当てる。
 何で跡部が自分を見てるんだと驚いた神尾だったが、徐々にこの状況に気づく。
 どうやら先に作業が終わっていたらしい跡部は、宿題をしていた自分を待っていたらしい。
 おとなしく。
 いかにも不機嫌そうな顔をしているが、でもおとなしく。
「………あげく笑いやがるか」
「や、ごめん。すいません。お待たせ」
 跡部の面持ちは整いすぎていて、凄むと凶悪に冷徹になるのだが、神尾は神妙に謝りながらも笑ってしまった。
 一層機嫌も悪く、跡部は神尾が寄りかかっているソファに、どっかりと座った。
 尚も笑い続ける神尾の背中を足で軽く蹴ってきて、跡部はそのまま広げた両足の間に置いた神尾を軽々とソファの上に引き上げてきた。
「お?」
 ひょい、と持ち上げられるまま、神尾はソファに座り、背後の跡部に寄りかからされるようにして抱き込まれる。
 身体の前、腹部の辺りに跡部の両腕が交差している。
「ちょ、…苦しいんだけど!」
「これで中身ちゃんと詰まってんのかよ」
「は? 中身?」
「内蔵だ内臓」
「げ、…何の話して…」
 腹部を固い手のひらに撫でられ、いったい何の話だと神尾は頬を引き攣らせた。
「片手楽に回るんじゃねーの」
「…は?……跡部っ、…そこ、すっげえ擽ったいんだけど…っ」
 しまいには笑い出した神尾だったが、自分の背中越しに伝わってくる振動のような跡部の声音が、ひどく気持ちよくもあった。
「なあ、跡部」
「何だ」
 跡部の両腕で、がっちりと腹部をホールドされている為、視線でしか振り返れない神尾が。
 それでも懸命に見つめた先で、跡部は長い睫毛を伏せるようにして神尾を見返してきていた。
「なんか歌うたって」
 無類の音楽好きである神尾は、無性に今、跡部のこの声が歌を歌うのが聞きたくなってしまった。
「そうだなー……あ、氷帝の校歌歌って。校歌聞いてみたい!」
「ああ? 校歌だ?」
「うん。氷帝の校歌」
「氷帝以外知らねえよ」
 馬鹿かと跡部は言い捨てて。
 軽い言い合いを交わして。
 辛辣で素っ気無い口調の割に、跡部はいかにも面倒くさそうに校歌を歌い出した。
 神尾を抱き込んだまま、何故か片手で神尾の目元を覆って。 
 視界が閉ざされた分、神尾の聴覚は敏感に跡部の歌声を拾った。
 婀娜めいた声は歌っていてもその艶が褪せる事はなかった。
 耳元近くで歌われる歌。
 跡部の声。
 凭れかかっている跡部から直接響いてくる声音をもっとよく聞きたくて、神尾は一層跡部の胸元に背中を預けた。
 終わってしまいそうになる歌に、二番もとねだったら耳元を軽く噛まれた後にまた歌声が耳に届く。
「なんか校歌も独特だなー氷帝…」
 耳に与えられた刺激の正体を感覚だけで追って気づいた神尾は、瞬時顔に血が上ったのを、誤魔化すようにして呟く。
 跡部が歌の合間に作詞者と作曲者の名を短く口にした。
 それは二人とも、神尾もよく知っている著名人の名前だった。
「すっげえ…」
「卒業生なんでな」
「へえ………ところでさ。あのさ、跡部」
「何だ」
「お前、なんでずうっと俺の目塞いでんだよぅ?」
 歌の合間の会話が、会話の合間の歌のようになっているが、神尾の目元は依然跡部に塞がれたままだ。
「じろじろ見られてると歌いにくいんだよ。馬鹿」
「見られるのくらい、お前慣れてんだろ」
「お前みたいな目で見る奴は滅多にいねえよ」
「……俺、なんかヤバイのか…?!」
 咄嗟に神尾は自分の目元に手を当てた。
 しかし実際手に触れるのは跡部の手な訳なのだが。
 また神尾の耳元に、直接吹き込まれるような小さな歌声が聞こえてくる。
「………跡部、ボイトレとかしてる?」
「馬鹿か。する訳ねえだろ」
「……人のこと馬鹿馬鹿言いすぎだと思うぜ」
「仕方ねえだろ。どうしようもなく馬鹿なんだから」
 また歌が止んで、些細な言い合いになって。
 校歌の二番はなかなか終わらない。
「じゃあさ…地声で、そうなのか?」
「地声でこうだよ」
 そして歌。
 跡部の声に、歌に、絡めとられて。
 神尾は、くたくたと跡部の腕の中にまた深く落ちていく。
「跡部ってよぅ……出来ないこととか…ないわけ」
「お前以外は思いのままだ」
 熱を帯びたような声がして、しかしすぐにはその意味が判らなかった。
 神尾は暫く沈黙してから、愕然と叫んだ。
「え………俺?! 何で!」
「………………」
「俺、べつにぜんぜん難しくなんかないぜ!」
「……ああそうかい」
「なんだよその呆れ果ててますーって言い方は!」
 神尾は両手で、自分の目元を覆う跡部の右手をそこから引き剥がした。
 勢いこんで背後を振り仰ぐと、ひどく窮屈な体勢で唇を塞がれた。
「……ん…」
「………………」
「…………っ…、…ぅ」
 跡部の手のひらが神尾の片頬を包んでくる。
 器官が捩じれているような体勢でのキスなので、すぐに呼吸が詰まるのを、もどかしく思ってしまう自分に神尾は赤くなった。
 キスはかなり強引だったが、唇が離れてから、労るように神尾の喉元に宛がわれてきた跡部の手のひらは温かかった。
 その後は、神尾は跡部に背後から抱き込まれたまま。
 歌も言い争いも何もない。
 抱き締められているだけだ。
「…………な…跡部…いつまでこの体勢?」
 そっと神尾が尋ねたのは、退屈した訳でも、嫌な訳でも、無論なく。
 神尾の方から離れるのは無理なほどに、あまりに心地が良かったからだ。
 それで問いかけた神尾に、跡部はほんの少しも腕の力を緩めないままに。
「さあな。俺様が飽きたら放してやるよ」
 そう呟くように言った。
 それから、こうも言った。
「たかだか十分程度の話だろうが」
「………………」
 神尾は、跡部が三十分待てと言った時から、時計を見ていて。
 こうやってソファに引き上げられた時にも、時計を見ていて。
 だから。
 跡部が校歌を口ずさんだあたりから、もうすでに三十分ばかりが経過している事を、知っている。
 知っているけれど。
 言わないけれども。
 しちゃったんだなあと神尾はぼんやり考えた。
 最中しがみついていたのと同じ力で、終わって落ちてきた跡部を抱きとめた。
 濡れた、熱い、固い背中を抱きしめた。
 跡部がゆっくりと繋がっていた箇所を解いてきて。
 その間きつい口付けに唇を塞がれていて。
 引き出されていく感触にきつく目を閉ざす。
 しきりに跡部の手のひらに頬を拭われたので、神尾は自分が散々に泣いている事をその所作で知ることになった。
 唇が離れて、繋がっていた箇所も解けた。
 長い事ものすごい状態にさせられていたせいか、何だか股関節の辺りが少しずれたような、おかしな感じがする。
 腰の辺りも重だるい。
 少し身じろぐだけで、体内で今日初めて神尾が知った感触が生まれては消えていく。
 跡部の通った経路。
 燻る火種が小さく爆ぜているかのような余韻をずっと灯している。
 首筋、喉の辺りが微かにひりついて、神尾はその箇所に自分の指先を伸ばしたのだが、神尾が触れるより先に跡部がそこに唇を寄せてきた。
 正確には喰らいつかれた。
 神尾が覚えたひりつきの、それよりもっときつい感触。
 原因はこれかと神尾は気づいた。
 痛むほどに、強く固執されて。
 喉元に散らされていく、恐らく幾つもあるであろう痕のせいだ。
 目を閉じて、小さく息を飲んで。
 喉を吸われる生々しい感触に。
 自分を組み敷く男に。
 ヴァンパイヤかお前はと、神尾は頭の中だけで唱えた。
 息が上がる。
 くらくらする。
 本当に血でも吸われているみたいだ。
「泊まっていくだろうな」
「…んで…凄むんだよ…」
 神尾の喉元に食いつくようなキスを繰り返してきた跡部が、漸く顔を上げたかと思ったら、言ったのはそんな言葉だ。
 神尾は思わず苦笑いしてしまった。
 初めてしたっていうのに。
 何で終わった後の方が、こんな。
 余裕もないような凶暴な顔をするのか。
 跡部は濡れた唇を舌でも舐めながら、神尾を強く見据えてくる。
 卑猥な事この上ない。
「無理矢理足腰立たなくさせてもいいんだぜ?」
「……だ、から…どうして跡部はそういうこと言うんだよ」
 もう多分足腰立たないとは神尾も言わない。
 それにしたって。
「………………」
 跡部は片眉を器用に跳ね上げて尊大な目つきで神尾を見下ろした。
「水取ってくるからな。逃げんじゃねえぞ」
「……ど、…やって逃げんだよ…こんなんで…っ」
 神尾が真っ赤になって叫ぶと、漸く跡部は笑った。 
「いいな。待ってろよ」
「……だから…ー…」
 何言っても駄目か。
 それともまさか本気で逃げるとか何とか、心配していたりするのだろうか。
「………………」
 ベッドから降りた跡部が、床に落としてあったシャツを羽織っている。
 振り返ってきて、神尾を流し見た上で見下ろして。
「俺の飲み残りならやるよ」
 いらねえよ、ばーか、と。
 神尾は小さく呟いた。
 聞こえていたのかいないのか、跡部は応えずに部屋を出て行った。
 神尾はベッドの上で丸くなる。
「………………」
 見送った跡部の背中。
 いろんな意味でドキドキした。
 ベッドの上で小さく小さくなって。
 血液が煮えているような何ともいえない熱さにまみれながら、神尾はひとしきり跡部の事を考えた。
 そして、ふと気づいた事があった。
「………ひょっとして…」
 もしかして。
「跡部…機嫌いいのかな…」
 実際口に出して呟いてみると、妙に気恥ずかしくなった。
 初めてした。
 だから?と神尾は指先を手のひらに握りこむ。 
 指の先まで、じんわり甘く幸せな感じが詰まっている。
 神尾は仰向けになって、だるい腕を持ち上げた。
 高い天井を飾る照明に左手を翳す。
「………………」
 指の縁と爪先がほんのり赤みを帯びている。
「何やってんだ」
「ん……?」
 戻ってきた跡部が神尾のその手を取った。
「………………」
 びっくりするほど優しい仕草だった。
「んーと……なんてゆーか……予期せぬ幸運だなーって思ってた」
 最中は、神尾には何が何だか判らない事の方が多かったのだけれど。
 正直、結構しんどい思いもしたのだけれど。
 でも今、こんなにもふわふわと神尾は甘く幸せだ。
「転がってきたのはお前だろ」
 ひとりごちた跡部の言葉に目を瞠る。
「俺?……じゃあ、俺って跡部の幸運?」
「さあな」
「はあ? さあなって何だよ、さあなって!」
 嘯くように肩を竦めた跡部がベッドに片膝で乗り上げてくる。
 神尾の手はとったままだ。
 じっと跡部を見上げた神尾は、跡部が持って来たミネラルウォーターのキャップを口で開ける様を見て、凶暴のようで粗野に見えない不思議な男だと思っていた。
「………………」
 食いちぎるように噛んだキャップ。
 手にした親指で回転させてキャップを外し、ミネラルウォーターを喉を反らして飲んだ跡部が、ボトルをベッドヘッドに置き、神尾の顔の両脇に手をついて屈んでくる。
 水を含んだ唇が下りてくる。
 重なる。
「………………」
 重なったキスはひんやりしていた。
 神尾の口腔に入ってきた水は、互いの唇をくぐってぬるまっていた。
 それがやわらかく喉に流れてくる。
「………飲み残りって、…こういうの言うんだっけ…?」
 これは単に口移しなんじゃと神尾は赤くなっているのを眺めるようにしながら、跡部は数回それを繰り返した。
 あんな泣くから水分欠乏するんだとか言いながら。
 何度も何度も水を含んでキスをしてきた。
「……ん………」
「………気持ち良さそうなツラしてんじゃねえよ」
 今のがいいみたいな顔すんなと跡部に凄まれたけれど。
 そんな比べるみたいなこと言われても神尾には判らない。
 全部全部跡部は跡部だ。
「……跡部…」
 もう水はなく。
 ただキスだけを交わすさなかに神尾が呼べば、色素の薄い綺麗で怖い男が目線で問い返してくる。
「あのよぅ……」
「…何だ」
「今日…泊めてくんない…?」
 冗談じゃなく本当に立てない。
 普通こんなになるものなのかどうか、神尾は知らないけれど。
 だからこそおずおずと言ったというのに、何故か跡部は目つき悪く凄んだうえに、神尾の耳を引っ張ってきた。
「…っ…た…!……痛い…! なにすんだよっ」
「何を聞いてやがんだこの耳は。お飾りか!」
 この期に及んでまだ帰る気でいやがったのかと跡部が怒鳴るので。
 だから泊めてって言ってんじゃんと神尾は必死に応酬した。
「完璧に足腰立たなくしてやる」
「…っ…もうなってんだけどっ!……うわ…、…っ…跡部…っ」
 本気で眼の据わった跡部に神尾は本気で慌てた。
 ベッドの上でじたばたと暴れては押さえつけられ、キスされて、また喉元に食いつかれ、吸われて。
「……ぁ…とべ…ー……」
「………泣くんじゃねえよ。このくらいで」
「…じゃなくて……じゃなくてさ、…跡部」
「……何だ」
 髪を撫でられる。
 そういえば跡部が入ってくる間もずっと。
 こうされていた事を神尾は思い出した。
 何が言いたいのか判らなくなって、言いかけていた言葉も忘れて、でも今神尾の思考いっぱいを埋めた感情は。
「………………」
 神尾は両手を伸ばした。
 跡部の両頬を支え、少し跡部を引き寄せて、少し自分から仰のいて。
 きれいな色をした唇にキスをした。
 神尾の手のひらが温かくなった。
「好きだよ。跡部」
 じっと見つめて、神尾は告げた。
 跡部は何も喋らなくなった。
 ただ神尾を見つめて、その両腕で。
 神尾の背がベッドから浮き上がる程に強く、抱き竦めてくる。
 強く。
 きつく。
「跡部……」
 苦しくて嬉しくて愛しくておかしい。
「跡部」
 何も喋らなくなった男の、しかし何より雄弁な抱擁に。
 神尾は雁字搦めにさせられて、その拘束の甘さにほっと息をついた。
 この週末、跡部の家に泊まりに来た神尾は、もっか跡部の目の前でおにぎりを握っている。
 日曜の朝の事だ。
 俺それしかつくれねえもんと、数日前の電話口で何故か威張って言っていた神尾は、しかし現在跡部が思っていたよりも危なげない手つきで白米を握っていく。
 跡部はその様子をじっと見ていた。
 電話で話したのは金曜日の事。
 お前何でもいいから日曜のメシ作れと言った跡部に。
 神尾は、じゃあおにぎり作るぜ、と返してきたのだ。
 天気悪いから非常食っぽくてぴったりじゃんなどと言いながら、ひどい雨の日曜日、こうしてせっせと神尾は跡部の家の広いキッチンでおにぎりを作っていく。
「……ちいせえ手」
「別に小さくねえよ」
「ちいせえよ。こいつだって小さいだろうが」
 立っている神尾の隣に、スツールを引っ張って座っている跡部は。
 神尾の手と、次々並べられていくおにぎりとを、交互に見やった。
 きちんと三角形をしているけれど、とがった角のないおにぎりは小さめで、丁寧だ。
「おい。違うのも握れよ」
「えー。塩むすびが一番うまいんだぜ」
「そりゃ病人食だろ」
「はあ? 病人食はお粥だよ。なんで塩むすびが病人食だよ」
 ヘンな奴、と眉根を寄せる神尾は、跡部の指摘通り、塩むすびしか作らない。
 どんどん数が増えていくのに、全部塩だ。
「おい。食ってやるからこれも握れ」
「へえ……跡部、明太子好きなんだ」
「別に好きじゃねえ」
 たまたま家にあったんだと跡部は憮然と言って。
 桐箱に入っている明太子を神尾に突き出した。
「明太子好きならさー」
「人の話聞け、てめえは。別に好きじゃねえって言ってんだろうが」
「今度さ、持ってきてやるよ。うまいのあんだよ。橘さんがくれたんだ。九州から取り寄せてるんだって」
「……ぜってー食わねえからな」
「なんでー! うまいって言ってるだろ」
 跡部は最初、神尾のことを短気で子供っぽい奴だと思った。
 その見極めはあながち間違ってはいなかったけれど、それだけではなかった。
 短気なようで、おおらかだ。
 子供っぽいようで、面倒見がいい。
「この明太子もすっごいうまそうなー」
 この作業の何がそんなに楽しいのか、にこにこ笑いながら、跡部の要望通りに明太子のおにぎりも作って並べていく。
 神尾の手が握る小さめのサイズの食べ物。
 神尾は、性格が大雑把なようでいて、案外それだけとも限らないらしい。
 おにぎりの大きさがどれも殆ど同じなのだ。
「おい。神尾」
「ん?」
「腹減った」
「…………へ…?」
 跡部が憮然と言った言葉に、神尾が話しながらも一度も止めなかった手をぴたりと止めた。
「何だ、そのツラ」
「だって…跡部が…そういうこと言うの初めて聞いた」
「…………………」
 もしかしてうまそう?と神尾の表情いっぱいに笑顔が浮かぶ。
 だから。
 いったい何がそんなに。
 楽しいんだ、嬉しいんだと、跡部は嘆息する。
 神尾のことは、跡部には、いつも判らないことだらけだ。
 だがそれが、不快と思った事は一度もなかった。
 それもまた跡部には不思議で。
「出来たぜー、跡部」
 大きな竹笊に、ぎっしりと。
 並べられたおにぎり。
 神尾は手を洗いながら、スツールに座る事で視線の角度が逆転した跡部を見下ろしてまた笑う。
「おにぎりが、こうやっていっぱいあるとわくわくするよな!」
「しねえよ」
「しろよ!」
「うまそうだとは思うがな」
 跡部のそんな言葉で。
 それだけの返事で。
 神尾がまた笑みを深め、笑顔を全開にするから。
 楽しくて、嬉しくて、どうしようもないという顔をするから。
「神尾。部屋行くぞ」
「部屋で食べんのか?」
 外は雨。
 大雨だ。
 そしてそれこそ山のように竹笊にはおにぎり。
 そう、まさに非常食。
「腹減ったらこれ食ってろ」
 跡部はスツールから立ち上がる。
 竹笊を片手に持って先に立つと、神尾がすぐに後をついてきた。
「食ってろって、作ったの俺だぜ」
「俺も食う」
 そうすぐ付け加え、ちらりと背後を流し見れば、跡部の視線の先で。
 神尾が面映そうな、はにかむ顔をしているから。
 跡部も微かに笑った。
 部屋につき、跡部は言った。
「外、雨だろ」
「うん……すごい雨だな」
 窓ガラスをしぶかせている水滴。
「メシはここだ」
「……うん?」
 竹笊をテーブルの上に置く。
「だからこれで今日は一日中」
 そして神尾の腕を引き、もろとも。
「……、…っ……あ…とべ、?」
 もろとも、ベッドへ。
 なだれこむ。
 そうして跡部は、神尾の両手首をシーツに押さえつけ、組み敷いて。
「一日中」
「………っ…」
 それこそ楽しくてどうしようもない事を隠さぬ笑みで神尾を見下ろし、神尾の顔を真っ赤にさせた。
「…、……跡…部…?」
 小さな小さな声を吸い取った。
 浅く重ねた唇の合間で囁いた。
「悪かねえだろ」
「………跡部…、」
 繰り返せば、神尾は赤い顔で、頷いた。


 悪くないだろうこんな休日。
 絵に描いたような夏だ。
「おー!すっげ眩しい!」
 眩しいと言っては笑い、蝉が鳴いてると言っては走って行き、肌がジリジリ痛いと言っては一身にその日差しを浴びている。
「暑いなー…!冷たいアイス食いたい。スイカ食いたい。プールで泳ぎたい。でもやっぱテニスかなー!」
「よくまあ次から次へと思い付くもんだな…」
 夏休みも半分以上過ぎた。
 昨日から跡部の家に泊まっていた神尾は、跡部と共に外に出るなりこのはしゃぎっぷりだ。
「な、跡部。夏ってやりたいこといっぱいあるよな!」
「お前は春も夏も秋も冬も同じ事言ってやがるよ」
「そっか?……そっか!」
 同じ言葉を全く異なった感情で放った神尾を、跡部は怪訝なまなざしで一瞥する。
「何だよ」
 神尾は最初不思議そうな顔をして、一瞬後あまりにも鮮やかに、笑顔になったのだ。
 跡部が怪訝に問い返すと、神尾は一層明るく笑みを浮かべた。
「そっかー! 俺、跡部と、春も夏も秋も冬も一緒にいたんだな」
「………………」
 それがどうしてそこまでの笑顔になって、神尾が口にする言葉なのか。
 神尾の行動は跡部には判らない事が多くて、だから余計に跡部は神尾から視線が外せない。
 現に、夏の強すぎる日差しを受けて満面の笑みをたたえている神尾は、しかし次の瞬間には。
「来年の夏もこうしてるかな…」
 いきなりふっと声のトーンを落とすので、跡部は舌打ちした。
 まるいちいさな後頭部を片手で無造作にはたく。
「い…っ……」
 潤みやすい目は、もう涙目にも見えた。
 自分で口にした言葉のせいか、跡部の暴挙のせいかは不明だ。
 それにしたって本当に次から次へと目まぐるしい事この上ない。
 いきなり噛み付かんばかりの勢いで神尾は喚いた。
「お前、今すっごい本気で叩いただろっ!」
「間違いの修正は、間違ったその場でが基本だ」
 今度は本気で怒鳴って喚いてこの有様だ。
「なんなんだそれ! ペット相手じゃねえんだかんな!」
「ペットの方がよっぽど覚えがいいぜ」
「…、なんだよそれ!」
 真夏の光をいっぱいに浴びて、満面の笑みを浮かべていた顔を。
 陰らせて見せたのが悪い。
 これまでの事を振り返ってあんな笑顔を見せるのなら、未来を思ってそれ以上の笑顔をみせるのが当然だ。
 跡部はそう思った。
 だから不機嫌になった。
 しかしすぐに、今度はぴたりと完全に黙ってしまった神尾の、今考えている事も概ね理解して、跡部は嘆息する。
「……ったく」
 跡部に叩かれた後頭部に手をあてがったままの神尾は、どうせまた、ろくでもない事を考えているに違いなかった。
 跡部は屈みこみ、下からすくいあげるようにして神尾の唇に掠める程度のキスをした。
「……ゃ」
「嫌じゃねぇよ。バァカ」
 こんなにも丁寧にしてしまうキスを跡部は神尾で知って、その他にも跡部にとって神尾で初めて知る事の多さに、大概分が悪いと思っているのだ。
 ただでさえ自分の方が。
 それなのに。
「ペットよりお前のがいいに決まってんだろ」
 お前をペット扱いする気もねえよ、と神尾にも判るように跡部は言ったのだが、当の
本人が正しく理解していなくて参る。
 こっちの方が伝わるかと思って、跡部がわざと音のするキスを神尾の唇に繰り返していると、いきなり恥ずかしくなってきたのか突如神尾が暴れ出した。
 それを唇の端に刻んだ笑みで跡部は簡単にあしらって、内心は正直おかしくて堪らなくなる。
「何だよ。夏はやりたいこといっぱいあるんじゃねえの?」
 夏はキスしたくねえの?と跡部がひそめた声で唆すようにからかえば。
 神尾はそれは盛大に赤くなって動きが止まったので。
 跡部はこの暑さの中酔狂だと思いながらも、すぐさま自分の両腕の中に神尾を抱きこんだのだった。
 気に障って、気になって、気に入った。
 規則正しくも目まぐるしい、そういう流れ。
「跡部ー、なあ、この映画行かね?」
「ああ?」
「跡部と行きたい!」
 連れていってくれと、ねだられた事は散々にある。
 でも。
 こういう真っ直ぐなねだられ方は初めてだった。
「映画ねえ……」
 気のない素振りになるのは、映画に興味がないというより、それよりもっと見ていたいものが目の前にあるからだ。
「跡部こういうのあんまり観ないか?」
 跡部の顔を覗き込んでくるかのように、神尾が近づいてくる。
 小さい。
 頭も顔も何もかも小さくて。
 それでいてまるで危なっかしい感じがしないのが不思議だ。
 自室の赤いソファに身を沈めて座っている跡部の無言をどう受け取ったのか、神尾は近づいたその距離のまま言った。
「じゃあさ、お試しに観に行こうぜ。面白かったら新境地だぜ」
「最悪につまらなかったらどうするんだ」
 わざと捻くれた返答を跡部がしても、神尾はにこっと邪気なく笑った。
「跡部の中で、人生最悪につまらない映画リストの更新が出来るじゃん」
 人生最悪につまらない映画。
 そんなものは跡部の中になかった。
 人生最高に楽しい映画も。
 人生最強に哀しい映画も。
 跡部の中には何もなかった。
「な? 行こうぜ」
「………………」
 ソファに深く背中を預けたまま、跡部は腕を伸ばした。
 すぐ目の前に立って上半身を屈めていた神尾の後ろ首を掴むのは容易かった。
 映画に誘う言葉の唇を浅く塞ぐ。
 下から、喉を反らせて。
 舌触りのいい神尾の唇を軽く啄ばむようにしていると、神尾は瞬く間に赤い顔になり、やけに悲しげに呟いた。
「………そんなに映画行きたくないのかよぅ…」
「………………」
 跡部は映画に行きたくないのではなくて、この場を離れたくないのだと。
 神尾は気付かないらしい。
 跡部のする事に抗いはしないものの、触れ合う唇の隙間から零すような恨み言に跡部は微苦笑する。
「言ってねえだろ」
「……ん…、……ぇ…?…」
 神尾の下唇を跡部が軽く噛むと、幼い響きで神尾が問い返してくる。
「行ってやってもいい」
「………いってなくて、いってやってもいい…?」
 うん?と眉根を寄せて、跡部の言葉を漢字変換しているらしい神尾の表情は、跡部の思考を一際緩ませた。
「……このバカ」
 笑いながら。
 好きだと思う時に決まってバカという言葉が口から出る。
 何だこの思考回路はと跡部は自身を呆れた。
 こんな壊れ方は、これまでただの一度だってしていない筈だ。
 いつでも、きちんと、跡部は感情と思考と言葉が繋がっていた筈なのに。
 神尾が絡むとそれが乱れる。
 人生最悪につまらない映画。
 人生最高に楽しい映画。
 人生最強に哀しい映画。
 そんなものが出来てしまいそうになる。
「神尾」
 手のひらの中に包みこんでしまえるほどの小さな感触。
 手を伸ばし、頬を包み、尊大に見上げながら。
 全面降伏に似た跡部の心境に神尾は永遠に気付かないかもしれない。
「行ってやるよ」
「マジで!……っし!」
 片手でのガッツポーズと、弾けた笑顔と。
「言ってやるよ」
 人生最悪につまらない映画も、人生最高に楽しい映画も、人生最強に哀しい映画も。
 一緒に観ていたのはお前だと。
 ゆくゆくは、言ってやる。
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