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How did you feel at your first kiss?
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 てめえには色気がない。
 跡部は以前そう言った事がある。
 言った相手は神尾だ。
 何度目かのキスになっても、まだガチガチに固まっている神尾にそう言ってやったのだが、それを聞いた神尾は突然ぱちりと目を開けて、大真面目な顔をして跡部に返してきた。
 それ俺にあったらおかしくね?
「………………」
 余計な事を思い出したと跡部は思った。
 あの時も、今も、神尾は硬直して跡部のキスを受けている。
 薄い瞼の皮膚と睫毛の先の細かな震え。
 唇を舐めて、舌先をあからさまに差し入れて、ガードが固いのか無防備なのか判らない唇のあわいを潜る。
 癖の無い、感触ばかりがとろりとした小さな舌を、愛撫のように同じ器官で弄りながら、跡部は唇を合わせ、舌先で神尾の口腔を探る。
 神尾は小さな声を細い喉からもらしている。
 身体は強張ったままで、でも内部は少しずつ柔らかくなり、濡れていっている。
 あの時も、今も、跡部が思う事は同じだ。
 ないと決めてかかって言うしかない。
 ありすぎるからむかついて仕方ない。
 煽られている自覚は最初からあった。
 おかしいのは俺かと、呆れと八つ当たりで凄むような目になって、跡部は神尾の舌を貪って口付けを深くしていく。
「ん…、っ…ん、…」
「………………」
 最近は、キスをしながら身体を撫で回している。
 それで煽ってやろうとして、結局煽りをくらっている気がしないでもないが、神尾の薄い身体のそこらじゅうを跡部は手のひらで撫でている。
 今日は、塞いだ吐息が過敏に揺れるから、腿をしつこく擦る。
 いい加減もう、びびられても、抱いちまうかと。
 跡部は考えて、唇を離す。
 互いの唇の合間に透明に撓む口液。
 濡れた神尾の唇は薄く開いていた。
「………………」
 元々跡部は、奪う事にはさほど興味が無い。
 奪うという事は、他人のものを取り上げるという事だ。
 盗み、失わせるという事だ。
 これまで跡部が欲しいと思ったものは、手に入れてきたものは、他人の持ち物であった事は一度もない。
 だから手こずるのだ。
 目の前にこの存在に。
 奪うやり方ではなく、それでも、自分だけのものにしてやるにはどうしたらいいか。
 神尾にはこうしてキスだけで、それ以上のことは、まだ何もしていないという事を。
 跡部を知る人間に聞かせてやれば、さぞや呆れたり驚いたりするであろう自分を跡部は自覚しつつ、神尾の首筋を食んだ。
 神尾はされるがままだ。
 跡部がする事に、硬直するのは毎度だが、抗われた事は殆どない。
 恐らく判ってないのだろうと跡部は思う。
 名前だけで認識している行為といったところか。
 現に今も、喉元を舐め上げてやれば声を詰まらせて震えたのに。
「…何だよ」
 視線を感じて、跡部は神尾の首筋からちらりと上目に目線をやる。
 思った通りに神尾はじっと跡部を見てきている。
 跡部が至極不機嫌に問いかけた事への神尾の返事はこうだ。
「や、………どう…やんのかと思って」
「………………」
 つくづく判っていない。
 何がというよりも、もう何もかもがだ。
「後学の為か?」
「え…?」
 取り繕うのも面倒で、跡部は不機嫌を隠さなかった。
 神尾が、こうがく?と聞き返すのを遮って、跡部は別の言葉も口にした。
「それとも比べてんのか。お前」
「くら………」
 何と!と即座に返されて。
 誰と!と言われなかっただけまだマシかと思いながらも跡部は神尾の首筋にきつく吸い付いた。
「……ッ…、…た…」
「痛くしてんだよ」
 あからさまに濃厚な、抱いたり抱かれるする身体にしかつかない痕を、何も判ってない知らない身体につけていく。
「…………あと…べ…」
「何だよ」
 耳の縁もついでに甘く噛んでやった。
 神尾が両手を伸ばしてきて、跡部は神尾に抱き締められた。
「ごめん」
「何が」
「傷つけた…?」
「馬鹿だろ。てめえ」
「う……ごめん、なさい」
 多分今の自分達の会話は、本質的なところがずれたままで交わされている。
 跡部が言った悪態の意味と、神尾が謝る言葉の意味は少しずつ違う。
 けれども。
 甘やかされてやると、不遜に神尾に抱き締められたままの跡部も。
 判らないながらも人の心情に過敏な故に、ぎこちない言葉で跡部に謝る神尾も。
 大事にしたい、なくしたくないものは同じだ。
「………………」
 お互いの手を伸ばし、お互いの力で抱きしめあう。
 唇を、幾度も、重ねる。
 唇を、幾度も、合わせる。
 今、一番必要で、有効で、効率的な。
 今、その思いを真摯に告げる為の術は。
 これなのだろう。
 我慢とも違う。
 困惑とも違う。
 今、何の過不足もなく、自分達に必要なもの。
 しているキスは、したいキスだ。
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 同じ事を何度となく繰り返すということは、基礎というか反復というか、つまりは普通ならばだんだん慣れて、どんどん上達するのが常の筈ではないのだろうか。
 それなのに、どうしてこれは、そうならないのか。
 寧ろだんだんと、どんどんと、後退していっている気がした。
 ぐったりとベッドにうつ伏せた体勢で、神尾は空ろに考えている。
「………………」
 跡部が触れたところ。
 跡部が入ってきたところ。
 跡部が濡らしたところ。
 体感はリアルで、今はそうされていないのに、まだ全てが引き続いているかの如く、神尾の四肢は時折意味もなく、びくびくと跳ね上がる。
「…………ふ…」
 息を詰めては、ほどく。
 その繰り返し。
 吸う息も、吐く息も、未だ燻る残り火のように神尾の口腔を痺れさせていた。
 おさまらない、苦しいくらいの熱の中での呼吸。
 肩が上下する。
 気道が苦しい。
 こめかみから汗が流れてくる。
 肌の上を撫でていくような汗の微かな触感にすら、神尾は細かく震え続けた。
 なんなんだよこれという泣き言めいた言葉で頭の中をいっぱいにして、唇を噛むので精一杯だった。
「………………」
 初めて跡部とした時は、経験のない甘ったるい倦怠感に疲れ果てながらも、その後じゃれるような言い争いを同じベッドにいるまま跡部と繰り交わす事が出来た筈。
 二度目の後は、どうにかして跡部の腕からもがいて抜け出そうとし、すぐさま捕まえられ、また逃げ出し、また捕まって、そんな真似が出来た筈。
 三度目の後は直後に少し気を失いはしたけれど、目が覚めた後は跡部の軽口にも言い返す事が出来た筈。
 四度目の後は、いつまでたっても呼吸が収まらずにいたものの、涙目で跡部に不平を言う事が出来た筈。
 そういう事を考えていると、すでに幾度目になっているのか判らない今の自分の状態は、いったいどういう事なのかと神尾は混乱しきっていた。
 上掛けに包まって、丸くなって、シーツの上で身体を竦ませ続けている自分はいったい。
「神尾」
「………っ、…」
 背後から腕が伸びてくる。
 身体に巻きついてくる。
 神尾は思わず泣くような声を迸らせて硬直した。
 余韻だけで半泣きだった所に、実際に触れられてしまってはもうひとたまりもない。
 跡部は至極無造作に抱き込んできたけれど。
 神尾は肩を窄ませて動けなくなる。
 頬を撫でられた。
 顎を支えられた。
 唇を辿られる。
 跡部の手に、指に、顔を触れられながら。
 神尾の身体はくるりと返された。
 寝そべったままの体勢で、跡部と正面から向き合う。
「………………」
 目が、眩しいものでも見ている時のように、ちかちかする。
 顔に在る手、繋がる視線。
 そういうものを認識する都度、神尾は肌を震わせた。
「………………」
 神尾の上にいて汗を浮かべていた跡部の肌は、もうさらさらとしている。
 抱き寄せられて知る。
 喉奥で悦楽を転がしているよう卑猥な笑み交じりの呼気を漏らしていた唇も、今はひどく涼やかに見える。
 目の前に晒されている。
「………………」
 神尾が、自分ばかりが未だにあの熱を引きずっている状態である事に居たたまれなさを覚える程に、跡部は穏やかだった。
 ベッドに横たわったまま向かい合い、神尾の髪をゆっくりと後頭部へと撫でつけてくる手のひら。
 宥められているのか煽られているのか神尾には判らなかった。
 何かを言いたい気もするが、唇が動かない。
 跡部を見つめ返していると涙で目の奥が熱くなる。
 吐息がまた潤んだ熱をはらんで唇から漏れていく。 
「………早く帰って来いっての…」
 徐に跡部が言った。
 唇の端を引き上げて、跡部は笑っている。
 神尾の髪を撫で、頬を撫で、眦を撫で、唇を撫で、笑っている。
 甘い見つめ方をされて、跡部のその眼差しに、溶けたようになって。
 手足に力が入らない。
 本当に、これではまるで骨抜きという状態だった。
 どこにも力が入らない。
 跡部に見つめられ、撫でられていると、身体はますます動かなくなった。
「………………」
 どうしよう、と思って心細く。
 早く帰って来いっていうのはどういう?と思って更に心細く。
 神尾が手足を縮めて小さく丸まると、跡部が乗りあがってきた。
「………ったく……しょうがねえな。俺がそっち行ってやるよ」
「…………と…べ……」
「ベソかいてんじゃねえよ」
 悪態をつく跡部の唇が、しかしふわりとやわらかく神尾の唇を覆った。
 やさしかった手のひらが、やらしくなって、神尾の身体を辿り出した。
「どっちが甘やかされてんだか判らねえな」
「、跡……、部…、…」
 甘いだけでなく危うさも含んできつく鋭くなった跡部の視線に晒されながら、神尾は跡部の言葉の意味を考えるけれど。
 笑みを刻んだ形の跡部の唇に濃密なキスをされてしまうと、もう。
 他所事は全て、神尾から霧散していってしまった。
 湯にリンゴがたくさん浮いていた。
 青リンゴと、紅リンゴ。
 あらかじめ判っている出来事ではあっても、実際目にすれば盛り上がる。
 神尾は気心知れた友人達と今まさにそういう状況に在った。
「すっげえ!」
 もっか銭湯にいる不動峰の二年のテニス部員六名。
 リンゴだリンゴと揃って湯を覗きこむ。
 銭湯に他の客の姿はまだない。
 平日の一番乗りなのだ。
 それというのも、今日の部活は落雷つきの強い雨のせいで急遽ミーティングになった為、いつもよりも帰りの時間が早かったせいだ。
 用事があると言う橘に頭を下げ、先に部室を後にしてきた二年の面々が、連れだって帰宅する時には、すでにその雨も止んでいた。
 そうして帰途につく道すがら。
 『本日リンゴ湯』の銭湯の貼り紙を見つけた神尾達は、勢いでそののれんをくぐったのである。
 貸切状態の広い浴槽。
 貼り紙にあった通りにそこにはリンゴが無数浮いている。
「うっわー、リンゴ浮いてるぜ、リンゴ!」
 賑わう六人の中で一際テンションが高いのが神尾で、一際テンションが低いのは伊武だ。
 それはどの状況でも変わらない、不動峰のいつもの光景だ。
「……リンゴ湯に入りに来たんだからリンゴが浮いてるのが当たり前だろ……リンゴ湯にミカンやイチゴが浮いてる訳ないだろ普通……いやんなるなあ、神尾って。どうして当たり前の事にそこまで喜べるんだろう。俺にはさっぱり判らない」
「だって深司、リンゴ風呂だぜー。リンゴー」
 すっげえ!と嬉々とする神尾の横で、伊武が鬱々と溜息をつき、ぼやき続ける。
 顔を引き攣らせる森、我関せずの内村、温厚に場を取り成す石田と、人数分の桶を用意している桜井。
 好き勝手しているようで、団結力は関東随一だと自他共に認める不動峰の面子だ。
 思い思いの行動を取りながらも、並んでシャワーを浴びる。
 誰よりも素早くシャワーをすませた神尾が、機嫌よく一番乗りにと湯船に向かう背には、次々と声がかかった。
「転ぶなよ、神尾」
「飛び込むなよ、神尾」
「泳ぐなよ、神尾」
「溺れるなよ、神尾」
「リンゴ食べないでよ、神尾」
 ほぼ同時に仲間達からかけられた言葉の数々全部に、しねえよ!と神尾は速攻で牙を向いた。
 どういう言い草だよと不貞腐れたものの。
「…っうわー」
 ざぶんっと音をたてて広い浴槽に沈んでしまえば、無意識に神尾の表情は緩んだ。
 湯の中は広々としていて、手足が楽に伸びる。
 心地良い湯気、ぷかりと浮いている色鮮やかなリンゴ達。
 息を大きく吸い込むと、甘酸っぱい香りがした。
 不動峰は公立校なので、他の私立校のように校内施設が充分に完備されていない。
 通常部活後にシャワーを浴びる事もない。
「快適ー…」
 それゆえに。
 今日はミーティングだけだったといえ、銭湯の湯が格別に思えた。
「きもちいー……」
 満面に笑顔を浮かべた神尾の周囲に、友人たちも次々入ってきた。
「……本当に気持ちよさそうな顔してるなぁ。神尾」
「石田。だらしない顔っていうんだよ。こういうのは」
「相変わらずキツイぜ深司は……」
「………全く」
「ま、俺達全員似たり寄ったりの顔してんじゃねえか」
 そんな風に好き好きに口を開きながらも、六人は思う存分リンゴ風呂を堪能したのだった。



 そんなリンゴ湯から、数十分後。
 神尾は全速力で走っていた。
 せっかくの、あの銭湯の余韻が。
 瞬く間に消えうせていくのを体感しながら、神尾は走っていた。
 くそうと呻いては走っていた。
 とにかく、ひたすらに、走る。
「跡部のやろう!……なんでいつもこうなんだよ…っ!」
 嫌なら行かなきゃいいのにとぼやいていた伊武の言葉がふと神尾の脳裏を掠める。
 慌てて神尾は頭を振った。
 振って、尚、走った。
 リンゴ湯を堪能した湯場から、脱衣所へと出てきた時には、すでに神尾の携帯電話はロッカーの中で鳴っていた。
 受信するなり神尾の耳に飛び込んできた低音。
 うわぁ機嫌悪ぅ、と神尾は即座に思い、頬を引き攣らせた。
 電話をかけてきたのは跡部だ。
 実に判りやすく最悪に不機嫌だった彼は、最初は、何回コールさせりゃ気が済むんだと言って怒っていたのだが。
 神尾が半ば叫ぶように今の状況を説明し返していると、携帯電話からは冷たい怒気が浸透してくるかのような沈黙が流れてきて、そしてその後に。
『……不動峰で雁首並べて風呂に入ってるだと? てめえ、今すぐそこ出て、走れ』
『は? なんで!』
『何でじゃねえ。走れ。二十分で俺の家まで来い。いいな』
『…、よくな』
『いいから、走れ』
 低く重く恫喝されて。
 電話を叩ききられて。
 神尾は腹をたてた。
 むかついて、怒り狂って、ふざけんなと絶叫しながら。
 着替えて、銭湯を出て、走っているのだ。
 友人達には当然、ぼやかれたり呆れられたりした。
 全力疾走などするものだから、銭湯のあの心地良かった余韻も何もなく、汗みずくになった。
 かくして、所要時間は二十分以内だったのかどうか、真偽の程は定かではないが、神尾は走って跡部の家に辿り着く。
 扉が開くなり、跡部は息を乱して汗をかいている神尾を尊大に見下ろし、有無を言わさず跡部家の浴室へ神尾をひきずりこんだ。
 まさに、正しく、引きずり込んだ。
 そして神尾が跡部に成された事は。

 洗われた。

 いったい何が気に食わないのか、泡まみれにされて、隅々洗われた。
 ここ最近で一番最悪の暴挙だと跡部に噛み付きながら、神尾は泡にまみれ、時々キスなどされながら。
 友人たちとはしゃいだ銭湯の余韻も、リンゴの残り香も、さっぱりとした爽快感も、あらかた跡部の手に洗い流されてしまった。
 そうして、跡部が神尾から落としてしまいたかったものは、どうやら何故か、まさにそんなものたちだったらしく。
 浴室から出てからの跡部の機嫌は寧ろよくて、神尾にはさっぱり訳が判らなかった。
 自分の肌から、髪から、身体から。
 跡部の匂いがする中で、神尾はただただ、首を捻るばかりだった。
 跡部の言葉ひとつ、動作ひとつで、神尾の気持ちはどのようにも動く。
 嬉しくもなるし、苦しくもなるし、幸せにもなるし、不安にもなる。
 跡部が、まるで自分の感情の軸になっていて。
 跡部に纏わって自分の気持ちが巡り巡っているような心もとなさをいつも神尾は持っている。
 こうしてただ一緒に歩いているだけでも感じている。
「おい」
 跡部の低い声には、幾らかの苛立ちと、幾らかの困惑と、幾らかの遊楽が交ざっている。
 その分、そのようにだけ、神尾の気持ちは揺すられる。
 跡部の家に向かう道すがら。
 いきなり跡部に肩を抱かれた。
 それで強張ってしまった神尾を、跡部は強引にそのまま抱き寄せ歩き続けながら、前方を見据えて告げてくる。
「泣かす前から泣くな」
「………………」
「俺がお前を泣かすのは家についてからだ」
「……泣…いてねえよ…」
「どうだか」
 肩をそびやかす。
 前を見たまま目を細める。
 跡部は、神尾の肩を抱いたまま。
「………、…跡…部」
 ぎこちない小声で神尾がその名を口にすれば。
 すぐに跡部の視線は神尾に向けられたのだけれど。
 それはもうあからさまに不機嫌に見下ろされて、神尾は息を詰める。
「嫌がってんじゃねえよ。生意気に」
 往来を歩きながら、跡部は神尾の肩を抱き、だからそれが、と神尾は怖く思っているのに。
 跡部は平然としている。
 寧ろ腕の力が強くなる。
「なにガチガチに固まってんだ」
「だって、お前……!」
 こんな所を友人や知り合いに見られたらどうする気なのかと、言葉にしきれないまでも、神尾は声を振り絞った。
 どうしてそんないとも簡単に、自分の肩など抱いて歩くのだ。
 跡部は。
 神尾はそう思うのに、混乱するのに、跡部は神尾を放さず、足も止めず、ただ唇を婀娜めいて歪ませた。
「肩が嫌なら腰だな。ついでに馬鹿でどうしようもないお前にキスもくれてやるよ」
 言った通りに腰を抱かれて軽くキスまで奪われる。
 ひくりと神尾の喉が引き攣った。
「な…、…っ……何、…なに考えてんだよ…っ!」
 ひどく手馴れた自然なやり方だったせいで、神尾は間の悪いような狼狽を跡部に晒す羽目になった。
「何考えてんのお前…、…っ」
「てめえのことだよ」
「……っ……、」
 当たり前の事を当たり前のように告げる跡部の言葉が、神尾の頭の中を埋め尽くす。
 否が応でも強烈な存在感で人目を集める跡部が、いったい自分相手に、こんな人目につく場所で、何を言って、何をしでかしているのかと。
 神尾が狼狽と困惑のないまぜになった悲鳴を上げても、跡部は平然としている。
 依然神尾の腰を抱き寄せたまま歩き、一度も歩を滞らせる事なく、跡部の家へと向かっているだけだ。
 そうしながら跡部が毒づいてくる言葉は、神尾が危惧しているものとはまるで次元が違った。
「………ったく……四六時中馬鹿みたいに馬鹿なお前のことをだな。この俺様の優秀な頭で考えてやってんだよ」
「……、………」
 もう少しまともに有難がれと凄まれて、神尾は歯噛みして、顔を赤くする。
「ば、……ばかばか言うなっ…!」
 精一杯の虚勢で叫んだ言葉も跡部は容易くあしらう。
「お前に言ったのは、さっきは一回だ。このバカが」
「また言った…っ」
「うるせえな…さっきみたいな半端なヤツじゃなくて、マジでその口塞ぐぞ」
「……っひ……」
 こうなってくると一切の虚勢も張れなくなって、神尾の喉が細声を上げてしまう。
 それで跡部は一転、至極機嫌良さそうに笑った。
 神尾の腰を抱き寄せたまま、歩を進めていく。
 早く。
 歩く。
 まるでひどく急いでいるかのように思える足取りで。
「……跡部…」
「何だよ」」
「だいじょうぶ…なのかよう…」
「アァ?」
 半ば引きずられるようにして歩きながら、ぽつりと零した神尾の言葉を、跡部は正確に拾い上げてくる。
 雑な問い返しのようでいて、きちんと視線を合わせてくる跡部の眼をぎこちなく見つめ返して、神尾は言葉を濁した。
「だから……こういうの…さ…」
 視線が周囲を見回してしまう。
 無意識に。
「この程度、じゃれてるようにしか見えねえだろ」
「…、見えねえよっ」
 じゃれるとか。
 ありえないだろう。
 跡部の顔立ちや雰囲気にこれ程までに不釣合いな言葉があるだろうかと神尾は唖然とする。
 だから神尾はこんなに心配しているのに。
 当の跡部は人を食ったような目で神尾を見下ろしてくるばかりだ。
「……こんなとこ見られたら…やばいんじゃねえの、跡部…」
「てめえが悪目立ちさせてんだよ」
 え?と神尾は聞き返した。
 跡部の言った事がよく判らなかったからだ。
「…跡部?」
「笑ってりゃいいだろうが」
「………………」
「そんな悲壮感たっぷりのツラしてねえで、俺に肩抱かれようが腰抱かれようが、笑ってりゃいいんだよ。てめえは」
「……俺の…せいかよう…」
「ああ。てめえのせいだ」
 皮肉っぽく笑んだ唇。
 眇めた眼差し。
 歩きながら跡部が、再び神尾に顔を近づけてきた。
「………………」
 ゆっくりと
 ゆっくりと。
 あえて歪めて見せても印象は綺麗なままの、唇や。
 不思議な色で見据えてくる瞳で。
 跡部に、摑まって、完全に、神尾は動けなくなる。
「………………」
 盗むようなキスで唇を掠られる。
 小さく唇を啄ばむだけで、跡部は離れていく。
 さっきしたキスと同じだ。
 でも、だからこそ。
「……泣くようなキスじゃねえだろ」
 同じように繰り返してくれる跡部に、神尾は心もとない不安を闇雲な勢いで覆い隠す安堵感を覚えるのだ。
「…………ばかやろ…こんなとこでするな」
 うう、と呻いて俯きかける神尾を、跡部は強引に引きずってまたスピードを上げて歩き出す。
 足早で、本当に。
 それはスピードが信条の神尾ですら懸命になってしまうほどの歩みで。
「跡部」
「お前がさせてんだ。何もかも俺に」
 何もかもというのは、こういう事なのだろうか。
 神尾は思う。
 強引な、肩や腰を抱いてくる腕。
 隠そうともしないキス。
 急くばかりの帰り道。
「………俺のせいに…すんなってば…」
「いい加減観念して腹くくれ」
「……跡部の言ってる事よく判んねえよ…」
 神尾は、ただ跡部の事が、好きなだけなのだ。
 それだけだから。
 こんな場所での密着や、キスは、こわいことだと思ってしまうのに。
「俺以外目に入らなくなれ。俺にのめりこんで、深みに嵌って、溺れちまえって言ってんだよ」
「………、なん…」
 思いのほか真顔で跡部が脅してくる。
 なんで、そんなのは、とっくじゃんかと。
 神尾は思いながら、伝わりづらい自分の恋情に、いつもいつも、手こずってばかりいる。
 でも跡部はずっと側にいるままだし。
 神尾の恋情も、消える事がないので。
 ここから、どこへでも、どこにでも、確かに道が続いているように。
 心から、どこへでも、どこにでも、好きだと思う気持ちが伸びていく。
 だからいい加減跡部だって、もっと平然としていたっていい。
 脅すみたいな言葉が、不思議と甘く聞こえるのは、どちらのせいか。
 神尾はひっそりと、そんな事を思ってもいる。
 大概において自分の範疇外の行動をとる奴だと跡部は思っている。
 対象は、神尾アキラという生き物だ。
 一つ年下の、その割には大層なガキ、しかしそう思っていたのは最初のうち。
 今となっては、これはもう動物だと思うようになっていた。
 危害をくわえられる事はない、ガキの動物。
 今日も今日とて神尾は落ち着き無い事極まりなく、小さい身体でちょこまかしている。
 だいたい待ち合わせ場所に現れて、それで跡部を素通りした相手など、跡部は神尾以外に経験した事がない。
 ありえない振る舞いに本気で腹を立て、目を据わらせた跡部が強引に掴んだ神尾の腕は細かった。
 手に余るくらいに細かった。
 そうやって掴んだ二の腕から強く引き寄せると、うろうろと彷徨っていた神尾の目が真っ直ぐに跡部を見上げてきた。
 その時になって漸く、あ、と跡部に気づいた顔で笑う。
 嬉しいと、満面の笑みに込められたその表情は明け透けで。
 跡部は毒気を抜かれてしまった。
 そんな顔をするくらいなら何故通り過ぎたり出来るのかと甚だ疑問だ。
 舌打ちした跡部に対して、遅れてごめんな、と眉尻が下がる神尾の表情は本当に子供っぽい。
 跡部が無言で顎で指し示す仕草で促し歩き出すと、神尾は神妙についてはくるものの、また気もそぞろになってあちこち見回している。
 然して珍しい道でもないのにだ。
 跡部が視界の端でそんな様子を伺い見ていると、神尾はともかくきょろきょろと落ち着きがない。
 そのくせ時折ひどく真面目な顔で溜息などもついている。
 いったい何を珍しくもそこまで思いつめているのかと、仕方なく跡部は問いかけてみた。
 素っ気無い跡部の声に対し、返ってきた神尾の言葉はこれだ。
「俺よう、跡部。実は猫を撫でたいんだ。あ、今日中に」
 跡部には理解不能だった。
「………………」
 重ねて問いかける気力も湧かない。
 跡部は歩く足を止め、神尾を見下ろし、薄い唇を皮肉気に歪めた。
 漏らした溜息は我ながら冷徹だと思った跡部に、何故か神尾は、意味が伝わらなかったのが不思議そうな顔をしている。
「跡部?」
「………………」
「ええと、だから、猫な」
 まるで跡部にも判るようにと、神尾が言葉を噛み砕こうとしているのがまた余計に跡部を呆れさせた。
 何なんだこいつはと思う跡部に。
 猫、そのへんにいねえかなあ?と、神尾は跡部を上目に見やって首を傾けてくる。
 これはもう、ガキなのか動物なのか。
 いや実際、それよりももっとタチの悪い生き物かもしれないと、跡部は神尾の小さな顔を見下ろし内心で思う。
「猫…」
「………………」
 いたいけ。
 なんて言葉が脳裏に浮かぶような真っ直ぐな目で、神尾は跡部を無心に見つめてくる。
 今すぐにでもぐちゃぐちゃにしてやろうかなどという、跡部の心中など露とも知らない神尾は、単に跡部が訳が判らずに黙っているのだと思ったらしかった。
 あのな。と口調を変えてきた。
「俺、昨日ハッピーターン食ったんだよ。だからなんだけど」
 何がどうしてだからなのかと呆れる以前に。
「………なんだそれは」
 食えるらしいハッピーターンとやらが跡部には判らない。
 会話の出来ない自分達に不機嫌も露に聞けば、神尾は不思議そうに更に小首を傾けた。
「あれ…知らない? お菓子。甘じょっぱいやつ」
「てめえの説明でますます判らねえ」
「煎餅みたいなやつ。こう、ちょっと長い。で、透明なのでくるくるって」
「………………」
 身振り手振りまで感情豊かな神尾のボディランゲージがまた跡部には皆目検討がつかない。
 子供っぽい仕草が可愛くなくもないが。
 ともかくそういう食べ物があるらしいとだけ認識して、跡部はすごむように先を促した。
「それが何だ」
「そのハッピーターンを包んでる透明な紙に、えっと、マメ知識?…みたいなのが書いてあった」
「………………」
「猫がくしゃみをする夢を見ると、幸せになれるんだって」
 そう書いてあったんだと神尾は言って、それから眩しいばかりの明るい笑顔になって。
「俺、今日、猫がくしゃみする夢みた!」
 でもさ、と今度はすぐさま肩を落とす。
 本当に、あまりにも目まぐるしい。
 跡部は腕組みして憮然と神尾を見下ろしつつも内心で。
 この生き物を一生自分だけのものにする方法を考えてしまったりする。
「でも、もしその猫のしっぽが短かったら、幸せの後に大どんでん返し。大きな落とし穴が待ってるって、ハッピーターンの包み紙に書いてあったんだ」
 しょぼくれた華奢な肩。
 細い首。
 跡部は見下ろして、目を細める。
 この間、第一頚椎と第二頚椎のあたりにつけてやった鬱血の痕は、まだうっすらと色づいて見下ろせる。
「………………」
「それでさ、幸せの後の大どんでん返しにならない為には、夢をみたその日中に猫を探して、撫でてやるといいんだって」
 だから俺、猫を今日は一日ずうっと探してるんだけどよう、と神尾は呟いた。
 それであの落ち着きの無い態度かと、跡部は漸く納得する。
 跡部には全く持って理解できない行動だけれど。
 神尾ならば、いかにも当然といった気がした。
 さてどうしてやろうかと跡部は考える。
 猫ねえ、僅かに首を傾げた跡部の視界で、しかし神尾がいきなりまた突拍子もない事を口にしてきた。
「跡部……」
「…アア?」
「跡部って…猫っぽい…よな…?」
「何だと?」
 猫!と神尾が叫んだ。
 うるせえ、と跡部が怒鳴るより先に。
「うん。跡部、猫っぽい。…ってゆーか、猫だ!……あれ、…ってことは……」
「……おい」
「跡部を撫でておけばいいんじゃねえ?」
「てめ、…」
 言うが早いか神尾の手が伸びてきた。
 両手。
 爪先立って、くしゃくしゃと跡部の髪をかきまぜてくる。
 嬉しそうな満面の笑みと共にだ。
「あー、よかった! すっきりした!」
「………っ…、…」
 跡部が物凄い形相になったのは。
 乱された髪に対してではない。
 警戒心などまるでない指先と、無邪気な笑い顔のせいだ。
 大どんでん返しを免れたらしい神尾に、まんまとはめられて。
 それならいっそ、一生、一緒に。
 幸せというもので雁字搦めにしてやると目論む跡部は、凶悪に甘く笑みを零した。
 何か言われる前に、ともかく跡部より先にと神尾は口をひらいた。
 跡部の家の玄関先で、半ば叫ぶようにして神尾が口にした言葉は。
「俺が折ったんじゃないんだからな!」
 すると跡部は少し目を細めて神尾を見下ろして、そこから神尾の手にあるものに視線を移し、見りゃ判ると言った。
「……跡部?」
「ここに来るまでに何人に言われたんだ。お前」
「………三人」
 子供っぽいと自分でも思ったが、神尾は膨れた。
 盛大に膨れた。
 右手に持っている桜の枝に視線を落として、窘めるような注意を三人分思い返して憮然とする。
「いくら桜が綺麗だからって、俺は折ったりしないのによぅ…」
「判ってる」
「………………」
 溜息に混ぜて神尾が言えば、跡部は至極平然と繰り返してくるので。
 何だか急に気恥ずかしくなってきた。
 判ってる、という跡部の言葉がむやみやたらに恥ずかしく胸を擽って、うろうろと視線を彷徨わせ出した神尾に、跡部が唇の端で笑った。
 皮肉気な表情なのに、目だけがどうしようもな優しく見えたのは、いきなり跡部の顔が目前にあるからだと神尾が気づいた時にはもう。
 極軽く、唇が掠めとられていた。
「昼間の風で折れてたんだろ」
 お互いの唇と唇の合間の声はとろりと甘い味すらしそうで神尾は硬直してしまった。
 実際跡部の予測は正しい。
 昼間はひどい強風だった。
 跡部の家へ向かう道すがらに見つけた無残に折れてしまっていた桜の枝を、神尾は捨て置けず持って来たのだ。
 道中、三度の注意を受けながら。
 確かに綺麗な桜の枝だけれど、有無を言わせずに窘められてへこんだ神尾に、跡部は言うのだ
 判ってると。
「………………」
 制服姿のままの神尾と違い、跡部は首周りの広く開いたやわらかい生地の私服姿だ。
 改めて目の当たりにする剥き出しの喉やら首筋やらまで全部が綺麗で、何なんだろうこの男はと神尾は呻くしかない。
 冷たそうな顔で、艶のある声で、神尾に判っていると告げてくる、囁いてくる男。
 ジーンズのポケットに親指を引っ掛けて僅かに屈み、跡部は神尾の頬や目元を唇で掠めてくる。
 それを神尾はじっと受け止めているだけで精一杯だ。
「桜の枝まで折れたのかよ」
「…………、…っ……」
「七分咲きってとこか」
 まだ蕾があるな、と囁き神尾が持つ桜に目線を落とす、その伏せた目元を。
 真っ向から見てしまった神尾は、ぐっと息をのむ。
 泣きボクロ、長い睫毛、きつい眼差し。
 勘弁して欲しい。
 勘弁して欲しい。
 勘弁して欲しい。
 ひたすらそう繰り返して、頭がぐらぐらしてきて、足元が覚束なくなる。
「……お前のが散りそうじゃねえの」
 バァカ、と聞き慣れた低音の笑い声が神尾の耳元で聞こえたけれど。
 そういうツラを他所で絶対見せるんじゃねえと、怖いような声で凄まれ威されたけれど。
 神尾の身体は跡部の腕に、ひどく熱っぽくかき抱かれた。
「………跡部…」
 抱き締められる。
「しょうがねえから、今日は特別に許可してやるよ」
「…え…?……」
「特例だ。ベッドに上げてやる」
 なに?と神尾がぼんやり問うと、跡部は神尾が桜の枝を掴んでいる手の甲を、指先で静かに撫でるので。
 うわあ、と声にならない声で跡部の胸元に顔を伏せるしか出来ない神尾だ。
 許可って、特例って、ベッドに上げてやるって。
 そういうのは、桜に向ける言葉だろうか。
「……跡部…さぁ…」
 強風に折れてしまった桜の枝だけれど、せっかく綺麗に咲いたのだから。
 きちんと愛でてあげたいなと思って、ここまで持って来た神尾だけれど。
「………ベッドで花見…?」
「お前は俺が丁寧に散らしてやるよ」
「もー、くち、ひらくな跡部…」
 恥ずかしいよお前、と泣き言を口にした神尾に跡部は機嫌の良い笑い声を響かせて。
 いとも容易く神尾を抱え上げてくれたかと思えば、行先は桜ごと、跡部の寝室だった。
 取ってのついた南部鉄の黒い鍋の中身が煮えたぎっている。
 立ち上る淡い湯気越しに目を凝らせば、シチューのブラウンとクリームのホワイトがゆるくマーブルの模様を描いている。
 つやつやとしているシチューからは、深く深く、息を吸い込みたくなる匂いがしていて、神尾は目の前に置かれたその食べ物を見るなり開口一番、うわあ、と言葉を零した。
「すっげーうまそー…!」
「うまいかどうかは食ってから言え」
 感慨も抑揚も全くなく、いっそ冷淡に言い放った跡部に、神尾は臆する事無く言った。
「これ、食べていいのか?」
「食わねえなら片付ける」
「食うよ! 食います。やった。いただきまーす」
 跡部の部屋の重厚な造りのテーブルに向かい、慌ててスプーンを手にした神尾は、ぱん、と両手を合わせる。
 それからスプーンをシチューに沈めると、マーブル模様が僅かに崩れた。
 すくいあげたシチューを口に運ぼうとしたところで、跡部から声がかかる。。
 跡部は神尾のすぐ隣に座っていた。
「食う前に、よくかき混ぜろ」
「ん?」
「トランシルベニアンのシチューだ」
「…んん?」
 意味が判らないと小首を傾けた神尾に、跡部が億劫そうに舌打ちする。
 ひどく冷たい態度なのに神尾が傷つかないのは、跡部の手が神尾の手の上に重なってきたからだ。
 スプーンを握る神尾の右手に跡部も右手を重ねてくる。
 指の先まで色っぽい跡部の手は少し冷たい。
「………………」
「トランシルベニアンがどこにあるかは」
「や、わかんね」
「………ルーマニアだ。常識だろうが」
「常識かなあ…?」
「うんざりするほど馬鹿だな、てめえは」
 跡部は口が悪い。
 声音も結構冷たく聞こえる。
 でも。
「トランシルベニアン地方のシチューはサワークリームとサワーキャベツが入ってんだよ」
「あ、…この白いの生クリームじゃないんだ」
「かき混ぜてみろ」
 そう口では言いながらも、跡部は神尾の手に重ねた自身の手は離さずにいるので。
 神尾は跡部の手に右手を包まれたまま、スプーンでシチューをかきまぜた。
 二人がかりでする作業ではないのだけれど。
「……わ…!」
 かき混ぜたシチューの中で、サワーキャベツがとけていく。
「えー、なにこれ。おもしろい」
「面白いか、こんなもんが」
 いいぞ食え、と手の甲を軽く叩かれる。
 呆れた跡部の物言いといい雑な所作といい、えらそうな事この上ないが。
 所詮これが跡部なのだ。
 最近は納得してしまったなあと神尾は考えながら、今度こそシチューをすくったスプーンを口の中に入れる。
「うまーい…!」
 微かな酸味のするシチューは神尾が食べ慣れたものとは異なるものの、素直に美味しかった。
 神尾はせっせとスプーンを口に運び続ける。
 跡部の家に来ると、神尾はいつもこうしていろいろ物を食べている気がする。
 そしていつも跡部は。
「………なあ…? 跡部」
「あ?」
「………あのさ」
「何だよ。二杯目か」
「まだこんなにあるだろ!」
 そうじゃなくて!と神尾はスプーン片手に跡部を見据える。
「跡部は何でいつも食わねえの?」
 そんな話かよと眉を顰める跡部は足を広げて座っていて、立てた片膝に左肘をついている。
 その手に顎を乗せて神尾を流し見ている。
 神尾のすぐ隣で。
 距離が、とても近いのだ。
 身体の側面と側面が触れる距離。
 近い、その上、じっと神尾が食べている様を見つめてくる。
 視線を一時も外さない。
「お、…ちつかないんだけどなー…」
「よく言うぜ。食ってる時は気にもしてねえくせに」
「……う」
 いいから食えよと跡部に睨むように見つめられた。
 それで神尾は、何だかなあと思いながらもシチューに向き直った。
 そういえば跡部の家に来る度いろいろなものをご馳走になって、その都度こうして見られている気がする。
 何かを食べている所を、ずっと、じっと。
「あのよう……」
「何だ」
「……跡部、腹減らねえの?」
「減らねえな」
 本当に美味しいシチューを食べながら、逆の立場だったら耐え切れないだろうなあと神尾は思った。
「食いたくなんねえの?」
 へんなの、と思いながら言った神尾は、その直後耳を疑った。
「食いたい」
「は?」
 何だかそれってものすごく矛盾してないかと呆れた神尾だったが、跡部の指にいきなり髪を一束すくいとられて、ぎょっとする。
「食わせろよ。早く」
「…跡部?」
 シチュー?と恐る恐る横目に問いかけた神尾を、跡部はとんでもなく餓えた顔をして見つめてきた。
「そうだな」
 ほっとしたのも束の間。
「シチューで腹膨れたお前をな。早く食わせろ」
「っな……」
 獰猛な呻き声みたいに言われてしまって。
 神尾は、うぐ、と喉を詰まらせた。
 確かに跡部の部屋に来て、何かしら食べて、その後は大抵。
「俺はお前だけ食えりゃいい」
 早くしろと深い声で繰り返され、きつい目をした男のあまり表面化されない忍苦に。
 神尾の思考はさながら、先程運ばれたてだった時のトランシルベニアンシチューのようになる。
 頭の中身が煮えたぎる。
 羞恥と困惑とがマーブルの弧をえがく。
 そこをかき混ぜられてしまい、神尾の中に溶け込んでいくのは結局、跡部への恋愛感情だ。
 そしてこの後、それが溶け込んだ自分ごと。
 跡部が全部食べるらしい。
 跡部の携帯から流れた電子音がある特定の相手専用に設定されたものだと知っていたから、神尾は今日はもうこれで帰ろうと思った。
 跡部の部屋の、つくづく跡部らしいと神尾が思っている派手な真紅のソファで、今まさに唇を塞がれかけていた所で。
 神尾がそのキスを避けると、跡部は露骨に眉根を寄せて、目つきを鋭くさせてきた。
 凄む声と眼差しを、神尾に遠慮無しにぶつけてくる。
「アア? 何の真似だ、てめえ」
 顔が再び近づけられて、神尾は跡部を押し返しながら言う。
「でん、わ!……電話、出ろって…!」
 けれど、憮然とした跡部は片手で神尾の後頭部を鷲掴みにしてきただけで、携帯は未だ鳴りっぱなしだ。
 跡部の長い指に髪も握り込まれて、がっちりと固定され、あくまでもまたキスの続きをされかける。
 神尾は手も足もばたつかせて暴れた。
「跡部! 鳴…ってるだろっ、電話…!」
「逃げんじゃ、ねえ」
 出ない訳にはいかない電話。
 それを神尾は知っているし、無論跡部だって判っているのに。
 電話は鳴ったままだ。
 神尾は必死に跡部を押しのけ、座っていたソファから立ち上がろうと躍起になる。
 そんな神尾を、跡部は一番手っ取り早い方法だとでも言いたげに身体ごと押さえつけてきた。
 ソファの上で神尾に馬乗りになってきたのである。
「おま、……乗んなってば! 苦しい!」
 神尾が不平を捲くし立てても全く意に介さず。
 跡部はその体勢で無理矢理神尾の唇を掠るように口付けてから、漸く腕を伸ばしてテーブルの上にあった携帯を手に取った。
 この体勢のままかよと、これはもう成す術無いと観念した神尾が。
 そんな跡部を、赤い顔で見上げつつ、あからさまな溜息を吐き出したところで相手はほんの少しも動じない。
 平然と携帯を肩口に挟んで話を始めた。
「はい。お待たせしました。何かありましたか。監督」
「………………」
 理知的な涼しい声。
 淀みない言葉遣い。
 それらと今やっている事のギャップがあまりにも激しすぎるだろうと神尾は呆れて跡部を見上げていた。
 結局キスはしてくるし。
 もうガキだ。
 ほんとガキ。
 跡部なんか、実際のところは、本当にガキ。
 でも、そう思いながらも、神尾は大人びた跡部の顔や仕草なんかを、気恥ずかしいくらいじっと見つめてしまうのだ。
 細く綺麗な前髪を額に零して、跡部が左の肩口に挟んでいた携帯を右手で持ち直す。
 仕草がいちいち色っぽい。
 人の身体の上で何やってるんだと神尾は呻くのを堪えるので精一杯だ。
「はい。その件は特に問題はないと自分は判断しましたが」
「………………」
 跡部の電話の相手は氷帝テニス部の顧問だ。
 これまでにもこういう事は幾度かあって、電話で話が済むのか、直に跡部が足を運ばなければならないのかは、今の所まだ判らないけれど。
 こうして電話の相手は判っていたのだから、話の内容だって急ぎと見当もつくのに。
 跡部も、あんな馬鹿な事をやってないで早く電話に出ればよかったのにと神尾は思わずにはいられなかった。
 神尾の上に馬乗りになって電話の相手と話をしている跡部の表情からして、結構重要そうな話だしなあと神尾が長引く電話に戸惑っていると。
「…判りました。今から学校に向かいます」
 やっぱりだった。
 跡部の返答に神尾は思う。
 神尾が最初に思った通りになったわけだ。
 まだ会って、たいして時間も経っていないけれど、今日はもう、これで帰るしかない。
 跡部は電話をきった。
「部活の事で出かけてくる」
「んー…」
 携帯を閉じて神尾の上から跡部が降りる。
 苦しいと散々口にしていたが、いなくなられると途端に神尾の腹部だか胸の中だかが、空っぽになったような気がして心もとなくなる。
「ん…、じゃ、俺も帰……」
 たぶんくしゃくしゃになっているだろう後ろ髪を適当に撫でつけながら神尾が身体を起こしかけたところで、いきなり、身支度を整えていた跡部から何かが投げられた。
 手裏剣さながらに回転しながら飛んできたものを、神尾はぎょっとして咄嗟に両手で挟んで受け止める。
「あ、…あっ…ぶね……!」
 受け止める一瞬の間をおいてから、ぶつかったらどうすんだよこれっ!と叫んだ神尾を跡部は細めた目で平然と眺め下ろして言う。
「ぶつかるタマかよ、てめえが」
 馬鹿にしているのか、そうでないのか。
 判らないちぐはぐな言葉と態度。
 神尾は飛んできたノートを両手で挟みこんで受け止めたままの体勢で、跡部に喚き散らす。
「投げるか普通! 人に向かってあんなに勢いよくノート投げるか…!?」
 着々と身支度を整えていく跡部は、神尾の言葉には無反応で、いつものことながら身勝手な事を言いつけてきた。
「一冊埋めろよ。埋めるまで帰んじゃねえ」
「はあ? ノート? 埋めるって何!」
「ほんとてめえの頭は空っぽだな」
 呆れ返った口ぶりで、しかし跡部はソファまで近づいてきて、シャツの袖の釦をとめながらまた神尾の唇をキスで掠った。
「…、ぅ」
 頭の話をしながらどうして口になんかするんだと神尾が喉を詰まらせると、跡部は冴え冴えとした目元で神尾を流し見ながら抑揚なく言った。
「不平不満があるならそれに書いておけ。今聞いてる時間はねえ」
「お前よう…お前ぇ…どうしてそうえらそうなんだよう?」
「ついでに他に言いたい事があるならそれも書け。そのノート一冊埋めるまで帰るな」
「帰るなって……帰るなって?!」
 俺ここでそんな事しなきゃなんないわけ?と叫んで神尾は額を跡部に軽く叩かれた。
「文句言ってねえでやれ。バカヤロウ」
「バ…ッ、バカとか言うか普通! 普通ドタキャンごめんなさいって謝るもんなんじゃねえの、跡部が俺に!」
「俺がお前に?」
「…………ぅ……、…跡部が、俺に、だよ…」
 どうしてこの流れで自分が叱られてるんだろうと神尾は首を傾げたくなった。
 あまりに堂々と跡部に反復されると、まるで本当に悪いのは自分みたいじゃないかと思って焦る。
「だいたい跡部がいないのに…何で俺一人でここにいなきゃなんないわけ…」
「……一冊埋めても戻ってこないなら帰っていいって言ってんだろ」
 神尾の呟きに対しては、跡部から、少しだけ歯切れの悪い返事があった。
 言ったっけか?と更に大きく首を傾げた神尾に、跡部はすぐに不遜な笑みを浮かべたけれど。
「ノート一冊埋めろとか簡単に言うけどよう、それ、どんだけ時間かかんだよ」
「俺様のどこが好きかも書いていいぜ? それならすぐに一冊埋まるだろうが」
 簡単にな、と毒のある笑みで囁かれ。
 ふざけんな!と怒鳴った神尾の唇は。
 今日三度目のキスに、やけに丁寧に塞がれてしまった。



 そうして跡部はさっさと家を出て行った。
 神尾は真紅のソファに膝を抱え込んで座っている。
 ちんまりとそこにおさまり、ノートを膝上に乗せて、シャープペンを走らせている。
 書き付ける文字と同じ言葉を口にしながら。

『跡部のばーか。人のことおいてでかけんな。ばーか。えらそーに命令とかすんな』

 一ページに一文字にしてやろうかとも考えたのだが、それだと今度はページが足りないんじゃないかと思い直した神尾は、行数を無視してどんどん書きなぐった。

『ふつうありえねー! なにさまだおまえ、人のことよんどいて、いのこり勉強みたいなことさせんな、ばかやろー』

 しかし、どうも文句というのは画数の多い字を使う事が多いものだと神尾は気づいた。
 書くのが面倒だったり漢字が自信なかったりで、やけに平仮名ばかりになると、どうも間が抜ける。
 不平不満は活字にするとやけに情けないと知ってしまった。 
 平仮名の『ばか』で埋まったページを見ると、自分で書いておきながら神尾は何だか脱力してしまう。
「くそう……どうせだったら、もうあらいざらいいろんなこと書いてやる。えっと……この間…会った…時、」
 この間会った時。
 なんで勝手に怒ったんだよ。
 書いたら余計にあの時の事を思い出してしまってムカムカする。
 跡部は時々、神尾にはさっぱり判らない理由で、勝手に不機嫌に怒り出すことがある
 跡部に言わせると、てめえも同じだという事なのらしいが。

『映画みるっていったのに、急に家帰るとか言って、お前のそういうとこほんとなおしたほうがいいと俺は思う』

 不動峰の部活の仲間達で観て面白かった映画だから、神尾は跡部とも一緒に観たいと思って誘ったのに、神尾がこの映画を観るのは二度目になると告げた途端、機嫌の悪くなった跡部に神尾は強引に連れ帰られてしまったのだ。

『いっしょにみたかったのにあとべのばーか!』

 だんだん跡部の名前も書くのが大変になってきて平仮名だ。
 ついでに言葉におこしてみると、何だかこれすごい恥ずかしいなと神尾は思ったのだが、勢いで見ない振りをした。
 とにかくこのノート一冊、全部埋めなければならないのだ。 

『背のびする時に、両手を頭の上にあげて、手をこうささせて手のひらをくっつけて、背のびすると背骨のゆがみがとれるんだって。ストレッチにもなるんだってよー』

 今日の体育の授業で教わったストレッチのこと。

『プッチンプリンの、ちょーでかいバージョン見たかー? 俺昨日あれ一人で食った! ちゃんとプッチンできるんだぜ』

 何だか日記みたいになってきたなと気づいたものの構わずに書く。
 とにかくどんどん神尾は書いた。

『なんかネタつまってきた。てゆーか、ノート一冊分書けって、すごいノルマじゃね? どんだけ書かせんだよ。ありえねー』

 言葉が堂々巡りになってきては、書いている神尾も飽きてしまう。
 一度手を止めてしまうと、余計に何も書けなくなった。
 それで仕方なく。
 しょうがねえ、と神尾は呻いて、禁断のエリアに突入することにした。
 出来たら書きたくなかった事なのでせめてもの抵抗で箇条書きにしてみた。

『あとべの好きなとこ』
『1・あとべんちにくるとうまいもんがある』
『2・家でテニスができる』
『3・えらそーだけどテニス教えてくれるとこ』
『4・むかつくけど宿題みてくれるとこ』
『5・けっこう時々はやさしい』
『6・性格悪いぶん顔と声はいい』

 これがまた何でなのか神尾には全くもって謎なのだが、23まで書けてしまった。
 こんなの本当に恥ずかしい。
 それならばもう嫌いなところも書いてやると勢い込んだものの、そっちの方は3つしか書けず神尾は赤い顔で先に進んでいくしかなかった。
 そして、書き始めからどれほどの時間が経ったのか。
 気づくと神尾は両手でノートを握り締め、おおー!と感嘆の声を上げていた。
「マジで一冊埋まった…!」
 最後のページまで書き綴ったノート。
 正直信じられなかった。
 本当に一冊埋まるとは。
「…………帰ってこないじゃんかよ」
 なんだよう、と神尾は不服を口にしたが、時計を見てみると跡部が出て行ってから二時間半近くが過ぎていた。
「いつまで人んこと自習させとく気だよ…跡部の奴」
 俺もう帰るからなと不貞腐れながらも、神尾は少し考えて。
 ノートの最後のページに書き加えた。
 今の時間と、そして。

『おつかれ。跡部』

 それで正真正銘最後の行まで埋めきって。
 そのノートを置いて神尾は帰っていった。



 翌日、跡部は不動峰に現れた。
 正確には、帰宅しようと正門を出かけていた神尾を待ち伏せしていた。
 運転手つきの跡部の家の送迎車に、神尾は無理矢理押し込められる。
「なに、…なに、すんだよ…っ!」
 こんな暴君めいた事をする輩は、跡部をおいて他にいない。
 だから驚くというよりは咎めて大声を上げた神尾の額を、跡部は件のノートで叩いてきた。 
「痛…!」
 パーンと小気味良く上がった音ほどは、たいして痛くもなかったのだけれど。
 後部座席に並ぶ跡部は、神尾の腿にノートを放って寄こしてきた。
 腕を組んで前方を見据えたまま言う。
「突っ込みどころ多すぎて、添削のしがいが有りすぎだ。無駄に睡眠時間削られたぜ」
「…え?」
 神尾が恐る恐る手元のノートのページをめくると。
 どのページも、どのページも、赤い文字でいっぱいだった。
「…………………」
 赤いペンの文字は、跡部の文字だ。
 真赤だよ、と唇だけ動かした神尾は、いったい何が書かれているのだろうかとまじまじ紙面を見つめていると、跡部が不機嫌極まりない声で凄んでくる。
「何笑ってんだ。てめえ」
「だって……だって、なんか、」
 添削している。
 答え合わせしている。
 全頁に、赤いペンで、跡部の文字。
「跡部ー……」
 なんだよもう、と。
 神尾は、読み終えてしまう事が勿体無いと、心底から思う不思議なノートを抱き締めた。
 そんな事にも跡部は腹を立てたような顔をして辛辣に言葉をぶつけてくるけれど。
 神尾の大事な大事なノートを取り上げたりするようなことはしなかったので。
 盛大に繰り広げられている二人の口喧嘩で、車内は幸福な密度で満ちる。
 暴君はいつでも命令口調で横暴で身勝手だ。
 だから暴君なのかと、当たり前といえば当たり前の事を神尾が朦朧としている頭で考えていると、冴え冴えと張りつめた声がもう一度同じ言葉を繰り返してきた。
「おい。口開けて舌出せ」
 今の今まで散々に貪られたキスで、呼吸も途切れ途切れで息苦しい。
 漸く開放されて肩で息をしている神尾は、跡部の言う言葉が二度目でもよく判らなかった。
 ぼんやりと見返すと小さく舌打ちされた。
「ン…っ………」
 いきなり口の中に跡部の指が差し込まれる。
 人差し指が神尾の舌の下にもぐりこみ、上から親指で押さえて口腔から引き出されていく。
 舌。
「……、…っ……な……」
 強く引かれてはいない。
 でも咄嗟に首を竦ませて怯えた神尾を跡部は至近距離から眺め下ろしてくる。
 跡部の部屋に入って、すぐに部屋の壁に押し付けられてキスされた。
 壁と跡部の狭間にいるまま、神尾は訳が判らず身体を竦ませる。。
 長いことキスで塞がれていた口腔は潤んでいて、跡部に舌を摘ままれて引き出された反動で飲みきれないものが零れてしまう。
 唇の端から喉を伝う感触に神尾が震えると、いきなり噛み付くように唇が塞がれた。
 また、深くて濃いキスだ。
 長くて執拗で身体中バラバラになりそうなキスをされる。
「……ん、…、ゃ…、」
 外気に触れてこわばるようにかわいた神尾の舌は跡部に執拗に絡めとられた。
 濡れた音をたてて舌が交わる。
 唇が、粘膜が、こすれる。
 膝が、かくんと砕けた。
 座り込んでしまった神尾を今度は床に押し付けるようにして跡部も膝をつく。
 唇がずれて、また零れて、濡れて。
 汚れた口元を神尾が手の甲で拭おうとすると、手首をきつく握り込まれて顔の横で拘束される。
 挙句にまた跡部の指は神尾の口腔に入ってきて、舌を弄る。
「なん、っ…なんだよっ……」
 半泣きで神尾が声を上げると、細めた目でまじまじと神尾の舌を見ていた跡部が皮肉気に唇の端を引き上げた。
「どういう舌してんだお前」
「、ど……ゆ…って……」
 何を言われているのか判らない。
 でも、跡部の低い声だとか鋭い視線だとかに反応するかのように、神尾の声は弱く消え入っていく。
 とんでもないことを言われてしまうのではないだろうかと神尾がうっすら思った通りに。
 跡部は神尾の舌をつかまえてぬめった指先で、神尾の唇も挟み、触れる側から唇を寄せてきた。
 舌で舐められる。
 すでにもうキスではない。
 口腔の粘膜を、体内を抉るようにして弄られているのと同じだ。
「ヤ……だ、…、…も、いじ…んな……っ…、」
 神尾は涙目で首を打ち振るのに、跡部はまるで夢中になっているかのように神尾の唇を塞ぐ。
 舌を食み、とろとろとひっきりなしに神尾の口の中を濡らしながら唇を犯す。
 しまいには啜り泣くような声を神尾が上げ出しても跡部はそれを止めなかった。
 神尾はしゃくりあげながら跡部の背中のシャツを掴む。
 もう、口が、キスをするだけの器官だとしか思えなくなって、言葉も紡げなくなった。
 声もなく泣いて、びくびくと幾度となく肢体を震わせた神尾に、どれほどキスをしてからか、跡部が唇を離して抱きこんでくる。
 今頃になって、宥めるように背筋を軽く撫でられた。
「止めんのも一苦労だぜ。……ったく」
 半ば詰るように言われた言葉も理解が出来ない。
 神尾は空ろに跡部を見上げた。
 視線が合うと跡部はどことなく不機嫌そうでいながらも、今度は触れるだけのキスを神尾の瞼に落としてくる。
 ひくりと慄いた神尾の身体を強い腕で抱きこんで、跡部ははっきりとした溜息と共に悪態をつく。
「お前の中は、どこもかしこも甘ったるくて腹立つんだよ」
「………あとべ…」
「頭の中も、口の中も、身体の中も」
 嵌って、のめり込んで、抜け出せないじゃねえかと。
 苦しがるみたいに言われて、神尾はうろたえる。
 どうして、と懸命に跡部を見上げていると、跡部は神尾を抱き締める腕を一層強くして神尾の視野を奪ってしまう。
「全部寄こせ」
「…跡…部?」
「全部だ。全部、俺に寄こせ」
 暴君が、まるで懇願するかのように告げてくる。
 その呻き声に、感情が揺さぶられる。
 神尾は黙って跡部の背中を抱き締め返した。
 横暴に、神尾を、奪うだけ奪うくせに。
 それでもまだ足りないと、奪えないものがあるのだと、それを、結局は切願してくる声に、態度に。
 浮かされて、溶かされて、神尾は跡部の背中を抱きしめ返すのだ。
 いつも。
 パソコンに向かっている跡部の背中に、神尾がいきなり覆い被さってきた。
 たいした衝撃ではない。
 こいつは軽い、こいつは小さい、そんなことを跡部がはっきりと体感するだけだ。
「何だよ」
 跡部はモニターから目線を外さずに問う。
 きゅっと神尾の腕に力が入る。
 実際の所首元を絞められているに等しい体勢だが、それにしてはやけに接触が擽ったいので跡部は溜息をついた。
「…十秒」
 だけ、と語尾が小さくなる声に跡部は呆れた。
「ふざけたこと言ってんじゃねえ」
「………ぅ……、じゃ…五秒…」
「減らしてどうすんだ馬鹿」
「…え?」
「珍しく懐いてきやがったんなら、これが終わるまでそうしてろ」
 指先でひっきりなしにキーボードを叩きながら跡部が言うと、神尾は情けない声を出して跡部の肩口に顔を伏せた。
「ああ? どういうリアクションだ。それ」
「だめだ。恥ずかしすぎる…」
 ずっとは無理だよぅ、だの。
 十秒が限界だよぅ、だの。
 腹の立つ泣き言を耳元で聞きながらも跡部が怒らなかったのは熱の上がった軽くて小さな身体が、ちゃんと自分の首に腕を絡めて抱きついたままでいるからだ。
「神尾」
「…なんだよー」
「カイロの役目まで担うとは、てめえにしちゃ気が利いてるじゃねえの」
 少し熱すぎるがなと跡部が付け足せば、神尾はやけっぱちに跡部の首筋に額を押し当ててきた。
「ほっとけよぅ…!」
 熱い。
 移される。
 跡部は溜息をついた。
「おい、そこのモニターの横の丸い缶開けろ」
「…へ?」
「それだ」
 赤い、丸い、アルミ缶。
 ハンドクリームやメンタム缶の容器を大きくしたようなサイズのそれに、神尾は跡部の背中に覆い被さったまま手を伸ばした。
 それを眼差しで確認して、跡部はあと少しで終わる文書を片付けるべくピッチをあげる。
「…あ、チョコレートだ」
「カカオ含有率五十八%」
 眠気覚ましとして外国のドライブインでは必ずそれを売ってる。
 跡部が言うと、神尾は円形を均等に八等分したそのチョコレート、ショカコーラを一つ指先に摘まんだ。
「…で、…これ…どうしたら…?」
「どうしたらいいと思う」
 今日はバレンタインデーだ。
 バレンタインデーにチョコレートときたら。
「ええと……」
 いつも跡部が食べているチョコレート。
 特別に用意したものではないチョコレート。
 神尾は少し悩んで。
「跡部に…俺が食わせりゃいいの?」
「まあ、二番目に良い答えだな」
「えー、二番かよ。じゃあ一番良い答えって何?」
 跡部の背後から、神尾は跡部にショカコーラを食べさせながら聞いてくる。
 跡部は舌の上でほろ苦いそれを溶かしながら言った。
「残りはてめえが食え」
「それが一番良い答え?」
 いかにも不思議そうな神尾に、跡部は短く笑った。
「眠気覚ましチョコレートっつったろうが」
 事前に食っとけ。
 寝かさねえから。
 モニターを見据えたまま跡部が告げると、たちまちくたくたと力の抜けた神尾の唇からは先程の比ではない泣き言が止め処もなく零れまくった。
 それでも、跡部の作業が終わるまで神尾は跡部の背中に貼りついていたので。
 跡部の機嫌はすこぶる良かった。
 さっさと食って待っていろと思う。
 寝ない夜の為の、ショカコーラ。
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