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How did you feel at your first kiss?
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 神尾から海の匂いがした。
「…………………」
 正確には、神尾が持ったバケツからだ。
 海の匂い。
「よ、跡部」
 入ってもいい?と顔を合わせるなり神尾は言った。
 跡部は腕組みしたまま自宅の玄関に寄りかかって、そんな神尾を眺め下ろす。
「……何だそのバケツは」
「アサリ」
「…………………」
「なあ、入っちゃ駄目なのか?」
 聞くまでもなく見ればバケツの中身はアサリ以外に他ならない。
 しかし跡部が敢えてそう聞いたのは、なまじ回転の良過ぎる自身の頭を深く憂いでの事だ。
 アサリ入りのバケツを神尾が持っているのを見た時点で、すでにおもしろくない過程が背景にある事を跡部は悟ってしまう。
「跡部?」
「……何でそんなもん持ってんだ」
 おもしろくない事と判っていて、でも事実を知るのは聞くしかないのだから不条理である。
 そう思って憮然とした跡部に構う事無く神尾は素直に喋り出す。
「うん、あのさ。なんか急に、海行きたい!海見たい!って思ってさ。深司と行って来たんだ。電車乗って」
「…………てめえ」
 出だしから案の定な展開で、跡部は神尾を睨みつけた。
 海行きたい、海見たい、そうなったら普通。
 一緒に行くのは彼氏じゃねえのかと、跡部は神尾を呪い殺せそうな目で見据える。
 どうしてそこであのボヤキなんだと目線でせめても神尾はびくともしない。
 鈍いのである。
 こういう所がつくづく。
 けろんとした口調で平気で後を続けるのである。
「そうしたら六角中がいたんだぜ」
「六角だ?」
「潮干狩りに交ぜてくれた」
 で、これおみやげ、と神尾はアサリがたっぷり入ったバケツを跡部に突き出した。
「採ったアサリで味噌汁作ってくれたんだけど、それがめちゃくちゃ美味いの!跡部に食べさせたいって思ったから、作り方習ってきたぜ!」
「…………………」
 跡部は微妙に頬を引きつらせて、邪気なく笑う神尾の顔を見つめる。
 跡部に食べさせたいなんてさらりと言ってしまう神尾は気に入ったが、自分を差し置いて海で潮干狩りで料理教室かという流れは決して跡部にとっておもしろい話ではなかった。
「なあ跡部。用事あんの?入っちゃ駄目かよ?」
「………誰に習ったって?」
「は?味噌汁の作り方?黒羽さん」
 すげーいい人なんだぜー、とまた全開の笑顔を見せる神尾に舌打ちして。
 それでも跡部は漸く身体をずらして神尾に中に入るよう促した。
 


 物怖じしない神尾は跡部家の無人の厨房に行き、ごそごそと味噌やら乾物やらを探し出し、勝手に味噌汁をつくったようだった。
 衒いのない笑顔で一杯のお椀を持って戻ってきた。
「ここに、からしをちょっとだけ溶かすと美味いんだぜ」
「……それも黒羽か」
「ん? これは天根が言ってた。ついでにダジャレも言ってたぜ。最後はあっさりアサリ汁って。あいつおもしろいよなー」
 昔の歌の歌詞なんだって、と神尾は笑いながらからしを味噌汁に溶かした。
 それを跡部の前に起き、神尾も椅子に座る。
 そして両手で頬杖をつき、跡部をじっと見つめてきた。
「跡部、味噌汁の丁寧語って何だか判る?」
「……あん?」
「味噌汁の丁寧語。お味噌汁じゃないんだぜ。おみおつけ。知ってた?」
 こういう時は普通、相手が何か答えるまで待っているものではないのだろうかと跡部は呆れた。
 神尾らしいといえば神尾らしいのだが。
「でさ、おみおつけって漢字で書ける? 御が三つで御御御つけなんだぜ。すごくね? つまり超高級品なんだぜ。味噌汁って」
「……誰からの薀蓄だ」
「佐伯さん。頭良いよなー!」
「…………………」
 神尾が六角のメンバーを褒めているのに他意はないと知りつつ、跡部は気に食わなくて、一瞬意地の悪い事が頭に浮かぶ。
 例えばこの目の前の味噌汁を、飲むつもりはないと手を出さなかったら神尾はどんな顔をするか。
 例えばこの目の前の味噌汁を、口もつけずに捨てたら神尾はどんな顔をするか。
 例えばこの目の前の味噌汁を、ひとくち飲んで不味いと言ったら神尾はどんな顔をするか。
「…………………」
 呆れ返るほど簡単に傷ついて、泣くんだろうと、跡部は思う。
 神尾を泣かせてやりたくなる事は跡部に時々起こる衝動で、最初の頃はそれで随分後味の悪い思いをした事があった。
 神尾を泣かせてやりたくなって、実際手酷く泣かせて。
 ところがそうやって神尾の泣き顔を目にすると、途端に跡部は苛ついた。
 なにもかもが一気に気に食わなくなった。
 神尾の泣き顔がというより、泣かせた自分が、ひどくつまらないもののように思えてならなかった。
 跡部は今ではもう、不用意に、ただ傷つけたいが為に神尾を泣かす事はしなくなった。
 もっと別の方法がある事を知っている。
 神尾を泣かす事にしろ、自身の気持ちを落ち着かせる事にしろ、傷つけなくても叶うやり方がある。
「な、食ってみてよ。跡部」
「…………………」
「跡部」
 神尾の真直ぐな視線は一途で、跡部はつまらない事で、その目を涙で埋めるような必要はない事を知っている。
「…………………」
 椀に手をかけ、漆塗りの縁に唇をつける。
 ゆっくり飲み干して、跡部は指先で神尾を呼んだ。
「なんだ?」
「…………………」
 近づいてきた神尾の首の裏側に指をかけ、浅くその唇を塞ぐ。
「…………………」
 軽く重ねただけのキスで、すぐに唇を離す。
 瞬きを繰り返している神尾の表情に思わず笑い、跡部は言った。
「……ったく……味噌汁の味のキスなんて初めてしたぜ」
「…はじめて?」
「…………………」
 神尾の表情いっぱいに広がったのは。
 はにかむような笑みだ。
 目を伏せて、微笑む訳に跡部は今日幾度目かの仏頂面を晒す。
 神尾と出会う前の事は今更どうしようもない。
 でもたかだかこんな一言で嬉しそうな顔をされるのもどうなんだと跡部は苦く思った。
「美味いんじゃねーの」
 だからまずはこの言葉を言って。
 嬉しがる顔を臆面もなく見せる神尾を。
 後はもう、うんざりするくらい。
 甘ったるく可愛がってやろうじゃねえのと心に決める。



 深い意味はないことを知りつつ収まりつかない跡部が自ら、六角中に出向き容赦ないテニスを繰り広げたりした事。
 氷帝テニス部の部活後の雑談で、味噌汁の丁寧語について話題になり、いかにも味噌汁に縁のなさそうな男として、この質問のターゲットにされた跡部が、完璧に答えた事によって。
 跡部に庶民派の知識を植えつけたのは当然神尾と知るレギュラー陣が、神尾をネタに容赦なく跡部をおちょくり、最終的に跡部を本気できれさせた事件。
 回転寿司などには入った事のない跡部が、最後はあっさりアサリ汁などというやけに語呂の良いフレーズを、実の所いつまでも、頭の片隅に置く羽目になったという事。


 後日談はこのくらいだ。
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