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How did you feel at your first kiss?
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 案外と家で一人で過ごすのが好きらしい跡部に、神尾はよく呼びつけられた。
 神尾にしてみても、最初は相当たじろいだ跡部の家の豪邸ぶりだったのだが。
 順応性は高い方と自覚しているだけあって、今ではすっかりと跡部の家に出向く事にも慣れた。
 神尾は神尾で寛いで、好きな事をして過ごす。
 話しかけるのは専ら神尾の方からだったが、あれでいて跡部も返答だけはきちんと寄こしてくるので、会話もそれなりにしているのだ。
「跡部の好きな色って、なに?」
「聞かなけりゃ判んねーのかよ」
 ソファに座って本の誌面を目で追っている跡部は、神尾の方を見もしないで答えるので、神尾は不服そうに眉根を寄せる。
「判んね」
「ゴールドと黒」
「……まあ、確かに部屋の中とか跡部の服とか、その色多いけど」
 言われて妙に納得してしまうのが癪だけれど。
 跡部の座るソファの真向かいにある5.1チャンネルサラウンドシステムに持参したCDをセットしながら、神尾は、俺は蛍光黄緑が好きなんだけどさー、と言って話を続ける。
「………趣味悪ぃ」
「うるせーよ。いいだろ。好きなんだから」
 大のお気に入りである素晴らしく音の良いオーディオ機器の前では不機嫌にもなれず、神尾は跡部の悪態も軽くやりすごした。
「今日学校でさ、好きな色によって診断する占いっていうのを、やってもらったんだ。そうしたら、蛍光黄緑が好きな人って、将来小説家に向いてるんだってさ」
 自分でも完璧にキャラじゃないなあと思っておかしかったから、神尾は跡部にもその話をしたのだ。
 現に学校でも、周囲にいた友人達は、アキラが小説家かよ?と腹を抱えて笑っていたのだ。
 どうせ跡部も歯に衣着せぬ物言いで応えてくるのだろうと思っていた神尾は。
 跡部が本を閉じて、目線を上げてきた後、言った言葉に思わず双瞳を見開いてしまった。
「いいんじゃねえの」
「は?」
 てっきり馬鹿にされるか、呆れられるかとばかり思っていた神尾は、激しく面食らった。
「なに間の抜けたツラしてやがる」
「………え、…だって…」
「小説家なら一日中家にいるんだろ」
 跡部は真面目な顔で、そう口にした。
 そんな真っ当な切り返しをされるだなんて思ってもみなかった神尾は、確かに小説家なら家で小説を書くんだろうけれど、と心中で呟く。
 跡部は神尾を見据えたまま、伸びかけの長くなった前髪を片手でかきあげる。
「一日中手元においておけるんだろ。お前にしちゃ上出来の選択だ」
「…………え…?…」
 なんか。
 なんだか。
 どうしようもなく恥ずかしい事を言われている気がする。
 神尾は、秀麗な跡部の顔にも、至って生真面目な返答にも、うろたえるように赤くなる。
 当たり前みたいに言われた。
「神尾?」
 いつもみたいに、からかうとかすればいいのに。
 口悪くあれこれ言葉を並べればいいのに。
 どうしてそんな、怪訝そうに呼びかけてきたりなんかするんだと、神尾は鼓動の早まる胸元に無意識に手をやった。
「おい」
「………て…ゆーか……俺が、家にいたって、跡部が外で働いてたら、別にかわんねーじゃん」
 言ってる側から、気恥ずかしさのあまり神尾は死にそうになる。
 信じられない。
 なんて会話なんだと、思うのに。
「バァカ」
「…………う」
「俺にはいくらだって在宅勤務の手段があるんだよ。お前と違ってな」
 何でそんな真剣になって否定してくるんだと神尾は混乱する。
「ディーラーでも何でも幾らだって術はある」
「……ディーラー…?」
「説明は簡単だがお前に理解させるのは難しいから聞くな」
「………っ…、…どういう意味だよ…っ」
「ドイツ語とギリシャ語の翻訳家って手もあるな。何ならお前の小説専属のモデルでもやってやるよ」
「……、…は…?!」
「私生活でも書けばいいだろ」
 いざって時は官能小説家にでもなれ。
 そんな事まで跡部は言った。

 最後の最後まで跡部は真面目で。
 真剣みたいで。
 からかう素振りもなかったので。

 当たり前みたいに未来の話をされるので神尾は恥ずかしいと思ったのだけれど。
 当たり前みたいに未来も一緒にいるようなので、それはそれで実は嬉しく思ったのだった。
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 誰かに起こされたとか、物音がしたとか、そういう理由は何もなくただ目が覚めて。
 窓の外が不思議な色味を帯びているのに気づいた神尾は、そっとベッドから身体を起こした。
「………………」
 同じベッドで、横向きになって寝入っている跡部の顔に。
 見つめれば今更のようにドキドキして、神尾は慎重にベッドから降りた。
 跡部の部屋は、壁際の大きな窓を開けた先のバルコニーから庭へと出られるようになっている。
 音をたてないように窓を開けて、神尾は、ほの暗いバルコニーに出た。
 夜明けにもまだ少し早い。
 紫色の見慣れぬ色の空を見上げて、神尾は冷たいながらも春先の気配をはらむ夜と朝の合間の空気を吸い込んだ。
 そんな神尾にいきなりバサッと音をたてて背後からガウンが肩にかけられる。
「あ、…とべ?…」
「風邪ひくぞ。バァカ」
 結局起こしてしまったかと、神尾が複雑そうに背後を振り仰ぐと、口調ほどは不機嫌そうではないものの、跡部は眉根を寄せて神尾を見下ろしていた。
「跡…、…」
 後ろから伸びてきた手に顎を掴まれ、回り込んできた跡部の唇で神尾の唇が塞がれる。
 窮屈な角度で重なった唇は、舌を絡ませあうことはしなくても、唇の表面がゆがむように合わせられていやに気恥ずかしい。
「……っ……ん」
「……………」
「…ぅ………、」
「………寝らんねえのか」
 寝かせてやろうか?と卑猥に腿を辿られて神尾は赤くなった。
「…………っ、ゃ」
 跡部の笑みを含んだ吐息が耳元に当たって、からかわれていると判れば神尾も意地になる。
 本当は、こうやって抱き締められるのはすごくすごく好きなのだけれど。
「離せ…ってば…!……」
「お前が俺より先に目が覚めるなんて初めてじゃねえか?」
 余裕じゃねえの、と首筋に唇を這わされて神尾は身体を強張らせる。
「………跡部」
「………………」
 胸の前。
 跡部の腕に、両手でぎゅっとしがみついた神尾は、声を振り絞って跡部を呼んだ。
 怖い訳ではなく、嫌な訳でもなく、寝起き様には刺激が強すぎると伝えたくて跡部の腕を胸元で抱え込む。
「…………無理矢理やるわけねえだろ」
 どこか憮然とした跡部の物言いに、神尾はかぶりを振って、違うのだと訴えた。
「抜け出してんじゃねえよ」
「……え?」
 続けざまの舌打ち交じりの跡部の声に神尾は息を詰まらせる。
 跡部の腕を抱いたまま。
 ぎこちなく振り返ると。
 寝乱れた前髪の隙間から色の薄い跡部の瞳が細められているのが見えた。
 その目の色に、まさかこれだけの事で自分は跡部を驚かせたのかと狼狽する。
「跡部……?」
 肩に羽織ったガウンごと背後から抱き締められて、神尾の視界から跡部は消えたけれど。
 神尾は小さな声で言った。
「………空が…見たことない色してたから。ちょっと出てみただけだよ」
「ドーンパープルだろ」
「…なにそれ?」
「明け初めの空の色。産まれてすぐの赤ん坊も、最初はこの色なんだとよ」
 自然の始まりの色なのだと跡部は言った。
「へえ……」
 どこか不可思議な色。
 生まれたての色。
 それを空いっぱいに、神尾は跡部に抱き取られながら見上げた。
 まだどこか肌寒く感じていた外気が、今は背中から滲むように温かくて、何も気にならない。
 身包み神尾を抱きこむように回されている、跡部の腕の強い感触に。
 もう少しこうしていたくなって。
 神尾は喉の下辺りにあるその腕を、両手で掴んだ。
 すると微かに跡部が笑ったから。
 神尾の気持ちは正しく温かく跡部へと伝わったようだった。
 跡部から渡されたものを手のひらに乗せて見ながら、神尾は誰に言うのでもなく呟いた。
「………嫌がらせかなあ…」
 実際そう口に出してみると、ダメージは一層大きくなる。
 溜息も出てこない。
「……………」
 それを、手に握りこむ事も出来ないまま。
 神尾は手のひらの上の小さく丸いものを、ただ見つめるだけだった。

 
 跡部は何でも持っていて、何でも知っているから、何にも自分はいらないと神尾は思った。
 跡部の事を好きになって、どんどん好きになって、それだけで自分はいいと神尾は思った。
 だからクラスの女の子達が恋人から貰ったプレゼントを喜んでいるみたいに跡部から何かが欲しいと思わない。
 もし何かそういう物を跡部から渡されたら。
 神尾はどうしても跡部のこれまでの事も考えてしまいそうで、それが怖かった。
 跡部を好きな気持ちは神尾の中に絶え間なくあるもので。
 口にしないと許容範囲を超えてしまって苦しいくらいで。
 だから跡部に好きだと告げる事は神尾にとっていっそ楽になれる行為だったから、自分ばかりが好きだとか、それが不安だとか、思うことはなかった。
 跡部に何か言われたり。
 何か手渡されたり。
 そういう事は何一つなかったけれど。
 神尾はそれでいいと思っていた。
 多分、形ある何かを、跡部から渡される事が怖かったのだと、神尾は今にして思う。
 実際、初めて跡部から渡されたものをこうして前にしてみて確信した。
 どういうつもりで跡部が神尾にこれを手渡したか。
 神尾には皆目検討もつかない。
 ただひたすらに、どんどん暗い方向へと陥ってしまう自分の思考も、相当女々しいと思えば。
 神尾の落ち込みも一層酷くなる。
 とにかうそうやって、鬱々と歩くだけだった神尾の視界に、見知った人物の姿が飛び込んでくる。
 神尾が彼らに気づいたのと同時に、彼らも神尾に気がついた。
「やあ。不動峰」
「……………」
 無表情ながらも穏やかな声をかけてきた方は、他校とはいえ一学年上の男であるので神尾は目礼した。
 眼鏡をかけた長身の彼の隣で、敵意かというような鋭い眼光で神尾を見据えてき方は同学年だから。
 普段の神尾なら挑発まがいの軽口をたたくことも容易いのだが、いかんせん今日は日が悪かった。
 とてもそういう気分になれない。
 神尾はじっと相手の顔を見るだけだった。
「………、…何だ」
「……なにが?」
 相手の、きつい眼差しが、ぎこちなく揺らぐ。
 そう怪訝な問いかけを寄こしてきた海堂に、神尾が力なく聞き返せば。
 海堂の視線は泳いで。
 戸惑いも露に、まるで助けを求めるように、傍らの乾を見上げた。
「………………」
 あれ、と神尾は思った。
 海堂は、あんな顔するような奴だっただろうかと。
 自問する。
 そんな海堂と肩を並べている乾の気配も、何だか随分と優しく凪いでいる。
 乾もまた、あんな雰囲気の男だっただろうか。
 しかも乾は、神尾にこんな事まで言い出した。。
「何かあった?」
「……は?……俺ですか?」
「そう。神尾」
 海堂が心配してる、と乾は言った。
 神尾は思わず海堂を見てしまった。
「誰が、…!…」
「まあまあ。海堂」
 激高寸前の海堂を軽くあしらいながら、笑み交じりの乾は尚も神尾に問いかけてきた。
「何か心配事かい?」
「…………別に…」
「困ってる事とか?」
「いえ…、…」
「……ああ、なるほど」
「は?」
 少しも会話の流れが汲めない。
 どうしてこれで、なるほどなどと相槌を打たれたのかさっぱり判らない神尾は。
 しかし次の瞬間叫び出さんばかりに驚愕した。
「恋の悩み」
 親指で神尾を指し示し、乾は海堂を見つめてそんな事を言った。
 しかも海堂は。
 納得したみたいに、ああ、という顔をした。
「なん、……!……な…っ……なに言…、っ、」
 赤くなるべきか青くなるべきか。
 自分で自分の反応も自覚できないまま神尾が息も絶え絶えに口を挟めば、青学の二人は揃って、違うのか?とでも言いたげな表情で神尾を見据えてきた。
「…………、う」
 お、おんなじかおしやがって!と神尾は唇を噛む。
 ただでさえ深く深く神尾は落ち込んでいるというのに。
 そこに追い討ちをかけるみたいに。
 他校の生徒に勝手に心中見透かされて。
 これではあんまりではないかと。
 神尾は八つ当たり気味に二人をきつく睨みつけた。
 喧嘩をふっかける意図はないが、今更引くにも引けない。
 攻撃的に気配を尖らせた神尾を、海堂もひどく難しい顔をして見据えてきた。
 そんな二年生の漂わせる雰囲気を、柔らかく切り崩したのは年長者の乾だった。
「よかったら話してみるかい」
「……………」
「なあ、神尾? 海堂は物凄く口がかたいし、俺もデータ収集が趣味だが基本的に秘密主義で個人情報の流出はしないよ」
「………あんた何言ってんですか」
「そういう呆れた顔しない」
 笑う乾の奇妙な和やかさと、通常より砕けた感じのする海堂とを目の当たりにして。
 二人の距離の。
 その近さに、彼らの状況を察してしまう。
「………いーよな。あんたたち」 
 神尾の大きな溜息に紛れた小さな呟き。
 聞きとめたらしい二人が正反対の表情で神尾に向き直った。
「いいだろう」
「よくねえ!」
 極めて機嫌の良い乾と、すこぶる機嫌の悪い海堂に同時に叫ばれた神尾は、もうすっかりとやけっぱちな気分で、手の中に握っていたものを、ぐっと彼らに差し出して見せた。
「………………」
「これは?」
 無言の海堂と、問いかけてきた乾とに、神尾は暗く目線を向けながらぽつりと零す。
「………嫌がらせ」
「誰から誰への?」
「………………」
 真っ向から聞かれて思わず押し黙る神尾の目の前で、あろうことか海堂が乾に答えた。
「……多分、氷帝の跡部さんじゃねえッスか」
「跡部?」
「な…ッ……海堂、てめ…っ…何で知って……!…、あ…」
「……へえ…」
「海堂…!」
 乾があまりにしげしげと見つめてくるので、神尾は尚も海堂に食ってかかった。
 ところが海堂は海堂で平然としたもので。
「一緒にいる所何度か見た事ある」
「へえ」
「……、…っ……んだよ…っ………全然、口かたくなんか、ねーじゃんかよ! マムシ……!」
「ああ、悪いな神尾。俺にだけ特別なんだよ」
「…、…誰もそんなこと言ってねえ!」
「だって海堂、跡部と神尾が一緒にいるのを見かけた話、今ここでした以外に誰かに話した事あるか?」
「……、それは」
「海堂は口がかたいよ。見た事を無責任に吹聴するような奴じゃない。そういう海堂が、こういう時に俺に話してくれるから嬉しいんだ」
 何でこう。
 どうしてこう。
 人が落ち込んでいる時に。
 こいつらは人の目の前で、いちゃいちゃいちゃいちゃしやがるんだろうか。
 神尾はこの上もない落ち込みを味わった。
 あまりといえばあまりではないだろうか。
 そんな神尾の様子に、さすがに気づいたらしい乾と海堂の注意が再び神尾へと向けられる。
「………それで、どうしてそのネックレスが、跡部から神尾への嫌がらせになるんだ?」
「……見りゃ判んじゃないですか」
「いいや? 俺にはさっぱりだけど。……海堂、判る?」
「…………あんたに判らない事が俺に判るわけないだろ」
 あくまでもいちいち甘い気配の零れる乾と海堂が、しまいには羨ましいような気分になっていくから神尾はいよいよ自分も壊れ気味だと思った。
 神尾の手にあるものは、細いチェーンに丸い石のついたネックレス。
 跡部が、何の説明もなしに、放り投げて寄こした代物。
 一つだけついている石は、透明だけれど、傷だらけだ。
 形は丸いが内部は粉々に亀裂が入っている。
 壊れたものだから渡されたのか、自分にはこういうものが似合いだと思われたのか、自分に渡す事とゴミとして捨てる事とが跡部にとっては同じ意味だからなのか。
 これを手にした時から、神尾は深く落ち込んだ。
 あまり跡部の顔を見なかったし、話もしなかった。
 その日は何だかおかしな雰囲気のまま別れて、それから一度も会っていない。
 たかだか二日の事かもしれないけれど、神尾にとってはひどく長い時間のように思えてならなかった。
「神尾?」
「………………」
 乾の呼びかけと海堂のきつい眼差しの中の危惧とが自分に向けられて。
 神尾は何だか泣きたくなってしまった。
 第三者に気遣われるようでは、いよいよもって自分のみっともなさが露見されたようで。
 そんなネックレスでも、捨てられずにこうして持っている自分が、一層馬鹿みたいで。
「……なあ、神尾。この石が何の石なのか、跡部は説明しなかったのか?」
 しかし乾がそんな事を言い出して神尾は驚いて顔を上げた。
「………何の石って…」
「これはクラック水晶っていって、元々内部にこういう亀裂を持つ石だぞ」
 人工的に作る方法もあるけれど跡部からなら天然物だろうと乾は付け加えた。
「持ち主に纏わりつく邪気や悪運を吸い込んで、体外に吐き出してくれると言われていてね。アクセサリーというより御守かな」
「え……?…」
「自分がいない場所でも相手を守ってやりたいっていう意味だと思うけど?」
 そう言って乾が笑った。
 その言葉に神尾は赤くなった。
「え?……ええ?」
「大概跡部も説明不足とは思うけどな。そういう意味合いで渡したものを相手は嫌がらせだと思ってるって知ったら、さすがにあの跡部でも傷心だろうな」
「………、……」
 だって。
 そんなこと、神尾は知らない。
 手の中の石を、神尾は茫然と見つめた。
「割れ傷みたいに見えるかもしれないけど、光に反射させると虹色に輝くって人気らしいけど?」
 乾の言葉通りに神尾がその石を太陽に透かすと、石の中身は水しぶきのように光った。
「………………」
 綺麗だった。
「………俺…」
 ぎゅっと石を握った神尾に、早く行け、という風に顎で示したのは海堂だった。
 その態度に、不思議と腹もたたない。
 気持ちがもう、全部跡部に向かってしまっていて。
 神尾は全力で走った。
 
 跡部の家まで行ったら。
 呼び鈴を押す前に、つけよう。
 細い鎖を握り締めながら。
 神尾はそう思った。
 苦くて、酸っぱくて、神尾はコーヒーが苦手だった。
 跡部は好きらしい。
 家でも外でもよくコーヒーを飲む。
 最初の頃、そんな跡部を見て、よくあんなの飲めるよなあと神尾は思っていた。
 別に飲みたくて見ていた訳じゃないのだが、跡部と目が合ってしまった時、飲みたきゃやると跡部の飲みかけを、半ば強引に渡されてしまった。
 いかにも高級なカップを手に、神尾はほとほと参った。
 ぼそぼそと、コーヒーは苦手だと言ったら、飲んでから言えと凄まれた。
 仕方ないから神尾は渋々それに口をつけた。
 味はやはり苦かった。
 でも、苦手な要素のもう一つ、酸っぱい味はしなくて。
 ひとくち飲んで、それだけ言って。
 恐る恐る跡部にカップを返すと。
 跡部は僅かに目を見開いて、唇の端を引き上げた。
 それから、酸味の強い豆が苦手なだけじゃねえの?と跡部は笑って。
 跡部の家に行く度、神尾は必ず、一杯のコーヒーを飲まされるようになった。
 ふわふわのスチームミルクが浮いているのとか。
 牛乳の方が多いくらいの色味の、甘いフレーバーのカフェオレとか。
 香ばしい香りのするさらりとしたのとか。
 たっぷりとクリームが乗っているのとか。
 最初はそういう、匂いとか甘みだとかで誤魔化されるように。
 それから徐々に、少しずつ味の違うコーヒーそのものを。
 そうして、いつの間にか神尾はコーヒーが飲めるようになっていた。
「………あれ? これ?」
 今日も神尾は跡部の部屋で、コーヒーを飲んでいる。
 跡部と出会ったばかりの頃は、ひとくちだって辛かった飲み物を。
「味覚は悪くねえんだよな。お前」
 全然味を知らねえけど、と意地悪く笑う跡部は、いつもと味の違うコーヒーに気づいた神尾を、言い方ほどは意地悪くもない目で、見据えてくる。
 コーヒーを飲む度、神尾は、この飲み物は跡部のようだとよく思う。
「………………」
 苦くて。
 癖があって。
 馴染めなくて。
 美味しくないと思っていたのに。
 敬遠していたのに。
 でも今は、一日の中で、ふと飲みたくなる時が必ずある。
 豆の種類が違う事にもひとくちで気づく。
 一瞬の香りとか、味だとかで。
 苦味は今でも感じるけれど。
 それでも。
「………………」
 いつもより少し濃い、苦い味のするコーヒーに、砂糖をひとさじ落とすように。
 跡部は神尾の唇にひとつキスをした。
 甘くなったか?と笑う目を至近距離に見て、神尾は何だかくらくらした。
 コーヒーでも、キスでも。
 最初からこんな上等なものを与えられてしまっては、この先もう。
「………俺もう缶コーヒーとか全然飲めないんだぜ」
 味覚が馴染んだのは、恐らく最高級品であるだろうコーヒー。
「それがどうした」
 神尾の唇に馴染んだのは、そうやって不遜に笑う跡部の唇、それだけだ。
 もう、神尾の唇は。
 極上のキスだけしか知らない。
 男二人でタンポポを植える。
 いったいどういう光景なのかと、客観的に呆れて思う。
 そうして思う側から、その違和感は。
 たちどころに薄れていくのだけれど。



 その日の跡部は出先から歩いて自宅に帰っていた。
 親の仕事絡みの知人に、どうしてもと誘われて家に招かれ出向いていってみれば。
 来客の多いちょっとしたパーティが行われていて、やはりそうかと、跡部はそつなく浮かべた笑顔の下で嘆息した。
 執拗な誘いに、簡単な顔見せと挨拶とでは帰れそうもないだろうと、当初から思っていた通りの事態だった。
 幼い頃から、こういう場には、親に連れ出され、また周囲からも声をかけられる事の多かった跡部にすれば全て心得ているものだったが。
 中三となった今、部活から受験からその他所用まで、多忙を極める毎日で、あまつさえ近頃はそこに、一分一秒も惜しくなるような出来事が、もう一つ増えたものだから。
 長々とこのパーティに付き合ってもいられないと跡部は思ったのだ。
 新しく跡部の日常や感情の中に生まれたものは、恋人の存在という事になる。
 だがしかし、何も跡部は色惚けしている訳ではなかった。
 一分一秒が惜しいというのは、甘い意味合いもあるにはあるが、何分相手が猪突猛進の変り種で、目を離した隙に何をしだすか判らない、そういう意味合いでもあるのだ。
 笑っていたかと思うと激怒し始め、泣いたかと思うとけろりとして音楽を聴いている。
 怠惰にごろごろと転がっていたかと思うと、突如物凄いスピードでどこぞへと走っていってしまったりする。
 体型に見合わない大食漢ぶりを発揮していたかと思うと、食べかけのパンなど片手に持って赤ん坊さながらに眠ってしまっていたりもする。
 要するに、跡部にしてみれば未知の生き物なのである。
 未知の生き物は名を神尾アキラという。
 そんな風につらつらと神尾の事を考えていたせいなのか、跡部はその日、かなりの酒を飲んだ。
 飲まされたと言うのが正しいのかもしれなかった。
 無論跡部が未成年であることは誰もが判っていながら、そういう点に拘る輩はあまり居ず、ましてや跡部の見目があまりにも年齢を裏切ってもいるので。
 こういう事は然して珍しい出来事ではなかった。
 跡部もアルコールに強いのは親譲りの持って生まれた性質だったらしく、すすめられるままに飲んでも、酒で失敗した事は一度もなかった。
 だから今日の状態は珍しい部類である。
 跡部自身が、飲みすぎたかと思っている。
 酔いが回ったと跡部が自ら感じるような事も、普段ならばそうそうない。
「………………」
 数時間を過ごしたその家から戻る際、跡部は自宅から車をよばなかった。
 たまには歩いて帰るかと思いつきで決めて電車に乗った。
 そうやって普段とは違う幾つかのことをしながら、跡部は暗くなった夜道を歩いていく。
 春の夜風は大分温まっていて、大胆に吹き付けてくる度に跡部は髪をかきあげた。
 風が吹くと街路樹の葉擦れの音が大きくなる。
 その音にも大分耳が慣れた頃、いきなり、風もないのに跡部が通り過ぎようとしていた茂みがさざめいた。
 公園を囲う植木だ。
 先端を赤く染めたカナメの葉。
 そこから突然に飛び出てきたものがあって。
 野良猫かと跡部が思えば、あろう事かそれは跡部の恋人だった。
「うわ! 跡部!」
「………………」
 なんだ!どうしたんだ!こんなとこで!と矢継ぎ早に大声を出した神尾に、跡部は片手で自らの額を押さえる。
 驚くよりもつくづくこいつはと呆れてしまう。
 なんだ!どうしたんだ!こんなとこで!という状態なのは俺よりてめえだと跡部は神尾を斜に見据えた。
 頭がくらりとまわったのは、酒の余韻か神尾の所為か。
 跡部の不均衡な視野で、神尾はびっくりした顔でまだ何か言っている。
 よく聞き取れない。
「………………」
 とりあえず跡部はただ道を歩いていただけだ。
 そんな跡部より、いきなり茂みの中から飛び出てきて、しかも右手にシャベルを握る神尾の方がどれだけ奇異というものか。
「……でさ、跡部、聞いてるか? 俺さ、タンポポ植えたいんだけど、どこがいいと思う?」
「…………ああ?」
 そんなこと聞いてない。
 聞いてるわけがない。
 だいたいタンポポって。
 何で植えるんだ。
 どうして俺に聞く。
 もうどこから、なにから、口に出していいのか跡部にはさっぱり判らなかった。
 くらくらしてくる。
 訳が判らない。
「………………」
 もうどうしようもないから跡部は舌打ちをして、腕を伸ばした。
 神尾に覆い被さるようにして、体重をかけて脱力する。
「………、…ぅ」
 神尾にしては必死で持ちこたえた。
 身長差十cm、体重差十㎏にしては頑張ってんじゃねーのと思って、跡部はおかしくなって、低く笑い声を上げた。
「な、…なんだ? 跡部?」
 倒れこまない程度に跡部はわざと神尾へと体重をかけていく。
 神尾も支えきれないという事は癪なのか、懸命に踏み止まろうとしているのが伝わってくる。
 力が入ってぶるぶる震えているのがおかしかった。
「…跡部、なに、酔っ払ってんの?」
「……ねえよ」
 酒の匂いでもするのかと考えながら、跡部は低い声で言った。
「嫌なら蹴っ飛ばしてでも逃げりゃいいだろ」
「………絡み酒かよ。タチ悪いなー…跡部」
「お前むかつく」
「はいはい。何だかなー」
 全くこたえていない神尾の、まるで自分をあしらうような態度に。
 ムッとするものの、言う程は腹もたたず、跡部は身体を起こした。
「……お前は何してんだ」
「だから言ってんじゃん! タンポポ植えるとこ探してんだよ」
 右手のシャベルを持ち上げて見せて、神尾は言った。
「ここの公園にしようかと思ったんだけどさ。なんか踏み荒らされそうで、いいとこ見つかんないから困ってんだよ」
「…タンポポってお前、ただの雑草だろうが。どこだって好きに生えてくるだろうが」
「普通のタンポポじゃないんだよ!」
「タンポポに普通も普通じゃないもあるか馬鹿」
「馬鹿って言うな! いいか、よーく、これ見ろよ!」
 神尾が跡部の顔に、ぐいっと近づけて見せたもの。
 パッケージの写真。
 ピンクのタンポポが写っていた。
「な? これ、桃色タンポポっていうんだぜ。タンポポがピンクなんだよ。すげーだろ?」
「…………別に」
「無理すんなよ跡部ー」
「してねえっての」
 呆れる跡部にまるで構わず、神尾は嬉々として花の種のパッケージを見ていた。
 何だか目がうっとりしているようで跡部は少し気に食わない。
「俺、絶対花が咲いたとこ見てみたいんだ!」
 でも俺ん家の庭は今家庭菜園中だから駄目なんだと呟く様が傷心しているようで跡部は少し気になった。
「……来いよ」
「え?」
 考えるより先に、跡部は腕を伸ばしていた。
 手にしたのは神尾の手首だ。
「跡部?」
「植えさせてやる。いいから黙ってついて来い」
「…は?」
 細い手首は跡部の手のひらに余るようだった。
 この手でラケットを握るのかと思うと、跡部の胸に奇妙な感じが広がった。
 子供っぽい手は、さらさらと温かかった。
「俺の家の庭に植えさせてやる。しょうがねーから」
「………マジで? いいの?」
 植えても?
 見に行っても?
 咲いたら摘んでも?
 そう捲くし立ててくる神尾の声が、耳障りでない理由がつくづく知りたいと跡部は思った。
 普通有り得ないだろうと心底から思う。
 もう、この、ありとあらゆる全ての事が。


 月明かりの中で、跡部は自宅の庭にタンポポの種を埋める神尾の姿を眺め下ろした。
 雑草でありながらも強い色彩を放つ花。
 軽くて、簡単に、風に飛ばされて行き、飛ばされた先でまた、しっかりと根付く花。
 シャベルを使って土を掘り、丁寧に種を埋めた神尾は、その花に似すぎている。
 ここに植えさせたのは、案外良い事だったのだろうと跡部は考えた。
「サンキュー跡部」
「……………」
 返事の代わりに跡部は軽く神尾の唇を掠め取った。
 

 たちまち神尾はこれから咲くらしい花の色になった。
 何でも命令するような、その態度が嫌いだ。
 きっと相手は相手で、何一つ言う事を聞かない自分のことを嫌いだろう。
 会えば険悪になることは判っていて、それでも会う為の約束ひとつ普通に取り付ける事も出来ない。
 会えば会ったで揉め事を繰り返し、別れ際に苦々しさだとか悔しさだとか物哀しさだとかを抱かない事はないくらいなのに。
 一言に傷ついたり、傷つけたり。
 そういう事がみんな判っていて。
 それでも、接触を持とうとする感情は、不可解で、いつまでも名前がつけられない。
 本当に、ただ嫌いなだけならよかったのに。
 嫌いなのに、腹も立つのに、それだけではないから苦しい。
 それだけでないから、会って、繰り返して、苛々するばかりだ。
 あの男に無関心でいられたらどんなにかいいと思う。
 そう出来ない自分に、神尾は幾度も苦しく悔しい思いをしている。


 いつものように呼びつけられた跡部の家で。
 すっぽかせば済む話なのに、いつだって必ず出向いていく自分が馬鹿みたいだと、悔しくて哀しくて苛々する。
 何か楽しいような出来事を、話すことも無いようなお互いが、二人でいれば大抵は、意味のない言い争いか、剣呑とした沈黙か、あとは。 
「……っ…、…」
 こんな。
 繰り返し、繰り返し、唇を塞がれるキスをしている。
 跡部から与えられるキスの、回数だとかやり方だとか。
 どうしてこんな。
「…、……ぅ…」
「……………」
 鷲掴みにされている後頭部。
 強く重なって、角度を変えられて、ひずむ唇。
 互いの息が混ざって、舌がふれて、濡れて。
 始まると、キスは長い。 
「……っ……、…は…、…」
「……………」
「ン…、…っ」
 あまりちゃんと見たことはないが、こういう時の跡部の目は、こんな事をしている時でも冷静で、一人かき乱されていく神尾を見据えている。
 だから、キスが深くなるのも、熱を増していくようなのも、全部自分の反応を見るための事かと思うと、神尾は執拗なキスに引きずられそうになるのを踏みとどまろうと懸命になる。
 力を入れて強張った身体や、幾度探られても噛み締め直す歯だとか、押し退ける為に跡部のシャツを掴む手だとか。
 跡部が、そういう神尾の態度で苛立っていくのが判っても。
 今更神尾にはどうしようもない。
 伺われ、からかわれていると思うのが、穿ちすぎなのかそうでないのか。
 どうして、こんな風にキスなんかするようになったのかと、それこそ今更のように考える。
 苦しいキスばかり、こんなに。
 何度も。
「…ッ、……、…」
 明らかに機嫌の悪い跡部に、千切られそうに唇を離される。
 神尾の後頭部を掴んでいた手が、髪を握り締め直す。
 痛みに眉根を寄せた神尾は、ふと、跡部の表情が何かに気を取られたようになったのに気づいた。
「………………」
 跡部の視線が、神尾からずれる。
 何かを見ている。
 不安に近い心もとない感じがして、神尾も跡部の視線の先を伺うように身じろいだ。
 ぎこちなく、背後を振り返る。
 跡部が見ていたのは、彼の手のひらだった。
「………………」
 神尾は顔を歪めた。
 跡部の手のひらにあったのは、桜の花びらだった。
 うすく、あわい、桜の花びら。
「………………」
 神尾は、それを見るなり、泣き出しそうになった。
 花びらは神尾の髪についていたもの。
 駅から跡部の家に来る途中、走って抜けた桜並木。
 そこを通るには、勾配のきつい上り坂を上がっていくしかない。
 例えば自転車で上りきるのすら難しいほどの急な坂道を、徒歩でも上ってくる人の姿は殆どない。
 駅に向かうために下っていく人はいるけれど。
 神尾は、今日、その坂道を駆け上がった。
 傾斜のきつい坂道は、跡部の家に来る為の、最短経路だ。
「………………」
 馬鹿みたいだ、と神尾は思った。
 跡部に会っては言い争いばかりして、苦しいのに、悔しいのに、呼ばれれば必ず会いにいく自分が。
 ほんの少しの差でしかないのに、苦しいのに、あの坂道を駆け上がって跡部に会いにいく自分が。
 少しでも早く、ここに来るためにあの道を選ぶ自分が。
 本当に、馬鹿みたいだと思った。
 跡部だって気づいたはずだった。
 この一枚の花びらで、全部。
「………………」
 揶揄する言葉を覚悟して神尾は視線を跡部へと戻した。
 跡部は、その花びらを、まだ見据えていた。
 苦しそうな顔をしていた。
「………跡部?」
 思わず神尾は呟いて、跡部の名を呼んだ。
 跡部は視線を神尾に移して、何だか一層、苦しそうな顔をした。
「跡部…?」
「………………」
 跡部の両腕が伸びてきて、抱き締められた。
 強い力で。
 でも苦しそうだった。
 乱暴な勢いで。
 でも縋りつかれているような気がした。
「跡部」
 どうしてそんな、苦しげに、跡部が背を丸めるのかと。
 自分を抱き締めるのかと。
 危ぶみながら、神尾は目を閉じる。
 何か言える言葉があったらいいのにと、たくさんたくさん考えても、名もつけられない感情ばかりが、溢れ出てくるだけだ。
 跡部の困惑が、密着した体から伝わってきて、どうにかしてやれたらいいのになと神尾は考えた。
 自分に出来る術がないという事は、こんなにも、寂しい。
「……………」
 結局神尾は跡部に抱き締められているしかなくて。
 どれくらいかして、跡部が手を緩めてきて、キスを。
「……………」
 ゆっくりと、近づけられてくる跡部の顔を、神尾は見つめた。
 伏せられていた睫毛の下の跡部の眼差しは、やはりどこか苦しそうで。
 でも、跡部の唇は、神尾が初めて知る程、静かで丁寧に神尾に近づいてきて。
 気恥ずかしいくらい軽く、そっと、神尾の唇を掠めた。
「……………」
 触れるだけのキスの後またすぐに跡部に抱き締められる。
 奪うみたいな強さではなくて、やはり縋りつかれるような力で。


 最後まで、神尾の行動は、揶揄されなかった。
 四月の第一月曜日に当たる頃は悪魔の誕生日と言われているらしい。
 つまり今日で。
 神尾がそれ跡部に言うと、跡部の返答には何の感慨もなかった。
「俗説だがな」
 あっさりとしたものである。
 不満と呆れとで半々になった顔で神尾は唸った。
「あのよー……跡部さ、ちょっとは驚けよ。悪魔の誕生日だぞ? すごいじゃんかよ」
「……悪魔の誕生日だからって、それのどこがすごいのか俺にはさっぱり判らねえよ」
「だって悪魔の誕生日だぜ? 普通そう言われたらもう少し驚くとかしねえ?」
「だいたい今時分は気候が不安定だから、海に出れば荒れる、地上に居ても荒れる、その程度の理由で悪魔の誕生日だ何だって言われてるだけの事だろうが」
 不機嫌な跡部がうんざりと言った言葉に。
 うっかり感心してしまった神尾は。
「………跡部ってさ……何ていうか、こう、知らない事とかないわけ?」
「ないな」
「……即答かよ」
 深々と溜息をつく羽目になる。
 判ってはいても、思い知らされる。
 跡部の性格や言動は、神尾をよく脱力させた。
 常識離れした金持ちっぷりにもそうだし、桁外れの頭の良さにしてもそうだ。
 あと、俺様っぷりとかも。
「………神尾」
 しかし今は、跡部も負けてはいないとでも言いたげに、盛大で派手であからさまな溜息を吐き出してきた。
「なんだよ?」
「この状態でそこまで喋っていられるお前の頭の中が俺には皆目不明だ」
「え?………、ン…、…」
 額を、ぐっと真上から押さえつけられて。
 深く、強く、合わせられた唇。
 ベッドに組み敷かれていたことを忘れていた訳ではなかったけれど。
 神尾に乗り上げてきていた跡部に見下ろされていること。
 始まろうとしていたこと。
 誤魔化すつもりは毛頭無かったが、だからってこんな、唇が歪むくらい強いキスはどうかと思う。
「ん……、ゃ……」
 跡部の胸を押し返そうとして失敗。
 かぶりを振ってキスからのがれようとして失敗。
 抑えようとして逆に上擦った声を出してしまって失敗。
 神尾は何もかもを失敗したのに。
「……ふ……、ぁ…」
「……………」
 跡部の手にゆっくりと髪を撫で付けられて、神尾の頭の中に、何か甘いいけないものが滲んでくる。
 髪の払われた額や、頭皮に、宛がわれ撫でられる。
 跡部の手の感触。
「………っ…ん…」
 まさぐられるように口腔を、跡部の舌に探られる。
 角度を変えて。
 時折はとても深いところまで沈んできて。
 そんなキスが延々と続くので、神尾の唇は、震えて震えてどうしようもなくなった。
「………神尾」
「……、………、は…」
 浅く呼気の当たる距離で、キスを途切れさせた跡部が食い入るような眼差しを神尾に向けてくる。
 近すぎて惑うように。
 近すぎて見つけられないように。
 神尾の目に跡部がはっきりと写らない。
 切れ切れの呼吸に。
 潤んだ視界に。
 水中で泳いでいるみたいだと神尾は思った。
 跡部の輪郭もぼやけているようで、横たわっているのにくらくらした。
「…っ…ん…」
 息を整えるように。
 こくんと喉にあるようなものを神尾は飲んだ。
 何故かその瞬間跡部の気配が強くなって。
 この、悪魔、と。
 何だか嗄れたような声で跡部が言ったような気がしたが、神尾は気のせいだと思う。
 意味が判らないから。
 それより、今なにを飲んだのかとぼんやり考えた。
 何かひどく慣れないようなもの。
 喉がじんわりと熱かった。
「ん…ぅ………、…」
 すぐにまた跡部に唇が塞がれてきて、舌と息とが絡む感触、自然と口角から零れ出るもの、それが口腔に溜まり、ひいては飲み干したのだと気づいて神尾の脳裏がぼうっと熱で霞んだ。
「…、……、…ん、…、っ」
 跡部の舌に纏わりつかれながら、神尾は跡部の背中に縋る。
 背を丸めるようにして、神尾の上、神尾に覆い被さるようにしてくる跡部の背のシャツを握り締めて。
 神尾が持て余しそうなほど屈強で広い背に両手で縋った。
「……ン……ぅ……ん…」
 シャツを握りこんで拳を丸めて、溺れているような必死で切羽詰った喉声ばかりがついて出てくる。
 この男こそ悪魔なんじゃないかと、神尾は朦朧と思った。
「………少しはその気になったかよ」
 唇を離して、悪い笑みを刻んで。
 跡部は神尾の首筋に言葉を埋めた。
「……ャ……なに……、……」
「いつもみたいに泣いて頼めば終わると思うなよ」
「ぇ…、……っ…ん…?……跡部…?」
 笑いながら機嫌を損ねているらしい跡部のバランスが、神尾には図れない。
 何だかひどく恥ずかしい事を言われている気もするが、どうする事も出来ない。
「…………、…ぁ」
 服と素肌の間に滑り込んできた跡部の手のひらの下、血液が流れる音すらも聞こえてきそうな自分自身の体の乱れにも。
 すでに神尾には対応出来るものではなくなっていた。


 四月最初の月曜日。
 ここに悪魔が生まれてしまった。
 喧嘩中ではないが神尾の機嫌はあまりよくない。
 眉を顰めて、唇を噛んで、声にならない声で唸っている。
「………跡部」
 もう一回、と低く言った神尾の向かいで、跡部は片肘をつき溜息を吐き出す。
「まだやんのか」
「やる!」
「……いい加減気づけよ」
「え?」
「なんでもねーよ」
 うんざりとした素振りの跡部の部屋で。
 おそろしく高そうなガラステーブルを挟んで向き合っている跡部と神尾だ。
 先程から二人は幾度となく同じ事を繰り返している。
 精密なアイアンの装飾が施されているガラステーブルの上にあるのは十数枚の小銭だ。
 百円玉と十円玉が多い。
「どっちからだ」
「えっと……俺から!」
 好きにしろと跡部が言うので、神尾はテーブルの中央から小銭を一枚引き抜いた。
 様子見の一枚だ。
 跡部はすぐに三枚取った。
「………………」
 一枚か二枚か三枚。
 小銭を取る枚数はその三パターンに限られている。
 二人で交互に小銭を取って言って、最後の一枚を引いた方が負けだ。
 この、ささやかな賭けの方法は跡部の提案。
 賭けの話自体を持ち出したのは神尾からだ。
「ほらよ。またお前の負けだ」
「………っ…、どうなってるんだよさっきから…!」
「どうもこうもねえよ…」
 いい加減にしとけと跡部も機嫌のあまりよくなさそうな顔で言った。
 もう何回くらいこの勝負を繰り返しているのか。
 ことごとく最後の一枚を引くのは神尾だった。
「お前な……俺の家に泊まっていくくらいの事で、毎回駄々こねるんじゃねえよ」
 往生際の悪い、と些か乱暴な口調で言った跡部の真向かいで神尾は赤くなった。
「……、…っ……そーゆー軽い問題じゃねーんだよ、俺にとってはっ」
「至れり尽くせり、上にも下にもおかないようなおもてなしを、俺様が直々にやってやってんだろ。何が不満だ」
「そん、…」
「違うってのか?」
「ちが…、てゆーか、そーゆーことを言ってんじゃねーんだよ……っ…」
 真顔で、機嫌悪く、言う事だろうか。
 そんな綺麗な顔で。
 えらそうな態度で。
「………っ……」
 神尾はいい加減熱くなってきた顔を伏せて、跡部を見ないようにした。
 見たくないんじゃなくて、見られたくないのだ。
 どれだけ赤いのかと、尋常でなく熱い自分自身の顔を思って神尾は頭を抱え込みたくなった。
「神尾」
「………泊まると……」
「……………」
「一緒に寝るじゃんか…」
「当たり前だろ」
 神尾が必死の思いで言った言葉を、跡部は何を今更といった口ぶりで、即答肯定である。
 ぐっと言葉を詰まらせた神尾は、透明なガラステーブルの天板の下から、跡部の手が伸びてきたのを見た。
 手を、握られた。
「………、……」
「まさかそれが嫌だからって言うんじゃねえだろうな」
「…………い、…やとかじゃなくて……!」
 跡部の声はそっけないくらいだったのだが、テーブルの下で跡部の手に握りこまれている指先が感じた力加減が不思議にぎこちなく思えて。
 神尾は顔を伏せたまま口をひらいた。
「いやとかじゃなくて、ただ、跡部と一緒に眠るのとか」
「無理だの嫌だの今更言うんじゃねえぞ。さんざ寝こけといて」
「寝こけ……、」
「すかーっと、ガキみてえなツラして散々人の腕ん中で寝ておいて今更何だってんだよ」
 跡部の語気が次第にきつくなる。
 跡部の声が、からかうような言葉とは不釣合いになっていく。
「………………」
 握り込まれている指先から、跡部が苛立ちが伝わってきて、神尾は、そっと跡部の手を握り返した。
「…………この間はじめて跡部が眠ってる時の顔見たんだってば……!」
「…ああ?」
「心臓止まるかと思ったんだよ…っ」
 泣きそうにも、なった。
 うまく言えない。
 きっと跡部には伝えられない。
 でも、怖いくらいに隙のない、整いきった面立ちの跡部が、神尾を片腕で抱きこみながら、深い、深い眠りに落ちている表情は。
 静かで、綺麗で。
 愛しかった。
 心臓が止まりそうなくらい、泣いてしまいそうなくらい、神尾は。
「………跡部が…、…」
 嫌だとか、見たくないだとか、そういう事ではなくて、跡部の、寛いで、穏やかな、眠りに沈むあの表情を思い出すだけで。
 好きが膨れ上がって神尾はおかしくなりそうだった。
「バァカ。寝顔ごときでびびってんじゃねえよ」
 跡部の指先が神尾の手首をゆるく撫でる。
 手の甲を擦る。
 ゆっくりと。
「………跡…部…」
 優しい。
 仕草だ。
「……泊まっていけ」
「………………」
「お前の心臓止まらねえように、夜中に目が覚めるなんて事ないくらい、してやるから」
「し……!」
 びびるな、と駄目押しされた跡部の言葉も耳に入らないくらい、神尾は硬直した。
「して…って…!…」
「本当に慣れねえな…お前」
 忍び笑う跡部に。
 テーブルの下。
 両手を握り取られる。
 つながれた、両手。
 羞恥心もそれでいよいよ限界に近い。
「いいな。神尾」
 低くひそめた跡部の声に。
 跡部と繋いだ、この手が無ければ。
 神尾はこのまま倒れ伏してしまいそうだと思った。


 そして実際跡部の言うように、することもしたわけなのだが。
 その延長で延々睦みあうようにベッドの中で話を続けている中、神尾は跡部にコインの最後の一枚を引かない方法を教えられた。
「要は自分が取った後に残っている数が五なら絶対勝てるんだよ」
「……五?」
「相手が一枚取ろうが二枚取ろうが三枚取ろうが、最後の一枚引かせられるだろ。残り枚数が五ならな」
 睡魔も手伝っていた。
 神尾は跡部の説明を聞きながら。
 小銭など無いベッドの中で、跡部の手に触れてそれを確かめる。
 指の長い片手にそっと手を伸ばし、神尾はコインに見立てて跡部の指を握りこんでは試す。
「……ほんとだ……」
「………お前な」
「…ぇ……?……」
 呻くような跡部の声を、聞いた気がしたが。
 神尾は、結局、眠気に負けた。
 跡部の指を両手に握りこんだまま。
 もう、目が開かない。
「………ったく…どっちがだ」
 心臓が、なんとかとか。
 跡部が言っていたような気がしたが。
 眠りに落ちていく神尾には、もう、確かめる術はない。
 身体が動かないと思って神尾は目を開けた。
 そして、実際に目を開けてみれば、そんな大袈裟なことではないと判るのだけれども。
「………………」
 まだ室内は暗い。
 部屋の様子もだいたいでしかつかめない。
 でも、自分の一番近くにいる相手が誰なのか、それだけは正しく、判っていた。
「………………」
 神尾が探すまでもなく、その男は驚くほど近くにいた。
 腕枕をされているのに似ている体勢だけれど、少しだけ違っていて。
 跡部の腕はまさに腕枕の体勢そのものなのだが、神尾の頭の位置がずれている。
 並んで寝そべる横から、跡部の胸元に。
 顔を寄せるように横向きになっている神尾の頭に跡部の手があった。
 添えられるように軽く宛がわれていた手。
 それが神尾を動けないと思わせたものの正体だった。
「………………」
 寝ている間も、こうしてずっと跡部の手が頭にあったのかと思うと、色濃い眠気の中の気恥ずかしさが、どんどん神尾に侵食してきた。
 普段から夜中に目が覚めるなんてことは殆どない神尾だったから、だんだんと目が慣れて、くっきりとらえる事が出来てきた跡部の寝顔にだって正直鼓動が早くなる。
 そんな神尾に突然跡部がなだれこんできた。
「……っ…!…」
 ひ、と思わず神尾は息を飲む。
 いきなり寝返りをうつように。
 跡部が神尾のいる方に身体を倒してきたのだ。
 神尾を抱え込むようにして跡部の腕が神尾の肌の上に乗る。
 一層近くなった跡部の顔は、目を閉じているのに壮絶に整っていて、神尾は何事か叫び出してしまいたくなる衝動を抑えるのに懸命だった。
 寝入っている跡部の表情に、物珍しさを感じる余裕すら神尾にはない。
 体温で温まった涼しくも甘い匂いがして。
 近すぎるこの距離に、とても眠るどころではなくなった神尾を、跡部が更に抱き込んでくる。
 その仕草に寝たまま仰け反りかけた神尾の、ガチガチになったひどい緊張を緩めたのは、唸るような言葉だった。
 跡部の。
「抱き締めて何が悪い」
「は?…、…あれ?…跡部?…起きて…?」
「俺が俺のものを抱き締めて何が悪い」
 低いだけでなく、ぼそぼそと喋る聞きなれない跡部の喋り方に神尾は混乱を極めた。
「わ、……わる…いとかじゃなくて…」
「嫌がるな」
「…や、…嫌がってんじゃなくて、」
「嫌がってんだろ……」
 ちがうと慌てる神尾は、胸に抱き込まれるどころではない跡部からの抱擁の強さに抱かれながら、今が明け方、暗がりの部屋でよかったと心底から思う。
 自分の顔が赤いのが、いやというほど判っていたからだ。
「神尾」
「……な…、…なに…?」
「逃げんな」
「逃げてねーよ!………ってゆーか跡部、ひょっとして本当は寝ぼけてんの…?」
「誰に向かって口きいてんだ」
「あ、大丈夫か……」
 いやいや。
 ぜんぜん。
 大丈夫じゃない。
 思い直した神尾の心情こそが本心だ。
 だってこんな、何度されたって、跡部に抱き締められればドキドキするのだ。
 ベッドの上。
 毛布の中。
 裸じゃくても。
 しているんじゃなくても。
「…………跡部」
 跡部は目を瞑ったままだ。
 眠いのかもしれない。
 でも、神尾を抱きこむ腕の力は緩まない。
「…大丈夫かおまえ」
「………え…?…」
「今一気に体温上がったぞ」
「………………」
 だってこんな。
 こんな風に抱き締められたら。
 体温なんておかしくなるに決まっている。
 抱き締められているから苦しいのではなく。
 耳元で囁かれているから熱が上がるのではなく。
「跡部……」
「……お前本当は熱出してんじゃねえだろうな」
「ちがう」
「嫌がって、固まってんじゃねえな?」
「…うん」
 好きで。
 好きになりすぎて。
 苦しくなる。
「……跡部…」
 でも、押し潰されそうになると不安に思った事はなかった。
 どんなに気持ちが募っても。
 恋愛感情は、どれだけ苦しくても逃げてはいかない。
 胸の内から。
 どこへにも。
「神尾」
「……………」
 寝乱れた髪越しに眦あたりにキスされて、本当に熱でも出そうな気分になった。
 もう自分が、眠いんだか、そうでないんだか判らなくて。
 跡部の事も、優しいんだかそうでないんだか判らなくて。
「……少し熱抜きして冷やしてやろうか」
 笑いの交じった声で跡部にそう囁かれた言葉を耳にした途端、神尾は強く頷いていた。
 小さく、一回だけ。
 でも跡部は、ひどく驚いたようだった。
 短い絶句の後の呼びかけは、確かめの問いかけのようで。
「神尾」
「………冗談だったんならいい。ねる」
 同じベッドで逃げるも隠れるもないが、神尾はもう眠い振りをするくらいしか出来なくなって跡部に背を向けて、毛布の中に潜り込もうとした。
 それを跡部の手に食い止められ、跡部に乗り上げられ、組み敷かれた時は。
 跡部は絶対、少し意地悪く笑って、神尾をからかうのだと思っていたのに。
「………………」
 神尾が見上げた先、跡部は強い眼差しで神尾を見据えて。
 唇を塞いできた。
 深すぎるような口付けで。
「……、…っ……」
「………………」
 口付けられながら身体のあちこちを辿られ、何も言わない跡部の性急な所作に、生々しい欲を感じ取って身体を震わせた。
「跡部…」
 すき、と食いつかれるキスの狭間に織り込めば、毛布の中で下肢のパジャマを引きずりおろされた。
「………ァ…ぅ」
 跡部の手にめちゃくちゃにされる毎に声を上げて、神尾は跡部の後ろ首に手を伸ばし取り縋った。
 神尾が跡部の耳元すぐ近くで呼吸を乱していると、舌打ち交じりの荒い言葉が聞こえた気がした。
 跡部の声で。
「……跡部…?…」
「………、…ッ」
 何の言葉か判らないのに。
 悪態のようにも聞こえるのに。
 神尾は、何故だか、嬉しくなった。
 このまま抱くと威しのような物騒さで跡部から投げられた言葉も嬉しくて。
 とけだすように笑っていると。
「………真夜中に半分眠りかけながら人を誘うんじゃねえ。バカが」
 跡部の、駄目押しの悪罵が、神尾の笑みを一層深くさせる。

 神尾が笑っていられたのは。
 それまで。
 声は出さなかったと思うのだけれど、跡部が振り返った。
「どうした」
「え? 別に…」
「…手か?」
「え?」
 何で判るんだと神尾が驚いているうち、跡部は椅子から立ち上がり、ソファにいた神尾の前に立つ。
 膝をついて。
 神尾の手を取った。
「………………」
「……爪引っ掛けるような場所がこの部屋にあるか?」
「いや、ここでじゃなくて、部室でちょっと端んとこ割れて、……、いっ、てー…!」
 ぱしん、と頭を叩かれ神尾は叫んだ。
「なにすんだよ跡部!」
「なにすんだじゃねえ。気づいてたならその時切れ」
「爪切りなかったんだから、しょうがねーじゃんか!」
 部活が終わった後は、本当にちょっと切れていただけだった。
 跡部の家にきて、すぐ済むから待ってろと跡部が机に向かっている間、神尾はいつものようにMDを聴いたり、雑誌を見たりしていた。
 ふと手持ち無沙汰になった時に、爪の亀裂が大分進んでいた事に気づいたのだ。
 このまま取ってしまおうと、殆ど取れかかっている爪先を指で摘まんでみたところ、変な方向に亀裂が進んで深爪のようになった。
 痛いというのは思っただけの筈で、どうして跡部が振り返ったのかは未だに謎だ。
「………………」
 立ち上がって何かを取りに行く跡部の背中を複雑に見据えた神尾の元に、跡部はすぐに戻ってきた。
「手、寄こせ」
「………………」
 再び神尾の正面に膝をついた跡部の手には、無造作に幾つかのものが握られていた。
 神尾には見慣れない道具だった。
「…それ何?」
 爪を切ったもの。
「ニッパー」
「爪切り使えばいいのに」
 ペンチみたいで怖いなあとこっそり思った神尾の心情は、またもや跡部には筒抜けだったらしく、何びびってんだと笑われた。
 跡部のさらさらとした手は少し冷たくて。
 神尾の甲や指の付け根をそっと取っている。
「爪が傷むだろ」
「爪切り使うと? 何で?……ってゆーか、今度のそれ何?」
「ヤスリだろ」
 何となく気恥ずかしくて神尾が矢継ぎ早に尋ねれば、跡部は返事は素っ気無く、でも仕草はひどく優しく、神尾の爪を整えた。
 細くて長い金属の棒で爪の断面を研ぐ跡部の手が綺麗で神尾はじっと見てしまう。
 そんなに物珍しいかよと跡部がまた笑った。
「………………」
 別に爪を切ったり研いだりする道具が珍しいわけではない。
 でもそう言う訳にもいかず、神尾は黙っていた。
「……ちいせえ爪」
「………生まれつきなんだよ」
 触感なんて無いと思うのに。
 爪の真上を跡部の親指の腹にそっと撫でられて、神尾は緊張した。
「伸びんのも、遅いし」
「苦髪楽爪って諺知って……る訳ねーな。お前じゃ」
「……、……っ…どういう意味だよ…っ」
「苦労していると髪がよくのびる、楽をしていると爪がよくのびるって意味だ」
「そういう意味を聞いてんじゃねえ…!」
 お前じゃ、の方意味だと叫んだ神尾に、含み笑いを零す跡部は絶対に判ってて言っている。
 神尾が顎を引いて睨みつけるように跡部を見下ろすと、少し下の目線にある跡部は平然と見返してきた。
「見た目ほど、楽してる訳じゃねえんだなって言ってやってるんだぜ」
「はあ?」
 すこぶるえらそうに言われた言葉の意味がまたもや判らない。
 しかも何気に貶されている気もする。
「見た目が楽してそうって事かよ。あのな、俺だっていろいろ、」
「苦労してんだろ。だからそう言ってやってんじゃねえか」
「……、…聞こえないんだよ! そんなえらそうに言うから!」
「バァカ。えらそうじゃなくて、えらいんだよ。俺は」
「………っ……」
 頭にくる。
 本当に、頭にくるのに。
 どうしてこんなに、ドキドキするんだろうと神尾は思って。
 そういえば、ずっと跡部に手を握られているんだと。
 今更のように気づいた。
 指先を握りこまれていて。
 映画に出てくる、女の人をエスコートする男の人みたいな。
「なに赤くなってんだ? 神尾」
 判っていて言う跡部。
 悔しいと思うけれど、恥ずかしさの方が募って、神尾は跡部から手を引こうとした。
 でも思いのほか指先はがっちり握りこまれていて手が引けない。
「……、……離せよ…」
「何で」
「……も…切り終わっただろ…!」
「お前の爪を切ってやった俺様に礼ぐらい言ったらどうだ?」
 神尾が座っているソファの上に片膝を乗り上げてきた跡部に神尾はいよいようろたえる。
「……跡部って…いつもああしてんの?」
「ああ?」
「爪とか……切ってあげんの?」
 間近にあった跡部の目が不意にきつくなって。
 怒ったな、という事は神尾にも判った。
「……誰にだよ」
「え……あの、今まで付き合った子、とか…、…っ……」
 さっき頭を叩かれたより痛いかもしれない。
 唇。
「……っ…ぅ……、」
 強いキス。
 割り込んできた跡部の舌に、口腔中撫でられた。
「………、…は…、…ぁ、……なに…?…」
「……何じゃねえ。この馬鹿が」
「…ぇ……?……っん」
 キスが止んだのはそんな一瞬で。
 再び深く口付けらてこれて、神尾はぐったりと跡部の腕に落ちた。
 背中を抱きこまれる。
 押し当てられた跡部の胸元。
 近くなって知る香りにくらくらした。
「…………………」
「人にさせるならともかく、俺が人の爪なんざ切ってやる訳ないだろうが」
「………跡部…?」
「馬鹿かお前は」
 呆れ返った口調なのに、聞いた神尾はくすぐったいような気持ちになった。
 気持ちが、すごくいい。
「神尾?」
 抱き締められたまま。
 眠いって呟いたら、跡部は何て言うかな、と神尾はぼんやり考えた。
 ふざけんなってまた怒鳴るか。
 案外、このまま寝かせてくれたりもするかもしれない。
 爪を切ってくれた跡部はすごく優しかったから。
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