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How did you feel at your first kiss?
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 ふれると、びくりと身体を竦ませるから、極力軽く至極丁寧に唇を寄せるのに、やはり神尾の肌は判りやすく竦んだ。
「………………」
 何だよ、と跡部は睨むように流した目線だけで神尾に問いかける。
 右手で神尾の左側の首筋を包み、反対側の首筋に寄せていた唇は触れ合わせたまま。
 微かに上昇したような体温は唇の薄い皮膚にはむしろリアルで、跡部はもう一度、神尾の首筋に口づけて目を閉じた。
「……跡部ー…」
「…脈早すぎるだろ、お前」
「だってよう…」
 神尾の細い首筋へのキスが跡部は気に入っていて、なまじ唇へ口づけてはまずいかもしれないという時は大概そこに唇を寄せる。
 そうすると別れ際のキスや、人目を忍んでのキスは、必然的に神尾の首筋へ送ることになる。
 どれだけ繰り返してもキスの度に何かしらの反応を返してくる神尾は、唇の時より余程心音を乱して、跡部の肩口のシャツを握り締めてきた。
 しがみついていないと駄目なのだというような結構な力で。
 跡部は唇の端を引き上げて、結局神尾の唇もキスで塞いだ。
 ぼうっとしているような神尾の唇を舌でくぐるのは簡単で、両手で小ぶりの頭を抱え込むようにしながら跡部は長くキスを続けた。
 唇を離す瞬間まで丁寧に、がっつかなくても満足出来るまで繰り返したキスで、跡部も熱っぽい吐息をこぼしたくらいだから神尾などはもうぐったりと跡部に身体を預けてしまっていた。
「お前、首、好きな」
「……知らねーし…」
 かけらも強がりにもなっていない神尾の声は途方にくれているようだった。
 跡部もからかうつもりで言ったわけではないので、そこは流した。
 指先だと過敏な状態の肌には辛そうだから、手のひらで包みこむように神尾の首筋に手を当てて、肩に触れているような頼りない細さを労わって撫でさする。
 触れればやはり神尾の肌は硬直したが、跡部が繰り返し撫でていると、やがてふっと力を抜いた。
「………首とか、…ふつうあんまり触られたりしないし…」
「触らせる訳ねえだろ」
「……ぅ…、…それに、…キスとか、そういうとこにするとか知らないし…!」
「もう俺で覚えただろうが」
 見下ろした先。
 俯いている神尾の耳の縁が赤い。
 唐突にひどく焦れた気になって、跡部は神尾を抱き込んだ。
 互いの間の隙間がなくなる。
 華奢な身体は、跡部の腕が力を込めれば込めた分だけ、尚薄くなってお互いの距離を無くす。
 跡部は舌うちした。
 これだから。
「…………なに…?…」
「ああ?」
「機嫌…悪いだろ、…だから」
 くぐもった神尾の声の戸惑いは露で。
 跡部は神尾の見えない場所で苦笑いするしかない。
「悪ぃよ。てめえが容赦ねえからな」
「俺…?……が、なに…?」
 翻弄させられる。
 執着する。
 ただ一人のそういう存在が、跡部の見えるところにあって、手を伸ばせばつかまえられるところにあって、でも、それは人だから。
 ものではないから。
 勝手に拘束するのは難しく、安心しきるには遠い。
「神尾」
「………ん…?」
「お前、手抜くんじゃねえぞ」
「え?……テニス?」
「違う」
 自分はもう決めている。
 拘束することや、安心しきることがないと、判っている。
 手放す気がないなら相応の行動が必要だと、知っている。
 だから絶対に、一生、手なんか抜かない。
 言葉は惜しまないし、躊躇するような選択肢もない。
「跡部?」
「俺から手引くような真似は絶対させねえっつってんだよ」
 お前なんか全力で一生俺様に惚れてりゃいいんだと。
 神尾の首筋に噛みつくようにしながら跡部は言った。
「…………は、?」
 ひどく間の抜けた声の後を追って。
 神尾の体温が、音でもたてたかのように一気に急上昇した。
「なん…、……なんの話してんの、跡部…、てゆーか、なんで、そういうの知って…!」
 今更も今更な、その反応は何だと思えば。
 跡部は笑い出すしかない。
 己の放った脅すような言葉は、神尾にとっては誇張でも何でもなく、単なる事実でしかないということを、ここまで判りやすく伝えてこられてしまっては、もう。
 跡部に対して全く手など抜いていない神尾を認めるしかない。
 全力で惚れているのがお互いさまで、どちらもそれが今この一瞬だけの事ではなく、これから先に続いていくものだと自覚している。
 それならばもう、難しい事でも遠い事でもないのだろう。
 今ここにある感情も。
 腕の中にいる存在も。
 間違いなくずっと、自分達の、ものだ。
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 実は跡部を怖いと思った事は一度もない。
 神尾はよく跡部と喧嘩をするので怒鳴られる事も多いが、怖いと思った事はなかった。
 整いすぎる程に整った顔の跡部に冷めた目でもって睨まれれば多少は怯むけれど、それが怖くて堪らないという訳ではない。
「お前、最近目つけられてるらしいな」
「……ん?」
 聞く者が聞けば震え上がるだろう冷えきった跡部の声で唐突にそう言われた神尾は、ただ首を傾げた。
 歩きながら真横にいる跡部を見上げる。
「目?」
 何?と重ねて聞くと。
 跡部の鋭い流し目で見下ろされ、神尾は一層首を傾ける。
 言われている言葉の意味は判らなかったが、跡部が結構本気で機嫌が悪いという事はただちに理解する。
 静かに深く怒っている跡部に対して。
 どうしたものかと、神尾は逡巡する。
「………………」
 放課後、約束もなく唐突に跡部が不動峰までやってきたので何かしら理由があるのだろうと、思ってはいたけれど。
 氷帝の制服姿の跡部を上目に見たまま、神尾は取りあえず言われた言葉の意味をもう一度考えた。
 目をつけられてるって、どういう事だろうか。
 テニス部の上級生に絡まれて暴力を受けていたのは、もう去年のことだ。
 今更跡部がその時の事を聞いている訳もないだろうし、最近で思い当たる事は何もない。
 何だろう困ったなと神尾は眉根を寄せて、あれこれ記憶を探っては、懸命に考え込んだ。
「……てめえ」
 唸るような跡部の声に、神尾は僅かに息をのむ。
 怖いというより、跡部が本気なのが一層判って、ますます困ってしまったからだ。
「えっと、…悪い。全然、なんにも思い当たらねえんだけど……」
 何の話?と出来るだけそっと神尾は切り出したのに、跡部の手に制服の首元を掴み締められる。
「ちょ、…跡部、?」
 神尾は穏便に聞いているのに、どうして普段は冷静な跡部がこう出るのか。
 それこそ傍目には他校生同士の喧嘩にしか見えないだろうと神尾は胸倉を掴まれながら瞬きを繰り返す。
 すうっと怜悧な目を細めて跡部は言った。
「お前、野郎に毎日声かけられてるんだってな」
「……は?」
「お前がオヤジに目つけられてるだ何だと、どうして俺様があのボヤキから聞かされなきゃならねえんだ? アア?」
「ボヤキ? え、深司?」
 言葉を飾らない神尾の親友は、跡部に対しても当然のように辛辣だ。
 跡部は跡部で、妙に伊武を敵対視している。
 そんな二人がいつ話なんかしたんだろうか、それも自分の事を?と神尾は怪訝に思って問いかけるのに、跡部は全くそれに対しての返事をしない。
 仕方がないので神尾は話を進める。
「オヤジって何? 俺知らないぜ?」
「ほとんど毎日、同じ場所で声かけられて知らねえ訳あるか!」
「や、マジ知らないし!」
 ぐいぐいと首元を絞められて、神尾も喚くが跡部はもっと大きな声を出す。
「テニスしようだ、音楽は何聴いてんだ、めちゃめちゃ目つけられて声かけられまくってて、とぼけてんじゃねえよ!」
「は? 何それ、ナンパか」
「それ以外に他の何だってんだ!」 
 きいん、と耳鳴りがするほど至近距離で跡部に怒鳴られた。
 神尾は思いっきり顔を顰めて、その一方で、ああそういえば、と思い当たる事があった。
 そういえば。
 伊武にも聞かれた。
 今跡部が言ったような内容の事。
 神尾は通学時間は大抵音楽を聴いているので、あまり周辺の音を聞いてない。
 リズムに乗って走っている事も多いので、ほとんど自分だけの世界にいる。
 だから伊武に、あの男の人知り合い?と聞かれても何のことだかさっぱり判らなかった。
 テニスしようと声をかけられてただろと言われても記憶にないし、何の音楽を聴いているのかって聞かれてただろと言われても覚えがない。
 首を傾げれば呆れかえった溜息と馴染みのボヤキで延々愚痴られた。
 その親友がぼやくだけぼやいた後に、漸く教えてくれた。
 どうもここのところ神尾は、下校時間に一人の男に、そんな風に声をかけられているらしかった。
 神尾は全くもってその相手を認識していないので、伊武からはボヤキを通り越した辛辣な言葉を浴びせかけられたのだ。
「あー、……判った、跡部」
 経緯は判らないが、ともかくその話を伊武は跡部にしたのだろう。
 そして跡部は怒っている。
 ものすごく。
「跡部」
 神尾は胸元のシャツを跡部に掴まれたまま、両腕を伸ばした。
 跡部の髪に指先を埋めて。
「えっと、心配、かけてごめん」
「………………」
 ぴたりと跡部が口を噤む。
 きつい目元の鋭さは緩まないまま、不機嫌極まりない表情で神尾を見下ろす跡部の頭を固定するように両手で捉まえて、神尾はゆっくりと繰り返した。
「心配かけてごめんな」
「………………」
 自分より十センチ上にある跡部の目をじっと見上げて。
「何か、そういう奴がいるらしいけど、俺別に、直接被害被ってたりしてないし。話とかもしてないぜ? どういう奴かもあんまり記憶にないし。だから大丈夫」
「………………」
 跡部のことだ。
 神尾がそう言ったところで、心配なんざしてねえと一喝してくるかと思っていたのだが。
 仏頂面のまま、跡部は黙って神尾の言葉を聞いている。
 きちんと聞いてくれている。
「これからもちゃんと気をつけるぜ!」
 だから神尾は笑って跡部にそう告げた。
 跡部は神尾を見据えた後、重たく吐き出すように言った。
「………そうしろ」
「うん」
「絶対ついていくんじゃねえ」
「うん」
「話しかけられても口きくな、相手の話も聞くな、足止めんな」
「ん。約束するぜ!」
 神尾は跡部に胸倉を掴まれたまま。
 跡部の頭を抱きこむように手を伸ばしてもいて。
 憮然とした様子の跡部の言葉に逐一頷き、笑った。
 こういう時に真剣に怒られるのは少しだけ擽ったい。
 でも、何だか自然と笑みが浮かんでくるのだ。
「へらへら笑ってんじゃねえよ」
 跡部の手に頭をはたかれたけれど、たいして痛くなかった。
 神尾が跡部の髪から手を離すと、物足りなさそうに不機嫌な顔をする跡部がいて、神尾はやっぱり笑ってしまう。
「跡部、一緒に帰ろうぜ!」
「もう帰ってんだろうが、バアカ」
 歩き出しを促すように、一瞬だけ跡部の腕に肩を抱かれる。
 その手つきはとても丁寧で、跡部の手のひらの感触の余韻は、静かに甘く神尾の意識に沈んだ。
 最近、近所の神社がちょっとしたパワースポットとして有名になっている。
 毎年初詣に行っていた馴染みの小さな神社なだけに、ここ最近の賑わいぶりに神尾はびっくりしていた。
「やな予感はしてたんだけどよう。初詣に行ったら大行列で大変だったんだ、一月一日から」
 思い出して溜息をつく神尾は、跡部の片腕に抱き込まれている。
 今年になって初めて、跡部に会った。
 跡部の部屋に入ってから、何だかんだと接触が多くて、広い広い部屋の中で始終くっついているような状態だ。
「俺、パワースポットとか、そういうの判んないけど。恋愛運とかよくなるんだって」
「てめえには必要ねえだろ」
「何で?」
 聞いた途端頭を叩かれた。
「何すんだよ!」
 どうしてこんな甘ったるく抱き寄せてくる腕と同じ手で、無慈悲に叩いてもくるのかと、怒鳴った神尾など物ともせずに。
 綺麗な顔を見るからに不機嫌そうにさせて、跡部は神尾を睨み据えてくる。
「俺様と付き合ってて、それ以上恋愛運とやらを良くする必要がどこにある」
「……自分で言うか、そういうの…」
 それが跡部でもあるのだけれど。
 神尾ががっくりと肩を落とすと、跡部は今しがた自分が叩いた神尾の頭部に唇を埋めてくる。
 冷たい。
 優しい。
 不機嫌。
 甘い。
 訳が判らない。
「………別に恋愛運だけじゃないし。成功運とか、金運とか、そういうのにも効くって」
「ますます必要ねえだろ」
「………………」
 王様然とした風体で言い切られれば、確かにそうだけどさあ、と神尾は溜息をつくしかない。
 今更ながら、とんでもない奴だよなあと跡部を見ていて思う。
「俺は別に、そういうの目当てで行ったんじゃないんだけど」
「もしそうだったらとっくに泣かしてる」
「…泣…、………泣くか!」
「泣くだろ」
 軽い笑み混じりに、ふいうちで唇にキスされた。
 跡部の髪から、ふわっといい香りがして、くらっとくる。
 いつの間にか入り込んできた舌で口腔を探られて、神尾は咄嗟に跡部の腕に指先を縋らせた。
「…涙目じゃねえの」
「………………」
 深く絡まったキスが、するりとほどけて。
 至近距離から囁かれる。
 神尾が恨めしく睨みつけても跡部は笑うだけだ。
 ほんの少しも嫌な感じのしない、むしろ優しい笑い方だから神尾も言い返せない。
 瞼の上に跡部の唇を押しあてられて、おとなしく目を閉じてそれを受け止める。
「パワースポットなんざ、わざわざ出かけていく必要ねえよ」
「……え…?」
「いちいちそんな事しなくても、もっと簡単に出来るだろうが」
 何だかもう、べったりだ。
 くっついて。
 跡部に背後からしっかりと抱きこまれて、座り込んでいる神尾は。
 自分自身を皆、跡部に取り囲まれている。
「出来るって……パワースポットとかって、そんな簡単に作れるものか?」
「そこに行けば元気になる、楽しくなる、落ち着く、そうなればいいだけの話だろ。だったら、自分の部屋をパワースポットにしちまえば、わざわざ出かけて行かなくたって毎日部屋に戻るだけで普通に気分も上がるだろ」
 その発想はなかったと神尾はびっくりして、跡部って時々すごいなと言うと、いつも凄いんだと怒鳴られた。
「え、じゃあさ。テニスコートとかも、なるかな」
 だったらいいなと思って問えば、もうなってんじゃねえのと言って跡部が軽く笑った。
「そっかー、パワースポットって、そういう事でいいんだよな」
 そこに行けば気持ちが改まって、気分が和んで、嫌なことを払拭出来て。
 楽しくなって、元気が出て、頑張ろうって思えて。
 今よりもっと、良い事が増えていく。
「今更なこと言ってんじゃねえよ」
 跡部が呆れたような声で神尾の耳元に囁いて、腕の力を強めて抱き込んでくる。
 身包み抱きしめられて、あれ?と神尾はふいに気づいた。
 パワースポット。
 もしかして、これって、まさにそうなんじゃないだろうか。
 跡部のいる所。
 跡部という存在。
 神尾はそう思ったのに。
「俺専用だけどな」
「………………」
 身体と身体が密着する。
 あれ?と神尾は再度首を傾げた。
 それはつまり。
 もしかして、跡部にとっての自分が、そうだということなんだろうか。
 パワースポットなんて跡部には無縁そうなのに、彼はすでにそれを持っていると、その仕草で伝えてくる。
 自分がそうなのだろうか。
 本当に?と神尾はこっそりと背後を窺うように目線で振り返って。
 透きとおるような瞳の色を間近に見つけた。
 瞬きすると接触しそうなくらいに近い。
「………跡部…?」
 そっと、小さく呼びかける。
 どちらからともなく引き合うように、唇と唇が。
 かすかに、重なる。
「………………」
 やけに神妙な、丁寧なキスになってしまったのが。
 気恥ずかしかった。
 行きたいデートスポットを聞かれて、神尾は放課後一緒に帰れるだけでいいと答えた事がある。
 それを知っているのか知らないのかは判らないが、跡部は時々不動峰に現れた。
 放課後一緒に帰る為だけに、やってくる。
 学校も帰宅経路も、自分達は全く違うのにも関わらず、だ。
「………………」
 一応、おつきあいなるものを跡部としている神尾なので、正直この時間が少々擽ったかった。
 自分とは違う制服を着ている跡部の背中を見ながら、何てことのない話をして。
 ゆっくりゆっくり日暮れていく辺りの景色なんかに気づくと、通学路の見慣れた光景なのに、今がとても特別で物凄い時間のように神尾には思えるのだ。
「跡部はさー…」
「なんだよ」
「デートはここに行きたい、とかあんの?」
 神尾はこうして一緒に帰り道を歩くだけでも充分満足して、楽しかったり、嬉しかったりする。
 跡部はどうなのかな、とふと思って尋ねると、冬服の制服のブレザーをどこかブランド物のスーツのように派手に着こなした跡部が肩越しに神尾を振り返ってきた。
「南の島でクルージング」
「……っぽいなあ…」
「行くか。週末」
「………………」
 冗談。
 だったらいいのだけれど。
 多分跡部が言うそれは、冗談なんかじゃないんだろう。
 そのへんのテニスコートにでも行くみたいにあっさりと言ってのけた提案は間違いなく現実世界での話だ。
 複雑に沈黙した神尾に、跡部は唇の端を引き上げた。
「お前、パスポートは」
「持ってない」
「そうか。なら、早めに取っておけ」
 からかうでもなく、至って普通に跡部はそう言った。
 何と言っていいか判らず、結局神尾は曖昧に頷くしかなかった。
「…そういえばパスポートって、昔は本人の身長書いてあったって、今日英語の時間に聞いたんだけど、それってマジなんかな?」
「らしいな」
「身長って伸びるじゃん。意味なくない?」
「お前はそろそろそんな心配いらなくなりそうじゃねえの」
「そんなわけあるか…! 俺はこれから伸びんだよっ」
「へえ。そりゃすげえな」
「……っ…思いっきり馬鹿にしてるだろ、跡部」
 結局はいつもこんな感じなのだ。
 喧嘩じみた言い合いで、会話して、怒って、笑う。
 どちらかといえば神尾があれこれ好きな事を喋って。
 それを受けて跡部がなんだかんだと言い返す。
 一緒にいる時間はあっという間すぎて、いつもと同じ調子の会話すら、単調に思える事はない。
 あそこの曲がり角で別れないといけないな、と思って、すこしもの寂しく思いつつも、神尾はやっぱり他愛のない話をし続ける。
 たぶん、デートとか、そういうのには、まだ形を成していないような時間なんだろうけれど。
 神尾は、こうしている時間が、本当に、好きで。
 大事で。
「で、今日の英語の時間にさ、先生がランダムにカード配ったんだよ。裏返しで。それにいろんな職業が書いてあってさ、そのあと一斉にカード返して、隣の席の相手と、お互いの職業について、質問とかすんの」
「お前は何だったんだよ」
「俺? アナウンサー!」
「振り仮名ねえと漢字読めねえだろ、お前」
「むかつく!」
 何度も何度も繰り返す軽口。
 言い合いが当たり前みたいなのに、少しも嫌いになれない。
 あともう少し。
 あそこの、角で、今日はもうおしまい。
「前の時間、隣のクラスが同じ授業やってさ、深司のクラスなんだけど、深司の奴、コメディアンのカードだったんだって。それで深司、一時間ずーっとそれをぼやき続けたんだって」
「お前の話は、最後は必ずそいつの話で終わるよな」
「え。そう?」
「もしくは橘だ」
 不機嫌そうに眉根を寄せる跡部の顔を並んで歩きながら見やって、そうかなあ?と神尾は再び首を傾げた。
 そして、曲がり角だ。
「………………」
 夕焼け色の太陽がよく見える、見通しのいいこの場所までが、二人で歩ける、一緒にいられる道。
 足を止めて、でも。
 そのまま立ち止まってしまうと何だか歩き始めるのに踏ん切りが要る。
 じゃあな、と神尾はさっさと言って、それで別れるつもりだったのだが。
 いきなり。
「な、」
 腕を引かれて、極軽く。
 かすかに掠られた、唇。
「………………」
 神尾は目を見開いたまま絶句する。
 慌てたり、怒鳴ったり、出来ない。
 それは、そのキスのせいだった。
 本当に、ただ、これでもう今日は別れないといけないから、と。
 それを惜しむような短くて丁寧な、キスだったから。
 一瞬だったのに、何もかも跡部に持って行かれそうになる。
 神尾の手首から跡部の指が離れていく。
 丁寧に。
「………………」
 キスされて、離されて、帰りたくないな、と神尾は思った。
 別れを惜しむ事を跡部は隠さないから。
 跡部に惜しまれている自分が、ひどく不思議で、自分もそうなんだと改めて認識する。
「……跡部…」
「じゃあな」
 聞きたくない言葉を遮るのではなく。
 多分、最初に神尾がその言葉を口にしようと思ったのと同じ心境で、跡部も言ったのだろう。
 日暮れていく陰影の中でも尚華やかな、端正な表情に跡部がたたえているものは、もどかしげな寂寥感を覆う皮肉気な笑みだ。
 あっさりと背中を向けた跡部を、神尾は、ぼうっと見送った。
 手首が、熱い。
 唇が、寂しい。
 胸の内には熱が灯る。 
「………………」
 熱は募って、跡部へと向ける感情に、溶けていく。
 神尾はその後しばらく経って、まずは漸く赤くなってから、ぎくしゃくと、帰途についたのだった。
 跡部は色々普通じゃない。
 常日頃神尾が思っている事は、多分結構な人数に同意して貰える筈だと確信出来る。
 跡部は色々普通じゃない。
「神尾」
 オートロックを開けて貰って、更にその高層マンションの最上階にある跡部の部屋まで直行で向かう専用エレベーターに暗証番号を入力して上がってきた。
 跡部の部屋も普通じゃない。
 そんな部屋に入るなり、跡部が放った自分の名前、その威圧的な物言いはいつもの事で、別段不思議ではなかったのだが、そこに続く言葉は。
「お前、俺とするの嫌か」
「………は…?」
 普通じゃない。
 おかしいだろう。
 だって顔を合わせたら、まずは最初は挨拶みたいな言葉を交わすものではないのだろうか。
 神尾に背を向ける位置でパソコンに向かっていた跡部が、そこで漸く肩越しに神尾を振り返ってくる。
 神尾は身動きひとつとれなくなる。
 跡部の、怜悧な流し目と、全く感情の読めない顔。
 跡部に言われた言葉を、神尾は唖然と、ただただ脳裏で繰り返す。
 ようやく唇が僅かに動いた。
「する…?」
「………………」
「………いや…って、なにが…?」
 即座に、呆れ果てたような盛大な溜息を吐きだしたのは跡部だ。
 そんな溜息なんか自分こそ吐き出したい。
 神尾は些か憮然となったが、跡部は一層の無表情で神尾の前に立った。
 物音ひとつ立てないで、いきなり神尾の目の前に跡部は立っている。
「………………」
 普通じゃない。
 綺麗な顔。
 それは神尾も認める。
 ただ整い方に迫力がありすぎて、見惚れたりはしない。
 見惚れたりなど出来ない、と言った方が正しいかもしれない。
 跡部は、そんな隙のない美形だ。
 きつい目も、長い睫毛も、滑らかな肌も、唇の澄んだ色も、何もかも普通じゃない。
「………なん、だよう」
 本当はもう、だいたい神尾にも跡部に聞かれている事の意味は判っていたのだけれど。
 目の前の跡部の佇まいの迫力に、腰が引けるというか、決して脅えている訳ではないが、つい気持ちが怯んでしまう。
 それで気弱な問いかけをしたのだが、容赦のない男は、そんな神尾を目線だけで見下ろして。
「お前は、俺とセックスするのが嫌かって聞いて」
「っ、ぅわぁっ、ばかっ、ばか跡部っ」
 普通じゃねえっ、と神尾は今日最大の気持ちの強さで思って喚いた。
 何でそういうことを聞いてくるのだ。
 真っ向から。
 神尾は赤くなっていいのか青くなっていいのか判らなかった。
 判らなかったので取りあえず跡部の言葉をかき消す勢いで叫んだ。
 咄嗟に自分の両耳を手で塞いだ神尾に、跡部は眉根を顰めている。
 神尾はわめいた後から恥ずかしさがますます増してきて、じわじわと頬に侵食してくる熱の気配に限界を悟る。
 駄目だこういうのは、本当に、と神尾は赤い顔で思った。
 何回か、した。
 跡部と。
 数えてる訳ではないけれど、実際忘れようもないので、今のところ三回、している。
 それは別に無理やりとかではないし、興味本位ということでもないし、ちゃんと、神尾は跡部が好きで、している。
 殆どされているといった感じだが、でもともかく、あれは一人では出来ない事だから、跡部と神尾の二人で望んでしていることだ。
 何で三度もしている状態で、今になってそんな事を聞いてくるのだ、この男は、と神尾は赤い顔で跡部を見上げた。
 羞恥は一向に薄れなかったが、恥ずかしさから生まれた怒りにまかせて罵声の一つでも浴びせてやろうと思った神尾に、跡部は表情ひとつ変えずに両手を伸ばしてきた。
「からかってねえだろ。真面目に聞いてんだよ」
 静かな言い方だった。
 低い声。
 答えろよと、跡部の両手は神尾の両頬を包んで。
 思いっきり正面から向き合わされる。
「………………」
 うわあ、と神尾はその場に座り込みそうになった。
 こういう時に限って。跡部は神尾の赤い顔をからかうような言葉は一切口にしてこない。
 意地悪く笑ったりもしない。
 物凄く真剣みたいに、神尾を見据えて、その返答を待つだけなのだ。
 ほんの少しも甘い所のない目に食い入るように見下ろされて、何なんだこいつとエンドレスに頭の中で繰り返しながら、神尾は負けた
 あっさり負けた。
 結局返事をしたのだ。
「……やじゃ、ない」
 跡部の表情は少し動いた。
 完璧な無表情に近かったのが、瞳の力が強くなり、声音がほんのり和らいだ。
「嫌じゃないんだな?」
 言質を取るような物言いもどこか耳に柔らかい。
 神尾はおずおずと頷いた。
「…ない」
 何でいきなりこんな事を聞かれて、答えさせられているのだろうかと神尾が固まる間、まじまじと神尾を凝視した跡部は、それならちょっと来いと徐に神尾の腕を引いた。
「跡部?」
「判った。それなら、お前、ああいう顔するな」
「ああいうって……何の話…」
「俺が抱いてる時のお前のツラの話だよ」
「……っ…」
 何でそんなの見てんだようっ、と。
 今更かもしれないし、はっきり言ってどうしようもない事かもしれない事を、神尾は今、心底責めたくなった。
 腕を引かれて、跡部の背中を見て、連れて行かれる先が跡部の寝室だと判るから余計に身体が強張って、足がもつれそうになる。
「………跡部…」
 心細く口にした名前は小さかったのに。
 跡部は神尾を肩越しに振り返った。
 そうして囁くように言ったのだ。
 笑ってろ、と。
 笑った顔で。
 神尾は目を瞠る。
 告げられた言葉にも、見せつけられた表情にも。
「……………なん…で…」
「可愛いから」
 真顔で。
 真剣に。
 跡部が言う。
 そんなのおかしい。
 普通じゃない。
 神尾はそう思うのに、跡部は穏やかにひとりごちて。
 神尾を見つめて、長い睫を伏せるように思案しながら呟いた。
「なんでだろうな。どうしてか俺様の目にはそう見える」
 小さな声で言葉を紡ぎながら、あまりにも自然な所作で跡部は神尾の腰を抱き寄せた。
 跡部の腕に巻き込まれ、引き寄せられ、唇を、跡部からのキスで塞がれる。
 ふわりと、あまい接触だった。
 自然と目を閉じてしまうようなすごく優しいキスで、神尾は閉ざした視界の中で跡部の声だけを追う。
「お前が嫌じゃないなら俺はびびらなくて済むから」
「………………」
 不思議な言葉が聞こえた気がして、神尾が目を開けると跡部に唇を塞ぎ直された。
 ぎこちなく数回瞬いてから、神尾は再度目を閉じた。
 へんなの、と思って。
 胸が甘苦しい。
 塞がれた唇のせいだけではなくて。
 甘苦しい。
 でもそれは。
 跡部と、これまで三回したこと。
 それが、これまで以上に、とても大事な事に思えてくるから感じる出来事だと、神尾は誰に教えられるでもなく理解した。
「笑え」
 唇が重ねられる前に、吐息に撫でられるように跡部に命じられて。
 あんな時に笑える訳がないだろうと神尾は思ったのに。
 キスをした後の今は。
 何故か今は。
「………笑える訳、ないじゃん」
 笑うのだ。
 神尾は跡部の腕の中、キスを受けて、笑う。
 本当に胸の奥から滲んでくるみたいに、ゆっくりと微笑んで。
「…………緊張くらいさせろー」
 笑いながら、そんな風に文句を言った神尾に、生意気言うんじゃねえと凄んだ跡部も唇の端を引き上げる。
 お互いが同じ思いで、重ねる唇と唇。
 普通じゃない。
 普通じゃないくらい、特別だ。
 跡部は物凄く真面目だ。
 近頃神尾はそう思うようになった。
 出会った当初はそんな事思いもしなかったけれど。
 跡部という男は、見た目がとにかく派手でよく目立つ。
 言ってる事もやってる事も奇抜で突出している。
 彼の場合、あまりにもきらびやかな容姿とその言動だから、一見するだけでは真面目という言葉とは無縁なのだが、付き合う時間が長くなるにつけ実際の所はとても真面目な男なのだと神尾にも判ってきた。
 跡部は真面目だ。
 その真面目さは実に多方面に渡るのだけれど。
 例えば今神尾の唇をキスで塞いだ後、そっと唇を離しての至近距離で。
 見ている側の心臓に悪いような整った顔で、ひどく生真面目に跡部は神尾を見据える。
 強い、眼差し。
 跡部は濡れた唇をひらく。
「お前、この間熱出しただろ」
「……え…?」
 神尾がぼうっとなっているのは、キスを交わしたばかりの唇が、まだうまく動かないからだ。
 跡部の唇と合わさって、舌で絡んで、息を混ぜた。
 唇から甘苦しい熱に埋まって、塞がれたのか塞いだのか。
 せきとめたのか封じ込めたのか。
 粘膜に浸るように濡れて、潤んで、それでいて渇いて。
 飲んで、とけて、熟れて、ゆるむ。
 ねつ?とそれこそ今熱に浮かされたような状態で神尾はぼんやり言われた言葉を反芻する。
 跡部は怜悧な眼差しで神尾を見据え、ゆっくりと、もう一度軽く触れ合わせるキスで唇を掠めてくる。
 重なるだけの、やわらかいふんわりとした接触は甘くて、神尾は目を閉じてそれを受け止める。
 首の裏側が痛いくらいに熱くなる。
 そのまますっぽりと跡部の両腕に全身を抱き込まれた。
 こんな風に、ずっと。
 そういえば立ったままだった。
 跡部の部屋に入るなり、腕を引かれて、抱きすくめられ、口づけられて。
 言葉を交わすより先、性急に跡部から与えられたキスで神尾の足下はすでにおぼつかない。
 しっかりと、跡部がその腕で抱きとめていてくれているけれど。
 甘い香りがふわりと動く。
 神尾の耳元すぐ近く。
 低いなめらかな声で囁かれる。
 跡部の、声だ。
 神尾の思考も脳裏も、そう認識した途端震えた。
「……俺は、お前を抱くのを止めねえからな」
「………………」
「だから、それで体調崩すとか、そのへんの事はお前が自分でどうにかしろ」
 俺にはどうもしてやれねえから、と。
 横柄な態度で、まるで気弱にも聞こえるような言葉を、甘い声音で断言される。
 突き放されているような言葉が、何故か何より強く神尾を縛り付けてくるようだった。
 神尾は跡部の胸元に顔を寄せながら、ぼうっとしたまま跡部な名前を呼ぶ。
 そうすると跡部の手に後ろ髪を撫でられた。
 どこか耐えかねたような手つきはやはり真面目な印象で神尾はおとなしくそれを受け入れた。
 判ったな、ときつく威圧的に言い含められ、返事の有無より先にまたキスがくる。
 今度のは最初から深くて、強くて、濃度の濃いキスだった。
 跡部に抱きしめられるまま唇が塞がれ、背筋が反って。
 がっつかれているというのが一番正しいようなやり方で、執拗に舌を貪られる。
 神尾の膝が危うくぶれて、そのまますぐ脇にあったソファにキスで組みしかれる。
 外れる事のない唇。
 とめられた呼吸。
 跡部の身体が神尾に乗り上がり両肩をソファに押さえつけられながら一時もキスはやまない。
 神尾は震える手を伸ばす。
 跡部の肩口のシャツを掴み閉めながら、唇を塞がれたまま目を開ける。
 間近に、目を閉じた跡部の目元が見えてくる。
 長い真っ直ぐな睫、なだらかな瞼。
 胸が詰まる。
 跡部が濃い睫をゆっくりと引き上げて、目を開ける様を見届けて尚更に。
 神尾は壊れそうになる。
 跡部は真面目に神尾を見つめる。
 真面目に神尾を抱き締めて、真面目に神尾に執着してくる。
「……具合、悪くするんじゃねえぞ」
 真面目に脅して。
「いいな」
 真面目に凄んで。
「神尾」
 真面目に荒い、キスをする。
 少しも遊ばない真剣な手で、神尾の身体を辿り、探り、中へ奥へと忍んでくる。
 だめだと神尾は思っていた。
 だめだ。
 跡部が言ったようには出来ない。
 具合が悪いとかじゃなくて。
 跡部といると、熱が上がる。
 くらくらする。
 好きで?と自問するまでもなく、ただ好きで。
 それだけだ。
 膨れ上がる気持ちは何度でも何度でも神尾を内側から埋めてくるのだ。
 跡部がいて、こうしていて、神尾はふつうでいられなくなる。
 跡部、と呼ぼうとして動いた神尾の唇は、結局言葉にならずに震えただけだった。
 跡部が好きで、壊れてしまいそうな神尾の正気を跡部は真剣に叱るけれど。
 神尾にだってそんな事どうしようもないのだ。
 好きだという感情は育って、終わらなくて、止めどない。
 涙ぐんで、神尾は両手で跡部に縋った。
 神尾が子供のようにしがみつくと少しだけ八つ当たりみたいな熱っぽい悪態をつきながらも、跡部は神尾を抱きしめてくれる。
 同じ力で、同じ戸惑いで、同じ切迫感で。
「俺は、止めないからな」
「…うん……うん」
 頷くだけで、嬉しいって、ちゃんと伝わるかなと不安になる神尾を跡部は強い力できちんと拘束してくれて。
「跡部…」
「泣くな、馬鹿」
 涙が出る訳なんか判ってるくせに真面目に苦い呟きをこぼす跡部が好きで、神尾は安心した。
 眦に唇を寄せて神尾の涙を吸い取った跡部の頭を抱え込むようにして。
 なめらかな髪の感触、甘い匂い。
 神尾は五感すら吸い込まれていくような跡部という存在を両腕に抱きしめて、気持ちをひらいた。
「跡部、」
「……おかしく、させるな。これ以上」
「…跡部」
 欲しい、とただひたすら、願うように神尾は思う。
 壊れない自分をあげるから、おかしくなる跡部を全部くれたら嬉しい。
 神尾は静かに息を吸い、深く呼吸をしながら、それだけを希う。
 手を、伸ばして、懇願を放った。
 ぼんやりしていた自覚はある。
 多分跡部は何度も自分を呼んだのだろう。
 神尾の耳に跡部の声が届いた時、その声音は普段より大分重たかった。
「神尾」
 強く一声放たれた自分の名前に、神尾はそれで我に返ったみたいに跡部の顔を見返した。
「……ぇ…?…、ぁ」
 ぎこちなく数回瞬きしながら神尾が見据えた先で、跡部は僅かに眉を顰めていた。
 端正な顔立ちに浮かぶのは、憮然としたような表情。
 何せこんなやり取りは今日これですでに三回目だ。
 跡部の部屋にいて、二人きりで、それで三回目。
 しかも今は距離も近い。
 二人でソファに座っていて、肩でも抱かれそうな距離だ。
「………え…っと…、」
 どうしよう、と、さすがに自分が悪いと判っているからこそ神尾が落ち着きなく身じろぐと、跡部の唇からは溜息が吐き出され、今度こそ本当にまずいと神尾は思った。
「………………」
 跡部は、いい加減本気で怒るだろう。
 頭のいい男なので、彼の攻撃の言葉には、まるっきり容赦がない事を神尾はよく知っていた。
 思わず身構えた神尾の頭に、跡部の手が乗る。
 叩かれたのではなくて、ふんわりと、やさしく手のひらは乗った。
「……跡部…?」
「………ったく。ぼけっとしやがって」
 睨むように細めた目も、吐き出すような言葉も。
 何故だか少しも攻撃的ではない。
 それどころかむしろ、ちょっと優しい、感じがする。
「………………」
 数回荒っぽく髪をかきまぜられ、でも何だかそれでは跡部の手に頭を撫でられているみたいだと神尾はどぎまぎした。
 窺うような力ない目つきになってしまった神尾に、跡部は至近距離に顔を近づけて、唇の端を皮肉気に引き上げた。
「びびるくらいなら上の空になるんじゃねえよ」
「……別に、びびっては、…ない」
「へえ?」
「…………ぅ…」
 ちょっと嘘ですと即座に言ってしまいそうになる神尾を、怜悧な眼差しで間近から見下ろした跡部は、左手で神尾の左肩を包み軽く引き寄せてきた。
「跡…部、?」
 距離が一層縮まって、ふわっといい匂いがする。
「どうせ必要以上に気張ってんだろ。普段は」
「…普段?」
 違うかよ部長?とさらりと跡部に言われて神尾は瞠目する。
 何でいきなり跡部にそんなことを言われたのかと戸惑って。
「………………」
 神尾は跡部に、そっと視線を向けた。
「お前、橘のこと何も話さなくなったからな」
 三年引退してからなと付け加えた跡部が軽く神尾の唇を塞ぐ。
 これ、キス、だよな、と思った途端。
 神尾はじわりと赤くなる。
 軽い接触ではあるけれど、こんな風に世間話でもするかのように会話しながらキスなんかされたのは初めてだった。
「だいたいてめえは、橘橘うるせえって俺が言ってるうちは散々好き勝手あいつの話ばっかしておいてな」
「……ぇ?…」
 急に全く口に出さなくなるあたりが極端な奴だと跡部は呆れた顔をした。
「………………」
「誰が見たって、お前ら不動峰の連中は、橘がいなくなった後どうなるんだかって思うくらいの懐きっぷりだっただろうが」
「………………」
「まあ、依存しきってたわけじゃねえのは、今のお前見てりゃ判るが」
 ひっくるめてお前ら全員今必死なんだろう、と跡部は言った。
 神尾はびっくりしすぎて何も返せない。
「………………」
 橘がいなかったら、本当に、自分達は不動峰でテニスは出来なかったかもしれない。
 橘が現れたことで、本当に、自分達はどんな事でも出来た。
 強い、強い人に、救われた。
 誰よりも強い彼は、決して自分たちを守る人ではなく、最初から最後まで、仲間でいた人だったから。
 だからこそ、橘が部活を引退した後、不動峰が橘がいないチームになったからこそ、自分達は立ち止まったり後退してはいけないのだと、誰もが強く思っていたのだ。
 必死だった。
 いつも自分達の視線の先にいてくれた人がいなくなって、それを寂しがる暇もないほど、神尾達は必死だった。
 寂しがる暇があったら、やらなければならない事がある。
 決して無理をしたり、それが辛いと思っている訳ではないけれど。
 橘が引退した後、時折気持ちが寂寥感や焦燥感に乗っ取られそうになるのを振り払うので懸命になる事も時折はあった。
 橘の後、神尾は部長になったが、誰が新部長だとか関係なしにテニス部員みんなで懸命になって。
「ここにいる時くらいしか呆けてらんねえんなら、まあ、仕方ねえ。許してやるよ」
 ぐっと強く肩を抱かれ、神尾は素っ気なく悪態をつくような跡部の肩口に寄りかからされる。
 額の辺りから頭皮に指先を潜り込まされ、髪を撫でられる。
 跡部の、言ってることとやってることの温度差や甘さの違いに、神尾はくらくら目を回しそうになった。
 宥めるような手で頭を撫でられながら。
 身体を近づけて。
 何だか、跡部にとても大事にされてるみたいな気分になる。
「……跡部…」
「お前らのチームは気に入ってる」
「………………」
 何でそんなこと言うんだろうと、神尾は息を詰めた。
「悪くねえよ。理不尽な相手を力で捩じ伏せるってのも有りだろうが、そうじゃなくて、真っ向対決な所がな」
 橘が転校してくるまでは、不動峰のテニス部は抑圧を通り越した暴力での腹いせのような振る舞いをする上級生と、最初から下級生の存在など眼中になかった顧問とで成り立っていた事を、跡部に話した事はあるけれど。
 あまり楽しい話でもないから、神尾もそんなには詳しく伝えていない。
「それは……でも、橘さんがいてくれたからで、…」
「くさらねえで、投げ出さねえで、決着つける時まで踏ん張ってたのはお前らだろ」
「………………」
「だから俺は、お前らのチームは気に入ってる」
 跡部は笑う。
 からかうとか、茶化すとか、そんなでなくて、笑う。
「……アア…?」
「………………」
「お前、何泣いてんだよ?」
「…だ、…っ……だっ………」
 だって跡部が、と言おうとして。
 もう、神尾はそれすら言えなかった。
 神尾自身びっくりするほど、いきなりすごい勢いで涙が目から出てきて、それはもう擬音で言えば、ぽろぽろとかいうレベルを超越して、とんでもない有様で。
「……っ…」
 びっくりしたのだ。
 すごくびっくりして、それと、あと、ものすごく嬉しくて。
 思った瞬間、涙腺が勝手に崩壊した。
 哀しくなんかないのに神尾はしゃくりあげて泣いた。
 顔と顔を見合わせながら、跡部も呆気にとられている。
 神尾の肩を抱いたまま、まじまじと神尾を見据えて、それから噴き出した。
 俯いて、肩を震わせて、笑い出す。
「なん、…だよ…ぅっ…、…っぅ…、…ぇ…」
 今度の笑いは明らかにからかいのそれで、神尾はそれを詰ったが、嗚咽に語尾が掠れてしまう。
 跡部は跡部で低く喉で笑いを転がして、ちらりと上目に神尾を見やってまた笑う。
「……すっげえ顔」
 跡部に言われなくても、神尾も判っている。
 これだけ勢いよく、どばどばと出てくる涙で、顔なんかぐちゃぐちゃだ。
 どれだけひどい顔をしているかなんて跡部に言われるまでもない。
 それだからこそ。
「かわいい」
 聞こえてきた言葉が、空耳かと思って神尾は呆けた。
 あまりに場違いな言葉が神尾の耳に飛び込んできた。
 ひくっと喉を詰まらせながらしゃくりあげる神尾を見据えて、跡部は意地の悪い声を、甘い笑みを刷く唇から零す。
「かわいいっつってんだよ」
「…っ、…、は…、ぁ、?…」
「泣きまくって、顔ぐちゃぐちゃで、不細工すぎて。それ以外の言葉が出ねぇ」
 跡部はどうしてしまったのか。
 言ってることめちゃくちゃだぞと言いたいのに神尾は言えなかった。
 さっきからずっと、跡部が優しい顔ばかりする。
 荒っぽい口調で、冴えた冷たいような声音で、次から次に言ってくれる言葉が神尾の脳裏に甘く染みて涙が止まらなくなる。
「てめえなあ、」
「……、っ……ぇ…っ…」
「俺が好きだって言った時に、これくらい喜んで泣きやがれ。馬鹿」
 喜んでる事なんか、結局跡部には全部お見通しなのだ。
 悪態をつくように告げられた言葉は、跡部の本心なのか、茶化されているだけなのか、正直神尾には判らなかったのだけれど。
 しゃくりあげて、裏返った声で、神尾は連呼した。
「だ…、…っ…すき…、……好き……跡部、…、」
 目元をごしごしと手の甲で拭いながら繰り返すと、その手は跡部にとられてしまって。
「おい。神尾」
「好…っ、き、だよ、…跡部、おれ」
「……泣いてねえでちゃんと目開けて見ろ。俺様はちゃんと見せてやってる」
 何を?と神尾は思いながら、言われるままに、涙で見辛い視界を凝らして見る。
跡部が言うから、跡部を見たら。
 また涙が出てきてしまった。
 全部全部全部跡部のせいだ。
「好きか?」
 俺が、と確認してくるその言い方なんか、本当に横柄なのに。
 笑みを刻む唇や、断言する声音や、跡部の態度の全てが、本当にえらそうなのに。
「……っ…、ん」
 好きか?と聞くから神尾は頷く。
 そうすると跡部はそれはもう甘ったるく、嬉しがる顔をするから。
 とても判りやすく、神尾に見せてくれるから。
 自分の言葉ひとつで、これまで見たこともないような、喜んでる表情を跡部がするから。
 好きだって、何度言っても、その都度その顔を見せてくれるから。
 神尾は繰り返し、それを口にした。
 


 その後、ある程度落ち着いた神尾は、自分自身のその時の状況を顧みて、羞恥で死んでしまうかもしれないと思った。
 泣いて、泣いて、好きだって言って、泣いて、好きだって言って、泣いて。
 何度それを繰り返したか知れない。
 少々壊れかけていたと自分で自覚する神尾に、溜め込みすぎだと跡部は軽く笑い、それでいて跡部が、物凄く上機嫌な事も神尾には判ったので。
 腫れぼったくなった神尾の目を見て酷いツラだと言って跡部が笑うのを、言葉で言い返すのではなく、噛みつくようなキスをする事で封じてやった。
 跡部の眠りはいつも比較的短い。
 寝付き自体あまり良い方ではないけれど、眠りは浅いという事はなく、ただ何時に眠っても五時間ばかりで必ず目が覚める。
 大抵はそうやって目が覚めた時にはそのまま起き出して一日を初めてしまう跡部なのだが、その日、明け方前に目覚めた跡部は珍しくももう少しこのまま眠ろうと考えた。
 跡部の胸元近くで華奢な肩を丸めるようにして神尾が寝ていたからだ。
 薄暗い室内、ベッドの上で、跡部は神尾の小さな丸い頭をぼんやりと見つめた。
「………………」
 跡部と違い、神尾はとにかくよく眠る。
 寝付きもいいし、夜中に起き出す事もしないし、朝は辛抱強く起こさないとなかなか起きてこない。
 とりわけ昨夜のように、眠りに落ちるギリギリまで跡部が加減なしに疲労困憊させてしまえば、もう生半可な事では目など覚まさないのだ。
 無意識に跡部の手が伸びて、神尾の髪を頭の形に撫でつけるように触れる。
 当然それくらいでは神尾は目を覚まさない。
 手のひらにあるさらさらと手触りのいい感触を感じ取りながら、跡部はそのまま閉じかけていた目を、ふと開けた。
「………………」
 思い立ったのはオリオン座流星群のことで、確かそれはここ数日がピークだった筈だ。
 それも明け方近くが一番よく見える。
 ならばちょうど今時分かと目線だけ窓の外へ向ける。
 冬物に替えたばかりのカーテンがしっかりと下りているので、外の様子は伺い知れない。
 しかし、部屋から直結しているテラスに出れば夜空を見上げるのも簡単な事だ。
 決断は一瞬。
 跡部は極力そっと起き上がってベッドから降りた。
 神尾は起きてこないと判ってはいても、身体が勝手にそう動いた。
 サイドテーブルに置いてある携帯を手にとって時間を確かめれば、一番良い頃合いと思われる。
 跡部はそのまま大きなガラス窓を押して開け、テラコッタの敷き詰めてあるテラスを歩いて行く。
 素足で歩くのはもう、涼しいというよりは寒々しいのに近い夜明け前だ。
 扉はきっちり閉めてきたから神尾が寒がることはないだろうと跡部は思い、その後ですぐ苦笑する。
 いつの間に、自分はいちいち何につけても神尾の事を基準に置くようになったのかと思ったからだ。
「………………」
 明け方前の東の空を見上げる。
 判りやすい並びのオリオン座はよく見える。
 跡部はテラスの柵に寄りかかるようにして頭上を仰ぎ見る。
 いきなり最初の一つ目の流れ星が夜空を撫でるようにすべり、一瞬で消えていく。
 その後も二つ目、三つ目、と流星を見つけて。
 朝になってこの話をしたら、おそらく神尾は盛大に拗ねるだろうと思い、跡部は唇にまた新たな苦笑を刻んだ。
 見せてやろうかとも思ったが、どうせ今跡部が起こしたところで神尾は起きっこない。
 それでも明日になって話を聞けば、自分も見たかったと、さぞかし拗ねて大変だろう。
 子供っぽい悪態を並べるのは想像に難くない。
「………………」
 こんな風に一人で星を見上げている間、考えていることが結局神尾のことだけだというのだから、跡部は自分がおかしかった。
 早くベッドに帰りたくなったのは寒さのせいでもないし、眠気がよみがえったからでもない。
 そこに神尾がいるからだ。
「………………」
 跡部は出てきた時と同じように、静かに室内へと戻った。
 ベッドに入る。
 寝そべる手前。
 跡部は中途半端な体勢で動きを止めた。
 神尾の目が開いている。
 跡部を、見ている。
 珍しいと思う反面、起こしてしまったかとも思い、跡部がそのまま神尾を抱き込んで眠りの続きに入ろうとしたのをとどめたのも神尾だった。
「………………」
 神尾の唇が動いた。
 読み取ろうと顔を近づけた跡部を見上げたまま、神尾は頼りない表情で、ぽつんと言った。
「……電話?」
「あ?」
 問い返しながらもその短い一言で神尾が言おうとした意味は全て悟った跡部だ。
 半ば寝ぼけているような相手を怒鳴りつけても仕方がないが、それでも跡部は短く舌打ちして、バァカ、と言った。
「かかってきてねえし、かけてもいねえよ」
「……そう…なのか…」
 ぼんやりとした声だったけれど神尾は返事をしてきた。
 当り前だろうがと跡部は少しきつく神尾を抱き込んだ。
「何時だと思ってんだ」
「……跡部、いないし」
 携帯、ないし、と神尾が跡部の胸元で小さく喋る。
 絡んでくるというより、途方にくれているような様子だ。
 何かを疑っているというより、戸惑っているような声だ。
 跡部は神尾の唇をキスで掠めた。
「何で目が覚めるんだかな。お前」
 普段の寝起きの悪さでは考えられない。
 でも今夜目覚めた理由が、一緒に寝ていた跡部がいない気配に気づいたからだというのなら上出来だと跡部は思った。
 機嫌の良い跡部の呟きを、しかし神尾は盛大に勘違いしているようで黙り込んでいるけれど。
 跡部からの抱擁でもキスでも声音でも、真意を察することも出来ない神尾に。
 さてどう判らせてやるかと、跡部は神尾を抱き込みながら思案する。
 仰ぎ見た夜空の流星群のように、幾つかの考えが跡部の思考を流れていくけれど。
「跡部」
 擦り寄るようにしてきた神尾の所作に、結局太刀打ちできるものなどなくて。
 もう一度改めて、跡部は神尾を抱き込み、口づけ、名前を囁き、そして話をする。

 証拠はオリオン座流星群だという話。
 体感する熱気、日差し。
 肌を刺すような刺激、反応する汗や呼気。
 屋外の夏の直中にいた自分達は、今は二人、部屋の中にいる。
 そこで神尾は跡部に強く抱き締められる。
 神尾の背骨にそって、一気に上から下まで、力の抜けていく感触が生まれる。
 そのまま座り込んでしまいそうになるのを辛うじて押しとどめたのは、神尾の必死な意思の為か、それとも跡部の強い腕のせいだったのか。
 神尾の腰に巻きつく跡部の腕の力が強くなる。
 身体が密着して、悲鳴のように心臓が鳴る。
 抱き締められただけなのに。
 それだけなのに。
 そう幾度自分自身に言い聞かせても、神尾の気持ちはもう、乱れて、乱れて、苦しくて。
 跡部、と動いた筈の神尾の唇は。
 けれど声を発する事は出来なかった。
 跡部の部屋の扉に、神尾は背を押さえつけられたまま、黙ったままの跡部に唇を塞がれる。
 抱き締められた時よりもひどく、足場を見失うような心許無さで神尾は身体を震わせた。
「何びびってんだ」
「……って、な……ぃ…」
 僅かに離れた唇。
 囁かれた言葉。
 少しばかり不機嫌そうに、跡部は神尾を睨みつけてきて。
 首筋の側面に唇を這わされる。
 神尾は真っ赤になった。
「……あと…、……」
「………………」
「跡部……、…っ…」
 そのままきつく肌を吸われて語尾が掠れる。
 頭の中も身体の表面も、熱で、濡れそうになる。
 神尾は跡部の肩の辺りのシャツを両手で握り締め、扉と跡部の間で、何だか自分がひどく小さくなってしまったような錯覚を覚える。
 身体は消えそうなのに、意識は濃くなるばかりだ。
「家帰ったら抱くって言ったよな」
 ひそめた跡部の低い声は、神尾の首筋から直接振動してきて、神尾は必死になって頷いた。
「…………った、けど…、…」
 けど、と神尾がぎこちなく繰り返すと跡部の手のひらがあからさまに神尾の太腿を撫でまわしてきた。
「…っ…、…」
 怯えた訳でも痛かった訳でもないが、神尾は息をのんで身体を竦ませる。
「……掴めちまうじゃねえか…」
「ぇ…、?……な…に…?」
 太腿の側面を辿る跡部の手のひらに神尾の意識は攪拌されて、か細い声しか、出なくなる。
「…跡部……」
「嫌かよ」
 感情の読めない跡部の声で喉元を擽られて、神尾は、びくりと仰け反った。
「…、っ…跡部は、…いいよぅ…っ……」
「アァ?」
「でも、…でもさ、俺…っ…」
 跡部が神尾の肌に寄せていた唇を離し、代わりに手を伸ばしてきて、神尾の前髪をかきあげた。
 身体を寄せたまま正面から目と目が合って、神尾は熱に浮かされたように跡部の色薄い目を見つめた。
「俺はよくてお前の何が駄目だ」
 不機嫌ではないようだけれど。
 ひどく怪訝そうに跡部が聞いてくる。
 神尾は肩で息をした。
 呼吸が乱れているのは自分だけだと、神尾はこめかみから汗が落ちるのを感じながら思う。
「神尾」
「…跡部、は、っ…いいにおい、する」
「ア?」
 ますます不審そうになる跡部に、神尾は溜息をつくように言った。
「なんで、こんな暑いのに……」
 同じように外にいて。
 同じようにここまできて。
 これだけ身体を近づけて。
 キスをして。
 神尾は熱で濡れたようになるのに、跡部はひんやりと澄んだ香りをまとって神尾を拘束する。
「なに言ってんだか判らねえよ」
「だから…っ」
 距離がなくなるくらい近づいて。
 抱き締められて。
 汗に濡れても、さらりと甘い香りのする跡部を、神尾はここにきて漸く、両手で押しやる事が出来た。
「シャワー、貸して。浴びてくるから、待っててって…、…」
 語尾が上ずったのは、いきなりシャツの裾から入り込んできた跡部の手のひらに脇腹を撫で擦られたからだ。
 唇を荒く塞がれて、舌がとられて、濡れて。
「冗談もいい加減にしとけ」
「なん…、……」
 殺す気か、とものすごく物騒で、ものすごく神尾に理解不能な呻き声が聞こえて、神尾はぎこちなく跡部の背中に腕を回す。
「跡…部……」
 唇が何度も何度も塞がれる。
 くらくらする。
 熱い、と涙目になって神尾は跡部の唇を受け止める。
 汗で濡れた神尾の肌に、跡部はお構いなしに指や唇を宛てがって、平気で。
「…ちょ…っと、……跡…部……ゃ、…」
「……今のお前の匂いなんざ、普段より幾らか甘ったるい程度だろうが」
 言いながら首筋を舐められて、神尾は竦み上がった。
「も、…っ……ど…して、そういうこと言う…っ…」
「てめえもだろうが」
「……え…?…」
 詰るような跡部の言葉に神尾は戸惑った。
「俺…?……なに…?」
「今の俺に、待て、だ?」
「……っ……、ちょ、っ、…なに…、っ…、」
「どういう思考回路してんだ、てめえは」
 何かをかなぐり捨てたような言い方で跡部に呻かれて、神尾は訳の判らないまま荒く服を脱がされる。
 何だか余裕のないような急いた手つきだった。
 もう一度同じ事を。
 シャワーを浴びると、待っていてと、神尾が口にしたら。
 音をたてて切れてしまいそうな勢いの跡部だ。
「跡部ー……」
 困ってしまって力なく跡部の名前を呼ぶ神尾に、ちらりと跡部は上目を寄こしてきて。
 唇の端は引き上げているけれど、少しも笑ってない目で神尾を見つめて、脅す。
「言葉、考えて喋れよ?」
「………ぅ…、…?…」
 神経を焦がすような擬音を跡部はその声で神尾に囁いてきて。
「………に、されていいんならシャワー行って来いよ」
「や、……い…です、…シャワー、いい…っ……」
 思わず涙目で神尾は首を左右にうち振ってしまう。
 跡部は満足そうに喉奥で笑ってみせて。
 そんな跡部の表情にますますやられて。
 神尾はぐったりと跡部の腕の中にしな垂れかかった。
 そこではやっぱり、涼やかないい匂いがしていて。
 跡部の両腕に包み込まれて神尾も何だか、もういいかという気になった。
 夏だから、跡部だから、だからもういい。
 汗だくでも、何でも、このままで、いい。
 跡部の家は大金持ちだ。
 だから例えば跡部の家で見たものの価格や、起こった出来事のスケールに、腰が抜けそうになると神尾が思った事も度々ある。
 けれども、それより何より。
 神尾を一番驚かせるのはいつも跡部自身だ。
「ほらよ」
「……ふ……わ…ー……」
「気の抜けるような声出すんじゃねえよ」
 眉を顰めて毒づく跡部が、テーブルの上に置いたもの。
 神尾の手の届く位置に置かれたカップからはコーヒーのいい香りがして、ふわふわのスチームがふちいっぱいまで注がれて、その上に描かれているのは薔薇の花だ。
「すっげー…! 何でこんなこと出来んの? 跡部」
「出来ねえわけねえだろ」
 神尾の感動など気にも留めずに、跡部は再び水差しを手にもう一つのカップにミルクを注ぎ入れる。
 ミルクの流れを微妙に操ってエスプレッソの上に注ぐことをフリープアというのは、今しがたテレビで言っていた事だ。
 泡の上にまた、細いスティックで手際よくデザインを描いていく跡部を前に、神尾は再び大きく息を吐き出した。
 たまたまだったのだ。
 跡部の部屋で見ていたテレビでバリスタの世界選手権の映像が流されて、数々のラテアートに神尾がびっくりしたり感動したりしていたら、跡部が呆れたようにそんなに気に入ったのなら作ってやると言いだした。
 キッチンに連れてこられて、そうしたら神尾の目の前で恐ろしいほど優雅な所作で跡部が用意した道具でカフェラテを淹れた。
「跡部って、ほんとなんでも出来んのなー」
「今更判り切ったこと言うな」
 こういうの、よくやんの?と神尾が聞くと、馬鹿かと跡部は神尾を睨んできた。
「俺様が自分でわざわざ淹れるわけねえだろ」
「え。じゃあ今初めてやったのか?」
「お前がガキ並に感動してうるせえからな」
 泣きボクロのある側から怜悧な流し目を寄こされて、思わず神尾はどぎまぎする。
「寄こせ」
「え?」
「こっちのが出来がいい」
 カップを取り換えるよう促された神尾がテーブルに視線を落とすと、ロゼッタのラテアートが施されたカフェラテのカップを跡部は持って行き、代わりに滑らせてきた方を見つめた神尾は、ぽかんと口を開けた後、じわじわと顔を赤くした。
「ちょ、……これ…」
「いい出来だろ?」
 神尾の向かい側の席についた跡部が、片肘をついた手のひらの上に頬を乗せ、にやりと唇で笑う。
 跡部が淹れた二杯目のカフェラテには、片目が長い髪で覆われたデフォルメされた人の顔のイラストと、誕生日を祝う英文でのメッセージが描かれている。
 今日は確かに、神尾の誕生日だ。
 こういうのは、なんだか恥ずかしくて、擽ったくて、嬉しくて嬉しくて、どうしたらいいのか。
「飲めよ」
「…ぅー」
「何だよ」
 跡部と向かい合いながら神尾は唸った。
「飲めねえよう…」
「猫舌だからな、お前」
「…そういうんじゃなくて」
「ガキはゆっくり飲めばいいだろ」
 跡部は綺麗な指でカップを掴み、睫毛を伏せてカフェラテに口をつける。
 口は悪いし、素っ気ないようであるのに。
 そんな跡部の中には、むしろ神尾には太刀打ちできないような甘ったるい態度も潜んでいるのだ。
「………………」
 もったいないっていう言葉の意味が目の前の男に通じるだろうか。
 おずおずとカップに手を伸ばし、何だかもう気恥かしいような嬉しくてたまらないような、ふわふわとした気分でラテアートを見つめていた神尾は、ふと何かの気配に気づいて顔を上げた。
「なに、見てんだよう…」
 気配を感じて当然だ。
 ものすごい、見られている。
 跡部に。
「見ちゃ悪いかよ」
 別に悪くはない筈なのだけれど。
 長い睫毛を軽く伏せられても尚、強く澄んだ眼の力は強くて、神尾はうまく説明出来ずにうろたえる。
「……なんか、落ち着かないんだよう」
「だから見ちゃ悪いのか」
「………だから、…だからさあ…悪いとかじゃなくてさあ…落ち着かないんだってば…」
「うるせえ。知るか」
 睨むような目をして跡部は立ち上がり、ガラスの天板に手をついて。
 近付いてきて。
 神尾の唇を掠ってくる。
 ほろ苦いような香りと一緒に、やわらかなキスが一瞬。
「…、…ん」
 神尾の目前まで迫っていたきつい目付きからするとびっくりしてしまうくらい丁寧に。
 跡部の指先は神尾の頬を支え、そこがじわりと神尾は熱くなる。
「慣れねえのな。お前は」
「………慣れるわけないだろ…っ…」
 目を閉じたまま泣き言混じりに神尾が怒鳴ると、跡部は笑い出して、神尾の頬を支えたままこめかみにも唇を落としてきて。
 さらさらと神尾の肌に触れた感触は、跡部の髪だ。
「なあ」
「…………に…?…」
「飽きんなよ」
「……は…?」
 神尾は思わず目を開けた。
「…ま、ちっとも慣れねえくらいだから、そっちの心配はまだいいか」
「跡部ぇ…?」
 ひとりごちる跡部の言葉が、全くもって神尾には理解不能だった。
 慣れろとか、飽きるなとか、跡部の言う事は本当にもう、めちゃくちゃだ。
「おら、いい加減冷めたぜ。お子様向けだ」
 跡部が唇に笑みを浮かべたままそっと神尾から離れていく。
 目線で促されたカフェラテに救いを求めるように、神尾はキスを引きずる唇で、熱いままの頬で。
 半分涙目に。
 今日の為のメッセージを飲み干した。
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