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How did you feel at your first kiss?
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 よし、と意を決して神尾は跡部の胸倉を両手でぐっとつかみしめた。
「跡部!」
「…ああ?」
 掴みかからんばかりの神尾の勢いに、秀麗な目を不機嫌そうに細め、跡部は凄む声で返してくる。
 こんなにガラが悪いのに。
 全然下品にならない。
 すごくおかしな男だ。
 跡部景吾。
 そのうえ神尾がつかんだ跡部の胸倉をいくら全力で引っ張っても跡部はびくともしない。
 まるで動かない。
 詐欺だ。
 そんなに大柄な男じゃないのに。
「………ったく」
 溜息まで大人っぽい。
 悪態まで美声だ。
 ずるい。
「されるだけでいるのにすっかり慣れやがって」
 何か勝手な勘違いをして、跡部は神尾の首の後ろを強い力で鷲掴みにしてきた。
 跡部の顔が急激にアップになったのを見て、慌てて神尾は声をつくして叫んだ。
「違う!」」
「ああ?」
「チ、チューして欲しかったら俺の言うこと聞けよ!」
「ば、か、か、てめえは」
 して欲しいのはてめえの方だろうがと吐き捨て、跡部が強引に神尾の唇を塞ぎにかかってくる。
 神尾は全身全霊でその身体を押し返した。
「俺の言うこと聞こえねーのかよ! 馬鹿跡部!」
「てめえにだけは言われたくねえ言葉だな」
「や、っ」
 跡部の胸倉を掴みに行ったのは神尾から。
 でも押しのけているのも神尾から。
 それが気に食わないらしくどんどん悪人面になって跡部は神尾を束縛し口付けようとするから傍目に二人は格闘しているようにしか見えない。
「ふざけんな! 嫌がってんじゃねえよ!」
「ばかばかばかっ。人の話聞け、ばかっ」
 何故だか跡部は時々気が短い。
 そういう時は子供っぽい。
 こんな風に。
「てめえが俺に、何の話があるってんだ。ああ?」
「ある! ばか! 俺真剣なんだからな! ちゃんと聞けよ…!」
 相手を引き剥がしたい神尾と、引き寄せたい跡部との、力比べみたいになっていて。
 形勢不利で息をきらして叫んだ神尾の声は弾みで上擦り、すると跡部の手の力が突然に弱くなった。
 徐々にではなく、いきなり動きが止まった。
「…………ぁ…?」
 いきなりだったので神尾が面食らって見つめた先、跡部は何とも言えない表情をしていた。
 すごく怒って、すこし戸惑うような。
 皮肉に笑って、ひどく狼狽するような。
 神尾にはうまく言えない跡部の表情。
「………跡部?」
「……何の話だ」
 聞いてはくれて。
 でも何で、そんな慄然とした顔で。
 取り繕ったような無表情を装って。
「………………」
 返答如何では殺されそう、なんてことまで神尾は思ってしまった。
 そんな跡部の顔。
 美形は三日で見飽きるんじゃなかったのかよと、神尾はどこぞで聞いた事のある言葉を思い出しながら、じわりと頬が熱くなるのが判った。
 神尾は跡部の胸元のシャツを握り締めたまま、俯いた。
 整いすぎるほど整った顔から目を逸らせて、神尾は言った。
「一回くらい好きって言ってくれよぅ……」
 それだけだ。
 神尾が欲しいもの。
 聞きたい言葉。
 それを聞かせてくれたら、幾らだって、キス、を。
「…………っ…」
 自分がねだっている物の恥ずかしさを今更ながら思い知らされた気分で神尾は完全に顔を上げられなくなる。
 掠れたような自分の声が、冗談に紛らわせる事も出来なくしていて、言っておきながら居たたまれなくなった。
「…………、っ」
 背中に。
 跡部の両手がするりと回って、やんわりと抱きこまれたのが判って、もう余計にだ。
「…てめえだって言った事ねえくせして」
「…………俺、は……!」
 優しい、抱き締め方。
 何だかくらくらしてきて。
 意地悪ばかりするから、一度くらい好きだって言って欲しいと思っていたはずなのに。
 こんな風に優しくされたら、今度はどうしたらいいか判らない。
「ま、今日は言ってやる。欲しいからな」
 チューとやらがな、と意地悪く言って笑っているらしい跡部に。
 抱き締められたまま。
 神尾が思いもしなかったような声で、好きだ、と囁かれた。
「…………、……」
「好きだ」
 抱き締めてくる手に力がこもって。
 顔は見えないけれど、ひどく生真面目に聞こえる口ぶりで、低くも甘い声音で。
 囁かれて。
 ぐったりと脱力させられた神尾は、上向くように頭の後ろを跡部の手に掴まれた。
「オラ、お前の言う事は聞いてやった。しろよ」
「………ぇ…?」
「キスだよ。しろ。早く」
 神尾を見下ろす跡部は、顔を近づけてはくるけれど、いつものように彼からは唇を塞いでこない。
 あくまでも神尾の方からしろと言う様に、至近距離で止まっている。
「………………」
 淡い色彩が幾重にも折り重なっている怜悧な面立ちを眼下に晒されて、神尾は息を詰まらせた。
「おい」
「………無理…」
 今更でも何でもとにかく無理だ。
 こんな綺麗な顔してる男に自分の方からチューだとか。
「俺様の事なめまくってやがるなテメエは…!」
 かなり本気で怒っている跡部は、今しがたまでの甘い抱擁が嘘みたいに手荒く神尾を抱き締めて。
 かぶりつくような手加減無しの口付けを神尾から奪った。
「……ッ…、…ン…」
「………ぼろぼろに泣かす」
「ぁ…………」
 凄む跡部がかわいいと、ふと思った。
 今なら出来るかもと、ふと思った。
 神尾は跡部の唇の表面に、ちゅ、と触れるだけのキスをおくる。
「………、…テメ…」
「…………跡部…」
 完全に面食らったような跡部の表情は見慣れなくて、何だかほっとして、神尾は。
「………もっと?」
 そっと尋ねた。


 その後の神尾は、跡部に散々に抱き潰された。
 悪いのはみんなお前だと跡部に不機嫌極まりない顔で言われた神尾は。
 本当に、跡部という男。
 自分勝手な王様だと思うのだった。 
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 肩を丸めて身体を縮めて、泣きじゃくるような呼吸を未だ引きずる神尾の背に、跡部が手のひらを宛がうと、綺麗に浮き出た肩甲骨が羽ばたき損ねた羽の様にぎこちなく動いた。
「………戻ってこれないのか」
「………………」
 目が合っているのに、神尾は跡部を探すような顔をする。
 上気した顔や、浅く忙しない呼吸。
 瞬くと睫毛にもつれるような涙がはっきりと見え、跡部は神尾の目元を手で拭いながらベッドの縁に腰掛けた。
「神尾」
「………………」
 聞こえてるかと静かに問いかけた跡部の手に擦り寄るようにして神尾の身体がまた小さく丸まった。
「おい……?」
「あとべのて、きもちいい……」
「…………………」
 片手にしがみつかれるような体勢に、跡部は片手を神尾に預けたまま、身体を並べるようにして横たえる。
 そうやって、横になって顔を見合わせると、尚も涙に潤んでいる目を震わせるようにして神尾がぽつんと呟いた。
「跡部、キレー……」
「…………………」
 どっちがだよと跡部は微かに眉間を歪める。
「……跡部の瞳ってビー玉みたいにキラキラしててきれくて好き」
 だからどっちがだと。
 濡れそぼる黒い瞳の眦を跡部は指先で辿った。
 跡部のその手にも擦り寄ってくるような神尾の仕草は何の媚もなく、寧ろ普段は感じ取れないいたいけさが色濃くて跡部はそのまま神尾を胸元に抱き寄せた。
「…………………」
 跡部が抱いた後の神尾はいつもこんな風で、最中にむさぼった快感の代償ように力ない。
 ぐったりとしている神尾の身体を、跡部が自分の上に乗せてしまっても、くたりとのびている子猫のようにおとなしい。
 跡部の胸に顔を伏せている神尾の小さな頭に、跡部は両手の指先をもぐらせて、撫でるようにあやし続けると。
 少しずつ神尾の荒いだ呼吸が和いでいくのが跡部の手のひらに伝わってきた。
「…………………」
 抱きたいと思う衝動はいつでも強く、そうやって抱いた後にうまれるひどくやわらかくて繊細な飢餓感を、跡部は神尾で知った。
「………なにゴソゴソやってんだ」
「…………ねむい…」
「寝りゃいいだろ」
「……おりる………」
「おりなくていい」
「………ぇ…?……でも…さ……」
「でもじゃねえよ」
「…………おもいだろ?…」
「どこが」
 跡部が強引に腕を回して、身じろぐ神尾を引き寄せると。
 何だか熱っぽい感触が胸に当たって、そのゆるい熱さが跡部の深いところにも浸透してくる。
「…………………」
 なだめて、あやして、寝かしつけたい欲求なんて、聞けばどこの母性か父性かという感じだが、生憎どちらにも当てはまらない己を跡部は熟知していた。
「苦しくねーの?……」
「…………………」
「……あとべ…?」
 抱いた後に殊更。
 手放したくなくなる。
「あとべ」
 朝になればまた、やたらと元気のいい、威勢のいい、笑って怒って目まぐるしい神尾になるのだろうけれど。
 今は。
 とろとろと甘い惰眠のように柔らかい神尾を抱き締めて。
 手のひらの下の滑らかな背中を感じて。
 跡部は静かに眠りに沈んだ。

 眠っている間でも。
 意識のない間でも。
 跡部には、もう、手放せなかった。
 留守番をする事になった。
「ここには誰も来ないが、万が一誰かが訪ねてきても、絶対にドアを開けるな」
「……信用ねーなー……俺、ちゃんと応対くらい出来るぜ?」
 そういう事を言ってるんじゃねえと跡部に凄まれ、訳わかんねえと神尾は唸った。
 跡部の家にやって来て、小一時間も経たないうちに跡部の携帯が鳴った。
 テニス部の監督からの呼び出しである。
「急ぎの用なんだろ? 早く行けよ」
 何故か跡部は神尾にしてみればどうでもいいような事を念押ししているばかりで、なかなか出て行かない。
 神尾の方が気が急いてしまう。
「跡部」
「俺が帰ってくるまで絶対にここから出るな」
「……あのなあ……! 近くだとしても、買い物に出る時は俺だって鍵くらいかけるってば」
「そういう事言ってんじゃねえって何遍言わす」
「おんなじ回数訳わかんねーって俺に言わせておいてそういうこと言うか?」
 喧嘩なんかしてる暇ないだろうにと思いながらも、ついつい神尾は跡部に食ってかかってしまった。
 すると。
 舌打ちが聞こえて。
 後ろ首をつかまれて。
 神尾は思わず首を竦めた。
「…、…………」
「………誰もここに入れるな」
「………………」
「飽きて帰ったりするな」
「……跡部?」
 何だか声の感じが違って聞こえる。
 不思議に思って目を開けた神尾の唇に、跡部の唇が掠った。
 キス、された。
「………………」
「どこのいかれた野郎に手出されるか判ったもんじゃねえからドアは開けるな。俺じゃない奴と二人きりになったりするな。まだ帰したくないから帰らないでくれ。……こう言や判るのか。てめえの馬鹿な頭でも」
「ば、……!」
 馬鹿とか言われてむかつくし、からかってくる態度にも腹がたつのに。
 それなのに。
 何だか気分がひどく甘くなって、神尾の罵声は敢無く途切れた。
 間近に見る跡部の顔とか、言葉の調子ほど茶化した様子のない目だとか。
「………………」
 頬を撫でられ、もう一度されたキスだとか。
 跡部が好きで、胸が詰まる。
「………………」
「待ってろよ」
「……うん…」
 最後に軽く抱き寄せられ駄目押しされた。
 甘ったるい余韻を残す抱擁をして、跡部が出て行った後。
 即座にその場にしゃがみ込んでしまった神尾は、がなっているみたいな自分の胸元を押さえて呟く。
「………心臓に悪ぃってば……」
 そう呟くが精一杯で。
 神尾は。
 跡部が帰ってくるまでの時間の大半を、呆けて過ごす羽目になった。


 扉の開く音。
 我に返ったみたいな気分で、神尾は玄関まで走った。
 どれくらい時間が経ったのか確かめる余裕も無く、帰ってきた跡部を迎えにいく。
「跡部!」
「……三倍速でファイルチェックしてきてやった。有難く思え」
 相当悪い奴のような不機嫌極まりない顔で跡部は言った。
 凄む声。
 えらそうな言葉。
 不遜な態度。
「よしよし、いい子いい子」
「………ああ?」
 なんだか可愛かった。
 思わず手が出て跡部の頭を撫でた神尾に。
 呪いでもかけるような凶悪な面相で唸った跡部は、しかし目と目があうと、不意に口を噤んだ。
 なんだ?と小首を傾げて神尾が見つめると。
 跡部は舌打ちして目を逸らす。
 片手で頭を抱える。
 神尾は慌てた。
「……どうした? 具合悪いのか?」
 焦って表情を伺おうと顔を近づける神尾の目の前で、跡部が呪詛めいた悪態をいくつか口にしたが神尾の耳には届かない。
「跡部?」
「…………くそったれ…」
「え? 大丈夫か跡部?」
「大丈夫なわけあるかっ」
 神尾は更に慌てる。
「取り合えずベッド行く?」
 気遣わし気に跡部の様子を伺いながら尋ねると、荒っぽい返事がすぐに返ってくる。
「当たり前だ」
「そんな具合悪いのか? 医者とか行かなくて平気か?」
「てめえが連れてけ」
 天国の近くまで、と。
 神尾の耳にひどく理解し難い跡部の声が届く。
「は? 何、……っ……ぅわ、跡部、っ?」
 いわゆる抱っこ、そしてそのまま勢いで肩に担がれるようにされて、神尾は跡部の背にだらんと両手を落とし、ついでに宙に浮いている両足もばたつかせて叫んだ。
「ちょ、っ……おい、何の真似……!」
「お前下ろした場所でやるからな。廊下でやられたくなけりゃじっとしてろ」
「……やる、?!」
 何で、どうして、そういう話になっているのか。
 さっぱり判らず神尾はくらくらしてきた。
 跡部のベッドに放られて、いきなり深いキスをされても目をまわしていた。
「あとべ……?」
 もつれた舌で、キスの合間に懸命に名前を呼べば。
「………これ以上駄目押ししてどうすんだ。この馬鹿」
「……っ……ン…、」
 唇が離れる前の、何倍かの深さでまた口付けられた。


 結局神尾は何がどうしてこうなったのか、最後の最後まで判らないまま。
 跡部を連れて行き、跡部に連れていかれた。
 入り口どころか、それは恐らく、別天地そのものにまで。
 出会った最初の頃は何かにつけ神尾の方が怒る事が多くて、跡部は大抵笑ったり呆れたりしているばかりの客観的なところがあった。

 つきあいはじめた頃は、神尾は相変わらず腹を立てる事が多くて、しかし跡部も同じように怒ったり時には神尾以上に激高してきれたりする事があった。

 それからもずっとずっと一緒にいて。
 今に至って、どうなったかと言えば。

「お前が俺を嫌いでも俺はお前が好きだよ」
「………………」
「なあ、跡部。こっち向けってば」
 相変わらず跡部はよく怒るけれど。
「跡部」
 こっちを向いてくれなくて、泣いた事もあったけれど。
「俺は跡部が好きだよ」
 振り払われるのが怖くて、手が伸ばせなかった事もあったけれど。
「ちゃんと好きだから」
「………………」
「跡部」
 今は。
 そっぽを向いている跡部の正面に自分から回っていって、目を見つめて、腕を伸ばして。
 抱き締められるようになった。
「お前が俺には一番大事」
「…………、……」
「………………」
 跡部の舌打ちに萎縮した事も多かった。
 でも今は、それすらいとおしくて抱き締めていられる。
「跡部」
「……人を丸め込む方法なんざ覚えやがって」
「跡部」
「百年早ぇよバカヤロウ」
「うん」
 跡部が好きだとそれでも繰り返して言うと、神尾の腕の中、跡部が身体をあずけてきた。
 手にかかる重みが増した。
「………………」
 昔はこんな風な事はなかった。
 神尾が、跡部にしてやれる事なんて何もないと思っていた。
 でも今は幾らでもそういう言葉や行動があることを知っている。
「跡部」
 抱き締めて。
 名前を呼んで。
 腹が立ったり、苛々したり、寂しくなったり、弱ったりした時に、言葉が欲しいのは、抱き寄せられたいのは、自分だけではないと判ったから。
 笑って、大事に、抱き締めて。
 好きだと、幾度も、繰り返す。
「好き」
 同じ事を何度も言われるのが嫌いな跡部が。
 鬱陶しいとか、一度聞けば判るとか、必ず悪態をつく跡部が。
 この言葉だけは、神尾が何度繰り返しても絶対に遮らない。
「跡部」
 抱き締めていた跡部に、逆に抱き締め返され、強く床に組み敷かれる。
 跡部の両手に抱え込まれるように頭を掴まれ口づけられる。
 深く角度のついたキスは全部を貪られるように深くて。
「………ん、…っ…」
 苦しいくらい幸せだ。
「…ぁ……と…べ」
「……神尾」
 絡まる足、重なる身体。
 夢中になられる事が嬉しいから、夢中であることを隠さない。


 それからもずっとずっと一緒にいて。
 今に至って、どうなったかと言えば。
 こうなった。

 これからもずっとずっと一緒にいて。
 未来に至って、どうなるかと言えば。

 多分今と大差なく。
 違う喧嘩をしては、違う幸せを噛み締めているのだろうと思ったりする。
 慣れない身体が慣れるように。
 慣れない感情に慣れるように。


「……跡部は、幸せ?」
「………………」
 涙をためた目で、必死な眼差しで、神尾は跡部を見つめてくる。
 跡部の正気を飛ばすような無垢な問いかけに、跡部は神尾の内部の深い所で留めていたものでその肢体をゆるく突き上げる。
 か細い悲鳴と一緒に、たちまち涙は神尾の目から零れた。
「………っぁ」
「……………お前は」
 どうなんだ、と跡部は口付けで直接神尾の口腔に言葉の続きを含ませる。
「俺……、……」
「………………」
 軽く唇を触れ合わせたまま。
「ずっと……好き……」
「………………」
 熱い吐息が唇にかかる。
 笑みの形になっている神尾の唇。
 感触でそれが判る。
「……ずっと好きだよ……跡部……」
 慣れない身体を跡部の手に濃密に抱かれながら、神尾は素直な言葉を繰り返す。
 跡部の一番欲しい言葉を口にする。
 欲しがりなのは、自分の方なのだと。
 跡部は判っていた。
 神尾は寂しがりだ。
 本当ならば神尾にこそ、浴びせかけるように与えてやらなければならない言葉。
 それなのに、思う気持ちばかりがどうしようもなく募り、これまでにはまるで身に覚えのなかったような恋愛感情の甘さに、跡部自身が寧ろ困惑している。
 神尾の言葉も表情もひたむきすぎて、跡部はそれと均衡する言葉が見つけられずに歯噛みする。
 こんな事は今まで無かった。
 言葉が追いつかない。
「……っぁ、ァ…っ」
 言葉の分も神尾の身体に与えてしまう。
 深くえぐるように身体を突き動かすと、神尾は声を詰まらせて喉を反らした。
 細い、白い喉が震えている。
「神尾……」
「ァ……っ……」
 舌でその喉を舐め上げる、そんな卑猥なやり方なら幾らでも出来るのに。
 咽び泣く神尾の泣き濡れた顔に一層募る恋情は、優しい言葉よりも強い欲情ばかりが先走りしていくようで。
 もっとどうにか、いくらでも体裁よく出来た筈なのに。
「…ひ……、…っ…ん…っ」
「………神尾」
「ん、っ…ぁ、…っ…」
 快感をまだどこか苦しげに受け止める幼いような反応を返す身体を、めちゃめちゃに抱いて、抱いて、それでもまだ込み上げてくる飢餓感を跡部は持て余している。
 神尾が跡部の平静.を掻き乱す。
「跡部、……っ…」
「………………」
「………、…て……?…」
「………なんだ…?」
 戦慄く唇が、言葉を紡げず震えている。
 腰を鷲づかみにして、神尾の体内へと立て続けに送り込む律動は、もっと加減をしてやらなければいけないほど強まってしまっている。
 しかしそれをゆるめてやれないまま跡部は更に深く神尾を突き上げていく。
 壊れるかもしれない。
 手の中にある細い腰の感触に跡部が思い、眉根を寄せる。
 同時に跡部の耳に吹き込まれる切れ切れの声。
「いっぱい…して……?」
「………、……」
「…跡部…、ね……、…い…っぱい…、して…、…?……」
「……神尾」
 それはねだるのではなく、ゆるす言葉だ。
 言いながら、両腕を跡部の首に絡めていく。
 身体を重ねている時の神尾はあどけなくて聡い。
 セックスには全く慣れないが、気持ちを形に現してみせるのは、こんなにも練達している。
 跡部と全てが逆だ。
「神尾」
「……うん」
 跡部が神尾の背中を抱きこむと、神尾は跡部の首に絡めた両腕に力をこめてくる。
 しがみついてくる華奢な身体を同じ力で抱き寄せながら、跡部は神尾の肩口に顔を埋めた。
 縋っているのは、どちらかとは、もう判らない均等な力の強さで抱き締めあう。


 慣れない身体が慣れるように、繰り返し繰り返し跡部は神尾を抱く。
 慣れない感情に慣れるように、繰り返し繰り返し神尾は跡部に囁く。

 つりあうように。

 つたわるように。
 一緒にいたいなら何でわざわざその日に一緒にいられなくなるような喧嘩するかな、とぼやいたのは親友の伊武で。
 正論だけどさ、とその都度神尾は答えて、当日までの数日間、たっぷりと落ち込んだ。
 当日、つまりはクリスマスイブ。
 跡部との喧嘩の原因は、それだ。


 十二月はテストがあったりしてあまり会えない日が続いていて。
 中旬過ぎに漸く、互いの時間が合った。
 そこで神尾は呼ばれるまま跡部の家に行き、そして。
 実際顔を合わせると、そこからはもう、碌に話をする間もなく跡部に腕を取られた。
 抱き竦められ、口付けられた。
 神尾も何も言えなくて、跡部の背を抱き返す方がどれだけ雄弁に気持ちを現せるか知る。
 キスを受け入れて、舌を貪られる方が、どれだけか。
 会いたかったと、伝えられている気がして。
 ベッドに押さえ込まれても何一つ抗わなかった。
 口付けられながら服を脱がされ、跡部らしくないような急いた所作で身体を探られ、拓かれていく。
 まともな会話もないまま、ずっとキスを交わし、抱かれていた。
 どれくらいか時間が経って、ぐったりとベッドに身体を投げうって、跡部が手遊びに髪に触れてくるのを受け入れているうち、窓の外はもう暗くなっていた。
 冬場はこうしてどんどん暗くなるのが早くなる。
 漸くぽつぽつと言葉を口にしあうようになる頃にはもう、神尾は帰らないといけなくなっていた。
 車を出させると言った跡部に、自転車だからと首を振り、乗れるわけないだろうと呆れたように言われて神尾は赤くなる。
 跡部が危惧する程、辛くない。
 それよりも、徐々に落ち着いてきてみれば。
 ひたすら跡部を欲しがった自分の行動が省みるにつけ恥ずかしくて、神尾はとにかく一人で帰りたかったのだ。
 こんな状態では、家族と顔を突き合せられるかも危うい。
 車が嫌なら歩いて送っていくと言った跡部の誘いも、同じ理由で、大丈夫だからと断って。
 何だか身体中、隅々まで、跡部でいっぱいになっているような自分は、これ以上跡部といたらますますどうにかなるかもしれないと神尾は真剣に思ってしまう。
 身体よりも跡部の説得の方に大分苦労したが、神尾はひとまず、一人で帰宅することとなった。
 家についたら連絡しろと跡部が言ったので、部屋に入ってからメールをする。
 すると返事は、メールではなく、電話でかかってきた。
「跡部?」
「さっき聞くの忘れたが」
 忘れたというより、そんな余裕も暇もなかったという方が正しい気がする。
 神尾は思わず赤くなる。
 電話越しの跡部の声は、数時間前までの、耳元で聞こえた詰めた荒い呼気を思い起こさせる。
「お前、二十四日の予定は?」
「………………」
 クリスマスイブ。
 改まってクリスマスの話をするなんていう真似は神尾には到底出来なくて、だから跡部が何でもない事のようにそれを口にしてきて神尾は少しだけ胸の辺りが痛くなった。
「………予定?」
「いかにもお前の所は全員集合してクリスマスって感じだな」
 学校の事を言われているのか家の事を言われているのか判らなくて、神尾は返事を詰まらせる。
「ホテルでもアミューズメントパークでもレストランでも、行きたい所言ってみな」
 それこそ何でも叶えてくれるのだろう。
 跡部は。
「昼間用事があっても、夜からなら会えるだろ」
「………………」
「欲しいものがあるなら、一年に一回くらい聞いてやるから言っておけ」
 素っ気無いような言い方だけれど、冷たくはない。
 でも、何故だか神尾は寂しくなる。
 何でだろう?と考えて。
 携帯からの跡部の声を聞いていると、次第に理由がはっきりしていく。
 神尾の中で。
「………………」
 クリスマスに、誰かと過ごす事に慣れている跡部が。
 場所でも、物でも、何でも思いのままに出来る跡部が。
「……おい? 聞いてんのか?」
 自分にも、きっとこれまでしてきた事と同じようにするクリスマス。
「神尾」
「…………いい」
「ああ?」
「クリスマス……跡部と会わない」
 どこにも行かない。
 なんにもいらない。
「てめえ………」
 悔しいのか寂しいのか判らないまま力なく詰った神尾の言葉を拾って、跡部の声が剣呑と尖る。
「どういう意味だ」
「…………クリスマスなんか」
 俺と会わなくていい。
 神尾はそう言って電話をきった。
 跡部は本気で怒ったと思う。
 その後電話はかかってこなくて、短いメールが一通だけ送られてきた。
『勝手にしろ』
 それだけだ。
「……………ヤキモチ…やいたのかなあ…俺」
 ふとそんな風に神尾は思って、でも、跡部を怒らせないヤキモチのやきかたなんて知らないし、とひとりごちる。
「………クリスマスなんてなけりゃいいのに」
 ひどく神尾は落ち込んで、クリスマスまで毎日溜息をつくような日々を過ごした。


 結局そうして迎えたクリスマスイブは、学校で終業式を済ませて、部活の延長のようにテニス部の仲間とファーストフードでチキンを食べた。
 馬鹿だよねえ、と伊武には最後までぼやかれた。
 馬鹿だよなあ、と神尾はしみじみと判っていた。
 どこにも行かなくていい。
 なんにもいらない。
 それは本当で。
 でもひとつだけ間違えたという事が判っていた。
 一緒には、いたかった。
 跡部と。
「…………………」
 浮かれたような街中の雰囲気に溜息をついて、神尾は友人達と別れた後、帰途につく。
 日暮れる間際の最後の明るさの中、ひどく疲れたような気持ちで歩いていく。
 あまり進まない足取りでのろのろと歩いていた神尾は、ふと、途中にあるマンションの前の集積所に、捨て置かれているおもちゃのピアノに気付いて足を止めた。
 黒いプラスチックのおもちゃのピアノ。
「…………クリスマスプレゼントに本物貰って、捨てられちゃったのか?」
 そんなに古いもののようにも見えなくて。
 思わず小さく呟きながら屈むと、神尾は人差し指で鍵盤を叩いた。
 ひとつ音がこぼれた。
 おもちゃのピアノでしかない音。
 壊れてはいない、でもクリスマスに捨てられてしまったおもちゃのピアノ。
「…………………」
 泣くのかな、と人事のように神尾は思った。
 跡部と出会ってから、自分はよく泣くようになった
 今も、こうして屈み込んだまま、何だかもう泣きそうになってしまって。
 でも。
「どこ座ってんだ」
「…………………」
 抑揚の無い、いっそ冷たいような声が振ってきて。
 神尾は唖然と顔を上げた。
「俺の許可も無しに勝手に捨てられてんじゃねえ」
「………跡部……」
 不機嫌極まりない顔で、跡部は立っていた。
 神尾の前に。
「…………………」
 跡部の名を口にしたきり、何も言えなくなって。
 ただ跡部を見上げるしかない神尾を、跡部も暫くそうして見下ろしてくるだけだった。
「誰がクリスマスにこんなところにお前を捨てた」
「…………跡部…?」
「ふざけるな。俺がそんな真似するか」
 問いかけに答えたのではない。
 神尾には、もう跡部の名前を呼ぶしか出来なかっただけだ。
 しかし跡部は腹を立てたように吐き捨てて、神尾の前に屈んできた。
「お前は俺を捨てたいみたいだがな」
「ちが、……」
「ああ? どう違うのか言ってみろよ」
「…、俺は……」
「…………………」
「なんにも、いらない……」
「…………………」
「跡部が、…今までのクリスマスに、誰かにしてきたみたいなこと、なんにもいらない」
「…神尾」
「……んだよ…っ…」
 自棄になって神尾は怒鳴った。
「妬いたら、駄目なのかよ……!」
「………バーカ」
「馬鹿だよっ」
「ああ、馬鹿だな」
 本心から跡部がそう言っているのは神尾にもよく判って。
 でも半ば涙目で神尾が睨みつけた跡部は、小さく笑っていた。
「バーカ」
「…………っ……」
 伸びてきた跡部の手に荒く髪をかきまぜられて、揺すられた反動で涙が零れてしまう。
 それでも唇を噛んで、尚も跡部を睨み返している神尾に、跡部は次第に苦笑いする顔になった。
「嫉妬するのもヘタクソだな。お前」
「…………んなの…、知らね…よ…っ…」
「お前相手で、誰かにしたような事なぞって通じる訳ねえだろうが」
 第一クリスマスなんて、と言った跡部の言葉は、そこで途切れた。
 キスのせいで。
「…………………」
 軽く重ねるだけのキスで跡部は唇を離す。
 溜息交じりの苦笑を唇に刻んだまま、跡部は捨てられていたピアノに目を落とした。
 そして。
「…………………」
 綺麗な指で、おもちゃの鍵盤を爪弾き、弾いたのは。
 耳慣れたクリスマスソングだった。
「…………跡部……」
「…………………」
 おもちゃのピアノでクリスマスソングを弾く跡部をじっと見つめて、結局神尾はまた泣いた。
 曲が終わって、軽くピアノを撫でた跡部の手が神尾の手を握り込んで立ち上がる。
「お前の希望通り、何にもねえイブだ。文句ないだろ」
「………なんにもなくなんか、ないよ」
 神尾の欲しいものだけが、ここにはある。
「跡部が知ってる事も、跡部が知らない事も、オレの中にはいっぱいあるんだよ……?」
 それは全部跡部の事。
「…………………」
 神尾の眦の涙を吸うように、口付けられたこのキスも。
 おもちゃのピアノで弾いてくれたクリスマスソングの事も。
 今つないでいる、この手の温かさも。

 神尾の欲しいものだけがある、クリスマスイブだった。
 外気の冷たさに、空気が僅かに重くなったように感じられる。
 例年よりもかなり遅い初氷が張った事を道すがらに知る。
 神尾は歩くスピードを上げた。
 頬が、吹き付けてくる風の冷たさに微かに痛む。
 吐き出す息は霞のように神尾の視界を掠る。
 気付いた時にはもう、神尾は走り出していた。
「……………」
 本屋とカフェが同じフロアに併設されているビル前で待ち合わせをしている。
 時間は、まだ充分に余裕がある。
 でも神尾は走った。
 怖い時間は短い方がいい。
 去年と今年とでは、いろいろなものが違うけれど。
 この寒さは、まるであの頃と同じもののように思えたから。
 神尾は走って、本気で走って、ガラス張りのビルに辿りつく。
 肩で息をつき、スノースプレーでクリスマスデコレーションされていてるビルの前でゆっくりと足を止める。
 駐輪スペースも兼ねている場所だったが、この寒さのせいかあまり自転車は置かれていない。
「……………」
 二十分前なのに。
 跡部はそこにいた。
 タイトなロングコートを着て、壁に寄りかかり、僅かに俯いている。
 片足の足の裏を壁に当て、腕を組んで立っている。
 コートが黒いので透けるように淡い髪の色がよく目立った。
 そして神尾はその場に立ち竦むようにして、ただ跡部を見据えているしか出来ない。
 寒さなどもう全く感じ取れない。
「……………」
 神尾がそうやって立ち尽くしていると、ふと、跡部の顔が上がった。
 神尾と目が合うと、跡部の双瞳が、ゆっくりと瞠られていく。
「……………」
 すぐに跡部は神尾の元へやってきた。
 長いコートの裾が翻ったのを見た後にはもう、跡部は神尾の目の前にいた。
「何で走ってくるんだ?」
「……………」
「時間…まだ余裕だろうが」
 跡部が微かに笑い、神尾の耳へと手が伸ばされてくる。
 固い、でも温かい手のひらに耳を覆われ、神尾はそこが痛いくらいに冷えていたことに気付かされた。
「跡部……」
 何時に来たのかと問う声は、そっと遮られた。
 跡部の手に今度は背を抱かれて、そのまま軽く抱き寄せられた。
 跡部の仕草は自然で、露骨な感じはしなくて。
 開かれているコートの前合わせの狭間、その中に包まれるように抱き込まれても。
 そこにあるひどく肌触りの良い跡部の服の感触を感じ入るだけで、神尾はおとなしくしていた。
 頬に当たった、薄いのにやわらかで、ふんわりとした跡部の衣服の感じが気持ちよくて。
 もぐり込むように自然と、擦り寄る仕草をとってしまっていたことに神尾が気づいたのは、跡部のからかうような笑みが耳のすぐ近くで聞こえたからだ。
「何だよ。擦り寄ってきて。気に入ったのか、肌触り」
「………、…」
 慌てて離れようとした時には、すでに跡部の指先が神尾の髪に埋められていた。
 一層押し付けられるように抱き締められる。
「お前は何も着てない時の方が肌触り良いんじゃねえの」
「………っ…」
「褒めてんだよ」
「ゃ、…………」
「抱き締めたいって言ってる。逃げるんじゃねえよ」
 ここまでくるとさすがに周囲の目が気になって、神尾はもがいた。
 でも跡部は許してはくれなくて。
 面白そうに喉の奥で低く笑っている。
 その声がみんな神尾の耳に直接的に吹き込まれてくる。
「…、…あとべ…」
「ちっさい声だな」
 吐息でも笑った跡部は、神尾の耳に唇を近づけ、囁いた。
 神尾の名と、そして、短い言葉と。
「…………………」
 その言葉を聞いた途端、神尾は息を止めてしまう。
 強張った身体の感触はダイレクトに跡部へと伝わったようだった。
 跡部の笑いが止む。
「…神尾」
「ウソツキ」
「……………」
 その言葉だけは怖い。
 ここに来るのに、走り出してしまったのと同じ理由で怖い。
 跡部を好きで、跡部が好きで、だから跡部の口からその言葉を聞くと、神尾は逃げ出してくなる。
 今年と去年は違う。
 判っていても思い出しては怖くなる。
 たった一年の間で、変わった出来事をつかまえきれなくて。
 何も言わないでいいから、ただ構ってくれたらいいのだと、今の跡部が一番傷つく言葉が神尾の喉をついて出そうになる。
「……俺の自業自得だからな」
「………………」
「お前が判るまで言う」
 やはり傷つけた。
 跡部の口調は変わらないが、双瞳に宿るものを見てしまって神尾は唇を噛み締める。
 ウソツキなんていう言葉も、本当は言いたくなかった。
 でも。
 自分が好きなだけでいい。
 跡部は言わなくていい。
 言わないで欲しい。
 こわいから。
「………………」
 何度も何度も執拗に思い出してばかりいる。
 去年の今頃は、こういう風に。
 同じように寒かったあの頃は。
 神尾も、跡部も、判らないことばかりで、傷つけあってばかりで。
 いつまでもそんな事を覚えている。
 思い出したりする。
 こういう振る舞いは傍からは鬱陶しいだけだろうに、跡部は投げ出さない。
 見捨てない。
 繰り返す。
 好きだと。
「…………………」
 その度にお互い、こんな気持ちになって唇を噛むのに。
 跡部は繰り返す。
「好きだ」
 一年前にたった一度、跡部はその言葉を口にして。
 そして一瞬後には冷たく切り捨てて。
 否定して。
 神尾はその時から変われないものを胸に住まわせている。
 判らなかったのだと、苦しげに吐き出し、跡部が神尾を力づくで抱き竦めたのはそれから大分経ってからのことだった。
 神尾はその時も跡部の事を好きなままだったから、抱き締め返して、強く、好きだと、思ったけれど。
 跡部がその言葉を口にするのだけは、怖かった。
 また、すぐに否定されそうで、怖かった。
「お前をそうしたのは俺だ」
「…………………」
「もう、お前でしかいられないのも俺だ…」
「……跡部…」
 一瞬、本気の力できつく抱き締められ、それからそっと抱擁から離される。
 跡部の手は神尾の肩に置かれ、そのまま跡部は歩き出した。
 肩を抱かれたまま歩く行為に戸惑って、神尾は思わず跡部を見上げてしまう。
「…………………」
 今、跡部は、約束通りに姿を現す。
 今、跡部は、神尾を好きだと言った言葉を否定しない。
 今、跡部は、それなのに、自分は。
「…………………」
 きっと何よりも望んでいる。
 欲しがっている。
 そんな言葉を、受け止められないで。
「跡部……好きだよ」
 それでも自分の思いはいつも溢れ出しそうなほどで。
「………好きだ」
 跡部の、声。
 跡部からの言葉。
 歩きながら、荒いキスと一緒に、神尾の唇にぶつけられる。
 そしてそれはやはり痛いまま。


 でもいつか。
 いつかの、冬には。
 笑って聞きたい。
 怖がらないで聞きたい。
 同じように、凍えるように、寒いいつかの冬の日には。
 跡部が鳳に声をかけたのは、そこに宍戸の姿がなかったからだ。
「おい」
「……部長」
 最低限の照明を使うにとどめた暗がりのテニスコート。
 振り返った鳳を跡部に気付いて目を瞠る。
 構わずに跡部はフェンス越しから鳳を見据えた。
「意味があってやってる事なら迷ってんじゃねえ」
「…………………」
 ラケットを持たない宍戸に鳳が部内最速を誇るスカッドサーブを打ち続けていた。
 身体でも顔でも構わずに、その重い球威のテニスボールを受け止めている宍戸は、夜目にも明らかに傷を負っていた。
 そんな光景を闇に紛れる様にして見続けた跡部が、選んで声をかけたのは鳳だった。
 宍戸は、こういう光景を、跡部には絶対に見られたくない男だと判っていたし。
 宍戸が不動峰との試合に負けた際、跡部はその事実に驚いただけで、宍戸のレギュラー落ちに対しては過剰な危惧も感慨も抱いてはいなかった。
 そこで終わる男と思っていなかったからだ。
「鳳」
「……判ってます。迷ってるわけじゃありません」
 宍戸が去った後もコートに残り、傷ましい顔をしていた鳳は。
 跡部に気付くと穏やかに凪いだ表情で、ゆっくりと跡部に近づいてきた。
「は、…どうだか?」
「宍戸さんが決めた事ですから」
「あれに意味があるって事か」
「はい」
 フェンス越しに、跡部は自分よりも上背のある後輩のことを、腕を組んで見上げた。
「それにしちゃ、ひでぇツラだな。お前」
「……あんなに強くて、あんなに綺麗な人、初めてなんです」
 痛みを内に包む微笑を浮かべ、鳳は静かに言った。
「どれだけ宍戸を好きなんだお前は」
 呆れた声で言い、跡部が溜息を零しても。
 鳳は痛んでいる目で、しかし幸福そうに笑う。
「言葉があればいいんですけどね」
 この気持ちに見合うだけの言葉。
 鳳はそう呟いて。
「……部長は言えないなんて事なさそうですね」
「あん?」
「言葉が追いつかない感情なんてありますか?」
「ねえよ。その高度な言葉を理解出来ねえ馬鹿ならいるがな」
「馬鹿…ですか」
 面食らったような顔をする鳳に、跡部は荒く前髪をかきあげた。
「ああ馬鹿だ。優しくしてやりゃ怖がって、仄めかす程度で匂わせれば気付きもしない。言葉が判らないから態度で表せば曲解して一人で怒るか泣き出すかする有様だ。救い様がねえ」
「はあ……」
「初心者仕様で抱いてやりゃおもちゃみたいにして遊んでるって泣く。本気で抱けばものの五分で号泣だ。いかれてるとしか言いようがねえよ。あんな馬鹿」
「あの……」
「口説かれ下手の、傷つき上手ときた。本当に頭くるぜ。ったく。あんな奴は一生俺でめちゃめちゃになってりゃいい」
「…………」
「何か言いたそうなツラしてるな…何だよ?」
「いえ……ノロケる部長を初めて見たもので少々びっくり……」
「は? お前も馬鹿か? どこ見てノロケとか言いやがる」
 侮蔑するような跡部のきつい口調に全く怯む様子もなく、寧ろ笑みを深めて鳳は言った。
「いつか、紹介して下さいね」
「するか馬鹿」
「大丈夫です」
「何が」
「俺は宍戸さんに夢中ですから。取りませんよ」
「………てめえ…」
 からかうでもなく微笑み続ける鳳は結構逞しい。
 跡部は鳳を睨み据えながら呆れた。
「人のこと言える立場か。お前が」
 口が悪くて近寄りがたく、容赦ない物言いをするのに。
 基本的に人に優しく、ひどく面倒見の良い宍戸を、慕って集まる輩は多い。
「取られません。絶対に。俺がこれから生きていくのが本当に辛くなるようなそんなこと、誰にもさせないです」
「生きていけないとは言わないんだな」
 そういう鳳なら、宍戸は大丈夫だ。
 跡部はそう思う。
 そして、一方で。
 自分は。
 自分がいなくなったら、生きていけない、というくらい。
 欲しがられないと、気がすまない。
 虚勢ばかり張る、あの馬鹿な恋人に。


 自分と同じにしてやらないと。
 気がすまない。
 神尾から海の匂いがした。
「…………………」
 正確には、神尾が持ったバケツからだ。
 海の匂い。
「よ、跡部」
 入ってもいい?と顔を合わせるなり神尾は言った。
 跡部は腕組みしたまま自宅の玄関に寄りかかって、そんな神尾を眺め下ろす。
「……何だそのバケツは」
「アサリ」
「…………………」
「なあ、入っちゃ駄目なのか?」
 聞くまでもなく見ればバケツの中身はアサリ以外に他ならない。
 しかし跡部が敢えてそう聞いたのは、なまじ回転の良過ぎる自身の頭を深く憂いでの事だ。
 アサリ入りのバケツを神尾が持っているのを見た時点で、すでにおもしろくない過程が背景にある事を跡部は悟ってしまう。
「跡部?」
「……何でそんなもん持ってんだ」
 おもしろくない事と判っていて、でも事実を知るのは聞くしかないのだから不条理である。
 そう思って憮然とした跡部に構う事無く神尾は素直に喋り出す。
「うん、あのさ。なんか急に、海行きたい!海見たい!って思ってさ。深司と行って来たんだ。電車乗って」
「…………てめえ」
 出だしから案の定な展開で、跡部は神尾を睨みつけた。
 海行きたい、海見たい、そうなったら普通。
 一緒に行くのは彼氏じゃねえのかと、跡部は神尾を呪い殺せそうな目で見据える。
 どうしてそこであのボヤキなんだと目線でせめても神尾はびくともしない。
 鈍いのである。
 こういう所がつくづく。
 けろんとした口調で平気で後を続けるのである。
「そうしたら六角中がいたんだぜ」
「六角だ?」
「潮干狩りに交ぜてくれた」
 で、これおみやげ、と神尾はアサリがたっぷり入ったバケツを跡部に突き出した。
「採ったアサリで味噌汁作ってくれたんだけど、それがめちゃくちゃ美味いの!跡部に食べさせたいって思ったから、作り方習ってきたぜ!」
「…………………」
 跡部は微妙に頬を引きつらせて、邪気なく笑う神尾の顔を見つめる。
 跡部に食べさせたいなんてさらりと言ってしまう神尾は気に入ったが、自分を差し置いて海で潮干狩りで料理教室かという流れは決して跡部にとっておもしろい話ではなかった。
「なあ跡部。用事あんの?入っちゃ駄目かよ?」
「………誰に習ったって?」
「は?味噌汁の作り方?黒羽さん」
 すげーいい人なんだぜー、とまた全開の笑顔を見せる神尾に舌打ちして。
 それでも跡部は漸く身体をずらして神尾に中に入るよう促した。
 


 物怖じしない神尾は跡部家の無人の厨房に行き、ごそごそと味噌やら乾物やらを探し出し、勝手に味噌汁をつくったようだった。
 衒いのない笑顔で一杯のお椀を持って戻ってきた。
「ここに、からしをちょっとだけ溶かすと美味いんだぜ」
「……それも黒羽か」
「ん? これは天根が言ってた。ついでにダジャレも言ってたぜ。最後はあっさりアサリ汁って。あいつおもしろいよなー」
 昔の歌の歌詞なんだって、と神尾は笑いながらからしを味噌汁に溶かした。
 それを跡部の前に起き、神尾も椅子に座る。
 そして両手で頬杖をつき、跡部をじっと見つめてきた。
「跡部、味噌汁の丁寧語って何だか判る?」
「……あん?」
「味噌汁の丁寧語。お味噌汁じゃないんだぜ。おみおつけ。知ってた?」
 こういう時は普通、相手が何か答えるまで待っているものではないのだろうかと跡部は呆れた。
 神尾らしいといえば神尾らしいのだが。
「でさ、おみおつけって漢字で書ける? 御が三つで御御御つけなんだぜ。すごくね? つまり超高級品なんだぜ。味噌汁って」
「……誰からの薀蓄だ」
「佐伯さん。頭良いよなー!」
「…………………」
 神尾が六角のメンバーを褒めているのに他意はないと知りつつ、跡部は気に食わなくて、一瞬意地の悪い事が頭に浮かぶ。
 例えばこの目の前の味噌汁を、飲むつもりはないと手を出さなかったら神尾はどんな顔をするか。
 例えばこの目の前の味噌汁を、口もつけずに捨てたら神尾はどんな顔をするか。
 例えばこの目の前の味噌汁を、ひとくち飲んで不味いと言ったら神尾はどんな顔をするか。
「…………………」
 呆れ返るほど簡単に傷ついて、泣くんだろうと、跡部は思う。
 神尾を泣かせてやりたくなる事は跡部に時々起こる衝動で、最初の頃はそれで随分後味の悪い思いをした事があった。
 神尾を泣かせてやりたくなって、実際手酷く泣かせて。
 ところがそうやって神尾の泣き顔を目にすると、途端に跡部は苛ついた。
 なにもかもが一気に気に食わなくなった。
 神尾の泣き顔がというより、泣かせた自分が、ひどくつまらないもののように思えてならなかった。
 跡部は今ではもう、不用意に、ただ傷つけたいが為に神尾を泣かす事はしなくなった。
 もっと別の方法がある事を知っている。
 神尾を泣かす事にしろ、自身の気持ちを落ち着かせる事にしろ、傷つけなくても叶うやり方がある。
「な、食ってみてよ。跡部」
「…………………」
「跡部」
 神尾の真直ぐな視線は一途で、跡部はつまらない事で、その目を涙で埋めるような必要はない事を知っている。
「…………………」
 椀に手をかけ、漆塗りの縁に唇をつける。
 ゆっくり飲み干して、跡部は指先で神尾を呼んだ。
「なんだ?」
「…………………」
 近づいてきた神尾の首の裏側に指をかけ、浅くその唇を塞ぐ。
「…………………」
 軽く重ねただけのキスで、すぐに唇を離す。
 瞬きを繰り返している神尾の表情に思わず笑い、跡部は言った。
「……ったく……味噌汁の味のキスなんて初めてしたぜ」
「…はじめて?」
「…………………」
 神尾の表情いっぱいに広がったのは。
 はにかむような笑みだ。
 目を伏せて、微笑む訳に跡部は今日幾度目かの仏頂面を晒す。
 神尾と出会う前の事は今更どうしようもない。
 でもたかだかこんな一言で嬉しそうな顔をされるのもどうなんだと跡部は苦く思った。
「美味いんじゃねーの」
 だからまずはこの言葉を言って。
 嬉しがる顔を臆面もなく見せる神尾を。
 後はもう、うんざりするくらい。
 甘ったるく可愛がってやろうじゃねえのと心に決める。



 深い意味はないことを知りつつ収まりつかない跡部が自ら、六角中に出向き容赦ないテニスを繰り広げたりした事。
 氷帝テニス部の部活後の雑談で、味噌汁の丁寧語について話題になり、いかにも味噌汁に縁のなさそうな男として、この質問のターゲットにされた跡部が、完璧に答えた事によって。
 跡部に庶民派の知識を植えつけたのは当然神尾と知るレギュラー陣が、神尾をネタに容赦なく跡部をおちょくり、最終的に跡部を本気できれさせた事件。
 回転寿司などには入った事のない跡部が、最後はあっさりアサリ汁などというやけに語呂の良いフレーズを、実の所いつまでも、頭の片隅に置く羽目になったという事。


 後日談はこのくらいだ。
 開いた口が塞がらない。
 神尾は、ぱかーっと口を開けて、そのゴージャス極まりない建物を見上げた。
「……なんだこれ」
「いつまでそうやってんだ。行くぞ」
「うわ、…待て待て待て…! 置いてくな…っ…」
 さっさと先へと行ってしまう跡部の後を、神尾は慌てて追いかけた。
 こんな所に置いていかれたら困る。
 ものすごく困る。
「跡部ってば……!」
「……泣きそうな声出すんじゃねえよ」
 皮肉っぽく唇を引き上げ、肩越しにちらりと視線を投げてきた跡部の態度はむかつくが、店内から次から次へと現れては、いらっしゃいませと頭を下げる大人たちに、神尾ではとても太刀打ち出来ない。
 びくびくしていると跡部が更に呆れた様子で言った。
「メシを食うだけだ。びびってんじゃねえ」
「……メシってお前……ここ何屋だよ?」
「………………」
 大袈裟な程あからさまな溜息を跡部につかれてしまって、神尾も慌てた。
「なんだよ?」
「………何屋ってなあ。テメエ…」
「だ、…って…、跡部がいきなりこんなとこ連れてくるから…っ」
「お前が言ったんだろうが」
「……へ…?」
「お前が。牡蠣が食いたいって言うから、連れてきてやったんだろうが」
「な…違、…俺は牡蠣ってうまいのかって、跡部に聞いただけじゃん…!」
 テレビ番組で女性レポーターが、足をばたばたさせて、身体もじたばたさせて、涙目になって生牡蠣を食べていたから。
 神尾は跡部に、牡蠣ってそんなにうまいのか?と聞いただけ。
 それでどうしてこうなるんだと、跡部の後を追っていきながら神尾は食い下がった。
「跡部!」
「同じ事だろ」
「ちっげーよ!」
「騒ぐな。うるさい」
「…………、…ぅ…」
 ただでさえこの場にあまりにも不釣合いな制服姿の自分に怯んでいる神尾は、跡部の一言にぴたりと口を噤んだ。
 制服というのは何も神尾だけでなく跡部もそうなのだが、はっきりいって跡部の場合は気味が悪い程この煌びやかな空間にマッチしていた。
 黒いスーツを着た大人達が頭を下げては、時々跡部に声をかけてくる。
 馴染みの店らしかった。
 応対の仕方も堂に入っていて、神尾は跡部の後についていくうち、個室へと足を踏み入れていた。
「…………なんなんだこれ……」
 美術館みたいな部屋だった。
 昼間なのに部屋の中は暗くて、凝った造りの間接照明が、舞台に当てるスポットライトみたいにテーブルを浮かび上がらせている。
 背後に回った黒服の店員に椅子を引かれ、おっかなびっくり神尾は座った。
 お化け屋敷の方がどれだけ心臓に優しいかと心の底から思う。
 跡部が何語かよく判らないものの名をいくつか口にして、そして待つこと数分。
 今度は店員が水槽みたいな銀色の細長い器を運んできた。
 中にはクラッシュアイスが敷き詰められ、その上に生牡蠣が列を成して乗っていた。
 神尾は再び口を開け、盛大に呆気にとられた。
 あまりに眩しくて、食べ物がキラキラ光るなんて、いったいどういう世界の話なんだと思う。
 テーブルの中央に生牡蠣のケースが置かれる。
 そして目の前には白い器に入った様々な色のソースが所狭しと並べられていく。
 端から、どうやらソースの名前と説明を口にしているらしい店員の、話す言葉が神尾には全く理解できず。
 恭しく頭を下げて彼らが去っていった後も、神尾は目の前の光景を凝視するばかりだった。
「……おい」
「……………………」
「そうやって間抜け面で見てたって、腹は膨れねえぞ」
「な、っ……誰が間抜け面だ…っ」
 はっと我に返った神尾が、そう怒鳴ると。
 跡部が、吐息程度に笑った。
「…………、……」
 それこそスポットライトを浴びるように。
 頭上からの照明を受けて恐ろしく秀麗な笑みを見せた跡部は、食え、と顎で神尾を促した。
 本当にえらそうな仕草なのだが、こんな場所で見ると見惚れてしまいそうで怖い。
 神尾はそんな跡部と、目の前の大量の牡蠣とを、恐る恐る交互に見やった。
「…………………」
「……これどうやって食うの」
「手で食えよ」
「………どこ持つのこれ」
「殻持てよ」
 クラッシュアイスに転がされるようにして並べられた大振りの生牡蠣。
 目の前にはフォークらしきカトラリーが数種。
 そして大量のソースだ。
「…………………」
 神尾が悩んでいると、跡部の唇から深い溜息が零れた。
 もういい、と聞こえて。
 神尾が慌てて跡部を見やると。
 跡部はまっすぐ神尾を見ていた。
「食わせてやるからこっち来い」
 手の甲で、跡部は自分の腿の上を叩いた。
 膝に乗れとでもいうのかと、跡部の言葉の意味に気付いて神尾は赤くなる。
「やだ!」
「来いよ」
「いい!」
 嫌なのか良いのかどっちだよと言って、跡部の声が低くなる。
「なんで」
「…なんででも!」
 なんとなく空気が変わった気がする。
 神経が何かを感じて神尾は思わず身構えた。
 跡部がゆっくりと目を細める。
「来いよ。食わせてやる」
「…………………」
「誰も来ねえよ。お前がここにあるだけじゃ足りないって追加オーダーしなけりゃな」
 意地の悪い事を言いながら、跡部の声は、低く甘く響く。
 酷く優しく囁く。
「…………………」
 赤くなったままそれで完全に硬直した神尾に、跡部は幾度目かになる溜息を吐き出しながら、徐に立ち上がった。
「………跡、部?…」
「…………………」
 跡部は無言で神尾の背後に立った。
 神尾が跡部を振り返ろうとして、出来なかったのは。
 跡部が、まるで背中から神尾に覆い被さるようにして近づいてきたからだ。
「…………………」
 神尾を背後から抱きこむように、跡部は右手を伸ばし牡蠣を手にした。
 そして、左手の指先で、神尾の顎を支える。
 仰のかされたらまるでキスの時のようで。
 神尾がぎょっとしていると、ゴツゴツした牡蠣を下側から指三本で掴んでいる跡部の右手が近づいてくる。
 爪の形まで跡部は綺麗だ。
「カクテルソースか?」
「…………………」
「ビネガーでもレモンでも……どれがいい」
「……よくわかんねーってば」
「だったら最初はこのまま食ってみろ」
 跡部の左の親指に唇をそっと掠られ、すぐに牡蠣の縁が唇の狭間に宛がわれる。
 跡部に顎を支えられたまま、神尾はつるりと口にすべってきた滑らかなものを咀嚼した。
「………ん、………ぅ…まー…!」
「…赤ん坊か。テメエは」
 口調ほど凄みのない声で言い、跡部は席に戻った。
 食え、と頭を軽く叩かれた神尾は、すでに言われるまでもなく、どんどん牡蠣に手を伸ばしていた。
 それは、本当に生牡蠣が美味しかったせいもあるし。
 跡部に、食べさせられたという行為が急激に恥ずかしくなってきたからでもあった。


 よくよく考えれば一つ幾らするんだろうという生牡蠣だ。
 満腹になるほど牡蠣だけを食べてから、今更のように神尾は青くなったが、料金の事を言うと跡部は不機嫌に一言。
 誰がお前に払わせるって言った、と言い捨てて。
 入ってきた時以上の足早で、店を出る。
 神尾も慌てて後を追った。
 ここに来たのは跡部の家の車でだったが、帰りは呼ばなかったようだった。
 跡部はどんどん先に行く。
 ごちそうさま、と神尾が早足で歩きながら言うと少し歩調が遅くなった。
 おいしかった、とこれもまた本心から言えば漸く肩が並んだ。
「……………………」
 跡部は黙っているけれど、今はそんなに不機嫌なわけではない事は、こっそり伺い見た表情で、神尾にもよく判った。
 外はすっかり暗くなっていて、神尾は今自分達がいる場所がどこなのかよく判っていないから、跡部の少し後ろを同じように黙ってついて行く。
 肌寒くなってきたせいか、何となくもっと近くに寄りたいようなおかしな気持ちになる。
 もっと跡部の近く。
「……………………」
 そう思って。
 じっと跡部の背中を見て歩いていた神尾は、ふいに跡部に話しかけられた。
 歩いたまま。
 跡部は前を見たまま。
「こっちもか」
「………え?」
 なに?と跡部の横に並んで、神尾は跡部の顔を見上げた。
 跡部は神尾を見ずに言った。
「こんなことも、俺が教えてやらねえと出来ないのか?」
「……………………」
 呆れた声なのに。
 するりと神尾の右の指全部に絡んできた、跡部の左の指全部の感触が優しい。
 てのひらをぴったりと密着させて、互い違いに絡み合う指の接触が甘い。
 本当に恥ずかしいくらい甘ったるく手を繋がれてしまって、神尾は跡部の二の腕に、ことんとこめかみを押し当てた。
 跡部が急に立ち止まる。
「……こういう事だけはうまくなりやがって」
「…………跡部…?」
 なに?と神尾が跡部を見上げると。
 暗闇の空を背にした跡部の顔がすでにもうすぐ近くにあった。
「……………………」
 自分の横にいる相手とキスをする為に首を少しなれない方向に捩じって。
 舌を使わず、唇を重ね続けるキスに、つないだ互いの手の中であたたかいものが灯ったような感触がした。
 そしてそれは、ゆっくりと離れていく互いの唇の狭間でも、同じように生まれた。

 あたたかく灯る。
 キスから生まれたような星がひとつ。
 夜空に柔らかく瞬いている。
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