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How did you feel at your first kiss?
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 横柄だ横暴だ自分勝手だ我儘だ何様だと散々に人の事を言ってくれるが、それはお互い様ではないだろうかと跡部は苦い顔で神尾を見て思う。
 日曜日。
 跡部は朝から自室にいて、神尾は午前中部活に行っていて。
 跡部が終わり次第来いと神尾を家に呼び、不動峰のジャージ姿で神尾は跡部の部屋に入ってきた。
 やってくるなり手首をとって引き寄せると、抗うでもなく神尾は跡部の胸元に収まる。
 しかし、跡部が口づけを落とす手前で。
 じっと。
「………………」
 跡部を直視してきた神尾に、目ぐらいつぶれと跡部が眉根を寄せた隙のことだ。
 今まさに唇と唇が触れ合おうとしているキスの雰囲気など、呆気なく払拭する言い様で神尾は言ったのだ。
「跡部。どっかいこうか」
「…あ?」
 この状況で言い出す言葉だとは到底思えない。
 跡部が凄むような声を出しても神尾はけろりとしていて、キスの寸前のこの体勢で、勝手に首を傾げている。
「どこがいいかな。そうだなー……、ん。そうだ。海にしよ。海。泳ぐのにはまだ早いけど、ぼーっとしに行こう。弁当持ってこ」
「神尾」
「弁当…うーん…俺つくったことないけど、うん、たぶんどうにかなるぜ」
「おい」
「買うんじゃ雰囲気出ないからなあ。がんばるぜ、俺。あ、台所貸してくれな。跡部」
「てめえ」
 人の話を全く聞かないこの身勝手さは何だ。
 跡部は唖然となりつつ、元来鋭い目つきを尚更にきつくして神尾を睨みつける。
 どうしてこの状況でそういう話になるのか。
 跡部には全く持って理解不能だ。
 キスはどこにいったのだ。
 一瞬キスされるのが嫌なのかと思ってもみたが、半ば跡部に覆い被されているようなこの状態で、取りあえず神尾はにこにこと笑っている。
 怒鳴るのは簡単だが、そうするには拍子抜けする程、神尾の笑顔に邪気はない。
 むしろ神尾は、やけに甘い目で、跡部をじっと見つめてきている。
 跡部の胸元に両方の手のひらを当てて、そのしぐさは拒むというより甘えているように見えなくもない。
「海行こ?」
「…ああ?」
「約束をしておくと、駄目じゃん? 予定にしちゃったり、目的があったりすると、跡部またいろいろ考えるじゃん」
「お前が言ってる事の意味がさっぱりわかんねえよ」
 呆れながらも困惑するなんて真似、跡部は神尾相手以外にした事がない。
 皆目見当のつかないことを言い出す神尾に、不思議と腹はたたないが、どうしてせっかくこうして会ったばかりで外に出かけて行かないといけないのか、それが跡部にはまるで理解できなかった。
 ついでに言えば、約束をする事や目的がある事、跡部が考えるという事が何故駄目なのかそちらも甚だ意味が不明だ。
 神尾は跡部の胸元で小さく笑う。
「だからさー。気分転換?」
「あ?」
「気晴らしっていうか、ぼーっとしに行こうぜってこと」
 な?と軽く首を傾ける神尾は跡部を真面目に見上げてくる。
「跡部、今、結構忙しいんだろ?」
「………………」
「そういうの、跡部はちゃんと片付けられるだろうけどさ。でも、俺はちょっと心配だし…」
 最後、語尾が少し小さくなって。
 神尾は僅かに俯いて。
 照れくさくなってきたのか、神尾は何事かぼそぼそと俯いて言っている。
「………………」
 それで跡部は、意識しない笑みを唇に刻む。
 ここまでくれば、そういう事かと気づく。
 神尾の思考。
 まさか神尾が感じ取る程疲れた顔をしていたとは思っていないが、それでも見透かされたのは事実だ。
 ゆっくり休めと言うのではなく、こういう誘い方をするのも神尾らしいと跡部は思う。
 ここ最近、緻密なスケジュールで、考えて、動いて。
 突発な気晴らしなどした覚えがない。
「おい」
 跡部は神尾の顎に手をやって、上を向かせた。
「お前と会うのは、別にスケジュールだなんて思ってねえからな?」
「………ぅ…?…」
 びっくりしたような顔をした後、神尾は、はにかむように笑った。
 嬉しそうな顔をすると、途端に子供っぽくなる表情に、跡部は顔を近づけていく。
「………………」
 ちいさく音をたてて唇を啄んで、跡部は至近距離で言った。
「…海じゃ出来ねえだろ?」
「………た…たぶん」
「多分かよ」
 跡部は笑った。
 機嫌よく、声にして、笑って。
 横柄でも、横暴でも、自分勝手でも、我儘でも、何様でも。
 構わないし、構わないだろう?と思う。
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 きらきらするのは何でなんだろうと、神尾は待ち合わせ場所のオープンカフェを目前にして足を止めた。
 今日は薄曇りで、太陽は雲に隠れてしまっている。
 明け方まで雨が降っていたから、むしろどんよりとした感じの天気なのに。
 それなのに。
 テラス席に座っている制服姿の跡部の髪は、透けるようにきらきらしている。
 綺麗な顔をしている事は勿論知っているけれど、遠目に見ても、尚綺麗だ。
 ぼんやりしていて、それでも跡部はきらきらとしている。
「………………」
 今更ながらに、ちょっととんでもない存在感だよなあと思いながら、神尾は跡部に近づいていった。
 神尾が声をかけるより先に跡部は気付いて、軽く顎で指し示すように、向かいの席を無言で促してくる。
 横柄な態度の筈なのに、跡部がすると粗野な印象はまるでない。
 オープンカフェは待ち合わせには便利だけど目立つよなあと内心ひるんだ神尾だったが、跡部といればどこにいたって目立つのだからと思い直して、向かいの席に座った。
 すぐにオーダーをとりにきたギャルソンに神尾がアイスミルクを頼むと、跡部が滑らかな低音で、洋梨とチョコレートのカンパーニュサンドとリンゴとカマンベールのサンドと言った。
「え?」
「腹へってんだろうが」
 そう言って跡部が口をつけたカップの中身は多分ブラックのコーヒーだ。
 ふわりといい香りがした。
 神尾は言われた言葉に、うん、と素直に頷いて。
 下がった目線が、カップを持っていない跡部の左手に止まる。
 テーブルの上にある跡部の手は、しっかりと骨を感じさせる強さはあるけれど、本当にびっくりするくらい指先までしなやかに整っている。
 その手に。
「え。跡部、それどうしたんだ?」
 利き腕ではない方だけれど、親指の第一関節脇に、随分と痛々しい切り傷がある。
 深く切ったのだろう。
 生々しいようなそれは、跡部の手にあるから、その傷ひとつがやけに目につく。
「昼間、書類で切った」
「え。跡部がか」
「俺がだよ」
「え」
 跡部がカップをテーブルに置き、眉を顰めて神尾を見据えてくる。
「何だ、お前さっきから」
「え、だって、跡部?」
「俺が切っちゃ悪いのか」
 悪くはないけどびっくりだ。
 神尾は内心で思う。
 そういう事を跡部はしないような気がするのだ。
 ちょっとしたミスだとか、怪我だとか。
 些細な不注意というものに、無縁の男のように思えてならない。
 普通であればそんな奴いないと思う所だが、何せ跡部なのだ。
「……ど…したんだ? 何か、調子悪いとか…?」
 神尾が思わず心配になって尋ねると、跡部は少し細めた目で、器用に神尾を見下ろして。
 薄い溜息を零してきた。
「跡部?」
「お前がなあ…」
 更に溜息の混ざった呟きに、神尾は恐る恐る跡部を見つめ返す。
 自分が、何だろう。
 ここで何故自分が出てくるのか、神尾にはよく判らない。
「…俺? 何かした?」
「ちらつくんだよ」
「………………」
 言われて。
 神尾は目を瞠った。
 俺が、ちらつく。
「えと、…えっと…?」
「………………」
 神尾は首を傾げる。
 跡部は黙って見据えてくる。
 自分がちらついて跡部が指を切る。
 よく判らない。
「……えー…っと、…ごめん」
 神尾が考えるより先にそう言うと、跡部が不機嫌な顔になった。
「謝れっつったか」
「や、言ってないけどさ…」
 何かあまりいい意味ではないような。
 そう思って神尾は困っているのだが、跡部は別にそれは悪かねえよと言ってきた。
 悪くないのか、と面食らう神尾に跡部はとんでもない事を言ってきた。
「お前が四六時中頭ん中ちらつく」
「………………」
 どこか憮然と吐き捨ててさえ、跡部の秀麗な面立ちは欠片も崩れない。
 またカップに手をやってコーヒーを飲む跡部は、落ち着いているようでもあるのに、和んでいるのとは無縁な強い眼差しを長い睫毛で少しだけけぶらせて神尾に向けてくる。
 何で恥ずかしくなってきたんだろうと、神尾は自分で自分の事が判らなくなり、うろうろと視線を彷徨わせてしまった。
「あ! そうだ、俺、絆創膏持ってる」
 急に思い立って、神尾は鞄の中を探った。
 いつでも持ち歩いている訳ではないけれど、学校帰りならば鞄に入れてあるのを思い出したのだ。
 昼間切ったと言っていたけれど、別に今から貼っておいても損はないだろう。
 跡部の事だからまさかこういうものまで高級品仕様なのかなあと思いながらも、神尾は極々普通の絆創膏を一枚取り出した。
 切ったのは左手だから巻くのも簡単だろうと神尾は思って、はい、とそれを跡部に差し出すより先に。
 跡部が左手を伸ばしてきた。
 恐ろしく優美な仕草で伸ばされてきた手。
 手の甲を上にして。
 何だろう、このどこかで見たことのあるシチュエーションはと神尾は呆気にとられた。
 跡部は唇の端を引き上げて笑う。
 仕草といい、表情といい、王様というか、お姫様?と神尾は溜息をつく。
「……自分で出来るだろ」
 一応言うだけは言ったが、跡部は素知らぬ顔だった。
 手も差し伸べてきたままだ。
「………………」
 ううう、と呻いた神尾は結局、絆創膏を包む薄紙を破いた。
 この俺様めと内心で愚痴を言いつつ、神尾は跡部の左手をとった。
 親指に絆創膏を巻いてやる。
 人にする事に慣れていないから、慎重なぐらいに真面目に巻いていた所に、跡部がまた余計な事を言ってくる。
「そのうち本物、はめさせてやるよ」
「……は…?」
「薬指にな」
 横柄に笑う。
 でもそれが綺麗で、本当に綺麗で、神尾は絶句した。
 お待たせしました、とギャルソンの声が割って入ってくるまで神尾はそのまま呆けていて。
 色とりどりのカンパーニュサンドを並べられても、空腹はどこへやらだ。
 あたためられたバケットの上でチョコレートがとけかける匂いが刺激したのは、神尾の麻痺した空腹ではなく、機嫌よく微笑む跡部に対しての、どうしようもない、どうしようもない甘い気持ちだ。
 一昨日はすごく雨が降った。
 昨日は汗ばむほど暖かかった。
 今日は晴天だが身震いするほど冷たい強風が吹き付けてくる。
 春先の気候だけでも、そんな風に充分めまぐるしいのだから。
 学校帰りの待ち合わせ場所の公園で、久しぶりに顔を合わせるなり思いっきり不機嫌な顔をするのは止めて欲しい。
 神尾はそう思った。
 不機嫌な顔をしてきた相手は、跡部だ。
 神尾の目の前で凄む跡部の形相は、はっきり言って凄まじい。
 おっかない。
 憤怒の表情ではない。
 跡部は本気で怒ると秀麗な顔を怜悧に冷たくきつくする。
 むしろ無表情の領域で。
 そういえば自分の親友もこういう怒り方をするよなと神尾は思った。
 綺麗な顔の人間は怒り方も同じなのだろうか。
 ほとんど毎日顔を合わせる親友は、いつ見ても綺麗な顔をしているが、半月ぶりに会った跡部の顔立ちの整い方というのはまた破格だ。
「てめえ」
「………へ?」
 ぼんやりそんな事を考えていたせいか、神尾は跡部の唸り声で、はっと我に返る。
「んな間の抜けた言葉じゃなくて、俺に他に何か言う事ねえのか」
 腕組みして壁に寄り掛かっている跡部は、神尾を見下ろして更に冷たく鋭い視線を引き絞り、あらゆるものを凍りつかせるような声を放つ。
 脅えるわけではないが、怖い…と神尾は硬直した。
 ここでうっかりと迂闊な言葉など零したら、いったいどうなるのか。
 判らない。
 跡部の顔をじっと上目に見ながら、神尾はどうしたものかと思い悩む。
 何か自分はしただろうかと。
 どうしてこんな状況になっているのだろうかと。
 考えるが、だいたい、何か言う事と言われても、何ひとつ思い当たらない。
 困る。
 判らない。
 だから腹も立つ。
 次第に眉根が寄っていく神尾を跡部はどう見たのか、顎を軽く上げて見下す視線を一層鋭利に光らせて、低い声で吐き捨ててくる。
「何で来た」
 何でって。
 神尾はそれにはさすがに唖然とした。
 約束していたではないか。
 言ったのは跡部だ。
 無論神尾も同意した。
 約束の時間、約束の場所に来た神尾を、無言の怒りで迎えた跡部にこそ、神尾は何でと聞きたいくらいだ。
 それでも咄嗟に、日にちや時間間違えてないよな?と神尾は一度は我が身を振り返ってから、意見した。
「…どういう意味だよ、それ」
「………………」
「跡部、なに怒ってんの…?」
 神尾だって不機嫌に口にした言葉は、何故か少々力なく響いてしまった。
 言ってしまってからそれに気づいて、神尾はごまかすように慌てて跡部から視線を外す。
 なんか。
 なんかこれでは、傷ついたというのが、あからさまだ。
 実際そうなのだけれど。
 会いたくて、跡部に、それで神尾は来たのに跡部は何だかとても怒っていて。
 あからさまに不機嫌で。
 自分が何かしただろうかと神尾も考えるのだけれど、だめだ、頭がうまく働かない。
 跡部と対峙した瞬間から、だめだ、いろいろな事が判らない。
 跡部は何も言わないから、神尾は不条理だと思いながらも繰り返し理由を当たるが、判らない。
 神尾の視界は自身の足元しか見えていないから、跡部の表情までは判らないけれど。
 多分変わらず冷たいような眼のままだろう。
 跡部は。
「………………」
 跡部とは本当によく喧嘩もするけれど。
 だいたいは些細なきっかけがあってのことで、あまりこういう、訳のわからない諍いを起こした事はなかっただけに神尾はどんどんと何も言えなくなっていく。
 約束しておいて、来たら来たで、何で来たなどと言われるのは甚だ理不尽だし不条理だと思うのだけれど。
 それを責める言葉も紡げない。
 何を、どう言えばいいのか判らなくなる。
「じゃ…帰る」
「言ってねえだろ、そんな事」
 跡部の即答に神尾は却って腹が立った。
「言ってるだろ!」
「来たからには帰さねえよ」
 帰さないなどと言いながら、漸く目線が合った跡部の表情には甘さのかけらもなくて。
 やっぱり不機嫌丸出しで。
 腕を組んだまま、神尾を睨んでくるだけだ。
「……いい。帰る」
「いいわけねえだろ」
「いいから帰る」
「よくねえって言ってんだろうがっ」
 いきなり正面きって怒鳴られて、神尾は思わずびくりと身体を竦ませる。
 跡部が僅かに目を見開いたのが判った。
「神尾」
「……訳わかんね、よ……跡部、」
 整いすぎる顔での本気の不機嫌は拒絶にも似て、実際拒絶なのかもしれないと思ったらもう居たたまれなくて。
 神尾が一歩後ずさると、跡部が右腕を伸ばしてきて、神尾の左の二の腕を掴んできた。
 その手の力は強かった。
「……バァカ」
「………………」
 何で泣くんだと呆れた風に言われて。
 泣いてないと即座に言い返したまではよかったが。
 そのあと思いもしなかった優しい仕種で跡部の指先が神尾の目元を擦るから。
 結局それでびっくりして、ぽろっと零れ落ちてしまったのだ。
「神尾」
「……っ、…」
 跡部が悪い。
 みんなみんな跡部が悪い。
 そう言ってやりたくて言えなかったのは、口を開いたら本当に声にして泣いてしまうかもしれないと思ったからだ。
 ぽつんと一滴落ちた涙が呼び水にならないとも限らない。
 唇を引き結んで俯いた神尾は、ぐいっと腕を引かれて、次の瞬間。
 視界は跡部の胸元でいっぱいになった。
「予定のキャンセルくらい普通にしろっつってんだよ」
「……え?」
 思いもしないような言葉を、真意の掴めない声で告げられて、神尾はうろたえる。
 何故キャンセルなどしなくてはならないのかと神尾が目線を上目に引き上げると、跡部は溜息をつきながら神尾を見下ろしてきていた。
 もう、冷たくない、と神尾は咄嗟に思った。
 跡部は相変わらず不機嫌そうではあるが、溜息交じりに再び神尾を抱き寄せてきた。
「なに…?」
「うるせえ」
「跡部?」
 どうして?と尚神尾が聞くと。
 跡部は片腕で神尾を一度きつく抱き寄せてから、嘆息する。
 神尾の頭上に跡部の吐息が当たった。
「どうしてじゃねえよ。具合悪かったんだろうが」
「具合?……って、……え?」
「だいたいそういう事を、お前の口からじゃなく聞かなきゃなんねえのが、一番むかつくんだよ」
「跡部ー…?」
 なんか。
 なんか。
 事が随分大袈裟な気がする。
 神尾はひそやかに焦った。
 跡部の腕の中、辛うじて判ってきた概要に面食らいながらも、うわあ、と声にならない声を洩らす。
 確かに神尾はここ数日の天候不順で、少々風邪っぽかったりもした。
 調子も出なくて、リズムに乗り切れないこともあった。
 でも、だからといって、ここまで大袈裟な話ではない。
「あのさ、跡部」
「てめえが言ってこなかったってのが一番腹立つんだよ。判ってんのか神尾」
「や、だから、それはさ…」
 どうやら本当に、それが理由でここまで不機嫌らしい跡部を前に、神尾は次第に、困ったような擽ったいような不思議な気分に陥った。
 心配。
 されているのだろうか、つまり。
 そう考えると、ひどく哀しかった気持ちはたちどころに霧散して、まるで拗ねているかのように悪態をつきまくっている跡部に対して、神尾は、うわあ、と繰り返し言わずにはいられなくなる。
 しどろもどろに神尾は言った。
「何で来たとか…言うなよな……俺、今日跡部と会えるから、これまで頑張って、大人しくしてたのによう…」
「……アァ?」
「薬も飲んだし、夜はいっぱい寝て、テニスだって我慢して、セーブして。ちゃんと治して来たのに、何で文句言われてるわけ? 俺」
 ひどくねえ?と名残程度の涙目で跡部の腕の中から上目に睨んでやれば。
 珍しく跡部は言葉に詰まったかのように沈黙した。
 掴まれていた二の腕から、するりと跡部の指が外れていく。
 さみしい、と肌に感じた気持ちをそのまま表情に乗せてしまった神尾は、今度は背中を回った跡部の片腕に肩から抱き込まれて。
 また密着して。
「帰さねえって言ってるだろうが」
 素っ気ないようでいて充分に優しくもある跡部の声にほっとする。
「……んだよ、跡部のバカ」
「てめえにバカなんざ言われたくねえな」
「…バカ」
 バカ、バーカ、と急激に子供じみていく言葉にも、跡部は怒るでもなく、神尾の背中を軽く叩いてくれる。
 神尾が跡部の胸元に顔を埋めて繰り返している間、ずっと。
 そしてとうとうしまいには、ちょっと笑いを含んでいるような溜息を神尾の耳元にくれて。
「今日は否定しないでおいてやるよ」
「えらそうに言うな、バカ。なんだよ、跡部なんか」
「…会いたかったんだろ?」
「………ぅ、……」
 ひどく楽しげに跡部は囁いてくる。
「まるっきり落ち着きのないお前が、余計具合悪くしたかって周りが思うくらい、おとなしくしてたんだろ?」
「……、……」
「神尾」
「そ、……だよ、っ…悪いか…っ」
「いいや?」
 実際この上なく機嫌良さそうに跡部は笑った。
「悪かねえな」
「なに笑ってんだよ…っ」
 本気で暴れてもびくともしない。
 神尾は結局跡部の腕の中で多少身じろいでいるだけだ。
「笑ってんじゃ、ねーよっ」
「そういう事なら笑うだろ」
「跡部、!」
「は、……マジで笑える」
 屈託なく笑い声を響かせて、跡部は神尾の肩を抱いて歩き出そうとする。
 意固地になるつもりはなかったが、踏み出す一歩のきっかけをくれるような軽いキスで唇を掠られて、場所を考えれば喚いて拒むのが当然のはずなのに。
 神尾は跡部の唇が離れていく僅かな隙で、ちいさく問いかけるだけだった。
「跡部」
「何だよ」
「……誰が、言ってたんだ?」
「あぁ?」
「俺来る前、誰かから聞いた…? 深司とか…?……ぁ、…ひょっとして橘さ」
「人の機嫌の良さに水さすんじゃねえ」
「……ぇ…?」
 間近に見る跡部の表情が一瞬で不機嫌にきつくなって。
 唇を、盗むように今度は強く貪られて。
 膝がぶれ、腰を抱かれる。
「……、…っ…ふ…」
「………少しは学習しろ、このバカ…」
 なんだか久しぶりに会う跡部の機嫌は、悪くなったり良くなったり目まぐるしい。
 今度は舌打ち交じりに強引に引っ張っていかれる先は。
 跡部の家、もっと正確に言えば、跡部の家の、寝室へだろう。
 いつでも余裕のある態度の跡部は、時折こんな風に判りやすく不機嫌になる。
 荒っぽく、余裕などは欠片もないようになって、神尾の手を握る。
 広い歩幅で歩く。
 こういう跡部の気配に、神尾は時々あっさりと呑まれてしまいたくなる。
「跡部…」
 跡部は神尾に背を向けたまま片手で取り出した携帯電話で車を呼んでいる。
 それでも神尾の声は届いているようで、手短な言葉で車の手配をすると跡部は携帯を切って神尾を振り返ってきた。
「家ついてからお前に拒否権ねえからな」
「……べつに、しない…」
「明日から寝込むんじゃねえぞ」
「………なに、する気なんだよう…」
 跡部が荒れた春の風のように、勢いのある甘く婀娜めいた笑みを神尾に差し向ける。
 そんな季節の変わり目、春とか嵐とか。
 面と向かって間近にすると、未だに神尾は、ぼーっとなる事がある。
 跡部の顔。
 知り合って間もない頃の方が気にならなかった。
 整った造作だとは思っていたけれど、見惚れるとか、そういった事は一切なかったのに。
 跡部と付き合いだして、一緒にいるようになって、好きだと思う気持ちが増えていく度に、神尾にとって跡部の表情の逐一が意味を変えた。
 緊張めいた照れで、うっかり浚われるようにみとれたり、身動きがとれなくなることも度々あって、最初のうち跡部はそんな神尾を随分と盛大にからかってくれたものだが。
 そして今も尚、時折そんな状況に陥る神尾に対して近頃の跡部は。
 ただからかう事よりこちらの方が得策とでもいいたいのか、神尾を背後から抱きこんでくるのが常になった。
 しょうがねえなとでも言いたげに目を細めて、跡部が神尾に手を伸ばす。
 くるりと身を返され、背中側からぴったりと抱き寄せられて。
 座り込む跡部の腕に包まれて、神尾はぴったりと跡部と密着する。
 その体勢も大概甘ったるい。
 だが跡部の顔を直視しなくて済む分、神尾には幾らか気が楽だ。
 そうしたまま、顔は見合わせないで、くっついて、喋る。
「赤ちゃんって、こーんなちっちゃいのなー。マジで可愛かったんだぜ!」
 今もその体勢だ。
 神尾は両手の人差し指を立てて赤ん坊のサイズを再現して見せながら、跡部の腕の中だ。
 今年最初のキスの後に。
 目を開けた神尾の視界いっぱいに広がった跡部の顔に、神尾が新年早々やられてしまった為だ。
 新年といっても、年が明けて数日が過ぎている。
 でも今日が、神尾が跡部に会った今年最初の日だ。
 キスの直後の跡部の顔は、本当に、ひどく綺麗だった。
「それで、姉ちゃんに、甥っ子か姪っ子早く作ってくれって、俺言ってんのにさあ」
 正月の三箇日はのんびりというよりは、何だかばたばたと忙しかった。
 それでも神尾は久しく会っていなかった親戚が連れてきた小さな小さな赤ん坊が可愛くて、その時の話を夢中になって跡部にしている。
「欲しがってばっかいないで自分で作れとか言うんだぜ」
 うちの姉ちゃん嫁いきたくねえのかなあ?と神尾は頭上を振り仰ぐように顔を上げた。
 跡部の表情が、真逆の角度でちらりと見えて。
 ん?と、その時になって漸く神尾は怪訝に思った。
「…なに不機嫌になってんの?」
 実にわかりやすく跡部は憮然としていた。
 そういえばこの体勢になってから、跡部は一言も言葉を発していないことにも神尾は気づいた。
「跡部、赤ちゃんきらい?」
 そう尋ねると、跡部はますます不機嫌そうな顔をした。
 子供みたいだ、と神尾はふいに思う。
 跡部に対してそんな事を思ったのは初めての事だ。
「跡部?」
「…つくるんだろ。てめえが赤ん坊」
 不機嫌というか。
 不貞腐れている。
 何故だろう。
「え…跡部、赤ちゃんつくれんの…?」
 神尾は思わず身体を捩って跡部の腹部を見る。
「何で俺様が孕むんだよ!」
「だって俺じゃ無理だし」
「俺だって孕めるか!」
「や、…跡部なら何でもかんでもどうにかしちゃうのかなーと…」
 じいっと跡部の腹部を見据えていると、神尾の両手首が跡部の手にとられ、そのまま床に押し倒される。
「……てめえは新年から碌な話しねえな」
「俺なんかへんなこと言った?」
 何で怒るんだろうとさっぱり理由が判らずにいる神尾は、噛みつかれるようなキスを跡部からされてびっくりする。
 さっきのキスは、本当にふんわりとやわらかくて、それとは全く違うやり方だったからだ。
「最悪だ、てめえは」
「……跡部…ー…?」
 どうしてこういう事になっているのか判らないながらも、神尾は今、自分を強引に押さえつけて拘束してきている跡部の腕の力が。
 何だか、恐る恐る神尾が差し出した自身の人差し指をぎゅうぎゅう握りしめてきた赤ん坊の小さな小さな手の力を思い起こさせて胸が詰まる。
「跡部」
「………………」
 神尾の肩口に跡部は顔を埋めてしまった。
 肌に触れる跡部の髪に、神尾は頬擦りするようにした。
 両手がきかないので手では撫でてやれない。
「俺、今年も跡部が好きだぜ」
「うるせえ」
 拗ねちゃったか。
 跡部はこういう時にかわいいよな、と神尾がひっそり思う。
 最初のキスの後、跡部の顔にみとれて盛大に照れた神尾を跡部は呆れていたけれど。
 跡部だってさあ、と考えながら神尾はもうあまり強くは戒められていなかった跡部の手から自分の両手を取り返す。
 硬い跡部の背中を、神尾は自身の両手で気持ちのまま抱きしめた。
 力、いっぱいで。
「跡部。好き」
「……くそ、泣かすぞ、てめえ」
 本気で凄まれたけれど、これっぽっちも怖くない。
 神尾は跡部にしがみつくように力をこめて、笑って、頷いた。
「いいよ」
 泣かせても。
 なにしても。
 神尾は首を左右に振った。
 束になって散らばる髪の先から滴が弾け飛ぶ。
「犬か、お前は」
 呆れた口調で全裸の跡部は同じ格好をしている神尾の身体を大きなタオルで包み込む。
 抱き込むようにして身体を軽く拭いてやると、神尾はそれこそ小動物のように目を閉じていた。
 おとなしいのは疲れているからだろう。
 神尾は跡部の家の浴室にある、別室になっているミストサウナが好きなようで、シャワーや入浴の最後はいつも最後にそこに行く。
 跡部はその隙にタオルを持って扉前で神尾を待つのが常だ。
 中の長椅子で身体を横たえられるのが楽なのだろうけれど、抱き尽した後の身体には、ミストサウナとはいえ負担がかかりすぎないとも言えない。
 今日など特に怪しいものだ。
 神尾の全身を大判のそのタオルで身ぐるみ包んで、跡部はそのまま神尾を抱き上げた。
「……ぅ…わ…、…」
 流石にいきなりの体制に驚いたらしく、神尾が声を上げて、咄嗟に跡部の肩と首に手を伸ばしてくる。
「な、……なに……ちょ…っと、…跡部」
「うるせえよ、じっとしてな」
「歩ける、…っ…、歩けるってば、自分でっ」
「そうかよ」
 答えながら、しかし下ろす気などさらさらない跡部は、神尾を抱きかかえたまま浴室を出る。
 肌触りのいい大きなタオルの中で神尾はしばらく身じろいでいたが、歩きながらのこの状態で暴れるのは得策ではないと察したのかじきにおとなしくなった。
 真っ白なタオルの中でうっすらと赤くなっているのを見下ろし跡部は唇の端を緩める。
 実際の身長差以上に、こうして抱きかかえていると神尾は小さく見える。
 腕の中に抱き込めば、まるでそうした人間だけが知る事の出来る、どこか特別で秘密めいた甘さがある不思議な存在になる。
「跡部ー……」
「アァ?」
「身体、ちゃんと拭けよぅ」
「拭いてやるよ」
 当たり前だろうがと、跡部はタオルに包んだままの神尾をソファの上に下ろした。
 徐々に冬の気配が見え始めている時期だ。
 部屋は適度に暖めてある。
 タオルから神尾の頭だけ抜き出して、身体の線を辿るよう改めてタオル越しに神尾の肌を撫でれば、そうじゃなくて!と神尾は怒鳴った。
 間近からの大声に眉根を寄せながらも手は止めず、腰から上半身を屈みこませた跡部は神尾を睨み据えた。
「うるせえな、てめえは本当に」
「俺じゃなくて跡部だってば!」
「何だよ」
「何だよじゃなくて! 身体、ちゃんと拭けってば」
「してるだろ。それもすこぶる丁寧にな」
 肩から二の腕を撫で下ろして、肘を包んで、手首から手の甲、指先まで全部。
 布地越しに跡部は手のひらで包み擦る。
 丁寧に触れてやると自身の手のひらも熱っぽく疼く感触を跡部は神尾で知った。
「俺じゃないってば、跡部だよ!」
 相変わらず神尾は赤い顔のまま反抗的で。
 跡部は、人の楽しみを邪魔するんじゃねえと内心だけで思いながら、神尾のうるさい唇を軽くキスで塞いだ。
 騒いでいた神尾はぴたりと口を噤み、唇が離れてから数秒後、面白いくらいに赤くなった。
 含み笑いを零しながら跡部は床に膝をつく。
 神尾の脚も片方ずつタオルで包むように足先まで拭いていく。
「も…、……っ…」
 神尾の羞恥は限界のようで、もう怒鳴ることも出来ず言葉を詰まらせている。
 硬直している様を跡部は脚を拭いてやりながら上目に見やった。
 神尾のそれはすぐにまたその唇を塞いでやりたくなるような表情で。
 でも少々今は遠くて。
「おい」
「……ぇ?」
 キスを寄こせと、立てた人差し指の動きだけで神尾を促すと、神尾は珍しく察しよく、これまで以上にまた赤くなった。
 ミストサウナでのぼせたかと些か跡部も不安になる程だ。
「跡部…ー…」
「早くしてくれ」
 完璧に命令するよりもこれくらいの言い方をする方が神尾にはいいのだ。
 跡部がもう一度指先の仕草だけで促すと、神尾がおずおずと身体を屈めてきた。
 ソファに座ったまま伸ばしてきた両腕は。
 てっきり跡部の肩に乗る程度だと跡部は思っていたのだが。
「……おい」
 神尾はその両腕を跡部の首に回して、ぎゅっとしがみつきながら倒れこんできた。
 こうなると互いの間のタオル一枚の厚みが、やけにもどかしく感じるような体制だ。
「バカ、てめえ」
 キスをしろと言って何故この体制なのか。
 凄んだ跡部に更に神尾はしがみついてきて言った。
「………跡部が言う事聞かないからだろ」
「言う事聞かねえのはお前だろうが。俺はキスしろっつったんだよ」
 抱きつけとは言ってねえと返しながらも、跡部は神尾の薄い背中を抱き返した。
 せっかく頭の天辺から爪先まで丹精込めて拭いてやったのにと跡部は溜息をつく。
 跡部の溜息をどう受け止めたのか、神尾は少し早口に言い募ってきた。
「ちゃんと身体拭けよな。エスカレーターって言ってもさ、跡部、受験生な訳だし」
 風邪とかひいたらどうすんだようと情けない声が首筋になすりつけられて、跡部は更に深い溜息を吐いた。
「俺様が自己管理をしくじる訳ねえだろうが」
「風呂上りに身体濡れたまんまでいて、何の説得力もねーよう……」
 かわいくない事を言っているのがかわいいのだから、どうしようもない。
 跡部は呆れを隠さず、神尾の背中を軽く手の平で叩いた。
「……ったく…おら、起きな。こんな格好でいる方がやばいだろ」
 馬鹿なお前でも風邪ひく、と耳元近くに囁いてやると、神尾は唸るように喉を鳴らして、顎を引き、僅かに身体を離して上目に跡部を睨んできた。
「俺は大丈夫なんだよ!」
「何だよその根拠の全くない自信だけの口調は」
 この距離で怒鳴るんじゃねえよと眉根を寄せた跡部だったが、続く神尾の返事に呆気にとられてしまう。
「俺、この間インフルエンザの予防接種受けたから大丈夫なの!」
 確か。
 注射が大層嫌いじゃなかっただろうか、こいつ。
 跡部はそう思って、呆気にとられた。
 前に神尾がそんな事を言っていた。
 つまり注射が怖い訳かと交ぜっ返した跡部に対して、怖いんじゃなくて嫌いなんだとやけに神尾がむきになって反論していた事を跡部はしっかり覚えている。
 あの時の様子では、嫌いというよりも、やはり本当は怖いのだろう。
 神尾は相当注射が駄目なようだと跡部は判断した。
「予防接種って、どこで」
 だからこそ疑問に思って跡部は神尾に問いかける。
 身体の上に神尾を乗せたまま。
「え? ちっさい時から言ってる家の近くの病院だけど…」
「強制命令でも出たのか」
 は?と神尾が怪訝そうに小首を傾げた。
「家族にか部活でかって意味だ」
「別に誰からも言われてないぜ、そんなこと」
「自主的にかよ」
「そうだけど……それが何だよ?」
 予防接種だ。
 具合が悪くなってからの話ではない。
 それを神尾が自ら受けに行くという事は正直驚きだった。
 以前、注射を巡るその言い合いの中で。
 注射は嫌いだから打たないと言い切る神尾に、高熱でも出せば打たざるを得ないだろうと跡部が言ったのに対して、神尾はまたも断言で返してきた。
 曰く、高熱なんか出したことないしこれからも出さないし、という事で。
 子供っぽい断言で言い切っていた。
 その神尾が自ら予防接種など打たれに行ったのはやはりどうしたって不思議で、跡部が黙って考え込んでいると、神尾は真顔で跡部の顔を見下ろしてきた。
 じっと見据えてくる眼。
 そして。
「跡部がインフルエンザとかかかっちゃったら大変だろ」
 言われた言葉。
「………ああ?」
「だから、俺がもしインフルエンザとかになっちゃって、跡部にそれうつしたりとかしたら、駄目だろ? だから予防接種受けてあんの。だから俺は大丈夫なの」
 判ったかよ?と神尾は跡部の身体の上で、まるで威張るように笑った。
「…………てめえは……」
「うわ、…っ」
 呻くように歯ぎしりして。
 跡部は腹筋で身体を起こし、無理矢理神尾を床へ押さえつけた。
「な…に?……なんだよ、跡部」
「……何だよじゃねえ。それはこっちの科白だ」
「跡部、…ちょっと…ほんとに風邪ひくぜ?」
 気遣わしげに見つめられるので、跡部はやけっぱちに完全降伏だ。
 神尾の両手首を床に押さえつけながら、華奢な首筋と肩口に顔を伏せる。
 こんな生き物見た事ねえ。
 そう直接肌になすりつけるように告げると、からかわれているとでも思ったのか神尾はじたばた暴れたが、跡部は構わずそのままでいた。
 少しばかり性急に唇を塞げば、本気でびっくりしている表情が視界を埋めた。
「熱出そうだ……ったく…」
 キスの終りに甘ったるい本音を悪態にすりかえて放てば案の定。
 慌てふためいた神尾は、跡部の深まり色濃くなってしまった執着と恋情には、まるで気づいていなかった。
 神尾もいろいろ考えたのだ。
 日がな一日考え続けてみたのだけれど、答えはなかなか出てこなかった。
 そうこうしているうちに、その日にちはどんどん差し迫ってきてしまい、神尾は、これはもう自分の頭の中だけでは駄目だと思い、腹をくくった。
 出来ることなら、聞きたくはなかったのだけれど。
「…跡部」
 もう本人に頼るしかなかった。
「アア?」
 何だよ、と尊大な眼で神尾を見下ろしてくる跡部は、ソファに深く腰掛けている。
 神尾はそんな跡部の足元で、同じソファによりかかるようにしながら床に座っていた。
 跡部の部屋での、お互いの定位置みたいなものだ。
 神尾は肩越しに跡部を見上げた。
 ちょっと他に類をみない美形は、何故かガラが悪くてそのくせノーブルだ。
「誕生日、なんか…ある?」
「どういう聞き方だよ」
 意味が判らねえと眉根を寄せる跡部の誕生日は今週の土曜日だ。
 あと三日。
 もうタイムリミットも差し迫っている。
 神尾は弱りきって跡部の目を見返した。
「や、…だってよう……誕生日だしさ、なにかしたいんだけど、欲しいものとか言われても、多分それって、俺に買えるようなものじゃないだろ?」
 跡部の家も、身につけているものも、とにかく何もかもが、桁違いのものばかりだ。
「それなら、…物とか駄目なら、何かして欲しい事…とかになるんだろうけど…」
 跡部は一瞬目を瞠り、それから小さく笑った。
「なら、そう言えよ」
「……っ、…跡部何言い出すか判んないからおっかないじゃんか!」
 いろいろな意味でおっかない。
 神尾は真剣にそう思って叫んだ。
 優しい所もあるけれど、元来跡部はいじめっ子体質だ。
 それを言ったら、おまえは完璧ないじめられっ子体質だと笑うような相手だ。
 何でもするなんて言ったら下僕扱いでこき使われるか、羞恥心をいたぶられるかに違いない。
 迂闊に何でもしますなんて言えっこない。
 でも、それでは跡部の誕生日プレゼントをめぐる神尾の思考はそこで途絶えてしまう。
 他に何かいい方法はないかと考えに考えたが、どうにもならなくなってしまったのだ。
「神尾」
「…え?」
「お前、ここの所、ずっとそれ考えてたのかよ?」
「……うん…」
「へえ」
 跡部の笑みが変わった。
 からかうようなものから、何だか優しい感じに。
 そしてひとりごちるように言った。
「そういう事なら許してやってもいいか」
「何?」
「お前が上の空で、むかついてたんでな」
「……ぁ」
 だから最初の呼びかけに、跡部は不遜な声や顔を見せたのだろうか。
 上の空と言われれば確かにそうだったかもしれない。
 神尾が、悪かったなあと思っていると、頭上に跡部の掌が乗った。
「…跡部?」
「それなら、買わなくていい俺の欲しいものをくれ」
「……え?」
「お前に寄こせと俺は言うが、絶対に怖がらせない」
 だからそれにしろと跡部は言った。
 神尾は言われた言葉を頭の中で反芻したのだけれど。
 それ、というのが何なのかが判らない。
「それ……って、なに?」
 跡部の手はいつの間にか神尾の頭を撫でるような動きを見せていて、それにどこか気恥ずかしくなりながら、神尾は小声で尋ねた。
 跡部の返事はすぐにかえってきたけれど、それは答えではなかった。
「当日教えてやるよ」
「………………」
 跡部が甘く笑うので。
 神尾はそれ以上は聞けぬまま。
 こうなってしまえばもう、頷くしかなくなった。





 そして土曜日、跡部の誕生日だ。
 神尾が跡部の元を訪れると、いつものソファにつれていかれ、いつもとは逆の位置に座らされた。
 神尾はソファに。
 そして跡部は神尾の足元に膝をついた。
 普段とは異なり跡部を見下ろす体制に神尾がぎこちなく身じろいでいると、跡部の両手が伸ばされてきた。
 両頬を跡部の手に包まれ、顔を固定されてしまう。
 欲しいのはお前だけだ、と跡部は言った。
 いきなりだったので、いったい何を追われているのか、神尾にはすぐには判らなかった。
 同じ言葉を繰り返されて、真っ直ぐな視線で見据えられて、やっと。
 神尾は跡部が何を口にしたのか、言われた言葉が意味をもって頭に届いた気がした。
 急激に普段感じないような耳元や首の裏側まで焼けるように熱くなった。
 おそらく目で見ても、跡部の掌の中にも、神尾の熱は全て伝わってしまっただろう。
 けれど跡部はそれを指摘する事無く、真剣に今跡部の欲しいものが何かを神尾に伝えてくる。
 横柄な言い方じゃなくて。
 命令でも、からかいでもなくて。
 跡部はすごく真面目な顔で神尾に言ったのだ。
 これまで、そっと重ねるようなキスは何回かしていた。
 初めてキスをした時、心臓が潰れる、と神尾は思って、そしてそれは決して大袈裟な比喩ではなかったのだ。
 実際唇が触れあっただけでも、物凄い勢いで血液を送りこまれるような衝撃に胸は苦しくなり、その後どうしていればいいのかまるで判らなくて神尾は混乱した。
 跡部は多分神尾の心中に気づいていたのだろう。
 あっさりとそれまでの話にまた戻ったり、しばらく黙って抱き込んでくれていたりするのが常だった。
 キスの後の跡部はいつでも優しかったので、やっと近頃は、神尾も跡部の唇を受け止められるようになってきていた。
 相変わらず多少はうろたえるようなことはあったが、それでもそのまま気を失うんじゃないかと思う酷い緊張感だけは和らいだ。
 その矢先、というべきか、それだからこそ、というべきか。
 用意はしなくていい、今そのままでいい、欲しいのはお前だけだと、なめらかな低音で繰り返され、まるで請われるようにかき口説かれている神尾は、足元にかしづくようにしている跡部に両頬を包まれたまま視線を逸らす事すら出来ない。
 でも最後に、頷いて、跡部の元に倒れこむように抱きついていったのは、神尾の方からだった。
 欲しいものはお前だけだと、そう跡部が繰り返すから。
 奪う事もきっと跡部には容易いだろうに、最後まで望まれてしまったから。
 跡部への誕生日プレゼントは、きちんと、神尾から跡部へ渡す物になった。





 その後初めて連れて行かれた跡部の寝室で、神尾は跡部に組み敷かれ、長い時間をかけて抱かれた。
 怖がらせないと跡部が言った通り。
 それはすごく、何だか、まるで大事に、されているみたいなやり方だった。
 それは確かなのだけれど。
 神尾は混乱した。
 跡部に何かされる度、何度も何度も錯乱した。
 その都度、跡部は必ず動きを止めてくれた。
 言葉を発する事はあまりなく、でもなだめるようなキスや、また一から数えなおすようなやり方や、より一層優しい手つきに変えてくれたりする事で、神尾の困惑を無視する事は決してしなかった。
 幾度も行為を中断させたのは神尾で、こうして跡部に抱かれている自分がどうしたっておかしいのだと、神尾が気づいてしまってからは、余計にそれが酷くなった。
 跡部がどれだけ丁重に神尾を扱ったのかが神尾自身で判っていただけに、神尾にはどうしようもない事ながら結局は己の反応に激しく自己嫌悪に陥ってしまった。
 ものすごい時間をかけて、漸く事が済んだ時には、神尾は安堵感よりも泣きたいような感情を覚える程だった。
「…は……っ、ぅ…ぁ…」
「…、………く…」
「ん……っ……」
 ぞく、と背筋が浮いたような気がしたのは、熱い息を吐き出した跡部が神尾の上に落ちてきたからだ。
 深々と埋め込まれたものはまだ神尾の中に在って、神尾の首筋で呼吸を整えるような跡部を無意識に両手で抱きとめるようにして固い背中を抱き返しながら、神尾はとうとう泣き出した。
 泣き声をあげるのではなく、ただ眦から涙が零れるのが止まらなくなってしまった。
「…神尾?」
「………っ…ふ、…ぇ…」
「何だよ…おい、どこかきついのかよ?」
 乱れた息をついていた跡部が掠れた声で低く問いかけてくる。
 身体を離そうとしてくるのを嫌がって、神尾は両手で跡部の背中にしがみついた。
「おい」
「……、…っ……」
「神尾。……何、泣いてんだよ」
 跡部の声は低くきつかった。
 反射的にまた涙が出てきてしまい、神尾は慌ててかぶりを振った。
「神尾」
「ちが、……ごめ…、…っ」
 跡部を怒らせたい訳ではなかったし、神尾も辛かったり嫌だったりして泣いている訳ではないのだ。
 ただ、もうどうしよう、どうしたらいいんだろうと、困惑して、それで涙が出てきてしまうのだ。
 説明しようとしても、何か喋ろうとすると呼吸は嗚咽めいて震えてしまった。
 それを耳元間近で聞くことになった跡部は、神尾の背中を抱き返してきて言った。
「いい。ちょっと黙ってろ」
「………、っ……跡、部…、…」
「……こう…してんのは嫌じゃねえんだな…?」
 お互いの目も見えない体制のまま。
 神尾は頷いた。
 ぎゅっと腕に力を込める。
 跡部が苦々しい声で聞いてくるのも、神尾は正直怖かったのだけれど。
 やっぱり、と思ってしまうと、ますます気持は乱れてきてどうしようもなくなる。
「…ごめん、な……ごめん、…跡部」
「………何がだ」
「俺……」
「………………」
「なんで、なんにも…、できな…いん…、だ…ろ…」
 ちゃんとできなくて。
 跡部はすごく優しくしてくれて。
 でも神尾は、何をされても過剰に身体を竦ませて、時間ばかりでなく手間暇も延々かけさせて、果たして本当にこんな事が誕生日のプレゼントになっているのは甚だあやしかった。
 跡部は欲しいと言ってくれたけれど、跡部にとってこれが本当に望んだものだったのだろうかと神尾は思い、その答えは多分、と察するに余りある。
 涙に湿った声で、そんな事を神尾がまとまりなく口にしていると、跡部は黙ってそれに聞き入った上で、言った。
「おい、お前なに言ってんだ?」
 苛つくなり怒鳴ってくるなりするかと思った跡部は、神尾の予想を裏切り、そういった事は口にしなかった。
 ただ、不審気に呟いたのと同時に、それどころか。
「………っひ……ぁ…っ」
「…悪ぃ」
 体内で膨れ上がった圧迫感に神尾が仰け反ると、跡部は舌打ち交じりに短く詫びて、神尾の中からそれを引き抜いた。
 びくびくと震えた神尾の両腕からは力が抜け、跡部にしがみつくこともできなくなる。
 ベッドの上で小さな痙攣じみた衝動に襲われている神尾の額に跡部の掌が当てられる。
「……ぁ…」
「神尾」
 唇をキスで塞がれる。
 跡部の唇の感触に、涙が絡んで重たくなった睫毛を引き上げて、神尾は恐る恐る跡部の表情を探った。
「あのなあ、…神尾」
 汗に濡れた前髪を自らの手でかきあげながら、跡部は何だかひどく珍しい顔をして言い淀んだ。
「お前な、…」
「……跡部…」
 何を言われるのか判らず、神尾はしどけなくベッドの上で身体を曝して跡部の目を見つめた。
 跡部は怒ってはいないようだった。
 もしかしたら呆れてはいるかもしれない。
 そう思って神尾が眉根を寄せると、ちょん、とそこにも軽く口づけてから跡部は色気に掠れた声で少しだけ悪態をついた。
「…出来てねえわけあるか」
「跡部……?…」
 あー、と普段の跡部らしくもなく言葉を探している様子を見上げながら、神尾は小さく息を詰める。
「……お前な、…敏感すぎんだよ」
「………………」
「お前はな……あー…感じやすいだけだっつってんだよ」
「………は…?」
 ものすごい事を言われた気がする。
 神尾は唖然と跡部を見つめた。
「……………は?……え…?」
 跡部は、ほんの少しもからかうような態度をとらなかった。
 生真面目に、慎重に言うからますます訳が判らなくなってしまった。
 それはいったい、どういう事なのか。
 困惑を深めていくばかりの神尾の胸元に跡部の掌が宛がわれる。
「…、……っ…」
 ごく軽く撫でさすられながら、唇と唇とが重なり、きゅっと舌先を吸われる。
 びくりと竦み上がった神尾の身体の硬直を解くよう、こういう事だろ、と跡部が神尾の耳元で囁いて。
 その声音にも反応するよう、神尾はきつく目を閉じて眦に涙を滲ませる。
「からかってるんじゃねえよ……聞け」
 掠れた声が命令なのか懇願なのか悩む言い方をしてくるので神尾は瞬きを繰り返しながら目を開けていく。
「……れは、…わか…ってる…けど……」
「こういうのは、出来てないとは言わねえよ…」
「………っで…も…」
 神尾は終始この調子だったのだ。
 跡部は何度も手を止めた。
「…俺……、」
 本当にこんなんで跡部はよかったのかと、結局聞きたいのはそれだけの神尾が眼差しを向けると、跡部は何故か目線を合わせず逸らした。
 見たことも聞いたこともない、まるで自虐的な溜息を微かについてから跡部は神尾を見下ろし囁いた。
「大事に抱いてやりゃ、…よくなれたんだよ。お前も」
「………………」
 いや、そんなのは、と神尾は狼狽した。
 大事にされていた。
 そんなのは充分すぎるくらいだ。
 よくなったのかならなかったのかは。
 それこそ全てを暴くその眼で見ていて全部判っただろうにと。
 神尾は跡部から次々と放られてくる言葉に煮えそうになる頭の中で抵抗するのが精いっぱいだ。
 わななく唇からは言葉は何も出てこない。
「おい、神尾」
「………………」
 やけにきつい目で跡部に射るように見つめられ、呼びかけられ、神尾が問い返すよりも先に。
「もう一回やるぞ」
「……、…は?」
 両手首をシーツに押し付けられ唇を貪られた。
 目を見開いたまま跡部からの深いキスを受け止めた神尾は息苦しさにもがく一歩手前で解放されて、尚面食らう。
「あと、…っ………ぇ?……え…」
 キスは濃厚だったけれど、改めて胸元に這わされた跡部の両方の掌は本当に丁寧に神尾の肌を撫で摩った。
 ひく、と身体を慄かせながら神尾は浅く息を継ぐ。
「……跡…部…、?」
「これで金輪際もうやらねえって言われんのは御免だ」
「言…、っ」
 言わないと叫ぶのは叫ぶので異様に恥ずかしい。
 神尾がぐっと言葉を飲んだのをどう捉えたのか、跡部は怜悧な眼をすうっと細めて、やっぱりなという顔をした。
 どうしてそん顔をするのか神尾には判らなかった。
 もうやらないなんて言わないと、今言うのが気恥ずかしいだけで、別に神尾はほんの少しも嫌でなんかなかったのだ。
 跡部はどうだったのだろう、跡部はあれでよかったのかな、と。
 神尾が気にしていたのはそれだけだ。
 それなのに、どうも自分たちは噛み合っていない気がする。
 今も、自分を見据える跡部の目つきが鋭すぎて、さすがに神尾もちょっと怖かった。
 怯んで逃げかけた神尾の身体に再度のしかかるようにして、跡部が神尾を拘束してくる。
「跡部……」
「さっきほどはがっつかねえよ」
「…え?」
 少しは落ち着いた、大事にしてやるから、と跡部が裏手で神尾の頬を撫でて低く言う。
 声にか言葉にか仕草にか。
 たぶんそれ全部にだろう。
 神尾は、どっと赤くなった。
 大事になんて、充分された。
 している間に、中断する度に、跡部がひどくきつい顔をしていたのは、神尾の言動が悪かったせいではなく、跡部の言葉を使うなら、がっついていたからなのだろうか。
 そしてそれを抑制しようとしていてくれたのだろうか。
 言いようのない感情に巻き込まれそうになる。
 おとなしくなった神尾に、しかし跡部は慎重だった。
「………………」
 跡部の掌が、そっと神尾の首の側面にかかる。
 指先が耳の縁と唇の端に当たり、神尾は小さく息をのんだ。
 丁寧に顔を支えられたまま、ゆっくりと近づいてきた跡部に唇を塞がれる。
 ふんわりと覆われた唇は心地よさにゆるんで、そこに跡部が舌を入れてきた。
「………、ん」
 脳が痺れたような気がして神尾は息を詰めた。
 跡部の舌は甘い音をたて神尾の口腔を舐めた。
 小さく幾度となく竦みながら、神尾は跡部からのキスを受ける。
 キスがほどけると唇の表面を舐められて、またキスが欲しくなる。
 散々に唇を甘やかされて、詰めていた息はとろとろと溶かされて神尾はぼんやりと跡部を見つめた。
「……大丈夫だろ?」
 濡れた唇を引き上げて跡部が囁いてくる。
 こく、と神尾が頷くともう一度優しい丁寧なキスをしてから、跡部はその唇で神尾の身体を辿り始めた。
 一度目だって充分すぎるほどに丁寧だったのに、跡部は更に、先程はあまり構わなかった神尾の箇所も一つずつ拾い上げるようにしてきた。
 耳の裏側や手首の内側や脇腹。
 やり方がどう違っているのかは神尾には判らなかったけれど。
 跡部が自虐的に言う程、別人のようには思えなかったけれど。
 ひっきりなしに自分の唇が上ずった呼気をもらすのが神尾にはどうしようもなく恥ずかしかった。
「…あ……とべ………」
「何だ…?」
「おれ…も……」
 なにか、したほうがいい?と。
 問いかけというよりは確認を求めるように神尾が言うと、跡部は面食らったような顔を見せた後、笑った。
「今日はいい」
「…え…?」
 一度目も、今も。
 そういえば自分は跡部に何もしていないと神尾は思い当って。
 それでいい訳ないと今更ながらに思った神尾の膝頭に唇を寄せながら、跡部は神尾の両足の狭間に肩を入れてきた。
 いくら二度目だからとはいえ、さすがにこの体制は身体が竦んで、神尾は上半身を起こすようにして懸命に言い募った。
「でも、…っ…俺、なんにも、」
「さっきはそれで出来ただろうが」
 今もこのまますぐにいけるぜ、と機嫌のよさそうな声がしたのはそこまでだった。
 すぐにと言いながらそうすることはなく、跡部は神尾のそれに舌を絡めるようにしてきた。
 温んだ熱の中に吸い込まれていくような愛撫は正気を保っていられなくなる。
 神尾が激しくかぶりを振って身体を捩ると、両足に挟み込んだ跡部を内腿で締め付けてしまい、そのことで煽られる羞恥でますますじっとしていられなくなった。
 何でそんなところを、そんな風に跡部がするんだと、しゃくりあげるようにしながらやめてほしいと告げている神尾の声は次第に啜り泣きに飲まれて嬌声でしかなくなった。
 いつの間にか神尾の手は跡部の手に握られていて、すべての指を絡ませる甘ったるい繋がれ方をされていた。
 指先に力が入ると本当に優しく握り返されてきて、それに縋るようにしながらおかしくなりそうな舐められ方をされた。
「……っひ…ぅ……、…っ」
「さっきより泣くか、お前」
 戻ってきた跡部に間近から見下ろされながら呟かれ、神尾はそうじゃなくてと首を左右に打ち振りながら嗚咽を零す。
「だ……って、…っ、俺…ばっか…」
「バァカ…」
 ふ、と笑み交じりの吐息が当たって神尾が目を開けると、跡部が神尾の顎を支えるようにして頬に口づけてきた。
「……跡…部…?」
「…ま、…お前も少しずつ気づくだろうから…今はそう思ってろ」
「え……?」
「懇願してでも欲しいものはお前だけだ」
 こんな時に真顔でそんな事を言わないで欲しい。
 神尾はそう思ったけれど、跡部の言葉にふとある事を思い出して。
 泣き濡れた自分の目元を、ぐいと手で擦ってから告げた。
「跡部」
「ああ?」
「たんじょうび。おめでとう」
 跡部は大きく目を見開いて、そうして時期に、溜息を大きく一つ。
「……こういう状況で、そんなツラ見せて言うんじゃねえよ」
 何だか今しがた神尾が思ったのと同じような事を口にしてから、跡部はふいに零れるような鮮やかな笑みを浮かべた。
 神尾がどきりととしていると、跡部は丁寧で甘いキスを神尾の唇にくれて、それから後はもう。
 神尾の体感する世界を、濃くて甘いだけの世界に変えてしまった。




 本当にこれが誕生日プレゼントになったのかと、やはり神尾は最後の最後まで、怪訝に思ったのだけれど。
 それをもう一度だけ問おうと神尾が思う相手は今、神尾の胸元でぐっすりと眠っている。
 跡部が綺麗な顔をしている事は神尾は充分知っているけれど。
 ただ綺麗なだけではない、何だか甘く安らいだ見たこともない顔で眠っているから。
 神尾の方こそ、ひどく大切なものを手にしているような気持ちで、跡部の寝顔をずっと見つめていた。
 跡部の家に来るようになって、神尾には幾つか気づいた事がある。
 たとえば。
「なあ、跡部。跡部の家ってさ、普通に家中に花とかあるのな」
 それも毎回違う種類の生花だ。
 庭にも多種多様に咲いているし、温室の中もかなりすごいことになっている事は、神尾も知っている。
 その上、家の中も、いつ来ても華美な花々で色とりどりの状態だ。
「家の中に花があるのは当然だろうが」
 神尾を連れて家の中を先を歩く跡部は前を向いたままそう言った。
 その口調は、食事にデザートがつくのは当然だという跡部の主張とそっくり同じだった。
 花は跡部によく似合う。
 だから家中花だらけの跡部の家も、神尾は跡部らしいなと納得している。
 それより実は兼ねてから神尾が不思議だったのは、甘いものなど食べなさそうな跡部が、食事で必ずケーキの類を口にすることだ。
 それは早い段階で、神尾も跡部に言ったことがある。
 今、花の事を告げたみたいにだ。
 それで返されたのが件の言葉だ。
 花も菓子も豊富にある跡部の家。
 部屋に連れて行かれ、閉じこもる様にして時間を過ごす回数も日増しに増えていく日々だ。
「そこ座っとけ」
 部屋に入るなり、跡部に顎で指し示された赤いソファ。
 横柄だなと神尾は若干膨れるが、すわり心地の良いそのソファは気に入りの場所でもある。
 神尾が置いてあったクッションを抱え込むようにしてそこに座ると、跡部はクリスタルみたいにきらきらとよく光る硝子テーブルから何かを持って神尾の前に立った。
「跡部?」
 無造作な仕草で跡部は瓶の蓋を捻って開けた。
 瓶をつかんでいる方の指の間には柄の長いシルバーのスプーンが挟まっている。
 跡部は薬品でも掬い出すようにして、瓶の中にスプーンを入れた。
「口あけろ」
「は?………ん、…っ…」
 聞き返している途中でスプーンが口の中に入ってくる。
 長い柄の先端を親指と人差し指で挟むようにして、跡部は瓶の中からすくいあげたものを餌付けさながらに神尾の口に運ぶのだ。 
 どうだ、と尊大に見下ろしてくる跡部の視線に、えらそうだなと思わなくもないが、神尾は素直に笑顔をみせた。
「うまい!」
 口の中に広がる甘味にゆるんだ表情を、眼差しで見下ろした跡部がいきなり屈んでくる。
 深い角度のついたキスだった。
「なっ…」
「ご褒美だ」
「………はぁ…っ、…?」
「てめえは頭は悪いが、味覚は悪くねえ」
「何、笑って…!……」
 果たして今したキスをか、それとも神尾が口に入れられた赤いジャムをか。
 跡部は何かを味わうように覗かせた舌で唇を舐める。
 舐め方がいやらしいんだよと神尾はどっと赤くなった。
 跡部がスプーンでもう一匙。
 ジャムをすくって神尾の唇に運んでくる。
「オペラ座の屋根でとれた蜂蜜が入ってんだよ」
「何それ…」
「うまけりゃ何でもいいがな」
 跡部がまた腰から屈んで神尾の唇を舐めとる。
 ジャムを食べたいなら自分だって直接食べればいいだろと神尾は思うのに。
 跡部は何故だか神尾の唇経由でいちいちジャムを食べている。
 ソファに座ったままもがく神尾など簡単に封じて、跡部は立ったままひとしきりジャムと神尾に戯れて。
 何が楽しいのか終始笑みを浮かべている。
 最近、跡部はよくこういう顔するよな、と神尾も気づいている。
 あからさまに神尾をからかってくる物言いはたちが悪いと思いながらも、実際の所それで神尾が不快になったことは一度もないのだ。
 へんだよな、と思わなくもないが事実だ。
 仕方がない。
「おい、これは?」
「は?」
 ジャムに飽きたのか、跡部は今度は部屋の中にあった花器から濃い色の花を一輪引き抜いた。
 それを神尾の顔にかざす。
 やはりソファに座る神尾の前に立ったままで、剣でも差し向けるかのような無駄に優美な立ち姿に、神尾は溜息を零した反動のように息を吸い込み、目を瞠る。
「え、…なんで?」
 じっと、目前の花を見据えてから神尾は跡部を見上げた。
「この花、チョコレートの匂いがする…」
 跡部は軽く笑ってからかうような目でまた神尾を見下ろした。
「嗅覚も悪くねえんだよな。頭は悪いけど」
「お前、それ言いたいだけだろ…っ」
 さっきから、というか、いつも。
 口癖のように跡部は神尾の頭が悪いと繰り返しては笑っている。
「シャーリーベイビー」
「……なに……花の名前…?」
「オンジウムな」
 どちらかが花本来の名前で、どちらかがその種類なのだろう。
 神尾にはさっぱり判らなかった。
 どうせまたすぐに馬鹿にしてくるのだろうと神尾は思ったが、跡部はそれ以上特に何を言うでもなく神尾の片頬を手のひらで包んだ。
 頬を撫でられると、びくりと身体が震える。
 神尾は跡部でそれを知った。
 そのままゆっくりと屈んでくる跡部は、今度はもう笑っていなかった。
 今日何度目かのキスで唇を塞がれる間際、神尾は小さな声で跡部を呼んだ。
「………跡部…」
「…………なんだ」
 ぴたりと動きを止めた跡部が憮然としているのが少しおかしかった。
 それで神尾は初めてキスの寸前に笑ってしまった。
 神尾の方のそのリアクションに跡部は不機嫌に眼差しをきつくして。
 どこか焦れたように神尾の唇に噛みつくようなキスをした。
 頭が悪いという、お決まりの台詞は、放たれることはなく。
 跡部が迎えに来た。
 別に今日は何の約束もしていない。
 神尾が学校から帰る途中に携帯に電話がかかってきて、今どこだと跡部が言うので場所を答えたら、十分待ってろと言うなり通話がきれた。
 跡部はいつもそうなので神尾は別段気にせず待っていたら、跡部の家の車が現れて。
 それに乗せられるのもいつもの事だったが、今日は跡部が降りると車は走っていってしまった。
 氷帝の制服姿の跡部は神尾の前に立ち、言った。
 送ってやる、と。
「………………」
 これって、何かちょっとおかしくないか。
 神尾は思ったが、跡部が神尾の家に向かう方向で歩き出すので一先ず跡部の隣に並んで神尾も歩いた。
 そもそも跡部に送られる、ということは。
 これまでにも幾度か神尾は体験していたが、それは大抵跡部の家から神尾の家までだったし、手段は跡部の家の車を使っての事だ。
 突然現れて、車も返して、ただ送るだけというのは初めてのことだった。
 跡部が自分に何か用事があるのかと最初神尾は思ったのだが、取り合えず跡部は何も言わない。
 神尾は歩きながら今日学校で会った事などを話し、跡部はいつものように頷くだけだったり呆れたりからかった時折少しだけ笑ったりした。
 別に跡部の様子がおかしいという事もない。
 先週の日曜日に会った時も、今も、跡部は跡部だ。
「………………」
 神尾が話しながらそっと見続ける跡部の横顔は、泣きボクロに長い睫の影が落ちている。
 つまり跡部が伏し目がちになっているという事だ。
 彼は決して下を向くことをしない男だから、伏せられる目元の意味は何だろう。
 神尾がじっと見つめれば跡部は怜悧な眼差しを真っ直ぐ神尾へと向けてくるけれど。
「何だ」
「…ん?」
「いきなり黙って何だって聞いてんだよ」
「あ…ー…」
 特別に重要な話をしていたわけでもない。
 どうでもいい話、と括られて当たり前の神尾の日常の話だったのに、跡部はどことなく不満そうだった。
「あのさ、跡部」
「ああ?」
「今さ、……送って…くれてるんだよな?」
「最初にそう言ったろうが」
 出来の悪い頭だなと眉を顰める跡部にさすがに些かむっとしつつ、神尾は跡部の制服のシャツの裾を掴んだ。
「俺、寄り道、したい」
「………………」
 跡部が微かに目を細めて、神尾の顔と、シャツを掴んでいる神尾の手とを滑るように見やる。
 跡部はどうするのかと目線で聞くように見つめると、どこにだよ、と跡部はあっさりと同意するように言った。
「寄り道も付き合ってくれんの」
「だからどこに行くんだよ」
「どこでもいい」
「…ああ?」
 今はどこでもいい。
 神尾が告げると跡部は珍しく判りやすく怪訝な顔になった。
 取り合えず神尾は、寄り道というか、遠回りがしたいだけなので、面食らっているような跡部のシャツを引っ張って家とは違う方向に歩き出す。
 遠回り、というのも。
 遠回し、な言い分だなと神尾が思ったのは。
 肩越しに見た、自分の後をついてくるような跡部の存在があったからだ。
 跡部のシャツから指先をするりと解いて、小さく言う。
「一緒に、もう少し、跡部といたいだけだから…場所はどこでもいいや」
 伺うようなつもりはなかったが、身長差があるから仕方ない。
 神尾が軽く上目になって跡部に告げると、跡部は軽く目を見開いていた。
 何だか今日の跡部の表情は判りやすい。
 その事が不思議で神尾は問いかけてしまう。
「跡部?」
「……俺がもう全部理解している事を、お前はまだ何も理解出来なくて」
「なに?」
「俺が言わない事を、お前は言うんだな」
 言えない事を言えるのかもしれねえけどな、と跡部は呟き、よく判らないと神尾が困っていると。
 そんな神尾の様子に跡部は肩から息を抜くように笑った。
 少し皮肉気に引き上げられた唇は、いつもの跡部だ。
「跡部?」
 跡部の手が伸びてきて、神尾の手首を包み、するりと指先までやわらかく握りこむようにしてくる。
 最後に跡部の親指と人差し指に挟まれた神尾の小指は、爪先まで撫でられるようにされて、びくっと震えるのだけれど。
「俺が言えるようになるまで我慢して待ってろ」
「……何言ってるかさっぱりわかんねーよう…?」
 どうしてそんな綺麗な顔で笑っているのかも。
 どうして全く解読が出来ない言葉を放ってくるのかも。
 神尾は判らないと言っているのに、何故か跡部は楽しげだった。
 そもそも最初から怒りに任せて食って掛かったくらいだから、神尾は別段、跡部を怖いと思ったことはない。
 跡部が年上で、他校生で、どれだけ有名な相手だったとしてもだ。
 それは今も変わらない。
 怖いとは、思わない。
 状況によるけど、と。
 内心で思ってしまうくらいの逃げ場は実のところあるのだが。
「………てめえ」
 跡部は神尾を見据えて凄んだ。
 低い声もだが、眼が、とにかくその眼が、恐ろしい程に鋭い。
 お互い全裸で、今の今まで跡部に抱かれていた訳なのだが。
 優しい余韻など欠片もない。
 神尾は固まった。
「口開けろ」
「やだ」
 口は動いた。
 拒絶すると跡部の眼が、すうっと細められて。
 光が引き絞られてきつくなる。
 凶暴だ。
 むしろ、狂暴に近い。
 神尾は息を飲んだ。
「開けろって言ってんだよ」
「…………ぅ。…ゃ、だ」
 声も出なくなってきた。
 しかし断固として神尾が拒めば、神尾を組み敷いた体勢で、跡部は手を伸ばしてきた。
 神尾の口元に。
「………………」
 右手が神尾の顎を固定して。
 親指で下唇を引き下げられる。
 冴え冴えとした眼が、神尾の下唇の内側を撫でるように見て。
 そして。
 至近距離から、跡部は神尾が痛いと思うくらいのきつい視線で睨みつけてきた。
「噛むなっつったよな。俺は」
 顔をぎりぎりまで近づけてきた跡部は、囁くような声で言った。
 声は、決して大きくない。
 しかし。
「唇、噛むな、っつったよな? ああ?」
 おっかない。
 これは、本気で、おっかない。
 神尾は再び、ぐっと息を詰める。
 眦が、音でもしそうにきりきりと釣り上がっている。
 整いすぎた顔は、怒ると、凄みで余計怜悧になる。
 逃げようもないこの体勢で、神尾は跡部のきつい顔を見続ける。
「………………」
 確かに噛むなと跡部は言って、神尾は噛んだ、訳なのだが。
 噛まずにはいられなかった神尾の心中だって、跡部は充分判っている筈なのだ。
 本当は、噛むなと繰り返した跡部の心中を神尾が判っているように。
 でも、それでもどうにもならなかったのだから。
 仕方ないだろうと神尾は思うが、跡部は思わないらしかった。
「………………」
 不機嫌に跡部は唇を寄せてきた。
 神尾の唇にではなく、耳の少し下辺りの皮膚を、噛む様に、して。
「………ッ、……」
 実際竦むほど痛かったわけではないから、充分に跡部に加減をされた甘噛みだったのだろう。
 脈が一気に速くなった。
 首筋が湯につけられたように熱くなった。
「……と…べ…」
 どうしていいのか判らない手で、神尾は跡部の肩に指先で縋る。
 首が熱い。
 皮膚一枚の話ではなく、血まで煮えたように熱い。
「そういう傷をつけるな」
「………跡部…、…?」
「そんなもんつけたくて抱いてるんじゃねえんだよ」
「………………」
 実際跡部は、多少が口調が荒くても、行動が手荒になっても、決して、絶対、神尾を傷つけたりはしない。
 それは絶対にしない。
 不思議だけれど、跡部はいつも好き勝手に神尾にふるまうけれど、その事が神尾の何かを傷つける事はない。
 いつでも。
 今も。
「人がめちゃくちゃ可愛がってやってるもんにな、勝手に傷つけんじゃねえよ、バァカ」
 辛辣に言ってよこしながら、跡部は神尾の唇を塞いでくる。
 息をきつく奪われて。
 苦しいけれど。
 痛むことはない。
 どこも。
 なにも。
「……っ…、……ぅ」
 自分で噛み切って作ってしまった傷からうっすらと血が滲み、神尾の眉根が寄ると跡部はやわらかく唇を吸いなおしてきた。
 吐息が互いの唇から零れて、擽られるような感触に息が乱れる。
「ん、………ん…」
 ゆっくりと重ね直される唇。
 舌先に甘く擽られて、ひくりと震えた神尾の身体に、跡部が一層体重をかけてのしかかってくる。
「神尾」
「……に…、…?」
 唇が、頭の中が、痺れる。
「二度やりやがったら、」
「………ぇ…?………っ、ぅ…」
 跡部は何かを言いながら、神尾の唇をキスで塞ぎ、手のひらを滑らせてくる。
 何か、脅されるような事を言われた気がした。
 よく、判らなかった、けれど。
「ん……、ぁ…っ、…」
 名前を、呼びたかったけれど。
 噛むな、ということだろうか。
 神尾はずっと、口腔に跡部の舌を与えられていて。
 何も、何も、喋れなかった。
 跡部の家の玄関で、顔を合わせるなり、跡部がのしかかってきた。
「ぅわ、…っ」
 咄嗟に両手でそれを抱きとめ、グッとどうにか足で踏みとどまった神尾だったが、足元はかなり危なげな状態だ。
 跡部は決して大柄ではなく、その体躯は均整が取れていてしなやかだ。
 それなのにこういう風にされると神尾では受け止めるので精一杯になってしまう。
「ど、…どうした、跡部…?」
「………………」
 全身で脱力して自分の肩口に顔を伏せている跡部に、神尾は声をかける。
 背中に手をあて、ぽんぽんとそこを軽く叩きながら、跡部?と伺うように名前を呼んだ。
「ええと…、?…あの」
「……神尾」
 低い声と一緒に、ゆらりと跡部が顔を上げる。
 間近で目と目が合って、神尾は瞬いた。
「え、…?………あ、…おじゃま…します、……や、…してます、…か」
 何を、何から、どう言えばいいのか判らず。
 神尾はとりあえずそう言った。
 やけにどぎまぎとしてしまうのは、跡部の顔が近いせいだ。
 いつまでたっても神尾はそうなる。
 そうして跡部は、普段だったらそんな神尾の物言いにここぞとばかりに辛辣な言葉を多々向けてくる筈なのだが今は違った。
 今は。
 不機嫌そうな目で至近距離から見据えてきながら、呻くように、ただ一言だけ。
「………遅ぇんだよ」
「………………」
 凄むというより、それは。
 単に、拗ねているだけにしか聞こえない、そんな声だった。
「ご…ごめん…」
 思わず神尾も素直謝るしか出来なくなる、そんな声だった。
 これでも神尾はここまで最速のスピードでやってきたのだが、そんな事はとても言えそうになかった。
 跡部からの呼び出しは、いつも尊大で。
 メールでも電話でも、最終的な神尾の意思こそ尊重はするが、横柄だったりえらそうだったり強引だったりする。
 命令だったり断言だったり時には強制だったりもする。
 それが、今回は些か事情が違っていて。
 言葉ばかりはいつもと変わらなかったものの、その口調は何だか力なく、命令というよりはどこか懇願めいていた。
 だから神尾は何がどうしたのかと思って、電話をきってすぐ、あたふたと身支度をして走ってきたのだ。
 跡部の家まで。
 訪ねてくれば、跡部は案の定だった。
「どうしたんだよぅ? 跡部…」
「……見りゃ判んだろうが」
「具合悪いのか? どっか痛いとかか?」
「バカだろてめえ」
「バカって言うな!………てゆーか、てゆーかさ、跡部……ほんとどうしたんだよぅ?」
 いつもの感じで怒鳴り返したものの、ろくに言い返しもしない跡部にまた肩口に顔を埋めてこられて。
 神尾は弱ってしまった。
「………………」
 抱きとめている身体は、たとえば熱があるとか、具合が悪そうだとか、そういう事はないようだった。
 いつものように、いい匂いがする。
 いつものように、なめらかでしっかりとした感触が手のひらには在る。
 何だろう、どうしたんだろう、と。
 神尾は何か少しでも確かめられたらいいなと思って、手のひらをぺたぺたと跡部の背に這わせてみる。
 跡部?と呼びかけながら頬に時折触れてくる跡部の髪を撫でつけたりもして。
 そんな風に暫く靴も履いたまま跡部の身体を支えていると、身体を預けてきていた跡部の手が、明確な意思でもって動き出した。
 強く、抱き締められた。
 跡部の片手は神尾の腰にまわり、もう片方の手が神尾の頬を包んで、上向かされたと思った時にはもう。
 もう、唇が塞がれている。
 神尾は反射的に目を閉じた。
 跡部の舌が入ってくる。
 口の中、それを意識した途端、頭の中が濡れたような気持ちになった。
「……、……、…っん」
 跡部の舌は神尾の口腔で、神尾の舌を欲しがって動く。
 欲しがり方が貪欲で、遠慮がなくて、神尾は跡部の服を両手で握り締めるようにして震える指先で取りすがった。
 背筋が反ってしまったままでとどまっている体勢が、少し苦しかった。
「ン……っ……ん、…っ」
 噛まれた訳ではないが、そんな勢いで、また唇が深く重なる。
 今日の跡部はあまり喋らない。
 その分キスはどこかがっついていて、神尾は跡部の思うがままに蹂躙されながら、胸の中に詰め込まれてくる甘ったるいものですぐにいっぱいになってしまった。
 目尻に息苦しさから僅かな涙を浮かべれば、冗談のように整っている跡部の指先に、その雫をさらわれた。
 キスがほどけて、神尾が目を開けると、跡部は自身の親指の腹を舌で舐めていた。
「…、…ばか……なに舐めてんだ…よ…」
「涙だろ。お前の」
 赤い濡れた唇。
 笑いもしない跡部の顔には欲望の色がはっきりと見て取れた。
 神尾の顔を凝視しながら、味覚を確かめるかのように、舌で唇を舐める跡部は、卑猥すぎて神尾にはどうしたらいいのかと思う。
 涙とも言えないような微かに滲む液体をも尚欲しがって、神尾の眦に跡部は唇を寄せてくる。
 刻まれた口付けに、神尾のこめかみが熱を持って脈を打った。
「…、あ…とべ…?」
 小さく肩を竦めて再三その名で問いかければ、短いキスに唇をまた啄ばまれる。
 神尾は何となく理解した。
 今の跡部は、いつもと違う訳ではない。
 暫く会えないでいると、跡部はいつもこうだ。
 何度も口付けてくる跡部の髪を、そっと両方の手のひらに包むように握りこみ、神尾はゆっくり唇をひらく。
 すぐに熱い舌が捻じ込まれて、粘膜を蹂躙されて、膝が揺らぐ。
 ぐらぐらと世界が回る、そんな気がして神尾が身体の力を抜くなり、強い腕が巻き込むように神尾を抱き込んできて。
 跡部の手に後頭部や腰を掴んで来られて、神尾は小さく息をついて身体をその手に預けた。
 こめかみを当てている跡部の胸元からは、不思議な音がする。
 その音が徐々に神尾を乱してくる。
 今日は、あまり喋らない跡部から、何よりも雄弁に伝わってくるもの。
「…跡部」
 神尾は何だかその言葉しか出なくなってしまった自分を自覚しつつ、それでもやっぱり、そう繰り返した。
「跡部」
 頭上で跡部の舌打ちが聞こえたけれど、少しも嫌な感じがしなかったので、神尾はそのまま目を閉じていた。
 暫くして跡部に引きずられて歩き出した時にはもう、神尾には、それから後の事は全て判っていた。
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